一

にいさんの<ruby><rb>松吉</rb><rt>まつきち</rt></ruby>と、弟の<ruby><rb>杉作</rb><rt>すぎさく</rt></ruby>と、年もひとつちがいでしたが、たいへんよくにていました。おでこの頭が顔のわりに大きく、わらうと、ひたいにさるのようにしわがよるところ、走るとき、両方の手をひらいてしまうところも同じでした。

「ふたり、ちっとも、ちがわないね。」

と、よく人がいいました。そうすると、にいさんの松吉が、口をとがらして、虫くい歯のかけたところからつばをふきとばしながら、いうのでした。

「ちがうよ。おれにはふたつもいぼがあるぞ。杉にゃひとつもなしだ。」

そういって、右手の<ruby><rb>骨</rb><rt>ほね</rt></ruby>ばったにぎりこぶしを出して見せました。見ると、なるほど、親指と人さし指のさかいのところに、一センチぐらいはなれて、小さいいぼがふたつありました。

この兄弟の家へ、町から、いとこの<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>が遊びにきたのは、きょ年の夏休みのことでした。克巳は、松吉と同い年の、小学校五年生でした。

克巳は五年生でも、からだは小さく、四年生の杉作とならんでも、まだ五センチぐらい低かったが、こせこせとよく動きまわる子で、松吉、杉作の家へくるとじき、はつかねずみというあだ名をつけられてしまいました。

松吉、杉作の家のうらてには、ふたかかえもあるニッケイの大木がありました。その木の皮を石でたたきつぶすと、いいにおいがしたので、おとなたちが、昼ねをしている昼さがりなど、三人で、まるできつつきのように、木のみきをコツコツとたたいていたりしました。

また、あるときは、おじいさんの耳の中に、毛がはえていることを克巳が見つけて、

「わはァ、おじいさんの耳、毛がはえている。」

とはやしたてたことがありました。松吉、杉作は、もうずっとまえから、そんなことは知っていました。が、あまり、克巳がおもしらそうにはやしたてるので、いっしょになってこれも、

「わはい、おじいさんの耳、毛がはえている。」

と、はやしたてたものでした。すると、おじいさんが、松吉、杉作をにらみつけて、

「なんだ、きさまたちゃ。おじいさんの耳に、毛のはえとることくれえ、毎日見て、よく知ってけつかるくせに。」

と、しかりとばしました。そんなこともありました。

克巳は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からうす</span>をめずらしがって、米をつかせてくれとせがみました。しかし、二十ばかり足をふむと、もういやになって、おりてしまいましたので、あとは、松吉と杉作がしなければなりませんでした。

あしたは克巳が、町へ帰るという日の昼さがりには、三人で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>をかついで<ruby><rb>裏</rb><rt>うら</rt></ruby>山の<ruby><rb>絹池</rb><rt>きぬいけ</rt></ruby>にいきました。絹池は、大きいというほどの池ではありませんが、底知れず深いのと、水がすんでいてつめたいのと、村から遠いのとで、村の子どもたちも、遊びにいかない池でした。三人は、その池をたらいにすがって、南から北に横ぎろうというのでした。

三人は南の<ruby><rb>堤防</rb><rt>ていぼう</rt></ruby>にたどりついてみますと、東、北、西の三方を山でかこまれた池は、それらの山と、まっ白な雲をうかべているばかりで、あたりには、人のけはいがまるでありません。三人はもう、すこしぶきみに感じました。しかし、せっかくここまで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>をかついできて、水にはいりもせず帰っては、あまり、いくじのない話ではありませんか。三人は<ruby><rb>勇気</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>を出して、はだかになりました。そして、<ruby><rb>土手</rb><rt>どて</rt></ruby>の下の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よし</span>の中へ、おそるおそる、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>をおろしてやりました。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>が、バチャンといいました。その音が、あたりの山一面に聞こえたろうと思われるほど、大きな音に聞こえました。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>のところから、波の輪がひろがっていきました。見ていると、池のいちばんむこうのはしまでひろがっていって、そこの小松のかげが、ゆらりゆらりとゆれました。三人はすこし、元気が出てきました。

