彼女等はかうして、その血と

肉とを搾り盡された

  


## 一

三月の末日、<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>つ風がほこりの渦を卷き上げる夕方――。

<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の匂ひと、<ruby><rb>汚物</rb><rt>をぶつ</rt></ruby>の臭氣と、腐つた人肉の匂ひともいふべき惡臭とがもつれ合つて吹き流れてゐる、六尺幅の<ruby><rb>路地</rb><rt>ろぢ</rt></ruby>々々。その中を、海底の藻草のやうによれ〱と聲もなくうろついてゐる幾千の<ruby><rb>漁色</rb><rt>ぎよしよく</rt></ruby>亡者。

一つの亡者が過ぎて行くと、その兩側の家の小窓から聲がかゝる。遠くから網をなげかけてたぐり寄せるやうな聲、飛びついて行つてその急所へ喰ひつくやうな聲、兩手で<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まへて力一ぱいゆすぶるやうな聲、嘆聲をあげてあはれを賣るやうな聲、哀音をしのばせて可憐さを訴へるやうな聲。

「どうだえ、陽氣なもんだらう。」

先に立つて歩いてゐた辰つアんは、後からついて來る周三とおきみの方へふり向いて、さう言ひかけた。

「まるで何だらう。夏の夜、谷川の道を歩いてると、それ、<ruby><rb>河鹿</rb><rt>かじか</rt></ruby>てえ奴の鳴き聲が、次ぎから次ぎへと新しく湧いて來る、ちやうどあれ見てえだらう。」

周三もおきみもそれには答へなかつた。周三は、よれ〱の<ruby><rb>袷</rb><rt>あはせ</rt></ruby>の裾下から現はした細い脚をひよろつかせながら、首を縮めて歩いてゐた。おきみは、からだの中に<ruby><rb>惡寒</rb><rt>をかん</rt></ruby>を感じながら、胸を顫はして歩いてゐた。彼女の耳には、女達の叫び聲が、地獄の底から漏れて來る<ruby><rb>可鼻叫喚</rb><rt>あびけうくわん</rt></ruby>に聞えた。

「何しろいゝ氣持ちのもんだよ。それが毎日毎晩、照つても降つても、三千人からの客がなだれ込むてえんだから、まつたく豪勢なもんだらう。おなじ働くんなら、こんな場所で働かなけりや嘘さ。」

辰つアんはまたそんなことを言ひながら、叫びかける女共の聲へ<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきやう</rt></ruby>な聲で答へたり、呼び込み口へ頭を突つ込んで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">げす</span>なことを吐き散らしたりした。

暗い路地は、奧へ入るほど複雜してゐた。それはまるで蟻の巣であつた。辰つアんは、その中を右へ折れ、左へ曲つて、後の二人を案内してゐたが、とある角の青い<ruby><rb>軒燈</rb><rt>けんとう</rt></ruby>のついた家の前へ來ると、その呼び込み口へ、モヂリの片袖を掛けて、

「こんばん」と聲をかけた。と、中から可愛い聲で、

「はい、こんばん、おあがんなさいな。」

「この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おたんちん</span>、お客ぢやねえや……ゐるかえ？」

「あら、辰つアんなの、いやに<ruby><rb>色男</rb><rt>いろをとこ</rt></ruby>に<ruby><rb>見</rb><rt>み</rt></ruby>えたからさ……ゐるわよ、どうぞ。」

辰つアんは、少し離れて立つてゐる周三とおきみの傍へ來て、

「ちよつと待つてゝくんな」と言ひながら、やつと人のからだが入れるほどの路地を、裏手の方へ入つて行つた。が、すぐ出て來て、

「こつちへお入りよ」と二人を手招いた。

二人は、裏手の臺所から、三疊ほどの茶の間へ通された。そこの長火鉢の前には、<ruby><rb>銀杏返</rb><rt>いてふがへ</rt></ruby>しの變に青つぽく光る羽織をだらりと引つ掛けた女が、いぎたなく坐つて卷煙草をふかしてゐた。

「こちらがおきみちやん、こちらが旦那樣、それからこれが、當家の御主人、お銀ちやん。」

辰つアんは、そんな言ひ方で、双方を<ruby><rb>紹介</rb><rt>せうかい</rt></ruby>した。

「どうぞ、よろしくお願ひします。」

おきみは丁寧に頭を下げた。

「あたしこそ」お銀ちやんと言はれた女はさう答へると、「辰つアん、二階へ案内しなよ。こゝは狹くつて話も出來やしない。」

二疊と三疊と四疊半が二階の全部であつた。二疊と三疊は、彼女達の勞働部屋で、四疊半はひきつけ部屋になつてゐた。二人はそこへ案内された。<ruby><rb>黒檀</rb><rt>こくたん</rt></ruby>まがひのちやぶ臺、眞赤なメリンスの座蒲團、ビーズ細工を飾りつけた電燈、壁に貼りつけた活動俳優のプロマイド、ペンキ畫の富士山の額、一生懸命に明るく華やかに飾りつけてゐながら、そこには<ruby><rb>塵箱</rb><rt>ごみばこ</rt></ruby>の中のやうなむさ苦しさとむせつぽさとが籠つてゐた。辰つアんは、二人をその中へ坐らせて、

「どうです、見かけによらずしやんとした家でせう。」とふところから出した手で顎を撫でながら部屋を出て行つた。

間もなく<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>からは、とき〲<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">げす</span>な大聲が混つて、辰つアんとお銀ちやんの密談がもれて來た。

周三は壁に凭れて、おきみは、ちやぶ臺の上に<ruby><rb>肘</rb><rt>ひぢ</rt></ruby>をついて、ぢつと息を殺してゐた。やがて周三は言つた。

「辰つアんが、こゝの<ruby><rb>主婦</rb><rt>おかみ</rt></ruby>の亭主だといふのは嘘らしいよ。また引つかゝつたかも知れない。」

「そんなこと、どうでも構はないわ。」

おきみは、度胸を据ゑた聲で答へた。

「こんな場所で、お前につとまるかえ？」

「やつて見るわ。だつて仕方がないぢやないの、今更ら……」

二人はそんなことを話し合ひながら、各自の胸の中で――こんなことになる筈ではなかつたがと自分に言つた。と言つて、――ぢや、かうならなければどうなつたのだ？　と自問しても、それに答へることは出來なかつた。

十日ほど前の夜のことであつた。おきみは、長野發の終列車で上野へ着いた。そして、省線電車のガード下に待つてゐた周三と一緒になつた。半年ぶりで會へた二人は、互の愛情を現はすために、互の腕を力一ぱいつねり合つた。彼等はそんな場所でものを言ひ合ふことを<ruby><rb>豫</rb><rt>あらかじ</rt></ruby>め禁じてゐたのである。

二人はすぐ省線に乘つた。新宿で下車した。その足ですぐ旭町へ入つて行つた。そして狹い路地の中のマルマンといふ木賃宿についた。

おきみは、命がけの仕事をして來たのである。それは、火のついた爆彈を背負つてゐるやうな氣持ちであつた。二人はそのためにいつ<ruby><rb>粉碎</rb><rt>ふんさい</rt></ruby>されるかも知れない氣持ちであつた。それは何であつたか？

しかし二人はそれを二人きりの部屋の中でも口へ出さなかつた。あらゆる意力を水の如く冷靜に集中して、その爆彈の火を消さうとしてゐた。

二人は最初一泊二圓の四疊半の部屋で、メリンスの蒲團へ寢た。が、三日目には一泊一圓の木綿蒲團へ移らねばならなかつた。しかしこれも二三日で、こんどは一泊七十錢の、北向きの三疊の、棚も押入れもない、さま〲の汚物で眞黒になつた疊の部屋へ追ひつめられた。

二人は、この部屋の窓から、灰色の空を眺め、下の路地をうろつく<ruby><rb>浮浪者</rb><rt>ルンペン</rt></ruby>を見下し、近くの線路を往復する汽車のひゞきを聞き、木枯の後の海鳴りのやうな都會の<ruby><rb>喘</rb><rt>あへ</rt></ruby>ぎ聲をきいた。さうして、明日の日の來ることも信じられない眞暗な前途に對し、溜息をもらしてゐた。

一週間ほどするうち、二人は日拂ひの宿料が支拂へなくなつた。當然の結果として、二人はその宿の追ひ立てを喰つた。おきみは、宿の主婦の膝元へひれ伏して、もう五六日泊めておいてくれと願つたが、主婦は、<ruby><rb>砂利</rb><rt>じやり</rt></ruby>のやうな言葉を吐いて、おきみの頼みをはねつけた。

そこへ一人の男が出て來た。彼等の隣室に泊つてゐる夜店のバナナ屋と稱する男であつた。その男は、これまで廊下などでおきみとぶつかる毎に、へえ〱と頭を下げて馴れ〱しく言葉をかけてゐた。それが出て來て、

「同じ宿へ泊つてゐるよしみです。當分の宿料はわしが立て替へときやせう」と言つた。

さういふその男の<ruby><rb>魂膽</rb><rt>こんたん</rt></ruby>はどこにあつたか？　しかしおきみと周三は、その疑問を<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>する前に、背に腹は代へられぬ、といふせつぱ詰つた氣持ちから、とりあへず、その男の厚意を受けずにはゐられなかつた。

と、次の夜、その男は二人の部屋へのそりと入つて來て、おきみへ言つた。

「どうだね、失禮な話かも知れねえが、實ア、わしの女房も働かしとくんでこんな話も持ち出すんだが、一つ、わしの女房のゐる銘酒屋で働いて見ちや。」

おきみはそれを聞くと、ぐつと胸が<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>つた。默つてゐると、相手は、

「働くのがいやぢやこれから先、どうして生きて行かうてんだね。こんな木賃宿にいつまでもそんなことをしてゐたら、飛んでもねえ<ruby><rb>誤解</rb><rt>ごかい</rt></ruby>を受けて警察へ突き出されますぜ。」

この言葉に、おきみは思はず顏色をかへた。相手の男はそれを見逃さなかつた。そしてこんどはおつかぶさるやうに、

「そいつが恐かつたら、わしの言ふことをきゝなせえ。惡いやうにはしないよ。」

「…………」

「いやかえ。いやだといふのかえ？」

彼は自分の顏を、おきみの<ruby><rb>鼻面</rb><rt>はなづら</rt></ruby>へぶつけるやうに持つて來た。その顏の眉間には、ヂヤガ芋ほどの<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>があつた。その瘤の下へ暗い影を寄せて、彼はぐいとおきみを睨みつけた。そこには、金と意地とのためには命のやり取りもしかねない<ruby><rb>無智</rb><rt>むち</rt></ruby>な狂暴性が自づと浮んで來た。

見てゐた周三もそれにはギクリとした。

おきみは聲をふるはして答へた。

「行きますわ、どこへでも行つて働きますわ。」

さうしておきみと周三は、首に綱をつけられた仔犬の如く、いや應なしにこの世界へ連れ込まれて來たのであつた。その男といふのが即ちこの辰つアんだつたのである。

二人は<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の密談にきゝ耳を立てながら不安の目を光らしてゐた。

そこへ辰つアんが先に、お銀ちやんも上つて來た。お銀ちやんは、ちやぶ臺の上へぐたりと<ruby><rb>片肘</rb><rt>かたひぢ</rt></ruby>をつき、その上へ、平つたい濁つた顏を載せて、おきみと周三を代る〲ヂロ〱と見守つてから、

「とにかく、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>（情夫）つきには困るよ」とふて〲しく言つた。

「まア待ちねえ」と辰つアんは受けて、いが栗頭をぬつと周三の方へ突き出し、「お前さんといふ男が喰つついてるんで、おかみが文句をいやがるんだよ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>つきには<ruby><rb>懲々</rb><rt>こり〱</rt></ruby>してるといやがるんだ。一體全體お前さんのやうなれつきとした一人前の男が、何だつて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>なんぞになつてゐるんだえ、お前さんがぶら下がつてゐるばかりに、この女もこんな所へ身を賣らねばならなくなるし、おまけにそれもうまく賣れねえつてことになるんだ。せめて、自分だけは自分で働いて喰つたらどうだえ。」

「…………」周三は蒼白い顏をねぢ曲げながら視線を<ruby><rb>亂</rb><rt>みだ</rt></ruby>しておど〱した。それがいかにもあどけなくまた<ruby><rb>意氣地</rb><rt>いくぢ</rt></ruby>なく、生れつきの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>らしい感じであつた。

「そんなことを言はないで下さい。」おきみは辰つアんへ答へた。「あたしから頼んで無理にこの人を引き寄せてゐるのですから。あたしは、この人がついてゐるからこそ、どんなことでもする氣になつてゐるのですから……」

「お前の心懸けアそりや感心だが、男の方が、それでいゝ氣になつて働かずにゐるつて法はねえ。」

「働きたくつても仕事がないんですから仕方がないんです。……それに男は、女のやうにからだを賣つて喰ふことは出來ませんもの。」

「そんなら死んでしまやアいゝんだ。」

「……だから、この人は、いく度も死なうとしたんです。」

「…………」

「そいつをお前が助けてるてえわけかえ？」

「…………」

「<ruby><rb>野暮</rb><rt>やぼ</rt></ruby>なことを言ふのアお止しよ、辰つアん」とお銀ちやんが口を出した。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>といふもんは<ruby><rb>癌</rb><rt>がん</rt></ruby>見たいなもんで、切り離したら生きちやゐられないし、と言つて喰つつけといてもやつぱり、なアんて縁起でもないことを言つて惡いわね。つまりその、花に蝶々、水に魚で、持ちつ持たれつ、その味は辰つアんなんかにアわからないのよ。」

「へん、そんなことを言ふなら、默つてこの花と蝶々と引き取つたらどうだえ？」

「それとこれとは別問題ぢやないの。」

「面白くもねえ……」

辰つアんは、さう言つて、急に、例の<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>の瘤の周圍に、恐ろしい<ruby><rb>狂暴性</rb><rt>きやうぼうせい</rt></ruby>を浮ばせ、おきみと周三へ言ひかゝつて來た。

