Soranoha

病院の窓

びょういんのまど

石川 啄木

野村良吉は平日いつもより少し早目に外交から帰つた。二月の中旬過なかばすぎの、珍らしく寒さの緩んだ日で、街々の雪がザクザク融けかかつて来たから、指先に穴のあいた足袋が気持悪く濡れて居た。事務室に入つて、受付の広田に聞くと、同じ外勤の上島うはしまも長野も未だ帰つて来ないと云ふ。時計は一時十六分を示して居た。

暫時しばらく其処の暖炉ストーブにあたつて、濡れた足袋を赤くなつて燃えて居る暖炉ストーブに自暴やけに擦こすり付けると、シユッシユッと厭な音がして、変な臭気にほひが鼻を撲うつ。苦い顔をして階段はしごを上あがつて、懐手をした儘耳を欹そばだてて見たが、森閑として居る。右の手を出して、垢着いた毛糸の首巻と毛羅紗けラシヤの鳥打帽とりうちを打釘に懸けて、其手で扉ドアを開けて急がしく編輯局を見廻した。一月程前に来た竹山と云ふ編輯主任は、種々いろいろの新聞を取散らかした中で頻しきりに何か書いて居る。主筆は例の如く少し曲つた広い背を此方こつちに向けて、暖炉ストーブの傍わきの窓際で新着の雑誌らしいものを読んで居る。「何も話して居なかつたナ。」と思ふと、野村は少し安堵した。今朝出社した時、此二人が何か密々ひそひそ話合つて居て、自分が入ると急に止めた。――それが少なからず渠かれの心を悩ませて居たのだ。役所廻りをして、此間こなひだやつた臨時種痘の成績調やら辞令やらを写して居ながらも、四六時中しよつちうそれが気になつて、「何の話だらう? 俺の事だ、屹度俺の事に違ひない。」などと許り考へて居た。

ホツと安堵すると妙な笑が顔に浮んだ。一足入つて、扉ドアを閉めて、

『今日は余程よつぽど道が融けましたねす。』

と、国訛りの、ザラザラした声で云つて、心持頭を下げると、竹山は

『早かつたですナ。』

『ハア、今日は何も珍らしい材料たねがありませんでした。』

と云ひ乍ら、野村は暖炉の側わきにあつた椅子を引ずつて来て腰を下した。古新聞を取つて性急そそくさに机の塵を払つたが、硯箱の蓋をとると、誰が使つたのか墨が磨すれて居る。「誰だらう?」と思ふと、何だか訳もなしに不愉快に感じられた。立つて行つて、片隅の本箱の上に積んだ原稿紙を五六十枚攫つかんで来て、懐から手帳を出して手早く頁を繰つて見たが、これぞと気乗きのりのする材料も無かつたので、「不漁ふれふだ、不漁だ。」と呟いて机の上に放り出した。頭がまたクサクサし出す様な気がする。両の袂を探つたが煙草が一本も残つて居ない。野村は顔を曇らせて、磨れて居る墨を更に磨り出した。

編輯局は左程広くもないが、西と南に二つ宛の窓、新築した許りの社なので、室の中が気持よく明るい。五尺に七尺程の粗末な椴松とどまつの大机が据ゑてある南の窓には、午後一時過の日射ひざしが硝子の塵を白く染めて、机の上には東京やら札幌小樽やらの新聞が幾枚も幾枚も拡げたなりに散らかつて居て、恰度野村の前にある赤インキの大きな汚染しみが、新らしい机だけに、胸が苛々する程血腥ちなまぐさい厭な色に見える。主筆は別に一脚の塗机を西の左の窓際に据ゑて居た。

此新聞は、昔貧小ちつぽけな週刊であつた頃から、釧路の町と共に発達して来た長い歴史を持つて居て、今では千九百何号かに達して居る。誰やらが「新聞界の桃源」と評しただけあつて、主筆と上島と野村と、唯三人でやつて居た頃は随分暢気のんきなものであつたが、遠からず紙面やら販路やらを拡張すると云ふので、社屋の新築と共に竹山主任が来た。一週間許り以前に長野と云ふ男が助手といふ名で入社はひつた。竹山が来ると同時に社内の空気も紙面の体裁も一新されて、野村も上島も怠ける訳にいかなくなつた。

野村は四年程以前に竹山を知つて居た。其竹山が来ると聞いた時、アノ男が何故恁麽こんな釧路あたりまで来るのかと驚いた。と同時に、云ふに云はれぬ不安が起つて、口には出さなかつたが、悪い奴が来る事になつたもんだと思つて居た。野村は、仮令たとへ甚麽どんなに自分に好意を持つてる人にしても、自分の過去を知つた者には顔を見られたくない経歴を持つて居た。けれども、初めて逢つた時は流石に懐しく嬉しく感じた。

野村の聞知つた所では、此社の社長の代議士が、怎どうした事情の下にか知れぬけれど、或実業家から金を出さして、去年の秋小樽に新聞を起した。急造にはかづくりの新聞だから種々いろんな者が集まつたので、一月経つか経たぬに社内に紛擾さわぎが持上つた。社長は何方どつちかと云へば因循な人であるけれど、資本主ぬしから迫られて、社の創業費を六百円近く着服ちよろまかしたと云ふ主筆初め二三の者を追出して了つた。と、怎したのか知らぬが他の者まで動き出して、編輯局に唯たつた一人残つた。それは竹山であつたさうな。竹山は其時一週間許りも唯一人で新聞を出して見せたのが、社長に重んぜられる原因もとになつて、二度目の主筆が兎角竹山を邪魔にし出した時は、自分一人の為に折角の社を騒がすのは本意で無いと云つて、誰が留めても応きかずに遂々たうたう退社の辞を草した。幸ひ此方こつちの社が拡張の機運に際して居たので、社長は随分と破格な自由と待遇を与へて竹山を併つれて来たのだと云ふ事であつた。打見には二十七八に見える老ふけた所があるけれど、実際は漸々やうやう二十三だと云ふ事で、髯が一本も無く、烈しい気象が眼に輝いて、少年こどもらしい活気の溢れた、何処か恁かうナポレオンの肖像画に肖通つた所のある顔立で、愛想一つ云はぬけれど、口元に絶やさぬ微笑に誰でも人好ひとずきがする。一段二段の長い記事を字一つ消すでなく、スラスラと淀みなく綺麗な原稿を書くので、文選小僧が先づ一番先に竹山を讃めた。社長が珍重してるだけに恐ろしく筆の立つ男で、野村もそれを認めぬではないが、年が上な故せゐか怎どうしても心から竹山に服する気にはなれぬ。酒を喰くらつた時などは気が大きくなつて、思切つて竹山の蔭口を叩く事もある位で、殊に此男が馴々しく話をする時は、昔の事――強ひて自分で忘れて居る昔の事を云ひ出されるかと、それは〱人知れぬ苦労をして居た。

野村は力が抜けた様に墨を磨つて居たが、眼は凝然ぢつと竹山の筆の走るのを見た儘、種々いろんな事が胸の中に急がしく往来して居て、さらでだに不気味な顔が一層険悪になつて居た。竹山も主筆も恰あたかも知らぬ人同志が同じ汽車に乗り合した様に、互にそ知らぬ態さまをして居る。何方どつちも傍に人が居ぬかの様に、見向くでもなければ一語を交すでもない。渠かれは此この態さまを見て居て又候またぞろ不安を感じ出して来た。屹度俺の来るまでは二人で何か――俺の事を話して居たに違ひない。恁かうと、今朝俺の出社したのは九時半……否いや十時頃だつたが、それから三時間余も恁う黙つて居ると云ふ事はない。屹度話して居たのだ。不図すると俺の来る直ぢき前まで……或は其時既に話が決つて了つて、恰度其処へ俺が入つたのぢやないか知ら。と、上島にも長野にも硯箱があるのに、俺ンのを使つたのは誰であらう。然うだ、此椅子も暖炉の所へ行つて居た。アレは社長の癖だ。社長が来たに違ひない。先刻さつき事務の広田に聞いて呉れば可よかつたのにと考へたが、若しかすると、二人で相談して居た所へ社長が来て、三人になつて三人で俺の事を色々悪口し合つて、……然さうだ、此事を云ひ出したのは竹山に違ひない。上島と云ふ奴酷い男だ。以前は俺と毎晩飲んで歩いた癖に、此頃は馬鹿に竹山の宿へ行く。行つて俺の事を喋つたに違ひない。好し、そんなら俺も彼奴あいつの事を素破抜すつぱぬいてやらう、と気が立つて来て、卑怯な奴等だ、何も然う狐鼠々々こそこそ相談せずと、退社しろなら退社しろと瞭きつぱり云つたら可いぢやないか、と自暴糞やけくそな考へを起して見たが、退社といふ辞ことばが我ながらムカムカしてる胸に冷水ひやみづを浴せた様に心に響いた。飢餓うゑと恐怖おそれと困憊つかれと悔恨くいと……真暗な洞穴ほらあなの中を真黒な衣を着てゾロゾロと行く乞食の群! 野村は目を瞑つぶつた。

白く波立つ海の中から、檣ほばしらが二本出て居る様が見える。去年の秋、渠かれが初めて此釧路に来たのは、丁度竹の浦丸といふ汽船が、怎どうした錯誤あやまりからか港内に碇泊した儘沈没した時で、二本の檣ほばしらだけが波の上に現はれて居た。風の寒い浜辺を、飢ゑて疲れて、古袷一枚で彷徨うろつき乍ら、其檣を眺むるともなく眺めて「破船」といふことを考へた。そして渠は、濡れた巌に突伏して声を出して泣いた事があつた。……野村は一層堅く目を瞑つた。と、矢張其時の事、子供を伴れた夫婦者の乞食と一緒に、三晩続けて知人岬しりとさきの或神社やしろに寝た事を思出した。キイと云ふ子供の夜泣の声。垢だらけの胸を披はだけて乳をやる母親は、鼻が推潰おしつぶした様で、土に染みた髪は異な臭気を放つて居たが、……噫、浅間しいもんだ、那麽あんな時でも那麽気を、と思ふと其夫をつとの、見るからに物凄い髭面が目に浮ぶ。心は直ぐ飛んで、遠い遠い小坂の鉱山へ行つた。物凄い髭面許りの坑夫に交つて、十日許りも坑道しきの中で鉱車トロツコを推した事があつた。真黒な穴の口が見える。それは昇降機エレヴエーターを仕懸けた縦坑であつた。噫、俺はアノ穴を見る恐怖おそろしさに耐へきれなくなつて、坑道の入口から少し上の、些ちつと許り草があつて女郎花をみなへしの咲いた所に半日寝転んだ。母、生みの母、上衝のぼせで眼を悪くしてる母が、アノ時甚麽どんなに恋しくなつかしく思はれたらう! 母の額に大きな痍きずがあつた。然うだ、父親おやぢが酔払つて丼を投げた時、母は左の手で……血だらけになつた母の顔が目の前に……。

ハツとして目を開あいた野村は、微かな動悸を胸に覚えて、墨磨る手が動かなくなつて居た。母! と云ふ考へが又浮ぶ。母が親みづから書く平仮名の、然も、二度三度繰返して推諒しなければ解らぬ手紙! 此間こなひだ返事をやつた時は、馬鹿に景気の可いい様な事を書いた。景気の可い様な事を書いてやつて安心さしたのに、と思つて四辺あたりを見た。竹山は筆の軸で軽く机を敲き乍ら、書きさしの原稿を睨んで居る。不図したら今日締切後に宣告するかも知れぬ、と云ふ疑ひが電いなづまの様に心を刺した。其顔面には例の痙攣ひきつけが起つてピクピク顫へて居た。

内心の断間たえまなき不安を表はすかの様に、ピクピク顔の肉を痙攣ひきつけさせて居るのは渠かれの癖であつた。色のドス黒い、光沢つやの消えた顔は、何方かと云へば輪廓の正しい、醜くない方であるけれども、硝子玉の様にギラギラ悪光りのする大きい眼と、キリリと結ばれる事のない唇くちびるとが、顔全体の調和を破つて、初めて逢つた時は前科者ぢやないかと思つたと主筆の云つた如く、何様なにさま物凄く不気味に見える。少し前に屈こごんだ中背の、齢は二十九で、髯は殆んど生えないが、六七本許りも真黒なのが頤おとがひに生えて五分位に延びてる時は、其人相を一層険悪にした。

