Soranoha

魔都

まと

久生 十蘭

第一回

一、古市加十、月を見る事  並に美人の嬌態の事

甲戌きのえいぬの歳も押詰って、今日は一年のドンじりという極月ごくげつの卅一日、電飾眩ゆい東京会館の大玄関から、一種慨然たる面持で立ち現われて来た一人の人物。鷲わし掴みにしたキャラコの手巾ハンカチでやけに鼻面を引っこすり引っこすり、大幅に車寄の石段を踏み降りると、野暮な足音を舗道に響かせながらお濠端ほりばたの方へ歩いて行く。見上ぐれば、大内山の翠松の上には歯切れの悪い晦日みそかの月。柳眉悲泣といったぐあいに引っ掛っている。

件くだんの人物は富国生命の建築場の角でフト足を止めて空を仰いでいたが、やがて、

「チェッ、月かァ、馬鹿にしてやがる」

と吐き出すように独語すると、クルリと板塀の方へ向き直り、筒音高く水鉄砲を弾き始めた。察するところ何かヨクヨク肚のおさまらぬ事があるのだと思われる。

人物人物といっていてはお判りになるまいから、いささか閑筆を弄してその人態を叙述しように、年のころは廿八九歳、中肉中脊、例の卅二番という既製洋服レディー・メードが縫直しもせずにキッチリと当嵌るという当世風な身丈みたけ。乙に着こなした外套はチェスターフィールドだが、襟裏を引っ繰り返して検めて見ると、「東京テーラー」という有名な古手問屋の商標ラベルがついていようという寸法。他は推して知るべし。貌かおかたちに至ってはこれといって書き立てるがものはない。午砲ひるめし時に仲之通に汗牛充棟するサラリーマン面の一種で、馬鹿には見えぬ代り決して優雅にも見えぬせせっこましい人相。但し、への字なりに強情らしく引結んだ唇は、何か磅礴ぼうはくたる気宇を示すように見える。といえば何か一と廉の人物らしく聞こえようが実はそんなのじゃなくって、これは「夕陽新聞」という四ページ新聞の雑報記者で古市加十という人物。読者においてもすでにお察しの如く、どんな鬱懐があったか知らぬが、罪もない月に喰ってかかるようでは、新聞記者の年季はまだまだ浅いものと見ねばなるまい。

この様な名前の新聞はついぞ我々の家庭には舞い込まぬから、御存じのない方もあろうが、新聞年鑑を見ると「夕陽新聞」というのは確かに存在することになっている。夕刊四ページ毎夕発行、日本橋の末広ビルの三階に本社があって副業に「化粧品新報」というのを発行している。もっともどちらが本職なのか判らない。評判によればこの新報の方が押売が利くので、本業より儲かるという評判だが、その詮索はここでは大して必要はあるまい。一方本業の方は名は体を表わすで社運は頽勢を辿る一方、あたかも山の端に臼づく秋の夕陽のごとく、やがてはトップリ暮れようという心細い有様。今日しも同業者の忘年会が東京会館で行われるにつき、古市加十は「夕陽新聞」を代表して出席したが、記者の食卓に古市加十の席が見当らぬ。追々尋ねて行くと、遙かに霞む末席の「銀座だより」という怪しげな花柳新聞の隣に加十の名札が放り出されていた。この人物は度胸もない癖に概して血気に逸る方だから、これを見るとカッと逆上して席札を引っ掴んで上席の方へ進んで行き、朝日新聞の隣の席に座を占めようとしたが、元来朝日の隣に夕陽が割込むなどということは有り得べき筈はない。たちまち駈け寄って来た幹事に猫吊しに吊し上げられ、席札もろとも元の席へ抛げ返された上、小間物屋の席はここだと顎でしゃくられたのである。警視庁の新聞記者室などでも、平素から人交わりをして呉れぬのだから、このくらいの屈辱には馴れ切っている筈の古市加十でも、満座の中でこれほどまでに晴れがましい恥辱を受けてはさすがにもはやいたたまれない。奮然と席を蹴って東京会館を飛出したが、何としても胸のムシャクシャは治まらぬ。根がしがない雑報記者の事だから、この際複雑な感懐などが起るべき筈はなく、ただ無暗に腹を立てたのである。磨き出したような黄色い新月さえも花王石鹸の広告の様に見えて一層ムシャクシャし、思わず馬鹿にしていやアがる、と叱咜した件くだりは先刻すでに述べた通り。

やがて加十は筒先をおさめてブラブラ歩き出そうとすると、この時うしろに当って、轟くがごとき拍手の音とともにに「音とともにに」はママ、ドッと歓声が挙った。思わず振返って見ると、会場では今や宴酣と見え、皎々と照し出された窓ガラスの向うを四、五人の同業が踊るような手ぶりで通り過ぎて行くのが見える。加十は怨めしげにその方を見上げながら、

「畜生、今に見ろ。明日になったらてめえらの肝っ魂をでんぐり返してやる。わが夕陽新聞にどんな奇想天外な計画があるか、よもやてめえらは知らねえだろう。それにしてもわが社の編集長幸田節三というのはなかなかの穎才えいさいに違いない。ああ一夜明けたら――」

と意味ありげな事を呟やくと、それから急に足取りを早めて有楽町の方へ歩いて行った。作者はこれから古市加十を銀座裏に引張って行く。どういう宿縁か古市加十はそこで或る怪しい人物に邂逅する事になる。これが波瀾万丈の怪事件の端緒になろうというのだが、その経緯いきさつについては次なる章を御読み取り願いたい。

二、加十、怪人物に逢う事  並に鶴の噴水の事

服部の時計台はまさに九時を報じ出そうとする。銀座は今が人の出盛り。紋日々々には訳もなく銀座へ銀座へと押出して来る物欲しげな人波が、西の片側道を小波さざなみ立てて流れて行く。夜会の崩れにしては時刻が早過ぎるが、粧々けばけばしいお振袖や燕尾服の白チョッキがそこここに横行するのはいかにも年越の晩らしい風景。古市加十が人波に押されながらコロンバンの前までやって来ると、八雲町の交番の方から燃立つような夜会服ソワレの裾をヒラヒラと蹴返しながら、蓮歩楚々として進み寄ってきた年のころ卅二三の専太郎好みの乙な美人、古市の傍をすり抜けようとしてふと足を止めると、鶯のような嬌声を発して、

「アラ、古市さんじゃアなくッて」

と声を掛けた。

この婦人は村雲笑子といって四、五年前までは相当に鳴らした映画女優だったが、案外眼先の利くところがあって、映画会社の重役を退っ引ならぬ関係に嵌め込み、人気の外には収入みいりも無い映画女優などは後足で砂を掛け、土橋に近い銀座裏のある町角に「巴里パリー」という、秘密めかしいバーを出させてその女将おかみにおさまり、この二、三年の内にもう十万は溜め込んだという評判のある才色兼備の婦人。

笑子は古市と同郷の北海道のある僻村の産で、古市が知っているころはその村の小学校の教師をしていたが、近親に当る年下の青年と怪しからぬ関係になったという風評が立ったと思う間に、どういう訳かその青年は自殺をしてしまった。笑子はこの事件のために村にいたたまれなくなって、東京に出て来て「白猫」というカフェーで女給に住み込んだが、計らずもこれが出世の緒になった。

加十の知っているころの笑子は、燈蕊のように瘠せた脂ッ気のない女ッぷりであったが、今では肩と腰に少し脂肪が乗り過ぎ、それがどうやら笑子の悩みの種になっている塩梅あんばい。以前は少し劔のある乾いた眼元も、今は色と慾の精脂あぶらでシットリと程よく艶つや布巾をかけられ、人を小馬鹿にしたようなしゃくった鼻さえも、こうなればいっそ愛嬌に見えようというもの。笑子はぴったりと古市に寄添うようにしながら、

「やっぱり古市さんでしたわねえ。かけ違ってちっともお眼にかからなかったけど、その後お変りはなくって」

と一息にいってのけると急にツと腕を伸して古市の手をとり、脂湿りのする生ぬるい掌の中へ加十の指先を巻込みながら、

「加十さん、あなたぐらい薄情な方はなくってよ、東京にいながら一度も尋ねて来て下さらないんですもの、お怨みするわ。あなたひどい方よ」

と媚かしい眼元にありったけの思いを籠めて怨じるようにいう。

同郷人の出世は古市にとっても慶賀に堪えぬところだから、今から二年ほど前に一度「巴里パリー」へ敬意を表しに出かけて行ったことがあったが、水一杯振舞われずにすげなく追い返された覚えがある。下宿へ帰って気がついてみると、肩に白いザラザラしたものがついているから、指先でつまんでチョイと舐めてみるとこれが塩っぱかった。このような訳柄だったから、村雲笑子が今夜に限ってどうしてこんなに馴々しくするのか、古市加十にすればまるで狐につままれたような心持。飽気にとられて只々笑子の顔を瞶めるばかり。笑子は焦れったそうに加十の腕を揺すぶり、

「何とかいってよう。暫くでしたくらいのことはおいいなさいな。ええ〱、どうせ妾は倫落の女よ、とてもお歯には合いますまいが、でも昔は教員室のあのぼろストーヴで一緒に尻焙りした仲でしょう、そんなに素気なくなさらなくともいいと思うわ。そんな顔をして見せたって今夜はもう決して離しゃアしないから。さァ妾と一緒に「巴里」へいらっしゃい、あなたの薄情を思い知らしたげるから」といって古市の手の甲へ血の滲むほど爪の先を突っ立て、

「どうだ、行くか行かないか。いやなら厭といって御覧なさい、こうして手を掴んだまま盗人〱どろぼうどろぼうって怒鳴ってやるから。どう、やって見せようか」

笑子ははやだいぶ底に入っている体で、そういううちにも怪しき御気色みけしきになり、舗道の上に両股を踏ん張って真実今にも喚き出そうふうだから、古市もとうとう兜を脱ぎ、ままよ、という気になっていわれるままに引かれて行くことになった。両人は五丁目の角から折れ曲り、人目も恥じずに手を執り合ったまま銀座裏の暗い横丁へ。

威勢の悪い姫小松が五寸釘で磔になっている形ばかりの門松の下を潜って酒場バーの扉を引開けると、とたんにワッというひどい諸声とともに、高低様々に調子を外した童謡の合唱が聞こえてくる。なかなる宴会はすでに大乱痴気になっている証拠。笑子の姿を見ると煙りっぽい薄暗い片隅からヒョイと立上って来た一人の紅毛人。これは加十も見知り越しのジョン・ハッチソンという「ホヴァス通信社」の通信員で、これが犬掻泳ぎをするように泳ぎ出して来て、いきなり笑子の腰に抱きついたが、平手で思い切り横っ面を撲られて、痛いです痛いですと叫びながら引き退って行った。大体このような騒ぎの間を通り抜けながら、笑子は加十を壁に添った奥まったテーブルの方に導いて行き、そこの椅子に加十を引据えると、

「ちょっと待っててね、逃げ出したりしたら承知しねえぞ」

と艶然たる睨みを一つ呉れて置いて、酒場台コントワールの横の赤い垂幕を捲くると、そそくさとその奥へ入って行ってしまった。

酒場は大体において外国のナイト・クラブを摸倣したものらしく、隔席などは置かずに、中央の踊り場の周りに約十五ほどの丸テーブルを配置した構え。見渡すところどのテーブルの上にも驚くばかりにシャンペン酒の瓶が林立し、いずれも杯盤狼藉たる有様。のみならず不思議なことには、三十人にも余る男女の酒客は、ほとんど満足に椅子に掛けているものなぞはない。いずれも酒場のお仕着せらしい馬糞紙製の王冠をすッとこ冠りにし、顎の先から酒の雫を垂らしながら、男と女が繩のようにもつれて床の上を転げ廻っている。踊り場の上で誰れ彼れかまわず引ッつるんでステップを踏んでいるタキシードは、横浜の有名な高利貸の伜で印東忠介という気障なパリー帰り。入口に近い小暗い隅で、三人まで美少女を膝に抱き上げてしきりに高笑いをしている白ネクタイは、岩井通保という子爵家の当主。一時はタキシイの運転手にまで成り下ったが、朝鮮捕鯨会社に拾い上げられて、このごろはだいぶ羽振りがいいと取沙汰されている人物。膝の上の三人の美少女は横浜本牧に住居する、お雪、初ちゃん、幾代という名代の女傑ぞろい。高声に喚きたてる口説を聞けば、これからニュウ・グランドへ繰込もうか箱根の環水楼へ押し出そうかという下相談と思われる。酒場の通路に長々と寝そべっているのは、山木元吉という有名な好事家的遊蕩児で、それをしっかりと足で踏んまえているのは、川俣踏絵という当時売出しのアメリカ帰りの舞踊家。人造ダイヤの留金のついた銀色の踊り靴で、しきりに元吉の脊骨を蹴りつけるが、好事家ヂレッタントはなかなか起きて来ぬ。己れが吐き出した尾籠なものの中へスッポリと鼻を突込んで何かウダウダいっているのは、多分マラルメの詩でも朗誦しているのであろうか。踏絵は小焦ったくなったものか、ヒラリと傍の丸テーブルの上に飛び上ると、いきなり腿の辺りまで裾を捲り上げ、たとえていうならば小鹿のような形のいい脚を前後に放り出すようにして、勢いはげしく踊り出した。下着類の構築が不完全なのに、遠慮会釈もなく天井を蹴りつけるものだから、実にどうも際どい風情になる。酔漢どもはドッと歓声をあげて丸テーブルの傍に寄って来て、その縁にズラリと額を並べ、下から見上げてキャッキャッと笑う大騒ぎ。

中には手を伸ばしかけて、額を蹴られて仰向けに引っ繰り返る者もあれば、テーブルの上に上って行こうとして椅子から足を踏み外し、床の上で腰を抜かす者もある。他はいずれも酒瓶を叩き立てて、クカラチャクカラチャと合唱する百声千声にさながら耳の聾するばかりである。

しかしこんな事をいつまで書いていたって仕様がない。後は大体読者の御想像に委せるとして、さて古市加十はどうなったかといえば、先刻からなすこともなく、茫然と手を束ねてこの乱痴気騒ぎを眺めていたのである。本来このような散財は自分でやってこそ面白かろうが、見ているだけでは一向感興が乗って来ないものである。まして加十の身分としては、こんな散財などはたとえどう望んだとて及ばぬ鯉の滝登りだと思うから、いっそ忌々しさが先に立って、見ていればいるほど、腹が立って来るばかり。しかしこういう豪勢のいい大愉快の中で、己れ独り素面のまま碌々と顎を撫でているのは大して器量のいい図ではないから、傍らの棕梠の蔭に身を隠すようにしてなおも見るともなくその方を眺めていると、図らずも此処に一つの怪しい風景を発見することになったのである。

気がついて見ると引っ繰り返すようなその大騒ぎの真っ只中で、居住いも崩さずに独り端然と酒盃をあげている人物がある。それは年のころ卅歳ばかりの白皙美髯の青年紳士で、一目でそれと知れる倫敦仕立ウェスト・エンドのタキシードをきっちりと身につけ、襟の釦ボタン穴には婀娜あだに揷したる臙脂色のカーネーション。大きな金剛石ダイヤモンドの指輪をはめた白い嫋やかな指の間にウイスキー・ソーダのコップを持ちながら、少し反り身になって馬鹿騒ぎを眺めている。その悠揚迫らざる態度というものは実に異様であって、さながら帝王が臣下共の無礼講をニンマリ片笑み浮べながら愉し気に眺めているといった風。気障にも見えず嫌味でもなく、それがぴったりと板についているところがはなはだ以て妙なのである。

作者はこの人物を大分奇妙がったが、或いは読者の中には、こんな事が何が奇妙だと立腹される向きもないではないと思うから、手廻しよく大いに怪しいその次第をもう少し精細に述べて見ように、まず何にもまして怪しいのはその異相である。異相といっても藪覗ひんがらめの菊面あばたのというのではない。諸君の中には手にされた方もあろうが、その人相は神宮館発行の例の九星運勢暦の附録についている「人相の部」のうち「貴人の相」というのにまさに匹敵するというから怪しい。こんなのを竜眼鳳眦ほうしというのか、一重瞼の切れの長い眼の中には淀まぬ清い光があり、唇は無限の威厳を示して寛濶に引結ばれている。耳に至っては非凡中の非凡であって、風鐸なりの肉の厚い巨大な耳がちょうど眦まなじりの下辺りから顎の辺りまで福々と垂れ下り、顎には漆黒の長い顎髯が密生して襟巻のように喉を蔽い隠している。手っ取り早くいえば秦の始皇帝がタキシードを着てウイスキーを飲んでいると思ってくれればよろしい。何しろこういう工合に挙止人相共に一方ならず非凡だから、古市加十はわれを忘れてその人物の横顔を眺めていると、やがてその人物は加十の視線を感じたものか、悠然と顔を回らして加十の方へ振返ったので、ここに端なくも両人の視線がガッチリと絡み合うことになった。加十は狼狽して急いで視線を外らそうとする間も無く、その人物はホンノリと眼を微笑ませながらこっちのテーブルへやって来いという合図をした。加十は根が田舎者で、こういう高飛車の態度に合うと手も足も出なくなる性質たちだから、たちまち電気にかかったようになって、立つともなく席から立ち上り、騒ぎの間を擦り抜けてその人物と差向いの席につくと、その人物は妙に器用な手つきでウイスキー・ソーダのコップを加十の前に押しやりながら、

「このごろ世間の評判では日比谷公園の鶴の噴水が歌を唄うということですが一体それは真実でしょうか。実を申すと私はついこのごろ東京に着いたので、一向詳しいことを知らないのですが」

と唐突だしぬけに言葉をかけた。

どういう次第か知らぬが、日比谷公園の池の真中に立っているあの様子のいい噴水の鶴が、この一週間ほど前から時々美しい階音で歌を唄うようになった。いうまでもなく歌時計ではないから、朝の目覚めに極って鳴り出すというのではなく、ノンシャランに刻を定めずに唄い出すのだから、うまくその時に行き合った人は少ないが、好運なその少数の人達の話ではそれはどうも滅法もない美しい音だというので。――或者はオルゴールのような細い透き通るような音だったといい、或者はパイプオルガンのような壮重極まりない音だったと語り、音についての感想はまちまちだが、然しそれは単なる市井の妄談ではないらしく、日比谷公園の園丁長が自身で親しくこれを聴き、和歌を一首添えた美辞麗句的な目撃記を「夕陽新聞」に寄せたので、日比谷公園の青銅ブロンズの鶴が噴水の飛沫とともに美しい歌を唄い出すというのはもはや紛れもない事実になり、これは何か国家的な瑞兆に違いないというので「唄う鶴の噴水」の事は急に東京の市中でやかましく評判されるようになった。

一週間ほど前の朝の五時ごろ、公園の園丁長が例の如く宿酔ふつかよいのおくびで咽喉を鳴らしながら、花壇の中の小径を通って池の傍まで来ると、うっすらと朝靄に包まれた噴水の鶴が、この時ハタハタと羽搏きをしたように見えたのである。この人物は元来非常な大酒家で、二六時中森羅万象の中に異変を見ているのだから、これも多分昨夜の泡盛のなす業であろうと思い、格別怪しむようなこともなくそのまま見過ぎて池の傍を立去ろうとしたとたん青銅ブロンズの鶴は世にも清らかな声で歌を唄い出したのである。

それは、さながら西洋風の舞踊曲の一節のようなもので、どのような悲しみのある人の心も晴々と浮き立たせずにはおかぬような愉しげな旋律であったのである。園丁長はアッケラカンと口を開いて鶴の口元を眺めていたが、鶴は園丁長の当惑に頓着なくなおも喨々と唄い続けていたが、それが約二分ほどののち、無器用な蓄音器のように急にハタと黙り込んで了った。園丁長は一方心の優しい人物でこの公園の一木一草ことごとく自分の友人だと思っているのだから、この時感嘆の余り思わず噴水の鶴に向ってこんなふうにも声をかけたのである。

「おい、鶴よ鶴よ、どうしてまあお前は歌など唄い出したのだ。ああ、それにしても非常な出来栄えだったね」

この経緯は今いった通り古市加十が代筆して酒月園丁長記となって精しく「夕陽新聞」に掲載されたが、これについてはもう少し詳しく述べて置かねばならぬ裏の事情があるので。というのは他ではない、酒月の娘は四五年前から「夕陽新聞」社長の幸田節三に囲われているので酒月はその恩に感じ何かにつけて「夕陽新聞」に忠勤を擢んでてやろうとした際であったから、この不可思議な出来事を目撃するとすぐその足で幸田節三の妾宅へ飛んで行き事細かにありし次第を耳打ちした。幸田節三は布団の上に胡座あぐらをかいて酒月の話を聴いていたが、やや暫くののち急にポンと膝を打って、

「ああ有難い。幸田節三これでどうやら運が向いて来た」

と叫ぶようにいうと、いきなり神棚に向ってポンポンと柏手を打ったと伝えられる。

こういう経路を踏んで「唄う鶴の噴水」は夕陽新聞の特種になって了った。国家的瑞兆という三段抜きの大標題みだしで手の込んだ記事を書上げ、名士、博士を総動員して感想を執筆させた。中には拒絶した向きもあるが、大部分の人々は後難を恐れて思いつきを述べて来たので、約卅人に余る名士がうやむやのうちに「唄う鶴の噴水」に敬意を表することになった。他の一流の諸新聞は笑殺して歯牙にもかけなかったが、これに対する市民の感激は予想外に昂揚し、このような大瑞兆の記事を掲載せぬのは実に傲慢至極なやりかたというような投書が編集部の机上に山積するようになり、幹部一同も俄かに狼狽して善後策を講じたが、その時ははや後の祭り、鶴の噴水事件の人気はすっかり夕陽新聞に攫われて了うことになった。一方無名の夕陽新聞はこのために一躍有名になり、その売行は鶴に因んでさながら飛ぶが如くであったとでもいって置こう。

古市加十が、今夜東京会館の忘年会で不当な侮辱を受けたのは、その裏に「唄う鶴の噴水」事件に対する各社のはげしい嫉視羨望が大いにその原因をなしていたのだと考えられるのである。

東京市の公園課でも捨てては置けず、音楽学校の教授を委嘱してその原因を調査して貰ったが、その結果は何れも雲を掴むような報告ばかりで、一体それがどういう事情によって起る現象なのか判明しない。

ああ、それにしても噴水の鶴が歌など唄い出すようになったのであるか。一流の理学者達が頭を捻ひねっても判らぬものが、作者などには諒解されそうにもない。これについては近く有名なる奇人的大理学者兼清博士の講演がある筈だから、その秘密はそのおり博士に解決して貰うことにして、我々は再び酒場「巴里」に立戻ると、古市加十はその時あたかも差出されたウイスキー・ソーダをグッと一息に煽りつけ、掌で口の辺を拭うとうるさく首を振りながら、

「ええ――、ほんとうですとも、確かに鳴くんですよ、実にどうもすばらしい声で鳴くんです」

怪人物は訝しそうな眼つきで、

「風声鶴唳かくれいということはありますが、鶴が歌を唄うなどということはまだかつて聞いたことはありません。唄うというならば一体どういう風にして唄うのですか。まさか李太白の鶴のように「松籟譜」を朗誦するというのではありますまいね」

「李太白どころかモツァルト風のギャヴォットを唄うのです。あなたが旅行者だとしてもあまり迂濶ではありませんか。あなたは多分まだ夕陽新聞を御読みにならないと見えますね。それは兎も角それが事実だとしたら、これはいかにも東京ふうな出来事だと思いませんか」

怪人物は頷いて、

「ああ、その点ならば私も同感です。これは確かに東京ふうな出来事に違いありません。どうでしょう、これから一つ私を案内して、その小粋ギャラントな鶴を見せて下さるわけには行きませんか」

「よろしいですとも、御案内しましょう。旅の人に親切にするのは、確かに気持のいいことに違いありませんからね」

「そうと話が決まったら急いで此処を出ましょう。私はもう少し鶴の話を聞きたいのですが、それにはこの場所は少し不適当のようです。これからB・R、AI、ボントン、エトワール、マキシム、リドーと、この六軒でウイスキー・ソーダを一杯ずつ飲んで、それから鶴の所へ行くことにしましょう。では何はともかく」

こういう工合にして古市加十と怪人物は「巴里」を後にして薄暗い銀座裏に迷い出ることになる。

もうおよそ何時頃であろうか、百八つの梵鐘はまだ加十の頭の中で陰々と鳴りはためいているのに、見上ぐれば月はもう大分傾いてちょうどJOAKの鉄塔の上に、それとても確かに月であるかどうか、朦朧たる加十の眼には確かには映じて来ぬのである。二人は蹣跚まんさんたる足どりで、縺れ合うようにして噴水のある池の端までやって来た。青銅ブロンズの鶴は形のいい翅をキラキラと光らせながら蒼白い水の吐息を噴上げ、今にも空に舞上ろうとするよう。諸君はここで鶴が鳴くのをお望みになるであろうか。しかしこのとき鶴は鳴かなかったのである。

加十はフラフラと前後に頭を揺りながら、

「ああ、鶴は鳴きません」

怪人物は頷いて、

「ええ、鳴きませんね。しかしそれだって結構ですよ。この夜更けに無理に鳴いて貰いたくありません」

というと何を思い出したか音高く掌を打合わして、

「ああ、この鶴を見たので思い出しました。まだ一つ仕事が残っていたのです。さあ、急いでこれから松谷鶴子のところへ行きましょう。昨夜そこで二人だけで年越の夜食をすることになっていたのですが、今までスッカリ忘れていました。可哀そうに待ちくたびれて、もう眠って了ったかも知れない、何しろもう三時ですから」

三、松谷鶴子の愛人の事  並に意外なる顛末の事

赤坂山王台の崖の縁に、有明荘という二階建のコンクリートの家が建っている。当時流行のコルビジェという窓を大きく開ける式で、古いしもたやの多いこの辺ではひどく異彩を放つ建物。崖下から仰ぎ見ると、これがまるで大きなガラスの陳列棚のように見える。ここへ行くには日枝明神の鳥居の傍の細い急な径を登って行くのだが、何しろそれがひどく嶮しいものだから、どんな人でも息切れがして途中で一憩みせねばならぬ。いまいったように有明荘は切り立った三十尺ほどの崖の縁に建っているが、その下は広い空地になっていて、棟の低い二階家が一軒あるばかり。横はすぐ山王様の境内に続くので至って閑邃な場所。

この家は日本橋の袋物問屋の、洋行帰りの若且那が外国で見て来たアパートを趣味にまかせて建てさせたもので、アパートとはいいながら六畳一間にガスと水道がひいてあるというようなそんなお手軽なものではなく、どの部屋にも足首の埋りそうな朽葉色の厚い絨氈が敷き詰めてあろうという豪奢な取り廻し。一廓が居間と寝室と食堂と浴室と料理場の五室からなり、入口のドアで仕切られて他の廓コンパルチマンから独立するようになっている。従ってこのアパートに住んでいるのは富豪の妾とか外国帰りの若夫婦とか、それとは見えぬ高等内侍とか、いずれも金も趣味もある有閑人種ばかり。

今しも崖に面した二階の窓を押し明け、その縁ふちに造りつけになった花棚から見事な蘭の鉢を取入れながら、匂うばかりの新月の眉を顰めながら軽く舌打ちをしている、年のころ廿四五のまだ幼な顔の失せぬ愛らしい面持ちの美人。居間に続く食堂の方に向って、

「婆や婆や、お前はまたこの「安南王」をとり入れなかったのね。折角あの人が印度支那からようやく買ってきたものを、枯らしでもしたら粗末にでもしたようで妾が困るじゃないか、ほんとに仕様がない婆やねえ」

と軽い怒りを含んだ声で呼びかけると、やがて割烹衣の裾で手を拭きながらその部屋に入って来たのは五十ばかりのとめという通い婆。小さな髷の載った毛の薄い頭をペコペコと下げ、

「はい、どうも申訳ありません。扱い馴れぬのでつい忘れて了って。これからはきっと気をつけますからご勘弁なすって下さい」

といって煖炉棚の上の置時計を覗き込み、

「安南王といえば、旦那様のお出でが遅うございますこと。もう十二時十五分前でございますよ。まさかお忘れになったのでは」

美人はこれも怨めしそうに時計の方へ振り返り、

「本当に遅いわねえ、どうしたのかしら。でも昨日あんなに固い約束をしたのだから忘れるなんてことはないと思うけど。でもひょっとしたらまた銀座でも飲み廻っているのかも知れないわ。ほんとに憎らしいことねえ。ひとの気も知らないでさ。遅れて来でもしたら本当にどうしてやろうか知ら」

とめは手で煽ぎたてるようにして、

「ええ〱、思いきり喰いついておやんなさいまし。こんな美しいひとに気を揉ませるなんて、いくら旦那様でもあんまり罪が深うございますよ」

美人はふッと我れに返ったように急に言葉忙しく問いかけ、

「それはそうと夜食の仕度はもうすっかり出来ているだろうね。食器も二人分揃えてあるの」

「はいはい、すっかりお出ししてあります。鵞鳥の肝フォア・グラたらいうものは薄切りにして氷で冷やし、シャンペン酒ももう氷槽に漬けてございます」

美人は恥かしそうにニッコリと笑い、

「そんなら無駄口をきいていないで、もうさっさと帰ってちょうだい。今晩はあのひとと二人っきりで年越しをする約束なんだから」

とめはニッコリと笑い、

「はいはい、お言葉までもなく早速引取りますでございます。ではどうぞいいお年をおとりなさいますように」

と言ってとめは引取る。後には美人ただ一人、絨氈と共色ともいろのふかふかとした長椅子デイヴァンの上に身を投げかけ、時計を眺めてはしきりに心を焦立たせるふうである。この時こうこうと鳴りだした除夜の鐘。少し古風な情景になったが、コルビジェ風の新式アパートにも鐘の音は届く。これは何ともいたしかたないことであろう。

この美人は松谷鶴子といって、元は宝塚少女歌劇学校の第四期生で、踊の名手として紅千鶴や高千穂峯子などとともに非常な人気のあった女生徒だったが、舞台で足を痛めてから人気が落ち、まもなく退学してその後神戸の三宮辺りの酒場を転々としていたが、今から二年ほど前にふらりと日本へやって来た例の安南王、宗竜王に見染められ、ねんごろに山王台の有明荘に移植されることになった。

御存じの方もあろうが、この安南王は日本名を宗方竜太郎といって、日本を愛敬する東洋の王族の中でもとりわけ日本贔屓びいきの王様。本国政府から強要される仏国風の教化を毛虫のように忌み嫌い、わざわざ日本から教師を招聘して、専ら日本の文化に親しみ、夏冬二回政務の余暇にフラリと単身日本へやって来て、一ト月ほど滞在しては帰国するのが例になっていたが、松谷鶴子を愛するようになってからはほとんど隔月ごとに頻繁に来朝するようになったというのもまた無理のない次第。

さて松谷鶴子がいまいったようにしきりに愛人の訪問を待かねているところへ廊下の方に足音が聞こえ、やがてコツコツと扉を叩く音がするから急いで廊下を駈けて行って扉を引開けて見ると、それは待かねている宗方竜太郎でなくて、崖下のしもたやの二階に住んでいる桃沢花という縫子。畳紙たとうしに包んだ仕立物を持って入って来ると急いでテーブルの上で包を解き、眼も覚めるような茜色の式服を取出して自慢らしく繰り拡げながら鶴子の方に振り返り、

「はい、出来ました。どうぞ御覧なさい。自分ながら感心するくらいよく縫えましたの。なにしろ季節で急ぎの仕事が山ほどあるでしょう。これは今晩までに間に合わせようと思ってこの四、五日の間は、寝る眼も寝なかったのよ。どうぞ褒めてちょうだい」

鶴子は式服を胸に当てたまま部屋の隅の姿見の前に行って身をくねらせながらためつすがめつ眺め入っていたが、やがて心から嬉しそうに花の方へ振返り、

「まア、すてき、よう出来てるわア、花ちゃんどうも有難う、お礼言うわ。どう、よく似合って」

「ええ、腹が立つくらい」

「まァ嬉し。それはそうとそんなところに突ッ立ってないで少しお掛けなさいな。もう仕事は済んだんでしょう」

「ええ、もうこれから寝るばかり。でも今日は遠慮して置くわ。もう間もなく王様が来るんでしょう。いやよわたし、見せつけられるのは」

「ばかねえ、竜太郎だって貴女のお顧客とくいでしょう。待っていて少しお愛想するものよ」

「ええ、それはまたの折」

というと悪戯らしく眼を細め、

「鶴子さん、面白いことを話してあげましょうか。王様はね、この外にもう一つ訪問服を誂らえたのよ。どう、気が揉めやしなくって。そしてこれはぞんざいに縫っても構わないよなんていうのよ、妙な王様ねえ」

「それはね、花ちゃん、お国の奥さんのところへ持って行く着物なのよ。妾がそんなことを知らないと思って。たわけだわ、あんたは」

花子は歯の間からちょっと舌を出し、

「もう帰るわ、それだけ聞かされれば沢山よ。では、また明日。……おッと忘れた。新年おめでとうございます。今年もまたせいぜいごひいきに、はい、さようなら」

花は鶴子の止めるのもきかずにどんどん駈け出して行く。鶴子はまた一人。時計を見るともう十二時半。

読者も御存じの通り、かりに先刻の怪人物が宗方竜太郎だとすると、まだ古市加十と一緒にどこかの酒場で何杯目かのウイスキー・ソーダを飲んでいる筈だから、いかに鶴子が待ち焦れてもそう急にはここへ現われる筈はないのである。鶴子だってそうそう起きて待っている訳にも行くまいから、多分間もなく寝床へ入るであろう。

三時二十分を過ぎるころ、鶴子の住居のドアをはげしく打叩く音がする。鶴子はベッドの上に半身を起してその方へ聞き耳を立てると、ドアの外で何かゴシャゴシャ言っている工合では、そこにいるのはどうやら竜太郎一人ではないらしい。鶴子は軽く舌打ちをして、

「いやなひとねえ。また誰か引っ張って来たのよ」

と呟やきながら入口の方へ行ってドアを引き開けると、よろけるように入って来たのは果せるかな件の怪人物と古市加十の両人。竜太郎は怨めしげに何かいいかけようとする鶴子の肩を抱きながら、

「ああ、どうも少し遅れ過ぎたようだね。それにしても朝日が昇るにはまだ間があるから、夜食をする名目がたたぬことはない」

と長閑のどかな事をいうと、左手で古市の手を曳きながら大股に食堂に入って行ったが、たちまちチョッチョッと舌打ちをし、

「おお、これはいかん。お客の食器がないというのはどうも少し物足りないようだ。さア、鶴子さん、どうか不足なものをここへ出して頂きましょう」

鶴子は思わず脣を綻ばし、

「あなたにはとても敵わないわ。なんて妙ないい廻しばっかりするんでしょう。ええ〱、食事は差上げますが、それにしてもその前にこの方を紹介して下さらなくっては困りますわ王様」

「でもね、鶴子さん、私はこの人の名前を知らないから、かりに鶴野噴水君と名乗って貰うことにして、ともかく食事を始めることにしよう」

加十は立上ろうとする鶴子を制して、朦朧たる眼でマジマジとその面を瞶めながら、

「ああ美しいにも程がある! 一体こんな美人がこの世に存在していいものでしょうか。私ならばもう何も欲しくありません。そんなことより此処に坐っていて下さい。その方がよっぽど御馳走と言うものです」

などと、柄にもなくお世辞のような寝言のような事をいうと、鶴子は小娘のように身体をくねくねさせ、

「まア嬉しい、あたしお世辞をいってくれるひと大好きよ。お礼にあたしが喰べさしてあげるわねえ、あなたとあたしはもう仲よしよ」

といって椅子を引擦って来ると、加十にピッタリと寄り添うようにして坐り、銀の小さなフォークで生蠣殻かきの剥身を突刺し滴の垂れるやつを、

「さア」

と加十の口元に差しつける。加十も止むを得ず野太い口を開いて麩ふ呑みに呑み込むと、鶴子はフォークを加十の手に握らせて、

「こんどはあたしに喰べさせてくれるのよ、ねえ、あのフォア・グラをちょうだい」

といって加十の鼻の先でアヽンと口を開ける。歯並びのいい、例えば小粒の真珠のような歯の間から、ヒクヒクと動く小さな舌の先が見える。酔眼朦朧たる加十の眼にもこれは実以て美事な眺めなのだ。

鶴子は加十にシャンパン酒を注がせては勢い猛に煽っていたが、ほどなくしどけない風になり、急に椅子から飛上ると加十の膝の上に馬乗りになって、形容を越えたなまめかしい眼差しで竜太郎の方を見返りながら、

「ねえ、噴水さん、あのひとを御覧なさい、あのひとはあれでも王様なのよ、ふ、ふ、髯なんか生やしていてもちっとも恐くないのよ」

というと急に加十の頭を引寄せて、唇に接吻し、

「ほらね、ちっとも怒らないでしょう、馬鹿ねえ、王様なんて」

思うにこれは王様に妬情を起させようという鶴子の手管なのであろうが、それにしてもこの王様と呼ばれる男は何という奇妙な人物なのであろう。ゆったりと椅子の脊に身を凭らせながら柔和な眼を微笑えませて、泰然と鶴子の痴態に見入っている。とすれば鶴子が焦れったがるのも無理はないのである。

鶴子は加十の膝の上で何かウダウダ言っていたが、やがて急に床の上に飛び下りると、

「脚にスウスウ風があたる。きっとどこか明いてるんだわ」

と言うと、案外にしっかりしたあしどりで廊下の方へ出て行ったが、まもなく戻って来て、

「やっぱり玄関のドアが開いていたわ。妙ねえ、確かにさっき閉めた筈なのに」

と急に真面目な顔つきになって考え込んでいたが、すぐ笑い出し、

「ああ、そうか、妾が閉めたんじゃなかった、王様が閉めたんだったわねえ、そんなら開いてる筈だ。……ねえ、噴水さん、王様の国ではどの家にもドアというものが無いんですって。だもんだからドアを閉めることを知らないのよ。……さアずいぶん喰べたわねえ、これから居間へ行って長椅子に寝っころがりながら話しましょう、王様もいらっしゃい」

王様は鶴子と並んで長椅子に掛けながら、依然として駘蕩たる面持ちで加十の方に振返り、

「今夜は三人でプリュニエへ飯を食いに行きましょう。五時にホテルのロビイで待っています。……正直なところを言うとあなたが一緒に行って下さるとこのひとの食慾が増すのではないかと思うからですよ。今晩も大体そんな風でしたからね。……おや、これは冗談だとしても」

加十は嶮しい小径を下って崖下の空地まで辿りつく。この時はるか頭上で何か鈍い物音がするからその方をふり仰いで見ると、何か落ちて来る来る、薄白い月の余光の中を急速によぎって重そうな物体が落ちて〱。赤い風呂敷包のようなものだが、それには人間の手足に似たものがあって、しきりに伸びたり縮んだりしている。いや確かに人間に違いない、拡がった着物の裾が風船のように膨らんで。

と思う間もなくそれは加十の鼻の先を掠め、ドスンとひどい音を立てて空地の中へ落ち込んだ。――礫こいしだらけの空地に口を開いて倒れているのは、意外にもたったいま別れて来たばかりの松屋鶴子だったのである。

加十が肩を掴んで揺すぶって見ると、ぐにゃぐにゃするばかりでいっこうに手応えがない。クワッと見開いた眼玉の上に有明の月の影。すぐ傍らに家が一軒あるのだが、何しろ加十は狼狽しているものだからそれが眼に入らない。いきなり肩へ鶴子を引っ担ぐと一切夢中の態ていで小径を登って行く。

つい今し方まであんなにも陽気にはしゃいでいた松谷鶴子は、もう呼吸もせずに加十の肩の上でぐったりしている。それにしても加十が崖下まで下りて来る五、六分の間に、あの朽葉色の部屋では一体何が起ったというのであろう。

第二回

四、安南王の早業の事  並に証拠歴然の事

古市加十という夕陽新聞の雑誌記者が、大晦日の夜、銀座裏で異相の怪人物、実は御微行中の安南の国王、宗皇帝に逢遇し、手を携えて各所を酔遊してしたたか酩酊した末、勧誘されるままに赤坂山王台なるアパート有明荘に赴き、皇帝の愛人松谷阿鶴おつると三人で夜食を喰べ、午前四時ごろ其処を辞去してアパートの崖下の空地までやって来ると、突如高からぬ加十の鼻の先を掠めて落下して来たのは、風呂敷包みでもあるかと思いの外、今別れて来たばかりの松谷鶴子だった。前回はそれによって仰天した古市が、前後の思慮もなく鶴子を抱上げるといま来た道を引返す、というところで終りになっている。

さて加十が鶴子の様子を見ると、まさに生色を失わんとする危急存亡の場合と見て取ったから、言うまでもないことだが大いに狼狽し、時借りのタキシードが皺になるのも厭わずいきなり鶴子をすッとこ脊負いにすると一切夢中で有明荘へ取って返し始める。

場所ところも淋しい星ヶ岡、光も凍る午前四時、片側は土手、片側は松と杉の植込みに、根には小笹のサラサラと、足に障りていと狭き、真暗がりの胸突坂。脊中に阿鶴はと見れば浮世絵の式に蹴出した真っ赤な下着の間から婀娜あだっぽく白い脛を突き出し、月に向ったその顔は眼元を皺ませてさながら笑っている風。時刻も時刻なり、こういう味な小径を夜目にもしない嬌態纒綿たる盛装の美人を引っ脊負って行くのだから、知らぬ者が見たら粋気筋いきすじだと思ってずいぶん羨ましがらぬでもないが、実を明せば脊中なる阿鶴はその時すでに絶命しているので。

が、加十はそんなこととは知らない。一刻も早く有明荘へと辿り着き、手当をして何とか一命をとりとめてやらねば、とただその事ばかり考えながらしきりに足を早やめるが、径の上には到るところに五位鷲の「五位鷲の」はママ糞があって思うように進まれぬ。ずるりと辷るたびに鶴子の足がヒョイと加十の尻を蹴る。加十はそれが、急げ急げと阿鶴が合図するのだと思うからいよいよもって周章狼狽あわてふためき、

「ああ、苦しいですか、もっともですもっともです、ざっと見積っても三十尺以上も墜落したのですから、多少苦しいぐらいのことはありましょう。それはともかく、蹴るのだけはやめて下さいね。これで充分急いでる積りなんですが、何しろどうも」

としきりに死人を宥めながら息せき切って踏み上るうち、ようやく有明荘の入口。

階段を駆け上って鶴子の住居の扉を押すと意外にも内部から堅く錠が下されている風で、押せども突けども開く様子がない。何しろこれだけの騒動があったのだから、立ち騒ぐ人の気配ぐらいはしそうなものだが一向そのような模様もなく、いわば闃々沈々げきげきちんちんと鎮り返っているのである。

加十は拍子抜けがして暫時は茫然と佇んでいたが、そうしていても埓のあく様子もないから、いささか焦れ気味になって壁のボタンを押して案内を乞うと、やや暫くののち玄関の間の廊下に閑々たる足音が近付いて来て、朦朧たる酔声を発しながら扉の向う側で応待するのはまさしく宗皇帝。加十は焦れ切って、

「もしもし、そんなところで廻りくどいことをいっていては困りますね。私です。鶴野噴水です、大変な事が起きたから早く開けて下さい」

と、安南王は一向に驚く気色もなく、

「おお、鶴野君とは意外です、どうしてまた今頃。回礼にしては少し早や過ぎるようだが。……思うにまた鶴子の顔が見たくなったのですね。いや、それはさもあるべきことで」

と例の如くゆっくりとした口調で呟きながら、ガチャガチャと扉を開けにかかる。

安南の皇帝、宗竜王ソーリョー・チーについては既に前回でも触れておいたが、皇帝と昵懇じっこんな方などはあるまいから、読者の中には小馬鹿にされたような感じで、忌々しがられる向きもないではなかろうと思うから、読者の反感を避けるためにもこれが架空意想の人物でないことを充分に力説しておく方が便利なのである。

前回では竜太郎とか、王様とか、友達扱いにして呼び捨てにしたが、これなる人物は、仏領印度支那に於て五千二百万の民草を統治する、至上至高の皇帝なのである。のみならずすでに日本文学博士の学位を持たれ、また欧州の柳暗花明にも充分に通暁せられる学殖遊蕩ともに誉れ高い粋人中の粋人。

本来ならば、いかなる事情があっても古市加十などが心易く対話くちまじえなど出来る筈はないのであるが、このような素ッ頓狂な雑誌記者輩と引ッつるんで、ほしいままに銀座裏を酔遊なさろうというのは、御微行中という事情ばかりもあろうが、宗皇帝が極めて瓢逸濶達な精神の持主であられることが判るのである。風格についていえば、これは一種の韜晦的人物で、我々が詩人とか哲学者とかいうものに近いようである。この賑々しき人生をなぜ韜晦されるのか、それは本筋に関係がないからここでは述べぬが、試みに安南の歴史を繙ひもといて一八八三年の条くだりを読まれるならば自から諒解されることもあるであろう。

宗皇帝が非常な日本贔屓びいきで、仏国の教化を毛虫の如くに忌まれ、仏国総督の不満にも拘らずわざわざ日本から多数の教師を招聘して専心日本の文教をされたことは、前にも述べたが、巴里に遊学して七月十四日キャトルウズ・ジュイエに大統領エリ官邸の近くで観兵式を見物した日本人は確かにこの宗皇帝を見知っている筈なのである。

官邸の玄関に設しつらえられた桟敷の上に、モナコやモロッロの王様と並んで、何時の年の巴里祭に見ても、常に悒然いうぜんルビの「いうぜん」はママたる面持で佇んでいる、日本名を宗方竜太郎というあの黒髭の美紳士がつまり宗皇帝なのだ。

さて安南王はしきりに鍵をガチャガチャいわせていたが、やがて扉を引開けて例の貴人の相を悠然と廊下へ突き出し、加十の肩の上で生色を失っている鶴子を見ると急に鳳眦ほうしを釣り上げ、ただならぬ眼付で二人の奇妙な結合を眺め始めた。加十は委細構わず勝手知ったる寝室に踏み通り、寝台の上に鶴子を横たえると漠然と突っ立っている宗皇帝の方へ振り返り、

「水々、それから早く誰かを」

とけたたましい声で急きたてる。

声に応じて駆け出しでもするかと思いのほか、皇帝は髭をしごきながら超然と部屋の中を歩き廻り始めたのである。見ようによれば目前の出来事が何であるかを理解しようと苦心しているのだとも受けとれるが、何にしても奇ッ怪な素振りだというほかはない。

加十は鶴子の帯をゆるめたり胸元をくつろげたりして、常識の及ぶ限りの手を尽しながら、絶えず、阿鶴さん阿鶴さんと連呼するがもとより阿鶴は答えよう筈はない。すでにその義務もないのである。一日でそれと判る死相を卓上燈スタンドの淡い光の中へ浮き上らせながら早や一つの現象のように横わっているのである。血のめぐりの悪い加十にも漸くこの事情が呑みこめたと見え、アッケラカンと口を開いてその面を眺めていたが、間もなく嘆息もろともに、

「おお、死んでいる。こりゃこうしては」

とウロウロとその辺をうろたえ廻っていたが、突然身を翻えして寝室を飛出すと階段を駆け降り、入口の奥の小使部屋の扉を割れよとばかりに打叩きながら、

「小使さん、小使さん」

なかから婆の嗄れ声、

「まあ、どうしたというんだろうね。……はいはい、お馬婆ですよ、何です何です、急病人でも出たのですかえ」

加十は埓もなく、

「大変だ大変だ、松谷鶴子嬢が自殺した。……いや、こんなことを言ってはいけないのであろう。お鶴さんが重病だ、いや、急病で急病で、早く医者の迎えを頼む」

お馬はモゾモゾと起き上りながら、口の中。

「おや、死人が出たと。元日から縁起でもねえ」

と舌打ちしたのち、布団をかぶったまま声だけは愛相よく、

「おやおや、そりゃ大変だ。はいはい、承知いたしました、早速迎えに参りますでございます」

加十はまた二階へ取って返す。見ると安南王は寝室に隣る食堂の卓前に坐って、今や泰然とウイスキー・ソーダーの杯をあげている様子だから、加十も腹を立て、

「何をしようとあなたの勝手です。酒を飲むならお飲みなさい。それはいいとして、一体どうしてあんなことになったのですか」

と、安南王はいかなる酔漢もこれほど沈着ではあり得なかろうと思われるような沈着な口調で、

「ああ、知りませんね」

とただそれだけ。膠にべもない挨拶である。

「知りませんねえとは寛怠至極。何しろ鶴子嬢は隣りの部屋で冷たくなっているんですぜ。それに……、それに、その挨拶はないでしょう。いかに安南の王様でも余り横着というものです」

加十は自分ではもうすっかり酔いがさめていると思っているが、実は芯はまだしたたかに酔っているのだから、安南王の素振を見ると急に義憤を感じ、田舎漢ものの愚直を丸出しにして、返事によってはただではおかぬと詰めよる。

「ねえ君、君は僕が帰ってから一体何をおっ始めたのだね。僕がこの部屋を出る時、君は鶴子嬢と向うの寝室の長椅子に並んで坐っていた。今晩の五時に帝国ホテルのロビーで落合って三人で一緒にプリュニエへ飯を食いに行く約束をし、間もなく僕が有明荘を出て崖下の空地まで行くといきなり天上から鶴子嬢が落ちて来た。何故鶴子嬢が落ちたのだろう。……この部屋の窓はこの通りみな腰が高いから、たとえ鶴子が酔っていたとしても天然自然に転げ出す訳もなければ、また鶴子嬢が日頃そんな趣味を持っていたとも思われない。だいいち、つい先刻まであんなにも陽気に騒いでいたじゃないですか。実に何とも不可解な成行だと思うのですが」

「左様、いかにも不可解ですね」

「口真似をするには及びませんよ。僕がこの部屋を出てから君は一体何をしたのです」

「何もしませんね。あなたがさっき呼鈴を押すまで私はあれからずっとあの長椅子に坐っていたのです」

「成程ね」

「しかし鶴子は寝室から出て行きました。私はあなたを送って行ったとばかり思っていたのですが」

加十はこれを聞くと急に尊大な眼付で安南王の面を瞶め、

「いや、鶴子嬢は僕を送ってなど来ませんでしたぜ。僕が帰る時立上りさえしなかったじゃないか。おお、君は嘘を言っている。とすると、やはり君が」

と大体こんな具合に、加十は急に刑事になったような気で、大して益もないことを詰問するのだが、煩わしいからその細節は省くことにして、さて安南王はといえば加十の失敬な饒舌をさして気にかけるふうもなく、椅子の中で優雅に上身を反らせながら空のコップを弄もてあそんでいたが、ほどなくそれを食卓の上に差し置くと静かに立上って客間の方へ行き、長椅子の上に投げ出してあった外套を取上げると悠々と腕を通し始めた。加十は驚いて、

「おやおや、何をしようてえんです」

「帰る仕度をしているところです」

「余り奇抜なことを言うのは止せ。どうするんです、この始末は」

「いや、失敬します。……でもね噴水君、いずれ何とかなりますよ。あなたの身柄は確かに私が引受けました。心配なさらなくともようござんす。では」

と不可解なことを言うと、何か忘れものでもしたのか、帽子を冠ったまま玄関と反対の寝室の方へ入って行った。

前後の情況から判断すると宗皇帝が鶴子を投げ落したと思われるが、それにしてもどんな動機でそんな野蛮な振舞いをしたのであろう。或いは先刻鶴子が皇帝の眼の前で加十と眼に余る痴態を演じたので、嫉妬の余りこのような兇行を演じたのかも知れぬ。然しこんなことを作者がここで言ってみたところでたいして益もないことだから、これはいずれこの小説中に登場して来る真名古明警部に解決して貰うことにして、引続きこの場の叙述をすすめると、それから約五分ほどの後、力強く玄関の扉を打ち叩く者があるから加十は急いで扉を引き開けて見ると、入って来たのは、一人の巡査部長と一人の私服。

巡査部長の方は部屋の中へ一歩踏み込むと猶予なく加十に、

「殺人があったというのは此処だね。死体は何処にあるのか」

と問いかけるうちに早や刑事は玄関の前に立ちはだかって油断なく身構える体である。加十は胆をつぶし、

「殺人! おお、どうしてそんなことを知ってるんです。これはどうも弱った」

「ここの小使がそう通告して来たのだが、それとも不実のことかね」

「いや、不実だとはいいませんが、然しどうも」

巡査部長は厳めしい紋切型で、

「まアいいから案内したまえ」

それとも踏み込もうかといわぬばかりの見幕。隣りの寝室には宗皇帝がいるのだが、これはいよいよ以て正念場だと思いながら加十は止むを得ず先に立って寝室の中へ入って行くと、何処へ隠れ込んだものか安南王の姿は見当らぬ。思うに今の騒ぎを聞きつけて奥の浴室へでも隠れ込んでしまったのだろうが、さして広からぬアパートのことだからどうせ隠れおわせられる筈はないのである。

巡査部長は寝台に近寄って鶴子の死体をいじくり廻していたが、この時玄関の方から何かヒソヒソと語り合う声が聞こえて来たものだから、巡査部長も気になったと見えて大股にその方へ出て行く。加十も曳かれるように少し後からついて行くと、玄関の戸口で私服と立話をしているのはお馬というさっきの小使らしい。お馬婆はヒソヒソ声で、

「ええ〱、奥にいるのがそうなんですよ。それに違いありませんとも。……でもねえ、いまいったような御身分だから如才はありますまいが、そこはね」

などといっているのが聞こえる。

加十が客間へ入って来るのを見るとお馬婆は急にフッと口を噤んで腰骨が折れはせぬかと気遣われるほど大袈裟なお辞儀をする。五十五六の人の悪そうな婆。巡査部長はそろそろと加十の方へ近寄って来ると揉み手をせんばかりの科しぐさで、

「何しろ存ぜぬことで何でありまして……それはのちほど充分お詫び申すとして、……で、そういうことでありますと、この事件の経緯はあなたのお口から伺う方がよろしいかと思いますが……甚だ御迷惑でありましょうが、然し何と申しても重大な件でありますからして……、政府といたしましても」

加十はこの部屋を辞去し、再び鶴子を背負ってこの部屋へ戻って来たまでの経過を残りなく申し立てると、二人の官憲は眼を見合わせてニニヤニヤ「ニニヤニヤ」はママ薄笑いをしながら聞いていたが、加十がいい終るのを待って巡査部長は、

「ではこの部屋にあなたと被害者とそのほかにもう一人他の人物が居ったと申述されるのですな。で、その者はどこに居ります」

「ここに居なければ何処かに隠れて居るのさ。探して見たまえ、何しろ外へ出て行きゃしないのだから」

読者も多分もうお察しになったことと思うが、浴室にも料理場にも或いは戸棚の中にも、およそ人間の隠れ得られるところには何処にも安南王の姿は見当らなかったのである。

食堂には裏階段にのぞんだ勝手口があるが、その扉も前夜通い婆のとめが引取る時に外部から二重に錠を下し、その鍵はいまお馬婆の腰に結えつけられてあるのである。玄関の扉口に先程からいやな面をした刑事が立ち番をしているし、玄関の間のあの不幸な窓を除くほかどの窓も全部内側から固く施錠されている。

ああ、して見ると安南王は浴室と寝室の間で雲霧消散してしまったのに違いない。そうとでも思うより仕様がないではないか。この時早や巡査部長の手は伸びて加十の腕にかかる。お馬婆、したり顔に頷きながら、

「何にしてもお二人きりでいらしたのだから、こりァ退っ引ならねえわネ」

などと余計な口を利く。加十は唇を顫わせ、

「いやいや、確かに三人でいたのです。その証拠に」

といいながら傍の食卓を指さして三人で食事をした証拠を示そうとしたが、遺憾ながらその上には二人分の食器しか見当らなかった。前夜安南王が鶴子に加十の食器を出させようとするのを固辞し、ただならぬ色模様のうちに同じフォークで喰べつ喰べさせつしたことを、すっかり加十は忘れていたのである。

五、加十恍惚となる事  並に贅沢なる朝食の事

フト眼を醒すと加十は長椅子のようなものの上に眠っていたので、早や全く夜は明けはなれた様子で厚いカーテンの向うで薄陽が照っている模様。

然しまだ加十の意識は夢の中に蕩揺していて、醒めているのやら眠っているのやら、それさえも定かではない。ただ首と腰の骨がメキメキと痛み、咽喉が灼けつくように渇いていることだけはどうやら現実のことと思われる。そもそも自分がいまどういう場所にいるのか、それを思案しようにも頭が割れるように痛んで何一つ考えを纒めることが出来ぬ。今朝の明け方タクシーで溜池署に連れて行かれ、真っ暗がりの部屋の中へ投げ込まれたまでは覚えているが、その後のことは一切記憶に残っておらぬのである。

渋い眼を無理に押開けて薄暗い部屋の中を眺め廻すと、贅沢というのではないが大きな机や皮張りの安楽椅子などが置いてある。また油絵の額なども掛っているが何れも見覚えのないものばかり。はて、まだ夢を見ているかと眼をこすりながらフト首に手をやると固い立襟のカラーが手に触った。首筋の痛むのも道理、加十はタキシードを着たまま眠っていたのである。

半身を起して足許の壁の方を見るとそこの釘に掛っているのは命よりも大事な自分のベロアの中折帽子らしい。いや、そういえば自分の外套もある、皮手袋もある。ここに於て加十は愕然と覚醒した。夢でないならば自分は松谷鶴子の殺害犯人としてここに拘禁されている筈なので、容易ならぬ情況の中にあるわけ。とても寝っ転がっているような場合ではないのである。

ともかく自分がどこにいるのか調べて見なくてはならぬ。急に跳ね起きて机の方に寄って行って眺めると、その上のおびただしい書類には「極秘」とか「決」とかという朱判がベタベタと押してある。加十は、

「うむ、判った判った。これは警察の署長室だ。それにしてはどうしてこんなところへ閉じ込めやがったものか」

と腕を組んで考えていたが、やがて膝を打って、

「昨夜巡査部長が何か馬鹿っ丁寧な挨拶をしていたが、思うに俺を宗皇帝の親友で、何か相当高貴な人間だと早合点し、それでこんな丁重な扱いをするのに違いない。昨夜の同業の忘年会に日頃俺を軽蔑する野郎共に多少威勢を示してやろうと思い、血の出るような保証金を払ってタキシードを借り込んだが、それがこんな結果になろうとは思い掛けなかった。馬子にも衣裳というがこんな衣服トバを引っぱっているとどうしたってしがない雑報記者とは見えまい。その上俺の面相はこれでも相当高尚だから、多分侯爵ぐらいには見えたのかも知れぬ。いや、何が幸いになるか分らぬものだ」

と一人薄笑いをしていたが急にまた落着かぬ顔付になり、

「こんな正念場でニヤニヤ笑って居れるのは我れながら頼もしいが、俺のいまの情況はそんななまやさしいものじゃない。もとより身に覚えのないことだが、然し誰一人俺の潔白を証明して呉れる者はない。あの王様の野郎が俺の身柄を引受けるなどと大束なことを言ったが、その当人が煙のように消えてしまったんでは頼りにもならぬ。はてどうしたものか」

と頻りに首を捻る態。

事件の情況は加十にとってことごとく不利であって、退っ引ならぬ羽目に落ち込んだようである。然し考えてみると自分の寃むじつを言い説く道はたった一つある。

加十は昨夜一ト口も安南王の身上に触れなかったが、仮りに宗皇帝と手を携えて「巴里」以来各所を酔遊した次第を告白すれば、何しろあんな異相の皇帝のことだから、一人や二人の印象に残り、両人が夜更けまで連れ立っていたことを証明して呉れる者もあろうから、その皇帝が加十だけを松谷鶴子の住居にやるなどとは常識では考えられぬので、官憲もこの点に疑問を起し、当夜三人であったという加十の申述が事実かと思うようになるかも知れぬ。甚だ心細い反証だが今のところこれだけが一縷の望みなのである。

加十は様々思案の末、いよいよとなったら、この点を申し立てようと一旦は決心したが、然し一方からいうと安南の皇帝が殺人を行ったなどというのは何という素晴らしい特種であろう。やりようによっては日本国中を唸らせることが出来るのである。のみならずこの実事を知っているのはお馬婆と多少の官憲を除けばこの広い東京で古市加十ただ一人。しかもその加十はこの事件の目撃者で同時に犯罪の証人である。これほどのスクープをたとい未熟なりといえども雑報記者の端くれなる古市加十が雲煙看過しているものであろうか。

加十はつい今まで酔中夢醒の状態で己れの職業のことはサラリと忘れていたが、ここに思い到ると猛然たる職業意識が起って来た。

仮りに加十がこの事件をスクープすることが出来たとすれば何んとそれは目覚しいことであるか。日ごろ加十を軽蔑してあるかなしかの取扱いをする朝日や日々の奴等を茫然自失させることが出来るのである。そして夕陽新聞の古市加十の名は一躍して斯界に轟きわたるのである。と思うだに胸が躍る。

加十は一種昂然たる面持で、

「よしよし、このネタだけはどんなことがあってもモノにして見せる。俺が安南王と一緒に押し廻った事実を洩らせば俺は釈放されるだろうが、そうすると俺が書く前にかけ代えのないこのネタを残らずほかの奴等に引っ攫われてしまわなければならぬ。それではなんにもならン。今のところ情況は甚だ不利だが、天網恢々で何も俺がジタバタしなくても何れ犯人は宗皇帝だということが判り、俺の無罪が証明されて無事に釈放されるに違いない。よし、俺の口からは決して宗皇帝のことは洩らすまい。また俺の身分も言うまい。そのためにたとえ一ト月が二タ月未決に繋がれたって恐れることじゃない。一つ胆太くドッシリと腰を据えてこの事件のどん詰りまで見物してやろう。それにしても、俺をいつまでもこんなところに置いておく筈はないから間もなく訊問が始まるだろうが、その時は向うの出よう一つでなるたけ向うの思う壺にはまるような返答をしてやろう。と、こう決まったらこんなふざけた長椅子などに便々と待っている必要はない、俺の方から官憲を呼びつけてやろう」

と呟やくと急しくネクタイを結び直し、寝皺の寄った上衣の裾を引っ張り、櫛を取出して念入りに髪を梳きつけていたが、やがて充分に身仕舞が終ると、扉口の方へ向って世にも壮重な声で、

「おいおい、誰かいないのか」

と声をかけた。

するとあたかも打てば響くといった具合に静かに扉を開けて入って来たのは、肩章も真新しい服に白手袋をはめた五十ばかりのチョビ鬚の男。

両の掌をピタリと股につけ、擦り足をして窓の方へ行き窓掛けを引き開けると恭々しく加十の前に進み、

「お目覚めでございますか」

という。さすがの加十もこうまでとは予期しなかったので、むしろ当惑して答えもなくその面てを眺めているとその人物は、よくお寝みになれましたかの、さぞ御窮屈であったろうのと慇懃な口調で問いかけたのち、

「警官どもの粗相につきましては多分御尊大、いや、御寛大、否、何と申しましょうか……、何しろ当時小官は在署せぬことでありまして……、報告によって驚いて出署いたしますと鼾いびきを……、いや、お心地よげにお寝みのご様子でありましたから、小官はその時考えたのでありますが、御窮屈でありましょうがお起し申上げぬ方がよい、とそう思いまして……、何しろまだ夜明けに間のあったことでもあり、のみならず」

加十は漸く正気を取戻し、弱味を見せてはならぬ場合と思うから尊大な口調でその人物の弁舌を遮り、

「あ、いやいや、結構ですとも……。して、あなたは」

人物はハッと一礼をし、あたかも朗読するような口調で、

「溜池署長、正七位勲六等功七級、法学士表町三五郎」

加十は軽く頷き、

「ああ、そう。何か大分御迷惑をかけたようで」

表町三五郎は再びハッと身を屈め、

「いや、どう仕つかまつりまして。警官共の失態はいずれ厳しく譴責いたしますが、この上は御随意にお引取り下すってよろしいので、丁度今しがた」

約束に違わず安南王が今しがた警察にやって来て釈放の手続きをとってくれたのだと思ったから加十はホッとして、

「ではもう来たのですね」

署長は頷き、

「はい、左様。いつなりとどうぞ」

署長は声をひそめ、

「これは余事でありますが、今朝早速有明荘の小使婆を召喚いたしまして充分訊問を試みましたところ、その者の申述するところでは新聞記者などはただ一人も昨夜の殺……いや、昨夜の事件を嗅ぎつけて居らぬようで、憚りながらこの点をちょっと申し添えておきます」

と言い終った時、扉を叩いて入って来た一人の警官。自動車の用意が出来ました、と言って引退る。

加十は思わずドッキリして上眼で署長の顔を見ると、仔細らしく引結んだ唇の端を歪め、どうやら薄笑いをしている様子。いかに加十を高貴な人物と早合点したとしても、警察から自動車で送り返すなどは有り得べき事ではない。思うに今までの悪丁寧なやり方は、胡魔化して警視庁へ送るための策略だったのだと思ったから加十はまたまたガッカリしたが、外見は悠然と立ち上ると署長に導びかれてシオシオと自動車に乗り移る。

自動車は虎の門から霞ヶ関の方へ。正しく警視庁の方角へ走って行く。フト幌の覗き窓から後方を見ると附かず離れずといった具合に尾行して来る一台の自動車。その中には私服らしいのが三人までも乗っているので。

加十は泣きっ面になり、ついさっきの決心も挫けかけて来たころ、どうやら自動車が停った様子なので怖々その方を眺めると警視庁の大玄関と思いのほか、それは帝国ホテルの車寄せだったのである。

見ていると後方の車から私服の一人がヒラリと飛び降りて、ホテルの中へ入って行ったと思う間もなく、支配人めいたモーニングの男が小腰を屈めながら駆け出して来て、恭々しい一礼とともに加十の自動車の扉を引開けた。

加十は勝手にしろという気になって自動車から降り立つ。支配人は先に立って二階に上り、東側の客間らしい部屋へ加十を導き入れると後退りに扉口の所まで退って行き、そこでまた大袈裟なお辞儀をすると逃げるが如くに引退って行った。

後には加十ただ一人。顎まで埋りそうな安楽椅子に落着かぬ腰を据えながら、安南王が入って来るのを今か今かと待ち構えていると、それから約二十分程の後、廊下の方に足音が聞こえ入って来たのは宗皇帝ならずしてピカピカ光る黒い服を着たボーイ長らしい禿頭。這うようにして進んで来ると、ものも言わずに加十の鼻先に大きな厚紙風のものを差しつける。

加十は度胆をぬかれて心中タジタジになり、恐る恐る手に執ってみるとそれは別に恐れるほどのものではなかった。それは献立表。時刻は正に正午。なるほど王様らしい行届いた仕方だと感服しながら、加十はこういう際であるからしてなるたけ金目のかかった料理を四五品命じると、禿頭は一々それを書きとめてから、

「どちらへお持ちいたしましょうか。何ならば御寝室へお持ちいたしましょう」

と言った。加十はグッと唾を呑み込むと必生の勇気をふるって、

「ああ、寝室へ持って来て呉れ」

と蚊の泣くような声で答えたのである。

加十は嘔吐はきたいような気持で恍惚と坐っていると、今度はボーイらしい青二才が入って来て一通の電報を差出して引退って行った。

加十はホッと安堵の吐息を洩らしながら多分これは遅刻を詫びた安南王からの電報だろうと思い急いで封押し切って読下してみると、意外にもそれは暗号文で幾度読んでも一向に何のことやら判らない。

あわてて表紙おもてがきを見るとそれは宗皇帝に宛てられた安南総督からの電報だったのである。加十は電報を握ったまま棒立ちになっていたが、

「こりァ、えらいことになった。俺にこの電報を渡すところをみると……、すると……、すると、こ、この俺を安南の……」

と叫ぶと蹌踉よろよろと椅子の方へ倒れかかった。加十、失神しなければよいが。

六、「鶴の子石鹸」の事  並に博士の怪弁の事

新玉の年たちかえる初春の朝、大内山の翠松に瑞雲棚引き、聖寿万歳を寿ことほいで鶴も舞い出でよう和やかな日和。

輪飾をつけた参賀の自動車が立毛の帽子や金モールを乗せてスイスイと走せ違う大手前へ、今しも楽隊を先頭に行進して来た行列。粧々けばけばしい旗や吹流しを朝風に吹き靡かせながらやって来、二重橋の前に整列して宮城を遙拝すると馬場先門から交叉点を横切って日比谷公園へ繰込んで行く。

一行は「鶴の子石鹸」と脊中に白く染めぬいた揃いの印絆纒を着、中には威勢のいい向う鉢巻きをしている者もある。初売りにしては少し気が早やすぎるが一体何の行列かと先頭の大旗を見ると大きな字で日本一の大夕刊夕陽新聞と染め抜いてある。が、これだけでは何のことやら判らない。折よくそこへ赤襷をかけた背広の男がチラシを配りながらやって来るからその一枚を受取って読んでみると、その表紙には牛の糞ほどの大きな木彫活字で、

今朝九時十二分

鶴の噴水唄わん

来りて瑞兆を見よ

来れ日比谷公園へ!

(「夕陽新聞」年極購読者に限る)

と印刷してある。

前回でも述べた通り、どういう訳か日比谷公園の噴水の鶴が、一週間ほど前から時を定めずに美しい階音で歌を唄うようになった。

最初にこれを発見したのは酒月という日比谷公園の園丁長だったが、夕陽新聞は他社に先んじて逸早くこの事実を報じ、これは国民ひとしくお待ち受け申上げる国家的瑞兆に相違ないと竹の園生の御繁栄を慶賀し、有名人士の祝辞を掲げる一方、学士博士を総動員してこの不思議なる現象に対する感想を述べさせた。中には医学的見地や軍事的な立場から述べた意見などもあり、見当違いなのも多かったが、要するに夕陽新聞はこの「鶴の噴水事件」をしっかりと握り込んで日ごと毎日煽情的な思い付きを考え出しては全紙面を埋めた。

青銅の鶴が噴水の水とともに優雅な曲奏ふしで歌を唄うというのは何にしても珍しい出来事に相違ないから、「唄う鶴の噴水」に対する市民の人気は弥いやが上にも昂まり、親しくその歌を耳にしたいと願う市民は我れも我れもと日比谷公園に押しかけ、噴水の鶴のいる池の周りは未明から日没まで身動きもならぬほどの雑沓。さすがに屋台店こそ出ぬが、公園の四つの門の前には売子が蒼蠅うるさく鈴を鳴らしながら夕陽新聞の呼び売をする。

前にも述べたようなわけ柄で、この「唄う鶴の噴水」事件は夕陽新聞の独占になってしまったから、それに就いて詳細を知り度いと望む者はこの新聞に求める以外に方法はない。一時間毎にサイド・カーで運ばれる山のような夕陽新聞はまたたく間に売切れるという盛況。このために存在さえ知られなかった夕陽新聞は一躍跳ね上って今やその発行部数は万を以て数えられるようになった。

今日のこの行進は愈々以て高潮した市民の好奇心をもう一ト煽り煽り立て、急速に膨張した夕陽新聞の地盤を確固不動なものにしようという、社長兼編集長、幸田節三の秘策中の秘策で、その名も芽出たい「鶴の子石鹸」とタイアップし、「瑞兆祝賀会」の名に仮りて古今未曽有の大芝居を打つことになったのである。

式の順序を言えば、まず幸田節三の挨拶、東京市役所水道課長の感想、この瑞兆の最初の発見者たる酒月園丁長に対する賞品の授与式、名士の祝辞、この不可思議なる現象に対する兼清博士の大講演などがあって聖寿万歳を三唱して解散する段取り。

来会者にはこの瑞兆に肖あやかるように洩れなく「鶴の子石鹸」を贈呈するほか、夕陽新聞の半額購読券を配布する。

然しこれは今述べたようにこの大芝居に重味をつけるためのインチキに過ぎぬ。人を集めて新聞の半額券を振撒くぐらいのことは半ページの花柳新聞でもやる。然しこの名編集長がといわんよりはこの名興業師、幸田節三が畢生の智慧を傾けて考え出した一策というのはそんな生易しいものではなかった。

幸田節三はこの乙亥元旦午前九時十二分を期して必ず噴水の鶴が鳴くと断言し、夕陽新聞の年極購読者に限ってこの千載一遇の奇蹟を目のあたりに見物させようという大胆不敵な大賭博を打ったのである。

元旦の九時十二分に噴水の鶴が鳴くというのは一体何から割り出したものか元より作者などの知ろう筈はない。が、仄聞するところに依れば、幸田節三は四五日以前に一升壜を携げて例の奇人的理学者兼清博士の蓬屋を訪ね、胡座あぐらの膝を交えて博士の怪気焔を拝聴したということだが、幸田節三のこの不敵な思い付きはそのおり博士に暗示されたものらしいというのである。何しろ相手は人の顔さえ見れば、奔放自在に真偽不明の怪理論を述立てる習癖を持つ博士のことだから、幸田節三ももちろん博士の出鱈目を丸々信じたわけではない。いかに博士が力説しても、元日の午前九時十二分に噴水の鶴が鳴くなどというのは、一分の偶然は期待出来るにしてもあとの九分は山勘である。

幸田節三は平素、新聞の発展は度胸に比例するという卓越した見解をもっている人物であるから、この九分の危険率を問題にするような気の弱い男ではない。一分の成功率さえあれば猛然と思い付きを実行に移すだけの殺気と胆力を持ち合わしているのである。

ああ、仮りにいかなる偶然かによってあたかもその時間に鶴が鳴いたとしたら! 夕陽新聞の地位は大盤石の上に据えられるのである。然し反対に鳴かなかったらその結果はいうだけ野暮であろう。幸田節三は激昂した群集に袋叩きにされるぐらいが落ちではない、夕陽新聞の息の根はそれによってハタと止ってしまうのである。再起することは難かしかろう。

この大秘策は既に三日以前から幸田節三の胸底深く秘蔵されていて、腹心の子分古市加十のほかは愛妾の酒月悦子にさえも洩らさなかった。これを発表しなかった理由は他社の妨害を恐れたばかりでなく、この興業そのものが既に不合法であったからである。

幸田節三は十二月卅一日の深夜、午前零時一分を期して、かねて秘かに印刷させておいた前掲のチラシと同文句の大ビラを一斉に各所に貼布させた。その区域は大東京のみならず近接の郡部に及び、全東京府の電柱はことごとくこのビラによって蔽われたといっても過言ではない。

さて、再び日比谷公園に立戻ると、行列は池の傍まで到着すると、雲霞うんかの如く詰めかけた群衆を前にして楽隊ジンタが浮き立つような調子で、(あなたと呼べば)という流行歌を演奏し始めた。

一方「鶴の子石鹸」の印絆纒どもは、どこからか二台の大八車を洩いて来ると、池の傍に急造の演壇を作り上げた。

約束された時間が迫るといよいよ群衆の数は増し、土手も松の木も人間の鈴なり、汗を拭こうにも身動きすることも出来ぬ有様。その前列に押され揉まれながら危なっかし気に立っている二人の娘。いずれも同じぐらいの年格恰だが器量は天地ほどの違い。

一人は眼に張りのあるスラリとした可愛らしい娘だが、片っ方はずんぐり肥えた見るからに気の重くなるような赭熊しゃぐまの娘。この方は先ほどから伸び上ったり首を縮めたりして、落着きなくキョロキョロとあちらこちらを眺め廻しているが、器量のいい方の娘は何か心配があるらしく、帯の間に右の手を差し込んでションボリと浮かぬ顔。やがて赭熊は連れの方に振り返り、まじまじとその顔を眺めると邪慳に舌打ちし、

「ちょいと、どうしたのさ、花ちゃん。何でそんな不景気な顔をしてるのさ。たまの休みだというのに妾わたしまで気が滅入ってしまうじゃないの。およしよ、そんな顔をするのは」

と剣突を喰わせると、花子と呼ばれた方は大人しい娘と見え、逆らいもせずにニッコリと笑い、

「あら、御免よ。何だか今日は気が重くて、気にしないでちょうだいナ」

といってソッと溜息をつく。赭熊は聞き流してまた楽隊の方へ伸び上っていたが急に頓狂な声、

「ちょいと、御覧よ御覧よ、花ちゃん。何だか面白くなってきたわ」

花子と呼ばれた娘は顔を上げてその方を見ると、二人の警官が楽隊の方に近付いて行き、楽長らしい男に奏楽の中止を命じるふうだが一向命令に従わぬので、立腹した警官は一人はクラリネット、一人はコルネットの腕を掴んで円陣から曳きずり出したので、流行歌は忽ちメロディを失って間の抜けた太鼓の音だけになってしまった。

群衆は一斉にドッと笑い出す。警官はいよいよいきり立って大太鼓まで搦め取ってしまおうとその傍へ近付いて行った時、群衆を押分けて演壇の近くに立現われて来た二人の人物。一人は四十五六の田舎相撲のような恰幅のいい眼玉の大きな男、一人は五十ぐらいの塩の勝った胡麻塩の髪を雀の巣のように取乱したあるかなしかというような小柄な人物。先なるは夕陽新聞社長幸田節三、後なるは兼清博士と見受けられた。

幸田は楽隊と警官の縺れを見ると急ぎ足でその方へ進んで行って権柄な声を出していたが、巡査は間もなく不承々々の面持で群衆を押分けながら引取って行った。

この時公園の入口の方からけたたましい鈴の音がして五人ばかりの新聞売子が、夕陽夕陽、大事件号外、写真入り特別版と叫びながら駈け込んで来た。お花という件の娘はそれを聞くと急にドッキリとした様子で、急いで帯の間から小さな蟇口を抜き出し、新聞を一部買い取るとはげしく眼を走らしていたが、やがて、

「まだちっとも掲載でていない。ああ、どうしょう〱」

と不安気に呟く。

読者諸君もまだお忘れにはなるまい。この娘は前回に於て夜の十二時頃縫い上げた式服を松谷鶴子のところへ持って来た、崖下の仕舞屋しもたやの二階に住む桃沢花という縫子である。この愛くるしい小娘がしきりに胸を痛めている心配というのは一体なんであろう。しかし、尋ねたとて恐らく答えはしまいから、今のところは知るに由ないのである。

やがて八時真近かになると、幸田節三は万雷のような喝采を浴びながら演壇に登って行き、今日の瑞兆祝賀会について所感を述べることになったが、その所感なるものは、すでにしば〱夕陽新聞に掲載されたものと同巧異曲だから、ここにそれを叙述する必要はあるまい。

続いて登壇した水道課長は鶴の噴水の地下構築と当時の苦心談を一席述べて、てれ臭さそうに引退って行った。

記念品の授与式とはどんなことかと思ったら酒月園丁長の胸に金メタルを縫いつけてやるだけのことで、これも呆気なく済んでしまった。

祝辞の方は幸田節三が全部一人で代読した。その中には内務大臣や陸軍大将の祝辞も交っていたが真疑のほどは判らない。そうこうしているうちに九時十分前になった。あと二十二分経てば噴水の鶴は鳴き出す筈なのだが……。

誰の考えも同じと見え群衆の眼は銅像の方へ注がれてそこへ釘づけになっている。その鶴はといえばどうしたものか今日は噴き上げる水も細く幽けく羽交を凋めてションボリとしている。この内気な鶴はこの無数の眼に瞶められて恥かしさの余り身も細るような思いをしているのであろう。

近くの時計台が九時を打つ。これが予ての合図だったと見え兼清博士は幸田節三に押上げられるようにして、演壇に登る。博士の珍妙な様子を見ると群衆は一斉にドッと笑い出したが、博士は格別気にする様子もなく年齢に似げないキイキイ声で、

「諸君、僕が思うにだね、この世の中に不思議だとか奇妙だとかてえことはある筈はないのだ。箱根山から此方に化物は出ないというが、科学の進歩した今日、この世に不思議なんてものはもう存在しないね。不思議だ奇妙だといわれていることも研究してみるてえといずれそうなるべき理屈によってそうなっているのでみな九々が合うのだ、いいかね。だからこの噴水の鶴が歌を唄うなんてえのもいずれ物理の支配を受けているので諸君の考えているような幻妙不可思議なもンじゃアない。のみならずこんなのは今から四千年前のエジプトに同じような前例があるのだ。昔エジプトのテエベという町にメムノンという神様の石像があって、毎朝朝日が石像の額に当ると鼻唄のようなものを唄い出す。その頃の人民は馬鹿野郎ばかりだから腹の中に立琴のようなものが仕込んであるのだと思っていた。が、その後近代になって調べてみると別に何の奇もありやしない。一体エジプトというところは昼は暑いが夜になると急に冷える。いいかね、少し難かしいからよく聴いてろ。ではどうしてそんな音が出るかといえばその石像はがらん洞になっているので、その腹の中の冷たくなっていた空気が朝日に暖められて急に膨張し、鼻の穴とか歯の隙とかそういう狭いところから無理に外部へ出ようとするのでそれで音を立てるんだね。さてこの鶴の銅像だが、これはどういう理屈で歌を唄うかといえば、大体こんなわけだと思うのは、僕もこれで克明な男だから、鶴が鳴いたという時間を抜目なく記録して置いた。さてそれを通覧し、どういう日に鳴くか調べて見ると大潮の日の干潮と満潮の境目に鳴くということが判った。しかし潮の満干はいうまでもなく昨日今日に初まったものじゃないから、それだけの関係ならば、この鶴の銅像は出来上った当時から鳴かねばならぬ筈だ。しかるに鳴き出したのはつい最近のことだから、ただ潮の満干だけの関係で鳴くのだとは思われぬ。最近地下層に何か鳴き出すような変化があったものと見ねばならぬのさ。ここまで理詰めにして来るとあとは至って簡単だ。諸君も知っている通り最近地下鉄の工事が始まった。見る通り煙管の羅宇を通すほどのチャチな工事だが、然しあれだけのものでも地下層や地下水に変化が起る。噴水の鶴が最近に至って鳴き始めたのは今いったような地下組織の変化が原因しているものと思う。最後に一ト言いっておくが唄う唄うというが別にこの鶴そのものが唄うのではない。知ってもいようがこの銅像はガラン洞で、例えて見ればヴァイオリンの共鳴箱のような具合に非常に共鳴し易くなっているということだ。つまり、地下のどこかで何ものかが震動するその音がこの鶴の像に共鳴して唄うような音を出すのだと思えばいい。この理屈は決して与太じゃない。ところで今日は大潮で干潮の時間は午前九時十二分だ。今までの前例に従えば必ずこの時間に唄い出さなくてはならぬ筈なんだ」

といって懐中より時計を引き出して眺め、

「おお、そういう内にもう九時十分だ。あと二分たてばいよいよ唄いだす。僕がこうして太鼓判を押した以上鳴くといったら必ず鳴く。さ、これで一分たった。あと一分……あと三十秒……あと十秒……」

噴水の鶴を囲む大群衆は固唾をのんで一斉に鶴の口元をみまもる。咳しわぶき一つする者はない。壇上の博士は時計の秒針を覗き込みながら今正に片手を挙げて九時十二分の合図をしようとする、息詰るような瞬間。

やがて博士は自信に満ちたような面持でサッと空ざまに腕を挙げた。――が、鶴は鳴かなかった。灼けつくような期待のうちに五分経つ。

鶴は鳴かぬ。

十分経つ。

鶴は依然として素知らぬ顔で幽玄に水を空に噴き上げている。鶴は歌を忘れてしまったのであろうか。

幸田節三の面にも兼清博士の面にも包み切れぬ不安と焦慮の色が表われ、群衆の間ではそろそろ不平の呟やきが聞こえ始めた。三十分経ったがとうとう鶴は鳴かない。この時群衆を押分けて演壇の上に駈け上った一人の壮士風の男。群衆の方へ向き直ると芝居染みた邀越な口調で、

「諸君、詐欺だ、ぺてんだ! 我々は嵌められたんだぞ! さっきメタルを貰った酒月って野郎の娘はこの幸田節三の妾めかけなんだ。誰れも知らねえと思って八百長をやったンだ。噴水の鶴が唄うなんて言い出したのはこの酒月なんだぜ。諸君、騙されちゃアいかん。最初から鶴なんか鳴きゃアしなかったのだ。それに何ぞや国家的瑞兆だと! 不敬極まる話じゃないか。文句はいらん。俺は今諸君に代ってこの非国民に制裁を加えてやるからよく見ていて呉れい」

というと右手の前列に一ト固まりになっていた背広にステッキの一団の方に向い、

「おい諸君、やっちまおう」

と顎でしゃくった。声に応じてバラバラと列から離れたいずれも一ト癖ありげな面魂の十人ばかりが、猛然と幸田の方に突進する。幸田は演壇の下をチョコチョコと駆けて群衆の中に逃げ込もうとしたが、たちまちさっきの壮士風の男に襟首を掴まれて引き戻され、力任せに演壇の下に叩きつけられた。

激昂した群集は鬨の声を挙げて八方から幸田の方へ走り寄って来る。まさに幸田節三が拳の雨に打ち据えられようとしたその時、噴水の鶴は世にも清らかな声で唄い出したのである。それは単調な旋律と単純な階音を持つ古い聖歌のようなものであった。

第三回

七、一陣の夜嵐の事  並に各人各説の事

夜の繁昌に引かえて朝の銀座裏は至って閑寂。況んや元日の午前八時半、門松も枝を鳴かず鳶も鳴かず、この辺のうるさい人畜は一夜のうちにみな死に絶えてしまったかと思われるほどの清々しさ。

そこへ警笛クラクションの音も忍びやかに辷り込んで来た一台のタクシー、「巴里」という酒場の真ん前で停る、その中から四五人の男女が降りて来た。男はタキシード、女は夜会服ソワレ、いずれの服も敢々に「敢々に」はママ汚れ皺み、とんと夜会の幽霊が白昼戸惑って出て来たといった体。

その顔触れを見ると、前夜「巴里」で駄々羅遊びをしていた、既に前々回でお馴染の連中。すなわち高利貸犬居仁平の甥で有名なる早熟児アンファン・テリブル印東忠介、珊瑚王の伜で名代の好事家ディレッタント山木元吉、最近アメリカから来た当時売出しのダンサー川俣踏絵、元映画女優現在は朝鮮捕鯨会社社長伯爵岩井通保の妾めかけで「巴里」の女将マダムなる村雲笑子の四人。何か手痛い目にでも逢ったものと見え、いずれも濡鳥のようにションボリと肩を辣めながら「辣めながら」はママ酒場のなかへ消えて行く。ちょっと間を置いて又そこへやって来たのはやはり昨夜の一味で、仏国「ホヴァス」通信社の通信員、ジャン・オウスマン又はジョン・ハッチソンといって、自在に仏蘭西人になったり亜米利加人になったりする器用な男。運転して来たロードスターを歩道の傍へ乗捨てると、これもそそくさと「巴里」のなかへ入って行く。

大島譲次という日本名をいったら多分御存知の方もあろうが、この人物は仏国大使館員と生田流の琴の師匠の間に生れた半紅毛人。浅草の金竜館で後の氏原芳家などと一緒にテナーの真似事をしていたが、安南の行政駐在官レビゾーレに栄転した父に従ってその地へ行き、間もなくこの小説中に「カーマス・ショオ」の団長となって登場してくる、これも日仏混血のルイ・バロンセリという男と雲南、貴州を股にかけて何か怪しい商売をしているという評判だったが、昨年の夏ごろホヴァスの東京支局長となってひょッくり戻って来た。

陽の目もささぬ酒場の内部を透して見ると、天井からは千切れたテープが蜘蛛の巣のように垂れ下り、椅子は倒れテーブルは俯向いてさながら激戦の跡のよう。ハッチソンは足踏みもならぬ反吐や空瓶を器用に飛び越えながら、薄暗い片隅にぐったりとたぐまっている四人の方へ近づくと、引擦って来た椅子に腰をおろしニヤニヤ笑いながら一座を見廻す。年の頃は卅七八、細い口髯も板につき、面ざしの極めて美しいのに眼付はひどく冷酷で、どう見ても西洋の色悪といったところ。襟すじから耳のうしろへかけた辺りがすっきりと垢抜けていて男でさえも惚々するくらい。隙のない粋な身のこなしもいっそ凄味に見えるのである。

ハッチソンは腿の上に右の足首を引き乗せると、ひどくいなせな口調で、

「ふふ、大したシケ方だ。よしねえ、坊主が斎ときにつきァしめえし、殊勝な面をするな」

といって、髪の長い顔の蒼い、堕落した詩人のような山木元吉の方へ振返り、

「今朝ほどは御挨拶もしませんでしたが、山木の旦那、あんた方はどんな景況で」

山木は充血した眼をショボショボさせながら、

「いやア、どうも惨々の敗北でねえ。……何しろあっしと踏ちゃんの部屋シャンブルは待合オテルのトバ口だったから、あッという間に踏ン込まれの、ひン捲られの、あたかもカサノヴァ伝を極彩色にしたような絢爛たる図になりましてねえ」

といって、板壁に頭を凭らせて陰気に煙草の煙を吹上げている廿歳ばかりの中形美人の方へ流眄ながしめをし、

「一方、踏ちゃんの方はというと、寝恍けるに事を欠いて、起しにかかった私服おかみの手にすがりついて、まだ帰っちゃ厭、なんぞ発した穏かならん一幕もあり」

踏絵は裾を捲って形のいい脚を物臭そうにテーブルの上に投出し、

「止せってば、莫迦なことをべらべらしゃべるのは、みなが本当にするじゃないか。誰が、そんな」

と、ツと長い睫毛をあげて婀娜あだに睨む真似をする。

こんな事をいっていたんでは何の事やらお判りになるまいから、ちょっとあと戻りして事の次第を叙述しように、昨夜古市加十と宗皇帝が「巴里」を出て行くと間もなく、明元日から日本座で開演する生粋のアメリカレビュー団「カーマス・ショオ」の男女優が舞台稽古を終えてドヤドヤと乗込んで来た。これで乱痴気騒ぎは輪をかけて激烈となり、追々阿鼻叫喚の盛況を呈することとなったが、午前三時半頃になると、かねて諒解のあったものと見え、これらに岩井を加えた六名がそれぞれ好めるところと手を携え、築地なる某所に繰込み、巫山の雲雨莫々と濃かなるところへ、計らざりき一陣の夜嵐が吹きすさび、一同珠数つなぎとなって明石署へ引立てられ、アナヤというほど油を絞られた上今朝七時半になってようやくお釈放ときはなしを受けた。あたかも古市加十が溜池署の署長室で眼を覚ましたその時刻に当るので。

事のついでにちょっと「カーマス・ショオ」について述べると、これは紐育ヌウ・ヨルクの大ジーグフェルドに次ぐ世界的レビュー団とあって、まだレビューらしいレビューを見たことのない日本では、この一座が来朝するという評判だけでもう大変なのぼせ方。アメリカ通といわれる四通八達の先生は勿論、実直な音楽批評家までお会式の万燈ほどに提燈を持ったので、いよいよ日本座で蓋を開けるときまると物凄いような前景気、とりわけ有閑、富豪の両階級の肩の入れ方は大したもので、十円也の特等券はすでに二カ月も前に全部売切れてしまったという有様。何にしても世界第一流の大レビュー団の豪華絢爛に眼のあたりに接し、居ながらにして紐育ヌウ・ヨルクの歓楽境に遊ぶ思いが出来ようというのだからこれぐらいの人気が湧くのも無理はないが、日ごろ花より団子を主義とする達人階級まで躍起となっているというには、実はその裏にそれ相当の理由があったのである。

