このデネマルクという国は実に美しい。言語には晴々しい<ruby><rb>北国</rb><rt>ほっこく</rt></ruby>の音響があって、異様に聞える。人種も異様である。驚く程純血で、髪の毛は<ruby><rb>苧</rb><rt>お</rt></ruby>のような色か、または<ruby><rb>黄金色</rb><rt>こがねいろ</rt></ruby>に光り、肌は雪のように白く、体は<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>のようにすらりとしている。それに海近く<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでいる人種の常で、秘密らしく大きく開いた、妙に<ruby><rb>赫</rb><rt>かがや</rt></ruby>く目をしている。

<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はこの国の海岸を愛する。夢を見ているように美しい、ハムレット<ruby><rb>太子</rb><rt>たいし</rt></ruby>の故郷、ヘルジンギヨオルから、スウェエデンの海岸まで、さっぱりした、<ruby><rb>住心地</rb><rt>すみごこち</rt></ruby>の<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>さそうな<ruby><rb>田舎家</rb><rt>いなかや</rt></ruby>が、帯のように続いていて、それが田畑の緑に<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>もれて、夢を見るように、海に<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いている。雨を催している日の空気は、舟からこの海岸を手の届くように近く見せるのである。

我々は<ruby><rb>北国</rb><rt>ほっこく</rt></ruby>の関門に立っているのである。なぜというに、ここを越せばスカンジナヴィアの南の<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>である。そこから偉大な半島がノルウェエゲンの<ruby><rb>瀲</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>や岩のある所まで延びている。

あそこにイブセンの墓がある。あそこにアイスフォオゲルの<ruby><rb>家</rb><rt>いえ</rt></ruby>がある。どこかあの<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>で、北極探険者アンドレエの骨が<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>されている。あそこで<ruby><rb>地極</rb><rt>ちきょく</rt></ruby>の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>が人を<ruby><rb>威</rb><rt>おど</rt></ruby>している。あそこで大きな<ruby><rb>白熊</rb><rt>しろくま</rt></ruby>がうろつき、ピングィン<ruby><rb>鳥</rb><rt>ちょう</rt></ruby>が<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を据えて<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り、光って漂い歩く氷の宮殿のあたりに、昔話にありそうな<ruby><rb>海象</rb><rt>かいぞう</rt></ruby>が群がっている。あそこにまた昔話の磁石の山が、舟の<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>を吸い寄せるように、探険家の心を始終引き付けている地極の秘密が眠っている。我々は北極の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>の上に立って、地極というものの<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>く息を顔に受けている。

この土地では<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby>も戸を締めない。<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>もいなければ、盗賊もいないからである。斜面をなしている<ruby><rb>海辺</rb><rt>かいへん</rt></ruby>の地の上に、神の平和のようなものが広がっている。何もかも<ruby><rb>故郷</rb><rt>こきょう</rt></ruby>のドイツなどとは違う。更けても暗くはならない、<ruby><rb>此頃</rb><rt>このごろ</rt></ruby>の六月の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の薄明りの、<ruby><rb>褪</rb><rt>さ</rt></ruby>めたような色の光線にも、また翌日の朝焼けまで<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに光り<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>まない、空想的な、不思議に優しい調子の、薄色の夕日の景色にも、また<ruby><rb>暴風</rb><rt>あらし</rt></ruby>の来そうな、薄黒い空の下で、<ruby><rb>銀鼠色</rb><rt>ぎんねずみいろ</rt></ruby>に光っている海にも、また海岸に棲んでいる人民の異様な目にも、どの中にも一種の秘密がある。遠い<ruby><rb>北国</rb><rt>ほっこく</rt></ruby>の<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>がある。静かな夏の日に、北風が持って来る、あちらの地極世界の沈黙と<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>とがある。

己は静かな所で<ruby><rb>為事</rb><rt>しごと</rt></ruby>をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした<ruby><rb>蔓草</rb><rt>つるぐさ</rt></ruby>の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の<ruby><rb>午前</rb><rt>ごぜん</rt></ruby>であった。己の部屋の窓を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いたものがある。

「<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>か」と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って、その<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った男を見て、己は目を大きく<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>った。

背の高い、立派な男である。この土地で<ruby><rb>奴僕</rb><rt>ぬぼく</rt></ruby>の締める<ruby><rb>浅葱</rb><rt>あさぎ</rt></ruby>の前掛を締めている。男は響の<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い、節奏のはっきりしたデネマルク語で、もし靴が一足間違ってはいないかと問うた。

