泰平三百年の徳川幕府の時代ほど、義理人情というものを道徳の第一においたことはない。忠の一字をおいては何事にも義理で処決した。武家にあっては武士道の義理、<ruby><rb>市井</rb><rt>しせい</rt></ruby>の人には世間の義理である。義理のためには親子の間の愛情も、恋人同士の<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとば</rt></ruby>しるような愛の奔流も抑圧してきた時代である。その人情の極致と<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>と、<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えつけられた胸の炎と、機微な、人間の道の錯誤を語りだしたのが<ruby><rb>義太夫節</rb><rt>ぎだゆうぶし</rt></ruby>で、義太夫節は徳川時代でなければ、産れないもので他の時には出来ないものだ。というのは、武士道からきた道徳と、儒教からきた道徳と、東洋の宗教が教えた<ruby><rb>輪廻</rb><rt>りんね</rt></ruby>説の<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めとが、一つの<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>められた思想が、その語りものの<ruby><rb>経</rb><rt>たて</rt></ruby>の太い線になっている。その上に、義太夫節の生れた徳川氏の政府の最初に近い年代は、一面に長らく続いた戦国の殺伐で豪放な影がありながら、一面には世の中が<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>も春の花の咲いているような、黄金が<ruby><rb>途上</rb><rt>みちばた</rt></ruby>にもざくざく<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れていれば、掘井戸のなかからも<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて出るといったような、豪華な<ruby><rb>放縦</rb><rt>ほうじゅう</rt></ruby>な、人心の<ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>しかけた影も<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>しそめていた。その上に<ruby><rb>人斬</rb><rt>ひとき</rt></ruby>り<ruby><rb>刀</rb><rt>がたな</rt></ruby>を横たえて武士は市民の上に立ち、金はあっても町人は、おなじ大空の月さえ遠慮して見なくてはならないほど頭があがらなかった。その時勢に、新江戸の土くさい<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>もののずぶとさと<ruby><rb>反撥力</rb><rt>はんぱつりょく</rt></ruby>をもった、新開の土地などでは見られない現象を、古い伝統をもつ大都会、<ruby><rb>浪花</rb><rt>なにわ</rt></ruby>の大阪の土地に見たのは当然の事であったろう。

経済都市大阪の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんち</span>は、酒と女の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>へ、やりどころのない<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>と、頭の<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らしようのない<ruby><rb>鬱憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>を、<ruby><rb>放埒</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>な心に育てて派手な場処へと、豪華を競いにいったが、家にかえれば道徳の人情責めと、いわゆる世間の義理とが、小むずかしく、光った頭のちょん<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>と、背中を丸くして目を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り赤めた老婆の涙が代表して待構えていた。そして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんち</span>は強い<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>に<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れた魂を、柔かい女の胸の中に、墓場に<ruby><rb>探</rb><rt>たず</rt></ruby>ねあてて死んでいった。

そうした義理人情の<ruby><rb>葛藤</rb><rt>かっとう</rt></ruby>と、武家の義理立ての悲劇を語りものにしたのが義太夫である。であるから、<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>であり、絃奏をもったものでありながら、義太夫は他の歌とはちがって<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>うものではない、語りものである。現われる人物の個性を、苦悩を語り訴えるのである。

竹本義太夫がその<ruby><rb>浄瑠璃節</rb><rt>じょうるりぶし</rt></ruby>の創造主であるゆえに義太夫と唱え世に広まった。またその当時<ruby><rb>人形操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>りには<ruby><rb>辰松八郎兵衛</rb><rt>たつまつはちろべえ</rt></ruby>、吉田三郎兵衛などが盛名を博し、不世出の大文豪、我国の<ruby><rb>沙翁</rb><rt>さおう</rt></ruby>と呼ばれる<ruby><rb>近松門左衛門</rb><rt>ちかまつもんざえもん</rt></ruby>が、作者として名作を<ruby><rb>惜気</rb><rt>おしげ</rt></ruby>もなく与え、義太夫に語らせ、<ruby><rb>人形操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>りの舞台にかけさせた。そして近松翁が取りあつかった取材は、その多くを当時の市井の出来ごとから受入れている。そうして義太夫節は大阪に生れ、大阪に成長し、語る人も<ruby><rb>阪地</rb><rt>はんち</rt></ruby>の生れを本場とし、修業もその土地を本磨きとするのである。