「はいるぞ。」

と、松吉が、うしろを見ていいました。

「うん。」

と、<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>がうなずきました。

三人のはだかん<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>は、ずぼりずぼりと水の中にすべりこみ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>のふちにつかまりました。そして、うふふふふ、と、おたがいに顔を見合わせてわらいました。おかしいのでわらったのか、あまりつめたかったのでわらったのか、じぶんたちにもよくわかりませんでした。

もう、こうなっては、じっとしているわけには、いきません。三人は足を動かしました。はじめのうちは、<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>がそろわないので、ひとつところであばれているばかりでした。が、そのうちに、三人は同じ方へ水をけりました。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>は、すこしずつ、池の中心にむかって、進みはじめました。

長い時間がたちました。

三人はへとへとになりました。もう足を動かすのがいやになりました。さて、三人は、どこまできたのでしょう。じぶんたちの<ruby><rb>位置</rb><rt>いち</rt></ruby>を見て、三人はびっくりしました。いまちょうど、池のまん中にいるではありませんか。

まわりの山で、せみは鳴きたてています。気ばかりあせります。しかし、からだはもう動きません。

「もう、おれ、およげん。」

と弟の杉作が、なきだすまえのわらい顔でいいました。

松吉も、なきたい気持ちでした。だまって目をつむりました。

「ぼくも、もう、だめや。」

と、<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>もいいました。

松吉は目をひらくと、きっぱり、

「もどろう、そろそろいこう。」

と、いいました。

そして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>を、ぎゃくの方向に、ぐいとひとつおしました。

杉作も克巳も、だまっていました。しかし、松吉についていくより、しかたがありませんでした。つかれきったふたりの顔に、かすかにわきあがる力のいろが見えました。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>は、動いていくようには思えませんでした。いつまでたっても、もとの<ruby><rb>土手</rb><rt>どて</rt></ruby>に帰りつくことは、できないように見えました。

三人は、ときどき、ちっとも近くならない土手の方に、ちらっちらっと、<ruby><rb>絶望</rb><rt>ぜつぼう</rt></ruby>したような目をなげました。

そのとき、松吉の口をついて、

「よいとまァけ。」

という、かけ声がとび出しました。

よいとまけ――それは、いなかの人たちが、家をたてるまえ、地がためをするとき、重い大きいつちを、上げおろしするのに力をあわせるため、声をあわせてとなえる<ruby><rb>音頭</rb><rt>おんど</rt></ruby>です。それは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いなか</span>のことばです。町の子どもである<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>に聞かれるのは、はずかしいことばです。しかし、いまは、松吉は、はずかしくもなんともありません。<ruby><rb>必死</rb><rt>ひっし</rt></ruby>でした。

「よいとまァけ。」

と、水をけって、また松吉はいいました。

すると、弟の杉作がなき声で、

「よいとまァけ。」

と、<ruby><rb>応</rb><rt>おう</rt></ruby>じました。杉作も<ruby><rb>必死</rb><rt>ひっし</rt></ruby>でした。

「よいとまァけ。」

松吉は、声をはりあげました。

するとこんどは、杉作ばかりでなく、<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>までがいっしょに、

「よいとまァけ。」

と、応じました。

克巳もまた、必死だったのです。

三人とも必死でした。必死である人間の気持ちほど、しっくり結びあうものはありません。

松吉は、じぶんたち三人の気持ちが、ひとつのこぶしの形に、しっかり、にぎりかためられたように感じました。そうすると、いままでの百倍もの力が、ぐんぐんわいてきました。

