腰の物拝見

「お武家お待ち」

という声が聞こえたので、伊東<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>は足を止めた。ここは甲州街道の府中から、一里ほど離れた野原で、天保××年三月十六日の月が、<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろに照らしていた。頼母は、江戸へ行くつもりで、街道筋を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って来たのであったが、いつどこで道を間違えたものか、こんなところへ来てしまったのであった。声は林の中から来た。頼母はそっちへ眼をやった。林の中に、白い方形の物が釣ってあった。<ruby><rb>紙帳</rb><rt>しちょう</rt></ruby>らしい。暗い林の中に、仄白く、紙帳が釣ってある様子は、巨大な炭壺の中に、豆腐でも置いたようであった。声は紙帳の中から来たようであった。

塚原卜伝が武者修行の際、山野に野宿する時、紙帳を釣って寝たということなどを、頼母は聞いていたので、林に紙帳の釣ってあることについては、驚かなかったものの、突然、横柄な声で呼び止められたのには、驚きもし腹も立てた。それで黙っていた。すると、紙帳の裾が揺れ、すぐに一人の武士が、姿を現わした。武士の<ruby><rb>身長</rb><rt>たけ</rt></ruby>が高いので、紙帳を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にして立った<ruby><rb>形</rb><rt>すがた</rt></ruby>は「中」という字に似ていた。

「お腰の物拝見出来ますまいかな」と、その武士は、頭巾で顔を包んだままで云った。

「黙らっしゃい」と頼母は、とうとう癇癪を破裂させて叫んだ。

「突然呼び止めるさえあるに、腰の物を見せろとは何んだ！　成らぬ！」

「そう仰せられずに、お見せくだされ。相当の物をお差しでござろう」

「黙れ！　無礼な奴、ははア、貴様、追い剥ぎだな。腰の物拝見などと申し、近寄り、懐中物を奪うつもりであろう。ぶった斬るぞ！」

「賊ではござらぬ。ちと必要あって腰の物拝見したいのじゃ。何をお差しかな。まさか<ruby><rb>天国</rb><rt>あまくに</rt></ruby>はお差しではござるまいが」

「ナニ、天国？　あッはッはッ、何を申す、馬鹿な。天国や<ruby><rb>天座</rb><rt>あまのざ</rt></ruby>など、伝説中の人物、さような刀鍛冶など、存在したことござらぬ。鍛えた刀など、何んであろうぞ」

すると武士は、頭巾の中で、<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>のある、少し<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れた声で笑ったが、「貴殿も、天国不存在論者か。馬鹿者の一人か。まアよい、腰の物お見せなされ」と、近寄って来た。

頼母は、傍若無人といおうか、自信ある行動といおうか、相手の武士が、無造作に、近寄って来る態度に圧せられ、思わず二、三歩退いたが、冠っていた編笠を刎ね<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>け、刀の柄へ手をかけた。父の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討つまでは、前髪も取らぬと誓い、それを実行している頼母は、この時二十一歳であったが、前髪を立てていた。当時の若衆形、沢村<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>に似ていると称された美貌は、月光の中で蒼褪めて見えた。

武士は、頼母の前、一間ばかりの所で立ち止まったが、「まだお若いの。若い貴殿を<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>にするのも不愍、斬るのは止めといたすが、云い出したからには、腰の物は拝見いたさねばならず……眠らせて！」

「黙れ！」

<ruby><rb>鍔音</rb><rt>つばおと</rt></ruby>がした！

「はーッ」と頼母は、思わず<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を引いた。武士によって鳴らされた鍔音が、神魂に<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>ったからであった。

猛然と頭巾が逼って来た。頭巾の主の体が、怒濤のように殺到して来た。そうして次の瞬間には、頼母は、地上へ叩き付けられていた。体当たりを喰らったのである。

俯向けに地に倒れた頼母は、（俺はここで死ぬのか。死んでは困る。俺は父の敵五味左門を討たなければならないのだから）と思った。

そういう彼の眼に見えたものは、彼の両刀を調べている武士の姿であった。そうして、その武士の背後の地面から、<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>のように盛り上がっている古塚であった。その古塚は、数本の松と、一基の<ruby><rb>碑</rb><rt>いしぶみ</rt></ruby>とを、頂きに持っていた。そうして……しかし、頼母の意識は<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>となってしまった。

<ruby><rb>参詣</rb><rt>おまいり</rt></ruby>に来た娘

その頼母が、誰かに呼ばれているような気がして、正気づいた時、まず見えたのは、自分の顔へ、近々と寄せている、細い新月のような眉、<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しい半弓形の眼の、若い女の顔であった。円味の勝った<ruby><rb>頤</rb><rt>おとがい</rt></ruby>につづいて、<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き<ruby><rb>胡桃</rb><rt>くるみ</rt></ruby>のような、<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>の細かな咽喉が、<ruby><rb>鹿</rb><rt>か</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>の半襟から抜け出している様子は、<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしくもあれば清らかでもあった。

「もし、お武家様、お気づかれましたか」と娘は云った。

頼母は弱々しく頷いて見せ、そうして、（俺はこの娘に助けられたらしい）と思った。しかしすぐに、紙帳から出て来た武士のことが気にかかった。それで、まだ<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>く、自由になりにくい首をやっと廻して、林の方を見た。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どんぐり</span>や<ruby><rb>櫟</rb><rt>くぬぎ</rt></ruby>や柏によって<ruby><rb>形成</rb><rt>かたちづく</rt></ruby>られている雑木林には、今は陽があたっていて、初葉さえ附けていない<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>の幹や枝が、紫ばんだ<ruby><rb>樺</rb><rt>かば</rt></ruby>色に立ち並んでいたが、紙帳は釣ってなかった。（夜の間に立ち去ったのだな。それにしてもあの武士、何者なのであろう？　突然紙帳の中から出て来て、刀を見せろと云い、見せないといったら、体当たりをくれ、俺を気絶させおった。紙帳を林の中に釣って寝ていたところから察すると、武者修行の者らしいが、着流しで、頭巾を冠っていた様子から推すと、そうでもないらしい）頼母は、頭に残っている疲労の中で、こんなことを考えた。（それにしても、彼と俺との、<ruby><rb>武技</rb><rt>うで</rt></ruby>の相違はどうだったろう）これを思うと頼母は、赧くならざるを得なかった。（大人と子供といおうか。世には恐ろしい奴があればあるものだ）

この時娘が、

「野中の道了様へお詣りに参りましたところ、あなた様が気絶をしておいでなさいましたので、ご介抱申し上げたのでございます。でも正気づかれて、ほんとうに嬉しゅうございます」

と云った。細々としていて、優しい、それでいて<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>しみの籠もっている声であった。

頼母は娘の顔へ眼をやり、

「<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじ</rt></ruby>けのうございました。おかげをもちまして、命びろいいたしました」と云ったが、（何んだ俺はまだ寝ているではないか）と気づき、起き上がろうとした。しかし、倒れた時、体をひどく打ったらしく、節々が痛んで、なかなか起き上がれなかった。

「いえいえ、そのままでおいでなさいませ。お<ruby><rb>寝</rb><rt>よ</rt></ruby>ったままで。どうせそのお体では、すぐにご出立は出来ますまい。むさくるしい所ではございますが、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の家で、二、三日ご逗留し、ご養生なさいませ。いえいえご遠慮には及びませぬ。よく妾の家へは、旅のお武家様がお立ち寄りでございます。父が大変喜びますので。でも、家は一里ほど離れておりますので、お<ruby><rb>徒歩</rb><rt>ひろ</rt></ruby>いではお困りでございましょう。<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあや</rt></ruby>がおりますゆえ、町へやり、駕籠をひろわせて参りましょう。……乳母！」と、娘は立ち上がりながら呼んだ。

五十あまりの、品のよい<ruby><rb>婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>が、古塚のような小丘の裾に佇んでいたが、すぐに寄って来た。それへ娘は何やら囁いた。

「はい、お嬢様、かしこまりましてございます」乳母はそう云ったかと思うと、雑木林を巡って歩いて行った。

娘は、しばらくそれを見送っていたが、やがて<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>むと、地に置いてあった線香の束を取り上げ、「どれ、それでは妾は、ちょっと道了様へ。……」と云い、古塚のような、小丘の方へ歩いて行った。

（あれが道了様なのか）と、頼母は、それでもようやく起き上がった体を、小丘の方へ向け、つくづくと眺めた。それは、高さ二間、<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>十間ぐらいの大岩で出来ている塚であったが、その面に、苔だの枯れ草だの枯れ葉だのがまとい付いている上に、<ruby><rb>土壌</rb><rt>つち</rt></ruby>が蔽うているので、早速には、岩とは見えなかった。塚の頂きに立っている<ruby><rb>碑</rb><rt>いしぶみ</rt></ruby>には、南無妙法蓮華経と、<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>題目が刻まれていた。碑は、歳月と風雨とに損われて、<ruby><rb>諸所</rb><rt>ところどころ</rt></ruby>欠けている高さ六尺ぐらいの物で、色は<ruby><rb>黝</rb><rt>くろ</rt></ruby>かったが、陽に照らされ、薄光って見えた。その碑の面を、<ruby><rb>縒</rb><rt>よ</rt></ruby>れたり<ruby><rb>縺</rb><rt>もつ</rt></ruby>れたりしながら、蒼白い、漠とした物が立ち昇って行った。娘が供えた線香の煙りであった。煙りの裾、碑の前に、つつましく屈み、合掌しているのが娘で、その姿が、数本の小松に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>られていたので、かえって<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむ</rt></ruby>き深く眺められた。

「絵だ」と、頼母は、娘の赤味の勝った帯などへ眼をやりながら、呟いた。

古屋敷の古浪人

<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあや</rt></ruby>が雇って来た駕籠に乗り、頼母が、娘の家へ行ったのは、それから間もなくのことで、娘の家は、府中から一里ほど離れたところにあった。鋲打ちの門や土塀などに囲まれた、それは<ruby><rb>広大</rb><rt>ひろ</rt></ruby>い屋敷であったが、いかにも古く、住人も少ないかして、森閑としていた。頼母は、古びた<ruby><rb>衝</rb><rt>つい</rt></ruby>立ての置いてある玄関から、奥へ通された。

さて、この日が暮れ、夜が更けた時、屋敷の一間から、話し声が聞こえて来た。

畳も古く、襖も古く、広いが取り柄の客間に、一基の燭台が置いてあったが、その灯の下で、四人の武士が、酒を飲み飲み、雑談しているのであった。

「我輩は、ここへ逗留して三日になるが、<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>薪左衛門殿の姿を見たことがない。気がかりともいえれば不都合ともいえるな」と云ったのは、頬に刀傷のある、三十五、六の、片岡という武士で、片手を枕にして、寝そべっていた。

「不都合とはどういう訳か」と、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>そうに訊いたのは、それと向かい合って、片膝を立て、盃をチビチビ嘗めていた、山口という三十年輩の武士で、「只で泊めて貰い、朝酒、昼酒、晩酌まで振る舞われて、まだ不平なのか」

「そうではない。縁も<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆかり</rt></ruby>もない我らを、このように歓待してくれながら、主人が顔を出さぬのは不都合……いや、解せぬというのじゃ」

「それは貴公、世間の噂を知らぬからじゃ」

と云ったのは、膝の前にある皿の<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>を、なお未練らしく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せせって</span>いた、五十五、六の、頬髯を生やした、望月角右衛門という武士で、「世間の噂によれば、薪左衛門殿は、ここ数年来、誰にも逢わぬということじゃ」

すると、二十五、六の、南京豆のような顔をした、小林紋太郎という武士が、「それは何故でございましょうかな？　ご病気なので？　それとも……」

「解らぬ」と、角右衛門が云った。「解らぬのじゃ。さよう、病気だとの噂もあれば、いつも不在じゃという噂もある」

「いよいよ変じゃ」と云ったのは、片岡という武士で、「そういう薪左衛門殿が、見ず知らずの浪人でも、<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて行きさえすれば、泊めてくれ、ご馳走をしてくれるとは……」

「よいではないか」と、角右衛門が、抑えるような手<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つき</span>をし、

「主人がどうあろうと、我らにとっては<ruby><rb>関</rb><rt>かま</rt></ruby>わぬことじゃ。泊めてくれて、ご馳走してくれて、出立の際には<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>銭までくれる。いやもう行き届いた<ruby><rb>待遇</rb><rt>もてなし</rt></ruby>。それをただ我らは、受けておればよい。我らにとっては大旦那よ。主人の秘密など、<ruby><rb>剖</rb><rt>あば</rt></ruby>かぬこと剖かぬこと」

「そうともそうとも」と合い槌を打ったのは、山口という武士で、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">その日その日</span>を食いつなぐだけでも大わらわの我ら、他人の<ruby><rb>秘密事</rb><rt>ないしょごと</rt></ruby>など、どうでもよかよか。いや全くこの頃の世間、世智辛くなったぞ。百姓や町人めら、なかなか我らの<ruby><rb>威嚇</rb><rt>おどし</rt></ruby>や弁口に、乗らぬようになったからのう」

「<ruby><rb>以前</rb><rt>むかし</rt></ruby>はよかった」と感慨深く云ったのは、例の望月角右衛門という武士で、「百姓も町人も、今ほど浪人慣れていず、威嚇などにも乗りやすく、よく金を出してくれたものよ。それに第一、浪人の気組が違っていた。今の田舎稼ぎの浪人など、自分の方からビクビクし、<ruby><rb>怖々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby><ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>りかけているが、<ruby><rb>以前</rb><rt>むかし</rt></ruby>の浪人とくると、抜き身の槍や薙刀を立て、十人十五人と<ruby><rb>塊</rb><rt>かた</rt></ruby>まって、豪農だの、郷士だのの屋敷へ押しかけて行き、多額の<ruby><rb>金子</rb><rt>きんす</rt></ruby>を、申し受けたものよ」

義兄弟の噂

しばらく話が途絶えた。春とはいっても、夜は小寒かった。<ruby><rb>各自</rb><rt>めいめい</rt></ruby>に出されてある火桶に、<ruby><rb>炭火</rb><rt>ひ</rt></ruby>は充分に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いけ</span>られていたが、広い部屋は、それだけでは暖まらないのであろう。

と、横手の襖が開いて、老僕がはいって来、新しい酒を置き無言で立ち去った。浪人たちは、ちょっと居住居を直したが、老僕の姿が消えると、また横になったり、<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を掻いたりした。一番年の若い武士が、燗徳利を取ると、仲間の盃へ、次々と注いだ。燭台の皿へ、<ruby><rb>丁字</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>が立ったらしく、<ruby><rb>燈火</rb><rt>ひのひかり</rt></ruby>が暗くなった。それを一人が、箸を返して<ruby><rb>除去</rb><rt>と</rt></ruby>った。明るくなった燈に照らされ、床の間に置いてある矢筒の矢羽根が、雪のように白く見えた。

「その時代には、ずば抜けた豪傑もいたものよ」と、角右衛門が、やがて回顧の想いに堪えないかのような声で、しみじみと話し出した。「もっとも、これは噂で聞いただけで、わしは逢ったことはないのだが、<ruby><rb>来栖</rb><rt>くるす</rt></ruby>勘兵衛、<ruby><rb>有賀</rb><rt>ありが</rt></ruby>又兵衛という二人でな、義兄弟であったそうな。この者どもとなると、十人十五人は愚か、三十人五十人と隊を組み、槍、薙刀どころか、火縄に点火した鳥銃をさえ携え、豪農富商屋敷へ、白昼推参し、二日でも三日でも居坐り、千両箱の一つぐらいを、必ず持ち去ったものだそうじゃ。ところが、不思議なことには、この二人、甲州の大尽、鴨屋方に推参し、三戸前の土蔵を破り、甲州小判大判取り<ruby><rb>雑</rb><rt>ま</rt></ruby>ぜ、数万両、他に、刀剣、名画等を<ruby><rb>幾何</rb><rt>いくばく</rt></ruby>ともなく強奪したのを最後に、世の中から姿を消してしまったそうじゃ」

「召し捕られたので？」

「それが解らぬのじゃ」

この時、庭の方から、<ruby><rb>轍</rb><rt>わだち</rt></ruby>でも<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>るような、キリキリという音が、深夜の<ruby><rb>静寂</rb><rt>しじま</rt></ruby>に<ruby><rb>皹</rb><rt>ひび</rt></ruby>でも入れるかのように聞こえて来た。武士たちは顔を見合わせた。この者どもは、永の浪人で、仕官の道はなく、<ruby><rb>生活</rb><rt>たつき</rt></ruby>の法に<ruby><rb>困</rb><rt>こう</rt></ruby>じたあげく、田舎の百姓や博徒の間を巡り歩き、<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆすり</rt></ruby>や、賭場防ぎをして、<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>をしている<ruby><rb>輩</rb><rt>やから</rt></ruby>であったが、得体の知れない、この深夜の軋り<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>には気味が悪いと見え、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を呑んで、ひっそりとなった。軋り音は、左の方へ、徐々に移って行くようであった。不意に角右衛門が立ち上がった。つづいて三人の武士が立ち上がり、揃って廊下へ出、雨戸を開けた。四人の眼へはいったものは、月夜の庭で、まばらの植え込みと、その<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の土塀とが、人々の眼を遮った。しかし、軋り音の主の姿は見えず、ずっと左手奥に、はみ出して作られてある部屋の向こう側から、音ばかりが聞こえて来た。でも、それも、次第に奥の方へ移って行き、やがて消え、吹いて来た風に、植え込みに雑じって咲いている桜が、一斉に散り、横撲りに、四人の顔へ降りかかった。四人の者は、そっと吐息をし、府中の町が、一里の彼方、打ち開けた田畑の末に、黒く<ruby><rb>横仆</rb><rt>よこたわ</rt></ruby>っているのを、漠然と眺めやった。町外れの丘の一所が、火事かのように赤らんでいる。

「そうそう」と角右衛門が云った。「今日から府中は火祭りだったのう。あの火がそうじゃ」

「向こう七日間は祭礼つづき、町はさぞ賑わうことであろう」――これは片岡という武士であった。

「府中の火祭り賭場は有名、関東の親分衆が、駒箱を<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>衆に担がせ、いくらともなく出張って来、掛け小屋で大きな勝負をやる筈。拙者、明日は早々ここを立って、<ruby><rb>府中</rb><rt>あそこ</rt></ruby>へ参るつもりじゃ」これは山口という武士であった。

「わたくしも明日は府中へ参ります所存。この頃中<ruby><rb>不漁</rb><rt>しけ</rt></ruby>で、<ruby><rb>生物</rb><rt>なまもの</rt></ruby>にもありつかず、やるせのうござれば、親分衆に取り持って貰って……」

と、紋太郎が云った。生物というのは女のことらしい。

血蜘蛛の紙帳

それを聞くと、角右衛門は笑ったが、

「貴殿方は、どの親分のもとへ参らるる気かな。拙者は、松戸の五郎蔵殿のもとへ参るつもりじゃ。関東には鼻を突くほど、立派な親分衆がござるが、五郎蔵殿ほど、我々のような浪人者を、いたわってくださる仁はござらぬ」

「それも、五郎蔵殿が、武士あがりだからでございましょうよ」

酔った頬を、夜風に<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>られる快さからか、四人の者は、雨戸の<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>に、目白のように押し並び、しばらくは雑談に耽ったが、やがて部屋の中へはいった。とたんに、

「やッ、腰の物が見えぬ！」と、角右衛門が、狼狽したように叫んだ。

皿や小鉢や燗徳利の取り散らされてある座敷に突っ立ったまま、四人は、また顔を見合わせた。わずかな<ruby><rb>時間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に、四人の刀が、四本ながら紛失しているではないか。

「盗まれたのじゃ」

「家の者を呼んで……」

「いやいやそれ前に、一応あたりを調べて……」と、年<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>だけに、角右衛門は云い、燭台をひっさげると、次の間へ出た。次の間にも刀はなかった。その次の間へ行った。そこにも刀はなかった。そこを出ると廊下で、鉤の手に曲がっていた。その角にあたる向こう側の襖をあけるや、角右衛門は、

「おお、これは！」と云って、突っ立った。

続いた三人の武士も、角右衛門の肩ごしに部屋の中を覗いたが、「おお、これは！」と、突っ立った。

その部屋は十畳ほどの広さであったが、その<ruby><rb>中央</rb><rt>なかほど</rt></ruby>に、<ruby><rb>紙帳</rb><rt>しちょう</rt></ruby>が釣ってあり、<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>が、紙帳の中に引き込まれてあるかして、紙帳は、内側から<ruby><rb>橙黄色</rb><rt>だいだいいろ</rt></ruby>に明るんで見え、<ruby><rb>一個</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>の人影が、その<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に、<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と映っていた。総髪で、髷を太く結んでいるらしい。鼻は高いらしい。全身は痩せているらしい。そういう武士が、刀を<ruby><rb>鑑定</rb><rt>み</rt></ruby>ているらしく、刀身が、武士の膝の<ruby><rb>辺</rb><rt>あた</rt></ruby>りから、斜めに眼の辺りへまで差し出されていた。――そういう人影が映っているのであった。それだけでも、四人の武士たちにとっては、意外のことだったのに、紙帳の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に、あるいは<ruby><rb>蜒々</rb><rt>えんえん</rt></ruby>と、あるいはベットリと、あるいは斑々と、または<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>のように、何物か描かれてあった。その色の気味悪さというものは！　黒に似て黒でなく、褐色に似て褐色でなく、人間の血が、月日によって古びた色！　それに相違なかった。描かれてある模様は？　少なくも<ruby><rb>毛筆</rb><rt>ふで</rt></ruby>で描かれた物ではなかった。もし空想を許されるなら、何者か紙帳の中で<ruby><rb>屠腹</rb><rt>とふく</rt></ruby>し、<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>を掴み出し、投げ付けたのが紙帳へ<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>り、それが<ruby><rb>蜒</rb><rt>うね</rt></ruby>り、それが飛び、瞬時にして描出したような模様であった。一所にベットリと、大きく、楕円形に、血痕が附いている。巨大な<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の<ruby><rb>胴体</rb><rt>どう</rt></ruby>と見れば見られる。まずあそこへ、腸を叩き付けたのであろう。瞬間に腸が千切れ、四方へ開いた。蜘蛛の胴体から、脚のように、八本の線が延びているのがそれだ。蜘蛛の周囲を巡って、<ruby><rb>微細</rb><rt>こまか</rt></ruby>い血痕が、霧のように飛び散っている。張り渡した蜘蛛の網と見れば見られる。ところどころに、耳ほどの形の血痕が附いている。網にかかって命を取られた、蝶や蝉の<ruby><rb>屍</rb><rt>なきがら</rt></ruby>と見れば見られる。血描きの女郎蜘蛛！　これが紙帳に現われている模様であった。では、その蜘蛛を背の辺りに負い、網の中ほどに坐っている紙帳の中の武士は、何んといったらよいだろう？　蜘蛛の網にかかって、命を取られる、不幸な犠牲というべきであろうか？　それとも、その反対に、蜘蛛を使い、生物の命を取る、<ruby><rb>貪婪</rb><rt>どんらん</rt></ruby>、残忍の、吸血鬼というべきであろうか？　と、紙帳に映っていた武士の姿が崩れた。斜めに映っていた刀の影が消え、やがて鍔音がした。鞘に納めたらしい。横を向いていた武士の顔が、廊下に突っ立っている、四人の浪人の方へ向いた。

「<ruby><rb>鈍刀</rb><rt>なまくら</rt></ruby>じゃ、四本とも<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く鈍刀じゃ。お返し申す」

四本の刀が、すぐに、紙帳の裾から四人の方へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出された。この時まで息を呑み、唾を溜めて、紙帳を見詰めていた四人の浪人は、不覚にも狼狽した声をあげながら、刀へ飛びかかり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>掴み、腰へ差した。その時はじめて怒りが込み上げて来たらしく、

「これ、そこな武士、無礼といおうか、<ruby><rb>不埓</rb><rt>ふらち</rt></ruby>といおうか、無断で我らの腰の物を持ち去るとは何事じゃ！　出て来い！　出て来て謝罪いたせ！」と、角右衛門が怒鳴った。

すると、それに続いて、南京豆のような顔をした紋太郎が、

「出て来い！　出て来て謝罪いたせ！」と<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>返しのように叫び、「それに何んぞや鈍刀とは！　我らの刀を鈍刀とは！」

「何者じゃ！　名を<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>れ！　身分を明かせ！」

とさらに角右衛門が怒鳴った。

すると、紙帳の中の武士は、少し<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れた、<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>のある声で、「拙者の名は、五味左門と申す、浪人じゃ。当家が浪人を厚遇いたすと聞き、昨夜遅く訪ねて参り、一泊いたしたものじゃ。<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れていたがゆえに、この部屋へ早く寝た。しかるにさっきから、遠くの部屋から、賑やかな、面白そうな話し声が聞こえて来た。一眠りして、<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>の癒えた拙者、眼が冴えて眠れそうもない。<ruby><rb>会話</rb><rt>はなし</rt></ruby>の仲間へはいり、暇を潰そうと声をしるべに尋ねて行ったところ、広い部屋へ出た。酒肴が出ておる。悪くないなと思ったぞ。が、見れば、四本の刀が投げ出してあり、刀の主らしい四人の者が、廊下に立って、夜景色を見ておる。<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>の風景だったぞ。そこで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>の心が変った。貴殿方と話す代りに、貴殿方の腰の物を拝見しようとな。悪気からではない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>の<ruby><rb>趣味</rb><rt>このみ</rt></ruby>からじゃ。そこで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>は貴殿方の腰の物をひとまとめにして持って参り、今までかかって鑑定いたした。さあ見てくれといわぬばかりに投げ出してあった刀、四本のうち一本ぐらい、筋の通った<ruby><rb>銘刀</rb><rt>もの</rt></ruby>があるかと思ったところ、なかったぞ。フ、フ、フッ、揃いも揃って、関の数打ち物ばかりであったよ」

蜘蛛の<ruby><rb>犠牲</rb><rt>にえ</rt></ruby>

「チェッ」と舌打ちをしたのは、短気らしい山口という武士で、やにわに刀を抜くと、「<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の腰の物を無断で見るさえあるに、悪口するとは何事じゃ。出て来い！　斬ってくれる！」

「斬られに行く酔狂者はない。出て行かぬよ。用があらば、そっちから紙帳の中へはいって参れ。ただし、断わっておくが、紙帳の中へはいったが最後、男なら命を女なら……」

「黙れ！」と、山口という武士は、紙帳に映っている影を目掛け、<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろて</rt></ruby>突きに突いた。

瞬間に、紙帳の中の<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>が消え、紙帳は、<ruby><rb>経帷子</rb><rt>きょうかたびら</rt></ruby>のような色となり、蜘蛛の姿も――内側から描かれていたものと見え、燈火が消えると共に消えてしまった。そうして、突かれた紙帳は、<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しく内側へ萎み、裾が、ワングリと開き、<ruby><rb>鉄漿</rb><rt>おはぐろ</rt></ruby>をつけた妖怪の口のような形となり、細い白い手が出た。

「！」

悲鳴と共に、山口という武士は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のけぞり</span>、片足を宙へ上げ、それで紙帳を蹴った。しかし、すぐに、武士は、足から先に、紙帳の中へ引き込まれ、忽ち、断末魔の声が起こり、バーッと、<ruby><rb>血飛沫</rb><rt>ちしぶき</rt></ruby>が、紙帳へかかる音がしたが、やがて、<ruby><rb>森然</rb><rt>しん</rt></ruby>と静まってしまった。角右衛門は、持っていた燭台を抛り出すと、真っ先に逃げ出し、つづいて、紋太郎が逃げ出した。

しかし片岡という武士は、さすがに、同宿の<ruby><rb>誼</rb><rt>よし</rt></ruby>みある浪人の悲運を、見殺しに出来ないと思ったか、夢中のように、紙帳へ斬り付けた。とたんに、紙帳の裾が<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>り、<ruby><rb>内部</rb><rt>うち</rt></ruby>から<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>うように斬り上げた刀が、廊下にころがったままで燃えている、燭台の燈に一瞬間輝いた。

「わ、わ、わーッ」と、苦痛の声が、片足を股から斬り取られ、四つ這いになって、廊下を這い廻っている武士の口から<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>った。紙帳の中はひっそりとしていた。

こういう間も、キリキリという、<ruby><rb>轍</rb><rt>わだち</rt></ruby>でも軋るような音は、屋敷の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を巡って、中庭の方へ移って行った。

（何んの音だろう？）と、四人の浪人が不審を打ったように、その音に不審を打ったのは、中庭に近い部屋に寝ていた、伊東<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>であった。

頼母は、この屋敷へ来るや、まず朝飯のご馳走になった。給仕をしてくれた娘の口から聞いたことは、この屋敷が、飯塚薪左衛門という郷士の屋敷であることや、娘は、その薪左衛門の一人娘で、<ruby><rb>栞</rb><rt>しおり</rt></ruby>という名だということや、今、この屋敷には、頼母の他に五人の浪人が泊まっているということや、父、薪左衛門は、都合があって、どなたにもお眼にかかれないが、皆様がお泊まりくだされたことを、大変喜んでいるということなどであった。

「どうぞ、幾日でもご逗留くださりませ」と栞は附け加えた。

頼母は、忝けなく礼を云ったが、こんな不思議な厚遇を受けたことは、復讐の旅へ出て一年になるが、かつて一度もなかったと思った。

彼は<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>の国、佐倉の郷士、伊東忠右衛門の<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>であった。伊東の家柄は、足利時代に、下総、<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>等を領していた、管領千葉家の重臣の<ruby><rb>遺流</rb><rt>ながれ</rt></ruby>だったので、<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>の領主、<ruby><rb>堀田備中守</rb><rt>ほったびっちゅうのかみ</rt></ruby>も粗末に出来ず、客分の扱いをしていた。しかるに、<ruby><rb>同一</rb><rt>おなじ</rt></ruby>家柄の郷士に、五味左衛門という者があり、忠右衛門と不和であった。理由は、二人ながら、国学者で、尊王家であったが、忠右衛門は、本居宣長の流れを汲む者であり、左衛門は、平田<ruby><rb>篤胤</rb><rt>あつたね</rt></ruby>の門下をもって任じている者であり、二人ながら

「大日本は神国なり。天祖始めて<ruby><rb>基</rb><rt>もと</rt></ruby>いを開き、日神長く統を伝え給う。我が国のみこの事あり。異朝にはその類なし。このゆえに神国というなり」という、日本の国体に関する根本思想については、全然同一意見であったが、その他の、学問上の、瑣末の解釈については、意見を異にし、互いに<ruby><rb>詈言</rb><rt>そしりあ</rt></ruby>い、不和となったのであった。もちろん、性格の相違もその因をなしていた。忠右衛門は、穏和で寛宏であったが、左衛門は<ruby><rb>精悍</rb><rt>せいかん</rt></ruby>で<ruby><rb>狷介</rb><rt>けんかい</rt></ruby>であった。

敵討ちの原因

ところが、去年の春のことであったが、忠右衛門と左衛門とは、備中守殿によって、観桜の宴に招かれた。その席で二人の者は、国学の話については、遠慮し、大事を取り、云い争わなかったが、刀剣の話になった時、とうとう云い争いをはじめてしまった。忠右衛門が、<ruby><rb>天国</rb><rt>あまくに</rt></ruby>という古代の刀工などは、事実は存在しなかったもので、したがって鍛えた刀などはないと云ったのに対し、左衛門は、いや天国は決して伝説中の人物ではなく、実在した人物であり、その鍛えた刀も残っておる、平家の重宝<ruby><rb>小烏丸</rb><rt>こがらすまる</rt></ruby>などはそれであり、我が家にもかつて一振り保存したことがあったと主張し、激論の果て、左衛門は「水掛け論は無用、この上は貴殿と拙者、この場において試合をし、勝った方の説を、正論と致そう」と、その精悍の気象から暴論を持ち掛けた。忠右衛門は迷惑とは思ったが、引くに引かれず承知をし、試合をしたところ、<ruby><rb>剣技</rb><rt>うで</rt></ruby>は左衛門の方が上ではあったが、長年肺を<ruby><rb>患</rb><rt>わずら</rt></ruby>っていて、寒気を<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>い、紙帳の中で生活しているという身の上で、体力において忠右衛門の敵でなく、忠右衛門のために打ち<ruby><rb>挫</rb><rt>ひし</rt></ruby>がれ、自分から仕掛けた試合に負け、これを悲憤し、自宅へ帰るや、紙帳の中で<ruby><rb>屠腹</rb><rt>とふく</rt></ruby>し、腸を紙帳へ叩き付けて死んだ。しかるに左衛門には、左門という忰があって、「父上を自害させたのは忠右衛門である」と云い、遊学先の江戸から馳せ帰り、一夜、忠右衛門を<ruby><rb>往来</rb><rt>みち</rt></ruby>に要して討ち取り、<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>ました。こうなってみると、伊東家においても、安閑としてはいられなくなり、

「頼母、そち、左門を探し出し、討って取り、父上の妄執を晴らせ」

ということになり、さてこそ頼母は、復讐の旅へ出たのであったが、困ったことには、彼は討って取るべき、左門という人間を知らなかった。と云うのは、この時代の風習として、<ruby><rb>家庭</rb><rt>いえ</rt></ruby>にいないで、江戸へ出、学問に精進していたからである。そう、頼母も左門も、幼少の頃から江戸に遊学し、頼母は、宣長の門人伴信友の門に入り、国学を修め、左門は、平田塾に入って、同じく国学を究める<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>ら、戸ヶ崎熊太郎の道場に通い、神道無念流を学び、二人は互いにその面影を知らないのであった。

キリキリという、轍の軋るような音を聞き、頼母は、枕から顔を放し、耳を<ruby><rb>聳</rb><rt>そばだ</rt></ruby>てた。

（何んの音だろう？）

音は、中庭まで来たようであった。

頼母は、夜具から脱け出し、枕もとの刀を握ると、立ち上がった。彼の眼は、すっかり覚めていた。彼は、朝飯を食べるや、すぐに床を取って貰い、ぐっすりと眠り、<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>を<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>し、今は元気を恢復してもいるのであった。有り明けの燈に、刀の鞘を照らしながら、頼母は部屋を出、廊下を右の方へ歩き、それが、さらに右の方へ曲がっている角の雨戸を、そっと開けて見た。海の底かのように、庭は薄蒼く月光に浸っていた。庭は、まことに広く、<ruby><rb>荒廃</rb><rt>あ</rt></ruby>れていた。庭の一所に、頼母の眼を疑がわせるような、<ruby><rb>物象</rb><rt>もののかたち</rt></ruby>が出来ていた。古塚のような形の、巨大な岩が、<ruby><rb>碑</rb><rt>いしぶみ</rt></ruby>と小松とをその頂きに持って、<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>のように立っているのであった。それはまったく、頼母が、紙帳から出て来た武士によって、気絶させられた地点に――そこに出来ていた、野中の道了様そっくりのものであった。<ruby><rb>酷似</rb><rt>そっくり</rt></ruby>といえば、塚の左手、遙か離れた所に、植え込みが立っていて、それが雑木林に見えるのも、あの場所の景色とそっくりであった。

