運送会社の集荷係が宅扱いの最後の梱包を運びだすと、この五年の間、宇野久美子の生活の砦だった二間つづきのアパートの部屋の中が、セットの組みあがらないテレビのスタジオのような空虚なようすになった。いままで洋服箪笥のあった壁の上に、芽出しの白膠木の葉繁みがレースのような繊細な影を落しているのが、なぜかひどく斬新な感じがした。  管理人の細君が挨拶にきた。 「おすみになりましたか」 「ええ、あらかた……ながながお世話になりました」 「宇野さん、和歌山なんだそうですね」 「ええ、和歌山よ」 「お郷里へお帰りになるんだって。テレビであなたの顔を見られなくなると思うと、さびしいですわ」 「こんなふうに休んでばかりいるんじゃ、ろくな仕事はできないでしょう。ほうぼうへ迷惑をかけるばかりで……二、三年、郷里でのんきにやって、また出なおしてくるわ」 「焦っちゃだめよ、ね。仲さんみたいなことになるのは不幸すぎるわ」 「あたしはだいじょうぶ」 「じゃ、お大切にね。元気で帰っていらっしゃい」 「ありがとう」  管理人の細君がひきとると、久美子はボール・ペンをだして、戦争の間、疎開していた伊那の谷の奥の農家へハガキを書いた。  伊那はいま藤のさかりでしょう。みなさま、お元気のよし、なによりです。先日、勝手なことをおねがいしましたが、さっそくご承知くださいましてお礼の申しようもございません。今日、日通から身の廻りのものを貨物便で送りました。ちょっと和歌山へ帰って、それからそちらへ伺うようになりますので、それまで雑倉の隅へでもお置きくださるようおねがいいたします。  もう仕残したことはなにもない。衣裳と小道具の入ったボストン・バッグをさげて部屋を出るだけ。ハガキをポストに投げこんで、どこかの安宿で衣裳を換えて、たぶん伊東行の湘南電車に乗る……。  宇野久美子は完全犯罪を行なおうとしている。ただし、久美子の場合、殺そうというのは他人ではなくて自分自身なのであった。  ……生活するということは、昨日と明日の継ぎ目を縫うことだと、なにかの本に書いてあった。ラジオ劇場の台本にあったセリフだったかもしれない。 「うまいことをいうもんだわ」  久美子は出窓の鉄の手摺子に凭れ、眼の下の狭い通りを漠然とながめながら唇の間でつぶやいた。 「この人生に明日という日が無いということは、継ぎ目を織る、今日の分の糸がないということなんだ」  久美子は生存というものを廃棄するために、というよりは、自分という存在を上手にこの世から消すために、その方法をいろいろと研究した。想像力の及ぶかぎり、可能なあらゆる場合を想定し、プロットを立て、それに肉付した。これならばというプランを一月以上も頭の中にためておき、いくどもひっくりかえしてみて、完全だという確信ができたので、さっそく実行することにした。  二年ほど前の秋、おなじ声優グループの仲数枝が、フラリと久美子のアパートにあらわれた。久美子は用があって、階下の管理人の部屋で立話をしていると、裏の竹藪へドサリとなにか落ちこんだような音がした。それをなんだとも思わず、十分ほどして部屋に帰ると、仲数枝が久美子の行李の細引を首に巻きつけてその端を出窓の手摺子に結びつけ、一気に窓から裏の竹藪へ飛んで死んでいた。 「やったねえ。若い娘にしては心得たもんだ……頸骨をへし折るように作業するのは、縊死のもっとも完全な方法なんだな。ほとんど苦痛はなかったろうと思う」  老練らしい検視官が鑑識課の若い現場係に訓話めいたことをいっていた。  仲数枝の最後の演技はすごい当りだったが、人生の舞台にはエンディングという都合のいい幕切れはないので、終末はひどくごたごたした。こういう死にかたをすれば、どんなみじめな扱いを受けるものかということを、久美子はつくづくと思い知らされ、死にたくなればいつでも死ねるという高慢な自負心がひとたまりもなく崩壊した。  久美子が郷里の小学校にいるころ、生涯の運命を決定するような痛切な事件があった。土用の昼さがり、帷子を着て縁に坐っていた父が手を拍ちあわせながら叫んだ。 「ほい、これはまあ見事なもんや。どこもかしこも菜の花だらけじゃ」  草いきれのたつ庭先には荒々しい青葉がぼうぼうと乱れを見せて猛っているだけで、どこをみても菜の花などはなかった。 「お父ん、なにをいうとるなん? 土用に菜の花などあるかしらん」 「そうかのう。俺には菜の花が咲いてるように見えるがの」  間もなく父は黄疸になった。全身からチューリップ色の汗を流してのたうちまわり、夜も昼も絶叫して、阿鼻叫喚のうちに悶死した。  癌だった。原病竈は不明だが、最後は肝臓に転移して肝臓癌で死んだ。祖父も父の兄弟もみな癌で死んだ。父は癌は遺伝しない。俺だけは癌では死なぬといい、久美子も久美子の母も、そうあるように心から祈っていたが、その父も不幸な死の系列から遁れることができなかった。  さほど遠くない将来に、いずれ自分もすごい苦悶のなかで息をひきとることになるのだろうということを、久美子はそのころからはっきりと自覚していたので、もし、すこしでもそういう予徴が見えだしたら、肉体の機能のうえに残酷な死の影がさしかけない前に、安らかな方法ですばやく自殺してやろうと覚悟していた。それが願望になって、心の深いところに凝りついていた。  三月三日の夜、雛祭にちなんだ特別番組があった。それが終ってから、仲間の一人とスタジオの屋上へ煙草を喫いに行った。  晴れているくせに、どこかはっきりしないうるんだような春の空に三日月が出ていた。あまり妙な色をしているので、久美子は思わず叫んだ。 「なんなの、あの月の色は」 「月がどうしたのよ」 「妙な色をしているじゃないの。黄に樺色をまぜたような……粉白粉なら肌色の三番ってとこね」 「肌色でなんかないわ」 「黄土色っていうのかな」  仲間は煙草の煙をふきだしながら、まじまじと久美子の顔をみつめた。 「いつもの月の色よ、灰真珠色……あなたの眼、どうかしているんじゃない」  月だけではなかった。塔屋の壁も扉もアンテナの鉄塔も、もやもやした黄色い光波のようなものに包まれていた。  心臓にきたはげしいショックで久美子はよろめいた。 「宇野さん、どうしたの」 「疲れたのよ。きょうは帰るわ」  アパートへ帰るなり、久美子は鏡の前へ行って眼のなかをしらべた。白眼のところに黄色い翳のようなものがついている。爪にも掌にもそれらしい徴候があった。  あわてて服を脱いで下着をしらべてみた。シュミーズの背筋にあたるあたりにあの不吉な黄色いシミが、爪黒黄蝶の鱗粉のようなものがかすかについていた。  いずれ、こんなことになるのだろう。それはわかっていた。遠い将来のことだろうと気をゆるしていたが、意外にも早くやってきたので、久美子は愕然とした。 「疲労だね」  肋骨の下を念入りに触診してから、内科の主任は事もなげにいった。 「君達のグループは働きすぎるよ」 「うちのものはみな癌で死んでいるんです。父は肝臓癌でした……あたし黄疸なんでしょう?」 「黄疸というほどのものでもない。この冬、軽い肺炎をやったね。その名残りだ。しばらく仕事を休んで、うまいものを食ってごろごろしていれば癒ってしまう」  医務室のへっぽこ医者にわかるわけはないのだ。癌のことならこちらのほうがよく知っている。 「和歌山県と奈良県の癌死亡者は人口百万人にたいして千人以上で、比率の大きなことでは世界的に有名なんですってね……先生、あたし和歌山なんです」  内科の主任は虚を衝かれたような気むずかしい顔になった。 「家族的黄疸とでもいうのか、一家の中でつぎつぎに黄疸にかかる特異な体質がある。赤血球の構成が病的で、すぐ壊れるようになっているので黄疸にかかりやすいのだが、この型の黄疸は肝臓機能とは関係がない」 「そういう体は遺伝するんでしょうか」 「遺伝するだろうと考えられている」  これではまるで告白しているようなものじゃないか。癌研へ紹介する必要のないほど決定的な症状になっているのだと久美子は察した。  未だかつて死体があがったためしがないという深い吸込孔のある湖水がいくつかある。死んだあとで死体をいじりまわされるのが嫌なら、そういう湖でやるほうがいい。万一、死体が浮きあがっても、行路病者の扱いで土地の市役所の埋葬課の手で無縁墓地に埋められるのなら、我慢できないこともない。宇野久美子から宇野久美子という商標を剥ぎとってどこの誰ともわからない人間をつくるぐらいのことは、やればやれる。  湖はどこにしようかと迷っていたが、ある日、駅の観光ポスターの「夢の湖、楽しい湖へ」といううたい文句がひどく気に入って、伊豆の奥にあるその湖にきめた。  人間がましい恰好で、出窓の敷居に腰をかけて煙草を喫ったりしているが、実は人間の影のようなものにすぎない。プランどおりに事が運べば、明日中か遅くとも明後日の朝までには宇野久美子という存在は完全にこの世から消えてしまう。この演出は成功するだろうという確信があった。  久美子は和歌山までの切符を買って、二十一時五十分の大阪行に乗った。  網棚へ小道具の入ったスーツ・ケースを載せると、灰銀のフラノのワンピースに緋裏のついた黒のモヘアのストールという、どこかのファッション・モデルのような恰好で車室を流して歩き、知った顔がないかと物色していたが、三つ目の車でロケハンにでも行くらしい楠田という助監督の一行を見つけた。 「楠田さん」 「おお、お久美さんじゃないか。すかっとした恰好で、どこへ行く」 「郷里へ帰るの、和歌山へ……親孝行をしに」 「なんだかわかったもんじゃないな。キョロキョロして、誰をさがしているんだ」 「誰か乗っていないかと思ってさがしていたの」 「こんなお粗末なのでよかったら、つきあっていただきましょう。掛けなさいよ」  宇野久美子はどうなったというような騒ぎになると、この連中は、五月二十日の夜の九時五十分の大阪行の準急に久美子が乗っていたと証言してくれるだろう。これで用は足りた。 「ありがとう。ここもいっぱいね。またあとで話しにくるわ」  さっきの座席に戻ると、話しかけられるのを防ぐために、久美子は顔にストールをかけて寝たふりをしていた。  午前三時ごろ、浜松に停車した。久美子は網棚からスーツ・ケースをおろすと、浜松で降りる乗客にまじっていったホームへ降り、それからすぐ前の車輌に移って、つづきの二等車のトイレットに入った。  ドレスを脱いでお着換えをする。よれよれの紺のスラックスに肱のぬけたナイロンのジャンパー、ベレエに運動靴……何年か前に友達の絵描きが置いて行った絵具箱に三脚を結びつけたのを肩にかけると、脱いだものを入れたスーツ・ケースをさげてトイレットから出た。宇野久美子が身につけていたものは、汽車の中に置いて行くつもりなので、二等車を通りぬけながら網棚のあいたところへ放りあげ、前部のつづきの車に移った。簡単な手続きだが、これで宇野久美子の中から、誰とも知れない別な人間を抽出したつもりだった。  予定どおりに豊橋で下車すると、久美子は車掌をつかまえて、汽車の中で書いておいたメモをわたした。 「すみませんが、これをアナウンスしてください。おねがい……」  間もなくホームの拡声器からアナウンスの声が流れだした。 「一二九号列車に乗っていられる東洋放送の宇野久美子さん……東洋放送の宇野久美子さん、お連れの方はつぎの便になりましたから、待たずにその汽車で行ってください」  風の吹きとおすホームのベンチでアナウンスの声を聞いていると、モヘアのしゃれたストールをかけた宇野久美子が実際に客車の中にいるような気がして、思わず笑ってしまった。宇野久美子という女性はたしかに豊橋まで汽車に乗っていたはずだが、それから先は行方知れずということになる。永久に大阪駅に着くことはないのだ。  久美子が恐れていたのは、自殺する意図のあったことを嗅ぎつけられ、しつっこく捜したてられることだったが、ここまで手を打っておけば、その心配もない。郷里の母は娘が帰ってくるなどとは思ってもいないし、伊那の農家では郷里の滞在が長びいているのだと思うだろう。勘がよければ、医務の内科主任がはてなと思うのだろうが、そのときは湖底の吸込孔の中か、無縁墓地の土の下で腐っているはずだ。  五時二十分の名古屋発東京行の列車が着くと、久美子はちがうひとのような明るい顔で窓際の座席におさまると、ポスターのうたい文句をいくども口の中で呟いた。 「夢の湖、楽しい湖へ……」  阿鼻叫喚のすごい苦悶の中で息をひきとるのではなくて、自分がえらんだ、魅力のある方法で、ひっそりと消えて行くのだと思うと、なんともいえないほど楽しくて気持が浮き浮きしてきた。  正午すぎに伊東に着いた。  久美子は駅前の食堂で昼食をすませると、バスを見捨てて下田街道を湖水のあるほうへ歩きだした。  だいたいプラン通りに運んだ。あとは生存を廃棄するという作業が残っているだけ。さしあたって急ぐことはなにもない。二里たらずの道なら、どんなにゆっくり歩いても夕方までには着く。バスの中で知った顔に出っくわす危険をおかすより、気ままにブラブラと歩いて行くほうがよかった。  川奈へ行く分れ道の近く、急に空が曇って雨が降りだした。こんな雨は予想していなかったので、気持を乱しかけたが、濡れるなら濡れるまでのことだと、ガムシャラに雨の中を歩いていると、追いぬいて行ったプリムスが五メートルほど先で停った。  久美子が車のそばまで行くと、格子縞のハンティングをかぶった、いかにもスポーティな初老の紳士が脇窓から声をかけた。 「どこへ行くんです」 「湖水へ」 「ひどく濡れたね。お乗んなさい。私も湖水へ行く」 「こんな雨ぐらい、なんでもないわ」 「なんでもないことはない。そんなことをしていると風邪をひく。遠慮しないで乗りたまえ」  振りきってしまいたかったが、これ以上断るのはいささか不自然だ。うるさいひっかかりにならなければいいがと思いながら、おそるおそる車の中に身を入れた。 「すみません」  久美子が運転席に腰を落ちつけると、車が走りだした。 「体力で絵を描くのだというが、なるほど、たいへんなものだね、雨の中を湖水まで歩いて行こうという元気は……あなた東京ですか」 「はあ、東京です」  久美子はうるさくなって、素っ気ない返事をした。紳士のほうも、ものをいう興味を失ったのだとみえて、黙りこんでしまった。  雨がやんで雲切れがし、道のむこうが明るくなったと思ったら、天城の裾野のこじんまりとした湖の風景が、だしぬけに眼の前に迫ってきた。  周囲一里ほどの深くすんだ湖水が、道端からいきなりにはじまり、岸だというしるしに、菱や水蓮が水面も見えないほど簇生している。湖心のあたりに二ヶ所ばかり深いところがあって、そこだけが青々とした水色になっていた。  湖のほとりで車を停めると、紳士がたずねた。 「泊るところはどこ? ついでだから送ってあげよう」  今夜の泊りなどは考えてもいなかったが、久美子は思いつきで、出まかせをいった。 「もう、ここで結構ですわ……キャンプ村のバンガローを借りて、今夜はそこで泊ります」 「バンガローの鍵を持っている管理人は、今日は吉田へ行っているはずだ。売店なんかもやっていないだろうし、生憎だったね」  久美子が弱ったような顔をしてみせると、そのひとはむやみに同情して、この辺には宿屋なんかないから、大室山の岩室ホテルへでも行くほかはなかろうと、おしえてくれた。 