## 一

<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>ガ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>といえば、みなさんはごぞんじでしょうね。<ruby><rb>茨城県</rb><rt>いばらきけん</rt></ruby>の南の方にある、<ruby><rb>周囲</rb><rt>しゅうい</rt></ruby>百四十四キロほどの<ruby><rb>湖</rb><rt>みずうみ</rt></ruby>で、日本第二の広さをもったものであります。

日本第一の<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>のびわ<ruby><rb>湖</rb><rt>こ</rt></ruby>は、そのぐるりがほとんど山ですが、霞ガ浦は<ruby><rb>関東平野</rb><rt>かんとうへいや</rt></ruby>のまんなかにあるので、山らしい山は、七、八<ruby><rb>里</rb><rt>り</rt></ruby>はなれた北の方に<ruby><rb>筑波山</rb><rt>つくばさん</rt></ruby>が<ruby><rb>紫</rb><rt>むらさき</rt></ruby>の色を見せているだけで、あとはどこを見まわしても、なだらかな<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>がほんのり、うす紫に見えているばかりであります。

ですから、この<ruby><rb>湖</rb><rt>みずうみ</rt></ruby>の<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>は、<ruby><rb>平凡</rb><rt>へいぼん</rt></ruby>といえば平凡ですが、びわ<ruby><rb>湖</rb><rt>こ</rt></ruby>のように、夏、ぐるりの山の上に<ruby><rb>夕立雲</rb><rt>ゆうだちぐも</rt></ruby>がわいたり、冬、銀色の雪が<ruby><rb>光</rb><rt>ひか</rt></ruby>ったりすると、少しすごいような景色になるのとはちがって、春夏秋冬、いつもおだやかな感じにつつまれています。びわ湖を、<ruby><rb>厳格</rb><rt>げんかく</rt></ruby>なおとうさんとすれば、霞ガ浦は、やさしいおかあさんのようだともいえるでしょう。この湖の<ruby><rb>周囲</rb><rt>しゅうい</rt></ruby>には、<ruby><rb>土浦</rb><rt>つちうら</rt></ruby>、<ruby><rb>石岡</rb><rt>いしおか</rt></ruby>、<ruby><rb>潮来</rb><rt>いたこ</rt></ruby>、<ruby><rb>江戸崎</rb><rt>えどざき</rt></ruby>などという町々のほかに、たくさんの<ruby><rb>百姓村</rb><rt>ひゃくしょうむら</rt></ruby>が、一里おき二里おきにならんでいます。大むかし、人間は波のおだやかな海岸とか、川の岸とか、湖のまわりなどに一番さきすんだものですから、このおかあさんのようなやさしい霞ガ浦のまわりには、もちろんずっと大むかしから人がすんでいたのです。いまでも、方々から<ruby><rb>貝塚</rb><rt>かいづか</rt></ruby>がほりだされたり、矢の根石やいろんな<ruby><rb>石器</rb><rt>せっき</rt></ruby>が<ruby><rb>発見</rb><rt>はっけん</rt></ruby>されたりするのでも、それがわかります。

それで、百姓村でもずいぶんふるい<ruby><rb>歴史</rb><rt>れきし</rt></ruby>をもった村があり、<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>十<ruby><rb>代</rb><rt>だい</rt></ruby>つづいたかわからないような百姓家が、方々に残っているわけです。

<ruby><rb>林太郎</rb><rt>りんたろう</rt></ruby>の村も、このふるい歴史をもった村のひとつでした。湖の南の岸の丘の上にあって、<ruby><rb>戸数</rb><rt>こすう</rt></ruby>は五十<ruby><rb>戸</rb><rt>こ</rt></ruby>ばかりでした。また林太郎の家も何十代つづいたかわからないという<ruby><rb>旧家</rb><rt>きゅうか</rt></ruby>で、村の一番北のはずれに、霞ガ浦を見下して、大きなわら屋根をかぶっていました。

しかし、旧家というのは名ばかりで、いまでは、<ruby><rb>屋敷</rb><rt>やしき</rt></ruby>まわりの大きな杉林はきりはらわれ、<ruby><rb>米倉</rb><rt>こめぐら</rt></ruby>はとりこわされ、馬もいないうまやと、屋根に草がぼうぼうにはえた<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>があるきりの、<ruby><rb>貧乏</rb><rt>びんぼう</rt></ruby>な<ruby><rb>百姓</rb><rt>ひゃくしょう</rt></ruby>となっていました。同じ村の百姓も年々貧乏になっていきましたが、林太郎の家は村一番の旧家であるうえに、むかしは「<ruby><rb>名主</rb><rt>なぬし</rt></ruby>」というのをつとめ、十年前ごろまでは村の、「<ruby><rb>総代</rb><rt>そうだい</rt></ruby>」というのをやっていただけ、その貧乏がひじょうにめだつのでした。

林太郎のおじいさんは、それを年中<ruby><rb>苦</rb><rt>く</rt></ruby>にしていて、

「せめて子どもでも大ぜいいたら、にぎやかでいいのだが、林太郎ひとりきりだから、よけいに家の中がめいるばかりだ。」

といっていました。林太郎はことし十一<ruby><rb>才</rb><rt>さい</rt></ruby>で、小学校の五年生になっていましたが、弟も妹もなく、まったくの一<ruby><rb>粒</rb><rt>つぶ</rt></ruby>っ子なのでした。あとは、おとうさんとおかあさんとおじいさんの三人きりでしたから、がらんとした広い暗い家の中にいると、人はどこにいるかわからないほどで、まったく<ruby><rb>陰気</rb><rt>いんき</rt></ruby>だったのです。

## 二

さて、ひとりっ子というものは、わがままっ子のきかんぼうが<ruby><rb>育</rb><rt>そだ</rt></ruby>つものですが、林太郎はどっちかといえば、いくじなしの<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>虫</rb><rt>むし</rt></ruby>子にそだちました。おじいさんがかわいがりすぎたせいだ、とおとうさんはよくいいましたが、そうばかりではなく、あんまり<ruby><rb>陰気</rb><rt>いんき</rt></ruby>な家の中にそだったためかもしれません。とにかく林太郎は、ちょっとしたことにもすぐめそめそとなきだすのでした。

それにもうひとつ<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>ったことは林太郎はからだのわりに頭でっかちで、それで口の悪い村の子どもらから、「ごろっこ」というあだ名をつけられていることでした。「ごろっこ」とはかわずの子という<ruby><rb>意味</rb><rt>いみ</rt></ruby>で、あの頭でっかちの「おたまじゃくし」のことです。村の子どもらは、なにかというと、

「やあい、ごろっこめ。」

とはやしたてるのです。すると林太郎は、すぐべそ口になり、くやしそうになきだすのでした。

「頭がでかい子は、えらい人になるんだぞ。なくことはない。」

おじいさんは、林太郎がなきながら家へかえってくるのを見ると、そういってその頭をなでるのでした。またおかあさんは、夜、林太郎をだいてねるたびに、その頭を<ruby><rb>平手</rb><rt>ひらて</rt></ruby>でなでながら、

「林太郎は、学校がよくできるので、みんながやっかんであんな悪口をいうのだよ。子どもの頭は大きい方がいいんだぞ。みんなの頭は小さすぎるんだぞ。」

と、やさしくいってきかせるのでした。

<ruby><rb>実際</rb><rt>じっさい</rt></ruby>、林太郎は学校の<ruby><rb>成績</rb><rt>せいせき</rt></ruby>がよく、いままでに三番とさがったことはなかったのです。ただ、頭が重いため、運動がへたで、ことにかけっくらになると、いつもびりっかすでした。で、おとうさんはよくこういうのです。

