一

若い女が、キャッと声を立てて、バタバタと、<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>とばして、楽屋の入口の間へ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けこんだが、身を縮めて壁にくっついていると、

「どうしたんだ、見っともねえ。」

部屋のあるじは<ruby><rb>苦々</rb><rt>にがにが</rt></ruby>しげにいった。渋い、<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>った声だ。

奈落の<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>で、男に抱きつかれたといったら、も一度<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>でも、<ruby><rb>肝</rb><rt>きも</rt></ruby>を冷されるほど<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られるにきまっているから、<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>娘は<ruby><rb>乳房</rb><rt>ちぶさ</rt></ruby>を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えて、息を殺している。

「しようがねえ奴らだな。じてえ、お前たちが、ばかな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をされるように、<ruby><rb>呆</rb><rt>ぼん</rt></ruby>やりしてるからだ。」

舞台と<ruby><rb>平時</rb><rt>ふだん</rt></ruby>との区別もなく白く塗りたてて、芸に色気が出ないで、ただの時は、いやに色っぽい、女役者の悪いところだけ真似るのを<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>がっている<ruby><rb>九女八</rb><rt>くめはち</rt></ruby>は、銀のべの<ruby><rb>煙管</rb><rt>キセル</rt></ruby>をおいて、鏡台へむかったが、小むずかしい顔をしている渋面が鏡に写ったので、ふと、口をつぐんだ。

七十になる彼女は、<ruby><rb>中幕</rb><rt>なかまく</rt></ruby>の<ruby><rb>所作事</rb><rt>しょさごと</rt></ruby>「<ruby><rb>浅妻船</rb><rt>あさづまぶね</rt></ruby>」の若い女に<ruby><rb>扮</rb><rt>ふん</rt></ruby>そうとしているところだった。

「お師匠さん、ごめんなすって下さい。<ruby><rb>華紅</rb><rt>かこう</rt></ruby>さんが、<ruby><rb>他</rb><rt>よそ</rt></ruby>のお弟子さんと間違えられたのですよ。」

「<ruby><rb>静</rb><rt>しい</rt></ruby>ちゃん、その<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>に、ばかな目に逢わないように、言いきかせておくれよ。」

九女八は、<ruby><rb>襟白粉</rb><rt>えりおしろい</rt></ruby>の<ruby><rb>刷毛</rb><rt>はけ</rt></ruby>を、手伝いに来てくれた、鏡のなかにうつる静枝にいった。根岸の家にも一緒にいる内弟子の静枝は、他のものとちがって並々の<ruby><rb>器量</rb><rt>うつわ</rt></ruby>でないことを知っているので、

「<ruby><rb>静</rb><rt>しい</rt></ruby>ちゃん、あすこの引抜きを、今日は<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>くやっておくれ。引きぬきなんざ、一度覚えればコツはおんなじだ。自分が<ruby><rb>演</rb><rt>や</rt></ruby>るときもそうだよ。」

静枝は――後に<ruby><rb>藤蔭</rb><rt>ふじかげ</rt></ruby>流の<ruby><rb>家元</rb><rt>いえもと</rt></ruby>となるだけに、身にしみて年をとった師匠の舞台の世話を見ている。

名人と呼ばれ、女団十郎と呼ばれ、九代目市川団十郎の、たった一人の女弟子で、九女八という名をもらっている師匠が、歌舞伎座のような大舞台を踏まずに、この立派な芸を、<ruby><rb>小芝居</rb><rt>こしばい</rt></ruby>や、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>まじりの改良文士劇や、女役者の一座の中で衰えさせてしまうのかと、その人の芸が<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>くって、静枝は思わず涙ぐんだ。

鏡へうつる眼のなかのうるみを、見られまいとしてうつむくとたんに、九女八づきの狂言<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>、<ruby><rb>藤台助</rb><rt>ふじだいすけ</rt></ruby>が入口の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を頭でわけて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬっ</span>と<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へはいって来た。

「どうしたんだ、叱られでもしたのか。」

そういうのへ、九女八は<ruby><rb>審</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうに顔を向けた。静枝へいっているのではないと思ったからだった。

「ははァ、からかったのはお前さんか。」

九女八は、若い<ruby><rb>女</rb><rt>もの</rt></ruby>へ<ruby><rb>調戯</rb><rt>からかい</rt></ruby>たがる台助のくせを知っているので、口へは出さないが、腹の中でそう思っている。

「師匠、この次興行、浅草へ出てくれないかというのだが――」

静枝は、台助の顔を、<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>むつもりではなかったが、そう見えるほど厳しく下から見上げた。今もいま、師匠のかけがえのない<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い芸を、心の中で惜んでいたのに、このお<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんは<ruby><rb>見世</rb><rt>みせ</rt></ruby>ものの中へ出すのか――と思ったからだ。

「なんだ。二人とも、妙な<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>あするんだな。」

<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざがしら</rt></ruby>へむかって、仮にも、狂言方が、そんな、いけぞんざいな言葉がいえるはずはないのだが、台助は九女八の夫で、しかも、九女八に<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れ込んで、大問屋の旦那が、家も子も女房も捨て、小芝居の楽屋へ<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がり込んだという、前身が<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>筋ではあるし、今も<ruby><rb>守住</rb><rt>もりずみ</rt></ruby>さんで通っている亭主だったのだ。