「ホテルになんか、とても……お金がないんです。ごらんのとおりの貧乏絵描きですから」  紳士はなにか考えていたが、 「そんなら、私の家へ来たまえ」  と、おしつけるようにいった。 「でも、それではあんまり……」 「なにもお世話はできないが、一晩ぐらいならお宿をしよう」  車をすこしあとへ戻して、林の中の道を湖の岸についてまわりこんで行く。  どれがどの技とも見わけられないほど、青葉若葉が重なった下に、眼のさめるような緑青色の岩蕗や羊歯が繁っている。灰緑から海緑までのあらゆる色階をつくした、ただ一色の世界で、車もろとも緑の中へ溶けこんでしまうのではないかというような気がした。  林の中の道を行きつくすと、また湖の岸に出た。樹牆に囲まれた広い芝生の奥、赤煉瓦の煙突のついた二階建のロッジの前で車が停った。 「この家だ。住み荒して、見るかげもない破家だが」  玄関のつづきは大きな広間で、天井に栂の太い梁がむきだしになり、正面に丸石を畳んだ壁煖炉がある。広間の右端の階段から中二階の寝室にあがるようになっている。  久美子が濡れしょぼれ、みじめな恰好で火のない煖炉のそばに立っていると、 「そうだ。そいつは脱がなくちゃいけない」  主人は二階へ行って、ピジャマと空色の部屋着を抱いて戻ってきた。 「ともかく、これと着換えなさい。風呂場にタオルがあるから……その間に、煖炉を燃しつけておく」  久美子は言われたように風呂場へ行き、濡れしおったものを脱いでピジャマに着換えた。部屋着を羽織って広間へ戻ると、煖炉の中で松薪がパチパチと音をたてていた。 「火の要る季節じゃないが、これはあなたへのご馳走だ」 「そんなにしていただくと、なんだか申訳なくて」 「あなたも堅っ苦しいひとだね。いちいち礼をいうことはない……まあ、その椅子に掛けなさい。名乗りをしなかったが、私は大池忠平……」 「申しおくれました。あたくし栂尾ひろと申します」 「これも、なにかの縁でしょうな。以後、御別懇に……絵を描くひとに、こんなことをいうのは妙なもんだが、風景ってのは、油断のならないものだと思うんだが、あなたはそんなことを考えたことはないですか」  と、思わせぶりなことをいいだした。 「ここへ来る途中で思いだしたんだが、あなたのような絵を描くひとに、いちどたずねてみたいと思っていたことがあるんだ」 「あたしなどにわかりそうもないけど」 「四、五年前、この湖へ身投げをした女があった。その女の亭主だと思うんだが、蓑笠をつけた男が、雨の降る中を、菱を分けながらさがしまわっていた……この湖では、死体があがったためしがないんだから、そんなことをしたって無駄な骨折りなんだが、いく日もいく日も、あきらめずにやっている……それを見てから、私の自然観にたいへんな変化が起った……それまでは、見たままの自然で満足していたものだったが、それ以来、ひどくひねくれてしまって、すぐ自然の裏を考える。この湖はいかにも美しいが、底を浚ったら、どんな凄いものが揚ってくるか知れたもんじゃない、なんて……こうなっちゃ、どんなすぐれた絵でも、真面目に鑑賞する気にはなれない。困ったもんだということですよ」  なんのために、突拍子もなくこんな話をしだすのだろう。心の中を見ぬかれたとも思わないが、あてこすりを言われているようで無気味だった。久美子は探るように大池というひとの顔をながめまわしたが、黒々と陽に灼けたスポーティな顔にうかんでいるのは、感慨を洩らして満足している、いかにも自然な表情だけだった。  罐詰のシチュウとミートボールで簡単な夕食をすませると、久美子は湖のそばへ一人で散歩に出た。  落日が朱を流す、しんとした湖面をながめながらしばらく行くと、棒杭につながれて、ひっそりと身を揺っている一隻のボートを見つけた。 「ありがたいというのは、このことだわ」  湖心まで漕ぎだして、そのうえで最後の作業をすることになるのだろうが、それまでの段取りはまだ考えていなかった。  久美子にとって、このボートは、こうしろという天の啓示のようなものだった。  明日の夜明け、空が白みかけたころ、ブロミディアを飲んでおいて、このボートで湖心へ漕ぎだす。ひきこまれるような睡気がつき、まわりの風景がよろめいてきたところで、そろりと水の中に落ちこむ。たぶん飛沫も立たないだろう。かすかな水音。それで事は終る。  広間の中はまだ闇だが、どこかに灰白い夜明けのけはいがあった。  久美子はベッドにしていた長椅子から起きあがると、風呂場へ行ってジャンパーに着換え、音のしないように玄関の扉をあけてロッジを出た。  湖に朝靄がたち、はてしないほど広々としていた。久美子は棒杭のある地形をおぼえておいたつもりだったが、靄の中では、どこもおなじような岸に見え、なかなかその場所に行きつけなかった。 「急がないと、夜が明ける」  久美子は焦り気味になって、菱の生えているところをさまよっているうちに、朽木の根っ子につまずいて、深いところへ落ちこんだ。いやというほど水を飲み、化けそこなった水の精のように、髪から滴をたらしながら岸に這いあがると、気ぬけがして、ひと時、茫然と草の中に坐っていた。 「おお、いやだ」  いかにもぶざまで、情けなくて泣きたくなる。間もなく棒杭に行きあたったが、誰か早く漕ぎだしたのだとみえて、ボートはそこになかった。  ロッジへ帰ってピジャマに着換え、濡れものをひとまとめにして浴槽の中へ置き、気のない顔でコオフィを沸しにかかった。  陽があがると靄がはれ、すがすがしい朝になった。湖のむこうの山々の頂が、朝日を受けて火を噴いているように見えた。  久美子はひとりで朝食をすませ、所在なく広間で大池を待っていたが、八時近くになっても起きて来ない。 「どうしたんだろう」  気あたりがする。中二階へあがって行って、ドアをノックした。 「大池さん、まだ、おやすみになっていらっしゃるの」  返事がない。  鍵が鍵穴にさしこんだままになっている。  そっとドアをあけて、部屋をのぞいてみると、寝ているはずの大池の姿はなかった。 「なんだ、そうだったのか」  なかったはずだ。ボートを漕ぎだしたのは大池だったらしい。  そういえば、ボートの中に魚籠のようなものがあった。大池がこのボートで釣りに行くのだろうと思わなかったのが、どうかしている。  それにしても、大池はまだ釣りに耽っているのだろうか。久美子は窓をあけて湖をながめまわした。  朝日が湖面に映って白光のようなハレーションを起している。久美子は眼を細めて、陽の光にきらめく湖面を見まわしているうちに、やっとのことでボートの所在をつかまえた。 「ボートが流れている」  久美子が漕ぎだそうと思っていた湖心のあたりに、乗り手のいない空のボートが、風につれて舳の向きをかえながら、漫然と漂っているのが見えた。そのそばに、赤いペンキを塗ったオールが浮いている。ただごとではなかった。  呼鈴が鳴った。玄関へ出てみると、「湖水会管理人」という腕章をつけた男が、自転車をおさえて立っていた。 「おやすみのところを、どうも……大池さん、昨日、こちらへおいでになられたんでしょう」 「来ています。なにか、ご用でしょうか」  管理人はペコリと頭をさげた。 「いいえね、お宅のボートが流されているので、ちょっとおしらせに」 「それはどうもわざわざ……」 「大池さん、まだ、おやすみなんですか」 「いらっしゃいませんよ」 「へえ?」  眉の間に皺をよせ、久美子の顔を見つめるようにして、 「いらっしゃらないんですか」 「あたしの眠っているあいだに、出て行ったらしくて」 「ボートで?」 「さあ、どうだったんでしょう」  管理人は真剣な眼つきで額をにらみあげ、 「ふむ、どうしたんだろう。妙だな」  と独り言をいっていたが、なにか思いあたったようにうなずいて、 「大池さんは間違いなんかなさらないが、千慮の一矢ってこともあるもんだから……」  そういうと、自転車に乗って、湖の岸の道を、対岸のボート置場のあるほうへ飛ぶように走って行った。  どこかで小鳥の翔の音がする。  壁煖炉の火格子の上に、冷えきった昨日の灰がうず高くなっている。湖畔の林の中にあるロッジの広間は、深い眠りについているように森閑としずまりかえり、煖炉棚の置時計の秒を刻む音だけが、ひびきのいい腰板にぶつかっては、神経的に耳もとに跳ねかえってくる。  宇野久美子は火の気のない煖炉の前の揺椅子に掛け、行きずりに一夜の宿をしてもらった礼をいってここを出ようと、大池の帰るのを待っていたが、そのうちに、そんなこともどうでもいいような気がしてきた。  天井の太い梁も、隅棚の和蘭の人形も、置時計も、花瓶も、木の間ごしにチラチラとうごく水明りも、眼にうつるものはすべて、もうなんの情緒もひき起さない。できれば今日中にでも自殺しようと決意している人間にとって、事実、それらは完全に絶縁された別の世界のものだった。 「これ以上、待ってやることはない」  そこだけ深い水の色を見せている青々とした湖心に、ひとの乗っていない空のボートが漂っているのを見たとき、久美子は「おや」と思ったが、モヤイが解けてボートがひとりで流れだしたのかも知れず、おどろくようなことでもなかった。  湖水の対岸に、貸バンガローや売店や管理人の事務所を寄せ集めたキャンプ村がある。ボートで釣りに出たついでに、用達しでもしているのだろう。そのうちに、ほかのボートで漕ぎ戻るか、湖水の岸の道を歩いてくるかするのだろうが、久美子には生存を廃棄するというさし迫った仕事があるので、あてのない大池の帰りを待っていられない。今朝のような失敗をくりかえさないように、どこか静かなところで、じっくりと考えてみる必要があるのだ。  久美子は玄関の脇窓からさしこむ陽の光をながめていたが、とても昼すぎまで服が乾くのを待っていられない。手ばやく煖炉を焚しつけ、浴槽に放りこんでおいた濡れものを椅子の背に掛けならべると、今夜、身を沈めるはずの自殺の場を見ておこうと思って、二階の大池の寝室へ上って行った。  寝乱した、男くさいベッドのそばをすりぬけて窓のそばへ行くと、天狗の羽団扇のような栃の葉繁みのむこうの湖水に船が四、五隻も出て、なにかただならぬ騒ぎをしているのが見えた。  ボートや、底の浅い田舟のようなものに、三人ぐらいずつひとが乗り、一人は漕ぎ、一人は艫にいて網か綱のようなものを曳き、一人は舳から乗りだして湖の底をのぞきこみながら、右、左と船の方向を差図している。 「予感って、やはり、あるものなんだわ」  雨降りのさなか、湖水に行く道で大池の車に拾われたとき、うるさいひっかかりにならなければいいがと、尻込みをしかけた瞬間があった。 「湖水会管理人」という腕章をつけた男が、千慮の一矢ということもあるなどといって、対岸のボート置場のあるほうへ自転車ですっ飛んで行ったが、こんな騒ぎをしているところから推すと、大池はボートで釣りに出たまま、湖水にはまって溺死したのらしい。 「厄介なことになった」  久美子は窓枠に肱を突き、唇のあいだで呟いた。  久美子のプランではキャンプ村のバンガローに移り、今夜、夜が更けてからボートで湖心へ漕ぎだすことにきめていたのだが、このようすでは、どうも今夜はむずかしいらしい。自分をこの世から消しとるという単純な仕事が、どうしてこんなにもむずかしいのかと思うと、気落ちがして、白々とした気持になった。  ボートの艫に小型のモーターをつけた旧式な機外船が、けたたましいエンジンの音をひびかせながらロッジのほうへ走ってくる。黒々と陽に灼けたさっきの管理人が乗っているのが見えた。 「そろそろ、はじまった……」  大池のピジャマとガウンを借り着した、しどけないふうな女を、管理人がどんな眼で見て行ったか、久美子にも察しがつく。 「それはまあ、どうしたって」  苦笑いしながら久美子は呟いた。  どうしたって父娘だとは見てくれまい。大池の生活に密着した、抜きさしのならない関係にある女だと、解釈したこったろうから、ここへ話をもちこんでくるのは当然だ。  長すぎるピジャマのズボンとガウンの裾を、いっしょくたにたくしあげながら二階から降りると、久美子は玄関に出て管理人がやってくるのを待っていた。  いい話だろうと、悪い話だろうとかまうことはない。うるさい絆から解き離されるためにも、どうせ聞かなければならないのなら、一分でも早いほうがいいのだ。  湖水につづく林の中の道から管理人が出てきたのを見るなり、久美子は玄関のテラスから問いかけた。 「どうしたんです?」  実直そうな見かけをした中年の管理人は、テラスの下までやってくると、上眼で久美子の顔色をうかがいながら、低い声でこたえた。 「ちょっとお知らせに……」 「なんでしょう」 「ごぞんじだと思いますが、東洋銀行の事件を担当している捜査二課の神保係長と、捜査一課の加藤刑事部長が、いま伊東署で打ち合せをしているふうなんで……」  自分に関係のあることだと思えないので、久美子は自分でもはっとするような冷淡な口調になった。 「それで?」  管理人は呆気にとられたような表情で、久美子の顔を見ていたが、おしかえすような勢いで、 「十分ほど前、湖水会の事務所へ、間もなくそちらへ行くと、伊東署から連絡がありました」  といい、腕時計に眼を走らせた。 「すぐ車で出たとすれば、だいたいあと七、八分でここに着きます。不意だとお困りになるのではないかと思って、お知らせにあがったようなわけですが」  ひどく持って廻ったようなことをいうが、久美子の聞きたいのはそんなことではなかった。 「大池さん、どうなの?」  管理人は愁い顔になって、 「お気の毒なことですが、いまところ、まだ……明日中に揚ればいいほうで……なにしろ藻が多いですから。エビ藻だの、フサ藻だの……どうしてもいけなけれゃ、潜水夫を入れるしかありませんが、ここには台船なんというものもないので……」  この湖水では死体があがったためしはないと、昨日、大池が言っていたが、それは久美子のほうがよく知っている。  伊豆の古い伝説によると、湖水の湖心に大きな吸込孔があって、湖底が稚児ガ淵につづいていることになっている。うまく吸込孔に落ちこむことができれば、地球の終る最後の日まで、みっともない遺体を人目にさらさずにすむ……だからこそ、生存を廃棄するのに、久美子はこの湖をえらんだわけだったが……。  そんなことを考えているうちに、大池の死は過失ではなくて自殺ではなかったのだろうかと、ふとそんな気がした。 「魚を釣るときは、錨をおろすものなんでしょう。大池さんのボートは流れていましたね。あれはどういうわけなの……この湖では流し釣りをするんですか」  管理人は眼を伏せてモジモジしていたが、そのうちにささやくような声でこたえた。 「大池さんは釣りに出られたわけではなかったんです。つまり、その……」 「自殺?」 「はあ、そういうことだったらしいです。この湖で投身自殺するという遺書が、昨夜、おそく東京の御本宅へ届いたそうで、そのことはさきほどもわたしどもへお電話がありました……昨夜から今朝にかけて、自殺を思いとまるように説得してくれと、いくどかお電話くだすったそうですが、生憎、昨日はずっと吉田に居りましたので、なにもかも後の祭りで……御本宅の奥さまとご子息さまが七時三十五分の浜松行にお乗りになったそうですから、十時半ごろにはここへお着きになるでしょう……どうか、そのおつもりで……」 「お心づかい、ありがとう」 「わたしは石倉と申しますが、大池さんにはいろいろとお世話になりましたもので……むこうの管理人事務所に居りますから、ご用がありましたら、声をかけてください。