「よいとまァけ。」

と、松吉。

「よいとまァけ。」

と、杉作と克巳。

きゅうに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>が、速くなったように思われました。もう<ruby><rb>土手</rb><rt>どて</rt></ruby>は、すぐそこでした。そら、もう、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よし</span>の一本が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たらい</span>にさわりました。

克巳は、いなかの松吉、杉作の家に十日ばかりいたのですが、最後のこの日ほど、三人がこころの中で、なかよしになったことはありませんでした。

池から家へ帰ってくると、三人はこころもからだも、くたくたにつかれてしまったので、ふじだなの下の<ruby><rb>縁台</rb><rt>えんだい</rt></ruby>に、おなかをぺこんとへこませて、<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>かけていました。

そのとき<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>は、松吉の右手をなでていましたが、

「いぼって、どうするとできる？　ぼくもほしいな。」

と、わらいながらいいました。

「ひとつ、あげよか。」

と、松吉はいいました。

「くれる？」

と、克巳はびっくりして、目を大きくしました。

松吉は、家の中から、<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を一本持ってきました。

「どこへほしい。」

「ここや。」

克巳は信じないもののように、クックッわらいながら、左の二の<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うえぼうそう</span>してもらうときのように出しました。

松吉の右手の一つのいぼと、克巳の腕とに、箸がわたされました。

松吉は、大まじめな顔をしました。そして、天のほうを見ながら、

「いぼ、いぼ、わたれ。

いぼ、いぼ、わたれ。」

と、よく意味のわかるじゅもんをとなえました。

そのよく日、町の子の<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>は、なすや、きゅうりや、すいかを、どっさりおみやげにもらって、町の家に帰っていったのでした。

二

牛<ruby><rb>部屋</rb><rt>べや</rt></ruby>のかげで、さざんかが白くさくころに、松吉、杉作のうちでは、あんころ<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>をつくりました。<ruby><rb>農揚</rb><rt>のうあ</rt></ruby>げといって、この秋のとり入れと、お米ごしらえがすっかり終わったお祝いに、どこの<ruby><rb>百姓家</rb><rt>ひゃくしょうや</rt></ruby>でもそうするのです。

松吉と杉作が、土曜の午後に、学校から帰ってくると、そのお餅を、町の克巳の家にくばっていくことになりました。これはもうきのう、お餅をつくっているときから、ふたりがおかあさんにたのんで、かたく約束しておいたことです。

なぜなら、このことには、ふたつのよいことがありました。ひとつは、夏休みになかよしになったいとこの克巳に会えるということ、もうひとつは、あまりはっきりいいたくないのですが、おだちんをもらえることです。そしてまた、町のおじさんおばさんは、いなかの人のように、お<ruby><rb>銭</rb><rt>かね</rt></ruby>のことではケチケチしません。いつも五十銭ぐらい、おだちんをくれたのです。

おかあさんが、お餅のはいった<ruby><rb>重箱</rb><rt>じゅうばこ</rt></ruby>を、<ruby><rb>風呂敷</rb><rt>ふろしき</rt></ruby>につつんでいるとき、松吉は、

「ねえ、おっかさん、電車に乗ってっても、ええかん。」

と鼻にかかる声で、ねだりました。

「なんや？　電車や？　あんな近いとこまで、歩いていけんようなもんなら、もうたのまんで、やめておいてくよや。おとっつぁんに自転車でひと走りいってきてもらや、すむことだで。」

「うふん。」

と、松吉は鼻をならしました。しかし、帰りはもらったおだちんで、電車に乗ることができると思って、わずかに心をなぐさめました。

松吉と杉作は、ぼうしをかむらないで家を出ました。ぼうしをかむって町へいくと、町の子どもが<ruby><rb>徽章</rb><rt>きしょう</rt></ruby>を見て、松吉、杉作がいなかからきたことを、さとるにちがいありません。それが、ふたりはいやだったのです。