（紙帳が釣ってはあるまいか？）ゾッとするような気持ちで、頼母は、植え込みを見た。しかし紙帳は釣ってはなかった。あの場所の景色と<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>うところは、あそこでは、塚と林との<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>が、広々と<ruby><rb>展開</rb><rt>ひら</rt></ruby>けた野原だったのに、ここでは、土塀が、<ruby><rb>灰白</rb><rt>はいじろ</rt></ruby>く横に延びているだけであった。

（碑には、髭題目が<ruby><rb>刻</rb><rt>ほ</rt></ruby>られてあるに相違ない）こう思って、頼母は、縁から下り、塚の方へ歩いて行き、碑を仰いで見た。碑は、鉛めいた色に<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>見えていたが、はたして、南無妙法蓮華経という、七字の名号が、<ruby><rb>鯰</rb><rt>なまず</rt></ruby>の髭のような書体で、刻られてあった。（不思議だなあ）と呟きながら、頼母は、少し湿ってはいるが、枯れ草が、<ruby><rb>氈</rb><rt>かも</rt></ruby>のように軟らかく敷かれている地に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>み、（道了様の塚を、何んのために、中庭などへ作ったのであろう？）

急に彼は地へ寝た。

老幽鬼出現

（こうここへ俺が気絶して<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れれば、あそこでの出来事を、再現したことになる）

彼はしばらく寝たままで動かなかった。二十一歳とはいっても、前髪は立てており、それに、氏素姓よく、坊ちゃんとして<ruby><rb>生長</rb><rt>おいた</rt></ruby>って来た頼母は、顔も姿も<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しくて、女の子のようであり、それが、雲一片ない空から、溢れるように降り注いでいる月光に照らされ、寝ている様子は、無類の美貌と<ruby><rb>相俟</rb><rt>あいま</rt></ruby>って、<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしくさえ見えた。

と、例の、キリキリという音が、植え込みの方から聞こえて来た。頼母は飛び起きて、音の来る方を睨んだ。昨夜は、雑木林の中から、剣鬼のような男が現われて来たが、今夜は、植え込みの中から、何が現われて来るのだろう？　頼母は、もう刀の柄を握りしめた。おお何んたる奇怪な<ruby><rb>物象</rb><rt>もののかたち</rt></ruby>が現われて来たことであろう！　<ruby><rb>躄</rb><rt>いざ</rt></ruby>り車が、耳の下まで白髪を垂らした老人を乗せ――老人が自分で<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いで、忽然と、植え込みの前へ、出て来たではないか！　やがて、植え込みの<ruby><rb>陰影</rb><rt>かげ</rt></ruby>から脱け、躄り車は、月光の中へ進み出た。<ruby><rb>月光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>の中へ出て、いよいよ白く見える老人の白髪は、そこへ雪が積もっているかのようであり、洋犬のように長い顔も、白く紙のようであった。顔の<ruby><rb>一所</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>に黒い<ruby><rb>斑点</rb><rt>しみ</rt></ruby>が出来ていた。窪んだ眼窩であった。その奥で、<ruby><rb>炭火</rb><rt>おき</rt></ruby>のように輝いているのは、熱を持った眼であった。老人の体は、これ以上痩せられないというように、痩せていた。枯れ木で人の形を作り、その上へ衣裳を着せたといったら、その姿を、形容することが出来るだろう。左右の手が、二本の棒を持ち、胸と顔との間を、上下に<ruby><rb>伸縮</rb><rt>のびちぢみ</rt></ruby>し、そのつど老人の上半身が、<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>ったり<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>んだりした。二本の棒を<ruby><rb>櫂</rb><rt>かい</rt></ruby>にして、地上を、海のように漕いで、<ruby><rb>躄</rb><rt>いざ</rt></ruby>り車を、進ませてくるのであった。長方形の箱の左右に附いている、四つの車は、<ruby><rb>鈍</rb><rt>のろ</rt></ruby>く、月光の波を分け、キリキリという音を立てて、廻っていた。と、車は急に止まり、老人の眼が、頼母へ据えられた。

「おお来たか！」

<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>で押し殺したような声であった。極度の怒りと、<ruby><rb>恐怖</rb><rt>おそれ</rt></ruby>とで、<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れ<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えている声でもあった。そう叫んだ老人は、棒を手から放すと、片手を肩の上へ上げ、肩の上へ、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>からはみ出していた刀の柄へかけた。刀を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>っていたのである。それが引き抜かれた時、月光が、一時に刀身へ吸い寄せられたかのように、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どぎつく</span>光った。刀は青眼に構えられた。

「来たか、来栖勘兵衛！　来るだろうと思っていた！　が、この有賀又兵衛、<ruby><rb>躄者</rb><rt>いざり</rt></ruby>にこそなったれ、やみやみとまだ<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>には討たれぬぞ！　それに俺の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>には、いつも警護の者が附いている。今夜もこの屋敷には、六人の腕利きが<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>している筈だ。勘兵衛、これ、汝に逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での斬り合い、俺は今に怨みに思っておるぞ！　事実を<ruby><rb>誣</rb><rt>し</rt></ruby>い、俺に濡れ<ruby><rb>衣</rb><rt>ぎぬ</rt></ruby>を着せたあげく、俺の股へ斬り付け、躄者になる原因を作ったな。おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で立ち合い、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ！　さあここに野中の道了がある、立ち合おう、刀を抜け！」それから屋敷の方を振り返ったが、「<ruby><rb>栞</rb><rt>しおり</rt></ruby>よ、栞よ、勘兵衛が来たぞよ、用心おし、栞よ！」

と悲痛に叫んだ。

老人はそう叫びながら、やがて、片手で棒を握り、それで漕いで、<ruby><rb>躄者車</rb><rt>くるま</rt></ruby>を前へ進め、片手で刀を頭上に振りかぶり、頼母の方へ寄せて来た。頼母は、<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>とした。しかし、唖然とした中にも、自分が人違いされているということは解った。それで、刀の柄へ手をかけたまま、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へジリジリと下がり、

「ご老人、人違いでござる。拙者は来栖勘兵衛などという者ではござらぬ。拙者は、伊東頼母と申し、今朝より、ご当家にご厄介になりおる者でござる」と云い云い、つい刀を抜いてしまった。

娘の悲哀

すると、その時、屋敷の雨戸の間に、女の姿が現われ、こっちを見たが、急に、悲鳴のような声を上げると、駈け寄って来、

「お父様、何をなさいます。そのお方は、お父様を警護のため、今日、お<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へお泊まりくださいました、伊東頼母様と仰せになる、旅のお武家様ではございませんか。おお、お父様お父様、正気づかれてくださいまし！」

と叫び、老人の刀持つ手に取り縋った。栞であった。しかし老人は、

「娘か、用心おし！　来栖勘兵衛が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>を殺しに来たぞよ！　そこに勘兵衛がいる！」

と叫び、尚、車を進めようと、片手の棒で、地上を漕ごうとするのであった。

「いえいえお父様、あのお方は来栖勘兵衛ではございません。よくご覧なさいまし、お年が違います。勘兵衛より、ずっとお若うございます」

こう云われて老人は、はじめて気づいたように、つくづくと頼母を見たが、

「なるほどのう、年が違う、前髪立ちじゃ。勘兵衛は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>より一つ年上だった筈じゃ。勘兵衛ではない」

落胆したように、また、安心したように、老人は、急に首を垂れ、振り上げていた刀を下げると、弱々しく、子供のように、栞へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もたれ</span>かかった。赤い布のかかった<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>しい髪の下、栞の肩へ、老人の<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>頭が載っている。白芙蓉のような栞の顔が、頬が、老人の頬へ附いている。秩父絹に、花模様を染め出した衣裳の袖から、細々と白い栞の手が延びて、老人の肩へかかっているのは、車の上の老人を、<ruby><rb>抱介</rb><rt>だきかか</rt></ruby>えているからであった。いつか老人の手から、刀も棒も放され、刀は、車の前の、枯れ草の上に落ちた。何んと老人は眠っているではないか。刀を構え、この様子を眺めていた頼母は、危険はないと思ったか、刀を鞘に納め、二人の方へ寄って行ったが、

「栞殿、そのご老人は？」と、探るように訊いた。

「父でございます」――栞の声は泣いている。

「ご尊父？　では、薪左衛門殿で？」

栞は黙って頷いた。

「それに致しても、ご尊父には、ご自身を、有賀又兵衛じゃと仰せられたが？」

「父は乱心いたしおるのでございます」

「ははあ」頼母はやっと胸に落ちたような気がした。<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>ででもなければ、深夜に、<ruby><rb>躄</rb><rt>いざ</rt></ruby>り車などに乗り、刀を背負い、現われ<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>で、自分を来栖勘兵衛などと見誤り、ガムシャラに斬ってなどかかる筈はない。（俺は、狂人を相手にしていたのか）頼母は、鼻白むような思いがしたが、

「ご乱心とはお気の毒な。していつ頃から？」

「五年前の、ちょうど今日、府中の火祭りの日でございましたが、松戸の五郎蔵と申す、博徒の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>が参り、父と、密談いたしおりましたが、突然父が、『<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>、来栖勘兵衛、執念深くもまだ、この有賀又兵衛を、裏切り者と<ruby><rb>誣</rb><rt>し</rt></ruby>いおるか！』と叫びましたが、その時以来……」

栞は、片袖を眼にあてて泣いた。

屋根ばかりに月光を受けて、水のような色を見せ、窓も雨戸も、一様に黒く、廃屋のように見えている屋敷は、不幸な人々を見守るかのように、庭をへだてて立っていた。

（有賀又兵衛、来栖勘兵衛？）と、頼母は、考え込んだ。頼母は、有賀又兵衛、来栖勘兵衛という、伝説的にさえなっている、二人の人物の噂を、亡き父から聞かされていた。

「浪人組の頭での、傑物であった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>の家などへも、徒党を<ruby><rb>率</rb><rt>ひき</rt></ruby>いてやって来て、金などを無心したものじゃ。五味左衛門の屋敷などへも再三出かけて行って、無心したらしい。又兵衛の方は、わけても人物で、仁義なども心得ており、大義名分などにも明らかで、王道を尊び、覇道を憎む議論などを、堂々と述べて、男らしいところを見せたので、ついわしなど、進んで金を出してやったものじゃ」と、父は語った。

しかし、その勘兵衛や又兵衛は、<ruby><rb>亡父</rb><rt>ちち</rt></ruby>の話によれば、とうの昔に――二十年も<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>に、世間から姿を消してしまった筈であった。しかるに、薪左衛門殿が、その有賀又兵衛だという。（何故だろう？）しかし、頼母は、すぐ苦笑した。（相手は<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>なのだ、狂人の云うことなどに、何故も不思議もあるものか）

「栞殿」と、頼母は、塚の方をチラリと見たが、「お訊きいたしたいは、ここに作られてあります古塚、どうやらこれは野中の道了の……」

云われて栞も、眼にあてていた袖の隙から、塚の方を眺めたが、

「は、はい」

「野中の道了の塚を、お屋敷の庭へ作られるとは、何か仔細が……」

道了塚の秘密は

栞の泣き声は高くなり、しばらくは物を云わなかった。<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>りざかりの、十七の娘にしては、痩<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せぎす</span>に過ぎる栞の肩は、泣き声につれて、小刻みに顫えるのであった。

「それもこれも……」と、栞は、やがて、途切れ途切れに云った。「父の心を……正体ない父の心を……少しなりとも慰めてやりたさに……才覚しまして……<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby>が……」

顔から袖をとり、塚の頂きの碑を眺めた。南無妙法蓮華経という、七字だけが黒く、その周囲の碑の面は、依然、月の光で、鉛色に<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>めいて見えていた。

「父は」と、栞は、またも途切れ途切れに云った。「妾、物心つきました頃から、一里の道を、毎日のように、野中の道了様まで参りまして、塚の周囲を廻っては、物思いに耽りましたが……乱心しましてからは、それが一層烈しくなり、日に幾度となく……それですのに、父は<ruby><rb>躄者</rb><rt>いざり</rt></ruby>になりましてございます」

<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>の声はまた高くなった。娘は、父親を抱き締めたらしい。白髪の頭が、肩から外れて、栞の胸に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もたれ</span>ている。

「父には以前から、股に刀傷がございましたが、弱り目に祟り目とでも申しましょうか、乱心しますと一緒に、<ruby><rb>悪化</rb><rt>わる</rt></ruby>くなり、とうとう<ruby><rb>躄者</rb><rt>いざり</rt></ruby>に……」

草に落ちている抜き身は、氷のように光っている。庭のそちこちに咲いている桜は、微風に散っている。

「躄者になりましても、道了様へは行かねばならぬと……そこは正気でない父、子供のように申して<ruby><rb>諾</rb><rt>き</rt></ruby>きませぬ。<ruby><rb>躄車</rb><rt>くるま</rt></ruby>などに乗せてやりましては、世間への見場悪く、……いっそ、道了様を屋敷内へお<ruby><rb>遷座</rb><rt>うつ</rt></ruby>ししたらと……庭師に云い付け、同じ形を作らせましたところ、<ruby><rb>虚妄</rb><rt>うつろごころ</rt></ruby>の父、それを同じ道了様と思い、このように躄車に乗り、朝晩にその<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を廻り……」

悲しそうに、また栞は、眠りこけている父親を見やるのであった。

身につまされて聞いていた頼母は、いつか、栞の前へ腰を下ろし、腕を組んだ。

急に栞は、怒りの声で云った。

「父を脅かす者は、松戸の五郎蔵なのでございます。父は<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby>に申しました。『五郎蔵が殺しに来る。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>には大勢の<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>があるが、<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>には乾児など一人もない。味方が欲しい、旅のお侍様などが訪ねて参ったら、泊め置け』と。……」

（そうだったのか）と頼母は思った。（不思議に厚遇されると思ったが、さては、いつの間にか俺は、この屋敷の主人の、警護方にされていたのか）しかし事情が事情だったので、怒りも、笑いも出来なかった。

更けて行く夜は、次第に寒くなって来た。老人をいつまでも捨てておくことは出来なかった。二人は、<ruby><rb>躄車</rb><rt>くるま</rt></ruby>を押して、屋敷の方へ行くことにし、頼母は、まず、草に捨ててある刀を拾い取り、老人の背の鞘へ差してやった。それから躄車を押しにかかった。

「<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>のうございます」

栞が<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて止めた。手が触れ合った。

「あっ」

栞の声が情熱をもって響いた。

「ああ」

思春期の<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>というものは、<ruby><rb>男性</rb><rt>おとこ</rt></ruby>のわずかな行動によって、衝動を受けるものであり、そうしてその処女が、愛と良識とに恵まれている者であったら、衝動を受けた瞬間、相手の男性の善悪を、直観的に<ruby><rb>識別</rb><rt>みわ</rt></ruby>け、その瞬間に、将来を托すべき<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>を――恋人を、<ruby><rb>認識</rb><rt>みとめ</rt></ruby>るものである。狂人の、孤独の父親に仕え、<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>屋敷のような<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>れた屋敷に住み、荒らくれた浪人者ばかりに接していた、<ruby><rb>無垢</rb><rt>むく</rt></ruby>純情の栞が、今宵はじめて、名玉のように美しく清い、若い武士と、不幸な一家のことについて語り合ったあげく、偶然手を触れ合ったのであった。その一触が、彼女の魂を、根底から揺り動かし、「叫び」となって、彼女の口から出たのは、無理だとは云えまい。頼母は、栞の叫び声に驚いて、栞を見詰めた。栞の眼に涙が溢れていた。しかしその涙は、さっき、父親や、自分の家の不幸のために泣いた涙とは違い、歓喜と希望と愛情とに充ちた涙であった。栞の頬は夜眼にも<ruby><rb>著</rb><rt>しる</rt></ruby>く赤味<ruby><rb>注</rb><rt>さ</rt></ruby>していた。頼母は、何が栞をそうまで感動させたのか解らなかった。手と手と触れ合ったことなど、彼は、気がつかなかったほどである。それほど彼は無邪気なのであった。しかし、栞の感動が、自分を愛してのそれであるということは直覚された。このことが今度は彼を感動させた。

（この娘が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>を！）

その娘は、自分にとっては命の恩人と云えた。この娘の介抱がなかったら、自分は今朝死んでいたかもしれない！

（この娘が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>を！）

頼母の心へ感謝の念が、新たに強く湧き、それと一緒に、愛情がヒタヒタと寄せて来るのを覚えた。

立ち尽くし、見詰め合っている二人の頭上には、練り絹に包まれたような<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろの月がかかってい、その<ruby><rb>下辺</rb><rt>したべ</rt></ruby>を、<ruby><rb>帰雁</rb><rt>かえるかり</rt></ruby>の<ruby><rb>一連</rb><rt>ひとつら</rt></ruby>が通っていた。花吹雪が、二人の身を巡った。

「勘兵衛！」と、不意に老人が叫んだ。「<ruby><rb>天国</rb><rt>あまくに</rt></ruby>の剣を奪ったのも<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>の筈じゃ！　それをこの身に！」

（天国？）と、頼母は、ヒヤリとし、恍惚の境いから醒めた。

（この老人も、天国のことを云う！）

父、忠右衛門が、横死をとげ、自分が復讐の旅へ出るようになったのも、元はといえば、天国の剣の有無の議論からであった。頼母は、天国の名を聞くごとに、ヒヤリとするのであった。

（紙帳から出て来て、俺に体<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたり</span>をくれた武士も、天国のことを云ったが、薪左衛門殿も、天国のことを……）

頼母は、薪左衛門を見た。薪左衛門は眠っていた。眠ったままの言葉だったのである。

五郎蔵の賭場

こういうことがあってから、三日経った。

ここ、府中の宿は、火祭りで賑わっていた。家々では<ruby><rb>篝火</rb><rt>かがりび</rt></ruby>を焚き、夜になると、その火で<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>を燃やし、諏訪神社の境内を<ruby><rb>巡</rb><rt>まわ</rt></ruby>った。それで火祭りというのであるが、諏訪神社は、宿から十数町離れた丘つづきの森の中にあり、その森の背後の野原には、板囲いの<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>が、いくらともなく、出来ていて、大きな勝負が争われていた。

伊東頼母が、この一劃へ現われたのは、夕七ツ――午後四時頃であった。歩いて行く両側は賭場ばかりで、<ruby><rb>場内</rb><rt>なか</rt></ruby>からは景気のよい人声などが聞こえて来た。夕陽を赤く顔へ受けて、賭場へはいって行く者、賭場から出て来る者、いずれも昂奮しているのは、勝負を争う人達だからであろう。総州松戸の五郎蔵持ちと書かれた板囲いを眼に入れると、頼母は、足をとめ、

「これが五郎蔵の賭場か、どれはいってみようかな」

と呟いた。

というのは、不幸な飯塚薪左衛門親子を苦しめる、五郎蔵という、博徒の親分の正体を見<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>めようために、やって来た彼だからである。そうして、彼としては、機会を見て、五郎蔵と話し、何故薪左衛門を<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>すのか？　事実、薪左衛門は有賀又兵衛であり、五郎蔵は来栖勘兵衛なのか？　野中の道了塚で、二人は斬り合ったというが、その動機は何か？　野中の道了塚の秘密は何か？　等をも確かめようと思っているのであった。

それにしても飯塚薪左衛門の屋敷から、この府中までは、わずか一里の<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>だのに、なぜ三日も費やして来たのであろう？

彼は三日前のあの夜、薪左衛門の屋敷で、ああいう事件に逢ったが、それから<ruby><rb>躄</rb><rt>いざ</rt></ruby>り車を押して、栞共々、庭から屋内へ、薪左衛門を運び入れた。屋敷の中は大変であった。五人泊まっていたという浪人のうち、一人は斬り殺されてい、一人は片足を斬られてい、後の三人の姿は消えてなくなっていた。片足を斬られた浪人の語るところによれば、紙帳を釣って、その中にいた五味左門と<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>る武士によって、この騒動が<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起こされたということであった。

この事を聞くと、頼母は仰天し、娘の栞へ、そのような武士を泊めたかと訊いてみた。すると栞は、「五味左門と宣り、一人のお武家様が、宿を乞いましたので、早速お泊めいたしましたが、お<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みになる時、紙帳を釣りましたかどうか、その辺のところは存じませぬ」と答えた。それで頼母は、どっちみち、紙帳の中から出て来て、自分を体<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたり</span>で気絶させた、武道の達人が、自分の父の仇の、五味左門であるということを知ったが、そんな事件が起こったため、その処置を、栞と一緒に付けることになり、三日を費やし、三日目の今日、ようやく府中へ来たのであった。

「なかなか立派な小屋だな」

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら、頼母は、改めて五郎蔵の賭場を眺めた。

板囲いは、ひときわ大ぶりのもので、入り口には、二人の武士が、<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>をかけ、刀を引き付け、四斗樽に腰かけていたが、いうまでもなく賭場防ぎで、一人は、望月角右衛門であり、もう一人は、小林紋太郎であった。この二人は、あの夜、薪左衛門の屋敷で、ああいう目に逢い、恐怖のあまり、<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>も告げず、屋敷を逃げ出し、ここの五郎蔵の<ruby><rb>寄人</rb><rt>かかりゅうど</rt></ruby>になったものらしい。同じ屋敷に泊まったものの、顔を合わせたことがなかったので、頼母は、二人を知らず、そこで目礼もしないで、入り口をくぐった。

賭場は、今が勝負の最中らしく、明神へ参詣帰りの客や、土地の者が、数十人集まってい、盆を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>とりま</rt></ruby>いて、立ったり坐ったりしていた。世話をする中盆が、声を<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>らして整理に努めているかと思うと、<ruby><rb>素裸体</rb><rt>すはだか</rt></ruby>に下帯一つ、半紙を二つ折りにしたのを腰に挾んだ壺振りが、鉢巻をして、威勢のよいところを見せていた。正面の<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>の上にドッカリと坐り、銀造りの長脇差しを引き付け、盆を見ている男があったが、これが五郎蔵で、六十五歳だというのに、五十そこそこにしか見えず、髪など、小鬢へ、少し霜を<ruby><rb>雑</rb><rt>ま</rt></ruby>じえているばかりであった。段鼻の、鷲のような眼の、赧ら顔は、いかにも精力的で、それに、<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>などは、二重にくくれているほど肥えているので、全体が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふくよか</span>であり、武士あがりというだけに、品があり、まさに親分らしい貫禄を備えていた。甲州<ruby><rb>紬茶微塵</rb><rt>つむぎちゃみじん</rt></ruby>の衣裳に、紺献上の帯を結んでいるのも、よく似合って見えた。その横に女が坐っていた。以前から五郎蔵が、自分の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>にしようと苦心し、それを、柳に風と受け流し、今に五郎蔵の自由にならないところから、<ruby><rb>博徒仲間</rb><rt>このしゃかい</rt></ruby>で、噂の種になっている、お浦という女であった。二業――つまり、料理屋と<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>屋とを兼ねた、武蔵屋というのへ、一、二年前から、流れ寄って来ている、いわゆる茶屋女なのである。年は二十七、八でもあろうか、手入れの届いた、白い、<ruby><rb>鞣</rb><rt>なめ</rt></ruby>し革のような皮膚は、男の<ruby><rb>情緒</rb><rt>こころ</rt></ruby>を悩ますに足り、受け口めいた唇は、<ruby><rb>女形</rb><rt>おやま</rt></ruby>のように<ruby><rb>濃情</rb><rt>のうじょう</rt></ruby>であった。結城の小袖に、小紋<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の下着を重ね、<ruby><rb>厚板</rb><rt>あついた</rt></ruby>の帯を結んでいる。こんな賭場へ来ているのは、五郎蔵が、

「おいお浦、祝儀ははずむから、小屋へ来て、客人の、酒や茶の接待をしてくんな」と頼んだからであるが、その実は、五郎蔵としては、片時もこの女を、自分の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>から放したくないからであった。

（賭場に神棚が祭ってあるのは変だな）

と、盆の背後、客人の間に雑じって立っていた頼母は、五郎蔵やお浦から眼を外し、五郎蔵の背後、天井に近く設けられてある、白木造りの棚を眺めた。紫の幕が張ってあり、燈明が灯してあった。

（何かの縁起には相違あるまいが）

ゆすり浪人

この間にも、五百両胴のチョボ一は、勝負をつづけて行った。胴親、五郎蔵の膝の前に積まれてある、二十五両包みが、封を切られたかと思うと、ザラザラと賭け金が、胴親のもとへ掻き寄せられもした。

一人ばからしいほど受け目に入っている客人があった。編笠を冠ったままの、みすぼらしい<ruby><rb>扮装</rb><rt>みなり</rt></ruby>の浪人であったが、小判小粒とり<ruby><rb>雑</rb><rt>ま</rt></ruby>ぜ、<ruby><rb>目紙</rb><rt>めがみ</rt></ruby>の三へ張ったところ、それが二回まで受け、五両が百二十五両になった。それだのに<ruby><rb>賭金</rb><rt>かね</rt></ruby>を引こうともせず、依然として三の目へ張り、

「壺！」と怒鳴っているのであった。

客人たちは<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き出した。

「お侍さんだけに度胸があるねえ」

「今度三が出たらどうなると思う」

「胴親が、四倍の、五百両を附けるまでよ」

「<ruby><rb>元金</rb><rt>もときん</rt></ruby>を加えて、六百二十五両になるってわけか」

「それじゃア、五百両胴は潰れるじゃアねえか」

染八という<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>が中盆をしていたが、途方にくれたように、五郎蔵の顔を見た。と、この時まで、小面憎そうに、勝ち誇っている浪人を、<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み付けていたお浦が、

「親分」と例の五郎蔵へ囁いた。

「喜代三を引っ込めなさいよ」

喜代三というのは、壺振りの名であった。

「喜代三にゃア、三が振り切れそうもないじゃアありませんか」

「大丈夫だ」

五郎蔵の声は自信に充ちていた。

「<ruby><rb>天国</rb><rt>あまくに</rt></ruby>様が附いている」

それから神棚の方へ頤をしゃくったが、「五郎蔵の賭場、一度の<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>も附いたことのねえのは、天国様が附いているからよ。喜代三、勝負しろ」

（天国様？）

と、五郎蔵の<ruby><rb>言葉</rb><rt>ことば</rt></ruby>を小耳に挾んで、不審を打ったのは、頼母で、

（それじゃアあの神棚には、天国の剣が祭ってあるのか？）

改めて神棚を眺めた。燈明の火が明るく輝き、紫の幕が、華やかに<ruby><rb>栄</rb><rt>は</rt></ruby>え、その奥から、<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>鋲</rb><rt>びょう</rt></ruby>を持った<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>の、<ruby><rb>扉</rb><rt>とぼそ</rt></ruby>が覗いていた。

（あの祠の中に天国があるのではあるまいか）

彼がここへ来たもう一つの目的は、五郎蔵が来栖勘兵衛だとして、はたして、天国の剣を持っているかどうか、それを知ることであった。

頼母はじっと神棚を見詰めた。

と、

「わーッ」

という声が聞こえ、

「<ruby><rb>一</rb><rt>ぴん</rt></ruby>だーッ」

「お<ruby><rb>侍</rb><rt>さむれえ</rt></ruby>、やられたのーッ」

という声が聞こえた。

頼母は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>として、盆の方を見た。

<ruby><rb>骰子</rb><rt>さいころ</rt></ruby>の目が、一を出して、目紙の上に、ころがっている。

（<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>ア見ろ！）というように、染八が、浪人の前から、百二十五両を掻き集めようとしているのが見えた。

「待て！」

浪人が刀を抜き、ピタリと目紙の上へ置いた。

「その金、引くことならぬ！」

「何を！」

「賭場荒らしだーッ」

場内総立ちになった。

瞬間に浪人は、編笠を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね退け、蒼黒い、痩せた、頬骨の高い、五十を過ごした、兇暴の顔を現わし、落ち窪んで、<ruby><rb>眼隈</rb><rt>めくま</rt></ruby>の出来ている眼で、五郎蔵を<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めたが、

「お<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>ア、いや親分、お久し振りでござんすねえ」と、言葉まで侍らしくなく、渡世人じみた調子で、「いつも全盛で、おめでとうございます」

五郎蔵は、相手の顔を見、<ruby><rb>不審</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうに眼をひそめたが、そろりと脇差しを膝へ引き付けると、

「<ruby><rb>汝</rb><rt>わりゃ</rt></ruby>ア？」

「<ruby><rb>渋江典膳</rb><rt>しぶえてんぜん</rt></ruby>で。……お見忘れたア情ねえが、こう痩せ涸れてしまっちゃア、人相だって変る筈で。……それにさ、お別れしてっから、月日の経つこと二十年！　ハッハッ、お解りにならねえ方が本当かもしれねえ」

「…………」

「お頭ア、いや親分、あの頃はようござんしたねえ、二十年前は。……来栖勘兵衛、有賀又兵衛といやア、泣く<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>も黙る浪人組の頭、あっしゃア、そのお頭の配下だったんですからねえ。……徒党を組んでの、押し借り<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>りの薬が利きすぎ、とうとう<ruby><rb>幕府</rb><rt>おかみ</rt></ruby>から、お触れ書きさえ出されましたっけねえ。あっしゃア、<ruby><rb>暗記</rb><rt>そら</rt></ruby>で覚えておりやす。『近年、諸国在々、浪人多く徘徊いたし、槍鉄砲をたずさえ、頭分、師匠分などと唱え、廻り場、持ち場などと号し、めいめい私に持ち場を定め、百姓家へ参り、合力を乞い、少分の合力銭等やり候えば、悪口乱暴いたす趣き、不届き至極、目付け次第<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>め<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>り、手に余らば、斬り捨て候うも苦しからず、差し押さえの上は、無宿、有宿にかかわらず、死罪その外重科に処すべく候云々』……勘兵衛とも又兵衛とも、姓名の儀は出ておりませんが、勘兵衛、又兵衛を目あてにしてのお触れ書きで。そうしてこのお触れ書きは、今に<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きている筈で。……ですから、勘兵衛、又兵衛が、今に生きていて、この辺にウロウロしていると知れたら、忽ち捕り手が繰り出され、捕らえられたら、首が十あったって足りゃアしねえ。……それほどの勢力のあった浪人組も、徒党も、二十年の間に、死んだり、殺されたり、ご処刑受けたりして、今に生きている者、はて、幾人ありますかねえ。……三人だけかもしれねえ。……一人は私で。一人は、ここから一里ほど離れている古屋敷に、<ruby><rb>躄者</rb><rt>いざり</rt></ruby>になって生きている爺さんよ。……もう一人は……」

「お侍さん」と、五郎蔵が云った。「いい度胸ですねえ」

「何んだと」

「あっしゃア、どういうものか、ご浪人が好きで、これまで随分世話を見てあげましたが、ご浪人に因縁つけられたなア今日が初めてで」

「つけるだけの因縁が……」

「いい度胸だ」

「褒められて有難え」

「百二十五両お持ちなすって。……お浦、胴巻でも貸してあげな」

「親分！」と、お浦は歯切りし、「あんな<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>浪人に……」

「いいってことよ」それからお浦の耳へ口を寄せたが、

「な！　……」

「なるほどねえ。……渋江さんとやら、それじゃアこれを……」

お浦の投げた縞の胴巻は、典膳の膝の辺へ落ちた。それへ、金包みを入れた典膳は、ノッシリと立ち上がったが、礼も云わず、客人を掻き分けると、<ruby><rb>場外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出て行った。

その後を追ったのは、お浦であった。

典膳の運命は

この日が夜となり、火祭りの松明が、諏訪神社の周囲を、火龍のように廻り出し、府中の宿が、<ruby><rb>篝火</rb><rt>かがりび</rt></ruby>の光で、昼のように明るく見え出した。

この頃、頼母は、物思いに沈みながら<ruby><rb>諏訪神社</rb><rt>みや</rt></ruby>と<ruby><rb>府中</rb><rt>しゅく</rt></ruby>とを<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いでいる<ruby><rb>畷道</rb><rt>なわて</rt></ruby>を、府中の方へ歩いていた。賭場で見聞したことが、彼の心を悩ましているのであった。渋江典膳という浪人が、五郎蔵を脅かした言葉から推すと、いよいよ五郎蔵は来栖勘兵衛であり、飯塚薪左衛門は、有賀又兵衛のように思われてならなかった。そうして、五郎蔵が来栖勘兵衛だとすると、神棚に祭られてあったのは、天国の剣に相違ないように思われた。このことは頼母にとっては、苦痛のことであった。

（天国の剣が、存在するということが確かめられれば、父の説は、誤りということになる。しかるに父は、その誤った説で、五味左衛門と議論したあげく、試合までして、左衛門を打ち挫き、備中守様のご前で恥をかかせた。そのために左衛門は悲憤し、屠腹して死んだのであるから、左衛門を殺したのは、父であると云われても仕方がなく、左衛門の忰左門が、父を討ったのは、敵討ちということになる。その左門を、自分が、父の敵として討つということは、ご<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>の、「又敵討ち」になろうではあるまいか）

（いっそ、天国を手に入れ、打ち砕き、この世からなくなしてしまったら）

こんな考えさえ浮かんで来るのであった。

（天国のような名刀が、二本も三本も、<ruby><rb>現代</rb><rt>こんにち</rt></ruby>に残っている筈はない。あの天国さえ打ち砕いてしまったら）

枯れ草に溜っている露を、足に冷たく感じながら、頼母は、府中の方へ歩いて行った。

と、行く手に竹藪があって、出たばかりの月に、<ruby><rb>葉叢</rb><rt>はむら</rt></ruby>を、薄白く光らせ、<ruby><rb>微風</rb><rt>そよかぜ</rt></ruby>にそよいでいたが、その藪蔭から、男女の云い争う声が聞こえて来た。頼母は、（はてな？）と思いながら、その方へ足を向けた。

府中の方へ流れて行く、幅十間ばかりの、髪川という川が、竹藪の裾を巡って流れていて、淵も作れないほどの速い<ruby><rb>水勢</rb><rt>ながれ</rt></ruby>が、月光を銀箔のように砕いていた。その岸を、男と女とが、酔っていると見え、あぶなっかしい足どりで歩き、云い争っていた。