私の出来ることでしたら……」  そういうと、お辞儀をして、あたふたと帰りかけた。 「石倉さん……」  はあ、といって石倉が戻ってきた。 「あなたバンガローの鍵を預っていらっしゃるんだって?」 「鍵?」 「どれでもいいから、ひとつ開けておいてくださらないかしら」 「バンガローは三十ほどありますが、鍵のかかるのは一つもありません。空いてさえいれば、誰でも自由に入れるようになっているので……それで、どうなさろうというんですか」 「ゴタゴタするのはかなわないから、そっちへ移ろうと思うの」  石倉は怒った犬のような眼つきになった。 「気持はわかるが、そうなさらないほうが、お為でしょう」 「お為って、なんのこと?」 「御本宅でも、警察でも、あなたがここにいられることは知っているんですから」 「どうしてなの」 「私がいいました。隠してはおけないことだから……バンガローへ移ってみたって、ゴタゴタするのはおなじでしょう。遠くへ逃げるというのなら、話はべつですが」 「なにか意見がありそうね。伺うわ……あたしにどうしろというんです」 「あなたは、昨夜から、ずうっと大池さんといっしょにいらした……奥さまやご子息さまも、あなたの話を聞きたいところだろう……あなたにしても、それくらいのことをするのが、世間一般の義務ってもんじゃないですか……これから、深いところを錨繩でやってみますが、夕方、手仕舞をしたらロッジへ伺います。じゃ……」  石倉が林の中の道に姿を消すと、間もなく機外船のモーターがかかり、エンジンの音が岸から遠退いて湖心のほうへ進んで行った。 「こんなことも、あるものなんだ」  湖心まで漕ぎだし、自殺しようと思っていたそのボートに乗って出て身投げをした男がいる。こういう偶然も、この世には、あればあるものなのだろう。  そのほうはさらりと思い捨てたが、なんとも納得のいかないことがある。昨日、大池が鍵を持っている管理人が吉田へ行っているから、バンガローには泊れないだろうといった。聞くと、バンガローには鍵がかからなくて、誰でも自由に入れるようになっているという。なんのことだかよくわからないが、ふとした疑問が久美子の心に淀み残った。  クラクションの音がした。  玄関の脇窓からのぞくと、昨日、大池と二人でやってきた湖水沿いの道を黒い大型のセダンが走ってくるのが見えた。 「やってきた」  芝生の間の砂利道で車がとまると、お揃いのように紺サージの背広を着た男が二人と官服の警官が一人、左右のドアをあけ、職業的とでもいうような馴れきった身振りでサッと車から降りた。  そのあとから、上役らしい四十二、三の口髯のある男と、妙にとりすました、見るからに秀才型の三十二、三歳の男が、ゆっくりと出てきた。  口髯のあるほうが車のそばで足をとめて巻煙草に火をつけると、それが合図ででもあるように、私服と警官が分れ分れになり、一人はガレージの横手についてロッジの裏へ、一人は林の中の道を湖畔のほうへ走って行った。  一人だけ残った年配の刑事は、ロッジの二階の窓を見あげていたが、秀才型のそばへ行って、なにかささやいた。  秀才型は聞くでもなく聞かぬでもなく、曖昧な表情で、煙草の煙を吹きあげていたが、クルリと向きをかえると、巻煙草を唇の端にぶらさげたまま、のろのろと玄関のほうへ歩いて来た。 「おお、いやだ」  警察の連中がロッジへ入って来るのを見るなり、久美子は突然羞恥の念に襲われ、濡れものを掛け並べた椅子のほうへ走って行った。  スラックスもジャンパーも、火気のあたらない裏側がまだじっとりと湿っていてどうしようもないが、パンティやブラジャーのような、みっともないものだけでもどこかへ隠したいと思ってうろたえたわけだったが、作業が完了しないうちに、三人の官憲はロッジに入ってきて、ドアのそばに立って久美子のすることを見ていた。  久美子のうろたえようが目ざましいので、笑止に思ったのか、 「どうも、失礼しました」と口髯が笑いながら挨拶した。 「誰もいないと思っていたもんだから」  明晰な、そのくせ抑揚のない乾いた調子で、秀才型が見えすいたお座なりをいった。 「失礼ですが、どなたでしょう」  口髯があっさりとうけとめた。 「われわれは警視庁のものです……私は捜査二課の神保……こちらが捜査一課の加藤君……このひとは伊東署の刑事部長で丸山さん……」  そういうと、いまのところひと息つくほか、なんの興味もないといったようすで、ゆったりと長椅子に腰をおろし、三人でとりとめのない雑談をはじめた。 「大池さんはお留守なんですけど、ご用はなんですか」  丸山という刑事部長は、チラと久美子のほうへ振返っただけで、返事もしなかった。  五分ほどすると湖畔のほうへ行った警官とロッジの裏手へ行った私服が後先になって広間へ入ってきた。 「ご承知のようなわけでねえ」  刑事部長が空っとぼけた調子でいった。 「ちょっと家の中を見せてもらうよ……大池の部屋は?」  久美子は広間から見あげる位置にある中二階のドアを指さした。 「あれらしいわ」 「ふむ?……らしい、というのは?」 「階段をあがって、昨夜、あの部屋で寝たようですから……あれが大池さんの部屋かどうか、あたし、よく知らないんです」  刑事部長は、ああとうなずくと、いま広間へ入ってきた私服に眼配せをした。  私服は階段をあがって、大池の部屋へ姿を消した。  広間に残った四人は、隅のほうへ立って行って、なにかひそひそと協議をしていたが、そのうちに捜査の段取りがついたのだとみえて、私服と警官が奥の部屋へ入って行くと、戸棚をガタガタさせたり、抽出しをあけたてする音が聞えてきた。  加藤という秀才型の係官はノンシャランなようすで広間の中をブラブラと歩きまわり、煖炉棚の花瓶や隅棚の人形を眺めていたが、そこの床の上に置いてあった絵具箱をとりあげると、だしぬけに久美子のほうへ振返った。 「大池さんは絵を描かれるの?」 「いえ、それはあたしの絵具箱です」  係官は、ほうといったような曖昧な音をだすと、煖炉のそばへ行って椅子の背に掛け並べた濡れものにさわってみた。 「これは君のジャンパー? もうすこし火から離さないと、焦げちゃうぜ」  そういいながら濡れしおった運動靴をとりあげると、めずらしいものでも見るような眼つきでしげしげと靴底を眺めた。 「ひどく濡れてるね。これは乾かさなくともいいのかね」  靴が濡れていれば、どうだというのだ。お義理にも相手になる気がなくなり、久美子は聞えないふりをしていた。  二十分ほどすると、二階の寝室と奥へ行っていた連中が広間に戻ってきた。また隅のほうへ立って行って、五分ほど立話をしていたが、久美子のそばに年配の刑事を一人だけ残し、あとの四人がロッジから出て行った。玄関の脇窓から、四人の官憲が車のそばに立って協議しているのが見えた。  間もなく、二人の私服と警官が湖畔のほうへ行き、捜査二課と捜査一課が広間に入ってきた。 「ちょっとお話を伺いたいのですが……参考までに……」  加藤という係官が、愛想よく久美子のほうへ笑いかけた。 「この長椅子を拝借しよう……神保さん、あなたも、どうぞ」  捜査二課は椅子をひきよせて、傍聴するかまえになった。 「お取込みのところを、恐縮です」 「お取込み、なんてことはないんです、あたしのほうは」  年配の刑事は食卓の上に手帖をひろげ、わざとらしく腕で屏風をつくっている。それが久美子の癇にさわった。 「これは訊問なんですか」 「飛んでもない」  秀才がまた笑ってみせた。 「ここは警察の調べ室じゃないから、訊問なんかできようわけはないです……大池氏が自殺をする前後、どんなようすだったか、参考までに伺っておきたいということなので……」 「つまり挙動てなことですね……自殺する前後のようすといわれたようだけど、自殺してからのことは知らないんです。キャンプ村の管理人が飛んで来て、はじめて知ったくらいのもので」 「なるほど……ご存知なければ、前のほうだけでも結構です」 「たいして参考になるようなこともなかったわ……六時半ごろ、罐詰のシチュウとミートボールで簡単に夕食をしました……一人で湖畔を散歩して八時ごろロッジへ帰ったら、大池さんは二階の寝室へ行って、広間にはいませんでした」 「大池氏の家族のほうにも、われわれのほうにも、K・Uという頭文字しかわかっていないのだが、昨夜、大池氏から家族にあてて、K・Uとこの湖で投身自殺……つまり心中するつもりだから、あとのところはよろしくたのむという遺書まがいの速達が届いたというのです……K・Uという女性は、大池氏の愛人なので、三年ほど前から、影のようにずっと大池氏といっしょにいた……大池氏の手箱から、K・Uという署名のある恋文がたくさん出てきたので、文面から推しても、これはほぼ確実なことなんです……ざっくばらんにおたずねしますが、K・Uという女性はあなたですか」  K・Uといえば自分の姓と名の頭文字だが、久美子がその女性であろうわけはなかった。 「それは誰かちがうひとでしょう。あたしは大池さんには、昨日お目にかかったばかりで」 「ああそうですか」  捜査一課ほもっともらしくうなずき、煙草の煙の間から眼を細めて久美子の顔をながめていたが、灰皿に煙草の火をにじりつけると、説得する調子になった。 「新聞でお読みになったろうと思うが、東洋銀行の浮貸しで、三億円ばかり回収不能になった……大池氏は潔癖なひとだったようで、失踪中にも焦げつきの補填をしようというので、いろいろと努力されたふうだった……K・Uという女性は、その辺の事情をよく知っていたらしいから、説明してもらえたらというのが、ねがいなんです……写真なんかもないからどんな顔だちのひとなのか、それさえわからない。当人が自発的に名乗り出るのを待つほか、われわれのほうには手がないわけで……あなたの不利になるようなことは、一言も言ってくれなくても結構です。失踪中の大池氏の経済活動の状態を、だいたいのところ、洩らしてくださるだけでいいので、あなた個人に迷惑のかかるようなことは、絶対にありません」 「おっしゃることは、よくわかるんですけど、どうも、あたしではなさそうだわ。お疑いになるのはそちらのご自由よ」 「あなたがK・Uという女性なら楽だったんだが、そうでないとなると、むずかしい話になる……大池氏が自殺する最後の夜、このロッジで過されたあなたは、いったいどういう方なんです?」 「栂尾ひろ子……プロではありませんが、絵描きの部類です。本籍は和歌山……東京に寄留しています。東京の住所を言いましょうか」 「ご随意に」 「世田ガ谷区深沢四十八、若竹荘……ヒネているように見えるでしょうけど、これでまだ二十五です……なにか、ほかに?」 「昨日、はじめて大池氏にお逢いになったということだが、大池氏とはどんな関係なんです」  湖水の風景をスケッチするつもりで、伊東から歩きだしたのだったが、分れ道の近くで雨に逢って困っているところを大池の車に拾われ、ロッジで泊めてもらうことになったという話をした。 「すると、まったくの出合だったんだね」  捜査一課の秀才は面白そうに笑っていたが、 「君は水泳はうまいですか」  と、だしぬけにたずねた。 「余談だけど、泳げばどれくらい泳げる?」 「あたし、和歌山の御坊大浜で生れて、荒波の中で育ったようなものなの……どれくらい泳げるかためしたことはないけど、飽きなければ、いつまででも泳いでいるわ」 「そうだろうと思った。水になじむ身体か、そうでないか、ひと眼でわかる……それで、あそこに乾してある服や下着は、君のものなんだね?」 「ええ、そう。みっともないものを掛けならべて、おはずかしいわ」 「昨日雨に濡れた? 丸山さんの話では、ほんの通り雨だったということだが、下着まで濡れるというのは……」 「雨のせいでなくて、靄のかかった湖の岸を歩いているうちに、朽木の根につまずいて、湖へはまりこんだというわけ」 「靄がかかっていた?……すると、朝の四時ごろのことでしょうが、そんなに早く、なにをしに湖水のそばへ行った?」  自殺するために、湖心へ漕ぎだすボートを探していた、といっても、通じるような話ではない。こんな連中に意想の中のことまでうち明ける気持はなかった。 「散歩よ……あたしたち、どうせ、気まぐれなのよ」 「それに、君の絵はユニークなものらしい。筆を使わずに、指で絵具を塗る指頭画というのがあるそうだが、君のはその流儀なんだね?」  指頭画……聞いたこともない。 「あたしの絵はそんなむずかしいもんじゃないのよ」  捜査一課の秀才はメモを取っている刑事に命令した。 「そこの絵具箱を、こっちへ……ついでに、シュミーズと運動靴を……」  刑事が言われたものを捜査一課のところへ持って行くと。秀才は笑いながら絵具箱の蓋をあけた。 「湖水の風景をスケッチに来たんだそうだが、このとおり、ブラッシュが一本も入っていない。それで、れいの指で描くやつかと思った……それから、この下着だが、君のものではないらしいね。貧乏だなんていっているが、これはタフタの上物だ。シャンディイのレースがついて、安いものじゃないよ」  大阪行の二等車の化粧室でお着換えしたとき、見かけだけに頼って、下着を変えることを考えなかった。細かいところまで考えぬいたつもりだったが、こんな抜けかたをするようでは、自分の思考もたいしたことはないと、急に気持が沈んできた。 「胸のところに色糸でK・Uという頭文字が刺繍してある……君の名は栂尾ひろ、当然、H・Tでなければならないわけだ」  顔色が変るのが、自分にもわかった。  宇野久美子は、豊橋と大阪の間で消滅し、栂尾ひろという無機物のような女性が誕生した。久美子のつもりでは、癌腫という残酷な病気を笑ってやる戯れのつもりだったが、抜きさしのならない嘘になって、きびしく跳ねかえって来ようとは、思ってもいなかった。 「この運動靴の底に、エビ藻とフサ藻が、躙りつけたようなぐあいになってこびりついている……湖や沼の岸にある淡水藻はアオミドロかカワノリ……エビ藻やフサ藻は、湖水の中心部に近いところに生えているのが普通だ……どうしてこんなものが靴底についたか? 深く沈んで、湖底を蹴りつけたからだとわれわれは考えるので、岸に近いところで落ちこんだという説には、承服しにくいのです。いま誰かつけてあげるから、どこで陥ったか、その場所をおしえてください」  私服に挟まれて、けさ落ちこんだ湖の岸を探しに行ったが、記憶がおぼろで、たしかにその場所を示すことはできなかった。  一時間ほど後、ひどく疲れてロッジへ帰ると、大池の細君と息子が着いていて、係官となにか小声で話していた。  大池の細君は、久美子がK・Uだと思いこんでいるらしく、こちらへ振返っては、いいしれぬ敵意のこもった眼差で、久美子を睨みすえた。  久美子は煖炉の前の揺椅子に沈みこみ、罪を犯したひとのように首を垂れ、理由のない迫害に耐えていたが、そのうちに、こんなことをしていること自体が、忌々しくて、我慢がならなくなった。  それにしても、なにか、たいへんなところへ陥りこんでしまったらしい。捜査一課の秀才の表現から推すと、自殺干与容疑か、自殺幇助容疑……悪くすると、偽装心中などというむずかしいところに落着くらしい形勢だった。  