一

大正六年三月九日朝の都下の新聞紙は筆を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えて、<ruby><rb>芳川鎌子</rb><rt>よしかわかまこ</rt></ruby>事件と呼ばれたことの真相を、いち早く報道し、精細をきわめた記事が各新聞の社会面を埋めつくした。その日は<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>にも、<ruby><rb>平日</rb><rt>つね</rt></ruby>ならば読者の目を驚かせる社会記事が多かった。たとえば我国の飛行界の第一人者として、また飛行将校のなかで、一般の国民に愛され、人気の高かった天才沢田中尉が、仏国から帰朝後、以前の放縦な生活を改めて自信ある、自らの考案になった機に乗って<ruby><rb>斯界</rb><rt>しかい</rt></ruby>のために尽そうとした最初の日に墜落して名誉の犠牲者となったということや、米国大使が<ruby><rb>聖路加</rb><rt>せいろか</rt></ruby>病院で逝去されたことなどが報じられた。それらの特報は大きな注目を受けなければならないのに、多くの人の目は多くというより、その<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>くが鎌子夫人事件の見出しの、初号活字に魅惑されてしまった。

まだ世人の記憶に新らしいその事件の内容を、<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に並べないでもいいようにも思うが、けれども、ずっと<ruby><rb>後日</rb><rt>のち</rt></ruby>に読む人のためには必要があるだろう。この事件もまた二人の人間の死んだことを報じたのだが、そのうちの一人が生返ったのと、その死にかたが自殺だったのと、その間に性的問題が含まれていたのと、身分位置というものがもたらす複雑な事情があった上に、その女性が華族の当主の夫人であるという、上流階級の出来ごとであるために、世の耳目を集めたうえに、各階級の種々の立場によって解釈され、論じられたのだった。ことに新らしい思想界の人々と、古い道徳の見地に立つ人との間には、非常に相違した説を互いに発表したりした。が、そうした立場の人たちの間にこそ、同情と理解をもって論じられもしたが、その<ruby><rb>以外</rb><rt>ほか</rt></ruby>では、<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>と<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>の的となった。ことに<ruby><rb>倫落</rb><rt>りんらく</rt></ruby>した女たちは、鬼の首でも取ったかのように、<ruby><rb>得々</rb><rt>とくとく</rt></ruby>揚々として、批判も同情もなく、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど吐きだすような調子であげつらうのを聞いた。また場末の<ruby><rb>寄席</rb><rt>よせ</rt></ruby>などの下劣な芸人は白扇で額をたたいて<ruby><rb>卑狼</rb><rt>ひわい</rt></ruby>な言葉を弄したりした。堕落した学生たちは「運転手になるのだっけ」というような<ruby><rb>言辞</rb><rt>ことば</rt></ruby>をもてあそんで恥なかった。それよりも<ruby><rb>甚</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しいのは、我身の魂でなければならないはずの妻にむかって、女性はみなかくあるものだというような、奇矯な言葉を費やして、自らの品性までも低めてかえり見ないものさえあった。いうまでもなく、その事件は、<ruby><rb>爪</rb><rt>つま</rt></ruby>はじきをするのも余儀ない人妻の「心中事件」である。けれどもそれほど不倫の行為と<ruby><rb>厭</rb><rt>い</rt></ruby>む人たちが、男女<ruby><rb>相殺</rb><rt>そうさい</rt></ruby>の恋愛の苦悩を述べ、歎き訴えるものには、同情を寄せるのはどうしたものだろう。浄るりに唄われ、劇化され、小説となってその<ruby><rb>道程</rb><rt>みちすじ</rt></ruby>を語る時には納得し、正しく批評し、涙をもおしまない人たちが、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>現実のものに触れるとそうまで冷酷になるのであろう。それはいうまでもなく、芸術の高い価値はそこにあるとしても、私が不思議でならないことは、昨日あった事柄を報道するにあわせて、かくもあろうかとの推測を、その周囲からまとめあわせて、早速に初号活字にあてはめた、新聞記者の敏腕に信頼するのはよいが、あんまり引込まれすぎてしまって――それは全く、よくもこう探りだされたものであると思うほど明細で、一事一物もそのことに関係のあるものについては、<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れなく活字にされるが、けれども、それは表面だけの事実ではなかろうか。すくなくも事の真相、死のうとした二人よりほかに知らない秘密は全くの無言だ。その一人は絶息し、その一人は死の手から、ほんのこの世へ<ruby><rb>取帰</rb><rt>とりもど</rt></ruby>されたというだけの、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>のほども<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない重傷に<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>しているおり、その真相が知り得られようわけがない。こう認めた、たしかにこうだと、<ruby><rb>力</rb><rt>りき</rt></ruby>んで証明するものがあるとしたとても、それすら、二人の心からは門外漢である。そう見えたとしても、そうであったかどうだかさえ疑問であるのに、ましてや、その死に対する二人の心のうちにも、どんな別々の考えがあったかも測り知れぬではあるまいか。<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>の女と、<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>に死んでしまった男との魂が、その瞬間にも合致していたかいなかったか、それすらももう片方の者が<ruby><rb>亡</rb><rt>なく</rt></ruby>なってしまった上は、たしかめる事さえ出来はしない。ああであったろうというのは、<ruby><rb>縦</rb><rt>たとい</rt></ruby>その折の一人であった人だとて、残った者が代表して言いうる事は出来得ないであろう。ましてそれを、（そうであろう）を（そうであった）にして、<ruby><rb>鵜呑</rb><rt>うの</rt></ruby>みにしてしまって、<ruby><rb>冷罵</rb><rt>れいば</rt></ruby>するのはあまりの<ruby><rb>呵責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>ではあるまいか。

そのまた片っぽには、新聞記事を予審調書のようにして、検事のように論じるのもあれば、弁護士以上の熱弁を<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>って弁護するものもあった。小説以上に仕組んで語るものもあれば、口さきで<ruby><rb>劇</rb><rt>ドラマ</rt></ruby>につくりあげて説明するものもある。いずれも<ruby><rb>揣摩臆測</rb><rt>しまおくそく</rt></ruby>のかぎりをつくしてこの問題は長いこと社会の興味を呼んだ。大正六年中の出来ごとで一般の人心に、男女老若を問わず上下を通じて、こうまで注意された出来ごとはなかった。で、<ruby><rb>相</rb><rt>あい</rt></ruby>共に死のうとした二人の人物のうちで、どちらが他人の同情をひいたかといえば、それは自動車の運転手であった<ruby><rb>倉持陸助</rb><rt>くらもちりくすけ</rt></ruby>という青年であった。この男は即死したゆえもあろうし、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>よりは身分の低いゆえもあろうが、多くの人から同情された。悪くいうものがあったとすれば、それは「うまくやってたんだなあ」という<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>の、卑しい心持ちをもつ者ぐらいであった。