ふたりが<ruby><rb>八幡</rb><rt>はちまん</rt></ruby>さまの石鳥居の前を通りかかると、そこで、こまを持って、ひとりでしょぼんとしていたけん<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>が、

「杉、どこへいくで、遊ぼかよ。」

と、声をかけました。

杉作は、

「おれたち、町へいくんだもん。」

と、いいました。そしてふたりは、新しい幸福にむかって進んでいく人のように、わき目もふらないですぎていきました。

けん<ruby><rb>坊</rb><rt>ぼう</rt></ruby>は、はねとばされた子ねこのような顔をして、ふたりを見送っていました。

村を出てしまったころに、松吉は、じぶんの右手がいたんでいることに、気がつきました。見ると、<ruby><rb>重箱</rb><rt>じゅうばこ</rt></ruby>が右手に持たれているのでした。

ちょうど、うまいぐあいに、一メートルぐらいの竹切れが、道ばたに落ちていました。ふたりはその竹を、<ruby><rb>風呂敷</rb><rt>ふろしき</rt></ruby>の結びめの下に通して、ふたりでさげていくことにしました。弟の杉作が先になり、兄の松吉があとになりました。こうしてふたりで持てば、<ruby><rb>重箱</rb><rt>じゅうばこ</rt></ruby>はたいそう軽いのでした。うまいぐあいでした。

ふたりはしばらく、だまっていきました。松吉はぼんやりと、考えはじめました――五十銭くれると。五十銭もくれるだろうか。でもおばさんは、きょ年もそのまえも五十銭くれたから、ことしだって、くれるだろう。五十銭くれると、それでなにを買おうか。<ruby><rb>模型</rb><rt>もけい</rt></ruby>飛行機の材料――あの米屋の東一君が持っているようなのは、いくらするだろう。五十銭では買えないかなア。それとも、<ruby><rb>雑誌</rb><rt>ざっし</rt></ruby>を買おうかなァ。弟は、なにがいいというかしらん……。

松吉の、とりとめのない<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>は、とつぜん、

「どかァん！」

という、とてつもない音で、ぶちやぶられました。松吉はきもをつぶして、あやうく、持っていた竹を、はなしてしまうところでした。

そんな声をだしたのは、すぐ前を歩いている弟の杉作でした。杉作であることがわかると、松吉ははらがたってきました。

「なんだァ、あんなばかみてな声をだして。」

すると杉作は、うしろも見ないで、こういうのでした。

「あっこの木のてっぺんに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんび</span>がとまったもんだん、<ruby><rb>大砲</rb><rt>たいほう</rt></ruby>を一発うっただげや。」

それでは、しかたがありません。

また、しばらくふたりはだまっていきました。

また松吉は、考えはじめました――<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>はきょう、うちにいるだろうか。おれたちの顔を見たら、どんなに喜ぶだろう。いぼはうまく、<ruby><rb>腕</rb><rt>うで</rt></ruby>についたろうか。おれのいぼは、ひとつ消えてしまったけど。

松吉は、じぶんの右手をそっと見ました。

三

町にはいると、ふたりは、じぶんたちが、きゅうにみすぼらしくなってしまったように思えました。

これでは、ぼうしの<ruby><rb>徽章</rb><rt>きしょう</rt></ruby>を見なくても、<ruby><rb>山家</rb><rt>やまが</rt></ruby>から出てきたことがわかるでしょう。第一、町の人は、こんなふうに、<ruby><rb>魂</rb><rt>たましい</rt></ruby>をぬかれたように、きょろんきょろんとあたりを見ていたり、荷馬車にぶつかりそうになって、どなりつけられたりはしません。ところが、このきょろんきょろんがふたりともやめられないのでした。

ふたりは、こころの中では、ひとつの不安を感じていました。それは、町の子どもにつかまって、いじめられやしないか、ということでした。だから、ふたりはこころをはりつめ、びくびくし、なるべく、子どものいないようなところをえらんでいきました。

