Soranoha

塩原多助旅日記

しおばらたすけたびにっき

三遊亭 円朝

いや是これは若林先生わかばやしせんせい、さア此方こちらへお這入はいんなさい。どうも久ひさし振ぶりでお目めに掛かゝりました。裏猿楽町うらさるがくちやう二番地ばんちへ御転住ごてんぢうになつたといふ事でございますから、一寸ちよつとお家いへ見舞みまひにあがるんですが、どうも何なにも貴方あなたのお座敷ざしきへ出すやうな話がないので、つい御無沙汰ごぶさた致いたしました。時に斯かういふ話があるんです。是これは貴方あなたも御承知ごしようちの石切河岸いしきりがしにゐた故人こじん柴田是真翁しばたぜしんをうの処ところへ私わたくしが行いつて聞いた話ですが、是これは可笑をかしいて……私わたくしが何処どこへ行いつても口馴くちなれてお喋しやべりをするのは御承知ごしようちの塩原多助しほばらたすけの伝でんだが、此この多助たすけの伝でんは是真翁ぜしんをうが教へてくれたのが初まりだが、可笑をかしいぢやありませぬか。どういふ訳わけかといふと、其頃そのころ私わたくしが怪談くわいだんの話の種子たねを調べようと思つて、方々はう〲へ行いつて怪談くわいだんの種子たねを買出かひだしたと云いふのは、私わたくしの家うちに百幅幽霊ぷくいうれいの掛物かけものがあるから、百怪談くわいだんといふものを拵こしらへて話したいと思ふ時分じぶんの事で、其頃そのころはまだ世の中が開ひらけないで、怪談くわいだんの話の売うれる時分じぶんだから、種子たねを探して歩いた。或時あるとき是真翁ぜしんをうの処ところへ行ゆくと、是真翁ぜしんをうが「お前まへは此頃このごろ大層たいそう怪談くわいだんの種子たねを探しておいでださうだ。」「どうか怪談くわいだんの種子たねを百種買出いろかひだして見たいと思ひます。八代目だいめ団だん十郎らうや市村羽左衛門いちむらうざゑもんの怪談くわいだん、沢村宗さはむらそう十郎らうの御殿女中ごでんぢよちうの怪談くわいだん、岩井半いはゐはん四郎らうの怪談くわいだん、其他そのた聞いた事見た事を種々いろ〱集めてゐるんですが」と云いふと、是真翁ぜしんをうが「円朝ゑんてうさん、妙めうな怪談くわいだんの種子たねがある。こりやア面白おもしろい怪談くわいだんだが、お前まへ何なにを知らないか、塩原多助しほばらたすけといふ本所ほんじよ相生町あひおひちやう二丁目ちやうめの炭屋すみやの怪談くわいだんを」「知りませぬ」「さうかね、塩原多助しほばらたすけといふ炭屋すみやの井戸ゐどは内井戸うちゐどであつたさうだが、其家そのうちはたいした身代しんだいだから、何なんとかいふ名なのある結構けつこうな石でこしらへた立派りつぱな井戸ゐどださうだ。ところが其その井戸ゐどの中なかへ嫁よめが身を投げて死んだり、二代目と三代目の主人が気違きちがひになつたりしたのが、其家そのいへの潰つぶれる初まりといふので、そりやア何なんとも云いへない凄すごい怪談くわいだんがある」「へー、それはどう云いふ筋すぢです」「委くはしい事は知らないが、何なんでも其その初代しよだいの多助たすけといふ人は上州じやうしうの方はうから出て来きた人で、同じ国者くにものが多助たすけを便たよつて来きて、私わしもお前まへのやうな大きな身代しんだいになりたい、国くにの家いへが潰つぶれたから江戸えどで稼かせいで、国くにの家いへを再興さいこうしたいと思つて出て来きたのだから、どうか資本もとでを貸かしてくれと云いふと、多助たすけがそりやアいけない、他人ひとに資本もとでを借かりてやるやうな事では仕方しかたがない、何なんでも自分で苦しんで蟻ありが塔たふを積つむやうにボツ〱身代しんだいをこしらへたのでなくては、大きな身代しんだいになれるものではないから、兎とも角かくも細こまかい商あきなひをして二朱しゆか三朱しゆの裏店うらだなへ住すまつて、一生懸命しやうけんめいに稼かせぎ、朝は暗い中うちから商あきなひに出で、日ひが暮くれてから帰かへつて来くるやうにし、夜よるは翌日あしたの買出かひだしに出る支度したくをし、一時ときか一時半ときはんほか寝ねないで稼かせいで、金かねを貯ためなければ、本当ほんたうに金かねは貯たまらない。