この一座が来朝すると決まると、ある特殊な方面にパッと妙な噂が立った。その噂というのは、この一座の踊子たちはたいへんに心が優しく、日米親善の方にも充分に努力するそうだというその噂である。これが嘘でない証拠に、間もなく専門のブローカーが現われて、充分にその方面を斡旋して廻ったので、各業倶楽部などでは寄ると触るとその噂ばかり、まだかまだかと判官もどきの大した焦れ方。下見用の特等券が羽根の生えたように売れたのも、さこそと首肯うなずけるのである。さてこの治まりはどうなったか、もとより作者などの知ろう筈はないが、仮りにこれがもし興行上の政策であったとすれば、まさに大成功をおさめたという外はない。

心の優しいのも道理、このカーマス・ショオはブロードウェイ生粋のレビュー団でも何でもなく、実は上海から香港の間で駆り集めた田舎ドサ廻りの寄席芸人の一団で、中には昨日まで大馬路タマロの闇に咲いていたなどという劇しいのもいた。いうだけ野暮のようなものだが、これはジョン・ハッチソンとその莫逆の友ルイ・バロンセリの二人でデッチ上げた芝居なので、これについてはまだ書くべきこともあるが、ここではざっと両人の関係を紹介するに止め、さて再び以前の「巴里」に立戻ると、ハッチソンはニヤニヤ笑いながら山木の話を聞いていたが、踏絵がいい終ると急に改まった面持で一座を見廻し、

「軟調のつづきはいずれまた伺うとして、且那さんもお内儀さんもちょっと聞いて下さい。……というのは他でもない、つらつら按ずるに、今朝の一件にはチト腑に落ちかねる節があるんですぜ、御承知か」

「今朝の、って臨検ラッフルのこと? 知りませんね、聞かしてちょうだい」

と、気味の悪い声をあげたのは印東忠介で、面差は廿二三だが、十七八としか見えぬ発育不良の骨柄。百人一首の業平朝臣のような間伸びした顔をオークル廿八番のグリスペイントで薄化粧をし、右の眼尻の下に入黒子ビュウティ・スポットを入れた異様な面態。

ハッチソンは頷いて、

「今くわしく訳をいいます。……今朝の七時半に明石署を放り出されると、みなさんは魚河岸へ朝飯を喰いに行ったね。岩井の旦那は御本宅へ引上げるし、私はすぐ社へ行って方々へ電話をかけて見た」

山木は細い顎を突出し、

「あの娘こや、この娘や」

ニッコリともせずに、

「ま、茶化さずにお聞きなさい。御承知でもありましょうが、日本の警察おかみはこれでなか〱粋に出来ていて、元日だけは何事も大目に見ることになっている。然るに今朝の一件です。ジョン・ハッチソン、瘠せても枯れても新聞記者の端ッくれだア。これア何か大事件おおごとがあったのだと思ったから、早速本庁の刑事みうちへ電話を掛けて聞いて見ると、昨夜にも今朝にも大事件なんてえものは無かったと言います。が、念のために私自ら走り廻って充分に調査致しますと、――成程、どこの管轄にも非常臨検なんてことはなかった」

山木は笑子と眼を見合せ、

「いや、これは驚きました」

「ところがもう一つ驚くことがある。……御承知の通り、昨夜カーマス・ショオと引ッつるんでお道楽を致しましたのはわれわれ六人だけじゃない。山菱の杢兵衛も大和生命の三太郎も如才なくやっている。然るにです、私の調査したところによりますと、その方々は敵軍と枕を並べて今もってぐっすりとお寝みになっている。いかがです」

「いよいよ驚きました。それは一体どういうのですか」

「一口に申しますとね、今朝ほど夜嵐に吹き散らされたのはアパート有明荘の六人の住人、すなわち、笑子丈、ダンサーの先生、印東の旦那、岩井の親分、山木の大将、それにかくいう手前の六人だけだってえ奇妙奇天烈な結論になるんです」

笑子は眉を顰め、

「アレ厭な、気障だねえ」

と呟くようにいってそっと踏絵の方へ振り返る。踏絵も妙に蒼ざめて、ハッチソンに、

「気を持たせずにお言いな、どうしたってえのさ」

「どうしたもこうしたも、要するに、有明荘で何か大事件が起きたのだと思うほかはないですな」

踏絵は焦れ切って、

「もう、じれッたいッたら。早くいえ、莫迦」

ハッチソンは手で制し、

「まあ、お内儀さん、待って下さい。私に怒ったって仕様がない。知ってるなら申しますが、私にも一向判らない。御承知の通り、私はこれで随分如才のない方だから、お馬婆を呼び出して様子を聞こうと思って、有明荘へ電話を掛けて見たのです、すると」

笑子は小肥りした膝を揺すって、

「ああ、すると」

「するてえと、受話器を外しているんで、これがてんで通じない。……いよいよ以て穏かならん事で」

一座は不安気に面を見合っていたが、やや暫くの後山木は細い指で髪を掻上げながら膝を進め、

「旦那方も御存知の通り、有明荘の住人七人のうち、鶴子丈だけが咋夜の忘年会に加わらなかった。つまり、今夜は王様と二人ッきりでちんちんかもかもの趣向だから忘年会は失礼するわ、と謝絶されたのです。昨夜宗皇帝はいつの間にか、「巴里」を脱け出されたが、これは勿論鶴子丈の許に行かれたので、とすると、これは多分キングとクイーンの間に何か悶着が起き、それが今朝の事件となったのではあるまいか。……早い話が痴話喧嘩。どうです、この辺の見当は」

ハッチソンは苦笑し、

「どうして、なかなか。……今もいった通り、広い東京でわれわれ有明荘の住人だけが検束されたんですぜ。……いや、お判りにならんけりゃ釈義しましょうが、思うに今朝の一件は風検とはほんの名目、実はある時間までわれわれを有明荘へ帰さぬための意味深いお手当だったんです。……何故われわれを有明荘へ帰さぬかといえば、いう迄もない、何か絶対に世間へ洩れてはならぬ大事件が有明荘で起きたからでさ」

「おお、そうですか。成程よく判ったが、ある時間とはそもそも何事です」

「山木の旦那のようにこう悧口でも仕様がない。……ある時間とはある方面の手でその事件にケリをつけてしまう時間、平ったくいえばウヤムヤにしてしまう時間のことでさ。なんとお解りか。ここまで申したら、何か非常な大事件だという事が旦那にものみ込めましたろう」

山木はグイと空唾をのみこんで、

「はあ、するてえと、殺り居ったね」

踏絵は懸命な声で、

「止せッてば、出鱈目をいうのは。そんな莫迦なことがあるもんか。何かほかのことだ」

山木はしつっこく首を振って、

「いや、そうなんだそうなんだ」

笑子は山木の袖を掴むと、

「ちょいと、山木の旦那、じゃ、どっちが殺られたって言うの」

「無論、キングの方です」

「誰に。何のために。ちぇッ、冗談だろう。あっしなら心中」

ハッチソンは身を反らしてこの論争を聞いていたが、やがて皮肉な口調で、

「へえ、みなさんはえらい事を知っているねえ……それはそうと、印東の旦那、あんたの御意見は」

印東は口紅ルウジュを塗った薄い唇を反らしながら、

「殺られたとすれば、無論クイーンの方ね。巴里時代の皇帝の行状を知っているものなら、有りそうなことだと思うわ。おっとりしているようで実はあれでなかなか烈しいんだから。あの野蛮性はちょっと非凡よ、あの点だけはたしかに王様らしいわ」

ハッチソンは笑い出し、

「おお、そうですか。何しろ印東の旦那と岩井の且那は、モロに皇帝に喰い下って巴里で大尽遊びをしていなすった方だから、その旦那がそう言われるならそれに違いないだろう。だがね、私にいわせると、烈しいのは旦那方の方さ。皇帝が鷹揚なのをいい事にして、日に二万三万と捲き上げるんだから、これァなかなか烈しい」

といって言葉を切り、

「こう言っちゃ失礼だが、旦那方、いやさお内儀さん方も、ひょッとしたら皇帝を見損ってやしないかね。おまはんたちから見たら阿呆としか見えなかろうが、私は巴里に留学している安南独立党の連中に逢って、皇帝が巴里でどんな仕事をしていたかみな聞いて知っている。……レユニオン島という印度洋の孤島に島流しになっている十一世維新王のことも知ってるし、親仏派の皇甥李光明がどんな策動をしているかそれもよく知っている。このハッチソン先生は、旦那方はおろか、外務省の情報部でも御存知ないようなどえらいことを、ちゃんとこの胸の中におさめてあるんです。それを聞きたいと思ったら、外務省はこのハッチソンにお願い申す、頼みますと頭を下げて来るほかはないのです。要するに皇帝については旦那方の知らない事があるんだからあなた方はお黙んなさい。……なにしろ事件はもう始まったんだ。これは大変に大きいのだから、皆さんも何か身に覚えがあるんなら、こんなところで無駄口を叩いてる暇に、今のうちに逃げ道を開けて置かないとえらい目に逢いますぜ」

ハッチソンは急に黙り込んでしまった一座の顔を順々に見廻し、

「おやおや、どうしたてえのです、妙な顔をして。……ふ、ふ、気にしなさんな、今のはほんの冗談だ。……失礼だがこの事件はみなさんの手に合うようなんじゃアない事は、ハッチソン先生がよく知ってる。いわんや松谷鶴子が死んだとか生きたとか、そんな事はてんで問題にはならん。それがどんなものかもちろん私とても知らない。しかし必ずそうなるべき因縁だけはずっと前から知っているんです」

といって急に立上り、

「大分時刻も移ったことであるから、御法話はこのぐらいにして、ハッチソン先生いよいよ本業に取りかかる」

ハッチソンは口調とは違った引締った面持で敏捷に外套のボタンをかけ、入口の方へ一歩歩み出そうとした時、向うから扉が開いて入って来たのはこれもタキシード姿の岩井伯爵。ハッチソンは抜目なく声をかけ、

「おや、岩井の旦那、御本宅へお帰りになったというのにまだお召換えもなさらずに」

岩井は今までハッチソンが掛けていた椅子に腰をおろすと、やけに帽子の庇を突上げて端麗な額を剥き出し、

「いや、それがです、有明荘の門前に警察おかみの人数が出張っていて僕を内部に入れてくれんのでしてねえ」

ハッチソンはキラリと眼を光らし、

「ほほう、して何か変ったことでも」

岩井はステッキの頭で顎を支えながら、

「旦那さんもお内儀さんもお聴きなさい。実は今朝ほど鶴子嬢が窓から身を投げて自殺したてえのです」

これを聴くと、一座はいずれもぎッくりと胸にこたえた風で息をひいていたが、やがて総立ちになると、

「そ、そんな筈はない!」

と異口同音に叫び出したのである。

八、警保局の朝景色の事  並に迷惑なる電報の事

後にして思い起すと乙亥の元旦は甚だ多事な一日であったといわざるを得ぬ。

帝国ホテルでは雑報記者の古市加十がまさに失神しようとし、日比谷公園の鶴の噴水の傍では夕陽新聞社長幸田節三が祝辞の代読を始め、酒場「巴里」の門前へは今ハッチソンのロードスターが停った。あたかもこの頃、霞ヶ関、内務省警保局の秘書官室では、大きな机の前に坐った谷口秘書官が絶えず扉の方に眼をやりながら、苛立たしげに口髭を捻り上げている。そうこうするうちに給仕が入って来て、真名古警視が来たと告げた。秘書官が腰を浮かして待っていると、遙か廊下の端の方から極めて特徴的な、たとえていうならば棺桶に釘を打ち込むような陰々たる足音が近づいて来て扉の前で停った。

扉を排して入って来たのは、年の頃四十二三の、骨と皮ばかりに瘠せた背の高い男で、喪服のような黒づくめの装いでたちをし、眠そうに瞼を垂れた極めて陰気な人物である。

この者はその名も真名古明という警視庁刑事部捜査第一課長で、緻密な頭脳と着実な性格を持ち、これまでに様々な難事件を解決して来たが、人間嫌いかと思われるほどの黙り屋で、庁内では誰一人真名古の笑った顔というのを見た者はない。甚だ剛直な性で不正に対しては飽くまでも苛酷、たとえ上長といえども爬羅剔抉はらてきけつすることを辞せぬ、さながら検察のためにこの世へ生れて来たような人物。読者諸君がヴィクトル・ユウゴウの「噫無情レ・ミゼラーブル」を読まれたとすれば、あの小説の中に登場して来るジャヴェルという冷執陰険な一刑事を記憶していられるであろうが、真名古捜査課長を一口に形容しようとするならば、まるでジャヴェルそっくりだといえばそれで足りるのである。

真名古は扉口で軍隊式の直立の姿勢をとると、真直ぐに秘書官の机の前まで歩いて来てそこで停った。次長は気味悪そうにその面を眺めたのち、ちと胸を反らし、

「おお、真名古君、元日早々済まんかったが、実は今朝ほど重大な事件が起ったもんだからして、それでこうして」

真名古は机の向うに直立したまま眉も動かさぬ。さながら眠っているかと思われるばかり。秘書官は急き込んで、

「然し何だろう、真名古君、これまでに警保局から呼びつけられた事なんぞあるまいから、君だってちっとは驚いたろう、はッ、は、は」

真名古はジロリと次長の面を眺めると、瞼を垂れてまた以前の如くである。秘書官は度胆を抜かれてひどく煙草の煙に咽せながら、

「まア、それはええ。それはええとして警保局で君を呼ぶ以上、何か非常なる大事件だと思ってもらいましょう。……時に君は安南帝国の宗皇帝が微行で東京に来ていられることを知っているかね」

真名古は陰気な声で、

「存じませんです」

谷口秘書官は嬉しそうに揉み手をしながら、

「そうさ、知ってる訳はない。われわれもつい三日ほど前に知ったのだからねえ。……それはともかく、手っ取り早く事件の概略を述べると、皇帝は東京で松谷鶴子という女優上りと内縁関係を結んで居られた。……ところが、ところがだね、その女が昨夜殺……、いや窓から身を投げた。つまるところ自殺だね。ところが不幸にしてその時皇帝がその女の家に居られた。一緒に夜食をやって居られたのだ。……どうだ、もう判ったろう。なア、真名古君、君だって昨日や今日警察の飯を喰ったのじゃあるまいし、これ以上くどく説明する必要はなかろう、判ってくれたまえ」

「何をですか」

「何をって、……そうじゃないか、君。一国の皇帝がさ、情婦の家にいる時その情婦が窓から身を投げて死んだ。こんなことがパッと世間へ洩れたら、それこそ大変な醜聞じゃないか。そう思わんかね、君は」

といってハンカチを取出すと、脂ぎった猪首を赤くなるほどこすり廻し、

「そればかりならいいが、弱ったことには溜池署の巡査部長が皇帝をふン縛って署へ持って行ってしまったのだ。巡査部長が! 皇帝を!……えらい事をやったもんだ。そのために大臣を始めわれわれは今朝の五時から」

真名古はだしぬけに口を挾み、

「すると、他殺の疑いもあった訳ですな」

谷口はへどもどとハンカチを引きむしり、

「まアまア、そう君のように単刀直入にいっても困るが。……だからして、何とか処置をせんけりゃ」

「私にその処置をしろといわれるのですか」

谷口はハンカチで煽ぐようにし、

「そうなんだ、頼むよ頼むよ」

と今朝の事件をくわしく物語る。真名古は最後まで聞きとると、例の響のない声で、

「当時その席にもう一人他の男がいて三人で食事をしていたのだから、松谷鶴子が殺害されたというなら多分その男の仕業に違いないと皇帝はいわれる。ところが、そのもう一人の男というのを誰も見た者がなく、その席にはもう一人の男が食事をしたという証拠がない。つまり、二人分の食器しかない」

「そうそう」

「皇帝が日本へ来遊されたのはこれが最初でございますか」

「いや、昨年も一昨年も来ていられる。然し東京へ来られたのは今度が始めてだ。以前は京都の山科の奥に茶室を建てて、一ト月ぐらいずつその女と一緒にいては帰られたのだそうだが、京都府の警察部でも外務省でもつい最近まで誰一人その事実を知らなかった。今度東京に来られたのは先月の廿四日で、ずっと帝国ホテルに居られる」

「やはりその女と御同伴で」

「いや、女の方は昨年の九月に上京して、すでに現在のところに住んでいた」

「皇帝が始めて東京に来られたのだとすると」

次長はうるさく頷いて、

「そうそう、そうなんだよ。われわれの側では誰ひとり宗皇帝の顔を知らぬ。フランス大使さえも知らんのだからねえ」

「では誰が皇帝を認めたのですか」

「安南でボーキサイトの鉱山をやっている林コンツェルンの林謹直が、偶然ホテルのロビイで宗皇帝に逢って、驚いて局長に知らせてよこしたのだ。……知っての通り日本が連盟を脱退してからだいぶ仏蘭西との工合が悪くなっているので、こういう際に皇帝が日本にやって来られるのは、われわれにとって痛し痒しで、その取扱いというものはまるで腫物に触るようにやらんけりゃならん。……何しろ皇帝が何の目的で度々日本へやって来られるのかそれが判らんので実に困る。まさか女に逢うためにわざわざやって来られるとは思われんしねえ。その方は外務省の情報部で調査しているからまもなく判明するだろうが、皇帝がこれまでに二度も日本に来られたについては、印度シナのフランス政庁でもだいぶ神経を尖らしかけている。たったいま情報部から聞いたんだが、順化ユエなんかじゃ日本が安南の宗主権復興の尻押しをしているなんてえデマがもう盛んに飛んでるそうだ。多分ホヴァス通信社の悪戯だと思うが、何しろこんな際に折悪しくこんな事件が起ったもんで、大臣もたいへんに心痛していられる。……ねえ、真名古君、要するにこういう訳だから、これをふつうの事件のような公式的なやり方をされると、政府は非常に困った羽目に陥込むことになるんだ。……この辺の事を考慮して慎重に行動して貰いたいんだ。今もいったように、松谷鶴子という女は自殺したに違いないんだから、今更そんなものを突ッつき廻して見たって大して益のあることでもなかろう。手ッ取り早くいえば、君はその女が自殺したという証拠を捜して来てくれりァそれでいいので、なまじっかなことは却ってしてくれない方がいい。赤坂山王台に有明荘というアパートがある。そこにお馬という小使婆がいるからそれを訊問して見給え。これが唯一の証人なんだ」

「他の止宿人は居らんのですか」

谷口は妙な咳払いをして、

「居ることは居る。しかし当夜はみな外泊していて一人もアパートに居らなかったそうだから、この方は大したことはあるまい。……で、調査の結果自殺だという事が判明したら、君の名ですぐ報告書を出してくれたまえ。僕はさっそく決済の手続きをしてしまうから。いいな、真名古君。……下手に長引かせでもしたらどこから洩れぬものでもないからね」

「では、これから行って参ります」

真名古は一礼して扉の方へ行きかけたが、急に立止って秘書官の方へ振返ると、

「申上げるまでもないことですが、私の職掌といたしましても、これは充分に調査いたしまして完全な報告を持って参るつもりです。徹底的に真相を穿って公平正確な報告書を提出するつもりです」

といって出て行った。

谷口は妙な腰付を「腰付を」はママしながらボンヤリその後を見送っていたが、追々嫌な顔色になり、しまったしまったとしきりに舌打ちをしながらいたく煩悶する態であったが、やがて耐りかねたように椅子から跳上ると、転がるように部屋を飛出し、廊下つづきの局長室へ駆込んで行った。

入って行って見ると、局長は電話器を鷲掴みにし、怒気憤々の体で警視総監と会談の最中。大体こんな風な事を言っているのである。

「無論だとも。いう迄もない事だ。……所もあろうに日比谷公園で……。畜生、幸田節三てえのはふざけた野郎だ。……やり給え、構わんからやり給え。あんな毒虫のような奴はこんな際に締め上げてしまうに限る。……うむ、俺も行く。直ぐだ直ぐだ、遠慮なくふン縛ってしまえ。いいか、判ったね」

といって投出すように受話器を掛けると、クルリと谷口の方へ振返って、

「何だ、何の用だ」

と叱咜した。何か失策しくじりの報告に来たのだとすると、秘書官にとってこれははなはだ折が悪いという外はないが、ともかく秘書官は、いま真名古が真相を穿った正確な報告を持って来ると、嫌なことをいって出て行きましたが、どうもその一ト言が気になって、と恐る恐る報告に及んだ。

局長はこれを聞くと蒼くなったり赤くなったり、暫くは口も利けずに秘書官を睨みつけていたが、やがて疾風迅雷の勢いで、

「何、何、なんだと! おい、俺は今朝訓令通りの報告書を書く奴を見付けろと確かにそういったつもりだぞ。そ、それを……」

秘書官ははや生きた色もなく、

「はい、でも」

局長は机を乱打して、

「やかましい、黙れ黙れ。今更つべこべいったって何の役に立つんでえ。……それを、それを選りに選んであの変屈野郎を調査にやったと! それじゃアまるで、今朝からのわれわれの苦心をぶち壊してしまうようなもんじゃないか。……何を考えてそんな莫迦な事をしたんだ。気でもちがったのか。いえ! いって見ろ」

秘書官はどこから出て来るかと思われるような可愛らしい声で、

「あのう、御承知でもあります通り、……何といっても、刑事部では、あれが、一番やれる男ですし、……それに報告書には、せめて、真名古ぐらいの名がなければ」

局長はいよいよ猛り立って、

「おい、あんな報告書を出すのになんでやれる男なんぞ要るんだ。そんなものア阿呆にだって出来らア。名前がどうしたと。利いた風なことをいうな。……おい、谷口君、真名古がわれわれの訓令に従うような男だと思っているのか。冗談いうな、下手に訓令に従わせようなどとしたら依怙地になって何もかにもほじくり出してしまわア。……だからこそ、だからこそ今朝の一件も真名古にだけは知らせずにやったのだぞ。これぐらいの事が君には察しられんのか、莫迦な!……真名古に真相の報告書なぞ出されて見ろ。警保局の面目は丸潰れだア。その時は俺も君ももう首は繋がっちゃ居らんぞ。……それどころか、これが洩れて議会で質問でもされて見ろ! ああそれこそ」

と阿修羅のように猛り狂っているところへ、給仕が一通の電報を持って入って来た。局長はそれを取上げて読んでいたが又々大変な腹の立てようで、今にも卒中を起しはせぬかと思われるばかりにワナワナと震えていたが、やがて急に凋んだようになって椅子の中へ落込むと、ハンカチを取出してしきりに額の汗を拭いながら、

「だが、下手なことをすると内務省の面目問題だ。弱った弱った、どう返事をしようかしらん」

とこんな風に呟いたのち、人が変ったような優しい口調で秘書官に、

「おい、谷口君、安南の理事官長から大臣にあててこんな至急報が来た。……まア聞け、これを。……東京麹町区内山下町帝国ホテルに投宿中の皇帝に対し、緊急要件につき昨卅一日午後より再三再四打電するも未だ何の返電なし、大日本帝国内務大臣におかれて、皇帝が安全確実に帝国ホテルに滞留せらるるや並びに返電を妨害すると思惟せらるる一切の事情を御調査の上、至急御返電願いたき事。……え、どうだ、谷口君。これじゃまるでわれわれが電報の横取りでもしてるような口調じゃないか、失敬極まる。皇帝が返電を出そうと出すまいと何でわれわれの知ったことか。……然し、皇帝の通信を妨げているような事情がもし日本の側にあるのだとすれば……これァこの儘に放って置くわけにはゆかん。弱った弱った」

と額をおさえて呻吟していたが、急に立上って秘書官の傍へ行きその肩を掴むと、

「俺にはそんな予感がする。……おい、谷口君、見ていろ、われわれはいまにきっとひどい目に逢うから」

九、日比谷の森揺ぐ事  並に異国風の紳士の事

夕陽新聞社長幸田節三が社運を賭しての大賭博、一月元日の午前九時十二分を期して日比谷公園のあの容子のいい噴水の鶴を見事鳴かしてお目にかけようという。子飼いの鶯でもあるまいし、相手は青銅の鶴のことだから鳴かせたいにも機嫌はとりにくいのである。

幸田節三はこんな頼りない歌手を売物にして、大胆にも金三円の年極購読予約券を売りつけ、およそ三千人からの見物を池の周囲に集めてしまったが、果して定刻を卅分過ぎても一向に鶴は鳴かない。これだけでもただでは済まぬのに、一人壮士風の背広服が飛び出して、これは日比谷公園園丁長酒月守と幸田節三の二人で仕組んだペテンだと、裏の事情を素っ破抜いたので、激昂した見物は八方から幸田の方になだれ打ち、アワヤ鉄拳の雨を降らそうとした途端、たとえていうならば峯の松吹く朝風のようにも清く爽やかな声で、噴水の鶴が歌を唄い出したのである。

この瞬間、日比谷公園池畔の大活劇はフッと切れた映画のように急にその動きを停めてしまった。拳を振上げたものは拳を振上げたまま、幸田の襟首を掴まえたものはその襟に手を掛けたまま、無惨にも地面へ鼻面を摩りつけられた幸田節三さえもアングリと口を開けたまま、活人画の人形のように動かなくなってしまった。いや地上の活劇ばかりではない。この池を取巻く森羅万象、――市政会館の大時計さえも、ハタと時の歩みを止めたかに見えたのである。

青銅の鶴は水に濡れた羽交をキラキラと薄陽に光らせ、ああ、今にも飛び立つか、憧がるるがごとくに天心に嘴を差しのばしながら、天竺雪山に棲む迦陵頻伽かりょうびんがもかくあろうかと思われる妙音で喨々と唄いつづけているのである。それは上代の催馬楽か西洋の牧歌イディールのようなもので、どのような憂いのある人の心も和ませずには置かぬような長閑な曲節であった。

鶴はその後二分ほどの間、いかにも楽し気に唄いつづけていたが、やがて気が羞さしたようにフッと歌をやめてしまった。池畔の大群集は魔術にかかったように、我を忘れて恍惚とその妙音に聞き惚れていたが、このとき期せずして凄まじい歓声とともに万雷の如き拍手をおくる、その声々にさながら日比谷の森も揺らぐかと思うばかり。鳴りをひそめていた楽隊ジンタはこれに勢いを得て(あなたと呼べば)と節も賑やかに囃し出す、新聞売子の面々は又してもうるさく鈴を鳴らして駆け歩く。ドッと挙った「夕陽新聞万歳」の声にフト演壇の方へ振返って見ると、感激した群集は今や幸田節三を胴上げにしてワッショイワッショイと池の周囲を廻り始めようというところ。引っ込みがつかなくなったのは件くだんの背広服の連中だが、この時は早や何処へ行ったものか一人もその姿は見当らなかった。

その池の傍に先程から身動きもせずに突立っている二人の人物があった。一人は威儀正しくフロック・コートを着けた、顔の浅黒い、眼のギョロリとした、縮れ毛の、一眼で異国の人と知られる中年の紳士で、この不思議な出来事のためにすっかり動顛してしまったものと見え、片手に東京地図を握りながら、アッケラカンといつまでも鶴の口元を眺めているのである。他の一人は背広の上に古風なインバネスを羽織った、瘠せた背の高い、何から何まで黒ずくめの陰気な人物。すなわち先刻警保局の秘書官室から出て行った真名古捜査課長で、この方は糸のような細い眼の間から鋭い瞳を光らせ、さながら検察の妄執といった具合に、冷々陰々とこの顛末を眺めていたが、この時ツと踵をかえすと、傍らの異国風の紳士を押退けてそこから出て行った。

さて幸田は胴上げされたまま池の周囲を一周すると、押上げられるように演壇に上って行き、得意満面の趣で一席の感謝演説を行なったが、下らないからそれは略すとして、元来この奇現象の正体は兼清博士によってピタリといいあてられたのであるから、この栄誉の三分の二以上は当然博士に与えられねばならぬのに、横着にも幸田節三は今やそれをまるまる独占ひとりじめにしあえて訝あやしむ様子もないから、さすがの博士も忌々しくなったものと見え、演説もろとも幸田を押退けると演壇の端まで進み出で、白髪頭を振立て振立て、芝居の子役のような例のキイキイ声で、

「おい諸君、どうだ果して鳴いたろう。俺が鳴くといったら必ず鳴く。成程定刻には間に合わなかったが、それは俺のせいじゃない。正午の市会が夜中に始まるようなもので、こんなのが東京ふうだと思って貰おう。……それは兎も角、そもそも鶴が唄った曲は一体何だと思うかね、なんて問うだけ野暮で、学問のない諸君にあれがわかる筈はない。諸君の耳には阿呆陀羅経のように聞こえたろうが、あれは「還宮楽」という、そう容易くは聞かれない稀代の雅楽なのだ。伝えるところによればこれは陽列天の作で、漢王即位の時伶人この曲を奏ことし、一鼓を打って天下の和平を慶ぐという目出度い曲なのだ。時はあたかも一月元日、理屈は兎も角、青銅の鶴が還宮楽を咏ずるなんてえのは確かに何かの瑞兆に違いない。それに違いないのだが」

と、あとは独語のように、

「が然し、あの音声にちょっと気にかかるところがある。元来、壱越いちえつ調呂旋ろせんであるべきこの曲が平調で唄われるさえ訝しいのに、宮声に凄切の気韻があったのはどうしたわけか。……ハテナ」

と腕を組んで沈思する体であったが、やがてバラリと腕を振り解くと、

「ウム、これゃいかん。俺はもうこれで失敬する」

と意味不明瞭なことを口走ると、そそくさと演壇を駆降り人垣を押分けて出て行ってしまった。

先ほどからキョトキョトと博士の様子を眺めていた例の赭熊しゃぐまの娘は、この時忌々しそうに傍らの花を振返り、

「ちょっと、花ちゃん。何さ、いまの爺は。何だか訳のわからぬことばかりいっていたっけが、じゃア鶴の唱歌というのはもうこれでお終いなんだろうか。……おお、いやな。三円もふん奪だくって置きながら、水の中でお屁ならをしたような音を聞かせてサ、これでお終いたアあンまり馬鹿にしているよ。ああ、詰らない詰らない、こんなことなら歌舞伎へでも行くんだった。弁松を奢ったってまだおつりが来らアね。忌々しいっちゃないねえ」

花というのはすでに御承知の、有明荘の崖下なる素人屋しもたやの二階に住む可愛らしい縫子。ズケズケ言う赭熊の肱に手を掛け、さも済まなそうに、

「あら、勘忍して頂戴な。でも、あんまり評判が高いから」

赭熊は白眼を見せ、

「詫あやまってくれといってやしない。で、どうするのさ。約束通り今日は一日附合ってくれるんだろうね」

花はションボリと首を垂れ、

「そういう約束だったけど、今日はどうにも気分が悪くて。……勘忍ねえ」

「まア、勝手な娘こ。ひとにばかり附合わして置いてさ」

といったものの流石に心配になったものか、花の顔を覗き込むようにし、

「ほんとにどうしたというんだろう。真ッ蒼だわ、あんたの顔。なにか心配事でもあるんじゃない」

花はハッとしたように胸を押え、よろよろと赭熊の方へよろめきかかったが、ようやく踏み止まると必死のような微笑を浮かべ、

「心配、なんてことはないけど……、なんだか気が遠くなりそうで」

赭熊は花を抱えるようにし、

「なら、早くそういやいいじゃないか。知らないもんだからポンポンいって済まなかったね、ごめんよ。……どうだい、歩けるかい。さア、あたいの肩にお掴まんな」

といってる時、公園の入口の方でワアッというただならぬ動揺どよめきが起ったと思う間もなく、夥しい人波がドッと池の方へ押返されて来た。赭熊は伸び上ってその方を眺めていたが、あわてて花の腕を執ると、

「花ちゃん花ちゃん、顎紐をかけたお巡査まわりさんがトラックで沢山やって来たよ。さア逃げよう、掴まっちゃ大変だ」

巡査と言う一声をきくと、花は急に逆上したような眼付になって、闇雲に西側の門の方へ駆け出そうとするのを赭熊は引戻し、

「馬鹿々々、そっちへ行っちゃア掴まるじゃないか。さアこっちへおいで」

と花の手をとり、小径伝いに一散に花壇の方へ駆けて行く。

十、仙台平の御袴の事  並につれない挨拶の事

南品の海を一眸におさめる八つ山の高台に、宏壮輪奐りんかんを極める大邸宅がある。古式の鏡餅おかがみを飾った書院造の大玄関へ今しも立現われて来たのは、黒羽二重の紋服に仙台平の袴を折目高く一着に及んだ、五十二三の福々しい恵比須顔。朱を塗ったような艶々しいのは屠蘇のせいではない、日頃の栄養がいいからで。

これなる人物は新興コンツェルンの花形として近代日本の産業界に隠然たる大勢力をなす林興業の親玉キャプテン、林謹直。ひれ伏す文金高島田の間をズイと通り抜け、テラテラと磨き込だ檜の式台へ降りようとするところへ書生が駆けて来て、道灌山の前田組の大親分から大至急のお電話でございますと告げる。

林は急ぎ足で電話室まで戻ると受話器を耳に当てて、うむ、うむと頷いていたが、やがて不安気な声に変って、

「なに、日興の鶴見組が内山下町で騒いでおると! ひょッとすると、……そうそう、もしそんなつもりなら放って置くわけにはゆかん。よし、すぐ行く」

と電話を切るとあわただしく式台から走り降り、車寄せに控えているオヴァーランドに乗込んで、

「おい、内山下町へやれ、早く早く」

と地団駄をふむ。

日本における新興コンツェルンの双璧。一方は熊本の山奥の僅か八百キロの電気会社から出発して今では構成会社二十七、払込資本三億円。北満の事業王とまでいわれる小口翼たすくの日興コンツェルン。一方は房総半島の漁村・廃物利用の微々たる沃度会社からのし上げ、スエーデンのマッチ王クロイゲルのマッチ・トラストに対抗し、林興業を主力とする直系傍系二十四社、公称資本二億二千万円の大構成となった林謹直の林コンツェルン。

ともに国防産業を目指すこの二大コンツェルンは、その資源を仏領印度支那において開発すべく、一昨年の冬頃から安南を舞台にして華々しく鎬しのぎを削ることになったが、小口は見越過ぎて親仏派の皇甥李光明と結びついたため、逸早く宗皇帝を相談役に抱え込んだ林の日安鉱業に一歩立遅れ、採掘面積六十万坪、年五万瓩の優良ボーキサイト(アルミニュームの原鉱)の採掘権を林に先取されてしまった。小口の日興がこれを黙って見ている筈がないと思っていたところ、最近果して日興は、裏面から李光明擁立派を突ついてしきりに何事かを画策しているという噂が林の耳に伝わって来た。こういう穏かならん際に、皇帝が単身ひょっくり日本へやって来られたということは、林にとっては実に大恐慌で、先月の廿四日に帝国ホテルのロビイで皇帝を発見して以来、皇帝の身の上にもしや何か間違いでも起りはせぬかと心の休まる暇もなかったのである。

ところが今朝の五時半に外務次官が電話で、皇帝の身辺にちょっと面倒な事件が起きて、と知らせて来たので、さてこそと仰天し、しつっこく警保局長に電話を掛けた末、事件とは酔余皇帝が愛妾の松谷鶴子を窓から投げ落して殺害し、一旦溜池署に拘留されたが、八時半ごろ無事に帝国ホテルに帰られたという事件であることを知った。

実にどうも容易ならん事で、一体政府はこれに対してどういう処置をとるつもりだろうと案じているうちに、その後の電話で、この事件は内秘することに方針をきめ、すでにかくかくの手段を講じたということを聞いたのでようやく安堵の胸を撫でおろし、早速帝国ホテルに伺候して、まず以て御健祥の段、御恐悦申しあげるつもりで玄関を出かかった時、先刻の電話が来た。

御存知の方もあろうが、前田組、鶴見組というのは、関東土木倶楽部の両横綱。前者は日暮里に本宅があるから一口に道灌山といい、後者は横浜に本拠を置くから野毛山と称え、親分御用の節はいつにても一命を、という誓紙を立てた血気盛んなる数千の身内を擁し、両々相譲らざる二大勢力。前田組は林興業に帰属し、鶴見組は日興の傘下に在る、その鶴見組が帝国ホテルも真近い内山下町で騒いでいるという道灌山の電話だから、林は又しても不安に胸を鎖され、あわててそこへ駆けつけることになったというのもまた無理からぬ次第でしょう。

却説さて、林謹直のオヴァーランドが日比谷公園の近くまで来ると、公園の方に当ってワアッと言う凄まじいどよめきが起った。見ると西門の前に停ったトラックから、物々しく顎紐をかけた警官がドヤドヤと跳ね降り、群集を押返しながら公園の中へ走り込んで行く。林は一丁目の角で自動車を駐め、窓から首を突出してこの騒ぎを眺めていると、これを見付けて駆寄って来たのは、道灌山の養子の駒形伝次。小粋なモーニングに山高帽、苦み走った一文字眉、剃立ての顎も青み渡った勇肌いなせな哥兄あにい。恭々しく一礼すると、

「お待ち申しておりました。何しろ御覧の通りの騒ぎでごぜえまして」

「一体どうしたという騒ぎなのか」

「それがどうも妙な話なんで。……何でも噴水の鶴が鳴くとか鳴かねえとか、その縺れらしいんでございます」

林は苛立って、

「そんなことを聞いてるんじゃない。野毛山が何を騒いでいるというんだ」

「へい、それが」

といって、鶴見組の若い者が十人ばかり、まるで大倫会の壮士のような恰好に化け込んで、幸田を襲撃に来た先刻の一件を物語り、

「同じ穴の貉が、なんで今日に限ってこんな妙な真似をするのか、どうしても腑に落ちません。お笑いになるかも知りませんが、何しろホテルも近いこってあり、これァ何か大きな筋合があるんじゃねえかと思いまして、それで電話でちょっとおやじに耳打ちして置いたんでございます。へい、ありようはこれだけなんでございますが、もう一つ妙なことは、真名古の旦那が直き直きに出張っているんです。池の傍を離れずにジット睨んでいたところを見ても、何かこれァよッぽど大層な訳柄があるんじゃないかと思われますんで」

といってキョロキョロと前後を見廻していたが、急に声をひそめ、

「おお、御覧なさいまし。今度はあんなところに立っています」

林が指さされた方を見ると、真名古は向い側の歩道の電柱の陰に腕組みをしながら凝然と突立ち、例のゾッとするような陰気な眼付で、警官隊に追われて門から溢れ出して来る群集の波を睨みつけている。

この時髪もおどろに押出されて来た二人の娘、ちょうど歩道の端まで来た時、小柄の美しい方の娘は街路樹の根に足をとられて、ツと舗道の上に膝をついた。つれの赭熊の娘は驚いて引立てようとする暇もなく、凄まじい勢いで押出されて来た人数は、後から後からその上に将棋倒しになり、娘はその下に敷かれてたちまち見えなくなってしまった。この時真名古は大鴉が飛立つように駆け寄って来ると、押し重なった上置きを引退け𫝼ね退け、娘の帯を掴んで力任せに車道へ引出した。

娘は死人のような顔色をしてぐったりと舗道の上に坐っていたが、幸いさしたる怪我もなかったらしく、まもなくそろそろと立上って、連れの娘と一緒に礼を述べるまでになった。真名古はうるさそうに眉を顰めて冷淡に頷くと、ツとその傍を離れて帝国ホテルの方へ歩いて行く。

林はそれを見ると慌だしく声を発し、

「おお、課長はホテルへ行くらしいが、課長が皇帝に逢う前に是非打合わして置かなければならぬ事がある。おい、伝次、儂はこれから課長を掴まえるから、お前はこれから走り廻って、鶴見組の奴等がなぜ幸田にそんな妙な喧嘩を吹っかけたのか、出来るだけ詳しく探ってくれ」

といっていると、伝次は又しても頓狂な声をあげ、

「あれあれ、御覧なさいまし。酒月と幸田が刑事に追われて逃げて行く」

いつもは賑やかな帝国ホテルのロビーも、さすがに元日の朝は人影もなくひっそりとしている。林は大谷石の柱の影になった薄暗い椅子に真名古を導きながら、

「お忙しいところをお呼びとめして済まなかったが、ちょっと、その」

真名古は静かに椅子に掛けて林の顔を注視する。林はへどもどして、

「時に、あの日比谷の騒ぎはなんですかい。噴水の鶴が鳴くとか鳴かんとか莫迦莫迦しいことをいっておるが」

真名古は例によって陰気な声で、

「あれは犯罪です」

林は笑い出し、

「あんたの眼から見たら森羅万象ことごとく犯罪に見えるのでしょう」

「左様、あなた方には見えぬ陰微の犯罪も私にはアリアリと映じるのです。私に御用とおっしゃったのはその事でしたか」

林は血色のいい頬をツルリと掌で撫で、

「真名古さん、あんたはこれから皇帝に逢いに行かれるんでしょう。あんたをお呼び止めしたのは、実はその前に折入って御相談したいことがあって」

といって急に声を低め、

「それはそうと、有明荘の連中をもう帰して大丈夫なのかね」

「それは何の話です」

林はムッとしたようすで、

「今朝の五時から内務大臣官邸へ、外相と局長と総監の四人が集まって苦吟した末、兎も角情況を整備するまで有明荘の住人六人を家に帰さぬ事にし、待合から引きあげて明石署へ留置したことは儂も局長から聞いて知っとるんだから、儂にまでそんな態度をとる必要はないさ」

これで真名古は今まで自分の知らなかった事情を始めて知ることになった。そして咄嗟にすべてのことを悟ったのである。自分が検察吏たる良心に従って行動しようとすれば、政府を向うに廻して闘う決心が必要だということも。

真名古は冷静な面持で、

「私は知りません。……それで相談とおっしゃるのは。私は急いでいますから、どうか要領だけに願います」

「松谷鶴子の事件が自殺だと決まって見れば、形式的な訊問などで皇帝を煩わす必要はないと思うよ。皇帝の側からいえば災難に逢われたようなものなのだから」

「林さん、もう止しましょう。失敬だがあなたの仰言りたいことは私に判ります。つまり皇帝に逢って余計な穿鑿をしてくれるなというのでしょう、何かまたボロが出ると困るから」

「早い話がそうです」

「念のために申しあげて置きますが、今朝の有明荘の住人の検束には私は関係しませんでした。そのことがあったことさえ今あなたから初めて聞いたのです。……そんな驚いた顔をなさらなくともよろしい。……それは兎も角、この事件は誰が何といっても自殺です。局長と総監が政府の方針に従って情況を整備してしまった以上、いかに私の力を以てしてもそれ以上の証拠を手に入れる事は困難でしょう。私がこれから有明荘へ行くと、唯一人の証人であるお馬という小使婆は、訓令に従って規定通りの証言をするでしょうし、多分現場にも何の手懸りも残ってはいますまい」

「と決まっているなら、何もわざわざ有明荘へ行く必要もない」

真名古は冷淡に遮り、

「差出がましい口をききなさるな。私は警視庁に勤務する官吏だから、官吏服務規律にある通り、どこまでも訓令に従わねばなりません。私の受けた訓令というのは有明荘へ行ってお馬という小使婆に逢い、この事件が自殺であるという証拠を捜して来ることです。私は勿論それに従う。……が、それ以外の捜査は私の自由です。訓令通りの調査を終えると、私は捜査課長として訓令に制肘されぬ厳重な調査を開始します。勿論、皇帝も訊問します。私の職掌としてもかくするが当然で、然もこれは私の良心に従って致す行動だから、あなた如き禿げ頭がどれほど弁舌をふるっても所詮無駄です。見損っちゃいけません。検察に携わる官憲は、あなたが舐めてかかるような精神の低いものばかりだと思ったら大変な間違いですぞ。あなたとの会話はこれでお断りします」

と言って立上る。林も曳かれるように椅子を離れると、おしつけるような声で、

「おい、真名古君、あまり子供じみたことをいいたまうな。これは一検察吏の潔癖や自尊心の問題ではなくて、日本政府の権威や体面に係わりを持つ重大な事件なのだ。君は日頃剛直を売物にしてるそうだが、政府の方針を変えてまで君の偏執を尊重するわけにはゆかんじゃろう。……ねえ、君もそう固いことばかりいわずに、どうか判ってくれたまえ」

真名古は何事も聞かぬような冷陰な面持で、静かに外套に腕をとおすと入口の方に歩み出す。林は急に顔を綻ばしながら大急ぎで真名古に追いつくと、

「まアまア、真名古君」

とその袖を執える。真名古は無言のままつれない素振でその袖を払うと帳場レジストレの方へ歩いて行き、そこで半紙と硯箱を借り受けると、閑々たる態度で墨を磨り、やがて毛筆を取り上げて筆先にタップリと墨汁を含ませると、字劃の正しい字で、

辞職願

と書き起したのである。

第四回

十一、加十、逆上する事   並に卑賤の相の事

安南にボーキサイトの鉱山を持つ林コンツェルンの親玉林謹直にとっては、宗皇帝が突然微行で日本へ来遊されたということははなはだ以て迷惑千万なのである。

林コンツェルンを押退けてその現勢力に取って代ろうとする日興コンツェルンが、皇帝の反対党、すなわち親仏閥の李光明擁立派を抱込んで、さまざまに暗躍しているという風評がチラチラ聞こえる折だったから、皇帝に対して何か乱暴な企てでもありはせぬかと心の休まる暇もなかった。こういう際その皇帝がはなはだ困ったことをやってくれた。酔余、愛妾の松谷鶴子を窓から投げ落して殺害したのである。もしこれが公表されると、かねて親日派の宗皇帝を廃位して、親仏派の皇甥を登極せしめようとしている仏国印度支那政庁に都合のいい口実を与え、新帝が登極した結果は当然自分の採掘権が取消され、競争者たる日興に奪われる羽目になるので、しきりにヤキモキして政府の意向を覗っていると、どうやらこの事件は内秘する方針だと判ったので、ようやく安堵の胸を撫でおろし、御機嫌奉伺のため帝国ホテルに車を走らせる途中、日ごろ剛直を以てきこえる真名古捜査課長に出逢った。そこで、なるべくならば皇帝を訊問する条くだりも省略してもらうつもりで、真名古をホテルのロビイへ招じ入れ、つくづくと懇談したが、その際林はいわんでもいいことをヒョイと口走ったのである。

真名古警視の剛直ぶりというのは実に容易ならぬ底のもので、不義不正を憎むこと父祖の仇敵を憎むよりはなはだしく、不条理に対しては一歩も譲らぬ風だから、こういう後始末をさせるにはだれが考えてもこれは適当な人物だとは思われない。その者が捜査課長の位置にある関係上、本来ならばだれをさし措いても真名古に命ずるのが順序であろうが、今いったような訳なので当局は真名古を出し抜いて手っ取り早く適当な後始末をし、口を拭って知らぬ顔をしていた。林はそんなこととは知らないから、この間の事情を当の真名古の前でうっかり口を辷らしたので、さすがに冷静な真名古も胸中鬱然たる怒気を発した。いわば林の一言が火に油を注ぐような結果になったのである。真名古は慌てて機嫌を取結ぼうとする林を尻眼にかけ、帳場で辞職願を書き上げるとこれを懐中におさめ、茫然たる林をロビイに残してホテルの玄関を出て行った。

いうまでもなくこれから犯罪の現場なる有明荘へ赴こうというのであろうが、真名古の辛辣な捜査によってどのような大秘密が発覚し来るか。それは追々述べるとして、階下のロビイで以上のような精神的活劇が演じられているあたかもこのごろ、階上の貴賓用豪奢な一室ではこれに劣らぬ大苦悶が展開されていたのである。

前々回に於て御承知の通り、夕陽新聞の雑報記者古市加十が、その前夜すなわち元旦の午前三時ごろ、宗皇帝に誘われるまま赤坂山王台なるアパート有明荘に赴き、愛妾の松谷鶴子と三人で夜食を喰べ、四時ごろそこを辞して崖下の空地まで下りてくると、今別れたばかりの鶴子が天上から墜落して来た。慌ててこれを以前の部屋まで担ぎ戻ると、鶴子は既に絶命している。前後の情況から推すと皇帝が窓から投げ落して殺したと思うほかはないのだが、当の皇帝は、失礼と非凡な挨拶を残してそのまま雲散霧消してしまった。加十は死体と二人きりになって当惑しているところへ、玄関番のお馬婆のしらせで二名の官憲が乗込んで来た。加十はつい今まで此処にもう一人の人物がいて、三人で夜食を喰べていたのだから、もし鶴子を殺したとすればその男の仕業に相違ないと陳弁したが、さっきの夜食なるものは、加十は鶴子と同じ皿、同じフォークでおもあいで喰べたので、食卓の上にはなにさま汚れた二人分の食器しかないから、加十のいい分などお取上げになろう筈はない。有無をいわさず殺人犯人としてその場から引っ立てられ、溜池署に留置されることになったが、朝の九時近くになって、異様に鄭重な仕方で釈放され、官用の自動車で帝国ホテルへ送り届けられた。

加十はこれは皇帝が運動して自分を釈放させ、今までの労をねぎらうため饗応でもするつもりでホテルに呼び寄せたのだと思い、ノメノメと安楽椅子に掛けて待っていると、案の条ボーイ長らしいものが入って来て、加十の鼻先に献立表ムニュを突付けた。ここまではよかったが、続いて入って来た給仕が恭々しく一通の電報を差出すので、多分遅刻を詫びた皇帝からの電報だと思い、急いで封を押切って読み下すと、意外にもそれは安南帝国の理事官長から宗皇帝に宛てた至急の暗号電報であった。よもやよもやと思っていたが、ボーイが躊躇の色もなくそれを加十に手渡しするところを見ると、ああ、加十は皇帝だと思い込まれているもののようである。すれっからしの修業をつむことを念願にしている古市加十でも、さすがにこれには仰天せざるを得ない。やや暫くの間は思慮分別を失って恍惚うっとりと突っ立ったままになっていた。

市井の一雑報記者が一国の皇帝に間違われたなどというのは、その事すでにあまりに幻想的ファンタスチック、聡明な読者諸君にこれを事実と納得させることはなかなか困難なようである。いや、ことによったら馬鹿にするなと立腹されぬものでもない。何故かというに、古市加十が皇帝に見間違えられるわけはまず絶対にないことは、読者諸君がすでに御存知だからである。

なるほど面ざしはどこか似たところがあるが、一方は何万人に一人という侵し難い貴人の相を持ち、顎には秦の始皇帝のような見事な漆黒の髭を貯え、一方は一と眼で育ちが知れる極めて卑賤の相を持ち、かりに顎髭があるとしてもまだ生毛うぶげの程度に過ぎぬのである。有明荘のお馬婆や溜池署長が皇帝の顔を見知らぬというのはありそうな事だが、ホテルのボーイたちが皇帝を見知らぬわけはない。それなのにどうして加十は皇帝に間違われたのであろう。

自分が皇帝に間違われるわけは絶対にない事は、だれよりも加十自身がよく知っているのだから、自分が皇帝として待遇されていると知った時、狼狽した加十の頭に真先に浮かんだ考えというのは、政府が皇帝の身代りに自分を殺人犯人として処刑するつもりなのではなかろうかという、ゾッとするような思いつきだった。つまり自分は何と抗弁しても遁れられぬ状態で裁判を受け、否応なしに処刑されてしまうのである。そのような話はたしかに何かで読んだ記憶がある。自分が犯した罪ならいざ知らず、いささかも身に覚えがないのに殺人犯人として刑の判決を受け、終生陽の目も見えぬようなところに幽閉されてしまうのはあまりにも陰惨だ。とすればこんなところに安閑と坐っているわけにはゆかぬのであろう。ともかく逃れられるだけ逃れなくては、と急に椅子から跳ね上り、白絹の襟巻を鼻の上まで引きあげ、帽子の前鍔を深く引きおろし、ソロソロとドアを引開けて一歩廊下へ出ようとすると、ああ、早や其処には日ごろ顔見知りの警視庁の私服が三四人、何気ない体ていで行きつ戻りつしているのである。

加十は慌ててドアを閉ざすとそれに背を凭せて喘いでいたが、追々心気の鎮まるにつれ、この考えは少し妙だと思うようになった。自分を皇帝の身代りに処刑するなどという考えはどうも素っ頓狂なばかりでなく、かりにもしそうだとしたら自分を釈放する筈はなく、まして皇帝として待遇する謂いわれなぞない。現にさっき溜池署長が、この事件はもう片附いてしまったのだし、新聞記者などは一人も嗅ぎつけていないのだから決して心配はないという意味のことを、極めて遠廻しに仄めかしたではないか。それが嘘でも陰謀でもないことは、身の置きどころもないようなあの恐縮ぶりによっても充分に察しられる。とすればやはり加十は皇帝と間違われたと思う外はないのだが。

加十は眉根に皺を寄せながら、粗雑な思考力を非常召集してあれこれと急がしく考え廻らしていたが、フト顔をあげて煖爐棚マントルピースの鏡の方に眼を向けると、思わずアッと感嘆の声を発した。鏡の面に映っている映像は、それは皇帝でもなければ加十でもない。要するに眉間に皺を寄せた覆面の一人物に過ぎなかった。

加十がどうして皇帝に間違われたかといえば、それは次のような実に簡単な偶然によったのである。さっき溜池署の門を出る時加十は、自分でも気のつかぬうちに、いつのまにかすっかり被告の心理になっていたものと見える。いくら何でも元日っぱなから警視庁に護送されるところなぞを同業に見られたくないから、他聞を恥じるどの被告もするように、襟巻で面を包み帽子の前鍔を鼻の上まで引き下げ、走り込むように自動車に乗り、その儘の姿で帝国ホテルの車寄せに降りた。部屋に入ってからはさすがに覆面だけは引き下げたが、その代り今度は大きな安楽椅子に沈み込み、鞠躬如きくきゅうじょと差し出す献立表ムニュも電報もみな肩越しに受取ったのである。これらはみな偶然であって、加十が予期すると否とに関わらず万事極めて自然に行なわれたのである。かりに企んだとしても、こうまではうまく行かなかったろう。元来ホテル業者などは大体に於て観念的な存在だから、私服に護衛されて堂々と車寄せに乗りつけた皇帝を、たとえ覆面などをしていてもこれは本物かしらなどという突飛な疑問は起さなかった。高貴のなさることは概して下賤の常識では計りかねる非凡なところが多いのだから、その物々しい覆面も例の伝だと思ってさして訝あやしむこともなかった。こんな微妙なめぐり合せで、加十はウマウマと皇帝に間違われてしまったのである。

加十はさっきの狼狽も忘れたように一種横着な面構えになり、安楽椅子にフンゾリ返ると、

「これァますます痛烈なことになった。元来この「皇帝殺人事件」の事実を知っているものは、有明荘のお馬婆と多少の官憲を除くと、広い東京でこの俺ただひとり。のみならずこの俺なるものは犯罪のつい五分前まで現場にいた唯一の証人だ。俺はさっき犯人と誤認されたと知ったとき、なにしろ絶好のチャンスだから、新聞記者冥利みょうりに胆太く腰を据え、たとえ一ト月二タ月未決に繋がれても、最後まで俺の身分を明さずにこの事件のドンヅマリまで交際い、必ずこの大スクープをモノにし、日ごろ人もなげな一流新聞の半端野郎どもを一人残らず絶倒させてやろうと決心したが、情況は追々突拍子もない工合に発展して来て、これではなんとしても後に退けぬことになった。……しがない五流新聞の雑報記者が皇帝に間違えられる! そしてその間違いを起したのは警察当局だというんだから、これだって大した特種じゃないか。この経緯を諷刺的に素ッ破抜いたら、日本国中が引っ繰り返って笑うだろう。……いや、それどころじゃない。察するところ政府では、この事件を厳重に隠秘してしまったらしいから、俺のやりようによっては内閣をぶッ潰すことも出来るのだ」

などとブツブツ呟いていたが、追々逆上したような眼つきになった。

「もしもそんな結着になったとしたら! ああ、日本なんぞケチ臭い。俺がこのリポートを発表したら、「夕陽新聞」古市加十の名はそれで一躍世界的になるのだ。俺の探訪記はラジオの電波に乗って世界の隅々にまで報道される。……畜生、夢ではないか。……「安南帝国皇帝宗竜王の殺人!」……えらいものを掴まえたもんだ。この事件はいかなる新聞記者も嚊ぎつけて居りませんと、冗談いうな。失礼さんですが、それはね、日ごろ毒虫のように忌まれる夕陽新聞がしっかりと握っているんですぜ。と知ったら顫え上るだろう。その夕陽新聞なるものは、土台骨ばかり大きくて一向に尻腰のない甘茶新聞とは訳が違い、なにしろ命旦夕に迫っているんだから、もう死物狂いだア。たとえどのような妨害をしやがっても、このスクープだけは必ずモノにして、一挙に一流新聞に跳ね上らして見せる。夕陽新聞が潰れるか内閣が潰れるか、大きな眼を開けて見ていろい。よくも今まで百姓々々と馬鹿にしやがったが、今度こそ田舎者の土性骨の太さをつくづくと拝ましてやる。いいか、見ていろ」と、すこぶる意気昂然たる体ていである。加十がいうのは嘘ではない。外国にはよくあることだが、秘密政治というものはいつも野党が政府を攻撃する武器になっている。政府のこういうやり口や、政府と産業会社の秘密めかしい連契などが曝露されると、或いは内閣が潰れぬものでもない。加十が昂奮するのは無理もないのである。

作者はこの小説の第一回において、古市加十なる人物を東京会館の玄関から引張り出したまま、どういう閲歴を持つ人物か只の一度も説明しなかったが、この者は北海道農科大学の土木科の卒業生である。土木とは奇抜な学科を選んだものだと思われるであろうが、そんなことをいって見たって仕様がない。当人にはそれ相当の抱負があってのことと思われるが、卒業して見ると果せる哉、就職口などはない。しばらく北海道の奥で小学校の先生をしていたが、その後さしたる目的もなく上京して、喰うや喰わずに下宿に転がっているところを同郷の先輩幸田節三に救い上げられ、夕陽新聞の雑報記者として働くようになったのは今からちょうど一年ばかり前のこと。何しろ土木学を専攻しようと企てるような地味な人物だから、才気溌剌という工合にはゆかないが、一面に愚直を絵に描いたような、判り易くいえば土方の棒頭ふうな磅礴ぼうはくたる気宇を持ち、容易に転位せぬ代りに、一旦意気に感じたらその者のためには真実水火も辞せぬというような無益な感激性に富んでいるのである。四苦八苦の最中に幸田節三に救い上げられたことが骨身に沁みて嬉しかったと見え、日に日に頽勢を辿る夕陽新聞を一人で背負って立った気になり、誠実愚直に立ち働くので、幸田もその意気に感じあたかも己れの片腕のように信頼していた。

いまの独言によって察すると、加十は「皇帝殺人事件」というこの大スクープをモノにするために、一ト月二タ月の未決ぐらいはてんで物の数ともしないように見える。この決意すらズバ抜けていて、ありふれたその辺のケチな度胸とは比較にならぬ、何かドッシリと大きなところがあるようである。

この愛すべき田舎者は都会に不向きなその誠実のゆえに、ある卑劣な目的に利用され、雄図空しく、まもなく眼もあてられぬ惨殺体となって街上に横たわることになるのだが、それまでの間この鈍重な田舎者が、剃刀の歯のような一流記者を出し抜いてどのような野太い線を描いて見せるか、それこそは興味のある観物だと思われる。が、それは後の話として、加十はそういって置いて急に眉をひそめると、

「ちょッ、それはそうと肝腎の王様の野郎はどこへ隠れ込んでしまいやがったんだろう。何とかして早くとッ掴まえなくてはならんが……ま、然しそれだって慌てることはない。この事件が内秘されたと知ったら、早かれ遅かれ此処へ戻って来るに違いないのだから、チョコチョコうろたえ廻るより、此処でゆっくりネバっていれば、そのうちに必ず掴まえられる。……今のところではホテルでも警察でも、俺を王様だとすっかり思い込んでいるらしいから、王様らしくしていればそれまでモタせることが出来そうだが、何といってもこの面を見られたらそれで一ぺんに化の皮が剥がれてしまう」

と呟いていたが、急に立上って部屋の奥の書机の方へ行き、その上に置かれてあった銀枠入の皇帝の写真を取りあげ、それを持ってマントルピースの大鏡の前に立ち、写真の鼻から下を掌で隠してためつすがめつ己れの顔と見較べていたが、やがて嘆息もろともに、

「違う違う、まるで、雪と炭ほどに違う。……こうして鼻から下を隠して見ると眼や眉の辺が不思議に俺に似ている。生え際も顔の恰好もそっくりだが、何としてもこの眼だけはごまかせない。俺の眼はまるで掏摸すりのようにキョトキョトしているが、写真の眼はひどく威厳があって、その上まるで眼玉の奥まで澄んでいるように見える。なるほど大したもんだなア。生れが違うというのは恐ろしいもんだ。……顎髯だけなら襟巻でも胡麻化せるが、なにしろこの町人面ではどう細工したって王様に見えよう筈はない。そうときまったらケチな細工をするよりいっそ素顔でいるに限る。どうなるもんかい。バレたらその時はその時。何もビクビクするには及ばない。……といってもすぐ底が割れるのでも困る。じゃ、まア、せめてこんな工合にして」

と大鏡と斜に向き合う位置に安楽椅子を据え直し、戻って来てすっぽりと椅子の中に沈み込み、

「こんな工合に坐っていれば、入って来たやつは椅子の背中しか見えぬが、俺の方ではあの鏡によって一挙手一投足を仔細に観察することが出来る。ひどく物騒なやつが入って来たら、向うで手を出す前に臨機の処置をとる。大体こうして置けば」

といいも終らぬうちに誰か扉をノックするものがある。入って来たのはだれだと思いますか。この東京で直き直きに皇帝の顔を見知っているのは、有明荘の六人の住人を除いては林謹直ただ一人なのだから、此処へもし林が入って来たとすると加十はたちまち化の皮を剥がれ、この場面は非常に面白いことになるに違いない。作者も大いに希望するのだが、林はこの時はまだホテルのロビイで茫然と真名古の後姿を見送っているのだからここへ入って来る筈はない。われわれの期待に関らず入って来た者は、いな鏡の中に映じ来たものは、ホテルの支配人の禿頭だった。

禿頭は例のごとく戸口の傍で己れの靴先を舐めずらんばかりに這いかがみながら、只今内務次官が拝謁を願い出たと嘆くが如く訴えるが如くに述べ立てた。入り違いに入って来たのはフロック・コートを小粋に着こなした、五十歳ばかりの官僚型。ひどく緊張した面持で敬礼をすると、辷るようにスルスルと傍へ寄って来そうにするから、加十は驚いて、

「傍へ寄るな、風邪がうつるぞ。話ならそこでも聞こえる」

次官は物々しく眉を顰め、

「御風気。おお、それは。では早速ドクトウルを」

加十は忌々しそうに、

「放って置いてくれたまえ。それで話は何です」

次官は一風変った揉手をして、

「今朝ほどの失態はひとえにわれわれの不行届きから生じたものでございまして、早速大臣が拝謁してお詫びを言上いたすべき筈でございますが、あたかも今日は参賀の当日に当りますので、とりあえず私に」

「だからどうしたというんだ。簡単にやってくれたまえ。私が機嫌の悪いことは君だって知ってるだろう」

「は、誠になんとも。では手短かに申上ますが、いろいろ取調べの結果、松谷鶴子嬢は厭世自殺を遂げたという事実が明瞭になりまして、担当の捜査課長からもほどなく報告書が呈出されることになっております。この度の事件は今申上げましたようにいろいろわれわれどもの手落ちでございますが、迅速に処置いたしました日本政府の誠意に免じて、なにとぞ平に御容赦下さるよう、その点充分にお願い申上げるようにと両大臣から伝言でございます」

「ふむ、それは判ったが、新聞記者などの方はどうです」

「は、只の一人も介在してはおりませぬ」

「どうしてそんなことが断言出来るんです」

「幸い元日の早朝のことであり、迅速に手をつくして厳祕いたしましたから、絶対に外部へ洩れる気遣いはございません。幸い陛下には当夜有明荘へお立寄りにならなかったことでもございますし、鶴子嬢の自殺の原因は多分ヒステリイの発作によるものだろうと信じられますので、万々一鶴子嬢の自殺の件が漏洩するようなことがございましょうとも、自然陛下の御身上とは何の関係もないことなのでございます」

「判った。そんならそれでいいが、絶対にこのことが新聞記者の耳に入らぬよう、この上とも充分に配慮してくれたまえ。……もしそんなことになったら、俺は何をしでかすか知れないぞ。これだけは忘れるな。帰ったら両大臣によくいって置いてくれたまえ」

次官は充分に申し伝えますといって、ほうほうの体で引退って行った。加十は、ううッと妙な声を発し、

「おお危い危い。第一段だけはどうやら感でやっつけたが、追々どんな奴がやって来るか知れたもんじゃない。ひとつ朝飯めしの来るまで少し寝ておくか。よほど頭をしっかりさせて置かないと都合が悪い」

といいながら伸びをしていたが、間もなく椅子の中にフンゾリ返って不敵な寝息を立て始めた。それから十分ほど経つといよいよ林が入って来た。林は扉口で、

「林謹直でございます」

と名乗りを上げ、平蜘蛛のようになってお声を待っていたが、およそ二分経っても何のお返事もない。林といえども、いつまでもそんな不自然な恰好をしていられるものではないから、恐れながら頭を上げ、爪立ちして鏡の中を覗き込むと、どうやら皇帝におかれてはよくお寝みになっている模様である。もしやお風邪でも召されては、と長椅子の上に投げ出されてあったお外套を取り上げ、それをお着せ掛け申すつもりでソロソロと椅子の向う側へ廻り込んで行って見ると、顎の下にだらしなく襟巻をブラ下げ、いぎたなくそこに寝込んでいるものは、世にも下賤な面構えをした見も知らぬ青二才だった。

十二、茶の間の評判の事   並に妙な密会の事

赤坂福吉町の一条邸の前から新町へ折れ曲る横丁の中ほど、芸者屋二軒の間を透かすと、その奥に細格子の玄関が見える。標札に何々寓とあるはいわずと知れた某の妾宅。

茶の間の長火鉢を間に挾んで今しも談話に花を咲かしている二人の婦人。一人は中背で権高な二十四五の細面。藍鼠の二枚袷に翁格子の丸帯を締め、結立て低島田に鼈甲の櫛を揷した、素人が芸者に化けたような妙な風体。一人は五十ばかりの梅干婆、毛の薄い頭に小さな髷を乗せ、一楽かなんぞの大時代な衣裳を抜衣紋ぬきえもんにし、長火鉢の中に顎を突入れんばかりにして、

「それがさア、お聞きなさいまし。寝床の中で朝御飯を喰べるのが西洋式だとかいいまして、茹玉子を食い散らすやら夏蜜柑をせせるやら、あげくの果てはベルモットを持って来いのコーヒーを沸かせのと、とんだ政所まんどころなんで御座います。襟垢のついた紋羽二重の長襦袢を一ン日中引摺って、ねえ、あなた、いうことが歯痒いじゃありませんか、こうしていなくっちゃ旦那の気に入らないって。その旦那はといえば、早い話がチャンチャン坊主。日本の男が品切れになった訳じゃあるまいし、何も選り好んであんな毛色の違った旦那など持たなくともよかりそうなもんなのに。……それがまた莫迦ばかな勤めようで、夕方にくるといえばもう三時頃からコーヒーを沸かし、夜店の南京鼠じゃあるまいし、扉口から出たり入ったり、こっちまで逆のぼせ上ってしまうんでございます」

としゃべり散らしているのは、読者も先刻御承知であろう、第一回、有明荘なる松谷鶴子の家の料理場から割烹着の裾で手を拭いながら現われて来たとめという通い婆。これに応対している細面は、日比谷公園々丁長酒月守さかづきまもるの娘の悦子。丸越百貨店のエレベーター・ガールをしているうちに、夕陽新聞の幸田節三に見染められ、一昨年の冬からここに囲われる事になったが、玉の輿とは名ばかりで、一カ月の手当はちょうど判任官級。時には味噌漉しを下げて露路を駆け出すこともある。さすがに妾めかけといわれるのが嫌で、月々届けられる「夕陽新聞」の社名の入ったハトロン紙の封筒の表には「酒月秘書殿」と書いて貰うことにしてあるというが、そんな細かい詮策はこの際大して必要はあるまい。このとめは酒月の一家が淀橋の専売局の横露地に住んでいたころからの馴染みだが、悦子の方ではまるで自分の召使のように思っている。

悦子は生意気そうに唇を反らしながらとめの話を聞いていたが、急に真顔になって、

「それはそうと、旦那は支那の王様だってそれは本当? もしそうだったら素敵だわねェ」

と眼元をウットリとさせていかにも羨ましそう。とめは大袈裟に頷いて、

「ええそれは本当のことらしいのでございます。何しろ大変な仕送りだと見えて、一本卅円もする三鞭酒シャンペンたらいうものを飲みほうだいに飲み散らし、冬の真ッさなかに鮎が食いてえのポンカンないかのと、それはもう」

悦子は憎々しく舌打ちをし、

「まア、生意気ねェ、大した器量でもないくせに。どこがよくてあんなやつを」

とめは手で煽ぎ立てるようにし、

「ええええ、器量ならとてもあなたの足元にも及びませんのさ。それが女優たらいうことが大変自慢で、この間なんぞは踊って見せようかというから何をするかと思ったら、いきなりスッポリ脱いで裸になり、何にもかも放り出してステテコのようなものを踊り出しますんです。そうかと思うと急に血の道でも起ったような顰めっ面をして、殺すなら早く殺せエ、なんて喚き出したり、とんと狂人沙汰なんでございます。それはまだいいが、あなたも御承知でしょう、川俣踏絵たらいうダンサーが筋向いにいるんですが、それがねエ、あなた、厭らしいじゃありませんか、毎晩のようにやってきちゃ夫婦のように一つ床で寝るんです。あんなのってあるもんでしょうか、妾ァ話にも聞いたことがない」

といっているところへ露地の入口に野太い幸田の声がし、続いてカラカラと玄関の開く音。腰を浮かしたとめに悦子は、

「まアいいじゃないの、逃げるようにしなくても。今日はどうせドンタクだろう。ならゆっくりしていって今のつづきをお聞かせな」

といってスルリと立つと、帯に後ろ手をやりながら玄関の方へ行く。入って来たのは幸田と酒月の二人。どういう風に刑事を撒いたのか一向平気な顔つき。幸田は田舎相撲のように小肥りした身体を揺がせながら長火鉢の向うへ押し通り、大きな座蒲団の上に地響きを立てて胡坐あぐらをかくと、下から酒月の顔を見上げ、

「おい、酒月」

と唸るように呼びかける。酒月は足で座蒲団を掻き寄せると、それを枕にしてゴロリと仰向けに寝っ転がり、

「ウム、俺も驚いた」

といいながらマジマジと天井を見上げている。幸田はモーニングのズボンの上に片肱かたひじを立て、

「驚いた驚いた、くどいようだが幸田節三、臍の緒を切って以来今日ぐらいおどろいたことはない。……なア、あの鶴が唄い出そうたアお前だって思いも掛けやしなかったろう」

「あた棒だ」

「夢でも現うつつでもねエ、確かに歌ったなア」

酒月は捨鉢な調子で、

「ああ、唄った唄った」

幸田は探ぐるように酒月の横顔を瞶みつめながら、

「もしやと思うが、まさかお前が何か仕掛をしたのじゃあるまいな」

「そりゃ、こっちで聞きてえぐれえだ」

幸田は腕を組み、

「うむ、そうか」

酒月は煙草の煙を天井に吹きつけながら、

「おい、幸田、お前は確かに汐に乗ってる……。ああ、頼もしいもんだ。威勢のいい奴にはかなわねえ。胆っ玉一つで青銅の鶴を鳴かせたってんだからあっぱれなもんだ、酒月は兜を脱いだ」

悦子は長火鉢の横にだらしなく横坐りをしながら、狡そうな目つきで二人の会話を聞いていたが、この時プッと噴き出し、

「まさかねえ、いやだわ、二人とも真面目な顔をして。担ごうたってその手に乗るもんですか」

幸田はうるさそうに舌打ちをし、

「お前らはちょっとあっちへ行ってろ。そんなところへ横っ坐りしていないで酒の仕度でもしろ、何だ」

悦子は不貞腐ったように体を揺すって立上り、

「おやおや、怖いこと。とめさん奥へおいで。内密話なんだとさ」

と畳障りも荒々しく襖を引開ける。とめは年始の挨拶もそこそこに、御免なさいましといってこれも奥へ。

幸田は膝をすすめ、

「おい、酒月、どうしてあの鶴が鳴いたと思う」

「そんなこと俺が知るもんか」

「あのブリキの鶴をどうひっぱたいて見たって歌どころか嚔くさめ一つする訳はねえ。こちとらはただ巡査がすッ飛んで来て解散させるのを今か今かと待ってたんだが、折も折、あの鶴が鳴いたってんだからなア、こんな稀有けうな話はない」

この会話によってお察しの如く、裏の事情を打ち明けると、「唄う鶴の噴水」などというのは初めから根もないことだったのである。ある朝酒月が宿酔ふつかよいの噯おくびで咽喉を鳴らしながら噴水の傍を通りかかり、フト思いついた悪計だったのである。噴水の鶴が唄うのを聞いたという人々を克明に洗い立てて見れば、いうまでもない事だが、みなこの二人に繋がる連中ばかり。ただ気の毒なのはこんなインチキに一役買わされた兼清博士だが、勿論それは博士の罪ではない。こんな見え透いたからくりにウマウマ乗せられたという事が、却って世俗を超越した博士の清風を偲ばせるのである。

それにしても元日の午前九時十二分に噴水の鶴が唄うと広告し、およそ一万近い悪銭を掻き集めようなどとは余りに向う見ずなやり方だと思われるが、種を明すと実に簡単なトリックなのである。つまり、警視庁も間近い日比谷公園で無届不合法の集会をやれば、否でも警官隊が飛んで来て解散を命ずる。それがこちらのつけ目。逸早く一人前金三円の観覧料を掻集め、ご覧の通り解散を命じられましたから残念ながら「唄う鶴の会」はこれでお終い、とここでツケが入って幕になる寸法だったのである。

幸田と酒月のつもりでは、開会する間もなく解散させられるだろうと安心し切っていたのが、この目算は見事にはずれ、どういう訳か九時十二分になっても警官隊は姿を見せぬ。さすがの幸田と酒月も内心大いに苛立っているうちにとうとう退っ引ならぬ羽目になり、アワヤ袋叩きにされようとした時、不思議にも噴水の鶴は曲節ふしも長閑に歌を唄い出したのである。こんな次第だったからこの時の幸田と酒月のびっくりした顔こそ真に観物だった。どんな痴けな顔をしたか、多分読者諸君もお察し下さるでしょう。いわば悪党に対する天の皮肉といったような工合だったのである。

幸田はなおも諦め切れぬ面持で、

「おい、寝ていねえで起きろ。なア、どうしてあの鶴が鳴いたんだろう」

酒月は吸殻を火鉢の中へ投げ出すと、

「白痴こけが銭勘定をしやしめえし、同じことばかりいってたって仕様がねえ。なにしろめでたく千秋楽になったんだから、鶴のことなぞもうどうだっていいじゃないか。唄わなくたって元元だが、うまく唄ってくれたばかりに大分こっちの歩がよくなった。どうしたってこれを詐欺とはいわせねえ。あとは無届集会の埓をあけれアいいので、この方はどうせ手軽にすむ」

幸田は苦笑し、

「お手軽どころか、何だかひどく風向きが悪いじゃないか。幸田御用だ、なんてのは筋書になかったこったぜ。ここまで無事に落ち延びたのが不思議なくれえだ」

「といったって、どうせ段切は判っている。罰金か拘留か。まさか命をとるとはいわなかろう」

といってムックリ起ると猫板に頬杖をつき、

「おい、幸田、俺が驚いたといったのは鶴が唄ったこっちゃねえ。殴り込みに来たデクの棒のことだ。……お前はそう思わねえか。え、あれをさ」

幸田は頷き、

「そうなんだそうなんだ、俺にもどうも腑に落ちねえ。「国民」なら大倫会だし「旭」なら清川組。どうあっても野毛山なんぞがケチをつけにくる筋はないのだが」

酒月は湯呑を引寄せて冷えた茶をグッと呻りつけると、ジロリと幸田の面を見上げ、

「おい、これァ大きいぞ。野毛山が動き出すようじゃ、これァ大分大きい。……なア、幸田、鳴くべきいわれのない鶴がなんで鳴く。それをなんで野毛山が壊しに来る? この筋道の裏を辿っていったらこれァことによったら大事件だぜ。……どうだ、乗りかかった船だ、一番出潮に乗って行くところまで行って見るか」

幸田はマジマジと酒月の面を瞶めていたがやがて一言、

「よかろう」

といった。この時、格子戸を手荒く押開け、

「とめ婆さん居るかい」

という声とともに玄関へ飛込んで来たのは、すぐ上の有明荘へ出入する鳥屋の小僧。格子に掴まって素頓狂な声。

「とめさん、大変だ大変だ、王様の妾が身投げをした」

幸田はウムと眼を輝かして立上る。とめは奥から走り出し、

「なんだって。奥さんが身投げをしたと。それで生きてるのか死んでるのか」

「死んだともさ。窓から崖下まで落ちたんだぜ。助かりっこはあるもんか」

とめは大袈裟に眉を顰め、

「おお、厭だこと。湯灌なんぞしなくちゃならねえのかしら。元日っぱらから縁起でもねえ」

「いいえ、死骸は警察で持って行ってしまったとさ」

「おや、それア稀有けうだこと。……ほかになんか妙な様子はなかったかい。ちょっと思い当ることもあるんだが」

幸田は玄関端まで出て来ると、

「おい、新町の鳥屋の小僧だな」

「へい」

「それァ身投げでなくて殺されたんじゃないのか」

小僧は急に眼を光らせ、

「ええ、実は私もそう思うんで」

「ほう、何故だ」

「だって、そうなんです。身投げをするやつが鳥を注文するなんてのはないでしょう。明日の朝真鴨あおくびを二羽届けろって電話を掛けてよこしたんです」

「それはいつ」

「大晦日の……、いや元日朝の二時頃だったんで」

幸田は座敷の方へ振向くと、ジロリと酒月と眼を見合わせる。

虎の門の交叉点に近い晩成軒という喫茶店。一と眼で道路を見渡せる窓際の席に掛けている婦人は、ついさっき「巴里」にいたアパート有明荘の住人の一人。アメリカ帰りのダンサー川俣踏絵。ひどく色気の悪い顔つきで歩道の方を眺めながら何かソワソワと落着かぬ体である。

間もなくガラス窓にチラリと人影がさし、外套の襟を立ててタキシードの胸元を隠すようにして入って来たのは、これもつい先刻「巴里」にいた例の珊瑚王の伜山木元吉。その風体を見ても「巴里」からまっすぐここに来たものと知られる。時刻からいっても前回岩井伯爵が「巴里」へ現われて松谷鶴子の変死を報告してからまだ一時間とは経っていない。

山木は日頃艶の悪い蒼黒い頬をいよいよすませ、貧乏たらしく鼻の先を赤くしながら早足で入って来ると、椅子を引寄せて踏絵の傍に掛けながら、

「ハッチの野郎に付き纒われて、それで遅くなったのだァ」

と弁解がましく述べたが、踏絵はだいぶお冠の体で横を向いたまま返事もしない。山木はその方へ尖った顎を突出し、

「ねえ、おい。あいつは何か嚊ぎつけてるんじゃないのかァ」

踏絵はピクッと身体を顫わせると急に山木の方へ向き直り、

「感づくって、何をさ」

「つまり、二人の仲をさ」

踏絵は肩を聳かし、

「とぼけるない。それが何が恐い」

「ほう、恐くないのかい。これが岩井の旦那に知れてもお前さんは恐くないのかい」

フト見ると踏絵はテーブルの下でピリピリとハンカチを引裂いているので。山木もこれには驚いたようすで、

「こりゃ驚いた。何を独りで焦れてるんだい。いわなくっちゃ何も判りゃしない。え、おい、どうしたんだい」

踏絵はツト顔を挙げると、思い迫ったような口調で、

「ねえ、お前、あの取引から手を退かない」

山木は不意を喰って、

「えッ、取引って、二百九十五カラットのことか」

「莫迦な念を押さなくてもいい。今までいくどもいってるじゃないか」

山木は貧乏揺りをしながら、

「それァ困るよ。他ならぬ君の頼みでもそれは困る」

と常にもなく真顔になって、

「俺ァかねがね聞きたいと思ってたんだ。どうしてそうしつこく手を退け手を退けというんだい」

「あまり仕事が大き過ぎるからさ。お前のようなアンポンタンの手に負えるもんか。止した方が身のためだ。わちきはつくづくそう思う」

「大きけりゃ結構じゃないか。……大きいからこそこうして骨身を惜しまずに駆けずり廻ってるんじゃないか。君にはまだいわなかったが、犬居仁平の方の筋道もつき、ようやくモノになりかかっているというのに、どうして今更手が退けるもんか。それァ無理だよ」

といって踏絵の手を取ると、

「おい、踏ちゃん。俺ァもうスッテンなんだぜ、知ってるかい。スッテンどころか百万からの借金でもう二進にっちも三進さっちも行かなくなってるんだ。身から出た錆だといえばそれまでだが、こいつをモノにしなけりゃ、俺ァもう浮かび上ることが出来ないんだ。知らないわけはない。君だってうすうす知らないわけはない。それなのにどうして手を退け手を退けというんだい。……何か訳があるんならいってくれよウ。もっとも俺だって死物狂いだから大抵の訳なら引込まない」

踏絵は山木の手を握り返して、

「わちきがこんなに頼んでも」

「ああ、勘弁してくれ」

「お前、怖いと思わない」

山木は何故か急に臆病な眼付になって、

「おい、踏ちゃん、あんたそれァ何か考え違いをしてるんだ。……君は何を疑っているか知れないが、俺がやってるのは公明正大な取引なんだぜ。うまく品物を納めて口銭を貰おうというんだ。それが何で怖いんだい。……もっとも大っぴらにいえない筋があって、この事は、君と印東にしか打ち明けていないが、秘密厳守というのがこの取引の第一条件なんだから、それァ見逃して貰うより仕様がない。こいつをいうと人にたいへんな迷惑のかかることなんだから」

踏絵はまるで聞いていなかったように、ああゝ、と溜息をつくと、

「お互いにひどい羽目になったわね。もう逃げようたって逃げられやしない。ああ、わちきは何だって日本へなんか帰って来たんだろう。うらめしい」

山木は眼を伏せて、

「これが世に言う腐れ縁さ。勘弁して貰うより仕様がない。岩井の旦那には申訳ないが、出来てしまったものはどうするものか」

踏絵は急に眼を瞋らせ、

「いい加減にとぼけて置け」

「何だって」

「今朝の鶴子の一件はありゃどうしたんだい。なぜ鶴子が殺された? その訳をお前が知らない筈はなかろう。だからわちきは」

山木は慌しく踏絵の袖を引き、キョトキョトと給仕ボーイのいる方をぬすみみながら、

「おい、何をいい出す」

踏絵は不貞腐ったようすで煙草の煙を噴き上げながら、

「あわてるない。お前が殺したといってやしない、あまり水臭いからさ」

山木は血相を変えて、

「詰らねえことをいうな。訳があるというなら、むしろそちらの方が知ってるだろう。……ちょいと伺うがね、踏ちゃん、君は陰では鶴子の悪口ばっかりいってる癖に、どうして鶴子のところへばかりササリ込んでいたんだい。それにさ、噂に聞けば何か只ならぬ関係になっていたというじゃないか。……なんでそんな手のこんだ真似をしていたんだい」

踏絵はサッと血の気をなくして、

「やかましい。それがどうしたというのさ。そんな余計なお節介をするより、自分の身の始末でも考えるがいいや、とんちき」

と口汚くいい放すと、フイと窓の方へ顔を向けてしまう。見ようによれば己れの顔色を見透かされまいとする仕草のようにも受取れるのである。山木の方も気まずそうにうつむいて煙草を喫っているが、その指先が細かく顫えているのはどうしたものであろう。

ちょうどその時窓の外を、有明荘の崖下の素人屋しもたやに住んでいる例の花という美しい縫子が通りかかった。連れの赭熊しゃぐまの娘とも別れたと見え、何か俯向き勝ちに歩いて行く。踏絵はそれを見ると慌てたようにテーブルの上の手袋を掴んで立上り、山木に挨拶もなく喫茶店から飛出すと、

「花ちゃん、花ちゃん」

と呼びながら歩道の角で花に追いつき、妙に親しそうにその手を執り、

「花ちゃん、今朝は大変だったんですってねえ」

花は当惑したようにモジモジと手を引きながら、

「ええ」

踏絵はその顔を覗き込むようにして、

「あんた何かくわしいことを知らなくって」

「いいえ」

「まるっきり」

「ええ」

「驚いたでしょう、あんなに仲よしだったんだから」

「ええ」

踏絵は、

「死ぬ者は損をするわねえ」

と独り言のように呟きながら、意味ありげな微笑を浮かべて花の顔を眺めていたが、急に耳の傍へ口を持って行くと、

「花ちゃん、おめでとう」

といった。

十三、検察の妄執の事   並に朱唇綻ぶ事

山王下から有明荘へつづく険しい小径を、今しも一種狷介な足調どりで上って行く黒ずくめの陰気な人物は、いうまでもない、警視庁捜査一課長真名古警視なのだ。

警保局の内訓によって松谷鶴子の自殺の証拠固めに其処へ赴こうとしていることは、すでに読者諸君も御存知であろう。松谷鶴子の死因が果して自殺であるか他殺であるか、風説はともかく事実のところはまだ判明していない。いずれ真名古課長の冷酷峻烈な取調べの結果にまつほかはないが、先刻帝国ホテルのロビイで林謹直がフト口を辷らした廉々を綜合してみると、今朝午前五時溜池署長から鶴子の怪死と皇帝検挙の件を報告されて以来、内務外務両大臣、警保局長、総督警視総監の四人が内大臣官邸に集まって鳩首謀議の末、急遽自殺の状況を整備してしまったものと思われる。

真名古は今その現場にやらされる。つまり、すっかり自殺の状況が出来上ったところへ自殺の証拠を探しに行くのである。何のために真名古警視がそこにやらされるかといえば、真名古の署名のある報告書が必要だからで、いわば真名古は警視庁から裏切られた上はなはだみじめな役目を果しに行くのである。

真名古警視が検察の事務を執るに当っては、その冷執陰険なることはユウゴオの「噫無情レ・ミゼラーブル」に登場するかのジャヴェル探偵にもゆめゆめ劣らぬ事はすでに述べた。この人物が破邪検非にどれほど執心するか、その辛辣さは警視庁の内部ですらはなはだしく畏怖されるのをもっても知れよう。棺桶に打込むような、極めて特徴的な真名古の沈んだ足音が廊下の端に聞こえ始めると、部下も同僚も一斉に話をやめ、あたかも悪風の通り過ぎるを待つ舟子らのように、その足音が課長室の中に消えて行くのをジット目を伏せて待ちわびるのである。

今この小径を上って行く真名古課長の後姿を御覧になれば成程と頷かれるでしょう。

陰々たる雰囲気アトモスフェールを身に纒い、墓場の大鴉のような黒いインバネスの肩を聳かし、さながら不吉な現象の如くに踏み上って行く、見よ見よその陰殺の気に道端の草どもも恐れおののいて薙ぎ伏すのである。

一体、国家の大きな行動のうちには、善悪の些末などに拘泥していられぬような場合もある。今度の場合などもまさにそれで、この皇帝殺人事件を方式通りに処理しようとすると、いろいろうるさい国際問題が起きてくる。安南の皇帝が日本に来遊されていることすらすでに厄介な問題なのに、いまその皇帝を殺人犯人として摘発するめんどうさは、誰しも想像することが出来る。のみならずそれを敢てすることは百害あって一利ないのだから、済むものなら浪風を立てずに済ましたいところである。こういう場合に検察の権化のような真名古に一役買わせることは何としてもミスキャストだから、警察当局が真名古を出し抜いて逸早く状況を整備してしまったのは一面無理もない処置だったのである。

一方真名古は、法律の原則は国家の遙か上に立つもので、政府の意嚮や方針で軽々しく左右されるべきでないという固苦しい意見を持っているのだから、先刻ホテルのロビイで林の口を通じて、この事件に対する政府の処置を知った時、限りない憤懣の念を感じた。つまり、日本政府の体面を保つことは、たとえそれが一国の皇帝であろうとも罪あるものを罪ありとすることで、徒らに法律の原則を枉げて他国の人間に忠義立てすることではない、というのである。

作者にすれば双方に理屈があるようで、どちらが正しいとはいい兼ねる。然し強いてこの事件の真相を摘発しようとすれば、真名古は警視庁の全機構を向うに廻して戦うほかはないのだが、真名古にそれだけの決心があるであろうか。われわれは今真名古の懐中に辞職願が収められていることを知っている。とすればすでにその大決心をしているのかも知れぬ。睡そうに垂れた瞼の間から一種凄然たる光が洩れ出すのを見ても、何か不屈な決心を胸底に蔵しているように見える。しかし真名古は退け者にされた鬱憤を、こんな方法で復讐しようとしているのだと考えるのは真名古に対して気の毒である。真名古は陰険だが卑怯な男ではない。その上極めて老成沈着な性だから、そんな子供じみたことを企てる筈はない。真名古はこうすることが検察官たる己れの義務だと率直に感じたのである。

さて真名古課長が有明荘に行きついて見ると、早や何事もなかったように商人が活発に出入している。巡査や刑事の姿も見えない。

入口を右に折れて、突当りの玄関番の部屋の戸を開けると、五十ばかりの人の悪そうな婆が上り口に這い出して来た。第一回において、奥の部屋にいるのが宗皇帝だと刑事らに告げ口をした、あのお節介なお馬婆である。金壺眼のしゃくったような下等な面構え。引詰ひっつめに結っているので妙な工合に眼が釣るし上り、一層意地悪そうに見える。元来すぐ人を甘く見る性たちだから、校長の古手のような、余りパッとしない真名古の風采を見ると、たちまち舐めてかかって、

「おやおやまたお調べですか、助からないねえ」

なんて吐かす。真名古は上り端はなへ腰をおろすと湿った調子で、

「お馬というのはお前か」

と訊問を始める。お馬はそっぽを向いたまま、

「はい、さいです」

「ここでどんな役をしているね」

「まア、こうして玄関におりますのと、それから皆さんのこまごました用事も致します。はい、それだけでございす」

「昨夜王様が来られた時、だれか連れのあるような模様はなかったか」

「おや、王様ってだれのことでしょう。本名なら判りますが」

「日本名を宗方竜太郎といっていられる方だ」

「宗方さんならば昨夜はおいでになりませんでした。そりゃもうたしかなんでございす」

「間違いはないね」

「ええもう」

真名古は依然として瞼を垂れたまま、

「なかなか口が固いな。感心だ。誰が訊ねてもそういう風にいうがいい。……それで、あの玄関の扉はどういう風にして開けるのか」

「それを聞いて何になさるんです」

「訊いた事に返事をしろ」

お馬は面を膨らして、

「御銘々が合鍵で開ける事になっています」

「閉める時は」

「押すとひとりでに閉まるようになっております」

「出入口はあれだけなのか」

「御用聞が上り下りする裏梯子がありますが、出入はみなあそこから致します。何しろ出入口はあれ一つですからねえ」

「鶴子という婦人は、王様のほかに誰かを待っているような様子はなかったかね。客か、それとも友達でも」

「ほかのひとは誰も待っていなかったと思います」

「どうしてそれが判ったね」

「昨夜、十二時少し前に、すぐこの崖下の素人屋の二階にいる花という縫子が松谷さんのところへ届け物をして、その帰りにここへ寄って話込んで行きましたが、何でも宗方さんが約束の時間に来ないので、鶴子さんがたいへんな焦れ方だったといったからです」