「これお浦、どうしたものだ。どこまで行けばよいのだ。蛇の生殺しは怪しからんぞ。これいいかげんで……」

渋江典膳であった。五郎蔵の賭場で、百二十五両の金を<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>り、場外へ出ると、賭場で、五郎蔵の側にいたお浦という女が、追っかけて来て、親分の<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けで、一<ruby><rb>献</rb><rt>こん</rt></ruby>献じたいといった。こいつ何か奸策あってのことだろうと、典膳は、最初は相手にしなかったが、田舎に珍しいお浦の美貌と、手に入った<ruby><rb>籠絡</rb><rt>ろうらく</rt></ruby>の<ruby><rb>手管</rb><rt>てくだ</rt></ruby>とに<ruby><rb>誘惑</rb><rt>そその</rt></ruby>かされ、つい<ruby><rb>府中</rb><rt>しゅく</rt></ruby>の料理屋へ上がった。酒を飲まされた。酔った。酔ったほどに、<ruby><rb>下根</rb><rt>げこん</rt></ruby>の典膳は、「お浦、俺の云うことを<ruby><rb>諾</rb><rt>き</rt></ruby>け」と云い出した。

お浦はお浦で、五郎蔵から、

「あんな三下に、大金を<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>られたは心外、さりとて、<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>を使って取り返すも大人気ない。お浦、お前の腕で取り返しな。取り返したら、金はお前にくれてやる」と云われ、その気になり、出かけて来た身だったので、「ここではあんまり<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>の話も出来ないから……ともかくも外へ出て」と、連れ出して来たのであった。

「どこへ行くのだお浦、ひどく寂しい方へ連れて行くではないか……」

と、典膳は、お浦の肩へ手をかけようとした。

お浦は、それを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いなし</span>たが、

「何をお云いなのだよ。この人は……」

そのくせ、心では、（一筋縄ではいけそうもない。……それにこんな<ruby><rb>破落戸</rb><rt>ならず</rt></ruby>武士、殺したところで。……そうだ、いっそ息の根止めて……）と、思っているのであった。

典膳がよろめいて、お浦の肩へぶつかった時、お浦は、何気なさそうに、典膳の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ手をやった。

「これ！」

「胴巻かえ？」

「うん」

「重たそうだねえ」

「百二十五両！」

「ああ、昼間の金だね」

「うん。……五郎蔵め、よく出しおった。旧悪ある身の引け目、<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>ア見ろだ。……お浦、いうことを諾いたら、金をくれるぞ。十両でも二十両でも」

「金なら、妾だって持っているよ」

「<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>た金だろう」

「<ruby><rb>鋼鉄</rb><rt>はがね</rt></ruby>さ、斬れる金さ」

お浦は、片手を懐中へ入れ、呑んでいた<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を抜くと、「そーれ、斬れる金を！」と、典膳の脇腹へ突っ込んだ。

「ヒエーッ、お浦アーッ、さては<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>！」

「汝も蜂の頭もありゃアしないよ」

胴巻をグルグルと<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り出し、背を抱いていた手を放すと、典膳は、弓のようにのけ反ったまま、川の中へ落ちて行った。

（止どめを刺さなかったがよかったかしら？）

お浦は、岸から覗き込んだ。急の水は、典膳を呑んで、下流へ運んで行ったと見え、その姿は見えなかった。

「案外もろいものだねえ」

草で匕首の血糊を拭った時、

「お浦殿、やりましたな」

という声が聞こえて来た。さすがにお浦もギョッとして、声の来た方を見た。竹藪を背にして、編笠をかむった武士が立っていた。

「どなた？」

「旅の者じゃ」

「見ていたね」

「さよう」

「突き出す気かえ」

「役人ではない」

「話せそうね」

と、お浦は、構えていた匕首を下ろし、

「見<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がしてくれるのね」

「殺して至当の悪漢じゃ」

「ご存知？」

「賭場で見ていた」

「まあ」

お浦の恋情

「昼の間、五郎蔵殿の賭場へ参った者じゃ」

「あれ、それじゃア、まんざら見ず知らずの仲じゃアないのね」

「それに、同宿の<ruby><rb>誼</rb><rt>よし</rt></ruby>みもある」

「同宿？」

「拙者は、府中の武蔵屋に泊まっておる」

編笠の武士、すなわち、伊東頼母は、そう、今日、府中へ来ると、五郎蔵一家が、武蔵屋へ宿を取っていると聞き、近寄る便宜にもと、同じ<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>へ投じたのであった。しかるに、五郎蔵はじめその一家が、もう賭場へ出張ったと聞き、自分も賭場へ出かけて行ったのであった。

「まあ。武蔵屋に。それはそれは。妾も、武蔵屋の<ruby><rb>婢女</rb><rt>おんな</rt></ruby>でござんす」

「賭場で、典膳という奴、五郎蔵殿へ因縁つけたのを見ていた。殺されても仕方ない」

「それで安心。……妾アどうなることかと。……でも、<ruby><rb>芳志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>には芳志を。……失礼ながら旅用の<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>しに……」

と、お浦が、胴巻の口へ手を入れたのを、頼母は制し、

「他に頼みがござる」

「他に……」お浦は、意外に思ったか、首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げたが、何か思いあたったと見え、やがて、月光の中で、唇をゆがめ、<ruby><rb>酸味</rb><rt>すみ</rt></ruby>ある笑い方をしたかと思うと、「弱いところを握られた女へ、金の他に頼みといっては、さあ、ホッ、ホッ」

「誤解しては困る」

と、頼母は、少し<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てた。しかし厳粛の声で、「<ruby><rb>不躾</rb><rt>ぶしつ</rt></ruby>けの依頼をするのではない」

「では……」

「賭場に神棚がありましたのう」

「ようご存知」

「ご神体は？」

「はい、天国とやらいう刀……」

「天国⁉　おお、やっぱり！　……お浦殿、その天国を拝見したいのじゃが」

「天国様を？　……<ruby><rb>異</rb><rt>い</rt></ruby>なお頼み。……何んで？」

「拙者は武士、武士は不断に、名刀を恋うるもの。天国は、天下の名器、至宝中の至宝、武士冥利、一度手に取って親しく」

「なるほどねえ、さようでございますか。……いえ、さようでございましょうとも、女の身の妾などにしてからが、江戸におりました頃、歌舞伎を<ruby><rb>見物</rb><rt>み</rt></ruby>、水の垂れそうに美しい、吉沢あやめの、若衆姿など眼に入れますと、一生に一度は、ああいう役者衆と、一つ座敷で、盃のやり取りしたいなどと。……同じ心持ち、よう解りまする。……では何んとかして、あの天国様を。……おおちょうど幸い、五郎蔵親分には、あの天国様を、賭場へ行く時には賭場へ持って行き、宿へ帰る時には宿へ持って帰りまする。……今夜妾がこっそり持ち出し、あなた様のお部屋へ……」

「頼む」

「お部屋は？」

「中庭の<ruby><rb>離座敷</rb><rt>はなれ</rt></ruby>」

「お名前は？」

「伊東頼母」

「お顔拝見しておかねば……」

頼母は、そこで編笠を脱いだ。

お浦はその顔を<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>かして見たが、「まあ」と感嘆の声を上げた。「ご<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>よしな！　……お前髪立ちで！　歌舞伎若衆といおうか、お寺お小姓と云おうか！　何んとまアお美しい！」

見とれて、<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>となったが、

「女冥利、妾アどうあろうと……」

と、よろめくように前へ出た。

若衆形吉沢あやめに似ていると囃された、無双の美貌の頼母が、月下に立った姿は、まこと舞台から<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>け出した芝居の人物かのようで、色ごのみの年増女などは、魂を宙に飛ばすであろうと思われた。前髪のほつれが、眉のあたりへかかり、ポッと開けた唇から、揃った前歯が、つつましく覗いている様子など、女の子よりも<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしかった。

「天国様は愚か、妾ア……」

と、寄り添おうとするのを、

「今夜、何時に？」

と、頼母は、お浦を押しやった。

「あい、どうせ五郎蔵親分が眠ってから……<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>の刻頃……」

「間違いござるまいな」

「何んの間違いなど。……あなた様こそ間違いなく……」

「お待ちしましょう」

と、云い棄て、頼母は歩き出した。お浦は、その<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>姿を、なお恍惚とした眼付きで見送ったが、

（妾ア、生き甲斐を覚えて来たよ）

紙帳の中

この夜が更けて、子の刻になった時、府中の旅籠屋、武蔵屋は寝静まっていた。

と、お浦の姿が、そこの廊下へ現われた。廊下の片側は、並べて作ってある部屋部屋で、襖によって閉ざされていたが、反対側は中庭で、月光が、霜でも敷いたかのように、地上を明るく染めていた。質朴な土地柄からか、雨戸などは立ててない。お浦は廊下を、足音を忍ばせて歩いて行った。廊下が左へ曲がった外れに、<ruby><rb>離座敷</rb><rt>はなれ</rt></ruby>が立っていた。<ruby><rb>藁葺</rb><rt>わらぶ</rt></ruby>き屋根の、部屋数三間ほどの、古びた建物で、静けさを好む客などのために建てたものらしかった。離座敷は、月に背中を向けていたので、中庭を距てた、こっちの廊下から眺めると、屋根も、縁側も、襖も、一様に黒かった。お浦は、そこの一間に、自分を待っている美しい若衆武士のことを思うと、胸がワクワクするのであった。（早くこの天国様をお目にかけて、その代りに……）と、濃情のこの女は、刀箱を抱えていた。

やがて、離座敷の縁側まで来た。お浦は、年にも、茶屋女という身分にも似ず、闇の中で顔を赧らめながら、部屋の襖をあけ、人に見られまいと、いそいで閉め、

「もし。……参りましたよ」

と<ruby><rb>虚</rb><rt>うつろ</rt></ruby>のような声で云い、<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>のない部屋を見廻した。と、闇の中に、仄白く、方形の物が懸かっていた。

（おや？）とお浦は近寄って行った。紙帳であった。（ま、どうしよう、部屋を間違えたんだよ）

と、あわてて出ようとした時、紙帳の裾から、白い、細い手が出て……、

「あれ！」

しかし、お浦は、紙帳の中へ引き込まれた。

<ruby><rb>附近</rb><rt>ちかく</rt></ruby>の農家で飼っていると見え、<ruby><rb>家鶏</rb><rt>にわとり</rt></ruby>の啼き声が聞こえて来た。

部屋の中も、紙帳の中も静かであった。

紙帳は、闇の中に、<ruby><rb>経帷子</rb><rt>きょうかたびら</rt></ruby>のように、気味悪く、薄白く、じっと垂れている。

<ruby><rb>家鶏</rb><rt>とり</rt></ruby>の啼いた方角から、今度は、犬の吠え声が聞こえて来た。祭礼の夜である、夜盗などの<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>う筈はない、参詣帰りの人が、遅く、その辺を通るからであろう。

やがて、<ruby><rb>燧石</rb><rt>いし</rt></ruby>を切る音が、紙帳の中から聞こえて来、すぐにボッと薄黄いろい<ruby><rb>燈火</rb><rt>ひのひかり</rt></ruby>が、紙帳の内側から射して来た。

さてここは紙帳の<ruby><rb>内部</rb><rt>なか</rt></ruby>である。――

唐草の三揃いの寝具に埋もれて、お浦が寝ていた。夜具の襟が、頤の下まで掛かってい、濃化粧をしている彼女の顔が、人形の首かのように、浮き上がって見えていた。眼は細く開いていて、瞳が<ruby><rb>上瞼</rb><rt>うわまぶた</rt></ruby>に隠され、白眼ばかりが、水気を帯びた<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>の<ruby><rb>刀身</rb><rt>み</rt></ruby>かのように、凄く鋭く輝いて見えた。呼吸をしている証拠として、額から、高い鼻の脇を通って、頬にかかっている<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れ毛が、揺れていた。しかし尋常の<ruby><rb>睡眠</rb><rt>ねむり</rt></ruby>とは思われなかった。気を失っているのらしい。

そのお浦の横に、夜具から離れ、畳の上に、膝を揃え、端然と、五味左門が坐っていた。

ふと手を上げて<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の毛を撫でたが、その手を下ろすと、ゆるやかに胸へ組み、

「<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>はただ網を張っているだけだ」と、呟いた。

「その網へかかる蝶や蜂は……蝶や蜂が<ruby><rb>不注意</rb><rt>わるい</rt></ruby>からだ」

と、また、彼は呟いた。

<ruby><rb>独言</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>を云うその口は、残忍と酷薄とを現わしているかのように薄く、色も、赤味などなく、薄墨のように黒かった。

それにしても、紙帳に近寄る男は斬り、紙帳に近寄る女は<ruby><rb>虐遇</rb><rt>さいな</rt></ruby>むという、この左門の残忍性は、何から来ているのであろう？

紙帳生活から来ているのであった。

彼の父左衛門は、生前、春、秋、冬を、その中に住み、夏は<ruby><rb>紙帳</rb><rt>きれ</rt></ruby>を畳んで蒲団の上に敷き、寝茣蓙代りにしたが、左門も、春、秋、冬をその中に住み、夏は寝茣蓙代りに、その上へ寝た。そういうことをすることによって、<ruby><rb>亡父</rb><rt>ちち</rt></ruby>の悩みや悶えを体得したかったのである。そう、彼の父左衛門は、紙帳に起き伏ししながら、天国の剣を奪われて以来衰えた家運について、悩み悶えたのであった。……しかるに左門は、紙帳の中で起き伏しするようになってから、だんだん<ruby><rb>一本気</rb><rt>いっこく</rt></ruby>となり、狭量となり、残忍殺伐となった。何故だろう？　狭い紙帳を天地とし、<ruby><rb>外界</rb><rt>そと</rt></ruby>と絶ち、他を排し、自分一人だけで<ruby><rb>生活</rb><rt>くら</rt></ruby>すようになったからである。そういう生活は孤独生活であり、孤独生活が極まれば、憂欝となり絶望的となる。その果ては、気の弱い者なら自殺に走り、気の強いものなら、欝積している気持ちを、突発的に爆発させて、兇暴の行為をするようになる。左門の場合はその後者で、無意味といいたいほどにも人を斬り、残忍性を発揮するのであった。

「突然はいって来たこの女は？　……」

呟き呟き彼は、女の寝顔を見た。その眼は、<ruby><rb>辵</rb><rt>しんにゅう</rt></ruby>の最後の一画を、眉の下へ置いたかのように、長く、細く、尻刎ねしていた。

「これは何んだ？」と、女の枕もとに転がっている、白い風呂敷包みの、長方形の物へ眼を移した時、彼は呟いた。やがて彼は手を延ばし、風呂敷包みを引き寄せ、包みを解いた。白木の刀箱が現われた。箱の表には、天国と書いてある。

「天国？」

彼は、<ruby><rb>魘</rb><rt>うな</rt></ruby>されたような声で呟いた。瞬間に、額こそ秀でているが、<ruby><rb>顳顬</rb><rt>こめかみ</rt></ruby>の低い、頬の<ruby><rb>削</rb><rt>こ</rt></ruby>けた、鼻が鳥の<ruby><rb>嘴</rb><rt>くちばし</rt></ruby>のように鋭く高い、蒼白の顔色の、長目の彼の顔が、注した血で、燃えるように赧くなった。烈しい感動を受けたからである。

「天国？」

彼の肩がまず<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え、その顫えが、だんだんに全身へ伝わって行った。

「天国？　……まさか！」

にわかに、彼は口を歪め、眼尻へ皺を寄せた。嘲笑ったのである。

「まさか、こんな所に天国が！」

しかも彼の眼は、刀箱の箱書きの文字に食い付いているのであった。

彼が天国の剣に<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>がれているのは、親譲りであった。彼の父、左衛門は、生前彼へこう云った。「我が家には、先祖から伝わった天国の剣があったのじゃ。それを今から二十年前、来栖勘兵衛、有賀又兵衛という、浪人の一党に襲われ、奪われた。……どうともして探し出して、取り返したいものだ」と。――その左衛門が、自殺の直後、<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>左門へ宛てて<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めた遺書には、万難を排して天国を探し出し、伊東忠右衛門一族に示せよとあった。父の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>として忠右衛門を討ち取り、父の形見として紙帳を乞い受け、故郷を出た左門が、日本の津々浦々を巡っているのも、天国を探し出そうためであった。その天国がここにあるのである。

「信じられない！」

彼はまた魘されたような声で云った。そうであろう、蜘蛛の網にかかった蝶のように、紙帳の中へはいって来た、名さえ、素姓さえ知らぬ女が、天下の至宝、剣の王たる、天国を持っていたのであるから。

「……しかし、もしや、これが本当に天国なら……」

それでいて彼は、早速には、刀箱の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を開けようとはしなかった。開けて、中身を取り出してみて、それが<ruby><rb>贋物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>であると証明された時の失望！　それを思うと、手が出せないのであった。まさか！　と思いながら、もし天国であったなら、どんなに嬉しかろう！　この一<ruby><rb>縷</rb><rt>る</rt></ruby>の希望を持って、左門は、尚も刀箱を見据えているのであった。

「これが天国なら、この天国で、伊東頼母めを返り討ちに！」

また、<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>くように云った。

恩讐壁一重

彼は、<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>からの<ruby><rb>音信</rb><rt>たより</rt></ruby>で、忠右衛門の忰の頼母が、自分を父の敵だと云い、復讐の旅へ出たということを知った。彼は冷笑し、（討ちに来るがよい、返り討ちにしてやるばかりだ）とその時思った。そうして<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>では、天国を求める旅のついでに、こっちから頼母を探し出し、討ち取ろうと心掛けているのであった。

正気に<ruby><rb>甦</rb><rt>かえ</rt></ruby>ると見えて、お浦が動き出した。肉附きのよい、ムッチリとした腕を、二本ながら、夜具から脱き、敷き布団の外へ抛り出した。

と、左門は、刀箱を掴んだが、素早く、自分の背後へ隠し、その手で、膝脇の自分の刀を取り上げた。女が正気に返り、騒ぎ出したら、一討ちにするつもりらしい。武道で鍛えあげた彼の体は、<ruby><rb>脂肪</rb><rt>あぶら</rt></ruby>も<ruby><rb>贅肉</rb><rt>ぜいにく</rt></ruby>も取れて、痩せすぎるほどに痩せていた。それでいて硬くはなく、<ruby><rb>撓</rb><rt>しな</rt></ruby>いそうなほどにも軟らかく見えた。そういう彼が、左の手に刀を持ち、それを畳の上へ突き及び腰をし、長く頸を延ばし、上からお浦を覗き込んでいる姿は、昆虫――蜘蛛が、それを見守っているようであった。紙帳の中へ引き入れられてある<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の、薄黄いろい光は、そういう男女を照らしていたが、男女を蔽うている紙帳をも照らしていた。<ruby><rb>内部</rb><rt>うち</rt></ruby>から見たこの紙帳の気味悪さ！　血蜘蛛の<ruby><rb>胴体</rb><rt>どう</rt></ruby>は、厚味を持って、紙帳の面に張り付いていた。左衛門が投げ付けた<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>の、皮や肉が、張り付いたままで<ruby><rb>凝結</rb><rt>こご</rt></ruby>ったからであった。それにしても、蜘蛛の網が、何んとその領分を<ruby><rb>拡大</rb><rt>ひろ</rt></ruby>めたことであろう！　紙帳の天井にさえ張り渡されてあるではないか。<ruby><rb>血飛沫</rb><rt>ちしぶき</rt></ruby>によって作られた網が！　思うにそれは、先夜、飯塚薪左衛門の屋敷で、左門によって討たれた浪人の血と、片足を斬り取られた浪人の血とによって、<ruby><rb>新規</rb><rt>あらた</rt></ruby>に編まれた網らしく、血の色は、赤味を失わないで、今にも、糸のように細い<ruby><rb>滴</rb><rt>しずく</rt></ruby>を、二人の<ruby><rb>男女</rb><rt>もの</rt></ruby>へ、したたらせはしまいかと思われた。

お浦は、夜具からはみ出した腕を、宙へ上げ、何かを探すような素振りをしたが、

「頼母様！　天国様を持って参りました！」

と叫んだ。もちろん、夢中で叫んだのである。

その頼母は、ずっと<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>から、壁一重へだてた隣りの<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>に、お浦を待ちながら、粛然と坐り、「一刀斎先生剣法書」を、膝の上へ載せ、行燈の光で、読んでいた。

<ruby><rb>下婢</rb><rt>おんな</rt></ruby>の敷いて行った<ruby><rb>寝具</rb><rt>よるのもの</rt></ruby>は、彼の手で畳まれ、部屋の片隅に置かれてあった。女を待つに寝ていてはと、彼の潔癖性が、そうさせたものらしい。前髪を立てた、艶々しい髪に包まれた、美玉のような彼の顔は、淡く燈火の光を受けて、<ruby><rb>刻</rb><rt>ほ</rt></ruby>りを深くし、彫刻のような端麗さを見せていた。

「事ノ利ト云フハ、我一ヲ<ruby><rb>以</rb><rt>モツ</rt></ruby>テ敵ノ二ニ応ズル所也。<ruby><rb>譬</rb><rt>タトヘ</rt></ruby>バ、撃チテ<ruby><rb>請</rb><rt>ウ</rt></ruby>ケ、外シテ斬ル。是レ一ヲ以テ二ニ応ズル事也。請ケテ打チ、外シテ斬ルハ、一ハ一、二ハ二ニ応ズル事也。一ヲ以テ二ニ応ズル時ハ必ズ勝ツ」

彼は口の中で読んで行った。

（すなわち、積極的に出れば必ず勝つということなのだな）

彼は、本来が学究的の性格だったので、剣道を修めるにも、道場へ通って、<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>や木刀で打ち合うことだけでは満足しないで、沢庵禅師の「不動智」とか、宮本武蔵の「五輪の書」とか、そういう聖賢や名人の著書を<ruby><rb>繙</rb><rt>ひもと</rt></ruby>くことによって、研究を進めた。今、「一刀斎先生剣法書」を読んでいるのもそのためであった。

（積極的に出れば必ず勝つということだな……少なくも、五味左門と出合った時には、この法で、この意気で、立ち合わなければならない）

（お浦はどうしたものであろう？）

頼母は、「一刀斎先生剣法書」から眼を放し、考えた。

さっき、縁側で人の気配がしたので、それかと思ったところ、隣りの部屋の襖が開き、そこへはいって行ったらしく、音沙汰なくなった。その後は、人の来る様子もなかった。

（浮気者らしかったお浦、俺のことなど忘れてしまったのかも知れない）

時が経って行った。寝静まっている<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>からは、何んの物音も聞こえて来なかった。

立ち向かった左門と頼母

突然、隣りの部屋から、女の叫び声の聞こえて来たのは、さらにそれからしばらく経った後のことであった。（はてな？）と頼母は耳を澄ました。（変だ！）……というのは、その女の叫び声が「頼母様！」と聞こえ、「天国様を」と聞こえたからであった。しかしそれだけで、後は聞こえて来なかった。

（空耳だったかな）

そのくせ頼母は、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らの刀を掴み、立ち上がった。襖をあけて縁側へ出た。すぐ眼にはいったのは、月光で、霜でも降ったように見える広い中庭と、中庭を<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>てて立っている<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>とであった。縁側を左の方へ数歩あゆめば隣り部屋の前へ行けた。そこで頼母は足音を忍ばせ、隣り部屋の前まで行き、また、耳を澄ました。たしかに人のいる気配はあったが、声は聞こえなかった。

（これからどうしたものだろう？）

<ruby><rb>不躾</rb><rt>ぶしつ</rt></ruby>けに襖をあけることは出来なかった。とはいえ、女の声で、自分の名を呼び、天国様をと云ったからには、――空耳でないとして――声の主を確かめたかった。

（まさかお浦が、こんな<ruby><rb>部屋</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ来ていようとは思われないが……）

しかし……いや、しかしも何もない、声の主を確かめさえすればよいのだ！　……しかし、それをするには、やっぱり襖をあけなければ……。

（<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>められたら、部屋を間違えたと云えばよい）

頼母は、わざと無造作に襖をあけた。

「あッ」

声と一緒に、ほとんど夢中で、頼母は、庭へ飛び下り、これも夢中で抜いた刀を、中段に構え、切っ先越しに、部屋の中を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。

見誤りではなかった。<ruby><rb>帳内</rb><rt>なか</rt></ruby>で灯っている燈の光で、<ruby><rb>橙黄色</rb><rt>だいだいいろ</rt></ruby>に見える紙帳が、武士の姿を<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と、その<ruby><rb>紙面</rb><rt>おもて</rt></ruby>へ映し、暗い部屋の中に懸かっている。

（林の中に釣ってあった紙帳だ。では、あの中にいる武士は、五味左門に相違ない。……先夜は、知らぬこととはいえ、同じ飯塚薪左衛門殿の屋敷へ泊まり合わせ、今夜は、同じこの旅籠の、しかも壁一重へだてた部屋に泊まり合わせようとは）

運命の不思議さ気味悪さに、頼母は、一瞬間茫然としたが、

（左門は親の敵、あくまで討ち取らなければならないのであるが、あの凄い腕前では……）

体の顫えを覚えるのであった。

しかし彼にとって、一抹の疑惑があった。紙帳は、左門ばかりが釣っているとは限らない。紙帳の中の武士は、左門ではないかもしれない……。

（何んといって声をかけたらよかろうか？）

彼はしばらく紙帳を睨んで<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ためら</rt></ruby>った。

紙帳は、そういう彼を、嘲笑うかのように、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そよぎ</span>もしないで垂れている。

「卒爾ながら、紙帳の中のお方にお訊ね致す」

と、とうとう頼母は、少し<ruby><rb>強</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばった声で云った。

「貴殿、先夜、飯塚薪左衛門殿の屋敷へ、お泊まりではなかったかな」

こう云ってから、これはいいことを訊いたと思った。泊まったといえば、紙帳の中の武士は、五味左門に相違ないからであった。何故というに、左門は、先夜、自分の本名を<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>って、薪左衛門の屋敷へ泊まったということであるから。

しかし紙帳の中からは、返辞がなく、紙帳に映っている人影も、動かなかった。

頼母は<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせり</rt></ruby>を感じて来た。それで、ジリジリと、縁側の方へ歩み寄りながら、

「貴殿はもしや、五味左門と仰せられるお方ではござらぬかな？」と訊いた。

すると、ようやく、紙帳に映っている人影が動き、<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れた声で、

「そう云われる貴殿は、どなたでござるかな？」

と訊き返した。

「拙者は……」

と、頼母は云ったが、当惑した。本名を宣るものだろうか、それとも、偽名を使ったものだろうか？

（相手が五味左門なら、当然宣りかけて討ち取らなければならないし、もしまた人違いなら、無断に襖をあけ、抜き身をさえ構えて<ruby><rb>誰何</rb><rt>すいか</rt></ruby>した無礼を、これまた、本名を宣って詫びなければならないのだから……）

頼母は、本名を宣ることにした。

「拙者ことは、伊東頼母と申し、隣りの部屋へ泊まり合わせたものでござる」

俄然騒動が起こった。

「おお頼母様でございますか！　<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>はお浦でございます！　……部屋を取り違えて……」

という声が、紙帳の中から起こり、すぐに、女の立ち上がる影法師が、紙帳の面へ映った。が、それは一瞬間で、たちまち悲鳴が起こり、女の姿が<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れるのが見え、つづいて燈火が消え、部屋の闇の中に、ぼんやりと白く紙帳ばかりが残った。

しかし、やがて、紙帳の裾が、<ruby><rb>鉄漿</rb><rt>おはぐろ</rt></ruby>をつけた口のようにワングリと開き、そこから、穴から出る<ruby><rb>爬虫類</rb><rt>ながむし</rt></ruby>かのように、痩せた<ruby><rb>身長</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い武士が出て来た。刀をひっさげた左門であった。左門は、縁先まで一気に出、その気勢に圧せられ、後へ退り、抜き身を構えている頼母を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだが、

「貴殿が伊東頼母殿か、拙者は五味左門、巡り逢いたく思いながら、これまでは縁なくて逢いませなんだが、天運<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>からず<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>逢い申したな。本懐！　……貴殿にとっては拙者は、父の敵でござろうが、拙者にとっても貴殿は、父の敵の<ruby><rb>嫡宗</rb><rt>ちゃくそう</rt></ruby>、<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>みがござる！　果たし合いましょうぞ！」

と、例の、嗄れた、陰湿とした声で云った。

難剣「逆ノ脇」

左門は急に驚いたように、

「貴殿とは、今宵が初対面と思いましたが、そうではござらぬな。過ぐる夜拙者、道了塚のほとりの、林の中で野宿をいたし、通りかかりのお武家を呼び止め、腰の物拝見を乞いましたところ、<ruby><rb>拒絶</rb><rt>ことわ</rt></ruby>られ、やむを得ず、一当て<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あてて</span>……フッフッ、若衆武士殿を気絶させましたが、どうやらそれが貴殿らしい。……頼母殿、さようでござろう」

痛いところへさわられた頼母は、赤面し、切歯し、黙っていた。しかし彼には左門が気味悪く思われてならなかった。黒く大きく立っている<ruby><rb>離座敷</rb><rt>はなれ</rt></ruby>、――壁と襖とは<ruby><rb>灰白</rb><rt>はいじろ</rt></ruby>かったが、その襖の開いている左門の部屋は、<ruby><rb>洞窟</rb><rt>ほら</rt></ruby>の口のように黒く、そこに釣ってある紙帳は、これまた灰白く、寝棺のように見え、それらの<ruby><rb>物像</rb><rt>もの</rt></ruby>を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にして、痩せた、<ruby><rb>身長</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い左門が、左手に刀を持ち、その拳を腰の上へあて、右手の拳も腰の上へあて、<ruby><rb>昆虫</rb><rt>むし</rt></ruby>が飛び足を張ったような形で、落ち着きはらって立っている姿は、全く気味悪いものであった。

左門は云いつづけた。

「ところで、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さきほど</rt></ruby>、一人の女子が、拙者の巣へ――寝所へ、迷い込んでござる。美しい女子ではあり、先方から参ったものではありして、拙者、遠慮なく、<ruby><rb>労</rb><rt>いたわ</rt></ruby>り、介抱いたし……女子も満足いたしたかして眠ってござる。……しかるにその女子、貴殿が姓名を宣られるや、眼覚め、叫びましたのう。『頼母様でございますか、妾はお浦でございます。……部屋を取り違えてこんな目に』と。……さては、お浦という女子、貴殿の恋人そうな。……気の毒や、拙者、貴殿の恋人を……」

ここで左門は例の含み笑いをしたが、

「それにいたしても、不思議のことがござったよ。……そのお浦という女子、天国の剣を所持し参ったことじゃ。……おお、そうそう、そういえば、そのお浦儀、夢の中で『頼母様、天国様を持って参りました』と叫びましたっけ。……さては、貴殿へお渡ししようため、天国を持参したものと見える。……今もお浦儀、その天国を、大事そうに抱いて寝てござる」

こう云って来て左門は、お浦がああ叫んで立ち上がったところを、一当て<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あてて</span>気絶させ、気絶したお浦が、刀箱の上へ仆れた姿を、脳裡へ描き出した。

「天国の剣を欲しがるは拙者で、貴殿ではない筈。その理由は申すまでもござるまい。……拙者といたしては、天国の剣をもって、貴殿はじめ、伊東家の一族を、<ruby><rb>族滅</rb><rt>ぞくめつ</rt></ruby>いたしたいのでござる。……とはいえ、ああまで大切そうに、お浦殿が抱きしめている天国を、もぎ取るも気の毒。では、この関ノ孫六で、貴殿の息の根を止めることと致そう。行くぞーッ」

と叫んだ時には、左門は庭へ飛び下りてい、関ノ孫六は引き抜かれていた。

ハーッとばかりに<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を呑み、思わず数歩飛び退いた頼母は、相手の構えを睨んだ。何んと、左門の刀身が見えないではないか！　見えているものは、肩から、左の胴まで湾曲している右の腕と、踏み出している右足とであった。そう、そういう姿勢で、ノビノビと立っている左門の体であった。

（何んという構えだ！　おお何んという構えだ！）

頼母は、<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えた心でこう思った。（あれが<ruby><rb>反対</rb><rt>ぎゃく</rt></ruby>なら、脇構えなのだが）

そう、刀を自分の右脇に取り、切っ先を背後にし、斜め下にし、刀身を相手に見えないようにし、左足を一歩踏み出したならば、五法の構えの一つ、脇構えになるのであるが、左門の構えは、反対なのであった。

（では反対の脇構え――「逆ノ脇」なのであろうか？）

それにしても、あの構えは、どう変化することであろう？　こっちが、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>の真っ向へ斬り込んだならば、それより先に、彼奴は、背後に隠している刀で、こっちの胴を払うかもしれない。こっちから相手の胴へ斬り込んだならば？　それより先に、相手は、こっちの頸へ、刀を飛ばせるかもしれない。突いて出たならば？　払い上げて、胸を突くだろう！　どう変化するか解らない隠された刀の恐ろしさ！

紙帳を巡って

左門に逢ったなら「我の一を<ruby><rb>以</rb><rt>も</rt></ruby>って敵の二に応じ」よう。すなわち、攻撃的に出て、機先を制しようなどと考えていた頼母は、相手の構えを見ただけで、萎縮してしまった。しかし、心中の怒りは、その反対に<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>まった。恋人などではないお浦が、どう左門に扱われようと、意に介するところではなかったが、しかし、左門が、お浦をこの身の恋人と解し、その恋人を……そうしてこの身を嘲笑していることが、怒りに堪えなかった。天国を左門に取られたことも、<ruby><rb>欝忿</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>であった。自分の手へ渡ったなら、打ち砕くべき天国なので、刀そのものに執着があるのではなかったが、左門の手へ渡ったとあっては、自分の父忠右衛門の、天国不存在説が、あまりにもハッキリと破壊されたことになる。欝忿を感ぜざるを得なかった。

（父の敵、自分の怨み、<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>左門、討たいで置こうか！）

怒りは頼母を狂気させた。

しかし左門の凄さ！

（どうしよう？）

この時、忽然と思い出されたは、やはり伊藤一刀斎の、剣道の極意を詠った和歌であった。

（切り結ぶ<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の下こそ地獄なれ身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。……そうだ、身を捨ててこそ！）

頼母は猛然と斬り込んだ。

と、その瞬間、左門は、水の引くように、<ruby><rb>滑</rb><rt>なめ</rt></ruby>らかに後へ退いた。

（逃げるぞ！）

頼母は驚喜した。自分の気勢に恐れて、左門が逃げたと思ったからであった。頼母は追った。

何んたる<ruby><rb>軽捷</rb><rt>けいしょう</rt></ruby>！　左門は、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>ざまに縁の上へ躍り上がった。構えは？　依然として逆ノ脇！　そこへ柳が生えたかのように、<ruby><rb>嫋</rb><rt>しなや</rt></ruby>かに、少し傾き、縁先まで追って来た頼母を見下ろしている。危ないかな頼母！　左門の、例の、肩から左胴まで柔らかに湾曲している腕が延び、その手に握られて、背後ざまに隠されている刀が、電光のように閃めき出た時、お前の脳天は、鼻から頤まで、切り割られるのを知らないのか！

