Soranoha

劇壇の新機運

げきだんのしんきうん

蒲原 有明

わたくしは劇壇の新しい運動が自由劇場の試演とまで漕ぎつけたことに就ては、勿論贊意を表し且つその成功を祈つてゐた。それと同時にかういふ運動は我邦に於て全く破天荒のことではあるし、第一囘の試演が蓋を開けるまではこの運動の効果に對し多少の疑懼を擁かないでもなかつた。即ち成功とは云はれぬにしても、劇壇の沈滯に對する刺戟ともなり、新藝術のために貢獻するところを期待しつゝ、果してそれがどうであらうかと、傍から觀てゐて危ぶんでゐたからである。それが愈實現されたのを見て兎に角大成功とは言はれぬまでも、その出來ばえの稍成功に近い域に及んでゐたことは、劇壇のために喜びに堪えぬところでもあるし、同時にまた小山内薫氏並に左團次一座のために祝盃を擧げてもよい次第である。わたくしはこの試演を見て、先づ以てこの具合ならば、第二第三の試演を續けて行くうちに、我邦でも眞に新しい創作劇の上場を見ることが可能であらうと感じて、ふとそれを豫想して見たことである。

この第一囘の試演に用ゐたイブセンの「ボルクマン」は、わたくしにとつて忘れ難い追憶がある。それと云ふのも、この「ボルクマン」はイブセンの作中でわたくしの讀んだ最初のものであつたからである。イブセンの戯曲、その曲に含まれた人生觀や、脚本としての技巧などについては、既にいろいろの評論もあつたことであるし、わたくしとても略知つてはゐたが、特に研究して見ようと云ふ氣も起さずに過して來たのである。然るに島崎藤村さんが信州の小諸から、これを是非讀んで見ろと、わざわざ小包で送つてくれたのが、この「ボルクマン」である。わたくしは藤村さんの好意を謝しつゝ深い思ひを以てこの脚本を讀み了つた。これがイブセンを讀んだ最初である。その脚本が今我邦の舞臺に始めてかけられるといふのである。わたくしが少なからぬ希望と喜びと無上の興味とを以て、この試演を觀たことに不思議はない。

わたくしはこの脚本を讀み返してみた上で、かういふ場面は實演してどういふ風になるものか、本で讀んでこれぐらゐのところでも意外に新しい感銘を與へるのではなからうかと、頻りに想像を逞くして、出來るだけ注意を拂つて、舞臺を見詰てゐた。例へば第四幕目で、人々が戸口のところに立つてゐると、寒い空に橇の鈴の音が聞えてくる。その音を聞いて銘々が異つた感慨に沈む。その橇の鈴の音が脚本を讀んだ時からわたくしの胸に沁み込んでゐたので、特に氣をつけてゐたが、舞臺の上ではその部分が平々淡々の中に終つてしまつた。さういふ目拔きの場面が心行きが乏しいと云ふのか、兎まれ角まれ期待したほどの感銘を殘さずじまひになつたことは口惜しい。けれどもこれは實演が一般にむづかしいと刻印を押されてゐるイブセン物を始めて、我邦で出して見た試みに對しては、さう深く批難するにも當るまい。さういふ一部分の缺點は別として、大體から云へば、さほどのあらも見せず、イリユウジヨンをひどく破るといふこともなく、無事であつたことは何よりである。

わたくしはこの試演を見て別に考へたことがある。さすがはイブセン物だけあつて、すべてが引緊つてゐて對話にも動作にも些しの厭味もなかつたが、それにしてもイブセンは隨分窮屈なものであることを、本を讀んだ時よりも強く感じた。イブセンが我邦の將來の劇にどれだけの感化を及ぼすかといふことになると、わたくしはいつも餘りにその浸潤を期待してゐなかつた一人である。我邦の劇がイブセン流に發展して行くだらうとは、とても思はれない。唯イブセンに就いて大に學ばねばならぬところが一つある。それは舞臺上の効果といふよりも、イブセンがその根本をしつかり握つてゐて、變に應じて妙手をうち出す劇構成のテクニクである。

イブセン物の上場が今後とも一般によろこばれるか否かは疑はしい。イブセンの抱懷する思想は暫く問はない。先づ以て困るのはあの一分の隙をも容れぬ理屈と皮肉とのやりとりである。本で讀む時にはもとよりそのつもりなので調子も取つてゆけるが、またその間に禪機の如きものゝ閃きをすら認め得るが、これを實際に舞臺上の對話として聽いてゐたのでは少しつらい。これは確にこちらの耳がよく馴らされてゐないせゐもあるだらう。

この試演の夕にこゝに集つた鑑賞家は東京に於ける教養の高い人々のみである。そのためにこの小劇場に過ぎぬ有樂座の内部も、座席といはず廊下といはず、濃やかな情趣に充ちた雰圍氣を釀し出して、我々をこの上なくよろこばせた。わたくしはこの事も忘れないでゐようと思ふ。

この次の出し物についてはいろいろの噂さ話がある。アンドレエフの物のうちで何か遣るといふやうなことも聞いてゐる。わたくしは南歐のダヌンチオあたりの短かいものなども面白からうと、ひとりでさう考へてゐる。

自由劇場は一の興行の主體として、損得の打算の上からは、或は成り立つてゆけぬ日が來るかも知れない。我々はその實際の經營には喙をさしばさむわけにはゆかない。然し自由劇場が存立する限り、外の劇場で遣ることの出來ぬ物をせいぜい見せてもらひたい。やゝもすれば沈滯がちな劇壇に新たな刺戟を與へ得れば、それで目的は達せられてゐるのではなからうか。先づ以てそれだけの目的を最小限度に決めて、極くじみに遣つていつてもらひたい。

その中には新人の創作劇に優れた作品も出來て來るにちがひない。それを上場してゆくと共に、矢張高級なヂレツタントのために、西洋物の傑作を見せるところに、自由劇場の存在の意義と理由はあるものと思ふ。

現在マネエジヤアとして小山内君の占める地位はまことに空前のかがやかしさである。わたくしはこれを小山内君の努力の致すところとして、なほ將來に對する熟考を祈つて止まぬものである。

(明治四十二年十二月)

底本 / Source edition

底本:「明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)」筑摩書房
1980(昭和55)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「飛雲抄」書物展望社
1938(昭和13)年12月10日
初出:「新潮」新潮社
1910(明治43)年1月
※初出時の表題は、「劇壇の新機運(自由劇場試演に就いて)」
入力:広橋はやみ
校正:川山隆
2007年8月14日作成
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書誌 / Bibliography
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蒲原 有明「劇壇の新機運」(旧字旧仮名)、底本『明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)』筑摩書房、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 045682_001055, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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