「考えておきましょうよ。」

女房の九女八は、女<ruby><rb>団洲</rb><rt>だんしゅう</rt></ruby>で通る<ruby><rb>素帳面</rb><rt>きちょうめん</rt></ruby>な、楽屋でも<ruby><rb>家庭</rb><rt>うち</rt></ruby>でも、芸一方の、言葉つきは男のようだが、気質のさっぱりした、書や画をよくした、教養のある人柄だった。

<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れてるとはいいながら、九女八の扮装は手早かった。<ruby><rb>水刷毛</rb><rt>みずばけ</rt></ruby>をすると、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>は墨をチョンと打って指で引っぱる。<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>の紅は、ちょいとつけて墨をさして、すッと吸っておくばかりだ。

それでもう、<ruby><rb>生々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>した娘の顔になっている。子供のときから、御狂言師で<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き込んでいるので踊のおさらいのような、けばけばしい鏡台前ではなかった。筆は一本<ruby><rb>兎</rb><rt>うさぎ</rt></ruby>の足が一ツという簡素さだ。お茶とかき<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>がすきなので、それだけは、いつも<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らにある。

「<ruby><rb>桂</rb><rt>かつら</rt></ruby>がさきへ帰るからね、晩御飯に、さんま食べるって――<ruby><rb>浅漬</rb><rt>あさづけ</rt></ruby>もとっといておくれ。」

<ruby><rb>湯呑</rb><rt>ゆの</rt></ruby>みと手鏡を持って、舞台裏まで附いてゆく静枝にいいつけた。

根岸の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は茶座敷などもあって、庭一ぱいの<ruby><rb>鷺草</rb><rt>さぎそう</rt></ruby>が、夏のはじめには水のように<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>う、青い庭へ、白い小花を飛ばしていた。

そんな日の<ruby><rb>午前</rb><rt>あさ</rt></ruby>、紫の<ruby><rb>竜紋</rb><rt>りゅうもん</rt></ruby>の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>の<ruby><rb>被衣</rb><rt>ひふ</rt></ruby>を脱いで、<ruby><rb>茶筌</rb><rt>ちゃせん</rt></ruby>のさきを二ツに割っただけの、<ruby><rb>鬘下地</rb><rt>かつらしたじ</rt></ruby>に<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>った、<ruby><rb>面長</rb><rt>おもなが</rt></ruby>な、下ぶくれの、品の好い彼女は、好い<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>をした、高い鼻をうつむけて、そのころ趣味をもった、サビタや、メションや<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>のパイプを、並べて磨いている。

養女の菊子に、台助が、意味をもった眼づかいをして、何か小用を、甘ッたるく言いつけているのを後にきいて、軽く眉をひそめていたが、台助が外出した気配にホッとしたようで、

「静枝さんは、<ruby><rb>依田</rb><rt>よだ</rt></ruby>先生のところへいったかい。」

「ええ、丁度、今帰りました。坂本の<ruby><rb>栄泉堂</rb><rt>おかの</rt></ruby>へお菓子を買いにいったら、帰りが一緒になりましたの。」

と、内弟子の<ruby><rb>華代子</rb><rt>かよこ</rt></ruby>が、餅菓子を好い<ruby><rb>陶器</rb><rt>やきもの</rt></ruby>の<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>へ入れて持って来ていった。

二人の内弟子のうち、華代子は他のものにはきらわれたが気に入りなので、師匠の小間使いをしている。静枝には<ruby><rb>海老茶袴</rb><rt>えびちゃばかま</rt></ruby>をはかせて玄関番をさせ、神田小川町の依田<ruby><rb>百川</rb><rt>ひゃくせん</rt></ruby>――<ruby><rb>学海</rb><rt>がくかい</rt></ruby>翁のところへ漢学をならわせにやるのだった。

「女役者だって、学問があって、絵が描けなければだめだよ。」

彼女も、用がなければ、サビタのパイプを<ruby><rb>弄</rb><rt>いじ</rt></ruby>る前には、絵筆を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>っているのだった。

けれど彼女に、守住<ruby><rb>月華</rb><rt>げっか</rt></ruby>という雅号のような名があるのは、絵を描くためではなくって、明治十一年ごろからはじまった、演劇改良会の流れで、演劇改良論者の仲間であった学海が、明治廿四年浅草公園裏の<ruby><rb>吾妻</rb><rt>あづま</rt></ruby>座（後の宮戸座）で、<ruby><rb>伊井蓉峰</rb><rt>いいようほう</rt></ruby>をはじめ男女合同学生演劇済美館の旗上げをした時、<ruby><rb>芳町</rb><rt>よしちょう</rt></ruby>の芸妓<ruby><rb>米八</rb><rt>よねはち</rt></ruby>には<ruby><rb>千歳米波</rb><rt>ちとせべいは</rt></ruby>と名乗らせた時分だったか、もすこし<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>で、川上<ruby><rb>貞奴</rb><rt>さだやっこ</rt></ruby>を<ruby><rb>援助</rb><rt>たすけ</rt></ruby>に出た時だかに、彼女にも守住の本姓に月華という名を与えたのだった。

岩井<ruby><rb>粂八</rb><rt>くめはち</rt></ruby>といった時分の弟子には、<ruby><rb>紀久八</rb><rt>きくはち</rt></ruby>たちがあるが、月華になってからは、かつらとか、名古屋の源氏節から来た女にも、<ruby><rb>華紅</rb><rt>かこう</rt></ruby>とか、華代子とかいう名をつけた。新しい弟子の静枝も、学海<ruby><rb>居士</rb><rt>こじ</rt></ruby>が名づけたのだった。