「学校なぞはできなくてもいいから、かけっくらで一番になれ。いつまでたっても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごろっこ</span>じゃ、百姓にもなれやしない。」

そういわれると、林太郎はまたくやしそうになきだします。するとおとうさんはまた、

「またなきやがる。<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>の子にくれてやるぞ。」

と、どなりました。

おじいさんとおかあさんは、頭が大きいのをほめてくれるのに、おとうさんだけは、いつもそんなふうにいっては、つらくあたるので、林太郎はおとうさんをこわがって少しもなつきませんでした。もの心がついてから、一度だっておとうさんにおんぶしたり、だかさったり、夜、いっしょにねたりしたことはなかったのです。

そのうえ、林太郎にはどうしてもおとうさんになじめないわけがありました。それはおとうさんが、ときどき夜おそく、お<ruby><rb>酒</rb><rt>さけ</rt></ruby>によっぱらい、<ruby><rb>人相</rb><rt>にんそう</rt></ruby>まで変わってかえってきて、一晩中おかあさんをいじめてなかすことでした。林太郎はこわいので、ふとんの中に頭をひっこめ、かめの子のようにちぢまっているのですが、それでもおとうさんのあらあらしい声がきこえるのです。

ふだんでもこわい声をだすおとうさんですから、よっぱらってだす、そのあらあらしい声には、なにかこわい<ruby><rb>動物</rb><rt>どうぶつ</rt></ruby>のほえ声みたいなところがあります。それが林太郎には<ruby><rb>憎</rb><rt>にく</rt></ruby>らしくて憎らしくてなりませんでした。それにまたおかあさんをわけもなくいじめるのですから、たまらなかったのです。けれど、どうかすると、おとうさんはそのあらあらしい声の中で、「林太郎をどうする。」とか、「こうする。」とかいうことがありました。林太郎はふとんの中でそのことをきくと、からだ中、ぞくっとしました。それは、やっぱり<ruby><rb>自分</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の頭のことについていっているのだと、ひとりぎめにきめてしまうからでした。つまり自分は、「ごろっこ」のように頭でっかちなので、それがおとうさんとおかあさんとのあらそいのたねになるのだというふうに考えるからでした。

これには林太郎はすっかりまいって、ひとり頭をかかえてべそ口をしているばかりでした。そうして小さな胸の中で、おかあさんにすまない、といっているばかりでした。

## 三

それは、夏のはじめで、<ruby><rb>田植</rb><rt>たう</rt></ruby>えのすんだ<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>のある夜でした。林太郎は、右どなりの家のおきぬさんという<ruby><rb>娘</rb><rt>むすめ</rt></ruby>につれられて、湖のふちへほたるをとりにいったのでした。

おきぬさんは、林太郎からみれば、もう「およめさん」になれそうな娘さんでしたので、ねえちゃん、ねえちゃんとよんでいました。おきぬさんもまた林太郎を弟のようにかわいがってくれるので、このひとだけには、おかあさんにもいえないことがいえるような気がしていました。

林太郎は、おきぬねえちゃんの手につかまって、たんぼのあぜ道を<ruby><rb>湖</rb><rt>みずうみ</rt></ruby>の方へ歩いていきました。月がでていましたが、かすみにつつまれてほの白く見えているだけでした。いくほどにかすみはだんだん深くなりました。そして湖の岸の<ruby><rb>土手</rb><rt>どて</rt></ruby>までいくと、<ruby><rb>湖面</rb><rt>こめん</rt></ruby>はまるで<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>を見ているように、とろんとかすんでいました。「<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>ガ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>」という名はこういうところからでたのにちがいありません。まったくかすみにつつまれた霞ガ浦ほど、なごやかなやさしい自然はないでしょう。

林太郎はなんだかもの<ruby><rb>悲</rb><rt>がな</rt></ruby>しくなりました。夢のようなかすみの中にいるせいか、それともおきぬねえちゃんに手をひかれているせいか、どっちだかそれはわかりませんが、なんだかひとりでになきたくなってきたのです。うす<ruby><rb>浅黄色</rb><rt>あさぎいろ</rt></ruby>のかすみの中に、ほたるがいくつもほの青い光の<ruby><rb>尾</rb><rt>お</rt></ruby>をひいて、高く低くとんでいましたが、林太郎はそれをつかまえようともしません。ばかりか、ほたるのその青い光までが、目にかなしくうつるのです。

「林太郎ちゃん、どうしたの。」

おきぬねえちゃんが、ふと林太郎の顔をのぞいてそういいました。

「…………。」

林太郎は、なんとも答えず顔をふせてしまいました。

「こんなとこ歩いてるの、おもしろくないの。じゃかえろうか。」

「……ううん、かえりたくないよ。」

林太郎はやっと<ruby><rb>鼻声</rb><rt>はなごえ</rt></ruby>で答えました。

「そんなら元気をだして、ほたるをとりなよ。そら、すぐそこを、すいすいととんでるじゃないか。」

「……ねえちゃん、おれ、おれ……<ruby><rb>死</rb><rt>し</rt></ruby>にたいんだ。」

「……なあに？」

「おれ、死にたいんだよ。」

「林太郎ちゃん、なにいってるのさ。夢を見てるんじゃない！」

「だっておれ、あたまでっかちだろう。それでみんなが笑うだろう。それでおとっつあんも、おっかさんをいじめるんだもの……」

林太郎は、大きなおでこの下の小さな顔をいかにも思いあまったというふうにして、そういうのでした。そのようすが、おきぬねえちゃんにはちょっとおかしくもなったので、

「林太郎ちゃんは、おばかさんだわねえ。」

といって、林太郎の<ruby><rb>肩</rb><rt>かた</rt></ruby>をだいてやりました。と、林太郎はおきぬねえちゃんのからだへ、大きなおでこをおしつけて、うーん、うーんとむせびながら、

「おとっつあんは、おれのほんとのおとっつあんじゃないだろう。そうだい。だからおれのごろっこ頭が気に入らないで、あんなにおっかさんをいじめるんだろう。だからおら死にたいんだ。」

と、いうのでした。

林太郎のおとうさんは、きのうの<ruby><rb>晩</rb><rt>ばん</rt></ruby>も<ruby><rb>酒</rb><rt>さけ</rt></ruby>によってきて、林太郎のことをいっては、この家をでていけ、と、おっかさんをいじめたのでした。それがいま、林太郎の頭の中にありありと<ruby><rb>浮</rb><rt>う</rt></ruby>かんでいるのでした。これにはおきぬねえちゃんも<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>って、

「林太郎のおとっつあんはほんとのおとっつあんなのよ。ちがうのはおっかさんの方なのよ。だから林太郎ちゃんが頭でっかちだからといって、おとっつあんがおっかさんをいじめるわけはないのよ。」

と、いってきかせました。

すると、これがまた林太郎をひじょうにびっくりさせました。林太郎はこわい顔でおきぬねえちゃんをにらみつけながら、きゅうに大きな声で、

「そんなことないや、そんなことないや！　おっかさん、おれのおっかさんだい。」

とさけびたてました。

これにはおきぬねえちゃんもはっとしました。悪いことをいったと思いなおして、

「ええ、うそよ、うそよ。そんなことないの。ほんとにそんなことないの。」

と強くうちけして、

「だからまま親なんていうのはみんなうそなのよ。おとっつあんもおっかさんもほんとの親なのよ。だから、林太郎ちゃんの頭でっかちのことで、おとっつあんがおっかさんをいじめるわけもないの。ただ、どこの家にもいろんな<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>ごとがあるものだろう。それでおとっつあんとおっかさんがいいあいするんだろうけど、そんなこと子どもは知らないふりをしていればいいのよ。」