果して己は間違った靴を一足受け取っていた。男は自分の<ruby><rb>過</rb><rt>あやまち</rt></ruby>を謝した。

その時己はこの男の名を問うたが、なぜそんな事をしたのだか分からない。多分体格の立派なのと、<ruby><rb>項</rb><rt>うなじ</rt></ruby>を<ruby><rb>反</rb><rt>そら</rt></ruby>せて、<ruby><rb>傲然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>としているのとのためであっただろう。

「エルリングです」と答えて、軽く会釈して、男は出て行った。

エルリングというのは古い、立派な、<ruby><rb>北国</rb><rt>ほっこく</rt></ruby>の王の名である。それを靴を磨く男が<ruby><rb>名告</rb><rt>なの</rt></ruby>っている。ドイツにもフリイドリヒという奴僕はいる。しかしまさかアルミニウスという名は付けない。この土地はおさんにインゲボルクがいたり、小間使にエッダがいたりする。それがそういう立派な名を<ruby><rb>汚</rb><rt>けが</rt></ruby>すわけでもない。

己はいつまでもエルリングの事を忘れる事が出来なかった。あの男のどこが、こんなに己の注意を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたのだか、己の部屋に這入っていた時間が余り短かったので、なんとも判断しにくい。目は青くて、妙な表情をしていた。なんでもずっと遠くにある物を見ているかと思うように、<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を見ていた。悲しげな目というでもない。<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な、ごく真面目な目で、<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えば最も静かな、最も神聖な最も世と懸隔している寂しさのようだとでも云いたい目であった。そうだ。あの男は不思議に寂しげな目をしていた。

下宿の女主人は、上品な老処女である。<ruby><rb>朝食</rb><rt>あさしょく</rt></ruby>に出た時、そのおばさんにエルリングはどこのものかという事を問うた。

「ラアランドのものでございます。どなたでもあの男を見ると不思議がってお聞きになりますよ。本当にあのエルリングは変った男です。」こう云いさして、大層意味ありげに<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を切って、外の事を話し出した。なんだかエルリングの事は、食卓なんぞで、<ruby><rb>笑談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>半分には話されないとでも思うらしく見えた。

食事が済んだ時、それまで公爵夫人ででもあるように、一座の首席を占めていたおばさんが、ただエルリングはもう二十五年ばかりもこの家にいるのだというだけの事を話した。ひどく尊敬しているらしい口調で話して、その外の事は言わずにしまった。丁度親友の内情を人に打ち明けたくないのと、同じような関係らしく見えた。

そこで己は<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の方角から、エルリングの事を探知しようとした。

己はその<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>中庭や<ruby><rb>畠</rb><rt>はた</rt></ruby>で、エルリングが色々の為事をするのを見た。<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>を割っている事もある。花壇を掘り返している事もある。桜ん坊を摘んでいる事もある。一山もある、<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れた洗濯物を車に積んで<ruby><rb>干場</rb><rt>ほしば</rt></ruby>へ運んで<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く事もある。何羽いるか知れない程の<ruby><rb>鶏</rb><rt>にわとり</rt></ruby>の世話をしている事もある。古びた自転車に乗って、郵便局から郵便物を受け取って帰る事もある。

エルリングの体は筋肉が善く発達している。その幅の広い両肩の上には、哲学者のような頭が乗っている。たっぷりある、半明色の髪に少し<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>が交って、波を打って、立派な額を囲んでいる。鼻は立派で、大きくて、しかも優しく、<ruby><rb>鼻梁</rb><rt>びりょう</rt></ruby>が軽く<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>の<ruby><rb>嘴</rb><rt>くちばし</rt></ruby>のように<ruby><rb>中隆</rb><rt>なかだか</rt></ruby>に曲っている。<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>は無い。口は唇が狭く、渋い表情をしているが、それでも冷酷なようには見えない。歯は白く光っている。

己の鑑定では五十歳位に見える。

下宿には大きい庭があって、それがすぐに海に接している。カツテガツトの波が岸を打っている。そこを散歩して、己は小さい丘の上に、<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>の木で囲まれた低い小屋のあるのを発見した。木立が、何か秘密を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>い<ruby><rb>蔽</rb><rt>かく</rt></ruby>すような<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に小屋に迫っている。木の枝を押し分けると、赤い<ruby><rb>窓帷</rb><rt>カアテン</rt></ruby>を掛けた<ruby><rb>窓硝子</rb><rt>まどがらす</rt></ruby>が見える。