では、女性の方に対しては、どういう解釈をもったかというに、世人は侮蔑と反感を持って、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>も吐きかけかねまじき<ruby><rb>見幕</rb><rt>けんまく</rt></ruby>であった。因習にとらわれ、不遇に泣いているような細君たちまでも、無智から来る、他人の<ruby><rb>欠点</rb><rt>あら</rt></ruby>を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>れば我身が高くでもなるような眺めかたで、彼女を不倫呼ばわりをして、そういう女のあったのを、女性全体の恥辱でもあるように言ってやまなかった。けれどもそういう女たちのなかには、卑屈な服従も美徳であると思い違え、恋愛は絶対に罪悪だと信じられているからでもある。立派な紳士でさえ「<ruby><rb>沙汰</rb><rt>さた</rt></ruby>のかぎりだ」という言葉で<ruby><rb>眉根</rb><rt>まゆね</rt></ruby>をひそめただけで、彼女に対する一切を取片附けてしまったのが多かった。実際世間はその「沙汰のかぎり」という言葉をその事件に対する評語とした。それは一つは、彼女の身分が男の方とは違って、名門であり富有であったから、一種妙な、日頃の<ruby><rb>鬱憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>をはらしたような、不思議な反感と侮蔑をもって、嘲弄的だった。そしてその余憤は、彼女が倉持を殺してでもしまったようにさえ憎むのであった。もしそれが伯爵家の家附きの令夫人でなく、世間の評判のよくない物持ちなどの家に、あからさまに金で買われたように余儀なく嫁入りした女などの上の出来ごとであったならば、おなじ出来事をも、もすこし冷静に、正当な批判を下したであろう。

そうはいえ、<ruby><rb>事柄</rb><rt>ことがら</rt></ruby>もむずかしかった。恋愛至上主義者も、この事件について、<ruby><rb>一家言</rb><rt>いっかげん</rt></ruby>をたてるものも、家庭にあって、子女を前にしては、説が矛盾するといった。世論は<ruby><rb>紛々</rb><rt>ふんぷん</rt></ruby>として、是非いずれにか結着をつけさせないではおかない勢いであった。婦人雑誌は争ってその論説を掲げた。高級雑誌でも、社会風教、道徳思潮について、<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るべき人の説を載せた。婦人附録のある新聞では、主に女子教育に携わる、学校教育者の説を多く集めた。ましてそういう、世の耳目に触れた記事を、取り入れないではおかない種類では、<ruby><rb>雑俳</rb><rt>ざっぱい</rt></ruby>に、<ruby><rb>川柳</rb><rt>せんりゅう</rt></ruby>に、<ruby><rb>軽口</rb><rt>かるくち</rt></ruby>に、<ruby><rb>一口噺</rb><rt>ひとくちばなし</rt></ruby>に<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>しはしなかった。昔の<ruby><rb>瓦版</rb><rt>かわらばん</rt></ruby>の読売が進化したようなもので、それでも小説と銘を打った、低級な小本には「千葉心中」と、あからさまな題名をつけて、低級な読者を<ruby><rb>唆</rb><rt>そその</rt></ruby>かした。新聞の競争は<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>々々しいほど激烈で、そのために、伝えなくてもよいほどの事までが、毎日々々、大きな活字の見出しになって、何か、非常な注意をひかなくってはならない大物かのように、彼女の病床でのことや、<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>の経過のことまでが、一々洩れなく伝えられた。そのためには、<ruby><rb>余沫</rb><rt>よまつ</rt></ruby>をうけて書かでもがなの人のことや秘事までが出されたりして、余計にその事件に関係をもった当事者たちを<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たせ迷惑をかけもした。新聞記者連の競争の<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>が一般の人たちにまで波動し、そして有爵者たちの<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>を震動させた。そして後には米国から来る活動写真の連続もののように、鎌子を取巻く人たち――病院の人たち――新聞記者――記者同志打ち――というようなものになって、病院側や、芳川家がらみの方では何事も極力秘密に運ぼうとし、記者たちはそれを<ruby><rb>嗅出</rb><rt>かぎだ</rt></ruby>す事に<ruby><rb>勉</rb><rt>つと</rt></ruby>めながら、仲間の鼻毛を抜こうとするようにまでなった。鎌子の退院の日は何日？　その後は？　その後は、というように進んでいって、新聞社側の方では見張りにおさおさ手落ちなく、どんな風にして退院させようとも見現わさずにはおかない準備が講ぜられた。幾台かの自動車はそのために<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく幾日かを立番をして暮したほどである。さあ！　という時には、<ruby><rb>四</rb><rt>よ</rt></ruby>つ<ruby><rb>街道</rb><rt>かいどう</rt></ruby>あたりの<ruby><rb>畷路</rb><rt>なわてみち</rt></ruby>は、自動車の爆音が相続き入乱れてヘビーの出しくらをした。そして彼女は広い東京にも身の置どころもないように噂された。

その事実！　その事実は私もなんにも知らない。やっぱり新聞紙によって知っただけにしか過ぎない。けれどもそれだけで彼女の一生を片付てしまおうとするのはあんまり残酷ではあるまいか？　何故とならば、<ruby><rb>誰人</rb><rt>だれ</rt></ruby>に聴いても彼女自身の口から出た、その事件に対しての告白は聴いていない。まして死んでしまった倉持陸助の心持ちは<ruby><rb>猶更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>分りようがない。その上に、どう感情をおしかくそうとし、また出来るだけそれまでになる動機の径路<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を避けて書いたとしても、<ruby><rb>死際</rb><rt>しにぎわ</rt></ruby>に残した書置きには、何か心の中の<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>を洩らしてない事はあるまいと思うが、その書置きをすら、二人のを二人のとも、或る人が見ただけで早急に火中してしまったと伝えられているから（事実はそうでないかも知れない。すくなくも、近親の間にだけは、披露されたと見るが当然の事かも知れないが）真の事情というものは<ruby><rb>五里霧中</rb><rt>ごりむちゅう</rt></ruby>のなかにあるといってもよい。「彼れらは真に恋愛を解していたか？」ということも出来れば「何があるものか出来心だ」と曲解することも出来るし「いえ、そんな事はすこしもなかったのだ。それこそ他に入組んだ訳があって、結果があんなふうになってしまったのだ。」と打消すことも出来ないとはいわれない。けれども彼女の周囲の人たちは<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きょうがく</rt></ruby>のあまり<ruby><rb>狼狽</rb><rt>あわて</rt></ruby>てしまって、目の前に展開された恥辱に<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>い怒って、彼女から何も知り得ぬさきに、彼女を許すべからざるもののように<ruby><rb>述</rb><rt>のべ</rt></ruby>立ててしまった。彼女をかばってやらなければならない者すら身の潔白を表わすに急で、強く厳しく、彼女を<ruby><rb>詰責</rb><rt>きっせき</rt></ruby>するようにさえ見えた。

