<ruby><rb>享保</rb><rt>きょうほう</rt></ruby>十八年、九月十三日の朝、<ruby><rb>四谷</rb><rt>よつや</rt></ruby>塩町のはずれに小さな道場をもって、義世流の剣道を指南している鈴木伝内が、奥の小座敷で茶を飲みながら、<ruby><rb>築庭</rb><rt>ちくてい</rt></ruby>の秋草を見ているところへ、<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の主水が入ってきて、さり気ないようすで庭をながめだした。

「これからお上りか」とたずねると、「はっ、上ります」と愛想よくうなずいてみせた。

伝内は主水がかねてなにを考え、なにをしようとしているかおおよそのところは察していたが、いつにないとりつくろったような笑顔を見るなり、「いよいよ今日だな」と、そう感じた。今日、<ruby><rb>池</rb><rt>いけ</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>の<ruby><rb>下邸</rb><rt>しもやしき</rt></ruby>で<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の月見の宴があるが、主水は御前で思いきった乱暴をする決心でいる。心が通じあっているので、いまさら言置くこともなかったが、あまりみじめな終りにならぬよう、士道の吟味に関することだけは確かめておきたいと思った。たとえどのような<ruby><rb>無嗜無作法</rb><rt>むしぶさほう</rt></ruby>を働いても、主従の間でなすまじきことだけは、断じてせぬという<ruby><rb>戒懼</rb><rt>かいぐ</rt></ruby>のことである。

上杉征伐に功のあった三河の鈴木伝助の<ruby><rb>裔</rb><rt>すえ</rt></ruby>で、<ruby><rb>榊原</rb><rt>さかきばら</rt></ruby>に仕えて代々<ruby><rb>物頭</rb><rt>ものがしら</rt></ruby>列を勤めてきたが、伝内は神田お玉ヶ池の秋月<ruby><rb>刑部</rb><rt>ぎょうぶ</rt></ruby>正直の高弟で義世流の達人であり、無辺無極流の<ruby><rb>槍</rb><rt>やり</rt></ruby>もよく使うので、先代政祐のとき、番頭兼用人に進んで役料とも七百石を<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>わるようになった。

主水は伝内の独り子で、前髪があって小主水といっていたころから政祐の給仕を勤めていたが、生れつき器量がよく、評判のある<ruby><rb>葺屋</rb><rt>ふきや</rt></ruby>町の色小姓でさえ、主水の前へ出ると<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>で顔を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>って恥らうというほどの美少年だったので、<ruby><rb>寵愛</rb><rt>ちょうあい</rt></ruby>をうけて<ruby><rb>近習</rb><rt>きんじゅ</rt></ruby>に選ばれ<ruby><rb>擬作高</rb><rt>ぎさくだか</rt></ruby>百石の<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめし</rt></ruby>料をもらった。主水の<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>は当時たぐいないほどのものだったらしい。<ruby><rb>膚</rb><rt>はだ</rt></ruby>がぬけるように白く、すらりとした<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>つきで、女でさえ<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましがるような長い<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の奥に、液体のなかで泳いでいるような世にも美しい眼がある。人形にもならず、といって絵にもならず、生れながらそなわった品のいい<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>があって、いちど見ると、久しく思いが残って忘れかねたということである。

近習時代のことだが、髪は白<ruby><rb>元結</rb><rt>もとゆい</rt></ruby>できりりと巻いた<ruby><rb>大髻</rb><rt>おおたぶさ</rt></ruby>で、<ruby><rb>白繻子</rb><rt>しろじゅす</rt></ruby>の下着に褐色無地の<ruby><rb>定紋附羽二重</rb><rt>じょうもんつきはぶたえ</rt></ruby>小袖、献上博多白地<ruby><rb>独鈷</rb><rt>とっこ</rt></ruby>の角帯に<ruby><rb>藍棒縞仙台平</rb><rt>あいぼうじませんだいひら</rt></ruby>の裏附の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>、<ruby><rb>黒縮緬</rb><rt>くろちりめん</rt></ruby>の紋附羽織に<ruby><rb>白紐</rb><rt>しろひも</rt></ruby>を胸高に結び、大振りな大小に七分<ruby><rb>珊瑚玉</rb><rt>さんごだま</rt></ruby>の<ruby><rb>緒締</rb><rt>おじめ</rt></ruby>の<ruby><rb>印伝革</rb><rt>いんでんがわ</rt></ruby>の下げものを腰につけ、白足袋に福草履、朱の房のついた寒竹の<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を手綱に持ちそえ、朝々、馬丁を従えて三河台の馬場へ通う姿は、迫り<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>るべからざるほどの気高い美しさをそなえているので、毎度、<ruby><rb>見馴</rb><rt>みな</rt></ruby>れている町筋の町人どもも、その都度、<ruby><rb>吐胸</rb><rt>とむね</rt></ruby>をつかれるような息苦しさを感じて、眼を伏せるのが常だったとつたえられている。

伝内は秋月刑部門下の三傑の一人といわれたほどの剣客だったが、<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby>三番町で泰平真教流の道場を開いている兄の小笠原十左衛門に主水を預け、弓は竹林派の高須十郎兵衛に、柔術は吉岡<ruby><rb>扱心</rb><rt>きゅうしん</rt></ruby>流の吉岡次郎右衛門に、馬術は大坪流の鶴岡丹下に学ばせた。

享保十年の春、主水は元服して鉄砲三十<ruby><rb>梃</rb><rt>ちょう</rt></ruby>頭に任命され、<ruby><rb>本知行</rb><rt>ほんちぎょう</rt></ruby>二百石取になり、その年、同藩の物奉行<ruby><rb>明良</rb><rt>あきら</rt></ruby>重三郎の次女安を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>った。翌年、太郎を生み、つづいてお徳が生れた。