「それでそう思ったのか」

「どうだっていいじゃありませんか。妾ァ今ふいとそう思ったからそんな風にお答えしたんでさ。ひとの胸ン中なんぞ、はっきり判るもんですか。千里眼でもあるまいし」

「それでその娘は他にどんな話をしたか」

「鶴子さんは倖せだといってました。これァ昨夜に限らずいつでも申すんです」

「それだけか」

「あとは忘れましたねえ」

「その花という娘がここへ寄った正確な時間は何時ごろだ」

「来たのは十二時十分前ぐらいだったと思います。十分ぐらい話をしていると除夜の鐘が鳴り、それを聞くとおめでとう、といって駆け出して行きました。……何かほかにまだ」

「もう少しだ。……するとその娘が生きた鶴子を見た最後の人間になるわけか」

「さいです」

「その後に鶴子の住居へ上って行ったものはなかったか」

「ありませんでしたねえ」

「事件のあった後で誰か玄関から出て行った者はないか」

「誰も出てまいりません」

「どうしてそれが判るんだね。玄関に立番しているわけでもなかろう」

「誰が立番なんぞするもんですか、冗談じゃない。……それはね、あなた、玄関の扉を開閉あけたてするたびに、電気仕掛で妾の部屋のベルが鳴るようになっているんです」

「つまり、事件のあとは一度も鳴らなかったのだな」

「後にも前にも、花が帰ってからお巡査まわりさんがやってくるまで、只の一度だって鳴りはしませんでした」

「とめという家政婦が帰ったのは」

「十一時半ごろ、いつものように勝手口の鍵を妾に渡して帰って行きました」

「その鍵は?」

「妾がここに預ってます」

「一つしかないのか」

「さいです」

「それでお前は何時ごろに事件を知ったのか」

「アッという声を聞いたのはちょうど四時だったと思います」

「崖下のアッという声をここで聞いたのだね」

「さいです。自慢じゃありませんが耳は聡さといですわ」

「成程。それで」

「それから急いで崖下へ下りて行って見ると、もう死んでいました。それを担いで部屋まで持って上って」

「お前が?」

「これでもむかしは女角力の前頭までとったんです」

「すると鶴子は」

「えッ、もちろん自殺ですとも」

「どうしてそんな事が判るね」

「だって、あなた、そうじゃありませんか。昨夜は松谷さんのほかは誰一人アパートにはいないんです。それにふだんから死にたい死にたいといって」

「よしよし、満点だ。それで花という縫子は今家にいるだろうか」

「保証うけあえませんねえ、今日はお朔日だから」

「どうも御苦労だった。もっとも今すぐもう一度引っ返してくる」

と言って立上ると、真名古はノロノロと崖下まで下りて行き、空地の片隅に立腐れになったような二階家の格子を引開けて案内をこうと、階段に優しい足音がして、やがて十八九ばかりの、色白な眼のぱっちりとした、大変に美しい娘が障子の陰から顔を出した。娘は真名古の顔を見ると、あら、と叫んで小鳥がとまり木から飛び立つような科しぐさで立上った。つい一時間程前、日比谷公園の近くで人雪崩なだれの下敷きになり、アワヤ圧死しようとしたところを真名古に助けられた縫子の花であった。さすがに真名古もこの奇縁に驚いたらしいが、この方は例によって瞼を開けてちょっとその顔を眺めただけである。

容貌かおだちというものもこれだけ美しければ確かに一つの事件である。たとえば銀座で擦れ違う美人の数は多いが、眼を瞠らせるというのはそうザラにはない。花子の顔はその数少ないうちの一つ。類型をもって説明すると、宮本三郎描くところの、近代の快活と純情を花のように咲き出させたあの美少女の顔立ち。こういう顔に出合うとどんな男性も一応生き甲斐を感じるのである。花はその美しい顔にもったいないほどの微笑を浮かべながら、様々に礼を述べていたが、真名古が警視庁の者だと名乗ると、そのあどけなさも微笑も、まるで朝日に逢った霜のように消えてしまって、上眼使いでオドオドと真名古の顔を偸視ぬすみみするようになった。もっとも警視庁の捜査裸長などは、どんな愛想のいい娘でもそう安々と歓迎する筈はないから、このくらいのことはあたりまえであろう。それでも、上り口では余り失礼だと思ったのか、真名古を導いて二階の自分の六畳に通した。

箆台へらだいも針箱もきちんと壁際に片附けられ、蔽布を掛けたミシンの上にはまだ蕾の固い紅梅が一枝。せめても元日を祝う貧しい娘の心根も忍ばれていとしげで。

真名古は窓際にムンズリと坐ると愛想けのない口調で、

「鶴子のところへ出入するようになったのはいつ頃からか」

とやりだす。花は低く首を垂れたまま泣き出しそうな声で、

「去年の十月頃からですわ」

「鶴子はいろいろお前に打明話をしたそうだな」

「冗談ばっかり言ってましたの」

「鶴子はこのごろ、何か悲しいとか、死にたいとかと口走った事はなかったか」

花は眼を瞠って、

「いいえ、一度も」

「お前は王様の顔を知っているか」

「存じてますわ。鶴子さんにいく度も写真を見せられましたから」

「ずいぶん美男子な、そう思うだろう」

真名古がこういうと花は、あら、といって額まで真赤になってしまった。真名古はその顔に眼を注ぎながら、

「まだじかに一度も逢ったことはないのだね、残念だな」

「でも、訪問着のお仕立をホテルへお届けすることになってますから、近々お目にかかれますわ」

と答えると、顎を襟に埋めて急に考え込んでしまった。真名古は黙ってそれを見ていたが、手を伸して窓の障子を開けると、すぐ眼の上に有明荘の建物が突き立っている。

真名古はその方を指さしながら、

「おお、有明荘が見えるな。あの右から二番目の二階の窓が鶴子が身投げをしたという窓だね」

「そうですの」

真名古はゆっくりと花の方へ向き直ると、

「娘さん、お前さん昨夜何時ごろに寝たかね」

この質問に縫子の花の全身にひどい変化が起きた。一口にいうと猟犬に追いつめられた小鹿のような、切羽つまった眼つきをして真名古の面を見返していたが、やがて畳の上に突っ伏してワッとひと泣き泣くと急に面を挙げ、

「あたしいろんなことを知ってるんです」

真名古は驚かない。陰気な眼を伏せたまま、

「ほう、どんなこと」

花は唇を顫わせながら、

「あたし、……あたし何もかも見ていたんです、この窓から」

花は一体何を見たというのであろう。

第五回

十四、毬栗頭の事   並に二九五カラットの事

乙亥元旦午前四時二十分、赤坂山王台アパート有明荘に住む安南国皇帝宗竜王の愛妾松谷鶴子が、二階玄関の窓から三十尺ほどの崖下に墜落して怪死を遂げた。その席には皇帝だけしかおらず、不幸なその窓の開閉する部分は床から五尺ほど上についているので、踏台でも使うのでなければ自発的にそこから飛出すことは困難である。この情況によって皇帝を加害者と認定することは容易だが、その人を殺人犯人として告発するのはそう容易いことではない。それによって惹起される厄介な国際問題を覚悟するのでなければやってのける訳にはゆかぬ。

早暁五時、この事件が通報されると、色を失った内務外務両大臣が、警保局長と警視総監を内大臣官邸に召集し、鳩首苦吟の末これを自殺事件として扱うことに衆議一決し、厳秘のうちに急遽あらゆる情況を整備し、午前八時には早や水も洩らさぬ手配を完了してしまった。局長はこうした上で巡査部長ぐらいを調査にやり、自殺の報告書を呈出させてアッサリこの事件を決済してしまうつもりでいたところ、悪運とでも申すべきか、迂濶な局長秘書が撰りに選んで、こういう仕事にはもっとも不向きな真名古捜査課長にそれを命じてしまった。

真名古というのは年のころ四十二三の、骸骨に皮を着せたような痩せさらばえた男で、鉛色の皮膚の下に高く顴骨をあらわし、瞼はいつも半眼といった具合に重そうに垂れ下がり、めったに開かれることがない。年中陰気な黒ずくめのいでたちをし、俯向き加減にウソウソと影のように歩き廻るようすというものはさながら亡者。極めて緻密な頭脳の持ち主で、これまでに様々の難事件を解決して来たが、不条理に対しては偏執狂かと思われるほどに苛酷。いやしくも不正と認めたら神をも告発することを辞せぬであろう、その峻烈さはまさに奪肉刳骨だつにくてきこつ、庁内ですら一種異様な憂鬱に襲われるのである。

この人物は大正十一年の東大哲学科の出身で、「矛盾の哲理」という警抜な卒業論文によって今でも同期生の記憶に残っている秀才だが、卒業すると同時に引手あまたな就職口を尻眼にかけ、黙々と警視庁の巡査部長を拝命してしまった。鰥寡かんか孤独の人間で親族みよりもなければ妻もない。毎夜夜半まで官舎の古びた机に倚って孤影凝然と犯罪学クリノロジイの研究に従っている、いわば検察のためにこの世に生れて来たような人物。果して真名古はこの政府の処置に忿懣を感じたと見え、辞職願を懐中ふところにし、陰々たる殺気を身に纒い、さながら妄執の如くに立上って来た。たとえ警視庁の全機能をあげて妨害しようとも、必ず退っ引ならぬ証拠をあげ、皇帝を殺人犯人として検挙する決心なのである。

政府と一検察吏の刻薄な争闘が開始されようとする。警視庁の秀才が寄ってたかって充分な整備してしまった現場から、真名古がどのような方法で他殺の証拠をあげるか、この経緯こそはなはだ興味深いと思われるが、事実が探偵小説と違うところは、探偵が浪花節の英雄のような超人的な働きをしないところにある。実直なこの現実社会では、犬も歩けば棒という具合にやらなければならぬ。探偵の功績はいつもその半ばを偶然に譲らねばならぬのである。この時も例によって思いがけぬところに思いがけぬ証人が現われて来た。それは有明荘の崖下の素人屋しもたやの二階に住む花という美しい縫子おはりで、その夜自分の窓から有明荘の事件を何もかも見ていた、と意外なことをいい出すところで惜しくも前回の終りになっていた。

さて真名古としては、あらゆる妨害と困難を予想し、死力を尽して戦う決心をしていたであろうのに、こんな手近なところからこんな有力な証人が現われようとは思いもかけなかったに違いない。冷血無情の真名古といえども内心勇躍を禁じ得なかったろうと思われるが、それは作者の推察で、当の真名古はと見ると、嬉しいのか嬉しくないのか、骨張った膝の上にキチンと手を置き、陰気に眼を伏したまま色も動かさぬ。何事も聞かなかったような冷々沈々たる趣きなのである。

身に合わぬダブダブのサージの古服を着、ぼんのくぼの痩せた毳けば立った首をしょんぼりと垂れ、影うすく、俯向き加減に坐っているようすというものは、さながな「さながな」はママ区役所の書記が失業して、このごろは踏切へ旗振りに出ていますといった体てい。これを俊秀鋭敏、警視庁切っての辣腕と懼れられる真名古捜査課長と思うものはあるまい。見るもいぶせき有様である。

花は拗ねた子供のように怨めしそうに上眼で真名古を睨みながら、

「あたし、探偵なんか大嫌いです、人情がないから。あなただって撲ぶってやりたいくらいよ。……ねえ、あたし、ご恩返しのつもりでいうんですから、どうかそう思ってちょうだい。さもなければこんな余計な告げ口なんかする気はないのです。……あたしがこの話をすると誰か罪人になるんでしょう、情ないわねえ。……ああ、あなたなんかに助けられなきゃよかった」

と大きな溜息をつくと、考え深そうな眼つきをしながら、

「昨夜、除夜の鐘をきいてからお掃除をすませ、それからお風呂へ行きました。歳の市での梅の花とお供餅かちんを買って帰って来たのは二時過ぎでしたの。髪を結ったり襟掛けをしたりして時計を見るとかれこれもう四時なんです。すこし横になろうと思ってお炬燵こたへ入ったんですけど、眠るのが惜しくなって起きてしまいました。そこの障子を開けて、灯りを消したまま敷居へこんなふうに肱をついて考えごとをしながら、フト、鶴子さんの部屋を見上げますと、玄関にも食堂にも寝室にも灯りがついているので、ああ、王様がいらしてると思ったんですわ」

眼をあげて真名古を見ると眼を閉じてウツラウツラしているようす。花は心細そうに、

「あら、聞いてるんですか」

眠っているのではなかった。ウム、と返事があった。花は膝を乗り出して、

「するとね、突然玄関の窓掛が上って、誰かが鶴子さんを抱き上げようとしているのが見えるんです。鶴子さんは必死に身もだえしているようでしたが、声は聞こえませんでした。何をするんだろうと思っているうちに、その男は鶴子さんをこォんなふうに高く差し上げて窓の外へ放りだしたんです。そのとたんに玄関の灯火が消えたので、あとはなんにも見えませんでした。……あたし、すぐ階下したへ降りて格子戸へ手を掛けたんですけど、出たらあたしも殺されそうな気がしたので、また二階へ引ッ返して朝まで顫えていたのです」

真名古は沈んだ声で、

「その男というのはどんな男」

「アッというくらいの間だったのであやふやなんですけど、なんでも脊の高い、大きな、毬栗いがぐり頭の男だったように思います。でも、何か冠っていたのがそう見えたのかも知れませんわ。……それから、手首のところに何か光るものを巻きつけていたようです。こう手を差し上げた時、それがキラキラ光ったんです。腕時計だったのかしら。はっきりしたことはいえません」

真名古はチラリと花の面を見上げ、

「娘さん、お前、王様の写真を見たといったな。その男が王様に似ているように思わなかったかね、こういう顎髯はなかったか」

花は怒ったような顔つきになって、

「お気の毒さま、写真には顎髯なんかありませんわ。……それに、王様は鶴子さんを殺す筈なんかないんです」

「ほほう、どうしてそんなことが判るね」

「何をしても笑ってばかりいるって歯痒がっていました、鶴子さんが」

「王様は鶴子を愛していられたのだね」

すると、花は躍気となって、

「いいえ。鶴子さんの方はもう大変だったんですけど、王様の方はそれほどでもなかったんです。ええ、あたし、そう思いますわ」

「成程。それで、鶴子に男の友達があるような様子はなかったか」

「男の友達どころか、女の友達だってあたしと踏絵さんぐらいのものですわ。だいいち、家にばかしひっこんでいて、戸外そとへ出ることなんかないんです」

「それで、もう、私に話してくれることはないか」

花は襟に顎を埋めて黙り込んでいたが間もなく顔をあげ、

「あたし、まだ知ってることがあるんですけど、これはいいませんわ。死んだひとにすまないから」

聞いているのかいないのか、真名古はうっそりと腕を組んで何か考えているようだったが、やがてモゾモゾと上衣の衣嚢かくしをさぐって、鼻紙といっしょにつぶれかかった板チョコレートを取り出して花のほうへ差出し、

「一つおあがり」

花はキッと口を結んで、

「あたしを子供だと思ってるのね。そんなことをしたって駄目、言いませんわ」

真名古は一旦引っ込めかけたチョコレートをまた取出すと、包紙の上にたまった芥をフッフッと口で吹き、覚束ない手つきで銀紙を剥し始めたが、チョコレートはとろけかかっているので思うように渉らぬ。垢のたまった小指の爪で長い間かかって丹念に掻きとると、陰気な声で、

「ま、おあがり、汚くはない」

といいながら、べったりと畳の上に置く。見るからに気の重くなるようなたどたどしいやり方。

真名古はこんなに無器用な男ではない筈だが……。どのような名優も真名古ほど巧みにこの場面を演じ終わせぬであろう。これがもし芝居だとすると、いっそ辛辣すぎるというほかないのである。

花は気味悪そうに下眼使いでチョコレートを眺めていたが、やがて思い切ったように、有難う、といってそれを口に入れ、マジマジと真名古のようすを眺めていたが、急にフッと涙ぐんで、

「あなたは、まアなんてブキッチョなんでしょう。そんなふうでは、あたしのような子供にも馬鹿にされてしまいますわ。多分あなたは新米の刑事さんなのね。……あたし、いわないつもりだったけど、あまりお気の毒だからいいますわ。……鶴子さんはね、何か大変なものを王様から預ってるといって苦にしていました。それがどんなものか、あたしも知らないのですから、あとはあなたが精出して探偵なさいね」

真名古は、いや、と挨拶とも礼ともつかぬ声を出して立上ると、

「昨夜、あの事件のあった時、鶴子のところには王様しかいなかったのだが、すると、お前さんの誰だかというのは、つまり王様のことなのだな」

癇の強い娘と見え、これを聞くと花は痙攣ひきつった顔になり、今にも卒倒するかと思われるような眼つきで真名古を見上げながら、

「待って下さい、あの時王様だけしかいなかったというのはそれは本当」

真名古はのっそりと突っ立ったまま、冷然たる口調で、

「調べに行って見ると王様だけしかいなかった。食堂にも二人で食事をした形跡しか残っていないというのだ、……いやいろいろどうも」

といって階下へおり、ゆっくりと格子戸を引開けて出て行った。

花は畳に突っ伏して、

「そうと知ったらあんな事をいうんじゃなかった。ああ、どうしようどうしよう」

と身体を押揉んで身も世もないように愁嘆する体だったが、やがてキッと顔をあげると、

「こんなことをしてはいられない。ともかく早く王様をお逃がししなくては」

と身仕度もそこそこに、押入から風呂敷包を取出して大切そうに胸に抱え、格子戸を引開けながらフト小径の方を見上げると、今しも真名古は黒いインバネスの袖を大鴉の翼のように羽搏かせ、木枯に吹き捲られながら飄々と有明荘の方へ上って行く。花は切なそうな眼つきでそれを見送っていたが、ブルッと身顫いをすると手早く玄関に錠をおろし、駆けるように山王下へ。

真名古は有明荘の玄関に立って、入口の扉の電鈴装置や引込外線の接続部などを調べていたが、それがすむと取っ付の階段からツカツカと二階へ上って行く。鶴子の住居の玄関の前に私服が一人立番している。

「検視がすんでからだれかこの内部へ入ったものがあるか」

「九時頃総監殿がお入りになっただけです」

「事件のあとからずっとここにいたか」

「ずっとここにおりました」

「勝手口の方は」

「同様、ずっと同僚が」

扉を開けて入ると、そこは玄関といおうより広い廊下といったところで、片側は壁、片側は応接間の扉。その突当りがスチール・サッシュの、いわゆるコルビジェふうの大きなガラス壁で、床から五尺ほど上ったところに開閉する部分がついてい、事件の当時のままに悲しげに開かれ、そこから湿った風が吹き込んでいる。床の上には二尺ほどの高さの踏台が一つ。その傍に婦人用の牡丹色の繻子のスリッパが、一つは伏し一つは仰向いて葩はなびらのように美しく散っている。

真名古は突っ立ったままジロジロとそれを眺めていたが、

「見事だナ、これなら飛び出せる」

と呟いて、ニヤリと笑った。

ああ、誰か傍におってこの微笑を眺めたとしたら、それこそ背筋が寒くなるような思いがしたであろう。微笑といってもそれは唇の端がすこし動いただけに過ぎぬが、どんな悪党の微笑もこうまで凄くはあるまい。譬えていうならば氷の中で火が燃えるような、この世のありとあらゆる冷酷と瞋恚がこの顔一つに凍りついたかに見えたのである。

窓の側の縁に眼を近付けて何か妙な顔をしたのち、応接間へ入ろうとすると、扉には厳重に鍵がかけられ、その上封印までしてある。率直にいえば真名古がこれから奥へ入ることを禁じているのである。真名古が調査に出かけたと知って慌ててやって来たのだろう、封印の表にはまだ微かに湿り気がある。真名古は冷然たる面持で衣嚢から鈎のように先の曲った針金を取出すと扉を開けにかかる。一分ほどガチガチやっていると扉が開く。

さすがに東京一といわれるアパートだけあって、万事豪奢な取廻し。足首も埋まりそうな朽葉色の絨氈の上には、脚の低いフランス製の近代風ア・ラ・モードな家具を置き並べ、窓には灰白色の贅沢なベルベットの窓掛がすんなりと掛り、ベルギー産の高価なガラス鉢の中には、この真冬に蘭鋳が悠々と尾鰭を動かしているといったぐあい。

食堂へ入って見ると、食卓掛ナップの掛ったテーブルを挾んで、向き合う位置に二脚の椅子が置かれ、シャンパン・グラスが一つずつ、ナフキンが二つ、フォークと魚匙トリユエールが二本ずつ、生牡蠣の殻の堆高い中皿と鵞鳥の肝フォア・グラを取りわけた小皿がおのおの一枚ずつ、灰皿が二つ。要するに、二人だけでここで食事をしたという無言の証人になっているのである。真名古は食卓の上を眺め廻したのち一方の灰皿の中を覗き込む。その中には口紅で赤く染ったゲルベゾルテの吸殻が三本転がっている。すぐ向う側へ行ってまた灰皿を覗き込む。その中には上等の葉巻の吸殻が一本。

真名古はその椅子に掛けると、

「向いの椅子に鶴子が掛け、この椅子には皇帝が、こう掛けて」

といいながら足を伸すと、靴先がテーブルの脚の横木に触れた。真名古はテーブルの下に這い込んで横木を調べる。まだ微かな湿った泥がこすりついている。向う側へ廻ってそっちの横木を調べる。スリッパの裏でこすられたと見えて、ちょうどその部分だけ埃が薄くなっている。ここまではまず妥当であるが、どう考えても鶴子が掛けたと思われる椅子の位置が妙だ。真名古はその椅子に掛けて食卓の方へ手を伸して見る。とても食器までは届きはしない。椅子を動かした跡があるかと思って絨氈の上に眼を近付けて見たが、そんな跡もない。椅子の脚はしっかりとその位置にめり込んでいる。フト椅子の右側を見ると絨氈の上に巻煙草の灰が落ちている。それはドス黒い、ゲルベゾルテとは似ても似つかぬ、明かに下等な巻煙草の灰である。なぜここに灰が落ちたのか。椅子に掛けてやって見るとすぐ判る。どうしても灰皿まで届かないからだ。自分の膝に灰を落したくないと思えば、自然、右側へ垂れた手が、ひそかにこの辺へ灰を落すことになる。この人物の手が灰皿に届かぬのに、鶴子の手がなぜ灰皿に届くのだろう。鶴子がこの人物の膝の上に乗っていたのだと思うほかはない。真名古はすぐ椅子の脚の横木を調べて見る。横木の角にすこし湿った泥がついている。こんな高い横木へ踵をかけるのは、膝の上に重いものを載せた時か膝の上のものを落すまいとする時に限る。のみならず、これによってその人物が男性であることが証明されるのである。踵の高い女の靴ではこんな芸当は出来ない。それで、煙草の吸殻はどうした。揉み消してポケットへ入れたか。まさか。真名古は皿の上に堆高い生牡蠣の殻を一つずつ取りのけて見る。下積みの殻の海水の中でふやけている吸殻の横の腹には、明かに GOLDEN BAT と読まれたのである。真名古はこんなぐあいにして皇帝の証言が嘘でなかったことを確かめた。事件のすぐ直前まで、皇帝と鶴子のほかにもう一人の男がここにいたことを確認したのである。

真名古は食堂の隅の扉を開けて料理場へ入って行く。広い調理台の隣りに大きな厨房煖爐がある。変ったものといえば浅い木箱に入った油土パテと漆喰しっくい土だけである。しかしそれもすぐ判った。勝手口の扉の傍の壁が二合ほど剥げ落ち、それを塗り直した壁土の余りである。真名古がそこへ眼を近付けて見ると、塗直した新しい漆喰の上に、誰か背を凭せた痕が微かに残っている。洋服の背筋の縦の縫目と、上着の裾の横の一線、それからだらしなく下った皮帯の端が、鋳型彫クリユウのように薄っすらと彫り込まれている。皮帯の端をブラ下げたり、こんなところに凭れたりするところを見ると、この男は酔っていたのかも知れぬ。木箱の中の漆喰の塊りはまだ湿っているのに、壁の漆喰のほうはもうすっかり乾いている。圧して見ても指の痕もつかぬ。この方の乾きの早いのは、すぐ傍にスチームの管が通っているからである。壁を塗り終えた時間と、今朝スチームが通り始めた時間を調べると、この男が大体何時から何時までの間にこの壁に凭れたか、容易に判明するであろう。リノリュームの床の上に靴跡が残っている。紙を刻んで丁重に靴型をとると、それを衣嚢におさめ、巻尺を取出して上着の裾までの距離を測ると手帳を取出して、〇米メートル八六と記した。勝手の扉に耳をあてると、その外で立番をしている人の気配がする。勝手口の階段は後廻しにする事にして、料理場の隅の扉を開けて次の部屋に入る。そこは浴室である。格別変ったようすもないので、また扉を開けて次の部屋に入る。そこは寝室兼居間である。奥の壁に寄せてディヴァンふうの大きなダブルベッドがあって、天鵞絨ヴェルウルの寝台掛が屍体の重みで人間の身体の形に冷えびえと窪んでいる。窓際に丸い鏡のついた西洋臭い化粧台。その右に壁に嵌め込まれた大きな衣裳戸棚がある。真名古は化粧台の曳出しを一つ一つ引抜いて細かに内容を改める。ここには異常なものはない。真名古は衣裳戸棚の扉を引きあける。色々な色彩が五色の滝のように垂れ下っている。どれもこれも西洋寝巻か長襦袢である。上着もなければ外出着もない。その代り長襦袢だけは一々工風が凝らされてある。緋縮緬の、茶のデシンに黄色い花を刺繍ろざしの、タフタの朱子の、色もかたちもさまざまである。花がいったことは嘘ではない。鶴子は戸外へも出ずにこうして色々な長襦袢を着て、毎日王様だけを待ちわびていたのである。鶴子がどんないじらしい日常を送っていたか、この衣裳戸棚がよく説明してくれるのである。下の曳出しを開けると男のチョッキが一つ入っている。それは薄緑の、上等な柔らかい生地のもので、一流の仕立屋が入念に作ったものだということが判る。外側の四つのポケットを改めたのち、内側を引繰り返して見ると、まだ着古したというほどでもないのに、内側の右のポケットの生地だけがすっかり伸びて卵なりに膨れている。何かかなり重い随円形の「随円形」はママものが、長い間無理にこの狭いところに押込まれていたことが判るのである。真名古はチョッキを窓際に持って行って、入念にポケットの内側を改める。チョッキを化粧台の上に置くと足音を忍ばせて料理場へ入って行き、油土パテの塊を持って帰ってくる。化粧台の椅子に掛けると、巻尺を使ってポケットの膨らみを測りながらその大きさに合せ、油土パテを丸めはじめる。いくどもやり直しをしているうちに、鶏卵の三分の二ほどの大きさの、茹卵を二つ割にしたような、底の扁平な半球楕円形が出来上った。それからポケットの内側に微かに残っている亀甲様の紋形に合せて、半球の上へ切子の形をつける。ポケットに落し込んで見ると一厘の隙もなくピッタリと膨みと合う。それを丁寧にハンカチで包んで手に下げられるようにし、チョッキは新聞紙に包んでこれも化粧台の上に置く。また衣裳戸棚のところへ戻って二番目の曳出しを開ける。おびただしい敷布類が入っている。外の曳出しは乱雑だから気がつかなかったが、ここは敷布類がキチンと入っているので、だれかが大急ぎで掻き廻したなということがひと目で判る。真名古の方は丁寧に掻き廻す。敷布の間からこんなところにありそうもないものが現われて来た。薔薇根プライヤのシガレット・ホルダーである。かなり特徴のあるもので、獅子の頭が彫刻され、その口が煙草を啣えるようになっている。真名古はそれを取上げて仔細に見る。重く垂れ下った瞼の間から一種凄惨な光が洩れ出して来た。それを化粧台の上に載せて椅子に掛けると、低く首を垂れてそのまま動かなくなってしまった。十分、十五分。微動もしない。人気のないこの寂然たる殺人の現場に、寥々と瘠せた男が影のように坐っているさまは鬼気迫るような気がする。真名古は腹でも切ろうというのではないか。深い憂色を浮かべて深く俯向けた頬は、血の色を失って煤黒くなり、骨立った肩が波のように起伏するのは何か非常な大煩悶に逢着したのだということが判る。やや暫くののち顔をあげる。この時はもう平常通りの冷々沈々なる面持になっていた。新聞紙の包みを小脇に抱え、手芸品の包みを指の先にブラ下げて鶴子の住居を出ると、一旦階下へ降り、御用商人専用の裏階段を上って勝手口の扉の外側へくる。立番の私服には眼もくれず、紙包を廊下の端へ差押くと、仔細に廊下を調べ始める。階段の下り口のところに葉巻の灰が落ちている。皇帝と同じ葉巻を喫う男がこの階段を降りたか上るかしたことが判る。階段を降り切ったところに五分の一ばかし喫われた、まだ火をつけたばかりの葉巻の吸殻が転がっている。これで葉巻を喫った男が階段を昇ったのではなく、降りたのだということがわかる。葉巻の吸殻がここに落ちているのに、その灰が二階の廊下にある筈はないから。葉巻に眼を近付けて見ると、葉巻は灰の方を頭にして垂直に床に落ちたことがわかる。その男はここでよろけるか膝をつくかして、口から不随意に葉巻を落したに違いない。手に持って投げ捨てたのならば、多少の弾みがつくから、決して垂直には落ちぬ筈である。リノリュームの床に目を寄せて見ると、葉巻の吸殻のある少し先から、リノリュームの上に何か引摺ったように二本の光の線が始まって玄関の方へ続いている。まもなくリノリュームは終ってモザイクの床になってしまったので、二本の線は見えなくなっている。真名古は二階の廊下へ引返して、さっきの包みを取上げると、玄関番のお馬の部屋へ寄って、出入の左官の家と、今朝スチームの通り始めた時間を訊ねると、飄々と有明荘を出て行った。

さて真名古警視は溜池の左官屋で、壁塗りの仕上った時間を確かめると、タクシーを拾って日本橋の伊吹という洋服屋へ行き、何か細かに問い合わせたのち、その足で室町の松沢宝石店へ入って行く。ハンカチから例の手芸品を取り出すと、迷惑そうな若い手代を掴まえてこんなことを言っている。

「元日っぱなから妙な買物だが、それと同じ大きさの同じ形のダイヤモンドのイミテーションを作れまいか。百円ぐらいでおさまれば好都合なのだが」

手代は呆れたような面持で真名古の顔を眺めていたが、

「これはロゼット型という古い切り方ですな。……左様、無垢のガラスなら出来ないこともございませんが、……お値段のところはちょっと判りかねます」

「このぐらいの大きさならば何カラットぐらいあるかね」

「まず、三百カラットはございましょう」

「どのぐらいの値段がするもんだろう」

手代は、えッと息をひいて、

「御冗談」

「いや、どのぐらいするかときいているのだ」

手代は馬鹿馬鹿しそうな面持で、

「一カラット三百円というのが相場ですが、このくらいの大きな貴石になると、カラット数を二乗することになっていますから、三百の二乗で九万カラット。……三、九、二十七の二千七百万円。それに格付というものがありますから、黙っていても五千万円。……話になりません」

「このぐらいの大きさのダイヤモンドが日本にあるかね」

手代は辟易して、

「どうも困りましたな。…… Jewel of world(「世界の宝石」)という絵入りの英語本がございますが、何かお調べになるんならお目にかけましょうか」

といって奥の本棚から、クオート版の大きな本を持ち出して来た。真名古は受取って世界の有名な宝石を順々に眺めていたが、間もなくハタリと本を閉じて机の上に差置いた。

真名古の眼をうったものは、「大モガール」という宝石の次ぎに掲載された、真名古の手芸品と寸分違わぬ、薄紫の美事なダイヤモンドの原寸図だった。その揷図には次のように註されていたのであった。

帝王ラジャー  二九五カラット。(一八八六年 南アフリカ、ブレミャー礦山産出。安南帝国皇室所蔵)

十五、風前の燈火の事   並に膝詰談判の事

誰か扉を叩く。この音で夕陽新聞雑報記者古市加十は、今しも帝国ホテルの豪奢な貴賓用の一室で眼をさます。たとえイミテーションでも王様の寝心地というものはなかなか素晴らしいものだったに違いない。

どういう廻り合せか、前夜松谷鶴子の死体の傍にいたばかりに、一躍して安南の皇帝になってしまった。加十にいわせると、間違うのは向うの勝手で、俺のせいではないのである。加十は多少の官憲とお馬婆を除いては、同業はもちろん、この広い東京に誰一人知るものもない「安南帝国皇帝宗竜王の殺人」というこの大事件を、最後のドン詰りまで見届け、是が非でもこの大スクープをモノにする決心でここにネバっているのだが、こんな呑気なことをしていてもいいのであろうか。加十がここで仮睡うたたねをしているうちに、事件はどうやら加十などの手に負えないほどに大きく発展し始めたのみならず、皇帝の顔を見知っている林謹直にこの卑賤極まる寝顔を見られてしまっている。加十の運命たるやまさに風前の灯火なのである。

が、加十はそんな事は知らないから、ウゝムと伸びをすると例によって荘重な声で、

「カム・イン」

といった。

扉を開けて入って来たのはノッポの給仕長。小鴨の蒸焼や伊勢海老のマヨネーズや、網焼牛肉シャトオブリアンなどを大きな盆に載せて持ち込んで来たのが、例の偵察用の鏡に映じ出される。

時間はなるほど十一時間近いが、それにしても朝飯にこんなものを喰う奴はない。これだけでもお里が知れるのだが、加十はそんなことに気がつかぬ。ケチなものを注文したら化の皮が剥げはしないかと思って、無理から高価なものばかり選んで注文したんだが、これが上流の風習とちょうど反対になった。

喰べ馴れぬ食物も障りなく胃袋におさまり、心持よく気が重くなってまたウツラウツラしていると、ホテルの支配人が入って来て、何か御注文の品を持って来た使いが、じきじきお手渡したいといっていると告げる。

扉が極めて静かに開いて、鏡の中へ入って来たのは年のころ十八九の、絵に描いたような美しい娘である。何という美事な顔立ちであろう。下町の美男と美女だけが、場違いの血を交ぜずに幾代も配合された純血族サラブレッドの末に、このように洗練された顔だちが出来上るのであろうか。眼も鼻も唇も一つ一つそれだけで完成し切っていて、それが少しも無駄のない輪廓の中におさまり、譬えようのない清楚を、そのくせ情味のある、明るい近代的な顔をつくっている。映画好みの混血面あいのこづらではない、東京の、純日本の精華である。

加十と向き合ったマントルピースの鏡に映ったのは、稀覯とも称すべきこのような美しい風景だった。いうまでもない、さっき真名古と対座していた縫子の花である。

極端な御馳走のすぐあとでこのような美人が出現するなどという至れり尽せりで、誰しも茫然とせぬわけにはゆくまい。加十はほとんど夢幻ゆめうつつの体だった。

花は胸に風呂敷包を抱き、緊張のために蒼くなって扉口の傍に立ちながら、

「わたくし、有明荘の下に住まっております縫子おはりの花でございます。御注文の御訪問着を持参いたしましてございます。それから、ちょっと……」

と、たとたどしい「たとたどしい」はママ。

加十は、は、は、は、と下等な作り笑いをして、

「それは御苦労。ま、すこし遊んでおいでな。僕も少々徒然です。さア、ここへ来てこの椅子にお掛けなさい」

花は古風な擦り足をして加十の傍へ進んで来て、向き合う椅子に掛けると上眼使いでオズオズと加十の顔を眺めていたが、突然椅子から立上って、

「王様、あなたではありません」

と甲高い声で叫び立てた。

ああ、大変なことになった。娘ッ子だと思って油断をしたばっかりに、とうとう化の皮が剥がされてしまった。今までの苦心も大スクープの夢も、一切合財これで御破算になってしまうのであろう。それにしても相手が悪い。さすがに鉄面皮の加十も狼狽赤面してウロウロと椅子から立上りかけると、花はワッと泣き声をあげながら絨氈の上に坐り込み、

「おゆるし下さいませ。あたし……」

と言って、しどろもどろに前章の一条を物語った末、

「王様だけしかおいでにならないと知ったら、死んだってあんな事を申すのではありませんでした。どうぞ、それだけはお信じ下さいませね」

と、扉口の方へのぼせたような眼ざしを走らせ、

「それにしても、大変なことになりました。こうしているうちにも……。さア、どうぞ早くお逃げあそばして。すみません。すみません」

といって、また泣き崩れてしまった。

花が見た加害者というのは王様と違うというのはすこし受けとれぬ話だが、どうせロマンチックな娘の眼には王様なんぞどんなふうに映るのか知れたもんじゃない。それに逃げてくれというその王様は、事実上どこかへ蒙塵しているのだから、いわば御注文通りなのである。

加十は花の肩に手を置いて、

「花君、いや、これではゴロが悪い、ねえ、お花さん。そんなにあやまらないだっていい、誰にだってやり損いというものはあるのだからね。それに、正直なところ、王様はもう逃げたことになっている。そこにはそこがあるので決して心配はないのです。さアさア、お立ちなさい。玉繭の着物が台なしになる」

花は胸に手をあて、急にがっかりしてものもいえぬといったふう。加十はいよいよ手に力を入れ、

「それにしても、どうしてこんなに親切にしてくれるのかね。単に好奇心だけかそれとも同情といったようなものですか」

花は羞しそうにチラと上眼を走らせると、蚊の鳴くような声で、

「王様は、いつか、あたしのことを、お鶴さんに、可愛いい娘だとおっしゃったそうですね。……そのためですわ」

というと、額まで赧くなって両手で顔を蔽ってしまった。加十にはこのいい廻しがよく判らない。花は身体を固くして王様が何かいってくれるのを一心に待っているのだが、間抜けな加十は気がつかぬ。花の美しい襟足のあたりを呆然と手を束ねて眺めているのは見るも歯痒い有様。やがて花は顔をあげると涙のいっぱい溜った眼でうらめしそうに加十の面を瞶めながら、

「お鶴さんがお亡くなりになったので、王様はさぞお力落しでいらっしゃいましょうね」

加十は愁傷らしく眉を顰め、

「ああ、力を落しました」

花はさっきのような痙攣ひきつったような顔つきになり、

「ねえ、さぞ、残念でいらっしゃいましょうねえ」

「残念でたまりません。……おや、どうしたんです、お花さん」

見る見るうちに花は血の気をなくして、出来のいい西洋蝋燭のように真ッ白けになり、ズルズルと絨氈の上へ崩れ落ちてしまった。

加十は、おッと奇妙な声を発し、あわてて花を長椅子の上に担ぎ上げると床の上に坐り込み、ぐったりと垂れた花の手を揺すりながら、埓らちもなく、お花さんお花さんと連呼する。

花は間も無く正気づくと、物怖じしたように長椅子の上に跳起きた。さすがに血の廻りの悪い加十の胸の中にも、温い愛の潮がヒタヒタとこみ上げて来たのであろう、花の方へ両手を伸しながら、何か情緒にふさわしい表現をしようとした時、また支配人が入って来て、椅子の背越しに恭々しく一葉の名刺を差出して引退って行った。見ると、

宋 秀 陳

(伊波当壮 沖繩県人)

と書いてある。

花は溜息をつきながら身仕舞をすると、残り惜し気に出て行く。入れ違いに鏡の中に映じて来たのは、威儀正しくフロック・コートをつけた、色の浅黒い、縮れっ毛の、眼のキョロリとした、前々回、日比谷公園池畔、「唄う鶴の噴水」の会場で、片手に東京地図を握りながら、いつまでアッケラカンと青銅の鶴の口元を眺めていたあの異風な紳士である。扉口で直立の姿勢をとると、

「安南帝国外務省二等出仕、皇帝附き諜報部長、宋秀陳」

と名乗る。

又してもえらい奴が入って来た。もはや加十は観念する外はないのであろう。しかし加十にはすでに述べた通りたいへんな抱負があるのだから、それにしても何とかしてこの難場を切り抜けようと、あらゆる思考力を非常召集してアレコレと考え廻したが、格別いい智慧も出て来ない。いよいよいけなければ何とか談じるまで。ままよ、という気になって、尊大な声で、

「ウム、これへ来て掛けなさい」

と今まで花が坐っていた椅子を指した。諜報部長は後退りして、

「つがもない、どうしてそのようなことが」

「掛けたまえというのに」

部長はいよいよ身を固くして、

「手前らがどうしてそのような恐れ多いことが」

加十はやけっぱちになって、

「いいから、掛けろい」

部長は身をかがめながら進んで来て正しく椅子に掛けると、うやうやしげに加十の面を注視しながら、

「手前らがこの椅子を頂戴いたしますのは、しょせん、殿下の御命令に服従せんがためであります」

これもまた何か底深い陰謀なのに違いあるまい。皇帝附きの諜報部長が皇帝の顔を見知らぬ訳はないからである。加十の混乱に関らず、部長は感激の色をみなぎらせ、誠実そのもののような眼差しを加十の面に注ぎながら、

「ああ、ああ、何たる幸福ではありましょう。咫尺しせきの間に殿下の尊顔を拝しますることは、申そうに真実夢のようでありまする。このようなことはあまり御寛大にすぎると申上ぐべきでありましょう」

といってまた感激の声をあげ、

「ああ、なんたる凛々しい御尊顔。各戸の楯間に掲げらるる御肖像、また郵便切手などによりまして、もとより御風貌は熟知いたして居りまするが、それらは殿下をいよいよ剛毅に印象させんがため、殊更お顎に長き髯などを加え、申そうに、却って失礼な致し方という外はないのでござります。手前はすでに十年の間外務省に出社いたしておりまするが、殿下の御真顔を拝し奉るのにこれが最初でありまして」

成程、そういう訳であったのか。加十はたちまち図に乗って、

「よく見て置くがいい。写真よりはマシな筈だ。……それでどんな用事でやって来たのか」

部長は静かに立上って扉口の方に行き、充分廊下を見廻して戻って来ると、囁くような声で、

「御無礼仕りました。それと申すも重大なる密使を帯びて参ったからであります」

「言え」

「先月二五日以来、姫殿下並びに理事官長より再三御発信になりたる暗号電報に対し、殿下の御返電なきため、手前じきじき御返事を伺うようにとの御下命で、二十九日ハノイより旅客機を乗り継ぎ先刻到着いたしたのであります」

その暗号電報は確かに先程一通受取った。しかし、加十にどうしてそれが読み下せよう。せっぱ詰って、

「電報? そんなものは受取らん」

「おお、只の一通も。成程、李光明一派のやりそうなことでありまする。かりにこのような先明がありませんならば、しょせん、諜報部長の重大なる職責は果し得ぬでありましょう。手前らは早くもこのようなことと予察し、同文のものをここに持っておるのであります」

といって奥深いポケットから二通の電報を取出し、謹んで手渡ししようとする。加十はあわてて押戻し、

「うるさい。貴様、読め」

部長はかしこまり、

「……「大日本帝国、東京麹町区内山下町帝国ホテル内安南帝国皇帝宗竜王宛 安南帝国理事官長。……再三電報申上げし如く、皇甥李光明擁立派は、皇帝が「帝王ラジャー」を帯出せられたるは、安南独立資金をうるため、日本においてそれを売却せらるる意志なりと附会して安南政庁に密訴、すでに仏国安南総督は東京駐箚ちゅうさつ仏国大使に右に対する事実調査を電請せり。売却の事実判明せば、独立陰謀の故を以て即日退位を迫らんとする形成にあり。希くば秘宝を売却せらるる如きことなきよう切に懇願す」……もう一通は妃殿下の御発信でありまして……「当方大変な騒ぎですから至急御帰国下さい。いつお帰りになるか、お返事願います」……以上の通りであります」

といって加十の面を厳めしく注視し、

「最初に御秘宝の方の御返事を承りますでございます」

と居ずまいを正す。

さすがにすれっからしの加十も蒼白になる。出鱈目などをいって済ませるような問題とわけが違う。まかり間違えば五百六十万の民草を統治する一国の皇帝が退位を迫られんとする危機一髪の場合。根が愚直な田舎者のことだから、問題の大きさを感ずるとクワッと逆上してしまった。何とか返事をしなければならぬのだが、イエースと、ノオとも断じて迂濶に口は開かれぬ。いわんやこのような一国の機密を聞いた上で、悪かった勘弁してくれではすまされぬのである。この忠義一徹の部長の懐中ふところからどんな物騒なものが飛び出すか知れたもんじゃない。加十は胸先へ突き上げて来る一種形容し難い悪寒と戦慄で、嘔吐はきたいような気持になって来た。

部長は面もふらず、

「手前ら、殿下のお返事をお待ちいたしております」

加十の頭の中からスウッと血が退いて行くような気がする。ああ、眼の前の部長の顔がだんだんぼやけて行くのはどうしたというのであろう。

あたかもこの時、また扉をノックするものがある。支配人が入って来て、警視庁の真名古捜査課長がお目通りしたいといっていると告げる。加十はなかば錯乱状態で、

「うむ、返事は後廻しだ。私は真名古捜査課長と緊急の用談がある。退ってくれ」

部長は最敬礼をして退出する。例の如く真名古が陰気なようすで入って来る。扉口で注視の礼をすると、沈着な口調で、

「古市君、妙なところにいるナ」

と声をかけた。

十六、鳥黐に手をつく事   並に真名古の宣言の事

一方にこんな騒ぎが始まっている間、警保局ではこんな事件がもち上っていた。ちょうど真名古が花の家の玄関に突っ立って案内をこうているころ、時間でいえば十時十分ごろ、局長室の扉が劇しく引開けられ、警視総監を伴った大槻局長が怒気沖天の勢いで足音も荒々しく入って来た。額は打紐のような青筋を浮かべ、ムンズと皮張椅子に腰をおろすと、

「おい、総監、警視庁は交通整理をするだけが能じゃなかろう、何とかしてくれ」

喚き立てる。

局長が劇発するのも無理ではない。今年はどういう不運な年廻りか、元旦匇々皇帝の殺人事件が起り、その皇帝をあろう事か溜池署の巡査部長が繩を打って召捕ってしまう。両大臣と苦吟の末ようやく手順よく段取をつけたところ、自分の秘書官が真名古に調査を命じてしまう。万一真名古に真相の報告書を出され、それが議会で問題にされでもしたら、それこそえらい騒ぎが持ち上るのである。そこへ持って来て今度は悪徳新聞「夕陽」の幸田が、場所もあろうに警視庁も間近い日比谷公園で、恐れ気もなく堂々と野天詐欺かけながしを働くのをノメノメと眺めていたという。

局長はテーブルを叩き立て、

「ええ、どうしたんだ、ぼけたのか。あんなナメた真似をされるのを九時過ぎになるまで放っておくという法があるかい。一体保安部長は何をしていたんだ。二日酔で寝込んででもいたのか。君の組下にはえらい奴ばかりいるよ。あれだけの人数を繰り出して、今以てたった一人の幸田を掴まえることが出来んなんてえのは、まさに天下の珍事だア。ええ、何とかしてくれ、これじゃア警保局の面目は丸潰れだ」

総監は巨躯を屈かがめ、一分刈の丸い顱頂の上を暴風が吹き過ぎるのを待っていたが、大体もう頃合だと思ったか白皙な面をあげると、

「しかし、今日の件については私は充分に善処したつもりですが」

局長はまた猛り立って、

「なに、善処だと。面白い。聴こうじゃないか。どんなふうに善処した」

「殊更にあのような大胆な行為をしたのは、確かに噴水の鶴が鳴くと予告した時間前に解散させられるだろうと予想してやったことで、われわれが九時前に解散させると、ウマウマと幸田の策略に乗ることになるからです。私が故意に解散を遅らせたのは、詐欺行為を遂行させて退っ引ならぬ証拠を押えてやろうと思ったからです。果して幸田はせっぱ詰って鶴を鳴かせましたが、これで幸田もあがきがとれぬようになった訳で、そのカラクリはどんなものか調べるとすぐ判ることだから、今度こそはギュウともいわせずに喰らい込ましてやります」

局長はそっくり返って難かしい顔をしていたが、これを聞くとたちまち恵比須顔になって、

「畜生、そんなつもりだったのか。おお、そうか。それはうまくやってくれた。その策略に乗らなかったのはさすがだ。いや、感服する感服する。それで幸田は」

総監もさすがに可笑しくなったと見え、品のいい唇をほころばし、

「警視庁は交通整理をするばかりが能じゃありませんよ、局長。……幸田の野郎が赤坂の妾のところに潜伏しているのを突止めたという報告がさっき来ましたから、今ごろはもう溜池署の豚箱に放り込まれた頃でしょう」

といっているところへ電話のベルが鳴る。総監が受話器を取上げて応対していたが、すぐ局長の方へ振返り、

「幸田は挙げられましたが、あなたに逢わせろといって暴れて手に負えぬそうです」

局長はまたクワッと嚇怒し、

「なになに、俺に逢いたいと! よし、逢ってやる。大目に見ていればいい気になって、今度こそあの赤新聞の息の根を止めてやる、すぐ、直ぐ、直ぐ連れて来いといってくれたまえ」

十分ほどすると幸田は二人の私服に腕をとられて入って来た。だいぶ暴れたと見えて、ネクタイはなくなりワイシャツのボタンが飛んで、酒焼けした赤い胸を出している。

幸田がモーニングの裾を払って椅子に掛けるのを、局長は一種痛快そうな面持で眺めやりながら、

「おい、幸田君、猿も木から落ちるさ。芝居は大きかったが幕切れはまずかったな。君もまさか詐欺で喰い込もうとは思わなかったろう。今度は恐喝よりはちっとばかり手強いぜ。なア、幸田君。なぜわれわれが解散させずに見ていたか知ってるかね。要するに君のペテンに乗らないためサ。君の詐欺の実証を握るためサ。あの噴水を調べて見れァどんなカラクリを仕込んだかすぐ判る。今度こそ否応なしだ」

幸田は、あはは、と笑って、

「その通り。詐欺か詐欺でないか、調べればすぐ判る。そんな事でこの幸田を凹まそうとしたッてそれぁ無理だァ。……ねえ、局長。それァそうと、ここにこんなものがあるんだがねえ」

といながら「といながら」はママ鉛筆で走り書をした七八枚のザラ紙の束をテーブルの上へ投げ出した。局長はハット顔色を変えて、それを手に取って読みかけるのを幸田は尻眼にかけ、

「松谷鶴子と安南王の馴染めから、皇帝の殺しの件、警視庁が有明荘の止宿人を便宜拘束した条くだりまで精しく書いてある」

局長は顔を紫色に黝くろずませ、大喝一声、

「幸田、貴様、俺を強請ゆする気か!」

幸田は手を伸してテーブルの上の原稿をさらえ込み、

「局長、それァすこし口が過ぎるだろう。幸田節三これでも日本人だァ、この一件をスッパ抜いて日本のためになるかならねえかぐらいのこたァちゃんと心得ている。それだからこそこうして神妙にネタを投げ出している。……それを、強請?」

ポケットへ原稿を捻じ込んで立上り、

「それじゃァ立つ瀬がねえ、これァ器用に引込めます」

といって扉口の方へ歩き出す。

局長はあわてて呼び止め、

「まア、待ちたまえ、幸田君」

幸田は嫌々そうに振向いて、

「まだ、何か御用ですか」

局長はハンカチで額の汗を拭いながら、

「何のことだかよく嚥み込めぬが、いずれ改めてその話はすることして、今日はひとつ器用に引取ってくれないか」

「ええ、これからまた溜池署へ引取ります」

局長は嫌な顔をして、

「まア、そう拗ねんでもいいじゃないか。今日中には挨拶に行く」

幸田はツカツカと戻って来て、

「局長、なぜ最初はなっからそういうふうに話が判らねえんだ。あなたは何でも色眼鏡で見ようとするからいかん。只今の件は心配せんでいいです。幸田はこれでも男です」

嘘か本当か知らないが、こんなことをいって悠々と出て行った。

局長は歯軋りしながら後ろ姿を睨みつけていたが、無念骨髄といった面持で総監と顔と「顔と」はママ見合せ、

「畜生、どこまでもどこまでも。……しかし、これァ弱った。撰りに選んであいつに握られるとは。あの毒虫のことだ、何をやり出すか知れたもんじゃァない、君どうする」

「つまり交換条件でしょう。まさかやるまいと思いますが、やれァ自分の身体に火がつくから」

「まさか、やるまい。そんなあやふやなことで放って置けるか、この大事件を。仕様がない、林でもやって何とか押えさせてやろう」

ちょうどそこへ林謹直から電話が掛って来た。局長は受話器を取上げて耳に当てていたがたちまち椅子から跳上り、

「何だと、皇帝が偽せ者だと! ……それは確かなのか、確かに見届けたのか。……おお、これはしたり。……して、それは一体何者だ。……いや、そこでそんな事をいってたって仕様がない。すぐこっちへ来てくれ。すぐすぐ」

と受話器を掛けると、うむ、と呻うめいて頭を抱えてしまった。

ものの五分と経たぬうちに林があわてふためいて駆込んで来てくわしくその次第を話す。

局長は聞き終って、

「すると、そもそもの間違いは有明荘から始まったのだナ。それにしてもなぜ自分は皇帝でないと申立てんのだろう。そいつは馬鹿か気狂いか、さもなくば皇帝の連累か」

総監もすこし急き込んで、

「どうも、帰するとわれわれの失態なのですが。……では目立たぬように持って来て取調べて見ましょう。何といってもその方が手ッ取り早いから」

局長は脅えたような眼をして、

「待ってくれたまえ。もし、高貴な方ででもあったらどうする。この上めんどうを起すのはかんべんしてくれ」

林は二人の会議もオチオチ耳に入らぬような不安な面持で、

「局長、そんな青二才のことはどうだっていい。それより皇帝はどうなったんだろう、皇帝は。まさか何か」

局長は手を振り、

「林君、詰らん事をいい出してくれるナ。しかし、万一そんな事があったら一大事だ」

と総監に向い、

「君、ホテルに電話を掛けて、皇帝は前日まで確かにホテルにおられたか聞合わしてくれたまえ」

早速ホテルに電話を掛けて見ると、皇帝は、前日すなわち十二月卅一日午後七時ごろ夕食を摂られ、九時過ぎに、御外出になったという返事。皇帝の立寄られそうなところへ落ちなく電話を掛けさせたが、どこからも色よい返事はなかった。そのうちに林は局長に意を含められて幸田の家へ出掛けて行く。あとには局長と総監が顔を見合わしては、弱った弱ったを繰返すばかり。智慧のない話のようだが、加十の身分が判らないのだから迂濶に手が出せぬ。そんなことをしているうちに二時半にもなる。考えあぐねているところへ真名古が入って来た。

真名古は局長の前まで進んで来て、懐中から一通の書類を取出すと、むしろ無情とも見える面持でそれをテーブルの上へ差置き、

「取調べの結果、松谷鶴子は自殺したという事実が明瞭になりました。これがその調査報告書でございます」

というと、廻れ右をして扉口の方へ歩き出す。局長は呼びとめ、

「それはいいが、まア、そこへ掛けてくれ。どうも困った事が起きた」

といって只今の一件を話し、

「何とかしてその男の身分を探りたいのだが、何とかいい智慧はないか、なア、真名古君」

真名古はジロリと局長の面を見上げると、

「局長、それは単なる相談ですか、それとも命令ですか」

局長は呆気にとられて真名古の面を眺めるばかり。真名古は一揖し、

「私は仔細あって捜査課長の職を辞する決心ですが、まだ辞職願がお手元に届きません以上、官吏執務規律にある通り、命令とあるならばいかなる命令にも服従致しましょうが、たとえ局長であろうと、あなたの相談などに耳を藉している暇はありません」

局長は額を撫で、

「いや、何しろ、早急なことだったもんでこちらにも手落ちがあったが、まア、腹を立ててくれては困る。それはまた後で何するとして、今の件を一つたのむ」

真名古は陰々たる声で、

「御命令願います」

局長はいささかムッとしたようすで、

「そうか、では、命令する。まア、掛けなさい、立っていないで」

真名古はうっそりと椅子に掛けると、

「お申付けの調査は内訓の通りに只今果しました。しかし、私は捜査課長の椅子に在る以上、職責上目前の犯罪を看過することが出来ませんから、自発的にこの事件を充分に調査いたしました。御認承願います」

今まで黙然と腕組みをしていた総監は唐突に口を開き、

「認める認めんもないじゃないか。やってしまった事を今更何といって見たって仕様がない。……君はあまり角を立てすぎるよ。我々はその直情を恐れたので、それでこの事件から君を疎外した。君を軽視したからじゃない、畏敬したからなんだ。釈然としてくれたまえ」

真名古は依然として眼を伏せたまま、

「そんなことで釈然とするくらいなら職をなげうとうなどと決心する筈はありませぬ。私は先刻辞職願を投函いたしましたから、遅くも明朝までにはお手元に届くことだろうと思いますが、いささか考える次第がありますから保留して頂きます」

局長は引き取って、

「よく判った。君はハッキリさせたいのだろうから、君の辞職願は一旦受取った上保留して置くことにする。……それはそれとしてこれで話が判ったのだから、今朝のことは水に流して、改めてわれわれに協力してくれたまえ」

「お言葉ですが、話など判りません。辞職する決心は変っておらぬのです。私が暫く辞職を保留するのは私一個の意志によることで、あなたの御訓戒には関係のないことです。……私はこの事件に対する政府の方針に不満を感じ、捜査課長の職ととりかえに必ず皇帝を殺人犯人として告発して見せる決心でしたが、調査の結果測らずもその目的を失うことになったからです。……皇帝は加害者ではありません、被害者です。……皇帝は今朝四時半ごろ、何者かによって誘拐されました」

局長は飛上って、

「えッ、そ、それは本当か」

「従って、この事に関する限り私の辞職は」

総監は焦立って、

「判った判った、それはいいから、先にその事情を知らせてくれたまえ」

真名古は湿った調子で仔細に調査の次第を述べる。洋服屋に行ったことだけは省いて、花の訊問と現場の実情、加十から聞いた前夜の実況、なぜ加十が皇帝になりすましてホテルにいたか、その目的と危機一髪の窮状に至るまで残りなく物語る。

総監は局長と慴然しょうぜんと眼を見合わせていたが、真名古の方に向き直ると、

「すると、つまりこうなんだな。皇帝はどういう目的か皇帝の秘宝を所持して日本に来られた。そのダイヤモンドがこの事件の枢軸をなしているので、鶴子の殺害事件も皇帝の誘拐事件も、みなそのダイヤモンドを奪う目的で行なわれたものだと思う外はない。要約すると、古市加十が有明荘を出ると間もなく、何者かがやって来て、どういう理由からか鶴子を窓から投げ落した上、料理場から皇帝をおびき出して階段の下で皇帝の意識を失わせ、それから、どこかへ連れ去った。鶴子が決して叫び声をあげなかった点、皇帝が易々と連れ出された点、また玄関の電鈴処置につづく外線の一本を切断して鍵を作り、必要のある時はいつでも外せるようにしてあったという点などから考え合わせると、犯人は皇帝をも鶴子をも熟知し、有明荘の地理にも充分通じていた者だということが判るから、犯人捜索の目標はこの辺に置いて間違いないように思う。そうだろうナ、真名古君」

「はっきりした事は申しあげられませんです」

この時電話のベルが鳴る。

総監は受話器を取って聞いていたが、送話口を手を蔽って局長の方へ振返り、

「局長、また厄介なことが出来ました。……外務省からの電話で、皇帝は安全確実に帝国ホテルにいられるかどうかとフランス大使館から念を押して来たが、いられると答えて差支えはないかと問合わして来ました」

局長は、ああ、これァどうも重ね重ね、と独語しながら額をおさえて呻吟していたが、やがて決然と面をあげると、

「皇帝は安全確実にホテルにいられると答えて差支えないといってくれたまえ」

総監はそういって電話を切る。局長は一種凛然たる調子で、

「そういうより仕様がないじゃないか、失跡中だなんていわれるか。この事実が世間へ洩れたらそれこそ一大事だ。とにかく風評を防ぐためにも、皇帝が確実にホテルにいられるように見せかけることが絶対に必要だから、皇帝を発見するまで、その古市という男を今まで通り皇帝にして置く外はない。どんな奇策を講じても押し通さなくてはならん。万一の場合はその諜報部長に証明させれば、皇帝を発見するまでの間なんとか繋げると思う。こうなった上は政府の全機能を上げて古市を皇帝として守りたて、断じてボロを出さぬように万全の策を講じなくてはならん。取敢えず最も緊急を要するのはダイヤモンドに対する返事だが、何か出鱈目なことをいって尻を割ってくれなければいいが。ともかく、これからホテルへ行って」

真名古は静かに面をあげ、

「諜報部長は私が連れて来て警視庁の内部を参観させてあります」

局長は心から嬉しそうに手を打ち合せ、

「天晴れだ。よくやってくれた。では、総監、ひとつその男を引っ張って置いてくれ。その間に俺は大臣にこの件を報告し、それからホテルへ行って古市に、いや、皇帝に逢って、いっていいことと悪いことをそれとなく納得させてくる。……真名古君、君はひとつ奮発して、一刻も早く皇帝を発見してくれたまえ。どうか頼む。今までとはまるっきり事情が違ってしまったものだから」

といって出て行こうとするところへまた電話。総監は取ついで、

「外務省からです。……フランス大使が週末旅行を中止して、今日の午後四時十分の汽車で京都を出発し、明朝午前四時に東京駅へ着くと、駅からすぐホテルに伺候して何か重大進言をするという情報が入ったから、ちょっとお報せする、というのです」

総監の面も早や蒼白になっている。壁上の電気時計を見上げると正に午前「午前」はママ四時。明日の午前四時までにたった十二時間しかない。

局長は部屋の真ん中に突っ立ってジッと首を垂れていたが、やがて真名古の傍へ進み寄ると、何とも形容の出来ぬ凄然たる声で、一言、

「真名古君!」

といった。真名古は微かに頷いた。

明日の午前四時までにどんな事があっても皇帝をホテルへ帰して置かねばならぬ。ああ、十二時間!

第六回

十七、蛇の道は蛇の事   並に二悪人感違いの事

赤坂新町なる「夕陽新聞」幸田節三の妾宅。茶の間の長火鉢に烏賊鍋いかなべかなんかをひっかけて独り泡盛の盃を舐めている、四十五六の痩せた、見るからに険相な人物はすでに各位辱知の酒月守である。

公園園丁長などは世を忍ぶ仮り姿で、ひと皮剥げば樺太庁警察部の要視察人。さんざ本州を喰いつめた末樺太へ押し渡って空拳師になり、血眼の利権屋の上前を刎ねて甘い汁を吸っていたが、昭和五年の官有林盗伐事件に引っかかり、アワヤというところを危うく体を躱して東京へ逃げ戻り、こんな姿でホトボリをさましているうち、娘の悦子が取りもつ縁となって幸田に結びつき、そこで書き下したのが例の「唄う鶴の噴水」の一曲。

鳴く筈もない青銅ブロンズの鶴が鳴いたのにはいずれ何か深い仔細のあることであろうが、それは天に誓って酒月、幸田の与り知らぬところである。といったところで、警視庁に眼と鼻の日比谷公園で図太い野天詐欺を働いて、これがただですむわけはなく、刑事に追われて死物狂いに逃げ廻り、ようやくこの巣まで落ち延びたものの、さすがの幸田もすでに危うく見えた。

すると、天は悪党の肩を持つのか、ふと聞き込んだ安南皇帝の愛妾松谷鶴子の自殺事件。あたかもその座に鶴子の家の通い婆のとめがいて、鶴子さんは日ごろ殺される殺されるなんて口走っていたっけが、それじゃア、てっきり、などとうがったようなことをいった。そこへまた有明荘住人の一人、「ホヴァス」通信社のハッチソンが、「カーマス・ショオ」の団長なる相棒のバロンセリを尋ねてやって来て、今朝有明荘六人の住人が全部明石署へ便宜拘束された次第を物語る。

悪事にかけてはカンのいい連中のことだから、これだけの材料で逸早く事件の本態を洞察みとおし、大体こんなところだろうと、「安南皇帝の殺人! 当局隠祕に狂奔」という標題で察しのいいところをザラ紙の原稿紙に十枚ほど書き上げたところへ、幸田、ちょっと来い、で溜池署へ連行される。とどのつまりその原稿を警保局長の一覧に供すると、何が何だかウヤムヤのうちに無事釈放ということに相成った。この辺の微妙な経緯についてはすでに前回で述べたから、ここで繰り返す必要はあるまい。

酒月の娘、すなわち幸田の愛妾悦子はとめ婆を連れて今日初日の「カーマス・ショオ」の見物に出掛け、酒月は自然に留守居の形になってここに坐り込んでいるんだが、それにしても幸田が出かけてからもう五時間になる。酒も飽き、どうにも手持無沙汰になって柱時計ばかり見上げているところへ、四時間近くになってようよう幸田が帰って来た。前後の関係からいうと、皇帝誘拐の真名古の報告とともにフランス大使が明朝午前四時に皇帝謁見に赴くという情報で、警保局が愕然と色を失ったその時刻に当たるのである。

酒月は癇癪を起したような声で、

「遅かったじゃないか、どうした」

ときめつける。幸田は地響きを立てて長火鉢の前へ胡坐をかきながら、

「警保局から社へ廻って新聞の大組みをしていると、志摩徳の家来の、例の東京貴石倶楽部の松沢がやって来てナ、それで今まで話し込んでいたんだア」

「ひとの気も知らねえで。……で、どうなんだ一件の方は」

幸田は事もなげに、

「お土砂お土砂、グウの音も立てずサ」

といい放すと急に膝を乗出し、

「それはそうと、また妙な話があるんだ。……急ぐからかいつまんで話すが、去年の春ごろ、関西に何か大きな出物があって大阪貴石倶楽部の大所がだいぶ動いているという噂がチョイチョイ耳に入った。関東筋でも躍起になって探りを入れたんだが、そのうちにバッタリ評判を聞かなくなったから、流言蜚語ひごだったんだろうで済んでしまった。……ところが、今日の二時ごろ、真名古が松沢の店へ三百カラットもあろうというちょっと風変りなダイヤモンドの模型を持って来て、これと同じ模造品イミテーションが欲しいの、本物ならどのくらいするかのと何気ない体で調査ききこみをして行った。松沢は海千山千だ、そこに抜目のあろう筈はない。チラリと奥の部屋から睨んだ模型を手懸りにその方の番附を繰って見ると……、おい、驚いちゃいけない、それァ安南皇室の秘宝で「帝王ラジャー」という大金剛石なんだ。捨売りにしても五千万両。……どうだ」

「成程」

「皇帝がなんのためにこう気忙しく度々日本へやって来るか、これですっかり謎がとけた。鶴子と二人で京都の山科に巣籠っていたのは、関西でそのダイヤモンドを捌くつもりだったんだが、そちらでは話が纒まらず、それで、今度は東京へやって来た」

「フム、面白いナ」

幸田はグッと泡盛を呻りつけ、

「そこで松沢は血相を変えて、それからそれと筋を手繰って見たんだが、大手筋にも小手筋にもてんでそんな気振はない。ひょっとすると正当筋すぢ違いに動いているのかとその方へ探りかけてみると、例の珊瑚王の山木の伜が、犬居仁平の養子の印東忠介とツルんで、最近しきりに犬居のところへ出入しているという噂をチラリと聞き込んだから、疝気のすじはこの筋と、これで何もかも一遍に判ってしまった。何しろ、山木も印東も有明荘の住人で、むかし、巴里で皇帝と駄々羅遊び……」

「くどい。それで、結局どうしようというのだ」

「何しろ、大物すぎてさすがの松沢にも手が出せねえ。早速志摩徳のところへ持ち込むと、志摩徳はひどく乗気になって、どうでもこっちへ引ッたくってしまおうという事になった」

「引ッたくり方にもいろいろある。どんな風にして引ッたくるつもりだ」

「印東をこッちへ引き寄せて山木の水の手を切って置き、あいつの借用証書を買い集めて強制執行をかけ、厭なら実力接収と脅かして二束三文に叩いてしまおうてえのだ」

「それで、現物ものはどこに蔵い込んであるのか判っているのか。それがはっきり判っていなけァその芸当は出来ねえぜ」

「それだ。……多分印東もそこまでは知るまい。その辺の消息は誰よりも鶴子が通じていた筈なんだが、死人に口なしでこいつばかりはどうも」

酒月は顔をあげ、

「とめ婆の話では、鶴子は崖下の素人屋しもたやにいる花という縫子おはりにいつもしみじみ身上話をしていたといったナ。……ひとつその娘あまッ子こを叩いて見るか」

幸田は乗出して、

「それァいい。何かまたひょんな話があるかも知れねえ。……じゃ、俺は印東の方を引受けるから、お前は悦子に娘ッ子をおびき出させ、そいつを連れて七時までに「中洲」へ来てくれ」

酒月はうっそりと懐手をして何か思案していたが、急に眼差を鋭くして、

「それァそうと、この分じゃどうせ王様も無事じゃないな」

「えッ」

「ひょっとすると、もう殺やられてる」

幸田は急き込んで、

「ど、どうして、でも、さっきハッチの野郎が確かめたそうだぜ」

「踏ん込んで行って面でも見たのか」

「電話で聞き合わせると無事にホテルに」

酒月はそっぽを向いて、

「何を馬鹿ナ。王様が無事なら真名古がダイヤモンドの模型などを持って走り廻るわけはないじゃないか」

「うむ」

「だいいち、そんな馬鹿なものを持ち廻るなんて、真名古ともあろうものが少しうろたえすぎると思わねえか。盗まれたというだけならおおびらに品触を廻すだろう。それをせずにソワソワしているところを見ると、何か必ず曰くがあるのだ。……所詮、無事じゃねえの」

幸田は顎を突出して、

「すると、山木か?」

「さあ、な」

「百万からの借金で二進にっちも三進さっちも行かねえとなりゃ、こりゃァやり兼ねないもんでもない」

酒月は、ふいと顔をあげ、

「ところが、そうとばかりいえない訳がある。妙なことを思い出した。……実はさっき、お前が出て行ってから、日比谷の会へ安亀が騒ぎに来たことを何気なくハッチに話すと、野郎いきなり立上って、混血児あいのこめ、そんなつもりならキングだけじゃァ済まねえぞ、とかなんとか吐かしながら、まるで半狂人のようになって飛び出して行った。……キングてえのは王様のことだろう。……混血児てえのは相棒のバロンセリのことだから、して見ると、こッちにも何かの綾がある。ハッチソンもバロンセリも何かと一と役買っているのに違えねえ。……そういえば、ハッチの野郎、いやに落着いてると思ったよ。本来なら、大事件々々々で駆けずり廻っていなけァならねえ筈なのに、こんなところでシャアシャアしていたところを見ると、あいつァ、はなッから王様が殺したんじゃねえことを知りながらすッ恍けていやがったんだ、畜生」

幸田は、成程、とかなんとか合槌を打ちながら妙な顔をしていたが、突然横手を拍って、

「読めたッ!」と膝を乗出し、「おい、酒月、お前気がつかなかったか。池の、四阿あずまやの傍に、縮れッ毛の、眼のキョロリとした、色の浅黒い、立派なみなりをした安南人が突ッ立っていたろう。……あれが王様だったんだア」

酒月も息をひいて、

「すると、騒ぎを引起して置いて、あのドサクサにやった仕事か」

さすがの二悪人も言葉もなく茫然と面を見合わすばかりだったが、やがて酒月は腕を組み、

「野毛山がやったてえのは面白えの。これでまたひと桁はね上って来た。志摩徳の方はそれとして、こいつもついでにモノにするか。道灌山に売り込めァいい顔になるぜ」

幸田は潔いさぎよく頷いて、

「よかろう。どう転んだって怪我はねえ。いけなきゃア、また、お土砂よ。今度なら先口よりも一段と灼いやちこだァ、驚くもんかい。……幸田節三、どうやら有卦うけに入ったな。じゃ、出かけるか」

といってニヤリと笑った。

笑うのは勝手だがこれは見当違いなんだ。読者諸君は御存知でしょう、池の畔に真名古と並んでアッケラカンと口を開いて突ッ立っていたのは王様ではない。偽皇帝古市加十を脅かした安南皇帝附き諜報部長宋秀陳だったのである。本当の皇帝は午前四時三十分ごろ何者かに誘拐されたとすでに真名古が証明している。すると、野毛山の一派は一体何のために「唄う鶴の噴水」の会場へ騒ぎに来たのだろう。それは賢明なる読者諸君の御推察に任せることとして、見受けるところこの二悪人は、そんなこととは知らずに又しても何か悪企みをするつもりと見えるが、こうなればもう作者の手に負えぬ。それによってまたどんな波瀾が巻き起されるか知らぬが、しょせん成行に任すほかはないのであろう。

二人がひどく弾みながら玄関の三畳まで出て来た途端、ガラリと格子戸が開く。幸田は三畳の入口に突っ立ったまま、ギョッとしたようすで酒月と眼を見合わせていたが、急に身を飜えして茶の間へ駆け込むと、二十日鼠のようにチョロリと勝手口へ。

入って来たのは刑事ではなかった。第三回、日比谷公園の傍で林の自動車を待ち受け、いま野毛山の安亀が公園で騒いでいると気遣わし気に耳打ちした道灌山の養子、例の駒形の伝次。林謹直の命を受け、二千円という金を懐中にして、「皇帝殺人」の件を伏せに来たのである。

小粋なモーニングに山高帽。一文字眉の、眼差の鋭い勇肌いなせな哥兄あにい。玄関の障子をガラリと引き開け、勝手へ駆け込む幸田の後ろ姿を見ると、

「ちッ、ケチな古狸だ」

と呟いた。

十八、会議は跳る事   並に皇帝の設計の事

これと同じころ、時間でいえばちょうど午後五時ごろ、永田町内相官邸では内務外務両大臣、各次官、欧亜局長、警保局長の六人が会議室の大テーブルを囲んで苦慮心痛の体である。いずれも金ピカの大礼服をつけ、眉間に皺を寄せて無言のままに凝り固まっているようすというものは、さながら「政府の心配」とでも題した諷刺画のよう。西側の大きな窓から問題の有明荘の灯影が一つ二つ樹の間を通して仄見えるのは、この際背景としてまことに適切、まさに画竜点睛の趣きがあるのである。日ごろでさえも浮世の風があまり露骨には吹きつけぬ界隈。まして一月元日の夕景ともなるなれば四辺闃げきとして鎮まりかえり、聞こえるものはセコンドを刻む振子の音ばかり。

こういう凝体が永久につづくかと思われたころ、突然画面の均勢を破って内務大臣が身動きし出した。困却したような眼差でグルリと一座を見廻すと、嘆息もろともに、

「えらいことになった」

と圧しだすように言った。欧亜局長は面をあげ、

「私は皇帝の親日的態度というのがどうも曲物だと思っていたのです。……御承知でもありましょうが、明治四十一年に日仏条約が締結されると、日本政府は当時日本へ亡命していた安南独立運動の志士潘是漢と安南王族畿外侯彊柢きょうていを無情にも国外へ追い出してしまった。それで潘是漢はたちまちフランス官憲に捕えられ、彊柢はわずかに身をもってアメリカへ逃れる。このトバッチリを喰って、皇帝の父君、すなわち第十一世維新王は十七歳の時に廃位されて南印度洋の孤島レユニオン島へ流謫され、今もって街頭でヴァイオリンの流し弾きをして、ようやく露命をつないでいるという惨状なんです。こういうわけだから、皇帝としてはどうしたって日本に好感を持たれる筈がない。皇帝の今までの親日的なポーズというのは、要するに秘宝を日本へ売却に来られるためのカモフラアジュだったのですな。……それにしても、ずいぶん向う見ずなことをされたもんです。もしこれが発覚すると、フランス政庁に非常に都合のいい口実を与え、革命資金獲得なんて名目で即日退位を迫られることになるのは判り切った話なんだが」

内務次官は口を挾み、

「皇帝は一体何のためにそんな危険を冒されるのかね」

「さあ、私にも何とも。……越南国民革命党にしろ安南独立党にしろ、安南における独立運動というのは完全に惰性状態に入ってしまって、今さら活力アクチビテを与えたところがどうにもならないほど弛緩しているのですから、どうもその方の関係だとは考えられんのですな。思うに、皇帝は退位を見越して、それを売ってアメリカへでも蒙塵されるつもりではないのですか」

外務次官は苦り切った顔で、

「いずれにしても、そんなことは当座の問題じゃない。われわれとしては、明朝フランス大使が拝謁に行く時間までに、皇帝をホテルへ帰して置いてさえ貰えばそれで文句はないのだ」

といって警保局長の方へ正面を切り、

「どうだね、大槻君、大丈夫発見出来るかね。ひとつ、はっきりしたところを聞かせてくれたまえ。……外務としてはどんなことがあってもこの上の面倒はごめんだぜ。……一体どうしたんだ。今朝からの騒ぎはみな君らの失態から起ったことなんだぞ。それに、今きけば、僕が念を押した時、もう皇帝が偽者だということが判っていたそうだが、その時なぜちょっと耳打ちしてくれなかったんだ。それさえしてくれたら、その辺を多少曖昧にして置く事も出来たんだ。これじゃそっちの縮尻をみな外務で背負い込むような形になってあがきがとれなくなった。……どうも独断的でいかんよ。こんな問題を外務に相談もなしにどんどんやられたら耐ったもんじゃありやしない」

内務次官は顔を顰めて、

「文句はあとで聴くから、警保局長の提案に対する意見を先に聞かせてくれ」

外務次官は膨れっ面をして、

「いまいうところだ。……外務としては、そんな馬鹿馬鹿しい事を承認出来んというのが返事だ。一介の雑報記者ずれを皇帝の換玉にして一時を糊塗しようなんて、あまり窮してるじゃないか。皇帝を誤認するさえ恥ッさらしなのに、その上、また」

内務次官は鋭く遮って、

「恥ッさらしならそっちも同様さ。君が偽皇帝にさんざ敬意を表して引き退って来たなんてのもやはり恥ッさらしの部類だ。お互いに皇帝の顔は知らんのだから、そんなことを今さらいい合って見たって仕様がない。……じゃア、外務では皇帝が誘拐されたと発表しても差支えないというのだな」

外務次官は咳込んで、

「ば、馬鹿な事をいうな、そんな事を発表されてたまるか。外務としてはだな、そんな危ッかしい陰謀アントリグに加担するのは御免だというのだ。発覚して見給え、どうにも抜きさしのならんことになる。むしろ逆に、その古市という馬鹿野郎を拘引して誠意に事を運んだ方が、結局最後の勝利だと思うんだ。皇帝誤認のいい訳だけでも立つというもんだからな」

警保局長はひらき直って、

「お言葉ですが、いま古市加十を拘引して見たって、皇帝失踪の事実を明るみへ出すだけで、誤認の失態がそれで帳消しになるわけではありません。……皇帝が昨夜から帰らんという事になればフランス大使館も黙っていないでしょうし、そんな事からパッと皇帝誘拐の風評が立つようなことになれば、それこそ収拾のつかぬ事になります。政府の体面上はもちろん、捜査の簡捷徹底を期するためにも、皇帝を発見するまでは、どんな事があっても皇帝は安全確実にホテルにおられなくてはならぬのです。……聞き違いもあったようですが、私は換玉を作ろうなどと申した覚えはありません。どうせ五十歩百歩なら、もう暫くのあいだ今まで通りに誤認を続けたいと申しあげたつもりなのですが」

今まで黙然と腕組みをしていた外務大臣は、この時唐突に口を開き、

「その男は皇帝によく似ているのかね」

警保局長は首を振り、

「それが一向似ておらんのです」

外務大臣は苦笑して、

「その点われわれにとって弁明的エクスキュウザブルだが、しかし、どんな風にして抑えつけておくつもりだね。俺は王様じゃないなんて自分からいい出さんとも限らんじゃないか」

「そんなことをいったら自分がひどい目に逢うから、万一にも口走る気遣いはありません。もっとも、私からその点を充分に暗示してやるつもりですが」

外務次官は口を尖らして、

「しかし、さっき真名古に本性を視破られたのだろう。やけッぱちになって、今ごろ何を仕出かしているか知れたもんじゃないぜ」

「皇帝は少々錯乱の気味でいられるから、お呼びになっても絶対に取合わぬようにと、先刻電話でホテルの支配人に申渡して置きました」

「逃げ出す心配はないのかね」

「安全確実に保護してあります」

これでまた一座黙然となる。

警保局長は焦立たしそうに時計を見上げながら、

「それで、例の安南の諜報部長ですが、この御相談をするあいだ警視庁へ引きとめて饗応してありますが、そういつまでも引ッぱっては置けません。宋部長がホテルへ帰ると、早速また古市に御帰国の日取や秘宝の返事を迫るでしょうが、その馬鹿野郎にどうせ満足な返事の出来る筈はないのですから、たちまち化の皮を剥されるにきまっています。今のところ、その男が、万一の場合に加十を皇帝だと証言してくれる唯一の有力な証人なのですが、その者が先に立って騒ぎ出すようなことになったら、それこそただでは治まりません」

内務大臣は汗を拭いながら、

「莫迦莫迦しくて話にならんが、なにしろ危急の場合だからひとつ権道を行くか」

といって外務大臣の方へ振向き、

「この上、そういう騒ぎになったらもう防ぎ切れん。いささか常経に反するが、どうか君の方も協力してくれたまえ」

外務大臣は忌々しそうな面持で、

「そんな風に事情が切迫しているなら、そうでもして一時を糊塗するより仕様がなかろう」

といって欧亜局長に、

「柳原君、君は警保局長と一緒に帝国ホテルへ行って、その雑報記者に手ッ取早いところ安南の知識を詰め込んでやってくれ給え。せめて首府の名ぐらい知ってなくては不都合だ」

内務大臣は覚束なそうに腰を浮かしながら、警保局長に、

「じゃア、万事よろしく頼む。兎も角、感づかせるようなことをして貰っては困るぜ。その方だけは充分慎重にやってくれ給え。……それから、忘れずに金を持って行け。赤新聞の雑報記者なぞ、どうせ文無しにきまっているから。……いやいや、そんな事より、ウロウロせずに早く寝てしまえ、と暗示してくれ」

というと、頭を抱えて机に俯伏し、

「ああ、それにしても、どうしてそんな馬鹿野郎が飛び込んで来たものか」

十九、加十、愚考する事   並に黒髯風に靡く事

こんな工合に盛んに好評を博している当の古市加十は、例によって帝国ホテルの貴賓用の豪奢な一室にたぐまっているが、見受けるところ、さっきまでの横着な面構えはなく、手に夕刊を持ったまま安楽椅子の中に沈み込み、唇をへの字なりに引き曲げて、

「夢だ、幻だ」

と呟いているのである。

これだけでは雲を掴むようで、何のことやらお判りになるまいから、この間の事情を伝えるために、その後の古市と真名古警視のいきさつを述べて置こう。

前回、この章は、古市が安南国皇帝附き諜報部長の膝詰談判にあってまさに危機一髪という時、真名古がうっそりと入って来て、「夕陽新聞の古市君だね、妙なところにいるじゃないか」と喝破するところで終りになっていた。

さて、加十は真名古の来訪を告げられるのをキッカケに一時逃れに窮地を脱して置いて、真名古が喝破するより早く外庭に面した窓の方へ駆け寄ってむさんに逃げ出そうとした。

どんな不敵な悪党でも真名古の名を聞いたら、これと同じ衝動を感ずるに違いない。真名古の酷烈さは実に恐るべきもので、どんな隠微な犯罪も見逃しはせぬ。喰いついたら離さぬ。悪女の妄報といえどもこうまで執念深くはあるまい。ヴィニイの小説に北極まで犯人を追い込んで行く刑事の話があるが、どうして! 真名古なら地獄へまでも喰い下って行くだろう。この辛辣な追求に逢ったら、いかなる達人もその手から逃れおわすことは出来ぬのである。

加十はまだ駆出しの雑報記者だが、日ごろ警視庁に出入するから真名古の恐ろしいことはよく知っている。本気で逃げるつもりだったのか、それとも一種の姿勢反射なのか、半ば狂乱の有様で窓を押上げたが、真名古の眼の前でこんなことをするなんて、誰にいわしたって所詮無駄なあがきなのである。

真名古は電光の如くに駆け寄って来ると、この骨皮筋右衛門もんのどこからこんな力が来るのかと思われるようなえらい力で、ガッシリと加十の手首を掴まえた。万力に挾まれたってこうまで骨身に徹えまい。もう観念するより仕方がない。何しろ痛くてたまらぬのである。加十は皮椅子の上に引据えられ、真名古は深々と安楽椅子の中に沈み込んだ。たちまち主客顛倒してしまったがこれも止むを得ない。加十はもはや王様でも何でもない、一個の刑事被告人に過ぎぬのである。

そこで訊問が、というよりは加十の告白が始まった。真名古の方は例によって半眼に眼を伏せ、陰気に聞き流しているだけである。

東京会館の忘年会を飛び出して「巴里」で皇帝に逢い、相携えて銀座裏を飲み歩き、三時近くに有明荘へ赴いて鶴子と三人で夜食をした件、天から鶴子が降って来た件、皇帝の非凡な言動、並びに寝室から雲霧消散してしまった件、溜池署からここへ送られて、何が何だかわからぬうちに王様にされてしまった件……、そこで何のために此処でネバっていたかといえば、警視庁や日本政府を馬鹿にする気でやった訳ではなく、畢竟この特種をモノにしたいという商売熱心に他ならぬ、……ということから、帯出された大金剛石はいかが処置されたかと宋諜報部長に詰め寄られ、アワヤ貧血を起しそうになったところへ、ああ、まるで救いの天使のようにあなたがおあらわれになったのであるという事まで、何をいっても真名古は黙っているものだから、加十は追々図に乗って、むしろ楽し気にさえ陳述したのである。

真名古は時々薄眼をあけて加十の顔を偸視ぬすみみる。口の角に泡をためて無闇と饒舌りまくっている愚直なようすを見ると、この男が嘘をいっているのではないことがすぐわかる。陳述の節々も一々現場調査の結果と符合する。料理場の壁の鋳型彫クリュウによっても加十が犯人でないことがすでに判明している。この中背の雑報記者は、たとえ爪立ちしても壁に彫り込まれた上衣の裾の線には届かない。のみならず、この多過ぎる頭髪はどうしたって毬栗頭の印象は与えない。が、真名古はなかなか人が悪い。こんな風に誘導ひっかけて見る。

「お前を玄関へ送って来た時、鶴子はだいぶ酔っている風だったかね」

「送ってなぞ来ません、立上りさえしなかったんです」

「成程、では、お前に玄関の鍵を渡したのだね」

「鍵なんぞ貰いません」

真名古はキラリと眼を光らせ、

「夜食の最中に鶴子が立って行って玄関に鍵をかけ、その鍵を持って戻って来たといったな。……鍵を持たずにどうして玄関を出たのだね。すこし、妙じゃないか」

「何を感違いしてるんです。僕は「鍵を持って」なんていいませんよ。「鶴子が玄関の扉を閉めて戻って来た」といったのです」

「それで?」

加十は自若として、

「要するに、玄関の扉は開いていたんですナ。その証拠に、いま考えて見ると僕はノツブにさえ触らなかった。よろけて行って扉に凭れたらひとりで開いたんです」

「その時、玄関の間に電灯が点いていたか」

「いいえ、真ッ暗でした」

加十の記憶が正しいとすれば、それによってこういう情況が推察される。犯人は加十が出て行く前にすでに玄関の間へ入って、その暗闇に潜んでいた。間もなく気がついて、鶴子が玄関を閉めに来る。そこで……。

第三の男、つまり皇帝と鶴子の会食者が犯人かも知れぬという一点の疑問はこれで解消した。推察通り、犯人は料理場の生乾きの壁に凭れていた、背の高い「第四の男」である。

「お前は、鶴子が風呂敷包のようになって落ちて来たといったな。すると、当然二階の窓も眼に入っただろうが、その時窓にどんな人影があったか」

加十は首を捻り、

「窓を見たという記憶はありません。……いや、私は建物とほとんど垂直の位置にいたので、その位置からは窓が見えなかったのだといった方が適当かも知れません。何しろ、私の印象に残っているのは残月と鶴子だけです」

これで訊問は終った。真名古が警視庁へ電話をかけると五分と間を置かずに四人の人物がやって来た。いずれも冷徹な雰囲気アトモスフェールを身につけた、さながら科学実験室から出て来たような連中である。真名古が何事か囁くと、ここに奇妙な事が始まった。げにも物々しい室内捜査が始められたのである。加十は何のことやら判らず、アッケラカンと口を開いて眺めていたが、真名古は一体何を探しているのか、読者諸君の方がよく御存知だ。真名古は「帝王ラジャー」を探しているのである。

この四人の人物は生涯こんな風に室内捜査ばかりしているのかと思われるほど、その行動は機敏かつ合理的である。ポオの「盗まれた手紙」以来、室内捜査法はこのような高度の発達を遂げてしまったのであろうか。この謁見室に続く四つの部屋の空間を幾つかに区劃し、その中にあるものはいかなる微妙なものも容赦せぬ。塵ッぱの裏まで引っ繰り返して験めながら目にもとまらぬような早さで捜査を進めてゆく。椅子も机もバラバラにしてしまった。ある区劃の中に薄ぼんやりと突ッ立っていたお蔭で加十まで丸裸にされ、耳の孔まで捜査されたのである。

間もなく捜査は終った。室内は戦場のような混雑からまたもとの清楚な趣きに立ち還った。「帝王ラジャー」がここに無いという事は真理よりももっと確実なのである。真名古は四人の学究を部屋の隅に呼び集めて何事か命令を発していたが、四人の連中が出て行くとツカツカと加十の傍へ寄って来て、

「お前はここを動くことはならん」といい捨てると、ウソウソと影のように出て行ってしまった。

後に残された加十の落胆ぶりというものは、実に描けるが如き有様。「安南帝国皇帝竜王の殺人」という世界的スクープを夢み、艱難辛苦をして此処にネバっていたが、それもはや徒花むだばな、鶴子を殺した犯人はどうやら皇帝以外の何者かであるらしい。是が非でもこいつをモノにしようと鼻血の出るほど意気込んでいただけに、急に張りつめた気がゆるんでガッカリしてしまった。やや長い間、痴呆のようにトホンと椅子に掛け、何ともつかぬ空ろな視線を漂わしていたが、やがて取るともなく卓上の夕刊を取上げて眺めやると、二面の下の方に今朝の事件が小さく一段組でのっている。

アパートで自殺 今朝午前四時廿

分頃、元宝塚少女歌劇学校生徒、

松谷鶴子(二三)は赤坂山王台、

アパート有明荘の二階窓から約卅

尺の崖下に投身して自殺を遂げた

原因は厭世から

この広い東京で、このたった六行の記事を加十ほど感慨深く読んだものはあるまい。いな、加十ばかりではない、誰かこの事件の裏の事情を知っている人があったら、あまりにも無情な表裏の対比に思わず嗟嘆の声をあげたに違いない。

この辺が、「東京」を称して一と口に魔都と呼び慣わす所以なのであろう。われわれの知らぬうちに事件は始まり事件は終る。この大都会で日夜間断なく起るさまざまな犯罪のうち、われわれの耳目に触れるものはその百分の一にも当らない。それも、形象は深く模糊の中に沈み、たまさか反射だけがチラリとわれわれの眼に映じるのである。