私は知らないことを、<ruby><rb>分明</rb><rt>はっきり</rt></ruby>と言うだけの勇気は持っていない。またその代りに、独断で彼女を悪い女としてしまうことも忍び得ない。私は<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも思う事であるが、人間はその人自身でなければ、なんにも分らない。ある点までの理解と、あるところまでの心の交渉はあるが、すべてが自分の考え通りにゆくものでない、自分自身すら、心が思うにまかせずかえって反対に<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れてゆくときのある事を知っている。であるから、推察はどこまでも推察にすぎないゆえ、独断は慎まなければならないと思っている。ことに複雑した心理の、近代人の、しかも気の変りやすい、動きやすい女性の<ruby><rb>心奥</rb><rt>こころ</rt></ruby>の解剖は、とても、不可能であると思っている。

この鎌子夫人についても、私はその是非を<ruby><rb>論</rb><rt>あげつ</rt></ruby>らうのでもなければ、その心理の解剖者となるのでもない。数奇の運命に<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ばれた一人の美女を記すだけでよいのであるが、もし筆が不思議な方面へ走ったとすれば、その当時の、彼女へ対するあんまり同情のなかった言説が、何時か私に不満を感じさせていたのかも知れない。

ともかく<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に、「いまわしいことのおこり」となった、ことのはじめにかえって記さなければならない。こうしたことに似た一字をでも書けば、この頃の純文芸の方面では非常な圧迫を受けるということであるが、これは連日公開の新聞紙上に載せられて、知れ渡った事実ゆえ、その災は受けないことであろうと思う。

二

鎌子夫人は伯爵<ruby><rb>芳川顕正</rb><rt>よしかわあきまさ</rt></ruby>氏の四女と生れた人である。すぐ上の姉は大阪の巨豪男爵藤田平太郎氏の夫人になっている。その人の上に二人の姉があって生存しているが、どういう訳でか、その<ruby><rb>姉</rb><rt>ひと</rt></ruby>たちは生家へ帰っていて別に再婚しようともしない。この事は、その家庭が<ruby><rb>寛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>やかであって、誰でも父親の鼻息をうかがえば気安くいられるということを語っている。それにも一つは、男子の家督のない家で、長女が外へ出て、末女が家を<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>いでいるという事に、何処となく間違ったところがあるような気がする。年齢からいっても、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>の家で一番若いものに主権があって、おまけに<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>になる夫は入婿であるという事は、何となく落附きがなく、力強いところがないような気がする。家事の命令なども思い思いのものとならざるを得ないように思われる。そうした家庭の主婦である鎌子の夫は、子爵故<ruby><rb>曾禰荒助</rb><rt>そねあらすけ</rt></ruby>氏の息で、若く華やかな貴公子連の間にも名高い、<ruby><rb>寛濶派手者</rb><rt>かんかつはでしゃ</rt></ruby>で、花柳界に引張り<ruby><rb>凧</rb><rt>だこ</rt></ruby>のお仲間であった。

鎌子は淑女としての素養はすべて教育された。その上彼女は麗質美貌であり、押出しの立派な伯爵若夫人であった。夫の寛治氏は、彼女も好んで迎えた人であり、五歳になる女の子をさえ<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けていた。夫に対する愛が、彼女にあれば――子を思う誠があれば――そうした間違いが、どうしてしでかされようかとは、<ruby><rb>誰人</rb><rt>たれ</rt></ruby>も思うところであるし、寛治氏が妻を<ruby><rb>愛</rb><rt>いと</rt></ruby>しむ心が深ければ、そうした欠陥が<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>たれるはずはないとも思うことでもあるが、人間は生ているかぎり――わけても女性は感情に支配されやすい。そうした夫妻の間にすら、こんな事実が起ったのは、何からだと考えなければならない。

信頼するに足りるその当時の記事を抜くと、最初は『東京朝日新聞』の千葉電話が、

七日午後六時五十五分千葉発本千葉駅行単行機関車に、機関手中村辰次郎、火夫庄司彦太夫乗組み、県立女子師範学校側を進行中、年若き女飛び込み跳飛ばされ重傷を負ひしより、機関手は直に機関車を<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めたるに飛込み遅れたる同行の青年は<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>くと見るや直に同校の土堤に<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>り<ruby><rb>蒐</rb><rt>かか</rt></ruby>り<ruby><rb>様</rb><rt>ざま</rt></ruby>短刀にて咽喉部を突きて打倒れたり。届出に依り千葉警察署より<ruby><rb>猪股</rb><rt>いのまた</rt></ruby>警部補、刑事、医師出張<ruby><rb>検屍</rb><rt>けんし</rt></ruby>せるに、女は左頭部に深さ骨膜に達する重傷を負ひ<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>し居り、男は咽喉部の気管を切断し絶息し居たり。女は<ruby><rb>直様</rb><rt>すぐさま</rt></ruby>県立千葉病院に入院せしめたるが生命<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>なし。

赤靴を<ruby><rb>履</rb><rt>は</rt></ruby>き頭髪を分けをり年頃二十六、七歳位運転手風の好男子なり、男の黒つぽき<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>のかくしと女のお召コートの<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>には各々遺書一通あり、<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>女のコートの袂には<ruby><rb>白鞘</rb><rt>しろさや</rt></ruby>の短刀を<ruby><rb>蔵</rb><rt>かく</rt></ruby>しあり。

右につき本社は各方面に向つて精探せし結果、婦人は<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby>区宮村町六七正二位勲一等伯爵枢密院副議長芳川顕正氏養子なる子爵曾禰安輔氏の実弟寛治氏の夫人鎌子（廿七）にして長女明子あり、男は同邸の自動車運転手倉持陸助（廿四）なることを突止めたり。

と記されている。そして各々の写真は各紙に大きく挿入されていた。それからそれへと<ruby><rb>手</rb><rt>た</rt></ruby>ぐりだした記事がそれに続いていた。

家の者は一切を伯爵から口止めされたという事で、それについての面接はみんな前警保局長だった岡喜七郎氏が<ruby><rb>関</rb><rt>あず</rt></ruby>かっている。その話によると、