それにしても左門は、何んのために縁まで退いたのであろう？　暗い部屋の中の、灰白い紙帳を背後にして立っている左門が、心の中で叫んでいる声を聞いたなら、その理由を知ることが出来よう。

「父上よ父上よ、あなたを<ruby><rb>辱</rb><rt>はず</rt></ruby>かしめ、あなたを憤死させました、忠右衛門の忰頼母めを、今こそ討ち取りまして、父上の怨みの残りおります紙帳へ、その血を注ぐでございましょう。止どめは、天国の剣で致しまする」

つまり左門は、頼母の血を、亡父の<ruby><rb>怨恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>の残っている紙帳へ注いでやろうと、紙帳間近まで、頼母を<ruby><rb>誘</rb><rt>おび</rt></ruby>き寄せて来たのであった。

そうと知らない頼母は不幸であった。自分の気勢に圧せられて逃げる左門、たかが知れている！　もう一息だ！　こう思った頼母は不幸であった。

<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>になれ！　と、頼母は、縁へ躍り上がり、斬り付けた。

「あッ」

左門の姿が消え、眼前に紙帳が、風に<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>られたかのように、<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>いでいた。

（部屋の中へ逃げ込んだのだな）

頼母は<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に思った。

（紙帳の中へはいった筈はない。……では、背後に？）

さすがに用心をし、頼母はソロソロと部屋の中へはいって行った。敷居を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぎ左右を見た。正面三、四尺の<ruby><rb>間隔</rb><rt>へだたり</rt></ruby>を置いて、紙帳が釣ってあり、その左右は闇であり、闇の<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>には、部屋の壁が立っている筈であった。……左門の姿はどこにも見えなかった。

（紙帳の背後に隠れているのか、それとも、左右どっちかの、紙帳の横手に、身をひそめているのか？）

頼母は、紙帳を巡って、敵を討とうと決心しながらも、右へ行こうか、左へ行こうかと迷った。しかしとうとう、左手へ心を配りながら、右の方へ進んだ。紙帳の角がすぐ前にあった。角の向こう側に、左門が隠れているかもしれない。頼母は、やにわに刀を突き出して見た。闇を突いたばかりであった。額に、冷たい汗を覚えながら、頼母はホッと息を洩らし、紙帳の角まで進んだ。<ruby><rb>前方</rb><rt>むこう</rt></ruby>を睨んだ。部屋の壁と、紙帳の側面とで出来ている空間が、ただ、暗く細長く見えるばかりで、敵の姿は見えなかった。頼母は、ソロソロと進んだ。すぐに、紙帳の二つ目の角まで来た。

頼母の足は動かなくなった。（あの角の向こう側にこそ）こう思うと、<ruby><rb>居縮</rb><rt>いすく</rt></ruby>むのであった。ほんのさっきまで、左門など何者ぞと、気負い込んでいた彼の自信も勇気も、今は消えてしまった。<ruby><rb>技倆</rb><rt>うで</rt></ruby>の相違がそうさせるのであり、十畳敷きほどの狭いこの部屋の中に、恐ろしい相手が確かにおりながら、その姿が見えないということが、そうさせるのであった。

（どうしたものか？）

この時、霊感のようなものが心に閃めいた。

頼母はやにわに刀を空に<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>った。紙帳の釣り手を切ったのである。紙帳の一角が、すぐに崩れ出した。やわやわと<ruby><rb>撓</rb><rt>たわ</rt></ruby>み、つづいて沈み、方形であった紙帳が、三角の形となって、暗い中に懸かって見えた。しかし、左門の姿は見えなかった。三つ目の紙帳の角へ来て、その釣り手を切った時にも、左門の姿は見えなかった。紙帳は今や、二つの釣り手を切られ、庭に面した残りの二筋の釣り手によって、掲げられているばかりとなり、開けられてある襖を通し、中庭が見えていた。

（左門の隠れ場所が解った。紙帳の四つ目の角の蔭だ）頼母はこう思った。

左門はたして<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>

それに相違なかろうではないか。頼母は、部屋へはいるや、右手へ進み、第一、第二、第三、と、三つまで、紙帳の角を通ったのであった。しかも、左門はいなかった。では、残った、最後の紙帳の四つ目の角の向こう側に、おそらく膝を折り敷き、刀を例の逆ノ脇に構え、豹のような眼をして、狙っているに相違ないではないか。

こう思うと頼母は、また新たに恐怖を感じたが、刀を中段にヒタとつけ、その角を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み、様子をうかがった。

ところが、これより少し<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>から、母屋に近い中庭に、二つの人影があって、こっちを眺め、<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いていた。

角右衛門と紋太郎とであった。

さっきから中庭で、人の云い争うような声が聞こえた。そこは五郎蔵一家の用心棒である二人であった。身内同士間違いを起こしたのではあるまいかと、二人して寝所から脱け出し、様子を見に来たところ、向こう側の<ruby><rb>離座敷</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の襖が開いてい、紙帳の釣ってあるのが見えた。

「紙帳だーッ」

「うむ、紙帳が！」

二人ながら呻くように云った。

先夜、飯塚薪左衛門の屋敷で、紙帳の中の武士に、同僚二人を討たれたことを思い出したからである。

と、紙帳の釣り手が、次々に二ヵ所まで切られたのが見えた。

（何か事件が起こっている）と、二人ながら思った。

「小林<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>」と、角右衛門は、汗を額へ産みながら、「これは、あの時の武士らしゅうござるぞ」

「さよう」と、紋太郎は、若年だけに、一層<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>え、地に敷かれている影法師が揺れるほどに顫えながら、「<ruby><rb>其奴</rb><rt>そやつ</rt></ruby>がまた誰かを……どっちみち、あの部屋で切り合いが……」

「<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>とすれば同僚の敵、……討ち取らいでは……と云って、あの凄い<ruby><rb>剣技</rb><rt>うで</rt></ruby>では……こりゃア親分にお話しして……」

「<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>衆にも……」

「うむ。……では貴殿……」

「心得てござる……」

と、紋太郎は、母屋の縁へ駈け上がり、五郎蔵一家の寝ている、奥座敷の方へ走って行った。

それを見送ろうともせず、怯えた眼で、角右衛門は、紙帳ばかりを見ていた。

と、また、釣り手が一筋切られた。

切ったのは頼母であった。

頼母は、あるいは左門が、最初の位置から身を移し、紙帳の、第一の角の背後に隠れていようもしれぬと思い、ソロソロと紙帳の裾を巡り、引き返し、真っ先に自分が曲がった紙帳の角まで近付き、釣り手を切って落としたのであった。

「出ろ！　左門！」

と頼母は叫んだ。しかし、叫んだものの、飛びかかって行こうとはせず、反対に、飛び退くと、部屋の背後の壁へ背をもたせ、刀を、例の中段に構え、眼前を睨んだ。

釣り手を切られた紙帳の角は、やわやわと撓み、やがて崩れ、今は一筋の釣り手に掲げられている紙帳は、<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>んだ朝顔の花を、<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>さに懸けたような形に、斜面をなして懸かっていた。

左門の姿は見えなかった。

いよいよ左門の居場所は確実に解った。やはり、最後に残った釣り手の背後――釣り手の角の背後にいるのであった。

その方へグッと切っ先を差し付け、頼母は大息を吐いた。

さよう、左門はその位置に、片膝を敷き、片膝を立て、刀を逆ノ脇に構え、<ruby><rb>最初</rb><rt>はじめ</rt></ruby>から<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>まで、<ruby><rb>寂然</rb><rt>せきぜん</rt></ruby>と潜んでいたのであった。一方は、隣り部屋と境いをなしている壁であり、一方は、閉めのこされてある襖であり、正面は紙帳である。――この三つの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>によって、濃い闇を作っているこの場所は、何んと身を隠すに屈竟な所であろう。

彼は、頼母が、自分の方へは来ないで、反対の方へ進み、紙帳の釣り手を、次々に切っておとすのを見ていた。走りかかり、背後から、一刀に斬り<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>すことは、彼にとっては何んでもないことであった。しかし、彼はそれをしなかった。何故だろう？　蜘蛛が、自分の張った網へ、蝶が引っかかろうとするのを、網の片隅に<ruby><rb>蹲居</rb><rt>うずくま</rt></ruby>りながら、ムズムズするような残忍な<ruby><rb>喜悦</rb><rt>よろこび</rt></ruby>をもって、じっと眺めている。――それと同じ<ruby><rb>心理</rb><rt>こころ</rt></ruby>を、左門が持っているからであった。

まだ彼は動かなかった。

しかし彼には、紙帳の<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>に、刀を構え、斬り込もう斬り込もうとしながらも、こっちの無言の気合いに圧せられ、金縛りのようになっている、頼母の姿が、心眼に映じていた。

彼は、姿を見せずに、気合いだけで、ジリジリと、相手の<ruby><rb>精神</rb><rt>こころ</rt></ruby>を<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れさせているのであった。

斬り下ろした左門

<ruby><rb>神気</rb><rt>こころ</rt></ruby>の<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>が極点に達した時、相手は<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に仆れるか、自暴自棄に斬りかかって来るか、二つに一つに出ることは解っていた。そこを目掛け、ただ一刀に仕止めてやろう。――これが左門の狙いどころなのであった。

彼の観察は狂わなかった。頼母は、<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>んだ朝顔を逆さに懸けたような形の紙帳の、その<ruby><rb>萼</rb><rt>がく</rt></ruby>にあたる辺を睨み、依然として刀を構えていたが、次第に<ruby><rb>神気</rb><rt>こころ</rt></ruby>が衰え、刀持つ手に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しこり</span>が来、全身に汗が流れ、<ruby><rb>五体</rb><rt>からだ</rt></ruby>に顫えが起こり、眼が眩みだして来た。……と、不意に一足ヒョロリと前へ出た。<ruby><rb>蝦蟇</rb><rt>がま</rt></ruby>が大きく引く<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をするや、空を舞っている蠅が、<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>のようにその口の中へ飛び込んで行くであろう。ちょうどそのように、頼母は、眼に見えない左門の気合いに<ruby><rb>誘引</rb><rt>おびきよ</rt></ruby>せられたのであった。ハッと気付いた頼母は、背後へ引いた。が、次の瞬間には、ヒョロヒョロと、もう二足前へ<ruby><rb>誘</rb><rt>おび</rt></ruby>きだされていた。

猛然と頼母は決心した。

（身を捨ててこそ！）

畳の上に敷かれてある紙帳を踏み、例の萼にあたる一点を目ざし、真一文字に突っ込んだ。

グンニャリとした軟らかい物を<ruby><rb>蹠</rb><rt>あしうら</rt></ruby>に感じた。萼が崩れ落ちた。一筋の釣り手が、切って落とされたのである。その背後へ、巨大な丸太がノシ上がった。自分で釣り手を切って落とし、その刀を上段に振り冠り、左門が突っ立ったのであった。闇の夜空を縦に突ん裂く電光の凄さを見よ！　左門は斬り下ろした！　悲鳴が上がって頼母の体が紙帳の上へ仆れた。しかし悲鳴は女の声であった。斬り損じた刀を取り直し、再度頭上へ振り冠った左門の足もとを、坂を転がり落ちる丸太のように、頼母の体が転がり、縁側の方へ移って行った。紙帳の中の、気絶しているお浦の体を踏んだのは、頼母にとっては天祐であった。それで彼は足を掬われて仆れ、左門の太刀を遁がれることが出来たのである。左門は、転がって逃げる頼母を追った。しかし縁まで走り出た時には、既に頼母は起き上がり、庭を走っていた。

「逃げるか、卑怯者、待て！」

左門は追い縋った。

<ruby><rb>喊声</rb><rt>ときのこえ</rt></ruby>が起こった。

十数人の人影が、抜き身を<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>の穂のように揃え、一団となり、庭を、こっちへ殺到して来ようとしていた。

五郎蔵の<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>達であった。

その中から角右衛門の声が響いた。

「<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>こそ、先夜、飯塚殿の屋敷で、我々の同僚二人を、いわれなく討ち果たしました悪侍でござる！」

つづいて、紋太郎の声が響いた。

「我々同僚の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>、お討ち取りくだされ！」

その人数の中へ、駈け込んで行く頼母の姿が見えた。

頼母の声が響いた。

「彼は五味左門と申し、拙者の実父忠右衛門を討ち取りましたる者、本日巡り逢いましたを幸い、復讐いたしたき所存……」

群の中には、松戸の五郎蔵もいた。寝巻姿ではあるが、長脇差しを引っ下げ、抜け上がっている額を月光に<ruby><rb>曝</rb><rt>さ</rt></ruby>らし、左門の方を睨んでいた。

彼は、紋太郎によって呼び立てられ、眼覚めるや、乾児たちと一緒に、庭へ出て来たのであった。彼は、来る間に、紋太郎から、紙帳武士のどういう素姓の者であるかを聞かされた。飯塚薪左衛門の屋敷で、角右衛門や紋太郎の同僚を、二人まで、いわれもないのに討ち果たした悪侍とのことであった。しかし彼としては、その言葉を、どの程度まで信じてよいか解らなかった。が、庭へ出て来て、前髪立ちの武士から、その武士が、親の敵だと叫ばれ、その武士が、前髪立ちの武士を追って走って来、自分たちの姿を見るや、刀を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ隠して下げ、右腕を左胴まで曲げて柄を握り、右足を踏み出した異様な構えで、全身から殺気を<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>らせながら、しかも寂然と静まり返って立った姿を見ると、容易ならない相手だと思い、いかさま、人など、平気で幾人でも殺す奴だろうと思った。

「野郎ども」と五郎蔵は、乾児たちに向かって怒鳴った。「あの三ピンを、引っ<ruby><rb>包</rb><rt>くる</rt></ruby>んで<ruby><rb>膾</rb><rt>なます</rt></ruby>に刻んでしまえ！　しかし殺しちゃアいけねえ。止どめはお若衆に刺させろ！　やれ！」

声に応じて乾児たちは、一本の杭を目差して、黒い潮が、四方から押し寄せて行くように、左門を目掛け、殺到した。

黒い潮が、渦巻き、<ruby><rb>沸</rb><rt>わ</rt></ruby>き立つように見えた。<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>が、水銀のように四方へ散った。――白刃が前後左右に閃めくのであった。数声悲鳴が起こった。渦潮は崩れ、一勢に引いた。杭は、わずかにその位置を変えたばかりで、同じ姿勢で立ってい、その前の地面に、<ruby><rb>三個</rb><rt>みっつ</rt></ruby>の死骸が――波の引いた海上に、小さい黒い岩が残ったかのように、転がっていた。左門に斬られた五郎蔵の乾児たちであった。

子供を産む妖怪蜘蛛

五郎蔵は地団駄を踏み、いつか抜いた長脇差しを振り冠り、左門へ走りかかったが、にわかに足を止め、<ruby><rb>離座敷</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の方を眺めると、

「<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>が！　大蜘蛛が！」

と喚き、脇差しをダラリと下げてしまった。

畳数枚にもあたる巨大な白蜘蛛が、暗い洞窟の中から這い出すように、今、<ruby><rb>離座敷</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の、左門の部屋から、縁側の方へ這い出しつつあった。背を高く円く持ち上げ、四本の足を引き摺るように動かし、やや角ばって見える胴体を、縦に横に動かし――だから、太い、深い皺を全身に作り、それをウネウネと動かし、<ruby><rb>妖怪</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>蜘蛛は、やがて縁から庭へ下りた。と、離座敷が作っている地上の<ruby><rb>陰影</rb><rt>かげ</rt></ruby>から、蜘蛛は、月の光の中へ出た。蜘蛛の白い体に、無数に<ruby><rb>附着</rb><rt>つ</rt></ruby>いてる<ruby><rb>斑点</rb><rt>まだら</rt></ruby>は、五味左衛門の<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>によって<ruby><rb>印</rb><rt>つ</rt></ruby>けられた血の痕であり、その後、左門によって、幾人かの人間が斬られ、その血が飛び散って出来た斑点でもあった。そうして、この巨大な妖怪蜘蛛は、紙帳なのであった。では、四筋の釣り手を切られ、さっきまで、部屋の中に、ベッタリと伏し沈んでいた紙帳が、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を得、自然と動き出し、歩き出して来たのであろうか？　幾人かの男女が、その内外で、斬られ、殺されて、はずかしめられ、怨みの籠っている紙帳である、それくらいの怪異は現わすかもしれない。

庭を歩いて行く紙帳蜘蛛は、やがて<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れたかのように、背を低めて地へ伏した。しかしすぐに立ち上がった。背が高く盛り上がった。と、それに引き絞られて、紙帳の四側面が内側へ窪み、切られ残りの釣り手の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を持った四つの角が、そのためかえって細まり、さながら四本の足かのようになった。窪んだ箇所は黒い陰影を作り、隆起している角は骨のように白く見えた。紙帳蜘蛛は歩いて行く。と、蜘蛛は、地面へ、子供を産み落とした。彼が地面へ伏し沈み、やがて立って歩き出したその後へ、長い、巾の小広い、爬虫類を――<ruby><rb>蛇</rb><rt>くちなわ</rt></ruby>を産み落としたのである。しかしそれは、<ruby><rb>黒繻子</rb><rt>くろじゅす</rt></ruby>と、紫縮緬とを腹合わせにした、女帯であった。女帯は、地上に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とぐろ</span>を巻き<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>にあたる辺を裏返し、その紫の縮緬の腹を見せていた。蜘蛛は、自分の影法師を地に敷きながら、庭を<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby>なく<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>って行った。と、また子供を産み落とした。紅裏をつけた、藍の小弁慶の、女物の小袖であった。蜘蛛は、庭の左手の方へ、這って行った。

やがて、母屋と<ruby><rb>離座敷</rb><rt>はなれ</rt></ruby>との間の<ruby><rb>通路</rb><rt>みち</rt></ruby>から、この<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>、武蔵屋の<ruby><rb>構外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出ようとした。そうしてまたそこで、地上へ、血溜りのような物を――胴抜きの緋の長襦袢を産み落とした。

三個の死骸を間に挾み、左門と向かい合い、隙があったら斬り込もうと、刀を構えていた頼母も、その背後に、後見でもするように、引き添っていた五郎蔵も、刀を逆ノ脇に構え、頼母と向かい合っていた左門も、その左門を遠巻きにしていた五郎蔵の乾児たちも、そうして、この中庭の騒動に眼を覚まし、母屋の縁や、庭の隅などに集まっていた、無数の泊まり客や、旅籠の<ruby><rb>婢</rb><rt>おんな</rt></ruby>や番頭たちは、この、紙帳蜘蛛の怪異に胆を奪われ、咳一つ立てず、手足を<ruby><rb>強張</rb><rt>こわば</rt></ruby>らせ、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を呑んでいた。不意に、左門の口から、呻くような声が迸ったかと思うと、紙帳を追って走り出した。

「<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がすな！」という、五郎蔵の、烈しい声が響いた。瞬間に、乾児たちが、再度、四方から、左門へ斬りかかって行く姿が見えた。しかし左門が振り返りざま、宙へ刀を揮うや、真っ先に進んでいた乾児の一人が、左右へ手を開き、持っていた刀を、<ruby><rb>氷柱</rb><rt>つらら</rt></ruby>のように落とし、<ruby><rb>反</rb><rt>の</rt></ruby>けざまに斃れた。

蜘蛛の姿は消えていた。

その蜘蛛が、しばらく経って姿をあらわしたのは、武蔵屋から数町離れた、瀬の速い川の岸であった。その岸を紙帳蜘蛛は、よろめきよろめき、喘ぎ喘ぎ、這っていた。でも、とうとう<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れきったのであろう、四足を縮め、胴体に深い<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を作り、ベタベタと地へ腹這った。円く高く盛り上がっていた背も<ruby><rb>撓</rb><rt>たわ</rt></ruby>み、全体の相が角張り、蜘蛛というより、やはり、一張りの紙帳が、地面へ捨てられたような姿となった。川面を渡って、烈しく風が吹くからであったが、紙帳は、<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>を起こしたかのように、<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えつづけた。と、不意に紙帳は寝返りを打った。風が、その<ruby><rb>内部</rb><rt>なか</rt></ruby>へ吹き込んだため、紙帳が一方へ傾き、ワングリと口を開けたのである。忽然、紙帳は、一間ほど舞い上がった。もうそれは蜘蛛ではなく、<ruby><rb>紙鳶</rb><rt>たこ</rt></ruby>であった。巨大な、白地に斑点を持った紙鳶は、蒼々と月の光の<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っている空を飛んで、三間ほどの<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>へ落ちた。でも、また、すぐに、川風に煽られ、舞い上がり、藪や、小丘や、森や、林の<ruby><rb>点綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>られている、そうして、麦畑や野菜畑が打ち続いている平野の方へ、飛んで行った。

怨恨上と下

最初、紙帳の舞い上がった地面に、一人の女が仆れていた。お浦であった。水色の<ruby><rb>布</rb><rt>きぬ</rt></ruby>を腰に纒っているばかりの彼女は、水から上がった人魚のようであった。

彼女は<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れ果てていた。左門によって気絶させられたところ、頼母に踏まれて正気づいた、そこで彼女は夢中で遁がれようとした。が、彼女を蔽うている紙帳が、彼女にまつわり、中から出ることが出来なかった。冷静に考えて、行動したならば、紙帳から<ruby><rb>脱出</rb><rt>のがれだ</rt></ruby>すことなど、何んでもなかったのであろうが、次から次と――部屋の間違い、気絶、斬り合いの<ruby><rb>叫喚</rb><rt>さけび</rt></ruby>、次から次と起こって来た事件のため、さすがの彼女も心を<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>させていた。そのため、紙帳を冠ったまま、無二無三に逃げ廻ったのである。体をもがくにつれて、帯や衣裳は脱げて落ちた。

<ruby><rb>藻屑</rb><rt>もくず</rt></ruby>のように振り乱した髪を背に懸け、長い<ruby><rb>頸</rb><rt>うなじ</rt></ruby>を延びるだけ延ばし、円い肩から、豊かな背の肉を、弓形にくねらせ、片頬を地面へくっ付けたまま、今にも呼吸が切れそうなほどにも、烈しく喘いでいるのであった。

（<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>が乾く！　水が飲みたい！）

彼女はこればかりを思っていた。

（川があるらしい、水の音がする）

この時までも、小脇に抱いていた天国の刀箱を、依然小脇に抱いたままで、彼女は川縁の方へ這って行った。

一方は宿の家並みで、雨戸をとざした暗い家々が、数町の<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に立ち並んでおり、反対側は髪川で、速い瀬が、月の光を砕いて、銀箔を敷いたように<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>ってい、その対岸に、今を盛りの桜の老樹が、並木をなして立ち並んでい、烈しい風に、吹雪のように花を散らし、花は、川を渡り、お浦の肉体の上へまで降って来た。そうして、その桜並木の遙か<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>の、斜面をなしている丘の上の、諏訪神社の辺りでは、火祭りの<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火が、数百も列をなし、<ruby><rb>蜒</rb><rt>うね</rt></ruby>り、渦巻き、揉みに揉んでいるのが、火龍が荒れまわっているかのように見えた。

お浦は、やっと川縁まで這い寄った。彼女は、崖の縁を越して、前の方へ腕を延ばした。すぐそこに川が流れているものと思ったかららしい。

（水が飲みたい、水を！）

しかし川は、彼女のいる川縁から、一丈ばかり下の方を流れていた。そうして、川縁から川までの崖は、中窪みに窪んでい、その真下は岩組であった。

その岩組の間に挾まり、腰から下を水に浸し、両手で岩に取り縋り、半死半生になっている男があった。渋江典膳であった。

彼は、この髪川の上流、竹藪の側で、お浦のため短刀で刺された上、川の中へ落とされた。女の力で刺したのと、衣裳の上からだったのとで、傷は浅かった。しかし、川へ落ちた時、後脳を打ち、気絶した。でも、気絶したのは、典膳にとっては幸運だった。水を飲まなかった。その典膳は、ここまで流されて来、ここの岩組の間に挾まり、長い間浮いているうちに蘇生した。蘇生はしたが、衰弱しきっている彼は、川から這い上がることさえ出来なかった。助けを呼ぶにも、声さえ出なかった。彼はただ、岩に取り縋っているだけで精一杯であった。

彼の心は、五郎蔵とお浦とに対する、怒りと怨みとで一杯であった。

（<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>ら二人に復讐するためばかりにも、生き抜いてやらなけりゃア）

こう思っているのであった。

（昔の同志、同じ浪人組の仲間を、頭分たる彼奴が、女を使って殺そうとしたとは！　卑怯な奴、義理も人情も知らない奴！　……そっちがその気なら、こっちもこっち、彼奴の素姓を<ruby><rb>発</rb><rt>あば</rt></ruby>き、その筋へ訴え出てやろう。即座に縛り首だ！　五郎蔵め、思い知るがいい！　……お浦もお浦だ、女の分際で、色仕掛けで俺を<ruby><rb>騙</rb><rt>たばか</rt></ruby>り、殺そうとは！　どうともして引っ捕らえ、<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り殺しにしてやらなけりゃア！）

川から上がりたい、水から出たいと、彼は縋っている手に力をこめ、岩を這い上がろうとした。しかし、腰から下を浸している水の、何んと粘っこく、<ruby><rb>黐</rb><rt>もち</rt></ruby>かのように感じられることか！　どうにも水切りすることが出来ないのであった。

と、その時、頭上から、<ruby><rb>土塊</rb><rt>つちくれ</rt></ruby>と一緒に、何物か崖を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って落ちて来、岩に当たり、<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな音を立て、水へ落ちた。

典膳は、水面を見た。細い長い<ruby><rb>木箱</rb><rt>はこ</rt></ruby>が、月光で銀箔のように光っている水に浮いて、二、三度漂い廻ったが、やがて下流の方へ流れて行った。

典膳は、崖の上を振り仰いだ。

<ruby><rb>生々</rb><rt>なまなま</rt></ruby>と白く、肥えて円い、女の腕が、長く延びて差し出されてい、指が、何かを求めるように、閉じたり開いたりしていた。

「あ」

と、典膳は、思わず声を上げた。意外だったからである。しかし、次の瞬間には、誰か、女が、この身を助けよう、引き上げようとして、手を差し出してくれたのだと思った。

「お助けくださいまするか、<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじ</rt></ruby>けのうござる。<ruby><rb>生々世々</rb><rt>しょうじょうよよ</rt></ruby>、ご恩に着まするぞ」

と、典膳は、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こびり</span>ついて容易に出ない声を絞って云い、一気に勇気を出し、川から岩の上へ這い上がった。

栞の恋心

腕の主はいうまでもなくお浦で、お浦は、この<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>になっても、恋しい男の頼母へ渡そうと、抱えていた天国の刀箱を、不覚にも川の中へ落としたので驚き、延ばしている腕を一層延ばし、思わず指を<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>かしたのであった。その時彼女は、崖下から、人声らしいものの、聞こえて来るのを聞いた。彼女は狂喜し、地を摺って進み、肩と胸とを、崖縁からはみ出させ、崩れた髪で、額縁のように包んだ顔を覗かせ、崖下を見下ろし、

「もし、どなたかおいででございますか。刀箱を落としましてございます。その辺にありはしますまいか？　……あ、水が飲みたい！　水を汲んでくださいまし」

典膳は、この時、もう岩の上に坐りこんでいたが、女の声を聞いても、耳に入れようとはせず、ただ、女の腕に縋り、それを<ruby><rb>手頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>りに、崖の上へあがろうと、ひしと女の手を握った。

「お願いでございます。この手を、グッとお引きくださいまし。それを力に、私、崖を上がるでございましょう。ご女中、さ、グッとこの手を……」

お浦は、突然手を握られて、ハッとしたが、咽喉の渇きがいよいよ烈しくなって来たので、握られた手を振り放そうとはせず、

「水を！　まず、水を！　……その後にお力になりましょう。手をお引きいたすでございましょう。……おお、水を！」

この二人を照らしているものは、<ruby><rb>練絹</rb><rt>ねりぎぬ</rt></ruby>で包んだような、<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろの月であった。

典膳は、やっと、ヒョロヒョロと立ち上がった。お浦の体は、いよいよ崖の方へはみ出した。

二人の顔はヒタと会った。

「…‥……」

「…………」

<ruby><rb>鵜烏</rb><rt>うがらす</rt></ruby>が、川面を<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>に翔けながら、啼き声を<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>した。

こういう事件があってから三日の日が経った。

その三日目の朝、飯塚薪左衛門の娘の<ruby><rb>栞</rb><rt>しおり</rt></ruby>は、屋敷を出て、郊外を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>った。さまよいながらも彼女の眼は、府中の方ばかりを眺めていた。<ruby><rb>連翹</rb><rt>れんぎょう</rt></ruby>と<ruby><rb>李</rb><rt>すもも</rt></ruby>の花で囲まれた農家や、その裾を丈低い桃の花木で飾った丘や、朝陽を受けて<ruby><rb>薄瑪瑙色</rb><rt>うすめのういろ</rt></ruby>に輝いている野川や、<ruby><rb>鶯菜</rb><rt>うぐいすな</rt></ruby>や大根の葉に緑濃く<ruby><rb>彩色</rb><rt>いろど</rt></ruby>られている畑などの<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に、一里の<ruby><rb>距離</rb><rt>へだたり</rt></ruby>を置いて、府中の宿が、その黒っぽい家並みを浮き出させていた。

（今日あたり頼母様にはお帰りあそばすかもしれない）

（いいえ、頼母様、是非お帰りあそばしてくださいまし）

山水のように澄んでいる眼には、愛情の熱が燃え、<ruby><rb>柘榴</rb><rt>ざくろ</rt></ruby>の<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>のように、謹ましく紅い唇には、思慕の艶が光り、<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>細かに、蒼いまでに白い皮膚には、<ruby><rb>憧憬</rb><rt>あこがれ</rt></ruby>の<ruby><rb>光沢</rb><rt>つや</rt></ruby>さえ付き、恋を知った<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>栞の、おお何んとこの三日の間に、美しさを増し、なまめかしさを加えたことだろう！　彼女は過ぐる夜、屋敷の中庭で、頼母と会って以来、それまで、春をしらずに堅く閉ざしていた花の蕾が、一時に<ruby><rb>花弁</rb><rt>はなびら</rt></ruby>を開き、色や<ruby><rb>馨</rb><rt>かお</rt></ruby>りを悩ましいまでに<ruby><rb>発散</rb><rt>はな</rt></ruby>すように、栞も、恋心を<ruby><rb>解放</rb><rt>はな</rt></ruby>し、にわかに美しさを加えたのであった。

（<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>は頼母様の他にはない）

処女の一本気が、恋となった時、行きつくところはここであった。まして栞のように、発狂している父親を看病し、老いたる<ruby><rb>僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>や<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>や、荒々しい旅廻りの寄食浪人などばかりに<ruby><rb>囲繞</rb><rt>とりま</rt></ruby>かれ、陰欝な屋敷に育って来た者は、型の変った箱入り娘というべきであり、箱入り娘は、最初にぶつかって来た異性に、全生涯を<ruby><rb>委</rb><rt>ま</rt></ruby>かそうとするものであるにおいてをや。殊に相手が、若く、凜々しく、頼り甲斐のある、無双の美丈夫であるにおいてをや。

（頼母様、早くお帰りなされてくださりませ）

その頼母は、自分たち飯塚家に、わけても父薪左衛門に<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>をする、松戸の五郎蔵という博徒の親分が、何故父親に仇をするのか、五郎蔵の本当の素姓は何か？　それを、自分たちのために探り知るべく、出かけて行ってくれたのであった。

（頼母様、お会いしとうございます。早くお帰りなされてくださいまし）

五郎蔵の素姓も、五郎蔵が、何故父親に仇をするのかをも、頼母の口から聞きたくはあったが、しかしそれよりも、狂わしいまでに恋している<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>は、ただひたむきに、恋人の顔が見たいのであった。

髪川から、灌漑用に引かれている<ruby><rb>堰</rb><rt>せき</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>には、<ruby><rb>菫</rb><rt>すみれ</rt></ruby>や、<ruby><rb>紫雲英</rb><rt>げんげ</rt></ruby>や、<ruby><rb>碇草</rb><rt>いかりそう</rt></ruby>やが、精巧な織り物を<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べたように咲いてい、水面には、<ruby><rb>水馬</rb><rt>みずすまし</rt></ruby>が、小皺のような波紋を作って泳いでい、底の泥には、<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>の這った痕が、柔らかい紐のように付いていた。ことごとく<ruby><rb>春</rb><rt>はる</rt></ruby><ruby><rb>酣</rb><rt>たけなわ</rt></ruby>の景色であった。

「おや」と呟いて、栞は、堰の縁へ、赤緒の草履の足を止めた。水面に、水藻をまとい、目高の群に囲まれながら、天国と箱書きのある刀箱が、浮いていたからである。

名刀天国

（天国といえば、気を狂わせておられるお父様が、狂気の中でも、何彼と仰せられておられた名剣の筈だが……）

それが、こんな堰に浮いているとは不思議だと、栞は、しばらく刀箱を見ていたが、やがて<ruby><rb>蹲</rb><rt>しゃが</rt></ruby>むと、<ruby><rb>刀箱</rb><rt>それ</rt></ruby>を引き上げた。箱からしたたるビードロのような<ruby><rb>滴</rb><rt>しずく</rt></ruby>を切り、彼女は、両手で刀箱を支え、じっと見入った。ゆかしい古代紫の絹の打ち紐で、箱は<ruby><rb>結</rb><rt>ゆわ</rt></ruby>えられていた。箱は、<ruby><rb>柾</rb><rt>まさ</rt></ruby>の細かい、桐の老木で作ったものであり、天国と書かれた書体も、墨色も、古く<ruby><rb>雅</rb><rt>みやび</rt></ruby>ていた。

（ともかくもお父様へお目にかけて……）

その裾の辺りへ去年の枯れ草を茂らせ、ところどころ壁土を落とした<ruby><rb>築地</rb><rt>ついじ</rt></ruby>。鋲は錆び、瓦は<ruby><rb>破損</rb><rt>いた</rt></ruby>み、久しく開けないために、扉に<ruby><rb>干割</rb><rt>ひわ</rt></ruby>れの見える大門。――こういうものに囲まれた彼女の屋敷は、廃屋の見本のようなものであったが、栞は、その大門の横の<ruby><rb>潜門</rb><rt>くぐり</rt></ruby>をくぐって屋敷の中へはいって行った。