享保十七年の八月二十九日に政祐が死に、分家の榊原勝直の四男が、<ruby><rb>式部大輔政岑</rb><rt>しきぶたいふまさみね</rt></ruby>と名をかえて姫路十五万石を相続することになった。大須賀<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>といって、本家の家中客人分として、三百石の合力米をもらっていた<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>同然の身分だったが、先年、兄の<ruby><rb>勝興</rb><rt>かつより</rt></ruby>が早世したので、不意に千石の旗本におしあげられ、こんどは政祐の死で急養子にとられ、たちまち<ruby><rb>播州</rb><rt>ばんしゅう</rt></ruby>姫路の城主になりあがった。

十月、家督相続がすみ、<ruby><rb>能勢因幡守</rb><rt>のせいなばのかみ</rt></ruby>の二女竹姫を奥方に迎え、それぞれに新知、加増、<ruby><rb>役替</rb><rt>やくがえ</rt></ruby>があった。これまでは、<ruby><rb>御代替</rb><rt>おだいがわり</rt></ruby>になってもこれというほどの異動はなかったが、こんどは思い切った御仕置で、先代の側仕えをしていた向きは、大目附役、<ruby><rb>大番頭</rb><rt>おおばんがしら</rt></ruby>、寄合以下、番頭、用人、給仕の果てにいたるまで、一人残らず君側から下げられ、若殿附と称する分家の番頭や、客分当時の用人小姓と入替になった。番頭、用人といえばいかめしいが、いずれも能太夫、狂言方、連歌<ruby><rb>俳諧師</rb><rt>はいかいし</rt></ruby>、狂言作者などの上りで、そのなかには島田<ruby><rb>十々六</rb><rt>とどろく</rt></ruby>という品川本宿の遊女屋の次男坊までいた。遊興の<ruby><rb>取持</rb><rt>とりもち</rt></ruby>を勤めと心得ている<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>もないてあいばかりだが、新規に目附になった<ruby><rb>押原右内</rb><rt>おしはらうない</rt></ruby>という男は、お家騒動で改易になった<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>の浪人者で、御留守居与力をやめて<ruby><rb>豊後節</rb><rt>ぶんごぶし</rt></ruby>の三味線弾きになり下った、原武太夫の推薦で大須賀の用人格になったものだが、こんどはまたお糸という娘をお側へ上げ、その功労で大目附の役にありついたという評判だった。

こういう思いきった役替は、そもそも誰の<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>きによるのかと、寄り寄り<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>してみたところ、あにはからんや、押原右内一人の方寸から出ていることがわかった。宝永六年の二月、<ruby><rb>家宣</rb><rt>いえのぶ</rt></ruby>が将軍宣下をすると同時に、綱吉の近臣を残らず<ruby><rb>罷免</rb><rt>ひめん</rt></ruby>した故実をひき、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もらしい献策をしたのを、政岑がそのままとりあげたのである。聞いたものはみな無念に思い、三河以来、<ruby><rb>御懇意</rb><rt>ごこんい</rt></ruby>をねがった譜代の家来も、一朝にしてかような取扱いを受けるのかと、行末を<ruby><rb>儚</rb><rt>はかな</rt></ruby>んでお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を願うものが出てきた。

口切りは大番頭千石取津田伴右衛門で、<ruby><rb>向後</rb><rt>こうご</rt></ruby>、他家へは一切奉公いたすまじき<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>、誓を立てて御暇をねがい、つづいて物頭四百五十石、荻田甚五兵衛、寄合五百石、<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>左衛門、<ruby><rb>使番</rb><rt>つかいばん</rt></ruby>大番頭五百石多賀一学などが<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまご</rt></ruby>いをして<ruby><rb>匇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>に退散した。主水の父の伝内は番頭兼用人から勘定役頭取に役替になったが、<ruby><rb>御納戸</rb><rt>おなんど</rt></ruby>の役は勤めかねると辞退すると、それであらためて御暇になった。

<ruby><rb>播磨守</rb><rt>はりまのかみ</rt></ruby>政岑は、分家とはいえ門地の高い生れだけあって、顔に間の抜けたところがなく、容貌はむしろ立派なほうだが、ツルリとした<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>好みの<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>がいかにも芸人<ruby><rb>染</rb><rt>じ</rt></ruby>みたふうにみえ、殿様らしい威容はどこにもなかった。甲高いよく<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>る声で早口にものをいい、かならず人先に発言し、<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な話にも<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>や地口をまぜ、<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>するような言いかたをする。剣槍弓馬から仕方舞、豊後節、役者の<ruby><rb>真似事</rb><rt>まねごと</rt></ruby>まで、なにによらず一と通りのところまでやるので、<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の器量の持主のように買いかぶられるが、内実は我意の強い狭量な気質で、<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>るものや<ruby><rb>諂</rb><rt>へつら</rt></ruby>うものは大好きだが、差図がましいことを言われるのは大嫌いで、時としては狂気したように激怒することがある。酔うととりとめなくなり、いつぞやなどは吉原の往来端で、人立ちをはばからずに矢の根五郎の<ruby><rb>振事</rb><rt>ふりごと</rt></ruby>の真似をしてみせ、大方の物笑いになったようなこともあった。

播磨守政岑というのはこういう困った殿様だったが、伝内も主水も感じたことはみな心の底にとりおさめ、親子二人だけのときでも、とやかくとあげつらうようなことは一度もなかった。おのれの主人の欠点を数えたてるなどは、武士の<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>みとしてあるまじきことで、どういう場合でも断じてしないものなのである。