「とにかくお前達に言ふことがあるんだ。といふのア、わしアこのおかみの亭主だと言つたが、そいつア嘘だぜ。先づそれを承知して貰つて、それからわつしの商賣は夜店商人といふことにしてゐたが、ありや内職、本職はこの中の女の<ruby><rb>周旋屋</rb><rt>しうせんや</rt></ruby>で、それでおまんまを喰つてる男なんだ。ね、そいつをよく承知してくんなよ。かう言つちまや、お前達がいくらドヂでも覺悟アきまるだらうね。ぶちまけたことを言やア、わしア、お前達がこないだ長野の方から來た終列車で上野へ着いた時から、後をつけてたんだよ。ちやうどわしが張つてる所へ、おめえ達はポンと飛び込んで來たのさ。ねえ、だから、このわしに掴まつてこの中へ連れ込まれりや、もういくらヂタバタしたつてどうにもならねえ、つてことをよく承知しなよ。……ところで、今改めて言ふんだが、お前達ア馬鹿に××つてものを恐がつてるね。いや、そいつアお互だが、そこでその××を恐がるものが隱れて絶對××だてえ所は、廣い東京にも、こゝと××の二ヶ所しかねえんだ。そりやお前達も百も承知で、承知だからこそわつしの言ふなりにこの中へ入つて來たんだらうが、とにかく、××の御用、つて奴が<ruby><rb>嫌</rb><rt>きれ</rt></ruby>えなら、こゝにぢつとしてゐねえよ。お前達に取つちや、この中は極樂で、この外はどこもかも<ruby><rb>地獄</rb><rt>ぢごく</rt></ruby>なんだ、てえこともよく承知しときなよ。そいつを承知してこのおかみの言ふことをきいてりや、第一おめえ達の身が安全だし、こゝん<ruby><rb>家</rb><rt>ち</rt></ruby>でも安心して世話をしてくれるし、金も貸してくれるてえわけだ。どうだ、解つたかね？」

「えゝ、よく解りました。」

おきみは、垂れてゐた頭を更らに低く垂れた。

「君もわかつたらうね？」

辰つアんは、周三の顏を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んだ。

「え、わかりました。」

辰つアんはこゝで、お銀ちやんを顧み、

「二人が口を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>へてかう言つてるんだから、どうだ、置いてやりねえよ。」

「……仕方がない。當分置いといて見ようかね。」

お銀ちやんは、生あくび混りにさう答へた。

「ぢや、着物を買ふぐらゐは貸してくれるだらうね。」

「まア、五六日樣子を見てからね。」

「頼むよ」辰つアんは、こゝでもう一度、狂暴性の浮んだ顏でおきみと周三を睨みつけ、

「この中は、田舍のだるま屋たアわけが違うんだからね、こゝからずらからうなどとたくらんだら、脚の一本二本、おつぺしよられると思はなきアいけねえぜ。」

## 二

「今の男、口ぢやあんなことを言つても、氣は至つていゝんだよ、もつともあの鼻の上のこぶがくせ物だが、今日からこのお銀ちやんがついてゐるんだから、安心してりやいゝよ。」

辰つアんが歸つたあと、お銀ちやんはさう<ruby><rb>前置</rb><rt>まへお</rt></ruby>きをして、おきみの方へ、

「それでどう？　今晩からでも働いて見たら。」

「……え、でも、こんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なり</span>ぢや」とおきみは、目を膝の上へ落した。それはボカ〱になつたメリンスの羽織と着物で、膝のあたり、地がすけて見えてゐた。

「着物なんか何だつていゝのよ。厭ぢやなかつたら、この羽織を着ちやどう。模樣さへパツとしてりや、男の目なんかごまかせるのよ。」

「でも、あなたが困るでせう。」

「だからね、<ruby><rb>代</rb><rt>かは</rt></ruby>りばんこに着ませうよ。實はね、あたしは、<ruby><rb>名義</rb><rt>めいぎ</rt></ruby>はこの家の主人だけど、ほんたうの主人は、この表通りの自轉車屋なのよ。それであたしは、この家の呼び込み口一つと二階の一間だけを、毎日二圓の日拂ひで借りてるのよ。だからあたしはあんたのほんたうの主人ぢやないし、つまり二人で共同に働くといふわけになるのだからね、この羽織も共同で使へばいゝのさ。ね、その代り、さういふ譯だから、お金もなし、あんたにもさうたんとは貸せないのよ。それにあの辰つアんにも周旋料を拂はなけりやならないし……」

「それぢや當分、それを拜借さして下さいね。」

「拜借なんて<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>ぢやないのよ。この裏を見てごらん」とお銀ちやんは、枯れた芭蕉の葉のやうに横切れのした裏を返して見せた。

「それはさうと、うちの奴がこんな場所の店へいきなり出て、お客が取れるでせうか？」

周三は、青白い頬を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でながら、おど〱と訊いた。

「ところが案外よ」とお銀ちやんは聲をひそめ、「今、お店でお客を呼んでゐる<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>ね、あれはやつと十七よ。こないだ目黒の方からうちへ初めて遊びに來て、店へ坐つて鏡を見てゐたら、どうだ上つてやらうか、といふ客の聲がするので、聞き覺えで、おあがんなさいな、と受けたら、それがすぐ上つて來たのよ。それが手初めであの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>はこの商賣を始めたのだけど、今ぢやもう立派に一人前よ。」

「それで、僕達は、その自轉車屋とはどんな關係なのでせう？」

「何の關係もないのよ。その點は、ちつとも心配しなくてもいゝの……あの自轉車屋も、考へると<ruby><rb>癪</rb><rt>しやく</rt></ruby>さ。自分ぢや表できれいな顏をしてゐて、裏へ𢌞つてぼろい儲けをしてゐるんだからね。そんな家が外にもいくらもあるのよ。表ぢや、酒屋をしたり、荒物屋をやつたり、煙草屋をしたりしてゐる家がね。人の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふんどし</span>ぢやない、人の腰卷で角力を取らうつて奴さ。」

お銀ちやんは、初めは、<ruby><rb>狡猾</rb><rt>かうくわつ</rt></ruby>な意地惡のふて〲しい女に見えたが、かうして話して行くうちに、腹の底まで平氣で見せるあけすけのお人好しに見えて來た。おきみと周三はいくらか<ruby><rb>氣樂</rb><rt>きらく</rt></ruby>な氣持ちになつた。

お銀ちやんは二人をまた下の三疊へ下した。そしておきみへ言つた。

「ぢや、お化粧を直して坐つてごらんよ。髮は、今晩はそれでいゝわ。あしたの朝、髮ゆひさんへ行つてらつしやい。あんたはきつと結ひ<ruby><rb>綿</rb><rt>わた</rt></ruby>が<ruby><rb>似合</rb><rt>にあ</rt></ruby>ふわね。」

おきみは鏡臺へ向つた。その鏡へ映つた眼の細い<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>ぶくれの顏を、周三はこつちからとき〲ぬすみ見て、そして泣きさうな顏をした。

お銀ちやんは、おきみの背に向つて、店へ坐つてお客を呼ぶ方法を教へた。その中に二つの××があつた。××を呼び込まぬこと、ひやかし客と長話をせぬこと。

「××の顏はあとで教へるけど、ひやかし客と長ばなしをしてゐると、やつぱり××に踏み込まれるのよ。そしたら、主人名義のあたしとあんたが三日の<ruby><rb>拘留</rb><rt>こうりう</rt></ruby>を喰つた上に二十六圓づゝの<ruby><rb>金刑</rb><rt>きんけい</rt></ruby>だからね。表の自轉車屋が、あたしのやうなものを主人として屆けとくのも、そんな場合の用心なのだが、それで一番馬鹿を見るのはあたしなんだからね。そこはしつかりやつておくれよ。」

おきみは、髮を直し、顏の化粧をすますと、その顏をお銀ちやんの方へ向けて、

「これでようございますか？」と言つた。

周三はそれを見ると、顏を赤くしてうつ伏した。

「さうね」とお銀ちやんは、出來上りの品物を吟味するやうに、「眉をもつと<ruby><rb>濃</rb><rt>こ</rt></ruby>くして、頬紅ももつと染めなさいよ。何でもいゝから、うんと若く見せる<ruby><rb>算段</rb><rt>さんだん</rt></ruby>をしなきや駄目よ。そんなこと御承知でせうが。」

やがておきみは、店へ――やつと一人が坐れるほどの場所へ出て行つて坐つた。そして、音もなく左右へ流れる人の影へ聲を掛けた。

が、その聲は泣くやうに顫へた。

「駄目よきみちやん、そんなことぢや」とお銀ちやんは茶の間から呶鳴つた。「もつとかう力のある聲で、歩いて行く野郎をうしろからねぢ伏せるやうな勢ひでなくちや。……いろんな野郎が通るだらう。みんな<ruby><rb>雜魚</rb><rt>ざこ</rt></ruby>野郎なんだから、こつちもそのつもりで、この馬鹿野郎と呶鳴るつもりで呼びアいゝんだよ。」

さう言はれると、おきみはます〱聲がふるへて來た。夕方、外から見たときは、男を呼び込む女の聲が、<ruby><rb>惡寒</rb><rt>をかん</rt></ruby>を感じたほど哀れな悲鳴にきこえたが、かうして内から覗いて見ると、窓先を群がり過ぎる男共が、一種奇怪な原始動物に見えた。

おきみは窓の下に<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えちゞまつて、一人ほろ〱涙をこぼした。

## 三

一と月して、春も過ぎた。その中では、春が來て、その春も過ぎたことを、花が咲き、花が散り、木の葉が繁り出したことで知るのではなかつた。この中を縱横に流れてゐる<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の水が、<ruby><rb>温氣</rb><rt>うんき</rt></ruby>でぶつぶつと煮え出し、その中にボーフラが行列をつくり出し、それが一つ〱羽を生やして路地から路地、部屋から部屋へ、ワン〱と群がり出したことでそれと知るのであつた。

おきみは、近くの洋品店の二階の三疊へ間借りさしとく周三のところへ、親雀が小雀の巣へ餌を運んで行くやうにして、一日に一度づゝその日の食べ物を運んでやつてゐた。

周三は曇つた顏に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふがひ</span>なささうな色を浮べながらも、その餌の方へ開けた口を持つて行つた。

暗い路地々々には、漁色亡者がボーフラのやうに夜毎に群がりふえて行つた。

さういふ或る夜のこと、お銀ちやんの家では例の十七の女――八重ちやんが、うつかりして<ruby><rb>因業</rb><rt>いんごう</rt></ruby>なひやかし客を呼び込んだ。二人は、呼び込み口の内と外とで、引つ張つたり引つ張られたりしてゐた。

そこへ××が飛び込んで來た。その結果は簡單<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいれう</rt></ruby>であつた。八重ちやんと、主人名義のお銀ちやんとは、翌日午前九時迄に、Ｔ署へ出頭を命じられた。即ち、三日の拘留と二十六圓の金刑とを二人は言ひ渡されたのである。お銀ちやんは、<ruby><rb>血相</rb><rt>けつさう</rt></ruby>をかへて怒り出した。

この私娼窟に於ては、この體刑と金刑とが、周期的に、一年に×囘乃至×囘の割りで、全部の銘酒屋へ科せられることになつてゐた。で、一度處罰されると、一つの家で、出方（私娼）と主人とが二人で都合六日の<ruby><rb>拘留</rb><rt>こうりう</rt></ruby>と五十二圓也の罰金を申し渡されることに極つてゐた。だから、これを一年四囘と見ても、一年間一軒の家で、二十四日の拘留體刑と、二百八圓の金刑處分をきちんと命令された。これは彼女達の一ヶ年の實收入の×分の一に當るので、彼女達はこの「本署へ出頭しろ」に對しては、いつもおぞけをふるつてゐたのであつた。

お銀ちやんは、毒々しく塗つた紅の唇から赤い<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を吐き飛ばしながら、八重ちやんを呶鳴りつけた。

「……白首のひよつこの癖に、いけ<ruby><rb>圖々</rb><rt>づう〲</rt></ruby>しいことをしやがるから、こんなことになるんだよ。あたしや、どうしたつて行きやしないから、どつかで代りをめつけて來て頂戴。」

「だつて、罰金はお銀ちやんが出すんぢやないんでせう。自轉車屋で出してくれるんですもの、ずゐぶんいゝわ。あたしは<ruby><rb>罰金</rb><rt>ばつきん</rt></ruby>も自分で出さなきアならないのよ。」

八重ちやんも、圓い小さな顏を角張らせて、負けてゐなかつた。

「八重ちやんが自分で出すのは當り前さ。しかしあたしの分を自轉車屋で出すなんてこと、當てになりやしないよ。あたしは、八重ちやんとは何の關係もないんだからね、八重ちやんの卷き添へを喰つちや堪らないよ。」

「そんなこと言つたつて、お銀ちやんはこの家の主人なんでせう。」

「そりや名義だけぢやないかね。」

「名義だけだつて、主人は主人ですもの。」

「だから<ruby><rb>癪</rb><rt>しやく</rt></ruby>で堪らないのよ。自分で泥棒をしといて、罰は人に<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>せるつてんだからね。」

「そんなこと××へ行つて言ふといゝわ。」

「へらず口をいふと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のす</span>よ、八重ちやん！」

「…………」

八重ちやんはたうとう默つてしまつた。

お銀ちやんは、唾の泡立つた唇を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めまはしながら、まだ何かを叫ぼうとしてゐたが、やがてその口をおきみの方へ向けて、

「ねえ、濟まないが、あんた、あたしの代りに行つてくれない」と言つた。

おきみは、さう來ることを<ruby><rb>豫期</rb><rt>よき</rt></ruby>してゐたが、いざさう出て來られると、はら〱しながら、

「……でも、あたしが代つてもいゝんでせうか」と何かを嘆願するやうに言つた。

「そりや構やしないのよ。あんたが代つて行つてくれりや、その間の<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎ賃まであたしが出すわよ。」

おきみは頬に<ruby><rb>亂</rb><rt>みだ</rt></ruby>れ下つた結ひ綿の髮を、小さな唇でなぶりながら、深い溜息をついてゐた。

「いやなの？」

「……お銀ちやん」おきみはおろ〱と答へた、「そればかりは勘辨して下さいね。」

「あら、さう！」とお銀ちやんは、ジロリと睨みつけて、「どうもさう來るだらうと思つてたよ。だから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>つきは大嫌ひさ！」

「さういふ譯ぢやないのよ。」

「ぢや、何のわけさ。……あゝ解つたよ。ずらかりもんだからね、警察へ行つたらそいつを洗ひ出されるのが恐いんでせう。えゝ、もう頼みませんよ。その代りあしたつからこの家は空つぽになるんだから、今夜のうちに何處かへ行つちやつておくれよ。だけど、借金はきれいにしてつて貰はなきア困るよ。」

その夜更けである。おきみと周三は、このお銀ちやんから、所有物一切を卷き上げられてしまつた。おきみは持ち金全部を、周三は、洋品店の三疊で使つてゐた夜具まで<ruby><rb>強奪</rb><rt>がうだつ</rt></ruby>された。そのため周三は、その部屋からも追ひ立てられてしまつた。