彼女は、好物な甘いもので、<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>いお茶を飲んで、<ruby><rb>閑</rb><rt>しず</rt></ruby>かな日が、気持ちよげだった。

「こんやは一ツ、<ruby><rb>静</rb><rt>しい</rt></ruby>ちゃんに『舌出し三番』でも教えるか。」

といったが、古い日のことを思出したのであろう、お前の踊の師匠だった、おとねさんは、しどいよ、と言った。

おとねさんという名をきくと、静枝は故郷の<ruby><rb>新潟</rb><rt>にいがた</rt></ruby>の<ruby><rb>花柳界</rb><rt>さかりば</rt></ruby>を思いだした。静枝の踊の師匠は、市川の名取りで、九代目団十郎の妹のお<ruby><rb>成</rb><rt>なる</rt></ruby>さんという浅草<ruby><rb>聖天町</rb><rt>しょうてんちょう</rt></ruby>にいた人の弟子だった。

「そういえば、お師匠さんが新潟へお<ruby><rb>出</rb><rt>いで</rt></ruby>になった時、あたしはまだ<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>っぽけでした。お<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>いの<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を着て、川蒸気船の着く、<ruby><rb>万代</rb><rt>ばんだい</rt></ruby>橋の川っぱたまで、お迎えに出ていましたっけ。」

「うん、そんなこともあったっけね。」

九女八は<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>と、庭の鷺草を見つめた。

新潟の<ruby><rb>花街</rb><rt>さかりば</rt></ruby>で名うての、庄内屋の養女だった静枝までが、船着き場へ迎いに並んだほど、九女八の乗り込みは人気があったのだが、それも、<ruby><rb>会津屋</rb><rt>あいづや</rt></ruby>おあいといった芸妓が、市川流の踊りの師匠で、市川とねと名のっていたから、同門の<ruby><rb>誼</rb><rt>よし</rt></ruby>みで、華々しく迎えたのだった。

土地の顔役で、江戸生れのお爺さん、<ruby><rb>江戸鮨</rb><rt>えどずし</rt></ruby>の孫娘に生れた静枝は、<ruby><rb>直江津</rb><rt>なおえつ</rt></ruby>までしか汽車のなかった時分の、偉い女役者が乗込んで来た日の幼かった自分の事も、あの、日本海の荒海から流れ込んでくる、万代橋の下の水の色とともに目にうかべ、思い出していた。

「出しものは<ruby><rb>道成寺</rb><rt>どうじょうじ</rt></ruby>だ。<ruby><rb>勧進帳</rb><rt>かんじんちょう</rt></ruby>を出したのは、<ruby><rb>興行師</rb><rt>ざかた</rt></ruby>らから、断わりきれない頼みだったんだ。そのこたあ、おとねだって知ってたのに。」

それがもとで、市川<ruby><rb>升之丞</rb><rt>ますのじょう</rt></ruby>の名を取り上げられ、九代目団十郎から破門され、また岩井粂八の名にかえって、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>蟄伏</rb><rt>ちっぷく</rt></ruby>しなければならなかった、嫌な思出と、若かった日のことなども、それからそれへと、九女八も思いうかべている。

「お師匠さんは、新潟へ<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>らしった時から、九女八だったとばっかり思ってました。あたし、ちいさい時でしたから。」

「市川升之丞さ。」

九女八は、<ruby><rb>莨</rb><rt>タバコ</rt></ruby>の<ruby><rb>脂</rb><rt>やに</rt></ruby>の流れた筋が、<ruby><rb>飴</rb><rt>あめ</rt></ruby>色に<ruby><rb>透通</rb><rt>すきとお</rt></ruby>るようになった、<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>のパイプを<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>して眺めて、

「あたしは、一番はじめの、踊の名取りが<ruby><rb>阪東桂八</rb><rt>ばんどうけいはち</rt></ruby>さ。それから、女役者になって岩井粂八、それから市川升之丞、守住月華、市川九女八さ。」

随分とりかえたものさねと、自分のことではないような、淡々としたふうにいって、

「だが、師匠運は、ばかに好いのさ。阪東<ruby><rb>三津江</rb><rt>みつえ</rt></ruby>というお狂言師は、<ruby><rb>永木</rb><rt>えいき</rt></ruby>三津五郎という名人の弟子で、まあ、ちょっとない名人だよ、高名なものさ。岩井半四郎は、<ruby><rb>大杜若</rb><rt>おおとじゃく</rt></ruby>と呼ばれた人の孫だったかで、好い<ruby><rb>容貌</rb><rt>きりょう</rt></ruby>の<ruby><rb>女形</rb><rt>おやま</rt></ruby>だった。けれど、なんといったって、<ruby><rb>市川宗家</rb><rt>つきじ</rt></ruby>ほどの役者の、<ruby><rb>門弟</rb><rt>でし</rt></ruby>になったなあ、あたしの名誉さ。」

ほんとに、団十郎の芸には心酔している言いぶりだった。

「好い先生といえば、ねえ、お師匠さん、依田先生が、和歌も学んだ方が好いから、<ruby><rb>竹柏園</rb><rt>ちくはくえん</rt></ruby>に通ったらどうだと仰しゃって、入門のことを話しといてあげると仰しゃいました。」