「六日の夜八時頃倉持運転手が部屋で泣きながら酒を飲んでいるので、<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>の運転手が何故泣くのだと聞くと、何にも答えずに外出してしまった。朋輩は多分附近の料理店に情婦があるので其処に行ったのであろうと思ったが黙っている訳に行かぬから、今回情死した鎌子夫人の許可を得て置こうと思ってその<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>に<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて行って見ると、夫人の姿も見えない。多分御隠居（<ruby><rb>顕正</rb><rt>よしまさ</rt></ruby>伯）の室にでもいるだろうと思ってこの事を家令に告げた。家令は御隠居のところに行って見たが其処にも夫人の姿は見えない。ところへ主人の寛治氏が帰って来たので、鎌子夫人及び運転手のおらぬ事を告げ、邸内を<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>なく探したがとんとわからぬ。すでに夜も遅いことなり、いずれ帰って来るだろうと思ってそのままに寝てしまった。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに七日の朝になっても帰らぬので寛治氏も大いにおどろき、この事を友人なる自分に電話をかけ、昨夜来のことを告げるので、自分は『そんな事があるものか』と直に自動車で伯邸に<ruby><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby>いた。前記の次第をきいて、事実の疑うべからざるに驚いた。それで自分は警視庁に行き、以上の事実を打明けて捜索をたのんだ。同時に、千葉において情死の報があった」

と言っている。千葉の県立病院長は三輪博士であったが、東京からは帝大外科の近藤博士がわざわざ出むいた。夫の寛治氏も<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>の彼女の<ruby><rb>枕辺</rb><rt>まくらべ</rt></ruby>にあって、不面目と心のいたみに落涙をかくし得ず、<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>に訪問の客に、

「余と、余の一族は目下謹慎中にて何とも面目なし」

とその感慨の一部を洩らした。そして一人は息絶え、一人は瀕死であるためにすべての事は秘密に葬りやすかった。この事件の一切を処理する事を依託された岡氏は、絶対の秘密にして、遺書も一応披見したのち焼きすててしまった。

「両方とも誠につまらぬ遺書にて、何らお話するほどの事なし」とはいったが、某氏の談によれば<ruby><rb>縷々</rb><rt>るる</rt></ruby>事情の複雑な関係があからさまにされていたという事である。

で、彼女たちはどんな風にして家を出てのちを過したかということは、かなり委しく探り出されている。

それは倉持が自分の部屋で泣きながらお酒を飲み、そして外へ出ていったという夜の十二時すぎのことである。千葉町のある家の門をたたいたのが、何処かで落合った鎌子と陸助とであった。その家はおりから営業を禁止されていたので、田川屋という宿屋へ案内をした。翌朝前の家から迎えがいったので、客の二人は以前の家へ引返して朝飯をすませた。<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>飯には三本のお酒の注文があり、その他に餅菓子の注文もした。名所絵葉書十枚、巻紙封筒をも取寄せて両人はしきりに書面を<ruby><rb>認</rb><rt>した</rt></ruby>ためていた。沈みがちであった二人のうち、わけても女は打沈んでいた。一時頃には女の方は腹痛だといって<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>しになって、十銭の振りだし薬を買わせて<ruby><rb>服</rb><rt>の</rt></ruby>んだりした。男の方は女中にむかって、芸者を<ruby><rb>招</rb><rt>よ</rt></ruby>んでくれといってきかなかったが、女の方がしきりに<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って止めた。午後三時ごろ支払いをすませて、二人は勢いよく<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>をつらねてその家の門口を出た。

その夜、鎌子を引倒した列車に乗っていた機関手は、その<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>の模様を語った。

「私の列車が進んでゆくと、男女は<ruby><rb>確乎</rb><rt>しっかり</rt></ruby>と抱きあい、一つになって<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずく</rt></ruby>まっていたところから変だなと思っていると果然<ruby><rb>件</rb><rt>くだん</rt></ruby>の男女は抱きあったまま線路に飛び込み、あわやと思う間に男女共一緒に跳ねとばされたが、女は倒れたけれども男はあまり負傷もしない様子で、女の上に乗りかかり泣きながらやや高い声で、『貴女一人は殺しません。私も死にますから御安心なすって下さい』と<ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に女の耳に口をあてて言っていたが、その中多勢の人が騒ぎだしたので、女から離れて女子師範学校の土手のとこに行って<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を突いたのです」

生命危篤の彼女は、出血の多量であったにもかかわらず命はあることになった。「死んでしまったらよかったろうに」とは、あながち彼女を憎むものばかりが言ったことではなかった。これからの恥多き日を、どうしておくるかということよりも、彼女に命がなかったならば、彼女も倉持も救われ、また夫も親も救われるにと思ったのであった。絶対の恋愛をもつものならば妥協の生活は出来ないであろうし、有夫の身だから罪となるのを悲しんで死のうとしたならば、<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>きにつこうとした<ruby><rb>謗</rb><rt>そし</rt></ruby>りはあるとしても、それは<ruby><rb>醒</rb><rt>さめ</rt></ruby>きらぬ婦人の無自覚から来た悲しい錯誤であると言わなければならない。また倉持にしても、それほどまでの真純な愛を持ちながら、どうして夫人を説得するだけの勇気と意志がなかったのであろう。彼女が無自覚であったと共に、倉持はまた意志が薄弱であったのであるまいか。彼女の取るべき道はたった一つあったのである。それは当然死よりも<ruby><rb>愁</rb><rt>つら</rt></ruby>くまた出来にくかったであろうが、正しい取るべき道は、最初倉持との恋愛が<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>した時に、<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>く<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>に打明けるべきであった。夫妻の間に理解と、真の愛情があれば打明けられたと思う。それが出来ずとも、倉持との恋愛が、何物をも犠牲にするほど<ruby><rb>熾烈</rb><rt>しれつ</rt></ruby>なものであったならば、当然伯爵家も伯爵夫人も最初から捨てなければならなかったのだ。そして倉持も極力その事を願わなければならないはずであった。すべてを<ruby><rb>有</rb><rt>あり</rt></ruby>のままにしておいて、倉持を愛していたのならば、鎌子の情操を疑わなければならない。問題は唯この一点だ。

けれども多く非難の的とされたのは、男女のどちらからが誘惑したかという事と、心中をすることをどちらから言出したかという事とであった。誘惑云々という事は、もの心のつかない童男童女の上ならば知らず、廿四歳の青年はそんなことを聞かれるのさえ侮辱だ。鎌子にしても、単に、男に誘惑されてああなったとすればあんまり単純すぎる。出来てしまってから結果を考えて、<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるような無智な女ではないであろう。そういう事になる前にこそ、死よりも切ない<ruby><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>があったはずである。私はそうだと独りできめてしまうのではないが、どうもこの心中は倉持から言出したものというように思われてしかたがない。無論前にもいう通り二人の恋愛関係がはじめから誤った<ruby><rb>姑息</rb><rt>こそく</rt></ruby>な手段で、<ruby><rb>糊塗</rb><rt>ごまか</rt></ruby>していた事が、因をなしたには違いないが――

