一

<ruby><rb>天下</rb><rt>てんか</rt></ruby>の<ruby><rb>勢力</rb><rt>せいりょく</rt></ruby>を一<ruby><rb>門</rb><rt>もん</rt></ruby>にあつめて、いばっていた<ruby><rb>平家</rb><rt>へいけ</rt></ruby>も、とうとう<ruby><rb>源氏</rb><rt>げんじ</rt></ruby>のためにほろぼされて、<ruby><rb>安徳天皇</rb><rt>あんとくてんのう</rt></ruby>を<ruby><rb>奉</rb><rt>ほう</rt></ruby>じて、<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>ノ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>のもくずときえてからというもの、この壇ノ浦いったいには、いろいろのふしぎなことがおこり、<ruby><rb>奇怪</rb><rt>きかい</rt></ruby>なものが、あらわれるようになりました。

海岸に、はいまわっている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かに</span>で、そのこうらが、いかにもうらみをのんだ<ruby><rb>無念</rb><rt>むねん</rt></ruby>そうなひとの顔の形をしたものが、ぞろぞろとでるようになりました。これは<ruby><rb>戦</rb><rt>たたか</rt></ruby>いにやぶれて、海のそこに<ruby><rb>沈</rb><rt>しず</rt></ruby>んだ人びとが、<ruby><rb>残念</rb><rt>ざんねん</rt></ruby>のあまり、そういう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かに</span>に、生まれかわってきたのだろうと、人びとはいいました。それで、これを「平家がに」とよび、いまでも、あのへんへいけば、このかにが、たくさん見られます。

それからまた、月のないくらい<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>には、この壇ノ浦の<ruby><rb>浜辺</rb><rt>はまべ</rt></ruby>や海の上に、<ruby><rb>数</rb><rt>かず</rt></ruby>しれぬ<ruby><rb>鬼火</rb><rt>おにび</rt></ruby>、――めろめろとした<ruby><rb>青</rb><rt>あお</rt></ruby>い<ruby><rb>火</rb><rt>ひ</rt></ruby>が音もなくとびまわり、すこし風のある夜は、波の上から、<ruby><rb>源氏</rb><rt>げんじ</rt></ruby>と<ruby><rb>平家</rb><rt>へいけ</rt></ruby>とが<ruby><rb>戦</rb><rt>たたか</rt></ruby>ったときの、なんともいわれない<ruby><rb>戦争</rb><rt>せんそう</rt></ruby>の物音が聞えてきました。また、そうした夜など、舟でこの海をわたろうとすると、いくつもの黒い<ruby><rb>影</rb><rt>かげ</rt></ruby>が波の上にうかびあがり、舟のまわりにあつまってきてその舟をしずめようとしました。

土地の人びとは、もう夜になると海をわたることはもちろん、<ruby><rb>海岸</rb><rt>かいがん</rt></ruby>へ出ることさえできなくなりました。しかし、それではこまるというので、みんなよって<ruby><rb>相談</rb><rt>そうだん</rt></ruby>をして、<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>ノ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>の近くの<ruby><rb>赤間</rb><rt>あかま</rt></ruby>ガ<ruby><rb>関</rb><rt>せき</rt></ruby>（今の<ruby><rb>下関</rb><rt>しものせき</rt></ruby>）に<ruby><rb>安徳天皇</rb><rt>あんとくてんのう</rt></ruby>のみささぎと<ruby><rb>平家一門</rb><rt>へいけいちもん</rt></ruby>の<ruby><rb>墓</rb><rt>はか</rt></ruby>をつくりました。それからそのそばに、あみだ寺をたてて、<ruby><rb>徳</rb><rt>とく</rt></ruby>の高い<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>さんを、そこにすまわせ、<ruby><rb>朝</rb><rt>あさ</rt></ruby>に<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆう</rt></ruby>にお<ruby><rb>経</rb><rt>きょう</rt></ruby>をあげていただいて、海の<ruby><rb>底</rb><rt>そこ</rt></ruby>にしずんだ人びとの<ruby><rb>霊</rb><rt>れい</rt></ruby>をなぐさめました。