「そりゃあ豪儀だな。」

ふくみ笑いを、ほんとに笑ってしまって、

「学問は上達しても、踊が、あれじゃあなってねえな。お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>たちのは、踊ってるんじゃなくて、畳を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めてるんだ。」

機嫌の好い皮肉だった。

「あっしゃ全体、神田の<ruby><rb>豊島町</rb><rt>としまちょう</rt></ruby>で生れたんだけれど、<ruby><rb>牛込</rb><rt>うしごめ</rt></ruby>の<ruby><rb>赤城下</rb><rt>あかぎした</rt></ruby>に住んでたのさ。お父さんはお組役人――<ruby><rb>幕末</rb><rt>あのころ</rt></ruby>の<ruby><rb>小役人</rb><rt>こやくにん</rt></ruby>なんざ貧乏だよ。<ruby><rb>赤城神社</rb><rt>あかぎさま</rt></ruby>の<ruby><rb>境内</rb><rt>なか</rt></ruby>に阪東三江八ってお踊の師匠さんがあってね、赤城さまへ遊びにゆくと、三江八さんのところの<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>につかまって<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてばかりいたのさ。」

呼びこまれて踊ってみると、見覚えで踊れた。それから親には<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で教えてくれたのだが、お母さんが肩を入れだして、どうかお父さんに許されるようにと、何かの<ruby><rb>祝事</rb><rt>いわいごと</rt></ruby>のあった時、父親やその仲間のいるところで本式に踊らして見せたので、その後、直に父親を<ruby><rb>歿</rb><rt>なく</rt></ruby>なしてからも、十三、四から踊りの手ほどきをして、母親と二人で暮していけたのだがと、めずらしく身の上ばなしをしだした。

「お<ruby><rb>文</rb><rt>ぶん</rt></ruby>さんという、<ruby><rb>常磐津</rb><rt>ときわず</rt></ruby>の地で、<ruby><rb>地弾</rb><rt>じび</rt></ruby>きをしてくれる人が、あたしを可愛がってね。小石川<ruby><rb>伝通院</rb><rt>でんづういん</rt></ruby>にいた、高名な三津江師匠のところへ連れてってくれたのだが芸は<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>い。」

と彼女はふとい息を吐いた。

「それまで、あたしが踊ってたのは、手ふりさ、踊りなんかじゃないのさ。それから、本当の踊りをしこまれた。」

「そういえばお師匠さん、高橋お伝をおやんなさったことがあるでしょ。」

「ああ、たしか明治十七年ごろだった。」

「いいえ、もっとあとで、見た人が、お伝になった、お<ruby><rb>師匠</rb><rt>しょ</rt></ruby>さんの<ruby><rb>扮装</rb><rt>おつくり</rt></ruby>を見て、お<ruby><rb>師匠</rb><rt>しょ</rt></ruby>さんの若い時分――<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>ぶりを見た気がしたって、言ってました。」

「あッしゃあ、あんなじゃなかったよ。」

苦りきったかげが唇をかすめたが、<ruby><rb>湯呑</rb><rt>ゆのみ</rt></ruby>の銀の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をとって、お茶を飲んでしまった。

「もっとも、あの<ruby><rb>着附</rb><rt>きつけ</rt></ruby>は、あの時分の年増の気のきいた好みさ。だが、あッしばかりじゃない。全体、あの『<ruby><rb>綴合於伝仮名書</rb><rt>とじあわせおでんのかながき</rt></ruby>』というのは、いつだったかねえ、お伝の<ruby><rb>所刑</rb><rt>しょけい</rt></ruby>は九年ごろだったから――十一、二年ごろに<ruby><rb>菊五郎</rb><rt>ごだいめ</rt></ruby>が<ruby><rb>河竹黙阿弥</rb><rt>かわたけもくあみ</rt></ruby>さんに<ruby><rb>書下</rb><rt>かきおろ</rt></ruby>してもらって、そうそう裁判所のところが<ruby><rb>大詰</rb><rt>おおづめ</rt></ruby>に出るので、大道具<ruby><rb>長谷川勘兵衛</rb><rt>かんべい</rt></ruby>さんと、裁判所まで行ったんだよ。なんでも、その時の話に、おでんという<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>は<ruby><rb>伝法</rb><rt>でんぽう</rt></ruby>な毒婦じゃなくって、<ruby><rb>野暮</rb><rt>やぼ</rt></ruby>な、克明な女だから、そういうふうに<ruby><rb>演</rb><rt>や</rt></ruby>るっていったことだが――そうかも知れないね。お伝は、上州沼田というところの御家老の落し種で、<ruby><rb>利根</rb><rt>とね</rt></ruby>の方の<ruby><rb>農家</rb><rt>おひゃくしょう</rt></ruby>のところで生れたのだそうだから。」

「でも、お<ruby><rb>師匠</rb><rt>しょ</rt></ruby>さん、すこし根下りの<ruby><rb>大丸髷</rb><rt>おおまるまげ</rt></ruby>に、水色<ruby><rb>鹿</rb><rt>が</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>の手柄で、<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby>の<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>が眼に残っていますって――黒っぽい<ruby><rb>透綾</rb><rt>すきや</rt></ruby>の着物に、腹合せの帯、<ruby><rb>襟裏</rb><rt>えりうら</rt></ruby>も<ruby><rb>水浅黄</rb><rt>みずあさぎ</rt></ruby>でしたってね。そうだ、帯上げもおなじ色だったので、大粒な、<ruby><rb>珊瑚珠</rb><rt>さんごじゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>金簪</rb><rt>きんかんざし</rt></ruby>が眼についたって。」