捜査一課は、いまのところ寛大ぶって笑っているが、いざとなったら、悚みあがるようなすごい顔を見せるのだろう。どのみち、警察へ持って行かれるのは、まちがいのないところだから、いまのうちに着換えをすましておくほうがいい。  久美子は生乾きのジャンパーや下着を腕の中に抱えとると、着換えをするために、二階の部屋へあがって行った。  死んだような静かな湖水の上で、ボートや田舟が錨繩を曳きながらユルユルと動きまわっている。それを見ているうちに、胸のあたりがムズムズして、笑いたくなった。 「マラソン競走は、あたしの負けだったわ」  寝室の扉口で大池の細君が癇癪をおこしている。 「あなたはここでなにをしているんです?……大池が死んでからまで、ベッドに這いこもうなんて、あんまり厚顔しすぎるわ。恥ということを知らないの」  母親の癇声を聞きつけて、息子なる青年が二階へ駈け上って来た。 「お母さん、みっともないから、怒鳴るのはやめてください」 「誰が怒鳴るようにしたの……あんな女の肩を持つことはないでしょう。はやく警察へ連れて行かせなさい。ともかく、この部屋から出てもらってちょうだい」 「出てもらいましょう……僕がよく話しますから、あなたは階下へいらっしゃい」  どんな扱いをされても、文句はない。久美子は窓のほうをむいて、しおしおと着換えにかかった。 「あなたは東洋放送の宇野久美子さんですね……テレビでお顔は見ていましたが、あなたがK・Uだとは知らなかった……何年も前から、いちどお目にかかりたいと思っていました……あなたのことは父から聞いていましたので、他人のような気がしなかったんです」  甘ったれた口調で、息子がそんなことを言っている。 「お出かけですか」  着換えをする手を休めて振返ると、階下へ行ったとばかし思っていた大池の長男が、まだ扉口に立っていた。  どこかで似た顔を見た記憶がある。  すぐ思いだした。『悪魔のような女』という映画で校長の役をやったポール・ムウリッスのある瞬間の表情……視点の定まらない、爬虫類の眠ったように動かぬ眼になる、あの瞬間の感じにそっくりだった。 「ここにお邪魔しているわけにはいかないでしょう。目ざわりでしょうしね……いつでも警察へ行けるように、支度をしているところ」 「私に出来ることがあったら」 「おねがいしたいことがあるんだけど」  長男が熱っぽくいった。 「ええ、なんでも」 「それで、あなた……」 「隆です」 「隆さん、あたしを一人にしておいていただきたいの……女が着換えをしているところなんか、見るほうが損をするわ」  それでも動かない。久美子は癇をたてて、ナイト・ガウンの上前をおさえながら隆のほうへ向きかえた。 「あたしの言ったこと、おわかりにならなかったかしら」 「よくわかっていますが、ちょっと……」  隆は広間に張りだした廊下のほうへ、ほのかな目づかいをしてから、上着のポケットからなにかだして、だまって夜卓の上に置いた。  久美子が湖水に身を沈める前に飲むことにしていた睡眠剤の小さなアンチモニーの容器だった。 「これが、どこに?」 「煖炉のそば……薪箱の中に」  ジャンパーの胸のかくしに入れておいた。椅子の背に掛けて乾かしているうちに、ころげだしたのらしい。 「ブロミディア……十錠が致死量とは、すごい催眠剤ですね」  死んだように動かない嫌味な眼を除けば、どこといって一点、特色のない平凡なサラリーマンのタイプだ。たいして頭のいいほうでもないらしいが、この青年は、久美子がなにをしようとしているか、もう察しているらしい。 「これを他人に拾われるまで、気がつかずにいるなんて……」  久美子は心の中で呟きながら、強く唇を噛んだ。  気の弛みから、ものを落したり、まちがいをしたりするような経験は、久美子にはまだなかった。自分の生存を断絶させようというのは、親譲りの癌腫というぬきさしのならない宿命にたいする崇高なレジスタンスなんだと自分では信じている。久美子のほか、たぶん神も知らない意想の中の秘密を、こんな愚にもつかない男に隙見されたかと思うと、口惜しくてひとりでに身体がふるえだす。とめようと思うと汗がでた。 「すごいというなら、阿片丁幾なんてのがあるわ。これは、たいしたもんじゃないのよ……どうも、ありがとう」  扉口から離れたので、階下へ行くのかと思ったら、そうではなく、足音を盗むようにしながら、ぬうっと久美子のそばに寄ってきた。久美子は気圧されてひと足、後に退った。 「警察の連中は……」  隆がささやくようにいった。 「あなたが父の後を追うようなことをなさるかと……いやな言葉だけど、後追い心中をするかと、そればかりを心配しているんです」  久美子は露骨に皮肉な調子で浴びせかけた。 「すると、これを返してくださるのは、どういうわけ?」 「いまのところ、あなたは自殺干与容疑の段階にいるんですが、父の死体が揚らないかぎり、逮捕することも身柄を拘束することもできないけれども、こんなものが見つかると、あなたはすぐ留置されます。容疑者の自殺は証拠湮滅の企図があるのだと解釈されるのです……あなたにしたって、なさりたいことがあるのでしょうから、自由をなくするのはお困りだろうと思って」  なにもかも、ひどい間違いだ。弁解する気にもなれないほどバカらしいと思うのだが、筋のとおらない論理に屈服することは、自尊心にかけても、我慢がならなかった。 「あたしの身柄はあたしで始末します。あたしの質問したことに答えてくださればいいのよ」 「どういうことですか」 「そこまでの親切があるなら、そっと隠しておいてくれればすむことでしょう。あたしに返すのは、どういうわけなの?」 「あなたは溺れかける父を見捨てて、泳ぎ帰ってきたひとでしょう?」 「それは反語ですか……たとえ、そうだとしても、あたしが自殺しないといえるかしら? いろいろと言いまわしているけど、あたしには反対の意味に聞えるのよ……睡眠剤を致死量だけ飲んで、はやくおやじの後を追ったらよかろう……」 「宇野さん、それは邪推ですよ。あなたの側に個人的な理由があるならともかく、父のためなら、たぶん、あなたはもう自殺なんかなさらないでしょう。いちど死神が離れると、とっつかまえるのはたいへんだといいますから……そういう懸念があるなら、いくら私でも、こんなものをお渡ししませんや」  たった一言、心の中の秘密をうちあけることができるなら、浅薄な論理をはねかえしてやることができるのだが……徹底的にうち負かされた感じで、抵抗する気になれないほど、久美子は弱ってしまった。 「隆……隆……」  甲走った声で大池の細君が広間から二階へ叫びあげた。 「あなた、そこでなにをしているんです」  隆が部屋の中から叫びかえした。 「まあ待ってください……いま話してるところだから」 「押問答をするほどのことはない。簡単なことでしょう。そこから出てもらえばいいのよ」 「ええ、いますぐ……」  隆は当惑したように微笑してみせた。 「母も私も、父とあなたの……なんというんですか、身体を括りあったみじめな死体が揚ってくるのかと、ここへ着くまで、そのことばかり心配していたのでしたが……」  雨雲がロッジの棟の近くまで舞いさがってきて、隆のいるあたりが急に暗くなった。見えないところから声だけがひびいてくるようで、合点がいかなかった。 「母にしても、生涯、心の滓になるような光景を見ずにすんだことを感謝しているはずです。それゃ、もうどうしたって、ね……なにか失礼なことをいっていますが、間もなく、落着くでしょう……あなたも気ぶっせいでしょうし、今夜はキャンプ村のバンガローで泊られたらどうですか。川奈ホテルでは遠すぎて、警察の連中が承知しないでしょうから」  そういうと、うなずくように軽く頭をさげて部屋から出て行った。 「ここから出られるなら、お礼をいいたいくらいだわ」  久美子は苦笑しながら呟いたが、いいぐあいにひきずりまわされているような、不安に似た感じからまぬかれることができなかった。  湖水に沿った道のほうでクラクションの音がした。  二時間ほど前、久美子が私服に附添われて湖畔へ出たとき、部長刑事から命令されて伊東のほうへ車を飛ばして行った連絡係の警官が帰ってきた。芝生の縁石のところで車をとめ、チラと二階の窓を見あげると、汗を拭きながらせかせかと玄関に入っていくのが見えた。またむずかしいことがはじまりそうな予感があった。  灰鼠の筋隈をつけた雨雲の下で、朝、見たときのまま、ボートや田舟が、さ迷う影のように、あてどもなく動きまわっている。大池というスポーティな紳士の死体は、湖底のどこかで、ひっそりと藻に巻かれているのだろうが、死んだあとでもなお執拗に絡みついて、久美子の運命を狂わせようとしている。大池の長男は、父の死体が揚るまでの自由、といった。たぶん、それにちがいないのだろう。いまは、わずかな息継ぎの時間。大池の死体が揚れば、訊問だの身許調査だの、うるさいこねかえしがはじまる。警察でも、大池を殺したとまでは思ってもいないだろうが、悪くすれば、すれすれのところまでいくかもしれない。これはもう、どうしたって避けることはできないのだ。  久美子は着換えをして運動靴を穿くと、ジャンパーの胸のかくしからコンパクトをだし、蓋の裏についている鏡をのぞいて、どんな訊問でもはねかえしてやる、図々しいくらいの表情をつくってみた。久美子自身は警察の連中を無視しているつもりだったが、こんなことをするようでは、やはり恐れているのだと思って、げっそりした。 「これはなんだっけ?」  コンパクトをジャンパーの胸のかくしに返そうとしたとき、なにか平べったい、丸く固いものが指先にさわった。指先に親しい感覚だ。  なんだろうと思いながら、とりだしてみると、アンチモニーの容器におさまったブロミディアの錠剤だった。  ジャンパーの胸のかくしから転げだしたのを拾われたのだと思っていたが、そうではなかった。隆が薪箱の中から拾ってきたアンチモニーの容器は、さっきのまま夜卓の上にある。おなじ容器におさめられたおなじ催眠剤にちがいないが、久美子が持っているのとは、ぜんぜん別なものであった。  久美子はベッドの端に腰をかけ、手の中のと夜卓の上にある二つの容器をジロジロと見くらべているうちに、隆という青年のいったことに、胡散くさいところがあるのに気がついた。  警察の連中や大池の家族がロッジに着く一時間ほど前、濡れものを乾すために薪箱の薪をあるだけ使って煖炉の火を焚しつけた……灰銀色の風変りなかたちをした軽金属の容器が薪箱の中にあったのなら、当然、久美子が見つけているはずだが、そんなものはなかった。 「嘘をいっている」  久美子は今朝からの細々とした気疲れで、ものを考えることがめんどうくさくなり、煙草の煙をふきあげながらぼんやりと曇り日の湖の風景をながめていたが、どういう連想のつづきなのか、昨夜、大池に殺されかけたらしいという意外な思念が頭の中を閃めき、そのショックで蒼白になった。  昨夜、大池と二人で夕食をしたとき、食べものか食後の飲みものに、相当大量のブロミディアをまぜて飲まされた……これはまちがいのないとこらしい。  酩酊状態の深い眠りが、その証拠だ。癌にたいする精神不安と、はげしい仕事のせいで、このところ、ずうっと不眠がつづいている。マキシマムに近い量のブロミディアを飲んで、やっと三時間ほど眠る情けない日常だ。  湖心に漕ぎだしてから飲むつもりで、昨夜はブロミディアを使わなかったのに、湖畔から帰るなり、広間の長椅子のベッドにころげこんで朝の五時ごろまで眠った。大池が広間を通ってロッジから出て行ったはずだが、それさえも知らなかった。  空が白みかけたころ、ボートをさがしに出て行った。永劫とも思える長い時間、靄の中を茫然と歩きまわり、辷ったり転んだり、湖水に落ちこんで、頭からびしょ濡れになったりしたが、夢の中の出来事のようで、細かいことはなにひとつ記憶にない。  禁止に近い量を常用しても、よく眠れないのに、あんな昏睡のしかたをしたところから推すと、よほどの大量を使ったのにちがいない。殺すつもりででもなければ、やれないことだ。  ほかにも、疑えば疑えることがある。キャンプ村のバンガローで泊るといったら、大池はいい加減なことをいって、キャンプ村に行かせなかった。久美子をロッジにひきとめようということなので、そうだとすれば、最初から殺意があったのだとしか思われない。 「あたしを殺せば、それでどうだというんだろう」  破産詐欺の容疑で、久しく逃げまわっていた大池忠平という人物は、ひどい淋しがり屋で、一人で自殺するのに耐えられず、行きずりに逢った女性を道連れにするつもりだったのか? それならそれで納得がいくのだが、二人でいた間の大池の言動を思いかえすと、モヤモヤしたわからないことがたくさんあって、どう考えても、そんな他愛のないことではなさそうだった。  いつの間にか眠ってしまったらしい。目をさますと一時近くになっていた。  広間へおりて行ってみると、本庁から来た連中は伊東署へひき揚げ、大池の細君と隆は川奈ホテルへ昼食に行き、丸山という年配の部長刑事が、昼食をつかいながら事故係の報告を受けていた。 「水藻は思ったほどではありません……湖岸と湖棚を終りましたから、午後から標識を入れて最深部をやります」 「ご苦労さん……夕方までに揚らなかったら、明日からアクア・ラングでやる。空気ボンベを背負うと、百メートルぐらいまでもぐれるそうだから」 「道具は?」 「道具は大池の伜が持ってきた。あれ一人にやらせるわけにもいくまいから、指導してもらって、交代でやるんだな……電話で報告しておいてもらおうか。本庁の連中がジリジリして待っているだろうから」  事故係の警官は敬礼をしてロッジから出て行った。 「丸山さん、お聞きしたいことがあるんだけど……」  捜査主任は箸の先に飯粒をためたまま、まじまじと久美子の顔を見返した。 「おう、そうだった……君の昼食を忘れていたよ」 「どうか、ご心配なく……」  久美子は言いたいだけのことを言ってやるつもりで、捜査主任と向きあう椅子にかけた。 「食べることなんか、どうだっていいけど、あたし、これからどうなるのか、お聞きしたいの……大池夫人は出て行けっていうけど、そういうわけにもいかないでしょう? 遣瀬ないのよ」  捜査主任は禿げあがった額をうつむけて、含み笑いをした。 「お察しするがね、気にすることはないよ」 「どうしても、ここに居なくちゃならないの?」 「どうしてもということはない。和歌山へ行こうと伊那へ行こうと、それは君の自由だ。呼出しを受けたら、その都度、伊東署へ来てもらえれば」 「すると、結局、ここから動けないということなのね」  捜査主任は微笑しながらうなずいてみせた。 「そのほうが、どちらのためにも都合がいいだろう、時間の節約にもなるし」 「死体があがるまで、こんなところで待っていなければならないというのは、どういうわけなんでしょう」 「君のためにも待っているほうがよさそうだ。検尿の結果、殺人容疑が、自殺干与容疑ぐらいで軽くすむかもしれないから」 「それは死体が揚れば、のことでしょう?……湖心に吸込孔があって、湖底が稚児ガ淵につづいているもんだから、この湖水で死体が揚ったためしがないってことだったけど」 「それは伝説だ……この湖は石灰質の陥没湖じゃないから、吸込孔などあろうはずはない。