二人は<ruby><rb>途方</rb><rt>とはう</rt></ruby>に暮れ、どこへ行くあてもなく、溝に沿つた暗い路地をうろついてゐた。

と、うしろから二人を呼びかけるものがあつた。見ると、八重ちやんである。

「ねえ、あんた達、これからどこへ行くの？」

「そのあてがないのよ」おきみはほそ〲と答へた。

「さうだらうと思つて追つかけて來たのよ。それぢや、あたしについていらつしやいよ。只で泊めてくれる家があるんだから。」

「それは銘酒屋ですか？」周三は、もう怯えてゐるやうに訊いた。

「うそよ、何でもない家なのよ。あたしが、前に世話になつたことのある家よ。」

二人は、八重ちやんの後について歩き出した。もう一時を過ぎてゐたが、雜魚野郎共はまだ、どの路地にも七人八人とうろついてゐた。

長屋の胴腹に穴をあけて造つたトンネル路地まで來ると、周三は、そこの<ruby><rb>破目</rb><rt>はめ</rt></ruby>に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れてしやがんでしまつた。

「どうしたの。氣持ちが惡いの？」おきみは、腰をかゞめて周三の横顏を覗き込んだ。

周三は、何んにも答へず、兩腕の中へ頭を埋めた。

「どうしたのよ。ねえ。」

「……お前一人、ついて行きなよ」周三は腕の下で言つた。

「何をいつてるの！」

「おれがついてるから、お前までこんなことになるんだらう。……おれは……」

「馬鹿なことをいふんぢやないのよ。あたしは、あんたがゐなかつたら、今頃、生きてやしない。あんたは、あんたは……」

おきみはさう言つてゐたが、いきなり周三の腕を取つて引き起し、その胸へしがみついて、

「あんたは馬鹿、あんたは馬鹿！」と<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>びながら叫んだ。

「…………」

周三は、默つて立ち上り、よるべない足どりで歩き出した。

## 四

その夜、八重ちやんの案内で二人が行きついた所は、赤い軒燈の下に、外科、<ruby><rb>皮膚泌尿科</rb><rt>ひふひねうくわ</rt></ruby>、花柳病科といふ看板がかけてあつた。

玄關の三疊に坐つてしばらく待つてゐると、なまづの顏に似た目の小さい口の大きな男が、<ruby><rb>西洋寢卷</rb><rt>パジヤマ</rt></ruby>を着て出て來た。

「あゝ、そんな譯なら、とにかく今晩はこの座敷へ寢たらよからう」八重ちやんの話を一通りきいてから、彼はいかにも勿體ぶつてさう言つた。「人の病氣の世話は仕方がないが、そんな世話まではちよつと困るのだがね。」

<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る朝、このなまづ醫者は、おきみと周三を、二階の居間へ呼び寄せた。彼はそこで朝酒をやつてゐた。だらしなく<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れた兩頬を、<ruby><rb>無花果</rb><rt>いちじく</rt></ruby>のやうに染めて、娘とも見える若い女房（？）と差し向ひに坐つてゐた。彼は先づ十圓札五枚を、おきみと周三の前に竝べて、

「そりや、當分のお小使ひに上げときませう」と言つた。それだけで、その金の性質に就ては何の説明もせず、急に語調を、醉つぱらひ口調に變へ、その大きな口をパク〱させながらこんなことを言つた。

「君達は、萬物の理想は<ruby><rb>自滅</rb><rt>じめつ</rt></ruby>に在り、てえことを知つてるかね。たとへばだ、醫者といふものは病氣を直すことが仕事で、その理想は、この全世界の人類から、あらゆる病氣を驅逐するのが理想なんだ。だが、この理想が實現したとしたら、結果はどうなる。醫者は一人もいらなくなるぢやないか。即ち、醫者の理想は自滅に在りだ。教育家も然り、軍人もまた然りさ。これは、マルクス主義よりは<ruby><rb>徹底</rb><rt>てつてい</rt></ruby>した理窟だよ。そこでだ、女の理想は何か？　子孫をふやすこと。が、こりや理想ぢやない。女の理想は、人間生活のあぶらとなり石炭となり食糧となることだ。都會を發展させるのも女だ、植民地を開拓させるのも女だ、軍人をしてよく戰爭せしめるのも女だ。……まア、ざつとそんな譯で、これらの理想を實現せしむるためには、われ〱はあらゆる助力と尊敬とを拂はなければならない、といふのだ。どうです、實に徹底した理論でせう。」

おきみと周三は、妙な惡臭を持つた煙幕を目の前にひろげられたやうな不快を感じた。しかし膝の前に置かれた五十圓の手前、目をしばたゝきながら神妙にしてゐた。

そこへ、お召しの着物をぞろりと着た一人の老婆が、誰の案内もなし、何の豫告もなしにのそりと入つて來た。なまづ醫者の煙幕は、この老婆が現はれるまでの空虚を<ruby><rb>濁</rb><rt>にご</rt></ruby>し埋めるためのものらしかつた。

老婆は、立つたまゝ、おきみと周三をじろ〱と見下した。その目は飛び放れて大きく輝いてゐた。

「このお婆さんは、うちで<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>にしてゐる方だ。君達のことをよく頼んどいて上げたから、安心して、何もかも任せるがいゝ。お婆さん、ぢや、お願ひするよ。」

「はい〱。」

間もなくおきみと周三は、その老婆に連れられて外へ出た。

日中の路地は、水の涸れた河床であつた。その中を、五月の<ruby><rb>温氣</rb><rt>うんき</rt></ruby>が、えたいの知れない臭氣を含んで流れてゐた。老婆は、これを我がもの顏に、少し腰をかゞめて悠々と歩いた。とき〲二人の方へふりかへつて、その大きな目を光らした。それはまるでひきがえるの目であつた。

電車線路を横ぎつて、三尺の路地を二三度折れると、二階とも三階ともつかぬ、屋根の<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ家の前へ來た。それは古い貝殼のやうにガラ〱になつて<ruby><rb>煤</rb><rt>すゝ</rt></ruby>けてゐた。元は私娼を置いてゐた家らしく見えたが、今はそれにも使へない家である。

老婆は二人を、先づ、入口の横の二疊へ坐らせた。それから、おきみへ、

「お前さんだけ、ちよつとこつちへ來ておくれ。」

と言つた。

おきみは、梯子段を上つて行つた。そこは高い所に北向きの小さな窓が一つしかない六疊ほどの部屋であつた。<ruby><rb>座敷牢</rb><rt>ざしきらう</rt></ruby>のやうに暗く、空家のやうに荒れてゐた。道具といつては、火鉢代りであらう、つるの取れた古鍋に灰を盛つたものが一つ置いてあるきりであつた。勿論、それには火は入つてゐなかつた。

けれど老婆はその古鍋の前に坐つた。そして、入口の所に立つてゐるおきみをジロリと見上げ「こつちへおいで」と言つた。その目とその聲には、おきみはゾーツとした。それには、動物的な凄味と、妙に鋭く冷たい超人間的な<ruby><rb>威壓力</rb><rt>ゐあつりよく</rt></ruby>とがあつた。そして更に<ruby><rb>妖婆</rb><rt>えうば</rt></ruby>の持つ無氣味さがそのからだ<ruby><rb>中</rb><rt>ぢゆう</rt></ruby>から發散してゐた。

「それから足袋をお<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>ぎ。」

おきみは、言はれるまゝにせずにはゐられなかつた。

「そこで、右の足で、この鍋の灰を踏んでごらん。」

おきみはその通りをした。うすら冷たい灰が足の裏にふかりと觸れたとき、おきみは、髮の毛がワーツと<ruby><rb>逆立</rb><rt>さかだ</rt></ruby>つやうな思ひがした。

老婆は、灰の中に印されたおきみの小さな足跡をぢつと見詰めた。それから、その目をまばたきもせず、おきみの面へ移して、

「お前さんは、兩親がいないね？」と言つた。

事實、おきみはさうであつた。

「兄弟はあつても、はなればなれだね。」

それもその通りであつた。

「他人の家ではあるが、子供の時は、しあはせに育つたね。けれど、この五六年は、<ruby><rb>諸々方々</rb><rt>しよ〱はう〲</rt></ruby>、うろつき歩いたね。」

それも當つてゐた。

「さア、その五六年の出來事を話してごらん。」

お前が言へなければわしが話してやる、といふ言葉がその裏に潜んでゐた。

「……‥…」おきみは面を伏せて、かたく口を噤んだ。

老婆は、片手を伸して、おきみの<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を押し上げ、

「言へなければ言はなくともいゝ。けれど、これだけははつきり言つてごらん。この<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>へ連れて來られる前、どこに何をしてゐたか。」

「…………」

「なか〱<ruby><rb>頑固</rb><rt>ぐわんこ</rt></ruby>な女だね。ぢや、かうして言はして上げようか。」

老婆は、自分も立ち上りながら、おきみのまへ髮を掴んでぐいと引き立て、一方の手で、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の襖をヅヾツと押し開けて、そこへおきみの顏を持つて行つた。おきみは、首筋を持つて吊された猫のやうに、何の抵抗も出來ず、されるまゝに動いた。

が、そこでおきみは、危ふく倒れようとして、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>へしがみついた。その<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>のかげには、大きな蜘蛛！と思つたほど、蜘蛛そつくりの女が、ぢつと縮こまつてゐたのである。眞黒に<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せこけた顏、骨ばかりとなつた手と足、さうしてギロリと光つた目……。

「見たかね」老婆は言つた。「お前さんも、あんな目に會ひたくなければ、白状しなよ。わたしはこの中へ逃げて來た女を三百人も手にかけて、これまでの經歴をみんな白状さしてゐるのだから、わたしをごまかさうたつて駄目だよ。それ、その顏に、そのからだに、何もかも書いてあるぢやないか。白状しなければ、白状するまで、そこの女のやうな目に會はしとくよ。死ぬまであゝして置くよ。死んだ後は、あの大口の醫者が始末をしてくれるからね……」

「いひます、いひます、みんないひます……」

おきみは、疊の上へつゝ伏して、顫ひをのゝきながらさう答へた。

さうしておきみは、胸の底の底へしまつて置いたこと、それは恐ろしい爆彈で、それに觸れたら、自分と周三は、<ruby><rb>粉微塵</rb><rt>ごなみぢん</rt></ruby>に粉碎されてしまふのだと思つてゐたこと、だからこれだけはたとへ殺されても言ふまいと自分に誓つてゐたことを、この老婆に依つて、みんな<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>り出された。それはまるで、しめ木にかけられて搾り出されるやうなものであつた。

――今から二年前の春、はじめて福島縣Ｋ町の料理屋へ百五十圓で賣られたこと、しかしこれは、彼女の良人、周三の入院費（當時周三は、脚氣と肋膜で身動きも出來なかつた）をつくるためだつたので、半ば自分からすゝんで買はれたこと。が、一年足らずして、群馬縣高崎市Ｙ町の銘酒屋へ<ruby><rb>轉賣</rb><rt>てんばい</rt></ruby>されたこと。この時は前借が四百圓にふえてゐたこと。この四百圓は七ヶ月の間に七百圓にふえたこと、で、それを消すために、つひに長野縣上田市の<ruby><rb>遊廓</rb><rt>いうくわく</rt></ruby>、Ｍ樓へ女郎として送られたこと。この時、彼女を女郎にする手續上不都合のため、良人周三と法律上離婚させられたこと、さうして、この遊廓内での半年の間に、<ruby><rb>前借</rb><rt>ぜんしやく</rt></ruby>が八百五十圓にふえたこと。この頃から彼女は肺を惡くし、毎夜の勞働に堪へられなくなり、××へ自由廢業を願ひ出たこと。が、××××から人道上許すべからざる不心得者として、こつぴどくどやしつけられ、再びＭ樓へ引き戻されたこと、こゝに於て彼女はつひに逃亡を決心し、良人周三の手を借りて東京へ脱け出して來たこと。

「……あたしは、殺されてもいゝ覺悟で逃げ出しました。あたしが逃げ出て來なければ、あの人（周三のこと）が自殺しさうだつたからです。あの人は、あたしが側にゐなければ、生きてゐられなくなつたのです。あたしは、今となつてはもう、殺されても生きたいのです、あの人のために。だからどうぞ、あたしを警察へだけは屆けないで下さい。あの人と離ればなれになるやうなことはしないで下さい。これだけは一生のお願ひです……」

老婆は、大きな目を半分閉ぢて、うす笑ひしながら聞いてゐたが、この時そのひき蛙のやうな目をギロリとむいて、

「あゝ、それは安心しといで。その代りお前さんはおほつぴらにお天道樣の顏を見ることは出來なくなつたのだよ。法律の網をくゞる罪人なんだからね。その事をよく承知しときなさいよ。……だが、お前さんもよつぽど運の強い女だね。お女郎屋から無事脱け出した上に、この中へ逃げ込むことが出來たなんて、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めつた</rt></ruby>にない話だからね。この中は、いはゞお城の中のやうなものだからね。どんな恐い敵でも、この中のものには、手出しが出來ないのだからね。その代りまたこゝを逃げ出したりしたら、それこそ最後だよ。その中からの出口は、<ruby><rb>監獄</rb><rt>かんごく</rt></ruby>の入口へつゞいてゐると思ひなさいよ。警察の方でお前さんを見つけ損なつたら、わしの方で掴まへて警察へつき出して上げるからね。さうなつたら、あの人と離ればなれにされるどころか、お前さん達は××××××××××××極つてゐるのだよ。」

「いゝえ、もう決して、どこへも逃げ出しません。あの人と別れないやうにさへして下されば……」

かくておきみは、この老婆の手によつて、そのかぼそい<ruby><rb>咽喉元</rb><rt>のどもと</rt></ruby>を完全に<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>み取られてしまつたのであつた。

## 五

老婆は、おきみをその部屋へ殘して、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の玄關座敷へ降りて行つた。そしてそこにぐしやりとなつて坐つてゐる周三の前に、立て膝で坐りながら、狼が兎に向つて牙をむき出して見せるやうな調子で言つた。

「お前さんは、今日から、目も見えず、耳もきこえず、口もきけなくなつた男だと思ひなさるがいゝよ。お女郎屋から逃げ出した女についてゐるやうな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>は、さうならねば生きてゐられないのだからね。」

