Soranoha

老猾抄

ろうかつしょう

牧野 信一

「もう私は一切酒は飲まない。」

私の叔父にあたる岩城源造は余程神妙さうに繰返してゐた。

「それあ、結構ですね、一切飲まないといふことも無理でせうが、好い齢をしてカフエーに行くといふやうなことは……」

などといひかけてゐるうちに私は、吾ながら思はず恐縮して頭を掻いた。私が人に向つて斯んな類の意見を口にするなど凡そ途方もない出来事に違ひなく、おまけに相手が六十歳にもならうといふ老人であつた。百円ばかりの金をもつて呉服物の買出に来たところ、晩飯を食ふうちに用事は翌日に延ばさうといふことになり、ついふら〱と酔ふうちに、大事の金を紛失してしまつたのである。たしかに何処何処のカフエーで落したから念の為に訊いて見て呉れといふので、私が行つて見ると田舎臭い白粉をごて〱と塗つた四五人の女が、ゲラ〱と笑つて、

「まあ、落したんですつて……あんまり気前好く振り撒いたので気まりが悪いんでせう。」

と、その時の岩城の容子を話した。如何にも彼のやりさうもない振舞ひなのだが、私はあきれて赤くなつて引き返し、岩城といふと何処でも相手にしないので、私もあまり訪ねたこともない親戚へ赴いて借用した。六十にもなる年寄が、ぽろぽろと後悔の涙を滾こぼしてゐる姿を見ては、至つて無精な私も知らぬ顔も出来なかつたからである。――その齢まで一度も医者の薬を服んだことのないといふ源造は、

「恩に着るよ。」

と堅く私の手を握つたりして、大手を振つて元気好く引きあげた。三里の道を二時間あまりで歩いて来るといふことだが、成る程、後悔に駆られてゐる折の姿は中風患者のやうであつたが、意気揚々と引きあげる段になると、三里位は一時間でも平気さうだつた。彼の村までは電車から降りて山径が三里あまりだつた。彼は真冬でも外套も着ずゲートルを巻いて、何の用があるか知らなかつたが三日にあげず町へ用達に来た。

*

私は彼が甲斐々々しく引きあげて行つた容子を快く思ひ出しながら読書に耽り、もう十二時も過ぎたから、そろ〱寝ようとしてゐると、

「お父さんが酔つ払つて、始末がつかないから直ぐ迎へに来て呉れ。」

といふ使ひの車が来た。――お父さんが……といふのが奇妙だつたが、使ひの者のいひ間違へだらうと私は聞き流して、母には酔つた友達からだといつて出かけた。源造の上を不機嫌に憂慮するよりも、愚かな私は賑やかなところからの迎への方が嬉しさうであるかのやうだつた。

昼間私が訊ねに行つた場末の、例の毒々しいカフエーで、扉をおさうとすると、二階から、

「うちの息子はまだ来ないか……」

と源造の聞くも大風な声が洩れた。――私は、何やら憤ツとして荒々しく階段を登つた。源造は左右の女に凭り掛つて、見るも淫らがましい姿だつた。そして私の姿を見るがいなや、

「おい、何をぐず〱してんだい、けしからんぢやないか……アハハ……、まあ、そんなに恐縮せんと宜しい、一杯ゆかう。」

と盃をつき出した。大方、父子おやことでも云はなければ恰好の付き憎い女の手前でもあつたのだらうと私は漸く気を利かせて盃を享けたが、彼の酩酊の姿が、あまりにも淫らがましく正視に堪へられなかつた。

彼は間もなくまつたく正体を失つて、女の膝に眠らうとした。

「お金が無ければ駄目だよ。お爺さん。」

女は口汚くそんなことを云つた。

伴れ出さうにも源造は倒れたまゝ動かばこそなので私は、いつたい何のために俺を呼んだのかな? とつぶやきながら、つまらなさうに立ちあがらうとすると、階下から亭主があがつて来て、宮城さんは今日は金を忘れて来たから、息子を呼んで払はせて呉れと、呉々も仰言つてゐた――。

「どうぞ、よろしく……」

と気色の悪い微笑を浮べてゐた。

「ほんとうに何も持つてゐないのかしら?」

私は、さつきの金はどうしたのだらう? とよけいな穿さくを回らすわけではなかつたが、あれほど彼自身がもうもうこれは一文だつて無駄使ひは出来ないのだからと内ぶところに堅く蔵しまつて、ぽんぽんと叩いてなど居たのに――つい例の病ひで、うかうかしてゐるうちにどこか別の店ででも借金の内にとられたのではなからうか、それで一層気が滅入つて、やぶれかぶれにでもなつたのではなからうか? ――と心配せずには居られなかつた。