この記事はたしかに読者諸君の眼にも触れた筈だが、その時、このたった六行の記事の裏にこれほどの波瀾が潜んでいることを誰一人みぬき得なかったでしょう。のみならず、事件は今始まったばかりだ。これまでの波瀾はほんの序曲に過ぎない。この自殺事件を提起イントロダクションとして、まさに渾然たる犯罪の大管絃楽オルケストラが演奏され出そうとしているのだが。加十はそんなことは知らない、一図に目的を失ったと思い込み、センチメンタルな声で、

「ああ、夢だ、幻だ。……これがもし本物だったら、それこそ世界の耳目を聳動させる事が出来たんだが、何もかもこれでペケになった。……醒めて口惜しき仮寝うたたねの、か、ああ、詰らん詰らん。……王様が殺したんだと思ったもんだから、たとえ一ト月二タ月未決に喰い込んでも必ずこいつをモノにしてやろうと逆せ上ったのだが、そうでないとすれァ、鶴子づれが生きようと死のうと俺の知ったこッちゃありゃァしない。俺もいろいろな目に逢ったが、今日ぐらい無常を感じたことはない。有為転変とはまさにこのことだ。ついさっきまで王様王様で栄耀栄華を極めていたが、それも僅か半日の夢。なんの特種どころか、間も無く拘引ひきたてられて検事局送りになるのだろうが、それもこれも、所詮柄にもないことを企てた天罰だろう。いっそ、生きているのが厭になった。……それにしても俺の低能にも呆れる。どうして王様を犯人だとばかし思い込んでしまったのだろう。だいいち、これから鶴子を殺そうという奴があす三人で飯を喰おうなどと約束する筈はない。夜食の間中もニコニコ笑ってばかしいたし、見受けるところ、突然発作を起すような危険な人体らしくもなかった。寝室から雲霧消散する直前だって終始沈着で、人を殺した人間のようには……」といいかけて突然に眼玉を据え、

「おや、ちと妙だぞ。……皇帝は稀代の大金剛石を持っている。……その王様が雲霧消散……。これァ、いかん。ひょッとすると王様は蒙塵したのではなくて誘拐されたのではないか知らん。……必ずしも有り得ないことではない。とすればこれァ、大事件だ」

と、又しても逆したような眼つきになってウロウロと立上りかけたが、また坐り直し、

「こう狼狽えたって仕様がない。ひとつ、落着いて昨夕からの次第をとっくりと考えて見よう」

と、物々しく腕を細み「細み」はママ、

「……俺は昨夜七時に腹を立てて東京会館を飛び出した。ここまでは、……何も変ったことはない。それから、銀座で村雲笑子に逢って……、おや、これにしてからがすでに妙だぞ。……北海道の同じ小学校で教鞭をとっていた同僚が映画スタアに成上り、おまけに「巴里」という贅沢な酒場まで出したというから、同郷の懐しさで一度敬意を表しに行ったら、文字通りに塩を撒かれた覚えがある。……その笑子がなぜ昨夜に限ってあんなに愛想をよくしたのだろう。あの気位の高い女あまっちょが俺の手なんぞを執って、無理やり「巴里」へ引っぱって行った。そこには皇帝がいて、その朝殺人事件が起きた。……皇帝が攫われて、俺一人が現場へ残される。俺一人が現場へ……。おッ、畜生! それに、笑子は有明荘の住人だ。……これァ、何かある。俺と笑子が銀座で逢ったのは偶然だとしても、俺を無理に皇帝のいるところへ連れて行こうとしたあの態度ポーズに何に「何に」はママ尋常でないものがある。……といったところで、これだけじゃ仕様がない。何か手懸りになるような記事はないかしらん」

と呟きながら、次々に夕刊を取上げてあわただしく眼を走らせていたが、やがて下積になっていた「夕陽新聞」を手にするより早く、思はず、アッと驚異の叫びを発した。

夕陽新聞特別版の第一面には、「噴水の鶴、今朝鳴く!」という五段抜きの大標題みだしの下に、会場の盛況から賞品授与の次第、祝辞祝電の全文と兼清博士の演説要旨、九時三十五分皇国万歳を寿いで竟に喨々と鶴が鳴き出した恍惚たる瞬間までの事情を、美辞麗句を連ね、全紙面を割いて堂々と書き立ててある。

加十は呆気にとられた面持で、

「これは驚いた。……あれは園丁長の酒月と幸田社長の合作で、警視庁も間近い日比谷公園で無届不合法の集会をやれば、鶴が鳴くと予告した九時十二分以前に必ず解散させられると決まってるから、それまでに逸早く会費を掻き集め、どうも残念だが、で幕になる最初からの手筈で、尻尾を掴まれるような仕掛は一切しないことになっていた。……それに、それにどうして鶴が鳴いたんだろう。これで、また一つ不思議が増えた。……よし、並べて見よう。(愛想する筈もない笑子が愛想をする。――鳴く筈もない噴水の鶴が鳴く)……この二つの現象は一見何の関係もないようだが……しかし、ひょっとすると何か重大な繋りを持っているのかも知れぬ」

と上眼使いをしながらしきりに首を捻っていたが、間もなく諦めたように、

「いくら首を捻ったところで、どうせ俺の智慧じゃ及ばない。例の通り体当りで行く外はあるまい。最初にアタリをつけ、それから噴水の鶴を調べると、何とかこの連係つながりが判るだろう。よし、そうと決まったらすぐ出かけよう」

と勢い込んで立上った途端、ホテルの支配人が入って来て、警保、欧亜の両局長がやって来たと告げる。加十は泣きッ面をしてがっくりと椅子の中へ落ち込み、

「ああ、忘れていた。俺は刑務所へ行くんだっけ。特種どころか、何もかもおさらばだ」

と呟くと、蚊の鳴くような声で支配人に、

「覚悟はいいといってくれたまえ」

まもなく二人の局長が入って来る。扉口で恭しく名乗をあげると、まず警保局長が進み出で全身これ恐縮といった身振りで、

「殿下、又しても、お詫び言上に罷り出ました。今朝以来失態の連続でありまして、もはや、お合わせ申す貌かんばせもないのでございますが、仮面をつけ、低頭して御前に進み出たのでございます。只今は、また真名古と申すものが推参いたし、いろいろと、御名誉を損傷いたしましたようで、実に慮外なことでありまして、その者はもはや厳重なる懲戒処分に附しましたが、それにつきまして、こうして、われわれ両人が」

息も絶え絶えといった体なんです。局長はなかなか味をやる。そのへんの新劇俳優などまさにタジタジなのである。

それはそれとして、加十の境遇ほど端倪すべからざるものはない。つい先刻王座から蹴落されたばかりなのに、ある必要によってまた皇帝の椅子に据えられることになった。マリオネットだってこうまで手ひどく翻弄されはしまい。とすれば、いっそ悲惨にも見えるのである。

加十も油断はしない。上眼使いに二人の方を偸視ぬすみみると、二人の大の男はいずれもワナワナと身を顫わせ、額には冷汗さえかいて、今にも消え入らんばかりの風情である。身顫いの方は忿怒のせいで、冷汗の方は忌々しさのせいなんだが、こういう情況においては、どんな聡明な男だって感違いする。いわんや愚直な加十のことだから、テもなくこの陰謀に引ッかかってしまった。俄に天が谿ひらけたような気がする。うまくやってのけろ、刑務所へ行かなくても済むぞ。そこで、出来るだけ尊大に身を反らすと、

「謝まらなくともいい。私が寛大なことはよく知ってるだろう。どうも御苦労さま。これで話は済んだからもう退きとってくれたまえ」

局長らの方はなかなかこんなことでは退きとられない。慇懃に敬礼をすると、

「いつもながら、御濶達なる殿下の……」

加十はうるさそうに手を振り、

「それで、まだ何か用があるのかね。次々にこういろんなのにやって来られては息をつくことも出来やしない。用があるならサッサといって手取早くひき取って貰おう。私は少々風邪気味でね、あまり機嫌がよくないのだぞ」

警保局長はあくまでもへりくだり、

「では、手ッ取早く申上げますが、かねて警視庁の金庫にお預り申上げてあります皇室の御秘宝は、あのまま保管いたして置いてよろしいか、それを御伺い申上げるために」

なんだ、そんな訳だったのか、ああ、これをもう一時間も早く聞いていたら、あんなひどい羽目にならなくとも済んでいたものを。加十は横手を打って、

「あ、すっかり忘れていた。どうか、その儘その儘。手元に置いたってさして益のあるものでもないからね」

どうして、加十もなかなか馬鹿じゃない。警保局長は畏って三歩ばかり引き退ると、代り合って欧亜局長が進み出で、

「承りますれば、両三日中に御帰国の由で御座いますが、お名残惜しく存じております。この度は散々の不始末で、日本に対する印象を御削害されたことと存じまするが、何卒これにお懲りなく……」

この談判を残りなく叙述するとはなはだ飛躍した演劇的場面になるのだが、しかしこんな事をいつまで書いていたって仕様がない。あとは大体読者の御想像に任せるとして、要するに、この二人の局長は宋諜報部長を丸め込むに足るようなさまざまな悪智慧をつけた上、マゴマゴせずに早く寝ろ、という意味のことをねんごろに暗示して引退って行ったのである。

ちゃんと手筈がしてあったものか、ほとんど入れ違いに宋秀陳が帰って来た。警視庁で強かに歓待されたのであろう、微醺を帯び一種発剌たるあしどりで入って来た。扉口で敬礼すると恭しく加十の傍へ寄って来て、

「ああ、何たる光栄ではありましょう。手前らはつい只今まで日本警視総監の至らざるところなき歓待を受けておったのであります。これも偏えに御威徳の然らしむるところでありまして、申そうに、感激のほかはないのでござります」

加十は横柄に顎で椅子を差示しながら、

「馴れぬ酒を飲んで腹をこわすな。……それはそうと、先刻の返事をする」

秀陳は正しく椅子に掛け、

「手前ら、殿下のお返事承りますでございます」

加十は意気揚々と、

「おい、感違いしてはいけない。ダイヤモンドはちゃんと警視庁の金庫に預けてあるのだぞ。嘘だと思ったら電話をかけて聞いて見ろ」

秀陳はたちまち感激の色を面に漲みなぎらせ、

「ああ、果して果して! 賢明なる殿下におかれてさようなる軽率なお振舞いがあられようなどと推量いたすさえ、もはや失礼に過ぎると申すべきでありましょう。かくて、手前らは秘宝に関する殿下のお返事を承ったのでござります。……次に御帰国のお日取の方を」

「二三日中に帰る。お前から理事官長に暗号電報を打って置け」

といって妙な作り笑いをし、

「秀陳、今度はいろいろ世話になったな。帰ったら勲章をやる」

秀陳は椅子から飛び上り、

「つがもない! これしきの事に御褒賞などは!」

「いや、是非ともやる。……そこで相談だがナ、お前は諜報部長だから、いろいろと変装の術などを心得ているだろう」

秀陳は胸を張り、

「左様なるお尋ねは、失礼ながら、しょせん、御無用なのでござります。手前ら、職掌柄と致しまして、変装に必要なる品々は常に手元に備えてあるのであります」

ひょっとすると、此処を逃げ出せるぞ。そうしたら、すぐ日比谷公園へ行って……、加十は嬉しがって膝を乗り出し、

「じゃァ、ひとつ……、郵便切手の肖像にあるような顎髯を生やしてくれ。俺はこれからお前と散歩に出かけるつもりなんだが、東京では、安南と反対に、この素顔が知られすぎていて少々まずいのだ。それに、危険でもある」

秀陳は重々しく頷いて、

「ああ、それこそは至当なる御配慮なのでありまする。至尊の御身上であっては、その御用心はけだし当然なのでござりましょう」

といって部屋を出て行くと、間もなく古風な手提鞄を提げて戻って来、キチンと整頓された隔劃しきりの中からウイグ・ニスと毛束を取出し、失礼ながら、といって加十の顎にニスを塗ると、細いピンセットを使って丹念に一本ずつ髯を植え始めた。

やっとこさで出来上った。眼つきの卑し気なのは致し方ないとしても、それを除くとほぼ皇帝に似ている。加十は鏡に向ってためつすがめつした後、公園の西門で待ち合わせることに手筈をきめると、顔見知りの私服たちを尻眼にかけて悠々と玄関を立出で、秦の始皇帝のような黒髯を風に靡かせながら日比谷公園の方へ歩いて行った。これから噴水の鶴を調べに行こうというのである。

二十、間違いつづきの事   並に明石町の夕景の事

築地明石町、「住吉」の奥まった座敷。応挙の「蓬莱山図」と葉牡丹を根〆にした大きな苔松を背景にして、林謹直、道灌山前田組の大親分、それに林の家の子郎党が五人ばかり。ここもまた腕を組み眉を顰めたむずかしい風景。さっき、伝次を幸田の妾宅へ差向けると間もなく警保局から皇帝失踪の報知を受け、かくは寄り寄り対策協議中なのである。

林が皇帝に取入って安南で先取した優良ボーキサイトの採掘権。それを資本・構成をほぼ等しくする好敵手、小口の日興コンツェルンがなんとかして林の手から取上げようと、皇帝反対派、すなわち、皇甥擁立派を突ついて盛んに暗躍している最中だから、それは何かためにするところある日興の仕業ではないかという疑念は、誰の胸にもすぐ浮かぶのである。殊に日興の傘下にある関東土木倶楽部の一方の旗頭、野毛山鶴見組の一味が今朝ほど帝国ホテルも間近い日比谷公園で何か立騒いでいたということもある。これだけでは当事あてこともないが、もしそれが事実だとなると、こちらには三千に余る命しらずを擁する関東組の元締、道灌山の大親分がついている。どうせ血を見ずには治まらぬのである。

七人寄って文珠の智慧もなく、空しく腕を拱いているところへ、駒形伝次が血相を変えて帰って来た。野毛山の一派、武州小金井に繩張りを持つ、安亀事安井亀二郎が、「唄う鶴の噴水」の会場で騒ぎを起し、そのドサクサに紛れて皇帝を攫って行ったという密告さしを幸田から貰い、飛ぶように駆け戻って来たのである。

伝次はモーニングの膝をキチンと折って畏まり、キッと林を睨むようにしながら、

「ありようは、只今申しあげたとおりでござんすが、そのほかにも何か安直じゃねえ筋合があるらしく、妙に気を持たせるんでございます。どうせきたねえ奴らのこッてすから、吐かせるのは訳のないことでございますが、ともかく、先にこれだけをお耳に入れようと思いまして、スッ飛んで帰って来たんでございます」

この辺のことは諄くどく述べる必要はあるまい。池の畔の四阿あずまやの前に確かに皇帝が立っていたという、例の間違いの続きなのである。

林は膝を掻きむしって激発し、

「実に馬鹿なことをする。たとえ嫌がらせだろうと、もう、もう黙っちゃいない。会釈も糞も要るもんか、すぐ警視庁に電話をかけて小口と野毛山をふン縛らしてしまえ」

と、日ごろでさえ赤い恵比須顔に一段と朱をそそいで、まるで火の玉のようになって猛り立つのを道灌山は静かに制し、

「林さん、それぁ、いけません」

年のころは五十五六、白銀のような白髪をオール・バックに撫でつけ、額には年の数ほどの皺もない。臥蚕の眉、引結ばれた大きな唇。団十郎くだいめ張りの張りのある眼に柔和な光を湛え、袴の膝に握り拳を置いてゆったりと床柱に凭れている。山の手の隠居とも見える春風和順の人体だが、何となく底力のある隙のない構えである。道灌山は穏やかに唇を綻ばしてから、

「林さん、それはいけない。私がこの席にいなけりゃいいが、こうして此処にいる以上、そんなことをされては私の顔が立たない。道灌山は自分の手に負えないので、警察おかみの裾にとりついたといわれても困る。今きいていると、只それだけじゃ野毛山がやったかどうか、どうも覚束ない話だし、だいいち野毛山のやりそうもないこった。……然し、まアそれだけのとッかかりがあれば話の糸口だけはつく。私はこれから向うへ出掛けて行って穏当に掛け合い、向うの言い分もとっくりと聞いて、何とかして王様だけは貰って来ましょう。……老人の冷水だと思いなさるかも知れないが、私に少し存じよりがあるから」

といって立上る。

幸田が出鱈目な当推量を口走ったばっかりに、とうとうこんな事になってしまった。一体この治まりはどうなるか。それは却説さて、ほどなく道灌山の自動車は「住吉」の門を走り出て、芝の方角へ。

それとちょうど堀一つ隔てた向い側、暁橋の袂。「呉竹」という奥深そうな家を先ほどからしきりに見張っている一人の人物がある。年のころは卅七八、西洋臭い口髯がよく似合い、鼻の高い、少し眼の窪んだ、一目でそれと判る混血あいのこ面。第三回、ロード・スタアで「巴里」へ乗りつけて来た、有明荘の住人の一人、仏国「ホヴァス」通信社の通信員ジョン・ハッチソンである。

門松はサラサラ、追羽根はカッチンカッチン、いかにも正月はるらしい長閑な夕暮。粋な座敷着もちらほら通る。その片側塀の闇に踞んで、凄い眼ざしで「呉竹」の方を眺めているが、待ち切れない風で、ツと出て行っては門の奥を覗き込む。

それから十五分ほどすると、露路作りの奥の方で賑やかに送り出すどよめきがきこえ、卅五六の、上背のある男が外套の襟を立てて顔を隠すようにしながら早足で出て来た。頬のこけた、瞳の落着つかぬ、見るからにずるそうな面構え。露路口の街灯を避けて、右へ、暁橋の方へ行きかかる。ハッチソンは塀の下闇からバタバタと飛び出して、その前に立ち塞がる。外套の襟を掴んでグイと引き寄せると、

「おいバロンセリ、なんで逃げ隠れする」

読者諸君も御存知でしょう、例の「カーマス・ショオ」。上海へんの田舎どさ廻りの寄席芸人を集めた一座を、ニューヨークの大ジーグフェルドに次ぐ世界的大レヴュウ団にこしらえ上げたのはこの二人の仕業。あたかも今日が日本座におけるその初日なので。

どちらも日仏の混血児。そんなことから意気投合したが、形影相伴って安南、貴州で暗い商売をつづけていた。ハッチソンの噂が出ると、時にバロンセリはどうと、連ね文句のようにすぐもう一方の名が出るほどの間柄。血を分けた兄弟もただならぬこの二人の間にどんな悶着が起きたのか。

ハッチソンはバロンセリを橋の欄干に押しつけて力まかせに揺すぶりながら、

「おい、何とかいえ、ぬかせ」

バロンセリはなにか悩ましそうに眼を伏せながら、

「な、なんといやいいんだ」

ハッチソンはキリキリと歯噛みをして、

「ここは順化ユエの町端れじゃねえ、東京のど真ン中だ。俺を出し抜こうたって……、おい、王様ロアをどこへやった」

「俺ァ知らねえ」

「おお、そうか。初日の蓋が開いてるてえのに、あんなところで何をしていたんだ」

「ひいき筋よ」

「やかましい。……てめえ、俺を出し抜いて野毛山へ王様ロアを売込んだろう」

というと、右手でバロンの喉輪を攻め、

「今朝日比谷で騒いでいた安亀の一味十人が「呉竹」の離座敷はなれにいることはちゃんと見通しなんだ。どうだ、恐れ入ったか」

バロンセリは、グッと息を詰らせ、嗄れたような声で、

「知らねえ知らねえ。……何をしやがる。この手は何だ。手をとれ、手を」

と呻きながら、苦しまぎれに上突きにハッチソンの胸を突上げる。ハッチソンはヨロリとなったがすぐ立直り、

「乙な真似をしやがると」

と懐中に手を差入れて白鞘を引ッこ抜きかけたが、思い直したようにまた懐中へおさめ、バロンセリの腕をとるとしみじみとした口調で、

「踏込んで行くのは訳はないが、そうせずに、胸をさすってここで待っていたのは、おめえと二人ッきりで話をつけたかったからだ。なア、バロン、おれを捌くことだけはかんべんしてくれ、頼みだ。……割も歩もいらねえ。利益あがりはみなお前にやる。……だから、すっぱり告白うちあけてくれ。隠し立てさえしなけァいざこざはいわねえといってるんじゃねえか。……な、なんだ。妙な面をするな。……笑え。おい、笑って見せろ」

バロンセリは、ツと顔をそむけると、暗い水の面に見入るようなふうをしながら、いっしんに歯を喰いしばっている。見ると、頬に涙が伝わって、ハッチソンの方からは見えなかった。

ハッチソンはバロンセリの背中を瞶めて突ッ立っていたが、やがて溜息をつき、

「……まるで人が違ってしまったようで……おれにはお前の素振りがまったく解せないのだ。……どうしたんだバロン、話してくれ。よう」

バロンセリはぐるりと向き直る。もう涙の痕はなかった。ふてくさったようなようすで、

「判らなきア、いってきかしてやる。俺はお前の兄貴面に、もう飽き飽きしたんだア」

「えッ」

「長い附合いだった、が、これがお別れだ。道で逢ってももう言葉をかけてくれるな」

ハッチソンは拳を震わせ、

「てめえ、慾呆けやがったな。おれをあんな眼腐れ金と見かえる気か」

眼頭にキラリと涙を光らせ、

「おい、バロン、印度支那くんだりで、この長い間苦労を分け合った二人の、これが別れか。こんな別れ方でいいのか。……馬鹿な、お前、そんな馬鹿な……」

バロンは欄干に背を凭せて空嘯そらうそぶき、

「ああ、いいんだ。慾呆けたんだ。放っといてくれ」

「じゃァ、それァ、本気か」

「くどい」

「せめて、訳を……」

「勝手にしやがれ」

ハッチソンはガクガクと身体を震わせ、凄まじい眼差しでバロンセリを睨みつけていたが、やがて迸ほとばしるような声で、

「よし、いかにも別れてやる。……その代り、必ずぶち壊して見せるぞ、忘れるな」

と戦おののく手で外套の釦を掛け終ると、足早に以前の片側塀の闇の中へ消えて行った。

二十一、妙な首実験の「首実験の」はママ事    並に電話の声の事

寒々と広い警視庁捜査一課長室の大きな事務机を前にして、真名古課長が孤影凝然と坐っている。前回、有明荘でやったように、又してもまさに腹でも切ろうという風に、腕を組み面を低く俯向け、深い憂悶の色を浮かべながら、まるで化石したように微動だもしない。

見ると事務机の上には、例の有明荘の獲物、緑色のチョッキ、獅子頭のシガアレット・ホルダー、紙を刻んだ靴型、〇米メートル八六と書きつけた手帳がキチンと置き並べられてある。

真名古にとってこの品々はよほど煩悶の種になるのだと思われる。見ようによれば、まるでそれにお辞儀をしているようにも見えるのである。こんなことをするのはこれで二度目だが、そもそも、この品々は冷酷そのものともいうべき真名古警視をなぜこうまで悶えさせるのであろう。そういえば少し腑に落ちぬことがある。先刻、真名古が警保局で現場調査の説明をした時、何故か伊吹という洋服屋へ行って問合せをした条を除いている。そればかりではない。シガアレット・ホルダーの特徴にも、生乾きの壁に人が凭れた痕がついていたことにも、只の一と言も触れていない。専門家同士の間にはこんな些末なことはどうでもいいのかも知れぬが、日ごろ細心を誇る真名古の振舞としては、チト受取りかねる節があるのである。

惟うに、この品々には何かよほどの重大な秘密が含まれているのに違いない。慎重緻密な真名古がそれを口外せぬのにはそれ相当の理由があるのだろうと思われるが、それはともかく時計を見上げると早や五時十五分。フランス大使の乗った不定期急行はもう彦根あたりまで来ている。明朝大使が拝謁に行く午前四時までには、どんなことがあっても皇帝をホテルに帰して置かねばならぬのであるが、こんなところで煩悶などしていいのであろうか。煩悶するなら事件が片附いてからゆっくりやって貰いたいと歯痒がるは恐らく作者だけではあるまい。

やがて、時計が五時半をうつ。すると、ちょうどそれが合図のように例の四銃士が入って来て、直立不動の姿勢で扉口の前に整列する。

ようやく真名古が身動きし出した。ゆっくりとその方へ振向くと右端の銃士にめくばせをする。合図された男は一歩出ると、簡単明瞭な口調で、

「有明荘の居住者、岩井通保、印東忠介、ジョン・ハッチソン、山木元古、村雲笑子、川俣踏絵の六名は「カーマス・ショオ」の六名と共に三台の自動車に分乗し、三時十分に「巴里」を出発し、同三時廿分に築地小田原町の待合「すず本」に到着しております。十二名が到着すると同時に「すず本」は玄関を鎖し、臨検の五時廿分まで一度も開きませんでした。「カーマス・ショオ」の六名を取調べましたが、有明荘の六名は臨検の時間まで一人も外出しなかったと申立てております。「すず本」の裏木戸を調査しましたが、最近人の出入した形跡は絶対に認められませんでした」

真名古は二番目の銃士に合図をする。第二の男は進み出て、

「慰労巡察の警視総監が赤坂区第五歳晩警戒哨、溜池交叉点を通過になった時間は午前三時五十分であります。四時四十分、第六哨赤坂見附――。四時四十五分、麹町区第二哨三宅坂、――四時五十分、第一哨桜田門。……以上であります」

第三の銃士が進み出る。

「松谷鶴子の原籍は京都市東山区山科町深野百二十番地。前京都府警察部長殿御原籍は京都市東山区山科町深野百二十番地であります」

真名古が顎をしゃくると、第四の銃士が課長室を出て行き、まもなく例の美しい縫子の花を連れて入って来た。真名古が何か低い声で命令すると、四銃士はそれで引き退る。

真名古は花を差招いて椅子に掛けさせると、例の通り水ッ調子で、

「ちょっと、頼みたいことがあってね、それで迎いにやったのだ」

花は顔をあげると、

「ちょうどよかったのですわ。あたしの方からお伺いしようと思っていたところだったんです」

「ほう、どんな用で」

花はけんめいな顔つきで、

「犯人は王様じゃありません。あたし、ホテルへ行って王様にお目にかかったんです」

「嬉しそうな顔をしてるね」

花はニッコリと笑ってすぐまたむずかしい顔をし、

「王様は毬栗頭でもありませんし、あんなノッポでもありません。感違いしないようにして頂きますわ」

「王様が犯人だなどといった覚えはないが、早のみこみをしちゃいけない。……それはそうと、頼みというのは外でもない、ちょっと見て貰いたいものがあるんだ。こっちへ来てくれ」

といって、机の曳出しからピストルを取出してポケットにおさめると、花を連れて課長室を出て行った。

間もなく真名古と花の姿はコンクリートの暗い中庭に現われる。明々と灯火が洩れる三階建の建物で四方から囲われてちょうど井戸の底のようになっている。真名古はそこへ花を踞ませると高い三階の窓の一つを指し、

「ここからあそこまでの高さは、お前の部屋の窓から有明荘の鶴子の家の窓までの高さと大体同じだ。……そこで、俺がいま合図をすると、あの窓掛が急に上って一人の男が窓から顔を出す。今朝鶴子を投落した犯人がやったと同じような順序になるだろう。その男の身長と頭と手首の辺をよく見ているのだ。ほかの窓に気をとられてはならん。それから、どんなものを見てもここで口をきいてはならん。……いいかね、ではやるよ。あの窓から眼を放すな」

というと、ポケットからピストルを取出し、筒先を空へ向け轟然と一発射ち放した。おびただしい四方の窓が一斉に開いて、色々な顔が突出される。真名古が指した窓からは毬栗頭の総監が半身を乗出し、中庭を見下ろしながら、何だ何だ、と怒鳴っている。真名古は花の手をとると悠然と中庭を引揚げて行った。

三階の総監室では窓から首を引ッ込めた総監が癇癪を起したような声で拡声電話器に怒鳴っている。

「一体、何だ、どうしたんだ」

拡声器がうるさい声で答える。

(真名古課長が誤射されたのです。損傷はありません)

「これだけ損傷があれば結構じゃないか。……それで、有明荘の六人の行方はまだ判らないのか」

(まだ報告がありません)

総監は忌々しそうに舌打ちすると、シガアレット・ケースから巻煙草を一本抜き出し、フト、チョッキの胸のポケットに手をやって苦笑いする。いつもここへシガアレット・ホルダーを入れてあるものだから、それが習慣になって、落したことも忘れてついそこへ手が行くのである。

煙草に火を点けたところへ、また拡声器が怒鳴る。

(林さんからの電話で、また事件が起きたから、すぐ総監にとのことです)

総監は巻煙草を投げ出して、

「早く、繋げ、まごまごせずに」

と怒鳴ってるところへ、真名古と一緒に警保局長が、どうも、散々な目に逢ったよ、といいながら入って来る。総監は手を振って、

「局長、何かまた事件が起きたといって、林がいま電話へ出るところです」

局長と真名古が椅子につく間もなく、林の太い声が拡声器から洩れ出す。

(総監ですか。林です。とてもそっちへ行っている暇がないから電話で話しますが、どうも、とんでもないことになりました。そこにいられるのはあなただけですか)

局長は送話器に飛びついて、

「俺もいる。真名古もいる。何がどうしたてんだ、早くいい給え」

林の話を要約するとこうである。道灌山が野毛山へ乗り込んで行って掛け合うと、安亀が日比谷で騒いだなどというのは初耳だ。身内の恥になることだから人にはいわなかったが、ちょっと胸に落ちないことがあって、今年の夏時分安亀に盃をかえさせ、今じゃ赤の他人なのだからその尻を持込まれても困るといって、急に怪訝な顔をし、そういえば妙な事がある。暮の廿八九日ごろ、見馴れない混血児がやって来て、是非とも殺ねむらして貰いたい人があるという。俺のところへ持ち込む以上は、それを殺らせると充分日本のためになるのだろうなと念を押すと、日本のためにはなりませんという。見損うなといって帰したが、ひょッとすると、殺らしてくれというのは皇帝のことではなかったかという事になり、嘘にもせよそんな計画があるとすれば由々しい問題だから、それで電話を掛けたのだというのだった。

電話が切れると、局長は苦笑しながら二人の方へ向き直り、

「林はすこしあわててるよ。何を詰らないことを。……あて推量まで持ち込まれちゃたまったもんじゃありゃしない。あいつ、どうかしている」

拡声器が喋言り出す。

(只今、自動電話、銀座の十二番から皇帝暗殺計画に関する重大な密告があるから警視総監に、という電話です)

真名古は送話器の方へ走り寄り、

「こちらはなるたけ話を長引かすつもりだから、八雲町の交番へ急報して、どんなことがあっても通話者を捕えさせろ。その方の通告が終ってから拡声器へかけるんだ」

ものの一分と経たぬうちに拡声器が復命する。

(八雲町の交番へ通達終りました。これからお繋ぎします)

三人が片唾を嚥んで待っているうちに、拡声器から嗄れたような声が流れ出す。

(総監ですか。……こちらは銀座の十二番です。だいぶ待たせましたね。話を長引かして私を掴まえようとしたって無駄ですよ。始めっから一通話しか話しないことに定めてあるんだから。……あまり待たせるもんだから、もう一分半ほど過ぎてしまった。あと一分半しかない。たとえ話の途中だろうと、一通話の切れ目が縁の切れということにしますから、どうかそのおつもりで。……では申します、安南皇帝を東京で暗殺する計画があります。皇帝の反対派、皇甥李光明一派から密旨を受けた暗殺者が、十二月廿七日のプレジデント・フウヴァー号で横浜に到着しています。条件は二つ。第一、なるべく日本の官憲の手にかけさせるように取計らう事、第二、死体は東京のもっとも眼抜きの場所へ投げ出して置く事。……あなたの方にも情報が入ったでしょう。大使が明日の午前四時にホテルへ伺侯するというので、それまでにぜひとも暗殺してしまう計画です。私の方には暗殺者の住所が判っていますから、ついでに申上げて置きましょう。その者は……コレカラ二通話ニナリマス)

ガシャンと受話器を掛ける音が拡声器の中で鋭く跳ねかえる。

警視庁のあらゆる神経は一斉に猛烈な刺戟を与えられて、目覚しい反射運動を始めた。局長は旋風のように総監室を飛び出して行く。ところが真名古だけはウッソリと俯向いたまま腰もあげようとしない。総監は眉を顰めて真名古の姿を眺めていたが、とうとう癇癪を抑え切れなくなったものか、斬りつけるような鋭い声で、

「おい、どうしたんだ、真名古君」

真名古はジロリと総監の面を見上げると、陰気な声で、

「総監、私はあなたと二人ッ切りになる機会を待っていたのです」

時間は正に六時廿分。明日の午前四時までにあと十時間足らず。警視庁が勝つか、暗殺者が勝つか。……この際どい最中に、真名古は呑気らしく一体何をいい出そうというのであろう。

第七回

二十二、真名古長講の事    並に獅子頭のパイプの事

夕刊の情報欄にたった数行で片付けられた、元宝塚少女歌劇学校生徒松谷鶴子の自殺事件の裏を引ッ繰りかえすと、どうしてなかなかそんな事じゃない。世間の表面には波瀾の片鱗すらも表われないが、例えばミンダナオ海溝の海底噴火のように、暗黒な海渕の底で轟々と湧き立ち、沸りかえり、まさに狂奔擾乱の趣きがあるのである。

最初の状況では、どう見ても皇帝が鶴子を窓から投げ落したとしか見えぬような具合で、当局はあわてて真相の秘匿に努め、ようやくこれを自殺事件に整備したててしまったところ、あにはからんや、皇帝はむしろ被害者の側で、事件後まもない午前四時半ごろ、何者かのために誘拐されたことが明白になった。

いやしくも一国の皇帝が日本の領土内、然も東京のど真ン中で誘拐されたとあっては実にどうも由々しい問題、当局の驚愕と狼狽はけだし察するに余りあるのである。急遽内務外務両大臣以下、政府の首脳部が額を集めて善後策を協議したが、事件は模糊たる雲煙にまぎれ込み、真相を捕捉することが難かしい。結局、皇帝が日本で売却される目的で帯出された安南皇室の秘宝、「帝王ラジャー」を奪う目的でこんな大それた事をやったのだろうという事になった。

しかし、作者の考えるところでは、この到達は少し観念的だと思われる。これではまるでありふれた探偵小説の筋のようではないか。それならそれでもいいが、では、日比谷公園の噴水の鶴が鳴いたのをどう片付けるつもりかしら。どうもそんな単純な事件でないように思われているところへ、果して、皇帝暗殺の陰謀があるという密告が舞い込んで来た。

皇帝を退位させて、その後へ皇甥李光明を押し上げようという皇甥擁立派の密旨を受けた暗殺者が、つい一週間ほどまえすなわち十二月二十七日のプレジデント・フウヴァ号で日本に到着している。しかも、なるべく日本官憲の手にかけさせ、死体は東京の目抜きの場所へ投出して置くという条件付なのである。

この密告が洒落でも冗談でもないことは、安南における皇帝派と皇甥派の軋轢あつれきを知っているほどの人なら、極めてありそうな事だと首肯するであろう。のみならず、それによって重大な国際問題を惹起させ、日仏離間を策す一石二鳥の陰険な目的が窺われるのである。

密告者は明朝午前四時、フランス大使が帝国ホテルに伺候し、秘宝売却の事実を確かめ、至急御帰国を御勧告するため、まさに帰京の途中にあることまで知っている。密告者の電話の声は、厳然たる迫真力をもって総監室の拡声器から流れ出して来たのである。

単なる市井の一自殺事件は三転してこのような大飛躍を遂げることになった。政府は文字通りに縮み上ってしまった。かりにそのような事態に立ち到ったとしたら、その結果こそ思いやるだに空恐ろしい極みである。政府の全機能を挙げても未然に皇帝暗殺の陰謀を阻止し、明朝午前四時までにはどんなことがあっても皇帝を帝国ホテルに返して置かねばならぬ。時計を見るとまさに六時廿分。大使の乗った不定期急行は、もう岐阜あたりまで来ている。午前四時までにはあと僅か九時間と四十分。この際どい競技コンクールにみごとに警視庁が勝をしめ、皇帝を無事にホテルに返す事が出来るだろうか。

密告者の口吻くちぶりで、皇帝はまだ生きていられることだけは大体察しられるが、一体どこにいられるものやら方角さえつかぬ。まるで雲を掴むような話。

警視庁は俄かに色めき立つ。全東京の警察網は一斉に戦時体制に入った。本庁では急遽捜査会議を開き、捜査の大方針を決定すると、全管轄区及び近接五県に水も洩らさぬ捜査陣を敷く。捜査課は直ちに有明荘六人の住人と、日比谷公園「唄う鶴の噴水」の会場から皇帝を誘拐したと風評うわさされる安亀一派の追求を開始し、外事課は十二月初旬以来の来航者並びに在留外人の行動を一人ずつ虱つぶしに調査することになった。

まるで警視庁が引ッ繰り返るような、戦争のような騒ぎが始まっているのに、真名古捜査課長だけは総監室の椅子にのッそりと掛けたまま、身動きしようともしない。警視庁切っての俊才、検察ブレーン・トラストの第一人者、冷酷無情をもって知られる真名古こそ、こんな際には先に立って捜査の指揮にあたらなければならぬ筈なのに、これほどの大騒動を空吹く風と聞き流し、こんなところにへばり込んでいるのは、日ごろ敏捷明快なその人にははなはだふさわしからぬ態度である。

前回は、真名古のこの鬱陶しい態度にさすがの総監も業をにやし、一体どうしたのだときめつけると、真名古はジロリと総監の面を見上げ、陰気な声で、私は今まであなたと二人ッ切りになる機会を待っていたのですと、妙に凄いことをいい出すところで終りになっていた。

さて、真名古はこういうと、またしても面を垂れて俯向いてしまった。一体何をいい出そうというのだ。それはともかく、枯木寒厳とはこういうのをいうのだろう。肩は寒そうに骨立ち、ぼんのくぼの毛は抜け上ってサンバラになり、影うすく膝に手を置いてションボリと俯向いているようすというものは実にどうも陰々滅々。これが血の通った人間とは受けとれぬ。さながら亡者が墓の口から吐き出され、今ここへ迷い出たかと思われるばかり。

総監は白皙な面を真名古の方へ振り向けて、真名古の言葉を待っているのだが、真名古はマクラだけふって置いて、以来杳ようとして音沙汰がないので、総監は少々焦れ気味になり、

「話というのは今度の事件に関係のあることなのかね」

「左様です」

「なぜ僕と二人ッ切りでなければいかんのか」

「……」

「そんな重大な事なのかね」

「左様です」

真名古は依然として俯向いたまま、

「総監、犯人のアタリがつきました」

総監は椅子から飛び上って、

「えッ、それは本当か。はっきりアタリがついたのか」

「判明いたしております。お望みならば、その者の人体をことごとくこの場で活写してお目に掛ける事が出来ます。また、その者の犯行当夜の行動も私には残りなく判っております」

「ほほう、どんな新事実があったのかね? いつ判ったのだ」

「先刻、現場調査をいたした時にすでに判明しておりました」

総監はたちまち不快そうな面持になり、

「どうも君にはおどろく。……僕には君のすることがまるッきり諒解出来ない。……調査した時に判っていたのなら、なぜ先刻の報告の時に話してくれなかったのか」

総監は厳しく眉根を寄せて、

「僕はすこし行き過ぎた質問をするが、まさか君はことさら事件をもつらして快を貪ろうというのではあるまいね。今朝の整備から君を除外したことで、君がこんな報復的な態度をとるのだとは考えたくないが、どうもそうとしか思えぬようなやり口じゃないか。一体どうしたんだ。まずその訳から聞かせて貰おうじゃないか」

「総監、私は明朝この事件が落着すると同時に捜査課長の職を辞す人間ですから、あなたに偏狭な人間だと思われようが陰険なやつだと誹そしられようが、一向痛くも痒くもないのです。従ってその点に関するお返事は申し上げぬことにしましょう。こんな押問答で貴重な時間を費すのは、私としてはあまり好ましいことではありませんから、お言葉に拘らず、早速要点に触れさせて頂きます」

真名古の狷介不屈と来たら、まさにその代表的なもの。こうなったらもう梃でもいかん。総監は辟易して、一分刈の形のいい顱頂あたまを撫でながら、

「それなら、それでもいい。では、早速話して見てくれ給え」

真名古は瞬間、黙祷するように眼を閉じたのち、

「私はさっきの現場調査の報告の際、皇帝が勝手口から誘い出されたと思われる一般的な状況については残りなく申し上げました。……花の証言の全部、衣裳戸棚の中から皇帝の常用と思われるチョッキを発見したこと、犯人が勝手の壁に凭れてある時間佇立してたと思われる証跡について、ことごとくそれを述べましたが、生乾きの壁の面に残っていた証跡に対する細かい説明を省きました。……さらにもう一つ、私が衣裳戸棚の曳出しから発見したある品物についても、一と言も触れてはおりません。それらはある個人に非常に重大な影響を及ぼす事柄で、これを発表することは私としても充分慎重を期さねばならなかったので、そのために報告が遅れたのだと思っていただきます」

真名古はこういってことばを切ると、うっそりと面をあげ、

「総監、壁の上には一体どんなものが印刻されていたとお思いになりますか?……犯人にとってははなはだ遺憾な結着ですが、その表面には犯人の身長から身分職業、運動習癖から当時の心理状態まで、さながら描けるが如くに彫り込まれてあったのです」

「おお!」

「壁の上には洋服の背筋の縦の線と上衣の裾の横の一線が直角に交わりながら明瞭に印刻されておりました。……床から上衣の裾まで高さは〇・八六米。これに係数を掛け合わしてその者の身長を得ることは極めて容易であるばかりでなく、壁に写っていた服の背筋の歪みによって、この者は脊柱側彎の欠陥体質をもっていることも明瞭に判るのです」

「しかし、どういう根拠からそれが犯人の印刻だと断定するのかね? もしかすると皇帝が凭れた跡かも知れんじゃないか?」

「皇帝の靴型は一二・三〇。その者の靴型は一二・〇〇。勝手の床の上の靴跡によって、それが皇帝でないことが明瞭に判明するのです。……一体この壁はすでに二週間ほどまえから破損していたのですが、鶴子に急き立てられて、ようやく大晦日の午後十一時に塗り上げられたものです。通い婆のとめは午後十一時半まで勝手におり、午前四時半以後は溜池署の刑事が扉の外で立番をし、以後ずっと動かないのだから、これは午前一時から四時半までの間に捺されたもので、それ以前でもそれ以後でもありません。……今朝午前十一時半ごろ、私が現場調査にまいった際、その壁を指で圧して見ましたが、もはや指の跡さえつきませんでした。勝手の鉄製のストーブの前に木箱に入った漆喰の余りがあるので、それにも触って見ましたが、この方はまだ乾いていない。壁の漆喰がなぜ乾きが早いかといえば、すぐその傍をスチームの管が通っているからで、従って、昨夜温水供給が休止した時間と、今朝また通り始めた時間を調べると、その状況に於ける印刻は、何時頃に捺されたものか、もっと精密なことが判るわけです。有明荘のスチームは午前一時に休止し、午前五時にまた通り始めていますから、印刻の物理的な状況と照応して、これは午前三時ごろから四時半までの間に捺されたものだという決定が得られるのです」

「成程。……それで、身分職業が判るというのは?」

「壁の印刻を仔細に眺めますと、上衣の裾から皮帯の端のようなものが垂れ下り、その一部分がちょうど背筋の真下で壁にうつっておりました。……最初私がそれを見た時、だらしなく皮帯などをぶらさげるところをもって、この男は泥酔していたのかと思いました。しかし、壁際の床の上の靴跡を見ると、壁から二センチほど離れたところにキチンと踵を揃えたのみならず、神経質に、極めて焦立たしそうにたびたび足を踏み変えている。泥酔者ならばこんな状況で壁に凭れる筈はなく、また、解けかかった皮帯は、たいていそれ自身の重さで前の方へ垂れかかるか跳ねかえるか、いずれにせよ、背筋の真下などで壁に接する筈はありません。……これがふつうの帯革でないとすれば一体なんです?……申し上げるまでもない、それは剣帯の端です。これで、犯人は日常帯剣する職業の人間だということが判るのです」

総監は息をひいて、

「そりゃ、どうも、実に意外……」

「兇行の瞬間を目撃した花の証言のうち、犯人は手首に何かキラキラ光るものを巻きつけていたという条のあったことを御記憶でしょう。花は腕時計かも知れぬといっていましたが、腰の下へぶら下っていたものが剣帯だとすると、当然そのものの正体が思いあたるではありませんか」

総監は思わず身を乗り出し、

「おお、すると、それは……」

「左様、あなたの官服の袖についているような袖章だったのです。これで勝手の壁の印刻がどんなものであったか、残りなく申し上げましたから、次に玄関の間に移って、多分整備員諸君が見逃されたであろうと思われるある証跡について申し上げることにしましょう。……私が玄関の間へ入って、鶴子が投げ落された窓と、その左右の壁の面を検めました際、たった一つ私の注意をひいたものがあります。それは窓の右側の壁の、床から一メートル四五のところに印された、微かな三本の掻き傷です。ごく浅い傷ですが、それを見ると、約一センチぐらいの等間隔に置かれた相当堅い物質が、約八十度の角度で、下から上へ急劇にこすりつけられて出来たものだという事が判ります。……一体どういう物質がこんなところへこんな掻き傷をつくるのか? ざっとやっても幾十とおりにも考えられ、単にこの掻き傷だけでは明確な何事をも説明してはくれません」

真名古は何故か急に物憂そうな口調になって、

「つまり、犯罪の現場調査などというものは、一種運命的なものです。科学が追究し、偶然がこれを決定する。……非科学的な放言のようですが、それはわれわれのような捜査の垢を舐めつくした人間だけが自信をもっていいうるのです。……総監、その三本の掻き傷は、要するに何か重いものを急激に持ち上げようとした時、官服の袖についている星章にこすられて出来たものだという事が判りました。……ちょうどその真下の床の上に金モールの微小片を発見したからです。……犯人の身長は大体五尺七寸五六分。……総監、あなたは御長身で五尺七寸五分以上はあられますが、この私もほぼ同様の身長を持つことを光栄に存じております。……従って実験によってそれと断定することは実に容易でした」

ここまでいうと、真名古はフッと黙り込んでしまった。さっきから眺めるところ、真名古はひどく持って廻ったいい方をする。もっとテキパキやったらどうだ。見る眼にも歯痒い極みなのである。一体何がこんなにまで真名古をモダモダさせるのか、もとより作者など知ろう筈はないが、いずれにしても、何かよほど重大なことに、触れるが如く触れぬが如き微妙なやり方をしているということだけは察しられる。みると、真名古の方は追々冷静な趣きになって行くのに引換え、総監の方はだんだん顔の色艶が悪くなり、一種漠然たる不安なようすを示すようになった。総監は、検察官といおうより、むしろ芸術家とでもいいたいような秀麗な額を深く俯向け、形のいい唇をキッと一文字に引き結んで、時々額越しに困惑したような素早い視線をチラチラと真名古の方に走らせる。

真名古の方は深く腕を組み、何事かを待ち受けるかのように眼を伏せて黙然としている。しかし、これまでにもたびたび書いたように、喜怒哀楽がハッキリと表われない面だから、一体何を考えているのか判らない。それに、口をきくのが厭になると、他人を前に置いたまま急に黙り込んで、半日でもそんな風にしていることがある。総監の方もこの癖をよく嚥み込んでいると見えて、またか、というような顔をしながら、辛抱強くいつまでも待っている。

以心伝心といったような、まるで禅寺の公案の時間のような奇妙な対座をつづけたのち、真名古はフイと瞼を押し上げると、

「ああ、ちょうど十分経ちました。もしかして、私の申し上げたことが、充分御諒解にならなかった点もあるかと思いますから、単刀直入に、もう少しハッキリしたことを申し上げましょう。……総監、警視庁がいま全機能を挙げて捜査している松谷鶴子の殺害犯人の風体、私はここで出来るだけ精細に描き上げて見ようと思いますが、お差支えはありませんか」

総監は呆気にとられたような面持で、

「君は奇抜なことをいう。……差支えなどあろう筈はないじゃないか。どうか、やって見てくれたまえ」

真名古はバラリと腕を振りほどくと、常にも似ず少し反り身になり、まるで挑みかかるような眼付で総監を見据えながら、

「では、申します。その男は年齢五十二三、身長は五尺七寸五六分、毬栗頭の、筋肉質の大男。脊柱側彎、その上少し猫背で、靴型は一二・〇〇、プリンストン型、米国エディス会社製。左足に軽度の跛行癖があります。職業は警察官か海軍軍人、警察官ならば警部以上の身分。海軍士官ならば、准士官から特務大尉までの間。……これが松谷鶴子を殺害し皇帝を誘拐した犯人の人相書で、同時に将来の皇帝暗殺犯人の面貌です。……さて、犯人の職業ですが、仮りにこの者が官憲だということになれば、先ほどの電話の密告にあったように、なるべく日本官憲の手にかけさせるという条件にもうまく符合するわけで、いわば首尾一貫といった体です」

総監は腑に落ちぬようすで、

「松谷鶴子の殺害犯人が皇帝を誘拐した犯人だということはそれで判るが、それが将来の皇帝暗殺犯人だというのは、どういう根拠によって推断出来るのかね? 僕ならば、むしろ反対に考える。……暗殺の条件にある通り、皇帝の死体を街頭に投げ出すとしても、刺殺するか絞殺するか、あの場ですぐやってしまえば簡単なものを、なぜワザワザ誘拐などしていったのだろう」

真名古は退屈そうな身振をして、

「それは、皇帝を暗殺する以外に、もう一つ別な目的を持っているからです。……いうまでもない、犯人は皇帝のダイヤモンドを奪りたいのです」

「それならば、殺してからだって奪れるだろう」

「それをしなかったのは、皇帝を殺してしまうとダイヤモンドが手に入らないような状態にあるからです。……つまり、ダイヤモンドはどこか判らぬところに隠してあるので、その在処をいわせるために皇帝を誘拐していったのです」

「その点が、よく判りかねる。君は皇帝が誘拐されたと主張するが、何故あの場で殺されたと考えてはいけないのか」

「ちょうど、勝手の裏階段を降り切った床の上に、二カ所ほどリノリュームが丸く脱脂された痕があります。……御承知でもありましょうが、樹脂や香油や、そのような種類のものを完全に脱脂する化学作用を持つものは、この世にたった二つしかありません。……つまり、クロロフォルムとエーテルです。こればかりではなく、クロロフォルムのアンプール破砕片と思われるガラスの小破片も、その附近に落ちておりました。……これが、皇帝が殺害されたのではなく、誘拐されたのだという私の推理の根拠です」

真名古はチラと総監の面に眼を走らせると、また以前のような陰気な声になって、

「総監、私はこんなことまで申し上げずとも済むのだと思っていましたが、何か私の捜査に懐疑をお持ちのようですから、では、私の犯人推定が決してアヤフヤなものでないということを証拠立てるために、兇行当夜の犯人の行動をここで残りなく申して見ましょう。……犯人は今暁三時五十分、ロード・スターを運転して赤坂区第五歳晩警戒哨、溜池交叉点を通過してアパート有明荘にいたり、かねて工作を施して置いた玄関扉の電鈴装置を阻断し、鶴子の住居の玄関の間へ忍び込んでそこの暗闇に身を潜めておりました。……それから間もなく泥酔した古市加十が玄関の間を出て行った。これがちょうど四時十分ごろです。……二三分の後、鶴子が戸締をするために玄関の間へ入って来、壁のスイッチを押したので暗闇に潜んでいた男は一ぺんに曝露される。……これから五六分の間にこの二人の間にどんな経緯があったか察するによしありませんが、鶴子は抱き上げられて窓から投げ出される最後の瞬間まで、充分に抵抗しながら、そのくせ一と言も救いを求めませんでした。すぐ傍の部屋にいる皇帝も叫び声をきかず、崖下の花も加十もそれらしい声を全然聞いておりません。いわば、黙々として死んでいった。愛情のためか恐怖のためか、ともかく、鶴子は犯人によって、何か非常な心理的制圧を受けていたという事が判ります。……犯人は身をもがく鶴子を左手で押えつけて置きながら、右手で窓掛けをはね上げ、窓の回転部を押し開けると鶴子を差し上げて窓から投げ出し、瞬間後スイッチを押して玄関の間の電燈を消しました。それから急いで有明荘の玄関の間を飛び出し、山王下へ出る例の坂を途中まで降りかかったところ、下から加十が鶴子を背負って上って来る。御承知の通り坂は一本道で隠れるところもないから、身を飜して有明荘へとって返す。しかし、廊下には充分に電燈がともり、どこといって身を潜ませるところがない。結局、勝手用の階段の方へ急を避けることになる。その階段の突当りが鶴子の勝手口の扉です。犯人はこういう事もあろうかと思って勝手口の合鍵を用意していたので、それで扉を開けて料理場へ入り、いつでも臨機の処置がとれるように扉のすぐ傍の壁に背を凭せて立っていた。……一方、加十の方は鶴子を担ぎ上げて来たが、見ると、鶴子はもう絶命しているので、慌てて玄関番の部屋へ飛んで行ってお馬に変事を告げ、また二階へ駆け戻ると、皇帝は食堂で酒を飲んでいられたが急に外套と帽子を取上げて寝室の方へ入って行かれた。古市加十はその後の皇帝の行動は知りません。……ところが、その後こんな事があったのです。……皇帝は多分酔を醒ますつもりだったのでしょう。洗面所へ入って顔を洗ったり含嗽うがいをされたりした。タオルの端と洗面器の中に葉巻の微小片と食物の残滓が残っていました。……御存知の通り、洗面所は扉で料理場に続いている。勝手の壁に凭れていた男は、洗面所の扉を開けて一歩だけ浴室に入った。真新しいマットの上に明瞭に捺された犯人の右の靴跡がそれを証明しています。……友情的にか、或いは官服の権威を以てか、極めて静かに皇帝はその男に連れ出された。少し隔った食堂にいた加十が何の物音も聞かず、皇帝が洗面室を踏み出す時に新しく葉巻を吸いつけられたことで、この間の事情を想像することが出来ます。洗面所にマッチの燃殻が一本あり、その葉巻は、その後、僅か十分の一ほど吸われただけで階段の下に落ちていました。男は合鍵で勝手の扉を閉す。皇帝は先に立って階段を降りる。降り切ったところで皇帝はよろめいて口から葉巻を落された。瞬間、犯人はハンカチか脱脂綿の中へ忍ばせてあったクロロフォルムのアンプールを掌の中で握り潰し、それを後から皇帝の鼻口へ押し当てる。皇帝が昏倒されると襟髪を掴んで玄関まで引摺って行き、門柱の傍へ凭らせて置いて扉の電鈴装置を以前のように直し、皇帝を肩に担いで山王下へ降り、乗って来たロード・スターに皇帝の身体を隠し、四時四十分、赤坂見附、四時四十三分、三宅坂、四時四十五分には桜田門の警戒哨を通過し、警視庁附近まで来たところでいずれかへ姿を晦ましてしまいました」

総監は頷いて、

「成程、よく判った。それはそうとして、とりあえず聞いて置きたいのは皇帝の生死だが、一体、皇帝はまだ生きていられるのかね?」

「生きていられます」

「ほほう、どうしてそれが判るね?」

「何故かといえば、私は皇帝がどこへダイヤモンドを隠されたかその場所を察しておりますが、それがまだ安全にそこにあるので、それで皇帝はまだ生きていられるのだと、推定するのです」

総監は椅子から腰を浮かし、

「おお、それは一体どこに……」

真名古はその問いが耳に入らなかったようなようすで、

「皇帝は多分今ごろどこかに押し込められていられるのでしょうが、ダイヤモンドの在処を白状した時が皇帝の最後の時で、ヒョッとするとそれも長い間のことでないかも知れない。まさに風前の燈火といった体たらくです。しかし、……幅ったい口を利くようですが、この真名古がこうしてここにいる以上、そうムザムザと殺させない。向うにも充分方策があるでしょうが、私だって遊んでいるわけじゃない。必ずとっちめて見せるつもりです。どんなことがあっても、明日の午前四時までに無事に皇帝をホテルへ返してお目にかけます。……どうも大へんな意気込みだ。総監、あなたには滑稽に聞こえるかも知りませんが、私は私で、もう犯人の襟首をひッ掴んだつもりでいる。私の執念深いのはあなたも御存知でしょう。一度掴まえたら首が千切れたって放しはしません」

というと、眼にも見えぬほど唇の端を皺ませた。

これが真名古の微笑なんです。苦笑だといってもよろしければ、得意の微笑だと思って頂いてもよろしい。それは見る方の勝手だとして、真名古はそういう顔面運動をして置いて右手を上衣のポケットに差し込むと、

「つい後先になってしまいましたが、私が鶴子の衣裳戸棚の曳出しからどんなものを発見したか、まだ申し上げておりませんでした。……実はそれは、取るにも足らぬような、こんなものだったのです」

といいながら、例の獅子頭のついた薔薇根プライヤのシガアレット・ホルダーを取り出し、庁内で誰一人知らぬものはない総監愛用のこのちっちゃな品物をテーブルの上へ差置くと、鄭重に一礼したのち、静かに扉を開けて出て行った。

二十三、仇な取引の事    並に名妓手練の事

御神燈に門松の影。めまぐるしいばかりの座敷着の往来。箱丁はこやのパッチが、汗を拭き拭き、亥歳にちなんで盲目滅法に飛んで行く、まだ宵の口の金春町。

二の側の角の「中洲」という表千家流に凝り抜いた構え。その奥まった座敷に、穏当らしく会席膳を並べて控えてござるのは、まず主座に名代の手腕家やりての志摩徳兵衛、続いてその子分の、東京貴石倶楽部の松沢一平、夕陽新聞社長幸田節三。その向いにタキシードの膝を嬌めかしく崩し、オークル二十八番のグリスペイントで薄化粧をした間延びた面をポッと上気させ、思わせぶりな科しぐさで盃をふくんでおりますのは、第三回、酒場「巴里」の場へ登場した、有明荘六人の住人の一人犬居仁平の養子の印東忠介。

以上の四人が、元日匇々一体何のためにこんなところで顔合せをしているかといえば、前回でも申し述べましたように皇帝が持っていられる例の「帝王ラジャー」という大金剛石、これを同じく住人の一人、有名な珊瑚王の伜山木元吉が売却方を皇帝に依頼され、印東を仲介にして犬居に売込み、黙っていても五十万円とはね上るコムミッションを頂戴して、二進にっちも三進さっちも行かぬ借金の穴埋めをしようと血眼になって走り廻っている。どうせ、弱肉強食の世界、これを聞いて見逃して置くわけはない。あの青二才の過ぎた仕事だ、そいつをこっちへふん奪くってしまえ、で、印東をこっちの味方につけて山木の水の手を切って置き、山木の借用証書を買い集めて強制執行をかけ、いきなり実力接収と行こうという魂胆。ただし、山木がその実物をどこに隠してあるのか、それが判らなければこの芝居は打てない。

そこで、有明荘の崖下の素人屋しもたやの二階に住んでいる花という美しい縫子。それがふだん鶴子と昵懇じっこんにして姉妹も同様に睦み合っていたから、多分その辺の事情に通じているだろう。もし知っているなら厭が応でも吐かしてしまえ。その花は間もなく、幸田の相棒、公園々丁長酒月守がここへ連れて来る。

松沢は印東と膝をつき合わせ、美事に禿げ上った額を尤もらしく皺め、塩吹きのように口を尖らしながら、

「それァ薄情だ。それァ、いかん。……聞けば、あんたと山木とは巴里以来の切っても切れぬ仲だという。……それを、そんなちょろっかな、そんな水臭いことがありますか。あれだこれだとお養父とっさんへ橋渡しをさせ、さんざ、あんたに骨を折らして置きながら、話が纒まりかけると、急にあんたを袖にして、口銭の独り占めなんてえのはあんまり太い。いかに何でもそれァいけねえ」

と、ここがキキドコロと首を振り振り弁じ立てる。印東は口紅ルウジュを塗った薄い唇を口惜しそうにキッと噛んで、

「お前、可愛いいよ、なんて頬ずりしたりなんかしたくせに、あれはみんな、嘘だったのよ。……ああ、あんな奴だとは思わなかった。あたしがこんなに実をつくしているのに、それを、こんな目に、こんな風に捌かれたと思うと、あたしそれが口惜しくて……」

とハンカチを目に持って行く。さすがの松沢もチト持て余し気味で、エヘエヘと額を叩きながら、

「これァどうも、チト聞きにくいですな。それほどまでとは思わなかった。まァ一杯頂きましょう」

とてれかくしに盃を突き出す。幸田は助け船に出て、

「そりゃそうと、一体どんな筋だったんです。ちと、お聞かせなさい。事情しだいによっちゃ一と肌脱ぎますぜ。何しろ、こうして志摩さんもいらるることだし、それに憚りながら幸田節三あんたに代って山木にしっぺい返しを喰して不実を思い知らせてやるくらいのことは、なんの、造作もないことなんですぜ。……一体、ありようはどういう事だったんです」

印東は下素っぽく舌なめずりをして、

「事の起りは今から二年前の五月ごろ、奈良ホテルとあるだけで差出人の名のない電報が来て、ぜひ山木に逢いに来てくれというの。山木は気味わるがったけど、結局行って見ると王様が妙な女と二人で寝っころがっている。これが鶴子だったんですが、山木はその前のいきさつを知らないもんだからびっくりして、王様、どうして突然に、とたずねると、王様はニヤニヤと笑って、僕ぁ王様でもなんでもないぜ、安南の鉱山技師だ。君は知らなかったろうが、鉱山技師の方ならこれでもう二度も日本へ来ているというの。……結局、どんな用だときくと、王様は山木をホテルの裏庭へ連れ出して、ぜひともお願いしたい事がある。ある必要があってぜひとも急にたくさん金が要ることになって、代々皇室に伝わるダイヤモンドを持ち出して来たんだが、ひとつ君の手で絶対秘密に処分してくれまいか。アムステルダムでもアントワープでもいろいろ奔走してみたんだが、御承知の通りヨーロッパには経済スパイがウヨウヨしていて危なくって手が出せない。今のところ日本で処分するより外に方法がないのだから、なんとか骨を折って見てくれ。余り大きすぎていけないというのなら、電報一本打てばアムステルダムからワインゲルという有名なダイヤモンド工がやって来てお望み通りの型に切ってくれることになっている。うまく行ったら五分の口銭のほかなお充分なお礼をしよう。……何しろ山木は妙な道楽のお蔭で馬鹿な借金をつくり、いっそ首でも縊ろうかという瀬戸際だったもんだから、嫌も辞退もあるもんじゃない。天の御声と喜んで、親爺の顔で大阪貴石倶楽部の山西のところへ駆けつけてソッと耳打ちしたの。何しろダイヤモンドを持ち出したことが露見ばれると、たちまち王様がお蔵くらになるという際どい仕事なんだから、その旨も充分言いふくめて、加納商会と石田と柘植に集って貰い、北の新地の「水月」で極く内々で下見をさせたの。……ところが、何しろあまり意外な大物なので、さすがの大手筋連中もアッと驚いて眼を白黒にする始末なんです。ひと目見るなり、とてもどうも、われわれの力ではと尻込みをする。……すったもんだの末、では、われわれの頭数だけ、つまり、等分に四つに切って貰い、一人頭五十万円ずつならなんとか引受けましょうということになった。……まるで値段じゃないわねえ。捨売にしたって黙って五千万円。それを、たった二百万円じゃお話にも何もなりゃしない。……それで、王様は諦めて帰ったの。ところが山木にして見れば、この正念場にほかにテはないのだからボロいその夢は忘れられない。今度は東京でうまく行きそうだからと、昨年の十二月に、山木の方から王様へ手紙を出したの。王様は万事もう話がついているのだと思って喜んでダイヤモンドを持ってやって来ると、山木は馬鹿な顔をして、これからなんとか奔走するところだという間抜けな話なので、王様も腹を立て、君はいかん、もう頼まんということになったのよ。山木はすっかり慌てて、あたしになんとかしてくれと泣きついて来たんですの。結局、養父おやじに話して見ようかということになって、暮の二十七日に王様に一緒に行って貰い、正物を養父に見せると、養父も乗気になって、千万円までなら出そうということになった。おやじの方に掛引のないことは王様にも判ったので、では、それで手を打とう、ということになったの。ところが……」

松沢は息を嚥んで、

「ところが?」

印東はずるそうにニヤリと笑って、

「それが破談になっちゃった」

志摩徳は乗出し、

「ど、どうしてそんな事になったのかね、何か邪魔でも?」

「王様の方で気が変ったのよ」

「ほほう」

「その次の朝、安南から暗号電報が来て、王様が秘密にダイヤモンドを持ち出したことが発覚し、皇帝の反対派の、王様をおしのけて皇帝になりたがっている甥の李光明一派が、王様に独立資金獲得の計画ありとフランス総督に密訴するとかしないとかというえらい騒ぎになって……から、この際ダイヤモンドを売ることだけは是非とも思いとどまってくれるようにという侍従長からの急報なんで、王様も驚いて売ることは見合わせるといい出したの」

三悪人は意外な印東の言葉に思わず眼を見合せていたが、幸田は印東の方へ向き直り、

「すると、ダイヤモンドはもう山木の手にはないんだね」

印東は小馬鹿にしたような目付で幸田の顔をマジマジと見返しながら、

「いいえ。ところが、そうじゃない」

松沢は泳ぎ出して、

「すると、どうなんです。やはり、山木が持っているんですか」

「さあ」

「大切なところで打棄っちゃいけねえ。すると、あんた誰がダイヤモンドを持っているか知ってるのかね」

印東は頷いて、

「ええ、知ってるわよ」

「へえ、一体、誰が持ってるんです」

印東はくねくねと色っぽく嬌態しなをして、

「いやよ、ただじゃ厭」

というと志摩の方に向き、

「こんな雑兵に掛け合うより、じかにあんたと口をきいた方が早いと思うんだが、ねえ、志摩さん、寝返り代と密告さし賃、それに口銭を合せて、〆ていくら出す?」

志摩徳は浅黒い引緊った頬を弛ませ、

「ただであんたを転ばそうなんてケチなことはしません。いかにも水揚料は出します。三千ずつ三口、それに化粧料を入れて〆めて一万両。小切手でよかったらすぐ書きます」

印東は自堕落に足を投げ出しながら、

「結構。すぐ書いてちょうだい」

志摩徳は懐中から小切手帖を取出し、額面を書きつけてそれを膝の上に置くと、ニンマリと印東に笑いかけ、

「さあ、ころべ」

印東はニヤリと唇を引歪めて、

「ついでにワンといいましょうか。……ダイヤモンドは山木が持ってるんです」

「おい、印東さん、それだけで一万両か」

「慌てなさんな、まだ後がある。……なぜ山木がダイヤモンドを持っているかといえば……」

ジロリと一座を見廻し、

「それァ、山木が王様を殺やったからさ。……さあ、一万円ちょうだい。筋はこれから話してあげます」

一座はゾクッとしたような顔で眼を見合せ、さすがに声を発するものもない。やがて、志摩徳は無言のまま小切手を印東の前へ押しやると、印東は手早くそれを取上げて、

「有難うメルシ」

といいながらポケットに収い込み、

「……話というのはこういう次第なんです。……昨夜、笑子の酒場でわれわれ六人が有明荘の忘年会をやり、「カーマス・ショオ」のバロンセリがぜひ口明けをしてくれというんで、われわれ六人とショウの六人とひッつるんで「巴里」を出たのが午前三時ごろ。そこからまっすぐに小田原町の「すず本」に乗りつけ、みんな顔が揃ったところで薄茶を飲んでお開きということになった。これが三時二十分ごろ。……あたしの部屋は備前堀の側の庭に向いた端っこで、築地の塀一つですぐ通りになる。……床へ入ってから二十分ぐらい経ったろうか。隣りの質屋の相庇あいびさしの上を誰かソロソロと歩いて行くような音がする。猫じゃない、たしかに人の足音だ。……妙な気がして、そっと便所へ入ってそこの瓢箪窓からソッと相庇の方を覗き上げて見ると、薄月で白く光る屋根の上を、山木が凄い顔をして這いずりながら堺橋の側の方へ降りて行く。何をしやがるんだろうと思っているうちに、それから五分ほど経つと、ハッチソンが乗って来たロード・スターが動き出す音がし、反対の、備前橋の方へ走り出して行った」

印東は冷たく笑って、

「山木は親父からも親類からも見放されてしまい、ここに三十万という金がなければ、文書偽造で喰らい込むか首を縊るかという正念場だ。こうせっぱ詰ったらなんでもする気になるだろう。無理もない、あたしはあいつの気持がよく判る。……だが、それほど思い詰めたんなら、何故ひとことあたしに明かさねえんだ。……ドーランなんか塗ってすッ恍けちゃいるが、実のところ、これでもちッとばかし骨があるんだ。頼むといえば王様殺しの片棒ぐらい担いでやらないもんでもない。……そこが憎い。水臭いんで腹が立ったんだ。畜生、と思って、どうでも尻尾をおさえて窘いじめてやる気になった。……まさか見違いじゃあるまい、確かめるつもりで山木の部屋へ行こうと廊下へ出ると、二階で山木と寝ている筈の「金粉踊り」のジャネットが、シュミーズ一枚でヒョロリと隣りの部屋から出て来た。おい、ジャネット、妙なところにいるじゃないかと声をかけると、ジャネットは小声で、山木さんと踏絵さんが粋を利かしてくれて、あたしとロナルドを一緒に寝かしてくれたんだという。……臭い臭いと思っていたんだが、やっぱりそうだった。あいつら岩井の眼をぬすんでよほど前から乳繰合っていやがったんだ。……粋をきかせるどころか、飛んだ大濡場だ。隣りの部屋に岩井の旦那を寝かしておいてどうも度胸のいいことさ。……して見れァ、踏絵も同じ穴の貉むじな。二人でしっぽり楽しんだ上、うまく手筈を、かいたんだ。……そこで、おい、ジャネット、山木と踏絵はお前たちに、朝になったらまたそっと帰って来いといったろう、と訊ねると、ええ、そうよ、夜の明けないうちに、あたしは山木さんのところへ、ロナルドは踏絵さんのところへ帰って知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいる手筈なの。……ジャネットに口止めをして、あたしは部屋に坐り込んで待っていた。……ちょうど五時ごろ「すず本」の横でロード・スターのとまる微かな音がした。帰って来たなと思って、また便所へ入って待っていたが、なかなか上って来ない。屋根の上には月ばかり。……それから十五分も経ったろうか、とうとう屋根の上へ現われて来やがった。……それから二十分ほどすると夜嵐が吹いて六人、珠数つなぎになって明石署へ引き立てられ、ようやく八時半になって放り出された。警察の前で岩井とハッチソンに別れ、あたしと踏絵と山木と笑子の四人で魚河岸の「天徳」へ朝飯を喰いに行った。あたしは山木の真向いへ坐って、ツクヅクと眺めるてえと、どうも、ひどい人相をしている。……耳のうしろに大きな掻き傷をこしらえ、プラチナの腕時計のガラスがなくなっている。カフスの端に何か赤黒い汚点しみがついているから、何気ないふうで眼を寄せて見ると、それが血なんだ。どんなところを引ッ掻きやがったものか、右の手の人差指と中指と薬指の、この三本の爪の先がすっかり磨り減って、爪の間に壁土のような白いものがいっぱい詰っている。……まあ、こんなところです。どうか、あとはお察し下さい」

襖の外で、こんばんは、という清すずしい声がして、二十三四の、水の垂れそうな島田にスッキリと櫛の歯が通って、すこし痩せ身な、眉の濃い、眼元のパッチリとした、気高いほどに美しい芸者が敷居際に軽く片膝をついて、

「明けましておめでとう。今年も御贔屓ひいきに、というわけね」

スラリと座敷へ入って後をしめると、

「悪党が揃ってまたなにか企らんでいるわ。……おや、大した顔触れじゃないの。これはこれは、光大将までいるわね。ご機嫌いかが?」

鶴の羽小紋の紋付の二枚袷、小松くずしの裾模様を曳いて志摩徳の傍へ行くと、

「また悪い相談でしょう。元旦っぱなからなんですか。すこしお慎みなさい」

と、ピシャリと志摩徳の頭を叩く。

志摩徳は金魚が餌づきをするような口つきで、あは、ああはと笑って、

「いづみ、どうもお前には敵わない。さア、これがお土砂だ」

といって、袱紗ふくさに包んだ一包みを投げ出す。いづみは屈託のないようすでそれを取上げると、帯のお太鼓の中へ落し込んで、

「お護符まもりにしとくわ、悪魔除けの」

そこへ、酒月が花を連れて入って来る。罪人でも引っ立てるようにして来て花を座敷の真ン中に突きやると、険相な面をしてムンズリと志摩徳の前へ坐り、片手を懐中に入れたまま、ちょっと頭をさげ、

「どうか、今年もごひいきに」

志摩徳は、ああ、と鷹揚に受けて、

「どうも、お手数だった」

といって花の方を顎でしゃくり、

「これが、そうなのか」

「左様です。どうか御存分に。……もっとも俺ぁ娘あまッ子は苦手だから、後はどうかそちらで」

立上って、幸田と松沢の間へ割り込み、盃を取り上げると無愛想なようすで無言のまま幸田の方へ差し出す。

花は絵のような美しい面を伏せ、オドオドと玉繭の着物の毳けばをむしりながら消え入りそうに肩をすぼめている。海棠雨に悩む体。

いづみは身体を捻ぢ向けて惚れぼれと花の横顔を眺めていたが、ああ、といって急に立上ってスラスラと花の傍へやって来ると、膝を突合せるように坐って、

「思わず見とれちゃった」

と首を傾げて顔をのぞき上げるようにし、

「失礼ねえ、ごめんなさい。……でも、あまりお美しいんですもの。ああ、どうしよう」

と身体を押し揉む。志摩徳は顔を顰めて、

「いづみ、お前、ちょっと退っていてくれ」

いづみはしおれたふうで、

「おや、仲間はずれですか。……つまらない、せっかく眺めているのに」

松沢は手で煽ぐようにしながら、

「御前ごぜんは浮気をなさる、な、な」

と歯の浮くようなことをぬかす。いづみは三ツ指をついて、

「女房、退りまするでございます」

と立上ると、

「このひとを窘いじめると、承知しないぞ」

ハラハラと裾をひいて出てゆく。これも美しい。月の中から抜け出して来たような後ろ姿。

幸田は田舎相撲のような盛り上った膝を揺すりながら、

「花ちゃん、そう恐がらんでもいいさ。別に取って喰おうとはいいやしない。……みちみち酒月から聞いたろうが、こっちの訊ねることに返事をして貰えばそれでいいのだ」

花は蚊の鳴くような声で、

「知っていることなら御返事しますけど」

キッと唇を噛んで、

「でも、こんな……」

「知らないことは訊きやしない。早速だが、お前は王様のダイヤモンドをいま誰が持っているか知っているだろう。お前は鶴子の親友だし、山木も踏絵もひどくお前を可愛がっていたから、その辺の事情を知らぬことはなかろう。……一体、ダイヤモンドは誰が持っている」

花は俯向いたまま、

「ダイヤモンドって、なんの事ですの」

「おい、すッ恍けても駄目だ。……今朝がた山木が屋根伝いに「すず本」を抜け出し、ハッチソンのロード・スターで有明荘へ駆けつけ、鶴子が預っていたダイヤモンドをさらってまた「すず本」へ戻り、何喰わぬ顔をしていたってことはもうちゃんと証拠が上っているんだ。どうだ、図星だろう。……これでも納得しなけれア、もっと精しい話してやろうか。今朝の午前三時ごろ……」

と、いま印東から聞いたばかしのやつを受売りして、

「山木がやったということはもう紛れもないことなんだ。……おい、ダイヤモンドは山木が持っているんだろう?」

花は顔をあげて、

「判っているんなら、お訊きになる必要はないじゃありませんか」

幸田は眼を瞋らし、

「何を、この女郎」

と膝を立てかけるのを松沢は押しとめ、

「そう短兵急にやっても仕様がない。ひとつ、あっしにやらして見ておくんなさい」

花の方へ向き直ると乙にからんだ猫撫で声で、

「お花ちゃんや、どうせいわせずには置かねえのだから、器用に言っておしまいなさい。踏絵や山木を庇い立てしたって一文の得にもなりゃあしねえ。……なア、いい娘だ。ご褒美をあげるからいっておしまい。……ええ? 山木が持っているんだろう?」

「あたし、存じません」

「まア、そういわねえでさ」

「御無理ですわ」

松沢は擦り寄って、

「そんなら無理に訊こうとはいわねえが、じゃ、山木の居どころなら知っているだろう。山木はいまどこにいるね」

「存じません」

「ふむ、庇い立てするところを見ると、お前も共謀ぐるなんだな。……こりゃいい。そうとなれア、これから警視庁へ引っぱって行って、嫌でも口を開かして見せる」

と子供を欺すように立ち上る真似をする。花はキッパリとした声で、

「ええ、結構ですわ、お供します」

松沢は幸田と印東の方へ振向いて、額をおさえ、

「これァ、難物だ。次へ廻しやしょう」

印東はだらしなく壁に凭れて、茶化すような眼つきでこの場の有様を眺めていたが、無言のままに立ち上ると、ツカツカと花の傍へ寄ってその肩に手を掛け、

「大して難かしいこっちゃありゃしない。山木がどこにいるか、たった一言いってくれればいいのよ」

花は怨めしそうにその顔を見上げ、

「まあ、あなたまで、……あたし、何も知らないんですから、もう、かんにんしてちょうだい」

印東は花の手を捻り上げ、

「いっておしまい、楽になる」

花は畳に髪をすりつけて身悶えしながら、

「ゆるして、ちょうだい」

膝を割って、美しい色どりの間から白い脛をのぞかせ、あっつ、とせつなそうに眉を寄せる。まさに落花狼藉。印東は鼻唄交りにぐいとこじ上げ、

「これでも?」

「し、しりません」

「強情だね。じゃこうしていわせてやる」

花の背を突いて俯伏せに突き倒すと、馬乗りになり、

「花ちゃん、すまないが裸にするわよ」

遠慮会釈もなく帯をとき始める。

「あれ、何をなさるんです」

「おい、甘く見ると、たいへんな間違いだぜ。裸に剥いただけじゃすまさねえから。……何をするか、待っていろ、女あまめ!」

帯をとくと、襟を掴んで、ぐいと引抜く。肌理きめの細かい、ふっくらとした絖ぬめのような白い肩が……。あわれ、もう胸元まで透けて。

襖が開いて、いづみが入って来た。ハラハラと裾をかえしながら印東の傍へ近づくと、鼻で笑って、

「飛んだ岩藤ね」

繊手を伸べて、トンと印東の胸を衝く。

御存知の方もあろう。仏英和女学校の才媛で、この土地から出てからも、フランスの尼さんのところへ蟹行本かいこうぼんを抱えて行く。愛人はさる大学の先生で、藤山流の名取。通訳かたがた師匠に喰っついてフランスへ行き、あちらの踊りも充分見て来たひと。

踊りで鍛えたこの指先は唐手の突きほどに見事極って、印東はもろくも花の背から転げ落ちる。足の裏で天井を蹴りながら、

「野郎サロオ!」

いづみは艶然と笑って、

「いくじなし、利いた風な真似をするなコション・フエ・パ・ド・マラン・トア」

花を引き起して手早く帯をしめてやると、親鳥が雛を抱えるように、袖で、羽交の下へ入れて襖のところまで連れて行き、

「あとは、あたしが……」

婀娜あだに見得を切って、恩入れふかく、ポンと胸を叩いて見せた。

二十四、安南の国歌の事    並に真名古朗誦の事

これと同じころ、時刻でいえば午後七時半ごろ、顎に長い黒髯を貯えた一人の人物が日比谷公園へ入って来た。八ツ手の小径を伝って高みへ出ると、腕組みをしながら眼の下の噴水の池を眺めはじめる。

ふだんなら、寄り添った人影もチラチラ見えよう時刻だが、さすがに元旦からこんな処をうろつく者もないと見え、まだ宵の口ながら森閑と鎮まりかえり、池の汀のアーク灯ばかり徒らに皎々と冴えかえっている。噴水の鶴は寂然たる青銅ブロンズの羽根を張り、天心に嘴を差しのばし、夜目にもしろい幽玄な水の穂をキラキラと夜空に噴き上げている。

件くだんの人物は感に耐えぬようなようすでつくづくと噴水の鶴を眺めていたが、やがておし出すような声で、

「あの鶴が歌を唄ったというのだから、実に不思議なこともあればあるものだ。童話の世界でもあるまいし、青銅ブロンズの鶴が鳴く筈などはないのだから、蓄音機でも仕込んだか、さもなくばラジオのようなものを装置したか、いずれその辺のところだろうと思うが、幸田社長にしろ酒月にしろ、尻尾を掴まれて抜きさしのならなくなるような、そんなヘマをしなかったことは、一味徒党のこの俺が誰よりもよく知っている。とすると、一体、誰がなんの必要があってそんな手のこんだことをやりやがったのだろう」

黒髯の人物とは、余人ではない、すでに毎度お馴染の夕陽新聞記者古市加十。今朝、松谷鶴子殺害事件の現場で、皇帝に間違われて帝国ホテルに送られ、紆余うよ曲折を経たのち、皇帝紛失の世評を防ぐため、窮余の一策に、本当の皇帝が発見されるそれまで、皇帝の身代りにここへ差し置かれることになったが、ツラツラ事後の事情を思い合わせるところ、紛紜を恐れてどこかへ蒙塵されたとばかし思っていたその皇帝は、実は反対に誘拐されたのかも知れぬ、という疑いが濃厚になった。そういえば、有明荘の住人の一人である村雲笑子が、皇帝のいる「巴里」へ無理やり自分の手を執って引張って行ったことも怪しいし、皇帝が特別に自分に興味を示したことも怪しい。また鶴の噴水が歌を唄ったことだってヒョッとするとこの事件に何かの繋がりがあるのかも知れぬ。加十はまだ駆け出しだが、それでも雑報記者の端しくれだから、この辺を突ついたら皇帝紛失の真相が知れるかも知れぬと急に勇み立ち、安南から密使に来た諜報部長の宋秀陳が、加十を本当の皇帝だと思い込んでいるのを幸いに、うまく胡魔化して皇帝のような顎髯をつけて貰い、警固の私服を尻眼にかけて帝国ホテルを飛び出してまっすぐに銀座裏の「巴里」へ行って見ると、あにはからんや、(本日休業)という貼紙がしてある。官庁でもあるまいし、酒場ともあろうものが書き入れの元日に休業するやつはない。やはり何かわけがあるのだと思いながら念のために裏口へ廻って見たが、ここにも外部から固く鍵がおりていて人の気配もない。七時に日比谷公園の正門で秀陳と落ち合う約束をしていたので、笑子を追撃することは後廻しにすることにして急いで戻って来た。秀陳をここへ連れ出そうとしたのは、わけを話して智慧を借りる下心だったんだが、どうしたものか、その秀陳はいつまでたってもやって来ない。仕様がないから独りでなんとかアタリをつけて見る気で、ブラブラ池の上までやって来、噴水の鶴を眺めながら、一向まとまりもつかぬ事を呟いているのはすでに述べた通り。

すると、それから十分ほど経ったころ、突然バタバタと小径を駆け上って来るあわただしい靴音がするから、脛に傷もつ加十はギョッとして思わず身構えをしながらその方へ振返ると、松の下闇の中から浮かび出して来たのは宋秀陳。息せき切って加十の傍へ来ると直立不動の姿勢をとって、

「殿下、実は只今、以外なる「以外なる」はママ事態が出来いたし、そのため、心になく遅刻いたしたのでござります」

加十は胸をとどろかし、

「フム、一体どんな事件が起きたんだ、早くいって見ろ」

秀陳は、ハッと困惑の色を浮かべ、

「余りにも恐れ多いことで、しょせん、殿下の御前に披露致しかねるのでございます」

「構わないからいって見ろ」

「しかしながら……」

「吐ぬかせ。早くいわないと、ひどいぞ」

秀陳は急に決然と面をあげ、

「ああ、何といたしましても、手前ら、殿下の御命令に服従いたしまするより他はないのでござりましょう。……では、御言葉に従いまして申上げることに致しますが、何卒、御立腹あられぬよう、あらかじめ、切にお願い申上げて置きます」

「くどい」

「実は手前ら、殿下の御申付け通り、殿下が玄関をお出ましになる間、ホテルのロビイの奥に刑事どもを引きつけ、何気ない体で雑談いたしておったのでありまする。……まもなく殿下には無事にお出ましになられた模様でありますから、手前ら、雑談を打ち切り、一旦部屋に帰ろうといたしておりますと、廊下の端で二人のボーイが立話をしているのをチラと耳にいたしたのでござります」

「ウム、何をいっていたのだ」

「今のあの髯の生えたのは何だ、あれは王様じゃない、と一人が申しますと、もう一人の方は、俺もそう思う、王様はもっと上品な顔で、それにもっと背が高かった。なんにしてもあんな……」

「あんな、何だ」

秀陳は手を合せ、

「おゆるし下さい」

「構わん、いえ」

秀陳は泣き出しそうな声で、

「あんな下素面づらではない。……実にどうも、聞き捨てにならん事でありますから、その二人を呼びつけて厳しく叱責をいたしましたところ、その両人は一向に自説を翻えす模様がないのでござります。そこで、手前ら、両人に向い、そんな馬鹿なことはない。皇帝附き諜報部長たるこの俺がそういう以上間違いのあろう筈はないではないか、何をとぼけた事を申すか、とえらい勢いでキメつけてやりますと、両人は、今の王様が本物なら、すると、昨夕までいたのは偽の王様であろう。われわれの眼に決して狂いはないのだと、果てはふて腐ったような様子さえ示すのでござります。……事態かくの如くでござりますれば、しょせん、このままに捨て置くことが出来かねますゆえ、さまざま手を尽して取調べますところ、ああここにおいて実に容易ならん事が発覚したのでござります」

加十は逃げ腰になって、

「ウム、それで?」

「つまり、殿下が有明荘に御滞在の間、殿下の御居間を侵し御尊名を潜称いたしていたものがあった事が判明いたしました。何たる不敵、何たる大胆。……のみならず、何の目的を以てそのようなる大それたことを致したものか、手前ら、その真意を解するに苦しむのでござります。早速その旨を警視庁に急告いたしましたところ、そのくらいの事はあるかも知れぬという事もなげなる挨拶で、手前ら、暫時は開いた口も塞がらなかったのでございました」

秀陳はネオン・ランプの暈光ハローに包まれた周囲の高い建物を見上げながら嘆くが如くに長大息し、

「ああ! なんたる魔がしき都ではありましょう。手前らには、この大東京の、この大都会の大気の中に、さながら空気中のアルゴンの如くに、無慮無数の魑魅魍魎ちみもうりょうがほしいままに跳梁跋扈ばっこしているかに感じられてならぬのでござります。……殿下におかれましても、すでにお聞き及びでござりましょうが、有り得べきことでありましょうか、現に……」

と、眼の下の噴水の鶴を指さし、

「今朝、あの青銅の鶴が声を発して朗々と歌を唄ったのでござります。それを、親しく耳にいたしました時の、手前らの驚愕!……ああ、その恍惚と驚異の感情をなんと御説明申しましょうやら!」

加十は昂奮し、

「おお、では、お前はそれを聞いたのか。そのいきさつをくわしく話して見ろ」

「手前ら、今朝八時に東京駅に到着いたしました。ただちにホテルに伺候いたします所存で、地図を手頼りに駅前から日比谷公園の方角に歩み出したのでござります。間もなくこの正門の前まで参りますと、おびただしい人数が続々とこの中に吸い込まれて参ります。手前らもそのあとについて池の汀まで参り、何事があるのかと訊ねますならば、まもなくこの噴水の鶴が市民に新年の賀詞を述べると申します。苦笑しながら汀に佇んでおりますると、意外々々、やがて定刻とはなりますれば、あの青銅の鶴は、世にも清げなる声音にて、朗々と詠誦いたしたのでありました。ああ、なんたる不思議、なんたる惑わしさ」

といって言葉を切り、加十の面を瞶めながら、

「一体、どのような歌を唄ったと思召されますか?……それは他でもない、実に思いもかけぬ、それこそは安南の国歌であったのでござります!」

寒々しい広い捜査課長室。忌々しいほど明るい電灯の下に、例によって真名古が孤影凝然と坐っている。事務机の上の拡声器がうるさい声で全市郡の捜査の情況を刻々に報じて来るが、てんで気にもならないふうで、何かひそかに心に期するところある如く、極めて平静な面持で端座している。

壁の時計が八時を打つと、丸腰の巡査が入って来て、有明荘の崖下に住む花という縫子が、至急お耳に入れたいことがあるといって受付で待っていると告げる。真名古が頷くと、二分ほどの後、花が逆上したような眼付で入って来て、いきなりその前の椅子に掛けると、

「あなた、大変よ。こんなところでうッそりしていては駄目。王様のダイヤモンドを奪ったやつがいます」

真名古は鬱陶しそうな顔つきで、

「ほう、耳よりな話だね。一体、誰が奪ったのかね?」

花は夢中になって身をすりよせ、真名古の腕に手をかけながら「中洲」の出来事と、幸田がした話を残りなく物語る。真名古は聞き終ると、

「山木の爪の間に壁土が詰まっていたというのだね?」

「ええ、そうですの。それに腕時計のガラスが壊れていたんですって。……どこかにガラスのかけらが落ちていなかって?……ほらね、あたしがそういったでしょう。毬栗頭のようだったけど、ひょっとすると、何か冠っていたのがそう見えたのかも知れないって。……腕のキラキラ光るものも、私がいったように、やはり腕時計だったのですわ」

真名古は事務机の上に頬杖をつき、やや長いあいだ黙然と眼を閉じていたが、急に立上ると本棚の中から一冊の薄い横文字の本を探し出し、膝の上で静かにページを繰りながら、

「お花さん、あんたツルゲネーフの散文詩を読んだことがあるかね?」

花はびっくりしたように眼を見張って、

「いいえ、ありませんわ。どうして?」

「そうか。……なかなか優れたのがある。ひとつ、読んであげよう」

といって掌に本を載せ、人の心を優しく包むような憂鬱な声調でほのぼのと朗読を始めた。

「雀。――ふと、犬が歩をゆるめ、行手に獲物を嗅ぎつけた時のような忍び足になった。見ると、道の向いに、嘴のまわりの黄色い子雀がいた。頭に生毛が生えている。子雀は巣から振落されて動けずにいるのだ。犬は静かに歩み寄った。すると、突然、近くの樹から、胸毛の黒い親雀が……」

時計が九時を打つ。明日の午前四時までにはあとたった七時間しかない。この大騒動の最中に、真名古は何のつもりでツルゲネーフなんか読んでいるのであろう。

第八回

二十五、お茶の水風景の事    並に猿の乾物の事

見渡せば、大東京は朧月の空の下に甍いらか々をならべ、その際は淡い靄の中に溶け込んでいる。右手に黒くおし静まっているのは日比谷の森、駿河台の方に薄白く輝く白堊の建物はニコライの聖堂であろう。

日比谷の向うの長い地平線スカイ・ラインは一種夢幻なる光暈に包まれ、緑の、青の、赤の、黄色の、明滅する、旋回する、飛発する、ありとあらゆる種類のネオン・ランプが雲を焦かんばかり、五彩の飛爆がそこに懸るかとも思われる。

省線電車は高架線の屋根の上を轟然と驀馳し、砥道の谷底をトラックとタクシーが紛然と矢の如く行き交う。……あらゆる物音は雑然混然と入り混り溶け合い、大空をどよもして大都会の小夜楽セレナーデを奏するのである。