そして老婆はニタリと笑つた。それから下唇をつき出し、舌なめずりをしながら、

「お前さんの寢起きする部屋も世話して上げませう。夜具や炊事道具も貸して上げませう。そこでお前さんはぢつとおとなしく寢といでなさいよ。そしたら、あの女が<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>いで食はしてくれるからね。それで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>といふものは、お殿樣見たいに、お腹がすいてもひもじうないといふ顏をしてゐるものですよ。もしも夢にでも、あの女を連れて逃げ出さうなどと考へたら、二人共、命はないものと思ひなさいよ。この中は、お女郎屋のやうな間ぬけには出來てゐないのだからね……」

周三は、蛇の毒氣に會つた蛙のやうになつてしまつた。もし、おきみはその<ruby><rb>咽喉元</rb><rt>のどもと</rt></ruby>を絞められて、この闇のどん底へ叩きのめされてしまつたとしても、周三だけはむしろ餘計者として他界へ<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>り出されるのかと思ひの外、同じやうに、その首と足とに、この闇の<ruby><rb>鐵鎖</rb><rt>てつさ</rt></ruby>を結びつけられてしまつたのであつた。この男があつておきみは生きてゐるのであり、おきみが生きてゐる限り、その血と肉とを<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>り取ることが出來ることを、老婆はすつかり見拔いてしまつたのである。これと較べると、周三を邪魔物とした辰つアんなどはまだ<ruby><rb>他愛</rb><rt>たあい</rt></ruby>がなかつた。

こゝに於て周三も、おきみと同じやうに買はれた一個の商品といふよりは、おきみを生かすために捕へられた一匹の生き餌とされてしまつたのである。

その夕方、老婆の手に依つて、周三は表通りの<ruby><rb>蒟蒻屋</rb><rt>こんにやくや</rt></ruby>の二階へ人質の如く預けられ、おきみはその近くの倉田といふ銘酒屋へ賣り込まれてゐた。そしておきみはその夜から再び、野良犬のやうな男を呼び込まねばならなくなつた。あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なまづ</span>のやうな醫者の不可解な言動もこゝで始めて<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せたのである。

表通りではきれいな商賣をしてゐて、その裏へ𢌞つて私娼屋を經營し、彼女達から卑怯な<ruby><rb>搾取</rb><rt>さくしゆ</rt></ruby>をしてゐる者が非常に多くあることは既に言つた。が、この外にもつと卑怯な<ruby><rb>搾取者</rb><rt>さくしゆしや</rt></ruby>があるのだ。それは、この私娼窟を<ruby><rb>圍</rb><rt>かこ</rt></ruby>んで商賣をしてゐるもの、醫者を初め、藥局、八百屋、豆腐屋、荒物屋、化粧品屋、要するに、彼女達の生活と直接關係を持つもの悉くが、有料、或ひは無料で、この私娼窟の女を周旋してゐるのであつた。彼等もまた、この私娼窟に寄生して生活してゐる寄生蟲であるからだ。一人でも多くこの世界へ私娼をふやすことは、取りも直さず、彼等自身の生活を豐かにすることであるからだ。

それは、蟻の一族が、油蟲の一族を育てふやしてその甘汁を吸ひ取るのと變りがなかつた。

この方法は、彼等自身をうるほすばかりでなく、私娼屋經營者側に取つても非常な利益となつた。即ち、本職の<ruby><rb>女衒</rb><rt>ぜげん</rt></ruby>や口入屋から女を買ふのは、高い金がいるばかりでなく、<ruby><rb>上玉</rb><rt>じやうだま</rt></ruby>が容易に得られない。が、かういふ素人の手を通せば、世間知らずの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うぶ</span>を殆んど無代で手に入れることが出來るからであつた。

兩者はこゝで完全に手を握り合つてゐるのである。が、この握手は以上の目的のためばかりではない。もう一つの重大な目的、それは、一度この巣窟へ引きずり込んだ女は、いかなる理由に依つても絶對に外界へ逃がさないための握手であつた。故にこの目的のためには、彼等は單なる握手には止まらず、更らに水も<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>らさない連絡を取り、一つの大きな有機體をつくり上げてゐるのであつた。

例の老婆が、その<ruby><rb>妖怪</rb><rt>えうくわい</rt></ruby>の凄みでおきみを引つ捕へて一室に監禁し、脅迫し、その法律的犯罪をも絞り出して、彼女の<ruby><rb>咽喉元</rb><rt>のどもと</rt></ruby>を完全に抑へ込み、同時に周三をも「捕へた一匹の生き餌」としてしまつたことは、この有機體内に於ける一種の毒液の注射であつた。

かうなれば、この有機體は、個人の力では絶對に切り開くことの出來ない<ruby><rb>荊棘</rb><rt>けいきよく</rt></ruby>と毒草の原始林であつた。いかに切り開いても切り開いても、幾重の荊棘と毒草とが重なり合つて行く手を<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>し、動くことはます〱その<ruby><rb>荊</rb><rt>とげ</rt></ruby>と毒とに傷害されることになつた。しかもこの中に包圍されてゐる彼女達は、共同戰線を張ることに依つてこれ等の荊と毒とを相手に鬪ふことは絶對に不可能にされてゐた。彼女達は、めい〱一人づゝ、鋼鐵の檻の中に監禁されてゐるからである。

このやうにして、おきみと周三も、あらゆる自由性を奪はれて、外界へ踏み出す力を完全に殺されてしまつたのである。

「さア、こゝは、きみちやんなんかの働くには、日本一のいゝ場所なんだからね。ひと<ruby><rb>身代</rb><rt>しんだい</rt></ruby>つくるつもりで、どし〱働いてくんな」倉田の主人はさうおきみへ言つた。そして先づ商賣道具の衣裳を買はせた。それは、前の女から卷き上げたものらしい古物の綿紗の羽織と袷とで、袖口や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふき</span>はすり切れてゐたが、それにおきみは三十圓を拂はせられた。これと同時に、例の老婆の<ruby><rb>周旋料</rb><rt>しうせんれう</rt></ruby>としてまた三十圓を取られた。醫者が渡した五十圓は、實はこの倉田の主人が出した金で、それは衣裳代及び周旋料としてすぐに卷き上げるためのものだつたのである。

おきみは、さういふ着物を着せられ、再びいや應なしに店へ坐らされたのである。

その店は、溝に沿つた九尺幅の道路に面してゐた。この道路は私娼窟<ruby><rb>專用</rb><rt>せんよう</rt></ruby>のものでなく、一般人の通路にもなつてゐたので、實はこゝで商賣をすることは禁じられてゐた。といつても女が呼び込み窓に坐つてゐる現場さへ見つからなければ罰にはならなかつた。

そこで、この道路に面してゐる六七軒の家は、互に連絡を取り、警戒しながら女を店へ坐らせてゐた。

倉田では、めざしのやうに干からびたおかみが、いつも便所へ入つてゐて、その窓口から絶えず表を見張つてゐた。主人はまたその反對の家の隅の<ruby><rb>破目板</rb><rt>はめいた</rt></ruby>の隙間から往來を覗いてゐた。主人は、片目で、見える方の目は出目金のやうに出張つてゐるので、それは隙間から覗くために出來た目のやうに見えた。

さうして、<ruby><rb>恐</rb><rt>こは</rt></ruby>い目を見つけたものが逸早く店の女へ<ruby><rb>合圖</rb><rt>あひづ</rt></ruby>をするのであつた。合圖がかゝると女は素早く窓を閉めて奧へ引き込む。この合圖は次ぎ〱と傳はつて、そこに並んでゐる店の女は順ぐりに窓から姿を消して行つた。それは、親蛙の鳴き聲で、子蛙が一せいに水面から出たり引つこんだりするのに似てゐた。

「だから、うちでは、パツと目につく着物を着てゐて、客が寄つて來たら素早いところで、いや應なしに引きずり上げなきァ駄目だよ、まアふみちやんのやり方を見習ふがいゝ。」

倉田の主人はさうおきみへ言つた。

ふみちやんといふのは、同じ家に働かされてゐる千葉生れの、十三の時に男を知つたといふ、大根のやうな手足を持つた大女であつた。倉田の店の呼び込み口は一つしかなかつたので、このふみちやんとおきみは、三十分<ruby><rb>交代</rb><rt>かうたい</rt></ruby>に店へ坐ることになつたが、ふみちやんの番が來て店へ坐ると、あのふやけたからだから、どうしてあんな聲が出るかと思はれるやうな、彈力のある<ruby><rb>強靱</rb><rt>きやうじん</rt></ruby>な聲がその口からほとばしり出た。またふみちやんの手は<ruby><rb>吸盤</rb><rt>きふばん</rt></ruby>を持つてゐた。呼び込み窓へ近づいて來た男の手首を一度握ると、<ruby><rb>金輪際</rb><rt>こんりんざい</rt></ruby>離れなかつた。男は泣き顏をしながら上つた。

「どうだ。ふみちやんの腕は凄いもんだらう。上るときはあゝして泣きべそで上つても、かへるときアえびす顏だぜ。きみちやんもあゝならなけりや一人前たアいへねえよ。」

主人はまたそんなことも言つた。

しかしおきみには、ふみちやんの半分の眞似も出來なかつた。彼女は、店へ坐ると、その小さな窓口から、往來に沿つた溝の水をぢつと見詰めてゐた。眞黒な水が澱んでゐる面に、あぶくが上つては消えるのをぢつと見詰めてゐた。

「そんなことぢや商賣にならん」片目の主人はまた言つた。「仕方がない、きみちやんは奧へ引つ込んでゐてふみちやんに客を取つて貰ふことにしよう、その代り分け前は七三だよ。」

それからおきみは、ふみちやんの呼び込んだ客を當てがはれるやうになつた。同時におきみは窓から溝の水も見ることが出來なくなつた。朝から晩まで眞暗な茶の間の隅に、<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>かふもり</rt></ruby>のやうにうづくまつてゐなければならなかつた。

「旦那！」おきみはたうとう言ひ出した。「濟みませんが、とき〲は<ruby><rb>蒟蒻屋</rb><rt>こんにやくや</rt></ruby>の二階へかへして下さいませんか。」

「ちえツ！」主人は片目をむいて、「ぢや、かうしなよ。御亭主をうちへ泊りに來さしなよ。きみちやんの大事な人だから、特別ロハで泊めて上げらア。」

この家の二階の部屋は、三角形のと五角形のとで、何疊とは數へられない廣さを持つてゐた。物置小屋をそのまゝ部屋に直したやうなもので、窓はあつても、それは闇を吸ひ込む窓でしかなく、これこそ蝙蝠の棲みさうな眞暗さであつた。

おきみは、からだのあいた夜は、この部屋の一つへ周三を呼び寄せた。そして、周三のふところへ顏をぐい〱押しつけ、くつ〱と聲をしのばせて<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び泣いた。

## 六

夏がやつて來た。そして炎熱は、無數の蚊と共に溝から湧いて來た。それは、<ruby><rb>汚物</rb><rt>をぶつ</rt></ruby>から湧いたうじ蟲の如く、この世界の家々を取り卷いて離れなかつた。その熱度は、朝も夕も夜半も變りがなかつた。ぢつと毒瓦斯のやうに<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んで動かなかつた。

おきみのからだはだん〱衰弱して來た。彼女は、二階の三角の部屋へ引き込み、終日終夜、身動きもせず寢てゐることがあつた。

ふみちやんは、その枕元へ來ていぎたなく坐りながらかう言つた。

「あんたも、あんな<ruby><rb>青茄子</rb><rt>あをなす</rt></ruby>見たいな男にいつまでも喰つついてゐるから、そんなことになるのよ。それよりどつかの若旦那でも引つかける算段をした方がいゝわよ。地獄の中にやいゝことも惡いこともないんだからね。」

と、或るむし暑い夜、この家のおかみが<ruby><rb>腦卒中</rb><rt>なうそつちう</rt></ruby>で突然死んでしまつた。

ふみちやんは、待つてゐましたと言はぬばかりに、死んだおかみが座つてゐた長火鉢の前にぐでんと坐つて、終日煙草ばかりふかしてゐた。彼女は、長火鉢の前を獨占すると同時に、おかみの夜の××まで占領してゐたのである。

さうしてふみちやんはおきみへ言つた。羽をむしられて飛べなくなつてゐる庭鳥の尻をひつぱたくやうにして、

「ねえ、あたしはもう店へ坐つちやゐられないから、あんたが代つて坐つて頂戴よ。そのかはり捨て身になつて、命がけでやらなきア、あたしの代りはつとまらないよ。死んだつもりでやつてごらんよ。」

これは、羊に向つて野牛の<ruby><rb>蠻力</rb><rt>ばんりよく</rt></ruby>を強要するものである。――ふみちやんはもう、立派に野獸のやうな無智な<ruby><rb>搾取者</rb><rt>さくしゆしや</rt></ruby>になりきつてゐたのである。

おきみは、おぞ毛をふるひながら思つた。

――こんな家にいつまでぐづ〱してゐたら、それこそ血も肉も絞り殺されてしまふに違ひない、と。

が、おきみがさうと氣づいた時はもう遲かつた。おきみはいつの間にか、こゝの片目の主人から、途方もない<ruby><rb>惡辣</rb><rt>あくらつ</rt></ruby>な策略の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>に掛けられてゐたのであつた。

主人は、その獨眼をギシ〱音のするやうに光らしながら、おきみへ言ひ掛けた。

「ねえ、きみちやん、少し物いりが出來たんだが、借金をきれいにして貰へないかね。」

「……すぐですか？」

「さうさ、四五日中に。」

「そりや無理ですわ。」

「なアにわけアねえさ、どつかへ住み替へりやいゝんだから。」

「住み替へてもいゝんですか？」

「そりや、この場合仕方がねえ。」

おきみに取つては、この家は吸血鬼の棲み家であつたので、それは耳よりな話であつた。で、その話をすゝめて見た。しかし彼女が返濟すべき前借の高を知つたとき、彼女は<ruby><rb>呆然</rb><rt>ばうぜん</rt></ruby>としてしまつた。せいぜい五十圓前後と思つてゐたのに、いつの間にか三百五十圓ほどになつてゐたからである。

「そんな筈はないでせう！」おきみは、息を<ruby><rb>彈</rb><rt>はず</rt></ruby>まして訊き返した。

「と、思ふだらうが、よく考へてごらんよ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>の二人も持ちア、だれだつてそれぐれえの借金は出來るぜ。」

「あたし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>を二人も持つた覺えはないわ。」

「とぼけちやいけねえよ、あれぐれえ注ぎ込んだら立派な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>だらうぢやねえか。」