「……で、こゝに見えたのは何時ごろだつたかね。」

財布はこの通り空つぽで、さつきはふり出した――と傍の女が、たしかに彼がさつきあれだけの紙幣を後生大事に収めた財布を私に渡したりするのであつた。

「さあ、六時ごろからでせうか。」

「それから、ずつと!」

と私は驚いた。晩飯を一緒にしようといつたのに、それでも一二本の酒を傾けて早々と彼が引上げたのは、まだ明るいうちだつた。

ともかく今更そんなことを詮議立てゝゐてもはじまらぬので、翌日迎へに来るからと約して私は、酔ひもなく外へ出た。どこかで鶏の声があがり、間もなく白みさうな刻限であつた。

「いゝえ、もう御承知の上ならお泊め申すのは、ちつとも差支へないんで……」

私は、たゞのカフエーかとばかり思つてゐたところ、さういふ兼業もしてゐるのかといさゝか苦笑を覚えたりした。

*

私は自分の部屋に戻つても、何故か容易に寝つかれなかつた。十時頃と約して来たので、いつそこのまゝ起き通して、凡そ源造が出立した頃にでもなつて勘定を験べに行つてやらうと思つた。考へて見れば彼の行跡は何も昨日や今日に始まつたことではない――と、もう十年来の知る限りの迷惑などを思ひ出して私は不快になるといふよりも、その醜い限りの酒の上を不思議と思はずには居られなかつた。

とうとう朝になつて私は昨夜の汚れた着物を着換へる時、預かつて来た源造の財布を何気なく験べて見た。なるほど紙幣は一枚もなく、手垢の夥しい認印と二三枚の書付がくしやくしやになつてゐた。三枚とも為替の領収書であつた。送り先は、東京の家内宛で、その三枚は順に前々月からの定つた日付の送金書なのであつた。

「あゝ、さうだつたのか――」

と私は思はず呟いた。私は、また彼の妻が彼の放蕩に愛想を尽して東京の娘の許へ身を寄せてゐたのか――といふことを忘れてゐたので、さう気づくと同時に、凡およそ口には出せぬ類ひの、平凡な肯定にうなづいたのである。彼の細君は、二十幾つも齢の違ふ律気な人物だつたが、兼々秘かな病気を病わづらつて居り、当時は娘の家から病院通ひに暮してゐるといふことであつた。源造は世にも不しだらな放蕩者ではあるが、その為替の受取書で見ると一通りは忠実な亭主であつた。

*

「約束通り迎へに来たよ。」

私は雪もよひの午ちかく、重い瞼をしばたゝきながらゆうべの二階へ出向いた。

「いゝえ、もう今朝早くお帰りになりましたよ。」

と女は、私が金を払はうとすると、源造は今朝チヨツキの内かくしから封筒に入つてゐる金を見出して、半分だけ払つて行つたといふことであつた。おそらく彼が私を昨夜呼び寄せたのは、その日の私の奔走のためのねぎらひか、それとも調子の次第によつてはもう一ト相談を覆ひ被せようとしたところ、どうやら私の不気嫌さうな面持に怕れをなして敬遠したものか、兎もあれ案外に小心な彼は、空つぽだ〱などと喚きながらも最後の遊蕩費だけは要心深く用意してゐたのであつた。――私は単に「人間」を考へて憂鬱だつたのだ……といふ意味のことを、今度彼に会つたら諄々と説明しなければ己れの沽券に係はると唇を噛んだ。ところが、それ以来ひと月あまり経つても一向彼は姿を現さなかつた。

岩城源造は老人といふばかりでなく、至つて金放れが悪い奴と目され、何処の「カフエー」でも、見せ金を示さぬうちは決して媚を呈さず、彼の甘言になど乗る女は絶無であるといふことだつた。――その源造が、大見得を切つて紙幣をバラ撒いたといふ魂胆は、私にも辛うじて想像がついた。凡ゆる彼の酔態を私は戦竦をもつて毛嫌ひしてゐる者であつたが、その光景を見損つたのは稍遺憾の思ひであつた。彼の吝嗇に関する悪評は日増に猛々しく、それ位の札びらを切らぬ限り、彼が想ひを寄せてゐるといふ其処のカフエーの、飯たき婦のやうに肥つてゐる女でさへも笑顔を示さぬといふことだつた。――多分、彼は別の町にでも河岸を変へたのか、それにしても一向姿を現さぬところから察すると、健康を取り戻した女房が帰村したのかも知れぬのである。

底本 / Source edition

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「東京朝日新聞 第一七八四六号」東京朝日新聞社
1935(昭和10)年12月22日
初出:「東京朝日新聞 第一七八四六号」東京朝日新聞社
1935(昭和10)年12月22日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月26日作成
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書誌 / Bibliography
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牧野 信一「老猾抄」(新字旧仮名)、底本『牧野信一全集第六巻』筑摩書房、2003年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 045333_000183, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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