そういううちにその年も終り、十八年、<ruby><rb>癸丑</rb><rt>みずのとうし</rt></ruby>の年になった。前年、西南諸道で米がとれず、<ruby><rb>大飢饉</rb><rt>だいききん</rt></ruby>になって餓死するものが出た。正月匇々、江戸に米<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>が起き、奥州米を<ruby><rb>運漕</rb><rt>うんそう</rt></ruby>してお救い米を出す騒ぎになったが、政岑は、これも家督して間もない<ruby><rb>尾州</rb><rt>びしゅう</rt></ruby>名古屋の城主、<ruby><rb>従三位権中納言</rb><rt>じゅさんみごんちゅうなごん</rt></ruby>宗春と連れだって吉原へ出かけ、<ruby><rb>驕奢</rb><rt>きょうしゃ</rt></ruby>のかぎりをつくして江戸中の<ruby><rb>取沙汰</rb><rt>とりざた</rt></ruby>になった。

天和の頃、綱吉が武家<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>十五ヶ条で大名旗本が遊里に入ることを禁じてから、吉原で大名の姿を見かけたのは、五十年以来のことだったばかりでなく、取巻きの原武太夫以下、はらやの<ruby><rb>小八</rb><rt>こはち</rt></ruby>、湯屋の五平、ねずの<ruby><rb>三武</rb><rt>さんぶ</rt></ruby>という連中の<ruby><rb>扮装</rb><rt>ふんそう</rt></ruby>が<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>ものだったので、いっそう評判になった。その頃は一般に合せ<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>にして髪は引詰めて結う風だったのに、<ruby><rb>髻</rb><rt>もとどり</rt></ruby>を大段に巻きたて、<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>は<ruby><rb>針打</rb><rt>はりうち</rt></ruby>にして元結をかけ、地にひきずるほどの長小袖の袖口から<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>を二寸もだし、着流しに<ruby><rb>長脇差</rb><rt>ながわきざし</rt></ruby>、ひとつ<ruby><rb>印籠</rb><rt>いんろう</rt></ruby>という異様な<ruby><rb>風態</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>だったので、人目をひかぬはずもなかったが、<ruby><rb>尾張</rb><rt>おわり</rt></ruby>の殿様も姫路の殿様も、<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>なしの<ruby><rb>素面</rb><rt>すめん</rt></ruby>で、茶屋と三浦屋の間を遊行するという至極の<ruby><rb>寛濶</rb><rt>かんかつ</rt></ruby>さだった。

またこんなこともあった。おなじ正月の十一日、<ruby><rb>池</rb><rt>いけ</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>の下邸に尾張侯、酒井<ruby><rb>日向守</rb><rt>ひゅうがのかみ</rt></ruby>、酒井大学頭、松平<ruby><rb>摂津守</rb><rt>せっつのかみ</rt></ruby>などを招いて恒例の具足祝いをしたが、酒狂乱舞のさなか、見あげるような<ruby><rb>蓬莱山</rb><rt>ほうらいさん</rt></ruby>のつくりものを据えた十六人持ちの<ruby><rb>大島台</rb><rt>おおしまだい</rt></ruby>を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎだし、播磨守が手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>つと、蓬莱山が二つに割れて、天冠に<ruby><rb>狩衣</rb><rt>かりぎぬ</rt></ruby>をつけ<ruby><rb>大口</rb><rt>おおぐち</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いた踊子が十二、三人あらわれ、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」と<ruby><rb>幸若</rb><rt>こうわか</rt></ruby>を舞った。

それですめばよかったが、取調べにきた横目に、政岑が今日はめずらしいものを聞かせると、書院の上段に<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>を掛け、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>のお糸の方に三味線をひかせて豊後節を一段ばかり語り、平服に替えて出てきて、

「御<ruby><rb>気鬱</rb><rt>きうつ</rt></ruby>のせつは、いつなりとござれ。このつぎには弾語りをご<ruby><rb>馳走</rb><rt>ちそう</rt></ruby>しよう」

と嘲弄するようなことをいった。横目の山村十郎右衛門はさすがに<ruby><rb>気色</rb><rt>きしょく</rt></ruby>を損じ、苦い顔で帰って行った。

<ruby><rb>放埒</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>だけならまだしも助かるが、<ruby><rb>殊更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>、幕府の<ruby><rb>忌諱</rb><rt>きき</rt></ruby>に触れるような所行ばかりする。政道に不平を抱いているかのように<ruby><rb>推測</rb><rt>おしはか</rt></ruby>られ、幕府の諸侯<ruby><rb>取潰</rb><rt>とりつぶ</rt></ruby>しの政策に口実を与えるような危険な状態になった。<ruby><rb>御家門</rb><rt>ごかもん</rt></ruby>の越後侯ですら、家中仕置不行届で領地を召しあげられ伊予の果てへ<ruby><rb>押籠</rb><rt>おしこ</rt></ruby>めになった。いかに榊原氏が御譜代でも、いざとなれば<ruby><rb>参酌</rb><rt>さんしゃく</rt></ruby>はないのである。

伝内が四谷のほとりに身を落着けたころ、主水がこんなことをいった。

「忠義な士が、忠義でもないことをして、忠義と思って死んで行く。善人と善人が命を削り合っていよいよ世の中をむずかしくする。情けないものですな」

「というのは」

「忠義ばかりでは、いやさ、善人ばかりでは国も家も立てかねるということです。榊原の家には悪人が不足しているが、それが不幸の源なのだと思って<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>ります」

といって帰って行った。

読みが深すぎて伝内にはなんのことか理解できなかったが、しばらくしてから思いあたった。

黒田長政の後継、黒田<ruby><rb>右衛門佐</rb><rt>うえもんのすけ</rt></ruby>忠之は放縦の行跡がつのって政道が乱れ、<ruby><rb>鳳凰</rb><rt>ほうおう</rt></ruby>丸の建造や足軽隊の新設など、幕府の忌諱に触れるような事件が続発するうえ、幕府に不満の<ruby><rb>駿河</rb><rt>するが</rt></ruby>大納言忠長と懇談したというようなことから、大いに<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まれた。<ruby><rb>栗山大膳</rb><rt>くりやまたいぜん</rt></ruby>は苦肉の一策を案じ、忠之に逆謀ありといって五十六ヶ条の罪案をかまえ、主侯を相手どって公儀に出訴し、対決の結果、かえって忠之に逆心のないことを幕府に確めさせ、辛くも黒田の家を救った。武士として不忠不義の汚名を着る以上の大きな犠牲はない。終生、<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いようのない悪名を忍んで士道の吟味を貫いた栗山大膳こそ、無類の忠誠の士なりと、<ruby><rb>大石内蔵之助</rb><rt>おおいしくらのすけ</rt></ruby>が賞揚したと聞いたが、そのことを言ったのだと推量した。