わが<ruby><rb>竹本綾之助</rb><rt>たけもとあやのすけ</rt></ruby>、その<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>もその約束をもって、しかも天才<ruby><rb>麒麟児</rb><rt>きりんじ</rt></ruby>として、その上に<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>をもって生れた。私は綾之助を幸福者だと思う。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>そういうかといえば、綾之助の現今は三人の娘の母親として、夫には長い年月の間も、最初にかわらぬ恋人として、家庭の<ruby><rb>中軸</rb><rt>なかじく</rt></ruby>となっている。三人の娘は、さだ子、いと子、ふじ子とよんで、母の美しさと父の<ruby><rb>秀</rb><rt>ひい</rt></ruby>でたところをとって生れた。姉は高女をこの三月に卒業し、<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>のいと子は実科女学校に学ばせている。綾之助は芸にも<ruby><rb>自家</rb><rt>じか</rt></ruby>の<ruby><rb>見</rb><rt>けん</rt></ruby>を立てているように、子女の教育の上にも一家の見識を持っている。娘たちの長所短所を見分けて、学ぶところを選ませている。家庭では、女中のする仕事をわけてさせ、娘たちを一人前の婦人とすることに腐心している。それは彼女が、彼女のあの名高かった盛時の芸名を、美しい娘の三人をも持ちながら、どの子にも伝えようとしないのにも、<ruby><rb>操持</rb><rt>そうじ</rt></ruby>の高いことが<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われる。彼女にはそうした満足と誇りがあり、そして家庭は、彼女の収入を煩らわさないでも、子供を教育していかれるだけの夫をもっている。それは女芸人とよばれる仲間ではめずらしいことなのだ。<ruby><rb>今年</rb><rt>ことし</rt></ruby>――大正七年に彼女は四十四歳になるが、この上の平和と幸福とは重なろうとも、彼女の身辺に冷たい風の<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>ろうはずはない。私が彼女は幸福だといっても、<ruby><rb>錯</rb><rt>あや</rt></ruby>まった事ではなかろうと思う。

彼女には上なき誇りがも一つある。それは童貞同士の恋人で、初恋の夫妻であるという、これも芸の人にはめずらしいことといわなければならない。三人の母の彼女の至上の宝は夫であり、彼女の夫の無上の満足は妻としての彼女を持つことだが、そのためには幾人かの犠牲者に、同情するひまも、一滴の涙もこぼしてやる余裕もなかった。俊敏な綾之助は、盛名を保つに<ruby><rb>聡</rb><rt>さと</rt></ruby>かったであろうが、綾之助を情にもろくまけない女に教育したのは、七歳の年から無心で語っていた義太夫節が、知らず知らずの間に教えた強いものが、綾之助の心の底に生れつきのように根をはっていたのでもあろうと考える。

大阪南区畳屋町に<ruby><rb>錺屋</rb><rt>かざりや</rt></ruby>の<ruby><rb>源兵衛</rb><rt>げんべえ</rt></ruby>という人があった。その人の父親は、石山新蔵という、大阪の江戸堀<ruby><rb>蔵屋敷詰</rb><rt>くらやしきづめ</rt></ruby>の武家であったが、源兵衛は持って生れた気負い<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>が、侍をやめて、維新の新政を幸いに気軽く職人になってしまったのだった。<ruby><rb>大酒家</rb><rt>たいしゅか</rt></ruby>ではあり、<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>は先方がいるなり次第に置きほうだいであったその人の、綾之助は三女に生れ、本名はお園さんである。