その栞が、しばらく経った時には屋敷の奥の、古びた十畳ばかりの部屋に、父、薪左衛門と向かいあって坐っていた。

栞は、膝の上の刀箱を、父の方へ差し出したが、

「ただ今お話し申し上げました、堰の水に浮いておりました刀箱は、これでございます。ご覧なさりませ、天国と、箱書きしてございます」

と云い、<ruby><rb>緞子</rb><rt>どんす</rt></ruby>の厚い座布団の上へ坐り、<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の脇息へ倚っている、父親の顔を見た。

薪左衛門は、その卯の花のように白い総髪を、肩の上でユサリと揺り、おちつきなく、キョトキョト動く眼を、グッと据えたが、やっと咽喉から押し出したような嗄れ声で、

「ナニ、天国⁉　……まことか！　……まことなりやお手柄、我ら助かる！　身の面目になる！」

と云ったが、突然、棚から<ruby><rb>陶器</rb><rt>すえもの</rt></ruby>が転げ落ちるような声で笑い出し、

「<ruby><rb>贋物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>であろう、贋物であろう、贋物の天国、鑑定してやろうぞ！」

と、鉤のように曲がっている左右の指で、ムズと箱を掴んだ。紐が解かれ、蓋が開けられた。箱の底に沈んでいたのは、古錦襴の袋に入れられた白鞘の剣であった。やがて鞘は払われ、刀身があらわれた。

薪左衛門は、狂人ながら、さすがは武士、白木の柄を両手に持ち、柄頭を<ruby><rb>丹田</rb><rt>たんでん</rt></ruby>へ付け、<ruby><rb>鉾子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>先を、<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>に、両眼の間、ずっと<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>に立て、ジッと刀身を見詰めた。立派であった。

それにしても、この奥まった部屋の暗いことは！　年中陽の光が射さないからであった。それで、この部屋にあって、<ruby><rb>鮮明</rb><rt>あざやか</rt></ruby>に見えているものといえば、例の、卯の花のように白い薪左衛門の<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>と、化粧を施さないでも、天性雪のように白い、栞の顔ばかりであった。

いや、もう一つあった。薪左衛門によって<ruby><rb>保持</rb><rt>たも</rt></ruby>たれている天国の剣であった。

おお、この「持つ人の善悪に関わらず、持つ人に福徳を与う」とまで、云い伝えられている、日本最古の刀匠――大宝年中、<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>に住していた天国の作の、二尺三寸の刀身の、何んと、部屋の暗さの中に、<ruby><rb>煌々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>たる光を放していることか！　その刀身の姿は細く、肌は板目で、女性を<ruby><rb>連想</rb><rt>おも</rt></ruby>わせるほどに優美であり、<ruby><rb>錵</rb><rt>にえ</rt></ruby>多く、小乱れの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だれ</span>刃も見えていた。そうして、切っ先から、四寸ほど下がった<ruby><rb>辺</rb><rt>あた</rt></ruby>りから、<ruby><rb>両刃</rb><rt>もろは</rt></ruby>になっていた。何より心を搏たれることは、それが兇器の剣でありながら、<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>も殺伐の気のないことで、剣というよりも、名玉を剣の形に延べた、気品の高い、匂うばかりに美しい、一つの<ruby><rb>物像</rb><rt>もののかたち</rt></ruby>といわなければならないことであった。

「まあ」と、栞は、思わず感嘆の声を上げ、水仙の茎のような、白い細い<ruby><rb>頸</rb><rt>うなじ</rt></ruby>を差し延べ、眼を見張り、刀身を見詰めた。

それにも増して、刀身へ穴でも<ruby><rb>穿</rb><rt>あ</rt></ruby>けるかのように、その刀身を見詰めているのは、<ruby><rb>燠</rb><rt>おき</rt></ruby>のように熱を持った薪左衛門の眼であった。

薪左衛門も栞も、時の経つのを忘れているようであった。どこにいるのかも忘れているようであった。

人は往々にして、真の驚異や、真の感激や、真の美意識に<ruby><rb>遭遇</rb><rt>ぶつか</rt></ruby>った時、<ruby><rb>時間</rb><rt>とき</rt></ruby>と<ruby><rb>空間</rb><rt>ところ</rt></ruby>とを<ruby><rb>忘却</rb><rt>わす</rt></ruby>れるものであるが、この時の二人がまさにそれであった。

名刀の威徳

「栞や」と、不意に、薪左衛門は、優しい<ruby><rb>穏</rb><rt>おだや</rt></ruby>かな声で云った。

「これは、天国の剣に相違ないよ。私には見覚えがある。遠い昔に――二十年もの昔でもあろうか、五味左衛門という者の屋敷から、天国の剣を強奪……いやナニ、頂戴したことがあるが、それがこの剣なのだよ。……ゆえあってその天国の剣は、今まで行衛不明となり、同志、来栖勘兵衛からは……いやナニ、誰でもよい、同志の一人からは、わしがその剣を隠匿したように<ruby><rb>誣</rb><rt>し</rt></ruby>いられたが……それにしても、栞や、よくそなた、この剣を目付け出してくれたのう」

その云い方は、全然、正気の人間の云い方であり、その<ruby><rb>声音</rb><rt>こわね</rt></ruby>は、これも正気の人間の、五音の調った、<ruby><rb>清々</rb><rt>すがすが</rt></ruby>しい声音であった。

「まあお父様！」と、栞は叫ぶように云い、父親が、正気に返ったらしいのに狂喜し、のめるように膝で進み、薪左衛門の膝へ取り縋った。

「そのお顔は！　そのお声は！　……おおおお、お父様、すっかり正気の人間に！　……」

いかさま、ほんのさっきまでは、薪左衛門の顔は、狂人特有の、<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んだ眉、上擦った眼、食いしばった口、蒼白の顔色、そういう顔だったのに、何んと<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>の顔は、のびのびとした眉の、<ruby><rb>沈着</rb><rt>おちつ</rt></ruby>いた眼の、穏かに軽く結んだ口の、尋常の人の容貌に返っているではないか。これはどうしたことなのであろう？　奇蹟的事件にぶつかった時、人は往々、濁った気持ちや、狂った<ruby><rb>精神</rb><rt>こころ</rt></ruby>を、本来の正気に戻すことがあるものであるが、薪左衛門にとっては、天国の剣の出現は、その奇蹟的事件といっていいらしく、そのため、烈しい感動を受け、日頃の狂疾が、一時的に恢復したのかもしれない。

「ナニ正気の人間に？」

と、薪左衛門は、栞の言葉を、<ruby><rb>不審</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうに聞き咎めた。

「栞や、正気の人間とは？」

「おお、お父様お父様、あなた様は、長らくの間、ご乱心あそばしておいでなされたのでございます」

「乱心？」

「はい、過ぐる年、松戸の五郎蔵という、博徒の親分が参りまして、お父様と、お話しいたしましてございますが、その時、突然お父様には、『<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>、来栖勘兵衛、まだこの俺を苦しめるのか！』と叫ばれまして、その時以来、ずっとご乱心……」

「…………」

「そればかりか、お父様には、以前からお持ちの、腰の刀傷が元で、<ruby><rb>躄者</rb><rt>いざり</rt></ruby>に……」

「ナニ、躄者に？」と、叫んだかと思うと、薪左衛門は、腰を延ばし、ノッと立ち上がった。立てなかった。

「おおおお栞や、わしは躄者じゃ！　……躄者じゃ躄者じゃ、わしは躄者じゃ！　……ワ、わしは、イ、躄者じゃーッ」

時が沈黙のまま経って行った。天井裏で烈しい音がし、悲しそうな鼠の啼き声が聞こえた。こういう古屋敷の天井裏などには、大きな蛇が住んでいるものである。それが<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>から落ちて、鼠を呑んだらしい。

時が経って行った。

薪左衛門の顔には、恐怖、悲哀、絶望、苦悶の表情が、深刻に刻まれていた。当然といえよう。乱心していたということだけでさえ、恥ずかしいことだのに、躄者にさえなったという。生まれもつかぬ躄者に。

薪左衛門は眼を閉じた。その瞼が痙攣を起こしているのは、感情を抑えているからであろう。栞の肩を抱いている手が、烈しく顫えているのも、感情を抑えているからであろう。

父の苦悶の顔を、下から見上げている栞の顔にも、恐怖と不安と悲哀とがあった。

（烈しいお父様の苦悶が、お父様を駆って、また乱心に……）

これが栞には恐ろしく悲しいのであった。

やがて薪左衛門は弱々しく眼を開けた。その眼についたのは、右手に捧げている天国の剣であった。剣は、依然として、珠を延べたかのように、気高い、穏かな光を放し、宙に保たれていた。この剣の威徳には、煙りさえも近寄れないのであろうか？　と云うのは、少しでもお父様の狂ったお心を静めてあげようと、優しい娘心から、栞は、毎日この部屋で香を焚くのであって、今も床の間に置いてある唐金の香炉から、蒼白い煙りが立ち昇ってい、その一片が、刀の切っ先をクルクルと捲いた。しかし何かに驚いたかのように、煙りの輪は、急に散り、消え、後には、暗い空間に、刀身ばかりが、孤独に<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かに輝いているではないか。

それを見詰めている薪左衛門の眼は、次第に平和になり、顔からも、悲哀や苦悶や絶望の色が消えた。

返らぬ記憶

「栞や」

と、ややあってから、薪左衛門は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おちつき</span>のある、しみじみとした声で云った。

「わしが乱心中に、どんなことを云ったか、どんな事をしたか、話しておくれ」

栞は、お父様が沈着な態度に返ったので、ホッと安心し、

「それはそれはお父様、ご乱心中には、何んと申したらよいやら、いろいろ変ったことをなさいました。また、おっしゃいもなさいました。……何から申し上げてよいやら。……おおそうそう、来栖勘兵衛という男が、お父様を討ちに来るなどと……」

「来栖勘兵衛がわしを討ちに？　……うむ、栞や、それは正気になった今のわしでも云うよ。……そういうことがあるような気がするよ」

「そうしてお父様には、ご自分を、有賀又兵衛じゃとおっしゃいました」

「…………」

「それからお父様は、来栖勘兵衛が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>を討ちに来るから、旅の浪人などが訪ねて来たら、逗留させて、<ruby><rb>加担人</rb><rt>かとうど</rt></ruby>にしろと。……それで<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は、訪ねて参られた浪人衆を、お泊めいたしましてございます」

「そうかえ、それはいいことをしておくれだったねえ。……来栖勘兵衛は強い男なのだから、わしには、どうしても<ruby><rb>加担人</rb><rt>かとうど</rt></ruby>が<ruby><rb>入用</rb><rt>い</rt></ruby>るのだよ」

「それからお父様は、そのようにお<ruby><rb>御足</rb><rt>みあし</rt></ruby>が不自由になられてからも、毎日のように、野中の道了様へ、お<ruby><rb>参詣</rb><rt>まいり</rt></ruby>に行かねばならぬとおっしゃいますので、いっそ道了様を屋敷内に<ruby><rb>勧請</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>いたしたらと存じ、道了様そっくりの塚を、お庭へ築きましたところ……」

「おおおお、そんな苦労まで、栞や、お前にかけたのかねえ。……野中の道了⁉　うむ、道了塚！」

と、薪左衛門は、グッと眼を据えた。

「するとお父様には、それを真の道了様と思われ、毎晩のように、躄り車に乗られ、塚の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>をお廻りなさいましてございます」

「あさましいことだったのう」

「ところが、数日前の晩のことでございますが、加担人として、お泊まりくださいました、伊東頼母様と仰せられるお方が、その塚のあたりを<ruby><rb>逍遙</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っておられますと、お父様が、来栖勘兵衛と勘違いされ、『勘兵衛、これ、<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>に逢ったら、云おう云おうと思っていたのだが、野中の道了での決闘、俺は今に<ruby><rb>怨恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>に思っているぞ。……事実を<ruby><rb>誣</rb><rt>し</rt></ruby>い、俺に<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ<ruby><rb>衣</rb><rt>ぎぬ</rt></ruby>を着せたあげく、股へ一太刀！　……おのれ勘兵衛、もう一度野中の道了で決闘し、雌雄を決しようと、長い長い間、機会の来るのを待っていたのだ』とおっしゃったそうでございます」

「野中の道了での決闘？　フーム……」

と、薪左衛門は考え込んだ。

（野中の道了で、来栖勘兵衛と、俺は、決闘した覚えはある。……だが何んの理由で、決闘したのだろう？）

彼には、肝心のことが解らなかった。

（わしの<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>は、まだ本当に<ruby><rb>快癒</rb><rt>なお</rt></ruby>りきっていないのかもしれない）

大病をして、大熱を発し、人事不省に落ち入ったものや、乱心して恢復した者のある者が、過去の記憶を、一切忘却してしまうことがある。一切忘却しないまでも、その<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かを、忘れてしまうことがある。薪左衛門の場合はその後者らしかった。

（何んの理由で、俺は、勘兵衛と、野中の道了で決闘したのだろう？）

思い出そう、思い出そうと、薪左衛門は<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>った。

「栞や」と、薪左衛門は、<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>ましい声で云った。

「わしを野中の道了へ連れて行っておくれ。……あそこへ行ったら、わしの記憶が<ruby><rb>蘇生</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>るかもしれないから」

<ruby><rb>躄</rb><rt>いざ</rt></ruby>り車に乗った薪左衛門と、それを引いた栞とが、野中の道了塚へ着いたのは、<ruby><rb>正午</rb><rt>まひる</rt></ruby>であった。春陽に浸っている道了塚は、その岩にも、南無妙法蓮華経と<ruby><rb>刻</rb><rt>ほ</rt></ruby>ってある<ruby><rb>碑</rb><rt>いしぶみ</rt></ruby>にも、岩の間にこめてある<ruby><rb>土壌</rb><rt>つち</rt></ruby>にも、花弁や花粉やらがちりばめられていた。この高さ二間周囲十間の道了塚は、いわば広々とした平野の中に出来ている<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>のようなものであった。しかし、この一見平凡の道了塚も、過去に多くの秘密を持っている薪左衛門にとっては、重大な記念物らしく、栞に助けられて、それを躄りのぼる彼の顔には、複雑な深刻な表情があった。やがて彼は碑を<ruby><rb>正面</rb><rt>まえ</rt></ruby>にして坐った。彼の手には、鞘に納められた天国が、握られていた。

「栞や、わしはここで一人で考えごとをしていたいのだよ。一人にしておいてくれ」

薪左衛門は、握っている白鞘の剣の周囲を、黄色い蝶が、謎めいた飛びかたをしているのを、無心で眺めながら、何んとなく放心したような声で云った。

塚の中からの声

「はい」

と栞は、素直に答えて、衣裳の赤い裾裏と、草履の赤緒との間に、<ruby><rb>白珊瑚</rb><rt>しろさんご</rt></ruby>のように挾まっている可愛らしい素足を運ばせ、塚を下りた。そうして、塚の裾に、<ruby><rb>萠黄色</rb><rt>もえぎいろ</rt></ruby>の座布団を敷いた躄り車が、もうその座布団の上へ、落花を受けて、<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>かのように置いてある横に立って、父親の方を振り返って見たが、やがて所在なさそうに、道了塚の背後に、壁のように立っている雑木林――かつて、五味左門が、紙帳を釣って野宿した、その雑木林の中へはいって行った。

一人となった薪左衛門は、碑を見上げて、じっとしていた。裾に坐って、見上げているためでもあろう、六尺の碑が、二丈にも高く思われ、今にも、自分の上へ、落ちかかって来はしまいかと案ぜられた。陽に照らされて、その碑の面は、軟らかく艶めいてさえ見えたが、精悍に刎ねて<ruby><rb>刻</rb><rt>ほ</rt></ruby>ってある七字の題目は、何かを<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>って、叱咤しているかのように思われた。

薪左衛門の記憶は徐々に返って来た。自分が有賀又兵衛と宣り、兄弟分の来栖勘兵衛と一緒に、浪人組の頭として、多勢の無頼の浪人を率い、関東一帯を荒らし廻った頃の、いろいろさまざまの出来事が、次から次と思い出されて来た。

（幾万両の財宝を強奪したことやら）

奪った財宝の八割までを、自分と勘兵衛とが取り、後の二割を、配下の浪人どもへ分配してやった<ruby><rb>悪辣</rb><rt>あくらつ</rt></ruby>の<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>なども思い出された。そうして、大仕事をすると、<ruby><rb>官</rb><rt>おかみ</rt></ruby>の探索の眼をくらますため、一時組を解散し、自分は今の屋敷へ帰って来、真面目な郷士、飯塚薪左衛門として、穏しく生活したことなども思い出されて来た。

（<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>の五味左衛門方を襲い、天国の剣と財宝とを奪い、さらに甲州の鴨屋を襲って、巨額の財宝を手に入れたのを最後として、<ruby><rb>全然</rb><rt>まったく</rt></ruby>組を解散したっけ）

（その後、来栖勘兵衛は、故郷の松戸へ帰り、博徒の頭になった筈だ）

こんなことも思い出された。

（だが、何んの理由で、俺と勘兵衛とは、この道了塚で決闘したのだろう？）

決闘の現場の道了塚へ来て考えても、その理由ばかりは思い出されないのであった。

（わしの<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>はまだ<ruby><rb>快癒</rb><rt>なお</rt></ruby>りきらないのかもしれない）

淋しくこう思った。

と、その時、何んたる怪異であろう！　坐っている道了塚の下から、大岩を貫き、銀の一本の線のような、恐怖と悲哀とを<ruby><rb>綯</rb><rt>な</rt></ruby>い<ruby><rb>雑</rb><rt>ま</rt></ruby>ぜにした男の声が、

「秘密は<ruby><rb>剖</rb><rt>あば</rt></ruby>かない！　裏切りはしない！　助けてくれーッ」

と、聞こえて来たではないか。

「う、う、う！」

と薪左衛門は、呻き声をあげたが、やにわに天国の剣を引き抜き、春の<ruby><rb>白昼</rb><rt>まひる</rt></ruby>に現われた、「声の<ruby><rb>妖怪</rb><rt>もののけ</rt></ruby>」を切り払うかのように、頭上に振り、

「あの声！　聞き覚えがある！　……二十年前に聞いた声だ！　ここで、この道了塚で！　……秘密はあの声にあるのだ！　決闘の秘密は！　……おおおお、それにしても、二十年前に聞いたあの声が、二十年後の今日聞こえて来るとは？」

一つの影が、碑を掠め、薪左衛門の肩へ<ruby><rb>斑</rb><rt>ふ</rt></ruby>を置き、すぐ消えた。鳶が、地上にある鼠の死骸を目付け、それをくわえて、翔び上がったのであった。道了塚を巡って、<ruby><rb>酣</rb><rt>たけなわ</rt></ruby>の春は、華麗な<ruby><rb>宴</rb><rt>うたげ</rt></ruby>を<ruby><rb>展開</rb><rt>ひら</rt></ruby>いていた。耕地には菜の花が、黄金の<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を敷き、灌漑用の水路には、水の銀箔が延べられてい、地平線を<ruby><rb>劃</rb><rt>かぎ</rt></ruby>って点々と立っている村落からは、犬の吠え声と鶏の啼き声とが聞こえ、藁家の垣や庭には、木蓮や<ruby><rb>沈丁花</rb><rt>じんちょうげ</rt></ruby>や<ruby><rb>海棠</rb><rt>かいどう</rt></ruby>や李が咲いていたが、紗を張ったような霞の中では、ただ白く、ただ薄赤く、ただ薄黄色く見えるばかりであった。でも、それは、この季節らしい柔らかみを帯びた風景として、かえって美しく、万物を受胎に誘う春風の中に、もろもろの<ruby><rb>香気</rb><rt>におい</rt></ruby>の籠っているのと共に、人の心を恍惚とさせた。それにも関わらず、薪左衛門ばかりは、ふたたび乱心に落ち入るかのように思われた。振り廻していた天国の剣を、今は額に押し当て、沈痛に肩を縮め、全身をガタガタ<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わせた。

（声の秘密を解かなければならない！　どうあろうと解かなければならない！）

その声はまたも岩の下から、いや、岩の下の地の底から、一本の銀の線かのように、<ruby><rb>土壌</rb><rt>つち</rt></ruby>を貫き、岩を貫いて聞こえて来た。

「秘密は剖かない！　裏切りはしない！　助けてくれーッ」

（あの声は、渋江典膳の声ではない！　しかし典膳と一緒に働いていた男の声だ！）

薪左衛門は呻いた。

栞の発見した物

この頃栞は、林の中を<ruby><rb>逍遙</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っていた。

父親の乱心が癒ったことと、恋人の頼母が、今日あたり帰って来るだろうという期待とで、彼女の心は<ruby><rb>喜悦</rb><rt>よろこび</rt></ruby>と<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>とに燃えているのであった。

（頼母様といえば、あのお方とはじめてお逢いしたのは、道了様の塚の裾辺りだったっけ）

栞は、過ぐる日、気絶していた頼母を、この手で介抱して、蘇生させたことを思い出した。

（妾、あの方の命の恩人なのよ。……頼母様、妾を粗末にしてはいけないわ）

つい心の中で甘えたりした。

林の中は、光と影との織り物をなしていた。木々の隙を通って、射し込んでいる<ruby><rb>陽光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>は、地上へ、大小の、円や方形の、<ruby><rb>黄金色</rb><rt>こがねいろ</rt></ruby>の光の斑を付け、そこへ萠え出ている、<ruby><rb>菫</rb><rt>すみれ</rt></ruby>や<ruby><rb>土筆</rb><rt>つくし</rt></ruby>や<ruby><rb>薺</rb><rt>なずな</rt></ruby>の花を、細かい宝石のように輝かせ、その<ruby><rb>木洩</rb><rt>こも</rt></ruby>れ<ruby><rb>陽</rb><rt>び</rt></ruby>の<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>い<ruby><rb>路</rb><rt>じ</rt></ruby>の空間に、<ruby><rb>蟆子</rb><rt>ぶよ</rt></ruby>や<ruby><rb>蜉蝣</rb><rt>かげろう</rt></ruby>や蜂が飛んでいたが、それらの昆虫の翅や脚などをも輝かせて、いかにも楽しく躍動している「春の魂」のように見せた。

心に喜悦を持っている栞は、何を見ても楽しかった。

栗や柏や楢などが、その幹や枝に陽光を溜め、陽光の溜っている所だけが、生き生きと呼吸しているように見えるのも、蕾を沢山持った山吹が、<ruby><rb>卯木</rb><rt>うつぎ</rt></ruby>と一緒に、小丘のように盛り上がってい、その裾に、栗色の兎が、長い耳を捻るように動かしながら、<ruby><rb>蹲居</rb><rt>うずくま</rt></ruby>ってい、<ruby><rb>桜実</rb><rt>さくらんぼ</rt></ruby>のような赤い眼で、栞の方を見ていたが、それも栞には嬉しくてならなかった。

栞は木々を縫って<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>なく<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>って行った。

一つの林が尽き、別の林へはいろうとする処に、木立ちのない小さい空地があり、そこまで来た時、

「あれ」と云って、栞は足を停めた。

その空地に、巨大な白蝶の死骸かのように、一張の紙帳が、ベッタリと地に、張り付いていたからである。

「紙帳だよ、……まあ紙帳！」

どうしてこんな林の中などに紙帳が落ちているのか、不思議でならなかったが、それと同時に、数日前、自分の屋敷へ泊まった五味左門と云う武士が、部屋へ紙帳を釣って寝、その中で、同宿の武士を殺傷したことを思い出した。

（その紙帳ではあるまいか？）

（まさか！）

と思い返したものの、気味が悪かったので、栞は立ち去ろうとした。しかし、紙帳とか<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>とかを見れば釣りたくなり、布団を見れば敷いてみたくなるのが女心で、栞も、その心に<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えられ、立ち去るどころか、<ruby><rb>怖々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby>ではあったが、あべこべに紙帳へ近寄った。紙帳には、泥や藁屑が附いていた。そうして血痕らしいものが附いていた。

（気味が悪いわ）と栞は、またも逃げ腰になったが、でも、やっぱり逃げられなかった。

短く切られてはいたが、紙帳には、四筋の釣り手がついていた。

いつか栞は、その釣り手を、木立ちにむすびつけていた。

間もなく紙帳は、栞の手によって、空地へ釣られ、ところどころ<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>け目を持ったその紙帳は、一杯に春陽を受け、少し<ruby><rb>弛</rb><rt>だ</rt></ruby>るそうに、裾を地に敷き、宙に浮いた。

（この中で寝たら、どんな気持ちするものかしら？）

この好奇心も、女心の一つであろう。

栞は、紙帳の中へはいろうとして、身をかがめ、その裾へ手をかけた。

しかし栞よ、その紙帳こそは、やはり、五味左門の紙帳なのであり、三日前の夜、風に飛ばされて、ここまで来たものであり、そうして、その中へはいったものは、男なら殺され、女なら、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>より大切の……そういう紙帳だのに、栞よ、お前は、その中へはいろうとするのか？

そんなことを知る筈のない栞は、とうとう紙帳の中へはいった。

処女の体を呑んだ紙帳は、ほんのちょっとの間、サワサワと揺れたが、すぐに何事もなかったように静まり、その上を、眼白や頬白が、枝移りしようとして<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>けり、その影を、<ruby><rb>刹那刹那</rb><rt>せつなせつな</rt></ruby>映した。

戸板の一団

ちょうどこの頃のことであるが、この林から一里ほど離れた<ruby><rb>地点</rb><rt>ところ</rt></ruby>に、だだっ広い前庭を持った一構えの農家が立ってい、<ruby><rb>家鶏</rb><rt>にわとり</rt></ruby>の<ruby><rb>雛</rb><rt>ひな</rt></ruby>が十羽ばかり、親鶏の足の周囲を、<ruby><rb>欝金色</rb><rt>うこんいろ</rt></ruby>の綿の珠が転がるかのように、めまぐるしく転がり廻っていた。と、筵をかけた戸板を<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>い、それを取り巻いた十人の男が、街道の方から走って来、庭の中へはいって来た。戸板から<ruby><rb>滴</rb><rt>しずく</rt></ruby>が落ちて、<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>つづきで白く乾いている庭の<ruby><rb>礫</rb><rt>こいし</rt></ruby>の上へ<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>り、潰れた<ruby><rb>苺</rb><rt>いちご</rt></ruby>のような色を<ruby><rb>作</rb><rt>な</rt></ruby>した。

血だ！

「咽喉が渇いてたまらねえ。水だ水だ」

と喚いて、一人の男が、一団から離れ、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>と隠居家との間にある井戸の方へ走って行った。すると、母屋の縁側近くに集まって、餌をあさりはじめていた、例の家鶏の一群は、これに驚いたか、けたたましく啼き出し、この一団が侵入して来た時から、生け垣の隅で臆病らしく吠えつづけていた犬は、今は憤怒したように猛りたった。

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らも水だ」

と、云って、もう一人の男が、井戸の方へ走った。

そういう二人にはお構いなく、戸板を担った一団は、庭の外れ、街道に添って建ててある、大きな納屋の方へ走って行った。

農事がそろそろ忙しくなる季節であった。この家の人々は、おおかた野良へ出て行ったとみえて、<ruby><rb>子守娘</rb><rt>こもり</rt></ruby>と、老婆とが、母屋の入り口に茣蓙を敷き、穀物の種を<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>り分けていたが、その一団を見ると、呆気にとられたように、眼を見合わせた。

咽喉が渇いてたまらねえ、水だ水だと喚いた最初の男が、井戸端まで行った時、井戸の背後の方に、藁葺きの屋根を持った、古い小さい隠居家が、破れ<ruby><rb>煤</rb><rt>ふす</rt></ruby>ぶれた障子を陽に<ruby><rb>焙</rb><rt>あぶ</rt></ruby>らせて立っていたが、その障子が、内側から細目に開き、一人の武士が、身を斜めに半身を現わし、蒼味がかった、幽鬼じみた顔を覗かせた。けたたましく啼きたてた家畜の声に、不審を打ったかららしい。

「わッ、わりゃア、五味左門！」

と、井戸端まで辿りついた男は喚いた。松戸の五郎蔵の乾児の、中盆の染八であった。

「野郎！」

と染八は脇差しへ手をかけた。遅かった。

この時、もう左門は、その<ruby><rb>独活</rb><rt>うど</rt></ruby>の皮を剥いたように白い足で、<ruby><rb>縁板</rb><rt>えん</rt></ruby>を踏み、地へ下り、染八の面前へまで殺到して来ていた。

「わッ」

染八の肩から、こう<ruby><rb>蹴鞠</rb><rt>けまり</rt></ruby>の<ruby><rb>毱</rb><rt>まり</rt></ruby>のような<ruby><rb>物体</rb><rt>もの</rt></ruby>が、宙へ飛びあがり、それを追って、深紅の布が一筋、ノシ上がった。切り口から吹き上がった血であった。染八の<ruby><rb>首級</rb><rt>くび</rt></ruby>は、<ruby><rb>碇綱</rb><rt>いかりづな</rt></ruby>のように下がっている<ruby><rb>撥</rb><rt>は</rt></ruby>ね<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>の縄に添い、落ちて来たが、地面へ届かない<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>に消えてしまった。年月と<ruby><rb>腐蝕</rb><rt>むしくい</rt></ruby>とのためにボロボロになっている井桁を通し、井戸の中へ落ちたのであった。

「タ、<ruby><rb>誰</rb><rt>たれ</rt></ruby>か、来てくれーッ」

染八の後を追って、これも水を飲みに来た壺振りの喜代三は、染八の死骸が、片手を脇差しの柄へかけたまま、自分の前へ転がって来たのに<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>き、夢中で両手を上げて、そう叫んだ。しかし誰も来ない<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>に、左門の刀が、胴から反対側の脇下まで斬っていた。死骸となって斃れた喜代三の傷口から、大量の血が流れ出、地に溜り、その中で蟻が右往左往した。<ruby><rb>啓蟄</rb><rt>あなをで</rt></ruby>て間のない小蛇が、井戸端の<ruby><rb>湿地</rb><rt>しめじ</rt></ruby>に、灰白い紐のように延びていたが、草履を飛ばせ、<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>となり、白い<ruby><rb>蹠</rb><rt>あしうら</rt></ruby>をあらわしている死骸の染八の、その蹠の方へ這い寄って行った。そうしてその、小蛇が、染八の足首へ搦み付いた頃には、五味左門は、道了塚の方へ続いている林の一つへ、その長身を没していた。

彼は道了塚の方へ歩いて行くのであった。

悩みの殺人鬼

<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>をし、少し<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>き、ゆるゆると歩いて行く左門の姿は、たった今、人を殺した男などとは思われないほど、冷静であったが、思いなしか、淋しそうではあった。顔色もいくらか蒼味を帯びていた。林の中はひっそりとしていて、小鳥の啼き声ばかりが、頭上から、左右から聞こえて来た。山鳩が幾羽か、野の方から林の中へ<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>け込んで来たが、人間の姿を見て驚いたように、一斉に棹のように舞い立ち、木々の枝へ停まった。

木々を巡り、藪を<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>け、左門は、道了塚の方へ歩いて行く。

それにしても、どうして彼は、農家の隠居家などにいたのであろう？　何んでもなかった、三日前の夜、府中の武蔵屋で、ああいう騒動を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起こしたが、切り抜けて遁がれた。遁がれたものの、伊東頼母を、返り討ちにすることが出来なかったことが残念であった。

（いずれは<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>も、この左門を討とうと、この界隈を探し廻っていることであろう、そこを狙って討ち取ってやろう）

こう思い、あの農家に頼み込み、しばらく身を隠して貰っていたのであった。出かけて行って、頼母の居場所を探りたくはあったが、松戸の五郎蔵一味が、まだ府中にいて、この身の現われるのを待ち、討ち取ろうとしているらしかったので、今日までは外出しなかったのである。

左門には、あの夜以来、心にかかることがあった。紙帳を失ったことである。何物にも換えがたい大切の紙帳を！

そう、紙帳は、左門にとっては、ちょうど、<ruby><rb>蝸牛</rb><rt>かたつむり</rt></ruby>における殻のようなものであった。肉体の半分のようなものであった。その中で住み、眠り、考え、罪悪さえも犯した紙帳なのだから！　恋人のような離れ難いものと云ってもよかった。それに紙帳は、彼にとっては、一つの大きな目的の対象でもあった。頼母を殺し、その血を注ぎ、憤死された父上の妄執を晴らしてあげたい！　その血を注ぐ対象が紙帳なのであるから。

その紙帳を紛失した彼であった。淋しそうに、気抜けしたように歩いて行くのは、当然といってよかろう。

（あの夜紙帳が、<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りで歩いたのは、中にお浦がいて、紙帳から出ようとしたが出られず、もがきながら走ったからだ。それは、あの女の着ていた物が、次々に脱げて、地へ落ちたことで知れる）

しかし、その後、紙帳やお浦はどうなったことか？

それが解らないからこそ、左門は憂欝なのであった。

林を縫って流れている小川があり、水が清らかだったので、底の<ruby><rb>礫</rb><rt>こいし</rt></ruby>さえ透けて見えた。それを左門が跨いで越した時、水に映った自分の姿を見た。顔に精彩がなかった。

（家を喪った犬は、みすぼらしいものの代表のように云われているが、俺にとっては紙帳は家だ。それを失ったのだからなア）

顔に精彩のないのも無理がないと思った。

（どうぞして紙帳を探し出したいものだ）

彼は黙々と歩いて行った。

それにしても、何故彼は、道了塚の方へ行くのであろう？　たいした理由があるのではなく、数日前ここの林へ紙帳を釣って野宿したことがあり、それが懐かしかったのと、五郎蔵の乾児二人を斬り、身をかくしたところが林で、その林が道了塚の方へつづいていたので、それで道了塚の方へ足を運ぶまでであった。

彼は、どうして五郎蔵の乾児二人が、自分の隠れている農家などへやって来たのか、解らなかった。

（やはり五郎蔵一味め、俺の行衛を探しているのだな）

こう思うより仕方なかった。彼には五郎蔵の乾児たちが、<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>をかけた戸板を担って、あの農家の<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>の方へ行ったことを知らなかった。それは、その一団の姿が、母屋の蔭になっていて、見えなかったからである。

（どっちみち油断はならない）

こう思った。

やがて彼は、記憶に残っている、かつての夜、紙帳を釣って寝た、道了塚近くの林へ来た。

突然彼は足を止め、茫然として前方を見据えた。無数の血痕を附けた、紛れもない自分の紙帳が、林の中の空地に釣られてあるではないか。紙帳は、主人に<ruby><rb>邂逅</rb><rt>めぐりあ</rt></ruby>ったのを喜ぶかのように、落葉樹や<ruby><rb>常磐木</rb><rt>ときわぎ</rt></ruby>に包まれながら、左門の方へ、長方形の、長い方の面を向け、微風に、その面へ小皺を作り、笑った。