主水はなにかしらの<ruby><rb>存念</rb><rt>ぞんねん</rt></ruby>を胸にひそめているらしい。それは<ruby><rb>起居振舞</rb><rt>たちいふるまい</rt></ruby>やものの言いかたが、この頃なんとなく変ってきたことでもわかる。主水はもう二人の子持ちで、<ruby><rb>大髻</rb><rt>おおたぶさ</rt></ruby>に結っていたころのような水の垂れるような美少年ではない。顔は<ruby><rb>薄皮</rb><rt>うすかわ</rt></ruby>立って色が美しく、いまでも目をそばだたせるが、肩幅が張って上背が増し、キッタリとして<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>のつきがよくなった。<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>のあとが青々とし、口元にゆるみがなく、太く静かな声が、堅く結ばれた唇から口重に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れてくるところなどは、いかにも沈着な人のように見える。もともとおとなしい<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>で、<ruby><rb>圭角</rb><rt>けいかく</rt></ruby>のあるようすを見せたことはなかったが、最近は別して柔和になり、挙止動作に丸味が出来、春草が風に<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>くようなやさしい立居をするようになった。

主水の存念はどのようなものか、伝内とても奥底まで洞察しているわけではないが、長年、御懇意をねがってきた老臣どもに、いっこうに勘弁がなく、みな身を退いて離散してしまったというのに、主水のような若輩に一分の志がうかがわれるのが、ふしぎなものを見るような気がしてならない。なにごとをしようと<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>んでいるのか知らないが、しかしながら主水の手にあうようには思えない。上邸にも下邸にも、昨日まで<ruby><rb>小唄</rb><rt>こうた</rt></ruby>や<ruby><rb>囃</rb><rt>はやし</rt></ruby>で世渡りをしていた、素姓も知れぬ<ruby><rb>輩</rb><rt>てあい</rt></ruby>が黒羽二重の小袖に着ぶくれ、駄物の大小を<ruby><rb>貫木差</rb><rt>ぬきぎざ</rt></ruby>しにしてあらぬ権勢をふるい、奥はまた奥で、お糸というあやしげな<ruby><rb>欠込女</rb><rt>かけこみおんな</rt></ruby>が押原右内の娘と偽って寝所の<ruby><rb>裀褥</rb><rt>おしとね</rt></ruby>へ入り込み、薄毛の鬢を片はずしに結い、大模様の<ruby><rb>裲襠</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>を<ruby><rb>絆纏</rb><rt>はんてん</rt></ruby>のように着崩す飛んだ御<ruby><rb>中﨟</rb><rt>ちゅうろう</rt></ruby>ぶりで、呼出し茶屋の女房やら、堺町の踊子、木戸茶屋の娘、吉原のかぶろ、女<ruby><rb>幇間</rb><rt>ほうかん</rt></ruby>、唄の小八などというむかしの<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>をひきこみ、仲ノ町の茶屋か芝居の楽屋のような騒ぎをしているそうな。見たわけではないが、おおよその察しはつく。そのうえ新規御抱えの近習なるものは、まったくもって沙汰のかぎり。主侯にはどこまでひねくれたまうのか、人がましいまともな<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>つきを嫌い、目っかちやら<ruby><rb>兎口</rb><rt>みつくち</rt></ruby>、耳なし、鼻欠と、醜いものを<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>して十数人も抱えになり、<ruby><rb>多介子</rb><rt>たすけご</rt></ruby>重次郎、清蔵五郎兵衛という浪人上りの<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>屋に赤鬼黒鬼と異名をつけ、二百石の知行を与えて近習の取締にしているという法外千万な仕方である。

代々、御懇意をねがった譜代のものどもが、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>にお暇をねがって退散したのは、いわれないことではない。たびたびの前例によって、いちどお家が乱れだしたら、どう手をつくしても、一家離散にまで行きつくことを知っているからである。<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>は、愚痴と悪念が修羅の大猛火を燃やす魔界の<ruby><rb>現出</rb><rt>げんしゅつ</rt></ruby>なのであって、条理もなければ理非もない。いわんや人情などの通じる世界ではない。火中に栗を拾う<ruby><rb>譬</rb><rt>たとえ</rt></ruby>で、なまじっかなことをすれば、<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>をするだけではすまない。主水にどのような<ruby><rb>目途</rb><rt>めど</rt></ruby>があるとしても、まずまず成功は<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないように思われた。

<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>の花むらを見ている静かな主水の横顔を、伝内はわきからながめていたが、主水の今日の身仕舞に軽薄なほど派手な<ruby><rb>気味合</rb><rt>きみあい</rt></ruby>のあることに気がついた。

薄小袖の紋服に<ruby><rb>茶宇</rb><rt>ちゃう</rt></ruby>の袴は毎日の出仕の<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>だが、袖口から薄紅梅色の下着の端がのぞきだしているのが異様である。見れば芝居者のように<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>を広くあけ、髷は針打にして細身につくり、なにか<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>げたざまになっている。一度もなかったことなので、どういう心の傾きなのか、そのほうを先に聞いてみたくなった。