渠が其地位に対する不安を抱き始めたのは遂つひ此頃の事で、以前もと郵便局に監視人とかを務めたといふ、主筆と同国生れの長野が、編輯助手として入つた日からであつた。今迄上島と二人で隔日に校正をやつて居た所へ、校正を一人入れるといふ竹山の話は嬉しかつたものの、逢つて見ると長野は三十の上を二つ三つ越した、牛の様な身体の、牛の様な顔をした、随分と不格好で気の利かない男であつたが、「私は木下さん(主筆)と同国の者で厶ございまして、」と云ふ挨拶を聞いた時、俺よりも確かな伝手つてがあると思つて、先づ不快を催した。自分が唯たつた十五円なのに、長野の服装の自分より立派なのは、若しや俺より高く雇つたのぢやないかと云ふ疑ひを惹起ひきおこしたが、それは翌日になつて十三円だと知れて安堵した。が、三日目から今迄野村の分担だつた商況の材料取たねとりと警察廻りは長野に歩かせる事になつた。竹山は、「一日いちんちも早く新聞の仕事に慣れる様に、」と云つて、自分より二倍も身体の大きい長野を、手酷しく小言を云つては毎日々々使役こきつかふ。校正係なら校正だけで沢山だと野村は思つた。加之のみならず、渠は恁麽こんな釧路の様な狭い所では、外交は上島と自分と二人で充分だと考へて居た。時々何も材料が無かつたと云つて、遠い所は廻らずに来る癖に。

浮世の戦ひに疲れて、一刻と雖ども安心と云ふ気持を抱いた事の無い野村は、適切てつきり長野を入れたのは自分を退社させる準備だと推諒した。と云ふのは、自分が時々善からぬ事をしてゐるのを、渠自身さへ稀たまには思返して浅間しいと思つて居たので。

渠は漸々やうやう筆を執上げて、其処此処手帳を翻反ひつくらかへして見てから、二三行書き出した。そして又手帳を見て、書いた所を読返したが、急がしく墨を塗つて、手の中に丸めて机の下に投げた。又書いて又消した。同じ事を三度続けると、何かしら鈍い圧迫が頭脳あたまに起つて来て、四辺あたりが明るいのに自分だけ陰気な所に居る様な気がする。これも平日いつもの癖で、頭を右左に少し振つて見たが、重くもなければ痛くもない。二三度やつて見ても矢張同じ事だ。が、今にも頭が堪へ難い程重くなつてズクズク疼うづき出す様な気がして、渠は痛くもならぬ中から顔を顰蹙しかめた。そして、下唇を噛み乍らまた書出した。

『支庁長が居つたかえ、野村君?』

と、突然だしぬけに主筆の声が耳に入つた。

『ハア、支庁長ですか? ハア居まし……一番で行きました。』

『今朝の一番汽車か?』

『ハア、札幌の道庁へ行きましたねす。』と急がしく手帳を見て、『一番で立ちました。』

『札幌は解つてるが、……戸川課長は居るだらう?』

『ハア居ります。』

野村は我乍ら滑稽をかしい程狼狽うろたへたと思ふと、赫かつと血が上つて顔が熱ほとり出して、沢山の人が自分の後に立つて笑つてる様な気がするので、自暴やけに乱暴な字を、五六行息つかずに書いた。

『ぢや君、先刻さつきの話を一応戸川に打合せて来るから。』

と竹山に云つて、主筆は室を出て行つた。「先刻の話」と云ふ語ことばは熱して居る野村の頭にも明瞭はつきりと聞えた。支庁の戸川に打合せる話なら俺の事ぢやない。ハテそれでは何の事だらうと頭を挙げたが、何故か心が臆して竹山に聞きもしなかつた。

『君は大変顔色が悪いぢやないか。』と竹山が云つた。

『ハア、怎どうも頭が痛くツて。』と云つて、野村は筆を擱おいて立つ。

『そらア良くない。』

『書いてると頭がグルグルして来ましてねす。』

と暖炉の方へ歩き出した。大袈裟に顔を顰蹙しかめて右の手で後脳を抑へて見せた。

『風邪でも引いたんぢやないですか?』と鷹揚に云ひ乍ら、竹山は煙草に火をつける。

『風邪かも知れませんが、……先刻支庁から出て坂を下りる時も、妙に悪寒さむけがしましてねす。余程よつぽど温ぬくい日ですけれどもねす。』と云つたが、竹山の鼻から出て頤の辺まで下つて、更に頬を撫でて昇つて行く柔かな煙を見ると、モウ耐らなくなつて『何卒どうぞ一本。』と竹山の煙草を取つた。『咽喉も少し変だどもねす。』

『そらア良くない。大事にし給へな。何なら君、今日の材料たねは話して貰つて僕が書いても可いです。』

『ハア、些ちつと許りですから。』

込絡こんがらかつた足音が聞えて、上島と長野が連立つて入つて来た。上島は平日いつにない元気で、

『愈々漁業組合が出来る事になつて、明日有志者の協議会を開くさうですな。』

と云ひ乍ら、直ぐ墨を磨り出した。

『先刻さつき社長が見えて其麽そんな事を云つて居た。二号標題みだしで成るべく景気をつけて書いて呉れ給へ。尤も、今日は単に報道に止とどめて、此方こつちの意見は二三日待つて見て下さい。』

長野が牛の様な身体を殷懃いんぎん「殷懃いんぎん」はママに運んで机の前に出て、

『アノ商況で厶ございますな。』と揉手をする。

『ハ、野村君は今日頭痛がするさうだから僕が聞いて書きませう。』

『イヤソノ、今日は何にも材料がありませんので。』

『材料が無いツて、昨日と何も異動がないといふのかね?』

『え、異動がありませんでした。』

『越後米を積んで、雲海丸の入港はひつたのは、昨日きのふだつたか一昨日おととひだつたか、野村君?』と竹山が云つた。長野が慣れるうち、取つて来た材料を話して野村が商況――と云つても小さい町だから十行二十行位のものだが――を書く事にしてあつたのだ。

『ハア、昨日の朝ですから、原田の店あたりでは輸出の豆粕が大分手打になつたらうと思ひますがねす。』

『遂つひ聞きませんでしたな。』と云つて、長野はきまり悪げに先づ野村を見た目を竹山に移した。

『警察の方は?』

『違警罪が唯たつた一つ厶いました。今書いて差上げます。』と硯箱の蓋をとる。

野村は眉間に深い皺を寄せて、其癖美味うまさうに煙草を吸つて居たが、時々頭を振つて見るけれど、些ちつとも重くもなければ痛くもない。咽喉にも何の変りがなかつた。軈やがてまた机に就いて、成るべく厭に見える様に顔を顰蹙しかめたり後脳を抑へて見たりし乍ら、手帳を繰り初めたが、不図髯を捻つて居る戸川課長の顔を思出した。課長は今日俺の顔を見るとから笑つて居て、何かの話の序ついでにアノ事――三四日前に共立病院の看護婦に催眠術を施かけた事を揶揄からかつた。課長は無論唯若い看護婦に施かけたと云ふだけで揶揄つたので、実際又医者や薬剤師や他ほかの看護婦の居た前で施かけたのだから、何も訝をかしい事が無い。無いには無いが、若しアノ時アノ暗示を与へたら怎であつたらう、と思ふと、其梅野といふ看護婦がスツカリ眠つて了つて、横に臥たふれた時、白い職服きものの下から赤いものが喰はみ出して、其の下から円く肥つた真白い脛の出たのが眼に浮んだ。渠は擽くすぐられる様な気がして、俯うつむいた儘変な笑を浮べて居た。

上島は燐寸を擦つて煙草を吹かし出した。と、渠はまたもや喉から手が出る程喫みたくなつて、『君は何日いつでも煙草を持つてるな。』と云ひ乍ら一本取つた。何故今日はアノ娘が居なかつたらう、と考へる。それは洲崎町のトある角の、渠が何日でも寄る煙草屋の事で、モウ大分借が溜つてるから、すぐ顔を赤くする銀杏返いちやうがへしの娘が店に居れば格別、口喧くちやかましやの老母ばばあが居た日には怎どうしても貸して呉れぬ。今日何故娘が居なかつたらう? 俺が行くと娘は何日でも俯いて了ふが、恥かしいのだ、屹度恥かしいのだと思ふと、それにしても其娘が寄席で頻りに煎餅を喰べ乍ら落語を聞いて居た事を思出す。頭に被さつた鈍い圧迫が何時しか跡なく剥げて了つて、心は上の空、野村は眉間の皺を努めて深くし乍ら、それからそれと町の女の事を胸に数へて居た。

兎角して渠は漸々やうやう三十行許り書いた。大儀さうに立上つて、その原稿を主任の前に出す時、我乍ら余り汚く書いたと思つた。

『目が眩む様なもんですから滅茶々々で、……』

『否いや、有難う。』と竹山は例いつになく礼を云つたが、平日いつもの癖で直ぐには原稿に目もくれぬ。渠も亦平日いつもの癖でそれを一寸不快に思つたが、

『あとは別に書く様な事もありませんが。』と竹山の顔色を見る。

『怎どうも御苦労。何なら家うちへ帰つて一つ汗でも取つて見給へ。大事にせんと良くないから。』

『ハア、それぢや今日だけ御免蒙りますからねす。』と云つて、出来るだけ元気の無い様に皆に挨拶して、編輯局を出た。眼をギラギラ光らして舌を出し乍ら、垢づいた首巻を巻いて居たが、階段はしごを降りる時は再また顔を顰蹙しかめて、些ちよいと時計を見上げたなり、事務の人々には言葉もかけず戸外そとへ出て了つた。と、鈍い歩調あしどりで二三十歩、俛首うなだれて歩いて居たが、四角よつかどを右に曲つて、振顧ふりかへつてもモウ社が見えない所に来ると、渠は遽にはかに顔を上げて、融けかかつたザクザクの雪を蹴散し乍ら、勢ひよく足を急がせて、二町の先に二階の見ゆる共立病院へ………………。

解雇される心配も、血だらけな母の顔も、鈍い圧迫と共に消えて了つて、勝誇つた様な腥なまぐさい笑が其顔に漲つて居た。

四年以前、野村が初めて竹山を知つたのは、まだ東京に居た時分の事で、其頃渠は駿河台のトある竹藪の崖に臨んだ、可成な下宿屋の離室はなれに居た。

今でも記憶おぼえて居る人があるか知れぬが、其頃竹山は郷里に居ながら、毎月二種か三種の東京の雑誌に詩を出して居て、若々しい感情を拘束もなく華やかな語に聯つらねた其詩――云ふ迄もなく、稚気と模倣に富んでは居たが、当時の詩壇ではそれでも人の目を引いて、同じ道の人の間には、此年少詩人の前途に大きな星が光つてる様に思ふ人もあつた。竹山自身も亦、押へきれぬ若い憧憬あこがれに胸を唆そそのかされて、十九の秋に東京へ出た。渠が初めて選んだ宿は、かの竹藪の崖に臨んだ駿河台の下宿であつた。

某新聞の文界片信は、詩人竹山静雨が上京して駿河台に居を卜したが近々其第一詩集を編輯するさうだと報じた。

此新聞が縁になつて、野村は或日同県出の竹山が自分と同じ宿に居る事を知つた。で、渠は早速名刺を女中に持たしてやつて、竹山に交際を求めた。最初の会見は、縁側近く四つ五つ実を持つた橙だいだいの樹のある、竹山の室で遂げられた。

野村は或学校で支那語を修めたと云ふ事であつた。其頃も神田のさる私塾で支那語の教師をして居て、よく、皺しわくちやになつたフロツクコートを、朝から晩まで着て居た。外出でかける時は屹度中山高ちゆうやまたかを冠つて、象牙の犬の頭のついた洋杖ステツキを、大輪に振つて歩くのが癖。

其頃、一体が不気味な顔であるけれども、まだ前科者に見せる程でもなく、ギラギラする眼にも若い光が残つて居て、言語ことばも今の様にぞんざいでなく、国訛りの「ねす」を語尾につける事も無かつた。

半月計りして其下宿屋は潰れた。公然おもてむきの営業は罷やめて、牛込は神楽坂裏の、或る閑静な所に移つて素人下宿をやるといふ事になつて、五十人近い止宿人おきやくの中、願はれて、又願つて、一緒に移つたのが八人あつた。野村も竹山もその中に居た。