広袤こうぼう八里のこの大都会の中には無量数百万の生活が犇めき合い、滾たぎり立ち、いま呱々の声を上げ、終臨の余喘に喘ぐ。ある者は陰険な謀殺を完了し、あるものは脳漿を撒き散らしてこの世の生を終ろうとする。大都会こそは阿修羅地獄絵の図柄そのままに、阿鼻叫喚の苦悩図を描き出す。この甍の一つ一つの下にどのような悲劇が起き、どのような罪悪が秘められるか、ほとんどそれは測り難いのである。この大都会で日夜間断なく起るさまざまな犯罪のうち、社会の耳目に触れるものはその百千分の一にも過ぎず、他の凡百の悪計と惨劇はわれわれの知らぬうちに始まり、われわれの知らぬうちに終る。

前回、安南帝国皇帝附き諜報部長宋秀陳が日比谷公園の池畔に立って、五彩の光暈ハロオで包まれた周囲の高い建物を見上げながら、この魔がしい大都会の大気の中に、さながら空気中のアルゴンの如くに無慮無数の魑魅魍魎がほしいままに跳梁跋扈しているように感じられてならぬと嗟歎したが、げにもっともな感想であった。この朝、日比谷公園では青銅ブロンズの鶴が鳴き、今ニコライ聖堂の近くではまた新たな事件が提起されようとしている。

秀陳の尻馬に乗って思わず閑筆を弄してしまったが、役にも立たぬ作者の感慨などは事件の発展になんの関係もないのだから、大体この辺でやめて置いて、さて、安南国皇帝宗竜王は代々皇室に伝わる「帝王ラジャー」という大金剛石を日本で売却する目的で秘かに帯出されたが、この魔がしい都にこんな秘宝を携えて来られた以上は、どうせ唯事では済むまいと思っていたところ、果せるかな、今暁午前四時二十分ごろ、愛妾松谷鶴子の住居なる、赤坂山王台、アパート有明荘の勝手口から何者かによって誘い出され、そのまま行方不明になってしまった。麻酔剤を嗅がされて運び出されたことが現場の状況によって明白に察しられるのだが、皇帝を殺さずに誘拐したというのは、皇帝にダイヤモンドの在所を白状させるためで、すると、皇帝はまだどこかに生きていられるという真名古捜査課長の見込みなのである。

アパート有明荘における、安南国皇帝の松谷鶴子殺人事件は、こんな具合に三転四変して、意外な飛躍を遂げる事になった。当局はこれを自殺事件に糊塗してしまい、これで万事落着とホッと一息ついていたところ、あにはからんや、これは浅黄幕の前の口上のようなもので、単なる事件の導入曲イントロダクションに過ぎなかった。犯人だと思った皇帝は反対に被害者で、ダイヤモンドばかりでなく、掛け替えのない命まで強奪されかかっているのである。

皇帝の反対派、李光明一派の密旨を受けた暗殺者が、十二月二十七日のプレジデント・フウヴァー号ですでに横浜に到着し、明日の午前四時、大使が拝謁に行く以前に暗殺してしまう計画があると、何者かが警視庁へ密告して来た。その大使は今日の午後四時十分の不定期急行で京都を出発し、今まさに帰京の途中にある。明朝午前四時までに、どんなことがあっても皇帝をホテルに戻して置かなければ、由々しい大問題が惹起する。万一、日本国内で、ああ、しかも東京のど真ン中で皇帝が暗殺されたりしたら……、その結果こそ思いやられるのである。

警視庁は戦時体制に入る。検察のあらゆる神経系統は、カフェインの注射をされたようなすさまじいばかりの昂奮状態を示し始めた。捜査区域は近接五県にわたり、十二カ所の捜索支部からは、時々刻々の状況をひっ切りなしに神経中枢に報告して来る。捜査本部を置かれた刑事部長室の拡声機は気が狂ったように叫び続けるが、皇帝の行方は勿論、皇帝を日比谷公園から誘拐したと風評のある安亀の一派も、有力な唯一の証人にとして「証人にとして」はママ捜査本部で最も希望をかけている松谷鶴子の家の通い婆のとめも、松谷鶴子殺害事件になにがしかの関係を持つと思われる有明荘の六人の居住者も、まるで一斉に地の底へでも潜ったように、一人としてその消息を捉えることは出来ぬ。

時刻は刻々と迫って、とうとう九時になった。捜査本部の発揚状態は今やその極点に達しようとする。

ところで、警視庁が死物狂いで追求している有明荘六人の住人のうち、伯爵岩井通保と、その妾めかけで元映画女優、今は酒場「巴里」のマダムの村雲笑子、最近アメリカから来た、当時売出しのダンサー川俣踏絵の三人は、今こんなところにいる。

駿河台の郵便局からニコライの聖堂の方へ登るだらだら坂。紅梅町から省線お茶ノ水駅へ出ようとする町の中ほどのところに、「松永」という表札の出た、築地の塀を高く廻らした奥深い構えの邸宅がある。広い前庭にびっくりするような大きな古松が伸び上っていて、それがこの家の目印になる。

なにさま、然るべき紳商の邸宅とも見えるのだが、実はこれは旧東京市内二十六カ所の賭場のうち、もっとも殷賑を極める賭博場で、その方の符牒では「お茶松」と呼ばれる。

関東土木倶楽部の一方の旗頭、鶴見組野毛山の清吉の身内で入舟網之助というのがこの賭場を預っている。以前は、といってもそう久しい事ではない、つい昨年の八月ごろまでは武州小金井に繩張りを持つ、安亀事安井亀二郎がこの賭場を預っていたが、何か間違いを出かしたとみえて野毛山の大親分に盃を返され、鶴見組をお構いになってしまった。

安亀が賭場を預っていた頃は、この賭場はあまり成績のいい方ではなかった。ドブ賽ざいや験示げんじを使うという評判が立って、バッタリと淋れてしまった。

「ドブ」ともいい、六方、「臼」ともいうこの不正いかさま賽はどんなものかというと、これは賽の中に金粉をいれて作ったもので、これを壺皿にいれると居据ったまま転がらない。伏せると壺皿に入れた時出ていた裏目が出る。「両通」といって、これのもすこし精巧な奴になると、金粉の重味が両方にかかるような仕掛になっていて、賽の粉を下の方へ通して伏せると、五三一の半目が出、上に向けて振り動かして伏せると、二四六の丁目が出る。

思わず碌でもない事を叙述してしまったが、これは又聞きであって、もとより作者の実験による事ではない。この辺はとくと御諒承願う事として、安亀が盃を返されたのは、多分この辺の事情によるのだろうと察しられる。

有明荘三人の住人、岩井保通と川俣踏絵がこの賭場にいるのは、最近世界の打撃王といわれるルーブ・ベースが日本へやって来たにつき、その歓迎賭博会を催す事になって、この二人が発起人に名を列ねているからによる。

岩井は明石署から釈放されると、銀座裏の酒場「巴里」で他の五人と落合い、その足でここへやって来たものと見え、ゆうべの「巴里」における有明荘住人忘年会のそのままのタキシード姿で、自在鈎の掛かった大きな囲爐裡の側に胡坐をかいているが、さすがに疲労の色を見せて、膝に手をついてグッタリしている。

額のあたりが少し蒼白んで、貴族的というよりはむしろ詩人的ともいえる風貌を、一層メランコリックにしている。目も鼻も整い過ぎるくらいにきっぱりとしているが、永らくの荒んだ淫蕩生活で、それらはみな一種形容し難い沈滞と疲労の翳を見せ、それはそれなりに廃頽した美しさを示している。濡れたような紅い唇、何か毒々しい花のようで、いっそ無気味にさえ見える、慧眼な医師ならば、この美しい唇の上に、梅毒の明らかな先駆症状を読み取るであろう。漆黒の長髪を櫛目も見えるほどに品のいいオールバックに撫でつけ、すこしうつむき加減になって香りの高い西洋煙草を燻らしている。

三十畳ほどの広さの座敷で、今もいった通り、山家のような、いかついほど大きな囲爐裡が二つ切られ、自在鈎には赤銅あかがねの大きな薬鑵が沸々とたぎり返っている。百人分ぐらいの茶碗がそこに出し揃えられてあるほか、五つばかりの曲突くどまで押し並べられ、燗鉄瓶がその上で松風の音を立てている。

十畳ばかりの板敷の向うには、三段になった配膳棚があって、一つ一つ小蒲団で包まれた鰻丼が五十ほどズラリと並べられ、つまみ物の小丼が、これも所も狭く棚の上下に用意されている。

賭場はいま盛っているとみえ、壺皿を伏せる合間々々に凄まじいばかりの人声が沸き立つ。

その中に、時々、

「半オッド」とか

「丁イーヴン」

と咆哮するのはルーブ・ベースであろう。

見ると、ルーブ・ベースは盆茣蓙の横へ、小牛のような巨体を投げ出してだらしなく寝そべり、張方を勤める、もとさる一流新聞社の外報記者で、猿のような顔をした某何太郎という男を顎で指図している。

胴を取っている入舟網之助は、東北のさる高等学校の一年まで行き、サンフランシスコへもちょッと流れていった事のある男で、二枚重ねた大きな座蒲団の上に押胡坐おしあぐらをかき、赤い顔をテラつかせながら、

「さア、張った張ったカム・アンド・トライ・ジェンツ、今度はいい目が出るノーボデイ・ノウ・ハウ・ラッキィ・ユー・アール」

なんていうお定きまりをべらべらやる合間に、

「大丈夫シンチ、大丈夫シンチ」

「出かした、大当り」

などと、口をおかずに愛想を振り撒いている。

なるほどルーブ・ベース一人ではない、十五人ばかりの紅毛人……、そのうちの半分はまだうら若い淑女で、妙な胡坐をかいて盆茣蓙を囲みながら、しきりに金切声を上げている。この連中は外交団の中でも、選りに選った粋な連中スポヴティング・クラスで、その中には麻布のさる大使館の、伊達者と名を取った有名な参事官の顔も見える。

参事官の隣に投げやりな格恰で胡坐をかいているのは例の川俣踏絵、夜会服の裾から形のいい膝小僧を覗かせ、焦ら立たしそうに貧乏ゆすりをしている。ひどく際どい風体になっているのも気のつかないふうで、眉根に皺を寄せたり唇を噛んだり、なにさま、ひどく屈託ありげな態。

第四回、虎ノ門の晩成軒で山木元吉と怪しげな密会ランデ・ヴウをし、これもその足でここへやって来たものと見え、その時のままに皺だらけの夜会服ソワレを着ている。

上の空の様子で機械的に賭はったり取ったりしていたが、急に膝の前の紙幣を手提袋の中に納い込み、巧みに膝の下へ押し込まれていた参事官の足を無情すげなく跳ねのけると、物憂そうな身振りで立ち上り、次の間の、岩井がいる囲爐裡ばたへやって来る。

手荒く手提袋を投げ出し、グッタリと岩井の横に坐り込む。拗ねたように岩井の膝に凭れかかって、

「もう、帰って寝よう」

と、肱で岩井の膝をグリグリやる。

岩井はうっとりと顔を上げて曖昧な返事。

踏絵はじれて、

「よう、帰ろうってばねえ。眠くって溶けそうだ」

という。そのくせ別に眠そうな顔もしていない。それどころか、上ずったような目の奥から、何か炎のようなものがチラチラと燃え上っているのである。

読者諸君はすでに御承知であろう、岩井は村雲笑子を妾にして「巴里」という酒場を出させながら、一方踏絵をも情人アミにしている。抜目のない笑子にしてはありそうもない話だが、今のところ、まだ二人の関係を感付いてはいないらしい。

ところで、その踏絵の方は、岩井の目を忍んで、同じく有明荘六人の住人の一人、有名な珊瑚王の伜山木元吉と相当複雑な関係になっている事は、前回「中洲」の場で、高利貸犬居仁平の養子印東忠介の話によって明白になっている。

まるで鼬いたちごっこのような複雑多岐の有様で、作者もいささか唖然とするのだが、この分では村雲笑子の方だって何をしているか知れたもんじゃない。噂によると、住人の一人「ホヴァス」の通信社員ジョン・ハッチソンの相棒、例の「カアマス・ショウ」の団長、日仏混血児のルイ・バロンセリと、築地へんの待合からなまめかしく手を取り合って出て来るのを見掛けたという者もあるが、噂か事実か、今のところまだ定かではない。

岩井はさりげないふうで踏絵の肱を押しのけると、

「帰ろうって、どこへ帰るんだ」

「帰るというからには、有明荘へ帰るのさ」

「冗談いうな、ノソノソ帰りでもしようものなら、とんだとばっちりをくう。今度とっ捕まったら風検ぐらいの騒ぎじゃねえ、事件が落着するまでは陽の目も拝めねえことになる」

踏絵は目を瞠って、

「あら、そうかしら。……でも、花子がやったのにちがいないんだろう。あんな大痴者たわけだから、もうとっくにとっ捕まっているにきまってる」

なんて恍けたようなことをいう。何か曰くのありげなようすである。

案の定、岩井は聞きとがめて、濡れたような美しい眼で、探ぐるように踏絵の顔を眺めながら、

「花子が……、ど、どうしてそんなこと知ってるんだ。何か、花がやったという証拠でもあるのか」

踏絵は、妙なふうに唇をしぼめて、

「あるといえばある、ないといえばないようなもんだけど、……どんな証拠より確かなわけを知っているんだ」

「ほほう」

何気ないようすをしているが、この方も何やら油断のない構え。見るような見ないような微妙な細目で、チラチラと踏絵の顔を偸ぬすみ視る。肚黒い面つきである。

「今朝、鶴子がやられたと聞いたとき、わちきは、てっきり花の仕業だと睨んだんだ……わけってえのは、ちょっとゾッとするような話なんだけど……」

踏絵はジロリと上目使いをして、

「去年の十二月初めごろ、わちきは訪問着の仕立をせかせに行くと、花はどこかへ行っていない。そのうちに帰るだろうと思って、あいつの部屋へ上り込んで待ってたけど、いつまで経っても帰らない。……くさくさして、立ち上ろうとすると、足元の畳の合せ目から、紙の端のようなものがはみ出している。……ありふれた紙じゃない。むかし、アメリカで、わちきの親父が筆まめに日記をつけていた、見覚えのある古風な三河半紙だから、今どきこんな紙があるのかと、妙になつかしくなって指でさわってみると、それがずっと畳の裏のほうへ入り込んでいる。……古風な紙だにしろ、一年も二年も前からこんな風になっているとは見えない。ついこのごろ、こんな風に敷き込まれたことがわかる……。それにしても、紙がひとりで畳の裏へ滑り込むはずはないから、それを敷き込むとすれば、どうしたって畳を持ち上げなければならない理窟になる。あの華奢な花子が、自分の手で畳を持ち上げたりなんかするところをみると、花子にとって、これは何かよほど大切な紙切れだと思われる。……縁をさすって、ずっと見てゆくと、なるほど畳の裏藁があっちにもこっちにもはみ出し、おまけに黒縁こべりの上にもあちこちに藁屑がのったままになっているから、昨夜か今朝、出がけに畳を上げたのに相違ないんだな。……火箸でこじ上げるんだとみえて、三つ角になった黒縁の角が、その場所だけひどく弱っている。……一度や二度じゃない、しょっちゅう畳を起したり敷いたりしているってことがよく判るんだ。……一体、この紙きれは何なのだろうと思って、火箸で畳をこじ上げて、その紙を引き出して見たら、……さすがのわちきも、ゾッと冷水を浴びたようになって、あまり凄くて思わず、わッと声を出した」

脅えたような目付をして、

「……一体、何が書いてあったと思う」

「何が書いてあったというんだ」

踏絵は声まで慄わせて、

「それが……、「五人坊主」の呪咀絵のろいがたなんだ。……知ってるだろう、吉原の花魁おいらんなどが人を呪い殺そうとするときに使うあの「五人坊主」の絵なんだ。……まん中に呪い殺したい奴の人形を書き、右左から牛頭ごず、馬頭めずと二人の亡者に両手を引かせた絵をかく。丑の刻に座敷の丑寅に坐って、線香の火で、目、口、鼻、四肢、腹、心臓という具合に、毎日一カ所ずつ焼穴をあけてゆく。……二十一日で満願になるんだあ」

岩井もさすがにぞっくりと冷気さむけだった面持で、

「嫌な話だなあ、すると……」

踏絵はうなずいて、

「ああ、そうなのさ、……人形の胸んところ、「松谷鶴子、二十三、卯年の女」と書いてあった」

岩井は息をひいて、

「虫も殺さないような、あんな綺麗な顔をして、……凄いもんだなあ。……そうきけば、いじらしくもある。よくよく王様キングを思いつめていたんだな。……それにしても古風なことをするじゃないか。どこからそんなことを教わって来やがったんだろう。まさか、お前が教えたんじゃあるまいな」

「馬鹿。……花子の母親ってのは吉原の遣手やりてで、十二三の頃まで花も廓で育ったんだというから、きっと花魁にでも教わったのさ。あの、……娘のやりそうなこったね、ふだんでも顳顬こめかみに蒼い筋を浮き上らせて、何だか気狂いじみた目つきをしている。……あんな凄い美しい目を、わちきは生れてから初めて見た。まともに瞶みつめられるとチリ毛だつような気がすることがある。……階下したの年寄夫婦の話だと、よくひきつけて大騒ぎをさせるといっていたっけが、気狂いの血統すじなのかも知れないね。……思いつめたら、何をやり出すかわからないような凄いところがある」

岩井は眼に見えぬほど眉を顰めて、

「なるほど、それはわかったが、花が鶴子を殺やったというのは?」

踏絵は足を踏み伸して、

「ま、その日は「五人坊主」の絵を畳の下へ入れて、なにくわぬ顔をして飛び出したが、それが思いに残ってどうも凄くていけない。それから十五日ほどした朝、花子が出て行った様子だから、素人家しもたやの夫帰にいい加減なことをいって二階へ上り、畳をめくって五人坊主を見ると、呪いの灸痕はちょうど臍のところまでいっていて、あとひと焼、心臓に止めを刺せば満願になるようになっている。恐ろしいというよりも、執念深いのに慄え上って、その日もまた這うようにして帰って来たんだ。……その次の晩、今晩はいよいよ満願の日だと思うと、さすがにわちきも落着かない。「五人坊主」の呪いにはずれはないと口伝えにもあるんだが、すると、いよいよ今晩鶴子が呪い殺されるのかと思って、どうにも部屋にいたたまれない。凄いは凄いなりに、どんなふうになって死ぬのか見てやりたい気もする。……とうとう我慢し切れなくなって、夜の十一時ごろ鶴子の部屋に入って行くと、鶴子はいつもの通り素肌に長襦袢一枚ひっかけた、だらしない格恰で寝椅子デイヴァンの上に引っくり返って煙草を喫っている。一向どうという様子もない。……花札はなを引こうというから六百拳をしているうちに午前二時になった。……さすがに何となく凄いんだな。スタンドは藤色の厚いシェードに被われているんで、部屋の隅々は澱んだように暗い。思いなしか、その闇の中に、亡者や、餓鬼や、精霊すだまのようなものが数限りなくムラムラと犇めき合って、爪の生えた長い指で一斉にこっちを指差しながらゲラゲラ笑ったり、舌を出したり、囁いたりしているように思われる。……冷汗で身体じゅうが濡れたようになって、ゾーッと総毛だって、今にも気が遠くなるような気がする……ところが、鶴子のほうは一向平気で、アブサンを呷りつけながら賑やかに喋りたてている。……そのうちに二時半を打ち、三時を打ち、とうとう三時半になったが、鶴子はビクともしない。呪い殺されるどころか、大虎になって、大変な話を手真似でやり出す始末なんだ。……その晩は鶴子のところへ泊ったが、結局、何のこともなかった。何かさわりがあって呪咀がきかなかったのだろうが、そいつがいけないとなれぁ……」

岩井は目差しを鋭くして、フイと踏絵の方へ顔を向ける。さし迫ったような声で、

「成程、殺りかねないな」

とズカリという。

「……あの娘ならお馬婆とも馴染んでいて、お馬の部屋にあるスイッチを切り換えると玄関の電鈴が鳴らなくなることも知っているし、それに、時々お馬の走り使いをするので、玄関の合鍵を預っているはずだから、有明荘へいこうと思えば、朝でも夜中でも勝手なときに入っていかれる。……階下の老人夫婦は暮から郷里へ帰っていないし、崖下にはあの素人屋が一軒あるきりで、周囲は人ッ気のない山王の森だ。誰にも見とがめられる気づかいはない」

と、言葉を切って、

「それも、窓から突き落すなんてのはいかにも女らしいやり方じゃないか、殺意よりも憎しみが加わっているような殺し方だからね。やり方が陰性だよ。これが男で、どうしても殺そうというんなら、あんな不確実な方法を選びはしないだろう。……窓から崖下まで三十尺以上はあるにしろ、突き落しただけで必ず絶命するという粗雑な考えはしない。ひょっとして、足でも折っただけで生きてでもいたらどうするというんだ。……決してそんな馬鹿なことはしない。……そればかりじゃない、ちょうどその真下に花子の二階の窓があるのを知りながら、いつ見られるとも測られないそんな危険な場所から投げ出そうなどと考えないだろう。この下に花子の窓があるという心理的な抑制だけでも、あの窓は使える筈はない。……ところが、鶴子はその窓から投げ出されている」

岩井は一種惨忍な笑い方をして、

「これだけでも鶴子を投げ出したのは花子だといえるような気がする。なぜかといえば、この崖の下に家があるということは、花子の場合は心理的な抑制にならないからだ。この窓から投げ出したって誰にも見られる心配はないということは花子自身が誰より知っている。のみならずこの、窓を使うことは花子にとってはもっとも適切で、またはなはだ弁明的イクスキューザブルだ。……尋問を受けたとき、まるっきり気がつかなかったというよりは、こんな奴が投げ出すところを見たといって、犯人の形象を描いて、警察の注意をそのほうに外らすことも出来るからだ。いずれにしてもたいしたことをいう必要はない。どうでもいい逃れられるような、あやふやなことをいっておけばいいのだからね。あの鋭すぎる娘なら、それくらいのことはやってのけるだろう」

踏絵は頷いて、

「それはそう。……どう考えても一番やりやすいのは花なんだ。わちきたちが「巴里」で忘年会をして朝まで帰って来ないことも知っているし、鶴子だけが有明荘に残っていることも知っているし、わちきたちがお馬へ年越しの角樽を付け届けしたことも知ってるし、……いずれにせよ、鶴子を殺るなら、三十一日の夜から朝へかけてやるほか、もうその機会がない。二日の夜になると、鶴子は王様と二人で熱海へ行って、ひょっとすると、その足で上海シャンハイあたりまで王様を送って行くことになるような手はずになっていたが、この辺の事情は、わちきたちのほかは花子だけしか知らないのだが、その適切の日を選んだということだけでも、いよいよ花がやったという疑いが深くなる」

といって、股の奥まで見えそうな、ひどい格恰に足を組みかえると、膝小僧の上に顎をのせ、

「そればかりじゃない、まだこんなことがある。……わちきが今朝「巴里」であんたに別れて虎ノ門を歩いていると、向うからひどく蒼い顔をして花子がやって来るから、だしぬけに声を掛けると、まるで電気にでもかかったように飛び上るんだ。何気ないふうで、今朝の有明荘の騒ぎを知っているかと訊ねると、あのテキパキした娘が、まるで唖になったように、ろくすっぽ物のいえない始末なんだ。……手を握ってみると、こっちの手が濡れるほど冷汗をかいてブルブル慄えている。この小娘が、と思ったら、可哀そうより憎らしくなって、花ちゃん、鶴子さんが死んだんですってね、お目出度うといってやると、まるで雷にでも打たれたように、馬鹿みたいに口を開いてわちきの顔を瞶め、こう、眼が釣るし上ってきて、今にも痙攣ひきつけそうなようすをするから、もうこれで話がわかった、……花ちゃん、新年お目出度うといい直してやると、ようやく生きかえったような顔になって、あら、申し遅れまして御免なさい、新年お目出度うございます、どうぞ、今年も御贔屓に、といって笑ったけが、その笑い顔っちゃないんだね。……淋しいような、怨めしいような、まるで臨終のひとの微笑のような、何ともいえないはかない笑いかたをするの。わちきはつくづく見て、思わず感じ入っちゃった、……人を殺した奴ってのはこんな笑い方をするのかと思ってね。あの笑い顔が今でも眼から離れない。殺るときは夢中なってやったのだろうけど、殺ってしまうと、さすがに恐くなって、自分の部屋にもいたたまれなくて、あんなところをウロウロ歩いていたのだろう。娘っ子は恐いね、思いつめると、何を仕出かすかわからないから」

岩井は笑って、

「素質だよ、素質だよ。下町の老舖しにせの箱入娘や、廓の内所で育った娘なんかによくあんなのがある。むかし俺の友達がそんなのに思い付かれ、うるさがって振ったら、今晩一晩きりといって添寝をして、夜が明けた、そいつの頸動脈を剃刀ではねっちまいやがった。悪童ランファン・テリーブルだ……それにしても、もう捕まったかな」

踏絵は薄い唇を反らして、

「捕まらなけゃあ、わちきが密告サシてやる」

岩井は思わず眼を瞠って、

「へえ、何か恨みでもあるのか」

踏絵は空嘯いて、

「恨みなんかない。あまりいけ図々しいからさ」

といってるところへ、使番に案内されて村雲笑子が入って来た。銀糸の入ったお召の二枚袷の裾をしどけなく足首に絡ませ、握拳を袖にいれて弥造をこしらえている。大分底が入っているようすで、張りのある目元をほんのりと染め、足元をふらつかせながら土蔵仕立の重い引戸の前に立ってジロジロと二人の方を眺めていたが、急にキッとした唇を噛むと、懐手をしたままスラスラと二人の側に寄って来て、突っ立ったまま、凄艶な声で、

「おや、御馳走さま。それゃアないでしょう、こんなのがアメリカふうか知らないが、すこし見境いをつけておくれ。黙ってれゃアいい気になって、いい加減にしやがれ、女あま」

と地団駄を踏む。

踏絵の方は一向平気なもので、ニヤニヤ笑いながら、

「何だ、酔ってるのか。酒粕の焼いたのはご免だよ。寄るな、寄るな、移り香がすらア」

笑子はたちまち目を吊し上げて、

「畜生、ぬかしやがったな」

と掴みかかって行くのを、さすがダンスの先生だけあって、身軽にその手の下を潜り、ステップでも踏むような軽々とした足取りで囲爐裡の向う側まで逃げて行くと、ペロリと赤い舌を吐いて、

「笑ちゃん、止しなよ、こんな浅黄裏は外国アチャラで散々喰いあきている。気をもむな、馬鹿々々しい」

裾を乱して追い縋ろうとするのを、岩井は邪険に引き戻し、

「止せ、下らねえ。どこで喰い酔うて来やがったんだ。ちぇッ、いやな面だ」

笑子はぐたぐたと坐り込んで、

「いやな面ではばかりさまね。どこで飲んできたか聞きたいか。いままで「呉竹」でバロンセリといういい人と飲んでいたんだ。どうだ、もっとくだいた話をしてやろうか」

凄まじい面つきで岩井の方へ這って行く。岩井もさすがに扱いかねて、

「こいつには泣かされる、食いものを当てがわないと、たちまちあばれやがる。こっちへ、来い」

と手を取って引き寄せると、笑子はその胸ぐらに武者振り付いて行って、岩井を仰向けに突き倒すと、胸の上に馬乗りになり、頬といわず顔といわず滅多無精に掻き毮りながら、

「どうだ、ご免なさいか」

岩井は手で顔を防ぎながら、

「謝まった、あやまった」

「ご免なさいといえ」

「おお、ご免なさい」

笑子は岩井の顔を足袋の裏で一つ踏んづけておいて、

「謝まったというのならゆるしてやる。今度ふざけた真似をしやがったら承知しないぞ」

というと、急にケロリとした顔で、

「賭場を覗いて来るか、大分盛っているわね」

と、長い裾を引き摺りながらそっちの方へ入って行く。

様々な掛声一しきり。賭場はいよいよ活気を呈する模様。

岩井は踏絵と目を見合わせて狡そうにニヤニヤ笑っていたが、何を聞きつけたのか、急に目付を険しくして片膝を立てる。

賭場の鴨居についている大きなブザーが底気味悪く唸り出す。賭場の電灯が瞬くように消えたり点いたりする。

囲爐裡の角をひらりと跳ね越えて飛んで来た踏絵の手を取ると、岩井は配膳棚と反対の壁際へ飛んで行き、壁のように見せかけてある土塗りの盲扉を開けるより早く、ダ、ダ、ダ、ダと階段を踏み鳴らしながら、暗く口を開けた地下室の方へ駆け降りて行く。

降り切った所は人が立って歩けるくらいの暗道になっていて、三燭ぐらいの薄暗い電灯が間遠に点っている。

この暗道は二十間ほど先で直角に折れ曲って、お茶ノ水の土手の横ッ腹へ抜けるのである。二人がその曲り角まで走って行くと、壁際に五十ばかりの、小さな丸髷を頭にのっけた老婆が壁に凭れるようにして寝ている。いま警視庁が全機能を挙げて捜査に熱狂している、故松谷鶴子の家の通い婆、あのお喋りなとめは、寛怠至極にも、こんなところに寝っ転がっている。

いや寝てるのではない。殺されているのだ。古繩で首を絞められ、黒焼屋の天井にぶら下っている猿の乾物のように、歯を剥き出して、恨めしそうに天井を睨んでいたのである。

二十六、真名古抒情の事    並に二人の総監の事

すこし広すぎる趣きの捜査課長室に、電灯ばかりがいたずらに明るく、周囲の白壁がチカチカとその光を投げ返す、うそ寒い風景。

警視庁は今ひっくり返るような騒ぎを続けているのだが、ここばかりは森閑と、いわば一種閑寂な様子でしずまりかえっている。

人の心を撫でさするような憂鬱な真名古の声がほのぼのと続く。何か人を眠りに誘い込むような奇妙な調子を持っているので。

実にどうも異様なやり方だと思うほかはない。いやしくも捜査課長ともあるべき真名古が、これほどの騒ぎを一向に意にも介さぬふうで、呑気らしくツルゲネーフの散文詩などを朗読しているのである。職務に熱中するあまり、真名古はとうとう気が違ってしまったのだと思うのは、ひとり作者だけではあるまい。いずれにしても常軌を逸したやり方という他はないのである。真名古の向いの椅子には、有明荘の崖下に住む例の花という美しい縫子が腰を掛けて、神妙にそれを聞いている。あまり面白そうな顔もしていない。いや、迷惑そうだといったほうがいいのであろう、玉繭の着物の毛端をむしりながら、しきりにモジモジしていた。

前回、真名古が総監室でひどく廻りっくどい事を述べたてたのち、この課長室へ戻って来て、何事かを待ち受けるように、ひとり机に対して蕭然と坐っているところへ、金春町の「中洲」で志摩徳、松沢、幸田、印東などという面々に山木元吉の居所を知らせろと責めたてられ、あわや裸に剥かれて拷問されようとするところを、いづみという芸者に助けられた花子が、その足で真名古のところへ駆け込んで来た。

松谷鶴子の殺人事件のあった朝の三時ごろ、山木元吉が屋根伝いに「すず本」を抜け出し、ハッチソンが乗って来たロード・スターでいずれかへ走り去り、五時頃になって帰って来たのを印東忠介が手洗場の瓢箪窓から眺めていたこと、右の人差指と、中指と、薬指との爪が摺り減っていて、爪の間に白い壁土のようなものが一杯に詰っていたこと、腕時計のガラスが壊れていたことなど、「中洲」で印東が話した次第をくわしく物語ると、真名古は事務机の上に頬杖をつき、やや長い間黙然と目を閉じていたが、急に本棚の中から「ツルゲネーフの散文詩」を取り出し「雀」というところを読み出したところで前回の終りになっていた。

花の話がすむと、真名古が不意に朗読を始めた事は今いった通りだが、本棚の中から本を探して戻って来るわずかな時間の間に、真名古はこんな奇妙な事をしている。本棚の中に首を突っ込むようにして本を捜しながら、何かブツブツ独り言をいっていた。後先はよく聞きとれなかったが、「アウフクレールング」という言葉だけは微かに聞き取られた。

Aufklärung はドイツ語で「捜査」という意味である。本棚の横に送話器の口が開いていて、これが交換台につづいている筈だから、すると、真名古は何気ない顔で何か命令を発したのかも知れない。

思うに真名古は花の家の家宅捜索をしろと命令したのかとも思われるが、もちろんこれは作者の推察で、真偽のところは定かではない。

何ともつかぬこんな微妙な事があったのち、真名古は薄い横文字の本を持って戻って来て朗読を始める。

読者諸君は御存知であろう、「雀」というのは、風で巣から落ちた小雀の側へ猟犬が忍び寄ると、親雀が舞い降りて来て、身をもって小雀を庇おうとする話である。

どうも真名古のする事はわからない。まるで検察のためにこの世に生れて来たようなこの男の冷徹な頭脳は、今一体何を考えているのか。……まるで亡者のように痩せ衰えた、影の淡い男の前に、花が開いたような、美しい健康に満ちた娘が対座しているさえ、余り奇抜なコントラストなのに、このいかめしい部屋の趣きにたいして、散文詩などはなはだ不釣合なのである。

この大騒動の真ッ最中に、真名古が何のためにツルゲネーフなどを読み出したか、凡庸な作者の推察力ではとても窺知すべくもないが、ふと見ると、又しても真名古は奇妙なことをやっている。

書類のうず高い事務机の端の方に、小さな屈折鏡のようなものがあって、本を見るようなふうをしながら、真名古の視線は鋭くその鏡の面に注がれているのである。鏡の中には花子の美しい横顔がはっきりと映っている。真名古はさっきから、鏡に映る花子の表情から目を離さずに、仔細に観察していたものとみえる。

真名古は極めてノロノロとやる。墓場からさまよい出した亡霊のようなこの男の、どこからこんなリズミカルな声が出るかと思うほど、それは清く澄んだ、澱みのない声で、イントネイションの美しさは、如何なる名優といえどもこれに及び得るものはあるまい、人の心を夢心地に誘い込むような、不思議な力を持っているのである。

「……犬は静かに歩みよった。するとふいに近くの木から胸毛の黒い親雀が、犬のすぐ鼻さきへ石のように飛びおりて来た。羽根をふり乱し、哀れな声をしぼって、二度ばかり、白い歯をむく犬を目がけて襲いかかった。……親は仔雀の命を身をもって庇おうとしたのだ。けれど鳴く声は次第に狂おしく嗄れていって、とうとう地の上に落ちてしまった。……私はこの勇ましい小鳥のまえに、その愛の激発エランのまえに、思わず蕭然と襟を正した。――愛は死よりも強い。それによってのみ生活はささえられ、またおし進められる」

この崇高な親雀の話は、花にもよく理解されたものと見え、初めは当惑そうにモジモジしていたが、おいおい顔を上げて熱心に聴き入るようになった。鏡の中に映っている花の顔の中には、素朴な驚きと歎賞の色が色濃く漂い、感動したように目さえ輝かしている。

前後の様子から思い合わせると、真名古は何か重大な目的があって親雀の犠牲の話をし、花子の表情の中に、それに対する反応を読み取ろうとしていた事が初めてわかる。ここまで来れば、作者にも真名古の意図をおぼろげながら推察することが出来るのである。この懐疑的な人物は、てんで花のいうことを信用していなかったのだ。有明荘の惨劇を自分の二階の窓から見ていたという事も、毬栗頭の事も、腕にキラキラ光るものを巻き着けていたというあの証言も、また今の山木元吉の奇怪な行動の話も、このロマンチックな娘が多分誰かを庇うために考え出した、根もない作り話ではないかという疑念が起き、それを確かめるためにこんな手の込んだ事をやっていたのだと思われるのである。

真名古は一体どんな反応を求めていたか、それはもとより知るに由はないのだが、今もいったように、鏡の中にはうっとりとして、少し口を開けた、極めて単純な表情をした花子の顔を「顔を」はママ映っているだけである。不安の翳や恐怖の色などは露ほども浮かんではいない。

真名古は膝の上に静かに本をおくと、

「どうだ、美しい話だね」

という。花はうっとりしたような声で、

「気の毒な話ですわ。それでその雀はどうなったの。犬に喰べられてしまったのでしょうか。後を読んでください」

真名古は唇の端を皺めて、

「もう、これでお終いだ」

花子は目を瞠って、

「つまらない。なぜそれでお終いなんですの」

「なぜこれでお終いにしてあるかといえばだね、作者はその後はこちらの想像にまかせたかったからなんだろう」

といって、うっそりと面を上げて花子の顔を瞶めながら、

「お前さんはどっちにしたい? 雀を犬に喰わせたいか、それとも、雀を助けたいか」

「あたしなら、もちろん雀を助けたいけど、しかし犬は同情なぞしないでしょう。喰べてしまうにきまってます。やむを得ないことですわ。……たとえばあなたが、犯人が気の毒だと思ったって逃がしたりなどしないでしょう、それと同じことですわ」

真名古は妙な咳払いをして、

「そうだ、そうだ。決して逃がしたりなどしない。……お前さんは美しくて、そのうえ大変気だてもいいようだ。率直にいうと、私はお前が好きだ、が、もしお前が犯人なら、お前を見逃すようなことはしない。……お前のいう通り猟犬に同情心などあるはずはないからね。犬にとって、雀は、たとえどんな哀れなようすをしようと、ひっきょう獲物でしかないのだ。……こういう話はいやかね。こんな男と向きあっていると思うと、あまりいい気持はしないだろう」

花は、むしろ、あどけなく首を振って、

「恐がらせようたって駄目。あたし、あなたのやさしいところを見ているのです。けさ、日比谷であたしが人雪崩の下敷になって、もう少しで押し殺されようとしたとき、あなたはあたしの上へ押し重なった人を、まるで狂気のようにはね除けて下すったんですってね。やさしい心を持ってなければ出来ないことですわ。また、それからのあたしに対するなされ方だって、丁寧すぎるくらいで、何だか妙な気持がしたくらいですわ」

真名古は何とも形容のつかぬ苦っぽろい笑い方をして、

「どんなように妙なんだね」

「どうしてあたしにこんなに親切にして下さるの、それが不思議でしようがないのです……、ね、なぜですの」

真名古は答えない。またしても、妙な咳払いをすると、例によって、陰気に目を伏せたまま化石したようになってしまった。

部屋のどこかで微かにブザーが鳴る。聞きようによればどこかで地虫が鳴いているような、そんな仄かな音である。真名古は悒然たる面持で立ち上ると、ちょっとといってゆっくりした足どりで部屋を出て行ったが、五分ほどするとまた戻って来て、花と向き合って掛けると、

「どうだね、何かも一つ読んでやろうか」

といって本を取り上げる。

「今度のは「雀」の話よりもう少し面白いかもしれない、よく聞いてなさい」

ゆっくりとページを返しながら、真名古はまた朗読し始める。

「これは「呪咀」という題だ。では、読む。……ある娘が呪い殺した女の霊が、ある晩、その娘の部屋へよろめき出て来た、そして、こんなようにいった……」

真名古はひどく出鱈目なことをいっている。

ツルゲネーフの原文はそんなふうにはなっていない。

(バイロンの「マンフレッド」を読んで、かれのために身を亡した女の霊が不気味な呪咀を吐きかけるところに来ると……)

と、こういうふうにはじまるのである。それを、真名古は続いてこんな具合にやる。

「お前はわたしを呪った。この世で呪われた人間は、その復讐を遂げるまでは転生することはできないのだ。お前はわたしを呪ったばかりではなく、窓から突き落してわたしを殺した。だからわたしはお前に二度の復讐をしなければならない、といって、自分の頭に両手をかけると、肩から首をひき抜いて、それを娘の膝に投げつけた。……おい、どうしたんだ、気分でも悪いのか」

花子はひどい反応を示した。今にも卒倒するような凄まじい顔つきになって、椅子から立ち上ると、鋭い声で、

「いやいや、そんな話はいや。お願いですからもう止してちょうだい」

と叫ぶと、落ち込むように椅子に坐って、両手で顔を覆ってしまった。

真名古は一向何事もなかったような、冷々淡々たる面持で花子の方に近づくと、その肩に手を掛け、引き起すようにしながら、

「これは悪かったな。恐がらす気はなかったんだが。……これで朗読はお終いだ。もう、帰って寝なさい。すこし疲れてるようだから」

花はまるで瘧おこりに憑かれたように、ワナワナと体を慄わせながら微かに頷くと、真名古に手を取られてよろめくように課長室を出ていった。

真名古は机の前へ戻って来ると、ポケットを探って一枚の紙片を取り出して机の上に置き、腕を差しこまぬいていつまでもそれを眺めている。紙の表には稚拙な筆で牛頭馬頭と、二人の亡者に手をつないだ「五人坊主」が書いてあった。前章で、踏絵が話した灸の痕だらけの、松谷鶴子の呪咀絵だったのである。

扉をノックして例の四銃士の一人が入って来た。扉の前で直立不動の姿勢をとると、

「取調べの結果、いささか腑に落ちぬ事情が判明しました」

真名古は返事をしない、が、目をつぶって報告を聞く姿勢をとる。銃士は感情の翳の差さぬ冷静な面持で、

「先ほど、調査の御命令を受け、今暁、午前三時五十分から四時五十分の間に、総監殿が溜池交叉点から桜田門までの間を慰労巡察されたという御報告を差しあげましたが、ところが、これと同じ時刻、すなわち、午前三時五十分から四時五十分までの間に総監殿が、深川区第二歳晩警戒哨、清澄公園角から、向島押上町、猿江公園、洲崎弁天町までの間を巡視されていたことが判明いたしました。……つまり、二人の警視総監が同時刻に、一人は赤坂区、一人は深川区を巡視されたことになるわけであります」

といって、ポケットから一枚の紙片を取り出すと、

「各哨所を御通過になった正確な時間は、この報告書に認めておきました」

その紙片を机の上に置くと、一礼して出て行った。

二十七、道路工事の事    並に伏樋ふせどの迷路ラビリンスの事

さて、日比谷公園は、前回に引き続いてまだ夜である。

池の岸のアーク灯が煌々と冴え返り、青銅の鶴は夜目にも白い幽玄な水の穂をキラキラと夜空に噴き上げる。それを見おろす岸の高みに、夕陽新聞記者古市加十と安南国諜報部長宋秀陳が佇んでいることも前回と同じくである。ただ前回と違うところは、古市加十が腑抜けのようになってベンチにうずくまり、だらしなく口を開けて噴水の鶴を瞶めていることだけである。

加十は秀陳から、今朝噴水の鶴が朗々と「安南の国歌」を朗誦したと聞くと、たちまち雷にでも打たれたようになって、ベンチの上へ腰をぬかしたまま、かれこれもう三十分以上もこんなふうにしている。一体、何がそれほど皇帝を驚かしたか知らないが、あまりに様子が妙なので秀陳も迂濶に御言葉を掛ける事が出来ない。ひたすら謙譲の意を示すため、皇帝のひそみにならって、これもああんと口を開いて鶴の方を眺めている。こんなあんばいで時間が経つ。近くの時報が八時を打った。

加十は急に身動きすると、

「ああ」

と欠伸あくびをするような声を出す。

欠伸どころの騒ぎじゃないんだ。今加十の頭の中は疾風怒濤時代ストルム・ウント・ドランクの真っ只中にいる。陶酔といおうか戦慄といおうか、或はまた法悦といおうか、一種名状し難い酩酊状態が、さなきだに朦朧たる加十の大脳を麻痺させ、しんじつ夢に夢見る心持。一向取り止めなくなって、あっけらかんと口を開いていたのである。

その口の中へ颯と吹き込んだ夜嵐に、ようよう我に返り、改めてつくづくと思い返せば、実にもう驚天動地の大スクープがつい目と鼻の先にたぐまっていることを自覚せざるを得ぬ。

皇帝の模造品イミテーションまで作って、警視庁が捜査に狂奔している、当の目的物、高貴なる被捜索人は、ついこの目の下にいる。

安南皇帝は噴水の鶴の下にいる!

二十九年の半生を通じて、今日今夜くらい激しい衝撃を受けたことはなかった。目を廻して引っくり返らなんだのが不思議なくらい、事実は小説より奇だというが、まるで童話の世界にいるようで、どうも事実と思われぬが、皇帝が目の下の鶴の噴水にいるということは、どうも紛れのない事実だと思われる。

秀陳の一言を聞くと、卒然たるインスピレーションが稲妻のように加十の脳底に差し込み、あらゆる秘密の全貌と諸関係が明白な光の下に曝けだされてしまったのである。

泣く筈のない青銅ブロンズの鶴が鳴いた天変不可思議も、安亀が「唄う鶴の噴水」の会を壊しに来た理由も、何もかも、すっかりこれで判る。

しばしば述べたように、噴水の鶴が歌を唄うなどといいだしたのは、夕陽新聞社長幸田節三の相棒、読者各位辱知の、日比谷公園々丁長酒月守の人を喰った発案で、もとより根も葉もない事であった。幸田節三というのが、これまたその方では人後に落ちぬ大人物だから、酒月の思い付きを聞くと、そいつはいい、それを種に一仕事しよう、で、当時売出し中の「鶴の卵」石鹸とタイアップし、名士博士を総動員して、連日誇大な記事を掲げ、一月一日午前九時十二分を期して鶴の噴水が鶴く「鶴く」はママと宣伝し、およそ三千人からの群集を池の周囲に集めた。この非合法の会合が定刻前に解散されるのを見越して、その前に逸早く会費を掻き集めるつもりだったのだが、天なる哉命なる哉、まるで悪党共の鼻を開かせるように、喨々と鶴が唄い出した。

この現実世界にありそうもない事だが、仕掛けを明かされると簡単至極な話。鶴が唄ったのではない、噴水の下にいる皇帝が唄ったのである。何のために救いを求めずに呑気らしく「安南の国歌」などを唄われたのか、その辺の消息はつまびらかではないが、元来皇帝は詩人的風格を有される方であるのみならず、一方に充分にユーモアも解される達識であられるから、このような逆境にあっても王者の貫祿を示すため、こんな非凡な所為をなされたのだと思う他はない。

以上は加十の粗雑な頭でまとめられた考えだが、作者には又別な推察があるのである。

真名古の話では、皇帝はクロロフォルムを嗅がされて運び出されたという事だったが、してみると、皇帝はその節まだ麻酔の中を彷徨していられ、国祭日の夢でも見ていられたのではなかろうかと思う方がどうやら堅実のようである。

こんな些末な事はどうでもいいとして、ここまで辿り着くと、何のために安亀の一派が「歌を唄う鶴」の会を壊しに来たか、その意図も大略察しられるのである。

思うに安亀の一派は、何かためにする目的で皇帝を噴水の下に監禁したのだが、折も折、幸田、酒月の二人が人を喰った集会をやり、噴水の周囲に雲霞のように人を集めてしまった。ひょっとして王様に呼び出されでもしたら手に負えぬ始末になるので、噴水の鶴が定刻までに鳴かぬのを口実に、この会を壊すつもりで一暴れあばれたのだが、肝心のところで鶴に鳴かれ、びっくり敗亡して尻尾を巻いて逃げ出したものと思われる。

さすがに新聞記者の端っくれだけあって、無駄に腰を抜かしていたのではない、どんよりした頭の中で大体これくらいのことは考えていたのであった。

それはとにかく、一体だれが何の目的でこんなところへ王様を隠したのだろう。加十はしきりに首を捻ってあれこれと考えるのだが、どうもその点が腑に落ちない。

日本における新興コンツェルンの双璧、林謹直の林コンツェルンと小口翼の日興コンツェルンが、安南のボーキサイト礪山の採掘権を回って劇しい争奪戦を演じていることも、皇帝と林の間にまた新たな契約が結ばれかかっていることも、かねて加十は知っている。その日興の傘下にある野下山の一味が日比谷で騒いだとすれば、皇帝を誘拐したのはやはり日興の仕業なのだと思う外はない。林の契約を妨害し、林の勢力を削ぐためにやった仕事のようにも考えられるのだが、すると大金剛石の方はどうなる。どうもこの辺のウマが合わぬのである。

また、皇帝を監禁するにしても、なんの必要があってこんな場所を選んだのだろう。典雅なようすをした、愛すべき鶴の噴水台の下へ皇帝を隠すなどというのは、なかなか詩的でもあり、一種瓢逸な趣きもあって、この奇抜な思い付きには同感を感じないでもないが、それにしてもすこし恍け方の度を超え、いささか目的に副わぬようである。噴水の鶴の下などは皇帝監禁の場所として、決して最上のものでないことは、すでに鶴の口を通じて皇帝の唱歌が地上に洩れたことによっても、そうと断定出来るのである。皇帝が歌を唄っている間は安全だが、もし悲鳴でもあげたら、たちまちその所在を曝かれてしまうことは、だれにだって容易に考えられるのである。強いてこんな不安心なところへ隠さなくとも、地下室なり物置きなり、いずれにせよもっと安全な隠し場所はいくらでもある筈である。

加十は溜息をついて、

「どうも合点がゆかない。何のためにこんな奇抜なところに皇帝を監禁したのか、その了見が判らない。……こうなれば、皇帝が自発的にあの下へ入り込んだのだと思う外はないが、しかし、皇帝がいくら酔狂でもそんなつまらんことはしないだろう」

と呟きながら思案投げ首の態だったが、やがて急に膝を打ち、

「フム、少し判りかけて来たぞ。……思うに、こんな筋道ではなかったろうか。……つまり、皇帝は何者かに誘拐されてこの近くまで来た時、どんな事情かでその手から脱れ、公園の中へ走り込んだが、身を隠す場所に困じ、あの皇帝のことだから、何か非凡な方法によって鶴の下へ逃げ込まれた。ところが誘拐者の方は皇帝ほどの智慧はないので、鶴の下へ入って行かれない。何とかして引き出そうとまごまごしているうちに夜が明け、おまけに例の「唄う鶴の噴水」の会が始まり、いよいよ以て剣呑なことになった。下手にすると所在が判ってしまうので、公園の群集を追っぱらうつもりであんな騒ぎをやったのに違いない。……この推理には幻想的な部分が多くてまだ精密とはいえないが、しかし、まんざらまるっきり見当違いだとも思われない。多少の誤差は追々修正するとして、かりに皇帝が自分で噴水の鶴の下へ入り込まれたとしたら、一体どんな方法を用いたのだろう。多分飛躍した手段によられたのだと思うが、その方は調べれば判るだろう。……北大の土木科なんていう、とぼけた学業を修めたことを後悔しない日もなかったが、災厄も三年経てばで、図らずもその知識がこんな時に役に立つ。……よし、では、これから早速噴水の周囲を調べて見よう」

と呟きながら立ちかけ、少し離れたベンチに畏まっている秀陳の方を盗み視ながら、軽く舌打ちをし、

「ちッ、どうもあのへちま野郎が邪魔だ。といって、先に一人だけホテルに帰してしまうのも都合が悪い。……よし、では、あいつをどこかへ待たせて置いて……」

加十は秀陳の方へ近づいて行ってその肩を引っ立て、

「おい、秀陳。お前に頼みたい事がある。少し厄介なことなんだが……」

先ほどから皇帝のご様子を見るところ、嘆息をなされたり独語をなされたり、はなはだ胡乱なようすを示されるので、しきりに胸を痛めていたのである。御酒気かと思うとそうでもない。近ごろ、安南における反皇帝派一味の暗躍などあり、御心痛のあまりもしや錯乱されたのではなかろうか、もしそうなら、早速医家へお伴い申さねばならぬと手ぐすねひいていたのだが、見受けるところ皇帝におかれては、さして取乱したようなご様子もないので安堵の胸を撫でおろし、直立して敬礼すると、

「手前ら、殿下の御命令をお待ち申しているのでありまする。たとえ、いかなる御命令にもせよ、しょせん、手前らは一命にかえて仕おおわせるのでござります」

加十は横柄な口調で、

「よし。頼みというのは外でもないがな、……秀陳、お前は自動車を見たことがあるだろうな」

「つがもない。どうして手前らが自動車を知らぬことがござりましょう」

「ああ、そうか。……では、自動車の一番先っぽに、エンジンを冷やす水を入れる孔があって、その蓋にいろいろ粋なくふうをこらしたものがあるのを知っているか」

「存じております。……たとえば、マーキュリーの像であるとか、或いは翼を伸べた鷲、時にはただ河童の皿のようなものを被せただけなのもござります」

加十は手を打って、

「それだ。少し厄介な仕事だが、お前はこれから銀座の松坂屋の前へ行って、十時から十時四十分までの間に、河童の皿のついた自動車が何台通るか正確に数えて十一時までにここへ戻って来い。……これは安南帝国の運命に重大な関係をもつあることで、その真意はお前にも明かすわけにはゆかぬ」といって腕時計を出して眺め、

「もう、十時十分前だ。まごまごして時間に遅れてはならん、さ、早く行け」

秀陳は直立不動の姿勢をとると、

「手前ら、これより銀座松坂屋の前に赴き、十時から十時四十分までの間に、河童の皿のついた自動車が何台通過したか、それを数えまして十一時までに再びこの場所へ立戻るのでござります。では、これより」

といい放すと、一礼して八つ手の小径の砂利を蹴って正門の方へ駆け出して行った。

加十はそれを見すますと、土手を池の方へ降り、汀づたいに噴水の傍までやって行くと、突然松の下闇の中から二人の男がヌッと立ち現われ、前後から加十を押し包むようにしながら、その一人が、

「貴様は何だ。……なんでこんなところをうろうろする」

と叱咜した。読者諸君は御存知でしょう。今朝、鳴く筈もない鶴が鳴いたのは、てっきり幸田らが何か鶴の中へ仕掛けをしたという警視総監の見込みで、いずれ明朝鶴を分解してそのカラクリを引出し、今度こそは有無をいわさずに幸田の首根っ子を押えてやろうという大へんな意気込みで、幸田に仕掛を取出されないように、そのため張番させてある私服たちだったのである。

加十はひと眼でそれと見てとった。しかもこの二人は毎日警視庁で顔を合わす馴染の連中で、今こそ附け髯をつけているからいいが、もしここから引き立てられでもしたら、一ぺんに化けの皮を剥がされてしまうから、例によって皇帝の威力で撃退するほかはないと思い、急に身を反らせると、実にもって重々しい声で、

「そういう横柄なもののいい方をするところを見ると、君たちは警察の人なのですね。……職権をもっておたずねになるならばいかにもお答えしましょう。驚いてはいけない、……私は当時帝国ホテルに滞留している安南国皇帝宗竜王です。……して、私を引き留めになられた理由は!」

始皇帝張りの大袈裟な黒髯をゆっくり撫でながら、次第によっては許さぬと、キッと二人を睨みつける。今朝以来このテはたびたび用いたので、もうすっかり板につき、いわば威風堂々といった体なのである。

今朝、アパート有明荘で皇帝を鶴子の加害者として引っ括った溜池署の巡査部長が、上長から散々のお叱り受けたことは、この連中の間にも評判になっていたと見え、安南皇帝と聞くよりたちまち悚み上ったようになって、

「これは、……失礼いたしました。どうもお見外れ申しまして……」

加十はひっくりかえるかと思うほどそっくりかえって、

「この辺へ立ち寄ってはいけないのかね」

私服はひたすら恭順の意を表して、

「いえ、……はい。実は……」

「では、なぜ立礼でも立てて置かないのだ。その上に電灯でもつければ申分ないがね。……しかし、そんなものも見当らぬ以上、私の散歩を差しとめる権利はない。のみならず、私は自分の行動を他人から制肘されることを好まないから、最初の目的通り、この辺を少し散歩することにする。心配ならそこに立って見ていたまえ」

といい捨てると、寛々たる態度で噴水に近づくと、つくづくと眺め、そこここと三十分以上も仔細に点検し、それがすむと岸の土手の上下を這い廻って、樹の根方や取るにも足らぬような小さな凹みまで一々手で探って見る。

充分納得するまで探し廻ったが、噴水の台座から入り込めるような隙もなく、また岸の近くにも穴などはない。挨拶もなしに私服らの傍を離れると、向う側を調べる気で一散に土手を駆け降りようとするはずみ、その根方でいきなりまっ逆落しに深い穴の中へ落ち込んだ。

首の骨を折らなかったのはまだしもの事であった。ひどく頭を打ちつけて、しばらくの間ぼんやりしていたが、やがて気がついて見廻して見ると、それは六尺ほどの竪穴でその横っ腹に人が這って行けるほどの横穴がつづいている。

加十は〆めたと喜んで奥の方へ這って行くと、意外にも、その横穴は三間ほど行ったところで行き止りになっている。マッチをすって調べて見ると、つい最近掘られた痕がまざまざと残り、その上よほどあわてたものと見えて、シャベルが一梃忘れられてある。

これで加十の推理は、まんざら見当外れでなかったことが証拠立てられた。普通の道路工事か水道工事なら、こんな道の真中に危険な穴をあけたまま放っておく筈がなく、少なくとも周囲に繩をまわし、赤ランプをつけて置く筈なのである。……つまり、この穴は、加十の想像通り、誘拐者が王様のところまで行こうとして、大あわてに掘ったものだということがわかる。ところが「噴水の会」が始まって、この辺が群集で一杯になり、仕事が続けられぬようになったので、それで例の騒ぎをおっぱじめたのだということは自然と理解されるのである。

これでいよいよ王様が噴水の下にいるということが確定になった。しかし、この分ではどうもこの辺に入口があるのではないらしい。何か途方もないところにあるように思われ出して来た。

加十は穴の中に坐って、泰然と腕を組んで考える。何かいい思い付きが浮かばぬまではここを動かぬつもりと見える。このへんはさすがに田舎者の土性骨の太さを示していて、なかなかどうして大したものなのである。

そんなふうにして二十分も坐っていたが、又しても、急に膝を打って、

「判った!……こうして見ると、俺の頭もまんざら捨てたもんじゃない。……ああ、なぜこんな簡単なことが今までわからなかったのだろう。……江戸時代の神田上水の大伏樋ふせどが、まるで迷路ラビリンズのようにこの辺の地下を走っているということは、かねて学校で教わったことがあった。……つまり、皇帝は、どこかからその大伏樋を伝って噴水の下まで行かれたものと思われる。……伏樋の古地図さえあればすぐ判るのだが、それにしても一体今ごろどこに伏樋の口などが明いているのだろう……」

と首を捻っていたが、また何を考えついたか、今度はものもいわずに穴の底に立上ると、大骨を折って穴の外に飛び出し、ゼイゼイと息を切ってそのふちにしゃがみ込むと、

「……つまり、この近くで大きな建築が始まっているところを探せばいいのだ。地下室を掘り下げるような大建築なら、自然伏樋が掘り切られ、建築場のどこかにその口を明けているに相違ない。……この近所で大建築といえば、そうそう田村町一丁目の角で、いま放送局の地下室の基礎工事が始まっている。……これでいい。今度こそは間違いなし。……迷路の口はきっとそこに開いているんだ。……よし!」

といって立上ると、服の泥も払わずに日比谷公園を飛び出し、踵でぼんのくぼを蹴上げるようにして田村町一丁目の方へ走って行った。

まじかの時計台が十一時をうつ。明日の午後「午後」はママ四時までにあと僅か五時間! 俊秀明敏なあの真名古を出しぬいて、この名もない一介の雑報記者が無事に皇帝を救い出すことが出来るであろうか。

第九回

二十八、双月流の投入の事    並に脱出の公算プロバビリティの事

この小説を始めてから回を重ねることすでに九回となった。事件は重畳複雑し、義理人情は紛々と錯綜いりまじって自から数奇なる人生の紋様を織り出してゆく。ある者は悲恋に泣き、ある者は危険なる侠気に身を溺らせ、またある者は悪念の爪をといでほしいままに跳梁跋扈ばっこする。

作中の登場人物は構想などにはお構いなく、作者の心配面を尻眼にかけ、己れの欲するままに変幻自在に行動をする。作者が謙譲ひかえめなのをいいことにして、引繰り返って眼を剥いたり、横を向いて舌を出したり、今度はまた罪もないとめ婆を絞め殺したり、実にどうも馬鹿にし切った態度をとるようになった。作者としてははなはだ憤懣の情に耐えぬのであるが、何しろこれらの連中は、作者などはてんで眼中にないのであるから、いかんとも手の下しようがないのである。

閑話休題それはさて、夕陽新聞記者古市加十は、安南皇帝は日比谷公園の「鶴の噴水」の台座の下にいると一図に思い込み、この前代未聞の大特種をスクープしようと、踵で己がぼんのくぼを蹴上げるようにしながら田村町一丁目の方へ飛んで行く。そのポーズには多少の誇張があって、それによって作者の注意をひき、引続いて自分の行動を書いて貰いたいふうに見受けられるが、この小説では古市加十だけが活躍しているのではない。それどころか、これより以前、警視庁ではまたしても奇異な一事件が惹起している。気の毒だが加十はこのままもう少し走らせて置いて、われわれはもう一度警視庁へ立ち戻らなくてはならない。

時計の針をグイと一時間半ほど戻すと、捜査課長室では、今しも四銃士の一人が意外なる報告を終えて扉を排して出て行ったところである。

意外なる報告とは何であるかといえば、今暁午前三時五十分から同四時五十分までの間に、二人の警視総監が、一人は赤坂区、一人は深川区に時を同じくして出現し、歳末警戒の慰労巡視を行なったというその報告である。ホフマンの「カロオ風の綺談」でもあるまいし、二人の警視総監が東京の中央と南に同時に出現したなどというのは、あまりに幻想的ファンタスチックでちょっと信用しにくい。しかし、これがもし事実だとすると、意外といっても決して誇張ではない。ことに真名古にとっては、この報告は幻想的どころの騒ぎではないのである。

前々回、総監室における真名古の優雅なる膝詰談判によって察しられる如く、松谷鶴子の殺害犯人は警視総監その人であるという論理的到達をし、手のこんだいい廻しでそうあるべき推理の本末をくわしく述べ、課長室に戻って総監の自発的な行動を、一刻千秋の思いで待ち受けていたのである。といっただけでは前々回をお読みにならぬ読者諸君には何のことやら一向お判りになるまいから、どういう事情によってこのような大胆不敵な到達をするに至ったか、その次第をかいつまんで述べて置くのもあながち無益なことではあるまい。

兇行の現場を眺めていたという、有明荘の崖下に住む例の縫子の花は、(犯人は毬栗頭の大男で、手首に何かキラキラするものを巻きつけていた)と陳述した。その後、真名古の周到緻密な現場調査によって、それは次のように敷衍デヴロッペェされた。

「犯人は毬栗頭。身長五尺七寸五六分。職業は警察官、金モールの腕章と三つ乃至五つの星章をつけた警視以上の身分。帯剣。脊柱側彎。左足に軽度の跛行癖、靴型は一二・〇〇、プリンストン型、米国エディス会社製」

大体こんな工合だが、警視総監をよく見知った人がこれを読んだら、もっとも周到なる総監の肖像画であると舌を捲くであろう。のみならず、鶴子の衣裳戸棚の曳出しから、総監愛用の獅子頭のパイプが発見されたということになれば、いわば首尾一貫の体で、どのような凡庸なる探偵といえども当然の断案を下すのに躊躇することはあるまい。

なるほど、フランスには、十九世紀の初め、市井の一盗賊から警視総監に昇進した、フランソア・ヴィドックのような男もいる。ヴィドックの場合は、むかし覚えた手口を応用して、検察の辣腕をふるったというだけのことだが、この場合はそんな生優しいことではない。殺人犯人としてこれほど飛躍したのも少なく、これほど始末の悪い犯人も少ない。どのような警察官が敢然とこれを告発する勇気を持つであろうか。日ごろ死灰の如く冷静沈着な真名古も、この獅子頭のパイプを前にして、容易ならぬ煩悶の状を呈したのも、また無理からぬ次第であった。

しかし、すでにしばしば述べた如く、検察の事務を執るに当ってその冷執陰険なること、ユウゴオの「噫無情レ・ミゼラーブル」に登場するかのジャヴェル探偵にも夢々劣らない真名古のことだから、いやしくも不足とある以上は、たとえ神といえども爬羅はら摘抉するのを辞する筈はあるまいと見ているところ、果して真名古は一種悽愴な面持で有明荘を立ち出でると、ここに辛辣千万な行動を開始した。

まず最初に日本橋の伊吹という洋服問屋へ行って総監の寸法帳を出させ、これを入念に書き取っている。御承知の方もあるでしょう、日本橋の伊吹というのは、東京府管内の警察関係の官服を一手で納入する問屋である。どういう結果を得たかといえば、現場の料理場の壁に残っていた上衣の鋳型彫クリュウは総監の服によって出来たものだということを確認したのである。それから一旦警視庁にとって返すと、例の四銃士を呼び寄せて、今暁有明荘の六人が「カーマス・ショオ」の六人とつるんで泊り込んだ築地の待合「すず本」の検証、現警視総監すなわち前京都府警察部長と松谷鶴子の身元調査、並びに元日の午前三時五十分から四時五十分までの総監の行動調査を命じた。

その結果、「すず本」の方は庭からも裏木戸からも最近人の出入りした模様はないということになった。つまり犯人は有明荘の六人の住人のうちにはないということになったのである。ところで身元調査の方は、総監と松谷鶴子の家は京都市東山区山科町の同番地でこの両人の間に以前何かの知人関係があったということが判った。

第三の調査の方は、いわば推理の大団円デヌウマンといったようなもので取調べの結果、総監は午前三時五十分に自らロード・スタアを操縦して溜池交叉点を通過し、同四時四十分に赤坂見附を経て警視庁の附近まで帰っている。つまり、総監は殺人現場に近い溜池から赤坂見附までの、わずか三分ぐらいで行かれる間を五十分もかかっているのである。ここに至っては、もはやあやふやだなんていう点は少しもない。ところが真名古はそれでも飽き足らずに、奇妙な方法で花子に犯人の首実験まで「首実験まで」はママさせている。花子の答えがネガチブであったかポジチブであったか、それは説明する必要はあるまい。総監と対座して長広告をふるった真名古の自信に満ちた態度によっても、その結果が察しられるというものである。

然るに、捜査課長室へ真名古を訪ねて来るべき筈の総監はいつまでたってもやって来ず、その代りに二つの予期せざる報告に接することになった。一つは花子がもたらした待合「中洲」における印東忠介からの又聞き。……三時四十分ごろ、例の山木元吉が屋根伝いに「すず本」を脱け出し、ハッチソンのロード・スタアでいずれかへ立去り、ちょうど五時頃にまた、「すず本」へ戻って来たという話と、もう一つは先刻の「二人の総監」の奇談である。

これは作者も全く予期しなかったことで、いささか唖然とせざるを得ぬのだが、こういう始末になると、真名古の推理なるものに多少の懐疑を感ぜずにはいられなくなるのである。いろいろ思い合わせるところ、真名古のこの到達にはどこか抜けているところがあるように思われてならない。どうも本質的でないのである。現場に総監の指紋でもあったのか。そんなものは何もない。ただ毬栗頭と総監の官服があっただけである。それとてもあやふやな月の光の下でロマンチックな少女の眼で認められたもので、どうも信用は置きにくいのである。獅子頭のパイプだって似たものはいくらもあるだろうし、その朝非常線を通ったのは総監の内容なのか官服なのか、このへんもはなはだ曖昧である。あの冷理緻密な真名古にしては、今度のやり方はすこし不出来なようである。真名古ともあろうものが、一少女の証言に過度の重点を置くなどということは考えられないが、しかし、作者にいわせると、真名古自身が信じているよりもそれは、真名古の推理にもっと重大に作用していたことを見逃すことが出来ない。あり得べき筈もないこの精神的粗漏は、どのような事情によって惹き起されたかといえば、卑俗な作者の見解では、真名古は花子に恋をしていたからだと思うのである。あの枯木寒厳の真名古が恋をする! しかし、これは冗談ではない。ちゃんとその証拠がある。素人屋の二階以来、真名古はいったいどんな花の扱い方をしたか読者諸君はよく御存知でしょう。どうも抒情的過ぎるんですよ。ふだんの真名古を知ってる人がこれを見たら、真名古警視は大麻ハッシュでも飲んで気が狂ったか、小説でも読みすぎて急に子供臭くなったかと、思わず目を瞠ったに違いない。いわんや、ツルゲネーフの散文詩などひねくるところを見たら、あまりの並外れに開いた口が塞がらぬ思いをしたであろう。ふだんの真名古は決してこんな生優しい男ではない。断じてフェミニストではない。紳士は紳士でも、必要があれば他人の指の股に鉛筆を挾むくらいのことは平気でしかねない紳士なのである。それが散文詩……、これが恋愛の象徴でなくして何だというんです。この点花子も不思議に思ったとみえ、「どうしてわたしにこんなに優しくして下さるのですか」と際どいところを突かれ、それに対して真名古は何ともいえぬ苦っぽろい笑いをもって答えた。そればかりではない、あの朗読の抑揚の美しさは! まるで人の心を夢の中へ誘い込むような……、つまり、恋する男の声だったのである。えらいことになったもんだ。

果せるかな、真名古は四銃士の一人が課長室から出て行くと、何とも形容の出来ぬ面持で腕組をしたまま、椅子の上に固まってしまった。苦悩の色がありありと頬に射しかけ、双の瞼はさながら祷るが如く、低く垂れ下る。銃士の一人がスイッチを入れて行ったと見え、壁の上に口を開けた拡声器からは、東京市郡全体の、戦争のような捜査の行進状態が、狂い出した鸚鵡のような疳高い声で絶え間もなく報告される。いま捜査本部の神田班が「お茶松」の賭場に有明荘の住人岩井通保と川俣踏絵が潜伏していることを確かめ、これから捕物に行くところだと告げている。

真名古は急にカッと目を開く。開くといっても糸のように細い眼だから、瞠ったという印象は与えない。糸のような眸の中から、一種果敢な光が流れ出すによってそれと察しられるのである。こまぬいていた手を膝の上に置くと、また暫く何事かを尋思する模様だったが、やがて卒然たる様子で椅子から立ち上ると、例の大鴉のインバネスを取上げ、それに腕を通しながらゆっくりと課長室を出て行った。もう抒情めかしい顔つきも沈鬱な眼つきもしていない。どうして、それどころか、いささかの疑念の翳もささぬ確固不動たる面持をしている。……すると、真名古はまだ自信を失っていないのであろうか。見受けるところ、寛々たる自恃の色のほの見えるのは、たぶん何か期するところがあるからであろう。一体真名古はこれから何をしようというのであろう。

十五分ほどの後、真名古の乗った自動車は築地小田原町一丁目の「すず本」の門前に停まった。濡石を踏んで玄関へ入って行くと、顔を出した女将おかみが雷にでも撃たれたように慴伏してしまった。

真名古ぐらいになるとさすがにチョロッカな扱いは受けぬのである。女将に案内させて二階へ上って行くと、まず東側の、山木とジャネットが泊ったという部屋へ入って行く。思うに真名古は取あえず印東忠介が口走ったという、山木が「すず本」を抜け出した一件の実証をあげるつもりらしい。山木の部屋は一間の出窓の附いた六畳間で、出窓の下には小さな袋戸棚がある。窓には低い忍返しがついていて、それを越して、消防署の火見櫓と、川向うの聖路加病院の大きな建物が見える。窓の下は料理場の棟が直角に続いていて、その端は石上という質屋の土蔵の横ッ腹へ突き当っている。なるほどわけなく抜け出せそうである。真名古はやってみる。出窓の上框へ両手を掛け、体を浮かして足を縮めると、爪先はひとりでに忍返しを越えて戸外へ出る。そっと爪先をおろすと、そこがちょうど屋根の棟なのである。

真名古は懐中電灯で棟瓦の上を照らしながら、這うようにして進んでゆく。格別目にあたるようなものはない。こんなふうにして棟の終りまで行きつく。四尺ほどの細い露次を隔てて向うが土蔵の壁になる。土蔵の壁には常式通りに大きな貝折釘がうち込んである。これに飛びついてぶら下ると、わずかに爪先の届くところから土蔵の腰巻が始まる。貝折釘に飛び付きさえすれば容易に下まで降りることが出来るが、土蔵の釘は料理場の棟より約一尺ほど下についているので、この四尺の露次を隔ててうまくそれに飛び付くことは、よほどの熟練を要するわけである。真名古は「すず本」を出て、質屋と庇合の露次口へ廻り、土蔵の壁に梯子を立て掛けて先ほどの貝折釘の側まで登って行き、折釘の周囲の壁面を隈なく懐中電燈で照らして見る。見廻すほどもなく、その壁面に、ある人間の行動を説明するに足る、興味ある象形文字が描かれているのを発見した。それは何であるかといえば、爪で引っ掻いたような三本の掻き痕である。土蔵の壁は堅いのでさほど深くは抉れていないが、それでも明瞭に読み取ることが出来るほどで、貝折釘の二寸ほど下のあたりから垂直に一尺ほど掻き取られてある。証拠明白。あののろまの山木は、貝折釘を掴み損ねて下まで叩き落ちたということがはっきりとわかる。この堅い壁にこれほどの爪痕を附けるとすれば、さぞ爪先が傷んだことであろう。現に爪痕の最後のところには、一点血の惨んだようなところがある。次ぎの朝、魚河岸の「天徳」で印東の注意を惹いた爪先の減った山木の三本の指と、その爪の間に詰っていた白壁の謎はまずこれで解けたことになる。山木が何のためにこんな時間に「すず本」を抜け出したか、その理由は疑問のままに置かれるとしても、少なくとも有明荘の玄関の間の壁へ三本の掻痕を附けたのは山木でなかったということはこれで明白になる。真名古ぐらいのエキスパートが、爪がつけた傷か、鋭角性の金属でつけた傷か、それぐらいの見分けがつかぬ筈はあるまい。先刻、花が山木のこの不思議な爪の話をした時、真名古が一向問題にする様子のなかったのはその故である。してみると、山木の懐中時計のガラスの破片は、多分このへんで見附かるであろう。もしそれが見附かれば、山木は少なくともクロロフォルム入りのアンプールを使って皇帝を誘拐した犯人ではない。これとても、真名古にすれば、それが懐中時計の硝子蓋の破片なのか、アンプールの破片なのか、それを勝手の階段の下で見た時すでに識別していたであろう。梯子を降りて露次の敷石の上を照して見ると、果してその上にガラスの破片が散乱している。のみならず、堕落した「堕落した」はママ際、左の手首の辺を負傷したことも判る。かすかながら白壁に写った左手の血の紋様でそれと察しられるのである。もちろん指紋もついている。これはまたあとでだれかに蒐集させればいい。

これですますかと思うと、真名古はまた「すず本」へ取って返し、今度は階下東側の印東の部屋へ入って行く。この部屋も同じようなつくりの六畳で、廊下を隔てた向うがせせっこましい庭になり、突き当りは築地まがいの高い塀になっている。廊下は左手の方へ鈎形に折れ曲って、その端が手洗場になっている。その左手は階段の降口で、廊下をもう一度曲ってそこから玄関へ出られるのである。手洗場には竹の櫺子格子を嵌めた瓢箪形の窓があって、その窓から見上げると、なるほどいま真名古が歩いた料理場の屋根を三分の二ほど見渡すことが出来る。あとの三分の一の土蔵に近い部分は、張り出した質屋の建物の蔭になってこの窓からは見えない。印東忠介がこの窓から、山木が屋根伝いに抜け出して行くのを見たというのは、これだけではすぐに信用することは出来ないとしても、それを見得る物理的条件はまず充分である。真名古は縁側の雨戸を繰り開けて注意深く庭先に降り立つ。この頃の霜壊で庭の土が極めて脆くなり、地面が鼹鼠もぐらの塚のように盛れ上って、堅い地面との間は空隙が出来ているから、わりに軽い物体でもその上に置かれれば跡を残さないということはない。現に真名古の靴跡などは、ちょうど灰の中に靴を踏み込んだように二寸ほど土の中にめり込んでしまった。隈なくそのあたりを探してみたが、足跡らしいものは一つもない。十二月二十七日以来東京には降雨がなく、また風も吹かない。四銃士の一人が、庭の方からは絶対に人が抜け出した跡がないと調査の結果を述べたのは、この器質的な条件のことをいったのである。印東の隣りの部屋はその夜客がなく、一つおいた奥の部屋に村雲笑子とサクソフォーン吹きのウイルソンというのがいた。その方の庭先も調べてみたが、ここにも足跡らしいものは一つも見当らない。少し後先になるが、では玄関の方はどうかといえば、(これは後で訊問したのだが、)定という女中が不寝番の役になって、臨検のあった五時まで帳場の六畳に坐って、朋輩の千代と南京豆を喰べながら無駄話をしていた。六時になったら水天宮様へ二人で初詣をするつもりだったので、結いたての髪を気にしいしい、二人共に横になるどころの段ではなかったのである。玄関から表へ出ようとすると、どんなことがあってもこの二人の目に触れずに通り抜けることは出来ない。真名古はまた二階へ取って返す。山木の隣りの部屋に踏絵とロナルドの部屋である。窓には櫺子れんじ格子が嵌って、すぐ下が庭になるから、この窓から忍び出すということは出来ない。後に残ったのはハッチソンと岩井通保の部屋である。岩井の部屋は太鼓なりの渡りを渡って廊下の端にあり、ハッチソンの部屋はそれに向き合うようになった翼の端にある。岩井の部屋は三畳の控えの間のついた六畳間で、印東の部屋とはちょうど反対側の西北に向いているから、木連きづれ格子の嵌った窓から見ると、備前堀を隔てて、建築中の本願寺の大きな屋根が、つい鼻の先にくろぐろと聳え立っている。一間半の窓で、三枚の半蔀はじとみが嵌っていて、必要があれば上に押し上げられるようになっている。半蔀を押し上げて見ると、すぐ下が玄関の屋根の上で、その端には大きな塘松が築地の塀を越して表の方に太い枝を差し伸べている。真名古はおどおどした様子で立っている女将の方を振返ると、

「ゆうべ誰が皆の部屋割をしたのかね」

と訊いてみる。岩井の御前様だという返事だった。真名古は例の通りねむそうに瞼を垂れたまま、窓の下の袋戸棚と框の上を調べ始める。奇妙なものがあった。といったところが別に驚くほどのものではない。むしろこんな場所には極めて有り勝ちなものである。廻りくどいことをいうのをよして簡単にいえば、それは瓢竹斎の竹籠に揷された白梅の投入である。根締に水仙が使ってある。これでは何の奇もない筈であるのに、真名古はそれに目をとめると、急に目付を鋭くしてシゲシゲと眺める。よく見ると、なるほどすこし変ったところがある。見るところ双月流の投入と思われるのだが、これが後ろ向きに置かれているのである。どんな心得のない人間だって、いや、これほどに揷ける心得があるならこんな馬鹿な置き方をするやつはない。正当の位置より四分の一回転ほど後ろ向になっている。真名古は女将に、

「あれから誰かこの部屋へ入ったか」

と訊く。入ってはならんというお達しで、垣覗きも致しませんという返事である。図を書いて示すと早いが、口でもいえないことはない。その竹籠は真中の蔀と右端の蔀との合せ目に置いてある。真名古は妙な実験を始める。竹籠を四分の一廻転だけ元へ戻して、つまりふつうに眺められるような位置に竹籠を据えなおしておいて、地袋の上へあがって窓から屋根の棟へ出ようとする。そのとたん、右の方へ突き出している白梅の柄が真名古のズボンの股のあたりに引ッ掛って、グルリと四分の一ほど後ろ向になった。その位置は真名古が先ほど不審そうに眺めたその位置である。この妙な経緯によって、ある人間がこの窓から屋根の上へ這い出したということが適確にいい得るのである。真名古は、例によって懐中電灯を照らしながら屋根の棟を伝って端の方へ歩いて行く。棟瓦の上には格別何の証跡もない。さてその端まで行くと、さっきもいった通り、大きな松が棟とすれすれになって伸び上り、太い枝を塀の外へ伸ばしている。真名古は屋根から松の枝へ乗り移る。枝を伝って行くとわけもなく塀の外へ出る。枝の下にはコンクリートの天水桶があって自然と爪先がその上に届く。わずか一跳躍で地面に降りる。そこにハッチソンが乗って来たロード・スタアが、その夜置かれてあったのである。

真名古は靴下のままノソノソと地面を歩いて、玄関からまた内部へ入る。最後に残ったハッチソンの部屋を調べるつもりなのである。さっきもいったように、ハッチソンの部屋は左翼の端にある。玄関の屋根を間に挾んで岩井の部屋と対蹠的の位置におかれるのである。ハッチソンの部屋は岩井の部屋と同巧異曲だが、ただ違うところは、この窓は通りに近いので、窓には半蔀の代りに低い忍返しが付いてい、通りを隔てて向うに備前橋を眺めるような位置にある。この忍返しの具合を見ると、ちょうど山木の部屋のそれと同じ構造である。山木が忍返しを越えて抜け出すことが出来たとすれば、ここからも抜け出せぬことはあるまい。忍返しの下には下便所の屋根が横通りの方へ伸びていて、その端はすぐ通りになる。いままでの三つの条件のうち、この最後の場合が一番いい。もっとも簡単に抜け出せるようになっている。調べて見ると、ここにもまた不思議なものがある。袋戸棚の傍らの柱のそばの紙張の壁の上に、微かながら薄黒い三本の指の跡が残っている。薄黒い油脂のようなものが指先に付いて、それが紙張の壁の上に微かな跡を残しているのである。壁の紙張は歳晩くれま近に張りかえたものと見え、どの部分もまだ真新しく、この他には汚点など一つも見当らない。指の跡に眼を寄せて見ると、指の置き方でそれが左手の痕だということが判る。左手の人差指と中指と薬指。なぜこんなところに指の跡がついたか。やってみるとすぐわかる。屋根の棟から忍返しを越えて右足をまず地袋の棚の上へ置く。右手は窓の框に引っ掛けて躰を支え、少し躰を浮かせるようにして左足を地袋の上へ引き込む。そこで音を立てずに畳の上へ降りようとするには、左手は自然に伸びてそこの柱の方へ伸び、左手で柱に掴まりながら静かに畳の上へ足を降すことになる。三本の指の跡は柱に掴まった時に印されるべき筈なのである。

真名古は忍返しを越えて屋根の上へ出る。大して時間もとらずにまたすぐ戻って来た。屋根瓦の上を這い廻った手先が真ッ黒になった。それは、すぐ背中合せの、小田原町二丁目の横通りに高い銭湯の煙突が立っていて、風の具合でその煤がこの屋根の上へ落ちるからである。三本の指の跡も自然にこれで解決される。指紋をとって見ればそれがだれであるか、その方も容易に解決されよう。その指の跡は静かに畳の上へ降りるために付いたのではなくて、屋根を通ってこの部屋へ帰って来た男が、地袋の上で靴下を脱ぐために、左手で柱に体を支えたのだということがわかった。地袋の板の上に微かに薄黒い丸い跡が残っていて、それが煤のついた靴下の踵のあとだと見てとられるが、左足の跡だけで右足の方は見当らないからである。現に畳へ降りた真名古の靴下の跡は、その形なりに真黒な跡を畳の上につけてしまった。真名古も止むを得ず靴下を脱ぐ。部屋の襖を閉ち切ると、畳の上へに「上へに」はママ胡座をかいて、またしても首を垂れて動かなくなってしまった。

どういう目的によるのか、今暁五時二十分の風検の以前に三人の人物が「すず本」から忍び出てまた帰って来ている。その時間はあたかも有明荘において松谷鶴子が殺害され、皇帝が勝手口から誘拐されたその時刻に相当するのである。ここにおいて、事件はまた一段と飛躍を遂げることになった。沈着緻密な真名古にとっても、この驚異はやはり相当なものであったろう。沈鬱な表情の中に一種苦悶に似た色が貫くように見えるのももっともな次第といわねばなるまい。真名古は印東のおしゃべりの実証を見るためにここに来たのだが、以外にも「以外にも」はママこういう奇怪な事実に直面せねばならぬことになった。

読者諸君は、あるいはこのような重大な検証を、たとえなんであれ部下の一人に任してとほんとしていた真名古の迂濶を指摘されるかも知れない。しかしこれは果して真名古の過誤であろうか。もしかりにあやまちだとするならば、それは天災とでもいうほどのものであろう。探偵小説では一人の探偵が、竈の灰の中まで覗き廻ってあらゆる功名を独占エグセルシヴする。しかし、現実の社会ではそんなことはしないのが普通である。

真名古は「すず本」の実地検証を軽視したわけではない。現に四銃士のうちのもっとも敏腕な者を抜目なくここによこして充分に検証させている。四銃士の調査したところも、真名古が調査した結果と一向変りはなかった。庭先の土の器質にも玄関の出入りの条件にも人が抜け出したという証跡を挙げることは出来なかった。のみならず、四銃士氏は巧妙な訊問法によって六人の「カアマス・ショオ」の連中を一人ずつ取調べ、おのおの同衾者が自分の傍から抜け出した事実は絶対にないという口供を得ている。検証と訊問とともに少しも抜かりはなかったのである。

では二階のこの通路はどうかといえば、これは脱出の公算プロバビリティの中へは入らない。なぜかといえば、考えて御覧なさい、われわれの日本家屋で、しかもこの稠密な東京市内では絶対に抜け出せない家屋などは一軒もないからである。日本の家屋は元来そんなふうに解放的な構造になっていることを公算の中に計算しなかったのは銃士の過失ではないのである。

花籠の四分の一廻転と、柱のわきの紙張の壁に微かについた指の跡で、それらの人物の行動を察知するのは、真名古のような比類ない穎才にして初めてなし得るのである。いや、こうもいえるなら、真名古だけにチャンスの神がついて廻っているので、他の如何なる秀才もこれに及び得ぬのであろう。

真名古の過失はこの比類ない穎才を、その当初自分で用いなかったというその一点に懸かる。しかしここにくればそれはもう運命のようなものである。「すず本」の検証にあまり重点を置かなかったのは、真名古のフィルムの感光膜にはそのとき殺人犯人並びに皇帝誘拐犯人としてのある人物の映像がすでに露出ずみになっていたからである。

「すず本」の玄関でオートバイの停まる音がし、間もなく一人の警部が入って来て、「お茶松」の地下道でとめの死体が発見されたむねを告げる。真名古は黙然と目をつむっていたが、いつもの物憂そうな調子で、

「日本座に出演している、金粉踊りのジャネット、手風琴弾きのロナルド、サクスフォーンのウイルソン、タップ・ダンスのメアリー、ローラスケートのジャックリイヌ、唄歌いのミリアム……、この六人をすぐ引き上げてくれ給え。私は三十分以内に本庁へ帰る」

そして丸めた靴下を不器用に右手にさげ、ヒタヒタと素足で畳を踏みながら部屋を出て行った。

二十九、一泊二十五銭の事    並に三鞭酒の瓶の事

浅草聖天横町、これをもう少し行くと日本堤になる。馬道と背中合せの、一口におかん通りという薄暗い横通り。簡易ホテルといえば今時の呼び方、御一泊十五銭、風呂も有り升。宿帳をつけると、番頭が湿った掌の上へバットを一本載せて、おつけなさいと差し出す例の木賃宿、これが軒並みに並んでいる。

入ると凸凹の黒土の土間で、地下足袋で踏み固められて黒く艶が出ている。青痰やら唾やら、何ともいえぬ悪臭がその土間から立ちのぼる。木理もくめも見えぬほどに汚れた三尺の上り框のとっつきがすぐ階段になって、これを踏み昇ると坊主畳を敷いた三十畳ほどの大部屋があり、幟を染め直した蒲団を着たのが、河岸に鮪まぐろがついたほどに寝ころがっている。

この大部屋と廊下一つ隔てた向うに三畳の小間がつづく。ここへ泊るのは特等級。宿賃もズンと高い。一泊二十五銭。幟でない蒲団を着ようと思うとまた五銭とられる。その奥まった特等室の煎餅蒲団の上に、胡坐をかくでもない、キチンとタキシードの膝を折って孤影悄然と坐っているのは、例の有明荘の六人の一人、有名なる珊瑚王の伜、山木元吉。

見ると髪はサンバラになり、顔の色は煤けてほとんど血の気もない。顔を不安げに引き歪め、額には苦悩の皺を刻んで、時々キョトキョトと入口の方へ血走った眼を走らせる。第四回、虎の門の晩成軒で川俣踏絵と怪し気な密会をしたまま、その後杳として姿を現わさなかったが、第九回に至ってこのような蕭条たる情景の中へ再び登場して来た。

裾も肩も埃まみれになって、どこを潜って来たのか、上衣の肘に鈎裂きまでこしらえ、いやはや見るもいぶせき有様。どうしたってこれが百万長者の珊瑚王の御子息とは見えない。トーキー出現のあおりを喰って失業の憂目に逢った楽士氏か、銀座裏のバアテンダー氏の成れの果てといったところ。まことに場所柄にふさわしい人体である。

秋風落莫とうち沈んでいるところへ、突然襖の外に人の足音がとまった気配がする。それを聞くと山木は、日ごろの緩慢な態度にも似ず、いきなり蒲団の上から跳ね上ってひと跨ぎで窓の傍まで飛んで行き、慌ててガラス戸を引き開けたが、厳重な忍返しが蓋のように窓を閉ざしているほか、太やかな鉄のボルトまで嵌め込まれていて首を通す隙もない。

襖の外の人物は遠慮会釈もなく、荒々しく襖をひき開けて部屋の中へ踏込んで来ると、ウロウロと鉄棒をかいさぐっている山木の肩に手をかけて力任せに引き戻すのである。

もったいぶった書き方をしたが、これは別に刑事だというわけでもなかった。前回、「お茶松」の賭場に手入れがあるより早く、岩井通保と手に手をとってお茶ノ水の土手へ抜ける地下の暗道を通り、無事に天網を遁れた有明荘の住人の一人、岩井通保の秘密の情人アミイ、当時売出しのダンサー川俣踏絵そのひとであった。

お茶ノ水の土手からまっすぐにここへ来たものと見え、手入れのあった時間からまだ三十分も経っていない。前回の通り、焔色の夜会服ソワレを着て、見るもいぶせきこの木賃宿の一室へ、さながらニジンスキイの「火の鳥」とでもいった花々しいようすで飛び込んで来た。

引き戻しておいて、力任せに山木の横っ面を撲はりつけると、青い顔をしてぶるぶる顫えながら、

「なんで、逃げ隠れする」

と叫んだが、よほど思い余ったと見え、山木の胸に顔を埋めてヨゝと泣き出してしまった。

山木は痴こけのように口を開いて茫失していたが、やがて眼性の悪い細い瞼の間からポロポロ涙をこぼしながら力任せに踏絵を抱きしめ、

「逃げる?……冗談いうなよ。逃げる気ならアドなどやるもんか。どうしてそう疑り深いんだろうなア」

と、がっくりとなって咽び泣いていたが、またしても臆病そうにチラチラと襖の方へ眼をやって急に声を低め、

「それはそうと、だれかにあとを蹤けられるようなことはなかったかね。もしそんなことになったら、今までの苦心も水の泡となる。……考え違いをしてくれては困るぜ。俺はなにも自分の身をかばおうと思ってこんな真似をしているんじゃないんだ。こんな惨めなざまをして逃げかくれをしているのも、何とかして君と添い遂げて一日も長く生きのびたいと思うからだ。よウ、判ってくれよ」

と声を顫わせ、踏絵の手を取ってむやみに握りしめ、

「俺は意気地なしで、ちょっと自負心を傷つけられただけで、すぐ死なん哉と思う埓もないペシミストだったんだが、君という心の目当が出来てからは、もう死ぬのが嫌になった。どんな苦労をしても君と生き抜いて見たいと思うようになったんだ。……こんな歯の浮くようなことをいうと笑い飛ばされると思うから、ついぞ今まで口に出したこともなかったが、俺の気持はそうだった。……君もすれっからしなら、俺もすれっからし、お互いに梅毒で身体を腐らしてしまったこんな末期になって、初めて恋の味をしみじみと味わうというのも実に因果な話だが、俺は嬉しくてたまらない。君のためなら、たとえ人殺しだってやりかねない……」