家の棟に<ruby><rb>烏</rb><rt>からす</rt></ruby>が一羽止まっている。<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>らしてあるものと見えて、その炭のような目で己をじっと見ている。低い戸の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に、<ruby><rb>沢</rb><rt>つや</rt></ruby>の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い、黒い大きい、猫が<ruby><rb>蹲</rb><rt>うづくま</rt></ruby>って、<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>を見詰めていて、己が側へ寄っても知らぬ顔をしている。

そこへ<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>のある<ruby><rb>籐</rb><rt>と</rt></ruby>の<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>にあかすぐりの実を入れて手に持った女中が通り掛かったので、それにこの家は誰が住まっているのだと問うた。

「エルリングさんの内です」と、女中が云った。さも尊敬しているらしい調子であった。

エルリングに<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>って、話をし掛けた事は度々あったが、いつも何か邪魔が出来て会話を中止しなくてはならなかった。

ある晩波の荒れている海の上に、ちぎれちぎれの雲が<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっていて、その背後に日が沈み掛かっていた。<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも壮大な、ベエトホオフェンの音楽のような景色である。それを見ようと思って、己は海水浴場に<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く狭い道へ出掛けた。ふと<ruby><rb>槌</rb><rt>つち</rt></ruby>の音が聞えた。その方を見ると、浴客が海へ下りて<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く階段を、エルリングが修覆している。

己が会釈をすると、エルリングは鳥打帽の<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>に手を掛けたが、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐそのまま為事を続けている。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く立って見ている内に、階段は立派に直った。

「お前さんも海水浴をするかね」と、己が問うた。

「ええ。毎晩いたします。」

「泳げるかね。」

「大好きです。」

なぜ夜海水浴をするのか問おうかと思ったが止めた。多分昼間は<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>がないのだろう。

「冬になるとお前さんどこへ行くかね。コッペンハアゲンだろうね。」

「いいえ。ここにいます。」

「ここにいるのだって。この別荘造りの下宿にかね。」

「ええ。」

「お前さんの外にも、冬になってあの家にいる人があるかね。」

「わたくしの外には誰もいません。」

己はぞっとしてエルリングの顔を見た。「<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>まるまいじゃないか。冬寒くなってから、こんな所にたった一人でいては。」

エルリングは、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたままで長い<ruby><rb>螺釘</rb><rt>ねじくぎ</rt></ruby>を調べるように見ていたが、<ruby><rb>中音</rb><rt>ちゅうおん</rt></ruby>で云った。

「冬は<ruby><rb>中々</rb><rt>なかなか</rt></ruby>好うございます。」

己はその顔を見詰めて、首を振った。そして<ruby><rb>分疏</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>のように、こう云った。「余計な事を聞くようだが、わたしは小説を書くものだからね。」

この時相手は初めて顔を上げた。「小説家でおいでなさるのですか。デネマルクの詩人は多くこの土地へ見えますよ。」

「小説なんと云うものを読むかね。」

エルリングは頭を振った。「冬になると、随分本を読みます。だが小説は読みません。若い時は読みました。そうですね。マリイ・グルッベなんぞは、今も折々出して見ますよ。ヤアコップセンは好きですからね。どうもこの頃の人の書くものは。」手で拒絶するような振をした。

己は自分の事を<ruby><rb>末流</rb><rt>ばつりゅう</rt></ruby>だと<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めてはいるが、それでも少し侮辱せられたような気がした。そこで会釈をして、その場を<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた。

夕食の時、己がおばさんに、あのエルリングのような男を、冬の七ヶ月間、こんな寂しい<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に置くのは、残酷ではないかと云って見た。

おばさんは意味ありげな微笑をした。そして云うには、ことしの五月一<ruby><rb>日</rb><rt>じつ</rt></ruby>に、エルリングは町に手紙をよこして、もう別荘の面白い季節が過ぎてしまって、そろそろお前さんや、避暑客の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>が来られるだろうと思うと、ぞっとすると云ったと云うのである。

「して見ると、あなたの<ruby><rb>御贔屓</rb><rt>ごひいき</rt></ruby>のエルリングは、余りお世辞はないと見えますね。」

「それはそうでございます。お世辞なんぞはございません。」こう云っておばさんは笑った。

己にはこの男が段々面白くなって来た。

その晩十時過ぎに、もう内中のものが<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>てしまってから、己は物案じをしながら、薄暗い庭を歩いて、<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>いだ海の鈍い波の音を、ぼんやりして聞いていた。その時己の目に明りが見えた。それはエルリングの家から<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>していたのである。

己は直ぐにその明りを<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って、家の戸口に行って、少し<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>をさせながら、戸を叩いた。