朝、目が覚めて、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>から出た時に、薄暗い庭の植込みに、大輪な<ruby><rb>紫陽花</rb><rt>あじさい</rt></ruby>の花を見出すと、その時の九女八のおでんが浮びあがるといったことや、それは、浅草<ruby><rb>蔵前</rb><rt>くらまえ</rt></ruby>の宿で、病夫浪之助を殺して表へ出た時の<ruby><rb>着附</rb><rt>きつけ</rt></ruby>だったか、<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まる時のだか、そんなことはもう、<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>げになってしまっているといってたのを、はなした。

「お師匠さんは、あんな役、<ruby><rb>厭</rb><rt>きら</rt></ruby>いなんでしょ。」

「まあね、いって見れば、あたしは、女団洲と呼ばれたくらいだし、自分でも、<ruby><rb>団十郎</rb><rt>くだいめ</rt></ruby>のすることの方が好きだから――わかりもしないくせに、高尚ぶってるといわれたりしたけれど、もともとお狂言師は、<ruby><rb>生世話物</rb><rt>きぜわもの</rt></ruby>をやらなかったからねえ。それが癖になってて、<ruby><rb>新世話物</rb><rt>ざんぎり</rt></ruby>に行けなかったのかも知れない。」

――けど、おかしいわ、ちっと――

そうそう、新入門の、とし子さんならば、そうハキハキと問えるかもしれない、と考えながら、静枝は、

「でも――それでも、お<ruby><rb>師匠</rb><rt>しょ</rt></ruby>さんは、もっと新らしい、書生芝居にもお出なすったのでしょう。」

九女八は、<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>を言う、静枝のみずみずした丸い顔を見て、

「あたしは、こんな、小さな<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>だけれど、<ruby><rb>毛剃</rb><rt>けそり</rt></ruby>だの、<ruby><rb>熊谷</rb><rt>くまがい</rt></ruby>の陣屋だの、あんなものが好き。<ruby><rb>山姥</rb><rt>やまうば</rt></ruby>なんぞも団十郎の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いき</span>で、<ruby><rb>彫刻</rb><rt>ほりもの</rt></ruby>のように<ruby><rb>刻</rb><rt>ほ</rt></ruby>りあげてゆきたい方だが、<ruby><rb>野田安</rb><rt>のだやす</rt></ruby>さんて、<ruby><rb>松駒連</rb><rt>まつこまれん</rt></ruby>の幹事さんで芝居に夢中な人が、川上さんのお貞さんを助けて出ろと、なんといってもきかないのでね、芸は修業だから出もしたし、それに文士方の新史劇の方は、――史劇は<ruby><rb>団十郎</rb><rt>ししょう</rt></ruby>も気を入れていたのだもの。」

彼女はふと気を代えていった。

「お前さんも、あんな、抱えの<ruby><rb>芸妓衆</rb><rt>げいしゃしゅう</rt></ruby>や、<ruby><rb>娼妓</rb><rt>おいらん</rt></ruby>が、何十人いるうちの、踊舞台だって、あんな大きなのがある、庄内屋さんの<ruby><rb>家督</rb><rt>あととり</rt></ruby>娘に<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>われてて、よくよく芸が好きなればこそ、家を飛出してあたしんとこなんぞの、内弟子になってるんだから、よく覚えてくれなけりゃあ、しようがない。」

そら、お談議になったと、静枝がかしこまって、<ruby><rb>閉口</rb><rt>へいこう</rt></ruby>しかけているところへ、

「<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>、お<ruby><rb>髪</rb><rt>ぐし</rt></ruby>、お染めになりますか。」

と、<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>の支度をする女中がききに来たので、静枝は、やれ助かったとホッとした。

二

――降り出した雨。

ト、舞台は車軸を流すような豪雨となり、折から山中の<ruby><rb>夕暗</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>、だんまり模様よろしくあって引っぱり、<ruby><rb>九女八役</rb><rt>くめはちやく</rt></ruby>は、花道<ruby><rb>七三</rb><rt>しちさん</rt></ruby>に<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>をかぶって丸くなる。それぞれの<ruby><rb>見得</rb><rt>みえ</rt></ruby>、幕引くと、九女八起上り<ruby><rb>合方</rb><rt>あいかた</rt></ruby>よろしくあって、<ruby><rb>揚幕</rb><rt>あげまく</rt></ruby>へ入る――

蚊のなくように、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>、どこで、なんの役でかの、狂言本読みの、<ruby><rb>立</rb><rt>たて</rt></ruby>作者が読んできかす、ある役の引っこみの<ruby><rb>個処</rb><rt>ところ</rt></ruby>が、頭の奥の方で、その当時聴いた声のままで繰返してきこえる。それについて、その役の、引っ込みの足どりまで、九女八は眼の前の、庭の雨を眺めながら、考えるともなく考えているのだった。

――はて、この役は、女だったかな、男だったかな――

ながい舞台生活は、華やかなようでも、<ruby><rb>演</rb><rt>や</rt></ruby>る役は、普通生活とおなじで、そうそう他種類はない。自分についた<ruby><rb>持役</rb><rt>もちやく</rt></ruby>は大概きまっていて、柄にない役はもってこないのだが、どうしたことか、今考えている役がなんだか、九女八には思いだせない、それに、なんでも思い出さなければならないことでもない。と、そう思うかげに、ながい間役者をしたが、とうとう、<ruby><rb>団十郎</rb><rt>ししょう</rt></ruby>と一つ舞台に並べなかったという、何時も悲しむさびしさが、心の奥を去来していた。