「今夜は、後のお月見があるそうだ」

「さようでございます」

「思いもかけない仕合せだったな」

「仕合せとは、なにが」

「野呂勘兵衛が小栗<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>を討つため、日雲閣へ<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>りこんだのも、やはり月見の宴の折だったそうな。総じて<ruby><rb>館</rb><rt>やかた</rt></ruby>の討入りには、順法と逆法がある。いずれとも<ruby><rb>時宜</rb><rt>じぎ</rt></ruby>に従うのはいうまでもないが、目ざす敵を一人だけに限っておくのが定法だ。その辺の心得がなかったので、野呂はやりそくなったのだとみえる。ときに、貴様が討果したいと思っているのは、男か女か」

「これはまた意外なことを。男にも女にも、討ちたいものなどありません」

「先日、<ruby><rb>明良</rb><rt>あきら</rt></ruby>の邸へ参ったとき、十三日の後の月見こそ、<ruby><rb>一期</rb><rt>いちご</rt></ruby>の折というようなことを申したそうな。なんのことだ」

「今夜の御宴会に<ruby><rb>連舞</rb><rt>つれまい</rt></ruby>をいたすことになって<ruby><rb>居</rb><rt>お</rt></ruby>ります、そのことです」

「連舞を。誰が」

「手前が」

「貴様に舞など舞えるのか」

「この程から<ruby><rb>幸若秀平</rb><rt>こうわかしゅうへい</rt></ruby>に舞を習って居ります。いちどお目にかけましょう」

「どのような所存で」

「郷に入っては郷にしたがう。こうなくては、勤めかねます」

「すりゃ、その<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>と<ruby><rb>装束</rb><rt>そうぞく</rt></ruby>は、舞を舞うためのものか」

「さようでございます」

伝内はまじまじと主水の顔を見ていたが、大きな声で、

「たわけ」

と一喝すると、荒々しく座から立って行った。

当夜の客には、尾張宗春<ruby><rb>卿</rb><rt>きょう</rt></ruby>、酒井日向守、松平<ruby><rb>和泉守</rb><rt>いずみのかみ</rt></ruby>、松平<ruby><rb>左衛門佐</rb><rt>さえもんのすけ</rt></ruby>、御親類は能勢因幡守、榊原七郎右衛門、同大膳などがいた。

月が出ると、<ruby><rb>不忍池</rb><rt>しのばずのいけ</rt></ruby>を見おろす二階の大広間に席を移してさかんな酒宴になった。<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>い萩の<ruby><rb>裾模様</rb><rt>すそもよう</rt></ruby>のある<ruby><rb>曙染</rb><rt>あけぼのぞ</rt></ruby>めの小袖に白地錦の帯をしめた<ruby><rb>愛妾</rb><rt>あいしょう</rt></ruby>のお糸の方が、金扇に月影をうつしながら<ruby><rb>月魄</rb><rt>つきしろ</rt></ruby>を舞っていると、御相伴の家中が控えた次ノ間の下座から、

「女め、誰も知らぬと思って、晴がましく舞いおるわ」

という声がかかった。

最初の一と声は、三味線や琴の音に消され、近くの者しか気がつかなかったが、野太い声でつづいて三度ばかり叫んだので、こんどは誰の耳にもはっきりと聞えた。

唄と囃が一時にやみ、風が落ちて海が<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>いだような広間の上座から、播磨守が<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>を立てた<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>んだ顔で次の間のほうを<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけながら、

「いま、なにか申した者、これへ出ろ」

と<ruby><rb>歯軋</rb><rt>はぎし</rt></ruby>りをするような声をだした。

主水は朋輩のうしろに<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>に手を置いてうつむいていたが、そう言われると、逃げ隠れもできない。はっといって広間の<ruby><rb>閾際</rb><rt>しきいぎわ</rt></ruby>まで<ruby><rb>膝行</rb><rt>いざ</rt></ruby>り出て、そこで平伏した。

「何者だ、名を名乗れ」

播磨守が膝を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>した。主水は顔をあげてこたえた。

「御鉄砲三十梃頭、鈴木主水にございます。なにとぞ、お見知りおきを」

「鉄砲持ちには出来すぎた面だ。舞っている女がどうこうと<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬか</rt></ruby>したを、たしかに聞いた。もう一度そこで申してみろ」

「はずみに申した<ruby><rb>下司</rb><rt>げす</rt></ruby>の<ruby><rb>痴言</rb><rt>たわごと</rt></ruby>、お聞捨てにねがいます」

「はずみとは言わせぬ。三度もおなじことを申したは、所存があってのことだろう。聞いてやる、隠さずに言え」

主水はいよいよ平伏して、御高家御同座では申しあげかねることなので、おゆるしねがいたいと言うと、宗春卿はお糸の方のほうへ<ruby><rb>底意</rb><rt>そこい</rt></ruby>のある眼づかいをしながらニヤニヤ笑いだした。同座の一統もとんだ座興とばかり、<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をひかえて聞くかまえになった。言え、言われぬの掛合のうちに政岑は<ruby><rb>焦立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>って来、<ruby><rb>佩刀</rb><rt>はいとう</rt></ruby>をひきつけて片膝を立て、いまにも斬りつけるかという切羽詰ったようすになったので、主水も覚悟をきめたらしく、「お耳の汚れとは存じますが、では申します」といってこんな話をした。

そこにおいでの御中﨟は、町方にいてお糸といっていられた頃、<ruby><rb>馴合</rb><rt>なれあ</rt></ruby>った踊の朋輩だった。いつか思い思われる仲になり、行末を<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>ったこともあったが、そのうちに仲絶えて行会えぬようになった。<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>は胸にとまって忘れたこともなかったが、このほど押原殿の養女として、上のご<ruby><rb>寵愛</rb><rt>ちょうあい</rt></ruby>になったのは意外ともまた意外。いちど懇談して、その折の思いを通じたく存じていたが、中ノ門は固くて忍ぶに忍ばれず、もだもだしていたところ、七月はじめの<ruby><rb>宿居</rb><rt>とのい</rt></ruby>の夜、ゆくりなく御腰掛の<ruby><rb>端居</rb><rt>はしい</rt></ruby>で<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>い、積る話をして本意をとげた。そのとき、また逢うまでの思い草に舞扇を預ったが、それこそ秋の扇となりはてて、その後は風の便りもない。今夜、月見の御相伴にあずかり、下座にいてお糸の方の踊を拝見していたが、あまりの白々しさに腹がたち、我を忘れて<ruby><rb>尾籠</rb><rt>びろう</rt></ruby>なことを口走ったという次第を述べ、言い終ってまた平伏した。