言葉尻は嗄れたように喉に引っかかって、くッ、くッという嗚咽の声に変ってしまう。踏絵は畳の上に横坐りをして手の甲で眼をこすっていたが、支え切れなくなったと見えて両手の掌たなごころで顔を蔽うと、美しい指の間から涙があふれ出して来て筋になって肱の方へ伝わってゆく。

大部屋の方で濁声をあげる出雲節。哀切といいたいが、調子外れで、これがいかにも間抜けた節にきこえるので。

しばらくののち、踏絵は涙を拭うと、何とも形容のつかない淋しい笑顔をして、

「あたし、泣いちゃった」

といって、ペロリと赤い舌を出すと、ひどい恰好に足を組みかえ、

「そんな話、もう止しにしようや。いわなくてもわかっている。無事に添いとげたら新婚旅行に草津へでも行こうねえ」

山木は素直に頷いて、

「ああ、どこへでも行く」

踏絵はさりげないようすで山木の顔を見つめながら、

「山木、「お茶松」の抜け穴でとめ婆が絞め殺されていたよ」

山木は、えッと息をのんで、

「そ、そりゃ本当か」

「あの抜け穴は、有明荘ではわちきと岩井とお前だけしか知らないんだが、妙なこともあるもんだね。何か心当りがないか」

「冗、冗談。……しかし、えらい事になったもんだなあ。だれがそんな事をしやがったんだろう」

踏絵はすこし眼差しを険しくして、

「恍けなくともいい。鶴子をやったのもお前なんだろう。……わちきは寝たふりをして、今朝お前のすることをみな見ていたんだぜ。「すず本」を屋根伝いに抜け出して、一体どこへ行ったんだい」

山木は顎を顫わせて俯向いていたが、やがて、ふいと顔をあげると、もう唇が土気色になって、おろおろと舌を縺らせながら、

「俺が人殺し……、これはえらい羽目になった。成程、そう思われても仕様がないんだが……、しかし、まるっきり俺には覚えのないことだ。……明日一日この経緯は絶対に人に話さないと、ある人と約束をしたもんだから、他ならない君にまで隠していたが、こうなれば何もかもいう。俺のいうことを聞けば嘘だか本当だかわかる。せめて、君だけ……」

踏絵も真剣な眼つきになって、

「嘘だと思わない。安心して話してちょうだい。……たとえ、お前がほんとうに鶴子やとめを殺ったんだって、そのぐらいのことでお前を見限るようなことはしないから、その方も安心なさい。でもね、諄いようだが、もう一言。……山木、鶴子やとめを殺ったのは本当にお前じゃなかったんだね。……きっとそうか」

「情けない、……俺に人など殺せるものか。他人どころか、自殺も出来ねえ始末なのに」

踏絵は、ああ、と長い溜息をして、

「うん、よく判った。わちきは、てっきりお前がやったんだとばかり思って、どうでもお前を助ける気でいろいろ智慧を絞ったんだ。実は……」

と、花の部屋の畳の下から「五人坊主」の呪咀絵を見付けた経緯を話し、

「ふとそれを思い出してね、花には気の毒だが、鶴子の方はどうでも花にしょわせてやるつもりで、うまくこしらえて、まず手始めに、「お茶松」で岩井に密告さしてやったんだ。……「すず本」を抜け出したことはわちきの他は知らないのだし、いろいろ尾鰭をつけて話をこしらえ上げ、ぜひとも花を突き落してやるつもりだったんだ。「お茶松」の使番ちょうまつのところへお前のアドの速達が来るのがもう少し遅かったら、わちきは真名古のところへ出かけて行くところだったんだぜ。……わちきはもうくらい込んだんだとばっかし思っていたんだ。強がりはいわない。うそで、本当によかった。……さあ、あんたの話をして頂戴。話の次第ではわちきも覚悟があるから」

山木は膝をのり出して、

「俺が印東忠介の橋渡しで、例の大金剛石を犬居仁平に仲介して一割のコンミッションを貰い、文書偽造の方だけはのがれようと、去年の春から血眼になって走り廻っていたことは君も知ってる。……つい五日ほど前に下見もすんで、千万円で折れ合うことになった。ところが二十日になって安南から電報が来た。王様が金剛石を持ち出したことが判り、独立資金獲得の評判がたって、反対派の李光明一派が騒ぎ始めた。フランス政庁でも捨ておけぬことになって、東京駐在のフランス大使にその実否を確かめさせるという思いがけないことになってしまった。王様はひどく煩悶して、一時は売るのを中止しようといい出したのだが、又一方から考えると、かりにそれを中止したところが、そういう評判が立った以上、いずれ難癖をつけられて退位を迫られるのは判り切っている。退位だけならいいが、その末は十一世維新王のようにマダガスカルかどこかへ島流しになって、死ぬまでヴァイリオンの弾き流しか何かして惨めな暮しをしなければならない。その金剛石はといえば、もともと安南皇室に代々伝わったもので、宗竜王の財産だ。売ろうと估こかそうと疚しいことなんぞ少しもない。素直にしていれば、却って手足をもがれて、身につく金もなく終生みじめな放浪をつづけなくてはならない。どうせ廃位されるときまっているなら、いっそこれを売って、その金でトルコへでも亡命しようということに決心された。金剛石を売却されようとした最初の目的は、それを独立運動の資金として安南独立党バリー支部へ送られるためだったんだが、そういう評判の立った以上は、どうせ支部の方ももう潰滅されてしまったことだろうし、いかなる雄図も早や覚束ないというわけで、三十日の晩、帝国ホテルでその決心を俺に洩らされたんだが、さすが洒脱な王様もひどく佗しそうで、俺も涙を流した」

「それで、そのことを鶴子は知ってたのかい」

山木は首を振って、

「いや、気の毒だがまるっきり知らないんだ。世間では王様が鶴子に惚れているように思い、また王様もそれを利用してしげしげ日本へやって来る口実エクスキュウズにしていたんだが、君も知っている通り、馴れそめというものは王様が見初めたというんでも何でもない。岩井が一人合点で取り持ちをしたんだが、そのうちに鶴子の方が大変な逆上のぼせ方になったんで、王様も情にひかされてつい今まで腐っていたようなものの、あの通り酔えば何をいい出すかわからない、始末のわるい奴なんだから、金剛石のことはほとんど何もいってなかったらしい」

踏絵は妙な顔をして山木の話を聞いていたが、急に夢から醒めたひとのような声で、

「なるほどそうだったのか」

山木はさすがに聞きとがめて、

「そうだったって、何が」

踏絵は何気ない体で、

「いやさ、気の毒なもんだというんだ」

とはぐらかす。何か曰くのありそうな態である。山木は気がつかずに言葉を続け、

「……そこで、犬居の方の話をもう一度蒸し返し、いよいよ受渡しは二日、つまり明日の夜の十時に熱海の熱海ホテルですることになった。金はニューヨークのナショナル・バンク、パリーのエスコート・ナショナル、ローマのローマ銀行、その他合計十六の銀行へ払い込み、赤線の小切手で全額を仕払うことになっていた。犬居の方からは手代の松島が来、王様の方では湯治と見せかけて八時の東京発で熱海へ行く。この取引がすむと、王様だけがすぐ熱海を発って神戸へ飛び、三日正午出帆のP・O汽船のサマリ号でペナンへ行き、そこから旅客機でイスタンブールへ亡命される手筈に決まった。……

さて次ぎの日、といったって昨夜の話だが、「巴里」の忘年会の席で、俺がトイレットへ立って行くと、王様が椰子の植木鉢の側で俺を待っていて、重大な頼み事があるから、午前三時五十分に鶴子の家の勝手口の扉の前まで来てくれという。「事情が非常に険悪になったから、絶対に人に見付からぬように充分注意して忍んで来てもらいたい。勝手の扉の前へさえ来てくれれば、その時間に私の方から出て行く。どうか絶対間違いのないように」と、珍しくひどく差し迫った顔をしていわれる。あまり物々しいので慄え上ったが、また気の毒にもなって、王様の手を握って忠誠を誓うと、王様は何ともいえぬ佗しそうな顔でニヤリと笑って、「例の件で二日の朝の四時にフランス大使が俺を窮命にやって来ることになった。それはいいんだが、……実はね、俺を殺そうという李光明一派の刺客アッササンが、二十七日のプレジデント・フウヴァ号で横浜に着いている。ついさっきそれが判ったんだが、そういうことであってみれば、俺だって油断が出来ないからね」といって乱痴気騒ぎの方に流眄ながしめをしながら、「ひょっとするともうここへやって来るかも知れない」といっているところへ笑子の後ろから、二十七八の粗野な面をした若い男が入って来た。

こいつがタキシードを着てるんだが、平素そんな服を着馴れた奴でないことは一目で判るんだ。まだ若いのに妙に隙のない物腰で、それにひどく嶮相な眼つきをしている。いきなり奥のテーブルへ坐ると飲み物もとらずに煙草をふかしているんだが、その落着き方はなにしろ大したものなんだ。すると王様は俺を肘で突ついて、「噂をすれば影だ。今入って来た人がどうもそうらしい。俺のところに密告して来た人相とよく似ている」といって俺の方へ片目をつぶって見せ、「君はこんなことに経験はないだろうが、私はこれでも暗殺者アッササンを扱うことに馴れているんだ。そういう連中から自分の命を護るたった一つの方法は、そいつをいつも自分の身辺へ引きつけておくことだ。逆説というよりむしろ一種のマキャベリズムだね、そいつを身近に引きつけて監視している間だけは、少なくとも安全だといえるからね。……私は今あいつを連れ出して、明日の夕方までずっと側へ引きつけておくつもりなんだ。……では、さっきの約束を忘れないように頼む」といって離れて行かれた。俺は酔ったふりをしてテーブルのところへ帰ると、通り路へぶっ倒れて、俺にすれば一世一代の芝居をしながらつくづくと成り行きを考えていた。

何か容易ならぬ大事件が起りつつあるということは俺にもひしひしと感じられる。それにしても実に気の毒な王様だ。五百万の民草を統治する身でありながら、いわば三界に家なき態たらく、父君は島流しになり、弟君は毒殺され、その身自身もいつ殺られるか判らんような、絶え間ない危険に二六時中曝されている。俺は不甲斐のない、取るにも足らぬ男だが、その俺を今まで信頼してくれた恩顧を思うにつけ、自分の力の及ぶことならどんなことでもして王様を危難から救ってやりたいと考えたんだ。……感慨めかしいことはまあこのぐらいにして、さて、君に踏んづけられながら横目で見ていると、間もなく王様は暗殺者と一緒に「巴里」を出て行かれた。

……三時になってから、もうそろそろ王様に逢いに行こうとそのつもりをしていると「カアマス・ショオ」の連中とこれから「すず本」へ繰り込むのだという、はなはだ迷惑だが、行きがかり上俺だけ外すという訳にもゆかない、皆とつるんで「すず本」へ押し上ったが、相方のジャネットが邪魔で仕様がない。すると君が気をきかせてうまくさばいてくれたから、やれやれと思っていると、いれちがいに君が入って来てぐずぐずいっている。約束の時間は迫るし、俺は気が気じゃない。済まないが君を盛りつぶすつもりで様々に画策したところ、幸い君はすぐつぶれてしまった。時計を見るともう三時半だ、これはまごまごしていられないと思って、屋根伝いに「すず本」を抜け出し、行きどまりの土蔵の折釘に飛びついて下へ降りようとしたところが、見事やり損じて下まで墜落し、ひどく腰を打ちつけて起き上ることも出来なかったが、そんなことをしていられる場合じゃないので、這うようにして堺橋の方へ行くと、流しのタクシーが来たから、それに乗って山王下まで行った。三度ほど非常警戒に停められたが、大した難かしいこともなく通り抜けて、合鍵で扉を開け、ベル装置の外線のコードを引きちぎっておいてすぐ裏階段から勝手口の扉へ廻り、扉へ耳を押しつけて内部の様子を窺ってみると、王様と鶴子の他に一人の男の声がする。例の暗殺者なんだろうが、大分酔ってるようで高い調子でしどろもどろのことをいってた。時計を見ると三時四十五分だ。それから二分ほど待っていると、誰か食堂へ入って来て酒棚を掻き捜すような音がしていたが、そのうちに勝手の扉の錠を開ける音がし、忙しく扉が五寸ほど引き開けられ、三鞭酒を片手に持った王様が半身を現わして、その壜を俺に渡すと、「どうかこれを明日の夜まで」と早口に囁いてそのまま扉を閉じて食堂の方へ行ってしまわれた。

……一体この三鞭酒シャンパンの壜がどうしたというんだ。見ると針金の締線で固く栓をされた上に、錫紙で包まれたまだ手のついていない瓶だ。振ってみるとシャンパンが沸々と泡を立てる。べつに何の奇もありゃあしない。俺は壜を縦にしたり横にしたりして電灯に透かして見ていたが、どうもこの謎が解けない。そのうちに、ふと気が付いて見ると、普通は円錐形に上っている壜の底が、これに限ってダイヤモンドの切子型の上げ底になっている。あわてて壜の尻を撫でてみると、これが扁平なんだ。……俺の爪先から頭の先まで何か冷たいものに一挙に貫かれたような気がした。……くどくいう必要はあるまい。上げ底の代りに、例の五千万円がしっかりと壜の底に熔接されてあったんだ。胸は早鐘のようにつきだすし、目は眩むようになって、どういう処置をとっていいか咄嗟に才覚がつかない。ともかく俺の部屋へ隠しておこうかと思って勝手の階段を降り、改めて表階段から自分の部屋へ上って行こうとすると、玄関の方で人の足音がするから、こいつはいけないと思ってボイラー室の横手に隠れてやり過ごし、一目散に有明荘を飛び出した。

……シャンパンの壜のお蔭で帰りの非常線も易々と通り抜け、聖路加病院の前でタクシーを降りると、また質屋の土蔵に取りついて部屋へ帰った。見ると幸い君はぐっすりと眠り込んでいる。……何しろこの道中を靴下一枚でやったんだから足の裏が痛んでやりきれない。それに靴下は泥だらけだ。……洒落じゃないが、こんなところから足がついてはたまらんと、地袋の棚や畳の上の泥をすっかりハンケチで拭き廻り、靴下は手洗場へ行ってザッと洗って電気ストーヴの上へ引っ掛けて置いて、……さて大体落つくと、このシャンパンの壜をどう始末したものかと考えた。どうしたってこんなものがこの部屋に転がっているのはおかしい。もっとも自然な場所に置かなければどんなヒョンなことで疑われないとも限らない。もっとも自然な場所といえばどこだ、まず咄嗟に考えられるのはこの家の酒棚だが、今ごろになって、どうかこれを酒棚に、もおかしい。……そこで思い付いたのは冷蔵庫だ。これに限るてえわけで、壜を下げて帳場の方へ降りてって見ると、帳場の傍でお定とお千代が喋くっていたから、これは明日の朝の目覚しに飲むんだから、電気冷蔵庫の中へ入れといてくれと頼むと、お定が気軽に立って勝手の方へ行く。確かに電気冷蔵庫の扉の閉ったのを聞き届けると、俺は急に気がゆるんでヘタヘタとそこへ坐り込みそうになった。這うようにして二階の自分の部屋へ帰って来たが、仰向きに引っくり返って考えると、今までのことがまるで夢のように霞んで嘘みたいな気がする。そこへジャネットが起しに来て、君はロナルドの部屋へ帰って行った。間もなく夜嵐が吹いて十二人揃って珠数繋ぎという順序だ。……話はこれだけだ。手落ちなくしゃべったつもりだが、腑に落ちないところがあったら訊いてくれ、納得するまでくわしく話す」

踏絵は掌で頤を支えて山木の話を聞いていたが、ジロリと上眼使いをして、

「よくわかった。わちきは嘘だと思わない。でもね、山木、もし、万一、お前がその時刻に「すず本」をぬけ出したのをだれかに見られたとしたらその話は通らない。説明しようとすればするほどいよいよお前は二進にっちも三進さっちもゆかないことになる。何しろ生優しい事件じゃないのだからね」

山木はまた臆病そうな眼つきになって、

「しかし、王様が証明してくれるだろう。王様さえ……」

皆までいわせずに、

「王様が殺されてたらどうする」

山木は泣き出さんばかりの顔になって眉を顰めていたが、ややしばらくの後、急に満面に喜色を漲らせ、

「おい、踏ちゃん、助かった。大丈夫、大丈夫」

と夢中になって泳ぎ出すようにしながら、

「ああ、僥倖々々、ひょっとすると、これァ助かる……実はね、胸突坂を駈け降りながら、なにげなしに花子の家の二階を見上げると、花子がこうやって窓の閾に肘をついて真上の有明荘の方を眺めていた。月が顔へあたって、ふだんでも白すぎる顔が蒼白く闇の中に浮き上って、まるで女の恨みといったような凄い形相をしてるんだ。今にも宙乗りして、夜叉のように髪を振り乱して飛んで行きそうでゾッとした。……とにかく、俺が有明荘を出たのが四時少し前で、一件のあったのは四時十分ごろだとすれば、ひょっとすると花はあの一件を見ている。俺の記憶ではちょうど月は西へ廻って玄関の窓へまともに射しかけていたような気がするから花のところから何もかも見えた筈だ。……と、すれば俺は助かるわけなんだが……」

踏絵は唐突だしぬけに口をひらいて、

「花子が窓から顔を出していたというのは確かなんだね。はっきり見たんだね」

「だから、夜叉のような面をして……」

「花子の部屋に電灯あかりがついていたかえ」

「いや、真ッ暗だッた」

踏絵は上眼使いで額を睨み上げながら何か考え込んでいるふうだったが、ニヤリと唇を歪めて笑うと、

「花子は確かに見ている。……見てる段じゃない、今朝、鶴子のところで何かおッ始まるてえことをちゃんと前から知ってたんだ」

「えッ、それはどういうわけ……」

「訳もくそもないさ。……考えてごらん、一体今まで花子の部屋の電灯が消えていたためしがあったかい? 暗いと疳が立って眠られないといって、いつも五燭の電灯をつけッぱなしにしているだろう。……わちきなんざ、夜更けて帰るときは山王下から駆けるようにして来て、あの明るい窓を見上げちゃいつもホッとするんだ。……それなのに、なぜ昨夜に限って消す? たとえ除夜の晩にしろ、朝の四時ってえ時間に、何の必要があってそんな面をして鶴子の方を見上げている?……土用中でもあるまいし、この寒中に、風に吹かれているわいな、はないでしょう。……とんだお軽だあ、風邪をひくぜ。……今朝、虎ノ門で逢った時、わちきがちょいと鎌をかけて見たらひきつけそうになったっけが、そのわけがこれでよく嚥み込めたよ」

山木は膝を揺り出して、

「すると殺ったのはいよいよ王様だってえことになるわけだね。もし王様でなかったら、あの片意地な娘が黙ってなぞいる筈はない。いわんや君に鎌をかけられて、ひきつけそうになるわけがないじゃないか。これが何よりの証拠だ」

「さあ、どうだかね」

「どうだかッて……、王様が殺ったんだればこそ、警察があんな騒ぎをしたんだろう? 夕刊の記事を見たって、どれぐらい大仕掛に伏せたかよく判るんだ。六号活字で、たった五六行で片附けられているじゃないか。それに、もし王様でないとしたら、われわれをこんなふうに放ッて置きァしまい」

踏絵はジロリと上眼で山木の顔を見上げ、

「そうさ、放って置きやしない。わちきたちを血眼になって探してるんだ。そいで、わちきと岩井はほうほうの体で「お茶松」へ逃げ込んだんだあ。「巴里」なんざ、もう裏表に張り込んでいるそうだ。それに、王様が日比谷公園から攫われたってえ評判もある。何だか急に様子が変って、物騒なことになっているんだ」

山木は急に顔色を変えてウロウロと膝を立て、脅えたような声で、

「すると、こんなところにマゴマゴしてはいられない。臨検でも喰ったらそれっきりだ」

とうろたえるのを、踏絵は手を取って引き据え、

「なんでいまさららしくうろたえるんだ。うしろぐらいことがなかったら、何も恐いことなんかありゃしないじゃないか」

山木は今にも泣き出しそうな顔になって、声を潜めると、

「恐いことがあるんだ。……実は、ここに持っている」

踏絵は、えッ、と息を嚥んで、

「それは、本当?……まア、なんという馬鹿な……」

山木はキョトキョトと戸口の方に眼を走らせながら、

「こんなところへ持ち込む気はなかったんだが、ひょんな羽目になって……」

と、息をきり、

「……で、有明荘を出ると真ッ直ぐに「すず本」の傍まで行ったんだが、自分で出向いて、昨夜のシャンパンの瓶をも、可笑しいと思い返して明石町の「呉竹」へ押し上り、女中に瓶を取らしてから四時ごろまで寝ころんでいたが、トイレットへ行きながら、なにげなく庭向うの四畳半を見ると、チラリと笑子とバロンセリの顔が見えた。……俺の睨んだところでは、あの刺客アッササンを「巴里」へ手引きしたのは笑子に違いないんだが、その笑子が俺を追い詰めて来た以上、その目的は判っている。部屋へ飛んで帰って、瓶を横抱きにして「呉竹」の門を出ようとすると、向う側の片側塀にハッチソンが凭れて何気ない体で張り込んでいる。こう素早いとは思わなかった。せっぱ詰って横手の庭へ走り込み、瓶をぶッ欠いて底だけ取り、板塀を乗り越えて天主公教会の横丁へ出、開国橋の側からタキシーを拾ってここへ逃げ込んだというわけなんだ」

突然、ガラリと間あいだの襖が開いて、誰もいない筈の隣りの三畳から、ヌッと幸田節三が入って来た。いや幸田節三だけではない。例の幸田節三の相棒の酒月守、印東忠介、東京貴石倶楽部の松沢平吉、その他もう一人、黒サージの服を着て折鞄を抱えた執達吏体の男と、以上五人が次々に入って来ると、山木と踏絵を真ン中に押し包むようにして物もいわずに坐り込む。三畳はたちまち満員鰭詰となった。

三十、一輪の洋瞿麦カアネーションの事   並に呑気なる鼻唄の事

さて夕陽新聞記者古市加十は、安南皇帝附き諜報部長宋秀陳から、今朝噴水の鶴が安南の国歌を唄ったという取とめない一揷話エピソードをきくと、卒然としてこの錯雑紛糾した事件の真相を洞察みぬいてしまった。どんな事があっても暗殺者の手から救い出し、今まさに帰京の途中にある仏国大使が伺候する明朝四時までにホテルに帰して置かねばならぬと、警視庁の全機構が眼も当てられぬ錯乱状態で捜査追究に力めているその当の安南皇帝は、つい警視庁の鼻の先、ところもあろうに日比谷公園の「噴水の鶴」の台座の下にいられると看破した。ああ、燈台下暗らしとはこのことだと、例によって卑俗極まる感慨を催しながら、及ぶ限りの才覚を非常招集してさまざまに考究したが、見受けるところ台座の方からは入って行けぬのだから、それはどうしたって何かの通路によってその下に到達されたのだと思う他はない。加十は小一時間近くベンチの上に坐って呻吟を続けていたが、やがて予期せざるインスピレーションのお見舞を受け、思わずピョンとばかりベンチから跳ね上った。

加十が北大の土木科に蛍雪の功を積んでいるうち、浅見博士の「徳川時代の上水道工事」の講義に追従するため、嫌々ながら、「享保撰要類集」や大久保主水の「天正日記」の古地図を引繰り返して、大伏樋ふせどの配置を研究した憶えがある。その記憶によれば芝田村町からこの日比谷ヶ原一帯の地下には、神田、玉川二上水の大伏樋が、さながらクレエト島の迷路ラビラントのように縦横無数に交錯している筈なのである。

武蔵野はもと沼沢沮洳しょじょたる荒野原で、井戸を掘れば、汚水にあらざれば満潮干潮をほしいままにする海水が湧き出し、すこぶる清浄な水に乏しかった。家康はこの地に府を開くに当り、赤坂溜池及び神田山の下を流れる水を市中に疎通せしめて僅かに需用を充たしたが、常に混濁且つ涸渇するので、天正十八年大久保藤五郎に命じて上水池を検せしめたところ、井の頭池の水が飲用に適するを発見して神田上水を布設させたが、三代将軍家光の寛永年間には、玉川清右衛門に多摩川を水源にする玉川上水を設けしめ、さらに元祿年間には河村瑞軒の設計によって石神井村三宝池を水源とする千川上水を通じ、市井に大樋を伏せ、各所に溜井戸を設けてこれを市民の飲用に当てた。なお分水としては、三田、青山、亀有の三上水があった。

この二上水大伏樋の通路を述べると、神田上水は北多摩郡三鷹村の井頭池に発し、上井草の善福寺池の水を合せて目白台の下に到り、小日向台の麓に沿って後楽園内を流れ、水道橋附近で大樋をもって神田川を渡り、神田、日本橋、京橋に供水し、日比谷門下の地下を通り数寄屋門附近で濠に達する。

玉川上水の方は西多摩野羽村から「西多摩野羽村から」はママ多摩川の水を分岐し、四谷大木戸から市中に入り、虎の門、田村町を経て日比谷に達し、一旦神田上水の大伏樋と合し、更に分れて山下門橋から西に迂回して馬場先門橋の附近で濠に達する。

これらは上水の幹線だが、この大伏樋から無数の分樋が縦横に走り、麹町の地下一帯は、かのパリ市の暗渠道エヴウにも劣らぬ複雑極まる大地下道を構成している。一旦その大伏樋の中へ入れば、一度も地上に現われることなくして、一方は京橋、日本橋を経て小日向台町まで、一方は虎の門を経て四谷大木戸の地下に達することが出来るのである。栗田一夢の「天明雑集」を見ると、足立郡新井方村百姓市兵衛の伜新助、すなわち、例の稲葉小僧新助がこの大伏樋を利用して、自在に活躍している。天明五年九月十六日の夜、例の如く麻布六本木の附近から、当時廃止されていた青山上水の大伏樋へ入り、悠々と地下を漫歩して飯倉から芝新堀まで行き、黒田豊前守の下屋敷の庭先へ忽然と姿を現わしたところを、警衛の武士に発見されて捕われ、同年十月廿二日浅草で梟首になった。

明治四十四年に刊行された「東京市水道小誌」を見ると、明治四十年に岩崎久弥の千川水道会社の所有になった千川上水の旧伏樋だけは掘り起された事実が見えるが、他の大伏樋の迷路ラビラントは、蜿蜒えんえん十数里にわたって今もなお大東京の地下を蜘蛛の巣のように這っているのである。大伏樋の事実は「上水樋仕様」の古地図と共にわれわれの記憶から失われ、そのような怪奇な大地下道が、アスファルトの砥道の下を縦横に走っていることを知るものはあまり多くはあるまい。「上水樋仕様」を見ると、大伏樋は高さ六尺、幅四尺五寸の、一種の地下溝渠で、周囲は大谷石で畳まれ、二町隔おきに四間四方の溜井戸が設けられてある。今は四周の石壁は苔蒸し、半ばは風化して甚だしく脆質になっているが、なお自在にその内部を遊歩することが出来る。この秘密の暗道ポテルンこそは、魔都「東京」を形成するあらゆる都市機構のうちもっとも魅惑に富む部分でなければならぬ。

加十の受売りをして思わず考証めいた閑筆を弄したが、まずこれぐらいで止めて置いて、すると、一体どこから皇帝はこの伏樋の中に入りこまれたものであろう。この暗道ポテルンは地下十五尺のところを通っているのだから、容易なことで入り込むことが出来ぬ筈である。この附近に大建築でも始まっていれば、そこで大伏樋が断ち切られ暗道の口が露呈する筈だが……ふと思いついた。今、田村町一丁目で放送局の大地下工事が始まっている。地下二階の大建築だという事だから、思うに大伏樋は必ずやそこで断ち切られ、工事場のどこかで大暗道の入口がアングリと口を開いているに相違ない! つまり、王様は何かの都合でそこから入り込まれたのに違いない、という具合に、加十の推理は一気呵成にここまで辿り着いた。日ごろ血の廻りの悪い加十としては、なかなか天晴れな出来栄えだったのである。

さて加十はそうと見込みをつけると日比谷公園を走り出し、足も空に放送局の工事場まで駆けて行ったが、いきなりそこへ入り込むかと思いのほか、一丁目の交叉点を越えて南佐久間町の方へ飛んで行く。小学校の裏手の、小さな門構えの家の玄関を引開けると、案内も乞わずにズンズンと二階へ上って行き、呆然としている女中を尻眼にかけ、壁際の大きな書棚の中を一心に掻き探し始める。

この家は、もと北大教授、今は東京市土木局嘱託浅見厚太郎博士の邸なんだが、すると加十はここへ大伏樋の古地図を探しに来たものと思われる。さながら狂乱の有様で黴臭い古書箱をひっかき廻していたが、やがて、「天正日記」と誌された和綴の本を引っぱり出すと、巻末についている地図を引きちぎってポケットに納め、本棚の上に置いてあった小さな手携電燈を引ッ攫うと、物もいわずにその家を飛び出し、家の前でタクシイを拾って銀座の松坂屋の前に行き、茫然と町角に立って河童の皿のついた自動車の通行を計算している秀陳の傍へ行って、もう三十分したら田村町一丁目の放送局の工事場まで来るように口早に命じて置き、そのタクシイでまた田村町の角まで戻って来た。

板囲いの中へ入って行くと廿尺ほど掘り下げられた工事場の周りには、三台ばかりのコンクリート・ミキサアが夜風に湿めり、赤錆びたレールの上にはいくつもトロッコが引っ繰り返っている。鉄筋やモルタルの袋があちらこちらに堆高く積まれ、何さま物々しいばかりの有様。

加十は手携電燈の燈火をたよりに穴の縁を廻って、夜番詰所の小屋の傍まで行き、息をころして内部の様子を窺って見たが、さすが元日には夜番もここへ寝ないと見え、森閑として人の気配もない。また穴の縁まで戻って来てあちらこちらと眺めると、向う側に歩み板がついているからそっちへ廻って行ってそろそろと穴の底へ下りて行く。ちょうど基礎工事の割栗がすんだばかりのところで、大きな穴の四周には大地の断面が寒そうな地層図を描いて地膚を露き出している。見ると内幸町側の断面に、そこだけ大きなカンヴァスが懸けられてあるので、思わず胸を轟かしてその方へ走り寄り、そいつをひんまくって見ると、ああ、果して! 加十の推理には寸毫の誤りもなかった。

そのカンヴァスの裏には、新宿の地下道のような古色蒼然たる暗道ポテルンの入口が、欠伸でもするようにアングリと口を開けていたのである。

加十はあたかもグアナハニ島を発見したクリストファ・コロンブスの如き感慨をもって惚れ惚れと暗道の入口を眺めていたが、何気なくふと足元を見ると、平らに均された割栗の上で奇妙なものを発見した。

それは他でもない、一輪の臙脂色のカアネーションが、今そこから咲き出したようなしおらしい様子をして闇の中に匂っていたのであった。この無趣味索然たる建築場の中に高価な早咲きの洋瞿麦カアネーションが落ちているなど、これ以上不相応なことはない。されば、その嬌めかしさは一段であって、異様に加十の注意を惹いたのである。

加十がカアネーションを手に取って眺めると、それは茎を短かく切られ、明らかに服のボタン穴に揷されたものだということが判る。

ああ、この一輪の花は建築場に詩趣を添えるほか、ある重大なことを物語っているのである。……王様はここから暗道へ入られた。

読者諸君も多分御記憶になっていられるでしょう。第一回、酒場「巴里」の場で、安南王宗竜皇帝が倫敦ウエスト・エンド仕立てのタキシードの襟に婀娜あだに臙脂色のカアネーションを揷していられたことを。これがその夜の花だったのである。

加十は眼を輝かして花を眺めていたが、やがて喜悦に耐えぬ声音で、

「ああ、果して果して、俺の見込みに間違いはなかった。これで王様が「鶴の噴水」の下にいられるという事が明瞭確実になった。……よし、ひとつこの古地図をたよりに台座の下まで辿り着き、王様を掴まえて談話を取ってやらねばならん」

と呟きながらソロソロと暗道の中へ入り込んで行った。

手携電燈で照らして見ると、切石を畳んだ暗道の壁の上には、何とも名の知れぬやもりのような虫が一面に貼りついていて、これが一斉にノロノロと身動きするので、まるで壁全体が揺れるように見える。天井からは鐘乳石のようなものが氷柱つららのように垂れ下り、その端からポトンポトンと水が滴っている。黴臭い湿った空気がどんよりと淀んでいて、ムッと顔を打つ。

暗道の中は立って歩いて頭が天井につかえないほどの高さだが、足元は高低が一様でなく、粗雑な石畳になっていて、その上ゆるい勾配がついていて上りになったり下りになったりする。頭の上で遠雷のような鈍い地響がするのは、多分電車の轍わだちの音であろう。すると加十はいま田村町の通りに沿って歩いている勘定になる。

十分ほど歩きつづけていると、意外にも暗道は行き止りになった。あわてて古地図をひろげて調べて見たが、地図にはこんな伏樋は載っていない。加十は舌打ちをしながら、今来た道を引返して来ると、来る時は気がつかなかったが、暗道の右と左に横通があって、ずっと向うの方へ続いている。思案した末右の方へ入って行く。ところが今度は行けども行けども涯しがない。耳を澄ますと川波の音のようなものがきこえる。濠の近くへ出たのだと思ってまたやり直す。先刻の三叉のところまで戻ろうと思うのだが、いつまで行っても行き着かない。

見ると、加十が今立っているところは地下道の十字街のようなところで、そこから道が四方へ走っている。泣き出しそうになって地図を検べて見たが、どれがどの道に相当するものやら皆目見当がつかない。もしや電車の響でも聞えないかと思って壁に耳をあてて見ると、何か鼻唄のようなものがきこえる。機嫌のいい酔漢が出鱈目な歌を口ずさんでいるような呑気な調子である。よく聞きすますと地虫の声のようでもあり、やもりの這い廻る音のようでもある。ともかくその音のするところまで行こうと左手の道へ走り込んだが、そこの道の端はまた三叉に分れて蜿蜒えんえん闇の奥につづいている。

加十はとうとう大地下道の迷路ラビラントの中へ迷い込んでしまったのだ。腕時計を眺めるとちょうど正十二時! 午前四時までには余すところあと四時間となった。

第十回

三十一、新吉原夜景の事    並に狐、馬に乗るの事

新玉の年たちかえる初紋日。

大籬おおまがき小籬、朱塗の見世格子に煌々とネオン照り映え、門松の枝吹き鳴らすモダン風、駄々羅太鼓の間拍子もなんとなくジャズめく当代の喜見城リュウ・ド・プレジール。

春になれば、並木の緋桜が婀娜あだっぽい花を咲かす五十間道路のとっつきから仲之町の方へ五六軒、麻の暖簾のれんも風雅な引手茶屋、紙張かばり行燈には、薄墨で、

はせかは伏見屋

と書き流してある。

道路に面した二階の八畳間。今しも花梨の卓を囲んで黙々と盃を含んでいる二人の人物があります。一人は、前回、浅草簡易ホテルの場で折鞄を抱えた執達吏体の男を従え、悪徳夕陽新聞社長幸田節三、その相棒の、日比谷公園々丁長酒月守、志摩徳兵衛の手代で東京貴石倶楽部の松沢とともに、山木元吉と川俣踏絵が抱き合わんばかりにしている紅情纒綿たる隣座敷へ、無法にも案内も乞わずにズカズカと踏み込んで行った例の有明荘の住人の一人、有名な高利貸犬居仁平の養子の印東忠介。

他の一人は、第六回、築地明石町の場で、夕暮の暁橋の欄干に「カアマス・ショオ」のマネージャー、日仏混血児のバロンセリをおしつけ、皇帝を鶴見組へ売り込んだろうの、攫わしたろうのと凄文句で脅しつけ、妙な捨台詞を残して画面の外へ出て行ったきり、その後杳として姿を現わさなかった「ホヴァス」の通信員ジョン・ハッチソン。

印東の方はドーラン化粧の上に汗さえ浮かせ、精根限り駆けずり廻ったあとのように肩で大息をしている。折角の引眉毛が眼尻の方へ八の字に流れ、ギリシャ劇の悲劇の仮面のような莫迦々々しい面になっている。

ハッチソンの方は、この一日でまるで人が違ってしまったような刺々しい顔になり、窪んだ眼の周囲に鳴神の隈くまのようなものが出来、日ごろでさえ凄味のある面を一層検相に「検相に」はママしている。手ッ取り早くいえば、たった今人でも殺して来たかのように、見るものをゾックリとさせるような凄惨極まるようすをしているのだ。

あちらからも此方からも湧き立つような景気のいい太鼓の音がきこえて来るのだが、この座敷ばかりは陰々滅々、無言のままで差しつおさえつしながら探り合うように互いに顔を偸み視る。

こういう深刻な無言劇パントミイムが永久に続くかと思われたころ、印東はひきつったような笑い方をしながら唐突だしぬけに口を開き、

「……帆に風ル・ヴァン・ラ・ヴォアール、という諺がありますが、こう蛇の道へびでも恐れいる。こういう騒ぎになりますと、この家だけが唯一無二の隠場トルウ。……自分じゃたいへんにいい智慧のつもりで駆け込んでみると、あにはからんや、旦那が来ていらっしゃるんだから、上には上があるもんだと思って、あたし、つくづくと感じいりましたわ。……して見ると、今度の事件には旦那も何かお差合いルラシオンがおあんなさると見える」

と、口紅ルウジュの剥げかかった薄い唇を翻す。

ハッチソンは盃を卓の上に置くと、これも抜目のない面付で、

「差合いルラシオンという点なら、まず御同様キフ・キフ。何しろ、有明荘の住人の一人だってえことがこの際何よりモノをいう。どう誘導ひっかけられて悲惨なクリュエル羽目に陥し込まれんものでもないから、こういう場合にはあまり逸らんのが大丈夫の道、触らぬ神に祟りなしで、せいぜいユックリと凪ぎを待つ方がよろしい」

「いや、ご尤も」といって印東はなおも探るようにハッチソンの顔を眺めながら、

「それはそうと、えらい騒ぎになったわね。仄聞するところでは、警視庁プレフェクチュウル始まって以来という大捕物になっているというのですが、あたしなぞはいい面の皮、ただもう、アレヨアレヨと逃げ廻っているんですわ。……いまもいったように、馬道の木賃宿で、幸田なんかと一緒に山木をとッちめていますと、それ、臨検だというんで泡を喰って戸外へ飛び出して見ると、それがいかにも凄い景況なんです。……聖天横丁の入口に警察おかみのトラックが停って、両側の木賃宿を一斉に網の目をすくように洗っているんですの。こいつァいけないと、また家の中へ駆け込むと、裏口から露路伝いに吉野橋まで抜けられるというから、敵も味方も一緒くたになって溝板を蹴返しながら小川町まで駆け出した。あたしだけはうまい工合に隅田公園まで辿りつきましたが、見ると公園の角々にはもう非常線が張ってある。猿若町まで引返したがやはりいけない。三丁目の角にムラムラと警察の官服が群れている。進退谷まって電車通りの方へ曲りますと、折りよく南千住行の電車が来たからこれに飛び乗って涙橋まで行き、そこからタクシーに乗って今戸を通ってようやくここへ繰り込んだというわけなの。一時はどうなることかと思いましたわ。なにしろ、札付の幸田なんかとツルんでいるんですから、それといっしょくたに逮捕やらされたら、それこそアガキのつかないことになるから……」

と、弁解いいわけがましく語尾を濁す。ハッチソンはニヤリと笑って、

「いや、幸田の方も旦那さんと同じ感想だったかも知れない。それはそうと、山木をとッちめたというのは、一体どんないきさつだったんです。くわしくお聞かせなさい。例の座持のうまいところで、ひとつ」

と、おだてるようにいう。口前は軽快だが、顔はいやな色になって、どうしてもいわせずには置かないといった必死の色が見える。

前回、「すず本」における真名古の検証によれば、今暁三時五十分から五時までの間に、つまり、アパート有明荘で松谷鶴子が何者かに殺害されたと思惟される時間に、岩井とハッチソンの二人も屋根伝いに「すず本」を抜け出したという事実が確認されたようである。こんな切迫した面つきをして引手茶屋に潜伏していたところを見ると、ハッチソンはこの事件に何か重大な関係を持っているようにも思われるのだが、それはそれとして、ハッチソンが、そんなふうに誘いをかけると、印東はすぐ乗って来て、顎を突き出すようにして物物しく声をひそめ、

「実はね、ハッチソンの旦那、あたし、ついさっきまで、山木が鶴子を殺して王様ロアの金剛石ディアマンを奪ったんだとばかし思っていたんです。ところが……」

と、軽薄な手つきで額を叩き、

「ところが、隣り座敷で、山木の問わず語りをきくと、それがまるっきり見当違いだったということがわかったの」

「だいぶ、複雑こみいった話になりましたな。それで?」

印東は、山木が「すず本」を抜け出してまた屋根伝いに帰って来たのを目撃した件、志摩徳の一味にこのネタを売り込んで一万円をモノにした件を述べ、

「ところが肝腎の山木の居所が判らない。一同しきりに焦立っているところへ、志摩徳の乾分から、いま踏絵が馬道の木賃宿へ入って行った。山木もそこにいるらしいというレポが入ったから、それ行けで、執達吏を連れて向うへ乗り込み、隣りの三畳の暗がりに潜んで立聴きをすると、山木の野郎が踏絵に問い詰られて、涙片手で本音をあげているんですの」

と、「巴里」の忘年会の席で、あすの朝の三時半ごろ、そっと鶴子の家の勝手口まで忍んでくるように王様にたのまれ、ダイヤの上底としたシャンパンの壜を預かって築地の「呉竹」でまごまごしていると、ある人物に追い詰められ、切羽詰って壜を壊してダイヤだけを取り、前後の考えもなく木賃宿に逃げ込んだまでの話をし、

「なるほど、そう聞いて改めて考えて見ますと、山木は自動車の運転なんざ出来ない。山木が嘘をいっていないということは、そのことだけでもよく判るんですわ。一々辻褄が合っているんです」

「へえ、なるほど、妙な話ですなア。山木が自動車を扱えないのはわたしも知っている。それなのにロード・スタアが動いたとすれゃア、山木以外の誰かが、ほとんど同じ時刻に「すず本」を抜け出したと考える他はないんだが、われわれ六人のうちでロード・スタアを運転出来るのは、わたしと岩井の旦那と印東の旦那の三人。するてえと、これはどういうことになるんです」

ハッチソンは車に頬杖をついて考え耽っているようだったが、何を思いついたか急に喉声を立てて笑い出し、

「それはそうと、印東の旦那、山木の窮命の件ですが、憚りながら、このハッチソンがその結末を洞察してみましょう。……わたしの察するところでは大体こんな具合ではなかったかと思うんです。……まア、そんなようにして、五人で山木と踏絵を押し包むようにして坐り込む。何しろ一件を身体に着けているというのだから話が早い。親父の判を偽造した例の公正証書か何か突きつけ、手取り足取りして実力接収と出かけてみると、……あにはからんや、それは金剛石ディアマンどころか似ても似つかぬガラス玉。……ねえ、印東の旦那、そうでしょう」

印東は、あッとばかりに仰天して、しばらくは口もきけぬていだったが、やがて泳ぎ出すようにして、

「ど、どうしてそんなことを知ってるんですの」

ハッチソンは事もなげに、

「どうしてもこうしてもありゃしない。今あんたの話を聞くと、金剛石ディアマンが三鞭酒シャンパンの壜の底に熔接されてたといったでしょう。……考えてもごらんなさい、世界で何番目という無垢の金剛石ディアマンをガラスの壜なんかへ熔接なんてテはない、傷物になってしまうんですぜ、気でも違わなけれや、そんな莫迦なことをする奴はない」

いかにも笑止だといった目付で印東の顔を眺め、

「旦那さんがたは御存知なかろうが、それは熔接でも何でもない。元来そういう上底の瓶なんでさア。……安南の順化ユエに「ボニゾール兄弟会社フィス」という醸造会社がありましてね、そこで「帝王ラジャー」という三鞭酒を売出していますが、皇室秘蔵の秘宝に型取ってそれと同じようなロゼット型の切子の上底を作ってある。三鞭酒の方はあまり頂けないが、まア、この仕掛が名物になっているようなわけで、安南じゃアだれ一人知らぬ者はない。お望みなら一ダースでも二ダースでも取寄せて差上げますが、そういうガラス罎の底を持って血眼になって走り廻ったってたア、これは全く天下の椿事。実にどうも奇想天外の趣きがありますなア。……さすが洒脱な王様のされることだけあって、この辺の呼吸なんざア巧まずして一篇の諷刺小説になっている。いやどうも……、ヘッ、ヘ、ヘ……」

と、止めどもなく笑い出す。さんざん笑ってから、

「敵を欺くにはまず味方からというのは浪花節の文句にばかりあるんじゃアない。山木が金剛石ディアマン売却の仲介をしていることはもう皆に勘づかれてしまったんだから、その人物に金剛石ディアマンを渡したように見せかけておけば、その間だけ本物の方は危険な追及からまぬがれることが出来る。愚直な山木元吉氏がそれを本物だと思い込んで大袈裟に逃げ隠れすればするほど、いよいよもってその効果をあげるわけ。その人物に山木を選んだところに皇帝の批評性の高さがあるわけです。かりに、これがあなたのような人の悪い方に持たしたら、そううまくはいかんでしょう。ガラス玉をふところにいれ、真偽も確かめずに火がついたように走り廻ったりはなさらんでしょうからね。……金剛石と山木が絡み合う件は、まア、これで大団円デヌウマンてえことになりましょう。腑に落ちぬ点なんざ一つだってありゃしない。いわば、三鞭酒の壜のように透明です。……この方はこれで片付いたが、手前のロード・スタアが、深夜疾走して又帰って来たという件、こいつは充分解析してみる必要がある。……ざっくばらんに申しますがね、印東の旦那、あんたの部屋はどの部屋よりも裏木戸と便所に近く、いわゆる形勝の地を占めている。少し臭い思いを我慢すれば汲取口から這い出し、下見の幅木伝いに家の端まで行き、そこから塀へ取りつけば庭の土の上に少しも足跡をつけずに「すず本」を抜け出すことが出来る」

と平気な顔でこんなことをいう。印東はギョッとした様子で眼を伏せていたが、まもなく不敵な面になり、

「ふ、ふ、いや、そういうこともあろうかと思って、抜目なく出所進退を明らかにしておきましたの。出るところへ出たら、どうせその辺もほじくられると思いましたから、敵方あいかたのメアリーを叩き起し、ロード・スタアが帰ってくるまで二人で飲んでいたんですわ。……どうでしょう、こういうのはアリバイになりましょうか。もしいけないてんなら、他にまだ用意もありますが……」

ハッチソンは子供でもあやすような調子で、

「おお、そうですか。なりますなります、もしそれが事実だとすれば立派なアリバイです。……するてえと、ロード・スタアを動かしたのは、かくいうこのハッチソン君か岩井の旦那の二人のうちということになりますな。これァどうも物騒なことになりました」

印東は媚めかしく片膝を立て、残忍とも見えるほどに唇の端を皺めながら、

「ハッチソンの旦那も恍けるわ。……ねえ、白状しちゃいなさい、ロード・スタアを突ッ走らしたのはあなたなんでしょう。あたし、ほかにまだ知っていることがあるのよ」

ハッチソンは突っぱねるような調子で、

「ほほほ、何かそういう手がかりでもございますか。チト、聞き捨てになりませんな」

印東はいや味に細い顎を撫で、

「山木の話では、あなたが笑子やバロンセリと一緒に山木を「呉竹」に追い込んで来て何喰わない顔で門の前に張り込んでいたということですが、先ほどもいった通り、暗殺者を「巴里」へ手引きして来たのは笑子なんだから、そういう連中と一緒に事を起されたとすれば、ハッチの旦那たるもの、今度の事件にまるッきり無役だったとはいわせませんよ」

それを聞くと、ハッチソンは弾かれたように腰を浮かし、まるで瘧おこりにでもかかったように慄えていたが、やがてとぎれとぎれな声で、

「そ、その……、笑子とバロンセリがツルんで「呉竹」にいたってえのは、それは本当なんですか。たしかなんですか」

印東は快心の面持でマジマジとハッチソンの狼狽ぶりを眺めながら、

「ええ、そこに見そこないはなかったんですって」

ハッチソンは雷にでも撃たれたように、ガックリと首をたれて俯向いてしまう。見ると、肩を波のように起伏させ、膝の上の拳をワナワナと顫わせている。はなはだもって異様な光景となった。

印東はいよいよもって酷薄な面つきになり、

「だいぶ、御愁傷なようですね。何かお気にさわったら、ごめんなさい。……でもね、旦那が鶴子を殺そうと殺すまいと、あたしとすれァどちらだっていいのよ。ただね、すっ恍けられるのがいやなの、焼餅やきなんですわ。……あたしが今朝有明荘へ着換えに帰ったときもつくづくそう思ったんですけど、いったい有明荘の連中はすこしばかりケチ根性ね。何か仕事をしたいんなら、そうと打明けて加勢をたのめばいいものを、コソコソ隠れてひとりでやろうとするからこんなヘマなことになるのよ。ざまア見ろいだ」

ハッチソンは血の気をなくした顔をあげると、血走った眼をキョトキョト動かしながら、何とも形容のつかぬ凄味のある笑い方をして、

「これで筋が通ったよ。……色仕掛けたァ考えやがった。……もともとゾッコン惚れていたんだから、そのテにかかったらバロンのやつも手も足も出なかったろう。……そうとは知らねえもんだから無闇にトッちめたんだが、……ああ、さぞ辛らかったろう。気の毒なことをした。それにつけても……」

と、こんな風なことをブツブツ呟いていたが、またしても首を垂れ、千思万思といった体に呻吟していたが、ややしばらくののち唐突だしぬけに顔をあげ、

「印東の旦那、……実にどうも有難いことを聞かしてくだすった。お礼申しますよ。それはそれとして、有難ついでにもうひとつお伺いしたいことがある。いま聞くと、旦那は有明荘へお召換えにいらしたそうですが、それは一体何時ごろのことでしたか」

「何かと思ったら、そんなお訊ねですか。……岩井の旦那がいらっしゃるのとほとんどいれちがいに「巴里」を出たのですから、九時半ごろでもありましたろうか」

「よく入られましたなア」

印東はキョトンとした顔で、

「てえのは?」

「警察おかみの人数が大勢いましたろう」

「いえ、一人も見当りませんでしたわ。……玄関を入ろうとするとお馬婆が出て来て、今朝鶴子さんが酔っぱらって窓から飛び降りましてねえ、どうも酔狂なことで、と笑ってる。何をいやがると思いながら、それァ大変だったろうというと、なアに今朝の六時前に警察でお鶴さんの死骸を持って引揚げていっちゃって、それですッかり片附いちゃいましたとぬかす。じゃ、部屋へ入ってもいいのね、と訊ねると、いいも悪いもないじゃありませんか。……さすが王様ロアの威勢は大したもんだと思いながら、すぐ自分の部屋へ……」

ハッチソンは異様に眼を光らせ、

「妙ですな、……すると、岩井の旦那は嘘をついてる」

「えッ」

ハッチソンはキッと顔を引き緊めて、

「もう、お忘れですか。……有明荘へ帰るといってアタフタとわれわれに別れたくせに、「巴里」へ入っていらした岩井の旦那の風態を見ると、まず昨夜のままのタキシードを着ていられるから、ご本宅へお帰りになったのではなかったのかと訊ねると、有明荘の門前に警察おかみの人数が多勢出張っていて、どうしても僕を内部なかへ入れてくれなかったと申しました。ところが、今伺うと、検視も検証もちゃんと六時前に片附き、われわれが明石署から釈放される以前に警察の人数は全部お引払いになって、有明荘の門番になんか一人もいられなかった」

鋭い眼つきで印東の顔を凝視し、

「一体何のために、そんな益とくにもならぬ嘘を吐かれたんでしょう。妙な話ですな。……ところが、そういうことになれば、外にもうひとつ異様なことがある。……旦那はお気がつかれませんでしたか。岩井の靴の踵に赭土がウンと喰っついていたことを。……日ごろ身だしなみのいい岩井の旦那としては、あるまじきことなんで、そのため私の注意をひいたんですが、考えて見れァ、この節、東京の市中では、あんな赭土にはお目にかかりたくたってお目にかかれようもない。……つまり、岩井の旦那はわれわれには有明荘へ帰ると嘘をついて、「巴里」へ現われる一時間半ほどの間どこかの田舎道を駆け廻っていらしたのだと思うほかはない。……どうも怪しい風景になりましたな。一方には今朝の九時ごろ王様が日比谷公園から何者かのために攫われてどこかへ持って行かれたという事実があり、一方には、それと同じ時刻に、靴を赭土まみれにして走り廻っている人間がある」

印東はひとを小馬鹿にしたような顔で口を差し挾み、

「お言葉ですが、なぜもう殺られてしまったと考えてはいけませんの」

「それはね、政府が帝国ホテルに王様の換玉をこしらえて置いているからです。……ご承知でもありましょうが、帝国ホテルの王様の部屋の窓は「日本徴兵」の二階の窓と向き合うような位置にある。その窓から遠望すると、レースのカーテンを透かして王様の部屋の中を瞥見することが出来るんです。私は抜目なく観測しましたな、望遠鏡でもって。……ところが、私の眼に映じたものは、どこか王様に似てはいるが、まるっきりの赤の他人なんです。……かりに、王様が殺されたとすれば、如何に面子メンツを重んじる政府だってもはや施す術がない。王様の換玉なんか置いたって今さら追いつきはしない。……なんとお判りか。王様に非ざる王様が、ホテルにいる限り、王様はまだどこかに生きているという事を証明するのです」

といって冷えた酒をグッと呷りつけると、急がしく外套を引きよせ、

「この際、そんな講釈などはどうでもいい。実はね、私は王様を誘拐したと思われる犯人をここで待ち受け、ぬきさしならぬところを押えつけて王様を助けるつもりだったんですが、それはどうも私の見込違いで、犯人は外にあるようだ。……そうとなれば、こんなところでノンベンダラリとしているわけにはゆかない。これからまた必死の奔走をします。あなたは、まあ、どうかごゆっくり」

と、そそくさと立ち上る。なんだかんだとうまくいい廻してはいるが、見ようによれば、しつこい印東の追究から逃げ出そうとしているのだともとれぬことはない。印東もそれを感じたと見え、すかさず、鋭い声で、

「おやおや、たいへんな周章あわてかたね」

という。行きかかったハッチソンはキッと振返り、

「相変らずかったるいお人だね。……あんまりしちくどく絡みなさんな。……旦那のようなお方には判りますまいが、わたしの、ここに詰まっている思考力コンシアンスなんてものは、これで相当上等なんです。どうでもその証拠を見たいてえなら見せてあげましょう。いま換玉を呼び出して見せるから、まア、階下の電話室までいらっしゃい」

といって、先に立って階下へ降り、帝国ホテルの帳場ビュウロオを呼び出し、こちらは警視庁の真名古捜査課長だが、至急王様に御報告したいことがあるからお部屋へお繋ぎしてくれと、例の陰気な含み声を真似てやる。

慇懃な声が引っ込むと、入れ代りに二人の耳へ渋味のある落着いた声が響いてきた。

「もしもし、私は宗方ですが、あなたはどなた」

ハッチソンは思わず、はっと息をひいて、印東と眼を見合わせる。

「もしもし、私は宗方ですが……」

「おお、殿下ですね!」

「ああ、ハッチソン君ですね、……どうしたんです、今ごろ。何か変ったことでも……」

紛れもない宗皇帝の声だった。茫然たる二人の耳をくすぐるように、沈着極まる王様ロアの声が響いてくる。

三十二、歯固めのお式の事    並に意外なる口説の事

安南国皇帝宗竜王は自分の寝台の上で眼を覚ました。

自分は暗い陰湿なところを長い間苦しい彷徨をつづけていたような気がするのに、見ると自分はいつものように帝国ホテルの自分の寝台の穏やかな風景の中にいる。

今日の暁け方、鶴子の家の食堂へ刺客を置き去りにして、うまく勝手口からぬけ出したまでは覚えているが、それ以後のことはどうも正確に思い出すことは出来ない。

熱病のような悪性のねむりの中で、時々ぼんやり眼をあけると、自分の周りにはいつも陰々たる闇ばかりがあった。この半生を通じてあんな恐ろしい闇にぶつかったことはない。いまにも自分の肉体が圧し潰されてしまいはせぬかと思われるような、ひどい圧力を持った闇だった。自分の手がどこにあるのか、顔がどこにあるのか、はっきりと測量することが出来ない。自分の肉体は闇の中に溶け込んでしまって、魂だけで寝ころんでいるような気がする。この恐ろしい混沌の中から逃げ出そうと必死になって這いずり廻ると、自分の掌に苔のようなものや爬虫類の肌のようなヌルヌルしたものがまつわりつき、思わずゾッと身の毛を逆立よだたせる。何とも形容の出来ぬあの不愉快な感触は、いまもマザマザと記憶に甦ってくるのだが、掌を検めて見ても、格別汚れたところもないのだから、やはり夢だったのだと思うほかはない。

枕元の置時計を見ると八時を指したところで停っている。八時ということはないだろう。街路には靴音も電車の音も響かず、大気の中に夜更けの気配いがはっきりと感じられる。しかし、深夜なのか夜明けなのか、昨日なのか今日なのか一向に判断がつかない。時の流れから自分だけが除外されて、今まで放って置かれたようなたよりない気持である。

起上ろうとするが身体の心棒がなくなってしまったようで、うまい工合にゆかない。ようやく起上って何気なしに自分の胸さきに眼をやると、ちょうど心臓の上のところに一枚の紙片がクリップでとめてある。不審に思いながら手に取って読んで見ると、その表面おもてには鉛筆の走り書きで次のようなことが記されてあった。

警視庁真名古捜査課長殿

僕は今たいへんな危難にサラサレています。二日午前三時までに帰りませんでしたら即刻捜査を始めて下さい。入口は芝田村町放送局工事場。二つ目の角を右折、六ツ目を左折、四ツ目を右折。

二日午前一時十分古市加十

幾度も読み返して見たがどういう意味なのか判らない。そのうちに考えることが面倒臭くなって、細かく引裂いて紙屑籠の中へ投げ込んでしまった。

頭がひどく痛むので、すこし額でも冷やしてやれと思って化粧室へ入って行く。鏡で自分の顔を検査したが、昨夜の仮装の付け髯をどこかへ落してきたほか、どこといって変ったところもない。

冷水で顔を洗って含嗽をすると、すこし頭がはっきりして来た。安楽椅子ソファにかけて葉巻に火をつける。

それにしても鶴子は一体どうしたというんだったろう。ひどく蒼ざめて寝台に寝ころんでいたっけが……。しかしそれも夢だったのか事実だったのか、その区別けじめがはっきりしない。また考えるのがうるさくなって舌打ちをすると、テーブルの上の新聞を取り上げて気もなく眺め廻す。意外にもこんな記事が出ていた。

安南王の御迎春

東京御滞在中の

皇帝の御動静

去月廿二日以来、帝国ホテルに御滞在中の安南帝国皇帝宗竜王殿下は東京に於て御宝歳を加えられた。かねて日本びいきでいられる殿下には、歯固めの古式による御雑煮、数の子、ごまめ等を殊のほか御賞美になり御機嫌麗わしく外務次官以下の年賀を受けさせられた。猶本日午前、安南国の大官宋秀陳氏が入京されたが、いたく御喜悦の模様で、自ら会見室迄お出迎えになり、夕方までさまざま御歓談あらせられた。

それは「夕陽新聞」という四ページの夕刊新聞で、一月元日の夕方に配達されたものである。

これによって見ると今は元日の深夜だと思われるが、いくら自分の記憶の中をかい探って見ても、雑煮などを喰った覚えもなければ外務次官の年賀を受けたなどという記憶もない。

呆気にとられてもう一度丁寧に読み返して見たが、それは断じて自分の読みちがいなんていうものではなかった。その記事のあとに、外務次官談として、殿下には軽微なる御風邪の模様に拝されたが、平素に変らぬご元気で、日本の新年の風習につきいろいろと深い御理解を示された、と、この奇妙な会見に大きな太鼓判を捺している。

すると、自分が酔いどれて昏々と眠っている間に、何者かが王様面をしてごまめを喰ったり、要らざるお愛想をいったということになる。

これは何かの冗談なのか、それとも例の李光明一派の測り知られざる詭計の一種なのか。

冗談ならばすこしあくどいし、陰謀ならばあまりくだらなすぎる。自分の代りに数の子を喰ったり挨拶をしたりして、それでどうするというんだ。一向とりとめもなくて、考えれば考えるほど判らなくなってくる。

皇帝が呼鈴をおすと、いつものボーイ長が慇懃なようすで入って来た。

「ここに宋秀陳というものがいるか」

「お宿泊とまりになっております」

「すぐここへ来るようにいってくれたまえ」

ボーイ長が引き退ると間もなく、縮れっ毛団栗眼の、「長崎絵」の加比丹カピタンのような面をした突兀とっこつたる人物が一種蹣跚まんさんたる足どりで入って来て、皇帝の前へ直立すると、危なっかしいようすで敬礼をし、

「おお、お目覚めになられましたか。……こうもあろうなら、手前ら殿下を御介抱いたそうとて、しんじつ手古擦ったと申すべきでありましょう。何にいたせ、あらん限りにおむずがりになり、またさまざま鼻唄などをご朗誦になるなど、いかにも手に余ったのではございました」

皇帝は日ごろにもなく厳しく眉根を寄せてその男の顔を眺めていたが、人もなげな恍けたいい廻しをきいていると、ムラムラと腹が立って来て、

「貴様は何だ!」

と叱咜した。

秀陳は眼をパチクリさせていたが、凄い眼つきで自分を睨みつけている皇帝の顔を見ると、急に泣き出しそうな顔になって、

「ああ、情けなや、殿下におかれては、いまだ酒気中にわたらせられると考えるより外はないのでありましょう。帰国の暁には勲章をやるぞと、優渥なるお約束をつかわされ、また、ひょッとしたら大臣の位まで賜わるべき筈の手前らを、あろうことか、早や御忘却になるなどは、日ごろ御聡明なる殿下として、有り得べからざることなのでございまして、されば、手前らは……」

皇帝は顔を引き緊めると、凛然たる声で、

「うるさい、貴様は何者だ」

と、また大喝する。秀陳は仰天してひと飛びに三歩ほど飛び退ると、息も詰りそうなオロオロ声で、

「安南帝国皇帝附き諜報部長宋秀陳」

「その下級官吏が俺と同じホテルに泊っているというのか。一体だれの許可を得て、そんな出過ぎた真似をした。……いえ!」

秀陳は、ハッと泣き出して、

「これはまた意外なるご叱責ではありまする。手前が再三御辞退申しあげましたことは、殿下におかれても御記憶のことでありましょう。かくいたしましたは、しょせん、殿下の御命令に服従いたしたに他ならぬのであります」

「見ると、大分酒気を帯びているようだが、そんなざまで俺の前に出てくるなんて、貴様もなかなか元気のいいやつだな。免職ぐらいでは済まさないから覚悟しているがいい。……察するところ、この新聞記事も貴様がいい加減なことを喋りちらしたのに相違あるまい。……おい、俺がいつごまめを喰った」

「つがもない! そのおとがめはまことに意外なのでありまして、しんじつ、夢に夢見る心持がいたすのでござります。先刻新聞記者がまいりました節、ごまめの方はどういたしましょうとお伺いしたところ、喰ったと書きゃアいいじゃないかと仰せられたのであります。また、手前らが酩酊いたしましたのは、かまわんから大いにやれという殿下の御命令に服従いたしたのでありまして、しょせん、職務に忠」

皇帝は大股に秀陳の方へ近付いて行き、襟首をひッ掴んでズルズルと扉の方へ引ずって行って、力任せに廊下へ蹴り出した。

何とも肚に据えかねる心持になって、居間へ引きかえそうとすると、扉の隙間から廿歳ばかりの娘が、美しい旋風つむじかぜのようになって飛び込んで来た。そのあとから私服らしいのがバラバラと追いかけて来たが、皇帝の不機嫌な凝視に遭うと、モジモジと廊下の端まで引き退って行った。

娘は嵐に怯えた小鳥のように、ソファのうしろにかがみ込んで顫えていたが、皇帝が扉をしめてその方へ近付いて来るのを見ると、まるで縋りつくような物騒な眼つきをしながら床の上から飛び上り、皇帝の手を取って気が狂ったように接吻をしながら、

「王様、王様、……どうぞお腹立ちにならないでちょうだい。こんな夜更けにお訪ねするなんて、よくよくなことが起きたからなんですわ。こんなことであたくしを厭になったりなさらないで下さいましね。……もし、そんなことになったら、もう、生きてなんぞいませんわ」

といって、胸の方へ顔をすりつけてくる。

どこかで見掛けた娘のようだが、よく思い出せない。今日はよくよく変ったことばかり起る日と見える。

皇帝がソッと娘をおしのけると、娘はソファの中へ沈み込んで、ワッとひと泣き泣いてから、涙で洗われた美しい顔をあげ、

「王様、警察では、あのひとを殺したのはあたくしなんだと決めているらしいんですの。刑事が夕方からズッとあたしのあとを蹤けていますし、あたくしの部屋もそっと家宅捜索をして行きました。……あたくし、畳の下へたいへんなものを隠してあったんですが、とうとうそれを持って行かれてしまいました」

また気狂いじみた眼つきになって、

「でもね、あたしの方に、そう思われても仕様のないわけがあるんです。……もう、何もかも申上げますが、あたくしはあのひとを嫉妬していたんです。あのひとのところで王様の写真を見た日からそんなふうになってしまったんですわ。……あたくし、あのひとが死んでくれればいいといつも思っていました。だけど、あのひとを殺したのはあたくしではないのです。……どうか、それだけはお信じ下さいましね。……あたくしがあのひとを呪った罰で人殺しに間違われて死刑にされたって、それは身から出た錆でだれを恨もうすべはないのですけれど、王様にまで人殺しだと思われるんでは、死んでも死にきれないのです。どうぞ、あなたの口から、あのひとを殺したのはお前じゃないと、たったひとことおっしゃってちょうだい。そして……」

といってウットリと眼をとじて、

「最後に、たった一度だけ、あたしに接吻キッスして下さい」

皇帝は唖然として花子の面を凝視していたが、追々莫迦莫迦しくて我慢ならなくなり、その傍に突っ立ったまま、素っ気ない調子で、

「今まで辛抱して伺っていましたが、私には何のことやら一向にわからない。いつまで聞いていたって仕様のないことだから、もうその辺でやめて下さい。私はあなたのような人は知らないし、たとえ、あなたが何を悩んでいるにしろ、私に関係のないことです」

花はこれを聞くと、ソファの中から跳ね上り、例によって癇癪の一歩手前といったような凄い顔で皇帝の面を瞶めていたが、突然、ワッと甲高い泣き声をあげると、袖で顔を蔽ったまま、手負いの獣のような勢いで部屋から駆け出して行ってしまった。

皇帝は当惑と怒りが交ざり合ったような複雑な表情で机に頬杖をついていると、深夜の空気を揺動かして消魂けたたましく卓上電話のベルが鳴り出した。皇帝は受話器を耳にあてて、おおハッチソン君か、と機嫌よく応対していたが、追々すさまじい恐竦きょうしょうの色を浮かべ、安南語で早口に何事かを語り出した。この時、急に扉が開いて、三人の刑事を従えた秀陳が入って来た。閾際に突立って皇帝を指さしながら、厳然と宣告したのである。

「諸君、あれは、偽皇帝です!」

三十三、思案投首の体の事    並に意外なる成行の事

場面一転して、ここは永田町内相官邸、会議室の大テーブルを囲んでいるのは、内務、外務両大臣と各両次官、欧亜局長の五人。いずれも疲労困憊の色を浮かべ、頭を抱えて机にうっ伏しているものもあれば、すっかりチョッキのボタンをはずして喘いでいるものもある。そうかと思うと、椅子の中に引っくり返って大の字になっている、その膝を抱いて貧乏揺りをしているもの、てんでん思い思いに何ともいえぬ恰好をして坐っている。ドオミエ描くところの「酒宴のはて」といったダラケ切った風景だが、どうして、事実はそんなどころじゃない。

会議室の時計を見上げると、午前一時を過ぎることまさに廿分。仏国大使の乗った汽車ははや静岡へんまで来ているというのに、誘拐された皇帝の行方が皆目わからんというのだから、当局の苦慮心痛というものはまさに破竹の勢い、実に以て察するに余りあるので……。

時計の振子は正確に分秒を刻み、その音は一同の耳にはさながら轟くが如くに聞きなされる。泣いても喚いても、あと僅か二時間と半ハーフの命。万一、仏国大使が伺候するまでに皇帝を発見することが出来ないとなったら、それこそ大変。また例の秘密政治であろう、政府それ自身がやった仕事であろうと痛くもない腹を探られ、政府としては非常なる窮境に陥るわけのみならず、連盟脱退後、対仏の外交関係がいささかならず難かしいことになっている際だから、それによって惹起される国際間の紛擾は、どこまで発展するか、到底端睨を許さない。

もう一つ悪い事は、親日派の宗皇帝がしばしば日本に来遊されることはすでにフランス本国でも重大な問題になっており、日本が連盟脱退を潮に、安南帝国の宗主権復光の尻押しを始めたなどという取沙汰が、然るべき筋にさえ真面目に信じられている際であるから、この事件によっていかなる狂瀾怒濤が巻き起されるかも測り難い。しかも、もしも暗殺者の方が勝をしめ、密告者の電話にあった通り、その惨殺体を東京市内の目抜の場所に投げ出されでもしたら、大臣の首などはいくつあっても足りないのである。

もし、すでに皇帝が暗殺されたとなれば、その条件によってただちに明白な結果となって現われる筈だが、まだそれらしい報告のないところを見ると、皇帝の命は今もって保全されているのであろう。この際それが一縷の望みなのだが、それとても実にはかない安心。今にもその恐るべき報告が齎されるかも知れぬ。政府の命はまさに風前の灯。両大臣初め局長に至るまで、一同ことごとく緊張に疲れ、いささかやけっぱちになってフンゾリ返っているというのも、またやむを得ぬ次第であった。

さて、諄いようだが、光陰矢の如く、時刻は刻々に移って大時計の鳴鐘はガアンと無慈悲の音をたてて、一時半を報じた。

今まで椅子の中に沈み込んで鞴ふいごのような息づかいをしていた外務大臣は、跳ねッ返るように椅子から立ち上り、ネクタイを引きむしってそれをテーブルの上に叩きつけ、

「畜生、息がつまりそうだ。一体いつまで待っていれば埓があくというんだ。……おい、内務大臣、日本の警察はこんな不甲斐のないもんだったのか。警視総監はどうした。もう早寝でもしてしまったのか。警保局長はどうした。二時間前に飛び出して行ったきり、膿んだものが潰れたともいって来ないじゃないか。一体どうなったんだ。捜査はどんなふうに進んでいるんだ。見給え。もう間もなく二時だ。泣いても喚いても汽車は刻一刻東京へ近づいて来る。諸君、この事実をどうするんだ」

と、今にも卒中でも起しそうに、顔を紫色にしていきり立つが、一同は化石したようにウンともスンとも返事をするものがない。外務大臣はいよいよ激発して、

「諸君は死んだのか、眠っているのか。それとも、腹切りと覚悟をきめてしまったのか。眠っているのでなかったら何とか言い給え、何とか」

と阿修羅のように猛り狂っているところへ、警保局長が息せき切って飛び込んで来た。この寒空にしたたかに汗をかき、顔色さえ蒼ざめて見えるのは、またしても何か意外なる椿事が勃発したのだと察しられる。

警保局長の姿を見ると、一座はばね仕掛の鼠のように、一斉に椅子から飛び上り、

「どうした、どうした」

「局長、吉報か」

などと口々に喚きたてる。騒然たる有様になった。

警保局長は落ち込むように椅子に坐ると、ハンカチで額の汗を拭いながら、いわば気息奄々といった体で、

「吉報ならいいのですが、それが、またしても、どうも……」

と、このまま消えてしまいたいというように頭を抱えてしまった。

内務大臣は焦立って、

「またしてもどうしたんだ。早くいい給え、思い入れなんぞ後でもいい」

二人の次官もそばから詰め寄って、

「どうしたんだ」

「また何がおっ始まったというんだ、早くいえ」

警保局長は恐るおそる顔を上げて、

「それが実に、どうも、意外のことで、……只今、検事局の鳴尾検事から電話があって、真名古捜査課長が、警視総監に対する逮捕状を請求したが、事情を聞くと要急事態に該当するからただちに逮捕状を発送した。これから司法大臣に報告するつもりだが、なにしろ重大問題だから今その内容を洩らすことが出来んというのです」

一座は慴然として言葉もなく、互いに眼を見合わせるばかりだったが、やがて内務大臣は怯えたような声で、

「真名古が警視総監を逮捕するって! そ、それは一体どういうわけなんだ」

警保局長もホトホト困惑した様子で、

「ですから、それが、一向どうも……」

「といってすましているわけにはゆくまい。真名古を呼んで事情を聞こうじゃないか」

警保局長は何ともいえぬ苦っぽろい笑い方をして、

「放っておいたわけじゃありません。早速真名古に電話を掛けたのですが、今申上げる時期でないという剣もほろろの挨拶で、威してもすかしても、どうしてもいいよらん。どうもてこずりました。何しろ御承知のような狷介な男ですから、いわぬとなったらどんな権力をもってしても口を開かせることは出来ますまい。緻密慎重なあの男のことですから、何かよほどの確信がなければ、そんな突飛なことをする筈がないんだが、そうだとすれば、いよいよもって穏かならんことで……。今度ぐらい困惑したことはありません、弱りました……」

欧亜局長は神経的に細い口髭を捻りながら、

「それだってやってみなけれや判らんさ。一体今どこにいるんです。とにかく呼んで貰おうじゃないか」

と物々しい口調でいう。警保局長はまたしても頭を抱え、

「じつは、まだ申上げませんでしたが、もうひとつ事件が起りまして」

これで、一座また騒然となる。警保局長は憐憫を含むような眼つきで一座を見廻しながら、

「今朝殺害された鶴子の家の通い婆あのとめというのが、駿河台の「お茶松」という賭場の地下道で絞殺されているのを発見されたのです。……真名古は今そこへ検証に行っているので……」

内務大臣が、

「加害者は何者だ。手懸りはついたのか」

と性急せっかちに詰め寄るのを、警保局長はマアマアと手でおさえ、

「待って下さい、そう短兵急にいわれても……。そのとめというのは被害者の日常を熟知しているものだから、警視庁でも草の根を分けてその行方を尋ねていたのですが、意外にもこんな始末になって、その方の手懸りがプツリと切れ、捜査方針に一頓坐を来すことになりましたが、幸い追及中の有明荘の住人の一人の村雲笑子という者を逮捕しましたから、この方の口を開かせれば何か意外な手懸りが得られるのではないかと思っております。今日、先ほど申しました「お茶松」という賭場にルーブ・ベースの歓迎賭博会があって、その座に岩井通保と川俣踏絵の二人もいまして、この方は逸早く風を喰って逃走しましたが、賭場の使番の自白によって、川俣踏絵の方は馬道へんの簡易旅館に潜伏している山木元吉のところへ行く筈だということで、直ちに手配しましたから、この二人の方も間もなく逮捕されることだと思っております。何しろどうも際どい時間になりましたが、この三人を極力追及すれば、必ず筋が手繰れるわけで、皇帝誘拐の犯人もその辺から足がつくのではないかと思っております。ところが……」

といって、額を撫で、

「ところが、さらにもう一つ困ったことが出来しゅったいしたので……」

外務大臣は、ウウムと唸り声を発し、

「まだあるのかね、今度は一体何だい」

とこれも机にうつ伏してしまう。警保局長は呟くような声で、

「……はなはだ申上げにくいことですが、……じつは、われわれが苦心惨憺してこしらえた皇帝の替玉が、夕景からホテルを逃げ出してしまいました。……極力、捜査をしておりますが、今もってその消息が判らないような次第で……、じつは、もう少し以前にご報告いたすべきでしたが、いかにもどうも申上げにくいことで、それで、つい……」

外務次官はにわかにいきり立って、

「どうせそんなことだろうと思ってたよ。君が皇帝の替玉を作ろうといった時に、僕が極力反対したことを君は忘れはすまい。誠実に事を運んだ方が結局最後の勝利だといったのは、このへんのことを先見したからなんだ。見給え、いよいよもって抜き差しならんことになったじゃないか。われわれ総掛りでこんな小刀細工をしたということが判ったら、政府の面目は丸潰れだあ。また、そうなくとも外務省では、一人として皇帝の顔を知っている者はなかったなんてことが世間に知れたら、それこそ目もあてられないことになる。……どんなことがあっても取り逃すようなことはありませんなどと大きなことをいっておきながら、この様は一体どうしたというんだ。君、大槻君、これァ大失態だぞ。選りによって赤新聞社の雑報記者にすっかりこっちの内幕をさとられ、そいつをヌケヌケとホテルから出してやる! これァえらいことになった。ひょっとすると、今ごろはもう号外を出す支度でもしているかも知れん。大槻君、一体このおさまりはどうつける」

内務大臣も満面に朱を注いで、

「警保局長、えらいことをやってくれるじゃないか。それァ君、あんまりだ。迂濶というにも程があるじゃないか」

警保局長は面目なげに眼を伏せながら、

「いや、何とおっしゃられてもお返しする言葉もございませんが、われわれは早速夕陽新聞社と幸田節三の妾宅に手配をし、その方の危険を充分防禦いたしましたが……」

内務次官はやり切れないといった風に舌打ちをして、

「莫迦なことをいい給うな。新聞社を押えたって、印刷所はどこにでもある。号外を出すことぐらいに事を欠くものか、何を莫迦な」

どうする、どうすると、さながら娘義太夫たれぎだの堂摺連どうするれんのように四方八方から詰め寄られて、さすが警保局長も哀れはかなく見えた時、この騒動にピリオドを打つように、けたたましく卓上電話のベルが鳴り出した。

警保局長は電話器に飛びついて、ウンウン頷いていたが、掌で電話の口に蓋をして一同の方へ振返り、喜色を満面に溢れさせて、

「御安心下さい、替玉野郎がホテルへ帰って来ているそうです」

と、報告しておいて、また受話器を耳に当ててしきりに会話をつづけていたが、追々いやな顔になり、よろしい判った。じゃ、安南の諜報部長を電話に出してくれ、と蚊の鳴くような声でいう。間もなく、まるでぶりき板を引ッ掻くような甲高い声が、疾風迅雷の勢いで受話器から洩れてくる。警保局長は電話の声の主に平身低頭して応待していたが、電話の口を押えて一同の方に振向き、

「いや、どうも、こう重ねがさねでは挨拶の仕様もない。又々困ったことになりました。……あの馬鹿野郎がとうとう尻尾を出して、偽せの王様だということを見破られてしまったんです。……幸いわれわれが替玉を作ったということは諜報部長も気づかぬ様子ですが、カンカンになって彼奴をグルグル巻きにふん縛ってしまったらしいです。止せばいいのにあの馬鹿野郎は、無礼だの、失礼だのとオダを上げるもんだから、秀陳はいよいよ立腹して、今にも殺しかねまじき剣幕でねじ込んで来ました。どうしましょう」

内務大臣はドスンとテーブルを叩いて、

「よかろう、やりたいだけやらそうじゃないか。かまわないから粉々になるまでやれといってくれ給え」

と心地よげにカラカラと笑った。内務次官は口をはさみ、

「しかし、そうばかりさしてもおけますまい。苦しまぎれに替玉にされたなんて口走られでもしたら事だから、とにかく引き取ってどこかへほうり込んでしまったらどうでしょう」

警保局長は頷いて、

「なるほど、それがいい。また逃げ出されないようにしっかりとどこかへぶち込んで置きましょう」

といって、すぐホテルへ電話をかけて係官を呼び出してその命令を伝えると、ホッとしたようすで椅子にかける。

外務次官はそれを見るとまた口を尖らし、

「大槻君、そんな呑気な顔をして坐り込んでしまっちゃ困る。すぐホテルへ行ってその先生を何とか宥めてくれ給え」

外務大臣は思案投首のていで、

「宥めるくらいでうまくおさまるかしらん。王様は今朝以来行方不明だなんて大使館へ通告されでもしたら、それこそ、手に負えないことになる。これァどうも弱ったことになった」

一同互いに面を見合わせ、弱った、弱ったというばかり。

警視庁捜査課長室の扉を開けて真名古が帰って来た。続いて入って来たのは、例の科学者の弟子といったような蒼白い顔をした四銃士の一人。

真名古は例の通り寛々たる足取りで椅子のそばに行くと、まるでぼろきれがたぐまったような恰好でそこへ坐り込む。見ると、いつもの冷灰な趣きに引きかえ、それとなき一種快活な様子を示している。

何しろ、墓場から迷い出た亡者のような陰気な風体の男だから、快活といったって格別目に立つほどのことはない。いつものように眠そうに眼を伏せ、しょったれた様子で首を垂れているが、小さな瞳が細い瞼の間で、まるで生きた魚のように敏捷に動いている。ふつうの人にわからんだろうが、よく真名古を知ってる者は、それによって真名古がいま快心得意の心境にあるということを察しるのである。

真名古はものうそうに手を伸して、本棚の側にある拡声機のスイッチを入れると、ガアガアした声で「報告」が流れ出す。

(今暁有明荘止宿の六人と同行した「カアマス・ショオ」の男女優、並びに「お茶松」から拘引した村雲笑子以下は本庁留置場に拘留してあります。川俣踏絵、山木元吉の両名は追跡中ですが未だ逮捕されません。印東忠介は、只今、新吉原「はせがわ伏見屋」で逮捕されました。岩井保通とジョン・ハッチソンの両名は江東附近に立ち廻った形跡があり目下追跡中です。安亀一味十名は築地から有楽町附近に移動した形跡があり、これも目下追及中です。以上)

「カアマス・ショオのマネエジャア、ルイ・バロンセリの消息はまだ判らないか」

(まだ報告がありません)

真名古はスイッチを切ると、身振りで銃士に掛けるよう合図をし、例の冷然たる声音で、

「ひとつ説明して見給え、とめは何故あんなところで殺されていたのだね」

銃士は、まるで真名古の分身といったような、冷淡無表情な面持で、

「推定の結果を先に申上げましょうか。……わたくしの検証いたしましたところでは、とめは、ある場所で殺害され、その後「お茶松」の地下道へ運ばれたものです。殺害された時間は今日の午後五時から六時までの間、つまり「カアマス・ショオ」の昼の部マチネエと夜の部ソワレの間だったと思われます。殺害された場所は、現在造築中の「日本座」の地下室小劇場の工事場。兇器はコンクリートブロックの板石。加害者は警察官。警部以上の身分」

「殺害の情況を話してごらん」

「午後五時五分前に「カアマス・ショオ」のマチネエが終り、とめは幸田節三の妾の酒月悦子と「日本座」を出て数寄屋橋の袂まで来たとき、悦子は携帯品預所へ預けた包を受取らずに来たのを思い出し、とめにここで待っているようにいいつけて、自分だけ「日本座」に戻って包を受取り、十分ほどの後以前のところまで戻ると、そこにとめの姿が見えないので、何か用足しをしているのだと思い、橋の袂で十五分ほど待っていましたが、一向帰って来る様子がないので、たぶん先に一人で帰ったのかと思って、それまま帰途についたのです。一方加害者は、この十分ほどの間にとめを地下の工事場に誘い込み、隙を窺って背後から古繩で頸を締めましたが、抵抗されて致死させるに至らず、約一尺角厚さ二寸のコンクリートブロックの板石で右の顔面を強打して死に至らしめ、死体を引きずってガード寄りの楽屋入口から戸外へ運び出し、それより自動車に乗せてお茶の水の土手に到り、永井病院の筋向いのあたりで死体を降し、また土手の上を引きずって暗道へ入り、発見された場所に放棄したのであります。加害者が警察官だという理由は、今暁有明荘の壁面に残されていた例の等間隔の三本の掻き傷が、とめの喉から胸へかけた部分に反復されていたのと、とめの右手の爪の間に腕章の金モールの微少片が残っていたためであります。今暁の御検証で松谷鶴子の殺害犯人が警察官であるとされるならば、只今申し述べた理由によって、とめの加害者もまた警察官であるという推結に到着するのであります。有明荘の壁面に残っておりましたそれと、とめの胸に残っておりました掻き傷とを比較調査いたしますと、その間隔は二・一センチで、創傷道に極めて特徴のある創壁を作り、有明荘のそれと同一の状況を呈していたのであります。加害現場が「日本座」の地下小劇場の工事場であったとする理由は、解剖の結果、皮膚の下に「日本タイル・ブロック会社」の商標、すなわち、N. T. B. CO. の刻印の模様で出血としてしるされていたからであります。……最初死体を検証いたしましたとき、右眼の上が暗赤色粗糙そぞう面を呈しているだけだったので、格別大したものと思いませんでしたが、解剖の結果頭蓋底がひどく割られていることが判明し、これは何か重い、面積の広いもので平面に打たれ、その広い面と顔面とが接触したところが挫傷になったものと思い、「日本タイル・ブロック会社」の指示に従って「日本座」の地下の小劇場の工事場を調査いたしますと、その現場で、とめの右眼上の挫傷と同形同大の輪廓に沿って血痕が附着している板石を発見しました。最初にとめの頸を締めた古繩は、コンクリートブロックを敷き終えた場所と未完の場所の境に引き廻されていた繩でありまして、繩に附いたモルタルの状態によって、明らかにその一部が使用されたということが判明いたしました。犯行を六時以前に終えたという所以は、ちょうど正六時に照明係が地下の電気室へ降りて来て電気の故障を修理しましたが、この時には死体らしいものを見掛けておらないからであります」

真名古は無感動な様子で、

「なるほど、大体そんなところだ。だがね、君は頸を締めてから板石で顔を打ったというが、それは間違いだ。あの繩は頸を締めるためではなくて、死体を運び出すために頸へ掛けたのだ。絞殺すのにあんな手の混んだ結び玉を作る暇はないだろうじゃないか。また索溝の具合を見ると、顎の下から斜上に耳の下のところまで残っているが、その上はなくなっている、これによってもその繩は頸を締めるためではなくて、死骸を現場から引きずり出すためだったということがわかる。……それにしても、なぜこんな妙なことをしたのだろう。担ぎ出せば簡単なものを、なぜ頸に繩を掛けて引きずったりしたのだろう」

「もし、そうだとすると、それは大急ぎで死体を持ち出す目的でそんなことをしたのだろうと思います」

真名古は頷いて、

「それもあろう。大抵の場合、担ぐよりも引ずり出す方が早いのだからね。しかし、この場合は、そのほかにもっと必然的な理由によったのだ。……君も知ってるだろうが、鶴子を殺害した犯人はひどい猫背で、背骨が側彎し、その上跛足ちんばだということが判っている。これだけいったらあとはもう諄くいう必要はあるまい。死体を担ごうとしないで頸に繩をつけて引きずったということは、こういう生理的な欠陥を持った男には当然過ぎるやり方なのだからね。つまり生理的の習癖がこんなことをさせたのだ。この点からでも犯人は、鶴子を殺した犯人と同一人だといえるのだ」

真名古はこういいながらポケットから封筒に入れた書付のようなものを取り出してそれを机の上に差し置き、

「君の辞表は返す。理由は君が辞職するいわれがないからだ。君が「すず本」の検証をした際、山木が屋根伝いに「すず本」を抜け出した証拠を発見することが出来なかった。これが君の辞職の理由になっている。なるほどそれは迂濶といえばいえるが、この逸脱ぬかりは辞職の理由にはならない。なぜかといえば、それは可能性の限界外の問題で、手落ちとか失態とかいうことじゃないからだ。さっきもいったように、かりにあのような解放的な構造家屋から抜け出そうと思うなら、どんな人間でも少しも証拠を残さずに抜け出すことが出来るのだから、それを発見出来なかったからといって、それは君の落度にはならない。僕の場合は、印東忠介から聞いたという花の証言があったので、漸くその証拠を発見することが出来たが、もしそれがなかったら、この僕さえもが山木が抜け出したあの証拠を発見出来なかったろう。……また山木が鶴子を殺した犯人なら、その逸脱は許容されぬかも知れんが、露路にあった証拠で、山木が鶴子の犯人でないと判明している以上、山木が「すず本」を抜け出したということに直接の重大性はない。行動ははなはだ胡乱だとしても、法に抵触するわけでもなければ犯罪にもならない。何のために山木が「すず本」を抜け出したかは、後で調べれば判ることで、山木の処置はその時に考えればよい」

銃士は感情があるのかないのか、まばたきひとつせずに、依然たる冷淡な趣きで、「お言葉ですが、私といたしましては、その御厚意をそのままお受けしかねるように思います。山木の方の逸脱に対してはかりに御寛大な処置をいただくとしても、なお、その他、わたくしは岩井とハッチソンが「すず本」を抜け出したと思われる証拠を見逃しております。ここに至りましては、もはや過失以上でありまして、この上一日といえどもあなたの助手として立ち働く権利はないように思います」

真名古はゆっくりと顔を上げて、まともに銃士の顔を瞶めながら、

「ハッチソンの部屋の地袋の棚の上に、靴下の踵でついた丸い煤の跡と、柱で不随意に身体の重心を支えた左手の三本の指の痕がある。岩井の部屋には地袋の上に投入の白梅の枝が、衣服か何かの端に引ッ掛って、その籠が正当の位置よりも四分の一廻転ほど横向きになっていたという現象がある。……要約すると、ハッチソンの部屋には外部から入って来た証拠だけがあって、出て行ったという証拠がない。岩井の部屋の方はどうかというと、出て行った証拠だけがあって、帰って来たという証拠がない。岩井の窓の下の屋根の上にも風呂屋の煤が沢山に落ちているのだから、その屋根を伝って帰って来たりすれば、多少の証拠を残さずに部屋に入ることはむずかしい。しかるに臨検の時には岩井はチャーンと部屋にいた。だから、少なくとも岩井は「すず本」を抜け出してはいないのだ。次に、ハッチソンの方はどうかといえば、柱についた指痕を見ると、その中指の頭が怪我か何かで半ば以上欠如していることが判る。とすると、君も知ってる通り、これはハッチソンの指痕ではない。その指痕がハッチソンのものでないとすれば、従ってハッチソンは「すず本」を抜け出していないのだ」

「では、二人の部屋に残されていたその二つの特異な情況を、どういうふうに理解すればよろしいのですか」

「わけはないじゃないか。何者かが屋根伝いに窓からハッチソンの部屋へ入り、臨検以前に岩井の部屋の窓から出て行ったのさ。……それがどういう人物だったか、僕には大体判っている。なぜかといえば、その男は入って来たときも出て行ったときも、ハッチソンにも岩井にもとがめられていない。のみならず、岩井やハッチソンとのどかに会談したと想像される。……格別怪しいというほどの人物じゃない。思うに、それは多分「カアマス・ショオ」の一人だったのだろう。だから、ある時間には、「すず本」には「カアマス・ショオ」の人間が七人いたことになる」

真名古は椅子から立って送話器の側へ行き、

「今朝有明荘の六人と一緒に「すず本」へ行った「カアマス・ショオ」の連中は何人拘留されているか」

(全部で七人でございます)