「だれのことをいつてるの？」

「あの、長さんのことさ」と、主人は、おきみの顏へ唾を吐きかけるやうに言つた。

「……？……？」

おきみは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつけ</span>に取られてしまつた。

長さんといふのは、<ruby><rb>東家</rb><rt>あづまや</rt></ruby>一門の浪花節語りだと自稱してゐる、三十四五の、口の<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ小男であつた。最初、五六日に一度の割りでおきみのところへ遊びに來て、金ばなれもきれいに、いやに乙がつたことを言つてゐたが、そのうち三圓五圓とおきみの蟇口から卷き上げて行くやうになり、やがて、おきみから直接取れなくなると、おきみの名で主人から借金して行くやうになつた。

その金が積つて三百圓ばかりとなつた。で、おきみ自身の前借と合せて都合三百五十圓になつた、といふのであつた。

只の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おなじみ</span>さんへ、この主人がなぜそんな金を貸してしまつたか？

實はこれは、主人と、この男――長さんとの<ruby><rb>共謀搾取</rb><rt>きようぼうさくしゆ</rt></ruby>だつたのである。主人は、おきみのひ弱い肉體からは碌な金が絞り出せないことをその片目で鑑定すると、その<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>のぐれ仲間の一人である長さんと結託し、長さんを浪花節語りの色男に仕立てゝ、おきみの政略的<ruby><rb>情夫</rb><rt>ひも</rt></ruby>としたのである。そしてこの<ruby><rb>情夫</rb><rt>ひも</rt></ruby>を通じて間接におきみから搾取したのである。

その<ruby><rb>搾取手段</rb><rt>さくしゆしゆだん</rt></ruby>は簡單であつた。即ち主人は、おきみの名に依つて長さんへ金を貸す。が、その實はおきみの名に依つて貸した金額の二割ほどを長さんへ與へるだけなのである。長さんは<ruby><rb>情夫</rb><rt>いろ</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かさ</span>に着て、おきみの名で三十圓、五十圓と主人から借りて行くやうに見せかけて、實はその二割ほどを、政略的<ruby><rb>情夫</rb><rt>ひも</rt></ruby>の手數料として自分の懷へ入れるだけであつた。即ち主人は、二十圓ほどを失つて、百圓ほどの借金をおきみの身に<ruby><rb>背負</rb><rt>せお</rt></ruby>はせた勘定であつた。

「あと半年すりや、俺ア師匠の名をつぐんだぜ。そしたら新宿の新歌舞伎座で、大々的襲名<ruby><rb>披露</rb><rt>ひろう</rt></ruby>の看板を掛けて、一ヶ月ぶつ通して語ることになつてるんだ。ね、さうなりや、死んだ雲右衞門ぢやねえが、一晩千兩は樂にこのポツポへ入つて來らアね。」

長さんは、おきみへよくそんなことを言つて、今、自分へみつぐことは<ruby><rb>蝦</rb><rt>えび</rt></ruby>で鯛を釣るやうなものだ、と大眞面目な顏をした。そしてそんな時は必ず裏へ𢌞つて、主人との<ruby><rb>共謀搾取</rb><rt>きようぼうさくしゆ</rt></ruby>を行なつていたのであつた。

それが積つて三百圓ほどになつたのである。主人はこれだけおきみの身に背負はせるのに、僅か五六十圓を長さんの手に渡したに過ぎなかつたのである。

かういふ世界でのザラにある手であつたが、おきみは、主人からさう言はれる迄、夢にもこれを知らなかつたのである。

おきみはカツとなつて叫んだ。

「あたし……そんなお金知りません！」

さう叫ぶと、おきみは、ワーツと氣違ひのやうに泣き出した。泣きながら疊の上をころげ𢌞つた。

主人もそれには手をつけられず、遠くから長い棒切れで恐い蟲でも<ruby><rb>制</rb><rt>おさ</rt></ruby>へるやうに、

「まア〱、おとなしくしなよ。表へ人だかりがするぢやねえか……」

さうして主人は、自分の手に負へないと知ると、第二段の手を用ひた。それは長さんをして<ruby><rb>脅迫</rb><rt>けふはく</rt></ruby>させることであつた。只の女を買はして貰つてゐる上に金を貰つてゐるこの種のひもは、こんな場合には命がけの仕事でもする。この點、おきみを初めてこの世界へ誘ひ込んで來たあの辰つアんと少しも變りがなかつた。

次の夜であつた。長さんは<ruby><rb>短刀</rb><rt>ドス</rt></ruby>をふところに呑んで來て、二階の五角の座敷へおきみを呼んだ。そしておきみの手首をねぢ切るやうに掴んで、

「おい、ぐづ〱言はずに、さつさと住み替へたらどうだ！」と、その<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ口を、おきみの鼻面へ持つて來た。

おきみはすくみ上つた。唇をふるはして、凍死者のやうに動けなくなつてしまつた。

## 七

その夜半、おきみは二階の三角の部屋で、周三のからだに絡みついて、息が止まるほど泣いた。聲を出せば階下の主人夫婦にきこえるので、聲を殺さうとすると、その苦しさで、からだ中が<ruby><rb>窒息者</rb><rt>ちつそくしや</rt></ruby>の<ruby><rb>斷末魔</rb><rt>だんまつま</rt></ruby>のやうに波打つた。

周三はハラ〱しながら、おきみのからだを引き寄せては抱きしめ、引き寄せては抱きしめた。そして、

「どうしたのだ？　ね、どうしたのだよ！」

と繰りかへし訊いた。

が、おきみはこの理由を一言も言はなかつた。そのうちに、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に詰る涙に<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>びながら周三の膝の上へ訴へた。

「あたし、今まで、みんなあなたのために生きてゐるのだけど、今日からは、あなたがあたしのために生きて下さいね。……あたし、……あたし……このまゝ死んだら、死んでも死にきれない。……あなたさへゐれば、あたしは殺されても生きかへつてやります。そして、きつと、きつと、この仇を取つてやります……」

曾ては、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すかんぽ</span>の<ruby><rb>莖</rb><rt>くき</rt></ruby>のやうに水々しく美しかつたおきみのうなじも、今はどす黒く痩せて、カサカサに乾いてゐた。周三はそのうなじを抱きしめながら、一生懸命、何か言はうとしたが、これも涙がこみ上げて來て、なんにも言へなくなつてしまつた。

<ruby><rb>蟋蟀</rb><rt>こほろぎ</rt></ruby>がよく鳴いた。その聲が二人の胸にしみ通つて來た。――二人はその夜、一睡もしなかつた。

その翌々日である。おきみは、このＴ私娼窟から、Ｋ私娼窟の方の<ruby><rb>新龜</rb><rt>しんかめ</rt></ruby>といふ家へ、前借四百圓で住み替へさせられてゐたのである。一切、長さんの仕事であつた。

が、長さんの仕事を<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>つたものに、倉田の主人夫婦と、もう一人、あの奇怪な魔力を持つた妖婆がゐたことを忘れてはならない。

さうして、おきみの生き餌としておきみと共にＫ私娼窟へ移された周三は、天神樣の裏手の煙草屋の二階の四疊半へ押し込められた。こゝに移されてからの周三は、生き餌であると同時に、完全な人質となつたのである。あの妖婆によつて、この二人の前科――逃亡癖を持つた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くせ</span>者であることを知つた新龜の主人は、二人の逃亡の豫防策として、煙草屋の主人と共謀し、周三の毎日の行動を一つ〱<ruby><rb>監視</rb><rt>かんし</rt></ruby>し、<ruby><rb>束縛</rb><rt>そくばく</rt></ruby>したのであつた。（一方、おきみに對する監視と束縛の嚴しさは言ふまでもなかつた。）これは、おきみの身に投じた四百圓の資本を守るための卑怯にも巧妙な鐵條網であつた。

おきみは、風呂へ行くにも、髮ゆひに行くにも、いち〱おかみに附かれてゐた。またそのおかみは栗鼠のやうにチヨコマカしてゐた。

周三は、おきみに會ふにも勝手には出來なかつた。朝、おきみが店へ坐る前の僅かの時間を、それも主人と主婦が坐つてゐる茶の間で、監視つきの面會だけが許された。

「それで物足りなかつたら、まアお客になつて泊りに來るがいゝさ。」

主人は、干からびた茄子のやうな顏に<ruby><rb>狡猾</rb><rt>かうくわつ</rt></ruby>な薄笑ひを浮べて、周三へさう言つた。お客になつて泊るといふことは、泊り込み料×圓を現金で支拂へ、といふことなのだ。<ruby><rb>搾取</rb><rt>さくしゆ</rt></ruby>するに相手を選ばない點では、こゝの主人は、Ｔ私娼窟の倉田の主人よりはるかに徹底してゐた。

周三は、自分の妻と一緒に寢るために金を支拂はねばならないのである。その金こそ、妻の身を賣つて得た金ではないか。妻を賣つた金で妻を買ふ。その買つた金はまた妻の借金となる。こんな馬鹿馬鹿しいべら棒な話がこの世にあらうか。全世界のあらゆる社會層の中で、かういふ不可思議な取り引きを強ひるものは、女の肉を切り賣り切り買ひし得るこの社會のみであらう。

しかし周三とおきみが、二人だけの夜を得るためには、二人だけで話し合ふためには、この馬鹿馬鹿しいべら棒な話を敢へて實行しなければならなかつたのである。二人はいやでも、何故、かういふべら棒な事實があり得るのかを考へさせられた。それは、金といふものに絶對權があるからだ、と<ruby><rb>解釋</rb><rt>かいしやく</rt></ruby>して見た。だが、金はなぜこの絶對權を持つてゐるのか、この絶對權を與へたものは誰であるか、何であるか、そこまで考へて行くと、二人には何の解釋もつけられなかつた。只、金を通して、金の周圍に、すばらしい、同時にえたいの知れない不可思議な力を持つたからくり人形が、どし〱と<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>高く<ruby><rb>濶歩</rb><rt>くわつぽ</rt></ruby>してゐるのを感ずるだけであつた。そして二人はその跫音に耳を塞ぎ、身を縮めるより外はなかつた。

「どうする？」

「逃げるしかないわ。」

二人は、二人だけの夜にありつくと、この一言づゝの會話を幾度となく繰り返した。金を取り卷く<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>に<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えながら。

だが、彼等二人の周圍に張り渡された鐵條網から、彼等はいかにして脱出すべきか。彼等は、信州の方の遊廓から逃亡した時のことを思ひ出した。それは全く命がけの仕事であつた。しかし今、この中から脱出することは、命がけどころではなく、脱出即ち死であるやうに思はれた。事實またさうであつた。

Ｔ私娼窟の有機的<ruby><rb>細胞</rb><rt>さいばう</rt></ruby>組織は、このＫ私娼窟に於ては更らに巧妙に完備してゐたからであつた。殊に、おきみの買はれている新龜の家のある場所は、その一年前、新しく開けた一廓で、一間の路地々々はコンクリートでかため、その路地々々の出口の兩側には必ず、お目附役を兼ねる商店が並んでそれぞれの關所をつくつてゐたばかりでなく、春夏秋冬を通して、<ruby><rb>徹宵</rb><rt>てつせう</rt></ruby>、ひつきりなしに𢌞つてゐる幾組かの火の番は、私娼達の逃亡をも見𢌞つてゐるのであつた。むしろそれが本職であつた。そして一度、私娼の逃亡を見つけたなら、<ruby><rb>野良猫</rb><rt>のらねこ</rt></ruby>を捕へたやうに、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つて蹴つて縛り上げて、元の家へ引きずつて行くのが極りであつた。

かくて、この一廓からの逃亡は絶對に不可能といつてよかつた。

然らば前借をきれいに<ruby><rb>返濟</rb><rt>へんさい</rt></ruby>しきつて、大手を振つてこゝを出て行けるまで、この<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>に働くとするか。だが、その時はいつ來るか。それは恐らく永遠に來ないであらう。來るものは死だけであらう。

この中にゐても死、脱出しても死である。

「同じ死ぬなら、脱け出して殺された方がいゝわ」おきみはさう言つた。

「さう無茶なことをいふな。こゝしばらく落ちついて、みんなに安心さしといて機會をねらつた方がいゝよ」周三はさう答へた。

が、それから一月過ぎてもその機會は來なかつた。そればかりか、五日に一度は、例の長さんがやつて來て、ふところに呑んで來た短刀を疊の上につき差して見せたりしては、おきみの逃亡を<ruby><rb>脅迫</rb><rt>けふはく</rt></ruby><ruby><rb>豫防</rb><rt>よばう</rt></ruby>した。

さなきだにやつれ衰へて來たおきみの身體は、この監視、この束縛、この脅迫のために<ruby><rb>困憊</rb><rt>こんぱい</rt></ruby>するばかりであつた。そして梯子段を上り下りするだけで、息が切れるやうになつた。

## 八

と、更に一と月して、思ひがけなく、脱出の機會が<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>めさうな事態が生れて來た。それは、その頃、同じＫ私娼窟内から住みかへて來た女、清ちやんの變事に絡まるものであつた。

清ちやんは、或る<ruby><rb>秋雨</rb><rt>あきさめ</rt></ruby>の降る夕方、一人の男につれられてこの新龜へ來た。彼女は泣き<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>らした目を伏せて、臺所の板の間にぢつと坐つてゐた。

「そこは冷えるでせう、こつちへいらつしやいよ。」

おきみがさう言ひかけながら傍へ寄つて行くと、彼女はまたワーツと聲をあげて、板の間へつゝ伏してしまつた。

その夜更け、主人夫婦が寢しづまつてから、

「そんなに<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>いことがあるの？」さう、おきみは聞いて見た。と、清ちやんはまた涙を一ぱいためて、惡い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>に附かれて、二百圓あまりの借金を背負はされてしまつたことを話した。

おきみは、自分も同じ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>に掛けられていることを話して、心から清ちやんへ同情した。

清ちやんは昂奮して、

「あたし、あんたを姉さんと呼ぶわ、だからあたしを妹だと思つてね」と言つた。

まだやつと十六だといふ、色の白い、髮のやはらかい、ふつくらとした顏の、<ruby><rb>鳳仙花</rb><rt>ほうせんくわ</rt></ruby>のやうな娘であつた。それが呼び込み口に坐つて客を呼んでゐる姿は、あまりに痛々しかつた。しかも彼女は、夜、泊り込みを<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まないうちは、主人の嚴命通り、正直に、夜明かししてでも客を呼んでゐた。