播磨守の顔色が変ったようにみえたが、すぐ、ひょうげた顔になってお糸の方のほうへふりかえった。

「聞いたか。また逢うまでの思い草に、そちから扇を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ったと言っている」

「聞きました」

「町方にいるとき、そちと踊の朋輩だったそうな」

「そう申しておりました」

「庭先へ<ruby><rb>蹴落</rb><rt>けおと</rt></ruby>してくれよう。<ruby><rb>色呆</rb><rt>いろぼ</rt></ruby>けて、とりとめなくなったとみえる。その扇であやつの頭を叩いてやれ」

「でも」

「打て、存分に打ち据えろ」

お糸の方は顔を<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>けていたが、崩れるように畳の上に両手をついた。

「申訳ございません」

そういうと、曙染めの<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に顔をおしあてて泣きだした。播磨守は<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>を押しのけて<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>から膝を乗りだし、崩れた花のようなお糸の方の襟足のあたりを、強い眼つきで睨めつけた。

「あやつの言ったことは本当か、おぼえがあるのか。泣いていてはわからぬ、顔を上げい」

お糸の方は顔をあげると、涙に<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れた長い<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>を伏せて膝のあたりに眼を落した。

「腰掛の端居で、忍び逢ったというのは、本当か」

「はい」

「扇を遣わしたというのも」

「ご存分に遊ばして」

下座から寿仙という幇間が飛びだしてきた。ツルリと<ruby><rb>禿</rb><rt>は</rt></ruby>げあがった頭のてっぺんを扇子の先ではじいて、

「いや、出来ました。これまたご趣向な。荻野万助、左七、べっこう、<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>でございます。そこで一句……秋の人と成おおせけり月の宴」

と、ぺこりと頭をさげた。

立田川清八という関取が飛びだす、<ruby><rb>俳諧師</rb><rt>はいかいし</rt></ruby>の貞佐が飛びだす。わいわい言いながらはぐらかしてしまった。播磨守は苦笑いをしながら盃を含んでいたが、白けた声で主水にいった。

「そこな鉄砲持ち、ここへ来い、前へ出ろ」

主水はおそるおそるの<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>で前に進んだ。

「ここな女と並んで坐れ」

主水は言われたようにお糸の方と並んで坐った。

「いかにも朋輩らしい面つきよ、似合うぞ、ついでのことに連れて舞え。舞ってみせろ」

そうして、下座にひかえた押原右内にいいつけた。

「こいつらを<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り合せて連舞を舞わせろ。原富は三味を弾け、庄五郎は唄え」

はっ、といって押原右内が立ちあがった。

主水は勘当になり、湯島のお長屋を出て青山<ruby><rb>権田原</rb><rt>ごんだわら</rt></ruby>の借家に移った。竹の垣根に野菊が倒れかかり、野分のあとのもの<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>をみせている。代々木の森が明るいぬけ色になり、朝々、霜が降りるようになった。

格別、落ちこんだような気もしない。<ruby><rb>愁</rb><rt>うれ</rt></ruby>いもない。<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>にどこといって違和はないが、あの夜以来、気持にしまりがなくなった。寝るときのほか、ついぞ<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をはなしたことはなかったが、この頃は着流しで、帯も巻帯のままである。妻のお安は縁端で縫物をしながら、太郎とお徳を遊ばせている。勘当になったいきさつは、もとより知りぬいているはずだが、たわけな亭主だと思い捨てたかして、そのことには一言もふれない。生来、気性の勝った女なのである。

主水は縁の陽だまりで膝を抱えて空を見ていたが、いかにも所在がないので、

「おい」

とお安を呼んでみた。お安は膝の上から縫物を払って、こちらへ向きかえた。落着きはらった自若とした眼つきである。

「いや、なんでもない」

お安はまた縫物を取りあげた。

お安はなにか考えているが、なにを考えているのか主水にはわからない。女というものは誰もみな<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんでも底の見えない、深い<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>のようなものを一つずつ胸のうちに持っているように思えてならない。

「女の心はわからない」

主水は口のなかで<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

後の月見の宴で、主水は群舞にまぎれてお糸の方を刺すつもりだった。もっとも、お糸の方と限ったわけではない。押原右内でも、多介子でも、ねずの三武でも、誰でもよかったが、おなじ目ざましをくれるなら、花々しいほうがよかろうと思ったのである。

一藩の仕置をつかさどる譜代の重役が、<ruby><rb>卒爾</rb><rt>そつじ</rt></ruby>なざまで逃げるようにこそこそと退散するのを、主水は遺憾に思っていた。家中の違和に非理をたてようとすると、かえって<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわい</rt></ruby>を大きくするということを、これまでの例で身に<ruby><rb>染</rb><rt>し</rt></ruby>みて承知した。争うことは内輪の<ruby><rb>紛擾</rb><rt>ふんじょう</rt></ruby>を外部に発表する愚を招くだけでしかない。対立は禁物だ。家中の乱れは隠秘するにかぎる。見ていれば言いたいことも出てくるが、見なければ意見もない道理で、身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くことがすなわち忠義なのである。趣意のすじはよく通る。通りすぎておかしいくらいだが、なにか一点、溶けあえぬものがある。家を思い国を思う真心は、見ねばすむといった<ruby><rb>浅墓</rb><rt>あさはか</rt></ruby>なものではないようである。ではどうするといって、主水の頭から答えは出て来ないが、愚にもつかぬ悪党どもが、自由<ruby><rb>気儘</rb><rt>きまま</rt></ruby>に<ruby><rb>跳梁</rb><rt>ちょうりょう</rt></ruby>するのを見すごしていては士道の一分が立ちかねる。この世に正邪の別のあることを、せめて思い知らしてやりたい。悪党ばらの一人を刺して、目ざましをくれてやろうと思ったのは、こういう気持からであった。