「名前をいいなさい」

(「金粉踊り」のジャネット、「手風琴弾き」のロナルド、「サキソフォン」のウイルソン、「タップ・ダンス」のメアリー、「ローラー・スケート」のジャックソン、「歌唄い」のミリヤム、「アクロバット・ダンス」のヘンリイであります)

真名古は椅子の方へ戻って来ながら、

「僕の推察は間違っていなかったようだ。ハッチソンの窓から入って来て、岩井の窓から出て行った七人目の奴は、そのヘンリイという男だ」

四銃士は謹直な面持で真名古の面を瞶めながら、

「なるほど、よく判りました。それはそれとして、もう一つお尋ねしたいことがあります。差出がましいことは一切あなたはお好みになりませんから差控えておりましたが、時刻はもう間もなく二時で、四時まではあますところもう二時間しかございません。……皇帝の方は一体どうなるのでございますか」

真名古は自若たる面持で、

「皇帝かね、皇帝は今ごろもうホテルに帰っているはずだ。僕は松谷鶴子の殺害犯人、すなわち、皇帝誘拐の犯人にもう逃れる道のないことを充分に暗示しておいたから、自分の罪を軽減しようと思ったら、僕の暗示的命令に従わぬはずはない。もっとも、それで既遂の犯罪が帳消しになるというわけではない、かりに皇帝を返してよこしたって、一旦僕が襟首に掛けた手を弛めるなんてことはありやしない。かりに相手が警視総監であろうと、神であろうと」

こういっているところへ、丸腰の巡査が入って来て、縫子の花が面会に来たむねを告げる。これを聞くと真名古の表情にはなはだ不思議な変化が起きたのです。微笑ともひかりともいえるようなものが顔一面に拡がるように見えたのである。

巡査が出て行くと入れ違いに、花が保名狂乱といったような、艶美に取乱したようすで入って来ると、いきなり真名古の傍へ駆け寄って、

「真名古さん真名古さん、帝国ホテルに偽の王様がいます。いま、あそこにいるのはまるっきりちがう男です」

真名古は花の腕をとって椅子に落ちつかせ、

「どうしてその男が偽せものだとわかったのかね」

花は案外シッカリした調子で、

「どうしてって……、それはあたしにだけわかることなんです。そのわけはいえませんわ」

真名古は一向に驚くようすもない。花の傍を離れて送話器の方へ行きながら、

「と、すれば、それこそ本当の王様なんだ」

と呟く。しかし、これは花の耳には届かなかった。

真名古は送話器に口をあてて、低い声でホテルに繋げと命じた。それから、電話に出た主に、今王様はどうしている。これから逢いに行ってもいいか、ご都合を伺って見てくれといった。意外な返事だった。王様は警保局長の命令で、日比谷署の留置場へ放り込まれてしまったというのである。

真名古は何とも言えぬ皮肉な微笑を浮かべながら、花に、ちょっと挨拶して、課長室から出て行った。

真名古が日比谷署の留置場へ行って見ると、そこに意外な事件が起っていた。何者かが留置場の鉄格子の窓を破って、王様を誘拐してしまったのである。

看視室の時計が寝ぼけたような音で午前二時を打った。午前四時までに、あますところ僅か二時間となった。このおさまりはどうなるのであろう。

第十一回

三十四、フキヌケの窓の事    並に深夜の独白の事

さて、真名古捜査課長が古市加十がぶち込まれたという監房の扉を引き開けて見ると、その中は藻抜けの殻。畳を起して見るほどの事はない、何しろ手狭なところだから、内部に人がいるかいないかぐらいのことはひと目でわかる。日比谷署は木骨コンクリートの、バラック同様なザッカケない建物だが、しかし、いやしくも留置場と名のつく以上、どこからでもやすやすと脱け出せるなんてことはない。では、どこから脱け出したのだろうと見廻すと、なるほど、監房の窓がバランバランになっている。

窓といってもガラスなんてものが嵌まった、そんな高尚な窓ではない。四角に口が開いて、そこに五本ばかり鉄棒ボールトが植え込まれただけのもの。ご存知の方もありましょう、冬は木枯が、夏は西陽と蚊軍が自由自在に疎通するあの悩ましいフキヌケの窓。その窓のボールトが三本ばかり曲ったりよろけたりして、ひょっとすると人間が一人脱け出ようかと思われるほどの隙間が出来ている。常識で考えれば、いや、常識などで考えなくとも、拘留人はここから逃亡したと見るのが至当なのである。

然るに、その窓なるものは、床から大体七尺ほど上につくのが留置場の定法であって、さればもちろん背伸びぐらいしたって届きはしない。のみならず、腐っても鉄棒は鉄棒で、決して飴ン棒じゃない。踏台でも使って相当念を入れるのでなければ、尋常なことではオイソレとこの窓は破れんのである。

監房の扉を引き開けて、目指す人影があるべきところにないのを見てとると、さすがの真名古も棒立ちになってしまった。

真名古ほどの達人アビールにとっても、これは実に意外千万な出来事だったのだろう、度胆をぬかれたような顔をして監房の入口に突っ立っていたが、追々なんとも凄まじい形相になり、眦まなじりも張り裂けんばかりにその窓を見上げながら、固く喰いしばった歯の間で、

「畜生!」

と、呻くような唸り声をあげると、錯乱したようすで足早やに監房の中へ進み入り、例の古風なインバネスの袖をハタハタと羽搏かせながら、鉄棒へ噛みつこうとでもするような猛然たる勢いで窓の方へ飛びつき始めた。翼の影はムラムラと部屋一杯にひろがって、さながら大いなる怪鳥がこのところに飛び狂うかとも見えたのである。日ごろ死灰のごとく冷静沈着なる真名古の振舞としては、いささか常規を逸していて、一種凄惨な趣きがあった。

そういう異様な動作を飽かず繰返したのち、今度は突然に身を翻すと、何やら聞きとりにくいことを切れ切れに叫びながら、まるで旋風つむじかぜのように監房から走り出して行った。内部からはこんな荒仕事が出来ないとすれば、当然これは外部からなされたものに相違ないのだから、真名古はこれからその事実を確かめようというのだろう。果して、それから二分ばかり経つと、真名古の姿は留置場の外側に現われる。

そこはやや広い空地になっていて、コンクリートの塀がその周囲を囲んでいる。この辺は平素あまり人の入り込まぬところだし、空地の地面はあたかも霜壊えでボロボロになっているから、地面を叮嚀に調べると、その上でどんなことが行なわれたか、一切の事情が手にとるようにわかるはずである。

ところで、真名古が懐中電灯で窓の下の地面を照らして見ると、そこにはただ一つの靴跡もなく、いわんや梯子を立てたらしい跡などもない。

真名古はしばらくの間沈鬱なようすで考え込んでいたが、警官に命じて梯子を持って来させると、それに上って仔細に監房の窓を調べ始める。

別に不思議なんてことはなかった。何者かが屋根伝いにこの監房の上までやって来て、鈎のついたロープを鉄棒にからませ、力任せにひン曲げたのだということがわかる。鉄棒の根元に鈎をひっかけた痕がはッきりと残っている。

その方はそれでいいとして、よく見ると、そこから人が脱け出した形跡がない。鉄棒の隙間はかすかす人が一人すり抜けられるだけの広さがあるのだから、屋根から下されたロープに縋りさえすれば至極容易に脱け出せるのだが、そういう形跡は微塵もないのである。

窓枠の上には長年の塵や埃がかなりの厚さにたまっているが、見ると、それは確固たる不易量コンスタントの状態を示している。この狭い隙間を無理矢理にすり抜けようとすると、当然この埃の上に何かそれらしい証拠を残さぬということはないのだが、絶対にそういう形跡は見当らない。この微妙な証人は、ここから断じて何人も脱け出していないことを無言のうちに証言する。どうも奇妙な話になった。

拘留人は監房の窓から出て行ったのではないとすると、あとは出得べき口はただ一つ。つまり、監房の入口から普通ある如くに極めて平凡に出て行ったことになるのである。

だが、ちょっと待って貰いましょう。そういってしまえば簡単だが、しかし、ここは喫煙室でもなければ無料休憩所でもない。看視厳重な留置場。出たいからといって気随気儘にズイズイと出て行くというわけにはゆかない。警察というところは、大体においてそういう自由主義は認めんことになっている。現に日比谷署当局は、真名古の発見によって初めてこの事実を知り、それに対してはなはだ不満の意を表しているのである。

ところで、逃げ出したのは拘留人なんていう生優しいもんじゃなかった。

たった一人の人物、……真名古とそのたった一人の人物を除くほか、検察当局では、さっきここへぶち込んだやつは、長らく王様になりすまして、さんざお上にお手数をかけた夕陽新聞の古市加十だとばかし思っているんだが、とんでもない、一時四十分から二十分ばかりの間、この監房の中にいたのは古市加十なんていう卑俗な人物ではない。今や、警視庁始まって以来という、戦争のような騒ぎをして、近接五県の草の根を分けて探ね廻っている安南皇帝宗竜王それ自身だったのである。

それさえすでに幻想的ファンタスチックであるのに、招かずして来った憧れの王様は、わずか二十分ほどの間にまたチョロリといなくなってしまった。厳重なる警戒と油断のない看視氏の眼を眩まして、堂々と監房の入口から出て行ってしまった。

無情とでも申しましょうか、皮肉とでも申しましょうか、王様の姿を追求して今や逆上したようになっている内、外両大臣以下検察当局一統がもしやこの事実を知ったら、あまりにも微妙な天の配剤に思わず感涙に咽んだに相違ない。

さすがの真名古も、このあまりなとぼけ方にいささか呆気にとられたのであろう。見ると、梯子の中段に宙乗りになったまま茫然と月を仰いでいるのである。一見茫乎としているように見えるが、心の中には千思万思紛然と入り乱れているのであろう、時折洩らす沈痛な呻き声によっても、それと察しられるのである。

日比谷署当局は、古市加十なる拘留人が看視の隙を覗って幾度となく窓の鉄棒へ飛びつき、かねてよろけ勝ちになっていたそれをひン曲げ、そこから脱けて屋根伝いに逃走したのだという見込みを立てている。

しかし、この見込みは間違いだ。現に真名古自身が幾度となく試みて、到底そんな芸当が出来ないことを充分に認めているし、だいいち、その窓からはだれも出て行ってはいないのだ。

それにしても、一体何の必要があって王様はここを脱け出されたのであろう。王様は古市加十と間違われてここへ放り込まれたのだが、そうとすれば、自分が本物の王様である所以を述べてあくまでも抗弁すればいいのであって、何も留置場破りなどをする必要はない。

聞くところでは、秀陳の告発によってホテルで逮捕されようとした時は、かなり猛烈に抵抗したということだったが、この監房に連れ込まれると、その拘留人は急に落着いたようすになって、

「いや、これなら願ってもないことです」

といって、気楽そうに畳の上へ寝ころんでしまったという。

思うに皇帝はこの幸運な偶然を聡明に利用しようとなされたのであろう。暗殺者アッササンの剽悍な追及から身を衛るためには、ここほど適切な場所はないからである。さもなければ、あの剛毅な王様のことだから、こんな不幸な取扱いを受けてオメオメと隠忍してはいない。あくまで抗争されたに違いない。それをされなかったところを見ると、王様は大体においてこの情勢に満足していられたので、されば、留置場破りなどをする意志は毛頭持っていられなかったのだと見るべきであろう。のみならず、あの飄逸ノンシャランな王様が、そんなアクの強いことをされるわけもないのである。

こういう風に考えつめて行くと、王様は不本意にここから連れ出されたのだと思う外はない。つまり、何者かによって巧みに誘拐されたのである。

どんな奴なればこんな大胆千万なことをやったのだろう。なにしろこういう場所から拘留人を攫って行くなどという破天荒のことは、どう智慧を絞ったってナミの人間にやれる事ではない。元来警察というところは、そういうことにかけてはヌカリのない仕組みになっているのだから、ヨクヨク警察の機構や特殊な事情に通暁している者でなければ遂行やりおわせない。それを、そういうむずかしい芸当をわずか二十分ほどの間に電光石火のようにやってしまった。よほど熟練工だったわけである。

これでは何もかも判ってしまったようなもんだ。なぜというのに、古市加十をここへ拘留したのは、いわゆる機密に属することで、内務外務両大臣を含む政府当事者と、直接この警察事務に衝あたった二三の官憲を除く以外、何人もこの事実があったことを知らないのだし、その上古市加十として拘留された者は、実は本物の王様だということを承知しているのは、検察当局のある一人物と、真名古のほかにはいない筈だからである。

さて、真名古は、今いったような妙な恰好で、梯子に宙乗りをしながら一見茫乎として空を仰いでいたが、やがてバラリと腕を解くと、惨憺たる声調で、

「畜生、この警察にあいつの一味がいやがったんだ。……そうと知ったら、……」

と、切れ切れに呟きながら、燃えるような眼差で監房の窓を見上げた。

真名古の頭のすぐ上に監房の窓が歯の抜けたような口をアングリと開けている。その口に嵌め込まれた鉄棒が、当時の横着な手口を証明するようにXバインになったりOバインになったり、見るも無惨なようすで薄月の光に白々と照らし出されている。

それにしても、監房の入口から王様を攫って行ったのだとすれば、一体何の必要があってワザワザ窓の鉄棒などをひン曲げたのだろう。

しかし、これだってよく考えて見れば、別に奇異ファンタスクだの玄妙ミスチックだのという事柄ではない。要するに王様がここから連れ出されたと見せかけるためのトリックに過ぎない。監房の入口から連れ出されたとみぬかれたくない。何者かがこの窓を破って王様を攫って行ったのだと誤解させたいのだ。警察の内部のものの仕業だと感づかれては困るのである。とすれば、これは王様を連れ出してから、その後でやった仕業に違いない。なぜならば、いかになんでも、こんな妙な細工を王様のいるところではやりにくい筈だからである。いわば、たいへんに人を馬鹿にしたやり方なので。

では、そもそもだれに誤解させようというのか。ほかにお目あてがあるわけはない。必ずこの検証を行なう筈の真名古の眼を晦ましたいのだ。

この朝以来、真名古捜査課長ともあろうものが、有明荘の現場整備から除外されたり、犯罪現場の立入禁止を受けたり、そのほか並々ならぬ屈辱と妨害を受けたが、なおもまたここで、何者かが陰険な手段を用いて真名古の捜査を妨げようとしているのである。

枯木寒厳の真名古といえども、これほど手厚い歓待を受けては、さすがに肚にすえかねたのであろう、遺憾骨髄といった面持でキリキリと歯噛みをしながら、穴のあかんばかりに窓の方を睨みつけていたが、やがて迸るような劇烈な語勢で、

「馬鹿ナ、こんなことでこの真名古がやっつけられると思ったら大変な見当違いだ。……ねえ、総監、鶴子を自殺に見せかけようとした今朝の踏台やスリッパよりは多少お手際だが、どうしてどうして、こんなことでは。……あなたは秀才だが、惜しいことにはすこしやりすぎる。こんな小刀細工さえしなければ、よもや、あなたの仕業だとは思わなかったでしょう。……これじゃまるで、自分の名刺を置いて歩くようなもんだ。少なくとも私の眼にはそう見えるんです。……それにしても、こんなことで私の眼を晦まそうなんて、すこゥしとぼけ過ぎちゃいないですか。一体、これほどひとを馬鹿にする権利が人間にあるかどうか。え? 総監。……何しろ、重ね重ねなので、さすがの私も勘弁ならなくなりました」

と、いって、あたかも目ざす人間がそこにいるかのように、握り拳を空の方に突出した。

「もう容赦しませんぞ。あなたはすこし真名古をナメすぎるようだ。私は今まであなたが自発的に私のところへやって来るのを待っていたんだ。冷血非人情といわれる私だって、これぐらいの詩情は解するのです。……それを、私の謙譲をいいことにして、あくまでこんな態度に出られるというなら、もう断じて容赦しません。……ねえ、総監、あなたは案外な俗人だったですナ。あなたは負けたら尻尾を巻いて逃げだすという諧謔を解さないと見える」

という具合に、真名古としては破天荒ともいうべき激越な調子で長々と独白をつづけていたが、やがて、フッと我にかえったようにあたりを見廻すと、急にいつもの冷凉陰気な面にかえり、静かに梯子を降りると大股に日比谷署の建物の内部へ入って行った。

看視巡査を取調べると、王様の誘拐はこんな風にして行なわれたということがわかった。

教習所を出たてのその若い警官氏は、この日は非番だったので、家内揃っていささか祝宴を催していたところ、騒動は追追劇化して、署内が全部出払うようになったため、夕方から急に駆り出されて、五人の同僚とともに署の留守を預かることになった。さて、一時四十分ごろになって、問題の拘留人が引っ立てられて来たので、通例の手続きによってその者を監房の中におしこめ、看視所の壁に鍵輪をひッかけて一と息ついていると、あたかもそれがキッカケのように、次々に意味不明瞭な電話がかかって来、また、下級の人民どもが埓らちもない悶着を続々と持ち込んで来るので、勢い看視所を離れることを余儀なくされ、事務多端に忙殺されて留置場に拘留人がいることなどはすっかり忘れていたのである。

午時二時十分過ぎと思われるころ、いかりの肩の、背の高い、見馴れない一人の警官が留置場の方へ入って行くのを見たが、あたかもその時、自分は三人の酔漢と組んずほぐれつの応対をしていたため、人相までは覚えていない。それも、もしかすると自分の幻覚であったかも知れません。どうもその辺のことははッきり申し上げかねるのであります、というたよりない返事だった。

精しくやるとキリがないから、これはこのくらいにして置こう。それが真実だとすれば、ほぼ真名古の推察と符合するのである。

日比谷署を出ると、真名古は霞門から日比谷公園の中へ入って行く。

折から雲を破ってあらわれた眉のような新月。その淡い光が公園の小径を照らす。夜は深沈と更けわたり、四辺闃げきとして、聞こゆるものは松吹く風の音ばかり。

真名古は痩せた肩を突兀と聳かしながら、藤棚の下を通り抜けて池の汀までやって来た。四阿あずまやの傍えには一基のアーク燈。人影なき地畔を「地畔を」はママ照らして徒らに煌々。

真名古は凝然と腕組をしながら、瞬きもせずに噴水の鶴を眺めはじめる。あたかもその位置は、今朝真名古が佇んでいたその位置である。

嵯峨たる老松は水の上に腕を差し伸し、噴水の鶴はちょうどその枝の上に乗っているように見える。嘴から流れ落ちる水滴にアーク燈の光が反射して、風で絶えず羽毛をそよがしているような、妙に生き生きとした印象を与える。ああ、今にも飛び立つか、青銅の鶴は濶達な翼を張って夢見るように空を仰いでいる。思うに、この青銅像ブロンズの作者は、もののあわれを知った人だったのだろう。台座に繋ぎ止められて、永劫に水を噴き上げねばならぬこの不幸な鶴に、せめてこんなポーズをとらせることによって、作者の同情を現わそうとしたのに違いない。

真名古はややあって声を発し、

「一体、この世に「目的のない犯罪アクト・グラチュイ」というものが存在し得るのであろうか。もし、存在するとすれば、今朝の「唄う鶴の噴水」の事件がまさにそれだ。かいなでに考えると、幸田や酒月が何か鶴の中へ仕掛けたのだろうかと思われ勝ちだが、どうして、あのスレッカラシが、すぐ尻尾を掴まえられるような、そんな窮した真似をするわけはない。あれは多分、幸田、酒月以外の何者かが演奏した、何かの犯罪の標題モチーフに違いないのだが、あまり飛躍しすぎていて、どうしてもその目的を察することが出来ない。俺にすれば、この世に目的のない犯罪などはあり得ないと断じたいのだが、こういう事実に逢着すると、さすがに迷わないわけにはゆかない。……これはたしかに何かの犯罪なのだが、その目的も動機も察しられないというのはどうしたものだろう。あれによってどんな人間に損害を与え、またどんな犯罪の効果をあげたのか、それさえ推察することが出来ない。これもまた今度の事件に何かの連関を持つものと思われるが、そのアヤが判らない。……それにつけても、あのとき兼清博士が、壱越調呂旋であるべきこの曲が平調で唄われるさえ訝いぶかしいのに、宮声に凄切の気韻があるのはどうしたわけかとしきりに小首を捻っていたが、あれはそもそもどういう意味だったのだろう……」

と、呟いていたが、やがて慨然たる面持で空を仰ぎ、

「しかし、こんなところで詠嘆していたってどうなるもんでもない。判らないものは依然としてわからない。いささか心外だが、それはそれとしてまずきゃつを縛り上げ、その上でまた新たな展開に従うことにしよう」

と、独語しながら、心残り気に幾度も噴水の鶴の方を見かえりながら、悠々たる歩調あしどりで花壇の方へ歩み去った。

三十五、地虫の弁舌の事    並に南部甲斐守の事

幻想の世界では科学は所詮手も足も出ないのであろうか。この魔がしい「東京」の魑魍の世界は、あまりにも玄妙を極めていて、秀抜なる真名古の活眼をもっても、ついに噴水の鶴の大秘密を洞察することが出来なかった。真に一歩というところまで近寄ったのだが、とうとうそれをよくすることが出来ずに、心を残して立去ってしまった。

こういうのを運命の諧謔というのであろう。たった今、自分が立っていたちょうど真下の地下で、かの愛嬌ある田舎者、夕陽新聞雑報記者古市加十が、古今未曽有の情況の中で異様なる活躍をつづけていたのである。

第九回で述べたように、芝田村町からこの日比谷一帯へかけた地下には、徳川時代の神田、玉川二上水の大伏樋おおふせどの分樋わけどが相交錯しながら縦横に走っている。

明治の中期に水道が敷設されると同時にこの伏樋は廃棄され、少数の土木学者を除くほか、今ではそんなものがあることさえ知っているものはないが、廃棄された大伏樋はそのまま地下の暗道となり、延々十数里、さながら蜘蛛の巣のように東京の地下を這い廻っている。

元来この伏樋の工事は、一定の方針の下に施されたのではなく、必要に応じて次々に増設されたのだから、分樋ははなはだ無秩序に放射され、かのクレエト島の迷宮ラビラントにもゆめゆめ劣らぬ複雑多岐な大迷路を作り上げている。一旦この中へ入ったら、再び地上に出ることは到底不可能であろう。

つまり、加十は魔都「東京」を形成する都市機構のうちで最も怪奇バロックな場所にいるのである。手提電燈の光の中に浮き上った風景は、入口も出口もない真四角な古井戸の底のようなところで、広さは畳数にして、四畳ほどもあろうか、周囲は壊えのある大谷石で畳まれ、隙間なく生えた青苔の上を、おびただしい蠑螈いもりが身をよじり合いながらメラメラと匍い廻っている。天井には、大小様々な導管がいくつも通っていて、その隙間から鐘乳石が氷柱のように垂れ下り、ポトポトとそれを滴らしている。

加十はそういう奇妙な環象の中でドッカリと胡坐をかき、手提電燈の光の方へ身体を曲げ、膝の上にザラ紙の原稿紙を押しつけて、せっせと鉛筆を走らしているのである。いかに雑報記者とはいえ、何もこんなところで原稿などを書かなくともよかろう、酔狂にもほどがあると思うんだが、その人相を見ると、なかなかどうして酔狂どころの騒ぎではないらしい。

日ごろ、あまり物事に動じないその加十が、額際にビッショリと冷汗をかき、何やらひどく切迫した面持で鞴ふいごのような激しい息遣いをしている。見ると、どうやら呼吸が苦しいのらしく、時々発作的に咽喉元をくつろげるような真似をする。

この場の事情を了解していただくために、少々後戻りしてその後の加十の行動を述べると、夕刻、日比谷公園池畔で秀陳から、今朝この噴水の鶴が安南の国歌を歌ったという話をきくと、元来愚直なだけに小うるさい推理の綾などに迷わされることがなく、安南の皇帝はいま鶴の噴水の下にいると一気に直感し、押太くも一枚の古地図をたよりに、底知れぬ秘密を蔵するこの地下の大迷路へ躍り込み、いわば、ホルベルヒの「ニコラス・グリムの地下の旅」といった風に、あちらこちらと彷徨をつづけていると、どこからともなく呑気極まる鼻唄がきこえて来た。それは、オッフェンバッハの「地獄へ堕ちたオルフォイス」の中のあの陽気な、あの「蝉の歌」。機嫌のいい酔漢が心ゆくまで鼻を鳴らしているようなのびのびとした調子である。場所柄が場所柄だけに、あまり異様で加十もゾッと縮み上ってしまったが、つくづくと耳を澄ますと、ああ、それこそは、紛れもない、洒脱軽妙な王様の声だった。

加十は、今までの不安も疲労も一時に忘れたようになって、例によって発育不充分なキンキラ声をあげ、

「とうとうフン捕まえたぞ。……「地下の大伏樋に幽閉せられたる安南皇帝と語るの記」か。〆た〆た、苦心経営の甲斐あって、……この古市加十は新聞の歴史始まって以来の大スクープをヒットすることになった。見受けるところ、大分ご機嫌の体だから、門前払いを喰わせることもあるまい。さア、突貫々々」

と、ひたすら満悦しながら、声のする方へ遮二無二近づいて行く。

同じような道を行きつ戻りつ、幾度かやり直しながら進んで行くと、王様はやや広い暗道の苔の褥の上に、だらしなく大の字に寝っころがって、悠々と微吟をつづけていられる。この体たらくに、さすがの加十もムッとして、いきなりその傍に近寄ると、肩先を掴んで手荒くゆすぶりながら、

「王様、王様、いかに何んでもこれでは少し剽軽すぎるというもんですよ。人の気も知らないで、よくもこんなところに寝っころがっていられたもんだ。あなたが攫われてしまったというので、地上では引ッ繰り返るような騒ぎになっているんですぜ。少しシッカリしてくれなくては困るね……ねえ王様、あんたとひッつるんで碌でもない妾のところへなんぞ行ったばッかりに、その後の私の災難といったら、実にどうも眼も当てられないくらいだったんです。さア、眼をさまして、せめて胡坐でもかきなさい。他人に迷惑をかけるのもいい加減にするもんだ。……どうにも仕様がねえなア。あんたのように手のかかる人は見たことはない。これも引ッ掛りで仕様がないから、穴の外部そとまで私がひッ背負って行ってあげますが、その代り会見談を書かして下さいね。せめて、そのくらいのことをしなければ、あなただって私に義理が悪いでしょう。……ね、王様、それはそうと、あなたはどうしてこんなところに寝っころがっていたんです」

というふうに、のべつ幕なしにしゃべり立てながら、無暗に王様をゆすぶるのだが、グニャグニャするばかりで一向に手応えがない。さすがの加十も持てあまし、アングリと口を開いて睡りこけている、不甲斐ない王様の顔を忌々しそうに眺めていると、その時、どこからともなく異様な声が響いて来た。

先ほどから異様の連発で少々恐れ入るが、しかし何にしてもそれは異様な声だった。かりにこうもいえるなら、深い地の底で地虫が鳴くような、高い梢を微風が吹き通るような、何とも形容出来ぬ仄かな状態でどこからともなく響いて来る。のみならず、その声はこんな意外なことを囁くのである。

「王様、そこで独り言をいっていられるのは王様でしょう。私の声が聞こえますか。……私はね、昨夕あなたと一緒に飲み歩いた夕陽新聞の古市加十です。……え、おわかりになりましたか。夕陽新聞の古市です。……何しろ急にあなたがいなくなられたので、あなたの所在を探し出すのにどんなに骨を折ったか知れません。いろいろ頭を捻った末、「唄う鶴の噴水」からヒントを得て、ようやくあなたの所在をつき止めることが出来たのでした。……私はね、いま日比谷公会堂の地下室にいるんですが、ある事情があってそこへ入って行けないのですが、あなたをそこから出してあげる事は出来ます。……王様、いまあなたがおられるところは非常に危険なんです。そんなところでグズグズしていると命にかかわる。さア、早く早く」

何とも意想外なことになった。そっくりそのまま加十の抑揚まで似せてやっている。何者とも知れぬやつが、加十の声色を使って王様を自分の方へおびき寄せようとしているのである。加十はまた駆け出したが、これでも新聞記者の端っくれだから、これだけ聞くと何もかも事件の筋道を洞察してしまった。

王様はこの地下道へ幽閉されたのではなかった。どういう事情かで、自発的に入り込まれたものらしい。ところで悪党の方は、王様の所在はわかっているが、ここへ入って来る道を知らない。それでこんなことをいって自分の方へおびき寄せて取ッ掴まえようというのだろう。日比谷公園の土手を池の方へあわてて掘りかけたわけも、これで充分了解されるのである。すると、声の主は、穴の中に置き忘れて行った、野沢組の焼印のあるあのシャベルによって、当然その一味だという事になる。

加十にすれば実にもう願ってもない幸福なのである。特種につぐ特種で応接にいとまがない。この事件はそもそもどこまで発展しようとするのだろう。昨夜王様とつるんで「巴里」を立ち出た以来のことを思い起すと、事件は波瀾に波瀾を重ね、さながら一篇の伝奇小説の如くでもある。しかも、いまさらにそれにクライマックスの一章が書き添えられようとしている。のみならず、ひょっとするとこいつの口から、事件の真相を手繰り出せるかも知れない。いやしくも雑報記者たるもの、どうしてこんな稀有のチャンスを見逃していいものであろう。よし、ひとつこの俺が王様の声色を使って、こいつと一問一答してやろう、下手に行って殺られるなら殺られるまでのことだ。向うだって俺の専売権を侵害しているんだ、こっちが王様の声色を使ったって文句はあるまい。やってやれ、と加十は肚をきめた。この辺の土性骨の太さはさすがに見上げたもので、日ごろ好んで詩吟をやるだけのことはあったのである。

しかし、それにしては王様がここにいてはまずい、またいつ何時鼻唄を唄い出さぬとも限らぬし、いざという場合に足手纒いになるから、王様は秀陳に頼んで一歩先にホテルに帰って貰うことにしよう。

腕時計を見るとまさに一時十五分前、秀陳がさっきから放送局の工事場で待ちくたびれている筈である。

万一の場合をおもんぱかって、真名古に宛てて、自分がこの地下道にいる旨を書きつけ、それをクリップで王様の胸にとめると、ウントコショと引ッ担いで出口の方へ歩き出した。

今度はわけはない。大して迷いもせずに放送局の工事場の口まで来て、闇をすかしながら歩み板の上の方を見上げると、秀陳がトロッコの傍を手持ち無沙汰なようすでウロウロと歩き廻っている。王様を割石の上に転がして置いて、鼻をつまんで、

「おい、秀陳。俺はさんざんに酔ッ払って動けなくなった。さア、早くホテルまで担いで帰ってくれ。何をウロウロしているんだ。早くしないか、この馬鹿野郎が!」

仰天して秀陳が歩み板を駆け降りてくるのを見すますと、自分はまた以前のところへ取ってかえす。もうこれで心残りがない。ひとつ存分に鎌にかけてやろうと、手ぐすねひていると、またどこからともなく先刻の声が漂ってくる。

「王様王様、何をマゴマゴしているんです。私のいうことがわからないんですか。そこにいては危険だというのに。早く、こっちへおいでなさい」

加十は鼻を膨らして出来るだけ王様の声に似せながら、

「おお、私は眠っていたんでした。……そういう声は古市加十君ですね。いったい何が危険だというのです。まず、それから話して見ていただきましょう。なるほど、ここは不潔には不潔だが、私の考えるところ、さして危険などがありそうには思えぬが」

「ああ、あなたの気の長いのにも弱ってしまう。いまそんなことをクダクダとやっている場合でないんです。わけはお話ししますから、とにかくこっちへ来て下さい」

「来いというなら行きますが、いったいどう行けばいいのですか」

「あなたの頭の上に細い鉄管が通っているでしょう。それについてズンズンこっちの方へ歩いて来て下さい」

天井を見ると少し高いところに三本ばかり大小様々の鉄管が通っている。つまり、異様な声はそのうちの一本から響いて来るのだということが判った。その管が伝声管の役目をしているのだ。

加十はその管について少しずつ歩き出す。なるほど、歩くにつれてその声はだんだん近くだんだん明瞭になる。

それにしても、ドスのきいた、錆のある、ひとを小馬鹿にしたようなこの特色のある声は、確かにどこかで一度きいた覚えがある。それも大して古い話ではない。つい二三日前、どこかの場所でそれを耳にして、少なからず鮮やかな印象を与えられたその声なんだが……ああ、この声の主さえ判ったら! その思いがまるで火のように加十の頭の中を駆け廻る。が、それが誰の声だったのか、どうしても思い出すことが出来ない。

天井を睨みながらスリ足をして進んでゆくうちに、突然、自分の足の下に手ごたえを感じなくなり、自分の身体が宙に浮いたかと思うと石のように急転直下して、イヤというほど固いものの上に叩きつけられた。

ひどく背中を打ってしばらくは起上ることも出来なかったが、ようやくのことに身体をもち上げてその辺を手探りして見ると、どうやら自分は深い穴の底のようなところにいるらしい。撫で廻し見ると、常にジメジメした苔のようなものがさわる。あわてて滅多無性に苔の上を掻き探すと、ようやく指先に手提電灯が触れる。電灯をともして見ると、いかにも自分は広い深い古井戸の底のようなところにいることを発見した。天井ばかり睨んで歩いていたので、ウッカリとこんなところへ落ち込んでしまったのだ。縦孔の縁までは十尺以上もあろうか。もちろん、背伸びしたって飛び上ったって、そこまで届きはしない。いかに土性骨の太い加十であるにしろ、これには思わず慄え上ってしまった。

今までは危なくなったら逃げ出せばいいと、多寡をくくって平気でいたが、これでは逃げ出すどころか、下手をすると命が危ない。頭の血がスッと踵の方へ下りてゆくのがわかる。

えらい事になってしまった。一体自分はどんなところに落ち込んだのだろう。まずそれを確かめて見る必要がある。震える手でポケットから伏樋の地図を取り出して、自分がいま来た道を辿って見る。ようやくわかった。地図に井いげたの印がついていて、その傍に、「南部邸用水溜井戸」と朱書がしてある。加十は南部甲斐守の邸の井戸の中に落ち込んだのだ。南部甲斐守の邸は、ちょうど現今いまの日比谷公会堂が建っている辺りにあった筈だから、自分はいまその近くの地下にいるのだということだけはわかる。王様をおびき寄せようとした悪党が、日比谷公会堂の地下室にいるといったのは嘘ではなかった。

しかし、こんなことが判ったって、加十の窮境には一向変りはない。いや、それどころか、絶体絶命なことがいよいよはっきりして来た。地図を見ると、真名古に通知してやった自分の位置から、複雑な迷路を紆余曲折してここまで来たことがわかったからである。かりに真名古が加十の手紙を見て救いに来てくれたって、到底この迷路を辿ってここまでやって来ることは出来まい。たとえ出来たとしても、二日や三日ではこの無数の横道を全部探ねあげることは出来まい。ほとんど絶望に近いのである。

では、思い切って声の主に事実を打ち明けて、救い出して貰おうか。飛んでもない、自分が加十だと知ったら、生かすよりは殺すだろう。まだしも、万一を頼んで真名古が救いに来るのを待っている方がましなのであろう。

逆上したようになって、急がしくあれこれと考え廻らしているところへ、また声が響いて来た。

「王様、あなたは一体どこにいるんです。そんなところで道草を喰っていちゃ困りますよ。早く来て下さい」

畜生、どうしよう。何とかうまく胡魔化して自分がここにいることを、それとなく真名古に通知させる方法はないものだろうか。……考えていたって急にいい智慧が出るわけはない。例の体当りで、行あたりばったりやって見るに限る。

「いや、どうも弱りました。行きたいことは山々なんだが、行かれないことになりました」

「どうしたんです」

「穴の中へ落ち込んでしまいました」

「本当でしょうね」

「私の声をきいたってわかるでしょう。深いところから響くでしょう」

「なるほど。たしかにそうです。それは深い孔ですか、自分では絶対に這い上れないですか」

「絶対にだめです」

声の主は、フ、フ、フ、と含み笑いをして、

「それァ好都合でした」

「人の悪い事をいうもんじゃありません。すこし残酷すぎるようですな」

「ねえ、王様。おききなさい。実はね、あなたを攫って来る途中、田村町で非常警戒にひっかかりそうになりましてね、それでは都合が悪いから、あなたを放送局の工事場のあいていた横穴の中へかくして置いたんです。ところが、あなたはいつの間にか鶴の噴水の下まで来ている。こいつには弱りました。その穴から入って、いく度もやって見たんですが、どうしてもあなたのところまで行けない。止むを得ず公園の土堤を池の方へ掘りかけたんですが、これも邪魔が入って駄目。結局ここへ来て、この古い瓦斯管を伝声管代りにして、出鱈目にあなたに呼びかけていたんです」

「おお、すると、あなたは古市加十君ではないのですね。悪い人なんだね」

「ええ、そうですよ。悪い人なんです。あまりびッくりしないで下さい」

「びっくりはしませんがね。しかし、こりゃ何とも意外でした。それで私を攫ってどうしようというんです。いやそれより、私をそこまで呼びよせて、それからどうするつもりだったんですか」

「あなたにどうしてもいわせたい事があるからなんです。つまり、ここから出られるようなことを仄めかしたら、何しろあなただって何でもいってしまうだろうじゃないですか。そこにいれば餓死するよりほかはないのですからね」

十分ほど前なら、加十はたしかにこの利いたふうな饒舌おしゃべりを笑ってやることが出来た。しかし、今は笑うことも出来やしない。まさにその通りなんだ。

「それで、私にいわせたいというのは、一体どんなことなんです」

「つまり、あなたが持っていらした金剛石をどこに隠してあるか、その場所を教えていただきたいんですよ」

「ああ、とうとう本音を吐きましたね」

「本音ならとうに吐いています。どこに隠してあるか教えて下さい。そうしたらあなたをその穴から助け出してあげます」

「怪しいもんですね。現にあなたはどうしたって私の傍へは来れんのじゃないか」

「御心配無用です。大久保主水の「上水樋仕様」の古地図が農大の図書館にあることがようやく判りましてね、もう間もなく仲間がそれを手に入れて来る筈だから、そうしたら今度はやすやすとあなたの傍まで行けるんです」

「どうも信用出来にくいですね。金剛石と命と両方ともとられるんならいっそいわない方がましですからね」

「あなたを暗殺しようとしているのは私じゃありません。ある当路の人物とハッチソンの二人ですよ。私はあなたの命に用はないんです」

「信用して置きましょう。しかし、その話はもう少し考えさせて下さい。……それはそうと、私が金剛石を持って来たことを、どうしてあなたは知ってるんです」

「ええ、松谷鶴子の口から。……実は鶴子はわれわれがあなたにつけて置いた目付だったんです」

「なるほど、それはよく判ったが、一体何のために鶴子を殺したんです」

「鶴子は本気であなたに惚れ始めましてね、われわれのいうことを聞かなくなった。それやこれやで大変に不便なんです。今朝、鶴子はあなたから金剛石を取りあげてわれわれに渡す約束になっていたんですが、それを実行しないばかりか、棄鉢になってしまって少々危険な徴候が見えたので、それで殺してしまいました」

「それは気の毒なことをした。私は鶴子に金剛石の在処ありかなんかいってはいないんです」

「それはあとになってわかりました。だから、あなたの口から聞こうというのです」

「理窟ですな。……しかし、私を助けるというのに、その私へそんなことをベラベラしゃべってもいいのですか」

「構いませんとも。金剛石を手に入れたら、一時間以内にいつでも日本を発てる準備が出来ています。御安心なさい」

「だんだん判りかけて来た。よく筋が通ります。では、どういうふうにして助けてくれますか」

「そちらで条件を出して下さい」

「思っていたよりも潔白ですね。感服しました。……では、こうして頂きましょう。即刻警視庁の真名古捜査課長に電話をかけて、「古市加十、南部甲斐守」と、この二語だけいって頂きましょう。それだけでよろしい」

「古市加十、南部甲斐守……、こうですね」

「その通り。金剛石を探しに行く前に電話をかけると誓ってくれますか」

「誓います。……さア、金剛石のありかをいって下さい」

さて、どこといおう。少なくともこの抜目のない悪党を、一応納得させる事が出来るような場所でなくてはならんのだが……。加十は乏しい智慧を非常招集して、忙がしくあれこれと工面する。

「どうしたんです、お返事は」

苦しまぎれに、フト妙な事を考えついた。あそこなら、こいつだって納得するだろう。

今朝、王様と鶴子と三人で夜食をしている時、加十は鶴子の代りに立って料理場へ氷を取りに入ったが、扉口に近いところの壁の一部が修繕されて、まだ生乾きになっているのを認めた。それを今、フイと思い出したのである。

「ねえ、王様お返事を伺いましょう」

「申しましょう。実は、いま金剛石に別れを惜しんでいたのでした。……金剛石はね、危ないと思ったんで、鶴子の家の料理場の壁の中へ塗りこめて置きました。廊下へ出る扉の傍に壁を繕った個所があるでしょう、あの中です……」

声の主はいかにも口惜しそうにチョッチョッと舌打ちして、

「ああ、そんな気がしていた。ほかの場所は残らず探したんだが、あそこだけ見残した。……たしかにあなたの勝ちでしたよ、王様。……それはそうと、それは真実ほんとうでしょうね。もし行って見てなかったら、すぐ戻って来てあなたを殺しますよ。こっちだって生命がけの仕事なんだから」

「放って置いたって死ぬでしょうよ」

「そうとばかり限らないから殺しに来るんです、……では、さよなら」

「なるべく、「さよなら」であるように祈りますよ」

声はそれで聞こえて来なくなった。

加十は苔の上へドッカリと胡坐をかくと、ギロギロと四方の壁を見廻しながら、

「どうも、こいつはいけない事になった。いよいよ今度こそは俺の最後かナ。……せいぜい骨を折って見たが、この窮境を好転させたのか悪転させたのかわからない。あいつが約束通り真名古に通信してくれるかどうか判らないし、金剛石が見つからなければ、俺を殺しにやって来るんだ。……余計なことをしたばっかりに、これァ一層悪くモジってしまったらしい。考えたって仕様がない。どうせ、なるようにしかならねえんだ。今のところ助かる方の歩は少ないんだから、大体死ぬことに覚悟をきめて置く方がいいだろう。……それにしても、これほどの驚天動地のネタを抱えながら、空しく白骨になってしまうのはどう考えても忌々しくてたまらない。それに、何のためにこんなところに俺がクタばっているのか、その訳がわからずじまいというのも情けない。俺の死体が発見された時、せめてこの顛末だけは判るように、遺書かきおき代りに、出来るだけくわしく記事を書いて置こう。それでこそ新聞記者らしい最期というもんだ。……おお、そうだ。手提電灯の電池がなくならないうちに……」

と、呟きながら、膝の上に原稿紙を押しつけ、電灯の光の方へ身体を曲げながら、鉛筆を舐め舐め、大狼狽あわてに走り書きをしだした。一種颯爽たる風格があったのである。

三十六、早撮写真の事    並に陰気な足音の事

真名古は捜査課長室の机に頬杖をついて、山木元吉、印東忠介、川俣踏絵、村雲笑子、幸田節三、酒月守の六人と「カアマス・ショオ」の七人の聴取書に大急ぎで眼を走らせている。

山木の陳述は花子が印東からまた聴きして注進した経緯と違ったところはない。あの夜「すず本」を抜け出したのは王様との約束を守って、ガラスの金剛石の上底のついたシャンパンの壜を受取りに行ったのだといっている。

印東の陳述は、例の山木が「すず本」をぬけ出したのを見た目撃談が主で、最後に、バロンセリと笑子とハッチソンと岩井が怪しい、いや、そういえばそのほかのだれも彼も怪しい。もっとも私だけは例外です、などとよけいなことをベラベラしゃべっている。

踏絵は、山木があまり柄にもなく大きな仕事をするのでハラハラしていましたが、案の定こんな羽目になってしまって、と涙まじりに陳述している。

幸田と酒月は、異口同音に、鳴く筈もない噴水の鶴が鳴いた時にはどんなに仰天したか、むしろ淡白に所懐を述べたのち、浅草の木賃宿で立聴きした山木と踏絵の会話を紹介している。それは山木、踏絵の陳述と大体に於て符節が合うのである。

お次ぎは「カアマス・ショオ」の七人の聴取書。その中にはちょっと思いがけないことが述べられてあった。

陳述書を読んで見ると、今暁有明荘の六人と一緒に「すず本」へ繰込んだ「カアマス・ショオ」の六人のうち、まともに敵と引ッ組んだのは、印東の相手のタップ・ダンスのメアリイと、ハッチソンの相手の歌唄いのミリアムの二人だけだったということが判った。山木と一緒にいる筈のジャネットは、踏絵の相手のロナルドと一緒におり、岩井の相手のジャックリイヌは笑子の相手のウイルソンと一緒にいたのだった。

つまり、岩井――笑子、山木――踏絵、の四人は、互いに本来の相手方を敬遠して、こんなふうに組合せを変えていたのである。

もっとも、山木と踏絵の方は、もう花子の口から聞いていたし、その目的もわかっているが、その外にもう一組こんな変奏ヴァリエーションがあったのは意外であった。

真名古は鉛筆を取り上げて、

岩井――笑子

と、紙の上に書きつけると、今までの軽快さを失って、急に沈んだ顔色になってしまった。

一体何のために岩井と笑子が、互いの相手を退けたのだろう。恐らくそれは愛情のせいではあるまい。山木と踏絵の場合を考えると、はなはだ穏やかならぬ連想が浮かんでくるのである。真名古の検証したところによれば、岩井は窓からなど脱け出してはいない筈なのだが、こういう新事実が現われた以上、もう一度その辺のところを確かめて見なくてはならない。さすがの自信家の真名古も、この新事実の前にはいささかたじろいだように見えた。

真名古の推理によると、「カアマス・ショオ」の別の一人がハッチソンの窓から入って来て、岩井の部屋の窓から出て行ったことになっていて、その七人目の人物はアクロバット・ダンスのヘンリイという男だとされていたのだが……

早速ヘンリイが呼び込まれる。

真名古はもう余裕綽々たる様子はしていない。かなり真剣になっているということは、垂れ下った瞼の間から、凄まじい眼光が電光のように走り出すによってもそれと察しられる。

真名古の着想イデには狂いはなかった。訊問して見ると、ハッチソンの窓から入って来たのは、まさしくこの男だった。自分だけ一人が置いてけぼりにされたのを口惜しがって、情婦のミリアムのところへ嫌味をいいに来たのだった。その部屋がそうとは知る筈もなく、入りやすいところから入ったわけだったんだが、そこがミリアムとハッチソンの部屋だった。

口惜しがったというものの、こんなことには慣れっこになっているのだから、大して肚を立てていたわけではない。ミリアムとハッチソンにいい工合にナヤされて、一杯飲まして貰って、また、ハッチソンの部屋の窓から外へ出て築番の「築番の」はママナポリ・ホテルへ帰った。

真名古は聞きすましていたが、不意に顔をあげて、

「君が「すず本」を出たのは何時だったね」

「ちょうど午前四時半でした。窓から出ようとする時、階下の時計が四時半を打ったのをはっきり覚えています」

「その時たしかにハッチソンは君と一緒にいたんだね」

「ですから、今申し上げましたように……」

「それで、君はミリアムとハッチソンの二人と話したきりなのか」

「はい、そうです」

「他の部屋へは行かなかったかね」

「参りません。行く必要もないのですから」

「よろしい、退ってくれたまえ」

ここでまたもう一つの新事実が発見されることになった。これは真名古にとっても実に容易ならん不意打ちスユラルブリイズだった。ヘンリイが岩井の部屋へ行かなかったとすれば、やはり岩井は今朝「すず本」を脱け出しているのだ。「ある人物」こそこの事件の犯人だという万代不易な真名古の信念は、これによってまったく覆されてしまうかも知れぬのである。

ともかく、岩井が何のために「すず本」を脱け出したか、それを調べて見る必要がある。笑子が相手パアトナアを遠ざけて岩井と組になったのは、もちろんその秘密めかしい岩井の行動を援けるためだったに相違ない。笑子が岩井の行為に充分な了解を持っていることは、これによって察しられるのだから、笑子の口を割りさえすれば、一切の事情がわかるであろう。

それにしても、何しろ規定の時刻までにはもう僅かのタイムしか残っていないのだから、日数をかけて徐々に吐かせるなんていう悠長なことはしていられない。場合によっては……

真名古の面上は何ともいえぬ一抹の凄気がサッと流れ出す。眼は火がついたように烱々と輝き、すこし前屈みになって、まさに獲物に飛びかかろうとする野獣のような剽悍な身構えをする。例えていうならば、真名古の全精神が目覚時計によって呼び醒まされ、俄然戦時体制に入ったような凛烈果敢な風貌になった。真名古が銃士の一人に合図すると、まもなく村雲笑子が連れ込まれて来た。

第八回、「お茶松」の賭場の入口に立現われた時のように、しどけなく足元にからむ銀絲入りのお召の、二枚袷の裾を外輪に蹴開きながら、だらけ切った恰好で入って来ると、真名古が指し示した椅子の端に浅く掛け、不貞腐ったようすでそらうそぶいている。

張りのある愛らしかるべき眼は、淫蕩のためにうす黄色く濁り、美しかるべき北国産の膚は、長らくの放縦な生活のためにさんざんに荒廃している。いずれ一度はこんな場所へ引きずり出される運命を持った御人体キャラクター。いわばはなはだ場所柄にふさわしいのであった。

真名古はむしろ愛想よく煙草をすすめながら、気軽な調子で、

「どうだ。だいぶひどくやられたか」

笑子は憎体にくていに、ふン、と鼻を鳴らし、

「いいえ、そうでもなかッてよ。みなさん、たいへん、ご親切でしたわ」

「何を訊かれたね」

「名前だの、年齢だの。……年齢は本当のことをいわなくッちゃアいけないんですの」

「そんなことはどッちだっていいだろう。……それだけか」

「それから、……昨夜、岩井と一緒に……」

「つまらんことをきくじゃないか。冗談だったんだろう。それで、何と返事をした」

「失敬よ。いくら職権だって、そんなことにまで立入る権利はなくッてよ」

「それァ、よくない。あとで注意して置く。まア、そうむきになるな」

ニヤリと笑って、

「本当のところはどうだったんだね」

「どッちだっていいじゃありませんか、かッたるい。……警察ッてところは実に下等ね。愛想がつきた」

「そう一概にいったもんでもないさ。……それはそうと、君が「お茶松」へ出入するようになったのはいつごろからだ」

油断のない面つきになって、

「さア、……去年の春ぐらいからよ」

「面白いかね」

「趣味ッてわけでもないわね。どういったらいいかしら」

真名古は机の上に肘をついて掌たなごころで頤を支えながら、のんびりした調子で、

「おい、君たちの生活はすこし放縦だらしなさ過ぎると思わんか。そんな廃頽的な生活ばかりしていていいッてことはあるまい。すこし反省したらどうだ」

笑子は拗ねたように横坐りになり、二の腕まで露き出して手で髪のウエーブにさわりながら、

「反省してますわ」

「実にどうも怪しからんじゃないか。法律で賭博を禁じていることは君たちだって知らんわけはなかろう。国家の規律をそんなふうに馬鹿にしてもいいのかね」

笑子はクスクス笑い出して、

「恐れ入りました」

「ふふ、ちッとも恐れ入ったように見えないじゃないか」

というと、突然、拳で激しく机を叩き、

「てめえら、そんな了見だから、しめえにァ人殺しの片棒を担ぐようなことになるンだ。おとなしくしていれァいい気になりやがッて。あンまり舐めた真似をするな」

あのモッサリの真名古が、どうすればこうまで変れるものか。すッかり啖呵になって、声音も抑揚めりはりもちょうど昔の陰惨な岡ッ引の調子。見せかけか本領か知らないが、いずれにしてもゾッと人を悚み上らせる嫌味があった。

笑子は真ッ白けになった顔をあげると、無念そうに真名古を瞶めながら、

「こんな扱いを受けるわけないと思うわ。あたしをどうしょうてえの」

真名古は椅子に馬乗りになって、

「どうもこうもあるもんかい。ここへ引ッぱり込まれたら何をされるかぐらいなことは貴様だって知ってるだろう」

「でも、あンまりよ」

「あンまりとは、どうあンまり。……貴様、常習賭博だけの罪か?……何かほかに覚えはないのか。しらばッくれやがると承知しねぞ」

そういって置いて大股に部局の「部局の」はママ隅まで行き、本棚から写真帳を取りおろしてその中から写真を一枚撰び出す。それには警視総監が屋根の上で消防の演習を見ているところが大きく写っている。右下の方に屋根の棟が一杯に幅を取っているので、総監はちょうどその屋根の棟に立っているように見える。

真名古はそれを後ろ手で背中へ隠しながら笑子の傍まで戻って来ると、頭の上からジロジロと笑子を見下ろしていたが、突然その写真をツイと笑子の鼻の先に突きつける。ハッと笑子が瞳を定める暇もなく、間髪を入れずにまたそれを背中へ隠し、

「今朝、岩井が「すず本」を脱け出すところを、写真まで撮られようとは知らなかったろう。どうだ、恐れ入ッたか」

笑子の全身にひどい変化が起きた。引く息ばかりになッて椅子の上にも居たたまらぬようにひどく慄え出す。両手でしッかり膝頭を掴んで押さえつけようとするんだが、膝の方はいう事をきかない。一層ひどくガタガタやる。

真名古は毒々しい口調で、

「何だ何だ、そのざまァ。ひどく慄えるじゃないか、大した度胸もない癖に大それた真似をしやがって」

笑子は嗄れたような声で、

「岩井がどうとかって、あたし、まるっきり……」

「やかましい。岩井が「すず本」を脱け出したのは三時四十分。帰って来たのは五時。帰って来た時は上衣も帽子もどこかへ放ってワイシャツとズボンだけだったろう。岩井は窓から首だけ入れて、おい、地袋の上へ何か敷いてくれ、靴下の裏が煤だらけなんだ、といったろう」

急に笑子の足袋の爪先を指差して、

「そらそら、お前が岩井の介錯をしてやった証拠に、足の爪先に、屋根の、風呂屋の煤がついているじゃないか」

笑子は、ハッとしたようすで、ひどく狼狽あわてて自分の足袋の爪先を見る。もちろん、煤などついていなかった。どぎまぎして、顔を赤らめてうつむくのを、すかさず、グイとその肩先を掴んで、

「どうだ、そうだろう」

蚊の鳴くような声で、

「知りません」

「そうか、お前は知らなかったのか。知らねえならなんでそんなに慄えるんだね」

真名古は机の上から以前の写真を取り上げてそれを笑子に手渡しすると、頤をしゃくって、

「よく見ろ、これは岩井の写真じゃない、総監の写真だ。……これがどうしてお前に岩井の写真に見えたんだろう。可笑しいじゃないか」

と、いうと、椅子もろともにズイと笑子の方に近寄り、

「おい、岩井と総監とは一体全体どんな関係になっているんだ。……岩井が総監の身代りになって深川くんだりを巡視し、総監の不在証明アリバイをつくってやったというのはどんな因縁でやったことなんだ」

笑子はますます深く顔をうつむけて何の返事もしない。真名古はドンと激しく足踏みをすると、

「おい、返事をしろ」

ドキッとしたように反射的に顔をあげて、

「存じません」

「きまりをいってらア。どうせいうにしても、何とかもっと綾のある事をいったらどうだ。……おい、それはそうと、今朝、岩井は確かに「すず本」を脱け出したんだナ」

「……でも……」

「でも……、どうした」

グッと唾を嚥んで、

「でも、何をしに行くのか、あたしは知らなかったのです」

真名古は眼を怒らせて、

「しぶといじゃないか。そんな夢みたいな話がここで通ると思っているのか」

「でも、あたし……」

「よゥし、どうしてもいわねえナ」

物凄い顔になって椅子から立ち上ると、指で鉛筆を撓わせながら、ゆっくりと笑子の方へ近づいて行った。

いよいよ迫る運命の時間に、警視庁の内外では触れなば火を発せんとばかりに目覚しい活動が続けられているが、三階の総監室だけはまるで別世界のよう。見ると総監が一人、大きなソファに沈み込んで何かひどく屈託している。

僅かの間に二十も年齢を取ってしまったように、額にも眼の周りにもおびただしい小皺が寄り、ザンバラになった髪を汗でベッタリと貼りつかせ、たった今水から上って来た水死人のような悲惨な顔をしている。

たった今どこからか帰って来たばかりのところと見え、机の上に帽子が置いてある。どんなところを潜って来たのだろう。肩にも袖にも蜘蛛の巣がひッかかり、靴は塵にまみれて白くなっている。

総監はソファの背に頭を凭らせ、呻くような声でこんなことをいう。

「……衣裳戸棚コムモーデ、……机ティッシェ、……穴蔵ケルレル、……料理場キュッヘ……。そうだ。なるほど、あそこだったんだ。……なぜ、気がつかなかったんだろう。あんなたわいもないことになぜ気がつかなかった。……何だかそんな気がしていた。それなのに、あそこだけ見落した。……なぜだろう。これが不思議でたまらない」

そういって、時計を見上げ、

「まだ間に合う! どんなことがあってもやって見せる。どんなことがあッても! あいつなんぞに突き落されるものか。……あいつが勝つか、俺が勝つか!」

まるで人が違ったような荒々しい身振りで立上ると、帽子を取上げて扉の方へ行きかかる。

時計が三時五分前を報じる。

すると、あたかもこれが合図のように、遠い廊下の端から陰々たる足音が起って、それが次第にこっちの方へ近づいて来る。足をすこし引きずるような、そのくせ何か殺気を含んだ、極めて特徴のある足音が、底気味の悪い音を立てながらゆっくりとこちらへやって来る。

警視庁では誰一人この恐ろしげな足音を知らぬものはない。十年も聞き馴れている人間でもこの音を聞くと、誰も彼も何の理由もなく奇妙な恐怖に襲われる。

真名古がやって来たのだ。総監の逮捕状を懐中にして、真名古が一歩々々こちらへ近づいて来る。

総監は手に帽子を持ったまま棒立ちになっていたが、爪先から頭の先までうねり返すような激しい痙攣を一つすると、手から帽子を落してソファの方へよろめいて行き、一種兇悪な表情を顔一杯に漲らせながら、

「畜生、先を越された」

と呻くように叫んだ。

扉が音もなく引き開けられ、静かに真名古が入って来た。細い眸の間から冷酷無情な眼差を覗かせ、じっと総監の方を眺めていたが、やがてゆっくりと、その傍に近づいて来ると、沈んだ響のない声で、

「総監、職権によってあなたを逮捕します」

と、宣告した。

総監の顔は見る見るうちに蒼白になり、額に汗の玉を噴かせ、憤怒と絶望の入り交ったような、複雑極まる表情で真名古の顔を睨みつけていたが、突然、

「糞ッ、貴様なンぞに……」

と、叫ぶと、力任せに真名古を突きのけ、錯乱したように部屋から飛び出して行った。

廊下を駆けて行く気狂い染みた総監の足音は四壁に反響して、一種異様な階調をつくりながらだんだん遠ざかって行く。真名古は憐れむようにその方を眺めながら、囁くような声で、

「しょせん、所詮、それは無駄です。私の手から逃げ出すことは出来ぬ」

と呟くと、微かに唇の端を皺めて奇妙な微笑をした。悪霊の微笑だってこうまで冷たくはなかろう。さながら顔に凍りつくかに見えたのである。

時計が午前三時を打つ。退っ引ならぬ解決の時間までに、あますところ僅か一時間となった。ああ、一時間!

第十二回

三十七、魚の腹話術ヴァントリロクの事    並に英吉利イギリス巡洋艦の事

夜空で五位鷺がギャアと鳴く。

夜番の柝の音も凍りそうな一月二日の深夜。桐のずんどに高野槙、鉾杉、棚かえでなどが繁りに繁って、昼でも薄暗い山王の森。かれこれ午前三時というのでありますから、いかにも凄く物淋しい。

その森の間をたらたら上りになる小径。空には月がありますが、木の葉が厚く茂っているので、とても下草までは届かない、さながら深山の杣道といった体に、ずっと上の方へつづいている。行手の木の間がくれにコンクリート建の西洋館。二つ三つの窓から沈んだ灯の色がぼんやりと洩れ、半面に淡い新月の光を浴びて、まるで夢の中の景色のように、妙に鮮やかに白々と浮き上っている。ちょうど前日の今ごろ、そこで人殺しがあった、例の有明荘。

小径の中ほどのところに大きな笠松があって、そこばかりはとりわけ黒くおどんだようになっているその木の下闇、そよ吹く風の枝の間からスーッとぬけ出した一つの影。漂う如くにフワフワと有明荘の方へ近づいて行く。

幻とも煙とも定めがたいその影は、暫時の間ヨロヨロと建物の周囲をさまよい歩いていたが、やがて大玄関から建物の中へ辷り込むと、異様に長い尾をひきながら、取っつきの階段から二階の方へ登って行く。

登りつめたところが惨劇の行なわれた鶴子の玄関。そこからずっと向うへ長い廊下が延び、その端に大きな硝子扉ケースメント。その外は露台バルコンになっていて、そこに月の光があたっている。

朦朧たるものの影は、鶴子の家の扉の前でやや暫くたゆたっていたが、廊下に人のけはいのないのを見定めると、そっと扉を押し開けてその内部へ忍び入る。

鶴子が投げ出された例の大きな窓から、空の薄明りが斜めに壁の上にさしかけ、その上に二間四方ほどのほの蒼いスクリーンをつくっている。黒い影はその光を厭うように闇の中に蹲っていたが、やがて、うつむいたままで低い口笛のような音を立てはじめた。何かの合図だったのだろう、一風変った曲節の口笛の音がやむと、四角なスクリーンの中へムクムクと新たな三つのシルエットが浮かび上って来た。

闇の中の人影は、ほのかな手真似で、三つの影を自分の身近に呼び寄せると、ほとんど聞きとりにくいほどの低い声で、

「では、そろそろ配置につくとしようか。手筈した通り、食堂のあの長椅子のうしろへ行こう。あそこからなら台所の中の手細工オペラチオンをひと眼で見通すことが出来るだろう」

四つの影は縦列をつくって、そろそろと食堂の中へ入って行って、勝手の扉と向き合う大きな長椅子の後にひと塊りになる。

「料理場の扉の外は大丈夫だろうナ」

「今朝からずッと楠田が張込んでおります」

「よろしい。ここへ入って来たら、もう袋の鼠だ。どんなことがあったって逃すようなことはない。……あいつを引ッ括って諸君に引渡せば、それでこの俺はお役ずみになる。諸君ともこれでお別れになるのだが、これが最後だと思って、もうしばらくの間辛抱して貰おうか」

「課長!」

「そんな湿った声を出すな。一体何をいい出す気だ。感慨めかしいことなら聞く必要がない。だいいち、そういう呼び方だってもうこの俺にはふさわしくないのだ。……要するに俺は屈辱に耐えられぬ人間なんだ。そういう偏狭な性情がこんな愚かな真似をさせる。取るにも足らぬ小さな事務から疎外されたというだけで、何も辞職までしなくともいいと諸君はそういいたいのだろう。しかし、諸君の感想に拘らず、俺にはこういう処置がたいへんに気に入っているのだ。勝手にさせて置いたらいいじゃないか」

「しかし、……もう、これでお目にかかれぬのだと思いますと、……それにろくにお別れの言葉も申し述べずに……」

「くどい!」

ヒソヒソ話はこれでお終いになって、部屋の中は再び以前のような深沈たる趣きにかえる。どこかに置時計があるのだろう、時の流れはこのチクタクという音を媒介にして、ややもかも気ぜわしい渓流せせらぎの音をたてる。

こんなふうにして五分、あるいは十分も経ったであろうか。廊下の遠い端の方で、扉の蝶番が軋るような仄かな音がした。一分ほど間を置いて、湿った土の上を踏むような、猫の棟伝いをするような、あるかなきかの低い足音がその方に起って、次第にこちらへ近づいて来る。途絶えては起り、途切れてはまたつづき、念の入った忍び足で玄関の近くまでやって来てそこで止る。

扉がソロソロと押開けられ、何物であろう、ヒョロ長い影を先に立てて、よろめき勝ちな黒影が玄関の間へ入って来た。

食堂の闇の中からその方を見ると、壁の上の四角な月影が古鏡の面のように薄光りしている、その中に今しも投影されたそれこそは実に意外な人物の姿だった。

官服の襟元をだらしなくくつろげ、丸く背を曲げて前屈みになった、極めて特徴のある横向きの姿。さながら、ダンカン王の寝室に忍びよるマクベスの如く、不安と粗暴とを交ぜ合わしたような異様なポーズで、クッキリとうす蒼いスクリーンの上に浮かび上って来たのは、紛れもない総監のシルエットだったのである。

その影は、あたかも己れの登場を誇示するように、月の光の中で延びたり縮んだりしていたが、やがて向きをかえてサロンの中へ入って来た。充分に勝手を知っているようすで、サロンの扉の錠をおろすと、壁際に身を擦りながらソロソロと食堂から料理場につづく扉の方へ歩いて行く。何の匂いだろう、その方から時ならぬ春の香のような、ほのかな香気がフンワリと漂ってくる。

朦朧たるその影は扉を開けて、静かに料理場の中へ入って行く。と思う間もなくその手の中から細い光茫が走り出し、裏口の扉に近い壁の一点に据えられる。塗り変えられて間もない、五合ほどの真新しい壁の一部が照らし出される。その人物は背中を丸めてその部分を撫で試みる様子だったが、床の上に手携電灯を差置くと、ポケットから小さな鑿のみのようなものを取出し、そこをガリガリと掻きはじめた。

長椅子のうしろの四人は、鼠を狙う猫のように背中を撓ましてその方を窺っていたが、やでて「やでて」はママ次ぎつぎにそこから這い出してジリジリと獲物の方へ迫って行く。

ところが、このコースの行手に、ちょっとした障害物があった。支那蘭鋳の鉢を載せた脚高の三腕台が「三腕台が」はママ、この細い通路を塞いでいた。真っ先に進んで行く真名古の肩がちょっとその脚に触れると、台はもろくもかしいで、玻璃鉢がえらい音を立て床の上で微塵に砕けた。

「失敗った!」

という真名古の声と、向うの人物が身を翻して料理場の扉を閉したのとはほとんど同時くらいの早さであった。四人がその扉に殺到した時、四人の耳は内部から錠をおろす音をハッキリときいた。

真名古は、

「畜生!」

と叫びながら寝室の方へ横ッ飛びに飛んで行き、化粧室トワレから料理場に続く扉を開け試みようとしたが、そこも早やガッチリと鍵がかけられていたのである。

闇の中で、

「玄関へ廻れ、玄関へ廻れ!」

という錯乱したような真名古の声がきこえる。食堂の方からは万能鍵で扉を開けようと焦立ちながら口々に喚き立てる三銃士の叫び声がひびいてくる。ひどくこんがらかって何が何だか判らんようになってしまった。

こんな混乱のうちに五分ほど経って、そこでようやく扉が開く。真名古と三銃士が双方の入口からほとんど同時に料理場になだれこんだが、これはどうしたというもんであろう、この狭い料理場の中には、どだい人の姿などは見当らぬのであった。猫の子一匹いやしない。

ここから逃げ出すとすれば、勝手用階段につづくこの裏口の扉からするほかはないのだが、そこにはかねて別働隊が張り込んでいるのだから、どんなことがあったってぬけ出せるわけはない。

真名古は飛んで行ってその扉をゆすぶる。ここもガッチリと鍵がかかっている。扉の鏡板を連打しながら張番している筈の銃士に呼びかける。

「楠田々々、お前はそこにいるのだろうナ」

飛んでもない方角から返事があった。

応接間サロンの扉を叩きながらその銃士が叫んでいる。

「課長々々、私はここにおります。あなたが玄関へ廻れと命じられたので飛んで来たのですが、こんなところへ閉め込まれて出られぬようになりました」

この闇の中でイタリーふうな道化劇が始まっている。しかし、一同にとっては可笑しいどころの騒ぎではない。とりわけ真名古にとってはこれは思いもかけぬ痛撃だった。

昨日の午前ここへ検証に来て、料理場のこの壁の修復個所を見たとき、真名古は皇帝の大金剛石はこの中に隠されているのだと洞察した。ここに張り込ませてさえ置けば、最後の瞬間に必ずこっちが勝利を得ると確信していた。何もあわて廻ることなどいらない。ここで待っていれば、いやでも犯人の襟首に手をかけることが出来る筈であった。

真名古は銃士の中でも腕利の四人を召集すると、抜け目なくここへ配置し、自分は一と足先に傍証固めにとりかかっていたのだった。午後から今までの真名古の活動はもっぱら魚をこの網の中へ追い込むことにばかり費されていたのである。

果して魚は嚢網口はぐちからソロソロと大謀網の中へ入って来た。あとはもう網の口を締めるだけでよかった。その千番に一番のかね合いの時に、スルリと魚に逃げられてしまった。何のことはない。その魚は腹話術ヴァントリロクまがいに真名古の声色を使って、張込んでいた銃士を玄関の間へ駆け込ませ、不幸な銃士をそこへ閉め込んで悠々と逃げてしまった。あっけないといえば、実にあっけない始末だった。

真名古ほどの人間でも、これでは憤激せずにいられなかったろう。暗闇の中へ入って来た不幸な銃士の襟をひッ掴むと、歯軋りをしながらこずき廻していたが、急に変ったようになってガックリと椅子の中へ落ち込むと、首を垂れてそのまま動かなくなってしまった。

この四銃士は心から真名古を愛しているし、駆出しのころから真名古に手を取られて教えられて来た連中だから、自分らの未熟からこの稀有の大終幕をしくじらせたと思うと、いずれも暗然と涙を呑むばかり、なまじっかな挨拶などのあろう道理はない、闇の中に群像のようにひと塊りになって低く首を垂れているのだった。

やや暫くの後、真名古はウッソリと顔をあげると、群像の一つずつを透しながら、さすがに綿々たる声音で、

「諸君、たいへんに遺憾だが、今日の活劇はこれでお終いだ……ああ、同じ失敗しくじるにしても、こうまで惨めなやられ方をしようとは思わなかった。……大したもんだ。これだけ鮮やかにやッつけられりゃア文句はあるまい。こッちが尻尾を巻いて逃げ出す番だ。……見込通りに成功したら、すこし浮かれてやるつもりで、少しばかりだがコニャックを持って来たんだが、……いや、どうも……。じゃ、諸君、これでお別れする。せめて、こいつで水盃でもして……」

と、ここまでいった時、森閑と静まりかえった遠い廊下の端の方で、何かしら鋭い短い音がした。蝶番の軋るような音である。一同は思わず息を呑んで耳をすましていると、露台バルコンの硝子扉ケースメントをソッと閉める音がし、何者かが廊下の絨毯を踏んでこちらの方へ近づいて来る。足を煽るような、ひどく癖のあるその足音は、つい今しがたきいたばかりの歩調と寸分違わない。

一同は椅子の蔭に身を沈めて玄関の間の方を凝視していると、そこの銀幕の上に、怪しげな幽光に包まれながら卒然と浮かび上って来たのは、猫背の、毬栗いがぐり頭の総監その人の姿であった。

はなはだ奇異なことになった。それだけでもすでに何とも納得がゆきかねるのに、なおその上、動作までが以前の通り一点一劃の違いもなく反復されるのである。

その影は薄蒼い月の光の中で伸びたり縮んだりした後、さっきのように応接間サロンの扉を閉めて鍵をかける。食堂の壁際を伝ってソロソロと料理場へ入って行くと、同じ仕方で壁を照らし上げ、手携ランプを床の上に置いてから鑿を取り出して壁を毀しはじめた……

いわば、いますんだばかりの古風な活動写真の一場面を、また初めから映し直すようなていで、見るものに、何とも形容のつかぬ異様な印象を与えるのである。一同は、現在眼に見る光景が現実のこととは信じかねるような心持で茫然と注視をつづけるばかり。真名古はと見ると、これも憑かれたように爛々と眼を光らせながう「ながう」はママ、瞬きもせずにその方を凝視みつめている。しかし、それが夢でも幻でもない証拠には、ガリガリと壁を突き壊す音が、一種陰惨な反響を伴って五人の耳朶をうつ。突き崩された壁土がサラサラと微かな音を立てて床の上に落ちる。何にしても奇妙なことが始まっている。

その音はやや暫くの間引続いていたが、ほどなくそれが止むと、壁の上に小さな空洞が出来た。その人物は多少あわてた仕方で床の上から手携ランプを取上げ、その空洞の中を照らしていたが、その中にどんなものを発見したのであろう、ややもかも会心の様子でためつすがめつした末、右手を空洞の中へ差し入れ、中なるものを取り出そうとした。

そのとたん真名古は猛烈な跳躍をして椅子の後ろから飛び出すと、一足飛びに料理場の中へ躍り込み、その手首に襲いかかって力任せに捻ぢ上げる。間髪を入れずに四銃士も一斉にそこへなだれこんで、ムラムラとその周囲をひッ包んだ。今度こそはうまく行った。怪人物はこの剽悍な円陣の中に取りこめられ、切れ切れに何か聞きとりにくいことを叫んでいる。

銃士の一人が手早く壁際のスイッチを押す。瞬間、忌々しいほどに明るい光がこの小さな料理場の中に氾濫する。

真名古の真向いに、すこし蒼ざめて、腕組みをして突っ立っているのは紛れもない正真正銘の総監。メランコリックな広い額をウッスラと汗で湿らせ、端麗な面差を許すまじき色にひきしめ、怒りと当惑と相半ばしたような表情を浮かべながら、凝然と真名古の面を注視している。

真名古の方は、これも横柄な手胡坐をかき、残忍ともいえる眼差を総監の面上に釘付けさせ、殺気満々とこれに対峙している。例えていうならば、二匹の猛虎が闘場に遭遇したような、この成行は一体どうなるか、予断を許さぬ悽愴な光景になった。

総監は癇癪を起したような声で、

「真名古君、血迷うのもいい加減にして置け。一体、僕をどうしようというんだ」

真名古はまじろぎもせずに、

「それは、先ほど申し上げました」

と、冷然と突っぱねる。

「おい、僕はてッきり気が狂ったんだと思っていたんだぜ。それで、君は正気なのか」

「正気です」

「どうも信用しにくいね。……それで、一体どんな理由で僕を逮捕しようというのか」

「松谷鶴子、並に葦高とめの殺人犯人、安南国皇帝宗竜王に対する誘拐監禁、強盗未遂及び家宅侵入」

総監は笑止に堪えぬといったようすで、殊さららしい苦笑を泛べながら、

「犯罪の目的は何だね」

「皇帝の大金剛石を奪う目的と、皇帝の反対派たる李光明一派と通謀して皇帝の暗殺を間接援助する二つの目的によって」

「えらい事を考え出したもんだな。それはこの僕の地位を棒に振ってまでやる価値のあったことなのかね」

「それをしないと、あなたの地位を棒に振らなければならなかったからです」

総監は荒々しく椅子を引き寄せて掛けながら、

「これァ椿事だ。ま、ここへ掛けて充分説明を聞くことにしよう。ひとつ話して見てくれたまえ」

真名古は挑みかかるような眼つきをして、瞬間、相手を睨みすえたのち、いつもの冷酷な口調になって、

「ご請求がなくとも申し上げずには置かぬのです。……あなた方に覚えのあることなのだから、廻りッくどいことは必要ない。単刀直入に手ッ取早く申しましょう。……あなたは以前、松谷鶴子と何か然るべき秘密関係がおありになった。そののっぴきならぬ証拠を岩井通保に握られている。あなた御自身の複雑な閨閥関係もあり、極度にスキャンダルを恐れられる性情から、いやでもこの岩井の申出を承諾しなければならなかったのです。……最初は鶴子を殺害される意志などはなく、岩井のために大金剛石を窃取するだけの目的だったのですが、計らずもあんな羽目になったので、その犯行を糊塗するため、皇帝が鶴子を殺害して逃亡したように見せかけようと計画し、勝手用の階段から鶴子の家の料理場に入り、生乾きの壁に凭れてひそんでいると、うまい工合に王様が化粧室へ入って来られたので、職権をもって王様を裏口から連れ出し、階段の下でクロロフォルムを使用して昏酔させ、以前来た如くに御乗用のロオド・スタアで警視庁の附近まで帰られた。……しかし、一旦そうしたものの、考えて見ればこれでは却って事件を大きくするようなものだから、皇帝の犯行を隠秘するという名目でこれを自殺事件として取扱うことを発議された。つまり、それで一段落ついたところで、どこからとなく皇帝を帰してよこす筋書だった。……当局ではてッきり皇帝が鶴子を殺害したものとばかし思っていたのだから、あなたの発案に異議なく加担し、そこで急遽犯行現場の整備をすることになった。ところがあなたの計画に対して、この真名古ははなはだ迷惑な存在だ。私があなたによって今朝の現場整備から除外されたのは、こういう理由によることだったのです」

「なかなか非凡だね。大した想像力だ」

「まア、もう少しお聞き下さい。まだ後があるのです。……ところで、一方岩井の方は、大金剛石だけですませるつもりはない。李光明一派の莫大な報酬を手に入れるつもりで、例の、皇帝を日本官憲の手にかけさせるという、あの条件の方もやらせようとあなたを威迫した。……こうまでなると、あなたも深入りしたことを後悔せずにはいられない。あなたは断乎とそれを拒絶なさったのです。……こういう悶着をしているうちに、思いがけない手違いで、意外にも私が局長秘書から現場調査の命令を受けたことを知った。あなたは狼狽なさって、私の調査を玄関の間にだけ制限するために、私の先廻りをして有明荘に行、応接間へ入る扉に封印シレをなさった。いかに真名古でもこれだけは破るまいとお考えになったのです。……ところが、これもまた命運の然らしむるところだった、私は有明荘へ出かける途中で林謹直に逢い、私が今朝の現場整備から除外されたこと、従ってこの整備には何か裏があると感づいたのでした。……あなたもお認めのように、元来狷介な私のことでありますから、もちろん、そういう不当アンジュスティスにノメノメと屈するわけはない。職を賭してもこの真相を摘発して見せるつもりで、その場で辞職願を認めて懐中し、いわば、確固たる精神で有明荘に赴いたのです。……そういう私の前に封印シレなどは物の数でもない。たちまち押破って侵入しました」

「早まったことをしたもんだ。何にしても常態ではないね」真名古は耳も藉さず、

「さて、現場に当って精細に調査いたしますと、王様が鶴子を殺したとすべき根拠は少しも見当りません。いや一々の情況が鶴子を殺したのは王様でないということを立証するのです。……現場のさまざまな状態については、すでに度々申し上げましたからここでは繰り返しませんが、当夜、縫子の花が目撃したという人物、すなわち、毬栗頭の腕にキラキラ光るものを巻きつけていた人物、料理場の生乾きの壁の上に、官服の寸法と剣帯の鋳型彫クリシュを、その下に床に一二・〇〇のプリンストン型の靴痕を残した人物、玄関の間の壁の上に袖章による三本の掻き傷と金モールの微少片を残したその人物が真犯人だということが明瞭になりました。……このように王様が鶴子を殺したのではないということが明々白々なのに、殊更に王様を犯人としなければならぬ目的は何辺なへんにあるのかと考えて見た。いうまでもない、何者かが自己の犯行を王様に転嫁しようと企てたのだということが判る。……方法に至っては至極簡単です。一旦王様に濡れ衣を着せて置いて、そのあとでそれを払い戻す、いわゆる交互計算というやつです。……すると、この法律的すりかえによって利益を受けるものはだれだろう。いうまでもない充分に可視さるべき種々の情況を殊更に回避して、現場を自殺事件に整備したその人でなければならぬ。……しかし、その時はあなたが最初の発議者だったということを知らなかったので、それが一体何人か私にも見当がつかなかった。……ところが、そのうちに、鶴子の衣裳戸棚の曳出しの下着の間から、あなたの御愛用の獅子頭のパイプを発見しました。現場を自殺事件に整備するだけなら、下着の入った曳出しを掻き廻すなんてことは全然不必要です。これによってその当人は整備とは全然別な目的でこの現場をひッ掻廻したという事が判りました。……そこで、私はその人物が何を捜すために奔走していたのかその目的の追及に移った。……この方も大して骨は折れませんでした。同じ衣裳戸棚の中から王様のチョッキが発見され、その内側のポケットに、ロゼット型の金剛石が長い間隠されていたことが了解されたのです。のみならず、チョッキが所在していた状態によって、数週間前からすでに金剛石がそこにいれられていなかったことも了解しました。なぜなら、その曳出しは鍵がかからないのだから、そんな場所に金剛石を隠したチョッキなどを放置しておく筈はないからです。金剛石はどこか他の場所へ隠されている。一体それはどこだろう。……すぐ気がついたのは、あなたがいま壊されたこの壁です。金剛石はここに隠されている。……その壁を見ると、明らかにこういうことに経験のない素人の手で塗られたものだということが一目瞭然だからです。事実、その後出入の左官屋へ行って取調べますと、大急ぎに急がされて壁土の鏝だけは持って来たが、手が廻りかねて、とうとう大晦日の夜は修繕に来られなかったということでした。……それにしても、金剛石を追及していたその人物が、いわば壁一重のところへ凭れてまるッきり気がつかなかったというのは、やはり天の配剤とでも申すべきでしょうよ。何しろ相当皮肉なことでした」

と、言って、これも相当皮肉な微笑を泛べながら、

「すこし興に乗ってしゃべりすぎたような傾向ですが、大体そういったようなわけで、われわれはこうして、午後からここに坐り込んで、獅子頭のパイプの持主がここへ現われるのをお待ち受けしていたのです。その人に対する愛敬アマピリテとしても、こうする方が至当だと考えたからです。それに……」

総監は真名古の長広舌を慎重に聴取していたが、手を挙げて真名古を遮り、

「実に驚嘆すべき頭脳だ。何ではあれ、その点については敬服するより他はない。……真名古君、どうもあまり見事な推理で、出来るなら君の意見に服したいような誘惑を感じるほどだ。君の秀抜な到達に反対しなければならぬのは大変遺憾に思うのだが、犯行があったと思惟される四時十分から四時卅分ぐらいまでの時間には、僕は向島から押上の辺をドライヴしていた」

真名古は突刺すような眼つきで総監を見下ろしながら、

「それはあなたではありません。岩井通保です。岩井があなたと同じ服装をして、あなたの代りに巡視していたのです」

総監は飽気にとられたように、

「ほほう、どういう目的で?」

「あなたのアリバイを作る目的で!」

総監は口を噤んで何か考え込んでいたが、不思議でたまらぬといったふうに真名古の顔を見上げながら、

「真名古君、たしかに君はどうかしている。ねえ、君、そういう考え方はすこし奇抜だとは思わんかね。……岩井がそれほど巧妙に僕の代役をやってのけられるんなら、金剛石の方も何も僕などを煩わさずに自分自身でやれそうなもんじゃないか。君は向島を巡視したのが岩井で、有明荘へ現われたのが僕だと断定しているが、なぜそれを反対だと考えてはいけないのか」

「その逆理パラドックスが成立しないわけは、あなたの犯行を目撃した確実な証人がいるからです」

「可能的類似といったものだったのだね」

「どうして、唯一の真実在でした」

総監はまた癇癪を起しそうな顔になって、

「君のいう証人というのは、有明荘の崖下に住んでいる花という娘のことだろうが、君の話では、その娘は犯人について、毬栗頭で、腕にキラキラ光るものを巻きつけていたとだけしかいっていない」

真名古はユラリと一歩前に進み出て、

「この真名古がそんな迂濶なことで軽々に犯人を断ずるようなことがありましょうか。さっき警視庁の中庭で、ピストルを発射して窓から突出されたその者の顔を、花に首実験させて「首実験させて」はママあります」

「花は何といったね」

「あの男に相違ないと申しました。つまり、それはあなただったのです」

「するとその花という娘は、特別な霊活な眼を持っているのだと見えるね。中庭から三階の総監室までは非常に高いのだが、どうして前夜の犯人と僕が同一人物だと指摘することが出来たのだろう」

「崖下の花の窓から有明荘の玄関の窓までの高さと、警視庁の中庭から総監室の窓までは同じ高さです。二つの場合の条件は等しいのです」

「さよう、二つの場合とも同様に、正確に物像を見得まいということだ。有明荘の玄関では、犯人が鶴子を投げ出す時、電燈はバック・ライトになっていた筈だが、花は何の光によって犯人の顔を見たのかね」

「後ろの光と月の光の両方です。その時、月の光が有明荘の窓に当っていました」

「ところが、君が僕の首実験を「首実験を」はママした時、総監室の窓には月の光は当っていなかった。……それなのに花はあれが犯人だと断定したのだね。そして、それが僕を犯人だとする君の論理の実体シュジェになっている。……真名古君、これは一体どうしたもんだろう。僕はさっきから訝しくてたまらぬのだ。君ともあろう人が、あんなとりとめない娘ッ子の証言にそんなにまで重点を置くというのが、僕にはどうしても納得がゆかん。まるで人が違ってしまったように見えるぜ。真名古という人間は、かつて一度もそんな偶然性アクシデンテなんか信用しない男だった。それなのに、今度はあんな赤ン坊の片言に首ッたけになって、見当違いな大騒ぎをやらかしている。……あの娘ッ子に盲目的な信仰ファナティスムを捧げるようになったのは、そもそもどんな機因によることなんだね。……もしかしたら君は、あの娘ッ子に……」

真名古の眼に火がついたようになった。頬の筋肉をビクビクと顫わせ、両方の拳を威嚇するように総監の方へ突き出すと、激しく足踏みをしながら、つんざくように叫び出した。

「もう、たくさんだ! え、え、総監、なぜ娘ッ子なんて言うんです。どういう根拠でとりとめないなんていうんです。だいいち、あなたはあの娘を見たことさえないじゃありませんか。私の見たところでは、とりとめないなんてとこは少しもなかった。それどころか、あの娘は一種特別な知性を持っているんです。少なくとも完全な白紙タブラ・ラサでものを見る力を持っている。……え、総監、月の光がどうしたというんです。だれもあなたの顔の皺まで見たとはいってやしない。またその必要もないのです。あなたを識別しようと思ったら、その突兀たる毬栗頭と、一種独特な慇懃な猫背を見るだけで充分なんだ。不幸にしてあなたは下らない特徴を身につけていられる。いつも背中へ物を載っけているような奇妙な姿勢と、膝の下まで届くその長い腕をひと目見たら、一生忘れることなんざありゃしない。千人の中からだって探し出せるんです。……あの娘は明視距離に於てはっきりとあなたの特性を認識し、あれが犯人だと指定セットゼンした。真であろうと信ぜしむるにたる程度において、疎明の度合を明らかにしてくれたのです。これが何が不服なんです。あの娘の証言に重点を置いてならぬという理由はどこにあるんです。強がりをいうつもりなんですか。それとも無理に私に腹を立てさせようというんですか。なんであれ、あなたにあの娘を理由なく侮辱する権利はないんです。いいですか。あの娘を、あの娘を……」

ひどい発揚状態になって、眼尻を額まで釣り上げ、昂奮のあまり絶句したままブルブル身体を顫わせながら総監を睨みつけている。

まさに晴天の霹靂といった工合。冷静の象徴サムボルのような真名古を、何がこれほどまでに激発させたのか。総監はもとより、四銃士の面々も呆気にとられて、唖然と真名古の面を見戍みまもるばかり。

総監はマジマジと真名古の顔をふり仰いでいたが、むしろ宥めるような口調で、

「おい真名古君、どうしたんだ」

というと、真名古は今度は度を失ったようにあわてて眼を外らしながら、

「別にどうしもしません「どうしもしません」はママ」

と、あるかなきかの声で呟くと、幽鬼のような蒼ざめた頬をサッと紅潮させ、さながら処女のごとくにさしうつむいてしまった。

しかし、それも一瞬ほどの間で、まもなく依然たる狷介な面持にかえると、

「要するに、しちくどくいい廻す必要はありません。二人の総監のうち、有明荘へ現われたのは決して岩井ではなかった。なぜというに身長を除くほか、岩井は犯人の特徴に少しの類似性も持っていないからです。曲った背中も持っていなければ、毬栗頭でなんぞありはしない。手入れの届いた美しい髪をもっています。……どうです、総監、これでもまだ抗弁の余地がおありになるのですか」

いよいよもってドタン場に押しつめられたと思うのに、総監は屈する模様もなく、

「岩井でないというんなら、だれか他の人物だったのだろう。はなはだ遺憾に存ずるのだがねえ、たとえ君が何といったって、僕は有明荘になどいっていないんだぜ。さっきもいったように、その時間には僕は大川端を漫走していた。……真名古君、ちょっと伺うがね、一日の午前四時ごろ深川へんを通っていた総監について、君はどういう報告を受取っているのだね」

「極めて総監らしき人物が、自家用の七十八号のロオド・スタアを運転して、江東から押上のへんを相当の速度で通過したという報告です」

「なぜ、らしいなどというのだね」

「歳晩警戒員に対する総監の慰労巡視としては、はなはだ腑に落ちぬ行動だったからです。ふつうあるが如くに、主要なポストで車を停めて、慰労の言葉を賜るようなことが一度もなかった。いわば逃げるが如くに通過されたので、警戒員は敬礼する隙さえなかったといっています。訝しいというほかはないのですな」

「成程、それはそれとして、どうかもう一つ質問を許してくれたまえ。その時、僕は官服を着ていたというのかね」

「左様」

「これは不思議な話になった。君が納得するとしないは別問題として、ともかくくわしく当時の実状を述べて見よう。……だいいち、そのとき僕は官服などは着ていなかった。タキシードを着ていた。のみならず、僕は幌の奥へすっ込んでいて、外部から姿の見えるところに乗ってはいなかった。それなのに官服を着た僕が運転したといっている。要するに警戒員の諸君は僕を見てはいないのだ。……真名古君、君が受取った報告なるものはこんなアヤフヤなものだったんだ。……この辺の事情を了解して貰うために、その夜の僕の行動を説明すると、大体においてこんな工合だった。僕はあの晩英国大使館の忘年会へ行って、そこに三時半までいた。三時半を打つと、僕は横浜に碇泊しているイギリス巡洋艦の「ウェールス号」へ帰る、ジェームス・クリーヴランドという海軍少佐を横浜まで送るつもりで、僕の車に乗せて大使館を出た。この男は僕の留学時代の友人で、僕が大使館へ行ったのも、十五年ぶりでその男に逢うためだった。そいつはひどく日本趣味な男で、永井荷風や、小山内薫の小説を耽読して、かねて古い東京の風物に憧憬を持っている。最後のランチの時間は五時十分で、まだ充分時間があるから、ひとつこの機会に大川端の夜景を見せて貰えまいかという。よかろうということになって、その男に気儘に運転させて橋場から真崎稲荷へゆき、押上から本所小梅、また戻って柳島の妙見堂のあたりを、幾度も行きつ戻りつして充分に大川筋をたんのうさせ、それから京浜国道を通って横浜の波止場まで送って行ってやった。つまり、警戒員諸君が目撃したのはこの僕じゃなくって、海軍士官の軍服だったのだね。これが実状だ」

「で、その巡洋艦はまだ横浜に碇泊しておりますか」

総監の眉の間をチラと暗い翳がよぎった。それに拘らず、総監はシッカリした口調で、

「ウェールス号は昨日の午前六時に香港へ向けて出帆した」

それを聞くと真名古は、何ともいえぬ酷薄な徴笑を泛べながら、

「総監、早速ウェールス号へ無電を打って問い合わせて見ましょうか。……いや、その必要はありますまい。あなたは現在こうして有明荘にいられるのだから、いかなる弁明も無益です。かりにあなたの弁解を認めるとしても、では、この夜陰に、あなたは一体どういう目的で単身こんなところへ忍んでおいでになったのです。なぜ露台なぞを攀登よぢのぼって来られたんです。しかも今夜の如きは、危険にも屈せず二度までも侵入していらした。此処に何か非常に重大な御用件がおありになるものと見えますな」