源兵衛の妹のお勝さんという<ruby><rb>伯母</rb><rt>おば</rt></ruby>さんが、お園を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って育て、後年の綾之助に仕立て、自分は三味線ひきになって<ruby><rb>鶴勝</rb><rt>つるかつ</rt></ruby>と名乗り、綾之助の今日ある基礎をつくったのであった。<ruby><rb>孀</rb><rt>やもめ</rt></ruby>のお勝も源兵衛の妹だけあって気性の勝った人で、お園が男のように竹馬に乗ったりして遊ぶのを<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>もいわずに、五<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>刈の男姿にしておいた。町内の者がお園のことを男おんなと呼ぶのを、知っていても知らぬ顔をしていた。

新町の畳屋の近所に男義太夫の新助というのがあった。お園が七ツのおりにその新助が「<ruby><rb>由良</rb><rt>ゆら</rt></ruby>の港の山別れ」を教えた。ある折、一段語りおえて、親たちを嬉しがらせたあとで、

「<ruby><rb>御褒美</rb><rt>ごほうび</rt></ruby>のかわりにお酒が飲みたい」

といって、七歳のおそのやんが<ruby><rb>生</rb><rt>き</rt></ruby>一本の<ruby><rb>灘</rb><rt>なだ</rt></ruby>の銘酒を五合ばかり飲んで、親たちや養母を驚ろかせたりした。

新町のある茶屋に、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>義太夫の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>会があった。素人といっても、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>からして義太夫そのものに合った音声を持つ土地ではあり、ことに土地で生れた芸ではあり、父祖代々、耳に親しんできた<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の深い、鍛錬のある人たちのあつまりのこととて、到底よその土地の旦那芸とは一つにならない人たちのあつまりであると同時に、こればかりは、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>でもかわらない自慢<ruby><rb>天狗</rb><rt>てんぐ</rt></ruby>の旦那芸の集りであった。<ruby><rb>後見役</rb><rt>こうけんやく</rt></ruby>には師匠筋の太夫、三味線<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>きが<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>って、<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>が上るたびに<ruby><rb>後幕</rb><rt>うしろまく</rt></ruby>が代る、<ruby><rb>見台</rb><rt>けんだい</rt></ruby>には金紋が輝く、<ruby><rb>湯呑</rb><rt>ゆのみ</rt></ruby>が取りかわる。<ruby><rb>着附</rb><rt>きつけ</rt></ruby>にも<ruby><rb>肩衣</rb><rt>かたぎぬ</rt></ruby>にも<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>を尽して、一段ごとに<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>を催促した。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ<ruby><rb>平日着</rb><rt>ふだんぎ</rt></ruby>のまま飛込んだのが、町内の<ruby><rb>腕白者</rb><rt>わんぱくもの</rt></ruby>男おんなで通るお園であった。自分も一段語りたいといった。人々は面白がって子供にからかって、

「そんなに仲間入りがしたければ、三味線弾きをつれておいで」

といった。お園は早速<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻して、一人の師匠を指さした。その人はにこにこして「鈴が森」を弾いてくれたが、それは誰あろう当時の名人<ruby><rb>竹本住太夫</rb><rt>たけもとすみたゆう</rt></ruby>であった。住太夫はお園の<ruby><rb>胆気</rb><rt>たんき</rt></ruby>と、語り口の<ruby><rb>奥床</rb><rt>おくゆか</rt></ruby>しいのに打込んで、これこそ我が相続をさせる者が見つかったと<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んだ。もとより男の子だとばかり信じてしまったので、何でも養子に<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いたいとお勝を困らせたが、女だと分ると非常に失望して<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>しがった。けれどもそれからは心を入れて教え導びいた。それも<ruby><rb>七歳</rb><rt>ななつ</rt></ruby>のこと。