「清ちやん、いゝ加減で寢なさいよ。」

おきみが姉さんらしくさう言ふと、清ちやんはまた涙ぐんで、

「でも、しかられるわ」といつも答へた。

さういふ女であつただけ、新龜の主人夫婦は、清ちやんの行動に對してはそれほど嚴しい束縛を加へなかつた。それに、彼女に<ruby><rb>手枷足枷</rb><rt>てかせあしかせ</rt></ruby>をはめてゐる政略的<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>はあつても、彼女を逃亡させようとする<ruby><rb>情夫</rb><rt>ひも</rt></ruby>は一人もなかつたのだ。

主人は、彼女の一人歩きにも可なりの自由を與へた。<ruby><rb>所詮</rb><rt>しよせん</rt></ruby>は紐に結はへられた猿の自由であつたが。しかし彼女はその自由を利用しようとはしなかつた。いつも、三尺四方の呼び込み口に坐つて、薄暗く靜まつてゐた。そして、どうかすると、呼び込み窓へ額を<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せて、すう〱と眠つてゐた。客を取つた後などには、呼び込み口へ坐るなり、打ちのめされたやうになつて眠つてゐた。

「清ちやん、そんなことをしてゐるなら、二階へ行つて寢たらどう。」

おきみがまたさういふと、

「でも、しかられるわ」と彼女は答へた。

「だつて、からだを<ruby><rb>毀</rb><rt>こは</rt></ruby>しちやうぢやないの、こんな寒いところに眠つてゐたら。」

「どうせもう、こはれてゐるのよ。」

果してそれから四五日した夜、清ちやんは、呼び込んだ客を二階へ上げようとして、梯子段の中途から轉げ落ちてしまつた。眞白くなつた唇を喰ひしばり、泡を吹きながら、からだ中をガク〱<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>はした。

「清ちやん、清ちやん！」

おきみは夢中で叫びながら、そのからだを抱き上げ、茶の間へつれて行つて寢かした。が、この時の彼女の心臟の<ruby><rb>鼓動</rb><rt>こどう</rt></ruby>は殆んど止まつてゐた。

主人もさすがに慌てた。彼は、清ちやんのからだを<ruby><rb>背負</rb><rt>せお</rt></ruby>ひ上げると、近くの病院へ運んで行つた。この病院が、もう少し遠く、醫者の手當てがあと五分間おくれたなら、清ちやんはもう死んでゐたに違ひなかつた。

カンフルの注射で、清ちやんの心臟はとにかく動き出した。

この病院は、この私娼窟<ruby><rb>專有</rb><rt>せんいう</rt></ruby>の病院のやうなもので、こゝの院長は、Ｔ私娼窟のあの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なまづ</span>のやうな醫者と同樣、私娼經營者の味方ではあれ、私娼の味方では決してなかつた。頭の先から爪先まで完全に買収されてゐた。

病院といへば、材木倉庫のやうなバラツク建で、内部は、一間の廊下をはさんで、二十疊ほどの疊敷の部屋がいくつか並んでゐた。それは柔道の道場のやうにガランとしてゐた。

この一つの部屋の中に、六七人の患者が、思ひ〱の方向に向いて寢てゐた。みんな私娼窟の女であつた。病氣は、大部分、肺病と性病であつた。

清ちやんは、内膜から外膜を<ruby><rb>冒</rb><rt>おか</rt></ruby>され、最後に激烈な腹膜をやられた患者として、この部屋の隅へ収容されたのであつた。これは、九十パアセントまでは性病に冒されてゐるといふ私娼のからだに、當然の結果として現はれる病氣であつて、この病院内で死亡するものの半數以上は、この病氣に依るものであつた。

もう秋も末になつてゐた。そして、じめ〱した薄暗い部屋の空氣は、さま〲の藥品の匂ひに濁されて、避病院内のやうな臭氣が、部屋の隅々までぢつと<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んでゐた。清ちやんは、さういふ中に<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>のやうに白い顏を横たへて、辛うじて<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をつゞけてゐた。

言ふまでもなく、附き添ひの看護人が必要だつた。新龜の主人は、その看護人として、おきみの良人、周三を引つ張つて來た。煙草屋の二階へ置いとくよりも、この病院へ入れとく方が、人質としても更に完全な人質とすることが出來たからであつた。周三は、清ちやんの枕元へ、<ruby><rb>木偶坊</rb><rt>でくのばう</rt></ruby>のやうにぎごちなく坐つて、終日、ぼんやりとしてゐた。

周三がさうして囚はれてゐるためか、おきみは、二日に一度は、この病院の清ちやんを見舞ふことを主人から許された。おきみは清ちやんを、ほんたうの妹の如く愛する心から、清ちやんの好きなドロツプを買つては訪ねて來たが、一つは、そこで周三と顏を合せることに依つて、逃亡の機會を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まうとしていたのであつた。が、その機會は全く與へられなかつた。醫者や看護婦達の目を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>むことは出來ても、同じ部屋の他の患者の目と耳を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>むことは絶對に出來なかつたからであつた。

院長は、毎日一度、午後三時頃、一人の助手と看護婦をつれて𢌞診に來た。頭が<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>てゐる上に、その天邊がキユーピーのやうに尖つてゐるので、みんなはキユーピー院長と呼んでゐた。彼は患者の枕元を、そつぽを向いて只ヅカ〱と通り過ぎるだけであつた。可なりの重症患者の所へ𢌞つて來ても、僅かに腰をかゞめて義理一片に顏を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き見るだけであつた。只その患者が、數百圓の前借を背負つてゐる場合は、その<ruby><rb>抱</rb><rt>かゝ</rt></ruby>へ主のため、その前借を殺してはならぬといふ義務から――女自身の命を生かさうとするのではない――割合に丁寧な見方をした。

「院長さん、苦しい。サンソを吸はして下さいよ。」

「院長さん、早く注射をして下さい。痛くつて死にさうよ。」

「院長さん、からだ中が焦げさうだよ。何とかして頂戴よ。」

だが、それらの訴へ聲が、僅かの前借か、無前借の女の口から出たものであれば、院長は、尖つた頭をふり向けもせずに部屋を出て行つてしまつた。

「馬鹿！　畜生！　<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>ひ殺してやるよ。」

「みんな死んぢまへ！　世界中の人間が死んぢまへ！」

「火をつけて燒き殺してやるよ。日本中、燒き拂つてやるよ！」

さういふ叫び聲が、院長の背中へ投げつけられた。しかし院長は、病人は一面狂人である、といふべら棒な見解から、それを平氣で受け流してゐた。

「一體、<ruby><rb>淫賣</rb><rt>いんばい</rt></ruby>なんて商賣を、だれが發明したんでせうね？」

そんなことを言ひ出す女もゐた。

「そりや、こゝのキユーピー院長見たいな人間さ。」

「それであたし達は、いくら稼いでも稼いでも借金がふえるばかりなんだね。」

「さうさ。先づ旦那にしぼられて、それから借金に卷き上げられて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>に取られて、衣裳代に取られて、罰金に取られて、税金に取られて、おしまひにこんな病院に取り上げられてしまふ。……骨も殘りやしないわ。」

「あゝ、早く死んぢまつた方がいゝ。」

「さうよ、死んだ方がよつぽど樂よ。地獄だつて、こんなぢやないわよ。」

みんなはそんなことを言ひ合つてゐるうちに、誰かゞワーツと泣き出す。と、それにつゞいて、そつちでもこつちでも泣き出す。

それは全く堪まらない絶望の叫びであつた。

## 九

かういふ中で、清ちやんは日に日に弱つて行つた。それは、冷たい<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>が、彼女の頭の上の窓に降り注いでは止み、降り注いでは止みしてゐる午後であつた。おきみが、いつもの通り見舞ひに來ると、清ちやんは、ふるへる手をおきみの方へ差し押べた。

「苦しいの？」おきみは、自分の顏を清ちやんの顏の上へ持つて行つて訊いた。

「……えゝ。」

「また注射をしてもらひませうか。」

「いや。」

「ぢや、<ruby><rb>酸素</rb><rt>さんそ</rt></ruby>？」

「どうしていやなの。」

「あたし、直りたくないの。」

「そんなことを言ふもんぢやありませんよ。」

「だつて、ほんたうにさう思つてるのよ。」そして清ちやんはぢつと目をつぶつてゐたが、「極樂つて、地の中にあるの？」と言つた。

「……さア、さうでせうね。」

「あたし、いくら極樂でも、地の中はいや。やつぱり天國がいゝわね。ひろ〲と<ruby><rb>晴々</rb><rt>せい〱</rt></ruby>してゐて……あたし、この世で地獄ばかりにゐたんだから、死んだらせめて天國へ……」さう言ひかけて彼女は<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び出してしまつた。

「清ちやん！　清ちやん！」おきみは叱りつけるやうに叫んでゐたが、やがてこれも涙に<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を詰まらして默つてしまつた。

見てゐた周三は、只おろ〱しながら、立つたり坐つたりしてゐた。

その夜更けである。清ちやんは全く危篤に<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>つてしまつた。周三は、新龜の主人へ使ひをやつたが、主人は來ずに、清ちやんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>がやつて來た。物質的にも、肉體的にも蛇の如く<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みついて、彼女の肉と血を絞り喰らつて來た<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>である。二十七八歳の職人風の小男であつた。

その男は、蒼い顏を昂奮さして入つて來ると、<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>の股引をはいた膝をきちんと合せて、清ちやんの枕元へ坐り、

「清坊、清坊！」と呼んだ。

しかし清ちやんの耳はもう聞えなくなつてゐた。彼は部屋を駈け出し、宿直の醫者を呼んで來て、強心劑を注射さした。と靜まりかけてゐた心臟は思ひ出したやうにコト〱と動き出した。がそれも五分としないうち、<ruby><rb>毀</rb><rt>こは</rt></ruby>れた時計のセコンドが止まるやうに靜まつて來た。

「清坊！　清坊！」

その男は、膝頭を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みながらまた叫んだ。そして傍の周三へ言つた。

「これきりで死んぢやうのかねえ！」

そこへおきみが、ハア〱と息を切らしながら入つて來た。が、この時はもう清ちやんの心臟はぴつたりと止まつてゐた。

おきみはすつかり昂奮し、髮を掻きむしつて泣き出した。泣くといふよりは、からだ中でうめき叫んだ。その聲には、いつものおきみの聲が入つてゐなかつた。月に向つて<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>える犬の聲に似てゐた。周三は、そんな泣き方をするおきみを初めて見た。

おきみに取つては、清ちやんのこの死が、單なる清ちやんの死ではなかつたからである。それはもう自分の足元へもしのび込んでゐるものであつたからである。同時にそれは、自分と同じ地獄にうめいてゐるすべての女達の周圍を取り卷いて、隙を見れば飛びかゝらうとしてゐるものだからである。

清ちやんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひも</span>は、膝の上に頭を垂れて石のやうに固くなつてゐたが、これもやがて、ボロ〱と涙をこぼした。彼は、おきみと周三に向つて何か言はうとして、<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りにからだをもぢ〱さしてゐたが、やつとのことで、

「こ、こ、かうなりや、あんた達がやりなせえ」と、どもりながら言ひ出した。

「かうなる前に、<ruby><rb>清坊</rb><rt>きよばう</rt></ruby>を逃がしてやりやよかつたんだが、もう間に合はねえ。せめてもの罪ほろぼしに、あんた達に加勢しやす。後の始末はわつしが引き受けやすから、今すぐこゝからずらかつちやいなせい。」

この男は、おきみ達が逃亡を<ruby><rb>企</rb><rt>くはだ</rt></ruby>てゝゐたことを既に感づいてゐたのである。

周三は、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>に<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて來たこの男の<ruby><rb>義侠心</rb><rt>ぎけふしん</rt></ruby>に對し、ひそかに昂奮し、感謝した。長い間ねらつてゐた脱走の機會が、こんな場合に突然めぐつて來るとは夢にも思はなかつたからである。

けれど一方、清ちやんの死に依つて生命の根柢からぶち<ruby><rb>毀</rb><rt>こは</rt></ruby>されたやうになつてゐるおきみは今、思ひがけなく與へられたこの機會に對して、殆んど何の昂奮もしなかつた。ばかりか、その話も耳に感じないかのやうであつた。

と、その男はまた言つた。

「ぐづ〱してちやいけません。新龜の旦那か長さんでも來たらおぢやんだ。外までわしがつれてつて上げるから、一人づゝわつしの後について來なせえ。」

「おい」周三はおきみの肩をゆすぶつた。「しつかりしなよ。さつさと立つて出て行きなよ。」

そして周三はおきみの手を取つて、廊下へつれ出し、

「天神樣の前を右へ、それから川に沿つて左へ、二つ目の橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で待ちあはせるのだ。わかつたか！大丈夫か！」

周三はそれからまた一方の男の耳へ囁いた。

「こゝの醫者や看護婦に感づかれやしませんか？」

「そんな心配はいらねえ、わつしがついて出るんだから。」

そこでその男は、おきみを前に立て、煙草に火をつけ、悠々とふかしながら、いかにもおきみの行動を<ruby><rb>監視</rb><rt>かんし</rt></ruby>するかのやうにして病院の玄關を出た。

間もなくその男は一人で引きかへして來た。そして廊下から、清ちやんの枕元に坐つてゐる周三へ目くばせをした。周三は立つて部屋を出た。

二人が廊下の突き當りの階段を降りかけた時であつた。逃げた筈のおきみが、ふら〱と階段を上つて來る。おや！　さう二人が思つた瞬間、二人の目には、おきみの後から上つて來る長さんの姿が映つた。

「おい、松公、柄にもねえことをするなよ。」

長さんは、さう言ひながら、おきみの先へ出て階段を上つて來た。そして松公と呼んだその男の前へ立ち<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がると、例の<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ口を思ひきり<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>まして、

「だれの許しを受けて、こいつらをずらかさうとしたんだ？」

「だれでもねえよ。」

松公はさう答へて、長さんの鼻先へ顎を突き出した。

「ちえツ……まア外へ出ろ！」

「へん、どこへでも行くよ。」

二人は、階段を下りて行つた。

さうして五分とたゝない時であつた。清ちやんの枕元に坐つてゐる周三のところへ、おきみが泳ぐやうにして走り込んで來た。

「あなた、大變よ！　大變よ！　はやく逃げなさいよ。あの二人が往來で切り合ひをしてゐる。」

周三は、<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>られたやうに立ち上つた。おきみはまた叫んだ。