左門は、紙帳が、どうしてこんなところへ来ているのか、誰が紙帳を釣ったのか？　と、一瞬間不思議に思ったが、それよりも、恋していると云ってもよいほどに、探し求めていた巣を――紙帳を、発見したことの喜びに、肌に汗がにじむほどであった。

彼は、何をおいても、紙帳の中へはいり、この平和を失った、イライラしている心持ちを鎮めたいと思った。

彼は、声をさえ発し、紙帳へ走り寄った。それが<ruby><rb>生物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>であったならば、彼は紙帳を抱き締めたであろう。彼はやにわに紙帳の裾をかかげた。

「あッ」

彼は驚きで胸を反らせた。

新鮮な<ruby><rb>果実</rb><rt>このみ</rt></ruby>

紙帳の中に、彼の眼前に、彼以外の紙帳の主がいるではないか。そう、紙帳を箱とすれば、箱へ納まった京人形のように、一人の美しい娘が、謹ましくはあったが、充分<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>いだ姿で、安らかに、長々と寝て、眠っているではないか。

（無断で俺の巣へ入り込んだ女め！）

<ruby><rb>憤怒</rb><rt>いかり</rt></ruby>が<ruby><rb>勃然</rb><rt>ぼつぜん</rt></ruby>と左門の胸へ燃え上がった。

（だが、女だ、綺麗な娘だ！）

左門の、少し黒ずんで見えていた唇へ、赤味が<ruby><rb>注</rb><rt>さ</rt></ruby>し、眼へ光が射した。

左門は紙帳の中へはいった。彼は娘の顔をつくづくと見た。

（見覚えがある。飯塚薪左衛門の娘、栞だ！）

事の意外に左門はまたも驚いた。

過ぐる夜、飯塚家へ泊まった時、挨拶に出た栞という娘が、この紙帳の中に眠っていようとは！

（不思議だなア）

左門は両眉の間へ皺を畳んだ。

（しかし、栞であろうと誰であろうと……）

左門は、やがて地に腹這い、蛇が鎌首を持ち上げるように、首を上げ、頤の下へ両手を<ruby><rb>支</rb><rt>か</rt></ruby>い、栞の姿をながめていた。栞は、そんなこととも知らず、片腕を枕にして、眠りつづけていた。友禅の襦袢の袖から、白い滑かな腕が覗いていたが、曲げた肘の附け根などは、円く軟らかく、薄桃色をなし、珠のようであった。

この頃、五味左門が身を隠していた、例の農家の、街道に添った納屋には、陽が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なんどり</span>と、<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>にあたっていた。

この辺の農家の誇りの一つとすることに、大きな納屋を持つということがあった。それは、鋤や鍬などの農具を、沢山に持っているということの証拠になるからであった。それでこの納屋も、土蔵ほどの大きさを持ってい、屋根に近い位置に、四角の窓を一つ<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>っていた。その屋根に雀が停まっていて、羽づくろいし、その裾を、<ruby><rb>鼬</rb><rt>いたち</rt></ruby>が、チョロチョロと徘徊していたが、これは赤黄色い<ruby><rb>土壌</rb><rt>つち</rt></ruby>と、灰色の板とで作られているこの納屋を、大変詩的な存在にしていた。

と、一人の武士が、刀の鞘を陽に照らし、自分の影を街道に落としながら、納屋の方へ歩いて来た。伊東頼母であった。頼母はあの夜、敵五味左門を取り逃がしたので、それを探し出し、<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わぬまでも勝負しようと、武蔵屋を<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>で、府中をはじめ、近所のそちこちを、今日まで三日間さがし廻った。だが左門の<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>は知れなかった。そこで一旦、飯塚薪左衛門の屋敷へ帰ろうと、今この街道を歩いて来たのであった。飯塚家へ帰るということは、彼にとっては喜びであった。恋人の栞と逢うことであるから。過ぐる夜、あの屋敷の庭で、純情の処女、栞と、手を取り交わして以来、栞が、何んと烈しく、一本気に、頼母を愛し出したことか。その愛の烈しさに誘われて、頼母も、今は、燃えるように、栞を愛しているのであった。その栞と逢えるのだ！　頼母は幸福で胸が一杯であった。武蔵屋での苦闘と、三日間左門を探し廻った辛労とで、頼母は少し痩せて見えた。頤など細まり、張っていた肩など、心持ち落ちたように見えた。

「や、これは！」

と、頼母は、納屋の前へさしかかり、何気なく窓を見上げた時、驚きの声をあげて足を止めた。窓にも陽があたっていて、明るかったが、納屋の内部は暗いと見え、窓の向こう側は闇であった。その闇を背後にして、明るい窓外に向き、一つの男の<ruby><rb>首級</rb><rt>なまくび</rt></ruby>が、頼母の方へ顔を向けているではないか。陽のあたっている窓の枠を、<ruby><rb>黄金色</rb><rt>きんいろ</rt></ruby>の額縁とすれば、窓の内部の闇は、黒一色に塗りつぶされた背景であり、そういう額の面に、男の<ruby><rb>首級</rb><rt>くび</rt></ruby><ruby><rb>一個</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>が、生白く描かれているといってよかった。<ruby><rb>首級</rb><rt>くび</rt></ruby>は、乱れた髪を額へ懸け、眼を閉じ、無念そうに食いしばった口から幾筋も血を引いていた。

「首級だーッ」

と、頼母は、思わず叫んだ。と、首級はユルユルと動き、一方へ廻り、すぐに頼母の方へ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんのくぼ</span>を見せたが、やがて窓枠からだんだんに遠退き、間もなく闇に融けて消えてしまった。しかし、すぐに続いて、今度は女の<ruby><rb>首級</rb><rt>なまくび</rt></ruby>が一個、ユルユルと闇から浮き出して来、窓へ近寄り、頼母の方へ正面を向けた。やはり眼を閉じ、口を食いしばり、額へ乱れた髪をかけていた。しかし、その<ruby><rb>首級</rb><rt>くび</rt></ruby>もユルユルと廻り、頼母へぼんのくぼを見せ、やがて闇の中へ消えた。頼母は全身を<ruby><rb>強</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばらせ、両手を握りしめた。と、またも、窓へ、以前の男の首級があらわれた。

「典膳の首級だーッ」

と、頼母は夢中で喚いた。そう、その首級は見覚えのある渋江典膳の首級であった。

（しかし典膳は、三日前の晩に、お浦のために殺されて、川の中へ落とされたではないか！　何んということだ！　何んという！　……）

典膳の首級は、頼母にそう叫ばれると、閉じていた眼を開けた。血が白眼の部分を<ruby><rb>櫨</rb><rt>はぜ</rt></ruby>の実のように赤く染めていた。だが、その典膳の首級は、例のようにユルユルと廻って、闇に消え、それに代わって、以前の女の首級が現われた。

「お浦だーッ」

そう、その首級はお浦の首級であった。

恩讐<ruby><rb>卍巴</rb><rt>まんじどもえ</rt></ruby>

お浦の首級は、頼母の叫び声を聞くと、眼を開けようとして、<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>を痙攣させたが、開く間もなく、一方へ廻り、窓から遠退き、闇へ消えた。とたんに、軟らかい生物の体を、木刀などで打つような音がし、それに続いて悲鳴が聞こえたが、見よ！　窓を！　典膳の首級とお浦の首級とが、ぶつかり合い、噛み合いながら、キリキリ、キリキリと、眉間尺のように廻り出したではないか。

頼母は、夢中で納屋の扉へ飛び付いた。

刹那、納屋の中から、

「丁だ！」という声が聞こえ、それに応じるように、「半だ！」という声が響いた。

頼母は納屋の扉を引き開け、内へ飛び込んだ。開けられた戸口から、外光が射し込み、闇であった納屋の内部を昼間に変えたが、頼母に見えた光景は、地獄絵であった。渋江典膳とお浦とが<ruby><rb>背後手</rb><rt>うしろで</rt></ruby>に<ruby><rb>縛</rb><rt>くく</rt></ruby>られ、高く<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>に釣り下げられてい、その下に立った五郎蔵一家の用心棒の、望月角右衛門が、木刀で、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>を撲っているではないか。撲られる苦痛で、典膳とお浦とは身悶えし、身悶えするごとに、二人の体は、宙で、<ruby><rb>縒</rb><rt>よ</rt></ruby>じれたり<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じれたりし、額や頤をぶっつけ合わせた。そういう二人の顔は、窓の高さに<ruby><rb>存在</rb><rt>あ</rt></ruby>った。だから窓の外から見れば、<ruby><rb>二個</rb><rt>ふたつ</rt></ruby>の首級が、噛み合い食い合いしているように見えるのであった。納屋の壁には、鋤だの鍬だの鎌だのの農具が立てかけてあり、地面には、<ruby><rb>馬盥</rb><rt>ばだらい</rt></ruby>だの<ruby><rb>韛</rb><rt>ふいご</rt></ruby>だの<ruby><rb>稲扱</rb><rt>いねこ</rt></ruby>きだのが置いてあったが、そのずっと奥の方に、<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>蝋燭が燃えており、それを<ruby><rb>囲繞</rb><rt>かこ</rt></ruby>んで、六人の男が<ruby><rb>丁半</rb><rt>しょうぶ</rt></ruby>を争っていた。五郎蔵の乾児どもであった。その横に立って、腕組みをし、勝負を見ているのは、これも用心棒の小林紋太郎で、その南京豆のような顔は、蝋燭の光で黄疸<ruby><rb>病</rb><rt>やみ</rt></ruby>のように見えていた。

これらの<ruby><rb>輩</rb><rt>やから</rt></ruby>は、戸のあく音を聞くと、一斉にそっちを見たが、

「染八か」「何をしていたんだ」「喜代三はどうした」「いい勝負がはじまっている」「仲間にはいりな」

などと声をかけた。

井戸の方へ水を飲みに行った二人の身内の一人が、帰って来たものと思ったらしい。しかし明るい戸口の<ruby><rb>外光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って立っている男が、染八でもなく喜代三でもなく、武士だったので、乾児たちは一度に口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでしまった。

頼母に一番近く接していた角右衛門が、真っ先に侵入者の何者であるかを見てとった。

「わ、わりゃア伊東頼母！」

と叫ぶと、持っていた樫の木刀を、真剣かのように構えた。しかしこの老獪な用心棒は、打ち込んで行く代わりに背後へ退き、<ruby><rb>粗壁</rb><rt>あらかべ</rt></ruby>へ<ruby><rb>守宮</rb><rt>やもり</rt></ruby>のように背中を張り付け、正面に、梁から、ダラリと人形芝居の人形のように下がり、尚グルグルと廻っている、典膳とお浦との体の横手から、<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>そうに頼母を見詰めた。

乾児たちは角右衛門の声を聞くと、一斉に立ち上がった。蝋燭が仆れて消えた。

「いかにも伊東頼母！」

「探しているところだ！」

「いいところへ来やがった」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たたんで</span>しまえ！」

「<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわかし</rt></ruby>め！」

「<ruby><rb>盗賊</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>め！」

乾児たちは口々に<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きだした。

「親分にお知らせして……さよう親分にお知らせした方がよろしい。……拙者一走りして……」と、臆病者の紋太郎は、侵入者が頼母だと知った瞬間、<ruby><rb>一躍</rb><rt>ひととび</rt></ruby>して、乾児たちの背後へ隠れたが、今度はいち早く、納屋から逃げ出そうとして、そう叫びながら、乾児たちを掻き分けて前へ出、頼母の体によって半分以上<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がってはいるが、しかし尚明るく見えている戸口を狙った。

頼母は、この意外なありさまに度胆を抜かれたが、そのうち自分が、何か誤解されているらしいことに感付いた。

「方々――いや五郎蔵殿のお身内、拙者はいかにも伊東頼母、先夜、父の敵五味左門に<ruby><rb>邂逅</rb><rt>めぐりあ</rt></ruby>いました際には、ご助力にあずかり、千万忝けのうござった。お礼申す。その夜お断わりもいたさず武蔵屋を立ち退きましたは、とり逃がしました左門を探し出そうためで。……しかし挨拶なしにお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>いたしましたは拙者の不調法、お<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びつかまつる。……いやナニここへ参りましたのもほんの偶然からで。……さよう、窓から、お浦殿の顔と典膳めの顔とが……どっちみち偶然からで。……それにいたしましても、只今のお言葉、ちと不穏当！　合点ゆきませぬ！　……誘拐者とは？　盗賊とは？」

と云い云い、頼母は、油断なく<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>へ眼を配った。

納屋の血煙り

「<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かすな！」と、首根っ子に<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>のある<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>が叫んだ。「白々しい三ピン！　何を云うか！　……親分の<ruby><rb>恋女</rb><rt>おんな</rt></ruby>、お浦を<ruby><rb>誘惑</rb><rt>そそのか</rt></ruby>し、五郎蔵一家の守護神、天国の剣を持ち出させながら、白々しい！　……」

「他人の恋女をそそのかしゃア<ruby><rb>誘拐者</rb><rt>かどわかし</rt></ruby>よ！」

「刀を持ち出させりゃ盗賊だ！」

乾児たちは口々にまた喚きだした。

頼母は（さてはそれでか）と思った。お浦と関係など附けたことはなく、附けようと思ったことさえなかったが、お浦の方では、そういう関係になるべく<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>んでいたことは争われなかったし、天国の剣をお浦に持ち出してくるよう<ruby><rb>依頼</rb><rt>たの</rt></ruby>んだのは、確かに自分なのであるから、乾児たちにそう云われてみれば、言下に反駁することは出来なかった。

頼母は黙ってしまった。

頼母が<ruby><rb>困</rb><rt>こう</rt></ruby>じて黙っている様子を見てとった乾児たちは、

「そこで親分には手前をさがしだし、叩っ斬ろうとしているところなのよ」

「いいところへ来た」

「とっ<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まえろ」

「手に余ったら叩っ斬れ」

と喚き出し、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">それを</span>見ろそれを！」

と、頬に<ruby><rb>守宮</rb><rt>やもり</rt></ruby>の<ruby><rb>刺青</rb><rt>いれずみ</rt></ruby>をしている一人の乾児が、梁から釣り下げられている<ruby><rb>典膳お浦</rb><rt>ふたり</rt></ruby>を指さした。

「俺ら仲間の<ruby><rb>処刑</rb><rt>しおき</rt></ruby>、凄かろうがな。……手前を捉えて、こうしようというのが親分の念願なのさ」

「やっつけろ！」

脇差しを引き抜くものもあった。

頼母も刀の柄へ手をかけ、<ruby><rb>先方</rb><rt>さき</rt></ruby>が斬り込んで来たら、斬り払おうと構えたが、それにしてもお浦と典膳との境遇が、あまりに悲惨に、あまりに意外に思われてならなかった。

（いずれお浦は、あの後、五郎蔵の手に捕えられたものらしい）

あの後というのは、お浦が左門の紙帳を冠ったまま、武蔵屋の庭から消えた後のことであって、あの時、紙帳が<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>のように動きだしたのは、その実、その中にお浦がいたのだということは、お浦の衣裳が、次々に紙帳の中から地に落ちたことによって、頼母にも悟れたのであった。

（その後どうして五郎蔵の手に捕えられたのであろう？）

（そうして、殺された筈の典膳が、生きていたとは？　……そうして五郎蔵の手に捕えられたとは？　……どこでどうして捕えられたのであろう？）

彼にはこれらのことがどうにも合点いかなかったが、事実は、あの夜お浦と典膳とは、髪川の上と下とで逢った。岸の上の女が怨みあるお浦だと知ると、典膳は猛然と勇気を揮い起こし、岸へよじ上り、お浦へ掴みかかった。お浦は相手が典膳だと知るや、悲鳴を上げて遁がれようとした。二人は組み合い<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じ合った。そこへ駈け付けて来たのが、血路をひらいて逃げた左門を、捕えようとして追って来た五郎蔵達で、二人は五郎蔵たちの手によって捕えられ、武蔵屋へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しょびい</span>て行かれ、そこで糾明された。お浦は容易に実を吐こうとはしなかったが、いわば<ruby><rb>痛目</rb><rt>いため</rt></ruby>吟味に逢わされ、とうとう自分が伊東頼母を恋したこと、頼母の依頼によって天国の剣を持ち出し、頼母に渡そうとし、部屋を間違えて、五味左門の部屋へ行き、紙帳の中へ引き入れられたことなどを白状した。五郎蔵は怒った。自分が想いを懸けていた女が、頼母に心を寄せたことに対する怒りと、「持つ人の善悪にかかわらず、持つ人に福徳を与う」とまで云われている天国の剣を、頼母へ渡そうとしたことが、五郎蔵をして<ruby><rb>嚇怒</rb><rt>かくど</rt></ruby>させた。彼はお浦を<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り殺しにしようとした。

典膳に至っては、五郎蔵の過去の行状を知っていて、<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>りに来たほどの男だったので、生きているからには殺さなければならず、これも嬲り殺しにすることにした。

こうして惨酷の所業が今日まで行われて来たのであったが、<ruby><rb>府中</rb><rt>しゅく</rt></ruby>で殺しては人目につき、後々がうるさいというところから、この農家の納屋で、乾児たちに<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>け、その嬲り殺しの最後の仕上げに取りかからせたのであった。

突然風を切って木刀が、頼母の眉間へ飛んで来たので、頼母は瞬間身を<ruby><rb>反</rb><rt>か</rt></ruby>わした。

「面倒くさい！　方々、たたんでおしまいなされ！」

叫んで刀を抜いたのは、木刀を投げつけた角右衛門であった。

「そうだ、やれ！」

「<ruby><rb>膾</rb><rt>なます</rt></ruby>に刻め！」

怒号する声が一斉に湧き起こり、納屋が<ruby><rb>鳴釜</rb><rt>なりかま</rt></ruby>のように反響した。無数の<ruby><rb>氷柱</rb><rt>つらら</rt></ruby>が散乱するように見えたのは、乾児たちが脇差しを引っこ抜いたからであった。

やにわに一人の乾児が横撲りに斬り込んで来た。頼母は、右手の壁の方へ身をかわしたが、抜き打ちざまに、眉間から鼻柱まで割り付けた。

「やりゃアがったな！」

と喚くと、もう一人の乾児が、むこうみずにも、脇差しを水平にし、体もろとも、突っ込んで来た。それを頼母は左へ反わし、乾児が、脇差しを壁へ突っ込んだところを、背後から、肩を背筋まで斬り下げた。

二人を助けて

と、間髪を入れず、三人目の乾児が、

「野郎！」と叫んで、足を薙ぎに飛び込んで来た。

「命知らずめ！」

と頼母が叫んだ時には、もうその乾児の脳天を、鼻柱まで斬り下げ、その隙を狙って紋太郎が、脱兎のように戸口を目がけて逃げだしたのを、追おうともしないで見捨て、<ruby><rb>昏迷</rb><rt>あが</rt></ruby>った四人目の乾児が、

「チ、畜生オーッ」

と悲鳴のような声をあげて、滅茶滅茶に脇差しを振り廻し、ヒョロヒョロと<ruby><rb>接近</rb><rt>ちかよ</rt></ruby>って来るやつを、真正面から、肩を胸まで斬り割り、望月角右衛門が、

「拙者、頼母めを背後より……<ruby><rb>各〻</rb><rt>おのおの</rt></ruby>方は正面から……」

と叫び、刀を振り冠り、背後へ廻ると見せかけ、その実は、お浦と典膳とが釣り下がっているその足の下を潜り、戸口から飛び出したのをも見捨て、生き残った二人の乾児が、これも戸口から駈け出そうとするのを、素早く前へ立って<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>り、

「逃げれば斬るぞ！　坐れ！」

と大喝し、二人の乾児が、ベッタリと坐ったのを睨み、

「脇差しを捨てろ！」

二人の乾児は脇差しを投げ出した。

左門へ立ち向かっては子供のようにあしらわれる頼母ではあったが、本来が<ruby><rb>勝</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた腕前、博徒や用心棒に対しては段違いに強く、<ruby><rb>瞬間</rb><rt>またたくま</rt></ruby>に四人を斃し、二人を追い、二人を<ruby><rb>生擒</rb><rt>とりこ</rt></ruby>にしてしまったのである。

頼母はホッとし、大息を吐き、しばらくは茫然としていた。

（恩こそあれ、怨みのない五郎蔵殿の乾児衆を殺したとは……）

武蔵屋で、左門と出会った時、五郎蔵たちに助けられなかったならば、自分は手もなく左門に討ち取られたことであろう！　五郎蔵殿とその乾児衆とは、自分にとっては恩人に相違ない！　それを、時の<ruby><rb>機勢</rb><rt>はずみ</rt></ruby>とはいえ、先方から仕掛けた刃傷沙汰とはいえ、その恩人の乾児を四人殺したとは……。

（殺生な！）その優しい心から、頼母は暗然とせざるを得なかった。

と、その時、頭上から、

「頼母様アーッ」

と叫ぶ、女の声が聞こえて来た。頼母はハッとし、気が附き、声の来た方を振り仰いだ。<ruby><rb>半分</rb><rt>なかば</rt></ruby>死にはいり、ほとんど人心地のなかったお浦が、今の乱闘騒ぎで、正気を取り戻したらしく、藍のように蒼い顔を、薄暗い梁の下に浮き出させ、血走った眼で、思慕に堪えないように、じっと頼母を見下ろしていたが、紫ばんだ唇を動かしたかと思うと、

「頼母様アーッ……あなた様のために……あなた様に差し上げようと持ち出しました天国の<ruby><rb>御剣</rb><rt>みつるぎ</rt></ruby>を、残念や、髪川へ落としましてございます。……こればかりが心残り！　……死にまする、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は間もなく死にまする！　……いいえ何んの怨みましょうぞ！　想いを懸けましたあなた様のために、五郎蔵親分に<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り殺しにされて死ぬこそ、妾のような女には分相応！　……本望！　……喜んで死にまする！　頼母様アーッ」

荒縄の一端で釣り下げられている彼女であった。肩も胸も<ruby><rb>露出</rb><rt>あらわ</rt></ruby>に、乳房のあたり咽喉のあたり焼き<ruby><rb>鏝</rb><rt>ごて</rt></ruby>でも当てられたか、赤く<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れ、<ruby><rb>皮膚</rb><rt>かわ</rt></ruby>さえ<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>けている。深紅の紐でも結びつけたように、血が<ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby>を伝わっている。

「頼母殿と仰せられるか、一思いにお殺しくだされい！　お慈悲でござるぞーッ」と叫んだのは、縄の他の端に繋がれた、お浦と並び、釣り下げられている典膳であった。

「おのれ五郎蔵、この怨み死んでも晴らすぞよ！　……汝の過去の罪悪、わけても道了塚での無慈悲の<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>！　それを俺に<ruby><rb>剖</rb><rt>あば</rt></ruby>かれるかと<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ、<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>し討ちから嬲り殺しにかけおったな！　……可哀そうなは伊丹東十郎！　あいつの悲鳴、今も道了塚へ行かば、地の下から聞こえるであろうぞ、『秘密は剖かない、裏切りはしない、助けてくれーッ』と。……天国の剣を、汝が手に入れたも、この典膳が才覚したればこそじゃ。……その俺を嬲り殺し！　おのれ五郎蔵オーッ」

ワングリと開けた暗い口から、<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>の先のような舌を、ヒラヒラ出入りさせた。前歯が数本脱けている。引き抜かれたものらしい。爪を剥がされた足の指から、今も血がしたたってい、その指の周囲を、金蠅が飛び廻っている。

頼母はやにわに刀を揮うと、二人を釣っている縄を切った。

「お浦殿オーッ」と頼母は、地に落ちて来たお浦を宙で抱き止めると、ベタリと坐り、お浦の体を膝へ掻き上げた。「頼母、お助けつかまつるぞオーッ」

恩こそあれ怨みのないお浦であった。この身を恋してくれたこと、なるほど、五郎蔵からみれば、怒りに堪えない所業であったろうが、この身からすれば、尋常に恋されたまでである。憎むべき筋ではない。その恋ゆえに、天国の剣を持ち出してくれたという。感謝しなければならないではないか。その恋ゆえに、嬲り殺しにかけられたという。助けないでおられようか！　四辺を見れば、壁に戸板が立てかけられてあった。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>ら！」と頼母は、地べたに坐って<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えている二人の<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>を睨みつけ、「戸板を持て！　……お浦殿とそのお武家様とを<ruby><rb>舁</rb><rt>か</rt></ruby>き載せよ！　……そうして汝ら戸板を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>げ」

一団は納屋を出た。

（角右衛門どもの注進で、五郎蔵が乾児を率い、襲って来るやも知れぬ。何を措いても身を隠さなければ！　……では<ruby><rb>附近</rb><rt>ちかく</rt></ruby>の林へ！）

「走れ！　向こうの林へ駈け込め！」

戸板の一団は、さっき、五味左門が身を没した同じ林の中へ駈け込んだ。

処女と殺人鬼

道了塚の林の中の紙帳の中で、栞が眼をさましたのは、これより少し<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>のことであった。彼女は、自分が蝶になって、春の野を舞いあそんでいる夢を見ていた。野の中に、<ruby><rb>一本</rb><rt>ひともと</rt></ruby>の、木蓮の木があり、白絹細工のような花が、<ruby><rb>太陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>に向かって咲き揃っているのを見、（美しくて清らかで、若々しくて、まるで頼母様のようですこと）と思い、一輪の花の中へ分け入った時、木蓮の花の、倍もありそうな巨大な、そうして血のように赤い<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>が、突然、<ruby><rb>頭上</rb><rt>うえ</rt></ruby>から、舞い下がって来た。

「あッ、蜘蛛が！」と、蝶の栞は叫び、叫んだ自分の声に驚いて眼をさまし、起き上がった。と、狼狽して、紙帳の向こう側の隅へ、飛ぶように身を引き、そこへ、固くなって坐った若い、<ruby><rb>身長</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い、総髪の武士を認めた。

「まあ」と、栞は云って、驚きを二倍にしたが、立派なお侍さんが、女の自分の声に驚いて、ケシ飛んで行ったのがおかしく、それに気の毒でもあったので、「怖がらなくともよろしゅうございますの。……<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>、<ruby><rb>寝呆気</rb><rt>ねぼけ</rt></ruby>て叫んだだけでございますもの」と云い、無邪気に、口をあけて笑った。

武士――五味左門は、

「ナニ、怖がらなくともよいと。……ふうん」

と、呆れて、まじまじと、栞の顔を見詰めた。

「あッ蜘蛛が」と叫ばれ、眼をさまされた。さすがの彼も、不意だったので胆をつぶし、思わず紙帳の隅へ飛び退がったまでで、相手を怖がったのでも何んでもなかった。怖がるといえば、栞こそ、怖がらなければならない筈である。はいったが最後、たいがいは殺される紙帳の中へはいり、殺人鬼のような当人の左門と向かい合っているのであるから。それだのに、その栞が、「怖がらなくともよい」と云う。「ふうん」と、左門としては呆れ返らざるを得なかった。

しばらく顔を見詰め合っている二人を、紙帳は、昼の<ruby><rb>陽光</rb><rt>ひ</rt></ruby>を浴びて、<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>色に、明るく、蔽うていた。時々、横腹が<ruby><rb>蠕動</rb><rt>ぜんどう</rt></ruby>し、ウネウネと<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を作ったり、フワリと膨れたりするのは、春風が、外から吹き当たるからで、そのつど、例の、血汐で描かれた巨大な蜘蛛が、数多い脚を動かした。

「まあ」と栞は、驚きの声をあげた。「あなた様は、先夜、妾の家へお泊まりくださいました、五味左門様では？」

「さよう左門でござる。……その際は、お騒がせいたしましたな」

と、左門は、<ruby><rb>削</rb><rt>こ</rt></ruby>けた、蒼白い頬へ皺を畳み<ruby><rb>煤色</rb><rt>すすいろ</rt></ruby>の唇を<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かにほころばせて微笑した。

（殺人者の左門と知ったら、怖がることであろうぞ）と思ったからである。

事実、栞は、その武士が、自分の屋敷で人を殺した、五味左門だと知ると、慄然とした。

（どうしよう？）

しかし、次の瞬間には、

（妾は、この人に悪いことをしていないのだから、殺される気遣いはない）と、<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>の娘らしい心から、そう思った。

それに、自分の寝言に驚いて、紙帳の隅へケシ飛んで行った左門の様子が、いかにも笑止だったので、（この人、それほど悪い人でないに相違ない）

と、思った。

栞と左門とは、しばらく見詰め合っていた。

「一人のお侍様をお殺しになり、もう一人のお侍様の足を斬り落としなさいましたのね。……でも、よくよくのことがなければ、あのような<ruby><rb>惨酷</rb><rt>むごたらし</rt></ruby>いことは……」

と、ややあってから栞は考え深そうな様子で云った。

「きっとあの方達、あなた様に、よくよく悪いことを……」

「そうでもござらぬ」

「いいえ、きっとそうだと存じますわ。でも、あなた様というお方、気の弱い、臆病なお方でございますものねえ」

馬鹿のような無邪気さ

「ナニ、気が弱くて臆病？」

左門は、また呆れた。

「ええ、そうでございますわ。それに、謹み深い、丁寧な、<ruby><rb>善良</rb><rt>いい</rt></ruby>お方でございますわ」

「…………」

「女の子の寝言に<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっく</rt></ruby>りなすって、紙帳の隅へケシ飛んで行ったまま、お行儀よく、膝にお手を置いて、かしこまっておいでになるのですものねえ」

云われて、左門は、自分を見廻して見た。なるほど、痩せた肩を<ruby><rb>聳</rb><rt>そびや</rt></ruby>かし、両手をお行儀よく膝の上へ置き、膝をちんまりと揃えて坐っていた。叱られた子供が、姉さんの小言を、かしこまって聞いている格好であった。左門は苦笑した。しかし左門としては、何も栞に遠慮して、そんな態度をとったのではなく、突然の栞の声に驚き、飛び退がった時にそういう姿勢をとり、それをこの時まで持ち続けて来たまでであった。

（それにしてもこの娘は、何んと朗らかで、無邪気なのであろう）

左門は、体を<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>げた。

（いい気持ちだ）

左門は、心が豊かになり、<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかになるのを感じた。

「第一、このお家、妾のものでなく、あなた様のものでございますわ。あなた様がご主人様で、妾はお客様でございますわ。そのご主人様が、遠慮するということございませんわ」

と栞は云って、膝の上で、長い袖を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んだ。紅色の勝った、友禅模様の袖は、いろいろの落花の積み重ねのように見え、それを弄んでいる娘の、白い、細い、柔らかい指は、その花の積み重ねを、出たりはいったりする、蚕かのように見えた。

「家とは？」

「紙帳のことですの」

「ははあ」

と云ったが、左門は、（いいことを云ってくれた）と思った。（紙帳こそ、俺の家であり巣なのだからなあ）

また左門はいい気持ちになった。そこで膝を崩し、手を<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ入れ、ノンビリとした姿勢となった。

「紙帳といえば、妾がお釣りしたのでございますの」

栞は云いつづけた。

「妾、林を散歩して、ここまで参りましたところ、紙帳が落ちていたではございませんか……最初は、本当は、気味悪かったのでございますのよ。……でも、見ているうちに、釣りたくなりましたので、釣りましたところ、今度は、はいってみたくなりました。……はいりましたところ眠くなりました。そこで妾、眠ったのでございますわ……」

「ははあ」と左門は云ったが、さては紙帳は、あの夜、お浦によって、武蔵屋の庭から外へ運び出され、それから、何かの理由で――風にでも吹かれ、ないしは、お浦自身ここまで持って来て、棄てて立ち去ったのかもしれないと思った。

（どっちみち紙帳を、ここで取り戻すことが出来たのは幸福だった）

二人はしばらく黙っていた。

ふと、上の方で、ひそかな物音がした。

栞は、顔を上向けた。紙帳の天井に、楓の葉のような影が二個映ってい、それが、ひそかな音を立てて、あちこちへ<ruby><rb>移動</rb><rt>うつ</rt></ruby>っていた。小鳥の脚の影らしい。また二個数が増した。もう一羽、紙帳へ停まったらしい。<ruby><rb>四個</rb><rt>よっつ</rt></ruby>の小鳥の脚の影は、やがて<ruby><rb>紛合</rb><rt>もつれあ</rt></ruby>った。戯れているらしい。と、二個ずつ離れ、つづいて、意外に高い、でも優しい啼き声が響いて来た。

「テッポ、シチニオイテ、イツツブ、ニシュ」

と、その声は聞こえた。

とたんに、四個の脚の影は消えた。飛び去ったらしい。しかしやや離れたところから、同じ啼き声が聞こえて来た。

「<ruby><rb>頬白</rb><rt>ほおじろ</rt></ruby>でございますわね」

と栞は云って、眼を細め、左門の顔を見た。

「何んといって啼いたかご存知？」

「さあ」

「『鉄砲質に置いて、五粒二朱』――と、啼いたのですわ」

「ははあ」

「猟に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぶれた</span><ruby><rb>猟師</rb><rt>かりゅうど</rt></ruby>が、鉄砲をかついで、山道を帰って来る時、高い木の梢で、ああ啼かれますと、猟師は<ruby><rb>憤</rb><rt>おこ</rt></ruby>れて来るそうでございます」

「ふ、ふ」

と、左門は、思わず、含み笑いをした。

「その筈でございますわ」と栞は云いつづけた。

「そのように不景気では、今に、鉄砲を質に置いて、五粒二朱借りるようになるぞよ、などと頬白にひやかされては、猟師としては、憤れて来ますわね」

「憤れますとも」

「でも、頬白は、普通、『一筆啓上仕る』と啼くのだそうでございます」

「物の啼き声は、聞きようによって、いろいろに取れますわい」

愛すればこそ

「蛙が何んといって啼くかご存知？」

「さあ」

「久太という<ruby><rb>小博徒</rb><rt>こばくちうち</rt></ruby>が、勝負に負けて、裸体にむかれて、野良路を帰って来ると、その前を、郷方見廻りの立派なお侍さんが二人、歩いて行かれましたそうで。……すると、田圃の中から、蛙が啼きかけましたそうで。……何んといって啼いたかご存知？」

「知るわけがござらぬ」

「『あんた方お歴々、あんた方お歴々』と啼いたそうでございます」

「そうも聞こえますなあ」

「久太が通ると、また、蛙は啼きかけたそうですが、何んといって啼いたかご存知？」

「知るわけはござらぬ」

「『裸体でオホホ』と啼いたそうでございます」

「なるほど、そうも聞きとれますなあ」

「久太は怒って、蛙を捕えて、地べたへ叩きつけましたそうで。……何んといって蛙が啼いて死んだかご存知？」

「知るわけはござらぬよ」

「『久太アー』と啼いて死んだそうでございます」

「あッはッはッ」と左門は、爆笑した。「『キューター』……あッはッはッ」

爆笑してから、ハッと気がついた。

（俺は幾年ぶりで、気持ちよく、腹の底から、何んの<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>りもなく、笑っただろう？）