私わしなども其位そのくらゐな苦しみをして漸やうやく斯かういふ身みの上うへになつたのだ。と云いはれて此人このひとも多助たすけのいふことを成程なるほどと感心かんしんしたから、自分も何なんぞ商あきなひをしようといふので、是これから漬物屋つけものやを初めた。すると相応さうおうに商あきなひもあるから、商あきなひ高だかの内うちより貯ためて置いて、これを多助なすけに預あづけたのが段々だん〱積つもつて、二百両りやうばかりになつた。其頃そのころの百両りやう二百両りやうと云いふのは大たいしたものだから、もう是これで国くにへ帰かへつて田地でんぢも買かへるし、家いへも建たてられるといふので、大おほいに悦よろこんで多助たすけに相談の上うへ、国くにへ帰かへつた。国くにへ帰かへつて田地でんちを買ふ約束をしたり、家いへを建たてる木材きざいを山から伐きり出だすやうにしたり、ちやんと手筈てはずを付つけて江戸えどへ帰かへつて来くると、塩原多助しほばらたすけが死しんでゐた。さア大おほいに驚おどろいて、早速さつそく多助たすけの家うちへ行いつて、番頭ばんとうに掛合かけあふと、番頭ばんとうは狡ずるい奴やつだから、そんなものはお預あづかり申まうした覚おぼえはござりませぬ、大旦那様おほだんなさまお亡かくれの時お遺言ゆゐごんもございませぬから上あげる事は出来できない、一体たいお前まへさんは何なにを証拠しようこに預あづけたと云いひなさるか、預あづけたものなら証拠しようこが無なければならない。といふ取とつても付つけない挨拶あいさつ。其時分そのじぶんは人間が大様おほやうだから、金かねを預あづける通帳かよひちやうをこしらへて、一々いち〱附つけては置いたが、その帳面ちやうめんは多助たすけの方はうへ預あづけた儘まゝ国くにへ帰かへつたのを、番頭ばんとうがちよろまかしてしまつたから、何なにも証拠しようこはない。さア其人そのひとは口惜くやしくつて耐たまらないから、預あづけたに違ちがひない、多助たすけさんさへゐれば其様そのやうなことを云いふ筈はずはないのだから、返かへしてくれ。と云いつても肯きかない。決して預あづかつた覚おぼえはない、と云いひ張はる。預あづけた預あづからないの争あらそひになつた処ところが、出入でいりの車力しやりきや仕事師しごとしが多勢おほぜい集あつまつて来きて、此奴こいつは騙取かたりに違ちがひないと云いふので、ポカ〱殴なぐつて表おもてへ突出つきだしたが、証拠しようこがないから表向訴おもてむきうつたへることが出来できない。頭あたまへ疵きずを付つけられて泣く〱帰かへつたが、国くにでは田地でぢを買ひ、木材きざいを伐きり出す約束をして、手金てきんまで打つてあるから、今更いまさら金かねが出来できないと云いつて帰かへることは出来できない。昔の人で了簡れうけんが狭せまいから、途方とはうに暮くれてすご〱と宅うちへ帰かへり、女房にようばうに一伍一什いちぶしじうを話し、此上このうへは夫婦別ふうふわかれをして、七歳なゝつばかりになる女の子を女房にようばうに預あづけて、国くにへ帰かへるより仕方しかたがない。と云いふと、お前まへさんのやうな生地いくぢのないものはない、預あづけたものを預あづからないと云いはれて、はいと云いつて帰かへつて来くると云いふのは、何どういふ訳わけです、殊ことに頭あたまへ疵きずを付つけられて帰かへつて来くるとは、余あんまり生地いくぢが無なさ過すぎる、そんな生地いくぢのない人と連添つれそつてゐるのは嫌いやだ、此子このこはお前まへさんの子こだからお前さんが育てるが宜いい、私わたしはもつと気丈きぢやうな人のところへ縁付かたづくから、といふ薄情はくじやうな言いひ分ぶん、此女このをんなは国くにから連つれて来きたのではない、江戸えどで持もつた女をんなか知れない、それは判然はつきり分わからないが、何なにしろ薄情はくじやうの女をんなだから亭主ていしゆを表おもてへ突つき出す。