Soranoha

明治の戦争文学

めいじのせんそうぶんがく

黒島 伝治

第一章 序、戦争と明治の諸作家

明治維新の変革以後、日本資本主義は、その軍事的であることを、最も大きな特色の一つとしながら発展した。

それは、維新後の当初に於ては、おくれて発達した資本主義国として、既に帝国主義的段階への過渡期に入りつゝあった世界資本主義に対抗するため軍備の力が必要だった。しかし、その軍事的性質は、国民的解放の意義が失われ過ぎ去った後までも存続し、日清、日露の戦争に勝利を博すると共に、ます〱支配的地位をかため、発展した。

明治年間、殊に、日清戦争から、日露戦争前後にかけての期間は、最も軍国主義的精神が、国内に横溢した時期だった。そして、これは明治時代の作家の、そのかなり大部分のイデオロギーにも反映せずにはいなかった。殊に、明治に於ける文学運動のなかでも歴史的に最も意義のある自然主義運動の選ばれた代表者、国木田独歩、田山花袋についてそれを見出すことが出来る。勿論、自然主義文学運動は、ブルジョア生産関係の反映として、「在るがまゝに現実を描き出すこと」「科学的精神」「客観描写」「現実曝露」等、ブルジョアジーがその生産方法の上に利用した科学の芸術的反映として、ブルジョア社会建設のために動員され、そして発展したものである。だから、そのなかに、日本ブルジョアジーの特色の一つをなす、軍事的性質が反映しているのは、怪しむに足りない。

国木田独歩は、明治二十七八年の戦争の際、国民新聞の従軍記者として軍艦千代田に乗組んでいた。その従軍通信のはじめの方に、

「余に一個の弟あり。今国民新聞社に勤む。去んぬる十三日、相携へて京橋なる新聞社に出勤せり。弟余を顧みて曰く、秀吉の時代、義経の時代、或は又た明治の初年に逢遇せざりしを恨みしは、一、二年前のことなりしも、今にしては実に当代現今に生れたりしを喜ぶ。後世少年吾等を羨むこと幾許いくばくぞと。余、甚だ然りと答へ、ともに奮励して大いに為すあらんことを誓ひき」と。明かに×××的意義を帯びていた日清戦争に際して、ちょうど、国民解放戦争にでも際会したるが如き歓喜をもらしている。また、威海衛いかいえいの大攻撃と支那北洋艦隊の全滅を通信するにあたっては、「余は、今躍る心を抑へて、今日一日の事を誌さんとす」と、はじめている。これによって見ても、独歩が、如何に当時のブルジョアジーの軍国主義的傾向を、そのまゝ反映していたかゞ伺える。更に、日露戦争後に到っても独歩がやはり軍事的ブルジョアジーのイデオロギーに立っていたことは、「号外」「別天地」等の小説によって看取される。

田山花袋は、日露戦争に従軍して「一兵卒」を書いた。同じ自然主義者でも、花袋は、戦争に対して、独歩とは幾分ちがった態度を取ったように、「一兵卒」一篇を見る場合感じられる。その差異については、後で触れるが、また、花袋の「第二軍従征日記」を取って見ると、やはりそこには、戦争と攻撃を詩のようだとした讃美が見られるのである。

島崎藤村については、その渡仏中のことを除いては、いまだ、戦争を作品の中に取扱っているのを知らない。しかし、日露戦争の勃発当時にあって、長編「破戒」の稿を起すにあたって、従軍したつもりで作品に力を打ちこむと云われたと伝えられる。この一事にも、おのずから戦争に対する態度と心持が伺われるような気がする。

このほか、徳田秋声、広津柳浪、小栗風葉、三島霜川、泉鏡花、川上眉山、江見水蔭、小杉天外、饗庭篁村あえばこうそん、松居松葉、須藤南翠、村井弦斎、戸川残花、遅塚麗水、福地桜痴等は日露戦争、又は、日清戦争に際して、いわゆる「際物きわもの的」に戦争小説が流行したとき、それぞれ、こぞって動員されている。これは、取りも直さず、これらの諸作家が平常の如何に関らず戦争に際して、動員され得るだけの素地を持っていたことを物語るものである。岩野泡鳴には凱旋将軍を讃美した詩がある。