それからというもの、<ruby><rb>青</rb><rt>あお</rt></ruby>い<ruby><rb>鬼火</rb><rt>おにび</rt></ruby>も、戦争の<ruby><rb>物音</rb><rt>ものおと</rt></ruby>も、舟をしずめる黒い<ruby><rb>影</rb><rt>かげ</rt></ruby>も、あらわれなくなりました。しかしまだときどき、ふしぎなことがおこりました。平家の人びとの<ruby><rb>霊</rb><rt>れい</rt></ruby>は、まだじゅうぶんには、なぐさめられなかったとみえます。つぎの<ruby><rb>物語</rb><rt>ものがたり</rt></ruby>はこのふしぎなことのひとつであります。

二

そのころ<ruby><rb>赤間</rb><rt>あかま</rt></ruby>ガ<ruby><rb>関</rb><rt>せき</rt></ruby>に、<ruby><rb>法一</rb><rt>ほういち</rt></ruby>という<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びわ</span><ruby><rb>法師</rb><rt>ほうし</rt></ruby>がいました。この法師は生まれつきめくらでしたので、子どものときから、びわをならい、十二、三<ruby><rb>才</rb><rt>さい</rt></ruby>のころには<ruby><rb>師匠</rb><rt>ししょう</rt></ruby>に<ruby><rb>負</rb><rt>ま</rt></ruby>けないようになりました。そして、いまでは<ruby><rb>天才</rb><rt>てんさい</rt></ruby>びわ<ruby><rb>法師</rb><rt>ほうし</rt></ruby>としてだれでもその名を知っているようになりました。

さて、多くのびわ<ruby><rb>歌</rb><rt>うた</rt></ruby>の中で、この法師がいちばんとくいだったのは、<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>ノ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby><ruby><rb>合戦</rb><rt>かっせん</rt></ruby>の一<ruby><rb>曲</rb><rt>きょく</rt></ruby>でありました。ひとたび法師がびわをひきだし、その歌をうたいはじめると、なんともいえないあわれさ、<ruby><rb>悲</rb><rt>かな</rt></ruby>しさがひびきわたり、<ruby><rb>鬼</rb><rt>おに</rt></ruby>でさえも<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>かずにはいられないほどでありました。

この法師は、だれひとり身よりもなく、また、ひどく<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>でした。いかに、びわの<ruby><rb>名人</rb><rt>めいじん</rt></ruby>とはいえ、そのころは、まだそれでくらしをたてるわけにはいきませんでした。すると、平家の<ruby><rb>墓</rb><rt>はか</rt></ruby>のそばにあるあみだ<ruby><rb>寺</rb><rt>でら</rt></ruby>の<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>さんが、それをきいて、たいへん<ruby><rb>同情</rb><rt>どうじょう</rt></ruby>をし、またじぶんはびわも<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きだったので、この法師をお寺へひきとり、くらしには、なに<ruby><rb>不自由</rb><rt>ふじゆう</rt></ruby>のないようにしてやりました。法師はひじょうによろこびました。そして、しずかな夜などは、とくいの<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>ノ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby><ruby><rb>合戦</rb><rt>かっせん</rt></ruby>を<ruby><rb>歌</rb><rt>うた</rt></ruby>っては坊さんをなぐさめていました。

それは<ruby><rb>春</rb><rt>はる</rt></ruby>の<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>でありました。坊さんは<ruby><rb>法事</rb><rt>ほうじ</rt></ruby>へいってるすでした。法師はじぶんの<ruby><rb>寝間</rb><rt>ねま</rt></ruby>の前の、えんがわへでて、<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>きなびわをひきながら、坊さんの帰りを待っていました。が、坊さんは夜がふけてもなかなか帰ってきませんでした。法師は見えない目を空にむけ、なんとはなし、もの思いにふけっていました。と、やがて<ruby><rb>裏門</rb><rt>うらもん</rt></ruby>に近づく人の<ruby><rb>足音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がして、だれか門をくぐると、<ruby><rb>裏庭</rb><rt>うらにわ</rt></ruby>を<ruby><rb>通</rb><rt>とお</rt></ruby>って法師の方へ近づいて来ました。坊さんの足音にしては、すこしへんだと思いながら、耳をかたむけていると、とつぜん、ふとい声で、ちょうど<ruby><rb>武士</rb><rt>ぶし</rt></ruby>が、けらいを<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ぶように、