と、しみじみいいきかせました。

林太郎は、こんどは<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>りもせず、またなきもまず、ただだまりこんでしまいました。林太郎には、自分が考えていることがほんとうなのか、おきぬねえちゃんのいったことがほんとうなのか、わからなくなったのでした。

## 四

それから三日ほどした<ruby><rb>朝</rb><rt>あさ</rt></ruby>のことでした。おとうさんは<ruby><rb>野</rb><rt>の</rt></ruby>らへ<ruby><rb>仕事</rb><rt>しごと</rt></ruby>にでかけ、おじいさんは湖の岸へ、「のっこみぶな」というのをつりにでかけたあとで、おっかさんはひとりでよそいきの<ruby><rb>着物</rb><rt>きもの</rt></ruby>にきかえ、ふろしきづつみ一つをもって、

「林太郎、おっかさんはむこうの家へいってくるから、おとなしく待っといで。」

と下をむいたままいいました。

むこうの家というのは、おっかさんのお<ruby><rb>里</rb><rt>さと</rt></ruby>のことでした。林太郎の家の<ruby><rb>裏手</rb><rt>うらて</rt></ruby>の<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>から北の方を見ると、霞ガ浦が<ruby><rb>入江</rb><rt>いりえ</rt></ruby>になっていて、そのむこうに一つの村があり、その村におっかさんのお<ruby><rb>里</rb><rt>さと</rt></ruby>があるので、それで「むこうの家」といっているのでした。

おかあさんはいままでその「むこうの家」へかえるときは、かならず林太郎をつれていきました。だのにきょうにかぎってそんなことをいいだしたものですから、林太郎の<ruby><rb>顔色</rb><rt>かおいろ</rt></ruby>はみるみる変わりました。

「おれもいくよ、おれもいくよ。」

林太郎はおかあさんの手にぶらさがってそういいました。

「きょうはつれていけないの。」

おかあさんはそっぽをむいていいます。

「なんでよ、なんでよ？」

「おとっつあんにしかられるから。」

そういうと、おかあさんはいきなり<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>へおり、<ruby><rb>裏庭</rb><rt>うらにわ</rt></ruby>へでていきました。林太郎はもう<ruby><rb>夢中</rb><rt>むちゅう</rt></ruby>になり、はだしのままおっかさんの後をおいかけました。そうして、ひきつったような声でなきさけびだしました。

おかあさんもそれには<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>りました。おかあさんはかきの木につかまって考えていました。そして林太郎になにかいいそうにしましたが、それもいわないで、ただ、

「そんならつれていこ。」

とだけいって、林太郎の手をとりました。

おかあさんのお里の村までは、<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>づたいに<ruby><rb>入江</rb><rt>いりえ</rt></ruby>をぐるりと<ruby><rb>回</rb><rt>まわ</rt></ruby>っていけば、二<ruby><rb>里</rb><rt>り</rt></ruby>あまりありましたが、舟でまっすぐに入江を横ぎっていけば、十四、五<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>しかありません。それに湖の岸にすむ人たちは、女でも子どもでも船をこぐことはじょうずですから、おかあさんもお<ruby><rb>里</rb><rt>さと</rt></ruby>へかえるときは、いつも自分で船をこいでいきました。船は、このへんで「さっぱ船」という小さな船で、田植えをするときなどなくてならないものですから、どこの家でも一つぐらいは持っていたのです。

おかあさんは、そのさっぱ船のまん中へ林太郎をのせると、竹ざおをとってするするとおしだしました。その日はいかにも<ruby><rb>初夏</rb><rt>しょか</rt></ruby>らしいお天気で、丘の上の<ruby><rb>新緑</rb><rt>しんりょく</rt></ruby>はほんのりかすみ、空も水もふっくらとふくらみ、かわずはねむそうにないて、なんともいえないいい気持でした。

しかしおかあさんはだまりこくって、さおをあやつっています。林太郎はぼんやりとゆくての村の方を見ていましたが、その頭の中ではこんなことを考えていました。

「やっぱりおれの頭がでっかちなので、なにか困ったことが<ruby><rb>起</rb><rt>おこ</rt></ruby>ったんだな。」

## 五

まもなくおっかさんのお里のおうちが見えてきました。<ruby><rb>若葉</rb><rt>わかば</rt></ruby>がふっくらとしげった木々のあいだに、大きなわら屋根が見え、それから<ruby><rb>米倉</rb><rt>こめぐら</rt></ruby>の白い<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>が見えてきました。その白い壁は朝の日をうけて、あたたかそうに<ruby><rb>光</rb><rt>ひか</rt></ruby>っていました。

おっかさんはそれが見えてくると、いつもにこにこして<ruby><rb>元気</rb><rt>げんき</rt></ruby>よく船をおしだすのでしたが、きょうはその方を見ようともしません。下をむいたまま、たいぎそうにさおをあやつっているばかりでした。

林太郎は悲しくなりました。それで、ふなべりから手をのばして、<ruby><rb>水面</rb><rt>すいめん</rt></ruby>に白く<ruby><rb>咲</rb><rt>さ</rt></ruby>いているすいれんの花をむしってはすて、むしってはすてて、<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>きそうになるのをがまんしていました。

やがて船は、米倉の下の<ruby><rb>岸</rb><rt>きし</rt></ruby>へつきました。水ぎわにあそんでいた、たくさんのあひるどもが、があがあなきながら<ruby><rb>泳</rb><rt>およ</rt></ruby>ぎにげました。

おっかさんは林太郎の手をとって丘へ上がると、今わたってきた入江の方へ見返ってため<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をつきました。それから米倉の前を通って<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の庭へはいっていきました。

母屋の<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>には、おっかさんのおっかさん、つまり林太郎にとってはおばあさんがめがねをかけて<ruby><rb>針仕事</rb><rt>はりしごと</rt></ruby>をしていましたが、林太郎たちの<ruby><rb>姿</rb><rt>すがた</rt></ruby>を見ると、めがねをはずしながら、

「おやおや、よくきた。林太郎もよくきたな。」

と、よろこんで、にこにこしながらいいました。

「きょうはおまえのうちは仕事が<ruby><rb>休</rb><rt>やす</rt></ruby>みかい。林太郎も学校がお休みかい？」

と、聞きました。

けれどもその日は、林太郎のうちでは仕事が休みでもなかったし、林太郎は学校がお休みでもなかったので、ふたりともなんとも<ruby><rb>答</rb><rt>こた</rt></ruby>えませんでした。

おっかさんは、持ってきたふろしきづつみを<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>の上へおくと、おばあさんのそばへ腰をかけて、ひくい声でなにか話しだしました。話しているうちにおっかさんの顔はだんだんうつむいてきました。おばあさんは、うんうんといいながら聞いていましたが、やがておばあさんの顔も下をむいてしまいました。

林太郎は、<ruby><rb>自分</rb><rt>じぶん</rt></ruby>が聞いては悪いことを話しているのだ、と思いました。自分のあたまでっかちのことを話しているのだな、とも思いました。それで、おっかさんのそばをそろそろとはなれて、<ruby><rb>米倉</rb><rt>こめぐら</rt></ruby>の方へとぼとぼと歩いてきました。