野村は其頃頻りに催眠術に熱中して居て、何とか云ふ有名な術者に二ヶ月もついて習つたとさへ云つて居た。竹山も時々其不思議な実験を見せられた。或時は其為に野村に対して一種の恐怖を抱いた事もあつた。

渠は又、或教会に籍を置く基督信者クリスチヤンで、新教を奉じて居ながらも、時々は旧教の方が詩的で可いと云つて居た。竹山は、無論渠を真摯な信仰のある人とも思はなかつたが、それでも机の上には常に讃美歌の本が載つて居て、(歌ふのは一度も聞かなかつたが)、皺くちやのフロツクコートには、小形の聖書バイブルが何日でも衣嚢ポケツトに入れてあつた。同じ教会の信者だといふハイカラな女学生が四五人、時々野村を訪ねて来た。其中の一人、脊の低い、鼻まで覆被おつかぶさる程庇髪ひさしがみをつき出したのが、或時朝早く野村の室から出て便所はばかりへ行つた。「信者たる所以ゆゑんは彼処だ!」と竹山は考へた事があつた。

渠は又、時々短かい七五調の詩を作つて竹山に見せた。讃美歌まがひの、些ちつとも新らしい所のないものであつたが、それでも時として、一句二句、錐の様に胸を刺す所があつた。韻文には適むかぬから小説を書いて見ようと思ふと云ふのが渠かれの癖で、或時其書かうとして居る小説の結構を竹山に話した事があつた。題も梗概も忘れて了つたが、肉と霊と、実際と理想と、其四辻に立つて居る男だから、主人公の名は辻某なにがしとすると云つた事だけ竹山は記憶して居た。無論此小説は、渠の胸の中で書かれて、胸の中で出版されて、胸の中で非常な好評を博して、遂々たうたう胸の中で忘られたのだ。一体が、机の前に坐る事のない男であつた。

小説に書かうとした許りでなく、其詩に好んで題材とし、又其真摯なる時によく話題に選ぶのは、常に「肉と霊の争鬩あらそひ」と云ふ事であつた。肉と霊! 渠は何日でも次の様な事を云つて居た。曰く、「最初の二人が罪を得て楽園を追放やらはれた為に、人間が苦痛くるしみの郷さと、涙の谷に住むと云ふのは可いが、そんなら何故神は、人間をして更に幾多の罪悪を犯さしめる機関、即ち肉と云ふものを人間に与へたのだらう?」又或時渠は、不意に竹山の室の障子を開けて、恐ろしいものに襲はれた様に、凄すさまじい位眼を光らして、顔一体を波立つ程苛々いらいらさせ乍ら、「肉の叫び! 肉の叫び!」と云つて入つて来た事があつた。其頃の渠の顔は、今の様に四六時中しよつちう痙攣ひきつけを起してる事は稀であつた。

渠は大抵の時は煙草代にも窮してる様であつた。が、時として非常な贅沢をした。日曜に教会へ行くと云つて出て行つて、夜になるとグデングデンに酔払つて帰る事もあつた。

竹山は毎日の様に野村と顔を合せて居たに不拘、怎したものか余り親しくはなかつた。却つて、駿河台では野村と同じ室に居て、牛込へは時々遊びに来た渠の従弟といふ青年に心を許して居たが、其青年は、頗る率直な、真摯な、冐険心に富んで、何日でもニコニコ笑つてる男であつたけれど、談一度ひとたび野村の事に移ると、急に顔を曇らせて、「従兄には弱つて了ひます。」と云つて居た。

渠は又時々、郷里くににある自分の財産を親類が怎どうとかしたと云つて、其訴訟の手続を同宿の法学生に訊いて居た事があつた。それから、或時宿の女中の十二位なのに催眠術を施かけて、自分の室に閉鎖とぢこめて、半時間許りも何か小声で頻しきりに訊ねて居た事があつた。隣室の人の洩れ聞いたんでは、何でも其財産問題に関した事であつたさうな。渠は平生、催眠術によつて過去の事は勿論、未来の事も予言させる事が出来ると云つて居た。

竹山の親しく見た野村良吉は、大略あらまし前述まへの様なものであつたが、渠は同宿の人の間に頗る不信用であつた。野村は女学生を蘯たらして弄んで、おまけに金を捲上げて居るとか、牧師の細君と怪しい関係を結んでるさうだとか、好からぬ噂のみ多い中に、お定と云つて豊橋在から来た、些と美しい女中が時々渠の室へやに泊るという事と、宿の主婦おかみ――三十二三で、細面の、眼の表情しほの満干さしひきの烈しい、甚麽どんな急がしい日でも髪をテカテカさして居る主婦と、余程前から通じて居るといふ事は、人々の間に殆んど確信されて居た。それから、其お定といふのが、或朝竹山の室の掃除に来て居て、二つ三つの戯談を云つてから、恁麽こんな話をした事があつた。

『野村さんて、余程面白い方ねえ。』

『怎どうして?』

『怎してツて、オホヽヽヽ。』

『可笑しい事があるもんか?』

『あのね、……駿河台に居る頃は随分だつたわ。』

『何が?』

『何がツて、時々淫売婦なんか伴れ込んで泊めたのよ。』

『其麽そんな事をしたのか、野村君は?』

『黙つてらつしやいよ、貴方。』と云つたが、『だけど、云つちや悪いわね。』

『マア云つて見るさ。口出しをして止すツて事があるもんか。』

『何日だつたか、あの方が九時頃に酔払つて帰つたのよ、お竹さんて人伴れて。え、其人は其時初めてよ。それも可いけど、突然いきなり、一緒に居た政男さん(従弟)に怒鳴りつけるんですもの、政男さんだつて怒りますわねえ。恰度空いた室があつたから、其晩だけ政男さんは其方へお寝やすみになつたんですけど、朝になつたら面白いのよ。』

『馬鹿な、怎したい?』

『野村さんがお金を出したら、要いらないつて云ふんですつて、其お竹さんと云ふ人が。そしたらね、それぢや再また来いツて其儘帰したんですとさ。』

『可笑しくもないぢやないか。』

『マお聞きなさいよ。そしたら其晩再また来ましたの。野村さんは洋服なんか着込んでらつしやるから、見込をつけたらしいのよ。私其時取次に出たから明細すつかり見てやつたんですが、これ(と頭に手をやつて、)よりもモツト前髪を大きく取つた銀杏返しに結つて、衣服きものは洗晒しだつたけど、可愛い顔してたのよ。尤も少し青かつたけど。』

『酷い奴だ。また泊めたのか?』

『黙つてらつしやいよ、貴方。そしたら野村さんが、鎌倉へ行つたから二三日帰らないツて云へと云ふんでせう。私可笑しくなつたから黙つて上げてやらうかと思つたんですけどね。呍咐いひつかつた通り云ふと、穏おとなしく帰つたのよ。それからお主婦さんと私と二人で散々揄揶からかつてやつたら、マア野村さん酷い事云つたの。』と竹山の顔を見たが、『あの女は息が臭いから駄目なんですツて。』と云ふなり、畳に突伏して転げ歩いて笑つた。

牛込に移つてから二月許り後の事、恰度師走上旬であつたが、野村は小石川の何とか云ふ町の坂の下の家とかを、月十五円の家賃で借りて、「東京心理療院」と云ふ看板を出した。そして催眠術療法の効能を述立のべたてた印刷物すりものを二千枚とか市中に撒いたさうな。其後二度許り竹山を訪ねて来たが、一度はモウ節季近い凩こがらしの吹き荒れて、灰色の雲が低く軒を掠めて飛ぶ不快な日で、野村は「患者が一人も来ない。」と云つて悄気しよげ返つて居た。其日は服装なりも見すぼらしかつたし、云ふ事も「清い」とか「美しい」とか云ふ詞ことば沢山の、神経質な厭世詩人みたいな事許りであつたが、珍らしくも小半日落着いて話した末、一緒に夕飯を食つて、帰りに些ちと許りの借りた金の申訳をして行つた。一番最後に来たのは、年が新らしくなつた四日目か五日目の事で、呂律ろれつの廻らぬ程酔つて居たが、本郷に居ると許りで、詳しく住所を云はなかつた。帰りは雨が降り出したので竹山の傘を借りて行つた限きり、それなりに二人は四年の間殆んど思出す事もなかつたのだ。が、唯一度、それから二月か三月以後のちの事だが、或日巡査が来て野村の事を詳しく調べて行つたと、下宿の主婦が話して居た事があつた。

其四年間の渠の閲歴は知る由もない。渠自身も常に其麽話をする事を避けて居たが、それでもチヨイチヨイ口に出るもので、四年前の渠が知つてなかつた筈の土地の事が、何かの機会に話頭わたうに上る。静岡にも居た事があるらしく、雨の糸の木隠こがくれに白い日に金閣寺を見たといふから、京都にも行つたのであらう。石井孤児院長に逢つた事があると云つて非常に敬服して居たから、岡山へも行つたらしい。取わけ竹山に想像を費さしたのは、横浜の桟橋に毎日行つて居た事があるといふ事と、其処の海員周旋屋の内幕に通暁して居た事であつた。鹿角かづの郡の鉱山は尾去沢も小坂もよく知つて居た。釧路へは船で来たんださうで、札幌小樽の事は知らなかつたが、此処で一月半許りも、真砂町の或蕎麦屋の出前持をして居たと云ふ事は、町で大抵の人が知つて居た。無論これは方々に職業くちを求めて求め兼ねた末の事であるが、或日曜日の事、不図思付いて木下主筆を其自宅に訪問した。初めは人相の悪い奴だと思つたが、黒木綿の大分汚なくなつた袴を穿いて居たのが、蕎麦屋の出前持をする男には珍らしいと云ふので、褊狭者ひねくれものの主筆が買つてやつたのだと云ふ。

主筆は時々、「野村君は支那語を知つてる癖に何故北海道あたりへ来たんだ?」と云ふが、其度渠は「支那人は臭くて可けません。」と云つた様な答をして居た。

北国の二月は暮れるに早い。四時半にはモウ共立病院の室々へやへやに洋燈ランプの光が華やぎ出して、上屐うはぐつの辷る程拭込んだ廊下には食事の報知しらせの拍子木が軽い反響を起して響き渡つた。

と、右側の或室から、さらでだに前屈こごみの身体を一層屈まして、垢着いた首巻に頤を埋めた野村が飛び出して来た。広い玄関には洋燈の光のみ眩しく照つて、人影も無い。渠は自暴糞やけくそに足を下駄に突懸けたが、下駄は翻筋斗もんどりを打つて三尺許り彼方むかうに転んだ。

以前まへの室から、また二人廊下に現れた。洋服を着た男は悠然ゆつたりと彼方へ歩いて行つたが、モ一人は白い兎の跳る様に駆けて来ながら、

『野村さん〱、先刻お約束したの忘れないでよ。』と甲高い声で云つて玄関まで来たが、渠の顔を仰ぐ様にして笑ひ乍ら、『今度欺したら承知しませんよ。真実ほんとですよ、ねえ野村さん。』と念を推した。これは此病院で評判の梅野といふ看護婦であつた。

渠かれは唯唸る様な声を出しただけで、チラと女の顔を見たつきり、凄じい勢ひで戸外おもてへ出て了つた。落着かない眼が一層恐ろしくギラギラして、赤黒く脂ぎつた顔が例の烈しい痙攣ひきつけを起して居る。少なからず酔つて居るので、吐く呼気いきは酒臭い。

戸外はモウ人顔も定かならぬ程暗くなつて居た。ザクザクと融けた雪が上面うはつつらだけ凍りかかつて、夥おびただしく歩き悪い街路を、野村は寒さも知らぬ如く、自暴やけに昂奮たかぶつた調子で歩き出した。

「何を約束したつたらう?」と考へる。何かしら持つて来て貸すと云つた! 本? 否いや俺は本など一冊も持つて居ない。だが、確かに本の事だつた筈だ。何の本? 何の本だつて俺は持つて居ない。馬鹿な、マア怎どうでも可いさと口に出して呟いたが、何故那麽あんな事を云つたらうと再また考へる。