その事についての道学者たちの争いもたいしたものであった。ある人は、

「死んでしまえばなんでもなかったのに」

といったり、彼女の母校であった学習院女学部の主事は、

「今までも他の学校よりは徳育に力を尽していたが、こんな出来ごとがあった以上、この後はなお一層その点を注意したい。ものも間違えば間違うものだ」

というような事を言ったりしたのは、家の自動車もやめてしまおうと、自分の最愛な細君へ警戒をしたという<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>らしさとおなじで、女流のなかでさすがに立派な意見だと<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>かれたのは、<ruby><rb>与謝野晶子</rb><rt>よさのあきこ</rt></ruby>女史と平塚らいてう氏であった。<ruby><rb>山川菊栄</rb><rt>やまかわきくえ</rt></ruby>女史はどういう風に見られたか、それは残念ながら私は見なかった。

らいてう氏は、

……それと同時にあらゆる階級の中で最も因襲と伝統との尊重され、旧思想、旧道徳が今もなお<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>に根を張って、人間本来の真情は生命なき形式のもとに押し込められている上流貴族の家庭において、<ruby><rb>偶々</rb><rt>たまたま</rt></ruby>こういう事件が起ったということは非常に意味深いことで、私はむしろ彼ら頑迷なる上流社会の人々をして、その生活――<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に彼らの家庭生活の上に反省せしめ、かくして彼らをして<ruby><rb>覚醒</rb><rt>めざめ</rt></ruby>しめる一つの機会を与えたものとして痛快にさえ感じております。全く芳川家はこの意味で、他の多くの貴族の家庭のために犠牲になったものだとも言えるでしょう。

晶子氏のは、

……しかし夫人が<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>その肯定するところまで乗りだしながら、愛の肯定は即ち情死であるというより以上の思案を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>されなかったことは何より残念な、<ruby><rb>腑甲斐</rb><rt>ふがい</rt></ruby>ないことでした。何故ならこれは私には夫人が自分のしていることに対して明かな自覚を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていなかったこと、またそれを<ruby><rb>敢</rb><rt>あ</rt></ruby>えてするだけの実力をも<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていなかったことを証明するものだとしか思われないからであります。もし夫人の行為が今少し意識的になされたものであったなら、夫人は<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>い日本の婦人たちがこれまで少し行き<ruby><rb>詰</rb><rt>づま</rt></ruby>るといつもすぐ決行したような安易な死を選ばずとも、もっと力強い積極的な態度をもって、愛による新しい生活を創造することが出来たでありましょう。それは勿論非常な困難苦痛を予想しなければならないことで、そこに並々ならぬ勇気と忍耐と力とを必要とすることはいうまでもないことですけれど、しかも全然不可能なことではなかったと私は信じます。しかし<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたものに望むような徹底を、因襲をもって<ruby><rb>十重二十重</rb><rt>とえはたえ</rt></ruby>に縛られた貴族の家庭に多くの愚かな召使たちにかしずかれながら育った夫人に、そしてあの空疎な今日の女学校の形式的な教育より受けていない夫人に期待するのは、するものの方が無理なのでありましょう。

と説破している。つまりは上流社会の頑迷な旧式な思想から来た子女に対する結婚観念の誤りだといい、華美ごのみであったというのは本性の虚栄を意味するのではなく、むしろ生活の空虚を、精神的の教養をあまり受けていない今日の日本婦人の常として、ことに物質的に何の不自由もない身分として、ごまかそうと努めたのではあるまいか。家出のその夜まで<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の寝床をとったり、寝巻をあたためたりして行ったのは、その関係がどこまでも形式的な虚偽的なもので<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>に保たれていたのだという見地から、夫人にはたとい夫があり子供があったとしてもまだ一度も愛の満足を得ていなかったという意味で、結婚したことのない婦人ともいえると説き、彼女の<ruby><rb>満</rb><rt>みた</rt></ruby>されなかったもの、しかも外部の種々な圧迫のために抑制することを余儀なくされていた愛の要求が、純な愛情と若い燃えやすい情熱との所有主であるものに向いて動いていったことは自然の心理ではないか、<ruby><rb>赤裸</rb><rt>せきら</rt></ruby>な人間の愛の真実の前に、他の一切を忘れて<ruby><rb>有頂天</rb><rt>うちょうてん</rt></ruby>になったとしても無理もなく、論理的の立場から見ても、その結婚が全然第三者の意志によって強制されたものであるから、厳密にいえば夫人はその結婚に対して責任をもっていないのだ。その方法さえ誤らなければ、同時にそれを実行するだけの実力を備えていれば、出立点からして間違っていた結婚をただ単に継続することによって生きながら死者の生活を送るよりも、それを破壊する方がどれだけ論理的であるか知れないと言われた。

そして<ruby><rb>明子</rb><rt>はるこ</rt></ruby>氏はまたこう言っている。

……夫人がその地位も名誉も、子供に対する愛も否その生命までも犠牲にして肯定しようとした愛は、世間の人たちが言うような単なる劣情のためではなく、夫人の現実の生活よりももっと真実な、もっと純な、もっと高い、そしてもっと美しい情操の世界に対する<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れであったのだろうと思います。またこの愛は夫人の生涯における最初の経験であったと共に、夫人の現在の生活の中のただ一つの真実であったのだろうと思います。とはいえ夫人とてもいよいよ愛を肯定するまでには、色々な内心の争闘があったことでありましょう。……それにもかかわらずやはり最後には一切の虚偽を否定して彼女の世界のただ一つの真実を肯定したのでありましょう。夫人の教育は私がここで述べたようなはっきりとした意識を一々与えてはいなかったとしても、夫人の本能が夫人を真実なものにつかせたのであろうと思います

とて、話が<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れるが、いつも男女間の愛とさえ言えば、すぐ劣情とか痴情とか言って暗々の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に非難の声と共に葬り去ろうとする習慣を不快に思うと言い、これは婦人の感情生活に対してあまりに理解を欠いた態度であり、そうした習慣が色々な意味で人間の道徳生活の向上を妨げ、社会によくない影響を与えると述べられた。

三

さてそこで、家出当時の鎌子の服装が思いがけぬ疑惑を<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>に与えている。<ruby><rb>緋</rb><rt>ひ</rt></ruby>ぢりめんの長じゅばん、お<ruby><rb>召</rb><rt>めし</rt></ruby>のコートというところから、伯爵家の若夫人の外出の服装ではないといい、わざとああした目立たぬ<ruby><rb>扮装</rb><rt>ふんそう</rt></ruby>をしたのであろうとも言い、取りいそいで着のみ着のまま出たのであろうとも言われた。そしてそれならば、最初家出の時には死ぬつもりではなかったろうといい、死をきわめていたからこそそのままで飛出したのだといい、死ぬのならば千葉までゆかずともの事であり、翌日を待たずともだとも難じられた。けれどその時間の長短は、その人たちには実に余儀ない推移で、思いきりや<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めでは到底満足されない生死の<ruby><rb>葛藤</rb><rt>かっとう</rt></ruby>が無論あったはずだ。決断がにぶいといったものもあるが、彼れらは決して<ruby><rb>拈華微笑</rb><rt>ねんげみしょう</rt></ruby>、死を悦びはしなかったのだ。出来ることならば生のよろこびを祈ったのだ。充分に生の享楽を思う魂が二個結びついて、それをこの世に保存する肉体を捨てようとする愛着切離の葛藤。女が腹痛といって打伏していたのも、その姿をまとも見ているに忍ばれなくなって、男の頭が狂暴になり芸者にでも騒がせて、悲苦をごまかそうとしたに無理はすこしもなかった。