「<ruby><rb>法一</rb><rt>ほういち</rt></ruby>。」

と、よびかけました。法師はぎょっとして、すぐ<ruby><rb>返事</rb><rt>へんじ</rt></ruby>もできずにいると、かさねて、さらにふとい声で、

「法一。」

「はい……わたしは、めくらでございます。およびになるのは、どなたでしょうか。」

法師は、やっとそう<ruby><rb>答</rb><rt>こた</rt></ruby>えることができました。

「いや、おどろくにはおよばぬ。」

と、声の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>は、すこしやさしい<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>になり、

「わしは<ruby><rb>使</rb><rt>つか</rt></ruby>いのものじゃ。わしのご<ruby><rb>主君</rb><rt>しゅくん</rt></ruby>は、それは<ruby><rb>高貴</rb><rt>こうき</rt></ruby>なお<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>ではあるが、多くの、りっぱなおともをおつれになり、いま<ruby><rb>赤間</rb><rt>あかま</rt></ruby>ガ<ruby><rb>関</rb><rt>せき</rt></ruby>に、おとどまりになっていられる。さて、ご<ruby><rb>主君</rb><rt>しゅくん</rt></ruby>は、そのほうの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びわ</span>の<ruby><rb>名声</rb><rt>めいせい</rt></ruby>をおききになり、<ruby><rb>今夜</rb><rt>こんや</rt></ruby>はぜひ、そのほうの、とくいの<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>ノ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>の一<ruby><rb>曲</rb><rt>きょく</rt></ruby>をきいて、むかしをしのぼうとされている。されば、これより、わしといっしょにおいでくだされたい。」

この<ruby><rb>当時</rb><rt>とうじ</rt></ruby>は、<ruby><rb>武士</rb><rt>ぶし</rt></ruby>のことばに、そうむやみにそむくわけにはいきませんでしたので、法一はなんとなく<ruby><rb>気味悪</rb><rt>きみわる</rt></ruby>く思いながらも、びわをかかえて、その<ruby><rb>案内者</rb><rt>あんないしゃ</rt></ruby>に手をひかれて寺をでかけました。案内するひとの手は、まるで<ruby><rb>鉄</rb><rt>てつ</rt></ruby>のように、かたく<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>たく、そして大またに、ずしりずしりと歩いていきます。そのようすから<ruby><rb>察</rb><rt>さっ</rt></ruby>すると、そのひとは、いかめしいよろいかぶとを身につけた、<ruby><rb>戦場</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>武士</rb><rt>ぶし</rt></ruby>のように思われました。

やがて、その武士はたちどまりました。そこは、大きなりっぱなご門の前のように思われました。しかし、このあたりには、それほどに大きな、りっぱなご門は、あみだ<ruby><rb>寺</rb><rt>でら</rt></ruby>の<ruby><rb>山門</rb><rt>さんもん</rt></ruby>よりほかにはないはずだが、と<ruby><rb>法師</rb><rt>ほうし</rt></ruby>はひとり思いました。

「<ruby><rb>開門</rb><rt>かいもん</rt></ruby>。」

武士は、こう<ruby><rb>高</rb><rt>たか</rt></ruby>らかにいいました。と、中でかんぬきをはずす音がして、大きなとびらはしずかに開かれました。武士は法師の手をとって、中へはいりました。しっとりとした庭を、しばらくいくと、またおごそかな、りっぱな大げんかんと思われる前に、たちどまりました。武士はそこで、また高らかにいいました。