渠は二時間の間此病院で過した。煙草を喫みたくなつた時、酒を飲みたくなつた時、若い女の華やいだ声を聞きたくなつた時、渠は何日でも此病院へ行く。調剤室にも、医員の室にも、煙草が常に卓子ていぶるの上に備へてある。渠が、横山――左の蟀谷こめかみの上に二銭銅貨位な禿があつて、好んで新体詩の話などをする、二十五六のハイカラな調剤助手に強請ねだつて、赤酒せきしゆの一杯二杯を美味さうに飲んで居ると、屹度誰か医者が来て、私室へ伴れて行つて酒を出す。七人の看護婦の中、青ざめた看護婦長一人を除いては、皆、美しくないまでも若かつた。若くないまでも、少くとも若々しい態度やうすをして居た。人間の手や足を切断したり、脇腹を切開したりするのを、平気で手伝つて二の腕まで血だらけにして居る輩やからであるから、何れも皆男といふ者を怖れて居ない。怖れて居ない許りか、好んで敗けず劣らず無駄口を叩く。中にも梅野といふのは、一番美しくて、一番お転婆で、そして一番ハイカラで、実際は二十二だといふけれど、打見には十八位にしか見えなかつた。野村は一日として此三つの慾望に餓ゑて居ない日は無いので、一日として此病院を訪れぬ日はなかつた。

渠が先づ入るのは、玄関の直ぐ右の明るい調剤室であつた。此室に居る時は、平生いつもと打つて変つて渠は常に元気づいて居る。新聞の材料は総て自分が供給する様な話をする。如何なる事件にしろ、記事になるとならぬは唯自分一箇の手加減である様な話をする。同僚の噂でも出ると、フフンと云つた調子で取合はぬ。渠は今日また頻しきりに其麽そんな話をして居たが、不図小宮洋服店の事を思出した。が、渠は怎したものか、それを胸の中で圧潰おしつぶして了つて考へぬ様にした。横山助手は、まだ半分しか出来ぬと云ふ『野菫』と題した新体詩を出して見せた。渠はズツとそれに目を通して、唯「成程」と云つたが、今自分が或非常な長篇の詩を書き初めて居ると云ふ事を話し出した。そして、それが少くとも六ヶ月位かかる見込だが、首尾克く脱稿したら是非東京へ行つて出版する。僕の運命の試金石はそれです、と熱心に語つた。梅野は無論其その傍かたはらに居た。彼女は調剤の方に廻されて居るので。

それから渠は小野山といふ医者の室に伴れて行かれて、正宗とビールを出された。医者は日本酒を飲まぬといふので、正宗の一本は殆んど野村一人で空にした。梅野とモ一人の看護婦が来て、林檎を剥いたり、鰑するめを焼いたりして呉れたが、小野山が院長から呼びに来て出て行くと、モ一人の方の看護婦も立つた。渠は遽かに膝を立直して腕組をしたが、懵乎ぼうつとした頭脳あたまを何かしら頻りに突つく。暫し無言で居た梅野が、「お酌しませうか。」と云つて白い手を動かした時、野村の頭脳に火の様な風が起つた。「オヤ、モウ空からになつててよ。」と女は瓶を倒した。野村は酔つて居たのである。

少し話したい事があるから、と渠が云つた時、女は「さうですか。」と平気な態度やうすで立つた。二人は人の居ない診察所に入つた。

暖炉は冷くなつて居た。うそ寒い冬の黄昏たそがれが白い窓掛カーテンの外に迫つて居て、モウ薄暗くなりかけた室の中に、種々いろいろな器械の金具が佗し気に光つて居る。人気なき広間に籠る薬の香にほひに、梅野は先づ身慄ひを感じた。

『梅野さん、僕を、酔つてると思ひますか、酔はないで居ると思ひますか?』と云つて、野村は矢庭に女の腕を握つた。其声は、恰も地震の間際に聞えるゴウと云ふ地鳴に似て、低い、沢つやのない声ではあつたが、恐ろしい力が籠つて居た。女は眼を円まるくして渠を仰いだが、何とも云はぬ。

『僕の胸の中を察して下さい。』と、さも情に迫つた様な声を出して、堅く握つた女の腕を力委せに引寄せたと思ふと、酒臭い息が女の顔に乱れて、一方の手が肩に掛る。梅野は敏捷すばしこく其手を擦り抜けて、卓子テイブルの彼方へ逃げた。

二人は小さい卓子を相隔てて向ひ合つた。渠は、右から、左から、再び女を捉へようと焦慮あせるけれど、女は其度男と反対の方へ動く。妙に落着払つた其顔が、着て居る職服きものと見分がつかぬ程真白に見えて、明確さだかならぬ顔立の中に、瞬きもせぬ一双の眼だけが遠い空の星の様。其顔と柔かな肩の辷りが廓然くつきりと白い輪廓を作つて、仄暗い薬の香の中に浮んで、右に左に動くのは、女でもない、人でもない、影でもなければ、幻でもない。若樹の桜が時ならぬ雪の衣を着て、雪の重みに堪へかねて、ユラリユラリと揺れるのだ、ユラリユラリと動くのだ。が、野村の眼からは、唯モウ抱けば温かな柔かな、梅野でも誰でもない、推せば火が出る様な女の肉体だけ見える。

何分経つたか記憶が無い。その間に渠の頭脳は、表面うはつつらだけ益々苛立つて来て、底の底の方が段々空虚からつぽになつて来る様な気分になつた。それでも一生懸命女を捉へようと悶躁もがいて居たが、身体はブルブル顫へて居て、左の手をかけた卓子の上の、硝子瓶が二つ三つ、相触れてカチカチと音を立てて居た。

ガタリと扉が開いて、小野山が顔を出した。

『此処でしたか、何処へ行つたと思つたら。』

と、極りが悪さうにした顔に一寸眼を光らして、ヅカヅカ入つて来た。

『怎どうしたんです。』と梅野へ。

『アッハハハ。』と、女は底抜な高い声を出して笑つたが、モウ安心と云ふ様に溜息を一つ吐いて、『野村さんが面白い事仰しやるもんですからね、私逃げて来たの。』

『何です、野村さん?』医者は妙に笑つて野村を見た。野村は、気が抜けた様に、石像の如く立つて、目には女を見た儘、身動みじろぎもせぬ。

『また催眠術をかけて呉れるからツて仰しやるの。』と女は引取つた。『そしたら私の行きたい所は何処へでも伴れてつて見せるし、逢ひたい人には誰にでも逢はせて下さるんですツて。だけど私、過日こなひだでモウ皆に笑はれて、懲々こりごりしてるんですもの。ぢや施かけて下さいつて、欺して逃げて来たもんだから、野村さんに追駆おつかけられたのよ。』

『然うでしたか。』

野村は、発作的に右の手を一寸前に出したが、

『アハハハ。ぢや此次にしませう、此次に。此次には屹度ですよ、屹度施かかけまよ。』と変に剛こはばつた声で云つて、物凄く「アツハハ。」と笑つたが、何時持つて来たとも知れぬ卓子の上の首巻と帽子を取つて、首に捲くが早いか飛び出して来たのであつた。

脈といふ脈を、アルコールが駆け廻つて、血の循環めぐりが沸たぎり立つ程早い。さらでだに苛立勝いらだちがちの心が、タスカローラの底の泥まで濁らせる様な大時化おほしけを喰つて、唯モウ無暗に神経が昂奮たかぶつて居る。野村は頤を深く首巻に埋めて、何処といふ目的もなく街から街へ廻り歩いて居た。

女は渠の意に随はなかつた! 然し乍ら渠は、此侮辱を左程に憤つては居なんだ。医者の小野山! 彼奴あいつが悪い、失敬だ、人を馬鹿にしてる。何故アノ時顔を出しやがつたか。馬鹿な。俺に酒を飲ました。酒を飲ますのが何だ。失敬だ、不埓だ。用も無いのに俺を探す。黙つて自分の室に居れば可いぢやないか。黙つて看護婦長と乳繰合つて居れば可いぢやないか。看護婦? イヤ不図したら、アノ、モ一人の奴が小野山に知らしたのぢやないか、と疑つたが、看護婦は矢張女で、小野山は男であつた。渠は如何なる時でも女を自分の味方と思つてる。如何なる女でも、時と処を得さへすれば、自分に抱かれる事を拒まぬものと思つて居る。且かつ夫それ、よしや知らしたのは看護婦であるにしても、アノ時アノ室に突然入つて来て、自分の計画を全然すつかり打壊したのは医者の小野山に違ひない。小野山が不埓だ、小野山が失敬だ。彼奴は俺を馬鹿にしてる。…………

知らぬ獣に邂逅でつくはした山羊の様な眼をして、女は卓子の彼方むかうに立つた! 然しアノ眼に、俺を厭がる色が些ちつとも見えなかつた。然うだ、吃驚びつくりしたのだ。唯吃驚したのだ。尤も俺も悪かつた。モ少し何とか優しい事を云つてからでなくちやならん筈だ。余り性急せつかちにやつたから悪い。それに今夜は俺が酔つて居た。酔つた上の悪戯いたづらと許り思つたのかも知れぬ。何にしても此次だ、今夜は成功しかねたが此次、此次、…………

だが、モウ五分間アノ儘で居たら? 然う〱、俺が出て来る時何とか云つた。ハテ何だつたらう? 呍うん「約束を忘れるな。」か! 「約束」は適切だ。女といふものは一体、男に憎まれる事を嫌ひなものだ。況んや自分の嫌つても居ない男にをやだ。殊に俺は新聞記者だ。新聞記者に憎まれたら最後ぢやないか。幸ひに竹山の奴まだ土地の事情に真暗だ。俺が云ひさへすれや何でも書く。彼奴に書かしたら又素的に捏ね廻して書くからエライ事になる。イヤ待て、待て、若しも、竹山がアノ病院に出入する様になるとしたら、然うだ、矢張一番先に梅野に眼をつけるに違ひない。竹山の下宿は病院の直ぐ前だ。待て〱、此次は明日の晩にしよう。善は急げだ。

若し小野山さへ来なかつたら、と考へが再また同じ所に還る。アノ卓子が無かつたら怎どうだつたらう? 否、アノ卓子を俺が別の場所へ取除けちやつたら怎だつたらう? 女は二三歩後方にたじろぐ。そして、軽く尻餅を突いて、そして、そして、「許して下さい。」と囁やいて、暗やみの中から真白な手を延べる。……噫、彼奴あいつ、彼奴、小野山の奴、アノ畜生が来た許りに……。

渠は恁麽こんな事を止度もなく滅茶苦茶に考へ乍ら、目的あてもなく唯町中を彷徨うろつき廻つて居た。何処から怎どう歩いたか自身にも解らぬ。洲崎町の角の煙草屋の前には二度出た。二度共硝子戸越に中を覗いて見たが、二度共例の恥かしがる娘が店に坐つてなかつた。暗い街から明るい街、明るい街から暗い街、唯モウ無暗に駆けずり廻つて、同じ坂を何度上つたか知れぬ。同じ角を何度曲つたか知れぬ。

が、渠は矢張り明るい街よりも、暗い街の方を多く選んで歩いて居た。そして、明るい街を歩く時は、頭脳あたまが紛糾こんがらかつて四辺あたりを甚麽どんな人が行かうと気にも止めなかつたに不拘、時として右側に逸それ、時として左側に寄つて歩いて居た。一町が間に一軒か二軒、煙草屋、酒類屋さかや、鑵詰屋、さては紙屋、呉服屋、蕎麦屋、菓子屋に至る迄、渠が其馬鹿に立派な名刺を利用して借金かりを拵へて置かぬ家は無い。必要があればドン〱借りる。借りるけれども初めから返す予算よさんがあつて借りるのでないから、流石に渠は其その家うちの人に見られるのを厭であつた。今夜に限らず、借金のある店の前を通る時は、成るべく反対の側の軒下を歩く。