「あたしは、考えかたが、間違ってた。」

九女八は、鷺草の、白い花がポツポツと咲き残るのへ降る雨が、<ruby><rb>庭面</rb><rt>にわも</rt></ruby>を、真っ青に見せて、もやもやと、青い影が漂うようなのに、<ruby><rb>凝</rb><rt>きっ</rt></ruby>と心をひかれながら、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「なにがよ。」

芸者や、役者の配り<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>の、柄の好いのばかりで<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた手拭浴衣を着て、<ruby><rb>八反</rb><rt>はったん</rt></ruby>の<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>ぐけを前でしめて、寝ころんだまま、耳にかんぜよりを突ッこんでいた台助が、<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>におちない顔をした。

「なんてって――」

九女八は、まだ、<ruby><rb>素足</rb><rt>すあし</rt></ruby>の引っこみの足どりの<ruby><rb>幻影</rb><rt>かげ</rt></ruby>を、庭の、雨足のなかに追いながら、

「<ruby><rb>成田屋</rb><rt>ししょう</rt></ruby>のうちの庭は、あすこらあたりに、大きな、低い、捨石があったっけが――」

と、自分でも思いがけない、話の本筋とは違うことを、ふいと、口に浮び出したままいった。

「お<ruby><rb>歿</rb><rt>なく</rt></ruby>なんなすってからも、<ruby><rb>居間</rb><rt>おへや</rt></ruby>の前の庭は、当時そのままだから――」

九女八は、一木一石といったふうの<ruby><rb>団十郎</rb><rt>ししょう</rt></ruby>の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の庭に、鷺草が、今日も、この雨に、しっとりと<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れているだろう<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>を、思うのだった。

台助は、なんとなく顔をあげて、庭もせから、部屋の中を見廻した。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>には、自分の趣味なんぞ半<ruby><rb>欠</rb><rt>か</rt></ruby>けらもなかった。九女八の好みであり、それは、彼女が私淑した<ruby><rb>成田屋</rb><rt>くだいめ</rt></ruby>好みである、書画、<ruby><rb>骨董</rb><rt>こっとう</rt></ruby>、それら、人格に深みを添えるたしなみが、女役者の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>とは思わせなかった。

「高田先生（<ruby><rb>早苗</rb><rt>さなえ</rt></ruby>）は、あたしを女のままで、女役にして、<ruby><rb>団十郎</rb><rt>ししょう</rt></ruby>の相手を<ruby><rb>演</rb><rt>や</rt></ruby>らせてくださろうとなさったのだったと、はじめて――始めて、わたしは気がついた。」

九女八の唇は細かくふるえている。ちらりと、それを、台助は見ないのではないが、

「今更おそい――か。おくれたりだなあ。」

同情しながら、わざというのかもしれないが、おひゃらかしたふうにもとれた。が、九女八はそれにはかまわず、

「師匠の芸の神髄を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだ、と思ったのは<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>だけだったのか――師匠は、女団洲なんて、<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>だったろうなあ。」

「だってお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>、<ruby><rb>団十郎</rb><rt>なりたや</rt></ruby>だって、高田さんにそういったってじゃねえか、<ruby><rb>九女八</rb><rt>あれ</rt></ruby>が男だと、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>にして好い役者だって――だから、お前が、女に生れたってことが、<ruby><rb>師匠</rb><rt>くだいめ</rt></ruby>といっしょに<ruby><rb>演</rb><rt>や</rt></ruby>れなかったということなんで、生れかわらなきゃ、頭から駄目だったのだ。」

「そうじゃありませんよ、静枝やとし子さんの考えを見ても、川上さんや、依田先生たちのことを思い出しても、あたしは、<ruby><rb>毛剃</rb><rt>けそり</rt></ruby>や、弁慶が<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>かったのがいけなかった。」

「高田先生は、そのつもりだったのかも知れないが、<ruby><rb>宗家</rb><rt>そうけ</rt></ruby>はそうじゃなかろうぜ。」

「あたしを女優――<ruby><rb>女形</rb><rt>おやま</rt></ruby>として、相手にはしなかったろうとですか？」

「そうじゃないか、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>は立派な<ruby><rb>役者</rb><rt>もの</rt></ruby>だ。男だったら、<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>の相手だがと、だから、<ruby><rb>高田先生</rb><rt>せんせい</rt></ruby>に言ったんだ。」

「いいえ。」

九女八はしみじみとして、

「あたしがねえ、小芝居ばかりに出ていたので、どうかして、あれを<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めねえものかと仰しゃってたそうだから――」

<ruby><rb>緞帳</rb><rt>どんちょう</rt></ruby>芝居――小芝居へ落ちていた<ruby><rb>役者</rb><rt>もの</rt></ruby>は、大劇場出身者で、<ruby><rb>名題役者</rb><rt>なだいやくしゃ</rt></ruby>でも、帰り新参となって三階の<ruby><rb>相中部屋</rb><rt>あいちゅうべや</rt></ruby>に入れこみで鏡台を並べさせ、相中並の役を与え、<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>か三場処ほど謹慎しなければ、もとの位置にはもどさない<ruby><rb>仕来</rb><rt>しきた</rt></ruby>りがある、階級的な差別の厳しいのが芝居道だった。