男が一度<ruby><rb>跳</rb><rt>はね</rt></ruby>飛ばされながら、<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>の女を抱いて、決して一人では死なせないという事を耳に口をよせて繰返しきかせて後自刃したのは、彼れの品性の高く情操のいかに清らかで、純な情熱の所有者であったかという事を一般に認めさせ非常に同情を集めた。

その当時、ある夜私は三人の青年文学者と、（<ruby><rb>三富朽葉</rb><rt>みとみきゅうよう</rt></ruby>・<ruby><rb>今井白楊</rb><rt>いまいはくよう</rt></ruby>・<ruby><rb>三上於菟吉</rb><rt>みかみおときち</rt></ruby>）ふとしたはめからその事について言争った。三人の男性も真剣になって説を通そうとした。へなへなした私も、へこまされまいとして自分の所信だけは曲げなかった。暁の鶏の声が<ruby><rb>聴</rb><rt>きこ</rt></ruby>えるまで春の夜の寒さに<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えながら、互いに論じ語った。もうなかごろから倉持と鎌子夫人の名は預けおかれて、高遠な芸術と理想論とになってしまったが、つまりいつも男性はあらゆる複雑さを通り越して、単純に帰一させようとする純粋性というものにむかって<ruby><rb>突</rb><rt>つき</rt></ruby>進むが、女性はある事に触れるたびにその環境に動かされやすく、感情に殉じやすいのは当然である。それゆえに彼れらの同情は年若く、熱情に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちたらしい青年の方へばかり傾くと――しかし私はやっぱり鎌子のために、一切の彼女の生活の背景を考えてやらずにはいられない。女性として、女のために言い争った。

またある日、ある宗教家に面会したおり、ふとその夜の論難を語ると、その人はこういった。もとよりその円頂黒衣の人は<ruby><rb>洒脱</rb><rt>しゃだつ</rt></ruby>な気さくな人であったが、こともなげにその解決をつけてしまった。

「あなた方はあまり深く人心を<ruby><rb>洞察</rb><rt>どうさつ</rt></ruby>しすぎるよ。あれは倉持が<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れていたのです。それにちがいはありません。そして<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>やきもち</rt></ruby>も男の方が焼いたのさ。あの晩の酒だって、泣いていたのだって、みんな<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>ならぬからこそ<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>ろしくなったのです。私はそういう例を沢山に知っている。自分の方が愛されていると知っていながら<ruby><rb>妬</rb><rt>や</rt></ruby>くのです。当然のことでありながら、主人の寝床をつくるということにさえ堪えられない<ruby><rb>憤懣</rb><rt>ふんまん</rt></ruby>を忍ぶことが出来ないのです。なんであの晩、家を出る時から合意なものですか、女の方では、可愛いには可愛いが、どうして<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>いか分らないほど困らせられてしまって、なだめるために外へ出たのです。だから女は帰ってくるつもりであった。男だって無論そのおりにどうしようと決心していたのではないが、どうしても<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えられない本能から無理と知ってあんなところまで行ってしまったのです。心中なんていうのはそれらの<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みあった結果で、都合よくゆけばああしようと思ったのでは決してない。女の方では困った事になってしまったなあと思った事もあるに違いない。男の方では段々と執着が増していったのだ」

と<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>ありふれた解釈を、手やすく下してしまった。普通それが早分りのする人情<ruby><rb>世故</rb><rt>せこ</rt></ruby>に通じた一般的のものだけに、金持ちや、物分りのいいという<ruby><rb>世間</rb><rt>せけん</rt></ruby><ruby><rb>学通</rb><rt>がくつう</rt></ruby>の人たちのいう事はこれと一致した。そしてこれらの人々の皮相な解釈ほど、人間本然の心の秘密から遠いものはなく、したがってこれらの人々の、その人自身の心の生活ほど貧しいものはない。

生命を取りとめた――再び春の日の光を、病院の窓に眺めた彼女の意識にのぼったものは、まず何であったろう。いうまでもない倉持の最後のきわの絶叫でなければならない。彼女は<ruby><rb>混沌</rb><rt>こんとん</rt></ruby>たる状態のおりからも彼れの名を無意識に叫んだが、自分がこの世に生残ったと知ると、心にかかるのは彼れの身の上であった。けれども、彼女の<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>しかけた意識は例によって、血潮の洗礼を受けたあとでも因襲道徳に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>えられていた。それを<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっきり</rt></ruby>と聞きただす勇気はなくって、いたずらに<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>え苦しんだ。彼女はおりおり<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>え<ruby><rb>兼</rb><rt>かね</rt></ruby>たように、

「帰るのだから自動車を呼べ」

と附添いのものに命じた。

自動車といえば倉持に密接な関係があるゆえ、それによって彼れの生死いずれかの安否が聞けるものと思ったらしかった。けれども附添っていたのは本邸から番人によこしてある書生だけで、看護婦たちと声をあわせて、よくなれば院長の方から退院を許すと、口止めをされた倉持の安否はすこしも彼女に知らせなかった。彼女がその場合欲したものは、厚き手当でも医薬でもなかった。たった<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>、彼れの安否を聞きさえすれば心は落ちついたのである。それは倉持が約束を変えず、後を追う気で自殺したといえば悲しみもし、気も狂わしく、医薬を尽しても助からなかったかも知れない。けれど、その場合、回復させるばかりが仁であろうか、長い恥辱をあたえてまで助けておくのが情であろうか？

「自動車を持って来い、退院するのだから」

と彼女は叫び、

「まだ御全快になりませんから」

と<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めるのがいつもきまった文句であると新聞は伝えた。その悲しい叫びを<ruby><rb>駄々</rb><rt>だだ</rt></ruby>といった。狂わしいほどに気に<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>るものの安否は知れず、やる瀬なき絶叫は神に救いを求める讃美歌となって高唱された。