男をとこは怨うらめしさうに宅うちの方はうを睨にらんで、泣く〱向むかうへ行ゆかうとすると、お父とツつアんエーと云いつて女の子が追おつ掛かけて来くるから、どうかお母つかさんの処ところへ帰かへつてくれ、お父とツつアんは無ないものと思つてくれと言ひ聞かせて、泣きながら帰かへる子の後姿うしろすがたを見送り、あゝ口惜くやしい、二代目の多助たすけといふ奴やつは恐おそろしい奴やつだ、親父おやぢに金かねを預あづけた事を知つてゐながら、預あづかつた覚おぼえはないと云いふのは酷ひどい奴やつだ、塩原しほばらの家いへへ草を生はやさずに置くべきか、と云いつて吾妻橋あづまばしからドンブリと身を投げた。さうすると円朝ゑんてうさん、その死骸しがいが何どういふ潮時しほどきであつたか知らないが、流れ〱て塩原しほばらの前まへの桟橋さんばしへ着いたさうだ。それを店みせの小僧こぞうが見付みつけて、土左衛門どざゑもんが着ついてゐます土左衛門どざゑもんが着ついてゐますと云いつて騒さわぐ。若い衆しうがどれと云いつて行いつて見ると、どうも先刻さつき店みせへ来きて、番頭ばんとうさんと争あらそひをして突出つきだされた田舎者ゐなかものに似にてゐますといふから、どれと云いつて番頭ばんとうが行いつて見ると、成程なるほど先刻さつき店みせへ来きた田舎者ゐなかものの土左衛門どざゑもんだから、悪人あくにんながらも宜よい心持こゝろもちはしない、身みの毛け慄立よだつたが、土左衛門どざゑもん突出つきだしてしまへと云いふので、仕事師しごとしが手鍵てかぎを持もつて来きたり、転子かるこが長棹ながさをを持もつて来きたりして突出つきだすと、また其その桟橋さんばしへ戻もどつて来くる、幾いくら突放つツぱなしても戻もどつて来くるから、そんなこつてはいけないと云いふので、三人掛にんかゝつて漸やうやく突出つきだしたところが、桟橋さんばしで車力しやりきが二人ふたり即死そくししてしまひ、仕事師しごとしが一人ひとり気きが違ちがつてしまつたと云いふ騒さわぎ。それから其それが祟たゝりはしないか〱といふ気病きやみで、今いまいふ神経病しんけいびやうとか何なんとか云いふのだらうが、二代目はそれを気病きやみにして遂つひに気きが違ちがつた。それから三代目が嫁よめを貰もらつたのは、名前は忘れたが、何なんでもお旗本はたもとのお嬢様ぢやうさまとか何なんとかいふことだつた。お旗本はたもとのお嬢様ぢやうさまが嫁よめに来くるやうな身代しんだいになつたのだから、たいした身代しんだいになつた。すると此この嫁よめを姉あねと番頭ばんとうとで虐いぢめたので、嫁よめは辛つらくて居ゐられないから、実家さとへ帰かへると、親父おやぢは昔気質むかしかたぎの武士ぶしだから、なか〱肯きかない、去さられて来くるやうな者は手打てうちにしてしまふ、仮令たとひどんな事があらうとも、女をんなは其その嫁かした家いへを本当ほんたうの家いへとしなければならぬと云いふことを云いひ聞かして帰かへされたから、途方とはうにくれて其その嫁よめが塩原しほばらの内井戸うちゐどへ飛込とびこんで幽霊いうれいに出るといふのが潰つぶれ初はじめで、あの大きな家うちが潰つぶれてしまつたが、何なんとこれは面白おもしろい怪談くわいだんだらう」といふ話を聞いて、成程なるほどこれは面白おもしろい話だ、これを種子たねにして面白おもしろい話をこしらへたいと思つたが、其その塩原多助しほばらたすけといふ者が本所相生町ほんじよあひおひちやうに居ゐたか居ゐないか、名なさへ始めて聞いた位くらゐだから分わからない。兎とに角かく本所ほんじよへ行いつて探して見ようと思つて、是真翁ぜしんをうの家いへを暇乞いとまごひして是これから直すぐに本所ほんじよへ行ゆきました。

