Soranoha

母親に憑る霊

ははおやにのりうつるれい

田中 貢太郎

大正八年二月二十六日、西比利亜シベリア出征の田中中佐の一隊は、過激派軍のために包囲せられて、クスラムスコエ附近で全滅したが、悲壮極まるその戦闘で、名誉の戦死を遂げた小島勇次郎と云う軍曹は、大分県大野郡東大野村の出身であった。

その勇士小島勇次郎が戦死してから半ヶ月ばかり経ってのこと、その生家では年とった母親が、某夜あるよ突然寝床の上に飛び起きて叫んだ。

「起きてくれ、お父さんも、弟も妹も、皆起きてここへ来てくれ、話がある」

それは鋭い男性的な声であった。父親は勇次郎の戦死の通知があって以来、老妻が非常に落胆していたので、ついすると発狂したかも判わからない。病気になったとすれば逆らってもいけないと思って、すぐ家内中の者を起してその前へ往った。すると、

「よし、皆来てくれたか、俺は勇次郎だ、俺はお国のために戦死したのだ、それだのに、お母さんは、毎日毎日、仏壇の前へ来て泣く、俺はそれが何より辛い、だから泣いてもらわないために、戦争の容子ようすを話して聞かせる」

と云って、話しだした。それによると、二月二十五日の朝、田中支隊を乗せた汽車が待避線に着くと、香田小隊が将校斥候になって出発したが、その夜九時頃になって、その将校斥候から報告が来た。で、緊急集合の命令が出た。そこで真暗い中で橇そりの準備をして出発したが、なかなか寒かった。何と云う村であったかそこで食事をして、夜明けになって出発した。そのうちに、森の中で敵と遭遇して大激戦が開始されたが、敵は大勢味方は無勢、だんだん死傷者が出るので心細くなったが、俺は日本男児だ、後へ退くものかと思って奮闘しているうちに、敵弾が頭部に命中して、その後の事は判らなくなったと云って、態度なり詞ことばなりが全く勇次郎になって、

「だからもう歎いてくれるな、俺はお国の役に立って死んだのだから、きれいに諦めて、それでお父さんもお母さんも、達者で暮してもらいたい、弟や妹は、俺の分まで孝行してくれ」

と云った。それを聞くと父親が、

「お前は、今夜来るくらいなら、死んだ時何故知らせなかった」

と云うと、

「お父さんやお母さんに知らせると、歎くと思ったから、二人の弟にだけ、その晩に知らしてある」

と云った。そこで父親は、次男と三男に尋ねてみると、

「その通りだ、あの晩、私等二人は、兄さんが顔を血だらけにして帰った夢を見たが、皆が心配すると思って黙っていた」

と云うと、

「そうとも、それで皆判ったろう、これだけ理わけを話したから、もう歎いてくれるな」

同時に母親は其の場に倒れて昏睡状態に陥り、翌日の午ひる過ぎになってやっと正気づいた。で、宵の事を訊いてみたが、何も知らなかった。この話は田中支隊の戦況がまだ内地に達しない時で、その後戦況が判ってみると、すべて勇次郎の霊の云ったとおりであった。

底本 / Source edition

底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日初版発行
底本の親本:「新怪談集 実話篇」改造社
1938(昭和13)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「母親に憑《のりうつ》る霊」となっています。
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2010年10月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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田中 貢太郎「母親に憑る霊」(新字新仮名)、底本『伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典』学研M文庫、学習研究社、2003年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 045560_000154, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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