そうして、彼の気持ちは、快く爆笑させてくれた栞に対して、感謝しなければならないようなものになっていた。

（妾、どうして今日は、こう何んでも、気安く思うことが云えるのだろう？）

と、栞は栞で、自分ながらその事が、不思議なような気がした。（やはり、お父様のご病気がお癒りになったからだわ。……そうして、頼母様が、今日あたり、帰っておいでになるからだわ）

――それに相違なかった。それだから、心が喜悦に充ちてい、何んでも云え、何んでも受け入れることが出来、何んでもよい方へ解釈することが出来るのであった。

また二人は、しばらく沈黙して、向かい合っていた。

左門は、いつか、肘を枕にして横になった。

蕾を持った春蘭が、顔の前に生えていて、葉の隙から栞の姿が、<ruby><rb>簾越</rb><rt>すだれご</rt></ruby>しの女のように見えていた。栞は、顔を上向け、また、何か想いにふけっているようであった。華やかな半襟の合わさり目から、白い滑かな咽喉が覗き、その上に、ふくよかな円い顔が載っていて、咽喉の形が、象牙の<ruby><rb>撥</rb><rt>ばち</rt></ruby>のように見えているのも、<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しかった。

栞は笑った。頼母のことを思っての、「想い出し笑い」であった。

「栞殿」と、左門は、相手の心を探るように云った。

「そなた、誰かと恋し合っておられますな」

「ま、……どうして……」

しかし栞の耳朶は紅を注した。

「様子でわかりまする」

「…………」

「あまりに浮き浮きとしておられる。あまりに幸福そうじゃ。……若い娘ごが、そのように成られること、恋以外にはござらぬ」

「…………」

「栞殿のような、美しい、賢い、無邪気な娘ごに恋される男、何者やら、果報者でござるよ」

「…………」

「相手の殿ごも、栞殿を愛しておられますかな？」

讐敵紙帳の内外

「それはもう……」と、栞は思わず云って、また顔を染めた。

「その殿ご、心変りせねばよいが」

「なんの……決して……そのようなこと！」

「競争者でも出来て……」

「競争者でも……」

と、栞の顔へ、はじめて不安の影が射した。

「さよう、競争者でも出来ましたら、男の心など、変るもので」

「いいえいいえ、そんなことがありますものか！　……でも、もしや、そんなことにでもなったら……死にまする！　妾は死にまする！」

「こう云っているうちにも、<ruby><rb>阿婆擦</rb><rt>あばず</rt></ruby>れた女などが、そなたの恋人――いずれ、しおらしい、初心の栞殿の恋人ゆえ、同じ初心のしおらしい殿ごでござろうが、その殿ごへ、まとい付いて……」

栞の顔色は次第に変り、眼が、地面の一所へ据えられた。

その様子を見ると左門は、本来なれば、性来の悪魔性が――<ruby><rb>嗜虐</rb><rt>しぎゃく</rt></ruby>性が、ムクムクと胸へ込み上げて来、この純情の<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>の心を、嫉妬と<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>とで、穢してやろうという<ruby><rb>祈願</rb><rt>ねがい</rt></ruby>に駆り立てられるのであったが、今は反対で、

（気の毒な！　こんな純情の処女の心を苦しめてはいけない）と思った。そこで快活に笑い、

「いやいや栞殿、心配はご無用になされ、純情の殿ごなりや、どのような性悪る女であろうと、誘惑の手延ばされぬものでござる。……それにしても、栞殿のような娘ごに、そのようにまで想われる男、果報者の代表、うらやましい次第、何んという名のお方でござるかな？」

「はい、そのお方の名は……」

栞が云いかけた時、紙帳の外から、

「やア、ここに紙帳が釣ってあるわ！　……やア、左門めの紙帳じゃ！」

という声が聞こえた。

頼母の声であった。

「左門！」と、その声は叫んだ。「我は伊東頼母、先夜は府中武蔵屋で、むざむざ取り逃がしたが、再度ここで巡り合ったは天の<ruby><rb>祐</rb><rt>たす</rt></ruby>け！　父親の敵、今度こそは<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がしはせぬ！　出て来て勝負を致せ！」

「頼母様アーッ」

と、その声を聞いて、まず呼ばわったのは、栞であった。

「頼母様アーッ、妾、栞でござりまする！　……今日あたりお帰りくださりましょうかと、心待ちに待っておりましたところ！　おお、やっぱりお帰りくだされましたか！　……それにいたしても変った所で！　頼母様アーッ」

と、栞は、叫び叫び、紙帳の裾をかかげ、外へ出ようとした。しかし、その栞は、背後から、左門の手によって引き戻された。

「伊東頼母氏か。……紙帳の中におる者は、いかにも五味左門、貴殿父上の敵じゃ！　……が、頼母殿、紙帳の中には、もう一人<ruby><rb>人</rb><rt>ひと</rt></ruby>がいる！　飯塚薪左衛門殿の娘栞殿じゃ！　……いや、驚き申したわ。栞殿に恋人のあること、たった今、この帳中で、栞殿より承ってござるが、その恋人が、貴殿、頼母殿であろうとは！」

左門は、そう云い云い、刀の柄を右手で掴んだが、一振りすると鞘を飛ばせ、蒼光る刀身を、頼母のいると覚しい方へ差し付けた。

「悪縁といえば、よくよくの悪縁でござるよの」と左門は、辛辣な声で云いつづけた。

「貴殿のお父上を討ち取ったばかりか、武蔵屋では、貴殿の恋人、博徒五郎蔵の女お浦という者を、拙者この帳中で。……しかるに、同じこの紙帳の中で、貴殿第二の恋人、栞殿を。……重なる怨みとはこの事！　フッフッ、これでは貴殿、拙者を見遁がすことなりますまいよ！」

悲痛の頼母

「頼母様アーッ」

と栞は、左門の手から遁がれよう遁がれようと身悶えしながら、必死となって叫んだ。

「左門様が、あなた様のお父様の敵などとは夢にも知らず、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さきほど</rt></ruby>から、紙帳の中で、物語りいたしましたは真実ではござりまするが、何んの<ruby><rb>貞操</rb><rt>みさお</rt></ruby>を！」

「それは真実じゃ！」

と、左門は、意外に真面目の声で云った。

「栞殿は、純潔じゃ。……それから……」と云ったが、云い止めた。

しかし、やがて決心したように、誠実のこもった声で、

「先夜、武蔵屋で、お浦と申す女子を手に入れたよう申したが、これも嘘じゃ！　……拙者に関する限り、お浦という女は純潔じゃ！　……本来、拙者は女嫌いでな。いわば女性嫌忌性なのじゃ！」

（それにしても）

と、左門は、自分で自分を疑った。

（どうして、こう、俺は素直な気持ちになったのであろう。……先夜は、頼母めを苦しめようために、手を触れさえしなかったお浦という女を、手に入れたなどと<ruby><rb>偽</rb><rt>いつ</rt></ruby>わり云ったのに。……いまに至ってそれを取り消すとは）

――左門には、その理由がわからなかったが、しかし、その理由は、栞というような、本当に無邪気な、純な処女と、罪のない、子供同士のような話をし、腹の底から笑ったことが影響し、彼の心が、人間本来の「善」に帰ったからであるかもしれない。

「動くか、頼母！」

しかし、突然、左門は一喝し、グルリと体を廻し、紙帳の、側面の方へ向き、刀を差し付けた。

「紙帳の内と外、見えぬと思うと間違うぞよ。……紙帳の中にいる左門こそ、不動智の位置にいる者じゃ。左へも右へも、前へも後へも、十方八方へ心動きながら、一所へは、瞬時も止まり居坐らぬ心の持ち主じゃ。<ruby><rb>眼光</rb><rt>め</rt></ruby>は、紙背に徹するぞよ！　……嘘と思わば証拠を挙げようぞ。……汝、今、紙帳より一間の<ruby><rb>距離</rb><rt>へだたり</rt></ruby>を持ち、正面より側面へ移ったであろうがな。……<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>は同じく一間の距離を持ち、紙帳の側面、<ruby><rb>中央</rb><rt>なかば</rt></ruby>の位置に立ち、刀を中段に構え、狙いすましておろうがな。……動くか！」

と、またも大喝し、左門は、グッと左へ体を向け、紙帳の背面へ刀を差し付けた。

紙帳は、二人を蔽うて、天蓋のように、深く、静かに、柔らかく垂れていた。縦縞のように、時々襞が出来るのは、風が吹きあたるからであろう。

ここは紙帳の外である。――

頼母は、刀を中段に構え、紙帳から一間の距離を保ち、紙帳を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで突っ立っていた。全身汗を掻き、顔色蒼褪め、眼は血走っていた。お浦と典膳とを戸板に載せ、五郎蔵の乾児二人に担がせ、ここまで走って来た頼母であった。見れば、林の空地に、見覚えのある、五味左門の紙帳が釣ってあった。驚き喜び、宣りかけたところ、意外も意外、恋人栞が、その中にいて、声を掛けたとは！　……それが、殺人鬼のような左門の手中にあって、身うごきが出来ずにいるとは！

これだけでも頼母は、逆上せざるを得なかった。その上、剣技にかけては、段違いに優れた左門によって、紙帳の中から、嘲弄されたのである。頼母は文字通り逆上した。

（父の敵の左門、討たいで置こうか！　恋人の栞、助けないで置かれようか！）

思うばかりで、体はほとんど自由を欠いていた。眼前の紙帳が、鉄壁のように彼には思われた。鉄壁を貫いて、今にも、左門の剣が、閃めき出るように思われた。腕が<ruby><rb>強</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばり、呼吸がはずみ、足の筋が釣った。それでも、彼は、隙を狙うべく、紙帳を巡った。帳中の左門によって、見抜かれてしまった。

手も足も出ないではないか。

常磐木と花木と落葉樹との林が立っている。鳥が<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>け過ぎ、兎が根もとを走り、野鼠が切り株の頂きに<ruby><rb>蹲居</rb><rt>うずくま</rt></ruby>り、木洩れ陽が地面に虎斑を作っている。

そういう世界を背後に負い、血痕斑々たる紙帳を前にして、頼母は、石像のように立っていた。差し付けた刀の切っ先を巡って、産まれたばかりらしい蛾が、飛んでいる。

と、その時、

「頼母様アーッ」

と呼ぶ、凄愴の声が聞こえて来た。

頼母のいる位置から、十数間離れた、<ruby><rb>胡頽子</rb><rt>ぐみ</rt></ruby>と野茨との<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>の横に、戸板が置いてあり、そこから、お浦が、獣のように這いながら、頼母の方へ、近づきつつあった。頼母様アーッと呼んだのは、お浦であった。彼女の眼に見えているものは、紙帳であり、彼女の耳に聞こえたものは、頼母と左門との声であった。武蔵屋の紙帳の中で、二度まで気絶させられた怨みある左門が紙帳の中にいる！　その左門は、自分にとっては、救世主とも思われる頼母様の親の敵だという！　おのれヤレ左門、怨みを晴らさで置こうか！　懐かしい頼母様！　お助けしないでおられようか！　……一人には怨みを晴らし、一人には<ruby><rb>誠心</rb><rt>まごころ</rt></ruby>を捧げてと、息絶え絶えながら、彼女は、紙帳の方へ這って行くのであった。

殺気林に充つ

お浦は、獣のように這って進んだが、渋江典膳は、よろめいたり、膝を突いたり、立ち木に縋ったりしながらも、さすがに立って、この時、道了塚の方へ歩いていた。

そう、彼は、ここまで運ばれて来て、ここが、道了塚附近の林であることを知るや、

（この<ruby><rb>負傷</rb><rt>いたで</rt></ruby>では、どうせ命はない。では、せめて、数々の思い出と、数々の罪悪とを残している道了塚で、息を引き取ろう。……東十郎への罪滅しにもなれば、<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>にもなる）

とこう思って、そっちへ歩きだしたのであった。

歩くにつれて、足からも手からも血がしたたった。

しかし彼が道了塚まで<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついたなら、南無妙法蓮華経と<ruby><rb>刻</rb><rt>ほ</rt></ruby>られた<ruby><rb>碑</rb><rt>いしぶみ</rt></ruby>にもたれ、天国の剣を放心したように握り、眼を閉じ、首を傾げ、昔の記憶を<ruby><rb>蘇生</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>らせようと、じっと思いに耽っている、飯塚薪左衛門の姿を、見かけなければならないだろう。

そう、薪左衛門は、そういう姿勢で、この頃、道了塚の頂きに坐っていた。

彼の顔には苦悶の表情があり、彼の体は不安に<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>いていた。白髪には陽があたり、銀のように輝いていたが、その頭は、高く上がりそうもなかった。

人間の思考の中に、盲点というものがある。その盲点の圏内にはいった記憶は、奇蹟的事件にぶつからない限り、思い出されないということである。何故薪左衛門が、来栖勘兵衛と、この道了塚で決闘したか、その理由の解らないのも、その盲点に引っかかっているからであるらしい。

そうして、さっき聞こえて来た、塚の下からの悲しい叫び声、

「秘密は<ruby><rb>剖</rb><rt>あば</rt></ruby>かない、裏切りはしない、助けてくれーッ」

という声の主の何者であるか？　何んでそう叫ぶのか？　それらのことの解らないのも、盲点の圏内に、その記憶が引っかかっているかららしい。

ところで……広々と<ruby><rb>展開</rb><rt>ひら</rt></ruby>けている耕地を海とし、立ち連なっている林を陸とすれば、道了塚は、陸に近い、小島と云ってよく、その小島にあって、陸の林の一方を眺めたなら、林の縁を、人家の方へ一散に走って行く、二人の人影を見たであろう。戸板を舁き捨て、素早く逃げ出した五郎蔵の二人の<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>であった。二人の走って行く様は、<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>から解放された獣かのように軽快であった。

と、その二人の走って行く方角の、十数町の<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>から、<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>を目差し、二十人ほどの一団が、林へ駆け込んだり、耕地へ出たりして、走って来るのが見えた。

松戸の五郎蔵と、その乾児たちであった。

五郎蔵の左右に<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いているのは、角右衛門と紋太郎とで、この二人の注進により、五郎蔵は、頼母によって、自分の乾児たちが殺されたことを知り、復讐のために乾児を率い、農家の納屋へ馳せつけた。乾児たちの死骸が転がっているばかりで、頼母の姿も、お浦、典膳の姿も見えなかった。母屋の門口で、種を<ruby><rb>選</rb><rt>え</rt></ruby>り<ruby><rb>分</rb><rt>わ</rt></ruby>けていた老婆に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと、戸板を<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>った三人の者が、林の中へ駆け込んだと云う。

（頼母が、お浦と典膳とを戸板に載せ、生き残った俺の乾児に<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>がせ、逃げたのだ）

と、五郎蔵は察した。怒りと、嫉妬とが彼を狂気のようにした。

「どこまでも追っかけ、探し出し、頼母、典膳、お浦、三人ながら叩っ殺せ！」

こうして一団は林へ駆け込み、こっちへ走って来るのであった。乾児の中には、竹槍を持っている者もあった。もう性急に脇差しを抜いて、担いでいる者もあった。武士あがりの、<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましい顔の五郎蔵は、額からも頤からも汗をしたたらせ、火のような息をしながら、先頭に立って走っていた。

殺気は次第に道了塚と、その附近の林とに迫りつつあった。

それだのに、紙帳の中の、何んと、今は静かなことだろう！　左門の声も栞の声も聞こえず、<ruby><rb>咳</rb><rt>しわぶき</rt></ruby>一つしなかった。

頼母は、そういう気味悪い沈黙の紙帳を前にして、石像のように立ち尽くしていた。構えている刀の切っ先が顫えているのは、彼の心が焦慮している証拠であった。

（何故<ruby><rb>沈黙</rb><rt>だま</rt></ruby>っているのだろう？　何が行われているのだろう？　……栞はどうしているのだ？　……いや栞は何をされているのだろう？）

恋人の栞が、殺人鬼のような左門と、紙帳の中にいる。二人ながら黙っている。何をされているのだ？　もしや咽喉でも絞められて？　……

これを思うと頼母の<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>は掻き<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>られるようであった。

必死のお浦

この時、遙かの林の奥から、喊声が聞こえて来た。五郎蔵たちの一団と、戸板を置き捨て、逃げて行った二人の乾児とが<ruby><rb>邂逅</rb><rt>めぐりあ</rt></ruby>い、二人の乾児によって、頼母と、お浦と、典膳との居場所を知った五郎蔵たちの揚げた声であった。

「逃がすな！」「もう一息だ！」

二十数人の一団は、藪を廻り、木立ちを巡り、枯れ草を蹴開き、無二無三に走った。

「いたぞーッ」

という叫びをあげたのは、先頭切っていた五郎蔵であった。

「左門などには眼をくれるな！　頼母とお浦と典膳とを仕止めろ！」

こう五郎蔵が叫んだ時には、長脇差しを抜いていた。

悪罵と怒号とが林を揺すり、乾児たちの抜いた、二十数本の脇差しが、湾に寄せた怒濤が、高く上げた<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>のように白光った。そう、五郎蔵たちの一団は、紙帳を背後にし、この時ようやく這い寄り、足へ縋り付いたお浦を、縋らせたまま、蒼白の顔色をし、刀を構えて立った頼母を、引っ包んで討ち取ろうと、湾のように左右に開き、立ち向かったのであった。

「頼母様アーッ」とお浦は叫んだ。「妾ゆえに、お気の毒なこの憂き目！　……想われたあなた様の因果！　さぞ妾が憎いでございましょう！　……一思いにその刀で、妾をお殺しくださりませ！　……あなた様に殺されましたら、本望の本望！　頼母様アーッ」

頼母は切歯し、

「この場に臨んで、何を繰り言！　放せ足を！　……一大事の場合、邪魔いたすな！」

足を上げて蹴り、蹴られて、紙帳の裾に<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>び寄ったお浦を、帳中から手が出て、引き入れた。

瞬間、白刃が、十数本、頼母に降りかかった。

それを頼母は、左右前後に、切り、防ぎ、そうして退き、ジリジリと退き、松の木の幹に背中をもたせ刀を構え、大息を吐き、八方へ眼をくばり、

（俺は、これから、どうなるのだ？）

と思った。

この頼母の<ruby><rb>心境</rb><rt>こころ</rt></ruby>は、地獄さながらであったが、帳中へ引き入れられたお浦の心境も、地獄さながらであった。

――ここは紙帳の中である。

お浦は、左門へ、むしゃぶりつこうとしていた。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>、左門ンーン」

それは、血を吐くようなお浦の声であった。

「汝のために、武蔵屋で、紙帳の中へ引き入れられ、気絶させられ、悩乱させられたばかりに、頼母様に差し上げようと思った天国様を川へおとし、そればかりか、五郎蔵に捕えられ、『俺を裏切り、頼母へ心中立てした憎い女！　嬲り殺しにしてくれる』と、昨日まで府中で責め<ruby><rb>折檻</rb><rt>せっかん</rt></ruby>、今日はいよいよ息の根とめると、百姓家の納屋へ戸板でかつぎこまれ、……そこを嬉しや、頼母様に助けられ、ここまでは連れられ遁がれては来たが……汝、左門ンーン……汝とは何んの怨みもないこの身、部屋を取り違えたが<ruby><rb>粗忽</rb><rt>そこつ</rt></ruby>といえば粗忽……そのような粗忽、いましめて、放してさえくだされたら、何んの間違いもなかったものを！　……汝の悪逆の所業から、それからそれと禍いを産み、頼母様を五郎蔵に怨ませ、アレアレあのように紙帳の外では、五郎蔵めに頼母様が！　……」

胸はあらわ、髪は崩れ、頸には、折檻された痕の青あざがある。――そういうお浦が、怨みと怒りで血走った眼を据え、食い入るように、下から、左門を睨み、地を這い、じりじりと進み、武者振りつこうとしているのであった。

純情の二人の女

左門は、右手に、抜いた関ノ孫六の刀を握り、それを、お浦へ差し付け、左手では、紙帳の裾をかかげ遁がれ出ようとする栞の帯を掴んでいた。

「お浦、事情を聞けばまことに気の毒、さぞ左門が憎いであろうぞ！　が、今は甲斐ない繰り言！　過ぎ去った事じゃ！　……」

と云ったが、抜き身を地へ置くと、その手を頤の下へ<ruby><rb>支</rb><rt>か</rt></ruby>い、眉根へ寄せたがために、藪睨みのようになって見える<ruby><rb>瞳</rb><rt>め</rt></ruby>で、つくづくとお浦の顔を見詰め、

「<ruby><rb>以前</rb><rt>これまで</rt></ruby>の拙者なりゃ、その方より紙帳へ近附いたからには憂き目を見たは自業自得と、突っ放すなれど、<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>の拙者の<ruby><rb>心境</rb><rt>こころ</rt></ruby>ではそれは出来ぬ。気の毒に思うぞ！　詫び申すぞ！　……さりながら一切は過ぎ去ったこと、繰り返しても甲斐はない！　……今後は<ruby><rb>贖罪</rb><rt>とくざい</rt></ruby>あるばかりじゃ！　……お浦、そちのその<ruby><rb>重傷</rb><rt>おもで</rt></ruby>では、生命取り止むること<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないかもしれぬ。そこで云う、<ruby><rb>今生</rb><rt>こんじょう</rt></ruby>唯一の<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>を申せ！　……左門、身に代えて叶えてとらせる！」

「希望⁉　……唯一の、今生の希望⁉」

と、お浦は、すでに天眼になりはじめた瞳、小鼻がにわかに落ちて、細く険しくなった鼻、<ruby><rb>刳</rb><rt>えぐ</rt></ruby>られたように痩せ落ちた<ruby><rb>顳顬</rb><rt>こめかみ</rt></ruby>や頬、そういう輪廓を、黒い焔のような乱髪で<ruby><rb>縁取</rb><rt>ふちど</rt></ruby>り、さながら、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>能面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を、黒ビロードで額縁したような顔を、ヒタと左門へ差し向けたが、

「おおそれなら、頼母様のお命を！　オ、お助けくださりませ！　……五郎蔵の乾児大勢に、ああ取り囲まれましては、所詮助からぬあのお方のお命！　……お助けくださらば海山のご恩！　……あなた様への怨みも消えまする！　……左門様アーッ」

「左門様アーッ」

と、するとこの時、もがいて、ようやく、左門の手から遁がれた栞が叫んだ。

「妾からもお願いいたしまする！　……頼母様のお命お助けくださりませ！　……、聞けば頼母様、五郎蔵一味大勢の者に取り囲まれ、ご危難とか！　……おおおお、あの物音が、頼母様討とうの物音とか！　……掛け代えのない大切の頼母様、オ、お助けくださりませーッ」

乱れた衣裳、<ruby><rb>髻</rb><rt>もとどり</rt></ruby>千切れた髪、蒼白な顔、嵐に揉まれる牡丹桜とでも云おうか、友禅の小袖の袖口からは、緋の<ruby><rb>襲着</rb><rt>したぎ</rt></ruby>がこぼれ、<ruby><rb>半分</rb><rt>なかば</rt></ruby>解けた帯の間からは、身悶えするごとに、<ruby><rb>鴇色</rb><rt>ときいろ</rt></ruby>の帯揚げがはみ出し、髪へ掛けた鹿の子の布が、蝋細工のような耳朶のあたりで揺れている<ruby><rb>態</rb><rt>さま</rt></ruby>など、傷ましく哀れではあったが、尚美しさ艶かしさを失わない女の姿であった。

「ナニ、掛け代えのない大切の頼母様？」

と、お浦は、はじめて栞へ眼をつけたが、

「<ruby><rb>汝</rb><rt>わりゃ</rt></ruby>ア何者？　……見ればまだ小娘！　……それなのに、妾の、頼母様のことを！　……」

気も遠々に、次第に地面へ伏し沈もうとする体を、またも猛然と揺り起こし、しかし、立ち上がる気力はなく両手を地に突き、栞の方へお浦は這い寄るのであった。

「さては<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>は、頼母様に、横恋慕をしてこのお浦から……」

栞も今は一生懸命、胸を反らせ、膝を揃え、膝の上へ両手を重ね、毅然とした態度となったが、

「横恋慕などとは穢らわしい、そなたこそ誰じゃ？　そなたこそ横恋慕！　……妾はこの土地の郷士飯塚薪左衛門の娘栞！　……頼母様とは<ruby><rb>将来</rb><rt>ゆくすえ</rt></ruby>を<ruby><rb>誓約</rb><rt>ちか</rt></ruby>った仲！　……<ruby><rb>邪</rb><rt>よこし</rt></ruby>まの恋などではござりませぬ！　……それを横恋慕などと！　……」

「<ruby><rb>吠</rb><rt>ほざ</rt></ruby>くな小娘！」

と、お浦は、南国に住むという<ruby><rb>傘蛇</rb><rt>からかさへび</rt></ruby>が、敵に襲いかかるように、ユラユラと背延びをし、両手を高く上げたが、

「命取られるまでに<ruby><rb>折檻</rb><rt>せっかん</rt></ruby>され、<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り殺しにかけられたお浦、それも頼母様のため！　これが邪まの恋か！　……おおおお、これが邪まの恋か！　……恋？　なんの！　恋なものか！　おおおお、恋などという生やさしいものは、妾にとっては、遠い昔の物語！　……<ruby><rb>真実</rb><rt>まっとう</rt></ruby>の人間に<ruby><rb>復活</rb><rt>かえ</rt></ruby>ろうと、久しい間、男嫌いで通して来たものを！　……恋？　それも邪まの恋？　……何んの何んの頼母様は、わたしにとっては恋以上のお方！　……<ruby><rb>救世主</rb><rt>すくいぬし</rt></ruby>！　……おおおお、でも、この妾の心！　ああやっぱり恋かしら？　……恋なら恋でままよ！　その恋ひたむきにとげるまでよ！　……<ruby><rb>吠</rb><rt>ほざ</rt></ruby>いたな小娘！　頼母様とは将来を<ruby><rb>誓約</rb><rt>ちか</rt></ruby>った仲と！　……まことなりや、その仲裂かいで置こうか！　……<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>を殺してエーッ」

と、バッと蔽いかかろうとした。

紙帳の外は修羅場

瞬間、白光が、二人の間を<ruby><rb>裁断</rb><rt>たちき</rt></ruby>った。

地に置いてあった抜き身を取り上げ、左門が二人の間へ突き出したのであった。

「待て！　……さりながら、純情と純情！　……ハーッ」

と、太い息をした。

五郎蔵の<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>を受けていながら、五郎蔵を裏切り天国の剣を持ち出し、頼母に渡そうとしたこと、邪まの<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>には相違なかったが、生命をかけての頼母への執着ぶりから云えば、お浦の想い、純情といわずして何んだろう。

左門のような人間をして、腹の底から笑わせた栞の無邪気さ！　その栞の頼母への恋が、純情であることはいうまでもなかった。

その純情と純情とが、狭い紙帳の中で、今や噛み合おうとしているのであった。

（俺には扱い兼ねる）

左門は太い息をしたのである。

「栞殿」

と、やがて左門は云った。

「拙者、先ほど、<ruby><rb>阿婆擦</rb><rt>あばず</rt></ruby>れた女などが、そなたの恋人へ附きまとうやもしれずと申しましたな。……お浦こそその女子！　……しかし、そなたの、頼母殿を想う念力強ければ、お浦など、<ruby><rb>折伏</rb><rt>しゃくぶく</rt></ruby>すること出来ましょう！　……弱ければ、折伏されるまでよ！　……お浦！」

と、お浦を、<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>そうに見詰め、

「そちの頼母殿への執着、浅間しいともいえれば不愍ともいえる！　……しかし思え！　そちの命は助からぬやもしれぬ。死に際を潔うせよ！　……栞殿へ恋を譲れ！　……そこまでに強い想い、譲るは辛いであろうが、譲れば、かえってそちの煩悩、まず第一に救われるであろうぞ！　……栞殿も救われ、頼母殿ものう。……栞殿は無邪気な<ruby><rb>処女</rb><rt>おぼこ</rt></ruby>、頼母殿を、<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んだ仇し女などに取られるより、まだしも栞殿に譲った方がのう。……さりながら、女の世界での出来事は、男の世界からはうかがいしること出来ぬわい！　そちたち<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せ！　……おさらばじゃ！」

刀を引くと立ち上がり、紙帳の<ruby><rb>側面</rb><rt>かべ</rt></ruby>へ身を寄せたが、

「二人ながら安心いたせ！　二人の希望を叶え、拙者、五郎蔵はじめ、五郎蔵の乾児どもを、斬って斬って斬りまくり、頼母殿の命はきっと救う！　……<ruby><rb>注意</rb><rt>こころ</rt></ruby>いたせ！」

と、左門は<ruby><rb>訓</rb><rt>いまし</rt></ruby>めるように云った。

「二人ながら紙帳を出るな！　……紙帳こそは拙者の家、わが<ruby><rb>城砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>、この中にそちたちいる限りは、拙者身をもって護ってとらせる！　出たが最後、拙者<ruby><rb>関係</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らぬぞ！」

幾多の悲劇を経験した紙帳は、またも悲劇を見るのかというように、尚睨み合っている二人の女と、今や紙帳の裾に<ruby><rb>蹲居</rb><rt>うずくま</rt></ruby>り、刀を例の逆ノ脇に構え、斬って<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>ずべき機会を窺い、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>の物音を聞きすましている左門とを蔽うていた。頼母によって斬られた五郎蔵の乾児たちの血が、新しくかかって、古い血の痕の上を、そうして左右を、新規に深紅に染め、それが、線を<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>し、筋を為し、円を描き、方形を<ruby><rb>形成</rb><rt>かたちづく</rt></ruby>り、流れ<ruby><rb>凝</rb><rt>こご</rt></ruby>り、紙帳の<ruby><rb>面貌</rb><rt>おもて</rt></ruby>は、いよいよ怪異を現わして来た。

が、紙帳の外は？

ここ紙帳の外は、修羅闘争の巷であった。

頼母は既に紙帳の側から離れ、ふたたび立ち木の幹へ背をあて、群がり寄せ、斬りかかろう斬りかかろうとする五郎蔵の乾児たちを睨み、自分もいつか受けた数ヵ所の<ruby><rb>負傷</rb><rt>きず</rt></ruby>で、――斬った敵方の返り血で、全身<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>に染まり、次第に迫る息を調え、だんだん衰える気力を励まし励まし、……

そういう頼母の眼に見えているのは、正面乾児たちの群の中に立ち、彼を睨んでいる松戸の五郎蔵の姿であった。

<ruby><rb>憎悪</rb><rt>にくしみ</rt></ruby>に充ちた五郎蔵の眼がグッと据わり、厚い唇が開いたと見てとれた瞬間、怒号する声が聞こえて来た。

「憎いは頼母、親の敵に<ruby><rb>邂逅</rb><rt>めぐりあ</rt></ruby>ったという、義によって助太刀してやったところ、恩を仇に、お浦めをそそのかし、天国の剣を持ち出させたとは何事！　息の根止めずに置かれようか！　やア乾児ら、うろうろいたさず、頼母めを討ってとれ！　……おおおお、お浦め、紙帳の中へ引き入れられたまま、いまだに出ぬぞ！　……紙帳の中には左門がいる筈、その左門め、武蔵屋でも、同じ紙帳の中へ、お浦めを引き入れて……許されぬ左門！　やア乾児ら、左門めを討ってとれ！　……典膳めの姿が見えぬぞ！　典膳めはどうした？　……俺の過去などと申して、あることないことを云い触らす痩せ浪人！　生かしては置けぬ！」

喚きちらし、地団駄を踏む五郎蔵の<ruby><rb>心境</rb><rt>こころ</rt></ruby>も、苦しいものに相違なさそうであった。

「やあ汝ら手分けして典膳を探し出せ！」

声に応じて数人の乾児が、木立ちを潜って走って行く姿が見えた。

「やア松五郎！」と怒鳴る五郎蔵の声がまた響いた。「紙帳を窺え！　紙帳の中を！」

外光の中で見る紙帳の気味悪さ！

左門の任侠

今は中からは人声は聞こえず、<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>の、<ruby><rb>叫喚</rb><rt>さけびごえ</rt></ruby>、<ruby><rb>怒号</rb><rt>どなりごえ</rt></ruby>、<ruby><rb>剣戟</rb><rt>けんげき</rt></ruby>の響きを嘲笑うかのように、この、多量に人間の血を浴びた長方形の<ruby><rb>物像</rb><rt>もののかたち</rt></ruby>は、木立ちと木立ちとの間に手を拡げ、弛んだ裾で足を隠し、静かに立っている。吸っても吸っても血に飽かないこの怪物は、これまでも随分血を吸ったが、今日こそはそれにも増して、充分に吸うぞというかのように、静かな中にも胴顫いをさせている。そう、微風につれて、ゆるやかな弛みを作ったり、幽かな<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>を作ったりしているのであった。裾の一所に、背を光らせた<ruby><rb>蜥蜴</rb><rt>とかげ</rt></ruby>がいて、這い上がろうとし、短い足で紙帳を掻いているのも、魔物めいていて不気味であった。

と、その紙帳目掛け、松五郎なのであろう、一人の乾児が、抜き身を引っさげたまま、仲間の群から駈け抜け、走り寄るのが見えた。が、その体が紙帳へ寄り添ったと見えた瞬間、悲鳴が起こり、丸太のようなものが一間ばかり飛び、足を股から斬り取られた松五郎が、鼠<ruby><rb>煙火</rb><rt>はなび</rt></ruby>のように地上をぶん廻り、切り口から、<ruby><rb>龍吐水</rb><rt>りゅうどすい</rt></ruby>から<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>る水のように、血が迸り、紙帳へかかるのが見えた。

すぐに紙帳の裾がパックリと口を開け、そこから身を斜めにし、刀を袖の下にした、痩せた長身の左門が、ソロリと<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り出て来た。

「出たーッ」

と、五郎蔵は、自分が襲われたかのように叫んだ。

左門は紙帳を背後にし、頬の<ruby><rb>削</rb><rt>こ</rt></ruby>けた蒼白い顔を、漲る春の真昼陽に晒らして立ち、少しまぶしそうに眼をしばたたいた。