さて是真翁ぜしんをうの宅たくを暇乞いとまごひして、直すぐに本所ほんじよへ行いつて、少し懇意こんいの人があつたから段々だん〱聞いて見ると、二ふたつ目めの橋の側そばに金物屋かなものやさんが有あるから、そこへ行いつて聞いたら分わかるだらうと云いふ。それから其その金物屋かなものやさんで、名前は云いへないが、是々これ〱の炭屋すみやが有ありましたかと聞くと、成程なるほど塩原多助しほばらたすけといふ炭屋すみやがあつたさうだが、それは余程よほど古いことだといふ。それでは塩原しほばらのことを委くはしく知つてゐる人がありませうかと云いつて聞いたところが、無ないといふ。何処どこを捜さがしても分わからない。其時そのとき六十九になる、仕事師しごとしの頭かしらといふほどではないが、世話番せわばんぐらゐの人に聞くと、私わたしは塩原しほばらの家いへへ出入でいりをしてゐたが、細こまかいことは知りませぬといふ。それでは塩原しほばらの寺てらは何処どこでせうと聞いたところが、浅草あさくさの森下もりしたの――たしか東陽寺とうやうじといふ禅宗寺ぜんしうでらだといふことでございますといふ。それから直すぐに本所ほんじよを出て吾妻橋あづまばしを渡つて、森下もりしたへ行いつて捜さがすと、今いまの八軒寺町けんでらまちに曹洞宗さうどうしうの東陽寺とうやうじといふ寺てらがあつた。門の所で車から下おりてズツと這入はいると、玄関げんくわんの襖紙からかみに円まるに十の字じの標しるしが付ついてゐる。はてな、これは薩摩様さつまさまのお寺てらではないかと思ひました。門番もんばんの処ところで花を買つて十銭せん散財さんざいして、お墓はかを掃除さうぢして下さい、塩原多助しほばらたすけの墓はかは此方こちらでございませうか、私わたしは塩原しほばらの縁類えんるゐの者でございますが、始めてまゐつたので墓はかは知りませぬから、案内して下さいと云いふと、「へい畏かしこまりました」と云いつて墓はかへ案内して掃除さうぢしてくれましたから、墓はかの前に向むかつて私わたしは縁類えんるゐでも何なんでもないが、先祖代々せんぞだい〱と囘向ゑかうをしながら、只見とみると、墓石はかいしを取巻とりまいて戒名かいみやうが彫ほつてある。第だい一に塩原多助しほばらたすけと深く彫ほつてある。石塔せきたふの裏うらには新らしい塔婆たふばが立つてゐて、それに梅廼屋うめのやと書いてある。どういふ訳わけで梅廼屋うめのやが塔婆たふばを上あげたか、不審ふしんに思ひながら、矢立やたてと紙入かみいれの鼻紙はながみを取出とりだして、戒名かいみやうや俗名ぞくみやうを皆みな写うつしましたが、年号月日ねんがうぐわつぴが判然はつきり分わかりませぬから、寺てらの玄関げんくわんへ掛かゝつて、「お頼たのみ申まうします」といふと、小坊主こばうずが出て取次とりつぎますから、「私わたしは本所相生町ほんじよあひおひちやう二丁目ちやうめの塩原多助しほばらたすけの縁類えんるゐのものでございますが、まだ塩原しほばらの墓はかも知らず、唯たゞ塩原しほばらのお寺てらは此方こちらだといふことを聞伝きゝつたへて、今日こんにちお墓参はかまゐりにまゐりました、これはほんの心ばかりでございますが、どうか先代多助せんだいたすけの御囘向ごゑかうを願ひたいものでございます」と云いつて金かねを一円ゑん包つゝんで出すと、奥おくから和尚様をしやうさまが出て来きまして、「あなたが塩原多助しほばらたすけの御縁類ごえんるゐの方かたでございますか、愚僧ぐそうが当住たうぢうで……只今たゞいま御囘向ごゑかうを……」「いえ、今日こんにちは拠よんどころないことで急ぎますから、御囘向ごゑかうは後あとでなすつて下さい……塔婆たふばをお立てなすつて、どうぞ御囘向ごゑかうを願ひます」「畏かしこまりました」と茶を入れて金米糖こんぺいたうか何なにかを出します。すると和尚をしやうさんの手許てもとに長谷川町はせがはちやうの待合まちあひの梅廼屋うめのやの団扇うちはが二本ほん有ありますから、はてな此寺このてらに梅廼屋うめのやの団扇うちはのあるのは何どういふ訳わけか、殊ことに塩原しほばらの墓はかにも梅廼屋うめのやの塔婆たふばが立つて居をりましたから、何なにか訳わけのあることゝ思つて、「和尚をしやうさん、こゝにある団扇うちはは長川谷町はせがはちやうの待合まちあひの梅廼屋うめのやの団扇うちはですか」「左様さやうです」「梅廼屋うめのやは此方こちらの檀家だんかでございますか」「いえ檀家だんかといふ訳わけではありませぬが、長ながい間あひだ塩原しほばらの附届つけとゞけをしてゐる人は梅廼屋うめのやほかありませぬ、それで此この団扇うちはがあるのです」「それは何どういふ訳わけです」と聞くと、梅廼屋うめのやは五代目だいめの塩原多助しほばらたすけの女房にようばうで、それが亭主ていしゆが亡なくなつてから、長谷川町はせがはちやうへ梅廼屋うめのやといふ待合まちあひを出したのです」「へえーさうでございますか」それぢやア梅廼屋うめのやのお母ふくろに聞けば塩原しほばらの事は委くはしく分わかる。