この頃、酒宴のさなかに踊の心得のあるものが群舞をして興を添えることが恒例になっている。刺したいと思う者はみな群舞の仲間にいる。平素は中門にへだてられて近づくことが出来ないが、その機ならば素懐を遂げられる望みがある。

あの夜、主水は群舞の仲間に入れられ、相手はお糸の方ときめ、続きの間の下座で時のくるのを待っていた。この女体は押原右内の道具のようなものでしかないが、御家<ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>の源の一つはたしかにそこにあるのである。そのうちにお糸の方が舞いだした。毒のある花だが、美しいことは美しい。<ruby><rb>正目</rb><rt>まさめ</rt></ruby>に見るのはこれがはじめてだが、話に聞いていた悪性女の感じはどこにもない。少女といってもいいような<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しい<ruby><rb>稚顔</rb><rt>おさながお</rt></ruby>をしている。手足の形も未熟である。舞もかくべつ上手だというようなものではないらしい。気を張って舞っているのがその証拠である。楽しそうにはしていない。踊の手振りの間に、それとない愁い顔をする。

主水はお糸の方の舞の手振りを見ているうちに、この女を刺すということが、たいして意義のあることのようには思えなくなった。悪人ばらに、いささかの<ruby><rb>覚醒</rb><rt>かくせい</rt></ruby>を与える効果はあるだろうが、それでお家の禍根を断つというのでもない。事をするのは簡単だ。刺してその場から<ruby><rb>逐電</rb><rt>ちくでん</rt></ruby>するだけのことだが、この女が胸から血を流してのけ<ruby><rb>反</rb><rt>ぞ</rt></ruby>るざまは、見られたものではなかろう。なんといってもむごたらしすぎる。

そんなことを考えているうちに、この七月のはじめの夜、御待合の腰掛で舞扇を拾ったことを思いだした。

「女の心はわからない」

主水はもう一度そうつぶやいた。御腰掛の密会も、舞扇も、すべて当座の思いつきにすぎない。ありもせぬつくりごとだったが、どういう心であの女が承服したのかそこのところがわからない。いまもってこれは解けぬ<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>である。

聞けるものなら、誰かに聞いてみたい。お安がもうすこし気持の広い女だったら、あの夜のことを<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>に語って、そういう女の心はいったいどうしたものなのかと、<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねることもできるだろう。さっきふとお安に呼びかけたのは、どうやらそのつもりだったらしいが、それは望んでも無駄なのである。

<ruby><rb>両脇</rb><rt>りょうわき</rt></ruby>に子供をひきつけ、<ruby><rb>依怙地</rb><rt>いこじ</rt></ruby>なほど身体を<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばらせている石のようなお安の後姿を、主水は<ruby><rb>歎息</rb><rt>たんそく</rt></ruby>するような気持で見まもった。<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>を離れたといっても、明日の<ruby><rb>生計</rb><rt>たつき</rt></ruby>に困るわけではない。縫物の賃をあてにしなければならないほど<ruby><rb>逼迫</rb><rt>ひっぱく</rt></ruby>していない。物を縫う女は一人置いてある。

いつもは居づらそうにしてすぐ立って行くお安が、たどたどしく糸目を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りながら、つづきの座敷に朝から<ruby><rb>頑</rb><rt>かたくな</rt></ruby>に居坐っている。あてつけがましくていい気持がしない。恨みつらみを無言のうちに思い知らせようとしているとしか思えない。お糸の方と手を括りあわされ、満座のなかで馬鹿舞を舞わされた<ruby><rb>沙汰</rb><rt>さた</rt></ruby>のかぎりの<ruby><rb>痴</rb><rt>たわけ</rt></ruby>加減を聞かされたら、腹を立てずにはいられまい。うらめしくも、<ruby><rb>儚</rb><rt>はかな</rt></ruby>くも、情けなくもあろう。無理はないとは思うが、そうならそうで、面と向って、怒るなり泣くなりすればいいのである。

主水がそんなことを考えていると、お安は子供達を奥へやっておいて主水のそばに来て坐った。

<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>り加減の切長な眼のあたりを蒼ずませながら、素っ気ない切口上で、

「お話したいことがございます」

といった。主水は正坐して<ruby><rb>脊筋</rb><rt>せすじ</rt></ruby>を立てると、

「どういう話だ」

と<ruby><rb>殊更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>強く聞きかえした。向きあうと、かならずこういう<ruby><rb>形</rb><rt>かたち</rt></ruby>になる夫婦なのである。主水は<ruby><rb>狐拳</rb><rt>きつねけん</rt></ruby>でもしているようだと思うことがある。

「このことは、お聞きにいれない約束になっておりますが、わたし一人の胸にためておけといわれても、重荷なばかりで、気持が<ruby><rb>鬱</rb><rt>うつ</rt></ruby>してなりませんから、それで、申しあげることにいたしましたのです」

うむ、と主水がうなずいた。

「先夜、お糸さまがおいでになりました」

主水はお安の顔を見た。

「<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>には承知しておりましたが、ほんとうにお美しい方でした」

「どういう用向きで」

「舞扇を拾っていただいたお礼に、とおっしゃっていられました」

「礼などを言われる筋は、ないように思うが」

「お糸さまは、あなたに拾ってもらいたいばかりに、あなたの宿直の夜、扇を腰掛へお置きになったのだそうです。お糸さまは三河台の近くにお住いになっていたころから、あなたを慕っていらっしゃって、お忘れになる折もなかったのです。お上のお側に上る決心をなすったのは、もしか、あなたにお逢いできるかと、それだけが望みだったのだといっていられました。上のお側にいても、心はあなたのほうにばかり通い、身も世もない思いをしていらっしゃったのです」