幸ひ、誰にも見付かつて催促を受ける様な事はなかつた。が唯一人、浦見町の暗闇くらがりを歩いてる時に、

『オヤ野村さんぢやなくつて? マア何方へ行いらつしやるの?』と女に呼掛けられた。

渠は唸る様な声を出して、ズキリと立止つて、胡散臭うさんくさく対手を見たが、それは渠がよく遊びに行く郵便局の小役人の若い細君であつた。

『貴女あなたでしたか。』

と云つて其儘行過ぎようとしたが、女がまだ歩き出さずに見送つてる様だつたので、引返して行つて、鼻と鼻と擦合すれあひさうに近く立つた。

『貴女お一人で何方へ?』

『姉の所へ行つて来ましたの。マア貴方は酔つていらつしやるわね。』

『酔つて? 然うです、然うです、少し飲やつて来ました。だが女一人で此路は危険けんのんですぜ。』

『慣れてますもの。』

『慣れて居ても危険は矢張危険ぢやないですか。危険! 若しかすると恁うしてる所へ石が飛んで来るかも知れません、石が。』と四辺を見廻したが、一町程先方むかうから提燈が一つ来るので、渠は一二歩後退あとずさつた。『僕だつて一人歩いてると、チト危険な事があります。』

『マア。ですけど今夜は、宅が風邪の気味で寝やすんでるもんですから、厭だつたけど一人行つて来ましたの。』

『然うですか。』と云つたが、フン、宅とは何だい? 俺の前で嬶かかあぶらなくたつて、貴様みたいな者に手をつけるもんか。と云ふ気がして、ツイと女を離れたなり、スタ〱駆け出した。腥さい笑に眼は暗やみながらギラギラ光つて居た。

恁麽こんな風に、彼は一時間半か二時間の間、盲目めくら滅法駆けずり廻つて居たが、其間に酔が全然醒めて了つて、緩んだと云つても零度近い夜風の寒さが、犇々ひしひしと身に沁みる。頤おとがひを埋めた首巻は、夜目にも白い呼気いきを吸つて、雪の降つた様に凍つて居た。雲一つない鋼鉄色はがねいろの空には、鎗の穂よりも鋭い星が無数に燦きらめいて、降つて来る光が、氷り果てた雪路の処々を、鏡の欠片かけらを散らかした様に照して居た。

三度目か四度目に市庁坂を下りる時、渠は辷るまいと大事を取つて運んで居た足を不図留めて、広々とした港内みなとの夜色を見渡した。冷い風が喉から胸に吹き込んで、紛糾ごちやごちやした頭脳あたまの熱さまでスウと消える様な心地がする。星明りに薄うつすりと浮んだ阿寒山あかんざんの雪が、塵も動かぬ冬の夜の空を北に限つて、川向かはむかひの一区域ひとしきりに燈光ともしびを群がらせた停車場から、鋭い汽笛が反響も返さず暗を劈つんざいた。港の中には汽船ふねが二艘にはい、四つ五つの火影ほかげがキラリ〱と水に散る。何処ともない波の音が、絶間たえまもない単調の波動を伝へて、働きの鈍り出した渠の頭に聞えて来た。

と、渠は烈しい身顫ひをして、再またしても身を屈こごませ乍ら、大事々々に足をつり出したが、遽かに腹が減つて来て、足の力もたど〱しい。喉からは変な水が湧いて来る。二時間も前から鳩尾みぞおちの所に重ねて、懐に入れておいた手で、襯衣の上からズウと下腹まで摩さすつて見たが、米一粒入つて居ぬ程凹んで居る。渠はモウ一刻も耐らぬ程食慾を催して来た。それも其筈、今朝九時頃に朝飯を食つてから、夕方に小野山の室で酒を飲んで鯣の焙あぶつたのを舐しやぶつた限きりなのだ。

浅間しい事ではあるが、然しこれは渠にとつて今日に限つた事でなかつた。渠は米町裏のトある寺の前の素人下宿に宿つて居るけれど、モウ二月越ふたつきごし下宿料を一文も入れてないので、五分と顔を見てさへ居れば、直ぐそれを云ひ出す宿の主婦おかみの面つらが厭で、起きて朝飯を食ふと飛び出した儘、昼飯は無論食はず、社から退けても宿へ帰らずに、夕飯にあり付きさうな家を訪ね廻る。でなければ、例の新聞記者と肩書を入れた名刺を振廻して、断られるまでは蕎麦屋牛鍋屋の借食かりぐひをする。それも近頃では殆んど八方塞がりになつたので、少しの機会も逸のがさずに金を得る事ばかり考へて居るが、若し怎どうしても夕飯に有付けぬとなると、渠は何処かの家に坐り込んで、宿の主婦の寝て了ふ十時十一時まで、用もない喫茶談ちやのみばなしを人の迷惑とも思はぬ。十五円の俸給は何処に怎どう使つて了ふのか、時として二円五十銭といふ畳付たたみつきの下駄を穿いたり、馬鹿に派手な羽織の紐を買つたりするのは人の目にも見えるけれど、残余あとが怎なるかは、恐らく渠自身でも知つて居まい。

餓ゑた時程人の智かしこくなる時はない。渠は力の抜けた足を急がせて、支庁坂を下おりきつたが、左に曲ると両側の軒燈ともしび明るい真砂町の通衢とほり。二町許りで、トある角に立つた新築の旅館の前まで来ると、渠は遽かに足を緩めて、十五六間が程を二三度行きつ戻りつして居たが、先方むかうから来た外套の頭巾目深の男を遣過やりすごすと、不図後前あとさきを見廻して、ツイと許り其旅館の隣家となりの軒下に進んだ。

硝子戸が六枚、其内側に吊した白木綿の垂帛カーテンに洋燈の光が映えて、廂の上の大きなペンキ塗の看板には、「小宮洋服店」と書いてあつた。

渠は突然いきなり其硝子戸を開けて、腰を屈めて白木綿を潜つたが、左の肩を上げた其影法師が、二分間許りも明瞭くつきりと垂帛カーテンに映つて居た。

此家は、三日程前に、職人の一人が病死して葬式を出した家であつた。

三十分許り経つと、同じ影法師が又もや白木綿に映つて、「態々わざわざお出下すつたのに何もお構ひ申しませんで。」といふ女の声と共に、野村は戸外へ出て来た。

十間も行くと、旅館の角に立止つて後を振顧ふりかへつたが、誰も出て見送つてる者がない。と渠は徐々そろそろ歩き出しながら、袂を探つて何やら小さい紙包を取出して、旅館の窓から漏れる火光あかりに披ひらいて見たが、

『何だ、唯たつた一円五十銭か!』

と口に出して呟いた。下宿料だけでも二月分で二十二円! 少くとも五円は出すだらうと思つたのに、と聞えぬ様にブツ〱云つて、チヨツと舌打をしたが、気が付いた様に急がしく周囲あたりを見廻した。それでも渠は珍らしさうに五十銭銀貨三枚を握つて見て、包紙は一応反覆ひつくらかへして何か書いてあるかと調べた限きり、皺くちやにして捨てゝ了つたが、又袂を探してヘナ〱になつた赤いレース糸で編んだ空財布を出して、それに銀貨を入れて、再び袂に納しまつた。

さてこれから怎したもんだらう? と考へたが、二三軒向うに煙草屋があるのに目を付けて、不取敢とりあへず行つて、「敷島」と「朝日」を一つ宛づつ買つて、一本点つけて出た。モ少し行くと右側の狭い小路の奥に蕎麦屋があるので、一旦其方へ足を向けたが、「イヤ、先づ竹山へ行つて話して置かう。」と考へ付いて、引返して旅館の角を曲つたが、一町半許りで四角になつて居て、左の角が例の共立病院、それについて曲ると、病院の横と向合むかひあつて竹山の下宿がある。

竹山の室は街路みちに臨んだ二階の八畳間で、自費で据附けたと云ふ暖炉が熾んに燃えて居た。身の廻りには種々いろいろの雑誌やら、夕方に着く五日前の東京新聞やら手紙やらが散らかつて居て、竹山は読みさしの厚い本に何かしら細かく赤インキで註を入れて居たが、渠は入ると直ぐ、ボーツと顔を打つ暖気あたたかさに又候またぞろ思出した様に空腹を感じた。来客の後と見えて、支那焼の大きな菓子鉢に、マスマローと何やらが堆うずたかく盛つて、煙草盆の側わきにあるのが目に附く。明るい洋燈の光りと烈しい気象の輝く竹山の眼とが、何といふ事もなしに渠の心を狼狽うろたへさせた。

『頭痛が癒りましたか?』と竹山に云はれた時、その事はモウ全然忘れて居たので、少なからず周章どぎまぎしたが、それでも流石、

『ハア、頭ですか? イヤ今日は怎も失礼しました。あれから向うの共立病院へ来て一寸診て貰ひましたがねす。ナニ何でもない、酒でも飲めば癒るさツて云ふもんですから、宿へ帰つて今迄寝て来ました。主婦おかみの奴が玉子酒を拵こしらへてくれたもんですから、それ飲んで寝たら少し汗が出ましたねす。まだ底の方が些ちよつと痛みますどもねす。』と云つて、「朝日」を取出した。『少し聞込んだ事があつたんで、今廻つて探つて見ましたが、ナーニ嘘でしたねす。』

『然うかえ、でもマア悠乎ゆつくり寝やすんでれば可かつたのに、御苦労でしたな。』

『小宮といふ洋服屋がありますねす。』と云つて、野村は鋭どい眼でチラリと竹山の顔を見たが、『彼家あそこで去年の暮に東京から呼んだ職人が、肋膜に罹かかつて遂に此間死にましたがねす。それを其、小宮の嬶が、病気してゝ稼がないので、ウント虐待したッて噂があつたんですから、行つて見ましたがねす。』

『成程。』と云つたが、竹山は平日いつもの様に念を入れて聞く風でもなかつた。

『ナーニ、恰度アノ隣の理髪店とこやの嬶が、小宮の嬶と仲が悪いので、其麽事を云ひ触らしたに過ぎなかつたですよ。』と云つて、軽く「ハッハハ。」と笑つたが、其実渠は其噂を材料たねに、幸ひ小宮の家は一寸有福でもあり「少くも五円」には仕ようと思つて、昨日も一度押かけて行つたが、亭主が留守といふので駄目、先刻さつき再また行つて、矢張亭主は居ないと云つたが、嬶の奴頻りに其を弁解してから、何れ又夫やどがお目にかゝつて詳しく申上げるでせうけれどもと云つて、一円五十銭の紙包を出したのだ。

これと云ふ話も出なかつたが、渠は頻りに「ねす」を振廻はして居た。一体渠は同じ岩手県でも南の方の一関近い生れで、竹山は盛岡よりも北の方に育つたから、南部藩と仙台藩の区別ちがひが言葉の調子にも明白あきらかで、少しも似通つた所がないけれども、同県人といふ感じが渠をしてよく国訛りを出させる。それに又渠は、其国訛りを出すと妙に言葉が穏おとなしく聞える様な気がするので、目上の者の前へ出ると殊更「ねす」を沢山使ふ癖があつた。

程なくして渠は辞して立つたが、竹山は別に見送りに立つでもなかつた。で、自分一人室の中央に立上ると、妙に頭から足まで竹山の鋭い眼に度はかられる様な心地がして、畳触りの悪い自分の足袋の、汚なくなつて穴の明いてるのが心恥うらはづかしく思はれた。

戸外そとへ出ると、一寸病院の前で足を緩めたが、真砂町へ来るや否や、早速新しい足袋を買つて、狭い小路の奥の蕎麦屋へ上つた。

二階の四畳半許りの薄汚い室、座蒲団を持つて入つて来たのが、女中でなくて、印半纏しるしばんてんを着た若い男だつたので、渠は聞えぬ程に舌打をしたが、「天麩羅二つ。」と吩附いひつけてやつてドシリと胡坐をかくと、不取敢急がしく足袋を穿き代へて、古いのを床の間の隅ツこの、燈光あかりの届かぬ暗い所へ投出した。「敷島」を出して成るべく悠然ゆつたりと喫ひ出したが、一分経つても、二分過ぎても、まだお誂へが来ない。と、渠は立つて行つて其古足袋を、壁の下の隅に、大きな鼠穴が明いてる所へヘシ込んで了つた。

間もなく下では何か物に驚いた声がして、続いて笑声が起つたが、渠は「敷島」を美味うまさうに吹かしながら、呼吸を深くして腹を凹ましたり、出したり、今日位腹を減らした事がないなどと考へて居た。