自然主義運動に対立して平行線的に進行をつゞけた写生派、余裕派、低徊派等の諸文学(夏目漱石などその門下、高浜虚子、長塚節、永井荷風、谷崎潤一郎等)については、森鴎外が、軍医総監であったことゝ、後に芥川龍之介が「将軍」を書いている以外、軍事的なものは見あたらない。たゞ、それらの文学と深い関係のある、或る意味ではその先覚者と目される正岡子規の、日清戦争に従軍した際の句に、

行かばわれ筆の花散る処まで

いくさかな、われもいでたつ花に剣

秋風の韓山敵の影もなし

等があるばかりである。

しかし、それは、この写生派、余裕派、低徊派等が戦争に対して反対であったからではなく、多くが無関心だったからである。自然主義文学が、資本主義的生産関係を反映し、あるがまゝに現実を描こうと企図したのに対して、この写生派、余裕派、低徊派等は支配階級の中に根強く巣喰っている封建主義を多分に反映して逃避的唯美的傾向に走っていた。それが、この派をして、社会的現実としての戦争から眼を蔽わしめたのである。

以上のほか、硯友社派、及び自然主義派の作家で、全然戦争のことには手を触れなかった若干がある。だが、それは題材の関係であって、若し、それらの作家も戦争を書けば、恐らくその大部分が、当時支配的だった軍事的イデオロギーを反映したゞろうと思われる。

第二章 戦時に動員されて簇出した小説

まず、さきに、戦争に動員されて簇出した戦争小説にふれて置きたい。

一八九四年(明治二十七年)朝鮮に東学党の乱が起って、これが導火線となって日清戦争が勃発するや、国内は戦争気分に瀰漫びまんされるに到った。そして多くの新聞(中央新聞、報知新聞、二六新聞等)雑誌(太陽、国民之友、文芸倶楽部等)に戦争小説、軍事小説なるものが現れた。江見水蔭、小杉天外、泉鏡花、饗庭篁村、村居松葉、戸川残花、須藤南翠、村井弦斎、遅塚麗水、福地桜痴等がその作者だった。今手あたり次第に饗庭篁村の「従軍人夫」(太陽、明治二十八年一月)、江見水蔭の「夏服士官」「雪戦」「病死兵」(中央新聞二十七年十二月─一月)、村井弦斎の「旭日桜」(報知新聞二十八年一月─三月)等を取って見るのに、恐ろしくそらぞらしい空想によってこしらえあげられて、読むに堪えない。従軍紀行文的なもの(遅塚麗水「首陽山一帯の風光」)及び、戦地から帰った者の話を聞いて書いたもの(江見水蔭「夏服士官」)は、まだやゝましだとしなければならぬ。他の小杉天外にしろ松居松葉にしろ、みなその程度のものである。だから、右の諸作家の筆になるものを見ても、日清戦争がどういう風に戦われたか、如何なる戦争であったか、その戦場の迫真力のある描写の一つも、また戦時に於ける国内大衆の生活がどうであったかをも知ることが出来ない。多くの作者は、その戯作者気質と、幇間気質を曝露している。むしろ、これらの作家の小説と並んでその傍に、二、三行で報道されている、××の仕打ちに憤慨して銃を自分の口にあてゝ足で引金を踏んで自殺したという兵卒の記事(明治二十八年一月中央新聞)の方が、はるかに深い暗示に富んでいる。

ただ、ブルジョアジーが、その最初の戦争からして既に、多くの作家を動員したという事実が重要である。そして、諸々の作品に見られる愛国的乃至は軍国的意識性は、日清戦争の××××××××して解放戦争、防禦戦争としようとした従来の俗説(高橋亀吉等の)に対して、一つの反証を、ブルジョアジー自身によって動員された文学そのものが皮肉にも提供している。

日清戦争後三国干渉があった。「臥薪嘗胆」なるスローガンは、国内大衆の意識を次の戦争へ集中せしめた。そして、十年して日露戦争が始った。出版物のあらゆるものが圧倒的に戦争に動員された。作家も、文学もまたその例外ではあり得なかった。

「戦争文学」「戦争小説」「やまと桜」「討露軍歌かちどき」等の戦ものばかりをのせる文学雑誌が現れた。またしても、江見水蔭、泉鏡花等は戦争小説を書きだした。広津柳浪、小栗風葉、三島霜川、徳田秋声、川上眉山、柳川春葉等も戦争小説を書いた。当時、作家に対して如何なる意識が要求せられたか、明治三十七年四月号の雑誌「戦争文学」の一文をして、それを語らしめよう。