おもひいづるも　はづかしや

ちちのみもとを　はなれきて

あとなきゆめの　あとをおひ

むなしきさちを　たのしみぬ

ならはぬわざの　まきばもり

くさのいほりの　おきふしに

ひとのなさけの　うすごろも

うき世のかぜぞ　身にはしむ

やれしたもとに　おくつゆも

ちちのめぐみを　しのばせて

無明のやみは　　あけにけり

いざふるさとへ　かへりゆかん。

新聞紙は、この讃美歌は新約<ruby><rb>路加</rb><rt>ルカ</rt></ruby>伝第十五章第十一節より第三十二節に<ruby><rb>亙</rb><rt>わた</rt></ruby>り、<ruby><rb>放蕩児</rb><rt>ほうとうじ</rt></ruby>が金を持ち、親や兄を捨て旅行して遊蕩に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>り、<ruby><rb>悉皆</rb><rt>すっかり</rt></ruby>費消し尽して悲惨なる目に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>い、改心するまでを<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>んだもので、鎌子夫人の身の上に似通う点があるから面白い――と言っている。面白いという言辞はかなしい。

いざふるさとへかへりゆかん――

という文句があるとて、彼女はのめのめと、父の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>へ帰ってゆこうといってその節を<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>ったのではない。彼女が父と呼んだのは天の父をさしたのである。彼女が唄った故郷は麻布の家ではなくて、霊の故郷、天国なのである。彼女は知っていたのだ。彼女の魂は彼れの霊に呼ばれていることを感じたのだ。

鎌子は自殺<ruby><rb>教唆罪</rb><rt>きょうさざい</rt></ruby>だがとある<ruby><rb>法曹</rb><rt>ほうそう</rt></ruby>大家は談じた。教唆は精神的関係、即ち脅迫して承諾させ、<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>いて同意をさせたものを含むのであるゆえ、鎌子がさきに線路に飛込み、倉持がその後を追っているから地位資格上倉持はむしろ殉死したのだ。であるから法律上から見ると一種の脅迫的自殺と見なし、二百二条を適用して、六カ月以上七カ年以下の懲役または<ruby><rb>禁錮</rb><rt>きんこ</rt></ruby>に処罰するのが相当だが、裁判所もこれまで充分に社会的制裁を加えられたものに対し、この上法律上の制裁まで加えまいと思うと述べた。

同族間ではまた非常な非難で、宮内省ではどう処分するかという議論が沸騰した。華族監督の任にある宮内省では、芳川伯爵家が鎌子に対しどんな処分をとるかと注目していた。その上で、<ruby><rb>断乎</rb><rt>だんこ</rt></ruby>たる処分に出ようとする<ruby><rb>意嚮</rb><rt>いこう</rt></ruby>をほのめかした。やむをえない場合の手段とは、華族令の規程に<ruby><rb>則</rb><rt>のっと</rt></ruby>る、<ruby><rb>宗秩寮</rb><rt>そうちつりょう</rt></ruby>審議会に附して厳重な審議の上、処分法を講じて御裁可を仰ぎ、宮内大臣が施行するというのである。無論軽くてはすむまいとされたが、その前に伯爵家で適当な処置を取れば不問にしようとするのだと伝えられた。けれども、それは寛治氏から離婚をするだけではすまされない。伯爵家から籍を<ruby><rb>削除</rb><rt>のぞ</rt></ruby>けば、そこではじめて平民になるのゆえ自然宮内省は管轄外となるのだとも噂された。

千葉県警察部長の談では、警察官吏、<ruby><rb>及</rb><rt>および</rt></ruby>警察医の報告によれば合意の心中であった事が明確ゆえ、たとい相手方の一人が仕損じて生存していたとて何らの犯罪も構成しない。ただ道徳上の責だけだと断定されていた。

ただここに<ruby><rb>聞逃</rb><rt>ききのが</rt></ruby>すことの出来ないのは、宮内省の法令に精通せる某大官<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>くということである。その人ははばかりもなくこう言っている。

「今回芳川家に起ったような事件に関しては、別に華族懲戒令というものがあって、もしその事件が訓戒すべきものならば宮内大臣の独断をもって、また<ruby><rb>譴責</rb><rt>けんせき</rt></ruby>すべきものならば委員会の決議をへて取扱うことになっている。即ち芳川事件がもし懲戒すべき性質のものならば右の懲戒令によることだろうと思うが、それにしても従来この事件に比するものは華族間に決して例が少なくない。ただこんどはああして世間に知れ渡ったというにすぎぬから、従来の例から推考すると別に懲戒に附するほどのことはあるまいと思う」

というのである。

<ruby><rb>明子</rb><rt>はるこ</rt></ruby>氏の説は此処に来て意義あるものとなった。全く鎌子はそうした階級の迷夢を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>まさせる犠牲になったのである。そしておなじような位置に置かれてある人たちに、たしかに何らかの印象を与え、覚醒をうながしたことはいうまでもない。

鎌子を生ました老伯爵のその間の心意はどんなであったろう。老後の悲劇である。明治維新のおり赤忠をもって<ruby><rb>贏</rb><rt>か</rt></ruby>ち得た一切の栄誉は、すべてみな<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しくされたものとなった。老後の栄職である枢密院の副議長の席も去らなければならなかった。彼の人は門戸を深く閉じて訪客を謝し、深く深く謹慎していた。そして一切弁解の辞を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ばなかった。この老伯のいたましい立場には、いかなものも同情せずにはいられなかった。誰れにもまして怒りも強かったであろうし、また悲しみも深かったであろうが、子の親である人のそうした場合には、<ruby><rb>明瞭</rb><rt>はっきり</rt></ruby>と自分の不明であった事に<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>かなければならなかったであろう。そしてたしかに心の底には、何となく<ruby><rb>謝</rb><rt>あやま</rt></ruby>りたい気持ち――対社会へではない、鎌子に謝りたい心持ちが<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いていたに違いないと思われる。それはあからさまに示されていた。

鎌子の<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>は<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えかけた。その月の廿五日に倉持は郷里栃木県佐野町で、ささやかな葬儀が執行され、身寄りのない彼れの遺骨は、一滴の思いやりのある<ruby><rb>手向</rb><rt>たむけ</rt></ruby>もうけないで土に埋められてしまった事を夢にも知らないで、その事を案じ悩みながらも疵は癒えかけた。健康な肉体が精神のいたみに負けず<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>していった。彼女として、その後をどうしようかと迷わぬ訳にはゆかなかったであろうが、芳川家にとってもそれはかなりの難問題であったに違いない。一日近親の者は<ruby><rb>寄集</rb><rt>よりあつま</rt></ruby>って協議をこらした。そして結果は伯爵家を除籍して別家させなければなるまいという事になった。それから鎌子は世間から憎まれているゆえ、全治退院ということが洩れたならば、どういう暴行にあいもしかねないからというので、退院はごく秘密にし、加養する彼女の住居も、充分世間へ洩れぬことにしなければならないという事に協議はまとまった。