いぜんは深かったが、関東大震災で底の浅い湖水になった。白髪になるまで待たせはしないから、安心したまえ」  ちょっとしたことだと思っていたが、どうやら殺人容疑になるらしい。久美子は気分を落ちつけるために、煙草に火をつけた。 「災難ね……あきらめて、死体が一日も早く揚るように祈ることにしましょう。キャンプ村のバンガローへ移りたいんだけど、いいでしょうか」 「バンガロー……いいだろう」 「あたしはK・Uじゃないから、頼まれたって後追い心中なんかしません。その点、ご心配なく」  捜査主任はアルミの弁当箱をハトロン紙で包みながら、 「腹をたてているようだが、それは君が悪いからだよ」  と宥めるような調子でいった。 「偽名をつかったり、絵描きでもないのに絵描きだといったり、怪しまれるのは当然だ……君は東洋放送の宇野久美子というひとだろう」 「お調べになったのね」 「それはもう、どうしたって」 「あたしがK・Uでないことは、おわかりになったわけね」 「言ってみたまえ」 「お調べになったことでしょうから、ごぞんじのはずだけど、一月から四月の末まで、どの放送にも出ていました……最近のひと月は、病気でアパートにひき籠っていたし……」 「それで?」 「大池は今年のはじめごろから、K・Uという女性と二人で、日本中を逃げまわっていたということですが、すると、あたしはK・Uであるわけはないでしょう? そんな暇はなかったから」 「その点は諒承したが、さっぱりしないところがある。ここへ来る前日、君は家財道具を伊那へ送っている。郷里の和歌山へ帰るといって、十時何分かの大阪行に乗ったはずの君が、伊豆のこんなところにいる……なぜ、そういう複雑なことをするのか、その辺のところを説明してくれないかぎり、われわれは同情しない……曖昧なことばかりいっていないで、この事件から解放されるように心掛けたらどうだ。不愉快な目に逢うだけでも損だと思うがね」 「和歌山へ行くつもりだったのは事実ですが、人間、気の変ることだってあるでしょう。そんなことでご不審を受けるのは心外よ」 「昨日の午後、川奈へ行く分れ道の近くで、大池の車に拾われたといったが、それは大池の気まぐれだったのか」 「たぶん、ね」 「その辺のところが理解しかねる……今夜にでも自殺しよという切羽詰った境遇にある男が、行きずりに、知らぬ女を拾って、家へ泊めたりするものだろうか? いぜん、なにか関係のあった女なら、話は別だが……」 「なにかの都合でK・Uの代用品のようなものがほしかったんじゃないかしら……K・Uなんて女性、ほんとうに存在するのかどうか知らないけど」  捜査主任はなにか考えていたが、伏眼になって苦味のある微笑を洩した。 「君はふしぎなことをいうね。捜査二課では、半年がかりで大池とK・Uという女性を追及しているんだが、君はK・Uなんていうものは存在しないという」 「それはそうだろうじゃありませんの。恋文だけがあって、誰も顔を見たことがないなんていう、あやしげな存在、あたし信用しないわ……大池というひとにしたって、ほんとうに自殺したのかどうか、死体を確認するまではわからないことでしょう」 「大池はたしかに自殺したらしい……この先、まだ逃げまわるつもりなら、伊豆の奥の、こんな袋の底のようなところへ入ってくるわけはないから……われわれの見解はそうだが、大池が生きているという事実でもあるのかね」  そういうのが警察の常識なら、決定的な場で、追及の裏をかく手もあるわけだと、久美子は考えたが、それは言わずにおいた。  警察から伝達があったのだとみえて、夕方、キャンプ村の管理をしている石倉が機外船で迎いにきた。 「ご苦労さま」  久美子が乗りこむと、機外船はガソリンの臭気とエンジンの音をまきちらしながら、対岸の船着場のほうへ走りだした。 「結局、バンガローへ行くことになったわ」 「バンガローといっても、ぼくの三角兵舎みたいなもので……荒れていますから、お気持が悪いでしょうが、湖畔のいちばん綺麗なのを掃除しておきました」 「あてなしに、フラリと出てきたもんで、飯盒も食器も持っていないんだけど、食事、どうしたらいいのかしら」 「ご食事はバンガローへお運びします」 「それは、たいへんよ……あなた、錨繩を曳く仕事があるんでしょう。飯盒を貸してくだされば、じぶんでやります」 「夜は、仕事がないのですから、お気づかいなく」  風が出て空が晴れ、雲の裂目から茜色の夕陽が湖水の南の山々にさしかけた。  樹牆のように密々と立ちならぶ湖畔の雑木林の梢の上に、ロッジの屋根の一部と赤煉瓦の煙突が、一種、寂然たるようすであらわれだしている。植物のつづきのようで、家があるようには見えず、なにか異様な感じだった。 「石倉さん、あのロッジはどうした家なのかしら。あんなところにポツンと一軒だけ建てたというのは……別荘というにしては、すこし淋しすぎるようね」 「あれはリットンというイギリス人の持家で、冬になると、そこらじゅうの西洋人が駕籠に乗ってやってきて、広間で夜明しのバクチを打っていたそうで……そういう因縁のある家なんです。大池さんがお買いになったのは、戦後のことですが、妙な噂があって思いが悪いので、私なども、極力、反対したのですが、大池さんも、とうとう、こんなことになってしまって……」  そういうと、湖心の最深部の輪廓をしめす、赤旗の標識を指さした。 「あの旗の立っているところが湖水のいちばん深いところです……明日、ご子息さまが潜水具をつけて潜られるそうですが、湖盆の深所の中ほどのところに、大きな吸込孔があるので、とても、いけまいと思います」 「つまり、死体が揚らないだろうということなのね」  石倉は重々しく首を振った。 「アクア・ラングなんかじゃ、仕様がない。本式の潜水夫を入れないことには、どうにもならないというこってす」  久美子はさり気なくたずねてみた。 「吸込孔って、どんなぐあいになっているものなの?」 「湖盆の深所まで五十メートル……そこから孔になって更に百メートル……その先、どれほど深いか測ったことがありません」  捜査主任は、湖底平原の吸込孔は、陥没湖の可容性地層が溶けてできるものだから、この湖に吸込孔はあり得ないといった。言われてみれば、そのとおりで、火口状の凹地に湛水した火口原湖に、水の湧く吸込孔などあるはずがない。石倉がなんのためにありもしない吸込孔を、あると言い張るのか理解できなかった。  石倉の選んだバンガローは、キャンプ村の端れにあって、船着場のそばに一つ離れて建っていた。窓のない柿葺の小屋で、二坪ほどの板敷に古茣蓙を敷いてある。入口の扉は乾反って片下りになり、どうやってみても、うまくしまらなかった。  一時間ほど湖畔を散歩して、バンガローへ帰ると、夕食が届いていた。罐詰のシチュウとミートボール……昨夜、ロッジで夕食に出たのと、おなじものだった。 「おお、いやだ」  昨夜は成功しなかったから、もういちど、やってやれというわけか? 「あたしは殺される」  なんのためだか知らないが、そういう形勢になっているらしい。  いまになれば、思いあたるのだが、今朝、石倉が自転車でロッジへやってきたのは、当然、死んでいるはずの人間を、検察に来たのだ。久美子がガウンの裾をたくしあげながら玄関へ出て行くと、石倉は意外と失望のまじった、遣瀬ないような顔をした。表情がすべてを語っていた……  険呑な境涯に落ちこんだ。自分の力で身をまもるほか、やりようがない。暗くなるのを待って、夕食に出たものを裏の草むらに捨て、眠るとあぶないと思って、朝まで眼をあいていた。  翌朝、十時ごろ、隆と石倉がバンガローへやってきた。 「宇野さん、これから父の死体をあげますから、いっしょに船に乗ってください」  あまり悧口ではないようだ。もう、わかってもいいはずなのに、まだ、こんなことをいっている。 「なぜ、あたしがそんなおつきあいをしなくちゃ、ならないの」 「あなたは父の死際に薄情な真似をした。せめて、水から揚るところを、見てやってくれとおねがいしているんです」  久美子は腹をたてて、大きな声でやりかえした。 「なんであろうと、強制されるのは、まっぴらよ」 「昨日、捜査主任に、父の死体は揚らないだろうといったそうですね。父の死体が揚ると、困ることがあるんでしょう」 「そんなふうには言わなかったわ……探しても見つからないなら、最初から死体なんか無かったんだろう、と言ったのよ」 「それは、どういう意味ですか」  久美子は怒りに駆られて、心にあることを、そのままぶちまけた。 「湖水の底を探すより、キャンプ村のバンガローでも探すほうが早道だろうということよ」  石倉が軋るような声でいった。 「大池さんはバンガローにはいません。居たら幽霊だ……バカなことを言っていないで、船に乗ってください」 「それで、どこを探そうというの?」 「昨日も申しましたが、最深部の吸込孔を」 「この湖水に、吸込孔なんか、あるんでしょうか」 「湖水を知り尽しているようなことをいうけど、もし、吸込孔があったらどうします」 「あるなら、見物したいわ……あたしにとっても、興味のあることなのよ」 「お見せしましょう」  アクア・ラングを積んだ平底船が船着場に着いていた。  もう夏の陽射しで、シャボンの泡のような白い雲の形が波皺もたてぬ湖面に映っている。警察の連中の乗ったボートや田舟が、岸に近い浅いところを、錨繩を曳きながらゆるゆると動いていた。十分ほど後、平底船は浮標に赤旗をつけた二つの標識の間でとまった。 「ここです」  隆は挑みかかるような調子でいうと、空気ボンべのバルブを調節して、足にゴムの鰭をつけた。そのあたりは、水の色が青々として、いかにも深そうな見かけをしているが、それは側壁に繁茂した水藻の色なので、こんな底の浅い断層湖に吸込孔などあるわけはなかった。 「それがアクア・ラングというものなの? 大袈裟な仕掛けをするのはやめなさい。こんな浅い湖なら、鼻をつまんだまま潜ってみせるわ……ちょっと行って、見物してくるわ」  水に入るのは、何年ぶりかだった。水の楽しさが肌に感じられる。久美子は着ているものをみな脱ぎ捨て、イルカのように湖水に飛びこんだ。上からくる水明りをたよりに、藻の間をすかして見る。十メートルほど下に、側壁のゆるやかな斜面が見える。その先は堆積物に蔽われた湖底平原だった。  上のほうから黒い影が舞い降りて来た。アクア・ラングをつけた隆だった。 「やるつもりだな」  こうなるような予感があった。  こんな男とやりあう気はない。久美子は水をあおりながら横に逃げた。相当、ひき離したと思っていたのに、隆はすぐ後へ来ている。ゴムの鰭をつけているせいか、意外に早いのだ。反転して上に逃げる。間もなく水面へ出ようというとき、石倉の身体がまともに落ちかかってきた。 「ああ、やられる」  隆が右足にしがみつく。石倉の腕が咽喉輪を攻める……胃に水が流れこみ、肺の中が水でいっぱいになる。久美子は空しい抵抗をつづけながら、だんだん深く沈む。水明りが薄れ、眼の前が真っ暗になった。  久美子は霞みかける意識の中で敏感すぎたせいで殺されるのだと、はっきりと覚った。  三時近くになって、本庁の加藤主任のパッカードがロッジの前庭に走りこんできた。そのうしろから県警の連絡員が乗ったジープがついてきた。  加藤組の私服たちはジリジリしながら主任の来るのを待っていたらしい。ガレージの前で同僚と立話をしていた木村という部長刑事は主任の車を見るなり、あたふたとドアを開けに行った。 「部屋長さん、お待ちしていました。どこにいらしたんです」 「県警本部へ連絡に行っていた」  加藤主任はすらりと車からおりると、ガレージの前にいる年配の私服に声をかけた。 「畑中君、ちょっと」  畑中と呼ばれた私服は、はっというと、二人のそばへ飛んできた。 「打合せをしておきたいことがあるんだ……湖水のそばで一服しようや」  林の中にうねうねとつづく、茶庭の露地のような細い道をしばらく行くと、だしぬけに林が終り、眼の前に湖の全景がひらけた。  朽ちかけた貸バンガローが落々と立っているほか、人影らしいものもなかった対岸の草地に、大白鳥の大群でも舞いおりたようにいちめんに三角テントが張られ、ボーイ・スカウトの制服を着たのや、ショート・パンツひとつになった少年が元気な声で笑ったり叫んだりしながら、船着場に沿った細長い渚を走りまわっていた。  葉桜になった桜並木のバス道路に、大型の貸切バスが十台ばかりパークしていて、車をまわす空地もないのに、朱と水色で塗りわけた観光バスがジュラルミンの車体を光らせながら、とめどもなくつぎつぎに走りこんでくる。観光バスのラジオの軽音楽と、ひっきりなしに呼びかけているキャンプの拡声器のアナウンスが重なりあい、なんともつかぬ騒音になってごったかえしていた。  捜査一課の主任は煙草に火をつけると、陽の光にきらめく湖水を眼を細めてながめていたが、舌打ちすると、 「厄介なことになったよ」  と忌々しそうにつぶやいた。  畑中が詫びるようにいった。 「土、日は、どうもやむを得ないので」 「土、日は、言われなくともわかっているさ。だいたい、どれくらい入っているんだ」 「横浜の聖ヨセフ学院の百五十名、ジャンボリー連盟の二百名……いまのところ四百名たらずです……死体捜査の邪魔になるし、こっちの岸へやってこられると困るから、絶対にボートを貸さないように管理人に言っておきました」 「そうまですることはない。おれの言っているのはべつなことだ……それで、女はどうなった?」  畑中にかわって木村がこたえた。 「今日一日、安静にしておけば回復するだろうといっていました」  主任は火のついた煙草を指ではじき飛ばすと、むっつりとした顔で下草のうえにあぐらをかいた。 「そんな簡単なことだったのか。電話の報告じゃ、いまにも息をひきとりそうなことをいっていたが」 「引揚げたときは、ほとんど参りかけていたんですが、あまり水を飲んでいなかったので、心臓麻痺の一歩手前で助かりました」 「二分近く、水の中であばれていたんだって?……いったい、なんのつもりで、湖水に飛びこんだんだい?」 「あの女のすることは、われわれにはわかりません……湖底に吸込孔があるとかないとかという口争いになって、そのうちに、いきなり飛びこんじゃった……一分以上経ってもあがってこないもんだから、大池の伜が心配して、空気ボンべを背負ってようすを見に行くと、いきなり水藻の中から出てきて、送気のゴム管を握って沈めにかけたというんです」 「妙な話だな。それを誰がいうんだ」 「大池の伜が……それで石倉という管理人が引分けに行ったが、あばれて手に負えないので、片羽絞めで落しておいて、やっとのことでひきあげたんだそうです」  主任はなにか考えてから、木村にたずねた。 「近くに、舟がいたか」 「私が……」  と畑中がこたえた。 「二百メートルほど離れたところで錨繩を曳いていました。女の飛びこむところは見ませんでしたが、女をひきあげる前後の状況はだいたい事実だったように思います」 「それで?」 「ずっと酸素吸入をしていましたが、今のところまだ意識不明です」 「病院へ送ったろうね」 「いえ、病院に持ちこむには、行路病者の手続きをしなくてはならないので、ロッジのガレージにおいてあります」 「あの女に死なれると、捜査のひっかかりがなくなるんだぜ。