「戦争一たび開けて、文士或は筆を収む。曰く武人の時、文士何をか為さむと、アヽ果して為すべき事なき乎。

文士筆を揮ふは、猶武人の剣を揮ふが如く、猶、農夫の耟を揮ふが如し。武人剣を揮ふて外に戦ふもの、武人の家国に対する義務ならば、文士筆を揮ふて士気を鼓舞するもの、亦必ず文士の家国に対する義務ならざるべからず。農夫耟を揮ふて内に耕すもの、農夫の家国に対する義務ならば、文士紙を展べて軍民を慰藉するもの、亦必ず文士の家国に対する義務ならざるべからず。たとへ一概に然かく云ふこと能はざるまでも、戦時に於ける文士は、決して手を空うすべきに非ざる也。

何となれば、死生の際が人を詩化せしむる如く、戦争は、国民を詩化せしむるものにして、死生の際が人情の極致を発露する如く、戦争は実に、国民品性の極致を発露すべきものなれば也。死生の際が人情の極致を発露する時なりとして詩歌に、小説に、美文に採用せられ、歌はれ、描かれ写されつゝあるは、通例の事に属す。独り国民を挙つて詩化し満目詩料ならざるなく、国民品性の極致を発露し口を開いて賛すべく、嘆すべく、歌ふべく、賦すべきの事に満つる戦時に於て、文士或は却て筆を収めむとするは何ぞや。」

以て如何に熱狂的だったかが知れるだろう。今度は、日清戦争のときの比ではなかった。戦争小説は、量的には無数に現れた。江見水蔭だけでも、百三十四篇を書いている。しかしながら、その多くは日清戦争当時と同じく、真面目な文学的努力になるものではなかった。この十年間に、文学運動の上では、言文一致の提唱とその勝利があったが、そしてそれは、より直接的に社会生活を反映し得る手段を整えたものと云い得るのだが、作品に於ては、現実は歪曲され、愛国主義は鼓吹された。自然主義運動勃興以前の各既成作家の行きづまりは、恐ろしく、水っぽい戦争小説の洪水をもたらした。それは、後の自然主義運動に於いて作家としての生長を示した徳田秋声の、この時の作品「通訳官」を見ても、また、小栗風葉の「決死兵」、広津柳浪の「天下一品」、泉鏡花の「外国軍事通信員」等を見ても、その水っぽさと、空想でこしらえあげたあとはかくすべくもない。だが、それらの一つ一つの各作家に於いても、あまりに重要でない作品に対して吟味を与えることは、恐らくそう必要ではなかろう。それよりは、一九三一年の満州上海事変とその後に於て、ファッショ文学が動員されている如く、既に一八九四年の最初の戦争から一貫して、文学は戦争のために動員されていることが注目に価する。そして、そのいずれの文学も下劣極る文学だったことが注目に価する。そして、なお日清戦争後には、高山樗牛の日本主義の主張が起り、日露戦争後には、岩野泡鳴の国粋主義の主張が起ったことも、一九三二年のファッショの発展と照合して、(勿論その社会的根拠に非常な相違はあるが)注目に価する。

更に、もう一つ指摘するならば、一九三〇年頃より「日米若し戦はゞ」とか「米国恐るゝに足らず」とか云った日米戦争未来記が市場に洪水している如く、日露戦争前にあっては、日露戦争未来記が簇出して、いやが上にも敵愾心をあおり立てゝいたことである。