ある夜二台の自動車は千葉病院へそっと横附けにされた。白い毛布に包みかくされて、自動車へ運びこまれたのは彼女であった。それを見て、直に新聞記者たちの幾台かの自動車も<ruby><rb>追駈</rb><rt>おいか</rt></ruby>けて走ったが、東京へはいると突然、間を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>る自動車が飛出して来て、目的通りに邪魔を入れてしまった。けれども彼女が青山の実姉の家にはいったという事が知れた。その家では、まるで交通<ruby><rb>遮断</rb><rt>しゃだん</rt></ruby>とでもいうように表門には<ruby><rb>駒寄</rb><rt>こまよ</rt></ruby>せまでつくって堅く閉じ、通用門をさえ締切ってしまった。それは老伯の<ruby><rb>昔気質</rb><rt>むかしかたぎ</rt></ruby>から出た自ら閉門謹慎の意であったか、それとも世人の乱暴をおそれてであったかは知れなかった。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もそののち<ruby><rb>下渋谷</rb><rt>しもしぶや</rt></ruby>の近くの寮に鎌子が隠れ住むという風説が立つと、物見高い<ruby><rb>閑人</rb><rt>ひまじん</rt></ruby>たちはわざわざ出かけていって、その構えの垣の廻りをうろついていた。何のためにそうするのかは、うろついていた人たちにもわかるまいが、そうした煩わしさは彼女をいつまでも<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>なくらいにゆるさなかった。

そうなってからの鎌子は、やっぱり病院にいた時通り、すこしも倉持の消息を知らなかったかどうだかは疑問である。とはいえ、もの<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>き月日であった事は察しられる。父の老伯は彼女を信仰によって復活させようとした。初夏の六月の上旬、あわれな親心は不幸な娘を伴って、<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby>外手町に天理教の教会をおとずれた。父親の温かい愛は、慈悲と慈愛をもって、幼女を抱いてゆくように保護していった。そんな優しい心持ちの<ruby><rb>湧</rb><rt>わき</rt></ruby>だすのを老伯自身さえ不思議に思ったほどであろう。深い悲しみにあってはじめて知る親と子の融合は、物質に不足のないだけで、心の<ruby><rb>饑</rb><rt>うえ</rt></ruby>をさとらなかった親子の間には、今までには<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>めなかったものであったかも知れない。子を信仰に導くために親も天理教の信徒となり帰依することを誓った。

けれども、それだけで彼女の心に慰安があったか？　絶対に秘密をまもり、彼女の動作については、何一つ<ruby><rb>外部</rb><rt>そと</rt></ruby>へ知らせまいとしても、そう<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>く意地悪な世人が忘れようとしない。下渋谷宝泉寺内の隠れ<ruby><rb>家</rb><rt>が</rt></ruby>も、

「<ruby><rb>姦婦</rb><rt>かんぷ</rt></ruby>鎌子ここにあり、渋谷町の汚れ立<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>け」

と<ruby><rb>張札</rb><rt>はりふだ</rt></ruby>をして、酒屋、魚屋、八百屋連の<ruby><rb>御用聞</rb><rt>ごようきき</rt></ruby>たちが往来のものに交って<ruby><rb>声高</rb><rt>こわだか</rt></ruby>に<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りちらして、そこにもいたたまれないようにさせたが、やがてその<ruby><rb>侘住居</rb><rt>わびずまい</rt></ruby>も戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>めてしまった。<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>づけにされた主なき<ruby><rb>空家</rb><rt>あきや</rt></ruby>の庭には、真紅のダリヤが血の色に咲きみだれて残るばかりであった。

彼女はやがて鎌倉辺に暑さと人目を避けていると噂されたが、その年の暮に、弱まりきった身を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えられて、思出の多い過去の家へと引取られた。彼女は家出をした家へ帰らなければならない運命に遭遇した。除籍された家へ、離別した夫の住む家へと運ばれていった。彼女が神経過敏に陥って、とがもない召使いを<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>りちらし、時々発作的に自殺の気色を見せたということは尤もなことで、夜は十二時をすぎても眠られず、朝は遅いというようなことをいって責めるのは、あまりに普通人の健康なものに比較したばからしさだ。平静な時は読書に一日を費しているが、<ruby><rb>挙措</rb><rt>きょそ</rt></ruby>動作が何処やら異っているので警戒しなくてはならないと見られた。

一年はたった。鎌子はその後どこか近県の別荘にあって、寛治氏の思いやりのあるはからいのもとに、病後の手あてと、心のいたみの恢復をはかっていると聴いた。そして彼女は羊を飼っているとも聴いた。暖かい土地で、人に顔をあわさず、<ruby><rb>朝</rb><rt>あした</rt></ruby><ruby><rb>夕</rb><rt>ゆう</rt></ruby>べに讃美歌を口ずさみながら、羊の群をおっているのは、廃残の彼女にはほんに<ruby><rb>相応</rb><rt>ふさわ</rt></ruby>しいことだと思った。が、嘘かまことか、五月のある日の『東京日日新聞』紙面の写真版は、歌舞伎座がえりだという彼女が、自動車へ乗るところの姿をだした。そして<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>あとは<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>にぬぐったように<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>った彼女は、寛治氏と同道にて歌舞伎座の東の<ruby><rb>高土間</rb><rt>たかどま</rt></ruby>に、臆面もなく芝居見物に来ていたという事を報じた。すこしは<ruby><rb>気咎</rb><rt>きとが</rt></ruby>めがするようで、<ruby><rb>幕間</rb><rt>まくあい</rt></ruby>にはうつむきがちにしていたが、見物が「鎌子だ」といって視線をむけても格別恥らいもしなかった。寛治氏はさすがに座に堪えかねて、中ごろから姿を消してしまったが、彼女は取すまして最後まで見物してのち、歓楽につかれた体を自動車で邸へと急がせたというのである。

またしても世間は湧立った。<ruby><rb>不埒</rb><rt>ふらち</rt></ruby>な女だというさげすみが此処かしこできかれた。

けれども私はそれは彼女の<ruby><rb>姉達</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の見あやまりではなかろうかと思ってやまないのである。

そしてまた彼女は、千葉の病院に在院中も、若き助手などを見ると騒ぎまわって見苦しかったと語った看護婦があった。もしも彼女にそうした行為が誠にあったのならば、それはもう病的なもので、医学上、他の見方があるだろう。私は私としての考察を記して見たまでである。

――大正七年――

附記　五、六年後に、横浜郊外に<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>ありげに<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>などさげた小家があった。その家の女主人は隠遁した芳川鎌子で、若い運転手と同棲していると新聞消息子は伝えた。その後、芳川鎌子死すと報じられた時は人々が見おとしたほどささやかな記事だった。