「あの男が、長さんの短刀で、からだ中、まつ赤に切られちやつた。あの男は、お腹からはみ出した腹わたを片手でぶらさげて……」

それは<ruby><rb>搾取者</rb><rt>さくしゆしや</rt></ruby>のからくりの<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>に自分から引つ懸かつた中間搾取者共の滑稽な悲劇であつた。

周三はその場へ行つて見ようとした。

「あなた、どこへ行くのよ。長さんは、こんどはあなたを殺しに來るよ。はやく、はやく逃げて下さいよ。」

さう言はれると、周三は急に慌て出し、

「あゝ、さうか、どこへ逃げよう？」

「遠くへ、出來るだけ遠くへ。」

「だから、どこへ？　場所をきめろ」さう言ひながら周三は<ruby><rb>廊下</rb><rt>らうか</rt></ruby>へ來て、その奧の非常口の方へ歩いてゐた。

「……新宿の、いつかの木賃宿。」

「よし、わかつた。後からお前も來るんだぞ。」

周三は、非常口の階段を、夢中で病院の裏庭へかけ下りた。表の切り合ひで病院中の人間が湧き立つてゐるので、周三の逃亡はだれにも氣づかれなかつた。

## 十

周三は、新宿旭町の宿、マルマンの三疊へ落ちつく間もなく、一人の警官に踏み込まれ、

「ちよつと派出所まで來たまへ」と言はれた。

周三はギクリとした。Ｋでの切り合ひ事件の參考人として調べられるのか？　それにしてもどうしてこんなに早く足がついたのだらう。

周三は不安な不審に包まれながら、近くの派出所へ連行された。

警官は、電話で本署と打ち合せをした。周三は氣取られないやうに、要點には觸れずに話してゐたが、先方の言葉へうつかり<ruby><rb>鸚鵡返</rb><rt>おうむがへ</rt></ruby>しに返した言葉に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">上田</span>といふ一言が入つてゐた。周三はすくみ上つてしまつた。

彼は、さつきの切り合ひ事件に關したこととばかり思ひ極めてゐたので、この不意打ちには全く面喰らつてしまつたのである。

「さア來た！　遊廓の逃亡がばれやがつた！　爆彈が<ruby><rb>破裂</rb><rt>はれつ</rt></ruby>しやがつたぞ！」

旭町の宿マルマンへは、この春、周三とおきみがそこを引き上げると間もなく、<ruby><rb>搜索</rb><rt>そうさく</rt></ruby>の手が入つたのであつた。そして再び周三の姿を見たなら、直ちに本署へ密告するやうマルマンは嚴命されてゐたのであつた。

一時間の後周三は本署へ連行された。そしてすべてを告白させられてしまつた。おきみが現在どこにどうしてゐるかを。

「それでよろしい」一人の刑事は一枚の電報を見せながら言つた。「この電報通り、上田市のＭ樓から、君の女房の取り押さへ方を依頼されてゐるのだから、こちらはそいつを先方へ渡せばいゝだけのことだ。君には大して迷惑のかゝることではあるまいから安心したまへ。しかし今晩はこゝへ泊つて貰はうぜ。」

周三は、翌朝になつて、留置場を出された。彼はその足で、Ｋ町まで圓タクを飛ばした。しかし、さうして行つて見るまでもなく、おきみは前夜のうちに拘引されてゐた。

おきみは、最初は、長さんと松公の切り合ひ事件の關連者として引つ張られたのであつた。そこへ、周三からの自白に依つておきみの在りかを知つたＹ署から、その<ruby><rb>捕縛方</rb><rt>ほばくかた</rt></ruby>の依頼があつた。おきみは前後から<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>み打ちを喰つたのである。おきみは直ちに調べ室から留置場へぶち込まれてしまつたのであつた。

一人殘された周三は、この場合自分をどう處置すべきか、まるで見當を失つてしまつた。

――とにかくおきみに會はして貰はう。

それだけを考へながら周三はＫ署へ急いだ。彼は刑事部屋まで入ることを許された。そこには、<ruby><rb>瓢箪</rb><rt>へうたん</rt></ruby>のやうに出張つて<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>たおでこを持つた男と、<ruby><rb>厚司</rb><rt>あつし</rt></ruby>を着た赤髯の男とが將棋をさしてゐた。

「お願ひがありますが……」

「何だ？」<ruby><rb>厚司</rb><rt>あつし</rt></ruby>が言つた。

「面會さしていたゞきたいのです。」

「だれだ？」

「おきみといふ女です。」

「駄目だよ。あいつは淫賣だ。」

「ちよつとでいゝんですが。」

「なアるほど」と××が言つた。周三は次の言葉を待つた。と、それは將棋の方のことで、××は腕を組んでしばらく考へてゐたが、その大きなおでこをぎりゝと周三の方へ向け、

「うるさい、かへれ！」と<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>ま〱しさうに呶鳴つた。

周三は、取りつく島もなかつた。

その夜周三は、千住の木賃宿へ泊り、翌日の夕方、旭町のマルマンへ行つて見た。おきみが周三へ何かの通信をするなら、この宿宛てにするしかなかつたからであつた。この宿だけが辛うじて二人の引き破られた心と心とを仲介するものであつたからだ。だが、何の便りも來てゐなかつた。

その翌日も行つて見た。が、やつぱり徒勞に終つた。さうして周三は四日ほどの<ruby><rb>徒勞</rb><rt>とらう</rt></ruby>を重ねた後、やつとおきみの手紙を手に入れることが出來た。その手紙の中には十圓札が二枚ほど入つてゐた。そして、鉛筆の走り書の紙片が入つてゐた。Ｋ警察から、前橋の警察の手に渡されたこと、それから、曾ておきみを信州上田のＭ樓へ<ruby><rb>周旋</rb><rt>しうせん</rt></ruby>した大阪屋といふ口入屋の手に渡されたこと、今はその家に<ruby><rb>監禁</rb><rt>かんきん</rt></ruby>されてゐること、だが周三がそこへ訪ねて來ることは、生命に<ruby><rb>關</rb><rt>かゝ</rt></ruby>はる危險にぶつかるかも知れぬから、おきみの方から、知らせがある迄は絶對に來てはならぬこと。

「……それまでは、封入の金で暮してゐて下さい。かうなればあたしはもう棄て身です。殺されるまでたゝかつてやります。だからあなたも、決して絶望せぬやう、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけ</span>にならぬやう、これだけは、くれぐれもお願ひします。あたしのために飽くまで強く生きて下さい……」

おきみのからだが、上田市のＭ樓へ引き渡されずに、どうして前橋の大阪屋へ引き渡されたか？

すべて遊廓では、一度逃亡した女は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きず</span>玉として、自分の所へ引き取ることは決してせず、それを周旋した口入屋の手に渡すことになつてゐる。周旋屋では、一人の女のために、大事なお得意を棒にふることは堪へられないので、その女が遊廓へ掛けた<ruby><rb>損失</rb><rt>そんしつ</rt></ruby>を負はねばならない。で、大阪屋の場合も、おきみがＭ樓で踏み倒した八百五十圓は、大阪屋の責任となつて、大阪屋はそれだけの金をＭ樓の方へ<ruby><rb>返濟</rb><rt>へんさい</rt></ruby>してゐた。だから今は、おきみとＭ樓との關係は絶たれて、大阪屋との直接關係となつた。大阪屋は、おきみのからだをもう一度轉賣することに依つて、失つた八百五十圓を取り戻さねばならない。おきみのからだが、大阪屋の手に渡されたのはその爲めだつたのである。

前橋のＫ町、そこは高崎のＹ町と同じ組織の賣春屋で充たされてゐた。群馬縣は日本唯一の廢娼縣として誇つてゐるが、それは同時に日本第一の私娼窟を<ruby><rb>繁殖</rb><rt>はんしよく</rt></ruby>せしめた縣としてまた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">誇る</span>べき土地である。大阪屋の家は、かういふ私娼窟が軒を並べてゐるＫ町の中に、待合風な小綺麗な玄關を持ち、横手には白壁の土藏を持つて、いやに森として構へてゐた。

大阪屋は、××からおきみのからだを受け取つてこの家へ連れて來ると、先づ言つた。

「お前の亭主は、昔のまゝ、お前のからだにぶら下つてゐるのかね？」

「…………」

「そりや念を押す迄もないが、もしもあの男をこゝへ呼び寄せるやうなことをしたら、お前の逃亡を導いたもの、つまり犯罪<ruby><rb>教唆罪</rb><rt>けうさざい</rt></ruby>として、赤い服を着せてやりますよ。でなければ、がんじがらめにして、この利根川の底へおつぽり込ませてやりますよ。」

「あの人に、あの人に罪はありません」おきみはせき込んで答へた。「お女郎屋から逃げ出したのは、みんなあたし一人でしたことですから。」

「とか、なんとかおつしやいましても、世間には通らぬ話だ。尚更ら××へは通らぬ。ほんたうなら、お前のからだを引き取ると一緒に、あの男は刑務所の方へ引き取つて貰はうと思つたのだが、まアまアこんどだけは<ruby><rb>勘辨</rb><rt>かんべん</rt></ruby>してあげたんだ。」

「いゝえ、あの人には何の罪もありません、あの人は……あの人は……」

おきみは、目を引きつらして大阪屋へ刄向つて行つた。

「さうむきにならんでもいゝよ……ともかく氣の鎭まるまで、あちらでゆつくりとからだを休めるがいゝ。わしは、一度かうと言ひ出したなら、<ruby><rb>金挺</rb><rt>かなてこ</rt></ruby>でも動かない男なんだから、さうして、もくろんだことは火の中をくゞつてもやり遂げる男なんだから、よく〱考へてからものを言ふがいゝよ。」

さう言つて大阪屋はニタ〱と笑つた。その顏は、兩のかん骨が飛び出し、その間の凹地に盛り上つた鼻の頭が白く<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げてゐて、その下に大きく裂けた口を結んで默ると、まるで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しやれかうべ</span>の相となつた。

おきみは、見てゐるうちにからだ中がゾク〱して來た。それは、曾て、Ｔ私娼窟で、おきみの咽喉元を絞めるやうなことをしたあの奇怪な妖婆が、再び目の前に現はれたやうに感じたからであつた。違ふ所は、老婆が老爺になつただけであつた。上田の<ruby><rb>遊廓</rb><rt>いうくわく</rt></ruby>へおきみを賣り込んだ當時の大阪屋からは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さそり</span>のやうな小汚ない<ruby><rb>狡猾</rb><rt>かうくわつ</rt></ruby>さを感じたのであつたが、今は、生きながら人の生血を吸ひつくす毒蛇の貪慾さを感じさせられた。

大阪屋は、凹んだ<ruby><rb>眼窩</rb><rt>がんくわ</rt></ruby>の底に青白く光る目を、ぢつとおきみの面に注いでゐたが、やがておきみを無理に立たして座敷から廊下へ引き出した。その廊下は三度ほど曲つて、急に暗くなつた。突き當つたところは、土藏の入口であつた。大阪屋は、その入口の鐵の扉を音もなく開けた。しめつぽい冷たい空氣が、スーツと流れて來た。

おきみは、その中の二階座敷へ引き上げられたのである。鐵格子のはまつた三尺四方の窓が南に向いて一つあるきりの六疊の座敷であつた。

「こゝだと、誰に遠慮もいらぬ。手足をのばして、よく休むがいゝ。」

さう言つて、大阪屋の例のしやれかうべの顏をニタリと笑はせ、そして梯子段を下りて行つた。と間もなく外から扉に<ruby><rb>錠</rb><rt>じやう</rt></ruby>を下す音が、ピーンとひゞいて來た。

## 十一

おきみは、例の妖婆の家の二階の一室に監禁されて、殆んど死ぬばかりになつてゐた<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>のやうな女を想ひ出した。そして、その女の運命が、今、自分へ𢌞つて來たことを思つた。

しかし、これを運命といへるだらうか。

――運命ではない、運命ではない！

おきみは階段を下りて行つた。鐵の扉を力一ぱい押して見た。からだでぶつかつて見た。が、扉は動きもしなかつた。

二階へ上つて來た。鐵格子へ掴まつて、腕の脱けるほどゆすぶつた。からだをぶら下げた。が<ruby><rb>格子</rb><rt>かうし</rt></ruby>は、ミシリともしなかつた。

つひに彼女は、へと〱になつてしまつた。そして、疊の上にばたりと倒れて、打ちのめされた蟲のやうに、力のない息をつゞけてゐた。

梯子段を上つても息が切れるほどに弱つたのは、もう二三ヶ月前のことであつた。そこへこの三日間ほど、おきみは、夜もろく〱眠らされず、まるでぼろ布の如く持ち運ばれたので、今は<ruby><rb>精</rb><rt>しやう</rt></ruby>も<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>も全く盡き果てゝゐた。額が妙に鋭く尖り、目だけがギロリと飛び出してゐる。――その夜おきみは、惡夢に襲はれながら、コン〱と眠りつゞけた。

その翌日の午後であつた。おきみは、大阪屋の奧座敷へ引き出され、四人の男から、賣り物としての價値を鑑定された。おきみは今まで、幾度か轉賣されて來たが、四人もの男から値ぶみされることは初めてであつた。

四人とは、大阪屋と、升屋といふ同業者と、えたいの知れない老人と、瀬下屋といふ料理屋の主人とであつた。彼等はおきみのからだをぐるりと圍んで、まるで廢物のせり賣りのやうに始めた。

「わしが見たところぢや、きず玉もきず玉、ひでえきず玉だから、まアせい〲百圓といふところだね。」

料理屋の主人<ruby><rb>瀬下屋</rb><rt>せがや</rt></ruby>は、張り子の虎のやうに首をふりながらさう言つた。

「冗談いつちや困ります。そりや東京で二三年働いてはゐたが、何も淫賣屋にゐたといふわけぢやねえし……」

大阪屋は、鋭い目を光らしながら言つた。

「それぢや、どのくらゐで話をつけようてんだね？」

えたいも知れない老人は、<ruby><rb>顎髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>をしごいて大阪屋を顧みた。

「左樣、少なくも千兩ですな。」

「御冗談でせう。」<ruby><rb>瀬下屋</rb><rt>せがや</rt></ruby>は冷笑しながら、

「それぢや話にも何んにもなりやせんや。」

「さう言はずに、何とか歩み寄つたらどうだね。千兩もちと<ruby><rb>高</rb><rt>たけ</rt></ruby>えやうだが、百兩もあんまり可哀相だね。」