## 六

「<ruby><rb>林太郎</rb><rt>りんたろう</rt></ruby>や、遠くへいくんじゃないよ。」

と、おっかさんがうしろから声をかけました。

「うん。」

と林太郎はふりむきもしないで答えて、さっきおっかさんとのってきた船がつないである<ruby><rb>水際</rb><rt>みずぎわ</rt></ruby>の方へおりていきました。そこにはさっきのあひるどもが、やっぱりがあがあなきながら、いかにもおもしろそうに<ruby><rb>泳</rb><rt>およ</rt></ruby>ぎまわっていました。林太郎はそれをぼんやり見ながら、自分はとうとうひとりぼっちになってしまったような気持になりました。

すると、後の方で、おん、おん、おんというなにかのなき声がしました。ふりむいてみると、小さなまっ白なむく犬がいました。ひつじのようにむくむくした、毛ののびた前足を前へつっぱり、くりくりした<ruby><rb>茶色</rb><rt>ちゃいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>をきょとんとあけて、わん、わんというよりは、おん、おんというような声でほえたてています。

犬の<ruby><rb>大好</rb><rt>だいす</rt></ruby>きな林太郎は、いままでなきそうにしていた顔をきゅうに明かるくいきいきとさして、その<ruby><rb>場</rb><rt>ば</rt></ruby>にしゃがみながら<ruby><rb>片手</rb><rt>かたて</rt></ruby>をさしだし、ちょっちょっと<ruby><rb>舌</rb><rt>した</rt></ruby>をならしてよびました。が、むく犬はかえってあとしざりしながら、おん、おんとほえたてます。林太郎はそれをつかまえてやろうと思い、立ち上がっていきました。と、むく犬はこんどはむこうをむいてばらんばらんとにげだしました。あんまりきゅうにかけだしたので、前へのめってころんとひとつもんどりをうって、それからあわてておき上がり、またかけだしました。

子犬というものはみんなあたまでっかちなものですが、そのむく犬はわけてもでっかち頭に見えました。それできゅうにかけだしたりするとのめるのでしょう。林太郎はおかしくなって、

「やあい、でっかちあたまあ……」

と、どなってやりました。しかしそれは、自分が村の子どもらからしょっちゅういわれていることでした。林太郎はへんな<ruby><rb>気持</rb><rt>きもち</rt></ruby>になりました。そしてそのむく犬がとてもなつかしくなりました。自分のきょうだい<ruby><rb>分</rb><rt>ぶん</rt></ruby>のような気がしてきました。

それから林太郎は、なんとかしてそのむく犬を手なずけようと考えました。口をとんがらしてへたな<ruby><rb>口笛</rb><rt>くちぶえ</rt></ruby>をふいてみたり、なにかたべるものをくれるように見せかけたり、いっしょに遊ぼうというように道ばたの草の上にねころんで見せたりしました。むく犬は、もうにげようとはしませんが、でっかち頭をくるくるまわしたりして、おどけるようなまねをしながらも、なかなかそばへよってきませんでした。

「おまえの名はなんちゅうんだい？　名なしの犬ころかい？　白いからしろだろう。そうだ、おれが名をつけてやるよ。しろ<ruby><rb>公</rb><rt>こう</rt></ruby>とつけてやるよ。……しろ公や、こっちへこいよ。おれのでしにしてやるよ。でしでいやなら、<ruby><rb>弟</rb><rt>おとうと</rt></ruby>にしてやるよ。」

しろ公はにこっと<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>ったように林太郎には見えました。それから前足をちょいとあげて、ぼく、うれしいな、というようなようすもしました。が、それでも、そばへはよってきません。

と、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>のお<ruby><rb>庭</rb><rt>にわ</rt></ruby>からおっかさんが、

「林太郎や、おひるだよお……」

とよびました。林太郎は<ruby><rb>残念</rb><rt>ざんねん</rt></ruby>そうにその場をひきあげました。

## 七

林太郎は、いろりのある<ruby><rb>台所</rb><rt>だいどころ</rt></ruby>で、おばあさんとおっかさんのあいだにすわって、おひるのごはんをたべていました。すると、さっきのしろ公が、いつのまにかそこの<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>へきていて、みんながごはんをたべているのを、さもうらやましそうに、しっぽをふりながら見上げていました。林太郎はびっくりしてよろこび、

「やあ、しろ公だ、しろ公だ。」

と、のび上がっていいました。

「おやおや。」

と、おばあさんもしろ公を見下ろして、

「林太郎のうちのかい？」

「ううん、さっき、ひとりであそんでいたから、おれの弟にしてやったんだよ。」

「それじゃ、野ら犬かな？」

「野ら犬であるもんか。しろ公というなまえがついてるんだもの。」

「あの犬が、自分でそういったのかい？」

「……うん、そういった……」

おばあさんは、

「ああ、そうかよ。」

と、それから声をあげて<ruby><rb>笑</rb><rt>わら</rt></ruby>って、

「それじゃ、なにかたべさしてやろうかな。」

「うん。おれ、くわしてやるよ。」

やがて林太郎は、おばあさんが、ねこのおわんへもってくれた<ruby><rb>汁</rb><rt>しる</rt></ruby>かけ<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>をもって、土間へおりていきました。しろ公はよっぽどおなかがすいているとみえて、もうにげだすどころか、小さなしっぽをふりちぎりそうにうちふりながら、がつがつとくいつきました。

それから林太郎としろ公はすっかり<ruby><rb>仲</rb><rt>なか</rt></ruby>よしになりました。しろ公はまったくの弟になったように、林太郎のいくところはどこへでもついてきました。林太郎はもう、ひとりぼっちになってしまったような気持を、きれいに<ruby><rb>忘</rb><rt>わす</rt></ruby>れてしまいました。

林太郎はしろ公をつれて、<ruby><rb>母家</rb><rt>おもや</rt></ruby>のまわりをかけまわりました。米倉のまわりもかけまわりました。入江のふちの道もいったりきたりしました。ときどきだきあげてやると、しろ公はあんまりよろこびすぎて、おしっこをもらしたりします。草の上へねころんでふざけると、しろ公は<ruby><rb>夢中</rb><rt>むちゅう</rt></ruby>になりすぎて、林太郎の手や足に<ruby><rb>歯</rb><rt>は</rt></ruby>あとがのこるほどかみつきます。そんなとき、

「しろ公のばか。気をつけろよ。」

そういってかるく頭をぶってやると、しろ公は目をしょぼしょぼさせて、ごめんね、とでもいうように林太郎の手の<ruby><rb>甲</rb><rt>こう</rt></ruby>をしゃりしゃりなめたりします。

林太郎はどうしていいかわからないほど、しろ公がかわいくなりました。

そのうちに、<ruby><rb>晩春</rb><rt>ばんしゅん</rt></ruby>のながい日もくれかけました。けれど林太郎は、それも知らずにしろ公と遊んでいると、おっかさんがそこへでてきて、