これらの戦争に関連した諸々の際物的流行は、周知の如く、文学作品として、歴史の批判に堪え得なかったばかりでなく、当時の心ある批評家から軽蔑された。

第三章 日清戦争に関連して      ―独歩の「愛弟通信」と蘆花の「不如帰」

国木田独歩の「愛弟通信」は、さきにもちょっと触れたように、日清戦争に従軍記者として軍艦千代田に乗組んで、国民新聞にのせた、その従軍通信である。云うまでもなく、小説ではない。通信である。それだけに、空想でこしらえあげたあとはない。すべてが、彼の見聞によっている。この時代の独歩は、まだ「源をぢ」を書かないし、「武蔵野」を書かない時代の独歩だった。しかし、後年の自然主義作家としての飾気のない、ぶっきら棒な、それでいて熱情的な文章は、この通信に、既に特色を現わしている。彼は、愛国心に満ちた士官の持つ、それと同じ心臓で、運送船で敵地に送られた陸兵の上陸や、大連湾の攻撃や、威海衛の偵察、旅順攻撃、戦争中の軍艦に於ける生活、威海衛の大攻撃等を見、聞き、感じて、それを報告している。しかも、一新聞記者の無味乾燥な報告ではない。作家としての独歩の面目は、到るところに発揮されて、当時の海戦と艦上生活の有様をヴィヴィットに伝え得るものがある。軍艦の水兵たちや、戦地に行った者たちが、内地からの郵便物を恐ろしく焦れ待つことは、多くの者の経験するところで、後年の文学にたび〱出てくるが、独歩は既に、そのことをこゝに書いている。また、支那の僻陬へきすうの地の農民たちは、日清戦争があったことも、清しんが明みんに取ってかわったことも知らずに、しかし、軍隊の略奪には恐ろしく警戒して生きている、──こういうことは、支那の奥地に這入った者のよく見受けるところであるが、これも独歩は、将校のちょっとした上陸から発見して、それを伝えている。この「愛弟通信」は、具体性に於て、際物的戦争小説の比ではない。

しかし、この時の独歩の体内に流れていた血は、明かに支配階級に属する年少気鋭の忠勇なる士官のそれと異らないものであった。だから彼は、陸兵が敵地にまんまと上陸し得たことを痛快々々! と叫び、「吾れ実に大日本帝国のために万歳を三呼せずんばあらず!」と云い得ている。だから彼は、威海衛の大攻撃を叙するにあたって熱を帯びた筆致を駆使し得ているのである。そして、彼が軍艦に乗り組んでそこでの生活を目撃しながら、その心眼に最もよく這入ったものは、士官若しくはそれ以上の人々の生活と、その愉快なことゝ、戦争の爽快さであって、下級の水兵の生活は、その関心外にあった。たゞ、僅かに水兵の石炭積みの苦痛が一行だけ述べられてある。そして、それきりだ。ある時は、水兵は、彼には壮漢と見えた。

この士官階級以上に対してしか彼の関心がむけられなかったことは、後の小説「別天地」に於ても明かに看取されるし、他の戦争以外のことを扱った小説でも、比較的後期の「竹の木戸」「二老人」等は別として、多くは支配的地位にある者に眼がむけられている。これが、自然主義作家でも田山花袋とは異なるところで、より多く、新興ブルジョアジーのイデオロギーを反映していたあとが見られる。そして、独歩自身は多く窮迫の生活をしたにかゝわらず、階級的には支配階級の立場に立っていた。その階級的制約が、水兵たち下級の生活に注意を向けることを妨げたのであろう。

「酒中日記」の如き、日清戦争後の軍人が、ひどく幅をきかした風潮を、皮肉りあてこすっている作品でも、将校はいゝのだが、下士以下が人の娘や、後家や、人妻を翫弄し堕落させるとしている。将校は営外に居住し得、妻帯し得るのに対して、下士以下兵卒は兵営に居住しなければならないし、妻を持ち得ない生活条件から、そういう結果になっていた簡単な事実が、独歩には気がつかなかったものらしい。戦死負傷についても、彼は年少士官のそれに最も多く心を動かした。多年の苦学と、前途の希望が中断されるというのがその理由である。そこにも、支配階級の立場と、当時の進取的な、いわゆる立身成功を企図したブルジョアイデオロギーの反映がある。

「愛弟通信」を読み終って、これが、新聞への通信ということに制約されたにもよるのだろうが、戦闘ばかりでなく、戦闘から戦闘への間の無為にすごすその間のこと、陸上との関係、占領した旅順や大連の風物、偵察等を書きながら、しかも、単純で、喰い足りない印象を受ける。士官の立場から物を見て書いたのでも、トルストイの「セバストポール」は、はるかに、清新に、戦争と状景が躍動して、恐ろしく深く印象に刻みつけられる。日清戦争に際して、背後の労働者階級と貧農がどんな風であったかは、この「愛弟通信」から求められ得ないが、国際的な関係の現れとしての北支那海に於ける英仏独露の軍艦の浮游が報じられてある。独歩は、それについて何等の説明も附してはいないし、或は気がつかなかったかもしれないが、今日からかえり見て想像を附加すると、既に戦後の三国干渉に到る関係が、その時から現れていたようで興味が深い。