「出た！　本当に出た！　左門が！」

立ち木に背をもたせ、五郎蔵とその乾児たちとを睨んでいた頼母も、紙帳を出た左門を認め、声に出して叫んだ。悪寒が身内を氷のように走った。

（絶体絶命！　……俺はここで討たれるのか！）

大勢の五郎蔵の乾児たちを相手に斬り合うだけでさえ、今は手に余っていた。そこへ、いよいよ、自分より段違いに腕の勝れた左門が現われ出たのであった。勝ち目はなかった。

（残念！　返り討ちに逢うのか！　……栞殿を眼の前に置きながら、返り討ちに！）

<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>みかかった彼の眼の、その眼界を素走って、五郎蔵の乾児数人が、左門へ襲いかかって行くのが見えた。と、その乾児たちを無視したように、左門の豹のような眼が、頼母の方へ注がれたが、

「頼母氏！」

という声が聞こえて来た。

「紙帳の中の二人の女子――栞殿とお浦との純情に酬いるため、二人の<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>を入れ、拙者、貴殿へ助太刀つかまつるぞ。……ただし、拙者と貴殿とは<ruby><rb>讐敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>同士、恩に着るに及ばぬ、恩にも着せ申さぬ！　……五郎蔵！」

と左門の眼が五郎蔵の方へ向いた。

「武蔵屋では、よくも拙者に手向かいいたしたな！　今日は返礼！　充分に斬るぞ！」

「黙れ、犬侍！」

五郎蔵は躍り上がり躍り上がり、

「想いを懸けた俺の女を！　……それを<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>、よくもよくも！　……汝こそ犬じゃ！　……やア野郎ども犬侍を叩っ殺せ！」

声に応じ、竹槍を持った乾児が、左門眼がけて走り寄ったのが見えた。と、左門の姿が無造作に一方に開き、竹槍の柄を掴んだ。と思う間もなく、槍を掴まれた乾児が、よろめいて前へ出たところを、脇下から肩まで払い上げた。

「野郎ども一度にかかれ！」

怒号する五郎蔵の声に駆り立てられ、三人の乾児が左右から斬ってかかった。

「頼母氏見られよ！」

と、左門の声が響いた。と同時に、一人の乾児の斬り込んで来た脇差しを迎え、それより速く、その脇差しの上へ、自分の刀を重ねるように斬り付け、乾児の眉間を頤まで割り、

「これぞ我が流における『陽重の剣』でござるぞ！　……先ほども紙帳の中より申しましたとおり、貴殿の剣法いまだ未熟、なかなかもって拙者を討つことなりますまい。……されば拙者の剣法を仔細に見究め、拙者を討つ時の参考となされい！」

と呼ばわり、もう一人の乾児が、味方が討たれたのに怯え、立ち<ruby><rb>縮</rb><rt>すく</rt></ruby>んでいる所へ、真一文字に寄り、肩を胸まで斬り下げ、

「頼母氏、今の斬こそは、我が流における『青眼破り』でござるぞ！　相手、青眼に付けて、動かざる時、我より進んで相手の構えの中へ入り、斬るをもってこの名ござる！」

と大音に呼ばわった。

左門の侠骨

いまだに立ち木に背をもたせ、五郎蔵の乾児たちと立ち向かっていた頼母は、眼に左門の働きを見、耳に左門の声を聞き、茫然とした気持ちにならざるを得なかった。それは悲喜<ruby><rb>交〻</rb><rt>こもごも</rt></ruby>の感情ともいえれば夢に夢見る心持ちとも云えた。左門が自分の味方として現われ出て来たことは、何んといっても頼母にとっては有難い嬉しいことであった。しかし討たねばならぬ父の敵から助けられるということは、<ruby><rb>苦痛</rb><rt>くるしみ</rt></ruby>であった。とはいえ<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>の場合においては、その苦痛は忍ばなければならなかった。もし五郎蔵一味に自分が殺されたならば、左門を討つことが出来なくなってしまうからである。今は、何を措いても、五郎蔵一味を<ruby><rb>殲滅</rb><rt>せんめつ</rt></ruby>するか追い払うかしなければならなかった。それには左門からの助太刀は絶対に必要のことであった。

頼母は勇気とみに加わり、今までは守勢の身であったのが、攻勢に出、疾風のように五郎蔵の乾児どもの中へ斬り込んだ。

胆を奪われた乾児たちが狼狽し、散って逃げた時、

（栞殿は？）

と、こういう場合にも、危険に<ruby><rb>曝</rb><rt>さ</rt></ruby>らされている恋人のことが心に閃めき、頼母は、逃げた乾児どもを追おうともせず、身を翻えすと一気に、紙帳へ駆け寄り、左門の立っている位置とは反対の、紙帳の裏側に立ち、紙帳を背にし、もう追い縋って来た五郎蔵の乾児六、七人を前にし、構え込んだ。

五郎蔵の乾児たちは、今は、二派に別れて立ち向かわなければならないことになった。

十数人の乾児たちは、左門へ向かった。

と、この時、左門の高く呼ぶ声が聞こえて来た。

「頼母殿、心得てお置きなされ！　敵大勢四方よりかかるとも、一方へ追い廻せば結局は一人でござるぞ！　すなわち<ruby><rb>殿陣</rb><rt>しんがり</rt></ruby>の一人が敵でござるわ！」

この言葉を証拠立てるためらしく、左門は突き進むと、左端の一人を斬り斃し、戻りの太刀でもう一人を斬り斃し、狼狽した乾児たちが紙帳を巡って右手の方へ逃げるのを、隙かさず追い、逃げおくれた一人を、肩から背骨まで斜めに斬り下げ、紙帳の角を廻って尚追った。逃げた乾児どもは、頼母のいる紙帳の裏側まで来、そこに集まっていた七人の仲間とぶつかった。頼母に向かっていたその七人の乾児どもは、逃げて来た十数人の仲間の渦中に捲き込まれ、これも狼狽し後から左門が追って来るとも知らず、これは左手の方へ逃げだしたが、血刀を振り冠った左門の姿を見ると、仰天し、悲鳴を上げ、四方へ散り、紙帳から離れた。その乾児どもを追って、左の方へ走り出した頼母は、パッタリ左門と顔を合わせた。

「左門氏、ご助力、忝けのうござる！」

「黙らっしゃい！」

と左門は喝した。

「貴殿と拙者とは讐敵同士！　恩には着せぬ、恩にも着たもうな！」

「…………」

もう二人は別れていた。

左門に追われて逃げた十数人の五郎蔵の乾児たちは、紙帳の角から少し離れた<ruby><rb>辺</rb><rt>あた</rt></ruby>りで一団となり、左門を迎え撃つ姿勢をととのえた。しかし左門は物の数ともせず、駆け寄ると、<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>と同じく、左端にいる一人を斬り斃し、返す刀で、もう一人の乾児を斬り伏せ、これに恐怖した乾児どもが、ふたたび逃げ出したのを、紙帳に接近した位置を保ちながら追ったが、ふと、紙帳越しに、頼母の方を見た。頼母は乾児どもに包囲されてい、一人の乾児が背後から竹槍で、今や頼母の背を突こうとしていた。左門はやにわに<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>を抜き、投げた。小柄は、紙帳の上を、飛び魚のように閃めき飛んだ。

頼母は、背後で悲鳴が起こったので、振り返って見た。竹槍を持った男が、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>へ小柄を立て、地面をのたうっている。事情が<ruby><rb>悟</rb><rt>し</rt></ruby>れた。

「左門氏、あぶないところを……お礼申す！」

「貴殿と拙者とは讐敵同士……」

と左門は、逃げおくれた一人を、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>ざまに斬り仆し、

「恩に着るな、恩にも着せぬと申した筈じゃ！」

「…………」

この時まで五郎蔵は、乾児たちと離れて立ち、乾児たちの働きを見ていたが、左門と頼母とに、乾児たちが見る間に、次々に斬ってとられるので、怒りと恐怖と屈辱とで躍り上がり、頼母眼掛け駈け寄ろうとしたとたん、

「オ、親分ーン」

という声が、林の中から聞こえて来、一人の乾児が<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>をくぐって走って来た。

「テ、典膳めは、道了塚の方へーッ」

「おおそうかーッ」

と、五郎蔵は応じたが、

「典膳だけは、俺の手で！　……そうでないと、安心が！　……」

道了塚の方へ走り出した。

謎解かれる道了塚

この頃典膳は、道了塚まで辿りついていた。彼の<ruby><rb>肉体</rb><rt>からだ</rt></ruby>も<ruby><rb>精神</rb><rt>こころ</rt></ruby>も弱り果て、息絶え絶えであった。彼は塚の裾の岩へ縋り付いて呼吸を調えた。彼にとって道了塚は、罪悪の巣であり仕事の拠点であり悲惨惨酷の思い出の形見であった。彼は眼を上げて塚を見上げた。二十年もの年月を経ておりながら、この自然物は昔とほとんど<ruby><rb>変化</rb><rt>かわり</rt></ruby>がなかった。岩は昔ながらの形に畳み上げられてあり、苔も昔ながらの色にむしており、南無妙法蓮華経と<ruby><rb>彫刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>まれてある碑も、昔ながらの位置に立っていた。その<ruby><rb>碑面</rb><rt>おもて</rt></ruby>が春陽を受けて、鉛色に光っているのも昔と同じであった。

彼は懐かしさにしばらく<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>となり体の苦痛を忘れた。しかし彼は、すぐに、碑に体をもたせかけ、手に抜き身を持った老人が、放心でもしたように、茫然と、塚の頂きに坐っているのを認め、驚き、尚よく見た。

「あッ」と典膳は思わず声を上げた。

それは、その老人が、昔の頭、――二人あった浪人組の頭の一人の、有賀又兵衛であったからである。

「オ、お頭アーッ」

と、典膳は悲鳴に似たような声で呼びかけた。

「有賀又兵衛殿オーッ」

――有賀又兵衛……現在の名、飯塚薪左衛門は、昔の、浪人組の頭目だった頃の名を呼ばれ、愕然とし、毛を<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>られた鶏のような首を延ばし、声の来た方を見た。

彼の眼に見えたものは、塚の裾に、塚の岩組から、栓かのように横へはみ出している小岩、それに取り縋っている全身血だらけの武士の姿であった。

「誰じゃ？」

と云いながら薪左衛門は、立てない足を<ruby><rb>躄</rb><rt>いざ</rt></ruby>らせ、塚の縁の方へ身を進めた。

「渋江典膳にござりまする。……二十年<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>浪人組栄えました頃、組の中におりました、渋江典膳にござりまする！」

「渋江典膳？　おお渋江典膳！　……存じおる！　存じおるとも！　組中にあっても、有力の人物であった！　……来栖勘兵衛と、特に親しかった筈じゃ」

「さようにござりまする。私は来栖勘兵衛お頭の秘蔵の腹心、伊丹東十郎氏は、有賀又兵衛お頭の無二の腹心として、組中にありましても、重く<ruby><rb>使用</rb><rt>もち</rt></ruby>いられましてござりまする」

「伊丹東十郎？　……おお伊丹東十郎！　……覚えておる覚えておる！　わしに一番忠実の男だった。……どうして今日まで思い出さなかったのであろう？　……おおそういえば、さっき聞こえて来たあの声、『秘密は剖かない、裏切りはしない、助けてくれーッ』と云ったあの声は、まさしく伊丹東十郎の声だった。……おお、俺はすっかり思い出したぞ。……あの時、二十年前、甲州の鴨屋方を襲い、莫大もない金銀財宝を強奪し、帰途、五味左衛門方を訪れ、天国の剣を<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>り取り、それを最後に組を解散し、持ち余るほどの財を担い、来栖勘兵衛と<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>と、そちと伊丹東十郎とで、この道了塚まで辿って来、いつもの<ruby><rb>隠匿所</rb><rt>かくしば</rt></ruby>へ、財宝を<ruby><rb>隠匿</rb><rt>かく</rt></ruby>したが……」

「その時私は、勘兵衛お頭の依頼により、素早く天国の剣を持ち逃げして、林の中へ隠れましてございます」

「財宝を<ruby><rb>隠匿</rb><rt>かく</rt></ruby>したが、その時突然勘兵衛めは、伊丹東十郎を穴の中へ突き落とし、『<ruby><rb>此奴</rb><rt>こやつ</rt></ruby>さえ殺してしまえば我らの秘密を知る者はない』と申しおった」

「深い穴の底から聞こえて参りましたのが、東十郎の叫ぶ『秘密は剖かない、裏切りはしない、助けてくれーッ』という声でござりました。……林に隠れておりました私の耳へまでも、届きましてござりまする」

「おのれ<ruby><rb>不埓</rb><rt>ふらち</rt></ruby>の勘兵衛、<ruby><rb>従来</rb><rt>これまで</rt></ruby>、奪った財宝を、百姓ばらに担がせて運び、隠匿した際には、秘密を<ruby><rb>他</rb><rt>よそ</rt></ruby>へ洩らさぬため、百姓ばらを、財宝と一緒に、穴の中へ、切り落としたことはあるが、同じ仲間を、穴へ落として生き埋めにするとは不義不仁の至り、直ちに引き上げよと拙者申したところ、突然勘兵衛め、拙者に切り付けおった」

「あなた様が刀を抜かれ、勘兵衛めと立ち合われるお姿が、林にかくれおりました私にも見えましてござります」

昔の同志、今の讐敵

「ああようやく、<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>の記憶は<ruby><rb>蘇生</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って来た。……ああ、これが、道了塚で勘兵衛と決闘した原因だったのだ。……決闘の結果は私の負けだったが」

「あなた様が股を勘兵衛に斬られて倒れられたお姿が、木の間ごしに見えましてございます」

「<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>の方が<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>から<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>より強かったのだからなあ。……彼奴は私の倒れるのを見て、林の中へ駈け込んで行った」

「勘兵衛お頭は私めを連れまして立ち去ったのでございます。……それから数日経ちました夜、勘兵衛お頭には私を連れて、ここ道了塚へ参り、穴倉を開き、財宝を取り出し、持ち去りましてござります」

「それだのに彼奴め、過ぐる年、私の所へ参り、財宝と天国の剣とを奪ったのは私であろうと云い懸かりを付けおった」

「それもこれも、勘兵衛めの過去の罪悪を知っておる者、<ruby><rb>今日日</rb><rt>きょうび</rt></ruby>では、あなた様と私とただ二人だけというところから、難癖をつけて、あなた様を討ち取ろうとなされたのでございましょう」

「その私はどうかというに、浪人組を解散して以来、ずっと古屋敷に、隠者のように<ruby><rb>生活</rb><rt>くら</rt></ruby>していた。日課とするところは、道了塚へ行って、我々の罪悪の犠牲になった人々の菩提を葬い、懺悔することだった。……私の心は日に月に陰気になって行ったものだ」

思い出多い過去の形見を、身に近く持っているということは、多くの場合、その人を憂欝にし、衰弱に導くものである。たとえば、亡妻の黒髪を形見として肌身に附けている<ruby><rb>良人</rb><rt>ひと</rt></ruby>が、いつまでも亡妻の思い出から遁がれることが出来ず、日に日に憂欝になり衰弱して行くように。……薪左衛門が、過去の罪悪の形見の道了塚を<ruby><rb>附近</rb><rt>ちかく</rt></ruby>に持ち、そこへ日参したということは、彼を憂欝にし彼を衰弱させたらしい。

「衰弱している私の所へ、博徒の頭、松戸の五郎蔵と成った勘兵衛が来て、私を<ruby><rb>威嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>したのじゃ、典膳よ、恥ずかしながら<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は、その時以来今日まで発狂していてのう」

「又兵衛殿オーッ、私はその勘兵衛のために、嬲り殺しにかけられ、コ、このありさまにござりまする！」

「全身血<ruby><rb>達磨</rb><rt>だるま</rt></ruby>！　どうしたことかと思ったに、勘兵衛めに嬲り殺し⁉　……どこで？　どうして？」

この時嘲笑うような声が聞こえて来た。

道了塚の縁起

「嬲り殺しには府中でかけた！　<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>か？　<ruby><rb>強請</rb><rt>ゆす</rt></ruby>りに来たからよ」

それは五郎蔵であった。林から抜けて、典膳の後を追って来た五郎蔵であった。年にも似ない逞ましい足をからげた衣裳の裾から現わし、抜き身をひっさげ、典膳の背後に立っていた。

「又兵衛！」と、五郎蔵は、典膳などには眼もくれず、はだかった襟から、胸毛の生えている肉厚の胸を覗かせ、<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>のような眼をヒタと塚の頂きの薪左衛門へ据え、呼ばわった。

「久しぶりで、妙な所で逢ったのう。……さて、くどい事は云わぬ、ここで逢ったを幸い、始末をする！　典膳と一緒に」

「…………」薪左衛門は、五郎蔵を認めた瞬間顔色を変えた。恐怖で蒼褪めた。しかし、五郎蔵の言葉の終えた頃には、口もとに、皮肉の微笑を漂わせていた。

「又兵衛」と五郎蔵は、相手を呑んでかかった、悠々とした声で云いつづけた。「俺とお主とは、昔は兄弟分、随分、仲もよかった。そうして<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>でも、大して<ruby><rb>怨恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>を持ち合っているという訳でもない。二十年前ここでお主と斬り合ったのも、東十郎を殺す助けるの意見の相違からに過ぎなかった。その後お前の屋敷へ訪ねて行ったのも、実はお主がどのような<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>をしているか知りたかったまでよ。だからよ、何もここでお主を討ち果たす必要はなさそうだが、だがやっぱり討ち果たさなければいけないなあ。というのはこの男の悪い例があるからよ」と、はじめて典膳の方へ眼をやり、抜き身の峰で、典膳の肩の辺を<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>するように叩いたが、「俺アこの男へは相当の手当をし『これまでの縁だ、今後はお互いに他人になろう、顔を合わせても挨拶もするな』と云って、二十年前に別れたところ、二、三日前に、みすぼらしい風をして、俺の<ruby><rb>賭場</rb><rt>ところ</rt></ruby>へやって来て、昔のことを云い出し、強請りにかかった。……そこで俺は思うのだ、いつお主が、隠者のような生活から脱け出して、俺を強請りに来はしまいかとな。この<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れをなくすにゃア、お主をこの世から……」

「黙れ！」と、薪左衛門ははじめて<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>えた。「黙れ勘兵衛！　そういう汝こそ、この剣の錆になるなよ！」

薪左衛門は、手に捧げていた<ruby><rb>天国</rb><rt>あまくに</rt></ruby>の剣の<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>の辺を額にあて、拝むような姿勢をとったが、

「これ勘兵衛、汝は今、二人の間には、命取るような深い怨恨はないと申したな、大違いじゃ！　拙者においては、この年頃、命取るか取られるか、是非にもう一度この道了塚で、汝と決闘しようものと、そればかりを念願といたしておったのじゃ。そうであろうがな、浪人組の二人頭として、苦楽を共にし、<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>を分け合った仲なのに、いざ組を解散するとなるや、共同の財宝を汝一人で奪い、天下の名刀を奪い取り――ええ、弁解申すな！　典膳よりたった今、事情<ruby><rb>悉皆</rb><rt>しっかい</rt></ruby>聞いたわ！　……のみならず、それらの悪行を、この薪左衛門にかずけようとした不信の行為！　のみならず、辛酸を嘗め合った同志を穴埋めにした裏切り行為！　肉を喰うも飽き足りぬ怨恨憎悪が、これで<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>されずにおられようか！　……持つ人の善悪にかかわらず、持つ人に福徳を与うと云われておるこの天国の剣が、我が手に入ったからには、汝と我との運命、<ruby><rb>転換</rb><rt>かわ</rt></ruby>ったと思え！　かかって来い勘兵衛、この天国の剣で真っ二つにいたしてくれるわ！」

五郎蔵は、むしろ唖然とした眼付きで、春陽を受けた剣が、虹のような<ruby><rb>光茫</rb><rt>ひかり</rt></ruby>を、刀身の周囲に作って、卯の花のように白い薪左衛門の頭上に、振り冠られているのを見上げたが、

「ナニ、天国の剣？　……どうして汝の手に？」

と、前後を忘れ、ズカズカと塚の裾の方へ歩み寄った。

と、その時まで、塚の真下に、小岩を抱いて、<ruby><rb>奄々</rb><rt>えんえん</rt></ruby>とした気息で、伏し沈んでいた典膳が、最後の<ruby><rb>生命力</rb><rt>ちから</rt></ruby>を揮い、胸を反らせ、腰を<ruby><rb>蜓</rb><rt>うね</rt></ruby>らせ、のけ反った。とたんに五郎蔵の悲鳴が起こり、同時に彼の姿は地上から消え、彼の立っていた足もとの辺りに大きな穴が開いた。

天智天皇の七年、<ruby><rb>高麗国</rb><rt>こまのくに</rt></ruby>の滅亡するや、その遺民唐の<ruby><rb>粟</rb><rt>ぞく</rt></ruby>を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>むことを潔しとせず、相率いて我が国に帰化し、その数数千に及び、武蔵その他の東国に住んだが、それらの者の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>、<ruby><rb>剽盗</rb><rt>ぞく</rt></ruby>に家財を奪われるを恐れ、塚を造り、神を祭ると称し、塚の下に穴倉を設け、財宝を<ruby><rb>隠匿</rb><rt>かく</rt></ruby>した。

これが道了塚の<ruby><rb>濫觴</rb><rt>はじまり</rt></ruby>なのであって、勘兵衛、又兵衛の浪人組どもは、その塚を利用し、強奪して来た財宝を、その穴倉の中へ、隠匿したに過ぎなかった。栓のように見えていた小岩は、穴倉の上置きの磐石を辷らせる、<ruby><rb>槓桿</rb><rt>こうかん</rt></ruby>だったらしい。その槓桿を動かしたがために、穴倉の口が開いたのらしい。

「う、う、う！」

という呻き声が、塚の縁から、穴倉の中を見下ろしている薪左衛門の口から起こった。

因果応報

その穴倉の中の光景は？　白昼の<ruby><rb>陽光</rb><rt>ひ</rt></ruby>が、新しい藁束のように、穴倉の中へ射し、穴倉の中は、新酒を充たした壺のように明るかったが、頭でも打ったのか、仰向けに仆れ、手足をバタバタ動かしながらも、立ち上がることの出来ない五郎蔵の姿が、負傷した<ruby><rb>螳螂</rb><rt>かまきり</rt></ruby>かのように、その底に沈んで見えていた。でもその彼の、頭の辺や足の辺や左右やに、白く散在している<ruby><rb>物像</rb><rt>もののかたち</rt></ruby>は何んだろう？　人間の骸骨であった。それこそ、この穴倉の秘密を、世間へ知らせまいため、強奪した財宝を運ばせて来た百姓どもを、そのつど、浪人組の者どもは、この穴倉の中へ斬り落としたが、その百姓どもの骸骨に相違なかった。今、尚、立ち上がろうとしてもがく、五郎蔵の足に蹴られ、三尺ぐらいの白い棒が、宙へ躍り上がったが、宙で二つに折れて地へ落ちた。股の附け根からもげた骸骨の脚が、宙でさらに膝からもげたものらしい。また、すぐに、五郎蔵の手に刎ねられ、碗のような形の物体が、穴倉の口もと近くまで舞い上がって来たが、<ruby><rb>雪球</rb><rt>ゆきだま</rt></ruby>のように一瞬間輝いたばかりで、穴倉の底へ落ちて行った。<ruby><rb>髑髏</rb><rt>どくろ</rt></ruby>であった。一体の、完全に人の形を保っている骸骨が、穴倉の<ruby><rb>壁面</rb><rt>かべ</rt></ruby>に倚りかかっていた。穴倉を出ようとして、よじ登ろうとして、力尽き、そのまま死んだものと見え両手を、壁面に添えて、上の方へ延ばしていた。仔細に眺めたなら、その骸骨の足もとに、鞘の<ruby><rb>腐</rb><rt>く</rt></ruby>ちた両刀が落ちているのを認めることが出来たろう。武士の骸骨である証拠であり、最後に犠牲になった伊丹東十郎の骸骨に相違なかった。その骸骨へ、もがいている五郎蔵の手が触れた。と、骸骨はユラユラと揺れたが、すぐに、生命を取り返したかのように、グルリと方向を変え、傾き、穴ばかりの眼で五郎蔵を見下ろしたかと思うと、急に五郎蔵目掛け、仆れかかって行き、その全身をもって、五郎蔵の体を蔽い、白い歯をむき出している口で、五郎蔵の咽喉の上を蔽うた。

恐怖の声が、道了塚の頂きから起こり、つづいて、<ruby><rb>氷柱</rb><rt>つらら</rt></ruby>のようなものが、塚の縁から穴倉の中へ落ちて行った。穴倉の中の光景を見て、気を取りのぼせた薪左衛門が、天国の剣を手から取り落としたのであった。

この時典膳の体が、小岩を抱いたまま、前方へのめり、それと同時に、穴倉の光景は消え、地上には、もう穴倉の口はなく、それのあった場所には、新しく掘り返されたような<ruby><rb>土壌</rb><rt>つち</rt></ruby>と、根を出している雑草と、<ruby><rb>扁平</rb><rt>たいら</rt></ruby>の磐石と、息絶えたらしい典膳の姿とがあるばかりであった。

そうして道了塚の上では、穴倉の地獄の光景を見たためか、神霊ある天国の剣を失ったためか、ふたたび狂人となった薪左衛門が、南無妙法蓮華経と<ruby><rb>刻</rb><rt>ほ</rt></ruby>ってある<ruby><rb>碑</rb><rt>いしぶみ</rt></ruby>の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を、蟇のように這い廻りながら、

「栞よーッ、来栖勘兵衛めが、伊丹東十郎に食い殺されたぞよーッ、栞よーッ」

と、叫んでいた。

その栞は、林の中で、紙帳を前にし、頼母に介抱されていた。栞を<ruby><rb>介</rb><rt>かか</rt></ruby>えている頼母の姿は、数ヵ所の<ruby><rb>浅傷</rb><rt>あさで</rt></ruby>と、敵の返り血とで、<ruby><rb>蘇芳</rb><rt>すおう</rt></ruby>でも浴びたように見えてい、手足には、極度の<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>から来た<ruby><rb>戦慄</rb><rt>ふるえ</rt></ruby>が起こっていた。

（敵は退けた。恋人は助けた！）

しかし彼は、それをしたのは自分ではなくて、大半は五味左門であることを思った。

（その上私は、あやうく竹で突き殺されるところを、左門に助けられた）

<ruby><rb>塑像</rb><rt>そぞう</rt></ruby>のように縋り合っている二人の上へ降りかかっているものは、なんどりとした春陽であり、戦声が絶えたので啼きはじめた小鳥の声であり、微風に散る桜の花であった。そうして二人の周囲に<ruby><rb>散在</rb><rt>あ</rt></ruby>る物といえば、五郎蔵の乾児たちの死骸であった。

苦行者か殺人鬼か

頼母は、ふと、眼を上げて見た。左門が、乾児たちの死骸の中に立ち、もう<ruby><rb>血粘</rb><rt>ちのり</rt></ruby>をぬぐった刀を鞘に納め、<ruby><rb>衣紋</rb><rt>えもん</rt></ruby>をととのえ、腕組みをし、紙帳を見ていた。その姿は、たった今しがたまで、<ruby><rb>殺戮</rb><rt>さつりく</rt></ruby>をほしいままにしていた人間などとは見えなかった。顔色はいつもどおり蒼白かったが、いつも煤色の唇は赤くさえあった。目立つのはその眼で、それには何かを悲しんででもいるかのような色があった。何を悲しんでいるのであろう？　頼母は左門の視線が紙帳に食い入っているのを見、自分も紙帳を見た。

紙帳は、血によって、天井も四方の<ruby><rb>側面</rb><rt>がわ</rt></ruby>も、ことごとく<ruby><rb>彩色</rb><rt>いろど</rt></ruby>られていた。そうして、古い血痕と、新らしい血痕とによって、<ruby><rb>怪奇</rb><rt>ふしぎ</rt></ruby>な模様を染め出していた。すなわち、塔のような形が描かれてい、堂のような形が描かれてい、宝珠のような形が描かれてい、羅漢のような姿が描かれてい、仏のような姿が描かれてい、卍のような形が描かれているのであった。

それは、諸法具足を<ruby><rb>象徴</rb><rt>あらわ</rt></ruby>した曼陀羅の模様であった。血で描かれた曼陀羅紙帳は、<ruby><rb>諸所</rb><rt>ところどころ</rt></ruby>切り裂かれ、いまだに血をしたたらせ、ノロノロとしたたる血の筋で、尚、如来の姿や伽藍の形を描いていた。

（諸法を具足すれば円満の境地であり、円満の境地は、一切無差別、平等の境地であり、この境地へ<ruby><rb>悟入</rb><rt>はい</rt></ruby>った<ruby><rb>人間</rb><rt>ひと</rt></ruby>には、不平も不安も不満もない。そういう境地を模様で現わしたものが曼陀羅だ。……この紙帳の内と外とで、俺は幾十人の人を殺したことか。……また、この中で、父上も俺も、どれほど考え苦しみ、怒り、悶え、憎み、喜び、泣き、笑ったことか。紙帳こそは、父上と私との、<ruby><rb>思考</rb><rt>かんがえ</rt></ruby>と<ruby><rb>行動</rb><rt>おこない</rt></ruby>との中心であった。……その紙帳が、曼陀羅の相を呈したとは？）

考えに沈んでいる左門の前で、血曼陀羅の紙帳は、微風に揺れ、皺を作ったり、<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたりしていた。

（少くも曼陀羅の境地へ<ruby><rb>悟入</rb><rt>はい</rt></ruby>るには、思考と行動とが<ruby><rb>同伴</rb><rt>ともな</rt></ruby>わなければいけないらしい。……少くも俺は、この紙帳の内と外とで、善悪共に、<ruby><rb>思考</rb><rt>かんが</rt></ruby>え且つ<ruby><rb>行動</rb><rt>おこな</rt></ruby>ったのは事実だ）

さっき紙帳へ停まって啼いていた頬白ででもあろうか、一羽の頬白が、矢のように翔けて来て、紙帳へ停まろうとしたが、鮮血の赤さに驚いたのか、飛び去った。

（紙帳が曼陀羅の相を呈したのは、この中で思考え行動った俺の<ruby><rb>行為</rb><rt>おこない</rt></ruby>が、曼陀羅の境地へ悟入る行為であったと教えてくれたのか？　……そんなことはない！　……では、将来曼陀羅の境地へ悟入るようにと<ruby><rb>啓示</rb><rt>しめ</rt></ruby>してくれたのか？）

左門はいつまでも佇んで考えていた。

やがて左門は頼母の方を振り返って見た。

頼母は、栞に縋られたままの同じ姿勢でいた。

「頼母殿」と左門は穏かな声で云った。「貴殿には拙者は討てますまい。少くとも<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>のお<ruby><rb>心境</rb><rt>こころもち</rt></ruby>では。……その心境拙者にはよく<ruby><rb>諒解</rb><rt>わか</rt></ruby>りまする。……さて拙者お<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>つかまつる。拙者どこへ参ろうと、この血曼陀羅の紙帳を釣って、<ruby><rb>起居</rb><rt>おきふし</rt></ruby>いたすでござりましょう。……それで、拙者を討つ心境となり、<ruby><rb>剣技</rb><rt>わざ</rt></ruby>においても、拙者を討ち取るだけにご上達なされたら、いつでも訪ねておいでなされ。……紙帳武士とお尋ねなされたら、大概は居場所わかりましょうよ。……拙者いつでも討たれて進ぜる」

それから、足もとに、今は肩息になっているお浦を見下ろしたが、

「不幸な女」と呟いた。「不幸にしたのは<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>じゃ！　償いせねば！　……死なば、わしの手で葬ろう。生き返らば……いや、わしの力できっと生きかえらせてみせる！」

紙帳で、死骸のようなお浦の体をつつみ、それを抱いて、左門が歩み出したのは、それから間もなくのことであった。

林の木々は、左門の左右から、左門を眺めているようであった。遙かの行く手に、明るく黄金色に輝いている<ruby><rb>箇所</rb><rt>ところ</rt></ruby>があった。林が途切れて、陽が当たっている箇所らしい。その光明界を眼ざして左門は歩いて行くように見えた。しかし、その向こうには、小暗い林が続いていた。でも、その林が途切れれば、また、陽光の射した明るい箇所があるに相違ない。でも、それへは、また、暗い林がつづく筈である。<ruby><rb>光明</rb><rt>ひかり</rt></ruby>と<ruby><rb>暗黒</rb><rt>やみ</rt></ruby>の<ruby><rb>道程</rb><rt>みちすじ</rt></ruby>！　それは<ruby><rb>人生</rb><rt>ひとのよ</rt></ruby>の道程でもある。光明と暗黒の道程を辿って行く左門の姿は、俯向いていて寂しそうで、人生の苦行者のように見えた。

（父上のご遺志だ。わしはどうあろうと、どこまでも、奪われた天国の剣を探して、手に入れなければならない）

こう思って歩いて行く左門であった。

しかしその天国の剣は、道了塚の穴倉へ落ちて、ふたたび地上へは現われない筈である。天国が地下へ埋もれたことを知っておるものは、一人もないのであるから。たった一人知っている薪左衛門もふたたび発狂して、一切意識を失ってしまったのであるから。

絶対にとげることの出来ない<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>を持って、永久諸国を流浪するであろう左門の姿は、だんだん小さくなって行った。

<ruby><rb>山査子</rb><rt>さんざし</rt></ruby>の藪の中から、その左門の姿を恐ろしそうに見送っているのは二人の武士であった。片眼をつぶされた紋太郎と、片耳を落とされた角右衛門とであった。

「こう醜い<ruby><rb>不具者</rb><rt>かたわもの</rt></ruby>にされましては、<ruby><rb>将来</rb><rt>このさき</rt></ruby>生きて行く気もいたしませぬ」と怨めしそうに云ったのは紋太郎であった。しかし角右衛門は案外悟ったような口調で、

「いやいやこの刀傷がものを云って、今後はかえって<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>よくなろうぞ。我々は、松戸の五郎蔵親分に腕貸しいたし、刀傷を受けました者でござると、諸方の親分衆のもとへ参って申してみやれ、頼み甲斐ある用心棒として、厚遇されるでござろう」

「なるほどのう」

「左門は我らに生活の<ruby><rb>方法</rb><rt>みち</rt></ruby>を立ててくれた菩薩じゃよ……こんなご時世、食えて行けさえしたら<ruby><rb>御</rb><rt>おん</rt></ruby>の字じゃからのう」

――菩薩、苦行者、左門の姿は、遙かの<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>で、この時、カッと輝いて見えた。光明世界へ――林が途切れて、陽光の射し溜まっている<ruby><rb>箇所</rb><rt>ところ</rt></ruby>へはいったからであろう。

やがて左門の姿は見えなくなった。

暗い林の中へまたはいったからであろう。

しかし、その向こうには明るい世界が！