「林太郎、もううちへかえりなよ。」

と、いいました。

「おっかさんもいっしょにかえるんだろ？」

「おっかさんはきょうはかえれないよ。そのかわり<ruby><rb>友</rb><rt>とも</rt></ruby>さんをつけてやるから、いいだろう。」

友さんというのは、おばあさんのうちの<ruby><rb>作男</rb><rt>さくおとこ</rt></ruby>でした。

「友さんでは、いやだ、いやだ。」

「そんなこといわないで、きょうだけおとなしくかえっておくれ。でないとおかっさんが困るから。」

「………」

「それじゃ、そのしろ公もいっしょにつれていきな。林太郎にはしろ公という弟ができたんだもの、もうさびしかないだろう。」

「………」

林太郎はしろ公をだきながら、<ruby><rb>指</rb><rt>ゆび</rt></ruby>のつめをかんでいるばかりです。おっかさんは大きなため<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>をついて、

「困ったなあ。」

と、また、うつむいてしまいました。

林太郎は、うわ目でおっかさんのようすをしげしげと見ていましたが、なにか<ruby><rb>決心</rb><rt>けっしん</rt></ruby>したように、

「そんじゃ、あしたきっと、おっかさんもかえってくる？」

「あした……」

と、おっかさんはちょっといいつまったが、

「そう、あした、かえるよ。」

と、小さなこえでいいました。

林太郎はそれがまた気になりましたが、とうとう、

「じゃ、おれきょうかえるよ。」

と、答えました。

## 八

林太郎は、しろ公をつれ、作男の友さんに船をおしてもらって自分のうちへかえりました。そしてその夜は、しろ公の<ruby><rb>寝床</rb><rt>ねどこ</rt></ruby>を土間のすみへわらでつくってやって、自分はおじいさんといっしょにねました。

つぎの朝はいつもより早く<ruby><rb>起</rb><rt>お</rt></ruby>きだして、しろ公をつれて家の<ruby><rb>裏</rb><rt>うら</rt></ruby>の丘の上へのぼり、入江の方を見ていました。が、おっかさんはかえってきませんでした。林太郎は日がくれるまで、<ruby><rb>何度</rb><rt>なんど</rt></ruby>となくその丘へきてみましたが、やっぱりだめでした。

そうしてつぎの日も、またそのつぎの日もおっかさんはかえってきません。林太郎はおじいさんに、なぜおっかさんはかえらないのか、と一日に三度も四度も聞いてみましたが、おじいさんは

「そのうちに、帰るで、おとなしくしてるだよ。」

というばかりでした。

夜になるとしろ公も、ひとりでねるのはさびしいというように、くんくんなきたてます。すると林太郎もたまらなくさびしくなって、おじいさんの胸へ顔をおしつけて、しくしくなきました。おとっつあんはときどき、

「林太郎はこっちへきてねるんだぞ。」

と、いいましたが、林太郎はそんなことはいつも聞えないふりをしていました。

ある夜、林太郎は、おじいさんとねながら、とうとういいだしました。

「おじいさんよ。おれ、あたまでっかちだから、それでおとっつあんはおっかさんをおん出しちまったんだろう？」

「ばか。おまえがあたまでっかちだって、おっかさんの<ruby><rb>罪</rb><rt>つみ</rt></ruby>ではないんだよ。」

「そんじゃ、おれが悪いんだろう。……そんじゃ、おれ……死んじまえばいいんだろう。」

「こら、なにをいうだ。」とおじいさんは林太郎をまじまじと<ruby><rb>見守</rb><rt>みまも</rt></ruby>っていましたが、「よしよし、おじいさんがおっかさんをつれてきてやるから、もう<ruby><rb>余計</rb><rt>よけい</rt></ruby>なことを考えるでないぞ。」と林太郎を胸の中へだきこみました。

つぎの日おじいさんは、「さっぱ船」にのって、「むこうの家」へでかけていきました。そして夕方、<ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>くなってからやっぱりひとりでかえってきて、

「おっかさんはからだが少し悪いでな、なおったらすぐかえるといってたよ。」

と、いいました。

だが、それから半月たってもひと月たってもおっかさんの方からはなんの音さたもありませんでした。

## 九

そのうちに夏休みがきました。しろ公は、つれてきたときより三<ruby><rb>倍</rb><rt>ばい</rt></ruby>も大きくなり、夜はよく家の<ruby><rb>番</rb><rt>ばん</rt></ruby>をし、<ruby><rb>昼間</rb><rt>ひるま</rt></ruby>は林太郎のいうことをよく聞いて、いっしょにふざけながら遊んでもおしっこをもらしたり、手や足をひどくかむようなことはしなくなりました。

それに、しろ公はひじょうにりこうで、林太郎が夕方などさびしそうにしていたりすると、ぴったりと林太郎のそばにすりついて、はなれませんでした。それはまったく林太郎のきょうだいのようでした。

それで林太郎もいつか、このしろ公といっしょなら、ひとりではできないこともできるような気がしてきました。そして林太郎は、ある日、ひとりではできないことを、しろ公といっしょにりっぱにしてしまいました。それは、しろ公を、<ruby><rb>例</rb><rt>れい</rt></ruby>の「さっぱ船」にのせ、自分が船をこいで、とうとうおっかさんのお<ruby><rb>里</rb><rt>さと</rt></ruby>まで、<ruby><rb>入江</rb><rt>いりえ</rt></ruby>を<ruby><rb>渡</rb><rt>わた</rt></ruby>ってしまったのです。

お里のおばあさんもそれにはびっくりして、

「まあ、林太郎は、ほんとうにひとりで船をこいできたのかい。」

と、なんべんも聞きました。

林太郎は、さすがに少し顔色も変わっていましたが、元気よく、

「おれ、ひとりじゃないよ。しろ公とふたりだよ。」と答えて、「おっかさんをむかいにきたんだよ。おっかさんはどこにいるの？」と、聞きました。

おばあさんは、これは<ruby><rb>困</rb><rt>こま</rt></ruby>ったことになったぞ、という顔をしていましたが、

「おっかさんはな、まだからだがよくならないので、<ruby><rb>土浦</rb><rt>つちうら</rt></ruby>の<ruby><rb>病院</rb><rt>びょういん</rt></ruby>へいってるのだよ。よくなって<ruby><rb>退院</rb><rt>たいいん</rt></ruby>したら、じき林太郎のとこへかえしてやるから、きょうはがまんして帰っておくれ。」

と、やさしくいいきかせました。

林太郎は、くちびるをくいしばって聞いていましたが、

「うん。」

と、ひとこと答えたきりでした。

さてその日、林太郎はしろ公をつれて、土浦の病院までおっかさんをたずねていこうと<ruby><rb>決心</rb><rt>けっしん</rt></ruby>しました。土浦までは霞ガ浦のふちをぐるりと<ruby><rb>回</rb><rt>まわ</rt></ruby>って、五里ちかくあります。おとなは<ruby><rb>自転車</rb><rt>じてんしゃ</rt></ruby>で一日に<ruby><rb>往復</rb><rt>おうふく</rt></ruby>しましたが、やっと十一<ruby><rb>才</rb><rt>さい</rt></ruby>の林太郎が、それも小さな足でぽつぽつ歩いて、まだ一度も歩いたことのない道をいこうというのですから、それはずいぶんの<ruby><rb>冒険</rb><rt>ぼうけん</rt></ruby>でした。が、林太郎はおっかさんに会いたい<ruby><rb>一心</rb><rt>いっしん</rt></ruby>から、もうあぶないことも<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いことも忘れてしまったのでした。

## 一〇

林太郎はしろ公をつれ、土浦へむかって歩きだしました。左手は、<ruby><rb>松林</rb><rt>まつばやし</rt></ruby>や<ruby><rb>雑木林</rb><rt>ぞうきばやし</rt></ruby>がつづいています。そこには、ひぐらし、みんみん、あぶらぜみなどがにぎやかにないています。右手は青々としたたんぼで、風がわたるたびに青い波がながれます。たんぼのむこうは霞ガ浦で、それは、いかにも夏の湖らしくきらきらと光っています。