「ただいま、びわ<ruby><rb>法師</rb><rt>ほうし</rt></ruby>、法一をつれてまいりました。」

大げんかんのうちでは、ふすまをあける音、大戸をあける音がして、やがて、やさしい女たちの話し声が聞えてきました。その声で<ruby><rb>察</rb><rt>さっ</rt></ruby>すると、その女たちは、この<ruby><rb>高貴</rb><rt>こうき</rt></ruby>なおやしきの、<ruby><rb>召使</rb><rt>めしつか</rt></ruby>いであることがわかりました。その召使いの女のひとりが、法師の手をやわらかにとると、こちらへと、大げんかんのうちへ<ruby><rb>案内</rb><rt>あんない</rt></ruby>しました。それから、すべるようにみがきこんだ、長いろうかをいくまがりかして、かぞえきれないほどの、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>べやの前をすぎて、やがて<ruby><rb>大広間</rb><rt>おおひろま</rt></ruby>へ案内されました。そこには、かなりおおぜいの人びとが<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をひそめて、いならんでいることが、そのけはいでわかりました。やわらかな<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>ずれの音が、<ruby><rb>森</rb><rt>もり</rt></ruby>の木のすれあうように聞えました。

法師は、大広間の<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>と、はんたいがわと思われるところに、ふっくらとしたざぶとんの上にすわらせられました。法師はきちんとすわり、持って来たびわをひきよせると、耳もとで<ruby><rb>老女</rb><rt>ろうじょ</rt></ruby>らしい声がしました。

「<ruby><rb>平家</rb><rt>へいけ</rt></ruby>の<ruby><rb>物語</rb><rt>ものがたり</rt></ruby>――<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>ノ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>を<ruby><rb>弾</rb><rt>だん</rt></ruby>じてください。」

三

法師はしずかに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びわ</span>をとりあげました。大広間のうちは、水をうったように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>となりました。はじめは小川のせせらぎのように、かすかにかすかに<ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>りだし、ついで<ruby><rb>谷川</rb><rt>たにがわ</rt></ruby>の岩にくだける水音のようにひびきだして、法師のあわれにも、ほがらかな声が、もれはじめました。その声は一だんごとに力を<ruby><rb>増</rb><rt>ま</rt></ruby>し、泣くがように、むせぶがようにひびきわたりました。その声につれて<ruby><rb>弾</rb><rt>だん</rt></ruby>ずるびわの音は、また<ruby><rb>縦横</rb><rt>じゅうおう</rt></ruby>につき進む<ruby><rb>軍船</rb><rt>ぐんせん</rt></ruby>の音、<ruby><rb>矢</rb><rt>や</rt></ruby>のとびかうひびき、<ruby><rb>甲胄</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>の音、つるぎの<ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>り、<ruby><rb>軍勢</rb><rt>ぐんぜい</rt></ruby>のわめき声、<ruby><rb>大浪</rb><rt>おおなみ</rt></ruby>のうなり、<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>ノ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby><ruby><rb>合戦</rb><rt>かっせん</rt></ruby>そのままのありさまをあらわしました。法師はもはやわれを<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れて歌っていました。

「なんという<ruby><rb>名手</rb><rt>めいしゅ</rt></ruby>でしょう……ひろい国じゅうにも、これにまさるものはありますまい。」

「まことに、わたしも生まれてはじめて聞きます。」

そういうささやき声が、そちこちから聞えました。

法師は、ますます声をはりあげ、ますます、たくみにびわをひきました。<ruby><rb>平家</rb><rt>へいけ</rt></ruby>一<ruby><rb>門</rb><rt>もん</rt></ruby>の<ruby><rb>運命</rb><rt>うんめい</rt></ruby>も、いよいよきわまり、<ruby><rb>安徳天皇</rb><rt>あんとくてんのう</rt></ruby>をいただいた<ruby><rb>二位尼</rb><rt>にいのあま</rt></ruby>が<ruby><rb>水底</rb><rt>すいてい</rt></ruby>ふかく<ruby><rb>沈</rb><rt>しず</rt></ruby>むだんになると、いままで水をうつたようにしんとしていた<ruby><rb>広間</rb><rt>ひろま</rt></ruby>には、いっせいに悲しげな<ruby><rb>苦</rb><rt>くる</rt></ruby>しげな声が上がりました。その声は、だんだんと高まって、はては大声で泣きさけぶ声さえ、聞えてきました。