お園は明治八年の六月の生れで、初夏の、<ruby><rb>溌剌</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>とした生れだちである。養母のお勝も気が勝っている、その上に、女中がわりに<ruby><rb>人形操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>りの山本三の助というものの母親がいた。その女が東京へ出ることになったおり、お園親子にも上京を勧めた。それが綾之助となる動機――振りだしで、お園が十一歳のおりのことである。日本橋久松町に住む近親をたよってゆくと、その人が<ruby><rb>知己</rb><rt>しりあい</rt></ruby>を招いてお園の浄るりを聞かせた。それが東京での封切りであった。その折、市村座の座主がお園に目をつけ説きすすめて、芸の人として立たせる第一歩の導きをしたのである。お園は竹本玉之助となり、浅草<ruby><rb>猿若町</rb><rt>さるわかちょう</rt></ruby>の文楽座に現われることになった。真打ちはその頃の大看板竹本<ruby><rb>京枝</rb><rt>きょうし</rt></ruby>であった。

明治十八年――世にいう<ruby><rb>鹿鳴館</rb><rt>ろくめいかん</rt></ruby>時代である。上下<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>って西洋心酔となり、何事にも改良熱が充満していた。京枝一座も<ruby><rb>御多分</rb><rt>ごたぶん</rt></ruby>に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れず、洋装で<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>にかけ<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>にむかって義太夫を語った。そんな変ちきな<ruby><rb>容</rb><rt>かたち</rt></ruby>も流行といえば<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>には見えず、かえって時流に投じたものか連日連夜の客止めの盛況であった。が、勇みたった玉之助のお園の<ruby><rb>初目見得</rb><rt>はつめみえ</rt></ruby>は、思いがけぬ<ruby><rb>妬</rb><rt>ねた</rt></ruby>みを買った。京枝の弟子の竹子は、かなりの人気者であったが、玉之助が出現して、麒麟児の名を博してからは、月に光りを奪われた<ruby><rb>糠星</rb><rt>ぬかぼし</rt></ruby>のように影が薄くなってしまった。それかあらぬかこの大入りの興行が、突然何の打合せもなしに、<ruby><rb>狼藉</rb><rt>あわて</rt></ruby>ふためいて興行主から中止されてしまった。それは太夫元がふと恐しい密謀を洩れ聞いたので、前途のある玉之助のために、<ruby><rb>実入</rb><rt>みい</rt></ruby>りのよい興行を<ruby><rb>閉場</rb><rt>とじ</rt></ruby>てしまったのであった。それは、その日の玉之助の高座に用いる湯呑のなかへ、水銀を<ruby><rb>白湯</rb><rt>さゆ</rt></ruby>にまぜておくという秘密を知ったからだった。

そんな事がかえって玉之助の名を高く揚げさせた。玉之助は子供心にも師に附かなければならないと考え、故人綾瀬太夫のもとへ弟子入りをした。何という名を与えようかと師匠が考えているうちに、お園は自分で綾之助と名附けたと言出した。このまけぬ気の腕白者は、出京早々から肩を入れてくれた久松町の医者某が、<ruby><rb>大連</rb><rt>たいれん</rt></ruby>を催してくれた夜に、語りものの「鎌倉三代記」を絶句して高座に泣伏してしまった。全く彼女の記憶力は強かったので、彼女は<ruby><rb>無本</rb><rt>むぼん</rt></ruby>で語り通していたのであった。

十二歳の春には、もはや<ruby><rb>真打</rb><rt>しんうち</rt></ruby>となるだけの力と人気とを綾之助は集めてしまった。綾之助のかかる席の、近所の同業者は、八丁<ruby><rb>饑饉</rb><rt>ききん</rt></ruby>といってあきらめたほどであった。<ruby><rb>新川</rb><rt>しんかわ</rt></ruby>のある酒問屋の主人は<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>のあまり、鉄道馬車へ広告することを案じだした。それも多くの人目をあつめたに違いなかったが、<ruby><rb>初</rb><rt>はつ</rt></ruby>真打綾之助に贈られた高座の<ruby><rb>後幕</rb><rt>うしろまく</rt></ruby>は、とうてい張りきれぬほどの数であったので、幾枚も幾枚も振りおとして掛けかえた。役者の似顔絵で知られていた<ruby><rb>絵双紙</rb><rt>えぞうし</rt></ruby>やの、人形町の<ruby><rb>具足屋</rb><rt>ぐそくや</rt></ruby>では、「名物人気揃」と題して、<ruby><rb>人情咄</rb><rt>にんじょうばなし</rt></ruby>の名人三遊亭<ruby><rb>円朝</rb><rt>えんちょう</rt></ruby>や、大阪初登り<ruby><rb>越路太夫</rb><rt>こしじだゆう</rt></ruby>（後の<ruby><rb>摂津大掾</rb><rt>せっつのだいじょう</rt></ruby>）とならべて綾之助の似顔を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>りだした。