所へ階段はしごを上る足音がしたので、来たナと思つたから、腹の運動を止めて何気ない顔をしてると、以前の若い男が小腰を屈めて障子を明けた。

『ヘイ、これは旦那のお足袋ぢや厶いませんか? 鼠が落おつこちたかと思つたら、足袋が降つて来たと云ふので、台所ぢや貴方、吃驚いたしましたんで。ヘイ、全く、怎も、ヘイ。』と妙な薄笑をし乍ら、今し方壁の鼠穴へヘシ込んだ許りの濡れた古足袋を、二つ揃へて敷居際に置いたなり、障子を閉めて狐鼠々々こそこそ下りて行く。

呆然として口を開いた儘聞いて居た渠は、障子が閉まると、クワツと許り上気して顔が火の出る程赤くなつた。恥辱の念と憤怒の情が、ダイナマイトでも爆発した様に、身体中の血管を破つて、突然いきなり立上つたが、腹が減つてるのでフラフラと蹌踉よろめく。

よろめく足を踏み耐こたへて、室から出ると、足音荒く階段を下りて来たが、例いつもの女中が恰度丼を二つ載せた膳を持つて来た所で、

『オヤ。』

と尻上りに叫んで途を披いた。

『モウ要いらん。』と凄じく怒鳴るや否や、周章あたふた下駄を突懸けて、疾風の様に飛出したが、小路の入口でイヤと云ふ程電信柱に額を打付ぶつつけた。後では、男女を合せて五六人の高い笑声が、ドツと許り喊ときの声の様に聞えた様であつた。

二町許り駆けて来ると、セイセイ呼吸が逸はづんで来て、胸の動悸のみ高い。まだ忌々いまいましさが残つて居たが、それも空腹すきつぱらには勝てず、足を緩めて、少し動悸が治まると、梅沢屋と云ふ休坂下やすみざかしたの蕎麦屋へ入つた。

『お誂へは?』と反歯そつぱの女中に問はれて、「天麩羅」と云はうとしたが、先刻の若い男の顔がチラと頭に閃いたので、

『何でも可い。』と云つて了つた。

『天麩羅に致しませうか? それとも月見なり五目なり、柏かしはも直ぐ出来ますが。』

『呍うん、その、何どれでも可い。柏でも可い。』

かくて渠は、一滴の汁も残さず柏二杯を平らげたが、するとモウ心にも身体にも坐りがついて、先刻の事を考へると、我ながら滑稽をかしくなつて遂口に出して笑つて見る。手を叩いて更に「天麩羅二つ」と吩咐いひつけた。

それも平らげて了ふと、まだ何か喰ひたい様だけれど、モウ腹が大分張つて来たので、止めた。と、眠気が催すまでに悪落着がして来て、悠然ゆつたりと改めて室の中を見廻したが、「敷島」と「朝日」と交代に頻しきりに喫ひながら、遂々たうたうゴロリと横になつた。それでも、階段に女中の足音がする度、起直つて知らん振をして居たが、恁麽こんな具合にして渠は、階下したの時計が十時を打つまで、随分長い間此処に過した。一度、手も拍たぬのに女中が来て、「お呼びで厶いますか?」と襖を開けたが、それはモウ帰つて呉れと云ふ謎だと気が付いたけれど、悠然と落着いて了つた渠の心は、それしきの事で動くものでない。

恁許かばかり悠然した心地は渠の平生に全くない事であつた。顔には例の痙攣も起つて居ない。物事が凡て無造作で、心配一つあるでなく、善とか悪とか云ふ事も全く脳裡あたまから消えて了つて、渠はそれからそれと静かに考へを廻らして居たが、第一に多少の思慮を費したのは、小宮洋服店から如何にしてモツト金を取るべきかと云ふ問題であつた。それには自分一人よりも相棒のある方が都合が可いと考へついたが、渠は其人選にアレかコレかと迷つた末、まだ何も知らぬ長野の奴を引張り込まうと決心した。

と、渠は其長野の馬鹿に気の利かぬ事を思ひ出して、一人で笑つた。それは昨日の事、奴が竹山から東京電報の翻訳を命ぜられて、唯五六通に半時間もかかつて居たが、

『ええ一寸伺ひますが、……怎どうもまだ慣れませんで(と申訳をしておいて、)カンカインとは怎どうかくんでせうか。』

『感化院さ。』と云つて竹山が字を書いて見せた。すると、

『ア然うですか。ぢやモ一つ、ええと、鎌田といふ大臣がありましたらうか? 一寸聞きなれない様ですけれど。』

『無い。』

『然うですか喃なあ。イヤ其、電文にはカナダとあるんですけど、金田といふ大臣は聞いた事がないから、鎌田の間違ぢやないかと思ひまして。』

『ドレ見せ給へ。』と竹山は其電報を取つて、『何だ、「加奈太カナダ大臣ルミユー氏」ぢやないか。今度日本へ来た加奈太政府の労働大臣さ。』

『然うですか。怎も慣れませんもので。』

これで皆が思はず笑つたので、流石に長野も恥かしくなつたと見えて、顔を真赤にしたが、今度は自分の袂を曳いて、「陸軍ケイホウのケイホウは怎う書きませう。」と小声で訊ねる、「警報さ」と書いて見せると、「然うですか、怎も有難う。」と云つたが、「何だい、何だい?」と竹山が云ふので、「陸軍ケイホウです。」と答へると、「ケイホウは刑罰の刑に法律の法だぜ。」と云ふ。俺もハツとしたが、長野は「然うですか。」と云つたきり、俺には何とも云はず、顔を赤くした儘、其教へられた通り書いて居た。すると竹山は、以後これから毎日東京や札幌の新聞を読めと長野に云つて、

『鎌田といふ大臣のあるか無いかは理髪店とこやの亭主だつて知つてるぢやないか。東京新聞を読んで居れば、刻下の問題の何であるかが解るし、翌日の議会の日程に上る法律案などは札幌小樽の新聞の電報に載つてるし、毎日新聞さへ読んでれば電報の訳せん事がない筈なんだ。昨晩だつて君、九時頃に来た電報の「北海道官有林附与問題」といふのを、君が「不用問題」と書いたつて、工場の小僧共が笑つてたよ。』

長野の真赤にした大きい顔が、霎時しばし渠の眼を去らないで、悠然ゆつたりとした笑を続けさせて居た。

それから渠は、種々いろいろと竹山の事も考へて見た。竹山が折角東京へ乗込んで詩集まで出して居ながら、新聞記者などになつて北海道の隅ツこへ流れて来るには、何かしら其処に隠れた事情があるに違ひない。屹度暗い事でもして来たんだらう。然うでなければ、と考へて渠は四年前の竹山について、それかこれかと思出して見たが、一度下宿料を半金だけ入れて、残部あとは二三日と云つたのが、遂々たうたう十日も延びたので、下宿のアノ主婦が少し心配して居つた外、これぞと云ふ事も思出せなかつた。

竹山の下宿は社に近くて可い、と思ふ。すると又病院の事が心に浮ぶ。それとなき微笑ほほゑみが口元に湧いて、梅野の活溌なのが喰ひつきたい程可愛く思はれる。梅野は美しい、白い。背は少し低いが……アノ真白ましろな肥つた脛、と思ふと、渠の口元は益々緩んだ。医者の小野山も殆んど憎くない。不図したら彼奴も此頃では、看護婦長に飽きて梅野に目をつけてるのぢやないかとも考へたが、それでも些ちつとも憎くない。梅野は美しいから人の目につく、けれども矢張彼女あれは俺のもんさ。末は怎でも今は俺のもんさ。彼女の挙動やうすはまだ男を知つて居ないらしいが、那麽あんなに若く見える癖に二十二だつていふから、もう男の肌に触れてるかも知れぬ。それも構はんさ。大抵の女は、表面うはべこそ処女だけれども、モウ二十歳を越すと男を知つてるから喃なあ。…………

十時の時計を聞くと、渠は勘定を済ませて蕎麦屋から出た。休坂を上つて釧路座の横に来ると、十日程前に十軒許り焼けた火事跡に、雪の中の所々から、真黒な柱や棟木が倒れた儘に頭を擡げて居た。白い波の中を海馬かいばが泳いでる様に。

少し行くと、右側のトある家の窓に火光あかりがさして居る。渠は其窓側まどぎはへ寄つて、コツコツと硝子を叩いた、白い窓掛カーテンに手の影が映つて半分許り曳かれると、窓の下の炬燵こたつに三十五六の蒼白い女が居る。

『蝶吉さんは未だ帰らないの?』

と優しい低い声で云つた。

『え、未だ。』と女は窓外そとを覗いたが、『マア野村さんですか。姐さん達は十一時でなくちや帰りませんの。』

これは渠がよく遊びに行く芸者の宅うちで、蝶吉と小駒の二人が、「小母をばさん」と呼ぶ此女を雇つて万事の世話を頼んで居る。日暮から十二時過までは、何日でも此陰気な小母さんが一人此炬燵にあたつてるので、野村は時として此小母さんを何とか仕ようと思ふ事がないでもない。女は窓掛に手をかけた儘、入れとも云はず窓外そとを覗いてるので、渠は構はず入つて見ようとも思つたが、何分にも先刻程さきほどから気が悠然ゆつたりと寛大になつてるので、遂ぞ起した事のない「可哀さうだ。」といふ気がした。

『又来るよ。』と云ひ捨てた儘、彼は窓側まどぎはを離れて、「主婦おかみはもう大丈夫寝たナ。」と思ひ乍ら家路へ歩き出した。

四角よつかどを通越して浦見町が、米町になる。二町許り行くと、左は高くなつた西寺にしでらと呼ぶ真宗の寺、それに向合つた六軒長屋の取突とつつきの端が渠の宿である。案の如く入口も窓も真暗になつて居る。渠は成るべく音のしない様に、入口の硝子戸を開けて、閉たてて、下駄を脱いで、上框あがりがまちの障子をも開けて閉てた。此室ここは長火鉢の置いてある六畳間。亭主は田舎の村役場の助役をして居るので、主婦と其甥に当る十六の少年こどもと、三人の女児をんなのことが、此室に重なり合ふ様になつて寝て居るのだが、渠は慣れて居るから、其等の顔を踏付ける事もなく、壁側かべぎはを伝つて奥の襖からかみを開けた。

此室ここも亦六畳間で、左の隅に据ゑた小さい机の上に、赤インキやら黒インキやらで散々楽書をした紙笠の、三分心の洋燈が、螢火ほどに点つて居た。不取敢その心しんを捻上げると、パツと火光が発して、暗やみに慣れた眼の眩しさ。天井の低い、薄汚い室の中の乱雑だらしなさが一時に目に見える。ゾクゾクと寒さが背に迫るので、渠は顔を顰蹙しかめて、火鉢の火を啄ほじくつた。

同宿の者が三人、一人は入口の横の三畳を占領してるので、渠は郵便局へ出て居る佐久間といふ若い男と共に此六畳に居るのだ。佐久間はモウ寝て居て、然も此方こつちへ顔を向けて眠つてるが、例の癖の、目を全然すつかり閉ぢずに、口も半分開けて居る。渠は、スヤスヤと眠つた安らかな其顔を眺めて、聞くともなく其寝息を聞いて居たが、何かしら怎う自分の心が冷えて行く様な気がする。此男は何時でも目も口も半分開けて寝てるが、俺も然さうか知ら。俺は口だけ開けてるかも知れぬ、などと考へる。

煙草に火をつけたが、怎どうしたものか美味うまくない。気がつくとそれは「朝日」なので、袂を探して「敷島」の袋を出したが、モウ三本しか残つて居なかつた。馬鹿に喫んで了つたと思ふと、一本出して惜しさうに左の指で弄いぢくり乍ら、急いで先せんののを、然も吸口まで焼ける程吸つて了つた。で、「敷島」に火をつけたが、それでも左程美味うまくない。口が荒れて来たのかと思ふと、煙が眼に入る。渠は渋い顔をして、それを灰に突込んだ。

眼を閉ぢずに寝るとは珍しい男だ、と考へ乍ら、また佐久間の顔を見た。すると、自分が、一生懸命「閉ぢろ、閉ぢろ。」と思つて居ると、佐久間は屹度アノ眼を閉ぢるに違ひないと云ふ気がする。で、下腹にウンと力を入れて、ギラギラする眼を恐ろしく大きくして、下唇を噛んで、佐久間の寝顔を睨め出した。寝息が段々急せはしくなつて行く様な気がする。一分、二分、三分、……佐久間の眼は依然として瞬きもせず半分開いて居る。