法師はなんともいえない気持にうたれながら、しずかに一<ruby><rb>曲</rb><rt>きょく</rt></ruby>をひきおわりました。<ruby><rb>広間</rb><rt>ひろま</rt></ruby>の人びとの声は、それでもまだしばらくのあいだ、なげき悲しみつづけていましたが、いつか流れがたえるようにきえていくと、こんどはまた、恐ろしいほどのふかいふかい<ruby><rb>沈黙</rb><rt>ちんもく</rt></ruby>と、<ruby><rb>静寂</rb><rt>せいじゃく</rt></ruby>が広間いっぱいにこもりました。

しばらくしました。と、さっきの<ruby><rb>老女</rb><rt>ろうじょ</rt></ruby>の声が、また法師の耳もとでしました。

「かねて聞いてはいましたが、そなたのびわには、こころから<ruby><rb>感服</rb><rt>かんぷく</rt></ruby>しました。ご<ruby><rb>主君</rb><rt>しゅくん</rt></ruby>も、ことのほかおよろこびになりました。お<ruby><rb>礼</rb><rt>れい</rt></ruby>に、なにかよいものをおあげしたいが、<ruby><rb>旅</rb><rt>たび</rt></ruby>のことで、なにもなくお気のどくです。けれどこれからあと六日の<ruby><rb>滞在</rb><rt>たいざい</rt></ruby>ちゅう、毎夜来て、こよいの物語を聞かしてくだされば、ありがたいことです。あすの晩も、おなじ<ruby><rb>時刻</rb><rt>じこく</rt></ruby>に<ruby><rb>使</rb><rt>つか</rt></ruby>いのものをあげますから、どうぞおいでくださいまし。なお、<ruby><rb>念</rb><rt>ねん</rt></ruby>のためもうしそえますが、ご<ruby><rb>主君</rb><rt>しゅくん</rt></ruby>は、ただいま、おしのびの旅をなされていられるのですから、このことは、どのようなことがあっても、いっさいひみつに、だれひとりにも話さぬよう、くれぐれもおたのみもうします。」

まもなく<ruby><rb>法師</rb><rt>ほうし</rt></ruby>は、また女の手に<ruby><rb>案内</rb><rt>あんない</rt></ruby>され、大げんかんへ来ました。そこには前の<ruby><rb>武士</rb><rt>ぶし</rt></ruby>が待っていて、法師をあみだ<ruby><rb>寺</rb><rt>てら</rt></ruby>までおくって来てくれました。

四

法師が寺へ帰ったのは、夜あけ近くでありました。お<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>さんも、夜おそく帰って来ましたので、法師はもう、寝ていることと思い、法師の<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>へ見にもいかなかったのでした。それで法師のその夜のことは、だれもしらずにしまいました。もちろん法師は、なにも話しませんでした。

つぎの夜でありました。法師はれいのとおり、<ruby><rb>寝間</rb><rt>ねま</rt></ruby>の前の、えんがわにいると、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>さくや</rt></ruby>のとおり、<ruby><rb>重</rb><rt>おも</rt></ruby>い足音が<ruby><rb>裏門</rb><rt>うらもん</rt></ruby>からはいって来て、法師をつれていきました。大げんかんの前、<ruby><rb>召使</rb><rt>めしつか</rt></ruby>いの<ruby><rb>案内</rb><rt>あんない</rt></ruby>、長いろうか、大広間、そして、しんといならぶ人びとの前、そこで法師は昨夜とおなじように、<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>ノ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>の<ruby><rb>物語</rb><rt>ものがたり</rt></ruby>をひきました。そうして、人びとは、またも泣き、むせび、悲しみました。法師は深い<ruby><rb>感激</rb><rt>かんげき</rt></ruby>にうたれて、寺へ帰って来ました。

すると、寺ではめくらの法師が、だれの<ruby><rb>案内</rb><rt>あんない</rt></ruby>もなしに寺をぬけだしていることを知りました。

つぎの朝、法師はお坊さんの前へよばれて、やさしくいいきかされました。

「えらく<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>しましたぞ。めくらがひとり<ruby><rb>出</rb><rt>で</rt></ruby>をするのは、わけても夜中にでるのは、なによりあぶないことじゃ。どういうわけで、出ていくのか。わしは<ruby><rb>寺男</rb><rt>てらおとこ</rt></ruby>にさんざんさがさせたのじゃ。いったいどこへいきなさるのだね。」