独歩の眼に士官階級以上しか映じなかったより以上に、徳富蘆花の「不如帰」にはそれ以上、大将や中将や男爵等が主として書かれている。独歩はブルジョア的であるが、蘆花は封建的色彩がより色濃い。蘆花自身人道主義者で、クリスチャンだったが、東郷大将や乃木大将を崇拝していた。

「不如帰」には、日清戦争が背景となっている。そして、多くの上級の軍人が描かれている。黄海の海戦の描写もある。しかし、出てくる軍人も戦争の状景も、通俗小説のそれで、ひどく真実味に乏しい。それに、この一篇の主題は戦争ではなく浪子の悲劇にある。だから、ここで戦争文学として取扱うことは至当ではないが、たゞこれが当時の多くの大衆に愛誦された理由が、浪子の悲劇だけでなく、軍人がその中に書かれ、戦争が背景に取り入れられ、戦時気分に満たされていたことに存在するのを注意しなければならない。それが軍事的傾向の横溢した日清戦争から日露戦争に到る間の当時の風潮に投合したのである。一九三一年満洲事変以後、軍事的傾向と気分が復活すると、「不如帰」が改作されて映画となって、再び出現したのもまた理由のないことではない。「不如帰」については、立入る必要はあるまい。

第四章 日露戦争に関連して     ─花袋の「一兵卒」、忠温の「肉弾」、龍之介の「将軍」

日清戦争当時のブルジョアジーは、既に解放される階級ではなく、支配する階級、抑圧する階級として発展しつゝあった。十年後の日露戦争になると、それはます〱発展して、戦争は××××的性質を具備した。

戦争開始前、「万朝報」によった幸徳秋水、堺利彦、黒岩涙香等は「非戦論」を戦わした。しかし、明治三十六年十月八日、露国の満洲撤兵第三期となった時、戦争はもはや到底避けられないことが明かになるや、黒岩涙香は主戦論に一変した。幸徳、堺は「万朝報」を退社し、「平民社」を創立した。そして、十一月十五日「平民新聞」第一号を発行した。これには、毎月欠かさず××の記事が掲載された。三十八年八月には、堺利彦の訳になるトルストイの日露戦争反対論が掲げられている。

かゝる事実は、この戦争が如何なる意義を持っていたかを説明する材料の一つとなり得るものであるが、当時の戦争文学には、田山花袋の「一兵卒」にも、際物的に簇出した戦争小説にも、勿論、桜井忠温の「肉弾」にもこれは反映しなかった。

田山花袋の「一兵卒」は、作者の従軍中の観察と体験とからなったものである。明治四十一年一月の「早稲田文学」に現れた、花袋の代表作の一つであろう。日露戦争の遼陽攻撃の前に於ける兵站部へいたんぶあたりの後方のことを取材している。戦地へいった一人の兵卒が病気のため、遼陽攻撃が始って全軍が花々しく進撃するうちに、一人だけ苦しみながら死んで行く有様を描いて、いわゆる「自然主義風」に人生の意義を語ろうとしたものである。

作品のなかに兵卒が現れだしたのは、これよりさき大倉桃郎の「琵琶歌」にも見られるが、花袋は、もっとよく兵卒に即して、戦場を描いている。これは、日清戦争当時の独歩や蘆花が、士官若しくはそれ以上しか眼にうつらなかったのに比して、一段の進歩ということが出来る。そしてこの兵卒を書くということは、明治以後、大正、昭和の戦争文学または兵営の生活を書いた文学に、ますます多くなっている。勿論、兵卒を書くことによって、戦争を十分に描き出し得るとは云えない。将校の動きも、隊長も指揮官も、相手方の部隊の様子も、軍隊の背後に於ける国内の大衆の生活状態も、そこに於ける階級の関係も、すべて戦争と密接な切り離せない関係を持っている。が、それと共に兵卒は、背後のいろ〱な関係を集団としての自分達のなかに反映しつゝ、戦争に於ては最も重要な役割をなす。社会関係の矛盾も、資本主義が発展した段階に於て遂行する戦争とプロレタリアートとの利害の相剋も、すべてが戦線に出された兵卒に反映し凝集する。それは加熱された水のようなものである。蒸気に転化する可能性を持っている。だから、兵卒に着目したことには意義がある。