<ruby><rb>同盟書林</rb><rt>どうめいしょりん</rt></ruby>という、大きい本屋の前を通りすぎて、すこしいってから、東へはいるせまい<ruby><rb>路地</rb><rt>ろじ</rt></ruby>なかに、克巳の家はありました。そこで、<ruby><rb>同盟書林</rb><rt>どうめいしょりん</rt></ruby>をすぎると、ふたりは、首をがちょうのようにのばして、どんな細い<ruby><rb>路地</rb><rt>ろじ</rt></ruby>ものぞきこみました。道もない、ただ家と家のあいだになっているところまで、のぞきこみました。

そのうちに、杉作が、

「あっ、ここだ。」

と、落とした<ruby><rb>財布</rb><rt>さいふ</rt></ruby>でも見つけたように、さけびました。なるほど、その<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>のなかほどに、<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>と白のねじ<ruby><rb>飴</rb><rt>あめ</rt></ruby>の形をした、<ruby><rb>床屋</rb><rt>とこや</rt></ruby>の<ruby><rb>看板</rb><rt>かんばん</rt></ruby>が見えました。――克巳の家は床屋さんでした。

ふたりは、<ruby><rb>幸運</rb><rt>こううん</rt></ruby>のしっぽを、たしかにつかんだ人のように、あわてずに、進んでいきました。竹切れは、ぬいてすてました。<ruby><rb>重箱</rb><rt>じゅうばこ</rt></ruby>は松吉が持ちました。松吉は口の中で、むこうでいうように、おかあさんから教えられてきたことを、<ruby><rb>復習</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>しました。

店の前までくると、入口のすりガラスの大戸の前には、冬の午後の、かじかんだ日ざしをうけて、ひとつひとつの葉の先に、とげのあるらんの小さい<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>がふたつおいてありました。らんの根もとには<ruby><rb>卵</rb><rt>たまご</rt></ruby>のからがふせてあって、それに道のほこりがつもって、うそ寒いように見えました。しかし、店の中は、すりガラスでよくは見えませんが、あたたかそうな<ruby><rb>湯気</rb><rt>ゆげ</rt></ruby>がたっています。そこには、やさしいおばさんおじさん、なつかしい克巳がいるのです。

重いガラス戸をあけて中へはいりますと、おじさんがひとり、たたみのしいてあるところに、あおむけにひっくり返って、新聞を読んでいました。こちらの方では、まるい銀の頭を、ぴかぴかにみがきあげられたタオルむしが、ひとりで、ジューン、ジューンと湯気をふいていました。

おじさんは新聞を読みながら、うとうとしていたらしく、しばらくそのままでいましたが、やがて、人のけはいにおどろいて、ガバッと新聞をはねのけ、起きあがりました。それを見て、ふたりはびっくりしました。おじさんではなかったのです。

それはふたりの村の、かじ屋の三男の<ruby><rb>小平</rb><rt>こへい</rt></ruby>さんでした。小平さんは、そのまえの年の春ごろ、学校を卒業しました。そういえばいつか小平さんが町の<ruby><rb>床屋</rb><rt>とこや</rt></ruby>さんへ、<ruby><rb>小僧</rb><rt>こぞう</rt></ruby>にいったということを、聞いたような気もします。

ふたりは、つくづくと小平さんの顔とすがたを、うちながめました。

小平さんはなんとなく、おとなくさくなりました。色が白くなり、あごのあたりがこえてきたようでした。頭も<ruby><rb>床屋</rb><rt>とこや</rt></ruby>にきたからでしょうが、四角なかっこうに、きれいにかりこんでいます。もとから、あまり口をきかないで、目を細くして、にこにこしていました。そのくせ、人のうしろから、よくいたずらをしました。