梅廼屋うめのやに聞くのは造作ざうさもない事だ。といふのは梅廼屋うめのやは落語社会らくごしやくわいの寄合茶屋よりあひぢややでございますから……「有難ありがたうございます、どうか御囘向ごゑかうを願ひます、又また参詣おまゐりを致いたします」と云いつて、それから直すぐに浜町はまちやう一丁目ちやうめの花屋敷はなやしきの相鉄あひてつといふ料理屋ちややへ行いつて、お膳ぜんを誂あつらへ、家うちの車をやつて、此この車で直すぐに来きてくれと云いつて梅廼屋うめのやを迎むかへにやりました。

梅廼屋うめのやは前にも申まうしました通とほり、落語家らくごか一統とうの寄合茶屋よりあひぢややで、殊ことに当時たうじ私わたくしは落語家らくごかの頭取とうどりをして居をりましたから、為ためになるお客と思ひもしまいが、早速さつそく其車そのくるまで来きてくれました。「何どうしたんです、何なにか急きふの御用ごようですか」「いや、改あらたまつてお聞き申まうしたいのだが、お前まへは塩原しほばらといふ炭問屋すみどんやへ嫁よめになつた事が有あるさうだ」「いゝえ、炭問屋すみどんやは疾とうに潰つぶれて、お厩橋うまやばしへ来きた時私わたくしが縁付えんづいたのです」「お前まへの御亭主ごていしゆは」「秀ひで三郎らうと云いつて五代目でございます」「早く死んだのかえ」「へえ、少し気きが違ちがつて早く死にました」と云いふから、成程なるほど是真翁ぜしんをうの話の通とほり祟たゝつたのだなと思ひ当あたりました。「お前まへさんの所に何なにか書物かきものはありませぬかえ――御先祖ごせんぞ塩原多助しほばらたすけの書類しよるゐか何なにか残のこつてゐませぬか」「何なにも有ありませぬ、少しは残のこつてゐた物も有ありましたが、此前このまへの火事で焼やけましたから、書付類かきつけるゐはありませぬが、御先祖様ごせんぞさまの着た黒羽二重くろはぶたへに大きな轡くつわの紋もんの附ついた着物が一枚あります。それは二代目塩原しほばらが、大層たいそう良よい身代しんだいになつて跡目相続あとめさうぞくをした時、お父とつさん、お前まへさんはもう是これだけの身代しんだいになつたら、少しはさつぱりした着物をお召めしなさるが宜よい、何時いつまでも木綿もめんの筒つゝツぽでは可笑をかしいから、これを着て下さいと云いつて、其その黒羽二重くろはぶたへの着物を出したところが、こんな物を着るやうで、商人あきんどの身代しんだいが上あがるものかと云いつて、一度も着たことは無なかつたさうです。其その着物が残のこつて居をります。それから御先代ごせんだいの木像もくざうと過去帳くわこちやうが残のこつて居をります」「それでは、ちよいとそれを持もつて来きて貰もらひたい」といふと、女将おつかあは直すぐに車に乗つて行いつて取つて来きました。其中そのうちに誂あつらへた御飯ごはんが出来できましたから、御飯ごはんを食たべて、其その過去帳くわこちやうを皆みな写うつしてしまつた。其その過去帳くわこちやうの中うちに「塩原多助しほばらたすけ養父やうふ塩原覚右衛門しほばらかくゑもん、実父じつぷ塩原覚右衛門しほばらかくゑもん」と同じ名前が書いてある。