花袋は、独歩の如く、将校はいゝんだが、下士以下は不道徳で、女を堕落させるというような見方はしていない。兵卒を一個の生物的な人間として見た。そして、一個の死に直面した人間が、大きな戦争の動きのなかに病気に苦しみながら死んで行く。そこに、人生を暗示しようとした。客観的にあったことを、あったことゝして作品の上に再現しようとした。現実をあるがまゝに描くのである。結局、それも花袋の場合にあっては支配階級の階級性に制約されているのであるが、独歩がより多く、支配する立場の者に着目したのに比して、花袋は、もうすこし(ほんのすこしばかりだが)下級の者に着目した。これは「田舎教師」についてもまた見られる。しかし折角、兵卒に着目しながら、花袋は、生と死を重視する生物としての人間をそこに見て、背後の社会関係や、その矛盾の反映し凝集した兵卒は見つけ出さなかった。また、見つけようともしなかった。そこに、自然主義者としての花袋の面目もある訳だが、それだけに、戦場の戦闘開始前に於ける兵士や部隊の動きや、満洲の高粱のある曠野が、空想でない、しっかりした真実味に富んだ線の太い筆で描かれていながら、一つの戦地の断片に終って、全体としての戦争は浮びあがらない。自然主義文学に共通の特色をなす、全体的なことを書きながらも、その中の個の追求が、こゝでも主眼となっている。幾分、地主的匂いがたゞよっている。

一兵卒の死の原因にしても、長途の行軍から持病の脚気が昂進したという程度で、それ以上、その原因を深く追求しないで、主人公の恐ろしい苦しみをかきながら、作者は、ある諦めとか運命とかいうものを見つけ出そうとしている。脚気は戦地病であるが、一兵卒の死だって、もっとその原因を深く追求すれば、憤慨に値することに突きあたらざるを得ないのである。

けれども「一兵卒」は、明治以来の日本の文学に、初めて真面目に戦争に取材した小説を提供したものとして、歴史的にまず指を屈しなければならない。花袋はこの小説に於ては、その階級制に制約されながらも、他の際物的戦争小説や多くの戦争文学の作者のように、意識的には支配階級におもねっていないのである。

「一兵卒」に、戦争開始前烈しく行われた戦争に関する幸徳、堺等の議論が反映していない以上に、桜井忠温の「肉弾」には、なおそれ以上、微塵もその反映は見られない。「肉弾」は熱烈な愛国主義に貫かれている。

愛国主義は、それ自身決して不自然な感情でもないし、浅薄なものでもない。それは、「幾世紀も幾千年にも亘る祖国の存在によって固められた最も深い感情の一つである。」だが、それだけに階級の対立する社会では、最も多く支配階級に利用され得る感情である。そしてしば〱、真実の隠蔽のためにその文句が繰りかえされる。これが文学の基調をなすとき、視野の狭さと、一面性と、必要以上のこじつけのため、著しくその芸術的価値を減殺する。

「肉弾」は小説ではない。記録的なものである。日露戦争に弾丸の下に曝された一人の将校によって書かれた。そこには、旅順攻囲戦の戦慄すべき困難と愛国的感情の熱烈な無数の将校の犠牲の山が書かれている。所どころ、実戦に参加した者でなければ書けないなま〱しい戦場の描写がある。後の銃後と相俟あいまって、旅順攻囲の終始が記録的に、しかも、自分一個の経験だけでなく、軍事的知識と見聞をかき集めて、戦線を全貌的に描き出そうと努めてある。しかも、多くを書いてあるのに、視野は広いとは云えないし、自由でもない。客観的な現実はそのまゝこゝへは反映していない。「一兵卒」はこれに比すると、量は十分の一にも足らないが、現実は遙かに歪められず自由に掴まれている。

これは、旅順攻囲戦という歴史的な客観的現実を愛国的探照燈で照し出したるが如きものである。客観的な戦争は、探照燈の行った部分だけ青く着色されて映るが、探照燈はすべてを一時に照らすことは出来ない。だから、闇の見えない部分が常に多く残されている。そして若し、別の探照燈で映すならば、現実は、全然ちがった姿に反映するかもしれないのだ。芥川龍之介のやはり旅順攻囲戦争に取材した「将軍」をよんでみるならば、それはすぐ分る。芥川の用いた探照燈は、「肉弾」に用いられてゐる探照燈とはちがうのだ。だから、そこへは、同じ現実でありながら、全然反対なものが投影している。一方には、従順に、勇敢に、献身的に、一色に塗りつぶされた武者人形。一方には、自意識と神経と血のかよった生きた人間。

勿論、「将軍」に最も正しく現実が伝えられているか否かは、検討の余地のある問題であるが、こゝには、すくなくとも故意の歪曲と隠蔽はない。将軍も兵卒も、いわゆる「人間」としてとらえられているのである。

「肉弾」が過去に於て、一千版以上を重ねたと云われる程、多く読まれたとするならば(こゝでは、その大衆的影響を考慮に入れて、わざ〱文学的研究の対象として取上げたのであるが)それは、現実が正確に反映していたからではなく、むしろ反対に、一色に塗りつぶされた勇敢と献身と熱烈な武者振りが、支配階級が必要とした愛国主義と軍国主義の鼓吹に大いに役立ったがためだろう。軍隊では「肉弾」を一冊ずつ兵卒に買わせて読ませた例を知っている。そして、広く行き渡ったにもかゝわらず、いまだ文学的批判の対象として取り上げられなかったらしいのは、従来の文学批評家の文人気質によるというよりは、愛国的熱情があまって真実を追求しようとする意力の欠如が、文学としての価値を低めているがためだろう。

よき文学は、叙述のうまさや、文才だけによっては生れない。また、記録的素材だけによっては生れない。このことは水野広徳の「此一戦」についても云われるだろう。

第五章 結語、西欧の戦争文学との比較、戦争文学の困難

以上のほか、武者小路実篤の「或る青年の夢」、芥川龍之介の「将軍」のもっと詳細な検討、細田民樹の「ある兵卒の記録」について、この三つの作品は、いずれも大正年間になって出されたものであるが、明治以後、戦争文学が如何に発展したかを見るために一応触れて置きたいと思っていた。しかし、予定の紙数の制限に近づいたので、別の機会に譲る。

明治の諸作家が戦争を如何に描いたか、戦争に対してどんな態度を取ったかは、是非とも研究して置かなければならない重要な題目である。若し戦争について、それを真正面から書いていないにしても、戦争に対する作家の態度は、注意して見れば一句一節の中にも、はっきりと伺うことがある。それをも調べて、その作家が誰れの味方であったかを、はっきりして置くのは必要である。

従来、それらについての研究は、殆んどなされていない。本稿を草するにあたって、貧弱な、自分の過去の読書を頼りにして、それを再吟味し、纒めるよりほかなかった。恐らく、いろ〱な疎漏があると思う。それに、年来の宿痾しゅくあが図書館の古い文献を十分に調べることを妨げた。なお、戦争に関する詩歌についても、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」、石川啄木の「マカロフ提督追悼の詩」を始め戦争に際しては多くが簇出しているし、また日露戦争中、二葉亭がガルシンの「四日間」を訳出している。「四日間」の戦争の悲惨を憎悪した内容が二葉亭の当時の態度を暗示しているかもしれないが、それらは、若し次の機会があらば、すべてをまとめて、もっと完全なものとしたいと思う。

若し、以上見て来たところのものを西欧の近代の戦争文学と比較するならば、トルストイの「セバストポール」や「戦争と平和」は勿論、ガルシンの「四日間」「兵卒イワノフの手記」「卑怯者」でも、またアンドレエフの「血笑記」でも、モウパッサンのへんぺんたる短篇の戦争を扱ったものでも、やはり遙かに上にある。彼等は地主的或はブルジョア的イデオロギーの持主ではあったが、しかし、決してブルジョア乃至は愛国主義の番犬ではなかった。トルストイは見習士官としてセバストポールの戦争に参加したが、ガルシンも露土戦争に参加した。アンドレエフは日露戦争に加っていた。そこでの戦争の体験が、彼等の文学を優秀なものとしている。そして彼等は、そのイデオロギーに制約されながらも、体験を遠慮なく好きなように書き得る自由を持っていた。

わが明治以後、大正に到っては、既に芥川龍之介の「将軍」でさえ何行かを抹殺されている。その後のプロレタリア文学に到っては、一層多くの抹殺なくしては、戦争を描き得ない状態にある。そして、それは正しく、戦争を反映した文学の製作が非常に困難であることを物語るものであろう。

底本 / Source edition

底本:「黒島傳治全集 第三巻」筑摩書房
1970(昭和45)年8月30日第1刷発行
初出:「明治文学講座 第四巻」木星社
1932(昭和7)年3月
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2009年6月17日作成
2011年10月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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黒島 伝治「明治の戦争文学」(新字新仮名)、底本『黒島傳治全集 第三巻』筑摩書房、1970年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 045454_000037, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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