いちど、松吉は、耳の中へあずきを入れられて、こまったことがありました。ああいうことを、小平さんは、今でもおぼえてるかしらん、忘れてしまったかしらん――ともかく、いまも小平さんは、白い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うわっぱり</span>のポケットに両手を入れて、ふたりを見ながら、にこにこしています。

小平さんは、きょうは<ruby><rb>親方</rb><rt>おやかた</rt></ruby>もおかみさんも、<ruby><rb>金光教</rb><rt>こんこうきょう</rt></ruby>のなんとやらへいっていない、<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>ちゃんもまだ学校から帰ってこない、といいました。

ふたりは、ちょっと<ruby><rb>失望</rb><rt>しつぼう</rt></ruby>しました。

「だが、まだ三時だから、もうちょっと待っておれよ。そのうちに、おかみさんが帰っておいでるかもしれんに。」

と、小平さんがいいました。

そこでまた、<ruby><rb>希望</rb><rt>きぼう</rt></ruby>がわきました。ふたりは、あがりはなに、<ruby><rb>目白</rb><rt>めじろ</rt></ruby>おしにならんで、<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>をかけました。

小平さんは、ともかく、お<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>をいただいておこうといって、おくへはいっていき、カタンコトンと音をさせていましたが、やがて、からの<ruby><rb>重箱</rb><rt>じゅうばこ</rt></ruby>を、また<ruby><rb>風呂敷</rb><rt>ふろしき</rt></ruby>につつんで出てきました。松吉はそれをうけとって、ひざの横におきました。

あれから、五分たちました。まだ、おばさんは帰ってきません。おじさんも<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>も、帰ってきません。松吉、杉作はいっしょに、小さいためいきをつきました。

小平さんは、ふたりの頭を見ていましたが、

「だいぶ、のびとるな、ひとつ、だちんのかわりに、かってやろか。」

と、いいました。

ふたりは顔を見あわせて、クスリとわらいました。

松吉も杉作も、生まれてからまだ一ども、<ruby><rb>床屋</rb><rt>とこや</rt></ruby>でかみをかってもらったことはありませんでした。いつもふたりのかみをかったのは、おとうさんか、おかあさんの手ににぎられたバリカンでした。そのバリカンは、もう五、六年まえから、ひどく<ruby><rb>調子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>が悪く、ときどき、ぐわッと大きくかみついて、とることもどうすることもできなくなってしまうようなしまつでしたので、ふたりは、家でかみをかることを、あまり好んではいませんでした。

ふたりは、目の前にある、りっぱな腰かけを見ました。白いせともののひじかけがついています。おしりののるところは、黒い皮ではってあります。もたれるところも、黒い皮です。その上に、小さいまくらのようなものまで、ついています。下の方は、足をのせるかねの台があって、それにはすかしぼりの<ruby><rb>模様</rb><rt>もよう</rt></ruby>があります。このりっぱな<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>かけに腰かけて、やってもらうのです。ふたりはまた、なんとなく顔を見あわせました。

小平さんにうながされて、松吉と杉作は、先をゆずりあって、おたがいにすみの方へひっこみあいをしましたが、とうとう、にいさんの松吉が、先にしてもらうことになりました。

松吉はこわごわ、りっぱな腰かけにのりました。ばかに高いところに、のぼったような気がしました。すぐ前の大きい鏡に、あまりにはっきり、じぶんのひょうたん顔がうつりましたので、はずかしくなりました。

小平さんは、まっ白な布で、松吉の首から下をつつんでしまいました。手も出ませんでした。

小平さんは、どこかからバリカンをとり出してきました。バリカンは、家のと同じもののように見えました。バリカンがさわったとき、松吉は思わず首をすくめました。このバリカンも、かみつくかと思ったのです。

ポロリと、白い布の上に落ちてきたものを見ると、かられた、黒い、じぶんのかみの毛でした。なァんだ、もうかられているのかと、思いました。ちっとも、いたくないではありませんか。そこで松吉は、やっと安心して、かたの力をぬきました。