林太郎は、生まれてはじめて歩く道ですが、そういう<ruby><rb>景色</rb><rt>けしき</rt></ruby>をながめながら歩いていると、そんなにさびしいとも<ruby><rb>感</rb><rt>かん</rt></ruby>じませんでした。それに、土浦へいきさえすれば、おっかさんにあえると<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>じてもいるので。

ただ林太郎にとって少し困ったことは、しろ公をおともにつれてきたのに、しろ公はおともらしく<ruby><rb>神妙</rb><rt>しんみょう</rt></ruby>にしてついてこないことでした。しろ公もはじめて歩く道なので、いつものように横道へそれたり、見えなくなるほど先の方へ走っていったりはしませんが、道ばたにたっていつまでもくんくん、鼻をならしていたり、<ruby><rb>電信柱</rb><rt>でんしんばしら</rt></ruby>があるごとに、その<ruby><rb>根元</rb><rt>ねもと</rt></ruby>へおしっこをかけたり、ほかの犬の姿をみつけると遠くからにらめていたり、ちっともおちついていないのです。林太郎は、

「しろ公、ばか。」

「しろ公、げんこつくわせるぞ。」

「しろ公、おとなしく歩かねえと、おっかさんのとこへつれてってやらねえぞ。」

などと、しょっちゅうどなりつけながら歩いていました。

そのうちに、きらきら<ruby><rb>光</rb><rt>ひか</rt></ruby>っていた<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>ガ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>がだんだんうすむらさきに<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>ってきました。丘の上でなきしきっていたせみの声もいつしかしずまり、かなかなのこえだけ、小さなかねをたたくように聞えて、あたりは夕もやにつつまれてきました。気がついてみると、あんなにさわぎまわっていたしろ公も、林太郎の足元にすりつくようにして、とぼとぼと歩いています。

林太郎はきゅうに<ruby><rb>心細</rb><rt>こころぼそ</rt></ruby>くなりました。

「もう、どのくらい歩いたろうな。土浦はまだかしら。」

そう思ってゆくてをみると、白い道が夕もやの中へきえて、その<ruby><rb>先</rb><rt>さき</rt></ruby>の<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>には二つ三つ、<ruby><rb>黄</rb><rt>きい</rt></ruby>ろい星が光りだしているばかり。ときどきすれちがう人もなんだか<ruby><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby>が悪く、うしろからだしぬけに自転車が走りぬけたりすると林太郎はぎょっとしました。そこで林太郎は、こんどはやさしい声でしろ公へ話しかけました。

「しろ公、くたびれたかい。」

「しろ公、おなかがすいたかい。」

「しろ公、おっかさんのとこへいったら、うんとうまいものをくわしてやるよ。」

## 一一

そうして林太郎としろ公は、どのくらいの道を歩いたろうか。ふと目を上げるとはるか右手のほうに、たくさんの<ruby><rb>電灯</rb><rt>でんとう</rt></ruby>が、まるで野原<ruby><rb>一面</rb><rt>いちめん</rt></ruby>にさきみだれた花のようにきれいにともっているのが見えました。

「ああ、<ruby><rb>土浦</rb><rt>つちうら</rt></ruby>だ、土浦だ！」

林太郎はとび上がってよろこび、

「やいしろ公、おっかさんのいる町がめえるじゃねえか。」

けれどしろ公はやっぱりとぼとぼと歩いています。林太郎はそのしろ公を<ruby><rb>両手</rb><rt>りょうて</rt></ruby>で高くさしあげて、

「それ見ろよ。あれだよ。すてきだろう。」

林太郎はすっかり元気づき、<ruby><rb>走</rb><rt>はし</rt></ruby>るように歩きだしました。

だが、町の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>はすぐそこに見えていながらなかなか遠いのです。林太郎が近づいていけばいくほど、町のほうで遠くへにげていくようにも見えます。それで林太郎は、はあはあいいながら<ruby><rb>夢中</rb><rt>むちゅう</rt></ruby>で進んでいきました。そしてやっと町の入口へついたときは、足は<ruby><rb>棒</rb><rt>ぼう</rt></ruby>のようになり、頭はぽうーっとなっていました。しろ公もすっかりまいったとみえ、しっぽをおなかの下へまきこみ、ひょろひょろ歩いています。

この町の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を遠くから見ながらくるときは、林太郎の目にはこの町がおとぎ話の<ruby><rb>竜宮</rb><rt>りゅうぐう</rt></ruby>のように美しいところに思われたのでした。が、きてみるとそれどころか、小さな店がごちゃごちゃとならんで、いやなにおいがして、むし<ruby><rb>暑</rb><rt>あつ</rt></ruby>くて、どこにも美しいところがありません。それに、人をふきとばしそうなサイレンをならしている<ruby><rb>自動車</rb><rt>じどうしゃ</rt></ruby>、<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>いっぱいになってがたがた<ruby><rb>走</rb><rt>はし</rt></ruby>ってくる<ruby><rb>乗合自動車</rb><rt>のりあいじどうしゃ</rt></ruby>、うるさくベルをならしながらとびまわる<ruby><rb>自転車</rb><rt>じてんしゃ</rt></ruby>などで、うかうかと歩いてもいられません。林太郎はしろ公といっしょに<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくど</rt></ruby>となく<ruby><rb>往来</rb><rt>おうらい</rt></ruby>のすみっこにたち止まっては、

「まったく、やんなっちゃうなあ。」

と、ひとりごとをいいました。

しかしそんなことをしていたら、いつまで歩いていてもおっかさんに会うことなどできません。林太郎はある<ruby><rb>荒物屋</rb><rt>あらものや</rt></ruby>の<ruby><rb>店先</rb><rt>みせさき</rt></ruby>へ立ち、学校でならったていねいな<ruby><rb>言葉</rb><rt>ことば</rt></ruby>で聞きました。

「土浦の病院はどこですか。」

「土浦の病院？　それだけじゃ、わかんねえよ。」

荒物屋のことばはらんぼうです。

「土浦の病院だよ。」

「このでっかちあたま、土浦には、病院がいくつもあるんだからな、その名前を聞いてこい。」

林太郎はおずおずとその店先をさりました。林太郎は、この町へきて「土浦の病院」とさえいえばすぐわかり、それでまたおっかさんにも会えるものとばかり思ってきたのです。林太郎は困ったなと思いました。が、ひょっとしたらあの荒物屋はなんにも知らないのかもしれないと思いなおしました。で、またしばらく歩くと、ある<ruby><rb>乾物屋</rb><rt>かんぶつや</rt></ruby>の前へたって、

「土浦の病院はどこでしょうか。」

と、聞きました。

「へえ？」と、乾物屋のおかみさんは笑いながら、「おまえさん、どこからきたの。」

「……」林太郎はそれには答えず、「おれのおっかさんのいる病院だよ。」

「おや。犬ころとふたありで、おっかさんに会いにきたのかね。だけど土浦の病院だけじゃわからないよ。なんという病院だえ？」

と、おかみさんはやさしくいいます。

そういわれると林太郎はなんだか少し悲しくなり、きゅうにおろおろ声で、

「土浦の病院というんだよ。そんな病院ないのけ？」

「なるほど、それじゃ、土浦病院のことだろう。それならね、これをまっすぐにいってつきあたったら、右へまがっていくと、<ruby><rb>左側</rb><rt>ひだりがわ</rt></ruby>にあるのがそうだよ。りっぱな<ruby><rb>西洋館</rb><rt>せいようかん</rt></ruby>だからすぐわかるよ。」