――綾ちゃんは今年十二だが<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>も<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>の巧者で真に麒麟児だね――

との<ruby><rb>小書</rb><rt>こが</rt></ruby>きがつけてあった。

そうするうちに五分刈の綾之助は<ruby><rb>稚子髷</rb><rt>ちごまげ</rt></ruby>になった。また男髷になった。十四、十五と花の<ruby><rb>莟</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>は、花の盛りに近づいていった。明治廿三年には十六歳となった。女義界の綾之助は桜にたとえられた。それと同時にこれも売出しの若手に<ruby><rb>越子</rb><rt>こしこ</rt></ruby>は藤の花、やはり男髷の<ruby><rb>小土佐</rb><rt>ことさ</rt></ruby>は桃の花と呼ばれ、互に<ruby><rb>妍</rb><rt>けん</rt></ruby>を競い人気を争った。学生の仲間にも<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>がつくる各党派があった。綾之助党は三田の慶応義塾と芝の<ruby><rb>攻玉舎</rb><rt>こうぎょくしゃ</rt></ruby>の生徒が<ruby><rb>牛耳</rb><rt>ぎゅうじ</rt></ruby>をとっていた。それが今日の<ruby><rb>堂摺連</rb><rt>どうするれん</rt></ruby>の元祖である。

聞くところによると三田の堂摺連の元祖は、同塾の秀才であった坂本易徳氏だということである。氏はいまこそ文壇の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よた</span>をもって名が通り、<ruby><rb>紅蓮洞</rb><rt>ぐれんどう</rt></ruby>の名は名物とされているが、<ruby><rb>狷介不羈</rb><rt>けんかいふき</rt></ruby>、世を<ruby><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby>ねたぐれさん以前にも、新派劇、女優劇と、何処の芝居の楽屋にも姿を現す、後日の素質は含蓄されていたものと見えて、この人が綾之助を三田党の随喜<ruby><rb>渇仰</rb><rt>かつごう</rt></ruby>の的に推称したということである。すれば、綾之助には紅蓮洞氏が結ぶの神でなくてはならない。恋人であり夫である石井健太氏は、紅蓮洞氏が率いた三田党の出身であるから――けれど、ぐれさんに言わせれば「三田の<ruby><rb>堂摺</rb><rt>どうする</rt></ruby>ではない、<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>は天下の堂摺だ」と大語するかも知れない。

堂摺連は自分たちが推称する女王のかかる席へは、道を遠しとせず出かける。雨も、雪も、熱血漢の血を冷すには足りない。<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>のさびしいのは隊を組んで歩いて廻る。もすこし熱狂に近いのは女王の車へ随従して車で乗廻す。それよりも激しいのは<ruby><rb>人力車</rb><rt>くるま</rt></ruby>の<ruby><rb>轅</rb><rt>ながえ</rt></ruby>につかまったり後押しをしたり、前へ立って駈出していったりする。高座に渇仰の的が姿を現わすと、神妙に静まりかえって、邪魔にならぬほどのよい<ruby><rb>機</rb><rt>おり</rt></ruby>を見て、語り物の乗りにあわせて、<ruby><rb>下足札</rb><rt>げそくふだ</rt></ruby>で拍子をとり、ドウスル、ドウスルと連発する。けれどもそういう連中は割合に淡泊であった。