かみがかられてしまうと、松吉は、これでおしまいだと思いました。家ではいつでも、それだけだったからです。ところが、おどろいたことには、腰かけがキーイとかすかな音をたてて、うしろへたおれていきました。

「あッ。」

と、松吉は、声をたてました。しかし、腰かけはたおれたのではありませんでした。もたれだけが、うしろにのびて、腰かけている人があおむけにねるようになっただけでした。

天じょうの<ruby><rb>白壁</rb><rt>しらかべ</rt></ruby>や、キャベツの玉のような形の大きい、すりガラスの電燈を見ていると、とつぜん、顔一面に、だッとなにかあついぬれたものをのせられて、目も見えなくなってしまいました。見ていた杉作が、おかしかったのか、ハハハハ、とわらっています。松吉もわらいたいのですが、顔がふさがっていて、わらうことができません。人間は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">顔でわらう</span>のだということが、よくわかりました。顔にのせられたのは、むしタオルでありました。

小平さんはタオルをのけると、太い筆のようなもので、せっけんのあわを松吉の顔にぬり、かみそりで、ひたいぎわからそりはじめました。

松吉はそのとき、小平さんがまだ子どもで村にいたころ、松吉たちによくいたずらをしたことを、また思い出しました。小平さんはよくうしろから、そっときて、人の<ruby><rb>背中</rb><rt>せなか</rt></ruby>へ手を入れたり、わきの下をくすぐったりしました。そして、小さい目を細くして、にやにやわらっていました。

いまも松吉は、小平さんが、そんないたずらを、はじめるのではないかと、おしりのおちつかぬ思いでした。ことに小平さんが、松吉の耳をつまんで、二どばかり、耳の毛をそったときには、松吉は、てっきり、小平さんが、むかしのいたずらをはじめたと、思いました。もうすこしで、クックッとわらいだすところでした。しかし、小平さんの顔を見ますと、まじめな顔をしていました。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそび</span>をしているのではない、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">仕事</span>をしている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おとな</span>の顔つきでありました。

松吉には、小平さんがおとなになったから、もう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそばない</span>ということがわかりました。おとなは仕事をするのです。たとえ、人の耳をつまんでそるというような、いたずらみたいなことでも、小平さんは仕事ですから、まじめにするのです。松吉には、おとなになるというのは、ふざけるのをやめて、まじめになる約束のように思われました。なんとなく、さみしい感じがしました。

すみの<ruby><rb>洗面所</rb><rt>せんめんじょ</rt></ruby>で頭をあらい、もう一ぺん<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>かけにもどり、顔に、ぬるぬるしたものをぬってもらうと、松吉の番はすみました。こんどは、弟の杉作がかわって、腰かけにのぼりました。

時計を見ると三時四十分でした。さっきは、入口のガラス戸の下までさしていた日ざしが、いまは、上の方に忘れられたように、ほんのすこしのこっているだけです。

と、そのとき、入口の戸をガラガラと<ruby><rb>乱暴</rb><rt>らんぼう</rt></ruby>にあけて、茶色のジャケツをきた少年が手さげかばんを持ってはいってきました。

「ただいまァ。」

<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>でした。

松吉と杉作は、一ぺんに生きかえりました。「克巳ちゃん。」ということばが、松吉ののどのところまで出てきました。しかし、そこで、とまってしまいました。克巳のあまりに<ruby><rb>町</rb><rt>まち</rt></ruby>ふうなようすに対して、じぶんたちのいなかくささが思い返されたのでした。

克巳は、最初に松吉と、それから杉作と顔をあわせました。しかし克巳の目は、知らない人を見るように<ruby><rb>冷淡</rb><rt>れいたん</rt></ruby>でした。おれたちが、松吉、杉作なことが、まだ、わからないのかなと、松吉は思いました。歯がゆい感じでした。