九女八は、<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>佐竹ッ<ruby><rb>原</rb><rt>ぱら</rt></ruby>の浄るり座や、<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby><ruby><rb>森元</rb><rt>もりもと</rt></ruby>の<ruby><rb>開盛座</rb><rt>かいせいざ</rt></ruby>を廻り、<ruby><rb>四谷</rb><rt>よつや</rt></ruby>の<ruby><rb>桐座</rb><rt>きりざ</rt></ruby>や、<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby>の寿座が出来て、格の好い中劇場へ出るようになるかと思うと、また、神田の<ruby><rb>三崎町</rb><rt>みさきちょう</rt></ruby>の三崎座に女役者の<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざがしら</rt></ruby>になってしまったりする。その上に、勧進帳のことで破門されたりして、九代目に芸を認めてもらえながら、引上げてもらう機運をはずしたのだと、もう、どうにもしようのない<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しさを、<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んでいる。

「二銭団洲だって、歌舞伎座を踏んだのにな。」

台助は、はずみで、そんなことを言ってしまってから、しまったと思った。九女八が<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い顔をしたからだった。二銭団洲とは、下谷の<ruby><rb>柳盛座</rb><rt>りゅうせいざ</rt></ruby>で、二銭の木戸銭で見せていた、阪東又三郎が、めっかちではあるが団十郎を真似て、一生の望みが<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>って、歌舞伎座の夏休みのあきを借りて乗り出したことがあったのを、いかもの食いの見物が、つねづね<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>に聞いた二銭団洲を見にいった。出しものは「酒井の太鼓」だったが、あとで座付き役者から物議が起ったことがあったりした、九女八にはいやな、ききたくないことなのだ。

「仕方がないよ、あたしは、はじめっから小芝居へ出てたものね。女役者なんて、あたしたちから出来たのだもの。」

九女八は、<ruby><rb>老</rb><rt>おい</rt></ruby>ても色の白い、柔らかい足を出している、台助の足の小指に<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>って見た。

台助は、<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>とした、額から抜け上っている頭の<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>かたも、柔和な、品の悪くない、いかにも<ruby><rb>以前</rb><rt>もと</rt></ruby>は大問屋の旦那であったというふうな、<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>さと、のんびりした<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>とを持っている、どこか好色そうな<ruby><rb>老爺</rb><rt>としより</rt></ruby>だった。

「大阪の<ruby><rb>千日前</rb><rt>せんにちまえ</rt></ruby>へ<ruby><rb>芦辺倶楽部</rb><rt>あしベクラブ</rt></ruby>というのが出来るそうで、師匠が出てくれるならば、月額千円は出すというのだそうだ。」

九女八は、考え、考え、台助の小指をいじりながら、

「見世物小屋ではないでしょうかねえ。でも、お金が<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>れば、も一度、何か、やって見る事も出来るでしょうから――」

「一年十二ヶ月、頭から約束しようというのだが――<ruby><rb>痛</rb><rt>いて</rt></ruby>えよう。」

と、台助は足をひっこめた。

「そりゃそうと、<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>の<ruby><rb>井</rb><rt>い</rt></ruby>を久しくやらないね。」

「<ruby><rb>染分手綱</rb><rt>そめわけたづな</rt></ruby>ですか――繁の井をすると、思い出すものね。」

<ruby><rb>弟子分</rb><rt>でしぶん</rt></ruby>だった<ruby><rb>沢村紀久八</rb><rt>さわむらきくはち</rt></ruby>が、お<ruby><rb>乳</rb><rt>ち</rt></ruby>の<ruby><rb>人</rb><rt>ひと</rt></ruby>繁の井をしていて、じねんじょの三吉との子別れに、あんまりよく似ている身の上につまされ、役と自分とのわけめがつかなくなって、舞台で気の狂ってしまったことを思い出すからだった。

しかも、その、女役者紀久八は小説にもなり狂言にもなっている。佐藤<ruby><rb>紅緑</rb><rt>こうろく</rt></ruby>氏の「<ruby><rb>侠艶録</rb><rt>きょうえんろく</rt></ruby>」の<ruby><rb>力枝</rb><rt>りきえ</rt></ruby>という女役者は、舞台で気の狂った紀久八がモデルであった。<ruby><rb>小栗風葉</rb><rt>おぐりふうよう</rt></ruby>だったかのに、「<ruby><rb>鬘下地</rb><rt>かつらしたじ</rt></ruby>」というのがある。

「紀久八は舞台で気狂いになったが――あたしは舞台で死ねれば本望だ。なあに、小芝居だって見世物小屋だって、お客さまはみんな眼玉をもってらっしゃる。どんな人が見てくださってるかわかりゃしない。」

「じゃあ、まあ、とにかく、大阪の方の話は、出来そうな工合に、返事をしといてもいいね。」

――これは、もちっと<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>のことで、九女八はこの大阪から帰ってから後、大正二年の七月に、浅草公園の活動<ruby><rb>劇場</rb><rt>しばい</rt></ruby>みくに座で、一日三回興業に、<ruby><rb>山姥</rb><rt>やまうば</rt></ruby>や<ruby><rb>保名</rb><rt>やすな</rt></ruby>を踊り、楽屋で<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>を脱ごうとしかけて卒倒し、そのままになってしまったのだった。大阪で<ruby><rb>溜</rb><rt>ため</rt></ruby>て来た金は、九女八が、何か計画して考えていたことには用いられず、<ruby><rb>終焉</rb><rt>しゅうえん</rt></ruby>の用意となってしまったのだが、台助は、そんな予感がしたのかどうか、ふいと、仕かけていたその談話を打ち切って、