「これは<ruby><rb>申</rb><rt>もう</rt></ruby>し上げられませぬ。てまえのかってな<ruby><rb>用事</rb><rt>ようじ</rt></ruby>をたしにでかけたのです。どうもほかの<ruby><rb>時刻</rb><rt>じこく</rt></ruby>では、つごうがわるいものですから。」

法師はただそう答えました。

お坊さんは、法師のようすがあまりへんなので、これはすこしあやしい、もしかしたら<ruby><rb>悪霊</rb><rt>あくりょう</rt></ruby>にでもとりつかれたのかもしれない、と思って、それ<ruby><rb>以上</rb><rt>いじょう</rt></ruby>は、ききただそうとしませんでした。そのかわり、ひとりの寺男に、ひそかに法師のようすを見はらせることにして、もし夜中にそとへでていくようなことがあったら、あとをつけろといいつけておきました。

すると、はたしてその夜も、法師は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びわ</span>を持って、寺をひとり出ていきました。寺男はちょうちんに<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をいれて、そのあとをつけていきました。その夜は、雨もよいの<ruby><rb>陰気</rb><rt>いんき</rt></ruby>なくらい<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>でありました。しかし、めくらの法師は、まるで目あきのようにさっさと歩き、いつか<ruby><rb>年</rb><rt>とし</rt></ruby>よりの寺男をあとに、くらがりの中へきえてしまいました。寺男は、そのように早く歩く法師を、ふしぎにも気味悪くも思いました。

寺男は法師がたちよりそうな家を、一けん一けんさがしまわりました。が、どこにもいませんでした。寺男はこまって、ひとり、ぼつぼつ<ruby><rb>浜辺</rb><rt>はまべ</rt></ruby>づたいに寺の方へ帰ってきました。と、おどろいたことには、<ruby><rb>狂</rb><rt>くる</rt></ruby>ったようにかき<ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>らすびわの音が、どこからか聞えてくるではありませんか。しかも、そのびわの音は、まちがいなく法師のひくものでありました。

寺男は、ただ<ruby><rb>意外</rb><rt>いがい</rt></ruby>に思いながら、音のするほうへ近づいていきました。いったところは<ruby><rb>平家</rb><rt>へいけ</rt></ruby>一<ruby><rb>門</rb><rt>もん</rt></ruby>の<ruby><rb>墓場</rb><rt>はかば</rt></ruby>でありました。いつか雨は<ruby><rb>降</rb><rt>ふ</rt></ruby>りだしていました。<ruby><rb>一寸先</rb><rt>いっすんさき</rt></ruby>見えぬ<ruby><rb>闇夜</rb><rt>やみよ</rt></ruby>、寺男は、<ruby><rb>両足</rb><rt>りょうあし</rt></ruby>が、がくがくふるえましたが、<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>をつけて、びわの<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>のする<ruby><rb>墓場</rb><rt>はかば</rt></ruby>の中へはいっていきました。そして、ちょうちんの<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をたよりに、法師をさがしました。するとこれはまた<ruby><rb>意外</rb><rt>いがい</rt></ruby>のことに、法師がただひとり、<ruby><rb>安徳天皇</rb><rt>あんとくてんのう</rt></ruby>のみささぎの前にたん<ruby><rb>座</rb><rt>ざ</rt></ruby>して、われを忘れたように、<ruby><rb>一心</rb><rt>いっしん</rt></ruby>ふらんに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びわ</span>を<ruby><rb>弾</rb><rt>だん</rt></ruby>じ、<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>ノ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby><ruby><rb>合戦</rb><rt>かっせん</rt></ruby>の<ruby><rb>曲</rb><rt>きょく</rt></ruby>を<ruby><rb>吟</rb><rt>ぎん</rt></ruby>じているのでありました。そうして、法師の<ruby><rb>左右</rb><rt>さゆう</rt></ruby>には、<ruby><rb>数</rb><rt>かず</rt></ruby>しれぬ<ruby><rb>青</rb><rt>あお</rt></ruby>い<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>、<ruby><rb>鬼火</rb><rt>おにび</rt></ruby>がめらめらと、もえていたのでありました。寺男は、こんなに多いさかんな鬼火を、生まれてはじめて見るのでありました。寺男は一時は声もでないほどにおどろきましたが、やっと、心をおちつけて、