総監は自分の耳を疑うように、

「僕が二度もやって来たって?……いったい、何時と何時に?」

「つい廿分前と、それから今と」

「ほほう、いよいよもって非凡だね。……すると、ここにいるのは僕自身なのか、それとも僕の幽霊なのか。僕の不可分性インディヴィジビリテというものは、すこぶる信用の置けぬことになった」

「総監、私はあなたの冗談を伺うためにこんなところに突ッ立っているのではありません。私の質問にお答え願います。…………あなたはなぜこんなところへ忍んでおいでになったのですか」

総監は自若たる態度で、

「何しに来たと思うのだね」

真名古は挑みかかるような眼つきで総監を睨みつけながら、

「あなたがいわれぬなら、私が代って申しましょう」

と、壁の上にポッカリと口を開けている空洞を指差し、

「あなたは、あの壁の穴の中にある皇帝の大金剛石を取りにいらしたのです」

総監は眼を伏せて愁然と何か考え耽る様子だったが、やがて静かに顔を上げると、憐れむに耐えたといった面持で真名古の面をふり仰ぎながら、

「真名古君、僕には、君のこの恐るべき誤謬が一体何によって惹起されたか非常によく判るのだ。ある微妙な動機がすっかり君の思弁力を奪ってしまった。そのために、これほども単純な事柄を見誤ることになったのだね。その点たいへん気の毒に思う。……君ほどの人がこんなひどい間違いをするなんて! 実際ありうることとも思えない。……ああ、しかし、それは君のせいではない。いわば運命の諧謔といったようなもんだからね。……真名古君、君はもう気がついているか? 一体どんな情緒が君にこんなひどい失敗をさせたか」

真名古は答えなかった。

総監は低い溜息をひとつして、

「しかし、今さらこんなことをグズグズいったって仕様がない。君の独断に拘らず、あの壁の穴の中に隠されているものはダイヤモンドなんてものじゃないんだ。それをお目にかけよう」

と、いって立上ると、壁の方に近づいて空洞の中へ手を差し入れる。その中から引出されたものは、赤い封蝋で物々しく五カ所に封印された、一目で公文書と判る大きな角封筒だった。

総監はそれを手に持って真名古の方に近寄って来ると、

「真名古君、僕が探していたのは、こういうものだった。有明荘やホテルばかりではない。およそ皇帝が立廻られたと思うところは残るくまなく探し廻っていたのだ。……これが僕の手に入った以上、もう打明けても差支えないと思うが、これは一九三二年に日本政府と安南皇帝個人の間に取交されたある重大な議定書プロトコールで、この条約は一九三四年の一月から効力を発生することになっていた。ところが、その後聯盟脱退やその他の事情によって、国際間の接触面に非常な変化が起き、日本政府としてはこの条約を実行することが不可能になった。一言でいえば、この条約を発表されると日本は非常な危険に曝されることになるのだが、これを廃棄すべき措辞エクスキュウズがないので、政府の最高機関は非常に憂慮していた。その後種々折衝の末、相互の間にある諒解が成り立ち、今日、すなわち一九三四年一月二日の午前十時の会見で、ある条件の下にこの条約は破棄されることに決定したのだ。ところが、その一日前に計らずもこの事件が起き、いつなん時この条約文が人手に渡らんとも予知し難いことになった。これは政府の最高方針の機密で、諜報関係さえ知らぬほどの重大な条約なんだから、万一にも破棄前にこれが親仏派の李光明一派や、反日スパイ団の手にでも入るようなことになれば、実に由々しい問題が起る。僕が政府の最高機関から特別命令を受けて、単独でこんな秘密捜査をやっていたのは、実はこういうわけだった。……なぜ、僕が発議してこれを自殺事件に縮小化しようとしたか、なぜ有明荘の現場整備から特に君を除外したか、また、何故現場の立入禁止をしたか、これだけ説明したら君ももう諒解してくれたろう。もっとも、これについては遠廻しだが、すでに君に漏らした。昨日の午後、局長と鼎座の席で、この現場整備から君を除外したのは、君の敏腕を懼れるからだといった。この事件の裏に、辛辣な君に触れて貰いたくない政府の機密がひそんでいるということを、あの時それとなく仄めかしたつもりだったんだが、君は覚ってくれなかった」

真名古は一種茫漠たる表情を泛べながら穴の明かんばかりに総監の面を注視していたが、この時、脱兎のように総監の方へ駆け寄ってツイとその封筒を取上げ、痙攣ったような指先で封を切りにかかった。

総監は満面に朱を注いで、

「莫迦、何をする!」

と、叫びながら真名古に躍りかかって激しくその手首を打ち据え、もぎとるようにして封筒を奪い返すと、力一杯に壁の方へ突き飛ばした。

真名古はヨロヨロと壁際までよろけて行き、床の上に置かれてあった、壁土を入れた木箱の縁に足をとられて、みじめな恰好でその中へ尻餅をついた。

ところで、真名古が尻餅をついた木箱の中に、小さな一枚の紙片が落ちていた。ミシンの穴のある、明らかにメモから切取ったと思われるその紙片が二つ折になって、ちょうど白い蝶のようなようすで壁土の上に羽根を休めている。真名古が調査に来た時にはもちろんこんな紙片などはこの中になかった。四銃士にはどんなことがあってもこの料理場の中へ踏込んではならぬと厳重に言い渡してあったのだから、すると、この紙片は、ついさっきの二度の活劇の立役のポケットから落ちたものと思うほかはない。

喜劇的な恰好で壁土の中へ尻を埋めたまま、真名古はその紙片を拾い上げて折目をひらく。その紙片には殊さららしい稚拙な文字で、こんな奇抜なことが記されてあった。

いよいよヤル長命寺ギワ総監さま

さながら脳膜炎の子供の手紙のようだが、つらつら案ずるところ、この文章は何かはなはだ穏かならん意味を伝えているように思われる。これを逐字訳すると、向島の長命寺の附近で、又しても何か兇悪な事件が惹き起されようとしているととれるのである。

真名古はその名文をチラと一瞥すると、何気ない体でそれを掌の中で握りつぶし、静かに壁土の中から腰を立てると、悠々と扉口の方へ歩いて行く。出て行くのかと思いの外、急にそこでクルリと廻れ右して総監の方へ向き直り、例の冷執陰険な面つきで、こんな事をいった。

「総監、戦争はまだ終っていません。フランス大使が東京駅に到着するのは四時十五分。あとまだ四十分あります。あなたが勝つか、私が勝つか。その結果こそは刮目に価するというべきでしょう」

そういって軽く一揖すると、今度こそ本当に出て行った。唖然たる総監と四銃士を後に残して。

作者は名文のおみちびきに従って、これから真名古を向島に急行させる。そこではそもそもいかなる事件が起ろうというのか、それについて知られんとするならば、次なる章をお読み取り願いたい。

三十八、馥郁たる香気の事    並に時計台の首吊人の事

「月を待乳の山に望み、風白髭しらひげの森を渡る」とはむかしの話。夜空に聳え立つ橋場のガスタンク、綾瀬の岸には亭々たる鐘紡の煙突。頭をめぐらして奥山の方を眺めると、炎々たるネオン・ライトが雲を灼き、さながら河向うの火事のよう。風流を大川端の名にのみとどめ、月にも雪にも何の風情も増さばこそ、至って無味殺風景な工場地帯。とりわけ震災の後はなかなかに立ち揃わず、言問から橋場、小梅へかけて、至るところに歯の抜けたような空地がある。

これもその一つ、もとはさる酒造会社の工場があったのが震災で跡形もなくなり、粗末な海鼠なまこ板で囲った囲地の中は、赤錆の鉄線やら煉瓦の堆積やら、足ぶみもならぬほど押重なって、おどろおどろしい廃頽のさまを示しながら、ずっと長命寺の地境までつづいている。

土堤下の遠いところを、夜番の拍子木がカチカチ、嚔くしゃみ一つして通り過ぎた後は夜気沈々、聞こえるものは折柄の上潮がヒタヒタと岸を打つ音ばかり。

あたかもこのころ、言問橋の方から疾駆して来た一台の自動車、囲地の一町ほど手前でピタリと停る。その内から降り立って来た者は誰あろう、いうまでもない、かの執着の刑吏真名古明その人であった。手真似でタクシイを帰すと、少し登りになった土手の上の道を、ソロソロと囲地の近くまでやって来て、並木の桜の幹に身を凭せ、冷々と月の光の中に立ったのである。

冴えかえる寒月は川の面に映じ、夜舟の櫓の音も凍るよう。一羽二羽、海鳥がギャアと断末魔の悲鳴のような、物凄い声を夜空に長くひく。

と、それと同じような叫び声が、通り一つ越えた海鼠なまこ塀の向うでも起った。ア、ア、ア、と尾をひいて、それがすぐ、ひいッという啜り泣きの声にかわる。

真名古はキッとその方を見込んでいたが、桜の幹から身を離すと、宙を飛ぶようにしてそっちへ駈け出す。

海鼠塀の角を道路について曲ると、そこに一間ほど塀のとぎれた個所がある。首を差し伸して見やるなれば、焼木材や切石がゴロゴロした空地の真ン中で、今しも黒い三つの影が組んずほぐれつしている。タキシードを着た一人の男を、これも礼服をつけた二人の男が左右から引ッくるんで、滅多無性に斬りつけているのである。短刀を振り上げるたびに、刃に月の光があたってキラキラと物凄く光る。

斬り立てられている方は、もう抵抗する力もつきたらしく、両手で頭を蔽って、切りつけられるたびに泳ぐようにヨロヨロと前後によろめく。ウ、ウ、ウ、とひく息ばかりになって呻きながら、必死に身を支えながら隙を見て五六歩夢中で窪地の方へ逃げ出すと、一人はすぐ引戻して頭のあたりに斬りつけ、そうして置いてもう一人の方へ手荒く突きやる。一方はすぐ受けとめて深く脇腹へ突っ通す。ちょうど振子のように二人の間を行ったり来たりしながら、ところ嫌わず斬りさいなまれている。

斬りつけている方の二人は、顔が半分隠れるほどの大きな色眼鏡をかけているので、人相は判らないが、月に向うその顔はいずれもクッキリと白く、服装も物腰も、ひと口に典雅とでもいおうふう。こういう界隈には余り見馴れぬ立派な上流紳士であって、さながらガヴォリオーの小説の場面にでもあるような、なんとも西洋臭い、一種浪曼的な情景だったのである。

文章で書けば長いが、この間、時間でいえばものの五秒ぐらいの間であったろう。真名古は海鼠塀の隙間からこれだけの事情を咄嗟に見てとると、身を翻して空地の中に躍り込み、

「待て!」

絶叫しながら、野道の茨のように道をふさいでいる赤錆びの鉄条網を跳ね越え跳ね越え、脱兎のように活劇の方と飛んで行く。

しかし、こういう際に、待て、などと声をかけるのはどう考えても可笑しい。いかに叱咜したって待つわけなどはない。真名古にしても、待てなどと叫ぶつもりはなかったのだろう。要するにやむにやまれぬ憤激が、こんな言葉になって発語されたものと思われる。

果して二人の兇漢は待ってなどいなかった。ひた走りに飛んで来る真名古の姿を見ると、かねてこういう場合の手筈が定めてあったものと見え、互いに素早い合図を交し、東と南の二タ手に分れて、ゴロゴロと錯落する切石を跳ね越えながら、巧みに逃げ延びて行く。地面の上にはそういろいろな障害物があるのに、意外な窪地があったり小山があったりするので、思うように駈けられぬ。真名古は二人から引離されて廿間ほども遅れてしまった。

空地の遙か南は長命寺の石塀で遮られ、東の方はやや広い溝川を隔てて道路に接している。二つの方向のうち、長命寺に向った方は割合平らな道なので、従って逃げ足も早く、もう塀のそばまで行きつこうとしているが、溝川の方角はさまざまな故障があると見えて、そう素早くは逃げ延びられない。真名古はインバネスの袖をヒラヒラと翻しながら、冥府の大鴉とでもいったような異様な恰好で、懸命にこっちの方を追いかけて行く。

真名古の足が追々調子づいて速力が早くなるのにひきかえ、怪人物の方は次第に駈け悩むふうで、二人の距離はだんだんに縮まってゆく、地面の悪条件のせいばかりではないらしい。どうやら足に負傷しているのらしく、跛をひきながら駆けているのがはっきりと判るところまで迫って来た。

五間、三間、一間、……その先はすぐ広い溝川の岸である。怪人物はとうとうその岸まで追いつめられて、早や進退窮してしまった。

真名古は、

「畜生!」

と叫ぶと、密林の豹のような猛烈な跳躍をしながら、猿臂を伸して怪人物の襟首に飛びつく。真名古の右手が濡羽のようなその男の髪の毛をシッカリと引ッ掴んだ、瞬間、タキシードの人物は長身を利用して二間ほどの幅の溝川をヒラリと飛び越えた。

真名古の手先には急に手応えがなくなり、はずみを喰らって髪の毛を引ッ掴んだまま、かなり窪地の底へモンドリ打ってころがり落ちた。シッカリと掴んだあの頭が、どういう術をもって真名古の手からすり抜けて行ったのだろう。真名古の手の中には、今もその髪の束がしっかりと握られてある。……見るとそれは生毛ではなかった。オールバックに撫でつけられた、精巧な鬘だったのである。

真名古は歯噛みをしながら窪地から這い上り、溝川の向うを眺めやるなれば、ああ、見よ見よ、薄月の光の中をタキシードを着た青道心が転ぶように逃げて行く。のみならず、その窪地のあたりには世にも妙なる香気が、そこはかとなく漂っていたのであった。

例えていうならば、春の花園の薔薇の息吹とでも申しましょうか。なんとも馥郁たる薫香がプンと真名古の鼻をうった。その匂いこそはついさっき、第一回目の総監の登場の節、有明荘の鶴子の食堂の闇の中に、漂う如くに匂って来たあの香気だった。

唖然としている真名古の顔に月がさす。その顔というものは、世にあるまじき奇妙なもので、一口につづめていおうなら、瞋恚と絶望と哀愁とが各三分の一ぐらいずつ入り交ったるが如き、複雑極まる表情を泛べていたのである。

いや、実際、この百倍の誇張を用いても、この時の真名古の心情を充分に形容することは困難であろう。切磋骨を刻むが如き努力の成果と、金剛不壊の真名古の信念は、こういう恍けた二つの現象によって、今やガラガラと音を立てて崩壊してしまったのである。

図らざりき、ここに、毬栗頭が二つあった。その一つはオールバックの下に鄭重に隠され、仏蘭西巴里はゲラン会社製の「花の夢レエヴドフルウル」というが如き高尚なる香水で扮飾した優なる毬栗頭であって、自からあの突兀たる総監のそれとは全然別な品質キャラクテールであった。

片手に奇抜なる鬘を引っ下げたまま、腑ぬけのように茫乎と空を仰いでいるというのは、事態かくの如きであるならば、真名古ほどの冷理冷血な人間にとってもまた実に止むを得ぬことであったろう。

この時の真名古の心情を察すれば、迂濶なる作者といえども、いささか同情の涙を禁じ得ないのである。最初の計画では、作者は真名古をこんなひどい目に逢わせるつもりはなかった。少なくとも、こんな惨めな失敗をさせようとは思ってもいなかった。然るに、小説中の人物は、相寄り相援けて自からなる飛躍をつづけ、とうとう真名古をこんな羽目に突き入れてしまった。

それにしても、真名古はどうしてこんなひどい失敗をするようになったのだろう。総監の服を着た人物が、東京の中央と東部に同時に出現したという、あのホフマンふうな事件が起きた時、昨日の朝有明荘に現われたものの方が総監の模造品イミテイションだとすべきであった。少なくとも観念の中から毬栗頭を控除するか、毬栗頭というものの素質について、もっと充分に研究すべきであった。それなのに真名古は、ただの一度もこの点に懐疑を持つようなことはなかった。真名古ほどの人間が、これほどの単純なことにどうして気がつかなかったかといえば、すでに総監も喝破したように、それはやるせない恋アムールがさせたわざだったのである。

論理を情緒の軌道に乗せて突ッ走らせることは、たいていの場合誤ちを起し易いものだ。そして、凡百の場合がそうであるように、この場合もそうであった。

犯人は毬栗頭であったと語った花子の唇はいかにも愛らしく、その声は余りにも美しかったので、真名古の固苦しい心情はいつの間にかたいへんに感じ易くなり、知らず知らずにその証言に盲目的な信仰ファナティスムを懐くようになり、その中にすっぽりと顎まで嵌まり込んで、あえてうっとりとしているのだった。

花子が、真名古ほどの頑固な心をもとりとめなくさせるほど美しかったということには、格別異存はないが、真名古がそれに心をひかされたことに文句があるのである。のみならず、何よりも弱ったことは、真名古自身が一向それに気がついていないということだった。自分の胸の中でモヤモヤする感情を、何と名づくべきか、それさえも知らなかった。だから、事件の真相を追及するよりも、あの美しい唇から語られた証言に辻褄を合わせ、なんとかしてあの娘に花を持たせようと、もっぱらそのためにばかり努力している奇妙な自分のやり方に気がつくはずもなかったのである。

警視庁の歴史が始まって以来、真名古ほどの俊秀な頭脳はなかった。知性において立ち優っているばかりでなく、その心情は、何人よりも烈しく不正を憎む、渇くが如き精神によって満されていた。

蕭々たる半夜、孤影凝然と机に倚って、倦むことなく犯罪学クリミノロジイの研鑚に従っている真名古の姿こそは、不義不正とあくなき闘争を続ける果敢なる精神の象徴であった。

この十数年の間、真名古は実によく戦った。官吏の生活の中には、捕捉し難い一種の腐蝕性があって、勇気のある魂がいつの間にかつぎつぎに妥協させられ腐らされて行くうちに、毅然たる真名古の精神だけがよくそれに対抗して、かつて一度も屈することがなかった。かりに不正とあるからは、たとえ上長であろうと仮借なく摘発して、検察官たるの本分を完うして来た。

その真名古が失敗した。風に戦く一輪の野の花のような、あえかにも優しい情緒に心をときめかしたばかりに惨敗を喫してしまった。何がこんな惨めな失敗をさせたか、今となっては真名古自身もつくづくと覚り得たであろう。

真名古は窪地の縁に腰をおろすと、急に老い込んだようになってガックリと首を垂れてしまった。真名古の肩の上に霜がおりる。見るものに涙を催させるほどの憐れ深い趣きがあった。

暫くの間そんなふうにしていたが、やがて、モゾモゾと内懐を探って一葉の写真を取り出した。だれの写真だと思います。あの美しい縫子の花の写真だった。

花は庭園の絵を背景にして、房の下った古風な椅子の上に、少し固くなって掛けている。なるほど稀れに見る美少女である。趣きのある唇、ハッキリと見ひらかれた情味のある眼。その一つ一つに処女の純潔と素朴さがはっきりと示されていて、この世の汚れに染まぬよう、つつましく身を持してきたことが感じられるのである。

真名古はそれを月の光にかざしながら、吸いとるような眼つきで眺め始める。これが真名古を失敗させた当人だ。しかし、真名古の眼差の中には、怨むような色も憤りの翳もさしてはいない。ただたいへんに悲しげである。眉根を皺めるような真似をしたと思うと、真名古の頬の上に涙のすじが伝わった。検察の事務のために精も根も使いはたし、まるで骸骨のように痩せ細ってしまったこの恐ろしげな初老の探偵は、いま一体何を考えているのだろう。

真名古は写真を鄭重に内懐におさめる。服の上からそれを胸におしつけて、夢見るような眼つきをする。このしなびた頬が涙のあとをつけたまま、純真な少年のそれのように生々と輝き出すのだった。そういう表情を泛べたまま静かに立上って、毛束を手にぶらさげたまま以前格闘のあった場所へ引返して行く。

乏しい草と切石の荒地の上に一人の人物が横たわっている。その人物は一種異国風な雰囲気を身につけてこの小説中へ登場して来た、「ホヴァス」通信員、日仏混血児のジョン・ハッチソンだった。

傷口から息が洩れるかして、呻くたびにヒイヒイと篠笛のような音をたてる。カッと見ひらいた左の眼玉の上に、深沈たる夜気を映して、儚ないようすで倒れている。

シャツは血でずぶ濡れになり、服は荒布のようになって、その端がヒラヒラと風に戦いている。ああ、その顔! 右の耳の下から唇の端まで斬り裂かれた傷が、アングリと口を開け、歯列がゾロリと奥歯のへんまで白く剥き出されている。右の眼玉は抉り取られ、空洞になった眼窩には、タップリと血潮が湛えられ、そこから流れ出した余沫が、口から溢れ出る血と合流して首筋の方へ滴り落ちている。腕も手も胸も無惨なまでに斬り刻まれ、その傷口が入り交って、そこに何か不思議な模様でも書いたような奇妙な印象を与える。

真名古は憮然としたようすで、突っ立ったままそれを見下ろしていたが、インバネスの裾をまくってハッチソンの顔の傍にドッカリと胡坐をかくと、しみじみとした声で、

「おい、ハッチソン、真名古が来た」

といった。月の光の中で、ハッチソンの白眼がギョロリとこちらを向く。見る見るそこからおびただしい涙が溢れ出して来た。

「おい、ハッチソン、これじゃア助からないな」

ハッチソンは微かに頷いた。真名古はハッチソンの手を握り、それを自分の胸のあたりへ引きよせるようにしながら、

「何かいい遺したいことはないか。俺はこれから失踪する身分だから、あまりくどいことは引受けられないが、手に合うことだったらやってやる」

真名古がそういうと、ハッチソンはしゃっくりをするように咽喉の奥を鳴らし、

「……く、や、し、い……」

と、破れた鞴ふいごのような声を出す。

真名古はニンガリと苦笑しながら、

「愚痴だよ」

ハッチソンは顫える指先を上げて二人が逃げていった方向を指しながら、

「あ、い、つ、を……」

「それも愚痴だ。……トコトンまでやられたら、男ってえものは愚痴をいわないもんだ」

ハッチソンが頷く。苦笑するつもりなのか、唇の端を皺めにかかると、下顎がパックリと外れたようになって、そこから妙な音が洩れる。自分の手で下顎を押しあげるようにしながら、

「も、っと、こッ、ち、へ……」

真名古は片膝を立てて、左手でハッチソンを抱くようにしながらその口元へ耳を持って行く。喘息病が発作を起したように咽喉をゼイゼイいわせながら、ハッチソンが喘ぎあえぎ何事かささやき出す。

長い間ハッチソンは囁きつづける。真名古は頷きながらきいている。一体どんな秘密が真名古の耳に囁かれたのか、もちろん聞きとるよしはなかったが、しかし真名古の表情が一向に変化しないところを見ると、この臨終の陳述も、今となっては真名古にとってさして意外な事柄ではなかったものと思われる。

ハッチソンの途切れ途切れな呟き声がだんだん間遠になる。眼の中の光がぼんやりとして来て、追々に引く息ばかりになり、痙攣のような烈しい身顫いを一つすると、見る見る相恰が変って行って、死人に共通した、トホンとした間の抜けた顔になってしまった。

「おい、ハッチソン」

もう返事はなかった。

長命寺の鐘がボーン。火の見櫓の上に、いつも新派悲劇の幕切に見るあの新月が。

この時戛々と靴音も高く、こなたに近づき来たる一個の人物あり、これぞ夜を警いましめる警察官であった。例の塀の隙間のところまで通りかかって、フト頭を回らしてこの情景を眺めると、ギョッとしたようすで一二歩後えに瞠若したが、すぐ、佩剣の柄を握って、

「そこにいるのは誰だ」

と励声一番誰何すいかすると、たじろぐ色もなく真名古の方に走り寄って来る。真名古は凝然と身動きもしない。

走り寄って来た警官は、咄嗟の間にこの場の成行を察すると、手を伸して真名古の襟首を掴む。その手首には早や捕繩が巻きつけられてあった。

真名古は顔をあげて警察官の面をふり仰ぐと、

「御苦労。……こんな事件が起きてしまって」

市郡の警察官にとって、真名古は一種の憧憬的人物である。若い教習所の警官などは、その風貌に接するだけですっかり感激してしまう。真名古の顔を見るとその警官はたちまち度を失って、あわてて直立不動の姿勢をとると、

「真名古課長!」

「いま僕が報告書を書くから、至急電話で本庁に通達してくれたまえ。どんなことがあっても四時前に報告を終えねばならん非常事件だから。……時に今何時だ」

いそがしく懐中時計の文字盤を読んで、

「四時五分前でございます」

「あと廿分か。まだ間に合う。燈を貸してくれ」

懐中電燈を取り出して真名古の手元を照らしかけながら、感激で身体を顫わせながら、

「課長、……光栄でございます。課長とは存ぜずにうろたえたところをお目にかけましたが、……自分は小梅署に在勤いたします安藤……」

真名古はジロリと一睨みをくれて、

「うるさいから、黙れ」

懐中から手帳を取出して、手早く三行ばかりの文字を書きつけると、これを警官に手渡す。

「報告が終えたら、またここへ戻って来い。……さア、走れ!」

ハッといって、咄嗟に身をひるがえし、飛ぶように駆け去った。

真名古はそのあとを見送ると、また手帳を膝の上へひろげて、悠々と何事かをしたため始めた。時々息で指先を暖めながら、懐中電燈の光で、刻むような克明な文字を書きつけて行く。月はいよいよ物凄く冴えかえり、すさまじい死屍の上にも、失意の検察官の上に、石ころにも雑草にも、万物平等に冷凉たる光を投げかけるのである。

牛山警視総監閣下

訣別に際して卒爾ながら一言御挨拶を述べさせて頂きます。私が検察の事務に携わりましてより指折り数うれば早や十四年、回顧いたしますれば茫乎として一瞬の夢の如くでもあります。

生来迂愚なる私如きが、今日まで大過なく職務を遂行するを得ましたのは、偏に上長各位の懇篤なる御後援と御鞭撻の賜と存じ深く感謝いたす次第です。

牛山警視総監閣下

私はこれから失踪いたします。

辞表は既にお手元に迄発送し、また口頭を以って再度その意を披瀝いたしましたが、未だそれに対する御認可を得て居りません。本来ならばその後に行動を起すべきでありましょうが、次に申し述べるような理由によって、この上一刻と雖も栄職を涜すべきでないと信じますにより、只今限り自らを捜査課長の椅子より放逐し、自らを処罰する意味に於て余生を市塵の中に埋没せしめる決心なのであります。その理由とは、私の性情が検察官たるに相応しくないということを発見したからであります。いな、この如き薄弱なる性格をもつものは検察官として絶対に拒否せられるべきであると自覚するに至ったからであります。

牛山警視総監閣下

思うに検察の事務たるや、法律に於ける自動運動であって、従って検察官は一種の反射力にすぎません。検察の事務を遂行する上には、自らの如何なる意志も愛情をも持ち得ないのであります。私はこの栄職を奉じて以来終始この観念を以て事に衝あたってまいりました。

今度の事件に於ては閣下が真犯人であるという到達をいたしましたが故に、閣下を真犯人として告発いたしました。過去のすべての場合がそうであった如く、この場合も私情に捉われて遅疑するような事は微塵もなかったのであります。私は自分の到達が正当であると信じます故に、閣下の条理ある御弁明にも拘らず、この最後の瞬間まで所信を変えるような事がなかったのです。

牛山警視総監閣下

閣下は犯人ではありません。この事件に如何なる関係も持っていられぬということを只今確認いたしました。予期せざる明白なる事実によってそれが説明せられました。

捜査課長たる真名古明がこの事件の真犯人として告発した総監その人は実はインノサントであった。検察の重責にある人間としてこの事自体既に重大な過失でありますが、それにもまして許すべからざるはこの過誤をおかすに至った動機であります。

そもそもどういう動機からこの重大な過失をおかすに至ったか。既に閣下も喝破された通り、それは一般に恋愛と呼ぶ情緒が私の心情を燃やし、冷理の道を踏み誤らしたのでありました。私がこの事件の証人たる一少女の魅力に溺れてその証言を狂信するに至ったことが第一の原因。あらゆる推理をその証言から出発せしめ、すべての事実を歪曲して証言の効果をあげようとしたことがその第二。然もこういう重大な逸脱を行なっていることを自分自身些かも自覚していなかったというに至ってはまさに言語道断であります。

このような低劣な性格にして猶検察官たるに耐えるでありましょうか。況んや捜査課長という重職に於てをや。この如き傾向は不正当であるばかりでなく、検察の事務に於ては最も危険なる性格であります。真名古明は即座にその椅子から放逐すべきであります。

牛山警視総監閣下

以上申し述べましたような理由によって私は只今限りお別れいたします。最後に一言感懐を述べることを許して頂けますなら、真名古は今非常に幸福だということであります。私の半生を通じて嘗てこれほど愉悦の情に満されたことがありません。約つづめて申しますなら、酷薄非人情、鬼畜の如くに目されて来たこの真名古も畢竟一個の人間であったという儔たぐいない発見によることなのであります。

私はこれからのびのびと余生を送ります。たとえ陋巷の一隅に市井の塵にまみれ尽そうと、私は常に幸福でありましょう。あるただ一つの楽しい思い出が生涯を終るまで私を慰め暖めてくれるだろうと思われるからであります。

これよりほぼ一時間ほど以前、前後の関係からいえば、真名古が有明荘へソロソロと忍び込んでいたころ、銀座尾張町の松屋の横丁の、夜明しのおでんやの暖簾をかいくぐって、運転手体の二人の男が、ヒッソリとした深夜の街路によろけ出して来た。

バットの煙を夜空にふき上げながら、縺れるようにして歩道の傍の車台へ近寄り、物憂そうに運転台へ乗ると、アクセルを踏んで四丁目の方へ走り出した。

助手の方が欠伸まじりに、何かウダウダと運転手に話しかけていたが、フイと気がついたように、

「もう四時廻ったかア」

といいながら車窓から首を突出して、服部時計店の時計台を見上げていたが、何を見たのか、ア、ア、ア、と息をひいて痴こけのように時計台を指さす。

あたかもそれが「銀座」の記念塔ででもあるように、優雅なようすで聳え立っている服部の時計台に、奇妙なものがブラ下がっている。

黒漆のタキシードを着た一人の紳士が、死んだ猫のように避雷針の上から首ッ吊にされ、風にふかれて踊り人形のようにヒョイヒョイと揺れている。時計台の照明がバック・ライトになって、文字盤一杯に何とも形容出来ぬ凄惨なシルエットを浮上げているのである。

「わア、人殺しだア」

というすさまじい叫び声が、大東京のこの目貫の四つ角で、夜の寂莫を破ってけたたましく響き渡った。

終回

三十九、銀座の死刑台の事    並に政府震撼するの事

四時喧鬧の絶えることない繁劇なる大都会も、しばし微睡まどろみかける時がある。さる外国の作家は、こういう時刻を「大都会の時間外オオル・ドウール・ド・グラン・ヴィル」といった。三時から卅分ほどの間、大都会はねむりにつく。時の流れは歩みをとめ、万象はハタと休止する。

午前三時、四丁目の交叉点に立って新橋の方を眺めると、街燈の光も淡くほのかに、銀座の峡はざまは深沈たる闇の中に沈み、闃然げきぜんとものの音もない。

それまでは人波や交通機関の徂徠に遮られていたのが、いまはコソリとも動き廻る影もないので、展望のきくことは驚くばかり、薄光る路面電車のレールが、物淋しい透視影図ペルスペクチーフを描きながら消えて行くのが、はるばる遠くまで見透かされる。いやにだだッ広くなった舗道ペーヴメントの上でゆらめくものはといえば、あちらこちらの横丁から吹き寄せられてきた雑多な紙屑ばかり。これがまるで生しょうあるもののように、妙に生々と動き廻っている。

風のあおりに乗ってスーッと横辷りをしてゆくやつ、筋斗とんぼがえりをしながら車道の方へ駆け出すやつ。街路樹に駆け登ってブラリと枝にぶら下る。手を組み合ってクルクルと調子よく旋回する。縺れたり離れたり、飛んだり跳ねたり、人気のないひッそりとした大通りを、ところせましと我物顔に跳ね廻っている。これこそは大都会の魑魅魍魎どもが、この東京の丑満時にほしいままに嬉戯するすがたなのである。

そういうひと時、深夜の寂寞を破って、並々ならぬ叫び声が銀座四丁目の四角で起った。耳をすますと、切々たるその叫声は、人殺し人殺しと連呼しているように聞きとれるのである。

東京の目貫の四角で一体何が起ったというのであろう。声のする方を眺めやると、タクシーの運転手らしき二人の人物が、服部時計店の方をふり返りふり返り、ドタ靴の音もかしましく宙を飛ぶように交番の方へ走って来る。その間にも絶えず聞きとりにくい鋭い叫び声をあげるのであって、寂然たるこの大通りに時ならぬ騒音をまきちらすのであった。

この時、四丁目の交番氏は大都会の睡眠に歩調を合わせ、ウツラウツラと船を漕いでいられたのであったが、この不合法なる高声に夢破られ、いささか立腹の気味もあって、ツカツカと入口まで出て行くと、その不届きなる歩行者に向って、

「こらッ」

と、大喝を浴びせかけた。

警官氏の制止にかかわらず、二人の交通労働者氏は、なおもさんざんに叫びながら、いわば蹌々踉々と交番の入口まで辿りつくと、息も絶え絶えのようすでヘタヘタとそこへ坐り込んでしまった。額に汗の玉をうかせ、眼尻を額際まで釣り上げて、何をいうやらしどろもどろ、スラリと夜空に聳え立つ時計台の方を指さしながら、水離れした鮒ふなのように、アップアップと口を動かすばかり、一向埓らちがあかぬのであった。

ようように落着かして要領をききただすと、服部時計店の時計台に人が殺されて吊されているという。馬鹿なことをいっちゃいかん。見上げるところ、銀座の記念塔モニュマンともいうべき優雅なる時計台は、プリュニイ氏式の淡い間接照明を白い文字盤の上に漂わせ、三時十五分という時刻をその上に浮き上らせているばかり。首吊りどころか何の異変も見られぬのであった。

この交番氏は教習所出たての若い警官で、こういう実務にはまだ熟達していなかったので、この二人の下級人民が、不届きにも自分をからかいに来たのだと思ったもんだから、カッとなって手近なる交通氏の手首を引ッ掴んで手荒く交番の中へ引ずりこみ、

「何だ、死体だと。……見ろ、どこにそんなものがある。……貴様、この間もふざけに来たやつらだナ。よく来た。今日こそはこのままではすまないから」

と、こんな風にいきまいた。ところで、二人の交通氏の方は、そんな未熟な威喝などを相手にするようすもなく、

「冗談いうねえ。ぶら下っているなア、あッち側なんで。……こんなところで巽たつみあがりになっていねえで、まア、こっちへ来てごらんなせえ。とんでもねえことになっているんです」

と、反対に喰ってかからんばかりの勢い。なるほど冗談なんていうようすはない。沈着なる交番氏にも、これは何か容易ならぬことがオッ始まっているのだということが察しられたので、佩剣の鞘を鷲掴みにすると、ひッそりとした大通りを、靴音も高くその方へ走って行くことになった。

三越の角まで駆けて行き、さて、小手をかざして見上げるなれば、計らざりき、巍然たる時計台上に意外なる風景が展開されていた。

時計台の避雷針の先に、花王石鹸の商標のような趣きのある月が、とぼけたようすで引ッかかっている。その根元のところから一個の人体が、一本のロープによってほの白い文字盤の上にブラリと懸垂し、空には風があるのか、右左に少しずつユラユラと揺れているのである。

その人体は夜目にもくろい上等のタキシードを身に纒い、贅沢なる漆塗エナメルの靴を穿き、胸の釦穴には色も婀娜あだなる一輪の花さえ揷している。さながら、舞踏会からでもぬけ出して来たような雅致あるようすで、中空たかく宙ブラリンになったまま、風のまにまに、軽快なステップを踏んでいる。

ただそれだけなら、これはまた奇抜とでもいうよりほかはないのだが、仔細にうち見ようところ、なかなかそんな呑気なことではない。つまり、この高尚優美なタキシードの紳士は、銀座街角の時計台上において絞首の刑に処せられていたのだった。

眼は白いハンカチ様のもので眼隠しをされ、両手も両の足首も死刑執行の型通りにしっかりと括られ、淡い間接照明をバック・ライトにして、大きな文字盤一杯に、あたかも地獄の影絵のように黒々と浮き上っている。爪先はちょうどⅥのところに垂れ、横向きになった頭はⅡのところへ行っているので、死体それ自身が指針となって、死刑が執行された時刻が二時卅分であったことを報じているのだと思われるのである。

ああ、それにしても、この優し気な時計台が、いつの日か残酷なる死刑台になろうとは、日ごとこれを仰ぐ何びとがそれを予知し得たであろう。銀座の街角の時計台で絞首の刑を行なうなどというのは、あんまりひどい仕方だ。しかし、一方から考えると、こういう優美な死刑を行なうのに、典雅なようすをしたこの時計台こそもっともふさわしい場所だと思われぬでもない。胸に一輪の花をつけ、あえかにも美しい身のこなしで、ゆらりと垂れ下がっているようすというものは、何か飄逸な趣きがあって、一味の詩情を感じさせるのである。

そもそも何者がこういう詩的な思いつきをしたのであろう。また、この瀟洒な紳士にしても、どういう理由によって、このような奇抜な場所で宙ぶらりんにならなければならなかったのであろう。

益もない詮策はあと廻しにして、再び地上の描写に立ち戻ると、件の警官氏はあんぐりと口をあいたまま先刻から眼も離さずにこの意外な風景に見入っていたが、現在己れが眼で見ているこの光景が、どうしても事実とは信じかねるらしく、泣かんばかりの面持で、再三再四意味不明瞭な嘆声をあげていたが、これは夢でも絵そらごとでもなく、まぎれもない現実の出来事だということが追々理解され出すと、急に麻酔から醒めたようになって、取りあえず至当の処置をとることになった。宙を飛ぶようにして交番まで取ってかえすと、警察電話に飛びついて、したたか金切声をあげることになったのである。

銀座尾張町、時計台上の優雅なる殺人事件は、一本の電線にのり、こういう順序で警視庁の神経中枢に伝達されたのであった。

あたかもこのころ、永田町の内相官邸では、前々回に引続いて例の六人の大人物、すなわち、内務、外務両大臣と両次官、欧亜、警保の両局長が、いずれも疲労困憊の頂点において、暗澹と椅子の中に沈み込み、額に苦悩の皺を刻んで呻吟をつづけている。それぞれ金モールの大礼服や燕尾服を着て、武者人形然と坐っているのは、必ずしも酔狂のせいではなく、参賀から帰ったまま服を着換える暇も持たなかったことを示しているのである。

何にしても、五百万の民草を統治する一国の皇帝が、いまやこの東京において暗殺の危機にさらされ、そればかりか、ひょっとすると、その死体が、東京のもっとも目貫の場所へ投げ出されようという大非常時。どんなことがあっても暗殺者の攻撃から皇帝を救い、仏国大使の乗った汽車が東京駅に着く四時廿分までに、安全確実に皇帝を帝国ホテルまで帰して置かなければならぬというのに、警視庁の必死の大捜査にも拘らず、すでに三時を過ぎてもその消息さえ掴むことが出来ない。壁上の時計を見上ぐれば正に三時十分、仏国大使の乗った汽車は、今ごろはもう相模灘を横眼に見て、小田原在をつッ走っているころ、とても着換えどころの騒ぎではないのである。

時計の指針はギクシャクと容赦なく分秒を刻み、陰鬱とも悲惨ともいいようのない気分がこの場の空気を独占し、異常なる圧力をもって各位の胸を締めつける。列座の一同はこのまま気死してしまうのではないかと思われたころ、内務大臣はソロソロと椅子の中に身を起し、怨むが如き嘆くが如き音声で、

「どうだね、諸君。われわれはまだ希望を持っていいのかね。せめて気休めでもいいから、何かそれらしいことをいってくれんかね。これでは息がつまりそうだ」

といって、長椅子の上にふんぞりかえって、やけッぱちに葉巻の煙を吹き上げている警保局長の方へふりかえり、

「おい、大槻君。その後報告らしいものも来ないが、警視庁の連中はみな死に絶えてしまったのか。それともグッスリと寝込んでしまったのか。今もって一向音沙汰ないというのは緩怠至極じゃないか。一体どうしたんだ。口から葉巻を離してなんとかいって見ろ。だいいち、そんなところに寝っころがっていられちゃ眼障りで仕様がない」

という風に綿々とからみ始めると、これがキッカケになって、一同各人各説に警保局長に喰ってかかることになった。せめて、そうでもしなければ、このもどかしさの持って行きどころがない。

警保局長は一同の叱責を一と手に引き受けて、アレコレと応待していたが、とうとう自制力を失ったと見え、一方ならずムッとした声で、

「まアまア、待って下さい。そう四方八方からガヤガヤと喰ってかかられたって仕様がない。警視庁は死に絶えたのでも寝込んでいるのでもない。精魂限りやっているんです。いくら尻を引っぱたいたって、走れるだけしか走れやしない。世の中のことというものは、万事そんな理窟になッているんでさア」

と、むくれ返っていい放った。日ごろ穏健を主義とする局長としては、いささかふさわしからぬふてくされた態度であった。一座は何かにかこつけて遣場のない憤懣の情を洩らそうと手ぐすね引いているのだから、局長の態度をテーマにして、またまた喧々囂々となった。さすがの局長もアワヤ落城の憂目を見ようとするその時、突如卓上電話のベルがこの争論を貫いてチリンチリンとけたたましく鳴りわたった。

争論はこれでいっぺんにお土砂をかけられたようになる。吉報か凶報か。一同はかたみにオズオズと顔を見合わすばかり思い切って受話器をとりあげる勇気のあるものもない。卓上電話は癇癪を起したようにジリジリと我鳴り立てる。

しかし、こうしていてもキリがないと思ったのであろう。局長は猪首に伝う冷汗をハンカチで拭いながら、オズオズと応待を始めた。一同は四方から詰めよって、穴の明かんばかりに局長の面を見つめる。その上に蕩揺する表情によって、逸早く吉凶を判断しようというのである。

局長は一と言、二た言、声の主に向って焦立たし気な叱声を浴びせかけていたが、やがて受話器を手に持ったまま唐突に椅子の中に落ち込むと、一種漠然たる自失状態の中から、蚊のなくような声で、こんな風にもきれぎれに呟いたのである。

「王様の死体が、服部の時計台へ吊りさげられているというんです。……風にふかれて、ブランブランしているというんです」

四十、死体批評会の事   並に紅唇の紋章の事

場面一転いたしまして、ここは警視庁の屍体置場。たいして感じのいい場所ではない。冷湿な混凝土べトンで囲まれた、五十畳ばかりのガランとした部屋で、天井は穹窿形をして低く垂れ下り、そこから裸の電球が妙に冷酷な光を投げかけている。部屋の中には異様な臭気が密々と立ちこめ、隅々はどんよりと暗いので、この地下室全体がまるで墓塋でもあるような陰惨な印象を与える。

土間の中央には白木の台があって、その上に、黒漆のタキシードを纒った瀟洒たる一紳士が、さながら酔後の仮睡でも楽しむようにほのぼのと横たわっている。つい今まで、寒々しい新月の光に照らされていた時計台上の首吊人の屍体なのである。

それを取囲んで、それぞれ大礼服や燕尾服を着た六七人の顕官が、いずれも眉をひそめ腕を組み、沈痛極まる面持でその顔をのぞき込んでいる。陰気極まるこの地下の屍体置場に、このようにも美々しい人物が立並んでいるのは、見る眼にもはなはだ異様であって、この場の風趣に一層の凄味を添えるのである。

この紳士は多分別な場所で絞殺され、そののちに時計台へ吊り下げられたものであろう。死体を運搬する途中、瓦礫の上を手荒に引摺り廻されたものと見え、顔面はすっかり赤肌になり、人相が識別出来ぬほどに破壊されているのである。

そのくせ、衣服は埃ひとつつかぬほどに入念にブラッシをかけられ、頭髪にも丁寧に櫛目が入れられてある。思うに、この優雅な下手人は、自分が手がけた屍体に充分な儀礼をつくし、かつ己れの趣味の高さを誇示するため、屍体を吊り下げるに先立ってこのような慇懃な方法をとったものであろう。

しかし、そんなことはどうでもよろしい。第一に問題にされなければならないのは、この紳士の素性である。今いったように、個人の特徴はそのような事情で散々に破壊されているが、しかし、その他の部分からでも大体の素性を察しられぬことはない。柳の枝のようなしなやかな長い指にしろ、福々しい大きな耳にしろ、この屍体が生前非常に高級なジャンルに属していたということが明瞭に見てとられるのである。何にもまして決定的なのは、右の小指に嵌められた大きなダイヤモンドの指輪である。それは形においても質においてもはなはだ非凡なものであって、皇帝に拝謁したすべての人の眼を駭ろかしたその指輪であった。

ああ、して見ると、この時計台の首吊人はやはり王様なのに違いないであろう。この考えは、だれの心にも疑念を入れる余地のないかたちとなって、重苦しくのしかかって来るのだった。一座は寂然として声を発するものもない。声を発するどころか、とりとめもなくなった思慮を手ぎわよく取まとめることさえ一困難である。自分らがいま直面しているこの大事件が、そもそもどういう意味をもつのか。それさえも理解しかねるような心持で、いわば漫然アット・ランドムに、屍体の上に無意味なる視線を漂わせているのだった。

かりにも一国の皇帝が、日本帝国の首都の真ン中で惨殺され、その屍体はイエス・キリストのように中空高く掲げられたのである。いかなる形容をもっても、この恐慌の情を仔細にいい表すことは困難であろう。

一同の胸を去来するのは、これはえらいことになったという、はなはだとりとまりなき感想ばかり。互いに視線のかち合うのを怖れる如く、ひたすら面を伏せて黙り込んでいたが、ややあって外務大臣はソッと面をあげ、己れの声を己れで憚るが如き調子で、

「しかし、諸君。これははたして王様なのだろうか」

と、呟いた。たった一と言であったが、これが一座に作用した効果は甚大であって、これを耳にすると等しく、一同は、さながら、叫喚合唱シュプレッヒ・コールといったふうに、

「これは王様か」

「どうして、王様だとわかるんだ」

「これが王様だというんならその証拠を見せてくれ」

と、異口同音に叫び出した。現在自分で電話の取次ぎをした警保局長までがこの合唱に参加して、物狂わしく叫び立てている。その声々は陰気極まる屍体置場の天井に幾度もうち当り、波のように揺りかえしながら物凄い木精こだまをかえす。全然別な声がそこから降ってくるようにも思われるのだった。

こういう突発的な熱狂が、いい合わしたようにピタリとしずまると、今度は反対に、何とも形容し難い精神の沈滞が一同の心を襲うことになった。だれも彼も疲れ果てて、もう物をいう元気もない。ただ、一同の心の中に火のように燃え上がるのは、ここに横たわっているこの紳士は王様ではないと、何人かによってはっきりと証明されたいという、熾烈極まる願望であった。また王様なら王様でもいい。確然たる証拠によって明瞭に応ウイとか否ノンとかいってもらいたいのである。

同座の一同の中で、これは王様ではないときっぱりといい切れるものがいないと同時に、これこそは王様だと断言出来る者もいない。なるほど、昨日の午後、欧亜局長も警保局長も帝国ホテルで偽の皇帝に拝謁しているが、顔をあげるよりお辞儀をしている時間の方が多かったのだから、二人ながら、それについて意見を述べる資格はない。

この資格のあるものは、第一に、安南皇帝附き諜報部長宋秀陳。次はもっともしばしば皇帝に拝謁している林コンツェルンの親玉、林謹直。これが古市加十であるか否かを立証すべき側では、夕陽新聞社長の幸田節三。それに偽皇帝の膝の上で失神したあの美しい縫子の花。まずこんな顔触れである。

手近にあった関係で、真先に宋秀陳が呼び込まれた。すでにご承知の通り、これは並々ならぬ感激的人物であって、無闇にとりのぼせる習癖を持っているのであるから、台上に横たわったこの無惨な屍体を見ると、たちまち逆上してしまって、特徴を探すなどという沈着な態度をとるわけにはゆかず、ただもう泣くやら喚くやら一向埓がない有様。これが王様だとするわけを聞き訊して見ると、これこそは日頃、郵便切手や金貨の裏側で熟知申上げる殿下なのであって、その理由は、現にこうしていて、なんとなく頭の下る心持がせらるるではないかというのである。

どうもこういう有様ではとても信用するにたりないのだから、続いて林謹直が呼び込まれる。この方はさして逆上せぬかわり、皇帝の死が直ちに安南における既得利権の損害を意味するので、もう愚痴たらたら、碌すっぽ顔も見ようともせず、ひたすら深き嘆きに沈むのであった。然し、秀陳よりは年効のせいもあり、一方沈着なところもある人物なのだから、次のような理由で、これこそは宗竜王であると断案を下した。

そもそも自分が最初順化ユエの宮殿で皇帝に拝謁した時、一介の商賈しゃうこルビの「しゃうこ」はママにすぎぬこの自分に、殿下はわざわざ手を差しのべて優渥なる握手を賜ったのである。ああ、なんという感激であったろう、されば、その故に、自分の掌は今もまざまざと当時の感触を記憶しているのであるが、今こうしてこの手を握ってみるところ、肉づきといい、握り工合といい、当時のそれと全く合致するので、この紳士が王様であるということは確信を持ってお答え申上げる事が出来るのであるといった。そういう奇妙な記憶力は決してないとはいわぬが、なにしろ独り合点なところが多くて、そのままに信用しにくい。

一同はだんだん焦立たしい気持になりかけているところへ、悪徳新聞の幸田節三が留置場から呼び込まれて来た。

ずり下りそうになったズボンを危なっかしく細紐で括り、日頃の辛辣な俤もなくして、いわば被告面ともいうべき卑屈な面をしながら、ぼんやりと屍体を眺めていたが、幸田は今日までの加十の活躍ぶりを知らぬものだから、この上等なタキシードを着、指に素敵もないダイヤモンドの指輪をはめ、広大な様子で寝そべっているこの紳士が、何故に古市加十であらねばならぬか判断に苦しむように、しきりに首をひねる態だったが、やがて、

「こりゃア古市なんかじゃありません。一体あいつは気の小さな男で、たとえ死んだってこんな横柄な様子で寝ッ転がッているなんてことはありませんでしょう。だいいち、身丈にしたッて、こんな馬鹿べらぼうにひょろ長いんじゃありません。また指にしたって、こんな豪勢もない指輪がはまるようには出来ちゃいないんです。なにもかにも造作が違いまさア。古市が米松なら、こっちは檜といったわけで、ひと眼で人違いだッてえことが判るんです。それがご不審ならひとつひっくり返して裏ッ側の方も調べて見ましょうか」

と、今度はまた威勢がいいばかりで、なんの事やら一向要領を得ない。思うにこの人物は、途方もないダイヤモンドに眼が眩んで、思慮分別まで失ってしまったものと見える。

みんなもっともだ。とりとめのないところを除けば、それぞれ一応の理窟ではあるのだが、なにしろこんな工合では仕様がない。一同の期待にかかわらず、今のところは皇帝説の方が優勢で、いわば、藪を突ついて蛇を出したてい。

これによって、恐るべき国際事件の当の責任者として、いよいよ破局カタストロフのどんづまりに追いつめられる事になったかと、一同暗雲に胸を閉ざされている時、ここにはからずも救護の天使が現われて、これは皇帝ではない、古市加十だと大きな太鼓判を押してくれたのだった。それはこんな事情によったのである。

一同が、これはいかんとそろそろ匙を投げかかっていたところへ、有明荘の崖下に住む例の縫子の花が、しとやかな様子で入って来た。冷徹たぐいない真名古明を蹉跌させ、枯渇したその心情に一点朱点をうったあの美しい花である。

帝国ホテルで加十ではない本当の王様に無情すげない素振りをされて以来、どんなに思い悩んだのであろう。わずか半日のうちにすっかり面窶れがして、それ故にまた一層メランコリックな美しさをました面差を振り向け、台の上の屍体をマジマジと眺めていたが、瞬間の後、魂消えるような甲高い声をあげながらその方に走りよると、ヒシとその胸に縋りついて声を惜しまずに泣き出した。その涙のひまひまに、

「ほらごらんなさい。あたしのいうことをおききにならなかったからですわ。だから、あたしが申上げたように、早く逃げて下さればよかったのです。誰が見たって、あなたははしッこそうには見えませんもの。……あたし、ぶってあげてよ。なぜ、あたしのいうことを聞いて下さらなかったの」

しかし、こんなことを綿々と書いていても仕様がないから、大体このくらいにして置くが、さて、花はこんなふうに赤剥けの頬に自分の頬を擦りつけながらなおもつくづく掻き口説くのである。

大の男が三人揃っても一向見分けのつかなかったものを、一体どういう直感力でこの小娘が、これは王様でなく古市加十であると看破し得たのであろう。

思わぬ舞台の急変に、一同ただ唖然と花の狂態を打ち眺めるばかりであったが、前の三人のあやふやな証言とはこと違う、何かそこに惻々と迫る実感がある。

花がこの紳士を王様と呼ぶ以上、それは加十に違いないのだから、一同は盲亀浮木といった態たらく。していいものなら手を合わせて拝みたかったろう、警保局長は喜色満面の趣きで花の傍に近寄ると、その肩に手を掛け、その声に滴るばかりの愛嬌を含ませながら、

「これさ、娘さん。まアそう泣いてばかりいても仕様があるまい。それでは涙が種切れになるというものだ。それはそうと、君にはどうしてこれが王様だということがわかるんだね」

と、揉みほぐすような調子でいうと、花は何が気に障ったのか、急にキッと顔をあげ、

「何故あたしに判らない訳があるんです。あたしがだれ彼の見さかいもなく男の方の胸に縋りついたりするような女だとでも思っていらっしゃるんですか」

「いや、そんな失礼なことをいう気ではなかった。そう聞えたら陳謝するが、それはともかく、一体どういう証拠によってこれを王様だと判定したのか、くわしく説明してもらえまいか」

「ああ、あなたはやはり疑っていらっしゃるんですね。もしそうだとしたら、あなたはよっぽどオタンチンですわ。女心というものを知らないにもほどがあります。女というものは、自分の愛する人なら、小指一本だけ見せられたって必ず見分けることが出来るものですわ。ましてこんなふうに頭から爪先までそろっているんですもの。どうして見間違うなんてことがありましょう」

警保局長はたじたじとなって、妙な顔をしていたが、

「いや、よく判った。ところでわれわれの方は、女心というものを持ち合わしていないのだから、何分にもその機微を解するに苦しむわけだ。そういうほのかな話でなく、ひとつわれわれにも納得のゆくような証拠を示してもらえんもんだろうか。どうか、お願いする」

すると花は、ようやく穏やかな顔つきになって、

「あたし、昨日、王様のところへお伺いした時、急に王様に抱いていただきたくなったので、気絶した真似をして寝っころがってしまったのですわ。すると、王様はしっかりとあたしを抱いて、長椅子まで運んで行って下さいました。その時、あたし、王様の二の腕へそっとあたしのしるしをつけておいたのです。そんなにまでおっしゃるんなら、それを見せてあげましょう」

といいながら、懐しそうに死体の左腕をとりあげ、ソロソロと服の袖をまくりあげた。

そこに一体何があったと思いますか。屍体の手首から少し上ったところに、さながら早咲きの紅薔薇ででもあるかの如くに、花の口紅のあとが、今にも匂い出さんばかりに咲き出していたのであった。

この屍体は皇帝のそれではなかった。あの愛すべき田舎漢、夕陽新聞記者、古市加十の憐れな末路だったのである。身のほどもわきまえずに客気にはやり、古今未曽有の大スクープをモノしようなどと企てたばっかりに、魔都「東京」の魑魍の呪を受け、こんな悲惨な最後をとげることになった。

陰暗たる地下道の溜井戸の庭で、最後まで探訪記者の義務を果すために、淡い手提ランプの光を頼りにせっせとこの大事件の記事を書き綴っていた、あの颯爽たる姿が最後となった。思うに、加十はあの古井戸の底で惨殺され、何かなすところあらんとする悪人どもによって、王様の身代りにその屍体を時計台にかけられる事になったのであろう。どうも気の毒な事をした。古市加十よ、さよなら。恐らくあの原稿も、闇から闇へ葬り去られてしまったのであろう。

せめてあれだけでも陽の目を見ることが出来たら、いささかもって瞑すべきであったろうに。

無闇な様子になって、なおも泣き狂う花を、ようやくのことで屍体置場から押し出すと、期せずして五人の大官達は相共に馳けよって、かたみに手を握り合って、心から祝意を伝え合う。日ごろいがみ合ってばかりいるこの大官たちが、こんなにもしっくりと心がとけあったことは、後にも先にもないことなのであった。

さて、事情がこういうふうに好転すると、一同の心にはまた一縷の希望が萌して来た。なんとかして、定刻までに王様を捜し出してホテルに返し、うるさい紛紜から体をかわしたいという慾望が燃え上って来た。

時計を見ると三時四十分。仏国大使が東京駅につく時間までにまだ四十分ある。ひょっとしたら、なんとかならぬものでもない。そこで、一同はまた躍起となって、なんとかならぬかならぬかと警保局長に詰め寄る事になった。

警保局長はさすがその道の通人だけあって、もう皇帝を救い出す望みはないと、一と足先にその後の善後策を考究していたのだったが、事情がこういう工合になるとまた話がちがう。これも俄かに活況を呈して、

「よろしい、もうひと奮発して見ましょう。加十の屍体を王様の屍体に見せかけようとしたことは、本当の王様がまだどこかに健在でいられるということを証拠立てるんです。なにしろ、管下八十署を総動員して、草の根を分けているんだから、それも、そう遠いところにいる筈はない。王様を日比谷署から持って行ったのは、午前二時から二時半までの間だと思われるから、どうしたって王様はまだ旧市域内にいると見るのが至当です。即刻市郡の警官を市管内に集中して、ひとつ死物狂いにやって見ましょう」

と溌剌たる威勢を示しているところへ、警視総監が白皙な額を聳やかしながら静かに屍体室へ入って来て、外務大臣の傍まで行くと、謹直な口調で、

「御命令通りに致しました」

といった。つまり、あの危険な条約書が無事であったという意を伝えたのである。外務大臣は意味深長に首肯く。よっぽど嬉しかったのであろう、なろう事なら総監を自分の胸にひきよせたいといったふうな眼つきをした。

うまくゆく時は、何もかもうまく行くものだ。この時、真名古の三銃士の一人が、手に一枚の紙片を持って、歓声をあげながら屍体置場に飛び込んで来た。それこそは、あの不幸な真名古が、ハッチソンの屍体の枕元に坐って書きしたためたあの報告書なのであった。それはこんなふうに書かれてあった。

皇帝は健在。有楽町二丁目角、元日東生命の廃屋中に監禁せられあり。屋内に安本亀二郎外九人の博徒。機銃の用意あり。

四十一、市街戦記の事    並に納めの台詞の事

日比谷の交叉点から銀座の方を向いて電車通りを行きかかると、ちょうど美松と対角線上に、そのころ、古びた一棟のコンクリート建の廃屋があった。その向いにはまもなく美松の宏荘な建築が建ち上り、横通りには、電気協会のクリーム色の瀟洒たる建物が出来上ったのに、この不等三角形の空面だけは、そのボロボロの建物をのせたまま、板囲いもなく荒れるに任かせられてあった。この空地は一時ベビーゴルフ場になった事もあるが、それもまもなく廃れて、前より一層ひどいようすになり、チャチなゴルフ・コースが雑草に閉ざされ、夏ならば昼間から虫の音が聞こえようという荒れ方。その隅にショボショボと生えた胡麻竹が風に揺られている有様なんていうものは、これが東京丸の内の地内かと怪しまれるばかりのはかなさ。

建物がまたひどい。もとは日東生命の社屋だったが、それが丸の内の新館に移転して以来十年、雨風にさらされて立ち腐れになっていた。元来、よほど以前に出来た建物なので、壁は雨と埃にまみれてドス黒く汚れ、窓硝子はさんざんに砕け落ちて、螇蚸ばったや蟋蟀こおろぎの住家になっていた。軒は傾き、蛇腹は落ち、棟の下から大きな亀裂が電光形に壁の上を走って、その亀裂に沿って青苔が生えている。さながら、西洋風の相馬御殿といったてい。試みに窓硝子の破れから屋内を覗いてみると、床の上には足のない椅子やら、蓋のとれた非常箱やらが、仰向いたり、俯向いたり、おぼつかない陽の光の中に参差落雑と転がっている。光の届かぬ奥まった壁の上には、剥げ落ちた壁紙の切れっぱしが垂れ下り、それが風に揺られてヒラヒラと動いている。心なしか物の怪でも立ち迷いそうな物凄い有様。

御存じの方もあるでしょう、日比谷公園の方から来かかると、いかにもこの建物が目障りで、思わず誰も顔を顰める、その建物。

一月二日の深夜で、前回に引続いてずっと空には月がある。寒月梅花を照らすといえば渋いが、相手がこういう廃屋となると何となく凄味を増す。これが妙に白々と月の光の中に浮き上って、硝子のない窓々がちょうど眼鼻のように見える。月に照らされた建物の片側一面が、そのまま顔になって今にもゲラゲラと笑い出そうふう。

胡麻竹の葉の上に霜がおりたか、風に翻るたびそれが匕首のように光る。その胡麻竹の蔭を、廃れたゴルフ・コースに沿って一団の黒い影がソロソロと建物の方に迫って行く。人数にしたら六七人もあろうか。然し、それだけではない。その一団が建物の裾で横隊に散開すると、またすぐ別の一団がヒタヒタと草を踏んで、第二陣に行く。続いて第三陣、第四陣……

いや、正面ファサードの方ばかしではない。闇をすかして眺めると、駅寄りの側面の方にも、裏手にも、さながら現象のように隠現する黒い無数の影がある。時々寄り添いまた離れ、整然たる陣形をつくりながらじりじりとその輪を狭めて行く。要するに、この廃屋は殺気満々たる円陣で取かこまれてしまったのである。一体どんな大捕物が始まろうというのであろう。いやいや捕物なんていう生易しいものではなかった。これから市街戦が始まろうというのだ。

乙亥きのとい正月二日、午前三時五十分。首都大東京の中心。丸の内有楽町に行なわれたこの壮烈な市街戦の事実を御存じの方はすくなかろう。読者諸君の中にもこれを知っておらるる方はあるまい。正確にいえば、この戦闘は午前三時五十二分に始って、同四時十二分に終った。十人の兇徒は二台の軽機関銃とトムソン・ガンで、最後まで剽悍に抵抗したが、四時十二分にとうとう殲滅されてしまったのである。

この捕物をあえて市街戦というゆえんは、このために旧市域管内は事実上純然たる戦時体制に入ったからである。

真名古の報告書が到着すると同時に、捜査本部は即刻各支部に非常警報を発し、銀座四丁目を起点にする円周内のあらゆる交通を遮断してしまった。銀座四丁目、新橋駅北口、溜池、四谷見附、九段上、小川町、呉服橋を経て再び銀座四丁目に至る。この大円周上には三十二の哨所ポストを置き、円周上のあらゆる街角、路地、橋詰には洩れなく新撰組と武装警官を配置し、いかなるものをもこの非常地区には立入ることを禁止したのみならず、外濠川の常盤橋、土橋間の河船遡航を禁じ、いわば水も洩らさぬ警戒陣をしいた。なにしろ機関銃を持つ兇暴な一団なので、当然死傷者もある見込で、日比谷公園の桜田門寄りの暗闇には赤十字社の病院自動車を六、七台待機させ、大手町側の横通りには防弾衣をつけた警官を満載した四台のトラックを後詰として配置し、物々しいまでの手配だった。

読者諸君、試みに四年前の記憶を辿ってごらんなさい。昭和十年一月二日の午前三時半ごろ、酔歩蹣跚として、新橋から山手へ帰ろうとされた方々、あるいは、タキシーによって銀座四丁目を経て、四谷、牛込の方へ赴かれようとなさった方々がそれらの地点に差しかかった時、突然暗闇から私服あるいは新撰組の隊士が現われて交通を制止し、非常なる大廻りをさせられて帰宅されたことを思い出されるでしょう。読者の中には、その際有楽町の方から単音符をうつような、気ぜわしい連続音が聞こえてくるのを耳にされた方もあって、この早朝、建築場ではもう鉄鋲打リベッチングが始まったのかと思い、いささか遊びに耽りすぎたことを後悔された向もあったであろう。

リベッチングではない。諸君が立入ることが出来なかった地域の内では、その時人知れず悲愴陰惨な市街戦が行なわれていたのである。

この市街戦は、次に述べるような事情によって、一種陰険な性質をとることになった。この戦闘は断じて発表出来ぬ性質のものであったばかりでなく、地域の関係からいかなる犠牲を払ってももっとも短時間に終結させてしまわなければならぬ必要があったので、勢い一種惨忍ともいう表情をもつようになった。

安南の皇帝が、武装した兇徒に捕禁されたという事実を一般に知らしめることははなはだ遺憾であるばかりでなく、この丸の内の中心に銃器を携えた兇徒の一団が蟠居して、警視庁に対抗の姿勢をとったなどということは、社会事相としてはあまり重大すぎて、到底発表の出来ない性質のものだったから、この戦闘は陰密のうちに始め、陰密のうちに終らせる必要があった。それ故にこそ、警視庁は全機能をあげて事態遮閉に努め、この凄絶な戦闘は、東京市民が誰一人知らぬうちに完了されてしまったのである。

この市街戦の経過をしるす前に、この戦闘が世にも悲愴パテチックなものだったというその裏の事情を叙述するのが順序であろう。

近代日本における新興コンツェルンの双璧。一方は熊本の山奥の、僅か八百キロの電気会社から出発して今では構成会社二十七、払込資本三億円の小口翼の日興コンツェルン。一方は房総半島の漁村の微々たる沃度会社からノシ上げ、林興業を主体とする傍系会社二十二、公称資本二億二千万円の大構成となった林謹直の林コンツェルン。共に国防産業をめざすこの二大コンツェルンは、その資源を仏領印度支那において開発すべく、安南を舞台として華々しく鎬を削ることとなったが、林は逸早く、宗皇帝を抱え込み、小口に一歩先んじて、採掘面六十万坪、年五万キロの優良ボーキサイトの採掘権を先取してしまった。

この鉱山は安南皇室の財産なので、もし皇帝が退位または逝去されるような場合には、当然契約の効力が消失する訳であるから、林興業にとっては皇帝の一身上の安危が何より不安の種になっていた。

しかるに計らずも、昨暁有明荘において皇帝が愛妾松谷鶴子を殺害したという事件が起り、引続いて波瀾万丈を極めるものだから、さすがに豪腹な林もとりとめのないまでに錯乱したのである。

風聞によれば、敵手ライバルの日興コンツェルンが、なんとかしてボーキサイトの採掘権を林の手から取上げようと、皇帝の反対派、すなわち皇甥擁立派を突ついて盛んに暗躍してるという事が、ちらちらと耳に聞こえてくる最中だったから、条理をつくした真名古の説明にも拘らず、皇帝を誘拐したのは実は日興コンツェルンの一味なる鶴見組の仕業だという疑念を捨てることが出来なかった。

すでに昨朝八時ごろ、日比谷公園の「歌う鶴の噴水の会」場で、鶴見組の一派、武州小金井に繩張を持つ安亀事安井亀二郎が取ってつけたような騒ぎを起し、そのどさくさ紛れに皇帝を誘拐して行ったという評判も耳にしたので、いよいよもって自分の想像に違わず、林興業の先取権を毀損して、皇甥派と新たなる契約を成立せしめる目的で、皇帝に危害を加えようとしているのだと思い込むようになった。そうなってみると、警視庁のやり方がもどかしくってたまらない。向うがそうならこっちはこう、場合によっては鶴見組と一合戦し、血の雨を降らしても皇帝を奪回しようと、自分の配下に属する前田組の大親分と謀議を凝らし、近接五県に急廻状をまわし、血気の身内六百名を常盤橋際の常盤ビルディング内に集め、二十台のトラックを待機させ、命令一下、時を移さず出動出来るように手配をした。

ところで、蛇の道は蛇で、いつかこの動勢が筒ぬけに野沢組に判ったものだから、どうしてこれが無事に済むわけがない。鶴見組の方でも急遽木挽町、木挽クラブにほぼ同数の人数を集結して、殺気満々とこれに対峙することになった。

御存じの方もあろうが、野沢組、鶴見組というのは関東土木倶楽部の両横綱。前者は日暮里に本拠が在るから、一口に道灌山といい、後者は横浜に本拠をおくから野毛山と唱え、親分御用の節はいつにても一命を差上ぐべく、という誓紙をたてた血気盛んな数千の命しらずを擁し、両々相譲らざる二大勢力、これが皇帝誘拐事件を中心にして、風雲を孕んで相対抗する。どうせ血を見ずにはおさまらぬのであった。

さて、林が皇帝の首実験に「首実験に」はママ警視庁に召喚されたのはこういう騒ぎの最中だったのである。皇帝らしい人物の屍体が服部時計店の時計台に吊り下げられていたという話をきいて、宙をとんで馳けつけて来た。この場の経緯は先ほど述べたから再び繰り返す必要はないが、結局花の証言で、それは皇帝ではなく、夕陽新聞の探訪記者、古市加十という愚にもつかぬ人物だということが判り、ほっと安堵の胸を撫で下しているところへ、不幸な真名古からの報告で、皇帝は野毛山の身内の安亀一派によってつい眼と鼻の先の、元日東生命の廃屋の中に監禁されているということが判った。

何しろ分秒を争う仕事なのだから、新撰組の隊士が先発となって間髪を入れずにどやどやとトラックに乗込む。捜査部長の号令一下、まさにそのトラックが動き出そうとしているところへ、前田組すなわち道灌山の大親分が宙を飛ぶように自動車で乗りつけて来て、お手間はとらせませんから、ちょっと五分ほど進発を見合わせてくれという。ぜひともお願いしたいことがあるといって、そそくさと総監室へまかり通ると、総監と警保局長に向い、

「藪から棒でおそれ入りますが、なにしろ分秒を争うことでございますから、ザッカケなく申上げます。お願いの筋というのは他でもござんせん。とるにもたりないわれわれではござんすが、何卒この御鎮圧おとりしずめにわれわれもお差し加えなすって頂きたいんでございます」

白銀のような白髪をオールバックに撫でつけ、団十郎くだいめ張りのハリのある眼に柔和な光を湛え、膝に握り拳を置いてゆったりと語り続けるのである。

「御存じの通り、いまお上をお騒がせ申している野郎どもは、わたくしの身内でこそござんせんが、同じ筋をひく土方やくざ者、聞けばどうやら必死の様子で、機関銃さえも持っているという話。どういう訳柄があって、こういう騒ぎをするのか存じませんが、それに向って行けば必ずや十、二十の人死が出来る道理がございます。それがお上の役目とはいいながら、埓もねえ奴らを押えるのに行先永いりっぱなご人数の命がむざむざ落されるのかと思うと、わたくしはいても立ってもいられない心持がするんでございます。これが素人衆というならばこんな差出がましいことを申上げるんじゃありませんが、今申上げました通り、相手はわたくしどもと同様なやくざだということになれば、所詮見過ごしにしているわけには参りません。それでこういうお願いを申すんでございますが、出来ますことならば随分の御手伝いをさせて頂きたいんでございます。どうせわれわれの命なんぞは安いもので、日本人の端っくれであるならば、こういう御役にたたなければ、立てる折がないんでございます。ありようは、みすみす十、二十と命をおとす有用な方々の、せめて弾丸よけにでもなりたいというだけで、ほかに存意のあることじゃございません。どうかまげて御聞きずみ願いたいんでございます」

と、ことを分けて頼み入るのである。しかし、こんな申出がその儘きき入れられよう道理がない。警視庁としては、やくざの手をかりて捕ものをするという訳には行かないが、しかし、まるまるあなたの顔を潰す訳にもいくまいから、何かの場合の用心に遠巻きにしてくれることは差支えない。

なんだか意味深長ないい方だが、前田の親分は納得してそれで早々に総監室を立出る。これでいよいよ戦闘が開始されることになった。

見上げれば、はや月は西に傾き、満地には一月の霜、人影一つない坦々たる馬場先門の大道を轟々たる爆音を轟かせながら、消灯したトラックの大列がさながら天からでも繰り出してくるように蜿々と有楽町の方に近づいて来る。いうまでもない。これこそは関東を二分してその覇を争う前田組の尖兵隊。

いずれもコール天の半ズボンに長靴下。喧嘩の定法で印絆纒しるしものは一切身につけない。白木綿を畳んでキリリと鉢巻をし、小隊別の番号のついた腕章を腕に巻いている。大抵は折襟のシャツに腹掛をしているが、中にはこの寒空に素っ裸で守袋一つひっ背負しょったのもいる。竹槍を持ったり長ドスを下げたりしている訳ではないから、知らないものが見たら土工のピクニックかと思ったろう。しかし、この経緯を知っているものが見たら、剽悍さに思わず震え上ったに違いない。事実この六百人のやくざは、身に寸鉄を帯びていぬのであった。

警視庁からの親分の電話でこの喧嘩の趣旨を知り、敵方が機関銃なんていうチャンチャラ可笑しいものを持っていると聞くと、みないい合わしたように一斉に武器を捨ててしまった。丼の匕首までほうり出し、五尺の身体一本でトラックに乗込んだ。二台の機関銃とトムソン・ガンに生身の身体を張り、やくざの意気を示そうというのである。

さて、この蜿蜒たるトラックの列が暁天の霜に、轍をぬらしながら、ちょうど日比谷の交叉点まで来た時、銀座四丁目の方から旋風のように飛んで来た一台の自動車。危うくトラック隊の先頭はたを切ると、それに寄り添うようにして線路の真ん中にピタリと止まる。その中から転び出るように下り立った一人の人物。今しも有楽町の方へ急カーブを切ろうとする先頭のトラックの真ン前に突っ立つと大手を拡げて、

「待て、待て、俺は野毛山の相模寅造だ。生命にかけてたのみてえことがある。ちょっと、車をとめてくれ」

と、大声あげて叫び立てる。

先頭のトラックの中央に凝然と腕組をして突ッ立っているのは、先ほど総監室に現われた前田組の大親分。それをかばうようにそのそばに押並んでいるのは、第六回幸田節三の妾宅の場に立現われた、前田の養子の駒形伝次であった。

二人は素早い眼配せを交しながら、意を通じ合っていたが、何思ったか、前田の大親分は励声一番、

「やい、とめろ。野毛山の親分がいらした」

ギーッとブレーキがかかって、トラックが止る。

前田栄五郎はトラックを下りると、静かに野毛山の方に近づいて行く、その後に油断なくつき従うのは件の伝次。

野毛山の親分というのは年齢のころ六十一二、赭ら顔の薄菊石あばたのある大男で、右の眼の下に三日月の大きな傷痕がある。身の丈は五尺六七寸もあろうか、草相撲の大関といったような頑丈な体をかがめて、丁寧に会釈すると、

「これは道灌山の。その後かけ違って碌すッぽ挨拶も申さず御無沙汰ばかり致しておりながら、こんなところ素っ頓狂にとび出して声をかけるんだから、聞こえぬふりをして礫き倒して行かれたって文句のねえところなのに、よくまァ停めて下すった。厚く御礼を申しやす」

前田の親分は、これも膝まで手を下げ、

「御丁重な御挨拶で痛み入ります。どういう意気張りがあろうと、大手を拡げて停めなさるあなたを轢き倒して行くような、そんながさつな真似はしねえんです。御言葉の趣旨はよく判るが、そんなふうにおっしゃられると、こちらがまるっきり仁義を知らねえようで当惑いたしやす。それはともかく、一体どういう御用でありましたか」

薄月の光をつらつらに照りかえす電車の軌道を差し挾んで向い合う二人の大親分。いずれも寛濶なる貫祿を身につけ、抜き差しならぬ一問一答をしているさまは、譬えていうなら、二人の明智大将が戦場において馬首を交うるが如き、一種凛然たる趣きがあるのであった。野毛山の親分は、慇懃に挨拶を返し、

「無作法のお詫びはまた改めて致すとして、早速ながら、お尋ねに従ってお願いの筋を披瀝いたしやす」

といって、鋭い眼差を相手の面に注ぎながら、急に吃々たる口調になり、

「御存じの通り、今あすこにおります安本亀二郎という野郎は、以前縁あってわたくしと親分乾分の盃を交したもの。その後腑におちねえことがあって盃を返させましたが、たとえ縁は切っても、やはりわたくしの血脈につながる一人、それが大べらぼうなものまで担ぎ出して、こういう馬鹿な騒ぎをいたします。いま、あなたが相当な御趣意があってあいつを取り鎮めなさろうというには、もちろんわたくしになんの異論のあろう筈はないが、それによって御身内衆に人死、怪我人でも出来たとなっては、わたくしは、向後世間さまに顔向けがならねえのでございます。お願いと申しますのはほかのことでもございません。もう多分お察しのことでございましょうが、日ごろの御懇意に免じて、今夜のことはこのわたくしにお委せ願いたいんでございます。といっただけでは、とても御承引下さりますまいから、打明けたところを申しやす。諄いようだが一度縁を切ったとはいいながら、やはり昔の乾分は可愛いんでございます。事情ことわけて叱りつけ、それでもきき入れないとなりゃ、せめてわたくしの手にかけて殺ねむらせてやりたいと思うんでございます。ざっくばらんに申しますが、あなたとわたくしとは以前から仲違いの間柄。その、あなたの身内の手にかかって惨めな殺されようをさせたくねえのでございます。この通り、七重の膝八重に折って、お情におすがり申しやす。なにとぞ、おきき入れになって。……一生恩に着やす」

つぶらなる眼頭にきらめくは露か涙か。惻々たるその音声にも男の真情が偲ばれてなかなか憐れ深いのであった。

前田の大親分は深く腕を組み、月に顔をふり向け、黙然とこの長台辞をききすましていたが、やがて、静かに腕をふりほどき、

「野毛山の、乾分は可愛いもんでございます。いかにもお委せ申しましょう。一生恩にきせます」

クルリとトラック隊の方にふりむくと高く片手をさし上げて、

「引上げ」

と命令した。前田の大親分と駒形伝次はトラックの上に乗り移り、車上から軽く会釈をする。トラックの大列はそこで百八十度の廻転をすると、今きた常盤橋の方へ、一糸みだれず蕭々と引上げて行くのであった。

霜を帯びた胡麻竹が匕首のように光る。その陰を六七人ずつ一団になった黒い影が三陣四陣になって、地を舐めるようにして四方から廃屋の方へ詰め寄って行く。その円陣の間を、伝令がチラチラと駈けちがう。しかし、それも一瞬の事で、蠢いたり、匍い廻っていたりしたものの影は、まもなく雑草に埋もれてひっそり動かなくなってしまった。なんともいえない切迫した空気がこの空地を占領する。

この時、空地の入口の方から、寛々たる足どりで廃屋の玄関の方に近づいて行く一つの黒影があった。玄関から二十歩ほどのところに突っ立って廃屋の二階の窓を見上げていたが、その窓に向って沈着極まる声で、

「おい、安亀。面を出せ、俺だ」

と叫んだ。

暫くすると、正面の二階の窓が押開けられ、四角な黒い闇の中にほんのりと白い顔が浮かび上った。

「大親分でございますか、お変りもございませんで」

「安亀、暫くだったな。お前も丈夫で何よりだ。すこしお前に話したいことがあるから内部なかへ入れろ」

「どうぞお通りなすって。……只今ご案内いたします」

窓の顔が引込むと、ほどなく玄関の戸が内側から細目に引開けられ、寅造はその内部へ入る。

どこから集めて来たのか、窓という窓には古畳や土嚢で厳重な防塞が施され、玄関を挾んだ左右の窓の窓枠の上に据えつけた二台のホッチキッス機関銃が、蒼黝い銃身を物凄く光らせている。

もとは広間ホールででもあったのだろう、七十畳ほどの広い部屋の床の上に三つばかりカンテラを置き、それを囲んで九人の人間がしゃがんだり、胡坐をかいたりしている。服装はてんでんばらばらで、背広を着たのもあれば、腹掛をしたものもある。人相もまた雑多だが、床から脚光フットライトのように照らし上げられた赧黒い顔々には、いずれもなんとも形容しかねるような悽愴な色が流れている。

親分の先に立って安亀がこの広間に入ってくると、この九人の人間は一斉に首をうなだれてしまった。一人として大親分の顔を仰ぎ見るものもない。

相模寅造は立ったままでジロジロと一同を見下していたが、唐突に安亀の方に向き直ると、まるで迸ほとばしり出るような声で、

「俺は、おめえに盃をかえさせ、今では赤の他人なんだから、親分面をしてここへやって来たんじゃねえ。また親分面をして物をいうつもりもねえ。しかし、安亀、間違ったことをやっているやつに、おめえのやり方は間違いだということには、たとえ赤の他人の間柄だって一向差支えはねえ筈だ。いわんや、縁あって一度つながった仲であってみれば、こんなお節介をしたって無下に腹も立てるまい。……どういう意地張りでこんな騒ぎをするのかしらねえが、俺にいわせりゃ、どう考えてもこりゃア道が違う。おめえも知ってる通り、これまでの度々の喧嘩は、繩張り争いか男を磨くため、只の一度もお上を向うに廻した事なんぞありゃしねえ。……それを、何だ。場所柄もあろうに東京のど真ン中にたぐまり込み、機関銃なんぞかつぎ出すなんていうのは、ちっと行きすぎていやあしねえか。……それに、聞けば、安南とやらの王様をここへ監禁とりこめしてあるそうだが、そりゃ一体どういう了見でやったことなんだ。てめえがこんなことをしたばっかりに、お上じゃひっくりかえるような騒ぎをしていなさる。男の意地も事によりけりだ。これほど世間さまを騒がしてそれで立つ男の面なんかありゃしねえのだ。……おい、安亀。てめえも日本人の端っくれだから、お国のおかげということを知っているだろう。てめえがこんな馬鹿をしたら、日本帝国の不為になるという事が判らねえのか。この、大馬鹿野郎」

安亀は片膝を床の埃に沈めて、しょんぼりと首を垂れていたが、やがて窶れ切った蒼白い顔を振り上げ、

「親分、お言葉までもございません。われながら大それた、外国の王様をひっつかまえてこういう無態なることをすれば、日本の国にどんなご迷惑をかけるか、それを知らねえわたしじゃアありません。それを知りながら、こういうことをやらかそうというには、いうにいわれぬ深い訳合があることなんでございます。どうか一通りおききなすって下さいまし」

急に床の埃の中に両手をつき、思い迫ったように、烈しく身悶えをしながら啜りあげて泣いていたが、やがて手の甲で無器用に涙を払うと、床に両手をついたまま、縋りつくような眼付で、寅造の顔を見上げながら、

「親分、御存じの通り、わたくしには、長太郎という今年六つになる一粒種の伜がございます。そいつがこの夏、ふとしたことから消化不良とかいう病気になり、まるっきり湯も水も受けつけねえ。なにしろ、土用の最中に米粒一つ通さねえのだから、日増しに痩せ衰えてもう骨と皮ばかり、医者もとうに匙を投げて、これはどうでも助からねえという。これがチブス、コレラという病気なら諦めようもありましょうが、ものが喰えねえで死ぬなんてえ馬鹿な話はねえ。てめえの命よりも愛しく思うたった一人の伜が、こんなつまらねえ病気で死んで行く。それを手も足も出ねえでじッと見ているわたくしの辛さはまあどんなでござんしたでしょう。あなたも子供の父親でおあんなさるから、その時の切なさ遣瀬なさを多分お察し下さるでしょう。生れてからまだ一度も合わせたことのねえ手を合わせ、この子の代りにわたしの命をとってくれと、神も仏も一緒くたに、気狂いのように祈っても、だんだん果敢なくなるばかり。……ちょうどその頃、お茶松の賭場へ岩井さんという華族くずれが出入りするようになりました。きくところでは、ながらく外国にいたこともあるということでございますから、何かいい智慧はありはしないか、医者でもねえその人に無理な相談を持ちかけてみますと、ああ、ありがてえ。その人の友達に呉というえらい先生がいらして、百に一つも助からねえと、医者が見放した栄養不良の餓鬼を助けてくれた例しがあるという。絹糸より細い血の管から栄養分を送り込んで、身体に元気をつけるんだという。こういう神業のようなことをするのは、日本ではこの先生ただ一人。だが、その方は町医者じゃねえ、千万両積んだって、おいそれと引受けてはくれねえのだが、おれがこれから引添って行って、無理にもたのみ込み、必ず手術をしてもらってやる。さあ、そういううちにも時が移る。もう、引く息ばかりになって白眼を出しているのを、自分の子供でもあるまいに、いきなり横抱きにひっ抱え、あわてふためくあたしを叱りつけ叱りつけ、宙を飛ぶようにして呉先生の処へ担ぎ込みました」

涙で咽喉をつまらせながら、声もおぼろになって、

「長太郎はそれで助かったんです。その有難さ、忝さ。親分もうあたしにはいえません。お察し下さいまし。……その岩井さんが、昨日の朝の八時ごろ、突然あたしのところへとび込んで来なすって、事情があって訳はいえないが、安南とやらの王様を、明日の朝の五時までどうでもお前の手で監禁とりこめておいてもらわなければならねえような羽目になった。なんにもいわずに引受けてもらえまいかと申します。いやも応もあるもんじゃねえ。あたしの息のあるうちは、たとえ日本国中を相手にしても、約束の時間までは王様を人手に渡さねえと男の誓いをいたしました。こんな無器用なものを担ぎ出してお上にご迷惑かけるのも、みな岩井さんの恩義に報いるためなんでございます」

寅造は深く差しうつむきながら、安亀の話を黙然ときいていたが、この時フイと顔を上げ、

「するてえと、今朝がた日比谷公園で騒いだのは、やっぱりてめえの仕業だったのか」

「へえ、左様でございます」

「今夜、日比谷警察の留置場から王様をつれ出したのも、やはりてめえの仕業なのか」

「へえ、左様でございます」

「すると、王様はお怪我なく今この中においでになるんだな」

「へえ、地下室にお入れ申してあるんでございます」

寅造は腕を組み、悵然たる面持で眼を閉じていたが、また不意に眼を開き、

「よく判った。そういう訳柄があったのなら、俺も無下に王様をかえせとはいわねえ。だが、安亀。ものの道理だけはいってきかせてやる。いまお上の心配というのは外でもねえ、この騒ぎがもとになって、フランスという国と気まずいことにでもなれば、実に取りかえしがつかねえことになる。場合によってはそのために日本の国が抜き差しのならねえ羽目に落ちねえとも限らねえ。フランスの大使が東京へつくまでに、なんとかして王様をホテルにお帰し申し、うまく後先の経緯さえ伏せれば、政府の面もよごさずに済む。それでこんなに大騒ぎをしていなさるんだ。そのもとはといえば、たった一人のお前の仕業。……なア、安亀。出来にくいところであろうが、ひとつ意地を捨ててはくれめえか」

「親分、ご勘弁なすっておくんなさい。たとえ親分のお言葉でも、そればかりはおきき申すわけには参りません。あたしがこの騒ぎをおこせば、必ず親分が理解をつけにお出でになるものと、かねて覚悟をいたしておりました。そんなことであたしが意地を捨てるくらいなら、初めっから騒ぎなんぞ起しはいたしません。わたしを始め、ここにいる九人の野郎どもも、どうせ命はないものと覚悟してかかったことなんでございます。一度つがえた男の約束、弾丸のつづく限りお手向いをいたします。しかしながら、どうせ多勢に無勢、永いことではありますまい。親分、最後のおたのみでございます。王様をお引取りなさるんなら、どうかこの安亀が死んだのを見届けてからになすって下さいまし。ご無理を申します」

「そうか。では、やるぞ」

「はい、どうかご存分に」

「安亀、短い縁だったなア」

安亀はスックリと立上る。この時、安亀の顔にはもう涙のあとさえなかった。蒼白い面上に決然たる凄気を漂わせ、キット寅造と眼を見合わせると、床に膝をついている一人に、

「おい、親分をお送り申せ」

といった。

戦闘は二十分で終った。廃屋から撃ち出す弾丸は、始めのうちは、勢い当るべからざるていに見えたが、そのうち追々間遠になり、やがてばったり聞こえぬようになってしまった。

廃屋の中に入って見ると、そこに壮烈な光景が展開されていた。おびただしい弾丸をことごとく撃ちつくし、最後に生き残った三人は互いに刺しちがえて死んでいたのである。

廃屋の中を隅なく捜したが、王様の姿はなかった。王様は初めからここにはいなかったのである。安亀の手の中にこんな手紙があった。金釘流の稚拙な文字でこんなふうに書かれてあったのである。

王様はここにはいない。嘘をいって済まぬ。岩井さんを東京から落すために、こんな騒ぎをしたのだ。親分ゆるしてくれ。

もう長々と書く必要はあるまい。この事件の結末をエピローグふうに述べよう。

一月元日の早朝以来、警視庁が全機能をあげて必死の努力を続けた甲斐もなく、とうとう規定の時間までに皇帝を捜し出すことは出来なかった。フランス大使の乗った汽車は四時二十分に東京駅に到着し、大使は直ちに帝国ホテルに伺侯した。

支配人の案内で大使が応接間へ入って行くと、ゆっくりと扉を排して王様が出てこられた。いつものように、ノンシャランな口調で、

「おはよう。あなたがいらしたのは、帰国の勧告でしょうか、それとも、ダイヤモンドのことでしょうか。どちらにしろ、わざわざこんなに早くお出でになるには及ばなかったのでした」

といって、チョッキのかくしから、あの大ダイヤモンドを取り出し、それをほのぼのと机の上に差し置かれた。

王様をホテルにかえしたのは安亀だったのである。岩井との約束の手前、加十を身代りに時計台へつるし、本当の王様をそっとホテルへかえして置いたのだった。

有楽町の通りを一人の酔漢が口笛を吹きながら蹣跚たる足どりで歩いて行く。どこにもあの壮烈な戦闘のあとなどはない。月が空からそれを見ている。魚河岸を出た初荷のトラックが、ブリキ罐を叩きながら威勢よく尾張町の方からやってくる。この大都会の最初のどよめきがいま始まろうとしているのである。

ちょうどこのころ、両国駅の始発列車の片隅に、古風なインバネスの襟を立て、秋風落莫たる面持で眼を閉じている一人の人物があった。あの優しげな花の写真を胸に秘め、いま東京を立ち去ろうとするあの不幸な真名古の姿であった。

(完結)

底本 / Source edition

底本:「久生十蘭全集 ※[#ローマ数字1、1-13-21]」三一書房
1969(昭和44)年11月30日第1版第1刷発行
1989(平成元)年2月28日第1版第7刷
初出:「新青年」博文館
1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月
※「シャンペン酒」と「シャンパン酒」、「煖炉棚」と「煖爐棚」の混在は、底本通りです。
※「三鞭酒」に対するルビの「シャンペン」と「シャンパン」の混在は、底本通りです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※誤植を疑った人物名は、底本の他の箇所の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月5日作成
2023年8月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/046076_001224/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/046076_001224/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/046076_001224/

久生 十蘭「魔都」(新字新仮名)、底本『久生十蘭全集 Ⅰ』三一書房、1969年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 046076_001224, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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