Soranoha

ガール・シヤイ挿話

ガール・シャイそうわ

牧野 信一

僕(理科大学生)は、さつき玄関でチラリと娘の姿を見たばかりで一途にカーツと全身の血潮が逆上してしまつて(註、ガール・シヤイを翻訳すれば、美しい女を見ると無性に気恥かしくなつて口が聞けなくなる病――とでも云ふべきであらう。)慌てゝ自分の部屋へ逃げ込んでしまつた。

「おーい、二郎、来ないか?」

兄貴が呼んだ。僕はゾーツとした。――斯う逆上すると、それが何んな原因に依る感情であるか(有頂天の法悦にひたり酔つてゐた筈だツたが)――などといふことは反つて忘れてしまつて、厭世観に誘はれて来る。

僕は堅くなつて兄貴の部屋に入つて行つた。わざと何気ない素振りを装はうとする努力が、却つて僕の態度を堅くしてしまふのだ。

兄貴は僕の顔を見るがいなや、変に快活気な調子で、

「フロラさんだよ。」

と、僕も噂にだけは聞いてゐたアメリカ娘を紹介した。噂に聞いてゐた時よりも、ずつと美しいので僕は内心酷く驚いてゐた。

「おゝ、ジロウ――お前のことは予々かね〲お前の兄から……」

フロラは流暢な自国の言葉で、洗練された愛嬌を振りまきながら腕を差し出した。それだけ解つたゞけで、何んな言葉を云つてゐるのか僕にはさつぱり解らなくなつてしまつたが、辛く微笑を湛へて恭々しくその手だけはとつた。

(僕は、第一印象だけで、彼女に深く想ひをかけてしまつた自分が可笑しく、そして憂鬱であつた。)

僕は、椅子に腰かけたが絶対に言葉がなく、煙草ばかり喫してゐた。

兄貴とフロラは絶え間なく会話を続けてゐたが、不図娘は僕を意味して、

「彼は――」と兄貴にたづねた。僕はドキツとしたが、努めて平気さうに己れもまた長閑な会話者であるかのやうな表情を浮べてゐたのであるが――。「彼は何故ゆゑにあの如く黙つてゐるのか、何か不機嫌な理由でもあるのか?」

「おそらく――」

と兄貴は人の悪い嗤ひを浮べて云つた。「レデイの美しさに圧倒されてゐるのだらう。彼は、自ら交際下手であることを自慢に感じてゐるといふ風な気の毒なアカデミシアンであるらしい。」

僕は、横を向かずには居られなかつた。壁ぎはにあつた鏡にフロラが写つてゐた。彼女は、膝の上の大きな赤革の化粧ケースの蓋をあけて、化粧をしながら、

「自分にはアカデミシアンの胸は全く解らない。」などゝ云つてゐた。

「フロラ――彼に、お前の国流の礼儀作法を教へてやつてくれ。彼は学校を出ると同時にお前の国を訪ねたい希望を持つてゐる故――」

苛めないで呉れ――とでも僕は兄貴に云つてやり度いやうな思ひであつた。

「おゝ、さう――」

とフロラは深重に点頭いた。そして僕に向つて、

「妾の親愛なる友よ、妾はお前に依つて日本語を覚えたい、お前の町の美しさは妾がこれまで訪れた国々のうちで……」

と切りに話しかけたが、僕は一向に答へる様子もないので再び兄貴に向つて、

「彼は英語は話せないのかしら?」とたづねた。

「実用会話だけが特に不得意らしい。」

「まあ、気の毒な。この先、妾と交際したならば、では、随分彼は有益であらう。」

「非常に〱。」

と兄貴は云ふと同時に、最もはやい日本語で僕に、

「何とか云へよ。」と一矢を放つた。

僕は、眼と首を横に振つた。兄貴は僕にだけ通じる程度で、舌を打ち、そしてフロラとの会話を続けてゐた。

僕は腕を組んで達磨のやうな眼をしてゐるより他に術がなくなつてゐた。そして、二人の会話を聞いてゐるやうな顔はしてゐたが、何も解らず、たゞ時々フロラの横顔を盗み見るだけであつた。

考へて見ると、僕はこの部屋に現れて以来一言の声すら発してゐないのだ。さう思ふと僕は、そんな自分の存在が自分ながら不気味で、そして癇癪が起つた。

……と云ふて、急にこの木兎のやうな男がベラ〱と喋舌り出したら随分変なものだらう、あゝ何うしたら好いだらう……。

僕は、六ツかしい顔をして、秘かにそんな愚かな溜息を吐き、もういよ〱凝ツとしては居られなくなつたので、そつとごまかすやうにして椅子を離れて逃げ出さうとした時不図熱い耳に兄貴の一言が聞えた。

「彼は FOOLISH ――なんだよ。そして時々病の発作が起るらしい。」

「おゝ、さう。FOOLISH ……」

フロラは白い表情で、平然と点頭いてゐた。その声は科学者の点頭きのやうに澄んで、非感情的であつた。

が、僕が思はず振り返ると、フロラの幾分驚きを含んだ眼が凝ツと僕の顔を眺めてゐた。――僕は前後の弁へもなく、自分では愛嬌と礼儀のつもりで、出来るだけ豊かな微笑を浮べて、軽く頭をさげると、フロラの表情は明らかに恐怖の色を露はした。

底本 / Source edition

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「国民新聞 第一三九一九号」国民新聞社
1930(昭和5)年9月14日
初出:「国民新聞 第一三九一九号」国民新聞社
1930(昭和5)年9月14日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2009年12月9日作成
2016年5月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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牧野 信一「ガール・シヤイ挿話」(新字旧仮名)、底本『牧野信一全集第四巻』筑摩書房、2002年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 045295_000183, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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