はてな、同じ名前は変へんだと思つたから、「お母つかさん、こゝに同じ名前があるが、是これは何どういふ訳わけだらう」と聞くと、「それは私わたしには分わかりませぬ、そんな事が書物かきものにあつたと云いひますけれども、私わたしには分わかりませぬ」「初代しよだいの多助たすけといふ人は上州じやうしうの人ださうですが、さうかえ」「さうでございます、上州じやうしう沼田ぬまたの在ざいだと云いふことでございます」「何処村どこむらといふことは分わかりませぬか」「どうも分わかりませぬ」「それぢや少し聞いたことが有あるから、私わたしは一つ沼田ぬまたへ行いつて見ようと思ふ」「沼田ぬまたの親類しんるゐもあの五代目が達者たつしやの時分じぶんは折々をり〱尋たづねて来きましたが、亡なくなつて後のちは音沙汰おとさたはありませぬ、もしお逢あひになつたら、どうか宜よろしく・……」「何なんといふ名前です」「お師匠ししやうさん、私わたしは年を老とつて物おぼえが悪くなつて、よく覚おぼえて居をりませぬが、何なんでも多たの字じの付つく名前でしたが、忘れました」「分わかりませぬか」「分わかりませぬ」どうも村名ところも分わからず、名前も分わからず、殆ほとんど困りましたけれども、細こまかに尋たづねたら知れぬ事もあるまいと、是これから宅たくへ帰かへつて、直すぐに旅立たびだちの支度したくを始めたから、宅うちの者は驚おどろいて、何処どこへ行ゆくといふ。少し理由わけがあつて旅をすると云いふと、弟子でしや何なにかが一緒しよに行ゆきたがるが、弟子でしでは少し都合つがふの悪いことがある。宅たくに酒井伝吉さかゐでんきちといふ車を曳ひく男をとこがある、此男このをとこは力が九人力にんりきある、なぜ九人力にんりきあるかといふと、大根河岸だいこんがしの親類しんるゐの三周さんしうへ火事の手伝てつだひにやつたところが、一人で畳たゝみを一度に九枚持出もちだしたから、九人力にんりきあると私わたしが考へた。其その伝吉でんきちを呼よんで、「時に私わたしは今度こんど下野しもつけから上州じやうしうの方はうへ行ゆくに就ついて、お前まへを供ともに連つれて行ゆかうと思ふが、面白おもしろくも何なんともない、ひどい山の中へ行ゆくんだが、行ゆくかえ」「それは有難ありがたい、――どんな山の中でも行ゆきます、私わたしの生国しやうこくは越中ゑつちうの富山とやまで、反魂丹売はんごんたんうりですから、荷物にもつを脊負せおつて、まだ薬くすりの広ひろまらない山の中ばかり売うつて歩くのです、さうして又また翌年よくねん其その山の中を売うつて歩くので、山の中は歩きつけて居をります、又また私わたしは力がありますから、途中とちうで追剥おひはぎが五人や六人出ても大丈夫でございます、富山とやまの薬屋くすりやは風呂敷ふろしきを前で本当ほんたうに結んでは居をりませぬ、追剥おひはぎにでも逢あふと、直すぐに風呂敷ふろしきの結び目がずつと抜ぬけてしまつて、後うしろへ荷物を投はふり出し、直すぐと匕首あひくちを抜ぬいて追剥おひはぎと闘たゝかふくらゐでなければ、迚とても薬屋くすりやは出来できませぬ、私わたしが行ゆけば大丈夫でございます、御安心なさい」「さうかえ、足は大丈夫かえ」「足は大丈夫でございます、車を引いてゐる位くらゐでございますから」と云いふので、是これから支度したくをしまして、両人りやうにんで出かけましたが、何なんでも歩かなければ実地じつちは履ふめませぬ。東京とうきやうの内うちはうるさいから車に乗つて、千住掃部宿せんぢうかもんじゆくで車より下おりて、是これから上州じやうしう沼田ぬまたへ捜さがしに行ゆきました。

(拠若林玵蔵筆記)

底本 / Source edition

底本:「明治の文学 第3巻 三遊亭円朝」筑摩書房
2001(平成13)年8月25日初版第1刷発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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三遊亭 円朝「塩原多助旅日記」(新字旧仮名)、底本『明治の文学 第3巻 三遊亭円朝』筑摩書房、2001年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 045391_000989, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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