昭和九年の夏、横井春野君が三田<ruby><rb>稲門</rb><rt>とうもん</rt></ruby>戦の試合を見て帰って来たところで、その時千葉の市川にいた<ruby><rb>令弟</rb><rt>れいてい</rt></ruby>の夫人から、

「病気危篤、すぐ来い」

と云う電報が来た。横井君は令弟の容態を心配だから、夜もいとわずに市川へ駈けつけた。そして、令弟の家の門口を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>ろうとして、何気なく屋根の上へ眼をやったところで、其処に一匹の黒猫がいて、それが糸のような声で<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いていた。瞬間横井君は、

「しまった」

と思った。それは横井君のお父さんがまだ<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い<ruby><rb>比</rb><rt>ころ</rt></ruby>、酒興のうえで、一匹の黒猫を刺し殺したことがあったが、それからと云うものは、横井君の家には、何か不幸なことでもあると、きっと黒猫が姿をあらわした。お父さんが<ruby><rb>歿</rb><rt>な</rt></ruby>くなった時にも、また四人の兄弟をはじめ二人の小供の<ruby><rb>歿</rb><rt>な</rt></ruby>くなったときにも、やはり黒猫が来て屋根から離れなかった。横井君はそのつどそれを見ているので、

「この野郎」

と云って、そこにあった小石を拾って投げつけた。すると猫は屋根の向う側へ姿をかくしたようであるから、家の中へ入ろうとすると、すぐまた出て来て淋しそうに啼いた。横井君は令弟のことが気になるので、もいちど小石を投げつけておいて家の中へ入った。と、令弟は気息えんえんとして、今にも呼吸を引きとろうとしているところであった。

横井君は猫が気になるので、また外へ出て猫を追ったが、猫は依然として屋根の上から離れなかった。そして、<ruby><rb>暁</rb><rt>あ</rt></ruby>けがたになってその猫の声がぴたりとやむと同時に、令弟が呼吸を引きとった。