なぜ、そんなところへおく」 「大池の細君が、どんなことがあってもロッジに入れないと突っぱるもんでね……といって、コンクリートの床に寝かされもしない。マトレスの古いのを一枚借りだすのがやっとのことでした」 「医者がついているのか」 「医者も救急車も、一時間ほど前にひきあげました」  主任の額に暗い稲妻のようなものが走った。 「いい加減なことをするじゃないか。看護もつけずに放ってあるのか」 「大池の伜がつきっきりで看ています。現在、築地の綜合病院でインターンをやっているんだそうで……」 「大池の伜というのは、いったい何者なんだ。そんなやつに共犯を預けて、安心していられるのか。裏でどんな軋りあいになっているか、わかったもんじゃない」 「部屋長さん、その点なら、心配はいらないように思いますがね」  木村が笑いながらいった。 「大池の伜は、あの女に惚れているらしいですよ。たいへんな気の入れかたでね、舟からあげたときなどは、涙ぐんでおろおろしていました……父親の色女に惚れてならんという法律はないわけだから……」  主任が閉てきるような調子でいった。 「畑中君、石倉という管理人の経歴を洗ってくれないか」 「はっ」 「大池との関係も、くわしいほどありがたい……それから大池の細君の身許調査は?」 「二課にあるはずです」 「一括して、捜査本部へ送るように、至急、申送ってくれたまえ」 「かしこまりました」 「畑中君、二課の神保組はなにをしている?」 「根太をひンぬくような勢いで、六人掛りで大ガサをやっています……六千万からの証券を、こんな窮屈なところへ隠しこむわけはないと思うんだが……二課のやることは、われわれには理解できないです」 「大池が死体になって湖水の底に沈んでいようなんて、頭から信じてかかっているものは一人もいないが、この湖で自殺するという遺書があれば、やはり錨繩を曳いて死体の捜査をしなくてはならない。それとおなじことだよ……神保君が待っているだろう。そろそろ行こうか」  三人がロッジに戻ると、捜査二課の神保組と伊東署の丸山捜査主任が広間の隅の床の上にあぐらをかいて煙草を喫っていた。  徹底的にロッジの中を洗いあげたふうで、家具はみなひっくりかえされ、曳出しという曳出しは口をあき、颱風でも吹きぬけて行ったようなひどいようすになっていた。 「おい、加藤君……」  神保部長刑事が広間の隅から呼びかけた。 「宇野久美子の装検をしたら、ジャンパーのかくしからこんなものが出てきたぜ」 「なんです」 「ブロミディア……普通にブロムラールといっているブロバリン系の催眠剤だ」  そういいながら、アンチモニーの小さな容器を手渡した。 「それで?」 「十グラムが致死量だというから、相当、強力なやつにちがいない。こんなものを持っているところをみると、あの女も自殺するくらいの気はあったのらしい……あの女の行動に、常識では解きにくいような不分明なところがあるが、これで、いっそうわからなくなった」 「まったく、正体が知れないというのは、あの女のことです」 「大池は自殺したのか、生きているのか、どっちかわからないが、逃げようと思えば逃げる機会はあったはずなのに、嫌な目にあうのを承知でこんなところに居残っているのは、いったい、どういうわけなんだ」 「神保さん、そのことなんだ……私は三分の迷いを残して、大池は自殺したのだと考えるようにしていたが、宇野久美子のありかたを見ていると、大池は死んだのではなくて、どこか近くに隠れていて、宇野久美子と連繋をとりながら脱出する機会をねらっているのだと想像しても、おかしいことはないと思うようになった」 「考えられ得ることだ」 「大池が自殺したのでなければ、これははじめから企んでやった偽装行為だ。この辺のところは簡単明瞭だ……捜査二課の追及は相当執拗だったから、さすがの大池も疲労してこんなトリックをつかって捜査を中止させようとした……自殺する場所はどこにでもあるのに、この湖水をえらんだのは、死体があがったためしがないという伝説を利用するつもりだったのだろう……幼稚だが、思いつきは悪くない。われわれでさえ、暗示にひっかかって、身を入れてやれなかった」 「話はわかるがね、判定してかかっていいのか」 「公式的でおはずかしいが、こういうことじゃなかったかと思うのだ……木曜日の午後に湖畔に着く。金曜日の未明までに偽装の作業を完了する。女はロッジに残ってわれわれの出方を見ている……あるいは妨害をして死体の捜査を遅らせる」 「宇野久美子が湖水へ飛びこんだのは、捜査を遅らせるための所為だったというわけか」 「そうもとれるということだ……そうして、われわれを湖のまわりに釘づけにしておいて、土、日の夕方、観光バスにまぎれこんで、袋の底からぬけだす……悲しくなるほど単純なところが、この企画のすぐれているゆえんだ。われわれがひっかかるのは、得てして、こういう単純なことにかぎるんだから」 「大池はどこにいる?」 「それは土地署の練達に伺うほうが早道だ……丸山さん、大池が生きているとすれば、どの辺にいるでしょう。可能性のことだが」  丸山捜査主任は、図面を見てくださいといいながら、床の上に地図をひろげた。 「二十三日の金曜日の朝以来、萩、十足、湖水の分れ道、吉田口……この四ヵ所で終日検問を実施しているが、大池らしいやつが出た形跡がないから、潜伏しているなら、湖水を中心にした十号国有林の中以外ではない……このロッジの地境に猪除けの堀がありますが、そのむこうが十号国有林の北の端です……いまは気候がいいから、そのつもりでテントや食糧を用意して入れば、二ヵ月や三ヵ月は平気でしょう……ただし、つかまえようということになったら、五百人ぐらいも人を出して山狩りをしないことには、どうにもならない。また、そうしたからといって、かならず成功するとは保証できません」  神保部長刑事が思いついたようにいった。 「加藤君、昨日は、警戒されて失敗したが、もういちど宇野久美子を泳がせてみるか。大池としては企図したことが成功したんだから、そんなところにこれから幾月も隠れていることはない。できるだけ早くぬけだしたいと思うだろう」 「そうはいうが、あいつはひどく敏感だから、かんたんには欺せないよ……泳ぎだすどころか、昨夜はバンガローで朝まで眼をあいていた」  久美子は重苦しい意識の溷濁の中で覚醒した。  眼をあいて瞬きをしているつもりなのに、冥土の薄明りとでもいうような、ぼんやりとした微光を感じるだけで、なにひとつ眼に映らない。  湿っぽいブヨブヨしたものの上に仰臥しているのだが、虚脱したようになって身動きする気にもならない。なにかもの憂く、もの悲しく、ひとりでに泣けそうになる。  この感覚におぼえがあった。 「……また、やった」  夜明しのパーティでつぶれてしまい、やりきれない疲労と自己嫌悪の中で眼をさますあの瞬間――眼をさましたといっても、はっきりとした自覚があるわけではない。遊び呆けたあとの憂鬱が身体に沁みとおり、わけもなく飲みつづけたコクテールやジン・フィーズの酔いで手足が痺れ、そのまま、ふと夢心地になる…… 「それにしても、あたしはどこにいるんだろう」  掌で身体のまわりを撫でてみる。マトレスの粗木綿のざらりとした感触。マトレスの下は冷え冷えとしたコンクリートの床だ。マトレスの上に、下着もなしに裸で寝ているらしい。おかしなこともあるものだ。  記憶に深い断層が出来、時の流れがふっつりと断ち切られ、どういうつづきでこんなことになったのか思いだせない。昏睡し、しばらくして、また覚醒した。こんどはいくらか頭がはっきりしている。なにも見えなかったはずだ。眼の上に折畳んだガーゼが載っている。  ガーゼをおしのけ、薄眼をあけて見る。意外に低いところに天井の裏側が見えた。三方はモルタルの壁で、綰ねたゴムホースや、消火器や油差などが掛かっている。頭のほうに戸口があって、そこから薄緑に染まった陽がさしこんでいる。頭をもたげると、戸口を半ば塞ぐような位置にプリムスの後部が見えた……湖水の分れ道で久美子が拾われた、れいの大池の車だった。 「ガレージ……」  ロッジの横手にあるガレージのコンクリートの床の上にマトレスを敷き、裸身にベッド・カヴァーを掛けて寝かされているというのが現実らしい。  髪がグッショリと濡れしおり、枕とマトレスに胡散くさい汚点がついている。足が氷のようだ。 「寒い……」  と呟きかけたひょうしに、咽喉のあたりに灼けるような痛みを感じた……それで、いっぺんに記憶が甦った。石倉に首を絞められ、水藻のゆらぐ仄暗い湖水の深みで必死に藻掻きながら、死というものの顔を、まざまざとこの眼で眺めた恐怖と絶望の瞬間。 「ああ」  久美子は悚みあがり、われともなく鋭い叫声をあげた。  まさに絶えようとする時の流れ……必死に抵抗していたのは、一秒でも長く命をつなぎとめようという、ただそのための藻掻きだった。  死ぬことなんか、なんでもないと思っていたのは、なにもわかっていなかったからだ。あの辛さの十分の一でも想像することができたら、自殺しようなどという高慢なことは考えなかったろう。 「あたし助かったんだわ」  自分というものを、こんなにいとしいと思ったことがなかったような気がし、久美子は感動して眼を閉じた。 「気がつかれましたね」  隆は久美子の顔をのぞきこむようにしてから、仔細らしく脈を見た。 「もう大丈夫ですが、覚醒したら、臨床訊問をするといっていますから、念のためジガレンを打っておきましょう」  久美子は無言のまま、マジマジと隆の顔を見あげた。なぜか、ひどく寛大な気持になり、怨みも憎しみも感じない。湖底の活劇は、遠いむかしの出来事のようで、いっこうに心にひびいて来なかった。 「こんなこともあろうかと思って、いろいろ用意してきたのですが、お役にたったようで、私も満足です」  注射器に薬液をみたして久美子の上膊に注射すると、撫でさするようなやさしさで、そこを揉みつづけた。 「宇野さん、よけいなお節介をして、あなたを死なせなかったのを、怒っていられるんじゃないですか……もし、そうだったら、お詫びしますが、私としては、あの場合、どうしたってあなたを死なせるわけにはいかなかった」  意外なことを聞くものだ。久美子はムッとしかけたが、相手になることもないと思って、返事もせずにいた。 「引揚げようとすればするほど、深く沈もうとなさる。最後は、水藻にしがみついて離れようとしないんだから、強かった」  隆の眼頭に、一滴、キラリと光るものを見て、久美子はあわてて眼をそらした。 「溺れかける父を見捨てて、泳ぎかえってくるような、非情な方だと思っていましたが、まったくのところ誤解でした……そんな方だったら、父にしても、あれほど強くあなたに惹かれることはなかったろうし……はじめから、わかりきったことだったのです」  久美子は、そっと溜息をついた。 「死んだ私の母のことは、あなたもよくごぞんじのことでしょうが、テレビではじめてあなたを見たとき、死んだ母の若いときの顔によく似ているし、名が宇野久美子だから、父のいうK・Uという女性は、あなたではないかと思ったことがあります。父には言いませんでしたが、私があなたのどこに惹かれるのか、よく知っているので、父の心情は、手にとるようにわかりました……父は不幸な再婚を後悔していたし、家庭がみじめになればなるほど、あなたのほうへ向いて行ったその気持も……」  久美子は、たまりかねて遮った。 「ああ、そのことなら、もう結構よ」  隆は、はっと眼の中を騒がせると、搏たれたように急に口を噤んだ。 「そんなことより臨床訊問……このうえ私からなにを聞きだそうというのかしら。言うだけのことは言いつくしたつもりだけど」 「あの連中がコソコソ言っているのを耳に挟んだのですが、あなたの供述書で逮捕状を請求したら、こんな不完全な内容で令状が出せるかと、令状係の判事に拒絶されたそうです。早急に死体があがる見込みがないので、伊東署の捜査本部を解散して、東京へ引揚げるといっていますから、訊問といっても、行掛り上、一応、形式をととのえるという程度のことではないでしょうか。そのほうはたいしたことはないでしょうが、私が心配しているのは、あなたのことなんです……心臓衰弱の気味だから、乗物に乗るのは、ちょっと無理です。傍にいてあげられればいいのですが、病院の仕事があるので、私は夕方までに東京へ帰らなくてはなりません……母はあなたをロッジへ入れないなんて、愚にもつかないことをいっていますが、気になさらないで、ロッジで今日一日静かにしていらして、いい頃にお帰りになるように」  言い憎そうに眼を伏せ、 「おしつけがましいのですが、今朝のようなことはしないと約束していただきたいのです。さもないと、私は東京へ帰ることができません。それでは困るから……」  と、つぶやくようにいった。  ロッジの二階の大池の部屋に運びあげられると、加藤主任がやってきて、そばの椅子に掛けた。 「やっと人間らしい顔色になった。一時は、だめかと思ったんだが」  はじめからこんな調子でやってくれたら、逆らうことはなかったのだ。久美子は愛想よく微笑してみせた。 「なんのつもりで、呼吸のとまるまで水にもぐったりするんだ? 人騒がせにもほどがある。なにをしようと勝手だが、捜査の邪魔をすることだけは、やめてもらいたいね」 「はずみでやったことなんだけど……お手数をかけました」 「君には手を焼いた。とても面倒は見きれないから、さっさと、どこへでも行ってくれ」  膝の上に書類をひろげて、 「いま、これを読むから、相違した点がなかったら、署名して拇印をおしてくれたまえ」 「それは供述書というやつなの」 「そんなむずかしいもんじゃない……捜査調書の抜萃……宇野久美子に関係のある部分だ。われわれの仕事は、確認という形式を踏まなければ体をなさないのだから、どうしようもないのだ。概略だよ、いいね……東洋放送の宇野久美子、すなわち君は五月二十日、郷里の和歌山市に帰る目的で、二十一時五十分、東京駅発、大阪行の一二九号列車に乗ったが、途中で気が変って……ここは君が供述したとおりになっている……翌、二十一日、三時五十四分に豊橋に下車。七時〇分の東京行に乗った。十一時三十分、熱海駅着、十一時四十分の伊東行に乗車、十二時十二分、伊東駅着……店名失念の駅前食堂で中食、遊覧の目的で徒歩で湖水に向った……二時すぎ、湖水の分れ道、その附近で雨に逢った……雨の中を歩いていると、東洋相互銀行……通称、東洋銀行の取締役頭取……大池忠平の運転するプリムスが通りかかり、宇野久美子にたいして乗車をすすめた……宇野久美子はプリムスに乗ってそのまま大池所有のロッジに至った。一晩だけならお宿をしようというので一泊することにきめた。六時半ごろ大池と夕食をし、食後一時間ほど湖畔を散歩し、八時近く、ロッジに帰ると、大池はすでに二階の寝室に引取って広間には居なかった。宇野久美子はその後、大池忠平を見ていない……翌、二十二日、午前八時ごろ、湖水会の管理人、石倉梅吉が自転車で大池の在否を聞きに来たので、宇野久美子は不在だと答えた。同日、十時ごろ、石倉から、大池さんは湖水に投身自殺されたらしいという報告を受けた……だいたい、こんなところだ」  そういうと、畳紙の写真挟みから手札型の写真を出して久美子に渡した。 「それが大池忠平の顔写真だ……湖水の分れ道で君を拾ったのがその男だったはずだ。