何だ馬鹿々々しいと気のついた時、渠は半分腰を浮かして、火鉢の縁に両腕を突張つて、我ながら恐ろしい形相ぎやうさうをして居た。額には汗さへ少し滲み出して居る。渠は平手でそれを拭つて腰を据ゑると、今迄顔が熱ほてつて居たものと見えて、血が頭からスウと下りて行く様な気がする。動悸も少ししてゐる。何だ、馬鹿々々しい、俺は怎して恁う時々、浅間しい馬鹿々々しい事をするだらうと、頻りに自分と云ふものが軽蔑される、…………

止度もなく、自分が浅間しく思はれて来る。限りなく浅間しいものの様に思はれて来る。顔は忽ち燻くすんで、喉がセラセラする程胸が苛立つ。渠は此世に於て、此自蔑の念に襲れる程厭な事はない。

と、隣室でドサリといふ物音がした。咄嗟とつさの間に渠は、主婦おかみが起きて来るのぢやないかと思つて、ビクリとしたが、唯寝返りをしただけと見えて、立つた気色けはひもせぬ。ムニヤムニヤと少年が寝言を言ふ声がする。漸やつと安心すると、動悸が高く胸に打つて居る。

処々裂けた襖、だらしなく吊下つた壁の衣服、煤ばんで雨漏の痕跡かたがついた天井、片隅に積んだ自分の夜具からは薄汚い古綿が喰はみ出してる。ズーツと其等を見廻す渠の顔には何時しか例の痙攣が起つて居た。

噫ああ、浅間しい! 恁かう思ふと、渠はポカンとして眠つて居る佐久間の顔さへ見るも厭になつた。渠は膝を立直して小さい汚ない机に向つた。

埃だらけの硯、歯磨の袋、楊枝、皺くちやになつた古葉書が一枚に、二三枚しかない封筒の束、鉄筆ペンに紫のインキ瓶、フケ取さへも載つて居る机の上には、中判の洋罫紙を紅いリボンで厚く綴ぢた、一冊の帳面がある。表紙には『創世乃巻』と気取つた字で書いて、下には稍やや小さく「野村新川しんせん。」

渠は直ちにそれを取つて、第一頁を披いた。

これは渠が十日許り前に竹山の宿で夕飯を御馳走になつて、色々と詩の話などをした時思立つたので、今日病院で横山に吹聴した、其所謂六ヶ月位かかる見込だといふ長篇の詩の稿本であつた。渠は、其題の示す如く、此大叙事詩に、天地初発の暁から日一日と成された、絶大なる独一真神の事業を謳うたつて、アダムとイヴの追放に人類最初の悲哀の由来を叙し、其掟おきてられたる永遠の運命を説いて、最後の巻には、神と人との間に、朽つる事なき梯子をかけた、耶蘇基督の出現に、人生最高の理想を歌はむとして居る。そして、先づ以て、涙の谷に落ちた人類の深き苦痛と悲哀と、その悲哀に根ざす霊魂の希望とを歌ふといふ序歌だけでも、優に二百行位になる筈なので、渠は此詩の事を考へると、話に聞いただけの(随つて左程豪えらいとも面白いとも思はなかつた、)、「思はなかつた、)、」はママダンテの『神聖喜曲ジヴイナコメジア』にも劣らぬと思ふので、其時は、自分が今こそ恁麽こんな釧路あたりの新聞の探訪をしてるけれど、今に見ろ、今に見ろ、と云ふ様な気になる。

嗚呼々々、太初たいしよ、万有ものみなの

いまだ象かたちを…………

と、渠は小声に抑揚ふしをつけて読み出した。が、書いてあるのは唯たつた十二三行しかないので、直ぐに読終へて了ふ。と繰返して再また読み出す。再読終へて再読み出す。恁うして渠は、ものの三十遍も同じ事を続けた。

初は、余念の起るのを妨げようと、凝然ぢつと眉間みけんに皺を寄せて苦い顔をしながら読んで居たが、十遍、二十遍と繰返してるうちに、何時しか気も落着いて来て眉が開く。渠は腕組をして、一向ひたすらに他の事を思ふまいと、詩の事許りに心を集めて居たが、それでも時々、ピクリピクリと痙攣ひきつけが顔に現れる。

軈やがて鉄筆ペンを取上げた。幾度か口の中で云つて見て、頭を捻つたり、眉を寄せたりしてから、「人祖この世に罪を得て、」と云ふ句を亜ついで、

人の子枕す時もなし。

ああ、

と書いたが、此「ああ」の次が出て来ない。で、渠は思出した様に煙草に火をつけたが、不図次の句が頭脳に浮んだので、口元を歪めて幽かに笑つた。

ああ、み怒りの雲の色、

審判さばきの日こそ忍ばるれ。

と、手早く書きつけて、鉄筆ペンを擱いた。この後は甚麽どんな事を書けばよいのか、まだ考へて居ないのだ。で、渠は火鉢に向直つて、頭かしらだけ捻つて、書いただけを読返して見る。二三遍全体を読んで見て、今度は目を瞑つぶつて今書いた三行を心で誦ずし出した。

「人の子枕す時もなし、ああみ怒り……審判さばきの日……。」「人の子枕す……」然うだ、実際だ。人の子は枕する時もない。人の子は枕する時もない。世界十幾億の人間、男も、女も、真実まつたくだ。人の子は枕する時もない。実際然うだ。寝ても不安、起きても不安! 夢の無い眠を得る人が一人でもあらうか! 金を持てば持つたで悪い事を、腹が減れば減つたで悪い事を、噫、寝てさへも、寝てさへも、実際だ、夢の中でさへも悪い事を! 夢の中でさへも俺は、噫、俺は、俺は、俺は…………

恐ろしい苦悶が地震の様に忽ち其顔に拡がつた。それが刻一刻に深くなつて行く。瞬一瞬に烈しくなつて行く。見ろ、見ろ、人の顔ぢやない。全く人の顔ぢやない。鬼? 鬼の顔とは全くだ。種々いろんな事が胸に持上がつて来る。渠はそれと戦つて居る。思出すまいと戦つて居る。幾何いくら圧しつけても持上がる。あれもこれも持上がる。終には幾十幾百幾千の事が皆一時に持上がる。渠は一生懸命それと戦つて居る。戦つて戦つて、刻一刻に敗けて行く。瞬一瞬に敗けて行く。

「俺は親不孝者だ!」と云ふ考へが、遂に渠を征服した。胸の中で「一円五十銭!」と叫ぶ。脅喝、詐偽、姦通、強姦、喰逃……二十も三十も一時に喊声をあげて頭脳あたまを蹂躙ふみにじる。見まい、聞くまい、思出すまいと、渠は矢庭に机の上の『創世乃巻』に突伏した。それでも見える、母の顔が見える。胸の中で誰やら「貴様は罪人だ。」と叫ぶ、「警察へ行け。」と喚く。と渠は、横浜で唯たつた十銭持つて煙草買ひに行つた時、二度三度呼んでも、誰も店に出て来なかつたので、突然「敷島」を三つ浚さらつて遁げた事を思出した。渠はキリキリと歯を喰しばつた。噫、俺は一日として、俺は何処へ行つても、俺は、俺は……と思ふと、凄じい髭面が目の前に出た。それは渠が釧路へ来て泊る所のなかつた時、三晩一緒に暮した乞食だ。知人岬しりとさきの神社に寝た乞食だ。俺はアノ乞食の嬶を二度姦した! 乞食の嬶を、この髭面の嬶を……髭面がサツと朱を帯びた。カインの顔だ。アダムの子のカインの顔だ。何処へ逃げても御空おそらから大きな眼まなこに睨められたカインの顔だ。土穴を掘つて隠れても大きな眼に睨められたカインの顔だ。噫、カインだ、カインだ、俺はカインだ!

俺はカインだ! と総身に力を入れて、両手に机の縁を攫んで、突然いきなり身を反らした。歯を喰しばつて、堅く堅く目を閉ぢて、頭が自づと後に垂れる。胸の中が掻裂かつさかれる様で、スーツと深く息を吸ふと、パツと目があいた。と、空から見下す大きな眼! 洋燈の真上に径二尺、真黒な天井に円く描かれた大きな眼! 「俺はツ」と渠は声を絞つた。

「ウウ」と声がしたので、電気に打たれた様に、全身の毛を逆立てた。渠の声が高かつたので、佐久間が夢の中で唸つたのだ。渠は恐ろしき物を見る様に佐久間の寝顔を凝視みつめた。眠れりとも、覚めたりともつかぬ、半ば開いた其眼! 其眼の奥から、誰かしら自分を見て居る。誰かしら自分を見て居る。…………

野村はモウ耐らなくなつて、突然立上つた。「俺は罪人だ、神様!」と心で叫んで居る。襖からかみを開けたも知らぬ。長火鉢に躓つまづいたも知らぬ。真暗で誰のだか解らぬが、兎に角下駄らしいものを足に突懸けて、渠は戸外へ飛出した。

西寺の横の坂を、側目わきめも振らず上つて行く。胸の上に堅く組合せた拳こぶしの上に、冷い冷い涙が、頬を伝つてポタリポタリと落つる。「神様、神様。」と心は続け様に叫んで居る。坂の上に鋼鉄色はがねいろの空を劃かぎつた教会の屋根から、今しも登りかけた許りの二十日許りの月が、帽子も冠らぬ渠の頭を斜めに掠めて、後に長い長い影を曳いた。

十二時半頃であつた。

寝る前の平生いつもの癖で、竹山は窓を開けて、暖炉の火気に欝した室内の空気を入代へて居た。牟げきとした夜半の街々、片割月かたわれづきが雪を殊更寒く見せて、波の音が遠い処でゴウゴウと鳴つて居る。

直ぐ目の下の病院の窓が一つ、パツと火光あかりが射して、白い窓掛カーテンに女の影が映つた。其影が、右に動き、左に動き、手をあげたり、屈んだり、消えて又映る。病人が悪くなつたのだらうと思つて見て居た。

と、真砂町へ抜ける四角よつかどから、黒い影が現れた。ブラリブラリと俛首うなだれて歩いて来る。竹山は凝じつと月影に透して視て居たが、怎どうも野村らしい。帽子も冠つて居ず、首巻も巻いて居ない。

其男は、火光の射した窓の前まで来ると、遽にはかに足を留めた。女の影がまた瞬時しばらく窓掛に映つた。

男は、足音を忍ばせて、其窓に近づいた。息を殺して中を覗つてるらしい。竹山も息を殺してそれを見下して居た。

一分も経つたかと思ふと、また女の影が映つて、それが小さくなつたと見ると、ガタリと窓が鳴つた。と、男は強い弾機ばねに弾かれた様に、五六歩窓側まどぎはを飛び退すさつた。「呀ツ」と云ふ女の声が聞えて、間もなく火光がパツと消えた。窓を開けようとして、戸外そとの足音に驚いたものらしい。

男は、前よりも俛首うなだれて、空気まで凍つた様な街路みちを、ブラリブラリと小さい影を曳いて、洲崎町の方へ去つた。

翌日、野村良吉が社に出たのは十時少し過であつた。ピクリピクリと痙攣が時々顔を襲うて、常よりも一層沈んで見えた。冷たい疲労の圧迫が、重くも頭脳あたまに被さつて居る。胸の底の底の、ズツト底の方で、誰やら泣いて居る様な気がする。何の為に泣くとも解らないが、何いづれ誰やら泣いて居る気がする。

気が抜けた様に懵乎ぼうつとして編輯局に入ると、主筆と竹山と、モ一人の洋服を着た見知らぬ男が、暖炉を取囲とりまいて、竹山が何か調子よく話して居た。

野村が其暖炉に近づいた時、見知らぬ男が立つて礼をした。渠も直ぐ礼を返したが、少し周章気味あわてぎみになつてチラリと其男を見た。二十六七の、少し吊つた眼に才気の輝いた、皮膚はだ滑らかに苦味走つた顔。

『これは野村新川君です。』と主筆は腰かけた儘で云つた。そして渠の方を向いて、『この方は今日から入社する事になつた田川勇介君です。』

渠は電光の如く主筆の顔を盗視ぬすみみたが、大きな氷の塊にドシリと頭を撃たれた心地。

『ハア然うですか。』と挨拶はしたものゝ、総身の血が何処か一処ひとところに塊かたまつて了つた様で、右の手と左の手が交る〲に一度宛、発作的にビクリと動いた。色を変へた顔を上げる勇気もない。