「俺は、ちょいとその事で、出かけてくる。」

と<ruby><rb>着更</rb><rt>きがえ</rt></ruby>をしかけたところへ、静枝が名刺を読みながら来て、

「お師匠さんの芸談を聴きに来た、演芸の方の<ruby><rb>記者</rb><rt>かた</rt></ruby>らしいのですよ。<ruby><rb>談話</rb><rt>はなし</rt></ruby>といてくだすった方が好いと思いますから、お逢いになってくださいな。」

と、<ruby><rb>婉曲</rb><rt>えんきょく</rt></ruby>に、この名人の真相を残させたい、弟子の心やりですすめた。

「じゃあ、茶室へでもお通ししといておくんなさい。」

と九女八が言っているうちに、台助は玄関で、来訪者と<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>れちがいに、傘をさして、門の外へ出ていった。

「おや、お出かけですか。」

と、台助に声をかけたのは、通りかかった芝居道に通じている、芸人の間を歩き廻る顔の広い男だった。その男は、九女八の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の門口で、<ruby><rb>顔馴染</rb><rt>かおなじみ</rt></ruby>の台助に逢うと、いま聞いてきたばかりの、<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>の出るような噂がしたくてたまらなくなったように、

「そういえば、御存じだろうが、あっしゃあ今聞いたばかりのホヤホヤなんだ。話は古いことだが、お宅の師匠は、<ruby><rb>以前</rb><rt>もと</rt></ruby>、<ruby><rb>堀越</rb><rt>ほりこし</rt></ruby>から、なんという名をおもらいなすってた。」

「升之丞ですよ。」

「そうだってねえ、守住さん。それについちゃあ、面白い話があるんだ、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>、九女八とおなんなすった。」

「さあ、たしか、<ruby><rb>新富町</rb><rt>しんとみちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>市川左団次</rb><rt>たかしまや</rt></ruby>さんが、<ruby><rb>謝</rb><rt>わび</rt></ruby>に連れてってくだすって、<ruby><rb>帰参</rb><rt>きさん</rt></ruby>が<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>ったんですが――ありゃあ、廿七、八年ごろだったかな。」

「そこなんだよ守住さん、御勘気に触れて破門された時に、師範状を取上げに行ったのは、<ruby><rb>談州楼燕枝</rb><rt>だんしゅうろうえんし</rt></ruby>（<ruby><rb>落語家</rb><rt>はなしか</rt></ruby>）だったってね。それがね、<ruby><rb>宗家</rb><rt>そうけ</rt></ruby>へおさめねえうちに、その師範状をなくしちゃったんだとさ、すっかり忘れてると、急に帰参が叶ったので、<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さん弱ったのなんのって、でね、九代目の女弟子で、もとが岩井粂八だから、粂の字を<ruby><rb>九</rb><rt>く</rt></ruby>の宇と<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>の字にした方がいいって、こじつけちゃったんだそうだが――<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>さね。」

「へえ、そんなことがありましたんですかねえ。」

台助は、傘を打つ雨を見上げた。<ruby><rb>上層</rb><rt>そこ</rt></ruby>は晴れているのか、うす<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>色の雲からこぼれてくる雨は白く光っている。

「ねえ、お前さん、この雨の工合は、<ruby><rb>九女八</rb><rt>うち</rt></ruby>の芸のような――地震加藤とか<ruby><rb>光秀</rb><rt>みつひで</rt></ruby>をやる時の――底光りがしてるじゃねえか。<ruby><rb>木下尚江</rb><rt>きのしたしょうこう</rt></ruby>さんという先生は、日本にすぐれた女性が三人ある、<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ多いが<ruby><rb>神功</rb><rt>じんぐう</rt></ruby>皇后様を始め奉り、紫式部、それから九女八だと仰しゃったそうだが――」

と、たいして親しくもない男へも言いかけたい気がした。

<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>では九女八が、訪問者へ、こんなふうな懐古談をしているときだった。

「母が再縁いたしますと、養父が<ruby><rb>自儘</rb><rt>じまま</rt></ruby>な町<ruby><rb>住居</rb><rt>ずまい</rt></ruby>をしているような、道楽者の武家でして、私は十六の年、小石川水道町で踊の師匠をはじめました。ええ、私がごく小さい時分に、両国におででこ芝居がございましたのと、<ruby><rb>妥女</rb><rt>うねめ</rt></ruby>が<ruby><rb>原</rb><rt>はら</rt></ruby>に<ruby><rb>小三</rb><rt>こさん</rt></ruby>という三人姉妹の芝居があり、も一つ、鈴之助というのがあっただけで、これらは<ruby><rb>葭簀張</rb><rt>よしずば</rt></ruby>りの小屋でございますから、まあ私どもが、芝居小屋でやりました女役者のはじめのようなもので――初開場？　<ruby><rb>薩摩座</rb><rt>さつまざ</rt></ruby>の出勤には、政岡と仁木。その次が由良之助でございました。」

語りさして、彼女もふと、白い雨のこぼれてくる、空を見上げていた。