綾之助の人気は絶頂ともいってよいほどに、彼女が十八、九になると満都に響きわたった。いうまでもなく彼女の人気は平民的で広かった。名高い芸妓などの名は、きいていても青年が眺める花ではないが、綾之助の場合は気楽で、そして語りものを通して一種の親しみをもつことが出来る。それが彼女のために日に日に新らしい信徒をむかえたのでもあったろう。そうなると勢い綾之助には迷惑な殉教徒が出てきた。彼女に熱心のあまり免職される若い巡査もあれば、母親の留守に自殺しようとまでした小心の書生もあった。その他にも切腹しかけた人があって、その人の母親は<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>のために綾之助に懇談を申入れたことさえあった。ある三十男は気が変になって、いつも赤いハンケチを持ち、<ruby><rb>匂袋</rb><rt>においぶくろ</rt></ruby>をさげて綾之助の後をついて歩いた。その人はいつも五行本の書風に<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>、文句も浄るり<ruby><rb>節</rb><rt>ぶし</rt></ruby>の手紙を、半年のうちに百数十通おくった。

綾之助の夫石井健太は、まだ三田に在塾のころ、十二歳からの彼女の姿を知っていた。卒業の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>三田<ruby><rb>聖坂</rb><rt>ひじりざか</rt></ruby>に一戸をかまえて、横浜のある貿易商につとめていた。石井氏が綾之助を<ruby><rb>愛</rb><rt>いと</rt></ruby>しんだのは、恋ではなかったが、綾之助は<ruby><rb>世心</rb><rt>よごころ</rt></ruby>がつくにしたがって、この人にこそと思いそめたのであった。綾之助が十九の春は、彼女にとって忘れかねる、匂いこまやかな<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>の夜であったろう。廿六の彼は、初めて彼女の志を入れ、終世を共にする<ruby><rb>誓</rb><rt>ちかい</rt></ruby>を結んだのだが、成恋の二人の間には、<ruby><rb>惨</rb><rt>いたま</rt></ruby>しい失恋の人があって、その人の<ruby><rb>誠心</rb><rt>まごころ</rt></ruby>が綾之助の幸福のために仲人となってくれたのだった。

その人は石井氏の友達の弟であった。綾之助を恋したために落第も二、三度した。机の上の<ruby><rb>洋燈</rb><rt>ランプ</rt></ruby>の<ruby><rb>笠</rb><rt>かさ</rt></ruby>には彼女の名が黒々と書かれ、畳の上に頭をかかえて<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>げ廻る彼は、

「日本中の者が死んで、<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>と彼女と二人ぎりになればよい」

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶ</rt></ruby>やきくらしていた。ある夜、石井氏と一緒に綾之助のかかる席へゆくと、綾之助は石井氏を木戸口に待ち迎えていて、氏の好みを聞いてその夜の語りものを改ためたりした。それを見て綾之助の心を悟った彼は絶望のあまり、冬の夜を一夜、品川海岸をさ迷っていたこともあった。その死にもしかねぬ彼の恋が綾之助の<ruby><rb>偽</rb><rt>にせ</rt></ruby>手紙をつくって石井氏の心を<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>した。