『アノ人は面白い人でして、得意な論題でも見つかると、屹度先づ給仕を酒買にやるんです。冷酒を呷あふりながら論文を書くなんか、アノ温厚おとなしい人格に比して怎やら奇蹟の感があるですな。』と、田川と呼ばれた男が談かたり出した。誰の事とも野村には解らぬが、何れ何処かの新聞に居た人の話らしい。

『然う然う、其麽そんな癖がありましたね。一体一寸々々ちよいちよい奇抜な事をやり出す人なんで、書く物も然うでしたよ。恁麽こんな下らん事をと思つてると、時々素的な奴を書出すんですから。』と竹山が相槌を打つ。

『那麽ああいふ男は、今の時世ぢや全く珍しい。』と主筆が鷹揚に嘴を容はさんだ。『アレでも若い時分は随分やつたもので、私の県で自由民権の論を唱導し出したのは、全くアノ男と何とか云ふモ一人の男なんです。学問があり演説は巧し、剰おまけに金があると来てるから、宛然まるで火の玉の様に転げ歩いて、熱心な遊説をやつたもんだが、七八万の財産が国会開会以前まへに一文も無くなつたとか云ふ事だつた。』

『全く惜しい人です喃なあ、函館みたいな俗界に置くには。』と田川は至極感に打たれたと云ふ口吻くちぶり。

野村は遂々たうたう恁麽話に耐こらへ切れなくなつて、其室を出た。事務室を下りて暖炉にあたると、受付の広田が「貴方あんた新しい足袋だ喃。俺ンのもモウ恁麽になつた。」と自分の破けた足袋を撫でた。工場にも行つて見た。活字を選り分ける女工の手の敏捷すばしこさを、解版台の傍に立つて見惚みとれて居ると、「貴方は気が多い方ですな。」と職長の筒井に背を叩かれた。文選の小僧共はまだ原稿が下りないので、阿弥陀䰗をやつてお菓子を買はうと云ふ相談をして居て、自分を見ると、「野村さんにも加担かたツて貰ふべか。」と云つた。機械場には未だ誰も来て居ない。此頃着いた許りの、新しい三十二面刷の印刷機ロールには、白い布が被かけてあつた。便所はばかりへ行く時小使室の前を通ると、昨日まで居た筈の、横着者の爺おやぢでなく、予かねて噂のあつた如く代へられたと見えて、三十五六の小造りの男が頻りに洋燈掃除をして居た。嗚呼アノ爺も罷めさせられた、と思ふと、渠は云ふに云はれぬ悪寒を感じた。何処へ行つても恐ろしい怖ろしい不安が渠に跟ついて来る。胸の中には絶望の声――「今度こそ真当ほんたうの代人かはりが来た。汝きさまの運命は今日限りだ! アト五時間だ、イヤ三時間だ、二時間だ、一時間だツ!」

上島に逢へば此消息を話して貰へる様な気がする。上島は正直な男だ、と考へて、二度目に二階へ上る時、

『上島君はまだ来ないのか、君?』

と広田に聞いて見た。

『モウ先刻さつきに来て先刻に出て行きましたよ。』

と答へた。然うだ、十時半だもの、俺も外交に出なけやならんのだ、と思つたが、出て行く所の話ぢやない。編輯局に入ると、主筆が椅子から立ちかけて、

『それぢや田川君、私はこれから一寸社長の宅に行きますから、君も何なら一緒に行つて顔出しゝて来たら怎どうです?』

『ア然うですか、ぢや何卒どうか伴つれてつて頂きます。』

と田川も立つた。二人は出て行く。野村も直ぐ後から出て、応接室との間の狭い廊下の、突当りの窓へ行つた。モウ決つてる! 決つてる! 嗚呼俺は今日限りだ!

明日から怎どうしよう、何処へ行かう、などと云ふ考へを起す余裕もない。「今日限り!」と云ふ事だけが頭脳にも胸にも一杯になつて居て、モウ張裂けさうだ。兎毛うのけ一本で突く程の刺戟にも、忽ち頭蓋骨が真二つに破れさうだ。

また編輯局に入つた。竹山が唯一人、凝然じつと椅子に凭れて新聞を読んで居る。一分、二分、……五分! 何といふ長い時間だらう。何といふ恐ろしい沈黙だらう。渠は腰かけても見た、立つても見た、新聞を取つても見た、火箸で暖炉の中を掻廻しても見た。窓際に行つても見た。竹山は凝然じつと新聞を読んで居る。

『竹山さん。』と、遂々たうたう耐こらへきれなくなつて渠は云つた。悲し気な眼で対手を見ながら、顫ひを帯びて怖々おづおづした声で。

竹山は何気なく顔を上げた。

『アノ!、一寸応接室へ行つて頂く訳に、まゐりませんでせうかねす?』

『え? 何か用ですか、秘密の?』

『ハア、其、一寸其……。』と目を落す。

『此室ここにも誰も居ないが。』

『若し誰か入つて来ると……。』

『然うですか。』と竹山は立つた。

入口で竹山を先に出して、後に跟ついて狭い廊下を三歩か四歩、応接室に入ると、渠は静かに扉ドアを閉めた。

割合に広くて、火の気一つ無い空気が水の様だ。壁も天井も純白で、真夜中に吸込んだ寒さが、指で圧してもスウと腹まで伝りさうに冷たく見える。青唐草の被帛おほひをかけた円卓子まるテイブルが中央に、窓寄りの暖炉の周囲には、皮張りの椅子が三四脚。

竹山は先づ腰を下した。渠は卓子に左の手をかけて、立つた儘霎時しばらく火の無い暖炉を見て居たが、

『甚麽どんな事件です?』

と竹山に訊かれると、忽ち目を自分の足下に落して、

『甚麽事件と云つて、何、其、外ぢやないんですがねす。』

『ハア。』

『アノ、』と云つたが、此時渠は不意に、自分の考へて居る事は杞憂に過ぎんのぢやないかと云ふ気がした。が『実は其、(と再また一寸口を噤つぐんで、)私は今日限り罷めさせられるのぢやないかと思ひますが……』と云つて、妙な笑を口元に漂はしながら竹山の顔を見た。

竹山の眼には機敏な観察力が、瞬く間閃いた。『今日限り? それは又怎してです?』

『でも、』と渠は再また目を落した。『でも、モウお決めになつてるんぢやないかと、私は思ひますがねす。』

『僕にはまだ、何の話も無いんですがね。』

『ハア?』と云ふなり、渠は胡散臭い目付をしてチラリと対手の顔を見た。白ツぱくれてるのだとは直ぐ解つたけれど、また何処かしら、話が無いと云つて貰つたのが有難い様な気もする。

暫らく黙つて居たが、『アノ、田川さんといふ人は、今度初めて釧路へ来られたのですかねす?』

『然うです。』と云つて竹山は注意深く渠の顔色を窺つた。

『今迄何処に居た人でせうか?』

『函館の新聞に居た男です。』

『ハア。』と聞えぬ程低く云つたが、霎時しばしして又、『二面の方ですか、三面の方ですか?』

『何方もやる男です。筆も兎に角立つし、外交も仲々抜目のない方だし……。』

『ハア。』と再また低い声。『で今後これからは?』

『サア、それは未だ決めてないんだが、僕の考へぢやマア、遊軍と云つた様な所が可いかと思つてるがね。』

渠は心が頻りに苛々いらいらしてるけれど、竹山の存外平気な物言ひに、取つて掛る機会しほがないのだ。一分許り話は断えた。

『アノ、』と渠は再び顔をあげた。『ですけれども、アノ方が来たから私に用がなくなつたんぢやないですかねす?』

『其麽そんな訳は無いでせう。僕はまだ、モ一人位入れようかと思つてる位だ。』

『ハ?』と野村は、飲込めぬと云つた様な眼付をする。

『僕は、五月の総選挙以前に六頁に拡張しようと考へてるんだが、社長初め、別段不賛成が無い様だ。過般こなひだ見積書も作つて見たんだがね。六頁にして、帯広のアノ新聞を買つて了つて、釧路十勝二ヶ国を勢力範囲にしようと云ふんだ。』

『ハア、然うですかねす。』

『然うなると君、帯広支社にだつて二人位記者を置かなくちやならんからな。』

渠の頭脳あたまは非常に混雑して来た。嗚呼、俺は罷めさせられるには違ひないんだ。だが、竹山の云つてる処も道理もつともだ。成程然うなれば、まだ一人も二人も人が要る。だが、だが、ハテナ、一体社の拡張と俺と、甚麽どんな関係になつてるか知ら? 六頁になつて……釧路十勝二ヶ国を……帯広に支社を置いて……田川が此方に居るとすると俺は要らなくなるし……田川が帯広に行くと、然うすると俺も帯広にやられるか知ら……ハテナ……恁かうと……それはまだ後の事だが……今日は怎どうか知ら、今日は?……

『だがね、君。』と、稍あつてから低めた調子で竹山が云つた時、其声は渠の混雑した心に異様に響いて、「矢張今日限りだ」といふ考へが征矢そやの如く閃いた。

『だがね、君、僕は率直に云ふが、』と竹山は声を落して眼を外らした。『主筆には君に対して余り好い感情を有もつてない様な口吻が、時々見えぬでも無い。……』

ソラ来た! と思ふと、渠は冷水を浴びた様な気がして、腋の下から汗がタラタラと流れ出した。と同時に、怎やら頭の中の熱が一時颯さつと引いた様で、急に気がスツキリとする。凝じつと目を据ゑて竹山を見た。

『今朝、小宮洋服店の主人が主筆ン所とこへ行つたさうだがね。』

『何と云つて行きました?』と不思おもはず。

『サア、田川が居たから詳しい話も聞かなかつたが……。』竹山は口を噤つぐんで渠の顔を見た。

『竹山さん、私は、』と哀し気な顫声ふるひごゑを絞つた。『私はモウ何処へも行く所のない男です。種々いろんな事をやつて来ました。そして方々歩いて来ました。そして、私はモウ行く所がありません。罷めさせられると其限それつきりです。罷めさせられると死にます。死ぬ許りです。餓ゑて死ぬ許りです。貴君方は餓ゑた事がないでせう。嗚呼、私は何処へ行つても大きな眼まなこに睨められます。眠つてる人も私を視て居ます。そして、』と云つて、ギラギラさして居た目を竹山の顔に据ゑたが、『私は、自分の職責しごとは忠実まじめにやつてる積りです。毎日出来るだけ忠実まじめにやつてる積りです。毎晩町を歩いて、材料たねがあるかあるかと、それ許り心懸けて居ります。そして、昨夜も遅くまで、』と急に句を切つて、堅く口を結んだ。

『然う昨夜ゆうべも、』と竹山は呟く様に云つたが、ニヤニヤと妙な笑を見せて、『病院の窓は、怎うでした?』

野村はタヂタヂと二三歩後退あとじさつた。噫、病院の窓! 梅野とモ一人の看護婦が、寝衣ねまきに着換へて淡紅色ときいろの扱帯しごきをしてた所で、足下あしもとには燃える様な赤い裏を引覆ひつくらかへした、まだ身の温ぬくもりのありさうな衣服きもの! そして、白い脛が! 白い脛が!

見開いた眼には何も見えぬ。口は蟇がまの様に開けた儘、ピクリピクリと顔一体が痙攣ひきつけて両側りやうわきで不恰好に汗を握つた拳がブルブル顫へて居る。

「神様、神様。」と、何処か心の隅の隅の、ズツと隅の方で…………。(五月二十六日脱稿)

〔生前未発表・明治四十一年五月稿〕

底本 / Source edition

底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
※生前未発表、1908(明治41)年5月執筆のこの作品の本文を、底本は、土岐善麿氏所蔵啄木自筆原稿によっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、103-下-18と104-上-5の「釧路十勝二ヶ国」をのぞいて、大振りにつくっています。
※「揶揄《からか》つた」と「揄揶《からか》つて」の混在は、底本通りです。
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
/works/045468_000153/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/045468_000153/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/045468_000153/

石川 啄木「病院の窓」(新字旧仮名)、底本『石川啄木全集 第三巻 小説』筑摩書房、1978年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 045468_000153, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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