写真を見て確認してくれたまえ」  久美子は仰臥したまま、写真を手にとって見た。 「これはあたしを拾ったひととちがうようだ」  よく似ているが、誰か別な人間の顔だ。  プリムスに乗っていた大池忠平の顔には、生活の悪さからくる陰鬱な調子がついていたが、写真の顔はどこといって一点、翳りのない明るい福々とした顔をしている。額の禿げかたもちがう。プリムスのひとの額は、面擦のように両鬢の隅が禿げあがっていたが、写真のほうは、額の真甲から脳天へ薄くなっている。額のほうはいいとしても、首のつきかたも肩の張り方も、ここがこうと指摘できるほど、はっきりとちがうが、それを言いだせば、またむずかしくひっかかってくる。  久美子は浮かない顔で考えこんでいたが、どうしたって真実を告げずにすますわけにはいかないので、思いきっていった。 「確認するもしないも、写真のひとが大池忠平にまちがいないのなら、ロッジにいたのは、確実にべつなキャラクターだわ」  主任は眉をひそめて、背筋をたてた。 「大池じゃないって?」 「よく似ているけど、はっきりとちがうのよ」  そうして、異なる印象のニュアンスを、できるだけくわしく説明した。  主任は薄眼になって聞いていたが、やりきれないといったようすで、クスクス笑いだした。 「さすが、芸術家の観察はちがったもんだね。お話は伺ったがデリケートすぎて、われわれにはよくわからない。レンズには収差というものもあるし、額のあたりにハイ・ライトがかかると、実際より強い感じになることもある……あまり世話を焼かせずに、署名したらどうだ」 「それでいいなら、喜んで署名するけど、キャラクターだけのことではなくて、ほかにも、いろいろと妙なことがあったのよ」  鍵のかかるバンガローなんか一つもないのに、鍵を預っている男が吉田へ行っているから、バンガローは使えないだろうといったこと、部屋の中はうっとうしいくらいの陽気なのに、むやみに松薪をおしこんで、煖炉を燃やしつけたこと、大池のボートならロッジの近くの岸にあるべきはずなのに、一町も離れたところに繋いであったこと、なにかの方法で催眠剤を飲ませられたらしくて、翌朝まで酩酊状態が残っていたこと……心にかかっていたことを、ありったけ吐きだしたが、主任は笑うばかりで相手にもならなかった。  石倉があらわれるかと、ひそかに怖れていたが、いそがしいのか、石倉はあらわれず、伊東署の連絡係の若い巡査が心をこめて夕食の世話をしてくれた。  食慾はなかったが、無理をして、パン粥を一杯食べた。 「おいしかったわ」 「食が細いねえ。もうすこし、やったらどうだ」 「心臓のところが重っ苦しくて、食べられないのよ」 「そうか。無理をしちゃ悪いな」  しみじみとして、残っていられるなら、残っていてもらいたかったが、七時ごろ、おだいじにと言って帰って行った。  夜になると、対岸の草地でジャンボリーがはじまった。キャンプ・ファイヤーを囲んで讃美歌やボーイ・スカウトの歌を合唱している。  降るような星空の下、釉薬を流した黒い湖の面に、ちりばめたようにキャンプ・ファイヤーの火の色がうつり、風が流れると、それが無数の小さな光に細分され、眼もあやにゆらゆらとゆらめきわたる。  久美子は子供たちの合唱を聞くともなく聞きながら、空の中にある満々と張りつめたもののたたずまいをぼんやりとながめていたが、そのうちに、なんともつかぬ嫌悪の念に襲われて、枕に顔を伏せた。  昨日まで、あんなにも心を惹かれた湖の風景が、なぜか嫌らしくて見てやる気もしない。安らかな方法で自殺しようなどと、あてどもないことを考えていたが、そんな方法はありえないことを身をもって学んだ。父のように肝臓癌で阿鼻叫喚のうちに悶死するにしても、たぶん、もう二度と自殺しようなどとは考えないだろう。  久美子は自嘲するようにニヤリと笑った。 「たいへんなことになった」  自殺という作業を完成しようと、それだけにうちこんできたが、その目標が失われたので、することがなくなった。古びた生活の糸で、昨日と明日の継ぎ目を縫いつづけなくてはならない。夢や希望がなくなり、憎しみだけがふえ、ひねくれた、意地の悪い、ご注文どおりのオールド・ミスになっていくのだろう。  子供たちはジャンボリーに飽き、湖水めぐりを始めたらしく、高低さまざまな歌声が湖畔の南側をまわってロッジのほうへ近づいてくる。  久美子は強いて眼を閉じたが、今日一日のさまざまな出来事が頭の中で波うって、どうしても眠ることができない。心臓には悪いが、ブロミディアにたよるしかないと思い、ベッドから這いだし、ジャンパーをとりに階下の広間におりた。  ジャンパーの胸のかくしから、ブロミディアの容器をとりだし、水をとりに厨のほうへ行きかけたとき、風呂場につづく裏口のほうで、うさんくさい足音が聞えた。  ガレージの横手をまわり、芝生の縁石を踏みながら裏口に近づいて来る。 「誰だろう」  遅いというほどの時間ではないが、玄関をよけて裏へまわりこんでくるのが納得がいかなかった。久美子は広間の中ほどのところに佇み、秘密めかしい訪問者の入ってくるのを辛抱強く待っていた。  煖炉の右手の扉のノッブがそろそろと動き、音もなく開いたドアの隙間から黒い人影が広間に辷りこんできた。 「ああ」  大池忠平と名乗ったあのスポーティな紳士だった。全身びしょ濡れになり、芯のぬけた、とほんとした顔で立っている。 「こんどこそ殺られる……」  久美子は声にならない声で悲鳴をあげながら、片闇になった階段の下へ逃げこんだ。  偽装自殺が成功するかしないかという瀬戸際に、危険をおかしてロッジへ入りこんでくる以上、なにをするつもりなのかわかっている……今朝、石倉がやりかけたことを、大池忠平が完了しようというのだ。  風の中に歌声がある。  カンテラを持って、湖畔を練り歩いている子供達の歌声が、湖の東岸のほうへ遠退いて行く。小さな湖をへだてた、つい向う岸に、三百人近くの人間の集団がキャンピングしているのに、危急を告げることも助けを求めることもできないという自覚は、世にも残酷なものだった……  大池は腕組みするような恰好で胸を抱き、脇間の扉口のそばに影のように立っていた。ものの十分ほどもしてから、服の袖で額の汗を拭うと、片手で胸をおさえ、壁にすがりながら壁付灯の下まで行ったが、力がつきたように、そこで動かなくなってしまった。 「どうかしたんだわ」  久美子の恐れていたようなことは、なにもなかった。  壁付灯の光に照らしだされた大池の正体は、意外にもみじめなものだった。湖岸の泥深いところを歩きまわったのだとみえ、膝から下が泥だらけになり、靴にアオミドロがついている。濡れた髪を額に貼りつかせ、土気色になった頬のあたりから滴をたらしているところなどは、いま湖水からあがってきた、大池の亡霊とでもいうような、一種、非現実的なようすをしていた。 「う、う、う……」  大池は肩息をつきながら、家宅捜索でめちゃめちゃにひっくりかえされた広間の中を見まわし、マントルピースの端に縋って食器棚のほうへよろけて行ったが、曳出しに手をかけたまま、ぐったりと食器棚に凭れかかった。 「ああ、誰か……」  たいへんな苦しみようだ。久美子は闇の中に立っていたが、放っておけないような気がして、大池のそばへ行った。 「大池さん、あたしです。どうなすったの」  大池は嗄れたような声でささやいた。 「ジガレンの注射を……」  大池は心臓発作をおこしかけている。  どんな嫌疑を受けても、犯した罪がなければ、いつかは解けると多寡を括っていたが、この二日、警察とのやりあいで、そうばかりはいかないらしいことをさとった。一人だけでいるところで死なれでもしたら、どんなことになるかわかったものではない。 「ともかく、長椅子に行きましょう」  大池を長椅子のところへ連れて行くと、上着を脱がせ、クッションを集めて座位のかたちで落着かせた。洗面器に井戸水を汲んできてせっせと胸を冷やしたが、こんなことでは助かりそうもなかった。 「応急薬といったようなものはないんですか、あるなら探して来るけど」  大池は食器棚を指さした。 「……ジギタミンと、赤酒を……」  食器棚の曳出しにはそれらしいものはなかったので、浴室へ行って、壁に嵌め込んだ鏡付のキャビネットの中を見た……「ジギタミン」というレッテルを粘った錠剤の瓶がガラスの棚の上に載っていた。日本薬局方の赤酒は、赤い封蝋をつけてウイスキーの瓶のとなりに並んでいた。 「安心なさい。ジギタミンも赤酒もあったわ」  コップの水を口もとに持っていくと、大池は飛びつくようにして錠剤を飲みこんだ。  三十分ほどすると、大池は眼に見えて落着いてきた。荒い息づかいがおさまり、脈のうちかたもいくらか正常になったが、寒いのかとみえて、鳥肌をたててふるえている。  燃えさしの松薪を集めて煖炉を燃しつけにかかると、大池は恐怖の色をうかべて呻いた。 「煙突から炎をだすと石倉がやってくる」  大池が石倉を恐れているのは意外だった。 「石倉が来れば、困ることでもあるの」  大池は返事をしなかった。 「大池さん、まあ、聞いてちょうだいよ……雨の中で拾われたのはありがたかったけど、ロッジに泊めてもらったばっかりに、さんざんな目に逢ったのよ」  そんなことをいっているうちに、われともなく昂奮して、この二日の間の出来事を洗いざらいしゃべった。どうでもいいつもりでいたが、深いところでは、やはり腹をたてていたのだとみえ、しゃべりだすと、とめどもなくなった。 「あなたは生きているんだから、自殺干与や殺人の容疑はなくなったわけだけど、今夜、二人だけでいたことがわかると、共犯だなんだって、またむずかしいことになるのよ……逃げまわるのは勝手だとしても、あたしがK・Uなんて女でないことを証明していただきたいのよ。どんな方法でもいいから……」  大池がまじまじと久美子の顔を見かえした。 「K・Uなんて女性は、はじめっから存在しない。あれは君代が警察をまごつかせるために、考えだしたことなんだ……こんな目にあわなかったら、明日、伊東署へ行くつもりだったが……いや、早いほうがいい。宇野さん、すまないが、警察の連中を呼んで来てくれないかね。その辺に張込んでいるんだろうから」 「警察のひとはみなひきあげたふうよ……連絡係の警官が、明日の朝、八時ごろ、見にくるといっていたけど」  大池は気落ちしたように、がっくりと首をおとした。 「私の冠状動脈は紙のように薄くなっている。こんど発作をおこしたらもう助からない……明日の朝まで十二時間……それまで保合ってくれるかどうか、辛い話だよ」  大池は自首することにきめたらしい。すこしも早く警察と連絡をつけたいふうだが、湖水の近くで電話のあるところは、キャンプ村の管理事務所か伊東ゴルフ場のクラブ・ハウスだけ。どちらも二キロ以上あって、いまの久美子の健康状態では、とてもそこまで出掛けて行くことは出来ない。  久美子は落着かなくなって、玄関のほうへ行った。子供達でも通ったらと、脇窓のそばで聞耳をたてていたが、対岸のキャンプ村では、みなテントに寝に入ったとみえ、笑い声ひとつ聞えない。久美子はあきらめ、脇窓のカーテンをひいて、大池のそばに戻った。大池は自分だけの思いに沈みこんでいるふうで、鬱々と眼をとじていた。  夜の十時近く、捜査本部になっている伊東署の捜査主任室に、本庁の畑中刑事が入ってきた。薬鑵の水を湯呑についで飲むと、奥のデスクで丸山捜査主任と打合せをしていた加藤捜査一課のそばへ行った。 「おう、畑中君、さっきの電話連絡、聞いたよ……出て来たそうだな。女を泳がせた甲斐があったと、丸山さんと話していたところなんだ……どこから出て来た?」 「湖水からあがって来ました」 「山林へ入ったんじゃなかったのか」  畑中刑事は照れくさそうに頭へ手をやった。 「山林のほうばかり警戒していたので、鼻先へ突っかけられて、あわてました」 「対岸からボートでやって来たのか」 「いや、そうでもなさそうです。こちらの岸をずっと見てまわりましたが、ボートらしいものは着いていませんでした」  加藤捜査一課は納得しない顔で問いつめた。 「妙な話だな……どういうことなんだい」 「星明りで、はっきりとアヤは見えなかったが、どこかやられたらしくて、フラフラになっていました……ガレージの横手からまわりこんで、勝手口からロッジへ入りました」 「女はどうした?」 「お見込みどおりでした。時間の打合せがあったのだとみえまして、女のほうが先に二階から降りて、ホールで待っていました」 「おかしいね、それを、どこから見たんだ」 「玄関の脇窓から」  加藤捜査一課は背筋を立てると、頭ごなしにやりつけた。 「絶対にロッジの近くへ寄りつくなといったろう?……まずいことをするじゃないか。感づかれると、やりにくくなって困るんだ」 「いや、どうも……立っていたところに、偶然に窓があったもんですから」 「感づかれたらしいようすはなかったか」 「大丈夫だろうと思います」 「君が大丈夫というなち、大丈夫だろう……つづけたまえ」 「……女は大池を長椅子に寝かせると、洗面器に水を汲んできて大池の胸を冷やしていました。薬だの酒瓶だの、いろいろと持ちだして来て、熱心にやっていたふうです……私の見たのはそれだけ」 「それだけ、というのは?」 「女が窓のカーテンをひいたので、私のいる位置から、なにも見えなくなったということです」  加藤捜査一課は刺激的な冷笑をうかべながら、 「大池とあの女がロッジで落合えば、どんなことをするぐらいのことは、ここにいたって想像がつく」  と、しゃくるようなことをいった。 「君はそんなことを報告するために、伊東までやって来たのか」 「いや、ちょっとお話したいことがあって」 「どんな話だね?」 「ロッジへ入って来たのは、大池忠平でなくて、名古屋で工場をやっている、弟の大池孝平です」  捜査一課は下眼になって、なにか考えていたが、煙草に火をつけると、胡散くさいといったようすで問いかえした。 「忠平でなくて、孝平か」 「そうです」 「えらいことを言いだしたな……それは確信のあることなのか」 「兄の忠平は顔写真でしか知りませんが、孝平のほうなら、たびたび名古屋の家へ宅参りして、いやというほど顔を見ていますから、間違えるはずはありません」  捜査一課は丸山捜査主任のほうへ向きかえると、癇のたった声で投げだすようにいった。 「あのプリムスは、大池忠平が東京を逃げだすとき、乗って行ったやつだったんで、ちょっと、ひっかかった。ちくしょう、味なことをしやがる」  丸山捜査主任は渋い顔でうなずいた。 「それは、あの女が言ってましたね……ロッジで逢ったのは、顔写真の男とはちがうようだって……あれは正直な発言だったんですな……皮肉な女だ。てんで舐めてかかっている。あれはマレモノだよ」 「うまく遊ばれたらしいね」  畑中刑事が捜査一課にたずねた。 「部屋長さん、二人をひっぱっちゃいけないんですか。あんなことをしておくと、なにかはじまりそうな気がするんですが」 「どういう名目でひっぱるんだ? ひっぱったって留めておくことはできないぜ……兄が自殺するというので、おどろいて飛んできた、なんていうだろうし……弟のほうには、いまのところ、共犯だという事実はなにもあがっていない」 「じゃ、女のほうだけでも」 「だめだろうね……相当、こっぴどくやったつもりだが、洒々としていた……それゃ、そうだろう。