「法一さん、法一さん、あなたは、なにかにばかされていますよ。しっかりしなさい。」

と、耳もとでいいました。

しかし、法師は、寺男のことばをききいれるどころか、ますます<ruby><rb>一心</rb><rt>いっしん</rt></ruby>に、ますます高らかな声で、<ruby><rb>吟</rb><rt>ぎん</rt></ruby>じつづけています。

「法一さん、法一さん、どうなされたんです。こんなところで、なんのまねをしているんです？」

すると、法師は<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>ったように<ruby><rb>寺男</rb><rt>てらおとこ</rt></ruby>を<ruby><rb>制</rb><rt>せい</rt></ruby>して、

「しずかになさい。だまっていてくれ。<ruby><rb>高貴</rb><rt>こうき</rt></ruby>な<ruby><rb>方々</rb><rt>かたがた</rt></ruby>の前だ、ご<ruby><rb>無礼</rb><rt>ぶれい</rt></ruby>にあたるぞ。」

寺男は、これには、あっけにとられるばかりでした。もう、しようがないので、寺男は力ずくで法師をひきたて、その手をしっかりにぎって、むりやりに、寺へひっぱってきました。

寺の<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>さんは、びしょぬれになっている法師の着物をきかえさせ、あたたかいものを<ruby><rb>食</rb><rt>た</rt></ruby>べさせて、できるだけ心をおちつかせました。なにかに心をうばわれたようになっていた法師は、そこでようやくわれにかえりました。そして、お坊さんや寺男が、じぶんのために、どんなに<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>をし、<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>をおったかをしり、たいへんすまないように思い、そこで、なにもかも、お坊さんにうちあけてしまいました。

お坊さんはそれをきくと、

「法一さん、それは、おまえのふしぎなほどに、たくみな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びわ</span>の<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>まえが、おまえをそういうところへみちびいたのじゃ。<ruby><rb>芸</rb><rt>げい</rt></ruby>ごとの<ruby><rb>奥</rb><rt>おく</rt></ruby>に<ruby><rb>達</rb><rt>たっ</rt></ruby>すると、そういうことがあるもので、これはおまえの<ruby><rb>芸道</rb><rt>げいどう</rt></ruby>のためには、よろこばしいことじゃが、しかし、あぶないところじゃった。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、おまえは<ruby><rb>平家</rb><rt>へいけ</rt></ruby>の<ruby><rb>墓場</rb><rt>はかば</rt></ruby>の前で、雨にぬれて、すわっていたそうじゃ。おまえは、なにかまぼろしを見て、そうしていたのじゃろうが、いつまでも、そうしていたら、平家の<ruby><rb>亡者</rb><rt>もうじゃ</rt></ruby>の中へひきこまれ、ついには<ruby><rb>八</rb><rt>や</rt></ruby>つざきにされてしまうところじゃった。もう、どこへもいってはならぬぞ。わしは、<ruby><rb>今夜</rb><rt>こんや</rt></ruby>も<ruby><rb>法事</rb><rt>ほうじ</rt></ruby>で、るすをするが、おまえが<ruby><rb>使</rb><rt>つか</rt></ruby>いのものに、つれていかれないように、今夜は、おまえのからだを、よくまもっておかねばならぬわい。」

そこで、法師をはだかにして、ありがたい、はんにゃしんきょうの<ruby><rb>経文</rb><rt>きょうもん</rt></ruby>を、<ruby><rb>頭</rb><rt>あたま</rt></ruby>から<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>、<ruby><rb>胴</rb><rt>どう</rt></ruby>から<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>、<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby>から<ruby><rb>足</rb><rt>あし</rt></ruby>、はては、<ruby><rb>足</rb><rt>あし</rt></ruby>のうらまで一<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>に<ruby><rb>墨</rb><rt>すみ</rt></ruby>くろぐろと<ruby><rb>書</rb><rt>か</rt></ruby>きつけました。そしてまた、着物をきせて、お<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>さんは、