同業者の升屋がさう口を入れた。

「ぢや、九百圓まで我慢しませう。」

「いや、百圓がせきの山です。」

「ぢや、八百五十兩。」

「いや、百圓。」

「ど、ど、どつこいさうは參りません。八百五十兩より<ruby><rb>鐚</rb><rt>びた</rt></ruby>一文も引いちや賣れません。」

大阪屋は、口から泡を飛ばして頑張つた。

これ等の會話を隣室から聞いてゐたら、一匹の牛か馬の賣買としか聞えないであらう。

おきみは頭を垂れ、兩手を膝の上に置いて身動きもせずに坐つてゐたが、周圍の四人の<ruby><rb>貪慾</rb><rt>どんよく</rt></ruby>に輝く目にぎゆつと睨められてゐると、見てゐる間に、からだ中の血液が吸ひ取られてしまひさうに思はれた。おきみはもう、無言の反抗に依つて辛うじて自分を主張するしかなかつた。

賣買の話は結局不調に終つた。

大阪屋は再びおきみを土藏の二階へ引きずり上げた。彼もすつかり疲れ、おきみを前にして、がたりとあぐらをかき、せい〱と肩で息をしてゐた。羊をこゝまでくはへては來たが、もう喰ふ力もなくなつた老いぼれの狼のやうに。

が、翌日になると、大阪屋はまたおきみをその部屋から連れ下し、奧座敷の眞中へ坐らせた。そこには、おきみの新しい買ひ手である高崎の銘酒屋の主人と、一人の<ruby><rb>女衒</rb><rt>ぜげん</rt></ruby>とが坐つてゐたのである。

「この通り<ruby><rb>年齡</rb><rt>とし</rt></ruby>もまだ若いし、客ずれもしてゐない、ほんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うぶ</span>なんですからね。」

大阪屋は、二人の相手の顏をいら〱と見較べながら言つた。

「いやどうも」と、かまきりのやうな三角な顏をした<ruby><rb>女衒</rb><rt>ぜけん</rt></ruby>は額を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でた。「これぢや話がてんで違つてまさア。」

「全くだ」と、銘酒屋の主人もさも汚物でも見るやうに頬をしかめた。「大阪屋さんも、人が惡くなりやしたねえ。」

「そいつア御挨拶だね。わしはもうこの商賣を始めてから十五年にもなり、何百人てえ女を手にかけてゐるんですぜ。それが、あんた達を相手に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">喰はせ</span>ようなどと考へられますかね。わしは、値だけのことしか言つてないんですよ。踏めるだけのことしか踏んでゐないんですよ。まアよく目を開けて、どつちからでも覗いてごらんよ。」

「<ruby><rb>冗談</rb><rt>じようだん</rt></ruby>いつちや困ります。わしも長い間女を抱へて來てやすが、こんなひでえ玉は始めてでさア。」

「ぢや、話にも乘つてくれないんかね？」

「乘るも乘らないもありませんや。そりやロハ同樣なら引き取らねえこともねえが。」

「一體、どれくれえまで踏みます。」

「さうさ、失禮だが、初めの話の一割だね。」

「と、いふと、五十兩？」

「へえ。」

「ば、ば、ばかな！」

大阪屋は吐き出すやうに言つたが、その顏は今にも泣き出しさうであつた。

結局、話はまた完全に不調に終つた。

その翌々日の夜であつた。おきみはまたも土藏から引き出された。そして、大阪屋の女房なのか女中なのか、えたいの知れない下卑た中老の女から、ぺら〱の<ruby><rb>錦紗</rb><rt>きんしや</rt></ruby>の着物と羽織を着せられ、更らに面をかむつたやうな厚化粧をさせられて、鹽原から來たといふ怪しげな男の前に坐らせられた。

東京のＴやＫの魔窟は、その周圍を取り卷く商店街との握手に依つて、恐ろしい毒液を持つた有機體をつくり上げ、その周圍に鐵條網を張り渡して、私娼達のからだを<ruby><rb>搾取</rb><rt>さくしゆ</rt></ruby>してゐたが、この地方へ來ると、それとはまた違つた細胞が、遠く廣くかすみ網のやうに掛け張られてゐて、このやうに、次ぎから次ぎと、新しい<ruby><rb>吸血</rb><rt>きふけつ</rt></ruby>獵人が現はれて來るのである。さうして、一旦網へ入れた女は、その命のつづく限り、轉賣しまた轉賣して、絶對にこの世界から逃がさない點は、東京の私娼窟と少しも變りがなかつた。

しかしこの地方のこの種の搾取者は、一方ではまた被搾取者でもあつた。資本主義制度の無數の段階は、この種の搾取者の世界をその最下層に壓し潰して置くだけ、彼等に與へられた搾取量は、最後の肉の一片、最後の血の一滴でしかなかつた。搾れるだけ搾り取つた最後の<ruby><rb>殘骸</rb><rt>ざんがい</rt></ruby>から、命がけの力で噛み取ることだけが許されてゐた。だから彼等は搾取するそのことだけに疲勞<ruby><rb>困憊</rb><rt>こんぱい</rt></ruby>してゐた。さうして大阪屋の現在の姿が、それを最もよく實證してゐたのである。

鹽原の男の前に出た今日の大阪屋は、<ruby><rb>困憊</rb><rt>こんぱい</rt></ruby>の果、むしろ殺氣立つてゐた。

「一匹の豚の子の賣買にも、掛け引きといふものはありますが、この玉は、一文の掛け引きなしの正札つきです。一聲できめちやつて下せえ。」

「左樣ですな、――止めときませう。」

相手の男は、プスンと言ひ切つた。

「何ですね、そりや？」

「これが手前の一聲ですよ。」

「そいつアあんまりひでえ一聲ですね。……いくらでも構はねえから踏んで見て下せえ。」

「いくら、などと値のつく代物ぢやありませんよ。」

相手は、それを蹴飛ばすやうに言つた。

大阪屋は、突きのめされたやうに、口を開けたなり、煙草の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やに</span>だらけの眞黒な齒を現はしてゐたが、急にベソ口になり、聲をふるはして、

「さう言はず、ねえ、助けると思つて引き取つて下さいよ。さつきも話したやうに、二三日中に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あれ</span>だけの金が出來なきア、わしはこの家にゐられなくなるんですからね。」

「そりやお氣の毒ですが、賣りものにならねえものを買つたところで仕方ありませんからね、ご免をかうむりますよ。」

大阪屋はぺしよりとなつて默つてしまつた。

しばらくして大阪屋は、そのしやれかうべのやうな顏をあげると、おきみの横顏へ噛みつくやうに言つた。

「お前は……お前は生きてゐるのか！　生きてゐるなら、なぜもつと人間らしく、女らしくしないのだ。どいつもこいつも、お前を蟲けらほどにも買はないのを<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいとも思はないのかえ！」

さう言はれると、おきみは靜かに面をあげて、ぢつと大阪屋を睨みかへした。その顏は氷のやうに冷たく澄んでゐた。こんな場合、今までのおきみなら、口惜し泣きに泣き叫ぶところであつたが、今のおきみはもう泣かなかつた。あれほどよく泣いたおきみであるのに、今のおきみは、目をうるませさへもしなかつた。

大阪屋は、さういふおきみから、<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きようふ</rt></ruby>に似た壓迫を感じたらしく、妙にへどもどしたが、それを拂ひ除けるかのやうにまた叫んだ。

「その面は何だ！　睨むなら睨んで見ろ！　呪ふなら呪つてみろ！　貴樣がいくら我を張つたとて、わしはビクともせんぞ。この大阪屋はな、一旦かうと言ひ出したら、火の中へでも飛び込む男だぞ。見てやがれ！　そつ首を縛つてでも叩き賣つて見せるから……」

さう叫んでゐるうちに大阪屋は、すつかり息が切れて、聲が出なくなつてしまつた。そしてまたぺしよりと首の根を折つて默つてしまつた。

おきみは尚もぢつと目を据ゑてゐたが、やがてふら〱と立ち上つて隣室へ入つて行つた。大阪屋はその後を睨めながら、おきみが戻つて來るのを待つてゐたが、<ruby><rb>稍々</rb><rt>やゝ</rt></ruby>しばらくしても戻つて來ないので、これも立ち上つて、隣室へ入つて行つた。

と、いきなり大阪屋が奇怪な驚きの聲を出した。つゞいておきみのからだを引きずりながら出て來た。――見ると、おきみの<ruby><rb>頭髮</rb><rt>とうはつ</rt></ruby>は、ギザ〱に斷ち切られてゐたのである。おきみは、隣室の鏡臺の上に載つてゐた鋏を手に取るや、ある限りの髮を根元からぶつ〱切り離してしまつたのであつた。さうしておきみは下唇を血の出るほど<ruby><rb>噛</rb><rt>く</rt></ruby>ひしばつて、すつかり昂奮してゐた。

「馬鹿なことをしやがつた！　途方もねえことをしやがつた！　こん畜生、それで賣り物にしまいといふ魂膽だな！」

大阪屋はぢだんだを踏んで吼え立てた。

「ヘツヘヽヽヽ、まつたくそれぢや貰ひ手もねえ。ヘツヘヽヽヽ、うめえことをしやがつたねえ。」

鹽原の男は、口をへの字にして笑ひ立てた。

大阪屋は、どうしてくれよう、と、その手段を考へ出さうとするかのやうに、部屋の中をわた〱と歩き𢌞つた。が、急に立ち止まつて、男らしい<ruby><rb>餘裕</rb><rt>よゆう</rt></ruby>を見せるかのやうに、

「結構、々々。……この節は、<ruby><rb>斷髮</rb><rt>だんぱつ</rt></ruby>のモダーン・ガールといふのがはやるぢやねえか。このまゝ横濱のチヤブ屋へでも向けりや、却つて値が出るんだぞ！」

さういふと、そつくりかへつて、ケツ〱〱と庭鳥のやうに甲高く笑つた。

## 十二

その一夜が過ぎた。

玄關の格子の開く音がした。それだけで何の聲もしない。

大阪屋は立つて行つた。

と、そこには周三が兩手をぶらりと下げたまゝ、うつろの目を開けて、すーツと、消えかゝる影のやうに立つてゐたのである。

大阪屋は、思はず身を引いた。からだ中、水を浴びせられたかのやうに、しばらくすくみ上つてゐた。

が、やがて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たゝき</span>の上へ下り立つと、周三の兩手を、ありつたけの力で捕へた。それは、逃げ場を失つたものが、命がけで敵の急所へ喰つてかゝるやうな狂暴さであつた。

大阪屋はそこで何か言はうとしたが、何も言ひ得ず、そのまゝ、往來へ周三を引き出した。そしてどん〱と歩き出した。

二十分の後、大阪屋は、周三を、警察の刑事部屋へつれ込んでゐた。

「この身なり、この人相を見ても解る通り、氣違ひか馬鹿か、それとも恐ろしい惡人かに違ひありません。とにかく人の家へ無斷で上り込んで來た奴です。立派な<ruby><rb>家宅</rb><rt>かたく</rt></ruby>侵入罪です。どうぞ、何とか<ruby><rb>處分</rb><rt>しよぶん</rt></ruby>して下さいまし。」

さうして周三を警察に叩き込み、うちへ歸つて來ると、大阪屋は、奧座敷へ<ruby><rb>昏倒</rb><rt>こんたう</rt></ruby>してしまつた。が、一時間もするとふらつく脚を踏みしめて立ち上つた。そして、土藏の座敷牢から、おきみをまたも引き下して來た。

今朝のおきみは、ギザ〱に切つた髮をぼう〱にして、それに蔽はれた目を火のやうにギラ〱光らしてゐた。その相貌は、東京のＴ私娼窟のあの妖婆の家に監禁されてゐた「<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の女」そつくりであつた。

大阪屋は、前夜おきみのからだに着せた着物を、おきみの前へ置いて、

「さア、早く着た！」とおきみの視線を避けながら言つた。

「…………」

おきみは、ギロリと開いた目をまばたきもせずにゐた。

「コラ！　汽車に乘つて出かけて行くんだぞ！」

「…………」

おきみは石のやうに動かなかつた。

「この畜生！」

大阪屋はガバリと立ち上ると、おきみの襟がみを引つ掴んだ。そしてぐずりと引き立てた。

おきみは、よろ〱と立ち上り、うしろの壁へ倒れかゝりながら、ギリリと白い齒をむいた。さうしてヂリ〱と大阪屋の方へにじり出た。と同時におきみは急に<ruby><rb>咳込</rb><rt>せきこ</rt></ruby>み、苦しさうに首を振つた。と、その口から、パツと眞赤なものがほとばしり出た。それは<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>から胸へさつと掛つた。――おきみはつひに<ruby><rb>喀血</rb><rt>かくけつ</rt></ruby>したのである。

おきみの面相は一變してしまつた。そのからだ全體から、何とも言へない<ruby><rb>凄慘</rb><rt>せいさん</rt></ruby>な氣が發散した。

大阪屋は、からだをよぢりながら夢中で叫んだ。

「この畜生！　畜生！　畜生」

叫びながら、蛇でも叩きつけるやうに、目茶苦茶におきみの腦天をなぐりつけた。

おきみは、バタリと疊の上に倒れた。ちよつとの間、泥のやうにぢつとしてゐた。が、やがて倒れたまゝ、靜かに顏だけあげた。血にまみれた顏を……。

と、その顏の表情は全く<ruby><rb>破壞</rb><rt>はくわい</rt></ruby>されてゐた。<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>の動物の顏を見るやうなグロテスクな蔭が全面に流れてゐた。――おきみは、氣が狂つたのである。

この後の事件は詳しく書くに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>へない。

その日一日、土藏の二階から異樣な叫び聲がきこえてゐた。すべて意味不明であつたが、ときどき「天國、天國！」と叫ぶのだけははつきりと聞き取れた。

大阪屋は、閉め切つた奧座敷の蒲團の中に、<ruby><rb>致命傷</rb><rt>ちめいしやう</rt></ruby>を負つた野獸のやうにうめいてゐた。

その<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふけ</rt></ruby>である。土藏の裏手へ一つの影が忍び込んで來た。それは其日の夕方警察の留置場から出された周三であつた。

周三は、土藏の横手に掛けてあつた<ruby><rb>竹梯子</rb><rt>たけばしご</rt></ruby>を外して、二階の窓へ掛け渡した。そして、まるで夢遊病者のやうに、ひよろ〱と<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を登つて行つた。

しかし、この時、すべては終つてゐた。おきみは、窓の鐵格子へしごきを掛け、<ruby><rb>縊死</rb><rt>いし</rt></ruby>してゐたのである。

翌朝、鉛色の水が音もなく流れてゐる利根川の上を、一つの溺死體が流れてゐた。それは周三の自殺體であつた。