主水は腕を組んで眼をつぶった。

「お糸さまは飯倉のお長屋に<ruby><rb>押籠</rb><rt>おしこ</rt></ruby>めなっていられたのだそうですが、このほど、吉原へ<ruby><rb>奴勤</rb><rt>やっこづと</rt></ruby>めに下げられることにきまったので、その前にお別れにいらっしゃったのです。この年から、お家で不義を働くと、女は吉原へやって、期限なし給金なしの<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>勤めをさせるという<ruby><rb>御法令</rb><rt>おきめ</rt></ruby>になったのだそうですね。死にでもしなければ、廓から出ることができない儚い境涯になって、この世ではもうお目にかかる折もないだろうが、なまじいお顔を見ると、かえって思いが残るから、逢わずにこのまま帰る、この話はあなたの胸だけにおさめて、あの方にはお聞かせくださるな、とそうおっしゃって」

九月二十七日の夜、主水は池ノ端の松永久馬という未知の人から急々の使いをうけた。用談は<ruby><rb>御面晤</rb><rt>ごめんご</rt></ruby>の節と書いてある。とるものもとりあえず<ruby><rb>宛名</rb><rt>あてな</rt></ruby>のところへ訪ねて行ったが、手紙の主は他出したまま、まだ帰っていなかった。

湯島へぬけるので、男坂を上った。まだ宵の口で、<ruby><rb>大根畠</rb><rt>だいこんばたけ</rt></ruby>の<ruby><rb>小格子</rb><rt>こごうし</rt></ruby>といっている湯島の遊女屋へ行くぞめきの客が歩いている。板倉屋敷のそばまで行くと、角の<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>屋の<ruby><rb>天水桶</rb><rt>てんすいおけ</rt></ruby>や一ト<ruby><rb>手持</rb><rt>てもち</rt></ruby>の<ruby><rb>辻番</rb><rt>つじばん</rt></ruby>小屋の陰からムラムラと人影が立ちあがった。押原右内がいる、<ruby><rb>多介子</rb><rt>たすけご</rt></ruby>重次郎がいる、松並典膳、瀬尾庄兵衛、はらやの小八、清蔵五郎兵衛、ねずの三武、それに化物の中小姓が五七人、関取の立田川までまじって、板塀の<ruby><rb>片闇</rb><rt>かたやみ</rt></ruby>をおびやかすほどに押重なっている。

急使の消息はこれでわかった。用談は御面晤の節とはよくいった。なるほど、この上のことはないわけである。

あの夜、勘当になって上の御広間から<ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>るとき政岑が、

「武家の<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>を知っているだろうな。おぼえて居れよ」

といった。お家の不義は双方討ちとむかしからきまっている。お糸の方が吉原へ奴にやられ、こちらは勘当で捨ておかれるのは、チト<ruby><rb>偏頗</rb><rt>へんぱ</rt></ruby>な御処置だと思っていたが、こういう次第に<ruby><rb>逢着</rb><rt>ほうちゃく</rt></ruby>するなら、いっそ至当の成行といっていいのである。

ねずの三武が、やッと<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>りかけてきたが、<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>の立てかたも知らぬ<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>さで、笑止なばかりであった。

はらやの小八は、えらい向う気で、

「スチャラカチャン」

口三味線でやってきた。これは胴斬りに斬って捨てた。

この仕置は一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ばかりつづき、男坂の<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>を血だらけにしたところで終った。押原右内は男坂をはね越し、新花町へ逃げこんだが、そこで仕留められた。この夜、主水は十人あまり斬っている。

<ruby><rb>元文</rb><rt>げんぶん</rt></ruby>元年の八月、内藤新宿の橋本屋で心中があった。男は鈴木主水という浪人者で、相手は白糸という遊女だった。書置があった。

手前事、長年、<ruby><rb>播州</rb><rt>ばんしゅう</rt></ruby>侯のお名を偽って遊里を<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>したが、まことにもって<ruby><rb>慚愧</rb><rt>ざんき</rt></ruby>のいたり

と書いてあった。

その年の九月十五日、榊原家の留守居に老中連名の奉書が交付された。すぐ早打で姫路へ知らせたので、親類、能勢因幡守、榊原七郎右衛門、同大膳の三人が十月の十二日に江戸へ着き、十三日に柳営へ出た。<ruby><rb>黒書院溜</rb><rt>くろしょいんだまり</rt></ruby>で老中列座の上、大目附稲生<ruby><rb>下野守</rb><rt>しもつけのかみ</rt></ruby>から書附をもって、

式部大輔儀常々不行跡に付、隠居被仰付候急度相慎可罷在候、且、大手先屋布被召上、池之端下屋布居住可仕候

という<ruby><rb>御達</rb><rt>おたっし</rt></ruby>があった。

家筋を<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>され、家督は相違なく<ruby><rb>嫡子</rb><rt>ちゃくし</rt></ruby>小平太（当年八歳、後に政永）へ下置かれる<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>、月番老中本多<ruby><rb>中務</rb><rt>なかつかさ</rt></ruby>大輔から申渡された。十一月一日、越後国<ruby><rb>頸城</rb><rt>くびき</rt></ruby>郡高田へ国替を命ぜられ、翌年、入部した。隠居の政岑は、その年、三十一歳で池の端の<ruby><rb>下邸</rb><rt>しもやしき</rt></ruby>で死んだ。鈴木主水の書置はどれほどの効果があったか知らないが、一説には、このために半地召上げを許されたともいう。「白糸くどき」のヤンレイ節が流行したのは、元文二年の末ごろからのことであった。

（<strong>昭和二十六年十一月「オール讀物」発表</strong>）