克巳はながくは、そこにいませんでした。松吉のうしろの<ruby><rb>階段</rb><rt>かいだん</rt></ruby>をのぼって、二階へ上がってしまいました。

でもまだ松吉は、望みをすてませんでした。<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>は、ちょっとした用事を二階ですまして、いまにおりてくるだろう。そしておれたちと遊んでくれるだろうと、松吉は考えていました。

だが、克巳はさっぱりおりてきませんでした。

やがて、克巳の友だちらしいのがふたり、

「克巳くゥん。」

といって、外から店にはいってきました。

克巳は二階からおりてきました。

松吉は、<ruby><rb>胸</rb><rt>むね</rt></ruby>がわくわくしました。こんどこそ克巳が、松吉たちになにかいってくれると思ったのです。

しかし克巳は、松吉には目もくれませんでした。そして、ふたりの町の友だちを手まねきして、三人いっしょに、どやどやと二階へあがってしまいました。

松吉は、つき落とされたように感じました。じぶんの立っている大地が、白ちゃけたさびしいものにかわってしまいました。

松吉にはわかりました。克巳にとっては、いなかで十日ばかりいっしょに遊んだ松吉や杉作は、なんでもありゃしないんだと。町の克巳の生活には、いなかとちがって、いろんなことがあるので、それがあたりまえのことなんだと。

四

松吉と杉作は、町から村のほうへ、<ruby><rb>魂</rb><rt>たましい</rt></ruby>のぬけたような顔をして歩いていきました。

からの<ruby><rb>重箱</rb><rt>じゅうばこ</rt></ruby>は、ズボンとポケットにつっこんだ松吉の右手に、だらしなくぶらさがり、ひと足ごとにおしりにぶつかります。

いくときの、<ruby><rb>希望</rb><rt>きぼう</rt></ruby>にみちた心持ちにひきかえ、帰りの、なんという、まのぬけた、はぐらかされたような心持ちでしょう。

考えてみると、きょうは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あほ</span>くさいことでした。第一、<ruby><rb>克巳</rb><rt>かつみ</rt></ruby>に知らん顔をされました。第二に、だちんがもらえなかったので、帰りも電車に乗れませんでした。第三に、やはりだちんがもらえなかったので、<ruby><rb>雑誌</rb><rt>ざっし</rt></ruby>や<ruby><rb>模型</rb><rt>もけい</rt></ruby>飛行機の材料を買う<ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>が、おじゃんになってしまいました。

こうしてじぶんたちは、すっぽかされて、青<ruby><rb>坊主</rb><rt>ぼうず</rt></ruby>にされて帰るのだと思うと、松吉は、日ぐれの風がきゅうに、かりたての頭やえり首に、しみこむように感じられました。

「どかァん。」

と、杉作がとつぜん、どなりました。

また、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とび</span>かと思って、松吉は見まわしましたが、それらしいものは、どこにも見あたりません。かれたクワ畑のむこうに、まっかな太陽が、今しずんでいくところでした。

「なにが、おるでえ。」

と、松吉は杉作にききました。

「なにも、おやしんけど、ただ<ruby><rb>大砲</rb><rt>たいほう</rt></ruby>をうってみただけ。」

と、杉作はいいました。

松吉は、弟の気持ちが、手にとるようによくわかりました。弟も、じぶんのようにさびしいのです。

そこで松吉も、

「どかァん。」

と、一発、大砲をうちました。

すると松吉は、こんな気がしました――きょうのように、人にすっぽかされるというようなことは、これから先、いくらでもあるにちがいない。おれたちは、そんな悲しみになんべんあおうと、平気な顔で通りこしていけばいいんだ。

「どかァん。」

と、また杉作がうちました。

「どかァん。」

と、松吉はそれに<ruby><rb>応</rb><rt>おう</rt></ruby>じました。

ふたりは、どかんどかんと大砲をぶっぱなしながら、だんだん心を明るくして、家の方へ帰っていきました。