内からは「どうぞ」と、落ち着いた声で答えた。

己は戸を開けたが、意外の感に打たれて、閾の上に足を<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>めた。

ランプの<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けてある<ruby><rb>古卓</rb><rt>ふるづくえ</rt></ruby>に、エルリングはいつもの<ruby><rb>為事衣</rb><rt>しごとぎ</rt></ruby>を着て、<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>り掛かっている。ただ前掛だけはしていない。何か書き物をしているのである。書いている紙は大判である。その側には厚い書物が開けてある。<ruby><rb>卓</rb><rt>たく</rt></ruby>の上のインク<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>の背後には、例の大きい黒猫が蹲って眠っている。エルリングが肩の上には、例の烏が止まって今己が出し抜けに来た<ruby><rb>詫</rb><rt>わび</rt></ruby>を云うのを、真面目な<ruby><rb>顔附</rb><rt>かおつき</rt></ruby>で聞いていたが、エルリングが座を<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ったので、鳥は部屋の隅へ飛んで行った。

エルリングは<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を出して己を掛けさせた。己はちょいと横目で、書棚にある書物の背皮を見た。グルンドヴィグ、キルケガアルド、ヤアコップ・ビョオメ、アンゲルス・シレジウス、それからギョオテのファウストなどがある。<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に言った三つの書物は、背革の文字で見ると、ドイツの原書である。エルリングはドイツを読むと見える。書物の選択から推して見ると、この男は宗教哲学のようなものを研究しているらしい。

大きな望遠鏡が、高い台に据えて、海の方へ向けてある。<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に聞けば、その凸面鏡は、エルリングが自分で<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>ったのである。書棚の上には、地球儀が一つ置いてある。<ruby><rb>卓</rb><rt>たく</rt></ruby>の上には分析に使う<ruby><rb>硝子瓶</rb><rt>がらすびん</rt></ruby>がある。<ruby><rb>六分儀</rb><rt>ろくぶんぎ</rt></ruby>がある。古い顕微鏡がある。自然学の趣味もあるという事が分かる。家具は、部屋の隅に<ruby><rb>煖炉</rb><rt>だんろ</rt></ruby>が一つ据えてあって、その側に<ruby><rb>寝台</rb><rt>ねだい</rt></ruby>があるばかりである。

「心持の好さそうな住まいだね。」

「ええ。」

「冬になってからは、誰が<ruby><rb>煮炊</rb><rt>にたき</rt></ruby>をするのだね。」

「わたしが自分で<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ります。」こう云って、エルリングは左の方を指さした。そこは<ruby><rb>龕</rb><rt>がん</rt></ruby>のように<ruby><rb>出張</rb><rt>でば</rt></ruby>っていて、その中に<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>や<ruby><rb>鍋釜</rb><rt>なべかま</rt></ruby>が置いてあった。

「この土地の冬が好きだと云ったっけね。」

「大好きです。」

「冬の間に誰か尋ねて来るかね。」

「あの男だけです。」エルリングが指さしをする方を見ると、祭服を着けた司祭の肖像が<ruby><rb>卓</rb><rt>たく</rt></ruby>の上に懸かっている。それより外には<ruby><rb>匾額</rb><rt>へんがく</rt></ruby>のようなものは一つも懸けてないらしかった。「あれが友達です。ホオルンベエクと云う隣村の牧師です。やはりわたしと同じように無妻で暮しています。それから余り附合をしないことも同様です。年越の晩には、<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まって来ますが、その外の晩にも、冬になるとちょいちょい来て一しょにトッジイを飲んで話して行きます。」

「冬になったら、この<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>は早く暗くなるだろうね。」

「三時半位です。」

「早く寝るかね。」

「いいえ。随分長く起きています。」こんな問答をしているうちに、エルリングは時計を見上げた。「御免なさい。丁度夜なかです。わたしはこれから海水浴を遣るのです。」

己は主人と一しょに立ち上がった。そして出口の方へ<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>こうとして、ふと壁を見ると、今まで気が附かなかったが、あっさりした額縁に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めたものが今一つ懸けてあった。それに<ruby><rb>荊</rb><rt>いばら</rt></ruby>の<ruby><rb>輪飾</rb><rt>わかざり</rt></ruby>がしてある。薄暗いので、念を入れて額縁の中を覗くと、肖像や<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>ではなくて、手紙か何かのような、書いた物である。己は足を<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>めて、少し立ち入ったようで悪いかとも思ったが、決心して聞いて見た。