「わしは、まもなくでかけるが、おまえはいつものえんがわにすわっていなされ。やがて、れいの<ruby><rb>武士</rb><rt>ぶし</rt></ruby>が来て、おまえの名をよぶだろうが、おまえは、どんなことがあっても、だんじて<ruby><rb>返事</rb><rt>へんじ</rt></ruby>をしてはならぬ。<ruby><rb>万一</rb><rt>まんいち</rt></ruby>返事をしたなら、おまえのからだは、ひきさかれてしまうのだ。また人のたすけをよんでもならぬぞ。だれもたすけることはできぬのだからな。そうして、おまえがりっぱに、わしのいいつけをまもりおおせたなら、もう、おまえのからだから、<ruby><rb>危険</rb><rt>きけん</rt></ruby>なことは<ruby><rb>消</rb><rt>き</rt></ruby>えさってしまう。おまえはもう、おそろしいまぼろしを、見ないようになるのじゃ。」

と、ねんごろにいってきかせました。

五

<ruby><rb>法一</rb><rt>ほういち</rt></ruby>は、いいつけられたとおりに、えんがわにすわっていました。と、いつもの<ruby><rb>時刻</rb><rt>じこく</rt></ruby>がきて、いつもの武士が、<ruby><rb>裏門</rb><rt>うらもん</rt></ruby>からはいって来ました。

「法一。」

しかし、法一は<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>を<ruby><rb>殺</rb><rt>ころ</rt></ruby>していました。

「法一。」

二どめの声は、おどすように聞えました。が、法師はかたく口をむすんでいました。

「法一。……こりゃへんじがないぞ。いないのか。」

と、武士は、えんがわへよって来ました。

「おや、ここにびわだけある。が、法一はいない。へんじのないのもむりはない。が、耳だけがあるぞ。<ruby><rb>使</rb><rt>つか</rt></ruby>いに来たしょうこに、これを持っていこう。」

こう<ruby><rb>武士</rb><rt>ぶし</rt></ruby>はつぶやくと、法師のりょう耳は、いきなり<ruby><rb>鉄棒</rb><rt>てつぼう</rt></ruby>のような<ruby><rb>指先</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>で、ひきちぎられました。けれど法師は、声もだせませんでした。

武士は、それでいってしまいました。

夜がふけて、お<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>さんは帰って来ました。そして法師が、りょう耳から流れでる血の中にすわっているのを見つけました。

しかし法師は身動きひとつせず、きちんとすわっています。お坊さんは、びっくりしながら、

「法一、このありさまはどうしたのじゃ？」

と、さけびました。<ruby><rb>法師</rb><rt>ほうし</rt></ruby>はそこで、はじめてわれにかえり、今夜のできごとを話しました。

「ああ、そうじゃったか。いや、それはわしの<ruby><rb>手落</rb><rt>てお</rt></ruby>ちじゃった。おまえの耳ばかりへは、<ruby><rb>経文</rb><rt>きょうもん</rt></ruby>を書くのを<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れたのじゃ。これはあいすまぬ。が、できたことはしかたがない。このうえは、早く<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>をなおすことじゃ。それだけのさいなんで、<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>びろいをしたと思えば、あきらめがつく。もう、これでおまえのからだから、<ruby><rb>悪霊</rb><rt>あくりょう</rt></ruby>がきえさったのじゃから、<ruby><rb>安心</rb><rt>あんしん</rt></ruby>するがよい。」

お<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>さんは、そういいました。

それから、この<ruby><rb>法師</rb><rt>ほうし</rt></ruby>には、「<ruby><rb>耳</rb><rt>みみ</rt></ruby>なし<ruby><rb>法一</rb><rt>ほういち</rt></ruby>」というあだ名がつき、びわの<ruby><rb>名手</rb><rt>めいしゅ</rt></ruby>として、ますます<ruby><rb>名声</rb><rt>めいせい</rt></ruby>が高くなりました。（昭２・６）