林太郎は、ああよかったと思いました。それでそのおかみさんへぼうしをぬいでていねいにおじぎをして、教わったとおりの道を歩いていきました。

町はだんだんとにぎやかになり、ならんでいる店もりっぱになり、ある店には、赤や青の電灯が、つばきの花を糸へさしたようにならべてあって、<ruby><rb>蓄音機</rb><rt>ちくおんき</rt></ruby>が大きな声で歌をうたっています。林太郎もその前ではしばらく立ち止まって、

「やっぱり<ruby><rb>竜宮</rb><rt>りゅうぐう</rt></ruby>みたいなところもあるなあ。」と<ruby><rb>感心</rb><rt>かんしん</rt></ruby>したりしました。

## 一二

病院はすぐわかりました。林太郎はおそるおそるその<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>へはいって、まっ白な<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>い<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>に大きな電灯がともっている下に立ち、

「こんちは、……こんちは……。」

と、いいました。すると<ruby><rb>受付</rb><rt>うけつけ</rt></ruby>とかいてあるところの窓があいて、

「もう夜だからこんばんはというもんだよ。」という声がして、白い<ruby><rb>服</rb><rt>ふく</rt></ruby>をきた<ruby><rb>若</rb><rt>わか</rt></ruby>い女が顔をだし、「なあに、くすりをとりにきたの。」

「ううん、おれのおっかさんいるけ？」

「ほっほほ。おれのおっかさんて、おまえさんなんという名？」

「林太郎……。」

「やな子、林太郎じゃわかんないよ。なに林太郎というの？」

「<ruby><rb>川並</rb><rt>かわなみ</rt></ruby>林太郎というの。」

「川並……？　おまえさんのおっかさんだね。」

「うん。」

「そんなお方、うちには<ruby><rb>入院</rb><rt>にゅういん</rt></ruby>していないわ。」

「うそだあ。いるっていったよ。」

「だっていないんだもの。うそなんかいやしないよ。」

「……ほんとにいないの。」

林太郎はうらめしそうににらみました。

「おまえさん、病院をまちがえたんだろ。この前を左へいくと、むこう<ruby><rb>側</rb><rt>がわ</rt></ruby>にもひとつ病院があるから、そこへいってごらん。」

林太郎は、しおしおとそこをでて、教わった、つぎの病院へいってみました。が、そこにもおっかさんはいませんでした。林太郎はそこでもまたべつの病院を教わって、また、そこへいってみましたが、やっぱりおなじことでした。そこでは、

「病院の名も知らずに歩いたってわかりっこないから、おうちへおかえり、でっかちあたまさん。」

と、いわれました。

林太郎はもう顔も上げられないほど悲しくなりました。それでただもう足のむいた方へ歩いていきました。町の灯がちかちか光って見えます。<ruby><rb>涙</rb><rt>なみだ</rt></ruby>が目の中にいっぱいたまっているのでそう見えるのですが、林太郎はそんなことは気がつきません。ただ町中がなんとなく<ruby><rb>恐</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしく見えてきて、早くちかちか光る灯のないところへ出たいと思いながら歩いていました。

そのうちやっと暗い通りへでました。それをどこまでもいくと、<ruby><rb>広</rb><rt>ひろ</rt></ruby>い<ruby><rb>原</rb><rt>はら</rt></ruby>っぱへでました。そこは<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>ガ<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>のふちで、<ruby><rb>一面</rb><rt>いちめん</rt></ruby>に<ruby><rb>夏草</rb><rt>なつくさ</rt></ruby>がはえしげっています。夏草には<ruby><rb>夜露</rb><rt>よつゆ</rt></ruby>がしっとりとおりています。林太郎はその草の露をふみながら、またあてどもなく歩いていきました。

「しろ公、どこへいったらいいんだよ？」

林太郎は、いつか足元にすりついて歩いているしろ公へ、そう話しかけていました。

「なあ、しろ公、おっかさんは、どこにいるんだよ？」

「なあ、しろ公、たのむからおまえが<ruby><rb>探</rb><rt>さが</rt></ruby>してきてくれよ。」

「しろ公、おらなんだか気が遠くなってきたよ。」

「しろ公、<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>みたいだなあ。」

そういっていたかと思うと、林太郎は草の上にふらりとすわってしまいました。そこは<ruby><rb>湖</rb><rt>みずうみ</rt></ruby>の<ruby><rb>岸</rb><rt>きし</rt></ruby>で、すぐ下は水です。林太郎はそこにすわったまましばらくはふらふらしていましたが、やがてずるずるとすべって、もう少しで水の中へすべりこむところを、そこに一カ所ちょっとしたくぼみがあり、林太郎のからだはその中へぐあいよくすぽりとはまりました。

林太郎はそこで、虫のようにまるくなって<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむ</rt></ruby>ってしまったのです。かわいそうに林太郎は、おっかさんのお<ruby><rb>里</rb><rt>さと</rt></ruby>を出てから、水一てき飲まずに五里ちかくの道を歩きつづけ、この町へきてもなにひとつたべずに、あっちこっちの病院をたずね<ruby><rb>回</rb><rt>まわ</rt></ruby>ったので、もうからだも頭もへとへとに<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れてこんなところにゆきだおれてしまったのです。

しろ公も林太郎とおなじように<ruby><rb>飲</rb><rt>の</rt></ruby>まず食わずですから、もう少しでへたばりそうになっていました。が、林太郎がそんなにたおれてしまったのをみると、これは<ruby><rb>兄貴</rb><rt>あにき</rt></ruby>の<ruby><rb>一大事</rb><rt>いちだいじ</rt></ruby>とわかったらしく、しっかりと<ruby><rb>両耳</rb><rt>りょうみみ</rt></ruby>をたてて、林太郎のそばにきちんとすわっていました。<ruby><rb>主人</rb><rt>しゅじん</rt></ruby>のためには<ruby><rb>命</rb><rt>いのち</rt></ruby>をすてて主人の<ruby><rb>危険</rb><rt>きけん</rt></ruby>を<ruby><rb>救</rb><rt>すく</rt></ruby>う犬がよくありますが、しろ公もまたそういう<ruby><rb>忠実</rb><rt>ちゅうじつ</rt></ruby>な犬にちがいありません。といってしろ公は、そこにゆきだおれてしまった林太郎をどうして<ruby><rb>救</rb><rt>すく</rt></ruby>うのでしょうか。

## 一三

こちらは林太郎のおとっつあんです。おとっつあんはその日がくれても林太郎の姿が見えないので、これはてっきりおっかさんのお里へいったにちがいないと思い、さっぱ船にのってお里へいってみました。と、林太郎はおひるすぎにきはきたが、すぐ家へかえっていったとおばあさんのはなしです。

「それじゃ、どこへいったろう？」

「ひょっとしたら、おっかさんに会いたい<ruby><rb>一心</rb><rt>いっしん</rt></ruby>で、<ruby><rb>土浦</rb><rt>つちうら</rt></ruby>までいったかもしれないぞ。」

「でも、あんな子どもがひとりでいけるだろうか。」

「いやいやいったかもしれぬ。そういえばきょうの林太郎はいつもと<ruby><rb>違</rb><rt>ちが</rt></ruby>って、くちびるをくいしばってなにか<ruby><rb>決心</rb><rt>けっしん</rt></ruby>したような顔で、このうちを出ていったからな。」