大池の弟とツルンでロッジに泊りこんだって、とがめられることはないはずだから」  そういうと、クルリと丸山捜査課長のほうへ向きかえた。 「丸山さん、これゃ捜査の対象にならないね。二課はどうするか知らないが、われわれは、明日、引揚げます。書置一本に釣られて、こんな騒ぎをしたと思うと、おさまりかねるんだが、どうしようもないよ」  そこへ本庁の木村刑事が、婦人用のスーツ・ケースをさげてブラリと入ってきた。 「部屋長さん、遅くなりました。ちょっと聞込みをしていたもんだから」 「なんだい、そのスーツ・ケースは」 「これですか。これは宇野久美子の遺留品です」 「そんなもの、どこにあったんだ?」 「大阪行、一二九列車の二等車の網棚の上に……二等車の乗客の中に、宇野久美子のファンがいた。宇野久美子がスーツ・ケースを提げて入って来たので、宇野久美子だと思いながら見ていると、このスーツ・ケースを網棚に放りあげて、前部の車室に行ったきり、大阪駅へ着いても帰って来ない。それで車掌に、これは東洋放送の宇野久美子のスーツ・ケースだから、東京へ転送してくださいと頼んだというのです」 「開けてみたまえ」  木村はジッパーをひいて、スーツ・ケースの内容をさらけだした。灰銀のフラノのワンピースに緋裏のついた黒のモヘアのストール、パンプスの靴とナイロンの靴下が入っていた。 「つまり、これは宇野久美子がアパートを出るときに着ていたものなんだな」 「そうです。管理人の細君が確認しました」 「豊橋駅はどうだった」 「木谷刑事をやりましたが、ちょっと奇妙なことがありました。駅の広報係が、その汽車に乗り遅れたから、待たずに、先に行ってくれと、東洋放送の宇野久美子宛のアナウンスを依頼された。その女は、ナイロンのジャンパーに紺のスラックスを穿き、ベレエをかぶって、絵具箱を肩にかけていたというんです」 「なんだ、それは宇野久美子自身じゃないか。どういうことなんだろう」 「さあ、どういうことなんでしょう……変った聞込みが二つありました」 「どうぞ」 「宇野久美子のジャンパーのポケットに、ブロムラール系の催眠剤が入っていたといわれましたが、三年前、大池忠平の前の細君が、ブロムラール系の催眠剤の誤用で死んでいます」 「どこで聞きこんだ?」 「大池忠平の身元調書に、細君が中毒死したという記載がありましたので、主治医を探して聞きだしました……もうひとつは、これも二年前の秋、声優グループの仲数枝という女が、宇野久美子の部屋で自殺しています。宇野久美子の行李の細引で首を締めて、一気に裏の竹藪へ飛んだというんです……結局、自殺ということになりましたが、一時は、絞殺して、二階の窓から投げ落したんじゃないかという嫌疑が濃厚だったそうです」 「それだけか」 「いまのところは、これだけですが、洗えばまだまだ、いろいろなことが出てきそうです」  大池は、身体の深いところを測るような、深刻な眼つきで、ジギタミンを三錠ずつ、一時間おきに飲んだ。動悸もおさまり、普通に話ができるようになったが、胸中の不安はいっこうに薄らがぬふうで、見るもみじめなほど悶えていた。 「大池さん、十時間や十二時間、すぐ経ってしまってよ……一人でいるのが不安なら朝までおつきあいしますから、イライラするのはよしなさい……だいじょうぶ、死にはしないから」 「自分の身体のことは、私がよく知っている。とても明日の朝まで保ちそうもない。だめだという感じだけで参ってしまうんだ……頭のたしかなうちに、言っておきたいことがある。宇野さん、聞いてくれないかね」  聞きたいことなど、なにもない。だまっていてくれるほうが望みだったが、大池のあわれなようすを見ると、そうは言いかねた。 「聞いてあげてもいいわ。それで、あなたが気が休まるなら」 「私が何者だか、君はもう察しているだろう。二十日の朝、名古屋の私のところへ、君代が東京から長距離電話で、こんなことをいってきた。半年近く逃げまわって、忠平が疲れきっているから、すこし休ませてやりたい。忠平のところへ石倉をやって、この湖水で自殺するという遺書を書かせたが、形のないことではしょうがないから、伊豆へ行ってロッジで一と晩、泊ってくれれば、あとは石倉がいいようにこしらえるから、という話なんだ」 「石倉って、どういう関係のひとなんです?」 「石倉は君代の弟だ……トンネル会社へ融資する形式で隠しこんだ資産を、捜査二課では三千万から六千万の間と踏んでいるらしいが、どんな操作をしたって、そんな芸当ができるわけはない。その十分の一もあればいいほうだ、わずかばかりの隠し財産に執着して、時効年まで逃げまわるなんて、バカな話だと思うんだが、世間ではそろそろ忘れかけているのに、下手に捕って、むしかえされるのではかあいそうだという気持もあった……企画は、まったく他愛のないようなことなんだ……兄が乗り捨てたプリムスが豊橋のガレージにある。それでロッジへ乗りつける。煖炉をたいて煙突から煙をだす。石倉はそれを見るなり吉田へ行く。その日、湖水の近くにいなかったというアリバイをつくるために、知合いの家に泊って、翌朝、早く帰ってくる。私は夜明け前、ボートで対岸へ行って、バンガローに隠れている。石倉がいいころにハイヤーを廻してよこす。修善寺へ抜けて、夕方の汽車で名古屋に帰る……」 「バンガローに行きたいといったのに、行かせなかったのは、そういう事情があったからなのね」 「お察しのとおり……夕食後、君は散歩に出て、一時間ほどして帰ってきた……十一時頃、私が二階から降りると、君は病的な鼾をかいて、長椅子で昏睡していた。そのときの印象は、もう助かりそうにもないように見えた……枕元のサイド・テーブルに下部鉱泉の瓶とコップが載っている……私がロッジに来る前に、鉱泉に催眠剤を仕込んでおいた奴がある。湖水の分れ道で君を拾ったことは、誰も知らないはずだから、目当ては、当然、私だったのだと思うほかはない……泊ってくれるだけでいいなどと、うまいことをいってひっぱりだして、私を殺して湖水に沈めるつもりだったんだ」 「その話は妙だわね。あたしはこうして生きているわ」 「ブロムラール系の催眠剤十五グラムは、健全な人間には致死量にならないが、特異質や身体異常者……たとえば、妊婦とか、心臓、腎臓の疾患者は、その量で簡単に死んでしまうというんだ。私のような冠疾患者があの鉱泉を飲んだら、当然、死んでいたろう」 「鉱泉を分析してみたわけでもないでしょう。そこまで考えるのは、すこし敏感すぎるようね」 「前例がある……兄の前の細君の琴子と、トンネル会社をひきうけていた水上という男が、催眠剤の誤用で死んでいる。琴子は妊娠中で、水上は腎臓をやられていた。君代ぐらい催眠剤を上手に応用するやつもないもんだ。感服するほかはないよ」 「いやな話だわ。あの奥さん、そんなひとなの」 「そんな女なんだ……こんどの破産詐欺も隠し資産も、みんなあの女が手がけたことだ……琴子の場合はこうだった。琴子は胸の悪いところへ妊娠して、不眠で苦しんでいた。そのとき女子薬専を中退したばかりの君代が、派出看護婦で来ていた。琴子は君代に催眠剤をくれというが、やらない。そこが読みの深いところで、気の弱い兄が情に負けて、いずれ、こっそり催眠剤をやるだろうと見込んでいた……予想どおり、兄は君代に隠してブロムラールを〇・三やった……〇・三で死ねるわけはないのだが、琴子は昏睡したまま、とうとう覚醒しなかった……兄は琴子を殺したのは自分だと思いこんでいるもんだから、君代に退引ならない弱点をおさえられて、思いどおりに振廻されることになった」 「それで、こんどはあなたの番になったというわけ?」 「ひどい話だ。まごまごしていると、なにをされるかわかったもんじゃない。漕ぎだしたように見せかけるために、もやいを解いてボートを突きだし、今日の夕方まで林の中に隠れていた……ボーイ・スカウト大会のジャンボリーが終ると、子供達の附添や父兄が帰るので車が混みあう。誰かの車に便乗させてもらえれば、うまく検問を通れそうだ……日が暮れてから、ロッジへ来てみると、ボートはあるがプリムスはない。ボートは苦手だが、急がずにやれば向う岸まで行けそうだ。そう思ってボートに乗った。石倉もさるもので、林の中から這いだしてから、私がどういう行動をとるか見抜いて、ボートの底に仕掛けがしてあった……栓を抜いて牛脂でも押込んであったんだろう。ものの二十メートルも漕ぎださないうちに、ブクブクと沈んで、否応なしに泳がされた……私の心臓にとって、泳がされるくらい致命的な苦行はない。もう十メートルも遠く漕ぎだしていたら、心臓麻痺で参っていたろう」  大池はめざましく興奮して、見ていても恐しくなるような荒い呼吸をついた。 「こういう目にあってみると、いったい、なんのせいで、兄があんなふうに逃げまわっているのか、よくわかった。兄は警察を恐れているんじゃなくて、君代や石倉を恐れているんだ……水上が妙な死にかたをしたので、こいつはあぶないと気がついたんだ。些細な隠し資産を誇大に言いふらしているのも、あの二人に隠れ場所をおしえないのも、そうしておけば、殺されることはないと考えたからなんだ……戦後、悪党というものの面を数かぎりなく見たが、あいつらほどの奴はいなかった。こちらもいろいろと古傷を持っているから、警察と係りあうのはありがたくないが、こんどばかりは、もう黙っていない」  発条のゆるんだ煖炉棚の時計が、ねぼけたような音で十一時をうった。  話を終りにさせるつもりで、久美子はおっかぶせるようにいった。 「大池さん、十一時よ……あと七時間……いままで保った心臓なら、明日の朝まで保つでしょう。しゃべるのはそれくらいにして、すこし眠ったらどう」  胸にたまっていたものを吐きだしたので、気持が楽になったのか、大池は素直にうなずいた。 「眠れるかどうか、やってみる……赤酒をください。三十CCぐらい……心臓というのは気むずかしいやつでね、交際いきれないよ」  久美子はコルクの栓を抜き、いいほどにタンブラーに赤酒を注いで渡した。大池は小鳥が水を飲むように、時間をかけてチビチビと赤酒をすすりこむと、眠るつもりになったらしく、クッションに頭をつけて眼をとじた。  なんとなく静かな顔つきになったと思ったら、大池は鼾をかきはじめた。  湖水のほうから来る風が、潮騒のような音をたてて林の中を吹きぬけてゆく。風の音と鼾の音が一種の階調をつくって、ひとを睡気にさそいこむ。久美子は床に坐り、長椅子の端に額をおしつけて、うつらうつらしていた。  鎧扉をあおる風の音で眼をさました。ちょうど十二時だった。  大池は調子の高い鼾をかき、なにか操られているように、グラグラと頭を左右に揺っていた。薄眼をあけ、動かぬ瞳で空間の一点を凝視している。ただごとではなかった。 「大池さん……大池さん……」  肩をゆすぶりながら、大池の手の甲に、コルク抜きの先を、思いきり強く突きたててみた。なんの反応もない。 「とうとう……」  久美子が恐れていたのは、このことだった。  赤酒になにか曰くがあったのだろうが、そんな詮策はどうでもいい。さしあたっての急務は、なんとかして大池の命をつなぎとめることだ。さもないと、えらい羽目になる。こういう状況では、どんな嫌疑をかけられても、釈明する余地はないわけだから。  ともかく医者を呼ぶことだ。煙突から炎をだせば、石倉がやってくるといっていた。石倉は敵だが、いま利用できるのは石倉のほかにはない。  久美子は煖炉の燃えさしの上に紙屑や木箱の壊れたのを積みあげ、ケロシン油をかけて火をつけた。威勢よく燃えあがった松薪の炎が、鞴のような音をたてて吸いあげられていく。  久美子は煖炉の前の揺椅子に掛け、浮きあがるような気持で石倉を待っていた  三日後、朝の十時ごろからはじまった取調べが、夕方の五時近くなってもまだ終らない。伊東署の調べ室で、加藤捜査一課と久美子が、永久につづくかと思われるような、はてしもない言葉のやりとりをくりかえしていた。  窓のない、一坪ばかりの板壁の部屋で、磨ガラスの扉で捜査主任の部屋につづいている。たえずひとの出入りするバタバタいう音や、ひっきりなしに鳴る電話の音が聞えて来る。  長い沈黙のあとで、加藤捜査一課が、ぼつりと言った。 「なにか言ったらどうだ」  久美子は冷淡にやりかえした。 「なにも言うことはないわ」 「こちらには聞きたいことがある」 「疲びれたから、これくらいにしておいてください」 「なにも言わないことにしたのか」 「なにも言いたくないの。言ってみたって無駄だから」 「無駄か無駄でないか、誰がきめるんだ」 「あの晩のことは、全部、話したわ。あたしに都合の悪いことでも、隠さずに言ったつもりだけど、てんで信用しないじゃありませんか。このうえ、精を枯らして、捜査の手助けをすることもないから」 「手助けか。よかったね……おれは反対の印象をうけているんだ。君ほどのハグラカシの名人はいない。捜査一課の加藤組は、君にひきずりまわされて、ふうふう言っている。もう、かんべんしてくれよ……大池の弟を殺ったのは君なんだろう? あっさり吐いたらどうだ」 「じゃ、あっさりいうわ。大池の弟を殺したのは、すくなくとも、あたしじゃありません。大池君代か石倉梅吉……そちらをお調べになったら?」 「大池孝平の身体からジキトキシンとブロムワレリル尿素が出てきた……君はブロミディアという薬を持って歩いていたが、あれはブロムラール系の催眠剤じゃないのか?」 「そうよ」 「あの赤酒は、孝平の兄の忠平が持薬にしていたものだ。前からロッジに置いてあって封蝋に日本薬局方の刻印がついていた……栓を抜いたのは誰だ?」 「あたしです」 「コップに注いだのは」 「それも、あたしです」  捜査一課は、乾いたような低い笑い声をたてた。 「それで話はおしまいじゃないか。こんな明白な罪状を、どうして君は認めようとしないんだ? それじゃ、虫がよすぎるというもんだぜ」  捜査一課は椅子から立つと、ドアをあけて、「スーツ・ケースを」と怒鳴った。連絡係の警官がスーツ・ケースを持って入ってきて、それを丸テーブルの上に置いた。 「大阪行の二等車の網棚へ捨てた君のスーツ・ケースだ。豊橋駅のホームで広報係の駅員に、アナウンスを依頼した事実もあがっている。湖水に絵を描きに来るのに、こんな手の混んだことをするのはどういうわけだ? 納得のいくように話してもらおう」  癌になる前に、自分という存在を、上手にこの世から消してしまおうというのは、久美子の心の中の恥部で、できるなら隠しておきたいことだったが、ここまでおし詰められれば逃げきれるものではない。久美子は父が肝臓癌で死んだことから、放送局の屋上で「肌色の月」を見て、もういけない、と思い自殺を決意するまでの経過をありのままに話した。 「宇野久美子が自殺したと騒がれるのは、やりきれないと思ったから。そんな単純なことだったんです。この気持、おわかりになるでしょう?」 「自殺するにはいろいろな方法がある。場所もさまざまだ……ぜひ、あの湖水でなくてもいいわけだね?」 「あの湖水をえらんだのは、あそこで死体が揚ったためしがないと聞いたからです」  捜査一課は背伸びのようなことをすると、灰皿に煙草の火をにじりつけて、椅子から立ちあがった。 「話にしては、よく出来た話だ……よかろう。癌研で徹底的に調べてもらってやる。そのうえで、ご相談しよう」