「あれはなんだね。」

「判決文です。」エルリングはこう云って、目を大きく睜って、落ち着いた<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>で己を見た。

「誰の。」

「わたくしのです。」

「どう云う文句かね。」

「殺人犯で、懲役五箇年です。」緩やかな、力の這入った詞で、真面目な、憂愁を帯びた目を、<ruby><rb>怯</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>もなく、大きく睜って、己を見ながら、こう云った。

「その刑期を済ましたのかね。」

「ええ。わたくしの約束した女房を附け<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>していた船乗でした。」

「そのお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんになるはずの女はどうなったかね。」

エルリングは異様な手附きをして窓を指さした。その<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>は海である。「行ってしまったのです。移住したのです。行方不明です。」

「それはよほど前の事かね。」

「さよう。もう三十年程になります。」

エルリングは<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>として戸口を出て<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くので、己も附いて出た。戸の外で己は握手して覚えず丁寧に礼をした。

暫くしてから海面の薄明りの中で己はエルリングの頭が浮び出てまた沈んだのを見た。海水は鈍い銀色の光を放っている。

己は帰って寝たが、夜どおしエルリングが事を思っていた。その犯罪、その生涯の事を思ったのである。

丁度<ruby><rb>浮木</rb><rt>うきき</rt></ruby>が波に<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ばれて漂い寄るように、あの男はいつかこの<ruby><rb>僻遠</rb><rt>へきえん</rt></ruby>の<ruby><rb>境</rb><rt>さかい</rt></ruby>に来て、漁師をしたか、農夫をしたか知らぬが、ある事に出会って、それから沈思する、<ruby><rb>冥想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>する、思想の上で何物をか求めて、一人でいると云うことを覚えたものと見える。その苦痛が、そう云う運命にあの男を<ruby><rb>陥</rb><rt>おとし</rt></ruby>いれたのであろう。そこでこうして、この別荘の冬の王になっている。しかし毎年春が来て、あの男の頭上の<ruby><rb>冠</rb><rt>かんむり</rt></ruby>を奪うと、あの男は浅葱の前掛をして、人の靴を磨くのである。夏の生活は短い。明るい色の<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしょう</rt></ruby>や、<ruby><rb>麦藁帽子</rb><rt>むぎわらぼうし</rt></ruby>や、笑声や、<ruby><rb>噂話</rb><rt>うわさばなし</rt></ruby>は<ruby><rb>倐忽</rb><rt>たちまち</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>き去って、夢の<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>くに消え<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せる。秋の風が立つと、<ruby><rb>燕</rb><rt>つばめ</rt></ruby>や、<ruby><rb>蝶</rb><rt>ちょう</rt></ruby>や、散った花や、落ちた葉と一しょに、そんな生活は吹きまくられてしまう。そして別荘の窓を、外から冬の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>の<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>が覗く。人に<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てられた家と、葉の落ち尽した<ruby><rb>木立</rb><rt>こだち</rt></ruby>のある、広い庭とへ、沈黙が抜足をして尋ねて来る。その時エルリングはまた昂然として頭を挙げて、あの<ruby><rb>小家</rb><rt>こいえ</rt></ruby>の中の<ruby><rb>卓</rb><rt>たく</rt></ruby>に<ruby><rb>靠</rb><rt>よ</rt></ruby>っているのであろう。その肩の上には<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>が止まっている。この<ruby><rb>北国</rb><rt>ほっこく</rt></ruby>神話の中の神のような人物は、宇宙の問題に思を潜めている。それでも<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>には、あの荊の輪飾の下の<ruby><rb>扁額</rb><rt>へんがく</rt></ruby>に目を注ぐことがあるだろう。そしてあの<ruby><rb>世棄人</rb><rt>よすてびと</rt></ruby>も、遠い、微かな夢のように、<ruby><rb>人世</rb><rt>じんせい</rt></ruby>とか、喜怒哀楽とか、得喪利害とか云うものを思い浮べるだろう。しかしそれはあの男のためには、<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くに一切<ruby><rb>折伏</rb><rt>しゃくぶく</rt></ruby>し去った物に過ぎぬ。

暴風が起って、海が荒れて、<ruby><rb>波濤</rb><rt>はとう</rt></ruby>があの<ruby><rb>小家</rb><rt>こいえ</rt></ruby>を撃ち、庭の木々が<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>めく時、沖を過ぎる舟の中の、心細い舟人は、エルリングが家の窓から<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れる、小さい<ruby><rb>燈</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の光を慕わしく思って見て通ることであろう。

（明治四十五年一月）