「しろ公もいっしょだったか。」

「ああ、いっしょだった。」

「そんならやっぱりいったかもしれねえ。よし、じゃこれから<ruby><rb>迎</rb><rt>むか</rt></ruby>いにいってくる。」

「ああすぐいっておくれ。それからひとつ頼みがあるが。」

と、おばあさんは目をしょぼしょぼさしていいます。

「どんなことでしょう？」

「ほかでもないが、林太郎はじぶんの頭がでっかちなので、そのためにおっかさんはおまえさんの家から<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>い出されたのだと、思っているのだから、な。それをよく考えてやっとくれよ。」

「ああ、よくわかりました。すみません。」

おとっつあんはそこで、その<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の自転車を<ruby><rb>借</rb><rt>か</rt></ruby>り、それにのって、もうチェーンがきれるほどペタルをふんで<ruby><rb>土浦</rb><rt>つちうら</rt></ruby>へ走っていきました。で、わずか一時間ばかりで町へはいると、林太郎のおかあさんが<ruby><rb>入院</rb><rt>にゅういん</rt></ruby>している病院へ、息せききってはいっていきました。

林太郎さんのおっかさんは、もう<ruby><rb>病気</rb><rt>びょうき</rt></ruby>もよくなり、少しは外へもでられるようになっていましたので、おとっつあんがたずねたというしらせをうけると、ひとりで<ruby><rb>玄関</rb><rt>げんかん</rt></ruby>へでていきました。おとっつあんはまず、

「林太郎がきているかね。」

と、聞きました。

「林太郎が？　きていませんが……」

「きていない。ああそれじゃまい<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>になっているのだ。」

「どうしたのです？」

おっかさんも<ruby><rb>顔色</rb><rt>かおいろ</rt></ruby>をかえました。おとっつあんは手みじかに、<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>はこれこれだと、林太郎がいなくなったわけを話しました。するとおっかさんはもう<ruby><rb>涙声</rb><rt>なみだごえ</rt></ruby>になり、

「林太郎はわたしの子ではないのに、わたしをほんとの親のようにしたってくれるのです。あんないい子をまい子にしてしまってはたいへんです。わたしもいっしょにさがしますから。」

と、外へ出ようとします。

「いや、おまえは<ruby><rb>病人</rb><rt>びょうにん</rt></ruby>だからむりをしないでおくれ。わしがひとりでさがす。きっとさがしだしておまえのところへつれてくるから、気をもまないで<ruby><rb>待</rb><rt>ま</rt></ruby>っていておくれ。」

おとっつあんはそういいおいて、また自転車にとびのり、町の中へ<ruby><rb>走</rb><rt>はし</rt></ruby>りだしました。

それからおとっつあんは、<ruby><rb>無我夢中</rb><rt>むがむちゅう</rt></ruby>で町中を走りました。が、どこにもそれらしい姿が見えないと、町はずれを、東へも南へも、北へも西へもでてみました。だが、それでも見あたりません。

おとっつあんはもう気がくるいそうになりました。それで、まっくらな原っぱへ出たりすると、大きな声をだして、

「林太郎やあー……林太郎やあー……。」

と、どなりました。

そのうちに夜はふけてきました。おとっつあんはもう声もかれはてて、林太郎をよぶこともできなくなりました。

## 一四

そうして、あるまっくらな道をよろよろと<ruby><rb>走</rb><rt>はし</rt></ruby>っているときでした。どこからか一ぴきの白い犬が走りよってきたかと思うと、おとっつあんの足へかみつくようにしてほえたてるのです。見るとそれはしろ公ではありませんか。おとっつあんは<ruby><rb>自転車</rb><rt>じてんしゃ</rt></ruby>から飛びおり、

「ああ、しろ公だ、しろ公だ。林太郎はどこにいるのだ？」

と、しろ公をだいてさけびました。するとしろ公は、<ruby><rb>悲</rb><rt>かな</rt></ruby>しいような、うれしいような声で、くうーんくうーんとなきながら、<ruby><rb>自分</rb><rt>じぶん</rt></ruby>のからだをおとっつあんの胸へすりつけて、それからまっくらな道を走りだしました。

「ああ、そっちか。ありがとう、しろ公。ありがとう、しろ公。」

おとっつあんはいいながら、自転車でその後についていきました。

しろ公は、そのようにして、林太郎がゆきだおれている<ruby><rb>湖</rb><rt>みずうみ</rt></ruby>の<ruby><rb>岸</rb><rt>きし</rt></ruby>へ、おとっつあんをりっぱに<ruby><rb>案内</rb><rt>あんない</rt></ruby>したのです。おとっつあんは、<ruby><rb>倒</rb><rt>たお</rt></ruby>れている林太郎をだきあげると、

「林太郎やあ……林太郎やあ……。」

声かぎりよびました。林太郎はその声でやっと目をあけました。そして、おとっつあんだと知ると、

「おれ、もう死んじゃうんだよ。」

と、いいました。

「ばかなことをいうでねえ。」と、おとっつあんは林太郎のからだをゆすぶり、「おとっつあんが<ruby><rb>迎</rb><rt>むか</rt></ruby>いにきただ。もう、だいじょうぶだからしっかりするんだぞ。」

「おれ、おとっつあんなんぞいらない。おっかさんだ、おっかさんだ……」

「だから、おっかさんとこへつれていくだ。それで、あしたは、おっかさんと林太郎とおとっつあんと三人で、うちへ帰るだから、しっかりするんだぞ。」

「そんじゃ、おっかさんの病院わかったの？」

「ああわかったとも。おっかさんも林太郎のくるのを<ruby><rb>一生</rb><rt>いっしょう</rt></ruby>けんめいに<ruby><rb>待</rb><rt>ま</rt></ruby>ってるだ。」

「そんじゃ、おとっつあん、もう、おっかさんをいじめねえかよ。」

「だれがいじめるもんか。林太郎がしろ公をかわいがるようにかわいがってやるだ。」

「おれが頭でっかちでも？」

「林太郎の頭も、もうはあでっかちじゃねえだ。それ、しろ公だって、犬ころのときでっかちあたまだったが、いまはそうじゃねえだろう。林太郎もしろ公とおんなじよ。」

おとっつあんは林太郎を草の上へ立たせ、その前へしゃがんで、

「さあ、おんぶしなよ。おっかさんとこへいくだ。」

「待ってよ、おとっつあん。」

「どうするだ。」

「おとっつあんはばかだなあ。しろ公を忘れてるよ。」

「ああそうか。」と、おとっつあんはしろ公の頭をなでて、

「しろ公、ありがとうよ。われのおかげで林太郎は<ruby><rb>助</rb><rt>たす</rt></ruby>かったぞ。林太郎のおっかさんもおとっつあんも助かったぞ。」

しろ公もうれしそうにしっぽをふっています。林太郎は、しろ公の前へしゃがんで、

「それ、しろ公、おんぶしなよ。」

「なるほど、そうか、そうか。」

おとっつあんはそこで、しろ公をだき上げて林太郎の背中へのせ、その林太郎をおんぶして、そうして自転車へのり、ちょうど<ruby><rb>曲馬団</rb><rt>きょくばだん</rt></ruby>の<ruby><rb>曲芸師</rb><rt>きょくげいし</rt></ruby>のようなかっこうで、元気よくおっかさんのところへ走りだしました。（昭<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">10</span>・２～４）