それが二人を結びつける強い綱になったのだった。<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>は彼をたかめて、綾之助を失意のものにさせまいと、優しい思いやりまでして、彼は石井氏の両親が選んだ娘のあったのを、破約にさせるように骨を折った。そんなことがちらちらと<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>に立つと、綾之助の高座へ<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をするものが出来た。石井氏の名を知って<ruby><rb>害</rb><rt>あや</rt></ruby>めようとする者などもあった。養母の鶴勝を<ruby><rb>煽</rb><rt>おだ</rt></ruby>てるものもあった。石井氏は後日の健全な家庭をつくるためにと、綾之助を慰めておいて、<ruby><rb>雄々</rb><rt>おお</rt></ruby>しくも志望を米国へ<ruby><rb>伸</rb><rt>のば</rt></ruby>しに渡った。綾之助はその留守をどうして暮したであろう、彼女は派手な芸人の上に、日の出の人気の花形である。あらぬ噂も立つ、またその上に大阪役者の中村<ruby><rb>芝雀</rb><rt>しばじゃく</rt></ruby>（後に雀右衛門）を<ruby><rb>従兄妹</rb><rt>いとこ</rt></ruby>にもっていたので、東上のおりには、引幕を<ruby><rb>遣</rb><rt>おく</rt></ruby>ったり<ruby><rb>見連</rb><rt>けんれん</rt></ruby>を催したりする、彼女の生活の色彩は、いよいよ華やかであった。けれどそれは表向きだけで、彼女は健太氏の帰朝を一日も長しと待ちわびていた。彼女は未来の夫のために便船ごとに出す手紙を、忙しい間にかかさずに書いた。笑われまいために学びもした、裁縫などもならった。<ruby><rb>昔日</rb><rt>せきじつ</rt></ruby>の「男おんな」はすっかり細君<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>になっていた。

五年ぶりに成功して帰朝した石井氏を、廿三歳の豊麗な彼女が迎えた。養母の鶴勝はその悦びを共にすることを得ず、もはや<ruby><rb>鬼籍</rb><rt>きせき</rt></ruby>にはいっていた。二人の心は一日も早くと<ruby><rb>焦燥</rb><rt>あせ</rt></ruby>りはしたが、<ruby><rb>席亭</rb><rt>よせ</rt></ruby>組合の懇願もだしがたく、綾之助の引退は一ヶ年の後に<ruby><rb>延引</rb><rt>のば</rt></ruby>された。全くその頃は綾之助が出ると、投げ<ruby><rb>下足</rb><rt>げそく</rt></ruby>というほど、<ruby><rb>席亭</rb><rt>よせ</rt></ruby>の手が廻りかねる大入<ruby><rb>繁昌</rb><rt>はんじょう</rt></ruby>だった。石井氏が帰ってきてから何よりおかしがられたのは、（取消し屋の綾之助）といわれるほど克明に、制限なく新聞へ載せられる誤聞を、一々取消させないではおかなかったことだ。

人世の<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>――この二人の上にも、ふと曇った影がさしたこともあるにはあったが、それは世間の面白がりが、待ちかまえていた二人の心の<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>ではなく、愛の結晶の長男を早世させたことと、明治卅三年頃の相場の不況に失敗し、二女をかかえて洗い<ruby><rb>晒</rb><rt>ざら</rt></ruby>しの<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>一枚になったことだった。その当時こそ多少陰惨の影はもって来たものの、かえって二人の心はぴったりと合い、綾之助貞淑の床しい語り草とも残された。卅七、八年の日露戦争ごろには、芽を出して、家庭は豊かになった。綾之助はこのおりこそと木戸銭がわりに<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>二筋ずつ客に持ってきてもらう演芸会を開き、二日間に二万本を集め得て<ruby><rb>恤兵部</rb><rt>じゅっぺいぶ</rt></ruby>におくった。

時の歩みの早さ、家庭にかくれた綾之助に十年の月日は経った。四十二年の二月に女義界の<ruby><rb>紛擾</rb><rt>ふんじよう</rt></ruby>の仲裁にたった羽目から、<ruby><rb>睦</rb><rt>むつみ</rt></ruby>、正義の両派によらず独立して芸界に再来することになった。時の進むことの早さ、綾之助の<ruby><rb>堂摺連</rb><rt>どうするれん</rt></ruby>はみんな紳士中産階級以上の人になり、時世の潮流もおしなべて向上した。再起の綾之助の語り口も、以前の浮気な人気ではなく、<ruby><rb>完</rb><rt>まった</rt></ruby>く価値あるものとして<ruby><rb>価値</rb><rt>ねうち</rt></ruby>附けられ、真に<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みわけた人生の味を、期待された。

――大正七年四月――