Soranoha

るい

るい

牧野 信一

竹藪の蔭の井戸端に木蓮とコヾメ桜の老樹が枝を張り、野天風呂の火が、風呂番の娘の横顔を照してゐた。もう余程古いことであり、村の名前さへ稍朧ろ気であるが、私は不思議とその娘の名がるいといふのであつたと憶えてゐる。その時私は採集旅行の途中で大きな沼のあるその村への櫟林で大ムラサキ蝶を追ひかけるうちに可成りの断崖から滑つて脚を痛め、十日ちかくもその宿に滞留してゐたらうか? と思はれるが、その間だつて殆んどその娘と口など利いたこともなく、それも別段何かのはにかみを感じたからといふわけでもなく、ともあれ名前すらが記憶に残つてゐるといふだけでも私にとつては不思議な次第と思はざるを得ないのだ。宿屋と云つてもたゞの百姓家同然で、若しも軒先に煙草の看板ほどの酷く煤けた「おとまり宿」といふ板が掛つてゐなかつたら見逃すのが当然沁みた草葺屋根の不恰好な二階屋だつた。

二階は何時にも使つたこともなく物置同様で? と、素樸を装ひながら旅人を見る眼には仲々陰険な、そして業慾の貌がはつきりと窺はれる亭主が、二階をと望んだ私の申出を余程迷惑さうであつた。然し私は、夜になると囲炉裡端に大層な漁色漢沁みた連中が集つて面白くもない聞くも卑猥な冗談を如何にも吾ながら面白さうに喋舌るのが聞くも気持が悪く、一日や二日の滞留では済されさうもなかつたので、強ひて二階の一室を片づけさせた。るいはその家の一人娘らしかつたが、夜になると赤い帯を締めて囲炉裡端で沼で獲れる魚を焼きながら酒の酌をつとめてゐた。親父が傍にゐるといふのに酒飲連は遠慮も知らずに娘をからかつた。私は酔客よりも寧ろ、そんな光景を平気で眺めてゐる親父を可怪おかしく思つた。娘は大概ツンと済して笑ひ声ひとつ立てなかつたが、そんな愛嬌知らずで充分な人気があつたところを見ると一廉の美しい花には相違なかつたのだ。眼のぱつちりした痩形の娘で、私のコダツクを見ると頻りに写して呉れと強請せがんだので、彼女が棒縞のモンペを穿いて野良仕事へ出るところを写さうとすると、そんな姿は御免だと云つて夢中で馬小屋へ隠れた。

夜更けに私が何うかして眼を醒すと、いつの間にか階下の酔漢連の声も絶え、消えかゝつた豆ランプが私の枕もとに点つてゐて――いつも私は夢かと思ふのであつたが、あまり毎晩つゞくので、終ひには私も苦笑と共に思はず咳払ひを発した。すると隣室の、すゝり泣くやうな、わらふやうな女の声もピタリと虫のやうに止絶えた。隣室は蚕の道具などが一杯の納屋なのに――と私は思ひ、湖畔のロメオとジユリエツトを想像した。ひとりがるいであることも明らかになつたが、別段私は痛痒も感ずる筈もなく獲り逃した蝶々の方が遥かに悩ましい夢であつた。だが、未だ一本あしの竹竿で滑稽な脚取りであつたにも関はらず、隣町へ麦袋を積んでゆくるいの馬車に同乗を乞ふて出発した私は少々「悲劇のさゝやき」に中毒した態と云ふべきであつたらう。

人物は解らなかつたが――と私が途中で、物置小屋の逢引など止めてその人と何故早く結婚しないのか? などゝ訊ねると、るいは、たゞゲラゲラと笑つてゐた。実に意外なことには何うやらあの親父が、世間態のみを娘と偽つてゐるらしかつた。私は非常に驚き、同時に彼女の涙を想像して痛く同情の言葉を寄せたところ、娘は一向平気で、

「あんな爺、いまにくたばるづら……」

などゝ頓着なくうそぶき、馬車が小暗い森に差しかゝつたころ、

「おら、この間こゝらで狼の糞を見たぞ。」

そんなことを云つて笑つた。それから、何の酔興で「蝶々ツパ」などを追ひかけるのか? とか、売れやしまいに! とか、せめて煮てゞも食へるものならな――など、彼女は私を嘲笑した。

で、私があの大ムラサキといふのは買ふとなれば一羽八十銭ぐらひはするよ――と教へると彼女は、たつたいま臆病な私が狼の糞と聞いて仰天した時よりも、仰山に眼を丸くして、うへツ〱! と見るも物々しく肩をすぼめて驚嘆した。

それにしても私は、どう考へても、あの憎態な親父と、るいとを――然も別段何の煩悶も持たぬらしいるいとを、連想することは敵はなかつた。さう云ふ意味と、彼女の無邪気さと快活さと、そして如何にも未だ子供らしい美しさとが私の異様にあざやかな印象に残つたのだ。

底本 / Source edition

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「Home line(ホーム・ライン) 第三巻第三号」玉置合名会社
1936(昭和11)年3月15日発行
初出:「Home line(ホーム・ライン) 第三巻第三号」玉置合名会社
1936(昭和11)年3月15日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/045332_000183/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/045332_000183/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/045332_000183/

牧野 信一「るい」(新字旧仮名)、底本『牧野信一全集第六巻』筑摩書房、2003年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 045332_000183, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite