## この本のはじめに

<ruby><rb>良寛</rb><rt>りやうくわん</rt></ruby>といふ名前の坊さんが、今から百五十年ぐらゐ前に住んでゐた。この本にはその坊さんのことが書いてある。

君達の中には、<ruby><rb>西郷隆盛</rb><rt>さいがうたかもり</rt></ruby>や、乃木大将や、ナポレオンや、ジンギスカンなどの本を読んだ者があるだらう。そしてさういふ子は、本といふものは、人間の中で偉かつた人、何か大きな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てがら</span>を残した人に就いて、書かれるものだといふことを、知つてゐるに違ひない。さうだ。その通りだ。

ところで、この本に書かれてある良寛さんは、偉かつたらうか。

なる程、大人達は良寛さんを偉かつたといつてゐる。そして良寛さんのいろいろな話が、今でも良寛さんの住んでゐた<ruby><rb>新潟</rb><rt>にひがた</rt></ruby>県<ruby><rb>出雲崎</rb><rt>いづもざき</rt></ruby>のあたりには残つてゐる。何でもその辺の人に「<ruby><rb>越後</rb><rt>ゑちご</rt></ruby>で偉かつた人は誰ですか。」と<ruby><rb>訊</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねると「それは<ruby><rb>上杉謙信</rb><rt>うへすぎけんしん</rt></ruby>と良寛さんです。」と答へるさうである。

だが君達は、この本を読んでゆくうちに、不思議な気がするだらう。こんな坊さんの<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>が偉いのかと思ふだらう。こんな<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>のやうな坊さんが偉いのなら、そのへんの乞食やルンペンは、みんな偉いぢやないかといふ者があるかも知れない。

さういつて、途中でこの本をおつぽり出してしまつてはいけない。もう少し我慢して先へ読んでいき給へ。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、良寛さんは偉かつたと大人達がいつてゐる。そればかりか、良寛さんの偉さが、どれ程であつたかといふことは、大人達にもまだよく<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>つてゐないのである。

さうだ、ひよつとすると君達の方が、すばやくほんたうの良寛さんの偉さを、見ぬいてしまふかも知れない。大人達が気がつかないでゐることを、君達の方が先に解つてしまふかも知れない。何しろ、君達子供の眼は、ちつとも濁つてゐない、よく澄んでゐるから。

私はこの本のお<ruby><rb>終</rb><rt>しま</rt></ruby>ひのところで、君達に良寛さんの偉いところが、わかつたかどうか、きくつもりである。その時君達の<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>も彼もが、ちやうど教室で算術や読み方の問題を、きかれたときのやうに、<ruby><rb>一斉</rb><rt>いつせい</rt></ruby>に手を上げられることを望んでゐる。

もう一つ、良寛さんの話をする前に、ことわつておきたいことがある。それは、良寛さんのいろいろな言ひ伝へが、沢山残つてゐると私はいつたが、それらは、どうしたことか、皆良寛さんが年をとられてからの事ばかりなのだ。老人になつた良寛さんの話ばかりが残つてゐて、良寛さんが子供だつた時分は、どんな風だつたかといふ話は、まるで残つてゐない。ひよつとすると何処かの家のお倉の中にでも、良寛さんの少年時代のことを、書いた本がしまつてあるかも知れないが、今のところまだそんな本を知つてゐる人はないのだ。だから、少年時代の良寛さんのことは、よく解らないのである。

しかし君達は、良寛さんの少年時代のことも聞きたいだらう。そこで私は、それを聞かせてあげることにした。良寛さんの子供時代は多分こんな風だつたらう、こんなことがあつたらうと想像して、その話を君達にしてあげよう。

では、良寛さんの少年時代から、話をはじめることにする。

紀元二千六百一年四月二十九日

新美南吉

手毬

かすみたつながき春日をこどもらと

てまりつきつつ今日もくらしつ

鉢の子

春の野にすみれつみつつ鉢の子を

わすれてぞこしあはれ鉢のこ

良寛

  


## 一　蔵の中

<ruby><rb>出雲崎</rb><rt>いづもざき</rt></ruby>は、<ruby><rb>越後</rb><rt>ゑちご</rt></ruby>の国の、日本海岸にある、帯のやうに細長い港町である。そこからは海の水平線の上に、<ruby><rb>佐渡</rb><rt>さど</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>島</rb><rt>しま</rt></ruby>がぽつかり浮かんでゐるのが毎日見える。

その出雲崎の町に、数十代前から続いて来てゐる、由緒の正しい一軒の家があつた。土地の人達は<ruby><rb>橘屋</rb><rt>たちばなや</rt></ruby>と呼んでゐた。橘屋は何代も前から、土地の名主と神官と両方のことをして来た。土地の人達は橘屋を尊敬してゐた。その家は大きく古くて、日本海の波がうちよせる海岸の近くに建つてゐたのである。

今から百七八十年も前に、橘屋に男の子が生れた。家の人々は喜んで、<ruby><rb>栄蔵</rb><rt>えいぞう</rt></ruby>と名をつけた。この子によつて、橘屋が将来栄えてゆくやうにといふ意味だつたのだらう。といふのは、長い間栄えてゐた橘屋は、その時分だんだん衰へかけてゐたからである。

栄蔵はお<ruby><rb>祖父</rb><rt>ぢい</rt></ruby>さんやお<ruby><rb>祖母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんや、若いお父さんお母さんに<ruby><rb>可愛</rb><rt>かはい</rt></ruby>がられて成長した。四つになり五つになる。

そのうち、或日遊びから帰つて来ると、弟が生れてゐるといふので栄蔵はびつくりする。弟には<ruby><rb>左衛門</rb><rt>さゑもん</rt></ruby>といふ名がつけられる。

そしてそれからは、大勢の弟や妹が、ぼつくりぼつくり生れて来るので、栄蔵はもう、一々どんな日に誰が生れたかといふことなど、覚えてはゐられない。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、兄弟がみんなで六人になつたのであつた。

まだ七つばかりの栄蔵は、春も近い暖い日、近所のお寺へ遊びにいつてゐた。

子供達は十人ばかり、お<ruby><rb>御堂</rb><rt>みだう</rt></ruby>の前の、<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>のあたる階段に腰かけて騒いでゐた。栄蔵はいつもの癖で、みんなから少し離れたところで、優しい眼をしてみんなの方を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めてゐた。しもやけのまだすつかり<ruby><rb>癒</rb><rt>なほ</rt></ruby>らない小さい手は、することがないので<ruby><rb>前垂</rb><rt>まへだれ</rt></ruby>の下へ入れて。

十人ばかりの子供達のなかには、まだこの間、佐渡ヶ島から越して来たばかりの、色の黒い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬけめ</span>のない<ruby><rb>顔附</rb><rt>かほつき</rt></ruby>の子がゐた。みんなはその子を囲んで佐渡ヶ島の話をきいてゐた。

「ぢや、<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>ちやんの父ちやんは、何をしてたんだい？」

「<ruby><rb>金山</rb><rt>かなやま</rt></ruby>で働いてたんだよ。」

と答えた。

「金山つて、掘るといくらでも小判がざくざく出て来るの？」

「さうさ、ざくざく出て来るのさ。でも小判ぢやないよ。金の塊だよ。そいつを<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いてのばして、小判にするんぢやないか。」

「ふうん。」

みんなは感心して<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をのみこむ。しばらく黙つてしまふ。みんなの眼には、<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>の先からきらきらと陽にきらめきながら、現れて来る<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>が見えるやうな気がする。

栄蔵も熱心にきいてゐた。栄蔵はほんたうは、佐渡ヶ島から来た角ちやんに、佐渡ヶ島の<ruby><rb>相川</rb><rt>あひかは</rt></ruby>といふ町のことをききたかつた。栄蔵のお母さんがその町で生れたからである。

「佐渡に相川つて町があるでせう。」

さういつてききたかつた。その言葉が、のどの所まで来てゐたが、そこでいざとなるととまつてしまふのである。といふのは、いつも栄蔵はみんなと話をしなかつた。何か話をしかけると、みんなは栄蔵の言葉に笑ひ出すのであつた。その言葉が、女みたいだとか、のろくさしてゐるとかいつて。そしてどうかすると、みんなはあちらへ走り去つてゆきながら、こんな<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>までうたふのであつた。

名主のうちの

昼あんどん。

名主のうちの

<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>むすこ。

昼あんどんといふのは、人を<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めた言葉ではない。<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>は火をともして夜、部屋の中を明かるくする道具で、昼間は何の役にも立たない。だから昼の行燈といふのは、間にあはないもの、いひかへれば<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うすのろ</span>といふことである。こんなことをいはれては、<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>でも面白くないだらう。だから栄蔵も他の子供達から、だんだん遠ざかるやうになつてしまつた。

「そいぢや、角ちやん<ruby><rb>家</rb><rt>ち</rt></ruby>は<ruby><rb>旦那衆</rb><rt>だんなしゆう</rt></ruby>だね。小判がうんとあるんだね。」

と一人の子が佐渡から来た子にきいた。

「ううん。」と角ちやんはちよつと詰つたが、すぐかういひぬけた。「父ちやんは<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>小判を持つてたんだけどね、佐渡から舟で来るとき舟があんまり揺れたらう。そしたら船頭さんが、こりやこん中に、あんまり沢山小判を持つた人があるから、海ん中の<ruby><rb>竜神</rb><rt>りゆうじん</rt></ruby>さんがそいつをよこせ、寄こさんけりや舟をかんぶらすぞといふんだつておどすんだ。そいで父ちやんは、小判を一枚一枚拝んでは、海の中へはふつてやつたのさ。きらつきらつと光りながら、青い水の中に沈んでつたよ。」

「ふうん。」

みんなは、また唾を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んだ。みんなの眼には、風のないとき、<ruby><rb>梢</rb><rt>こずゑ</rt></ruby>からゆつくり落ちる木の葉の様子が浮かんでゐた。

すると突然、

「小判つてどんなもん？」

と年の少い子が無邪気に<ruby><rb>訊</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねた。何て馬鹿な質問をするんだらうといふやうに、みんなはその子の顔を見た。

「馬鹿だなあ、きまつてるぢやないか。小判つて……。」

とその子の兄さんがいひ始めたが、ほんたうは自分も知らなかつたので顔をあかくした。

すると他のものもみんな、自分達が今までに一度もほんたうの小判を見たことのないのを思ひ出した。かうなると、こんな話はもう面白くない。

佐渡から来た角ちやんが、みんなの心をそらさないやうに、

「佐渡ぢやね、こんな唄をうたふんだよ。」

といつた。

「どんなの？」

とみんなは、また眼を輝かせて角ちやんの黒い顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。

すると角ちやんは、<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な顔をして、少し<ruby><rb>癇高</rb><rt>かんだか</rt></ruby>い声でうたひはじめた。

佐渡は

四十五里

波の道。

雨風吹いても

宿がない。

雨風吹いても

宿がない………。

どこかでいつか聞いたことがあるとみんなは思つた。なあんだ、越後にだつてあるぢやないか、お<ruby><rb>爺</rb><rt>ぢい</rt></ruby>さんやお<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんが<ruby><rb>揺籠</rb><rt>ゆりかご</rt></ruby>を揺すりながら、乳母車を押しながらうたふのと同じぢやないか。しかし、ちよつと違ふところもある。いややつぱり違ふ。この角ちやんのうたふ唄の方が、どこかに<ruby><rb>哀</rb><rt>かな</rt></ruby>しいやうな響があつて、美しい。何だかその節の中には、大昔から佐渡ヶ島を洗つてゐる波のかそかな音が、まじつてゐるやうな気がする。みんなは、いいなあと思つて聞いた。

その中でも、一番その唄をいいなあと思つたのは、少し離れたところに、かがんでゐる栄蔵であつた。栄蔵はすつかりその唄に心をつかまれてしまつたので、もうそれから先、みんなの話には耳をかさなかつた。口の中で、いくどもいくども今きいた佐渡ヶ島の唄を、くりかへしてゐた。

お母さんも小さかつた時分、この唄を謡つたのかも知れない。ひよつとすると、今でも覚えていらつしやるかも知れない。家へ帰つたらきいて見よう――さう思つて、栄蔵は小声でその唄を練習して見た。

声に出すと、なかなかうまくうたへない。これぢやちつとも哀しくも美しくも聞えない。そこでまた栄蔵はうたつて見る。

佐渡は

四十五里

波の道。

雨風吹いても

宿がない。

雨風吹いても

宿がない………。

「わあつ。」

と一同がそれをきいて<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>した。栄蔵はしまつたと思つた。またこれは、いつものやうに<ruby><rb>調戯</rb><rt>からか</rt></ruby>はれるに違ひない。

案の定、

「あいつ、女みたいな声でうたつてたよ。」

と一人が一同に報告した。

「あいつ、女みたいな<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>だよ。ごらんよ、色が生白くて、すんなりしてて。しよつちゆう女と遊んでるんだよ。こないだも女達とおはじきしてたよ。」

とまた一人がいつた。

栄蔵はくやしくて泣けさうになつて来た。

「ほら、見てごらん、もう泣くよ。ほら涙が出て来たよ。見られると<ruby><rb>羞</rb><rt>はづか</rt></ruby>しいからうつむいてんだよ。」

「意気地なしだなあ。ほんとに女みたいだなあ。」

「女なもんかい。男だい。」

と栄蔵が顔をあげてみんなを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけた。

「そんな眼で睨んだつて<ruby><rb>恐</rb><rt>こは</rt></ruby>いもんか。女みたいだよ。」

「女なもんかい。男だいッ。」

「そんなら男のすること何でもするか。」

「するよッ。」

「よゥし。」

といつてその子は<ruby><rb>周囲</rb><rt>まはり</rt></ruby>を見まはした。そして<ruby><rb>鐘楼</rb><rt>しようろう</rt></ruby>に眼をつけると、

「そんなら、<ruby><rb>鐘撞</rb><rt>かねつ</rt></ruby>いて見ろ。」

といつた。

鐘を撞くと、舟にのつてゐるれふしや<ruby><rb>畠</rb><rt>はたけ</rt></ruby>に出てゐる百姓<ruby><rb>達</rb><rt>たち</rt></ruby>が、弁当を<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べる時刻を間違へるので、ひどく<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られることを栄蔵はよく知つてゐた。しかし今ここでいやだといへば、意気地なしに<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>められてしまふのだ。そいつはいやだ。あとはどうなつても構はない、やつてしまはう。栄蔵は決心して、

「撞かんぢやか。」

といつた。

「よし、撞けッ、撞けッ。」

栄蔵は鐘楼にのぼつた。腕白な者が四人ばかり、つきそふやうにあとからのぼつた。

<ruby><rb>撞木</rb><rt>しゆもく</rt></ruby>は非常に重く感じられた。栄蔵の腕が細かつたのである。だんだん撞木に勢がついて来たところで、最後の一振りを大きく振ると、体もともにぶつけるやうに撞木と一緒に走つて、一つきついた。鐘は<ruby><rb>嗄</rb><rt>か</rt></ruby>れた声で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごわあん</span>とわめいた。

栄蔵はもうそれでいいことだと思つて綱をはなした。すると腕白者の一人が、

「何だ、一つきりか、一つきりぢやお話にならんや。」

といつた。

栄蔵はやけつぱちで、

「まんだ撞くよッ。」

とまた綱を握つて二つ目をついた。するとまた腕白者が「何だそれつきりか。」とひやかすので、また栄蔵はついた。

同じことを繰返し繰返し、七つか八つ撞いたとき、庫裏の方から坊さんが、

「この<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>めらがッ。」

と<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きながらとび出して来た。

子供達はかういふことには<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れてゐるので、<ruby><rb>兎</rb><rt>うさぎ</rt></ruby>のやうに鐘楼からとび下りると、下にゐた子供達と一緒に一目散に山門をとび出していつた。

息ぎれがして、顔色が一層<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あをじろ</rt></ruby>くなつた栄蔵だけが、どこへ身を隠したものかと、まごついてゐた。

栄蔵のお<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の橘屋ではびつくりした。お寺の小僧さんが、うしろに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しをたれ</span>た栄蔵を従へて、やつて来たかと思ふと、中へはいらうともせず、

「あんたんとこの栄蔵ちやんが、鐘をおもちやに撞いて困りますで、叱つてやつて下さい。」

と門口でいつて、それなりさつさと行つてしまつたのである。

あとに残された栄蔵は、<ruby><rb>閾</rb><rt>しきゐ</rt></ruby>の外に<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>の子のやうに、もぞもぞして、<ruby><rb>前垂</rb><rt>まへだれ</rt></ruby>の端をひつぱつてゐた。

お家の人達はあつけにとられてしまつた。あんまり<ruby><rb>穏和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しすぎるので、もうちつと<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたづら</rt></ruby>をしてくれればよいと思つてゐる位の栄蔵が、そんな大それたことを<ruby><rb>仕出来</rb><rt>しでか</rt></ruby>したといふのは、わけが解らなかつた。

「そんなとこに突つ立つてゐないで、兎も角、家ん中へおはいり。」

と何はさておき、お祖母さんがいつた。

栄蔵はいはれるままに、黒く澄んだ眼をうつむき加減にしてはいつて来た。そしてこんどは、土間の真ん中に突つ立つと、長い<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>のまぶたで、ひとしきりしばたたいた。

「そいぢや、今さつき鳴つた鐘は、お前がついたのか。」

とお祖父さんが、今日は厳しい顔できいた。長い間名主をしてゐたお祖父さんは、<ruby><rb>酒呑</rb><rt>さけの</rt></ruby>みのれふしがおかみへ納める税金を持つて来ないときに、かういふ顔でねめつけることを栄蔵は知つてゐる。

栄蔵が、お祖父さんの問にうなづくと、お祖母さんが、

「随分よう響いたぢやないかえ。栄坊に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほんな</span>力があるなら、何も弱虫ぢやないよ。心配することなんかありやしないよ。」

と<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさうにいつた。

「あんたは黙つてゐなさい。」

とお祖父さんは、お祖母さんをたしなめた。今は喜んでゐる場合ではない。

それから、お祖父さんは例の口調で、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>栄蔵に訊ねた。栄蔵思ひのお祖母さんや、お母さんがはらはらするのも構はずに。時々お祖母さんは、栄蔵をかばふために口を出して、お祖父さんに叱られた。

栄蔵の答は一向要領をえなかつた。時々こくりとうなづくばかりで、あとは<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>のやうに黙つてゐたからである。

それで結局、お祖父さん達には、次のことがわかつたのである。――お寺の鐘をついたのは、<ruby><rb>他家</rb><rt>よそ</rt></ruby>の腕白ものではない、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の栄蔵であるといふことが。

さてそこで、これは打ち<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てておくことは出来ない。お寺からの<ruby><rb>使</rb><rt>つかひ</rt></ruby>も「叱つてやつて下さい。」と、あんなに<ruby><rb>判然</rb><rt>はつきり</rt></ruby>いつて行つたのだから、何とかして栄蔵をこらしめねばならない。――とお祖父さんは考へた。

この橘屋では、何十年もの間、子供をこらしめるといふやうなことは無かつた。お祖父さんには子供が一人もなくて、栄蔵の父も母も、よそから<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>はれて来た養子だつたからだ。それに栄蔵は、今まで女の子のやうに<ruby><rb>穏和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しかつたし、左衛門以下の弟や妹は、まだ小さいので、こらしめねばならぬやうな、大きな悪戯をしたことがなかつた。

そこでお祖父さんは、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をしかめながら、ここの家で子供がこらしめられた例をさがしてゐると、六十年ばかり前に、さういふ例がただ一つあつたのを、やうやく<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>ひ出した。<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>でもない、お祖父さん自身が、子供だつた時分、こらしめられた例である。お祖父さんはその時、蔵の中へ入れられた。中が<ruby><rb>真暗</rb><rt>まつくら</rt></ruby>で<ruby><rb>恐</rb><rt>こは</rt></ruby>かつたので、半ときばかり泣いてあばれてゐて、やうやく許された。あのやり方は随分ききめがあつた。それから後お祖父さんは、「蔵へ入れるよ。」といはれると、どんなに<ruby><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby>ねてゐても、すぐしやんとするやうになつたことを<ruby><rb>憶</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えてゐる。

心では栄蔵を<ruby><rb>可愛</rb><rt>かはい</rt></ruby>がつてゐるお祖父さんは、こんな小さい栄蔵を、蔵の中の<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>にとぢこめるのは、いたいたしいと思つたが、悪いことをしたからには、罰を加へなければならなかつた。

「蔵の<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を持つておいで。」

とお祖母さんにいひつけた。

重い戸がごろごろと閉められて、外でぴしつと錠前のかかる音がすると、栄蔵はこの暗い蔵の中で一人ぽつちになつた。

かそかに聞えて来る波の音のほか、外からは何の物音も伝はつて来ない。ぢき近くの家にゐる<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>の、お父さんやお母さんやお祖父さんお祖母さんも、何処か遠くの、別の世界へ遠のいていつてしまつたやうに思へる。

なるほど寂しい。このままいつまでも、ここにゐなきやならないとしたら、どんなだらう。お祖父さんはきつと、間もなく開けに来てくれるだらうけれど、もしかみんなが栄蔵のことを忘れてしまつて、出してくれなかつたら、どういふことにならう。

栄蔵は、泣き出してしまはうかしらん、と思つて、ふつと息を吸ひこんだが、その時急に或事を憶ひ出したので、泣出すのをやめた。それは、いつかお父さんについて蔵にはいつたとき、二階の窓際に本箱があつて、中には本がぎつしり詰つてゐたのを、見たことであつた。

幸ひ、眼が闇に<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れて来た。栄蔵は手探りで階段の方へ行つた。それから階段をのぼつた。

二階に来ると、そこはぱつと明かるい。海に面した方の、鉄格子のはまつた小さい窓があいてゐたからである。窓の近くでは一層波の音が近く聞える。

栄蔵は本箱のふたを<ruby><rb>脱</rb><rt>はづ</rt></ruby>した。いつか見た通り、一ぱい本がつまつてゐる。栄蔵は嬉しさに、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>がつまるやうな気がした。

栄蔵はまだ<ruby><rb>塾</rb><rt>じゆく</rt></ruby>へは行つてゐなかつたが、お父さんから一字、お祖父さんから二字といふ風に、少しづつ教へて貰つて、もう仮名や、やさしい漢字は、読めるやうになつてゐた。

そこで栄蔵は、本を一冊づつ手にとつて、始めから<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>を繰つて見るのである。或本には栄蔵のまるで知らないむづかしい漢字がぎつしり<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>び、また或本には栄蔵の知つてゐる仮名も書かれてある。知つてゐる字があると栄蔵はそこだけ読んで嬉しく思つた。中には絵の描かれた本もあつた。絵には、馬にのつたお武家や、筆を持つて考へてゐるお爺さんや、犬を追つかけてゐる子供や、様々なものが描かれてあつた。きつとその本を読んで見ると、それらの絵のことが、すつかり解るやうに、書いてあるに違ひないと栄蔵は考へた。栄蔵は、はやくそれが読めるやうになりたい。そして、自分の知らない沢山のことを知りたい。

栄蔵はもう、自分が罰をうけて蔵に入れられたことも忘れて、本に夢中になつてしまつた。

蔵の外のお祖父さんは、しばらく耳を澄ましてきいてゐたが、少しも泣き声らしいものが中から聞えて来ない。

こんな筈はない。いくら蔵の戸が厚いからといつて、お祖父さんが子供だつたときしたやうに、大声で<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きながら、中からどんどん戸を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>けば、少しくらゐ聞えて来る筈だ。

――ではわしも、とうとう耳が遠くなりはじめたのか、と思つて、お祖父さんは、片耳を戸に押しあててきいた。

中はしいんとしてゐる。

お祖父さんは心配しだした。ひよつとすると、<ruby><rb>穏和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい栄蔵は、恐しさのあまり、気絶してしまつたのではないだらうか。それなら、ほつといちや大変だ。

お祖父さんは、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて錠をはづして、重い戸をあけた。暗い方へ向かつて、栄蔵と呼んで見た。

果して返事がない。

お祖父さんは、ますます慌て出した。てつきり栄蔵が、気絶してしまつたと思つたのである。きつとその辺の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>つこにうち倒れて、口から<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>を吹いてゐるのだらう。ひよつとすると、もう死んじまつてゐるかも知れない……。

「栄坊ッ。」

中へはいつていつて呼んだ。

すると二階でごとごといふ音が、お祖父さんの耳に聞えて来た。

栄蔵は、お祖父さんの声を聞くと、びくつとした。急いで本を押しこむと、ふたをしようとしたが、<ruby><rb>脱</rb><rt>はづ</rt></ruby>すとき難儀をしたふたは、はめるにも難儀だつた。慌てるとよけいはまらない。

そこへお祖父さんがあがつて来た。

「栄坊、何だ、こんなとこにゐたのか。」

「…………。」

「何をしてゐるのぢや。」

「…………。」

栄蔵は悪いことをしてゐる最中を、見つけられたと思つてうつむいた。

お祖父さんは、まだはまらない本箱のふたの、うしろからのぞいてゐる本と、栄蔵の顔を<ruby><rb>見較</rb><rt>みくら</rt></ruby>べた。そしていつた。

「お前は本を見とつたのか。」

栄蔵はもう仕方がないと思つて、こつくりと<ruby><rb>頷</rb><rt>うなづ</rt></ruby>いた。

するとお祖父さんは、やさしい声になつて、

「さうか。栄坊は本が好きだつたのか。そんならこれから、お前に学問をさせて本を読ませてやるぞ。ここにある本は、みんなお前のものになるのだ。」

といつた。

お祖父さんは、小さい栄蔵のうちに、学問を好む一つの魂の芽生えを見たのである。お祖父さんにはそれが嬉しかつた。――代々橘屋は学問を愛して来た。この子もまたそれを受けついで愛してゆく。かうして橘屋の将来は、いつまでも<ruby><rb>燿</rb><rt>かがや</rt></ruby>かしく発展するのだ……。

お祖父さんが、本を<ruby><rb>盗見</rb><rt>ぬすみみ</rt></ruby>してゐた自分を叱るとばかり思つてゐた栄蔵は、急にやさしいお祖父さんの言葉をきいて、ぽとぽと涙が出て来た。お寺の<ruby><rb>和尚</rb><rt>をしやう</rt></ruby>さんに怒鳴りつけられたときも、蔵の中へ閉ぢこめられるときも泣かなかつた栄蔵は、今どういふわけで泣けるのか解らなかつたが、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほほ</rt></ruby>を伝ふ涙をとめることが出来なかつた。

「泣くことなどあるか。」

とお祖父さんが、本箱のふたをしめてくれながらいふと、一層泣けるのであつた。

お母さんもお祖母さんも、仕事など手につかず、おろおろして、栄蔵が出て来るのを待つてゐた。

お祖父さんはお母さんに、

「お<ruby><rb>秀</rb><rt>ひで</rt></ruby>、栄坊の鼻をかんでやりなさい。」

といつて、涙でよごれた顔の栄蔵を渡した。

栄蔵は別の部屋へつれてゆかれて、お母さんに顔を拭いて貰つた。

「こはかつたでせう？」

とお母さんは、ついでに長い耳まで拭いてやりながら訊ねた。

「ううん。」

と栄蔵は頭をふつた。そして、急にうれしいことを憶ひ出したやうに、につこり笑つていつた。

「お母さん、この唄知つてる？」

それから、角ちやんに聞いた佐渡の唄を、少しも間違へず、すらすらとうたつて、お母さんにきかしてあげた。

佐渡は

四十五里

波の道。

雨風吹いても

宿がない。

雨風吹いても

宿がない……。

## 二　鹿の仔

遅い<ruby><rb>越後</rb><rt>ゑちご</rt></ruby>の春がやつて来て、海が緑色にうるみ、<ruby><rb>岬</rb><rt>みさき</rt></ruby>の向かふの<ruby><rb>弥彦山</rb><rt>やひこさん</rt></ruby>の雪も消えた。

と或日の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>さがり、栄蔵の家の中の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>が、下男達によつて<ruby><rb>取脱</rb><rt>とりはづ</rt></ruby>された。栄蔵は、今時分<ruby><rb>煤払</rb><rt>すすはら</rt></ruby>ひがあるのかと思つて、下男の松さんにきくと、お酒好きの<ruby><rb>剽軽</rb><rt>へうきん</rt></ruby>な松さんは、佐渡ヶ島へ引越しをするぢやがな、などと<ruby><rb>冗談</rb><rt>じようだん</rt></ruby>をいつてゐたが、最後に「今夜はお<ruby><rb>日待</rb><rt>ひまち</rt></ruby>ですぞな。」と本当のことを教へてくれた。

栄蔵は<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しくなつた。襖を取りのぞいて、お寺の本堂のやうに、だだつ広くなつたところで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もんどり</span>うつて喜んだ。

そのうち、<ruby><rb>追々</rb><rt>おひおひ</rt></ruby>、近所の人々があつまつて来た。れふしたちは、平生浜べで<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りあつてゐるときとは打つて変つて、馬鹿ていねいな物腰で、四角ばつて<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をした。栄蔵は見てゐてをかしかつた。きつと、いつも裸ん坊でゐるのが、よそ行きの着物をきたから、窮屈なんだらう、と考へた。よそ行きの着物といつたつて、れふしたちのは、普段着とどれ程も変つてゐない、厚ぼつたい手織の木綿であつた。

さういふ人<ruby><rb>達</rb><rt>たち</rt></ruby>は、家の中にゐるのは気づまりなので、仕事を見つけて表に出た。庭の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまど</span>をしつらへ、大きい<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>をかけた。井戸端では、ぶこつな手で、大根や<ruby><rb>人参</rb><rt>にんじん</rt></ruby>をこまかく刻んだ。

栄蔵は、いい着物にきせかへて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>つた。<ruby><rb>陽当</rb><rt>ひあた</rt></ruby>りへ出ると、ぷうんと染料の<ruby><rb>匂</rb><rt>にほ</rt></ruby>ひが鼻をうつ、懐しい着物であつた。それから、お使に出掛ける松さんについて、お日待用の<ruby><rb>通帳</rb><rt>かよひちやう</rt></ruby>を持たせて貰つて、お酒屋へいつた。

酒屋では、<ruby><rb>酒樽</rb><rt>さかだる</rt></ruby>がずらりと<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>んでゐる、うす暗い酒蔵の中へ案内された。一足はいると、むつと酒の<ruby><rb>匂</rb><rt>にほ</rt></ruby>ひが迫つて来た。松さんは嬉しさうに眼を細くして、小鼻をわざとぴくつかせながら、深く酒の匂ひを吸ひこんだので、栄蔵はをかしくて笑つた。

<ruby><rb>縄</rb><rt>なは</rt></ruby>のかかつた<ruby><rb>四斗樽</rb><rt>しとだる</rt></ruby>を、買つて帰ることになつて、松さんは担ぐために縄を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだが、芝居をするときのやうに、少しも力を入れないで、力む<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>ばかりしてゐて、担がうとしなかつた。そして、「ね、栄坊さん、こいぢや<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も担げん。一ぱいひつかけなきや、力が出ねえ。」といつた。酒屋の番頭が、笑ひながら<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちやわん</rt></ruby>に一ぱいお酒を持つて来てくれると、松さんは、「や、済みません、済みません。」と頭を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いて、茶碗に吸ひつくやうに口をあてがひ、うまさうに一息に飲んだ。さうすると四斗樽は、楽々と担げた。

松さんの歩調について、肩の上の四斗樽は、たつぷん、ちやつぽんと深い音を立てた。「や、たつぷん、ちやつぽん。」と松さんは、<ruby><rb>戯謔</rb><rt>おどけ</rt></ruby>て口真似した。そして「<ruby><rb>可愛</rb><rt>かはい</rt></ruby>らしい音だなァ。」といつた。栄蔵は、そのうしろから通帳をひろげて、酒屋の番頭が耳にはさんでゐた筆ですらすらと書いた文字を、読まうと努力してゐた。「さけ」といふのだけは、どうやら、それと読めたが、それからあとが読めないうちに、家へついてしまつた。

すると奇妙なものが、庭の<ruby><rb>柿</rb><rt>かき</rt></ruby>の木につないであつた。初め栄蔵は、犬だと思つて何気なく通りすぎようとした。しかしそれは犬ではなかつた。犬にしては、<ruby><rb>肢</rb><rt>あし</rt></ruby>が細く長すぎた。そして耳が大きい割に、顔が細くとがつてゐた。

栄蔵は近寄つて見た。それは犬のやうな険悪な目ではなく、<ruby><rb>円</rb><rt>つぶら</rt></ruby>な眼全体が、青みを含んだ黒で、いふにいはれぬ優しさをたたへてゐた。栄蔵が近づいても、栄蔵の方を見なかつた。何も見ないで、はるか遠くのことを思ひふけつてゐるやうに、じつとしてゐた。<ruby><rb>杖</rb><rt>つゑ</rt></ruby>のやうに細い肢の先は、<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>が二つに割れて、みづみづしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はこべら</span>の緑を<ruby><rb>蹈</rb><rt>ふ</rt></ruby>んでゐた。

栄蔵は、不思議な<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>きが、身内をすつと過ぎるやうな気がした。まだ赤ん坊だつた時分、お母さんのぬくとい<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に抱かれて、うとうとしながら聞いた、あの甘い<ruby><rb>物哀</rb><rt>ものがな</rt></ruby>しい子守歌に、ふと行きあつたやうな気がした。

我に帰つて、栄蔵は、近所で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまど</span>の下に火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いてゐた<ruby><rb>小父</rb><rt>をぢ</rt></ruby>さんにきいて見ると、小父さんはかういつて教へてくれた。

「そりや<ruby><rb>鹿</rb><rt>しか</rt></ruby>の<ruby><rb>仔</rb><rt>こ</rt></ruby>だ。」

鹿の仔。

鹿の仔。

何といふ<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な、愛くるしい、かなしげなものがこの世にはゐることか。

栄蔵は、再び鹿の仔に近づいていつた。

「<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>ちやん、おいでよ。わたしの家にね、鹿の仔がゐるんだ、鹿の仔。」

栄蔵はさういつて、近くの子供を呼びにいつた。そしてその次の家でも、また同じやうなことをいふのであつた。

「<ruby><rb>勝</rb><rt>かつ</rt></ruby>ちやん、見においでよ。わたしの家に鹿の仔がゐるよ、ほんとの鹿の仔ッ。」

金ちやんも勝ちやんも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うすのろ</span>の<ruby><rb>豊</rb><rt>とよ</rt></ruby>ちやんも、栄蔵にさそはれてやつて来た。いつも<ruby><rb>穏和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい栄坊ちやんが、「名主の家の<ruby><rb>昼行燈</rb><rt>ひるあんどん</rt></ruby>」が、こんなに意気込んでゐるのは、珍しいので、みんなは奇妙に思つた。きつと何か素晴らしい物があるのだらう、と思つた。

「ほうら、ね。」

栄蔵は家の角をまはつたところで、もういふのであつた。

――なァんだ、ただの鹿の仔ぢやないか、と金ちやんと勝ちやんは、つまらなく思つた。そして<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>栄蔵が一生懸命になつてゐるのか、わけがわからなかつた。やつぱり栄坊ちやんは、豊ちやんみたいな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うすのろ</span>なんだ、と心の中で思つた。

しかし、ここまで来ると、もう帰る気はしなかつた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまど</span>の上の大きいお鍋が、ぐつぐつ歌つてゐて、うまさうな<ruby><rb>香</rb><rt>かをり</rt></ruby>が、庭一ぱいに漂つてゐたから。どうかすると大人達は、「ほらよ。」といつて、煮えた里芋か<ruby><rb>蒟蒻</rb><rt>こんにやく</rt></ruby>の<ruby><rb>一片</rb><rt>ひときれ</rt></ruby>を、子供達にくれることがあるのである。

それに、まんざら鹿の仔にたいしても興味がないわけではなかつた。棒切で突つついて見たら、どんな悲鳴をあげるだらうか。

しばらく四人は、鹿の仔のまはりに立つて<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めてゐた。栄蔵はそれが<ruby><rb>可愛</rb><rt>かはい</rt></ruby>くてたまらなかつた。小さな鼻の先が、黒くぬれてゐるのも可愛かつた。短いしつぽが、やせたお<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>の上にぺろりと垂れてゐるのも可愛かつた。細い<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>をゆるやかにさしのべて、土の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>を嗅いだりしてゐるのも可愛かつた。いつまで見てゐても栄蔵には可愛く思はれた。

しかし<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の三人は、ただ見てゐるだけではつまらなかつた。

「これ、何<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べるだらう。」

と、金ちやんが先づいつた。そして<ruby><rb>焚物</rb><rt>たきもの</rt></ruby>の中から松葉を拾つて来て、ほらよ、と鹿の仔の鼻先にさし出した。

鹿の仔は、松葉の匂ひを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いでゐたが、喰べようとしなかつた。

すると金ちやんは怒つて、ぴしやりと松葉を鹿の仔の顔に投げつけた。鹿の仔は驚いて、向かふへ逃げようとしたが、首の縄が柿の木につないであるので逃げられなかつた。

栄蔵は、何といふひどいことをするのか、と思つて金ちやんを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うすのろ</span>の豊ちやんは、金ちやんよりもつといけなかつた。鹿の仔が逃げようとして逃げられないのを見ると、豊ちやんは喜んで「わァい。」と叫んだ。それから「わァい、わァい。」と続けざまに<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きながら、あつちこつちと追ひまくつた。

豊ちやんは、栄蔵より三つか四つ<ruby><rb>齢</rb><rt>とし</rt></ruby>上で、体も大きく力も強かつたので、栄蔵はどうすることも出来なかつた。はらはらして見てゐたが、たまらなくなつて、井戸端でお<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby>を洗つてゐる松さんのところへ、助けを求めに行つた。

「ほい、さうかな。」

と松さんは大げさにいつて、<ruby><rb>酔</rb><rt>よひ</rt></ruby>で<ruby><rb>赫</rb><rt>あか</rt></ruby>らんだ顔を向けてそちらを見た。そして「<ruby><rb>豊助</rb><rt>とよすけ</rt></ruby>。栄坊ちやんの大事な鹿に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わるさ</span>するぢやないぞォ。」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どら</span>声をあげた。

豊ちやんは、<ruby><rb>羞</rb><rt>はづか</rt></ruby>しさうな顔をしてやめてしまつたので、栄蔵はほつとした。そして大人の松さんを頼もしく思つた。

その松さんが、まもなく栄蔵をもつと喜ばせてくれた。松さんはかういつたのである。

「栄坊ちやんが、そんなに鹿の仔が好きなら、持たせてあげよかね。」

そして縄を柿の木から解いて、その端を栄蔵の手に握らせてくれた。

栄蔵はおづおづ縄の端を持つてゐた。鹿の仔が安心しきつたやうに、逃げようともしないのがむしやうに嬉しかつた。

「鹿は栄坊ちやんが好きだと見えるな。さういへば、栄坊ちやんもどつか鹿に似てますな。」

と松さんはお世辞をいつた。お世辞でも栄蔵はそれが嬉しかつた。

「そいぢや、海の方へいきませう。栄坊ちやん、<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>つぱつておいでや。」

どういふわけで海の方へゆくのか、栄蔵は知らなかつた。ただ鹿の仔が従順について来るのが可愛らしかつたので、ふりかへりふりかへり、石に<ruby><rb>躓</rb><rt>つまづ</rt></ruby>いたりしながら、ぢき近くの海の<ruby><rb>汀</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>へ下りていつた。金ちやんと勝ちやんと豊ちやんもついて来た。この子達はこれからどういふことがあるか、もう知つてゐた。

松さんが隠して持つて来た<ruby><rb>斧</rb><rt>をの</rt></ruby>をば、薪を割らうとするやうに振りあげたときには、栄蔵はまだ、松さんが何をするつもりなのか、<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかつた。

だが次の瞬間には、足元の白く乾いた砂の上に、<ruby><rb>襟巻</rb><rt>えりまき</rt></ruby>のやうなものが、おつぽり出されてあつた。それが鹿の仔であつた。額に血がにじんでゐた。

金ちやん達は、

「おうォ。」

と感嘆の声をもらした。

「よつこらしよつと。」

<ruby><rb>日頃</rb><rt>ひごろ</rt></ruby>の<ruby><rb>剽軽</rb><rt>へうきん</rt></ruby>さで松さんは、仔鹿の頭のところに、しやがみこんだ。

仔鹿は、かぐろくうるんだ眼を、無心にぱつちりあいてゐた。ざざァと寄せて来て、またざざァと帰つてゆく、ゆるやかな波の音を、耳すまして聞いてゐるやうに見えた。

栄蔵は、自分の眼の下のところが、ひきつるやうな気がした。手足がわなわなと<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>へてゐた。これは一体どういふことなのか、よく解らなかつた。光が一ぱいあるのに、暗くなつて来たやうに感じられた。歯がかちかち鳴つた。

突然、みんなの<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>から鳥でも飛びたつたやうだつた。見ると栄蔵が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へんてこ</span>な走り方で、むちやくちやにあちらへ走つていくのであつた。

「栄坊ちやん、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>い行くだん。」

と松さんが呼んだ。

しかし栄蔵は、向かふの方でお母さんが呼んででもゐるかのやうに、ふり向きもせず走つていつた。しかも、お母さんも<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>もゐない、はてしなく続いてゐる汀を、西の方に向かつて。

<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をともす時分になつて、半里ばかり西の方に住んでゐるれふしが、栄蔵をつれて来た。

「海つぱたの砂の上に寝ころがつて、おおンおおンと泣いとりました。<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>ァ何処だときくと、あつちだ<ruby><rb>出雲崎</rb><rt>いづもざき</rt></ruby>だと指さすですが、どしてこんなとけェ来たかと<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いても、何とも返答しません。暗うならんうちに家い帰れといつても、おおンおおンと泣いてをるばつかですから、つれて来ました。<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>も何処でぬぎすてたんだか、はだしでした。」

さういつてれふしは、お礼に出された一ぱいのお酒と仔鹿の肉を頂くと帰つていつた。

栄蔵は、お母さんに抱かれるやうにして、お客さん達のゐない部屋につれてゆかれた。

まるで魂をぬかれた人間のやうに、栄蔵はうつろな眼をしてゐた。二、三ときまへ着せかへて貰つたよい着物は、潮と汗でぐつしより<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ、縫目にはいつぱい砂がはいつてゐた。ほそつこい白い足は、<ruby><rb>貝殻</rb><rt>かひがら</rt></ruby>や小石の角で切られたのか、傷だらけであつた。

お母さんは驚きと悲しみでおろおろした。

「栄坊ちやん、お前はどうしたの。」

栄蔵は、うつろな眼でお母さんの眼をじつと見てゐて、どこかがひどく痛むやうに、顔をゆがめるばかりだつた。

ほんたうに栄蔵の心は痛んでゐた。栄蔵はしみじみ悲しかつた。何といふことがこの世にはあるのだらう。何といふ<ruby><rb>無慚</rb><rt>むざん</rt></ruby>なことを人間はするものなのだらう。……

<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>のやうな苦しみが、栄蔵の心を過ぎていつたあとだつたけれど、さらにまた繰り返し繰り返し心は痛んだ。

やがてお<ruby><rb>日待</rb><rt>ひまち</rt></ruby>の人々は帰つていつて、家中の者が寝てしまふ。夜は深くなる。

うとうと眠りかけたお母さんは、しくしく鼻をすする音に、また眼をさまされた。

「栄坊、お前は泣いてゐるのね。」

「…………。」

浪の音がするばかりで、世間はしんと寝しづまつてゐるのに、まだ栄蔵はしくしく泣いてゐる。

お母さんは、<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>の行燈の火を太くした。部屋の中が明るくなつた。

栄蔵は眼をこすりながら、体を起してふとんの上に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>つた。小さい<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>をきちんと<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>へて。

「お母さんにいつてごらん。お母さんなら何でもいふもんですよ。」

栄蔵は眼をしばたたいて、いはうかいふまいか迷つてゐた。

そして、

「母ちやん、鹿の仔を殺したんです。」

と一声いふと、ふとんの上に木のやうに倒れ、ふとんを<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んで泣き声を抑へた。

お母さんは、長い間行燈の光の下で波うつてゐる栄蔵の肩を見つめてゐたが、やがて栄蔵の体をかき起した。

そして栄蔵の、涙に疲れた眼の、奥の奥の深い色を見たとき、栄蔵のほんたうの悲しみが、お母さんにわかつた。

お母さんには、もういふ言葉がなかつた。自分も泣きながら、やさしく栄蔵の背をさすつてゐるだけだつた。

## 三　敵討の話

「よし、それぢや今日は、一つお話をきかせてやらう。」

と、年とつたお坊さんがいつた。広い境内を掃くのを、栄蔵や金ちやんが手伝つてあげると、このお坊さんは喜んで、いつも<ruby><rb>檀家</rb><rt>だんか</rt></ruby>から頂いた<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんぢゆう</rt></ruby>や<ruby><rb>落雁</rb><rt>らくがん</rt></ruby>をくれるのであつた。しかし今日は、栄蔵と金ちやんが汗ばんだほど一生懸命に手伝つてあげたのに、お菓子をくれるといはずに、お話をしてくれるといふのである。

なあんだ、つまらない、といふ顔を金ちやんがした。栄蔵もどちらかといへば、お饅頭の方がよかつた。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>ならお坊さんのお話といふのは、この世で<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>をいふと、あの世で<ruby><rb>閻魔</rb><rt>えんま</rt></ruby>さんに、舌べろを<ruby><rb>釘抜</rb><rt>くぎぬき</rt></ruby>でひつこぬかれるとか、この世で猫や犬や、鳥なんかを殺すと、あの世で血の池地獄におとされて、苦しめられるといふやうな、夜一人で<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>ひ出すと便所にゆくのが<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>になる話が多かつたからである。

しかし、話なんか聞きたくありませんといふと、いかにもお饅頭がほしさに、お掃除の手伝ひをしたやうに思はれて<ruby><rb>癪</rb><rt>しやく</rt></ruby>だから、二人は、<ruby><rb>大公孫樹</rb><rt>おほいてふ</rt></ruby>の根方に腰をおろして足をふみはだかつたお坊さんの前に、面白くないやうな顔をして突つ立つてゐた。

秋の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>ざしは温かく和んで、あちらの<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>みたての水盤に水を飲みに来る<ruby><rb>蜂</rb><rt>はち</rt></ruby>が、金色の糸をひいたやうに光つた。

そこでお坊さんは話しはじめた。

その話はかうだ。

昔、ひとりの旅人が旅をしてゐた。

その人はひとりぼつちで旅をしてゐた。

雨が降つても風が吹いても旅をしてゐた。

ひるまは歩いてゆき、夜は<ruby><rb>辻堂</rb><rt>つじどう</rt></ruby>の中や、家の<ruby><rb>軒端</rb><rt>のきば</rt></ruby>や、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>づみのかげで眠つた。

まるで空を流れる雲のやうに、あてどもなく旅をしていつた。

お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>が<ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>くと、悪いこととは知りながら、よその<ruby><rb>柿</rb><rt>かき</rt></ruby>の実をもいだり、よその畑の芋をほつたりしてお腹をみたした。もつと悪いことには、番人のゐない水車小屋からよそのお米をかき出してご飯を炊いた。

彼は<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>のやうに、ぼろぼろの着物を着、手足は<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>と<ruby><rb>挨</rb><rt>ほこり</rt></ruby>と日焼けのために黒かつた。

子供達は彼を見ると石を投げようとした。しかし、彼の眼の色が鋭かつたので、ふりあげた腕をおろした。

渡し守は、彼が渡し舟に乗るのを<ruby><rb>辞</rb><rt>ことわ</rt></ruby>らうとした。しかし、彼の腰にさしてゐる刀が<ruby><rb>恐</rb><rt>こは</rt></ruby>かつたので、黙つて向かふ岸へ渡してやつた。

彼はくたびれると草をしいて休んだ。<ruby><rb>咽頭</rb><rt>のど</rt></ruby>が乾くと、岩の下の<ruby><rb>清水</rb><rt>しみづ</rt></ruby>を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>つて飲んだ。

彼はさうして、はてしもなく旅をしていつた。

何故その人はそんな旅をしてゐたのだらう。それはかうだ。その人には以前兄さんがあつた。兄さんは笛の名人だつたので殿様に愛されてゐた。しかしそこへ、別の笛の名人が現れた。そして別の笛の名人の方が、ずつと上手に笛を吹いた。そこで殿様の愛は別の笛の名人の上に移つてしまつた。兄さんは大層その笛の名人を恨んだ。或月の美しい晩、兄さんはその笛の名人を待ち伏せて殺さうとした。二人は刀をぬきあつて闘つた。しかし反対に、兄さんの方が殺されてしまつた。そして別の笛の名人は、何処かへ行方をくらました。武士の家のしきたりでは、兄さんが殺されると、弟が兄さんの<ruby><rb>仇敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討たねばならないのだつた。さういふわけで、その弟は仇敵を討つための旅をしてゐたのである。

しかし、仇敵はどこに何をしてゐるのか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかつた。日本は広くて村や町は<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>あり、人間は沢山住んでゐた。沢山の人の中から一人の仇敵を探しだすのは、骨の折れる仕事だつた。八年も九年も彼は探しまはつてゐた。

或年の秋の或日、その武士は尋ね尋ねて遂に<ruby><rb>京都</rb><rt>きやうと</rt></ruby>にやつて来た。京都は大きい都で<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き来する人が多かつた。この大勢の人の中に、もしかすると探してゐる仇敵がゐるかも知れない、とその武士は思つた。

そこで武士は大路に面した家に宿をとつた。そして二階の窓から通を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めてゐた。

ちやうど今日のやうな、秋の陽ざしの静かな日で、武士の見下してゐる都大路には、往き来の人の間に、黄色い<ruby><rb>蝶々</rb><rt>てふてふ</rt></ruby>が舞つてゐた。

ふと武士は、くびが<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>くなつたので、何気なく手を<ruby><rb>廻</rb><rt>まは</rt></ruby>してそこを<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>くと、ぽろりと板の上に落ちたものがある。

米粒の小さいやうなもので、こまかいこまかい足が生えてゐて、陽のさす方へうぢうぢと<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>つてゆく。それは<ruby><rb>虱</rb><rt>しらみ</rt></ruby>であつた。

武士はすぐ<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>をあてて<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>さうとしたが、ふと思ひなほして<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>に拾ひとつた。

しみじみと虱を見てゐると、過去つた旅の十年間が<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>はれるのであつた。もとは清潔な着物を着て、よい<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>を送つてゐた。それが<ruby><rb>一旦</rb><rt>いつたん</rt></ruby>兄さんがつまらない心を起して返り討ちにあつてから、<ruby><rb>落魄</rb><rt>らくはく</rt></ruby>の<ruby><rb>一途</rb><rt>いちづ</rt></ruby>を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りはじめた。風の中の<ruby><rb>落葉</rb><rt>おちば</rt></ruby>のやうに、あちらに舞ひ、こちらにころがりしてゐるうちに、路用はだんだんなくなり、ひどい生き方に落ちて来てしまつた。こんな虱なんかに、いつか親しむやうになつてしまつた。さてこの生活がいつ終になるのだらう。仇敵にいつめぐりあへるのだらう。仇敵にめぐりあふまで、これから先何年、雨風の中を歩きまはるのだらう。年とり、腰がまがり、頭が白くなるまで歩かねばならぬのだらうか。一体これが人生なのか。人生といふのはそんなものだらうか……。

武士はこんな風に考へてゐても仕方がなかつたので、掌の虱を始末することにした。

小づかを抜いて、柱の一角を小さくゑぐり、穴をあけた。そして中へ虱を入れると、削りとつた<ruby><rb>木屑</rb><rt>きくづ</rt></ruby>で穴をふさいでおいたのである。

ここまで話すと、お坊さんは息をつぐためにちよつと休んだ。金ちやんは話を熱心にきかなかつた。話などは退屈なものときめてゐた。話は早く終れば終る程よいと思つてゐた。そこでお坊さんがちよつと休むと、もうその話は終つたものと早合点して「あはあ。」と、つまらない話をきいた少年がよくいふ言葉を発してしまつた。

しかし、栄蔵は深くその話にひきこまれた。それはいつもお坊さんがきかしてくれる閻魔さんや地獄の話とは違ふ。この話の中には何かひきつけるものがある。栄蔵はもつと話の先がききたかつた。そして、この話がずつと長くて、なかなか終らねばよいと思つた。話の好きな少年は話が早く終ることを好まない。話が終つてしまつても、それから先はどうなつたかききたがるほどである。そして大人がきかしてくれないときは、自分で想像していろいろ考へて見るほどである。

さてお坊さんは、話を続けた。

その武士は京都にしばらくとどまつて仇敵を探したけれども、仇敵はやはり見つからなかつた。

そこでまた田舎へいつた。

一年の間、田舎の村々をへめぐつた。

そして一年の後、武士は再び京都にやつて来た。今度京都にやつて来たのは、大体、仇敵が京都にゐるといふ見当がついたからであつた。或<ruby><rb>旅商人</rb><rt>たびあきんど</rt></ruby>が、京都で笛のうまい人を見たといつた。よくきいて見ると、それはどうやら兄さんの仇敵らしかつた。武士は消えかかつた勇気を取返し、刀を研いで京都にのぼつて来たのである。

京都では、武士はまた去年の家に宿をとつた。去年のやうに二階のてすりに<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れて、秋の陽の一ぱいさしてゐる大路を見おろしてゐた。

沢山の人が静かに往きかつてゐた。こんどこそ、これらの人々の中に、めざす仇敵がゐるのだと武士は思つた。仇敵をうてば、もう乞食のやうな生活をやめるのだと思つた。何といふ長い<ruby><rb>歳月</rb><rt>としつき</rt></ruby>だつたらう。何といふつらい毎日だつたらう……。

ふと武士は去年の虱を憶ひ出した。あの虱はもう死んでしまつたらうか。

武士は柱を眺めた。すると去年、虱を閉ぢこめておいた箇所が見つかつた。あの時から一度も穴のふたは、とられなかつたやうに見える。

武士はふたをこじり出して見ると、中に去年の虱は、小さい体が一層小さくなつて死んでゐた。

一年間も何も<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べずにゐたのだから、虫が死ぬのは当りまへだと思つて、武士は虱の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>を掌にのせた。そしてじつと眺めた。

温い陽ざしにあてて、よく見てゐると、虱のこまかい足がかすかに動いた。虱のしなびた小さい体の中に、まだ<ruby><rb>僅</rb><rt>わづ</rt></ruby>かに命が残つてゐたのである。

そこで武士は面白くなり、腕をまくつて、柔らかなところに虱をのせて見た。

虱は<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れはてた人のやうに、のろのろ動いてゐたが、やがて武士は自分の腕が<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>くなるのを覚えた。虱が血を吸ひ始めたことが解つた。

「私は一年間お前を苦しめたのだから、しばらく我慢して吸はせてやらう。満足するまで吸ふがよいぞ。」

さう虱にいひきかせながら、武士は痒さをじつと<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>へてゐた。

やがて虱の白い体が、血の色にあからんで来た。虱は充分吸つたのである。

そこで武士は、虱をぷつと吹きとばした。虱は何処かへかくれてしまつた。

その夜武士は、旅の疲れの深い<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむり</rt></ruby>から、腕の痒さのために<ruby><rb>醒</rb><rt>さま</rt></ruby>されてしまつた。武士は昼間虱に吸はせた箇所をぼりぼりと<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いた。

掻いても掻いても痒さは<ruby><rb>癒</rb><rt>なほ</rt></ruby>らなかつた。それどころか、掻けば掻くほど痒さは広がつた。

掻いたあとは、赤くみみずのやうに<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れ上り、それが腕全体を<ruby><rb>掩</rb><rt>おほ</rt></ruby>ひ、やがては体にまで及んだ。

異様な物音に驚いた宿の主人が、二階に上つて見た時には、体中の腫れた武士が、体をひつかきむしりながらうめきながら、ころげまはつてゐた。

「これはまァどうしたのですか。」

と宿の主人は<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れていつた。

「医者を呼べッ。」

と病人はうめいた。

すぐ医者はやつて来た。医者は薬を練つて病人の体中にべたべたと塗つた。そして病人がまた掻くことを防ぐため、両手を縛つておいた。

七日間武士は、医者の治療を受けて全快した。それはよい医者であつた。この医者がゐなかつたら、武士は痒さに自分の体をひつかき破つて、遂には命を落としてゐたらう。武士は深く医者に感謝した。

その薬は<ruby><rb>効目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>がいちじるしかつただけに、値段も高かつた。武士は身につけてゐるお金を全部畳の上に並べて見たが、薬の代の半分にもならなかつた。

武士は家もなかつたし、京都には<ruby><rb>知合</rb><rt>しりあひ</rt></ruby>もなかつた。売つてお金になるのは刀だけであつた。が、仇敵を討つための道具をどうして手離すことが出来よう。武士はどうしたものかと途方にくれた。

そこで医者に逐一わけを話した。自分は十年前に死を遂げた兄さんの仇敵を尋ねてゐる。その仇敵もここ数日のうちに探し出して討ちとる目安がついた。さうすれば<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>へ帰つて殿様に再び仕へることが出来る……。

「さういふわけですから、しばらく治療代を貸しておいて頂きたい。」

と武士は医者に頼んだ。

医者は黙つてきいてゐたが、

「私は苦しんでゐる人を救つてあげるのが商売です。昔から医は仁術と申します。もしあなたが、ほんたうに貧乏でお金がないのなら、薬は無料で進呈してもよろしい。しかし、あなたは今仇敵を討つと<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>いました。仇敵を討つといふのは人を殺すことでせう。どういふ深い理由があるのかは知りませんが、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、人を殺すのは悪いことです。お<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めになつたらどうですか。私もあなたを救つてあげました。あなたも仇敵を救つてあげなさい。それなら私もあなたの治療代をただにしてさしあげませう。」

といつた。

武士は黙つて<ruby><rb>頷</rb><rt>うなづ</rt></ruby>いた。心の中では医者のいふことなど聞いてゐはしなかつた。十年の間<ruby><rb>艱難辛苦</rb><rt>かんなんしんく</rt></ruby>して来て、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>くつきとめられさうになつた仇敵を、今ここで許してやることなどどうして出来るものかと思つてゐた。しかし医者のいふことなどどうでもよかつた。ただこの場をうまく<ruby><rb>免</rb><rt>のが</rt></ruby>れたかつた。そこでいかにも医者の言葉を承知したやうなふりをした。

医者は自分のいふことをきいて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>へたと思つたので喜んだのである。結局、二人の命を救つたことになる、と心の善い医者は思ひながら帰つていつた。

まんまと医者を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>した武士は、一人になるとぺろりと舌を出して<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「虱でさへも仇敵を討つために、やせさらぼうて生きてゐた。魂のない、<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>のやうに小さな一匹の虫けらさへが、さうなのだ。まして万物の霊長たる人間が、どうして仇敵を討たずに許してやることなど出来ようぞ。」

さうはいふものの、心の善良な医者を騙したことは、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>か武士の心を寂しくした。

<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>から<ruby><rb>探索</rb><rt>さぐり</rt></ruby>が再び始つた。武士は道でゆきあふ人々の顔を、いちいちしらべるやうに見た。裏通の深まつた家の奥を一軒一軒<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。今日は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>の縁日だとか、どこのお祭だといふ日には、きつとそこへ出掛けて行つた。さういふところへは人が沢山出たから、その中に仇敵がゐるかと思つたのである。

一月程すぎたが、相手は見つからなかつた。武士はそろそろ失望しかけた。旅商人のいつたことは嘘だつたのか知れない。

と或日の夕方、武士は、都の外の寂しい野原で道に迷つてしまつた。人に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>つたら道をきかうと思つてぶらぶらと歩いてゐた。

風のない夕方で、どこかに水の音がしてゐた。

日が暮れはてて<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>がおりてくると、昼間から空にかかつてゐた月がかすかに光り出した。あたりの尾花がその光をともして、ふつふつとうかんでゐた。

すると、どこからか笛の音が流れて来た。

笛の音のする方へ武士は歩いていつた。

笛の音は細く美しく澄んでゐて、武士はきいてゐると心が洗はれるやうな気がした。この世には様々の汚いものや見苦しいものや、病気その他の苦しみがあるけれども、それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかは</rt></ruby>らず、この世は美しく人間はいいものであるといふことを、笛の音はしみじみときく人に思はせた。武士は探してゐる仇敵が笛の名人であつたといふことを落したやうに忘れてゐた。

<ruby><rb>藪蔭</rb><rt>やぶかげ</rt></ruby>に小さい家があつて、そこから笛の音は流れ出してゐた。

<ruby><rb>垣根</rb><rt>かきね</rt></ruby>の外から<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見ると、家の中には、まだ<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がついてなくて、縁側の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すのこ</span>の上で武士風の男が一心に笛を吹いてゐた。

武士はすぐに、自分の仇敵が笛の名人であることを思ひ出した。そして、まさしく今無心に笛を吹いてゐる男こそ、その仇敵であることが解つた。

これが十年間、自分の探し求めてゐた仇敵なのか。武士は不思議だつた。昨日まで、見つけ出したら、有無をいはせず斬りつけてやらうと、歯がみして思つてゐたあの<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい憎しみが、今その仇敵を前にしては、少しも起きてこないのである。

しかし、討たねばならない。武士たるものの義務である。武士は、刀をすぐぬけるやうに準備した。

道に迷つて来た者の風をして、武士は庭へはいつていつた。

「どなたですか。」

と相手は笛を吹きやめてきいた。

「道に迷つて困りはてました。都へ帰る者です。疲れましたから、少し休ませて頂きたい。」

と武士はいつた。

「さあ、どうぞ。」

と笛吹はいつて、少し退いて場所をあけた。

武士はそこに腰をおろして、

「たいそう御堪能と拝しました。」

と相手の笛の<ruby><rb>上手</rb><rt>うま</rt></ruby>いことをほめた。

「いいえ、未熟者です。」

と相手は<ruby><rb>羞</rb><rt>はづか</rt></ruby>しさうにいつた。

二人はしばらく黙つてゐた。<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>を見て斬らうと武士は考へてゐた。

すると笛吹は眼を細くして外の方を見ながら、

「あそこに、ぼうと白いものがあるのは何でせう。」

ときいた。

武士はそつちを見た。家の前から、向かふへ高くなつて行つてる道が、月の光で白んでゐるのであつた。

「眼がお悪いのですか。」

と武士は驚いて<ruby><rb>訊</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねた。

「はい、もう長い間わづらつてゐます。いろいろ医者の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てあて</span>も受けましたが、悪くなるばかりです。ほんたうの<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>になるのも<ruby><rb>直</rb><rt>ぢき</rt></ruby>だと思ひます。」

笛吹がうつむき加減にしてゐる顔を見ながら、武士は<ruby><rb>可哀</rb><rt>かはい</rt></ruby>さうだと思つた。

「<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>も世話してくれる者はないのですか。」

と武士はきいた。

「ございません。私の方からお<ruby><rb>辞</rb><rt>ことわ</rt></ruby>りしました。これでいいのです。私は十年も昔、人様にいはれない悪いことをしましたので、その報いはみな受けねばなりません。」

私の兄を殺したことをいつてゐるのだ、と武士は思つた。

「あなたも笛の音をお好きのやうに見受けました。下手ではございますが、も少しお聞かせしませう。今吹いてゐた曲を終へるまで。」

とやがて笛吹は話をかへていつた。

それから笛はまた、この世やこの世にすむ人々の美しいことをうたひ始めた。

斬るなら今だ、今が一番よい時だと思つて、武士は刀をぎゆつと握りしめた。

笛吹は無心に吹きつづけてゐた。月の光がよく<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>かれた横笛の上に細く落ちて、こまかく<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>へてゐた。

何度も斬りつけようとあせつたが、武士は刀をどうしても抜けなかつた。

武士は自分のあさましさに気づいた。虱は<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしう</rt></ruby>せんがために、一年間何も<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>はずに生きのびてゐた。自分もまた復讐せんがために、今この無心に笛を吹いてゐる、心の美しい、眼の不自由な人を殺さうとしてゐる。何といふ情ないことだらう。自分と虱と何の違ひがあらう。

その上、自分にはほんたうにその人を斬る<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>があるだらうか。なる程兄さんは殺された。しかし、兄さんも悪い点はなかつたか。殿様の<ruby><rb>寵愛</rb><rt>ちようあい</rt></ruby>を奪はれたからといつて、相手に斬りつけたのは兄さんの間違ひではなかつたか。

武士は薬代をただにしてくれるとき医者がいつた言葉を憶ひ出した。――私はあなたを救つてあげました。あなたもあなたの仇敵を救つてあげなさい……。

さうだ、私はこの人を斬るのを止さう、と武士は<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>の中でいつた。そして気取られないやう、そつと庭から出ていつた。

月の光の落ちてゐる白い細道をのぼつてゆきながら、武士は笛の音をきいた。笛の音はなほも人の世の美しさをうたひ、人の世では皆が愛し合はねばならぬことをうたつてゐた。自分はよいことをしたと武士は思つた。するとひとりでに泣けて来た。

その時から、武士は生活の<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>を変へねばならなかつた。もう自分には探し求める人がなかつた。<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>へ帰つても、仇敵を討たなかつた彼は仕官出来ないだらう。

これからどうして生きてゆかうかと、しばらく武士は迷つたが、彼のやうな身よりも家もない人が、よく辿る道にしたがつて、僧侶になつた。ちやうどその時分、都の近くの或橋が流され、人々が難渋してゐることを知つて、彼は橋をかける費用をあつめるため、人々の喜捨を請ひ歩いた。

仇敵を探し出すため、さすらつたやうに、彼は人々の難儀を救ふ費用をあつめるため、あちらこちらさまよつたのである。

年とつたお坊さんの話はこれで終つた。

栄蔵は話に深くひきこまれてゐたので、終つてもしばらくは夢見るやうな眼で、お坊さんの前に立つてゐた。

栄蔵の眼には、まだ青い月夜が見えてをり、その耳には、人の世の美しさをうたふ横笛の音が聞えてゐた。

仇敵を討つ<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だつた人が討つのをやめて、仇敵の家を出てゆきながら、自分はいいことをしたと思つて涙をこぼした、といふことをきいた時、栄蔵もつい貰ひ泣きをした。その涙がまだ彼の眼から乾かなかつた。その人はほんたうに何といふよいことをしたらう。栄蔵はその人の<ruby><rb>行</rb><rt>おこなひ</rt></ruby>に感動させられたので、もしも今眼の前にその人がゐるなら、その人に<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行きたいと思つた。

お寺の門から外に出ると、空には日暮の<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>色が<ruby><rb>匂</rb><rt>にほ</rt></ruby>つてゐた。ほんたうに、この世は美しいと栄蔵は思つた。

すると、つれの金ちやんが、

「面白かつたね。そいでも、饅頭の方がいいよ。」

といつた。

栄蔵は黙つてゐた。栄蔵には饅頭を十貰ふより、あの話の方がよかつたと思へた。

## 四　鰈

栄蔵には妙な癖が一つあつた。お父さんに<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られたりすると、返事をしないで、上目使ひに相手をじつと見てゐるのである。

それはちよつとした、変な癖だ。しかしどんな癖にもよく考へて見ると、たいてい何か<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>があるものである。

栄蔵は<ruby><rb>穏和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しくて体も強くなかつた。子供達はよく栄蔵を仲間はづれにした。そんなことが度重なるうちに、栄蔵は上目使ひをする癖がついてしまつたのだらう。ちやうど、家で叱られる度に頭を殴られる子供が、学校で先生から軽く<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>められる時でも、つい手を上げて頭を、かばはうとするやうになるのと同じである。

栄蔵は自分で、こんな癖はよくないことを承知してゐるのだが、しよつちゆうお友達から<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>られたり、笑はれたりするものだから、なかなかその癖はなほらなかつた。

或日お父さんが、何かちよつとしたことで栄蔵をたしなめた時にも、この悪い癖が出てしまつた。栄蔵は黙つて突つ立つて、上目使ひにお父さんの顔を見てゐた。

お父さんはいつもは、いい人だけれど、どうかして浮かぬ顔でもしてゐられる時は、大層怒りつぽくなるので、その日も気短かにかういつて<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>つた。

「何だ。親に向かつてそんな眼をする<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>があるか。そんな眼で親を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>む奴は、今に<ruby><rb>鰈</rb><rt>かれひ</rt></ruby>になつてしまふから見とれつ。」

栄蔵は眼を伏せた。何か思ひごとのある時のお父さんから、<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じやけん</rt></ruby>な口のきき方で叱られるといつも栄蔵は、情けない気がするのだつた。そしてお父さんが恨めしくさへなるのだつた。今日もお父さんは、さういつたまま、もうお前なんかに口をきくのも<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>だといふやうに、奥へはいつてしまつた。栄蔵はしばらくお父さんが、うしろに閉めた<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を見つめてゐたが、急に<ruby><rb>踵</rb><rt>くびす</rt></ruby>を返すと、ぷいと家を出ていつた。

家を出て来ても、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へゆく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>もなかつた。ただ胸の中が不愉快だつた。

ちよつとの間、<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かぢ</rt></ruby>屋の前に立つてゐた。いつもは鍛冶屋の仕事は、いつまで見てゐても面白いのだ。しかし今日はそれもつまらなく見える。

ふと、さつきお父さんが「親を睨むと鰈になる。」といつた言葉を<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>ひ出した。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、はじめそんなことは信じてゐなかつた。大人は時々ああいふことをいつて<ruby><rb>嚇</rb><rt>おどか</rt></ruby>すのだと思つた。例へば、<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>をつくと死んでから、<ruby><rb>閻魔</rb><rt>えんま</rt></ruby>さんに舌をぬかれるといつたり、<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>で銭をひろふと、<ruby><rb>厄病</rb><rt>やくびやう</rt></ruby>が家へやつて来る、といつたりするのである。

しかしそのうちに、あれはほんたうなことかも知れないと思へて来た。といふのは、栄蔵のお父さんは、今まで嘘を栄蔵にいつたことが無かつたからだ。

――きつとほんたうなのだ。して見るとこれは大変なことである。今にも栄蔵の体が、魚屋やれふしがよく売りに来る、あの平たい鰈になつてしまふかも知れない。いや、もうなつてゐるのではあるまいか。栄蔵は<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて自分の足を見た。幸ひなことにまだ人間の足をしてゐる。しかし、もううかうか遊んでゐることは出来ない。こんな道の<ruby><rb>真中</rb><rt>まんなか</rt></ruby>などで鰈になつたら、ちやうど、れふしの<ruby><rb>魚籠</rb><rt>びく</rt></ruby>から、はね出した鰈のやうに、砂の上でぺんぺん跳ねてゐなければなるまい。さうすれば、その辺の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のら</span>猫が見つけて、<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べてしまふだらう。たとひ猫の歯をのがれたにしても、道を通る馬の足か、車の輪でぺしやんこに<ruby><rb>轢</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれてしまふだらう。これは、早く海のところへ行かねばならない。

栄蔵は、そこで海岸の方へ足を向けた。

海は<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>いでゐて、静かな海面に<ruby><rb>鮹</rb><rt>たこ</rt></ruby>をとる舟が三、四<ruby><rb>艘</rb><rt>さう</rt></ruby>うかんでゐた。

栄蔵は岩のある所を選んだ。岩が寄りあつて、澄んだ美しい水が、そのすそをひたしてゐた。ここまで来ると、もう鰈になつても安心だと栄蔵は思つた。鰈になつたら、すぐこの明かるい美しい水に、とびこめばよいのである。誰かきたら、つつと岩かげに隠れてしまへば、捕まへられる心配もない。

ところで、自分が鰈になつたなら、それからどういふことになるだらう、と栄蔵は考へて見た。鰈といつても、きつと小さな鰈だらう。ちやうど栄蔵の<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>位のものだらう。何しろ栄蔵は子供なのだから。そんな小さな鰈は、こんなよく凪いだ日ならば、ここの岩間で遊んでゐてもいいけれど、風が強くて波が激しい日には何処にゐるんだらう。どどォンどどォンと<ruby><rb>牡牛</rb><rt>をうし</rt></ruby>のやうな波が、この岩にぶつかつて、真白になつてとびちるとき、その辺にうろうろしてゐるなら、岩の面に<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけられて、すぐ死んでしまふだらう。それが嫌なら、あの暗緑色の深いところへ、はいつてゆかねばなるまい。あそこには気味の悪い<ruby><rb>海月</rb><rt>くらげ</rt></ruby>や鮹や、恐しい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんかう</span>や、<ruby><rb>鰐</rb><rt>わに</rt></ruby>ざめなんかひそんでゐるだらう。栄蔵の鰈なんか、ぱくりと一口で喰べられてしまふだらう。さうすると栄蔵のお父さんや、お母さんは、いつまで栄蔵を待つてゐても、栄蔵は帰つて来ない。二人はどんなにか心配するだらう。松さんや他の下男に命じて、栄蔵を探させるだらう。それでも<ruby><rb>猶</rb><rt>なほ</rt></ruby>、栄蔵は見つからない。何しろ栄蔵は鰈になつて、その上鰐ざめに<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>はれてしまつたのだから。お父さん、お母さんは、嘆き悲しむに違ひない。お父さんは殊に、栄蔵をあんなに厳しく叱りつけたことを、後悔されるに違ひない。

栄蔵はお父さんが、後悔されることを思ふと、いつそ鰈になつて、鰐ざめに喰はれて見たいやうな気もした。

栄蔵の胸の中には、奇妙な気持が一ぱいにつまつてゐた。そして、今に鰈になるかなるかと待つてゐた。

しかし、人間の子が鰈の子になるのは、なかなか<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いことではない。やがて日が暮れて夕方がやつて来た。空が<ruby><rb>夕映</rb><rt>ゆふばえ</rt></ruby>で<ruby><rb>茜色</rb><rt>あかねいろ</rt></ruby>になり、空の茜が海にうつつて、海もあかくなつた。

もうきつとお母さんが「おや、栄坊が見えませんが、どうしたんでせう。」と<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>つてゐる時分だと栄蔵は思つた。さうするとお父さんがびつくりしていふ。「何だつて。栄坊がゐない？　そりや変だ。さつき私が叱りつけたから、悲しくなつて何処かへいつてしまつたのだらうか。」「あなたがあんまり<ruby><rb>強</rb><rt>きつ</rt></ruby>くお叱りになるから、こんなことになるんです。あの子は気が小さいから、優しくいつてきかせなければ、<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>なんですよ。」とお母さんがいふ。「松、ちよつと栄坊を探してきてくれ。」とお父さんが松さんに頼む。<ruby><rb>割木</rb><rt>わりき</rt></ruby>を割つてゐた松さんは、「へえい。」といつて栄蔵を探しに出る。初め金ちやんの家へ探しにゆくが、金ちやんは「今日は一ぺんも栄坊ちやんと遊ばんもん。」といふ。それから松さんは、勝ちやんの家へゆく。勝ちやんも知らんといふ。あつちこつちの家を探すが、栄蔵は見つからない。そこで松さんは、とうとう探ねあぐんで海岸へやつて来る……と、栄蔵は、<ruby><rb>岩蔭</rb><rt>いはかげ</rt></ruby>にしやがんでゐて空想した。

ところが栄蔵の家で起つたことは、大体栄蔵のその空想の通りだつた。で、松さんは海岸へやつて来た。

空と海の茜が消えて、岩の蔭はもう暗かつた。松さんはそこに、誰かが小さくなつて、ふるへてゐるのを見た。

「や、栄坊さん。」

といつて松さんは、しばらく二の句が出て来なかつた。やがていつものやうに<ruby><rb>剽軽</rb><rt>へうきん</rt></ruby>に、

「いやですよ、こんなとこにひとりで隠れん坊なんかしてゐちや。」

といつた。

栄蔵は松さんを見ると嬉しかつた。しかし、まだ鰈のことを思つてゐたのでかうきいた。

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>、まだ鰈にならんかえ。」

松さんはぷつと噴き出した。

「栄坊さんは<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>でいいなあ。松つあんは足が棒になるほど探しまはりました。さあ、もう帰りませう。お父さんやお母さんが心配してゐますよ。」

そして二人は家へ向かつた。

お父さんとお母さんは、しばらく栄蔵の顔を愛情のこもつた<ruby><rb>眼指</rb><rt>まなざし</rt></ruby>でみつめただけで、何もいはなかつた。何もいはなかつたことが、かへつて二人の心配がどれほど大きかつたかを物語つてゐた。栄蔵は両親に気苦労させたことを、すまないと思ひながらも、何か心に満足を覚えた。そして、その夜床にはいつて、<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りにつくまでの静かな一ときを、今日一日のことを始めから思ひかへして、たのしかつたのであつた。

このちよつとした出来事は、栄蔵の心に長く残つてゐた。栄蔵はのちのちまで、海べの岩蔭に、家の者が探しに来るのを、待つてゐたときの心持をよく覚えてゐた。

そして或日ふつとまたその事を憶ひ出して、つくづく自分の心を、あさましく思つたのは、栄蔵がもう青年になりかけた頃であつた。その時栄蔵は、自分の心の中は、悪いものがはいつてゐることを<ruby><rb>判然</rb><rt>はつきり</rt></ruby>知つた。

――なるほど自分は、お父さんが仰有つた言葉を真に受けて、鰈になるかも知れないと思つた。鰈になつては大変だと考へて、海べへ行つたのである。しかし、海べの岩蔭に隠れて、日が暮れるまでじつとしてゐたのは、自分を叱つたお父さんに、心配させようといふ下心ではなかつたか。さうなのだ。何といふひねくれたいけない心だらう。叱られた時、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>素直に、お父さんごめんなさいと<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>れなかつたのだらう。

――私の心の中には、いけないものがある、取除かねばならない、いけないものがある、と栄蔵は思つたのであつた。

## 五　紙鳶を買ふ銭

栄蔵の上を歳月が流れる。栄蔵は十になり十一になる。そして、やがて十四の春がやつて来る。

小さい者が大きくなるとき、年とつた者はこの世から<ruby><rb>亡</rb><rt>ほろ</rt></ruby>びてゆく。栄蔵のお<ruby><rb>祖父</rb><rt>ぢい</rt></ruby>さん、お<ruby><rb>祖母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんは死んでしまつた。

今では栄蔵は<ruby><rb>橘屋</rb><rt>たちばなや</rt></ruby>で、これから花を開かうとする木のやうに、はなばなしい存在である。栄蔵はその下に<ruby><rb>左衛門</rb><rt>さゑもん</rt></ruby>をはじめ、六人の弟妹を従へてゐる長男である。お父さんの<ruby><rb>以南</rb><rt>いなん</rt></ruby>は栄蔵に学問をさせ<ruby><rb>智識</rb><rt>ちしき</rt></ruby>をつけて、名主の職をつがせねばならないと考へた。

そこで栄蔵は、少し離れた<ruby><rb>地蔵堂町</rb><rt>ぢざうだうまち</rt></ruby><ruby><rb>狭川</rb><rt>せばがは</rt></ruby>の<ruby><rb>子陽</rb><rt>しやう</rt></ruby>といふ先生が開いてゐる<ruby><rb>塾</rb><rt>じゆく</rt></ruby>に通学をはじめる。

<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をはき、用具の包を抱へこんで、少し前こごみになつて歩く<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた少年栄蔵の姿が、海沿ひの街道を毎日<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き来するのを出雲崎の人々は見た。

塾には二十人程の生徒があつまつて、先生の<ruby><rb>教</rb><rt>をしへ</rt></ruby>をうける。栄蔵のやうに学問の好きな子もゐるし、学問の<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>ひな子もゐる。嫌ひな子は、うしろの方に席をとりたがるから、すぐわかる。彼等は先生の問をさけることと、<ruby><rb>居眠</rb><rt>ゐねむり</rt></ruby>をすることの便宜から、うしろの席を好むのである。

先生は生徒の方に向かつて、袴の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を開くやうに<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>り、片手に細い<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>をもつて講義をされる。先生の前には台があり、その上には開かれた書物が載つてゐる。生徒らは先生の方を向いて<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>んで坐り、一人一人の前には見台が置いてある。そしてその上には、先生のと同じ書物が開かれてある。かうして、先生のお話は書物に書かれてある文字や、内容について進められてゆく。

栄蔵は<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>の聖人、賢人が書残した書物を読む。それは碁石ほどの大いさの漢字ばかりで書かれてある。人間はこれこれのことをしてはならないとか、これこれの<ruby><rb>行</rb><rt>おこなひ</rt></ruby>をするやうなものは、一緒に話をする資格がないとか、ほんたうの勇気とは、どういふものかとか、君が正しいと思つたことをしないなら、君に意気地がないことにならう、といふやうな<ruby><rb>訓</rb><rt>をしへ</rt></ruby>が、ちよつときけば<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないけれど、よく考へれば解つて来る言葉で述べられてある。それらの訓を栄蔵は、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の<ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>いた人がいくらでも物を<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べるやうに、自分の中へとり入れてゆく。

また栄蔵は、日本の昔の物語や物の歌などを読む。それらは筆のあとの柔かく温かな文字で書かれてあつて、声に出して読むと、ちやうどその字体のやうに、素直であたたかであはれ深い言葉である。様々な話がその中には語られてある。妻や子をなくした男の話、夫をなくした妻やその子供の話、遠くの島へ流された父を、はるばると<ruby><rb>探</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねて行く子供の話、<ruby><rb>飢饉</rb><rt>ききん</rt></ruby>や火事や疫病で一度に大勢の人が死んでいつた話、何となく生きてゐるのが寂しくなつて、他国へあてもなく旅してゆく人の話など……かういふ気の毒な話に、栄蔵はとりわけ心をひかれる。みな六百年も七百年も昔の話だけれど、それらの人々の悲しみや苦しみが、栄蔵にはほんたうによくわかる。胸がいたむ位に。そして栄蔵はかう思ふ。――人間の世界には、昔もこんなに様々悲しみや苦しみがあつた。今もそれはある。そしてこれからもきつとある。それはいつの日になくなるだらう。そして又どうすればなくなるだらう。

成績のよい子なら、誰でもするやうに、栄蔵は家でもよく本を読んだ。今では栄蔵も小さい子供ではないので、弟や妹の守をしたり、お使にやらされたり、そのほかいろいろ仕事があつたけれど、少しの暇を見つけては勉強した。

いつか罰で蔵の中へ閉ぢこめられたとき、二階の箱の中に見つけたあの本――お祖父さんや、お父さんの読んだ<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>の本を、解りやすいのから読んでいつた。解らない文字は字引を見て覚えた。その時分にも字引はあつた。大福帳のやうな形で、さはるとぬくとい紙で出来てゐた。持つと真綿のやうに軽い。

雪が降る日にも栄蔵は勉強した。四月、桜が咲いて庭が明かるい時にも読んだ。<ruby><rb>螢</rb><rt>ほたる</rt></ruby>が窓から迷ひこんで来る夜にも、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の黄色な光の下に本を開いてゐた。

栄蔵は学科がよく出来た。だから先生に愛された。しかし、ここでも栄蔵は仲間はづれにされた。そして、ここにはもう一人、仲間はづれになる子がゐた。それは<ruby><rb>尼</rb><rt>あま</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>瀬</rb><rt>せ</rt></ruby>の町から来てゐる金持の家の子で、<ruby><rb>惣兵衛</rb><rt>そうべゑ</rt></ruby>といふ名だつた。惣兵衛ちやんがみんなから仲間はづれになるのは、お坊ちやん育ちで<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>で、わからずやだつたからである。学科も一番出来なかつた。かうして、人間の世界では、すぐれた者と劣つた者とが、ともに<ruby><rb>爪</rb><rt>つま</rt></ruby>はじきにされることが度々あるものだ。

ところで、いつの間にか栄蔵は、その惣兵衛ちやんと友達になつた。

「お父さんが<ruby><rb>長岡</rb><rt>ながをか</rt></ruby>から、こんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でかい</span><ruby><rb>紙鳶</rb><rt>たこ</rt></ruby>を、買つて来てくれたから見に来なよ。」

と或日、塾から帰るとき、惣兵衛ちやんが栄蔵にいつた。

栄蔵は紙鳶など見たくもなかつたので、

「ふうん。」

と気乗りのしない返事をした。

「ね、来なよ、来なよ。」

と、お友達のない惣兵衛ちやんは、一生懸命にせがんだ。

そこで栄蔵は、紙鳶は見たくなかつたけれど、きつぱり<ruby><rb>辞</rb><rt>ことわ</rt></ruby>ることも出来なかつたので、こんどのお休みに行くといふことにきめた。

その日が来ると天気はよかつた。遠くの山脈には、まだ雪がかむさつてゐたが、<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>は草履でも歩かれる程乾いてゐた。そこらに梅がほのかに<ruby><rb>匂</rb><rt>にほ</rt></ruby>つてゐた。

「尼ヶ瀬の惣ちやんの家へ行つて来ます。」

といつて栄蔵は家を出た。

少しゆくと栄蔵は、紙鳶の大好きな子のことを思ひ出した。ぢき近くの、<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢみ</rt></ruby>の<ruby><rb>仲買商人</rb><rt>なかがひあきんど</rt></ruby>の子の新太郎ちやんである。新太郎ちやんは家が貧しかつたので、立派な紙鳶は持つてゐなかつた。しかし自分で骨を削り、栄蔵にわけて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>つた清書紙のお古をはつて、なかなか上手に紙鳶を作ることが出来た。近くの村などで紙鳶の試合があつたりすると、きつと見に行くのであつた。栄蔵より四つばかり年下で、いつもきたない<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>をしてゐたが、なかなか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きかん</span>気で、紙鳶のことなら何でも知つてるやうな口をきいた。新太郎ちやんのお母さんは、娘だつた時分、栄蔵の家の女中や子守をしてゐた関係で、今でもそのお母さんは、新太郎ちやんをつれて、よく栄蔵の家へ来ることがあつた。栄蔵はこの子が好きであつた。

「さうだ、新太郎ちやんをつれてつてやらう。きつと喜ぶから。」

さう思ひつくと、急に栄蔵は心が弾んで来て、<ruby><rb>足取</rb><rt>あしどり</rt></ruby>も軽くなつて、新太郎ちやんの家へいつた。

新太郎ちやんは、赤ん坊の妹を<ruby><rb>脊負</rb><rt>せお</rt></ruby>つて家の横で、<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>を<ruby><rb>廻</rb><rt>まは</rt></ruby>してゐた。

「新太郎ちやん、尼ヶ瀬へ行かないか。長岡から買つて来た大きな紙鳶を、見せてくれるさうだよ。」

長岡から買つて来た紙鳶といふ言葉は、新太郎ちやんの眼に活気を入れた。長岡は<ruby><rb>越後</rb><rt>ゑちご</rt></ruby>の大きい町で、そこでは立派な紙鳶がつくられたからである。

「その紙鳶、何枚張りだン。」

何枚張りといふのは、紙鳶の大きさを<ruby><rb>表</rb><rt>あらは</rt></ruby>す言葉らしい。そんなことは栄蔵は知らない。

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>知らんけど……ね、行かうよ。」

「うん。」

紙鳶ときいては、新太郎ちやんは、じつとしてゐられない。

すぐ二人は出発した。栄蔵は袴をつけてゐたが、新太郎ちやんは、いつものとほりの<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>だらけの着物で、<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>がちぎれて、ぼうぼうになつた草履をはき、背中には頭中<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おでき</span>の出来た赤ん坊を脊負つてゐた。

行く<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>でも新太郎ちやんは、紙鳶のことばかり話した。そして話に夢中になつてゐるときは、背中の赤ん坊が泣いても、ほつたらかして置き、口を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らして<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しやべ</rt></ruby>るのであつた。

尼ヶ瀬にはいると間もなく道の片側に、二階造りの大きい商家があつた。入口の障子には、太い文字で「呉服太物」と書いてあつた。それが訪ねて来た惣兵衛ちやんの家であつた。

「ここだ」

と栄蔵がいつた。

すると今まで元気だつた新太郎ちやんの顔から、すつと元気がひいていつて、情ないやうな<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほゑみ</rt></ruby>を浮かべた。

新太郎ちやんは、ここの家なら知つてゐたのである。新太郎ちやんのお父さんは、子供のときからここに奉公してゐた。そして<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢみ</rt></ruby>の仲買商人になつた今でも、<ruby><rb>塩沢</rb><rt>しほざは</rt></ruby>とか<ruby><rb>十日町</rb><rt>とをかまち</rt></ruby>とか<ruby><rb>小千谷</rb><rt>をぢや</rt></ruby>といふやうな、越後でも山の方の町や村から縮を買入れて来ると、この呉服問屋で買つて貰つてゐたのである。だから、新太郎ちやん一家にとつては、惣兵衛ちやんの家は御主人といふわけだ。

それで、栄蔵が入口の障子をあけて中へはいつた時も、新太郎ちやんは、人に見られることを<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>ふ野良犬みたいに、向かふの家の軒下を、うろうろしてゐたのである。

「あのう、惣兵衛さんはおいでませんか。」

と栄蔵は店の人にいつた。

やがて惣兵衛ちやんが出て来て、

「そこの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>をくぐつて奥へ来なよ。」

といつた。

栄蔵はまた入口のところへ<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>つて、

「新ちやん、新ちやん。」

と呼んだ。

新ちやんは向かふの家の軒下から、さつきのままの弱々しい微笑で答へた。そして呼んでもなかなか来なかつた。

おしまひに店の人が入口へ来て、新太郎ちやんを見て、

「何だい、新坊ぢやないか。おめェも来たのか。そいぢやはいるがいい。」

といふまで、新太郎ちやんは叱られた野良犬のやうな様子をしてゐた。

そこで新太郎ちやんは、おづおづしながらはいつて来た。バツの悪い顔付をして、体が小さくなつたやうに見えた。栄蔵が<ruby><rb>可哀</rb><rt>かはい</rt></ruby>さうに思つた位に。

二人は土間を通つて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>をくぐつて、奥の方に来た。

栄蔵はそこで、惣ちやんの家のお母さんや、お祖母さんに<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかに迎へられて、すぐ上にあがりなさいといはれた。しかし、みんなは新太郎ちやんのことを、まるで見落としてゐるみたいだつた。

上にあがつた栄蔵は、惣兵衛ちやんにそつと耳打して、

「新ちやんもあげてやりなよ。」

といつた。

惣兵衛ちやんが、お母さんにさういふと、お母さんとお祖母さんは、土間の向かふのはじつこに<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでゐる新太郎ちやんを、じろじろと見て、しばらく何もいはなかつた。

「ありや、家にゐた<ruby><rb>嘉助</rb><rt>かすけ</rt></ruby>の<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>だね。」

とお母さんがいつた。

「え？　嘉助の？　うんあの嘉助んとこの餓鬼かい。」

と眼鏡をかけたお祖母さんが、まだ新太郎ちやんから眼をはなさずにいつた。お祖母さんは、新太郎ちやんの垢で汚れて白くなつた足を見てゐた。栄蔵は、ひどいことをいふ人達だと思つた。

そんな風で、とうとう新太郎ちやんは上にあげて貰へなかつた。でもそれはあまり不都合でもなかつた。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>なら惣兵衛ちやんは栄蔵を縁側の方へつれていつたからである。そして新太郎ちやんは、土間から庭へ出て、縁側へ来ることが出来たからである。

紙鳶はなるほど立派なものであつた。障子の三分の一位の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ます</span>紙鳶で、指で<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>くとぱんぱんと音がするほどよく張られたよい紙に、卵位の眼を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き出して、あごが船の形にしやくれてゐる役者の似顔が、<ruby><rb>匂</rb><rt>にほ</rt></ruby>ふやうな絵具で描かれてあつた。

「ほうォ。」

と新太郎ちやんまで、つい自分の野良犬の地位を忘れて<ruby><rb>歎声</rb><rt>たんせい</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らした程であつた。

「これ、<ruby><rb>鯨</rb><rt>くぢら</rt></ruby>の<ruby><rb>鬚</rb><rt>ひげ</rt></ruby>だよ。」

と惣兵衛ちやんが得意になつて、うしろに着いてゐる<ruby><rb>唸</rb><rt>うなり</rt></ruby>を見せた。

<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>も、紙鳶に<ruby><rb>相応</rb><rt>ふさは</rt></ruby>しい太い<ruby><rb>緒</rb><rt>いと</rt></ruby>だし、それが<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>かれてある<ruby><rb>枠</rb><rt>わく</rt></ruby>も、子供では両手で抱へてゐなければならぬ程、大きな立派なものである。栄蔵には紙鳶の智識はなかつたが、何から何まで立派な紙鳶であると思つた。

惣兵衛ちやんは得意になつて、値段までいつた。それは栄蔵がお正月やお祭のときに、お小使に頂くお<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>の十倍位の価であつた。栄蔵も新太郎ちやんも、ただただもう感じ入つてゐた。

紙鳶の好きな新太郎ちやんは、出来ることなら手を触れさせて貰ひたかつた。骨の工合や、紙の張り加減など、さはつて見なければよく解からぬからである。しかしそれをいひ出す前に、自分のみすぼらしい服装や、背中に負つてゐる赤ん坊のお<ruby><rb>腫物</rb><rt>でき</rt></ruby>のことを、<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>ひ出してしまふのであつた。そこで新太郎ちやんは、黙つてゐるより仕方がなかつた。

ところで、間もなく新太郎ちやんにとつてうまい風向きになつた。その紙鳶をあげて見るため、畠の方へ出掛けることに、話がきまつたのである。

「外へ行つて紙鳶あげて来るよッ。」

と惣兵衛ちやんがお母さんにいつた。

お母さんはびつくりして、

「何をいふんだい。あんな紙鳶が子供にあがるもんかい。あれは家ん中に置いといて見てゐる紙鳶だよ。」

といつた。

しかし惣兵衛ちやんは、きかなかつた。

「あげるよォッ。」

お祖母さんが眼鏡越しに、栄蔵と、土間の方へまはつて来た新太郎ちやんを、じろりと見て、

「惣坊、お前は餓鬼達に<ruby><rb>唆</rb><rt>そその</rt></ruby>かされたんだろ。」

といつた。ひどいことをいふ<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんだと栄蔵は思つた。

どうしても惣兵衛ちやんがいふことをきかないと、<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>にお母さんは許してくれた。

「外へゆくと寒いから、もつと着物を着ておゆき。」

さういつて、惣兵衛ちやんを奥へつれていつた。やがて、惣兵衛ちやんは、綿入羽織や、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちやんちやんこ</span>をきせられ、ほつぽこ<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>をかむせられ、あまり着込んだため両腕がわきへぴつたりつかないので、<ruby><rb>奴凧</rb><rt>やつこだこ</rt></ruby>のやうに外へ突つぱつて現れた。大層大事にされてゐるのだなと、栄蔵は<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しくなつた。

畠へゆくまでは、惣兵衛ちやんの紙鳶だから、惣兵衛ちやんが持つていつた。しかし惣兵衛ちやんは、着物だけでもう充分重かつた。それに紙鳶は大きく扱ひにくかつた。更にその上、畠まで来ると風があつて、よほどしつかり持つてゐないと、大事な紙鳶を奪はれさうになるのである。だから<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>の場所に来るころには、惣兵衛ちやんは疲れてしまつた。ほつぽこ頭巾の下で、はあはあと<ruby><rb>喘</rb><rt>あへ</rt></ruby>いでゐるのが聞えた。

いよいよ紙鳶をあげるだんになると、持主の惣兵衛ちやんは、まるでもう役に立たなかつた。疲れてゐる上に、紙鳶をあげる<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>を知らないのである。

栄蔵にも出来なかつた。

「新太郎ちやんがやるといいよ。」

と栄蔵はいつた。

新太郎ちやんは、<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>を達せられることになつた。しかし、赤ん坊が背中にゐたんではうまく出来ない。赤ん坊を下におろして、栄蔵に持つてゐて貰ふことにした。栄蔵は顔一面のお<ruby><rb>腫物</rb><rt>でき</rt></ruby>の中から、<ruby><rb>可愛</rb><rt>かはい</rt></ruby>らしい眼で見てゐる赤ん坊を預ることは、あまり気がすすまなかつた。でも、嫌だといふことは、栄蔵の性質として出来なかつた。栄蔵は背中を向けて赤ん坊をうけとつた。赤ん坊は軽くて温かである。それは栄蔵の背中を、信頼しきつたもののやうに、<ruby><rb>穏和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しくしてゐる。すると、もう栄蔵の心には、温い愛情が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて来るのであつた。

紙鳶を持つた新太郎ちやんの顔には、その瞬間、生気がさつと流れた。まるで魚が再び水の中へ、入れて貰つたやうな工合だ。新太郎ちやんは、先づ紙鳶のしつぽのあんばいを調べた。それから<ruby><rb>唸</rb><rt>うなり</rt></ruby>や<ruby><rb>緒</rb><rt>いと</rt></ruby>の結び目に、ちよつちよつよ触つた。

専門家である新太郎ちやんの手でも、この紙鳶は、なかなかうまく上らなかつた。なにしろ、これは子供の<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちや</rt></ruby>ではない。大人の紙鳶なのである。

新太郎ちやんは、紙鳶の方を惣兵衛ちやんに持つて貰ひ、自分は緒を持つて、何度もやり直したのち、遂に紙鳶を空にうかばせた。少しあがると大層調子がよかつた。春の風をうけて、ぐんぐんのぼつていつた。

空にあがると、卵のやうな眼を剥き出した役者も、なかなか立派に見える。役者は少しづつ頭をふりながら、向かふに浮いてゐる雲を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでゐる。大したもんだなあと思ひながら、栄蔵と惣兵衛ちやんは、ただ仰いで見てゐるばかりだつた。

新太郎ちやんは、どんどん<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をのばした。役者の立派な顔は、見る見る小さく空の中へ吸ひこまれていつた。かうして見ると空といふものは、随分大きいなあと栄蔵は思つた。惣兵衛ちやんは惣兵衛ちやんで、あれは自分の紙鳶だといふことに気がついた。そこで自分に返して貰はうと、新太郎ちやんの方をふりむいた。その途端大変なことが起つてしまつた。

新太郎ちやんは調子に乗りすぎたのである。風といふものは、地上より空の上の方が、強いといふこと位知つてゐたのである。そんなら彼はこんなに、<ruby><rb>緒</rb><rt>いと</rt></ruby>を伸ばしてしまふべきではなかつたらう。突然、ぐんと役者はひつぱつた。まるで牛のやうな力で。新太郎ちやんは、つんのめつて、畝に足をとられ、転んだ。そして<ruby><rb>緒</rb><rt>いと</rt></ruby>を手放してしまつた。

あつといふ間に起つた出来事なので、栄蔵にしろ惣兵衛ちやんにしろ、どうしやうもなかつた。二人は<ruby><rb>緒</rb><rt>いと</rt></ruby>を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きとる<ruby><rb>枠</rb><rt>わく</rt></ruby>が、<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い<ruby><rb>勢</rb><rt>いきほひ</rt></ruby>で、からんからんと畠の上を跳びながら、走つていくのをぽかんと見てゐた。

新太郎ちやんは、<ruby><rb>跳起</rb><rt>はねお</rt></ruby>きると枠のあとを追つかけた。枠の方が十倍も速かつたが、新太郎ちやんは、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>までも追つていつた。そしてまもなく、紙鳶も新太郎ちやんも小さくなり、やがて紙鳶だけ、見えなくなつてしまつた。

「知らんぜや、知らんぜや。」

と惣兵衛ちやんは、新太郎ちやんがまだ帰つて来ないのに、<ruby><rb>詰</rb><rt>なじ</rt></ruby>つてゐた。

新太郎ちやんが帰つて来るまで、長い間二人は、一足も動かずに立つてゐた。新太郎ちやんが息を切らして、ベソをかきながら<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>つて来ると、惣兵衛ちやんはまたいつた。

「知らんぜや、知らんぜや。」

新太郎ちやんは、ベソをかきながら立つてゐるだけで、<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>りもしなかつた。これは謝罪つたりしていいやうな、<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>つぽけな出来事ではないのである。

「かへせ、かへせ。」

と惣兵衛ちやんがいつた。それは無理な話だと栄蔵は思つたが、何もいふことは出来なかつた。新太郎ちやんは相変らず黙つて立つてゐるだけであつた。

「かへせ。かへさんと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てめえ</span>の<ruby><rb>父</rb><rt>とつ</rt></ruby>つあんにいひつけるぞ。てめえの父つあんは、家にをつた嘉助だらう。嘉助にいひつけるぞォ。」

新太郎ちやんの顔が、ゆがんで涙がぼろぼろとこぼれた。可哀さうだなあと栄蔵は思つた。

役者に逃げてゆかれた三人が、すごすごと畠の道を帰ることになつた。途中まで来ると新太郎ちやんが、さんざん泣いたあとのきつぱりした声で、

「俺、かへすで、お父ちやんにいはんでくれよね。」

といつた。

あんな高価な紙鳶を手に入れるどういふ<ruby><rb>目論見</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>なのか解らなかつたが、その声の中には、きつと返して見せるといふ<ruby><rb>凜</rb><rt>りん</rt></ruby>とした意志の<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめき</rt></ruby>があつた。

銭といふものは、大人が<ruby><rb>儲</rb><rt>まう</rt></ruby>けて大人が使ふのである。だから銭は大人の手から大人の手に渡るのであつて、子供には関係しないのである。時々子供はお使にやらされる場合、一つか二つのお鳥目を持つことが出来る。それが、子供の銭と関係する<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>一つの機会である。

<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>は働かないで、家毎に鳥目を貰つて歩く。あんなことなら、子供にだつて出来さうである。しかし、よく考へて見ると、あれでさへ大人だけのことであつて、子供には出来ない。かりに、子供が一軒の門口に立つて「何かめぐんでやつて下さい。」と乞食らしく上手にいつたとしよう。しかし、その家の人はきつと何もくれないだらう。くれないどころか、この子供は<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたづら</rt></ruby>をするのだと感違ひして、棒でもつて追つぱらふだらう。

乞食でさへ子供には出来ない。それだのに新太郎ちやんは、あの高い紙鳶をちやんと買つて返すといつた。しかもお家のお父さん、お母さんに内証で。一体どうしてするつもりなのだらう。――栄蔵には不思議だつた。

しかし或日、<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>は解けた。

あれからしばらくたつた<ruby><rb>温</rb><rt>あたたか</rt></ruby>い日、栄蔵は勉強に疲れた頭を、海から来る新鮮な風にあてて休めるため、波打際の方へおりていつた。

すると引潮の中に、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>のあたりまではいつた新太郎ちやんが、何か棒のやうなものを、水の中へさしこんで、ちやうど石けりの線をひく時のやうな<ruby><rb>恰好</rb><rt>かつかう</rt></ruby>で、ゆるゆると<ruby><rb>後退</rb><rt>あとじさ</rt></ruby>りしてゐる姿が小さく見えた。今日もやはり赤ん坊の妹を<ruby><rb>脊負</rb><rt>せお</rt></ruby>つて。

何をしてゐるのだらう。

「新太郎ちやァん。」

と栄蔵は口に手をあてて呼んだ。

新太郎ちやんは、顔をあげてこちらを見た。栄蔵をみとめると、にこつと笑つたが、忙しいときに誰でもするやうに、すぐその<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほゑみ</rt></ruby>をひつこめて、また一心に手元の水面をみつめてゐる。

何か捕つてゐるのだらう。

邪魔をしないつもりで、栄蔵が黙つて船にもたれて休んでゐると、間もなく新太郎ちやんが、陸へあがつて来た。棒と思つたのは、<ruby><rb>鉄</rb><rt>かね</rt></ruby>の<ruby><rb>熊手</rb><rt>くまで</rt></ruby>である。

「何を捕つた？」

と栄蔵がきいた。

新太郎ちやんは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にこにこ</span>しながら、そばによつて来て、腰につけてゐる小さい<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を、のぞかせてくれた。中には、<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れてぴんぴんしてゐる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えび</span>が数匹はいつてゐた。

「これどうする？」

新太郎ちやんは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にこにこ</span>してゐて返事をしない。そして、ついて来なよといふやうな顔付をして歩き出した。栄蔵はついていつた。

一軒の船宿のところへ来ると、新太郎ちやんは、ここだよといふやうに、栄蔵の方へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にこにこ</span>と笑つておいて、勝手口からはいつていつた。そして間もなく出て来ると、垢にまみれた<ruby><rb>猿</rb><rt>さる</rt></ruby>みたいな<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>を、ぱつと開いて、真中に四角な穴のあいたお鳥目を一つ見せた。

これで解つた。さうだつたのかと栄蔵は思つた。

それで、もう、どれだけ貯金出来たのだらう。新太郎ちやんはまた目顔で、栄蔵を家へつれていつた。

栄蔵は、背戸口の井戸のところで待たされてゐた。新太郎ちやんは、中へはいつてゆき、やがて出て来ると、あたりに人のゐないのを確めて、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>からそつと出して見せた。<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぜにさし</span>に貫かれて、お鳥目が五つ六つ重なつてゐた。

栄蔵は知つてゐた。あのます紙鳶を買ふには、この十倍ものお<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>が必要であるといふことを。しかし、それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかは</rt></ruby>らず、栄蔵の心には<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>の泉が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>き出した。新太郎ちやんは、きつと、それだけのお銭を自分の手で<ruby><rb>貯</rb><rt>た</rt></ruby>めるだらう。

その日から栄蔵の頭の中には、新太郎ちやんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぜにさし</span>の姿ばかりが、はいつてゐた。新太郎ちやんの顔を見るたびに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぜにさし</span>を見せて貰つた。一つか二つくらゐづつ、その度に銭はふえてゐた。

そんな或日、栄蔵は家のために米を<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。いつも松さんが搗くのだが、ちやうどその時松さんは、足に<ruby><rb>腫物</rb><rt>はれもの</rt></ruby>が出来てゐたので、搗けなかつた。<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れない仕事なので、栄蔵はつらかつた。<ruby><rb>一臼</rb><rt>ひとうす</rt></ruby>搗けた頃には、一日野山を歩きまはつて来たやうに、<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れてしまつた。

すむとお母さんは、

「ぢや、お駄賃をあげよう。」

と栄蔵の大好物の<ruby><rb>石榴</rb><rt>ざくろ</rt></ruby>を二つ出してくれた。

栄蔵は手にうけとつたが、ちよつと考へてお母さんに返した。

お母さんは、いつもと栄蔵の様子が違ふので奇妙に思つた。

「お母さん、あのう……。」

といひ出して、栄蔵はためらつた。

「何ですか。」

「これは弟達にやつて下さい。」

「あの子達には、もうあげたから、いいのですよ。これはあんたの分です。」

「お母さん、わたしは、お<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>が欲しいのです。」

さういつて栄蔵は<ruby><rb>羞</rb><rt>はづか</rt></ruby>しさうにうつむいた。

お母さんは驚いた。栄蔵がお銭をくれなどといつたのは始めてだからだ。お母さんは栄蔵の顔をまじまじと見た。

「本でも買ふのですか。」

「いいえ。」

「それぢや、何にするのです。」

栄蔵はしばらく黙つてゐた。<ruby><rb>下唇</rb><rt>したくちびる</rt></ruby>をもぐもぐ<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みながら。

お母さんの眼には、急に栄蔵が大人になつたやうに見えた。<ruby><rb>穏和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しかつたこの子も、こんなことをいひ出すやうになつたと思つた。

やがて栄蔵は、

「くれないなら、いいんです。」

とちよつと反抗するやうにいつた。

「あげないことはありません。でも何に<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>ふのですか。」

「いひたくないのです。」

お母さんは、またしばらく息子の顔をまじまじと見てゐた。この子を疑ふことは出来ない、と胸の中でいつた。

「どれほど入用？」

「<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>にあげる位で結構です。」

お母さんは、あちらへ行つて、間もなく帰つて来た。そして栄蔵の手に、お鳥目を十ばかりのせた。

「これで間に合ひますか。」

「こんなに乞食にやるんですか。」

お母さんは笑つて、

「でもこのお<ruby><rb>乞食</rb><rt>こも</rt></ruby>さんは、米を搗いてくれたから。」

栄蔵は両手の中へ、こほろぎでも入れたやうに銭を持つて、ちよつと会釈して家を出ていつた。お<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>を持つたことがあまりないので、その持ち方を知らないのであつた。

栄蔵には、まだ一つ心配があつた。勝気な新太郎ちやんが、そのお銭の寄贈を拒んだ上、ぷんぷん怒りはしないかといふことだつた。

「新太郎ちやん、あれどうなつた？」

と栄蔵は、新太郎ちやんの顔を見るときいた。あれといふのは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぜにさし</span>のことである。

新太郎ちやんは、家の中へはいつていつて、大事なものを持つて来た。栄蔵は受けとつて端つこから、かぞへ始めた。新太郎ちやんも、その<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>を見てゐる。

栄蔵は頭をあげて、

「ちよつと、あつち向いてなよ。」

「どして？」

「いいから、ちよつとあつち向いてなよ。あの<ruby><rb>鶏</rb><rt>とり</rt></ruby>を見てなよ。」

新太郎ちやんは、向かふを向いたが、背中の赤ん坊は、お<ruby><rb>腫物</rb><rt>でき</rt></ruby>の少くなつた顔で、栄蔵の方を見てゐる。赤ん坊なら見てゐても構はない。栄蔵は持つて来た鳥目を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぜにさし</span>に一つ一つとほした。

「だいぶん、ふえたね。」

と栄蔵は空とぼけていつた。

新太郎ちやんは、こつちに向きなほつた。そして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぜにさし</span>を受けとると、

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>、栄坊ちやんが今何したか知つとるよ。」

といつた。そして眼をパシパシとやつてうつむいた。

「かにしてね。」

と栄蔵はあやまつた。

新太郎ちやんは、何もいふことが出来なかつた。勝気な田舎の貧しい少年は、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しくても感謝をする言葉を知らないのである。

新太郎ちやんは、黙つて背戸口から家の中へ姿を隠してしまつた。

栄蔵はそれでよかつた。<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぜにさし</span>のお<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>の、増えることが出来たのだから。

新太郎ちやんの努力の、実を結ぶときが遂にやつて来た。新太郎ちやんが栄蔵に応援されながら、苦心に苦心を重ねて、こつそり貯めて来たお鳥目は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぜにさし</span>にいつぱいになつた。

「今からね、長岡へ行つて紙鳶を買つて来るんだ。」

と新太郎ちやんは、背中の赤ん坊をゆすりあげていつた。その顔は輝いてゐた。

「一人？」

と栄蔵はびつくりしてきいた。

「前に父ちやんについて行つたことがあるから、道、知つとるよ。」

さう新太郎ちやんは、平気らしく答へた。

しかし栄蔵は、新太郎ちやんは心細いに違ひないと思つた。真昼、白く光つて続く長い長い道。川を越えたり、丘をまはつたりしてゆく知らない道。それに、知らない村の子供達は、きつとかういつて石を投げつけたりするのだ。「やあい、<ruby><rb>他村</rb><rt>よそむら</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんち</span>、<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんち</span>。」

出来ることなら栄蔵は、ついて行つてやりたかつた。しかしお家の用事で、それが出来なかつた。

「道、間違へちや<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>だよ。」

と栄蔵はいつた。

「うん。」

といつて新太郎ちやんは、すたすたと歩いていつた。そして行つてしまつた。

夕方になつて、栄蔵がお燈明の油を買ひに行つたとき、暗くなりかけた道を向かふから、新太郎ちやんが足をひきずりながら帰つて来た。新太郎ちやんは、やつぱりやり遂げた。大きい紙鳶を、<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>のやうに肩につけて、持つてゐたのである。

「よかつたね。」

と栄蔵がいふと、新太郎ちやんは笑はうとしたが、あまり<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れてゐるので、笑へなかつた。

自分のたやすく送つた半日といふ時間を、新太郎ちやんは、どんなに心と体を労してすごしたか、思ふと栄蔵の胸はいたんだ。

次の日栄蔵は、塾で惣兵衛ちやんに予告した。

「明日、遊びに行つてもいいね。」

「うん、栄坊ちやんなら、いつ来てもいいつて母さんは、いつてゐたよ。」

「ほかの者が行つちやいけない？」

「ううん。母さんは子供が<ruby><rb>嫌</rb><rt>きらひ</rt></ruby>だもんだから、子供が家へ遊びに来ると、頭がやめるつていふのさ。」

「新ちやんも行くよ。」

「新ちやん？」

「ほら、あの新太郎ちやん。」

「新太郎ちやん？」

この調子では、惣兵衛ちやんはもう、紙鳶のことを忘れてしまつてゐるかもしれない。忘れてしまはれては大変である。それでは新太郎ちやんの努力が水の<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>になる。

「ほら、いつか紙鳶を一緒にあげた……。」

「紙鳶を？」

案の定、忘れてしまつてゐる。

「お前の家の裏の畑で、紙鳶を一緒にあげたらう。お前の<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>つ<ruby><rb>新</rb><rt>たら</rt></ruby>の大きい紙鳶を。そして逃がしてしまつたぢやないか。」

惣兵衛ちやんは、しばらく眼の玉をぎよろぎよろさせてゐたが、

「うん、そんなことがあつたね。うん、さうさう、家にゐた嘉助の餓鬼ね。」

惣兵衛ちやんの家では、お祖母さんでも誰でも、<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>の子を餓鬼といふんだな、と栄蔵は思つた。

「あんなもん、来ん方がいいな。」

と惣兵衛ちやんがいつた。

「一緒に行きたいさうだから、いいぢやないか。」

「どして？」

「どしてつてことないけど……。」

その<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>は、いへなかつた。惣兵衛ちやんを驚かせてやりたかつたからだ。その方が、一層新太郎ちやんの努力の、<ruby><rb>仕甲斐</rb><rt>しがひ</rt></ruby>があらはれるといふものだ。

そして<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>になると、栄蔵は、買つたばかりの紙鳶を持つた新太郎ちやんと一緒に、尼ヶ瀬の惣兵衛ちやんの家へ出掛けた。

「惣兵衛ちやんが見ると、びつくりするよ。」

と栄蔵がいふと、新太郎ちやんは、

「うん。」

と<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさうに笑つた。

「ほんとに、こんな、同じのがあつてよかつたね。」

「一軒の家にはなかつたけど、もう一軒の家できいたら、あつた。」

「あれで買へた？」

「夏だもんだで、紙鳶なんか買ふもんが無いから、負けてくれた。」

「新太郎ちやん、こんないい紙鳶、自分のにしたいだらう？」

「ううん。」

と首を横にふつた。

心の<ruby><rb>負債</rb><rt>おひめ</rt></ruby>を早く払つてしまひたいのだ、ただそれだけなのだ、と栄蔵は想像した。

今日の新太郎ちやんは、気が張つてゐたので、惣兵衛ちやんの家の前で、野良犬のやうな<ruby><rb>恰好</rb><rt>かつかう</rt></ruby>はしなかつた。栄蔵のすぐあとに続いて<ruby><rb>閾</rb><rt>しきゐ</rt></ruby>をまたいだ。

惣兵衛ちやんは、土蔵の<ruby><rb>陰</rb><rt>かげ</rt></ruby>に置かれた縁台の上で、矢を削つてゐた。かたはらには、生木の枝をまげて作つた下手な弓がおいてあつた。惣兵衛ちやんの六つばかりの弟が、熱心に兄さんの手もとを見てゐた。

「それ、ミツちやんの弓？」

と栄蔵がきいた。ミツちやんは、惣兵衛ちやんの弟の名である。

「ううん。」

と惣兵衛ちやんは首を横にふつた。ミツちやんは、兄さんのお友達が、いいことをいつてくれたので、嬉しさうな顔をした。さつきからその弓がほしくてしやうがなかつたからだ。しかし兄さんの惣兵衛ちやんは、ミツちやんがちよつとでも弓に手を触れると、<ruby><rb>癇筋</rb><rt>かんすぢ</rt></ruby>を立てて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がなる</span>のであつた。

しばらく栄蔵達は、惣兵衛ちやんの仕事を見てゐたが、いつまでたつても<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めさうもなかつたので、とうとう栄蔵がしびれをきらして、

「あのね、惣ちやん。」

といつた。

惣兵衛ちやんは顔もあげずに、

「うん。」

と答へた。

「新太郎ちやんが、いつか逃がした紙鳶ね、あれを買つて持つて来たよ。」

栄蔵と新太郎ちやんは、これをきいたらさすがの惣兵衛ちやんも、びつくりして顔をあげるだらう、と思つた。が、案に相違して、惣兵衛ちやんは竹を下手くそに削つてゐるばかりだつた。そして、

「ンぢや、そこに置いといて。」

とつまらないもののやうにいつた。

栄蔵は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すかし</span>を<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>はされた気がした。こんな<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>ではなかつた、と思つた。

新太郎ちやんも、栄蔵と同じ感を抱かされたらしく、情ないやうな<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほゑみ</rt></ruby>をちよつとうかべながら、持つて来た紙鳶を、蔵の入口にもたせかけた。

惣兵衛ちやんは矢を削つてしまふと、<ruby><rb>前垂</rb><rt>まへだれ</rt></ruby>から<ruby><rb>緑</rb><rt>あを</rt></ruby>い削り<ruby><rb>屑</rb><rt>くづ</rt></ruby>を、はらひ落しながら、ふと紙鳶に眼をとめた。

――よしッ、と栄蔵は、期待で胸がをどつた。惣兵衛ちやんは驚いたに違ひない。そして新太郎ちやんに訳をきき、その努力に感謝感激し、自分の心ない言葉を、あやまるに違ひない。

しかし栄蔵の期待は、またはづれた。惣兵衛ちやんは、まるで紙鳶には興味がないといふやうに、ぷいと横を向いてしまつたからである。

その時、家の中からお祖母さんが、惣兵衛ちやんを呼んだ。惣兵衛ちやんは、はいつていつた。

「栄坊ちやん、おいでよ。」

と惣兵衛ちやんが家の中から呼んだ。きつと何か<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>があるのだ。それを貧乏人の子、新太郎ちやんには、やりたくないので、栄蔵だけを呼ぶのだ。栄蔵も新太郎ちやんも、それがよく解つてゐたので、顔を見合はせると又新太郎ちやんが、情ないやうな表情になつた。

「新太郎ちやんもおいでよ。」

と栄蔵はいつた。

新太郎ちやんは、ぐづぐづしたが、

「いいから、おいでよ。」

と無理にひつぱつていつた。

お祖母さんは、貧乏人の餓鬼までついて来たので憎らしいといふ顔付をしたが、仕方がないので、新太郎ちやんにも、<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すゐくわ</rt></ruby>をくれてやつた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">切れつぱし</span>のところをちつぽり。

西瓜はおいしかつた。が、そのあとで、三人が庭に出て来ると、大変なことが待つてゐた。ミツちやんが兄さんのゐない間に、とうとう欲望を抑へきれなくなり、兄さんの弓を持つてしまつたのである。そして一層いけないことに、大事な紙鳶を的の代りに使つてしまつたのである。

一本の矢は、役者の右の眼をつぶして突つ立つてゐた。

「ミツの馬鹿つ。」

と惣兵衛ちやんが怒鳴つた。

やつぱり惣兵衛ちやんには、あの紙鳶を買ふために、どんなに新太郎ちやんが、苦労をしたか解つてゐたのだ、と栄蔵は瞬間に思つた。

しかしそれも、栄蔵の早合点だつた。惣兵衛ちやんは、ミツちやんのところへ飛んでゆくと、弓をミツちやんの手からひつたくり、ついでにミツちやんの頭を三つ<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いた。そしてミツちやんが、わあんと泣き出しても、みむきもせず、弓の<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあひ</rt></ruby>が悪くなりはしなかつたかどうか、<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>に調べた。

ミツちやんは<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>は遂げたが、その報いがあんまりだつたので、ありつたけの声で泣きながら、家の中へはいつてしまつた。栄蔵と新太郎ちやんは、あつけにとられて立つてゐた。

すると惣兵衛ちやんは、弓の工合を更によく調べて見るために、矢の一本をとつて弓につがへた。

栄蔵は眼のくらむ思ひがした。新太郎ちやんは「あつ。」と声をあげた。惣兵衛ちやんが紙鳶を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>つたのである。

「バサッ。」

矢は的にあたつた。そして役者の胸のあたりを大きく破つてしまつた。

――これは何といふことだらう。

なるほど新太郎ちやんが、かへしたからには、もう惣兵衛ちやんの紙鳶には違ひない。

――だが、これは何といふことだらう。

栄蔵と新太郎ちやんは、もう何もいへなくて、黙つてゐた。

こんな家に長くゐるわけはもうなかつた。二人はろくすつぽ<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>もせずに、外に出てしまつた。

栄蔵は、心にぽつかり穴があいてしまつたやうで、何も考へられなかたつた。二人はお互に視線を避けあつて、道<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のり</span>の大部分を黙つて歩いた。紙鳶のことなど、もう思つて見るのも嫌だつた。

道ばたに石が立つてゐた。そこから栄蔵と新太郎ちやんは別れるのである。そこまで来ると、新太郎ちやんが、はじめて口をきつた。

「栄坊ちやん、俺、あしたからね、父ちやんについて山の方へ<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢみ</rt></ruby>買ひにゆくだよ。」

栄蔵が見ると、新太郎ちやんは、寂しさうに<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほゑ</rt></ruby>んでゐる。栄蔵の胸に、ぐつと悲しみがこみあげて来た。

「どうして？」

とせきこんで<ruby><rb>訊</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねた。

「俺、もう子供ぢやないもん、商売に行くだよ。」

「…………。」

栄蔵は、二つばかり眼をしばたたいて、新太郎ちやんと別れた。

日暮の土にうつる、自分の細長い影を見つめて、栄蔵は歩いていつた。すると不意に何かが、胸の底から強い力でわきあがつて来た。<ruby><rb>怒</rb><rt>いかり</rt></ruby>であつた。

――こんなことがあるものか。新太郎ちやんが、あんなに苦労をして買つて返した紙鳶を、見てゐる前で破つてしまふなんて。これには何かいけないものがある。返したのだからもはや新太郎ちやんに文句はない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だけれど、何か不合理なものがある。何だらう、それは。

かうして考へて見ると、こんな種類の不合理や不正が、世の中には実にたくさんあるやうに栄蔵には思はれた。子供達の間ばかりでなく、大人達の世界にも。

――一体何だらう、それは。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>こんなことがあるんだらう。

――どうして惣兵衛ちやんは、もつと新太郎ちやんの気持を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んでやらないんだらう。さうすれば、こんなことはないだらうに。

――どうして力のある人々は、力のない人々のことを思つてやらないのだらう。どうしてお金のある人々は、貧しい人々の気持を察してやらないのだらう。……

## 六　寺にはいる

或日の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>さがり、<ruby><rb>尼</rb><rt>あま</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>瀬町</rb><rt>せまち</rt></ruby>の<ruby><rb>光照寺</rb><rt>くわうせうじ</rt></ruby>といふ寺へ、<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>の正しい若者が一人訪れて来た。

<ruby><rb>玄乗破了和尚</rb><rt>げんじようはれうをしやう</rt></ruby>さんが、玄関へ応対に出て見ると、若者は<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あをじろ</rt></ruby>い顔をうつむけて、庭の梅の木の下にしよんぼり立つてゐた。

「どなたかのう。」

と和尚さんはきいた。

「<ruby><rb>出雲崎</rb><rt>いづもざき</rt></ruby>のもんです。」

「うん、出雲崎の？　して御用は何ですかのう。」

「これといふ用事もありません。」

「用事がない？　それでは遊びに来られたか。」

「いいえ。」

「面白いことを申される御仁ぢや。用事でもなければ遊びでもない……。出雲崎と申すは何といふ家かのう。」

「<ruby><rb>橘屋</rb><rt>たちばなや</rt></ruby>です。」

「おお、橘屋か。それではあなたは若主人の……。」

「はい、こんど<ruby><rb>名主職</rb><rt>なぬししよく</rt></ruby>を受継ぎました栄蔵です。」

「おおさうか、知つてをる知つてをる。しばらく見なんだうちに大きく、立派になられたのう。わしは見それてしまつた。まあ上られるがよい。」

栄蔵は和尚さんについて庫裏の炉ばたへ行つた。

「客間へ御案内するのがほんたうぢやらうが、客間は寒いで、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">らんごく</span>なところへ案内しましたわい。さあ楽に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>つて下され。禅宗のお寺と来ては無愛想だからのう、こんなことですわい。」

和尚さんは小僧に枯枝や<ruby><rb>柴</rb><rt>しば</rt></ruby>を持つて来させると、それを炉にどんどんくべた。

「ひどく浮かぬ顔をしてをられるが、何ぞしたのか。」

「わたしはもう無茶苦茶です。」

「何が。」

「何が何だか、ちつとも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りません。」

「お前さんは一体何のことをいつてゐますのぢや。」

「わたしは胸が一ぱいです。一ぱいで無茶苦茶なのです。」

「<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんくわ</rt></ruby>でもしたのですかい、声がひどく<ruby><rb>嗄</rb><rt>しやが</rt></ruby>れてゐるやうぢやが。」

「一人で、誰もゐないとこで<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いて来たのです。のどがやぶれて、血を吐いて死んでしまへばよかつたのです。」

「まあ、お茶でも召されよ。さう<ruby><rb>一途</rb><rt>いちづ</rt></ruby>に思ひつめては事を<ruby><rb>仕損</rb><rt>しそん</rt></ruby>じますぢや。世の中のことは成るやうにしか成りませんからのう。」

和尚さんは自分でいれたお茶を、音立ててすすつた。風が出たのか、裏の林に音がしてゐる。

「和尚さん。」

「何かい。さう改つて。」

「…………。」

「どうかしたかのう。」

「私は大変なものを見て来たんです。人間が人間を処刑するのを。」

「ほう？」

「わたしは刑場からやつて来たのです、今日一人の罪人が刑に処せられました。」

「おおさうか。そんなことをきいてゐた。さつき門の前を大勢通つていつたが、見物の衆だつたんぢやのう。うむ、<ruby><rb>可哀</rb><rt>かはい</rt></ruby>さうなことぢやつたのう。お前さんは、又<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>そんなものを見に行かれたのぢや。」

「罪人が私の町の者でした。私は名主として立合に出なければならなかつたのです。」

「さうか、出雲崎の者ぢやつたのか。」

「わたしはあの者を小さい時から知つてゐます。いかにも悪い人間でした。悪い人間でしたけれども、人間が人間の力であの者を処刑してしまつていいのでせうか。可哀さうです。あんまりです。」

「さうぢや。が、いろいろなことが、世の中にはある。いいこともあれば悪いことも。」

「いくらいいことがあつても、一方にこんなひどいことがあつては、我慢出来ません。」

「お前さんのやうな人には、世の中の悪いことだけが大きく強く見えるのぢやらう。わしもさうぢやつた、わしの若かつた頃も。

「わたしは、どうしたらいいのでせう。」

「まあ、お茶をのみなさい。わしが今その者のために<ruby><rb>心経</rb><rt>しんぎやう</rt></ruby>を供養して進ぜよう。」

二人は立つて本堂へいつた。<ruby><rb>和尚</rb><rt>をしよう</rt></ruby>さんは<ruby><rb>御灯</rb><rt>みあかし</rt></ruby>を仏様にあげると、その前の座についた。栄蔵は<ruby><rb>賽銭箱</rb><rt>さいせんばこ</rt></ruby>の前の冷い畳の上に坐つた。

和尚さんは太いためらかな声で、経を読みはじめた。

栄蔵は眼をつむつて口の中でいつた。――みんなが、あなたにあんな<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>いことをしました。どうぞ許して下さい。わたしにはどうすることも出来ませんでした。みんなを止めようにも、わたしのやうな微力な者にはどうしやうもありませんでした。許して下さい。誰が悪いのでもありません。みんなが悪いのではありません。わたし達は何も知らないのです。わたし達には自分が何をしてゐるのかそれがよく解らないのです……。

<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>には風が悲しい声を立ててゐた。非業な死を遂げたものの魂が、帰つてゆくところを失つて訴へてゐるやうに栄蔵には思はれた。

和尚さんは力のこもつた太い声でお経を読みつづけた。和尚さんはわけの解らないお経の言葉でもつて、悲しみ<ruby><rb>喚</rb><rt>さけ</rt></ruby>んでゐる荒野の魂を、一心に鎮めてゐるやうに思はれた。

和尚さんの声は風の音に負けなかつた。風がどんなに堂のあたりでわめいても、和尚さんの声はびくともせず、続いた。

だんだん風の音は遠ざかつていつた。子守歌に快くゆすぶられて、<ruby><rb>眠</rb><rt>ねむり</rt></ruby>にさそはれてゆく子供のやうに。

――静かなところに帰つてゆきなさい。やすらかに帰つてゆきなさい、と栄蔵は祈つた。そして栄蔵の心もいくぶん鎮まつた。

お経がすんで、二人はまた庫裏の炉ばたに<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>つて来た。

「お願ひがあるのですが、きいて頂けませうか。」

と栄蔵は<ruby><rb>容儀</rb><rt>かたち</rt></ruby>を正していつた。

「何かのう。」

「わたしも僧にしてください。ここに置いて下さい。」

「ほほう。」

と和尚さんは眼を円くした。

「お前さんは今日はあまり<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく心を動かされたので、気がどうかなつてゐるのぢや。<ruby><rb>一時</rb><rt>いつとき</rt></ruby>の感動に駆られて、さういふことを申す仁がよくありますが、そんなことでは禅坊主の修業には<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>も耐へられませんぢや。」

「一時の感動ではありません。わたしは前から僧になりたいと思つてゐました。」

「それは又どうして？」

「わたしのやうな愚か者には、名主の職は満足に出来ないのです。わたしはこの職についてゐることが苦痛でたまりません。」

「みんなから<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>められる名主の職が、いやだといふのは、どんなわけかのう。」

「かういふことがありました。代官さまと出雲崎のれふしどもが、或事で<ruby><rb>争</rb><rt>あらそひ</rt></ruby>を起しました。」

「うん、ちよいとわしも耳にはさんでゐた。この春時分の事ぢやつたのう。」

「はい。わたしが父から、名主職を受けついで間もない頃でした。名主は代官さまとれふしの間に立つて、争をなだめる役でした。わたしは先づれふしどもを家へ呼んで、その言ひ分をすつかりききました。れふし共は、代官さまがどういふ仕方で自分たちを苦しめるか、いちいち事こまかに申したのです。」

「うん、それで？」

「そこで、こんどは代官さまのところへ、わたしはいきました。そしてれふしどものいつたことを、一から十まで少しも言葉を飾らず、代官さまに伝へました。」

「いやはや。うむ、それから？」

「代官さまは、かんかんになつて怒りました。そしてれふしどものいけない点を、ひどい言葉でなじつたのです。わたしはれふしどものところへ帰ると、代官さまの<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>つたことを、そのまま伝へました。」

「それではれふしどもも怒つたぢやらう。」

「さうです。代官など生意気だ、あの屋敷を焼払つてしまふ、などと申しますので、わたしは手を合はせんばかりにして、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>くみんなをなだめました。しかし代官さまとれふしどもの仲は一向よくならないで、ますます悪くなりました。」

「そりや<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>もだのう。」

「わたしは代官さまへ呼びつけられ、さんざん叱られました。きさまのやうな<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>な<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>は、今まで見たことがないとおつしやいました。そんな仲裁の仕方があるかと申されました。わたしが家に帰つて来て、父にこのことを申しますと、父も<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてわたしを叱りました。きさまがあまりほんたうのことをいふからいかぬと、父は申しました。」

「うん。」

「わたしはあの際、<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>をいふべきだつたのです。れふしどもにはうまいことをいつてなだめすかし、代官さまの前では、れふしどものことを悪くいつて代官さまに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へつらふ</span>やうにすればよかつたのです。さうせねばいけなかつたのです。しかし、わたしにはそれが出来ません。わたしはほんたうのことが好きです。嘘は<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>ひなのです。」

「嘘がのう。うむ、わしもさうぢやつた。わしも嘘がいへなんだ。」

「それから考へて見ると、世の中には本当に嘘や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へつらひ</span>が<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>あります。世の中は嘘や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へつらひ</span>がないと、日が送れないやうに見受けられます。世の中が一つの大きな車の輪なら、嘘や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へつらひ</span>はそれを滑かにまはすための油のやうに思はれます。」

「さうばかりでもあるまいけどのう。」

和尚さんは、この一生懸命に<ruby><rb>喋</rb><rt>しやべ</rt></ruby>る若者を、いとしむやうにやさしく見ながら、いひたいだけいはせてやつた。

「それから、かういふこともありました。つい二月ばかり前、<ruby><rb>佐渡奉行</rb><rt>さどぶぎやう</rt></ruby>さまが、江戸から来て出雲崎に泊られました。わたしは名主だから宿や船のことなど、いろいろお世話しなければなりませんでした。」

「うん、うん。」

「佐渡奉行さまは、柄の長い大きい<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>で来られました。その駕籠を船で佐渡ヶ島へ持つてゆくのだと仰有いました。ところが船頭どもの申しますには、あのやうな長い柄は邪魔になつて、とても船には載せられない、あれを載せるやうな船は出雲崎はおろか、近辺どこを尋ねてもないのださうです。」

「うん、困つたのう。」

「いいえ、わたしは困らなかつたのです。長すぎるならその柄をいいだけ切れと命じました。柄だから切つても<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>へないと思つたのです。」

「なるほど、それも一案ぢや。しかし、佐渡奉行は喜ばなかつたぢやらう。」

「仰せの通りです。ひどく怒られました。名主職をきさまの家から取りあげさせるとまでいつて怒られました。しかし、わたしには<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>佐渡奉行さまが怒られたのか、わけが解りませんでした。奉行さまといへば、下々をいたはるお役に違ひありません。下々の難儀を救つてやらねばなりません。駕籠の柄が長すぎて船頭達が困つてゐるなら、黙つてはゐられない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>です。そこで、わたしが気をきかして柄を切らせました。柄はまた後からつけることも出来るでありませう。船頭達は、これなら船にらくに載せることが出来るといつて大層喜びました。それならわたしは、いいことをしたのです。奉行さまに<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>められてもよいのです。」

「そんな<ruby><rb>理屈</rb><rt>りくつ</rt></ruby>かのう。」

「しかし、その時わたしは自分の<ruby><rb>考</rb><rt>かんがへ</rt></ruby>が、あやまつてゐるのが解りました。」

「どの考が。」

「奉行さまといふものが、下々をいたはつてゐるといふ考です。さうではなかつたのです。自分の駕籠の方が大事だつたのです。」

「さうかも知れない。」

「いいえ、きつとさうなのです。そしてよく考へて見ますと、日本中の奉行さまといふ奉行さまが、多かれ少なかれ、みなさうに違ひありません。上に立つものは、下に立つものをいたはつてはゐないのです。」

「一概にさうはいへまいのう。」

「いいえ、さうなんです。」

栄蔵は声をあららげていつた。和尚さんは黙つてしまつた。何か気まづい静けさが続いた。和尚さんは<ruby><rb>柴</rb><rt>しば</rt></ruby>の中から<ruby><rb>松毬</rb><rt>まつかさ</rt></ruby>を拾ひ出して、それを炉にくべた。二人は松毬が燃えるのを見てゐた。

「それでお前さんは、世の中が、いやになつたといふんぢやのう。」

「さうです。」

「世の中には嘘や不正ばかりだ、それだから坊主になつて世の中を捨てたいといふのぢやのう。」

「さうなのです。」

「一つ、わしは<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きたいが、お前さんの心の中には、いけないものはないかのう。お前さんの話をきいとると、世間の人間はみんないけなくて、お前さんだけがよいもんのやうに、聞えるがそのお前さん自身の中には、いけないものはないかのう。」

栄蔵は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>として、和尚さんの眼を見つめた。和尚さんは眼をそらして、また柴の中から松毬を探し出し、炉の火に投げた。どこかで寒い<ruby><rb>千鳥</rb><rt>ちどり</rt></ruby>の声がした。

突然、栄蔵の見開かれた眼から、ぽろりと涙が落ちた。

「わたしが悪うございました。」

と栄蔵は声をうち<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>はせていつた。今までの上づつた声が、すつかり静かな低い声に変つてゐた。それが、語り手の心も一緒にすつかり変つたことを表してゐた。

「わたしは思ひあがつてゐました。わたしの心の中にも<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>悪いものがあるのです。もし世の中の人が悪いとするなら、わたしの方がもつといけないのです。

「うん、それが解つたかい。」

「よく解りました。」

「解つたら、何も坊主になることはあるまい。」

と和尚さんは<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほゑ</rt></ruby>んだ。

「いいえ、坊さんになる心には変りありません。」

「どうしてかのう。」

「自分の心の中のいけないものを、はつきりさせて、そのいけないものを一生懸命に取除くのです。ちやうど畑から雑草をぬくやうに。」

「うむ、それで。」

「さうして自分の心がよく<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>かれた暁に、世の中の人の心から、悪いものを除いてやるのです。わたしに、そんな大きな力があるか、どうか知りません、しかし、わたしの力の及ぶ限りするのです。医者が人の体から病をはらつてやるやうに、人の心からいけないものを除いて救つてやるのです。この世は美しいよいものであるといふ話を、子供の時、わたしはききました。わたしもさうだと思ひます。しかし、もつともつと美しい、よいものにしたいのです。」

和尚さんは黙つてうなづいてゐた。それから燃えてゐる枝を持つていつて、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>に火をうつした。いつかもう日暮になつてゐたのである。

「お前さんのいふことは、よく解りましたわい。しかし、そいつはなかなかむつかしい。わしもさういふつもりで坊主になつた。人々を教化して世の中を一層よくするつもりでのう。しかし、今お前さんのいふことをききながら、自分はどれだけのことをしたかと思つて寂しくなりましたわい。……いや、お前さんのいふことはよく解つた。」

「では、ここに置いて頂けませうか。」

と栄蔵は眼を輝かせた。

「うん、置いてあげてもよい。しかし、お前さんは古い家柄の<ruby><rb>橘屋</rb><rt>たちばなや</rt></ruby>の長男ぢや。お前さんが出家しては、あとが困るぢやらう。」

「しかし結局は、その方が家のためにもよいのです。わたしは名主としては、少しも間にあひません。弟があとを継げば、きつとうまくやつてくれるのです。」

「弟はいくつかのう。」

「十三です。」

「お前さんは？」

「十八です。」

和尚さんは、しばらく考へてゐたが、急にはつはつはと笑ひ出した。

「<ruby><rb>以南</rb><rt>いなん</rt></ruby>さんが、――お前さんのお父さんが驚くぢやらう。神官の家から坊主が出たといつてのう。しかし、それも面白からう。」

栄蔵もつられて微笑んだ。

「お父さんは許してくれると思ひます。お父さんには、わたしの心持はよく解つてゐるのです。お父さん御自身が以前からよく、自分も<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりよ</rt></ruby>になつて、山の中にでも、閉ぢこもりたいといつてをられましたから。」

「さうか。そんなら差支へもあるまい。」

「では許して頂けますか。<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがた</rt></ruby>うございます。では早速頭を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>つて下さい。」

「さう一途にいふもんでない。若いもんは、これだから困るのう。まあ一応今日は家へ帰つて、両親にとくと話して、その上で来られるがよい。」

「いいえ、今からすぐして下さい。思ひ立つたが吉日といひます。今日今からここでしないと、しそこねる<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがあります。」

「気の早いことぢや。わしは逃げもかくれもせぬ。明日も明後日もここにゐるから、両親の<ruby><rb>許</rb><rt>ゆるし</rt></ruby>を得てから来なさい。」

「それではごめんッ。」

「な、なにをなさるのぢや、刀などぬいて。」

「和尚さんがぐづぐづ<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>るから、自分で髪を切るのです。いいえ止めないで下さい。間違つて頭を切るかも知れません。切つてもかまはないのです。わたしの頭ですから。」

和尚さんは噴き出した。

「いやはや、これはどうも。」

そして栄蔵はその日、坊さんになつた。

剃りたての青い頭で、まだ着なれぬ<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>を着た栄蔵は、翌朝、<ruby><rb>風呂敷包</rb><rt>ふろしきづつみ</rt></ruby>を一つ下げて家へやつていつた。

ちやうど家の前で、これから手習にでもゆくらしい、弟の左衛門にすれちがつたが、弟は知らない人だと思つて気にとめず、どんどんゆきすぎようとするので、栄蔵は<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しくなつて、

「おい、こら左衛門ッ。」

と呼んだ。

「何だィ、誰だィ。」

といつて弟はふりむいた。

弟はしばらく栄蔵の顔を見てゐたが、やがて兄さんと解つたらしく、きゆつと顔をゆがめた。笑はうとするのと一緒に悲しくなるとき、人はさういふ表情をするものである。それから弟の顔は<ruby><rb>羞</rb><rt>はづか</rt></ruby>しさで赤くなつた。

「驚いたらう。」

と栄蔵はいつた。

弟は返事をしないで、栄蔵の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたはら</rt></ruby>を風のやうにすぎたかと思ふと、家の中へとびこんでいつた。

「お母さん、兄ちやんが帰つて来たァ。」

と泣き声で喚いてるのが聞えた。

小さい弟や妹も、栄蔵の変り果てた姿を見ると、奥へ逃げかくれたり、わあつと泣き出したりした。

お父さんと、お母さんは、しばらく物がいへなかつた。お母さんは持つてゐた<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>を落してしまつた。

「栄蔵ぢやないか。」

とお父さんは、上り<ruby><rb>端</rb><rt>はな</rt></ruby>に突つ立つたままいつた。

「お父さんお母さん、許して下さい。わたしは、もう橘屋の長男栄蔵ではございません。わたしは、尼ヶ瀬の光照寺で小僧になりました。今日からわたしは<ruby><rb>良寛</rb><rt>りやうくわん</rt></ruby>です。」

「良寛？」

とお父さんは<ruby><rb>上</rb><rt>うは</rt></ruby>の<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>でつぶやいた。

「良寛です。不孝者をどうぞお許し下さい。でもわたしには、かうするより<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>なかつたのです。これは昨日まで栄蔵が身につけてゐた着物と<ruby><rb>脇差</rb><rt>わきざし</rt></ruby>です。もういらなくなりましたので、今日はこれを返しに参つたのです。」

さういつて、小僧の良寛さんは持つて来た風呂敷包を畳の上に置いた。

ひとときすぎて、一切を両親に許して<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>つた良寛さんが、再び光照寺へ、戻つてゆく姿が街路の上に小さく見えた。

<ruby><rb>越後</rb><rt>ゑちご</rt></ruby>の冬ははやく訪れるので、海から来る風はもう道や畑を白くして吹き、良寛さんの<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>りたての青い頭は、雪をふくんだ雲の下で寒かつたのである。

## 七　閂

夕暮になると良寛さんは、心が落着かなかつた。鐘を<ruby><rb>撞</rb><rt>つ</rt></ruby>いたあとで、<ruby><rb>鐘撞堂</rb><rt>かねつきだう</rt></ruby>のあたりでうろうろしてゐることがよくあつた。また門を閉めにいつて、門の外でぼんやり自分の家の方を見てゐることもあつた。

誰かが来やしないか――弟の左衛門か、それとも懐しいお母さんが来てくれはしないかと、知らずに期待してゐるからであつた。

修業のために親も兄弟も捨てて来たものが、こんなことでは<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>ではないかと、よく自分を叱つたが、いくら叱つても、時々夕暮になると、心が落着かなかつた。心は門の方に向かふのであつた。「兄ちやァん。」といつかのやうに、左衛門が門の外から呼びはせぬかと、自然に耳をそばだててゐるのであつた。

そんな日暮には、いつも温かにおつとりした良寛さんの心が、<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>ない程いらいらして、ふとしたことにも腹が立つたりした。

「おい良寛。」

と或日の夕方、兄弟子がいつた。

また門のところへ行きたくなつてゐた良寛さんは、顔をあげた。

「ちよつと<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>つてくれ。」

頭を剃れといふのである。良寛さんは<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をひそめた。

「まだそんなに伸びてはゐませんよ。このあひだ剃つたばかりですから。」

「文句をいはずに剃れ。」

「こんなに暗くなつてからしなくてもお、いいでせう。明日になつてからすれば。」

「文句をいふなつたら。軒端に出ればまだ明かるいよ。」

良寛さんは、しぶしぶ立つて、<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>を持つて来た。二人は<ruby><rb>紫陽花</rb><rt>あぢさゐ</rt></ruby>がうすやみの中に、ほの白く浮かんでゐる縁端に出た。

「痛いよ、もつとうまく剃らんか。」

と兄弟子は頭を剃られながら、ぶつぶついつた。

「でも、あなたの頭がいけないのです。真中がへこんでゐるので、剃りにくくてしやうがないのです。」

と良寛さんも黙つてはゐない。

「そんなことがあるもんか。」

「本当です。合はせ鏡をしてよくごらんなさい。剃りにくい頭です。因業頭です。」

「<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>いふな。」

「今晩またどこかへ出掛けるんですか。」

「うん、ちよつと。」

「<ruby><rb>和尚</rb><rt>をしやう</rt></ruby>さんが旅に出られてから毎晩ですね。」

「そんなことがあるもんか。」

「いいえ、毎晩です。私はよく知つてゐます。<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ行くんです、一体。」

「子供には関係のないとこだ。」

「わたしは子供ぢやありません。」

「へえ。いくつだい、一体お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>は。」

「二十二です。」

「そんなになるのかい。ふン、しかしまるで子供だな。育ちがいいからな。お坊ちやんお坊ちやんで育つて来たんだからな。」

「馬鹿にしないで下さい。わたしは、あなたがいくところ位知つてゐますよ。」

「どこだい。あてて見ろよ。」

「昨夜あなたが帰つて来て、私の横で寝たとき、わたしは眠つてるふりをしてゐましたが、ほんたうは眼をあけてゐました。」

「うん、それで？」

「酒の<ruby><rb>匂</rb><rt>にほ</rt></ruby>ひがぷうんとして来ました。あなたの方から。あなたは毎晩茶屋へゆくんでせう。」

「うん、図星だ。坊ちやんのやうに見えても、これでなかなか話せるね。なんならお前も今夜つれてつてやらうか。」

「わたしは、そんな<ruby><rb>生臭坊主</rb><rt>なまぐさばうず</rt></ruby>ぢやありません。」

「さうかい。偉くなる坊主は違ふなあ。」

「…………。」

「偉くなる坊主はァ。」

「あなたはそんなことを、冗談でいふんでせうが、実はわたしはほんたうに偉くなりたいのです。」

「え、ほんたうに？　お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>が？」

兄弟子はクスリと笑つて、

「そりあ偉くなるさ。今に<ruby><rb>大寺</rb><rt>おほでら</rt></ruby>の和尚になるさ。」

「あなたは皮肉のつもりで<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>るんでせうが、わたしはほんたうに偉くなりたいのです。」

「皮肉ぢやないよ。本気でいつてゐるよ。」

「本当にわたしは偉くなりたいのです。」

「だからさ、お前は偉くなるよ。」

「いいえ、なれないのです。」

「え？　でもなるつていつたぢやないか。」

「いいえ、なりたいのですが、なれません。」

「どうして？」

「わたしはあなたを生臭坊主だと思つてをります。」

「そんなに<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>になつていはなくてもいいだらう。」

「いいえ、あなたは生臭坊主です。しかし、わたしもあなたと同じことです。<ruby><rb>執着</rb><rt>しふぢやく</rt></ruby>が絶てないのです。頭を丸めたり、お衣を着たりしてゐますが、わたしもあなたも普通の人と、ちつとも変りません。あなたは夕方になれば、酒が飲みたくなります。わたしは夕方になれば、家が恋しくなるのです。かうして今、あなたの頭を剃つてゐても、門の外でいつかのやうに左衛門が、わたしを呼びはせぬかと、気にかかつてしやうがないのです。」

「そりやさうだらう。家が近いから。」

「その家の近いのがいけないのです。わたしにはよく<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>つてゐるのです。わたしは家をもつと離れねば<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>なんです。」

「そいぢや、どつか遠くへゆけばいいぢやないか、<ruby><rb>唐天竺</rb><rt>からてんぢく</rt></ruby>へでも。」

「ええさうなんです。唐天竺ほどではなくても、せめて<ruby><rb>備中玉島</rb><rt>びつちゆうたましま</rt></ruby>でもよいのです。」

「備中玉島？　備中玉島なら、この間ここの寺へ泊つてゆかれた、ほら、何とかいふ坊さん……。」

「<ruby><rb>国仙和尚</rb><rt>こくせんをしやう</rt></ruby>です。」

「うん、さうさう国仙和尚。あれが玉島から来たといつたぢやないか。」

「さうです、玉島の<ruby><rb>円通寺</rb><rt>ゑんつうじ</rt></ruby>です。それでわたしは、よつぽど弟子にしてつれていつて下さいと、頼みたかつたのですが、やつぱり駄目でした。家を遠く離れてゆくのが<ruby><rb>恐</rb><rt>こは</rt></ruby>いのです。こんなことぢや駄目です。こんなぢや、わたしはいつまでも、生臭坊主の<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>坊主です。」

「ひどいことをいふな。生臭坊主でも偉くなれないことはないぜ。世間にやいくらでも生臭坊主で、和尚になつてるのがあるからな。」

「わたしが偉くなりたいといふのは、あなたの考へてゐるのとは違ふのです。」

「どう？」

「わたしは名や位はいらないのです。乞食みたいなくらしでもいいのです。ただ誠の道に達することが出来れば。」

「なるほどね、結構だね。わたしにはさういふむつかしいのはよく解らないよ。や、ごくらうさん。ああ、さつぱりした。」

良寛さんは剃刀を<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてしまつて来た。

「おい、良寛。」

「まだ何か用ですか。」

「あの、<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>ちよつと遅くなるから、今夜お前、<ruby><rb>臼</rb><rt>うす</rt></ruby>を<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いとけ。」

悪いお米は粉にひいて、だんごにして<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べるのである。

「いやです、今夜はあなたの番ですよ。」

「ほら、それがいかん。それでは誠の道に達することは出来んな。」

「…………。」

兄弟子は冗談でいつたのだが、良寛さんは真面目な面持ちでうつむいた。

「え、挽いときます。」

「うん、それでよいそれでよい。時にお前は銭を少し貸してくれないか。

「いやですよ。そんな<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>にするやうな銭はありませんよ。」

「又、いかん。それぢや誠の道が逃げるな。」

その時、遠くから誰かが呼んだ。二人は黙つて耳をそばだてた。するとこんどは、はつきり「兄ちやァん。」といふ声が聞えた。左衛門だ。

「おい、弟が来たぜ。」

「…………。」

「門の外だぜ。ちよつといつて見て来いよ。」

「…………。」

良寛さんは<ruby><rb>下唇</rb><rt>したくちびる</rt></ruby>をかんだまま、黙つて庭へおりて、<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆふやみ</rt></ruby>の中を門の方へ歩いていつた。

兄弟子は良寛さんがいつてしまふと、急いで<ruby><rb>御堂</rb><rt>みだう</rt></ruby>の方へまはり、<ruby><rb>賽銭箱</rb><rt>さいせんばこ</rt></ruby>に手をかけた。あつちへごてん、こつちへごてんと賽銭箱はころがされた。そのたびに、中でぢやらぢやらと銭が声を立てた。

そして<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く五、六文の銭が、畳の上にとび出た時、良寛さんが御堂へやつて来た。

「何だ、もう別れて来たのか。」

と兄弟子が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てれ</span>ていつた。

「そんな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>はよしなさいよ。わたしが少しだけれどあげます。」

「いいんだよ。みんな出しちまうわけぢやないから。ほんの二十文ばかりだから。」

「しかし、お賽銭をそんなことに使つたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばち</span>があたります。わたしが欲しいだけあげるからいいぢやありませんか。」

「さうかい、済まないな。」

兄弟子は畳の上の銭を、また箱の中に<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>した。

二人は庫裏の方に帰つた。良寛さんは自分のお金を出して来た。

「こんなに<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>つていいのかい。」

と、貰つた金を見て兄弟子がいつた。

「ええ」

「ぢや、こんど返すよ。」

「返してくれなくてもいいんです。」

「さうかい、そりやどうも。」

兄弟子は、しばらくきまり悪さうに立つてゐた。そしてお<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>に、

「それで弟はどうしたのかい？」

ときいた。

「知りません。」

「知らない？　<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>はなかつたのか。」

「逢ひませんでした。」

「お前、でも門の方へいつたぢやないか。」

「門をしめて、<ruby><rb>閂</rb><rt>くわんぬき</rt></ruby>をさして戻つて来たのです。」

何か固い決意の浮かんでゐる良寛さんの顔を、兄弟子は<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてまじまじと見てゐた。

「お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>は変つた人間だなあ。」

「わたしは偉くなりたいのです。執着をたつのです。一人で、一ぺんうんと苦しむのです。」

「…………。」

「備中へいくことにきめました。今、門の閂をさしながら肚をきめました。和尚さんが旅から帰られたらお許を得て、すぐ出かけます。」

兄弟子は、いつもおつとりしてゐる良寛さんの、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にこんな<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい心がひそんでゐたのか<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>りながら、しばらくその顔を見てゐるばかりだつた。

それから十日程のち、二十二歳の良寛さんは、ただ一人の長い旅にのぼつた。

## 八　はじめての旅

お母さんと弟妹たちは、町はづれまで良寛さんを送つて来た。お母さんは、良寛さんを一人で他国へやるのが不安でならなかつた。お母さんの眼には二十二歳の良寛さんが、まだ子供のやうに見えた。

しかし良寛さんは、

「もう、ここからお帰り下さい。」

ときつぱりいつた。道ばたに大きな<ruby><rb>椿</rb><rt>つばき</rt></ruby>が立つてゐるところで。

そして良寛さんの一人の旅が始つた。

良寛さんの手には、別れるときお母さんが、そつと握らせて下さつたお金の包と、小さい妹の一人が折りとつてくれた<ruby><rb>木莓</rb><rt>きいちご</rt></ruby>の花の一枝があつた。心の上には、今別れたお母さんと弟妹達、それから、自分の生れた家と町の姿が重なつてゐた。かうして別れていつて、いつまたみんなに会へるかと思へば、悲しかつた。

しかし、いつまでも悲しんでゐてはならないと良寛さんは思つた。道ばたの石地蔵さんの前に、妹のくれた花をさして、そのときから、<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>や家の人々のことを忘れることに決心した。

まだ道のほとりには、ぺんぺん草の小さな三角の実が見られ、うすぐもりの空には、季節おくれの<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>が<ruby><rb>囀</rb><rt>さへづ</rt></ruby>つてゐた。

これから江戸へ出て、それから京都にのぼり、そして目的地の備中の国、玉島へいく、<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かな道のことを思つた。その道は遠い。良寛さんの将来も、またそのやうに長い。

一人でいく遙かな道には、一人で歩む長い将来には、きつと様々な苦しみがあるだらう。しかし良寛さんには<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>があつた。良寛さんの足取は軽かつた。

良寛さんは毎日歩いていつた。道の上にぽつんと一つの影を落して。

林の中では<ruby><rb>閑古鳥</rb><rt>かんこどり</rt></ruby>が鳴いてゐた。閑古鳥の声を良寛さんはきいた。<ruby><rb>谿</rb><rt>たに</rt></ruby>に下れば瀬の音がすずしかつた。瀬の音を良寛さんはたのしんだ。

幼かつたとき話にきいた、あの<ruby><rb>仇敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を探す武士も、こんな風に旅していつたのだ、と良寛さんには思はれた。しかし、その武士の探してゐたのは仇敵だつた。良寛さんの探してゐるのは誠の道であつた。

誠の道を、いたるところの名高い坊さん達に問ひたづね、又ひとりで石の上や小川のへりに<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>ふとき、自分の心の中に考へたづねた。

見るもの、聞くもの、すべて良寛さんの眼や耳に新しかつた。大きい古い樹の前にびつくりして立ちどまつたり、道に落ちてる小さい円い水色の石ころを、こつそり拾つたりした。

旅はさまざまのことを教へてくれた。これまで本の中で読んだことは、みんなほんたうであつた。しかしまた、それらの多くのことは<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>でもあつた。

この世には実に<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>の、沢山の、病気や貧乏や悲しみがあることは<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>であつた。それはまた、この世で良寛さんのしなければならぬ仕事が、実に大きく、<ruby><rb>涯</rb><rt>はて</rt></ruby>しないといふことでもあつた。

苦しんでゐる人々を見るとき、良寛さんの心は悲しみでみたされた。しかし、希望が、すぐ<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いてくるのであつた。

江戸に来たとき、江戸の家々や寺々はにぎはつてゐた。幕府の勢力の盛なためであると良寛さんは思つた。京都に来たとき、京都の大きい町は静かだつた。皇室のあらせられる京都が、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>このやうに悲しげな姿に見えるのか、と良寛さんは<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>つた。

正しいものが息をひそめ、さうでないものが力を張つてゐる姿が、ここにも見られると良寛さんは考へた。

正しいものは、姿を現さねばならない。間違つたものは影を消さねばならない。

――これは良寛さんのしなければならぬ仕事が、ほんたうに大きく、限りないといふことにほかならなかつた。

長い旅に良寛さんは<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せて、大きい眼は一層大きくなつた。衣の肩は<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>にやけ、足には<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらぢ</rt></ruby>の<ruby><rb>胼胝</rb><rt>たこ</rt></ruby>ができた。

かういふ風にして、良寛さんは備中玉島の円通寺についた。<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>を出でたつてから幾月の後であつたか、もう草木の葉に白く風が吹いて渡る、秋のはじめ頃だつた。

## 九　円通寺で

良寛さんが、これから二十年あまり送ることになつた備中の国、玉島は、<ruby><rb>瀬戸内海</rb><rt>せとないかい</rt></ruby>に面した港町であつた。瀬戸内海が細長く陸へ<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>ひこんで湾になつてゐる。その湾に向かつてゐる丘の上に円通寺は建つてゐた。

同じ港町でも、<ruby><rb>越後</rb><rt>ゑちご</rt></ruby>の<ruby><rb>出雲崎</rb><rt>いづもざき</rt></ruby>とこの玉島とでは、ずゐぶん違つてゐた。越後の海は、冬、暗い雲にとざされ、北から来る風が波を<ruby><rb>捲起</rb><rt>まきおこ</rt></ruby>した。波は怒つた牛どものやうに狂ひたち、海岸の<ruby><rb>巌</rb><rt>いは</rt></ruby>に向かつて体をぶつつけ、昼も夜も深い<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声を絶たなかつた。また風は、海岸の砂や小石を吹きとばして、海に近い家々の窓や戸を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>くのであつた。そしてやがて雪がやつて来ると、一層状態は悪くなつた。雪は風と共に家々の上に狂ひまはり、小さい<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>を見つけては、家の中へはいりたがるのであつた。だから人々は、冬、外に出ることが出来なかつた。窓といふ窓をしめて、暗い家の中に、冬眠する<ruby><rb>蛙</rb><rt>かへる</rt></ruby>たちのやうに、ひつそりしてゐなければならない。越後の子供達が、雪を喜ばないのは当然だつた。彼等はかう歌つて雪を<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>つた。

ぼたぼた。雪降るなや、

浜のかかが泣くとや。

それにひき<ruby><rb>較</rb><rt>くら</rt></ruby>べて、玉島は冬も温いところであつた。海はいつも異人の眼のやうに、やさしく<ruby><rb>碧</rb><rt>あを</rt></ruby>くたたへられ、<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>は入江や、入江をとりかこむ丘の上にみち<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れた。良寛さんの驚いたことには、冬でも丘の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なぞへ</span>には、緑色の野菜や麦が見られたことであつた。雪はめつたに降らなかつた。降つても少かつた。大きい白鳥が<ruby><rb>羽搏</rb><rt>はばた</rt></ruby>いて過ぎるときに、落してゆく羽毛ほどだつた。で、このあたりの子供<ruby><rb>達</rb><rt>たち</rt></ruby>は、雪を見るとかう歌つた喜んだ。

雪は<ruby><rb>殿様</rb><rt>とのさん</rt></ruby>、

雨は<ruby><rb>草履持</rb><rt>ざうりもち</rt></ruby>。

この温い自然の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に、若い良寛さんは生活をはじめた。しかし良寛さんの心は、温い<ruby><rb>和</rb><rt>なごや</rt></ruby>かな玉島にすぐ<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>つくわけにはいかなかつた。良寛さんの心には、寒風の吹きすさぶ越後の冬の海のはげしさが、ひそんでゐた。

良寛さんは、<ruby><rb>行</rb><rt>ぎやう</rt></ruby>を修めるごとに、むきになつてゐた。真理といふものが、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かにあるに相違ない、ちやうど、桃の中には<ruby><rb>核</rb><rt>たね</rt></ruby>があるやうに。そいつを<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>めば自分は偉くなれる、さうすれば、自分は世の中の人々を救ふことが出来るに違ひない――さう良寛さんは考へてゐた。

良寛さんは、同輩達より早く起きて座禅しに行つた。同輩よりもつと度々、<ruby><rb>国仙和尚</rb><rt>こくせんをしやう</rt></ruby>の室へ物をたづねにいつた。夜は夜ふけまでお経や偉い坊さん達の伝記を読んだ。

しかし、そのやうな真理は、なかなか掴めるものではなかつた。どこにその真理はあるのか、もう玉島に来てから三年も四年もたつたのに、まだ<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかつた。時々良寛さんは、このことを思つて情なくなつた。こんなことでどうするのか、お父さんお母さんを<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てて、わざわざこんな遠い土地にまで来て、<ruby><rb>日日夜夜</rb><rt>にちにちよよ</rt></ruby>苦しい行を積みながら、まだ悟ることが出来ないとは何といふ愚か者か、と自分を叱りののしつた。

或日、良寛さんは国仙和尚から、米を<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>けと命ぜられた。良寛さんは黙つて本を閉ぢて、<ruby><rb>台唐臼</rb><rt>だいがら</rt></ruby>の<ruby><rb>蹈台</rb><rt>ふみだい</rt></ruby>にのぼつた。そして搗きはじめた。

国仙和尚は、しばらく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きね</span>の音をきいてゐたが、やがて、

「<ruby><rb>良</rb><rt>りやう</rt></ruby>。」

と深い静かな声で呼んだ。

「はい。」

良寛さんは足をとめて答へた。

「ここへおりて来い。」

「はい。」

良寛さんは台唐臼を下りて、国仙和尚の前に行つた。

「良、おぬしは、心の中に不満を持つてをるのう。」

良寛さんは胸をつかれるやうに感じたが、

「そんなことはありません。」

と、さりげなく答へた。

「いや、隠しても<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>だ。」

「どうして、そんなことを<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>るのですか。」

「<ruby><rb>杵</rb><rt>きね</rt></ruby>の音でわかる。心の平なものが米を搗けば、杵の音もおだやかだ。心のいらついてゐる者が搗けば、調子が乱れてゐる。」

良寛さんは国仙和尚の眼をのがれて、うつむいてしまつた。

「わしのいふ通りだらう。」

「はい。」

「<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>ものめが。」

「はい。」

国仙和尚はそれだけいふと、ついと立つて奥へ行かうとした。良寛さんは<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて、

「師ッ。」

と呼びとめた。

「何ぢや。」

「仰せの通りです。私の心には不満がございます。なるべく面にあらはさぬやうにしてをりますが、いつも不満がございます。」

「…………。」

「私はいつまでも、こんなことをしてゐてよいのかと思ひます。いたづらに<ruby><rb>齢</rb><rt>とし</rt></ruby>をとるばかりで、いつまでたつても、もとの栄蔵に変りありません。」

「…………。」

「わたしは、世の中の人がいろいろ苦しんでゐる、その苦しみには、二種類あると思ひます。一つは体の苦しみです。病気や貧乏の苦しみです。もう一つは、心の苦しみです。親を失つて<ruby><rb>歎</rb><rt>なげ</rt></ruby>いてゐるものや、生活に何の<ruby><rb>差障</rb><rt>さしさは</rt></ruby>りもないのに、人と争ひ、人を憎んでゐるものの苦しみです。かういふ苦しみから、人々を救はねばならないと、私は思ふのです。それには先づ第一に、私自身が一つの真理を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、偉くならねばならないのです。」

「…………。」

「しかし、その真理がいくら探し求めても、わたしには悟れないのです。師は行を積むことが悟に到る道だと仰有いました。わたしはその行を人一倍積んで来たつもりです。山へ<ruby><rb>柴</rb><rt>しば</rt></ruby>を刈りにもゆきました。町は<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>のやうに<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>にもゆきました。座禅もしました。米も搗きました。しかし、ここへ来てから、もう四年にもなりますのに、わたしにはその真理どころか、真理のかげさへ見えないのです。」

「…………。」

「だからわたしには、<ruby><rb>疑</rb><rt>うたがひ</rt></ruby>がおきて来たのです。こんな米を搗いたり、托鉢をしたりすることと、求めてゐる誠の道と、何の関係があるのだらう、と思はれ出しました。」

良寛さんは、国仙和尚がもう何かいつてくれるかと思つて、ここでしばらく和尚の顔を見てゐたが、和尚は黙つてゐた。

「どこに真理があるか、私はそれを知りたいのです。」

「わしは知らん。」

と始めて国仙和尚が口を開いた。

「わたしが愚か者だから、さう仰有るのでせう。教へても解らないから、駄目だとお思ひですか。そんなら、さうとはつきりいつて下さい。駄目なものならば、わたしは<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めます。」

「諦めろ。」

「そんなに簡単に諦められません。わたしのどこが馬鹿なのです。それを教へて下さい。いけないところはなほします。」

「うるさい<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>ぢや。」

「すみません。」

良寛さんは黙つてうつむいた。

「良。」

「はい。」

「おぬしが、それほど悟りたいなら、<ruby><rb>仙桂和尚</rb><rt>せんけいをしやう</rt></ruby>のとこへいつてきいて来い。あれはなかなかよく知つてをる。」

それから国仙和尚は、仙桂和尚のゐる寺を教へてくれた。それは、ここから余り遠くなかつた。

良寛さんの心は動いた。仙桂和尚のところへ行けば、何か教へられることがあるかも知れない、と思つた。

「それでは、今からすぐ行つても、ようございますか。」

「うん、行つて来い。よくその真理をきいて来い。」

そして良寛さんが出てゆかうとすると、

「それからな、今晩あたり月がいいから、一ぱい飲みに来るやうに、和尚に伝へろ。いい酒を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>つたからといつてな。」

といつた。

良寛さんが山門を出て来ると、そこには三、四人の女の子がゐた。良寛さんを見ると中の一人が、

「あつ、いいとこへ良寛さんがおいでだ。」

といつた。

良寛さんは暇なとき、よくこの子達とおはじきをしたり、<ruby><rb>手毬</rb><rt>てまり</rt></ruby>をついたり、雪の国、越後のお話を、きかせてやつたりして遊ぶので、女の子達から親しまれてゐた。

「良寛さん、お願ひ。」

と、頭を<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐひ</rt></ruby>でしばつてゐる子守がいつた。

「何だい。」

「悪太郎があそこへ毬をあげてしまつたから、取つておくれな。」

見ると、松の大木の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずゑ</rt></ruby>の方から張り出した枝に、手毬がちよこんと載つてゐる。

「あんな高いところだもん、とれるもんか。」

と、良寛さんは気が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いてゐるので<ruby><rb>辞</rb><rt>ことわ</rt></ruby>つた。

「でも良寛さん、男だもの、のぼつてつて取つておくれな。」

「今忙しいから駄目だ。」

さういつて良寛さんは、さつさと通りすぎてしまつた。

女の子達は、いつもと良寛さんの様子が違ふので、変に思つて、ぽかんと見送つてゐた。

良寛さんは、あんな冷淡なことを女の子達にいつて、いけなかつたな、と心の中で悔いながらも、真理を早くきくため道を急いでいつた。

のどかな春の丘には、明かるい幸福があふれてゐた。牛は海の方を見てときどき鳴いてゐた。海には白帆が、その上には<ruby><rb>菫色</rb><rt>すみれいろ</rt></ruby>の雲が、じつと動かずにゐた。そこら一めんに<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろふ</rt></ruby>がもえ、路のふちにはたんぽぽが、<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>のお<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>のやうに落ちてゐた。しかし良寛さんは、やがて真理がきけると思ふ興奮で、そんなものには眼もくれず道を急いでいつた。

寺の前の畑で、百姓みたいな顔の坊さんが、<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>はしよりして菜をとつてゐた。時々円通寺へ、この坊さんは来るので、良寛さんも顔だけは知つてゐた。ひどく<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>がわるいので、どうせこの寺に<ruby><rb>厄介</rb><rt>やくかい</rt></ruby>になつてゐる<ruby><rb>雲水</rb><rt>うんすゐ</rt></ruby>坊主位のものだらう、と思つて、

「今日は、和尚はをられますか。」

と軽くきいた。

「ああ、<ruby><rb>居</rb><rt>を</rt></ruby>る。」

といつて、また菜をとつてゐる。

「円通寺から来た者ですが、ちよつと和尚さんにお目にかかりたいのです。」

「さうかい、何の用かい。」

「用は和尚さんにぢかに申しあげたいのですが。」

「さうかい。わしが和尚ぢやが。」

「え、あなたが。」

良寛さんはびつくりした。

「うん、わしが。」

「仙桂和尚さんで？」

「うん、仙桂だよ。」

「さやうですか。」

良寛さんは改めてお辞儀して、お見それしましたと<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>した。

「なあに、構ふもんか。和尚だつて雲水だつて同じだ。同じ坊主だ。時に用事は何だい。」

良寛さんは、今まで張りつめて来た気が、一ぺんで緩んでしまつた。何も<ruby><rb>訊</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねる気はしなくなつてしまつた。

そこで、

「大変よく菜が出来ましたね。」

と、畑を見まはしていつた。

「うん、まあ、ぼつぼつさね。何ならちつとあげようか。持つていつて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おしたし</span>にでもさつしやい。」

「そいぢや、少し頂きませう。」

「うん、ほしいだけひきぬきなせえ。<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>がここにあるで、縛るがええ。」

良寛さんは畑へはいつていつて、そこにあつた<ruby><rb>鍬</rb><rt>くは</rt></ruby>をとつて、よく肥えてゐるところを少し<ruby><rb>掘</rb><rt>ほ</rt></ruby>りとつた。

「こんなに<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>菜を作つて、菜ばかり<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べてをるのですか。」

「ああ、さういふわけでもねェ、ほしい者にくれてやるだ。」

仙桂和尚はさういつて、せつせと菜の<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>をつくつた。もう二十位束が出来た。

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>ァ、今からちよつくら町へゆくが、お前さん寺で待つとるか。」

「さうですね。いつ時分帰つて見えますか。」

「さうよなァ、晩にや帰つて来るがな。いや解らん。酒でも飲まされると、途中で寝ちまふことがあるで。」

まだ日は高いので、晩まで待たされるのは大変だと、良寛さんは思つた。

「そんなに待つちやゐられません。」

「そいぢや、お前さんもついて来るか。」

良寛さんは、いつの間にかのどかになつてしまつてゐた。もう、何のために円通寺からここへやつて来たかも、忘れてしまつた。

「ええ、お<ruby><rb>供</rb><rt>とも</rt></ruby>しませう。」

仙桂和尚は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふご</span>の中に菜を入れて、<ruby><rb>天秤棒</rb><rt>てんびんぼう</rt></ruby>でになつた。良寛さんはそのあとについて、町の方へ出掛けた。

町へはいると一軒々々、

「今日は菜はいらんかのう。」

と仙桂和尚はきいた。そして欲しいといふ家へは一束づつやつた。菜を貰つた家ではお礼に、<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>や、みかんや、芋などをくれた。お酒を茶わんに一ぱい飲ませてくれた家もあつた。

「お前も飲まんかい。」

と仙桂和尚にいはれると、良寛さんは、いつもなら<ruby><rb>辞</rb><rt>ことわ</rt></ruby>るところだが、ついつりこまれて、

「ぢや一ぱい<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になりませう。」

と<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちやうだい</rt></ruby>してしまつた。何しろ仙桂和尚の春風のやうな、のんびりした人柄が、良寛さんの心も、さいうふ<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあひ</rt></ruby>にしてしまふのであつた。

町で一人の美しい盛装の坊さんに行きあつた。法事の帰りか何かで、大きい扇子をパシパシいはせながら、威張つて歩いてゐた。かういふ坊さんに限つて、中味が浅く薄くて、俗人とちつとも変らぬ根性を持つてゐることを、良寛さんはよく知つてゐた。しかし仙桂和尚は、そのお坊さんの前で、まるで百姓のやうに、ははあと深くお辞儀した。坊さんは仙桂和尚の方にながしめをくれて、通りすぎていつた。

「あれは<ruby><rb>何方</rb><rt>どなた</rt></ruby>ですか。」

と良寛さんは<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてきいた。

「知らんて。いづれ、その辺の坊さんだらう。」

と仙桂和尚は、けろりとしてゐた。良寛さんはますます呆れた。

「よその宗派のわけのわからぬやうな坊主に、あんなにていねいにお辞儀するのですか。」

「うん。」

と仙桂和尚は笑つていつた。「自分で偉い気でゐるのだから、お辞儀しておけばいいのだ。」

何といふこだはりのない人だらう、と良寛さんは思つた。

帰りに麦畑の間を歩いてゐるとき、折角訪ねて来て、何もきかずに帰るのも変だと思つて、良寛さんは、

「あのう、国仙和尚があなたはよく知つてをるから、きいてこいと<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>つたので、うかがつたのですが……。」

といふと、

「何だい、学問のことか。学問はわしは知らん。わしが知つとるのは、菜をつくることだけだ。」

といつた。

「それでも国仙和尚は、あなたにきけば疑は晴れると仰有いました。」

「わしは何も知らん。お経も読まんし、参禅もせんし、根つからの怠け坊主ぢやで。」

ほんたうにこの和尚は、お経の文句一つも知つてゐないやうに思はれた。円通寺へ来ても、参禅を一ぺんもしないことは、よく良寛さんは知つてゐた。それがこの和尚のことだと、少しも不思議ではなかつた。

来るときとは正反対の、温いみちたりた気持で、良寛さんは帰途についた。片手にはお土産の菜の束をぶらさげて。

「慌てたつて駄目なんだ。」

と大きな声で良寛さんは、ひとりごとをいつた。

目の前の麦の中から、<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>がとび出して、少しあがつていつたかと思ふと、<ruby><rb>囀</rb><rt>さへづ</rt></ruby>りはじめた。

「なるやうにしかならないのだ。」

と良寛さんは雲雀を眼で追ひながら、又ひとりごとをいつた。

雲雀は太陽の前を通るとき見えなくなつてしまつた。声だけ聞えた。

「落着いて、こつこつ与へられたことを、やつてをればいいのだ。」

良寛さんは、さういつて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くさづみ</span>をとび越えた。

今までにない安らかさが、良寛さんの胸にはたたえられてゐた。

師、国仙和尚が、仙桂和尚のところへゆけばわかるといつたわけが、どうやら良寛さんにうなづけた。

山門の前には、まだ女の子達がゐた。もう毬のことはあきらめて、石段の上でおはじきをしてゐた。

「毬とつてやらうか。」

と良寛さんは女の子達にいつた。

良寛さんは、あまり木のぼりは、うまくなかつたので、なかなか骨が折れた。枝をゆすつて毬を落して下りて来たときには、衣は破れてゐた。足には擦りむき傷が出来てゐた。

「良寛さん、済みません。」

と女の子たちは良寛さんを、いたはつていつた。

「いいよ、いいよ、またあとから遊ばう。」

さういつて良寛さんは、にこにこしながら山門をはいつていつた。

## 十　生き埋め

丘の大麦は暑い頃になつて熟れる。

まだその頃も、空の<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かで忘れられたやうに<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>は鳴いてゐる。しかし雲雀の声も、もう人々の耳に珍しくはなくなつて、人々は雲雀といふものも、あんまり長く鳴きすぎると思ふ。

雲雀にくらべると子供達はかしこい。子供達が麦畑から黒穂をぬいて、麦笛の平和な音を流してゆくのは、麦畑の緑のうちばかりだ。麦がまぶしい黄色になる頃には、子供達はもう吹かない。

麦は熟れると、百姓達は大変忙しくなる。早く麦を刈りとつて、そのあと田植をしなきやならない。田植が遅れると、お米がたくさんとれないのだ。

朝早くから百姓達は、麦を刈るだけの力のあるものは、みんなひきつれて、野に出ていつてしまふ。あとに家に残るのは、眼の見えない<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんか、ゆりかごの中の赤ん坊か、<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>で金の眼を細くしてゐる猫ばかりである。その婆さんだつて、何処の家にもゐるわけぢやない。だから百姓ばかりの村では、日中に誰もゐないことが多い。

<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>ばつかり、かんかん照つて、ひつそりしてゐるところへ、遠い蛙の声が寂しく流れて来る。

こんなときを<ruby><rb>空巣狙</rb><rt>あきすねらひ</rt></ruby>は、大層好むのである。

何しろ、お婆さんは眼に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やに</span>が一ぱい詰つてゐるので、<ruby><rb>垣根</rb><rt>かきね</rt></ruby>の向かふを誰が歩いてゐるのか、さつぱり見えないし、猫は見て知つてゐたつて、犬ぢやないから、<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>えることが出来ない。赤ん坊と来ては、てんでお話にならない。<ruby><rb>泥棒</rb><rt>どろぼう</rt></ruby>とお父さんの区別がつかないのだから。出てゆきがけに泥棒がお<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいけう</rt></ruby>に、べろべろべろといつてあやすと、手足をばたばたやつて喜んでゐる始末だ。<ruby><rb>茶釜</rb><rt>ちやがま</rt></ruby>と一緒に泥棒に持つていつてしまはれないのが、せめて、お慰みといつたわけである。

それで昨日も一昨日もその前も、百姓達は夕方くたびれて家へ帰つて見ると、不在中に泥棒が訪ねて来たことを知つた。茶釜がなくなつてゐたり、<ruby><rb>米櫃</rb><rt>こめびつ</rt></ruby>の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>があいてゐたり、仏壇の下の<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>が、ひき出したままになつてゐたり、――さういふことで泥棒が訪ねて来たことはわかるのである。

誰だつて泥棒は<ruby><rb>嫌</rb><rt>きらひ</rt></ruby>だけれども、それは泥棒が物を持つてゆくからといふのではない。誰もゐないときを<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>つて、黙つてはいつて来るから<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>なのである。だから、草履を一足とられただけで、反対に泥棒が立派な<ruby><rb>煙草入</rb><rt>たばこいれ</rt></ruby>を忘れていつたので、さしひきすると得をしてしまつた<ruby><rb>勘又</rb><rt>かんまた</rt></ruby>さんでも、<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゆう</rt></ruby>のぴかぴか光つた茶釜と<ruby><rb>牝鶏</rb><rt>めんどり</rt></ruby>を一羽盗まれた<ruby><rb>弥助</rb><rt>やすけ</rt></ruby>さんと同じやうに、かんかんになつて怒つた。「めつけたら、首をねぢ折つてくれるだ。」と、何度もいきまいて、翌日畑へ出かけたのである。

<ruby><rb>一畝</rb><rt>ひとうね</rt></ruby>麦を刈つてしまふと、ちやうど腰が痛くなるので、その時百姓達は腰をのばす。そのついでに小手をかざして、村の方を見張るのだから、大層<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあひ</rt></ruby>はいい。

すると、とうとう<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>頃、勘又さんがそれらしいものを見つけた。

<ruby><rb>饅頭型</rb><rt>まんぢゆうがた</rt></ruby>の<ruby><rb>笠</rb><rt>かさ</rt></ruby>を深くかむつた、乞食みたいな坊さんがひとり、手に<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>の子をもつて北の方からやつて来た。そして右も左も見ないで、すつと村の中へはいつていつた。

ああいふ風で村に、はいつてゆくのは、まことにふてぶてしい<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>だと、勘又さんはもう腹が立つて来た。

「おォい、弥助ェ、今の奴、見たかよォ。」

と勘又さんは、向かふの麦畑にゐる弥助さんに呼びかけた。

「おォ、見たぞォ。」

と弥助さんが答へた。

「とつつかめに行かうかよォ。」

勘又さんは<ruby><rb>鎌</rb><rt>かま</rt></ruby>を握つたまま、弥助さんの方へ歩き出した。

「でも、ありやァ、坊さんぢやねえかァ。」

弥助さんは、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほほ</rt></ruby>かむりをとつてはたいた。

「坊主だつて泥棒をしねェとは限るめェ。<ruby><rb>河内山宗俊</rb><rt>かうちやまそうしゆん</rt></ruby>だつて大泥棒だァなァ。」

「ほうだかなァ。」

そこで弥助さんも、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>一ぺん家へいつて見る気になつた。

二人は二人きりでは心細かつたので、<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>働いてゐる百姓達をさそつていつた。しまひには全部で十人位になつた。みんなは手に手に鎌や<ruby><rb>縄</rb><rt>なは</rt></ruby>や<ruby><rb>天秤棒</rb><rt>てんびんぼう</rt></ruby>などを持つて来た。

良寛さんは朝から寂しくて、やりきれなかつた。ちやうど秋の末、葉をすつかり払ひ落されて丘の上に、うそ寒い風に吹かれて立つてゐる一本の木のやうに、自分の心が何のよるべもなく、ぽつんとこの世界に取残されてゐるやうな感じであつた。涙も出て来ないほどの、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>からの寂しさであつた。

この頃は、こんなことが度々、良寛さんにはあつた。去年お母さんが、なくなつたことが、やはりもとになつてゐるらしい。あとを弔ひに<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>の出雲崎に帰つたときには、弟妹達も大きくなつてゐたので、それほどお母さんの死を、ひどく感じはしなかつたのに。

何しろ良寛さんは、もうほんたうに一人ぼつちだ。お母さんが生きてる間は、なあに誰も<ruby><rb>可愛</rb><rt>かはい</rt></ruby>がつてくれなければ、お母さんの所へ帰つてゆけばいいのだ、さうすればお母さんは、いつものやうに温かく優しく、迎へてくれるのだといふ気持が、心の何処かに隠れてゐた。それで安心してゐることが出来たのだ。ところがそのお母さんは、もう何処にもゐないのである。弟や妹が大きくなつてゐるとて、どうして長男の良寛さんが、頼つてゆくことが出来よう。お父さんはまだ達者だ。しかし、そのお父さんも、この頃では<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど行方不明同然で、何処にどうしてゐるのか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないのだ。

ほんたうに一人ぼつちだと思ふとき、人は何といふ寂しいことだらう。寂しいからとて泣く気も起きない。泣いたつて誰もどうしてくれるわけでもない。又人が慰めてくれたつて、それでなほつてしまふやうな、浅い寂しさではないのだ。

しかし、良寛さんは思つた。昔の偉かつた坊さん達は、きつとかういふ一人ぼつちの寂しさに耐へていつて、とうとうその寂しさを、寂しさとも思はないやうになつたのだらう。<ruby><rb>蝸牛</rb><rt>かたつむり</rt></ruby>が背中に自分の<ruby><rb>殻</rb><rt>から</rt></ruby>を背負つてゐるやうに、自分の心一つに、自分の寂しさを背負つて、その寂しさを<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>へていくことが、きつと立派な修行なんだらう。そして始めて、人は自分の魂を、上等品に<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>きあげることが出来るのだらう。

そこで良寛さんも、どこまでも、今日は自分を一人ぼつちにしてやらうと決心して、<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>の子を一つ持つて外に出たのであつた。

足にまかせて良寛さんは歩いていつた。もつと寂しくなれ、もつと一人ぼつちになれ、と心の中でいひながら。

自分の心ばかり見つめてゐると、人は眼を開いてゐながら、自分が何処を歩いてるのか知らないでゐることが多い。ふと<ruby><rb>気附</rb><rt>きづ</rt></ruby>くと良寛さんは、一つの村の中を歩いてゐた。

どうやら自分は少々疲れたらしい。足が重い。そこで良寛さんは、<ruby><rb>辻堂</rb><rt>つじだう</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたはら</rt></ruby>に腰をおろして<ruby><rb>憩</rb><rt>やす</rt></ruby>んだ。

胸のところに何か固いものが触る。何だらうと思つて手をやつて見ると、寺を出るとき<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に入れて来た<ruby><rb>手毬</rb><rt>てまり</rt></ruby>だつた。何処かで子守達にゆき合つたら、一緒について遊ばうと思つて持つて来たのだつた。

百姓達はみんな麦刈に出てしまつて、あたりには誰も人はゐない。これなら大丈夫と思つて、良寛さんは一人で手毬をつきはじめた。

玉島へ来てから、よく子守の少女達と手毬をついたり、おはじきをはじいたりして遊ぶので、良寛さんは、もう大分女の子の遊戯が上手になつてゐた。良寛さんのすんなりした手と、乾いた地べたの間を、色の糸でかがつた美しい手毬はよい調子で<ruby><rb>往復</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>した。

すると良寛さんの口には、自然に女の子達がうたふ<ruby><rb>手毬唄</rb><rt>てまりうた</rt></ruby>がのぼつて来た。

<ruby><rb>麦</rb><rt>むゥぎ</rt></ruby>ィついてェよォ麦ついてェ

御ォ手にまァめが<ruby><rb>九</rb><rt>こォこの</rt></ruby>つゥ

九つゥの<ruby><rb>豆</rb><rt>まァめ</rt></ruby>を見ればァ

おォやの<ruby><rb>里</rb><rt>さァと</rt></ruby>がこォひしやァ………

もう少しで一貫貸すところであつた。突然手毬が、ぽォんと向かふへとんで行つた。誰かの足が<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>とばしたのだ。

「こいつだ。」

「縛つちまへッ。」

とすぐ頭の上で声がした。そして良寛さんは、何の苦もなく、縛りあげられてしまつた。

「図太い<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>坊主だ。泥棒に来て、人がゐねえと思つて毬ついて遊んでゐやがる。」

この人達は、自分を泥棒と間違へてゐるのだ、と良寛さんは思つた。しかし「わしは泥棒ではない。」と弁解する気が起きて来ないのであつた。もつと一人ぼつちになれ、一人ぼつちがどうなるか見てゐてやれと、良寛さんは思つた。

百姓達から<ruby><rb>悪罵</rb><rt>あくば</rt></ruby>を浴びせられ、うしろから小突かれながら、良寛さんは村役人の家にひつぱられて来た。その間、百姓が何を<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いても良寛さんは<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>のやうに黙つてゐた。

「申しあげますだ。この間からの昼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんび</span>をとつ<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まへましただ。」

と勘又さんが、まだ家の中へはいらないうちに、井戸のこちらから大声でいつた。

「何、昼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんび</span>ッ。」

<ruby><rb>書物</rb><rt>かきもの</rt></ruby>をしてゐた役人はびつくりした。

「庭へひつ据ゑておけ。今すぐ調べに出る。」

と外に向かつて命じ、すぐ<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をつけ、刀を掴んで<ruby><rb>縁端</rb><rt>えんばな</rt></ruby>に出て来た。

昼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんび</span>といふから、<ruby><rb>赫</rb><rt>あか</rt></ruby>ら顔の、口のあたりに、もぢやもぢやと無精ひげの生えた、眼のぎよろりとした、屈強の男かと思つて出て来た役人は、庭にちよこんと<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>つてゐる<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せぎすの、悲しいばかりに柔和な坊さんを見て拍子ぬけがした。

「何だ、<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりよ</rt></ruby>ではないか。」

と役人は、<ruby><rb>裁</rb><rt>さばき</rt></ruby>をするときの姿勢に坐つていつた。

「坊主だつて油断ならねえですだ。<ruby><rb>河内山宗俊</rb><rt>かうちやまそうしゆん</rt></ruby>て坊主は、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>さんも芝居で見て御存じだらうけが、えらい<ruby><rb>大騙</rb><rt>おほかたり</rt></ruby>でしただ。」

と勘又さんがいつた。

それから審問が始つた。ところがそれは、始つたばかりで、いつまでたつても進んでゆかなかつた。役人は調べの帳面を開いたままで、何も書くことが無かつた。といふのは、坊さんが一切合財、ものをいはなかつたからである。

<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>したり、すかしたりして、問ひかけて見たが<ruby><rb>無駄</rb><rt>むだ</rt></ruby>であつた。しまひには役人は声が<ruby><rb>嗄</rb><rt>か</rt></ruby>れて来た。そこではじめて、これは<ruby><rb>石燈籠</rb><rt>いしどうろう</rt></ruby>に向かつて物をいつてるのと、同じだといふことがわかつた。

百姓達も業を煮やしてゐた。勘又さんは、泥棒が置きわすれていつた。煙草入を突きつけて、

「これに見覚えがあらうがッ。お主の物だらうッ。いくら地蔵さまみてェに澄ましてをつたとて、つまりはお主は、煙草吸ひの昼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんび</span>に<ruby><rb>違</rb><rt>ちげ</rt></ruby>ェなからう。」

といつた。そしてそれでも坊さんが返事をしないと、「てッ、ふてぶてしい煙草吸ひの昼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんび</span>だッ。」といひながら、煙草入で坊さんの鼻を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いた。

――もつと一人ぼつちになれ、どうともなれ、と良寛さんは、心の中でいひ続けてゐた。

とうとう良寛さんは、村はづれの松林の中へつれて来られた。みんなはそこへ、この「昼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんび</span>に違ひない坊主」を、生き埋めにしてしまふといふのであつた。

「そげなことをして、ええだかよ。」

と、来る道で何度も弥助さんが、びくびくしながらいつた。

「ええも悪いもあるめェ。こいつは人に迷惑かけただ。人の物を無断で盗んだだ。」

と勘又さんは、口をとがらせてわめいた。

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おら</rt></ruby>あ、<ruby><rb>茶釜</rb><rt>ちやがま</rt></ruby>と鶏一羽くれェ、くれてやつとくだ。あんなもなァ欲しくねェだ。」

と弥助さんはいつた。

「今更、何をいふだ。お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>が許したつて<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>が許さねェよッ。」

「ンでも勘又さ、お前はさう怒ることあるめェが。古草履一足盗られたきりぢやねェか。そして上等の煙草入を置いてつて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>つたぢやねェか。かへつてお前の方からお礼申しあげなきやなるめェ。」

「何をいふか、この<ruby><rb>阿保</rb><rt>あほ</rt></ruby>ッ。あの草履はそんな安いもんぢやねェ。<ruby><rb>金巾</rb><rt>かなきん</rt></ruby>の緒がすがつてただ。」

「争ふな。」

と役人はいつた。「わしがこの盗人を生き埋めにせよと命ずるのだ。」

役人は、いくら声を<ruby><rb>嗄</rb><rt>か</rt></ruby>らして<ruby><rb>訊問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>しても、相手がまるでこちらを<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>にしてるやうに、返事をしないので、威厳を損はれたと思ひ、腹を立ててゐたのである。

「ここを掘れ。」

と役人は命じた。

<ruby><rb>鍬</rb><rt>くは</rt></ruby>をかついで来た勘又さんが、掘りはじめた。みんなはその<ruby><rb>周囲</rb><rt>まはり</rt></ruby>に立つて見てゐた。良寛さんも見てゐた。まるで<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>のことのやうに平気で見てゐた。だんだん穴が深くなるにつれて、百姓達の方がかへつてはらはらしはじめた。こんなところへ来るのではなかつた、とみんなは思ひはじめた。

「ごめんなせェ。俺あちよつくら家いつて来るだ。」

と弥助さんは向かふへいきかけた。みんなは心細くなつてゐたので、

「な、何しに？」

ととがめた。

「あのゥ、鶏に<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>の<ruby><rb>餌</rb><rt>え</rt></ruby>をやつてくるだ。」

「いかん。」

と役人はとめた。「お前らは全部立会人だ。一足も動いてはならん。」

弥助さんは泣き顔をして、またみんなのところに<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>つて来た。

「もうええだらう。」

といつて、胸の深さまで掘つた勘又さんが、穴から出て来た。

「罪人を突き落せ。」

と役人は命じた。

そこでちよつと動揺が起つた。みんながしりごみしたのである。

――一人ぼつちだ、一人ぼつちだ、一人ぼつちもこれでおしまひだ、と良寛さんは、静かに思つてゐた。

その時、誰かが林の中へ走りこんで来た。<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>のよい、<ruby><rb>齢</rb><rt>とし</rt></ruby>とつた百姓だつた。「おお、吉三郎さん。」と百姓達は、救はれたやうに、ほつとして<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「坊さんを生き埋めにするといふことをきいて、飛んで来ましただ。」

と吉三郎さんはいつた。「まァ、待ちなせェ。埋めるのはいつでも埋められるだ。」

それから、しばらく吉三郎さんは、良寛さんの眼をじつと見てゐた。良寛さんもその齢とつた百姓の眼を見てゐると、それは大層やさしい温い心を奥に<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>へてゐた。

「この方が昼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんび</span>？　どうも信じられぬ。」

と吉三郎さんは呟いた。

――これは物の解つた、静かな心の持主だ、と良寛さんは思つた。

「ひよつとしたらお前さんは、玉島の円通寺にゐなさる坊さんぢやないか。何でも<ruby><rb>越後</rb><rt>ゑちご</rt></ruby>の方から修行に来てゐる坊さんで、一風変つた偉い人がゐるといふことをうかがつたが。」

良寛さんは、ふつと<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさのこみあげるのをとめられなかつた。

「さうです。私です。ちつとも偉くはありませんけれども。」

「やつぱりさうだつた。」

それから吉三郎さんは、みんなや役人に、良寛さんの心の清純なことを説明した。みんなも良寛さんのことならきいて知つてゐた。

「知らずに悪いことをしましただ。」

とみんなはあやまつた。

「辻堂のとこで手毬をついてゐられたで、こりやどうも<ruby><rb>可怪</rb><rt>をか</rt></ruby>しい。昼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんび</span>が手毬をつくやうな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しをらしい</span>ことはすまいと、あの時思つただけど、何しろ<ruby><rb>俺達</rb><rt>おらたち</rt></ruby>や<ruby><rb>南瓜</rb><rt>かぼちや</rt></ruby>みてェな馬鹿ばかりだで。」

と一人はいつた。

「俺あ、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>さんの鼻をひつぱたいて<ruby><rb>相済</rb><rt>あひす</rt></ruby>まんだ。俺の鼻をぶつ叩いて気を晴らしてくだせェ。ぺちやんこ鼻だで、叩いても<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>のねェことだらうけど。」

と勘又さんもあやまつた。

「なあに、なあに。」

と良寛さんはいつた。

帰る途で吉三郎さんが、

「それにしても良寛さんは、生き埋めにされるといふのに、どうして一言もいひわけを<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>らなかつたのです。」

ときいた。

良寛さんは答へていつた。

「何もかも因縁だと思つてあきらめてをりました。こんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">め</span>にあふのは、いつか私が何処かで悪いことをしたのだらう、その報いなのだらうと思つてゐたのです。」

「ぢや、わしらを<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んぢやゐなかつただね。」

と勘又さんはいつた。

百姓達の多くの眼に涙が浮かんで来た。――こげな人もあるだ、こげな心のいい人も、とみんなは思つたのだつた。

さつきの辻堂の傍を通りかかつたとき、良寛さんは、きよろきよろと、あたりを<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めまはした。

「お銭でも落しましただかね。」

と百姓達はきいた。

「何の、何の。」

さういひながらも良寛さんは、そちこち探してゐた。

そして向かふの<ruby><rb>茱萸</rb><rt>ぐみ</rt></ruby>の根方に、ころがつてゐる手毬を見つけると、急いでいつて、こつそり<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>の中へ拾ひこんだ。みんなに見られたくなかつたのである。

しかしみんなは、それが何であるかを見てしまつた。そしてお互に顔を見合つた。

「何といふ心の純真な人なのだらう。まるで子供のやうに。」

みんなの眼は、さう語り合つてゐた。

## 十一　漂泊

「坊さん、疲れてゐなさるだね。」

と良寛さんは、うしろから声をかけられた。<ruby><rb>肥前長崎</rb><rt>ひぜんながさき</rt></ruby>から、東の方へゆく街道の上だつた。よく晴れた秋の<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>近くで、畑のそちこちには、<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>の白い花が<ruby><rb>清々</rb><rt>すがすが</rt></ruby>しく見え、ときどき空を横切りながら、細い澄んだ声を落してゆくのは<ruby><rb>鶸</rb><rt>ひわ</rt></ruby>であつた。

「ああ。」

と返事しながらふりかへつた良寛さんは、慌てて道をあけた。一台の<ruby><rb>牛車</rb><rt>うしぐるま</rt></ruby>がすぐうしろに来てゐたからであつた。

「坊さん、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>まで行きなさるだ。」

と、牛の頭のわきを歩いて来た牛飼は、またいつた。

「何処までといふことはない。ゆけるところまでいくのですわい。」

と良寛さんはいつた。

百姓は<ruby><rb>笠</rb><rt>かさ</rt></ruby>の下をのぞいて、坊さんの顔をよく見ると、上品で優しさうな人だつたので、

「よかつたら、車にのりなされや。<ruby><rb>空車</rb><rt>あきぐるま</rt></ruby>だで、ええに。」

といつた。

「さうかな。それは<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけな</rt></ruby>い。」

良寛さんは、牛車のうしろへまはつて、上にのつた。

車の台の上では、道のでこぼこで車が上下するにつれて、三、四粒の穀物が踊つてゐた。それを見ながら良寛さんは、牛飼の親切を<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しく思つた。

車は、秋の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>のなかを、ぎいぎいときしりながら、のろのろ進んでいつた。

良寛さんは前の方を見てゐて、奇妙に思つた。といふのは、親切な牛飼は、牛の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたはら</rt></ruby>を腕を組んで歩いてゐるばかりで、牛の手綱を持つてゐるのは、十二、三にしか見えない男の子供だつたからである。子供は牛を御してゆくのに、一生懸命の様子だつた。坂道にかかると、「しッしッ。」と牛をはげまし、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の車とゆき違ふときは、「どうどう。」といひながら、牛の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>を押して道をあけるのであつた。

――<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>小さな子供になんか、手綱を持たせておいて、自分は大人の癖に、手を遊ばせてゆくのだらう、と良寛さんは、親切な牛飼を見て思つた。

太陽が真南に来た。松林の向かふの村から、<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>を知らせる鐘の音が聞えて来た。大分揺られて来たので、良寛さんは、お<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>が痛くなつた。

「ここで弁当を<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べよかよ。」

と牛飼はいつた。

ちやうど、道ばたに松の大木が立つてゐた。牛の手綱は松の根本につながれた。

牛飼達は自分が弁当を<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べる前に、牛の<ruby><rb>餌</rb><rt>ゑ</rt></ruby>を与へるのがしきたりだけれども、その仕事をするのも、奇妙なことに、子供なのであつた。牛飼の男は立つてゐて、あれこれと世話をやいた。そして子供が、やり方を間違へたり、まごまごしてゐると、きびしく<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>つた。

子供は車の上の袋から、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からこ</span>と、こまかく刻んだ<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>を<ruby><rb>飼葉桶</rb><rt>かひばをけ</rt></ruby>に入れた。それから、<ruby><rb>瓢箪</rb><rt>へうたん</rt></ruby>を二つに割つて作つた器をもつて、道の下の<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な小川から水を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>つて来て、餌にまぜた。

桶を鼻の下へ持つて来て<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ふと、牛は子供の骨折を、何とも思つてゐないもののやうに、すぐ顔を、その中へ突つこんで、もぞりもぞりと喰べはじめた。

それだけの仕事が済んでしまふと、牛飼は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く、子供に自分達の弁当を取出させた。良寛さんは見てゐて、これでは、まるで牛飼は子供より牛の方が大事らしいな、と思つた。

「坊さん、あんたは何を召しあがりますな。」

と牛飼は、松の根方に腰をおろして、弁当を開きながらいつた。

「わしはまだ腹は<ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>いてゐませんぢや。」

と良寛さんはいつた。しかしほんたうは空腹であつた。ただ弁当を持つてゐなかつたのである。

「そんなことはありますめェ。<ruby><rb>正午</rb><rt>ひる</rt></ruby>になつて腹の空かねェちふものは、牛だつて人間だつてありませんだ。察するところ、弁当をお持ちなさらんのぢやろ。」

「お前さんはよく察しのきく仁ぢや。」

男は笑ひながら、

「そいぢや、わしがのを半分喰べさつしやい。えらう黒い飯で、お口に合ひますめェけれど。」

「何の、何の、わしは黒いのが大好物での。<ruby><rb>茄子</rb><rt>なす</rt></ruby>と飯は黒いほどええ。」

良寛さんは、そんな冗談をいひながら、弁当箱の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>にわけてもらつた御飯を喰べはじめた。

「坊さん、お前さんはいくつぢやね。」

「三十三ですぢや。」

「ほほう、三十三。ぢや、わしと同い年ぢやね。」

良寛さんは改めて男を見た。その男は、がつしりしてゐて首が太かつたので、良寛さんは四十位だらうと、思つてゐたのであつた。この男が自分と同じ三十三……。

同い年ときくと、人は急に相手と自分の身の上を、<ruby><rb>較</rb><rt>くら</rt></ruby>べて見るものである。良寛さんも早速はじめた。

「この子供衆はお前さんの何ぢやね。」

「この餓鬼はわしの長男ですがな。」

と牛飼は、ぞんざいな呼び方をしていつた。しかし、子供を見る眼は柔かい愛情にみちてゐた。

「まだこの下が三人ありますだ。一番小さいのは、まだ庭を<ruby><rb>亀</rb><rt>かめ</rt></ruby>の子みてェに、<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>ひまはつてゐますだ。でも、こいつがもう十三になりました。もうぼつぼつ一人前です。」

「お前さんは、また自分の子だちふのに、どうして、もつと<ruby><rb>可愛</rb><rt>かはい</rt></ruby>がつて、やりなさらんのぢやね。いたいけな子供に何でもやらせて、自分は手を組んで見とるちふことが、あるものかな。」

「ははァ。」

と牛飼は笑つていつた。

「なるほど坊さんは、坊さんみたいなことを<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>るだ。だが坊さん、ああして難儀させにや、子供は一人前になれませんだ。」

それから牛飼は、もう二、三日前から、子供に牛を取りあつかふことを、教へこんでゐるといふこと、日頃見て知つてゐるから、なかなか覚えがよいといふことを、嬉しさうにいつた。子供もにこにこしながらきいてゐた。

――さうだつたのか、大人になる息子に、牛飼の仕事を教へてゐたのか、と良寛さんは今までの疑問が解けた。

「坊さんのお国は、どこですかい。」

牛飼は話をかへてきいた。

「<ruby><rb>越後</rb><rt>ゑちご</rt></ruby>の<ruby><rb>出雲崎</rb><rt>いづもざき</rt></ruby>といふところですが、もう十五、六年も<ruby><rb>備中</rb><rt>びつちゆう</rt></ruby>にゐますぢや。」

「ふむ、備中に。何でまたこんな九州くんだりへ、来なすつただね。」

良寛さんは黙つた。その答は、いひにくかつた。しかし、ごくりと飯をのみこんでからいつた。

「わしは<ruby><rb>清</rb><rt>シン</rt></ruby>へ渡るつもりで来ましたぢや。」

「へェ、清へ。どうしてまた清へなど渡りたいのですね。」

この問にも、良寛さんは答へにくかつた。しかし良寛さんは、ほんたうのことをいつた。

「清へ渡つて、学問をして、偉い坊主になるつもりでしたぢや。」

「ふむ、偉い坊さんにね。」

「わしみたいな<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>坊主が、そんな大それたことを、考へてゐたと思ふと、お前さんは<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しいぢやらう。」

「可笑しいにも何にも、わしは偉い人がどんなもんか、よく知りませんだ。偉い人になつたことが一ぺんもないからね。」

「わしは、世の中の苦しんでゐる人達を救ひたい念願を、長い間持つてゐましたぢや。そこで、世間で一番<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>はれてゐる<ruby><rb>癩病</rb><rt>らいびやう</rt></ruby>患者をあつめて、人々から石を投げられたり、棒で追つぱらはれたりする気の毒な<ruby><rb>境涯</rb><rt>きやうがい</rt></ruby>から、救つてやらうと思ひ立ちました。それには、お金を集めて大きい家を建て、よい医者を招かねばなりませんぢや。わしは二、三年<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>をして、一生懸命に、お貰ひものをためました。しかしわしは体が弱いのと、口が下手なのとで、二、三年かかつて<ruby><rb>貯</rb><rt>た</rt></ruby>めたお銭も、ごく僅かなものでした。こんな風では、わしが<ruby><rb>生涯</rb><rt>しやうがい</rt></ruby>をかけても、家一軒は愚か、牛小屋も出来ないことが、<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りましたぢや。それにもう一つ、大きな声では、いはれない障害のあることが解りました。」

「何ですかい、それは。」

「こればかりは、お前さんにも打明けられない。」

それは、その頃、天下を握つてゐた、<ruby><rb>徳川</rb><rt>とくがは</rt></ruby>幕府のことであつた。良寛さんのやうな、名もない<ruby><rb>一僧侶</rb><rt>いちそうりよ</rt></ruby>に、大きい家を建てて、<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>の病人をあつめて、施療を行ふといふ大きな仕事を、幕府が許すであらうか。さしでがましいことをする<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>だといふので、良寛さんは捕へられ、罪に落され、家は取りつぶされるといふのが、結末になるに違ひなからう。良寛さんが、いひたくつてもいへないのは、この不安であつた。

「さういふわけで、病人どもを救ふ考は、残念ながら、しばらく<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てねばなりませんでした。そこで今度は、長崎から清へ渡ることを企てましたぢや。昔から、<ruby><rb>支那</rb><rt>しな</rt></ruby>へ行つて偉くなり、帰つて来て寺を起し、世の中に善いことを残した坊主は沢山ある。わしも、それをやつて見ようと思つて、はるばる雲水して、長崎へやつて来ました。」

牛は、ときどき飼葉桶から顔をあげ、鼻の<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>にはいつた餌を、舌の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>で<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めとつては喰べてゐた。<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>が松林の上を高くなつたり、低くなつたりして鳴いてゐた。

「清へ渡るのは、<ruby><rb>御法度</rb><rt>ごはつと</rt></ruby>ぢやありませんかね。」

と牛飼はいつた。

「御法度ですぢや。御法度ぢやから、わしは内証で渡らうと思ひました。ちやうど今日<ruby><rb>碇</rb><rt>いかり</rt></ruby>をあげる船がありましたので、わしは海ばたへいつて、船のりに頼んで見ました。無論、相手は唐人のこと、わしらは言葉が通じないので、紙に漢字を書いて相談しましたぢや。しかし相手は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うさんくさ</span>さうに、わしをじろじろと見てゐて、首を横に振りました。わしの<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>がみすぼらしいから、<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>とでも思つたのぢやらう。いろいろ頼んで見ましたが、つひにきいてくれませんでしたわい。これもわしには縁のないことだと、わしは<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めましたぢや。」

「坊さん、あんたは諦めのよい人ですね。<ruby><rb>俺達</rb><rt>おれたち</rt></ruby>にや、とてもそんな諦めのよいことは、出来ませんだ。もつとも俺達は、清へ渡らうの、病人をあつめようだのといふ、大きな<ruby><rb>望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>は持たねェけんど。まあ俺達の望ちふのは、ちつとばかりの自分の田地を持つて、よい牛を買つて、男の子供を育てて、五十になつたら隠居したいちふ位の、つまらない望だね。」

「なるほど、なるほど。そいでお前さんは、その望を遂げましたかな。」

「ああ、ま、自分でいふのも<ruby><rb>羞</rb><rt>はづか</rt></ruby>しいけれど、この牛を見てくんなさい。これは<ruby><rb>俺</rb><rt>おら</rt></ruby>が村では一番ええ牛だね。坊さんは牛のことなんか、御存じあるめえが、額の小せェ、角がうしろに寝た、眼に黄味のある、かういふのが牛ぢや上等だね。」

「なるほど、なるほど。」

「この牛を、わしは自分で買ひましただ。田地も去年<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く五<ruby><rb>段</rb><rt>たん</rt></ruby>ばかり、自分の物にすることが出来ました。俺ァ次男に生れたんで、はじめ何もごぜェませんでしたが、くッくと働いて漸く手に入れましただ。そいから、この餓鬼がもう一人前になつてくれますだから、やがて隠居も出来ますだ。」

牛飼の面には、みちたりたものの喜びが<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れてゐた。

弁当が済むとまた良寛さんは、空車にのせて貰つた。ごとんごとんと車は歩き出した。

午後になると、綿くづのやうな小さい雲が、いくつか空に現れ、それが太陽の面をかすめるたびに、白い路はかげつた。

良寛さんはごとんごとんと揺すぶりあげられながら、牛飼と、手綱を持つた子供と、少しづつ首をふりながら、ゆつくり歩いてゐる牛を見てゐた。

良寛さんは思つた。――わしと同い年のこの牛飼は、望んでをつた田と牛を買ひ、望んでをつた子供を一人前に育てた。それに<ruby><rb>較</rb><rt>くら</rt></ruby>べてわしは、一体何をしとげたか。なるほどわしは多くの書を読んだ。かなり苦しい行も積んだ。人間や世界がどういふものか、大体わかることも出来た。しかしわしがやつて来た一切のことは、このままわしが何もせずに、のらくらと生きてゆくなら、何の<ruby><rb>価値</rb><rt>ねうち</rt></ruby>もないではないか。世間の人の上に働きかけて、苦しんでゐる人を救ひ、悲しんでゐる人を慰めてやらないならば、わしは今まで意味のないことをして来たのではないか。

――良寛、お前は何のために父母を棄てたのだ、何のために<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>を離れたのだ、と良寛さんは自分を責めた。

――よしッ、もう一ぺん長崎へゆかう、もう一ぺん船のりに頼んで見よう。是が非でも、つれていつてくれと、<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>つて頼んで見よう。良寛さんはさう<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>をきめた。

「わしは、もう、おろして貰ふぢや。」

と良寛さんは、いつておりた。

「どうなさるぢやね。」

牛飼は<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な顔をして、良寛さんを見た。

「わしは、もう一ぺん長崎へ<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>りますぢや。ちよつと思ひついたことがあるで。」

「さうですかね。」

牛飼は、良寛さんの胸の中に、どんな決意があるか知らなかつた。何か忘れ物でもしたんだらう位に思つたので、とめもしなかつた。

良寛さんは、弁当のお礼をいふと、牛飼達に別れた。そして半ば走るやうにして、今来た道をひきかへした。

秋は陽の落ちるのが早い。良寛さんが、長崎の街と湾を見おろす丘の上まで、<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついたときには、空に<ruby><rb>僅</rb><rt>わづ</rt></ruby>かに夕映が残つてゐて、海には黒く<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆふやみ</rt></ruby>がしみこんで来る時分であつた。

良寛さんは、街の方へおりてゆかうとした。しかし、その足はとまつてしまつた。

良寛さんの眼は、<ruby><rb>出島</rb><rt>でじま</rt></ruby>の先を通つて、今長崎の港を出てゆくところの、<ruby><rb>一艘</rb><rt>いつさう</rt></ruby>の帆船にとまつた。

その船には見覚えがあつた。朝、良寛さんが、乗せていつてくれと頼んだ、清の貿易船であつた。

折角、もう一度頼まうと思つて、ここまで息もつかずに<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて来たのに、船はもう出てゆくではないか。――良寛さんは絶望にとらへられ、その重さに耐へられぬかのやうに、草の上にくづをれた。

「おーい、待て。」と叫んで見たかつた。しかし、それが何にならう。たとひ良寛さんの声が、船のり共の耳に届いたとしても、どうして彼等が船を返すわけがあらう。

良寛さんは草をむしつた。そしてそれを<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みちぎつてくやしがつた。

――わしの最後の希望が……。

――わしの一切を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けた一すぢの綱が、今切れてしまつた。

船はだんだん小さくなつていつた。それは逃げていつて、再び帰つて来ない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">希望</span>の姿のやうに、良寛さんの眼にはうつつた。

「それでは、あんまりだ、あんまりだ。」

と良寛さんは口の中でいつた。いひやうもなく口惜しかつた。涙がついついと<ruby><rb>頬</rb><rt>ほほ</rt></ruby>をつたつた。

船が見えなくなると、空の夕映も消えた。青やかな夕闇ばかりの世界になつた。良寛さんはいつまでも<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>つたまま動かなかつた。これから先どうしていいか見当もつかなかつた。

どれだけの時間がそのまま過ぎたか、ふと良寛さんは耳をそばだてた。何かが聞えて来るのである。

それは丘の下の夕もやの中から、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かにのぼつて来て良寛さんの耳にとまつた。清純な美しい物音。まるで春の陽ざしの中をとんで来る<ruby><rb>蜜蜂</rb><rt>みつばち</rt></ruby>の羽音のやうに。

その小さい物音は、小さい<ruby><rb>生物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>のやうだつた。人の心に安らぎと幸福を分ち与へながら、あちらこちらと飛んでゆく。

しばらく聴いてゐて、良寛さんは、やうやくそれが、異人達の住んでゐる出島の寺から、鳴り出す<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆふべ</rt></ruby>の鐘の音であることがわかつた。

やがてそれは鳴りやんだ。鳴りやんだとき良寛さんは、心の中に今までとは別の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">希望</span>が、小さく頭をもたげて来るのを感じた。まるで今聞いた鐘の音の一つが、良寛さんの心にとまつて、そこに芽を吹いたかのやうだつた。

――わしは馬鹿だつた。わしは分不相応なことを<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>つてゐたのだ。考へて見るがよい。わしは名主職でさへ、満足につとめられないやうな、能なしではないか。そんな者が、清へ渡つて偉い坊主にならうの、人々に説いてまはつて、大きな病院を建てようのと、大それたことを考へたのが、間違のもとだつたのだ。

――牛飼は分相応の望を抱いてゐた。そしてそれをなし遂げた。わしもわしに出来る望をもたう。そしてそいつを、やり遂げよう。それが出来たら、更に次の望を持つことにしよう。

良寛さんは<ruby><rb>杖</rb><rt>つゑ</rt></ruby>と鉢を拾つて立ちあがつた。

## 十二　ふたたび故郷へ

長崎から清へ渡ることに、失敗した良寛さんは、また<ruby><rb>備中玉島</rb><rt>びつちゆうたましま</rt></ruby>の<ruby><rb>円通寺</rb><rt>ゑんつうじ</rt></ruby>に帰つてゐた。そしてまた以前のやうに、座禅したり<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>したりして日を送つてゐた。

師の<ruby><rb>国仙和尚</rb><rt>こくせんをしやう</rt></ruby>の眼には、この頃の良寛さんが、以前とは変つて来たのが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>つた。以前、どうかすると良寛さんは、或事に一心に思ひふけつて、穏和な眼に何か怪しく燃えることがあつたが、もうさういふことは、まるでなくなつた。毎日<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>のやうに、もくもくと仕事をし勉強をしてゐた。良寛もだんだん人間が出来て来た、ほんたうの自分を知つて来た、と国仙和尚は思つた。

或日、国仙和尚は、良寛さんのことを詩にうたつて良寛さんに見せた。それには、「良寛は馬鹿者のやうに見えてゐて、なかなか心が<ruby><rb>寛</rb><rt>ひろ</rt></ruby>い。少しもこせつかないで、運命のままに身をまかせてゐる。いつどんなところででも、<ruby><rb>居睡</rb><rt>ゐねむり</rt></ruby>をすることが出来る位、心には、余裕と<ruby><rb>落着</rb><rt>おちつき</rt></ruby>がある。」といふ意味のことがうたはれてあつた。かうして良寛さんは、師にも<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>められるほど修養を積み、誠の道の奥深くはいつていつたのである。

数年の歳月が、また円通寺で過ぎた。良寛さんは四十四歳になつた。

とある日、思ひまうけぬことが訪れて来た。それは京都からの飛脚が持つて来た。

飛脚は良寛さんの手に、一通の手紙を渡して去つた。お父さんの<ruby><rb>以南</rb><rt>いなん</rt></ruby>さんが、京都に出てゐることを、前から知つてゐた良寛さんは、お父さんからの便りではあるまいかと思つて開いて見た。はじめ字を見て、お父さんの字とは、違つてゐることがわかつた。それは見たことのない人の文字であつた。

良寛さんは、最初から読んでいつた。水のやうに静かな態度で、しまひまで読んでしまつた。読んでしまふと、しばらく開かれた手紙を、<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐひ</rt></ruby>のやうに、両手の上にひろげたまま、ぼんやりしてゐたが、やがて<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きかへした。

良寛さんは、大して持物とてはなかつた。身のまはりのものを、すつかりまとめると、小さい<ruby><rb>風呂敷包</rb><rt>ふろしきづつみ</rt></ruby>が出来るくらゐであつた。良寛さんは、それをつくつた。その風呂敷包を持つて、国仙和尚のところへいつた。

「また雲水に出掛けるのかい。」

と、国仙和尚は、良寛さんの手の風呂敷包を見ていつた。

「はい。」

と良寛さんは答へた。

「こんどは<ruby><rb>何方</rb><rt>どちら</rt></ruby>の方面へゆく。また九州か。」

「いいえ。今度は<ruby><rb>高野山</rb><rt>こうやさん</rt></ruby>、京都を経て、生れ故郷へ参るつもりです。」

「ほほう。それぢや、また長くかかるのう。ま、ゆつくりいつて来るがよい。来年の冬頃までに帰つて来い。わしも、まだ達者でゐるつもりぢや。」

「いいえ、今度はもう帰つて来ないつもりです。」

「何、帰つて来ない？　ではもう<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>へいつて落着くつもりか。」

「どこに落着くやらわかりませんが、もうこちらへは参らないつもりです。」

「さうか、それもよからう、が、どうしてまた急に思ひたつたんかのう。」

「父が死にました。京都の父の知人から今手紙が届いたのです。」

良寛さんは手紙を国仙和尚に見せた。国仙和尚は開いて読んだ。

――お父上がこの地でなくなられました、あなたにといひ置かれたものが、私の<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>にございますから、都合がつきましたら京都まで来て下さい、といふ意味のことが書いてあつた。

「それではゆくがよい。また縁があつたら<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>はう。」

と国仙和尚は手紙を捲いていつた。

「長らく<ruby><rb>御厄介</rb><rt>ごやくかい</rt></ruby>になりました。御恩は終生忘れません。どうぞお体をお大事に。」

良寛さんは、少い言葉に深い心をこめて礼をのべ、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらぢ</rt></ruby>をつけて円通寺を出た。

海は今日も<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>いで美しい色だつた。丘の菜園には、今日も余るほどの、陽光がそそいでゐた。良寛さんの<ruby><rb>蹈</rb><rt>ふ</rt></ruby>んでゆく道の若草は、ゆくゆくかんばしく<ruby><rb>匂</rb><rt>にほ</rt></ruby>つた。向かふの<ruby><rb>土塀</rb><rt>どべい</rt></ruby>の前には、良寛さんとよく遊んだ子供達が、今日も遊んでゐた。良寛さんが遠くへいつてしまつて、ふたたび帰つて来ないことを知らない子供達は、「帰りにおはじきしませう、良寛さん。」といつたりした。良寛さんは寂しく<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほゑ</rt></ruby>んで過ぎていつた。

――海も丘もさやうなら、と良寛さんは心の中でいつた。――明かるい陽光よ、子供達よ、草の道よ、さやうなら。

ちやうど、一つの果物と同じやうに、良寛さんの心を柔かに、ゆたかに、温かに熟さしめた、この明かるい備中の国の自然に、かうして、良寛さんは別れをつげた。

「あなたが良寛と<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>る方ですか。」

と京都から手紙をくれた人は、良寛さんを見ると<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しさうにいつた。

その人は、いかにも俳句を唯一のたのしみにしてゐる人らしく、静かなさつぱりした小さい家に住んでゐた。

良寛さんは手短かに、手紙を送つて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>つたことや、父の以南が懇意にして頂いたことなどを感謝した。

「ほんたうに以南さんはお気の毒でした。これが以南さんのかたみです。」

さういつて出して来てくれたものを見ると、一枚の長い紙（<ruby><rb>半折</rb><rt>はんせつ</rt></ruby>といふもの）と、一枚の短冊であつた。それぞれ一目見て父の筆のあとだと、わかる俳句が書いてあつた。良寛さんは懐しくかう読んだ。

――朝霧に一段ひくし<ruby><rb>合歓</rb><rt>ねむ</rt></ruby>の花

――夜のしも身のなるはてやつたよりも

しかし良寛さんは、父のかたみが、この二枚の俳句だけかと思ふと、あつけなく思はれた。

「何か、着物でも残してくれなかつたでせうか。」

ときいた。

「いいえ、それだけです。」

とその人はいひにくさうに答へた。そしてしばらくして思ひ切つた様子で、

「みんな申しあげませう。実は以南さんは、<ruby><rb>桂川</rb><rt>かつらがは</rt></ruby>に身を投げてなくなられたのです。」

「えッ。」

あまり意外な言葉に良寛さんは、びつくりした。しばらく言葉が出なかつた。そして僅かな時間のすぎる間に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">一切のこと</span>が良寛さんにわかつた。しかし、それを良寛さんは口に出さなかつた。いふを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>ることだつたので。

相手はいろいろ良寛さんを慰めた。

「以南さんは、ほんたうに一風変つた方でした。」

そんなことをいつたりした。

「何でも京都へ出ていらつしやつたのも、ちやんと家でさういつていらつしやつたのではなかつたさうです。私達の俳句の先生に、<ruby><rb>暁臺</rb><rt>げうたい</rt></ruby>といふ方がありますが、暁臺先生が或年、北国を旅して歩かれました。そして帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>、あなたの故郷の<ruby><rb>出雲崎</rb><rt>いづもざき</rt></ruby>に寄られたさうです。暁臺先生は、その晩、町の銭湯にゆきました。すると、ちやうどあなたのお父上の以南さんも、銭湯に来てをられたさうです。二人は前から顔見知りですから、『やあ。』『やあ。』といつたわけです。『暁臺先生はこれから<ruby><rb>何方</rb><rt>どちら</rt></ruby>へ。』と以南さんがきかれました。『今から京都へ帰ります。京都ではわたしが帰ると、俳句の大会がありますよ。どうです、一つあなたもお出掛けになつちや。』と暁臺先生が仰有つたのです。すると以南さんは気軽に『さうですか、ではお供しませうかな。』といはれました。暁臺先生は無論冗談だらう、と思つてをられました。ところが銭湯を出ると、そのまま以南さんは家へは帰らず、暁臺先生の宿へ来られ、<ruby><rb>翌朝</rb><rt>あくるあさ</rt></ruby>一緒に旅立つたのださうです。途中で路用がなくなつたので、<ruby><rb>椎谷</rb><rt>しひや</rt></ruby>で知人から、お金を借りて来られたのださうです。私どもは、あとからそのお話をうかがつて、全く以南さんは変つたお方だと思ひました。」

この人は、父をただの変人だと考へてゐる、と良寛さんは思つた。――父は表面さう見えても、心の中ではただの変人ではなかつたのだ。父には一つの<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>があつたのだ。

良寛さんは早く自分一人になつて、気持をととのへたかつたので、ぢきその人の家を辞した。

父、以南の胸の奥底には、はげしい勤皇の志がいつも燃えてゐた。良寛さんは以前からそれを知つてゐた。

良寛さんは小さかつたとき、父からよくきかされたお話を<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>ひ出す。

――昔、<ruby><rb>日野資朝</rb><rt>ひのすけとも</rt></ruby>といふ<ruby><rb>公卿</rb><rt>くぎやう</rt></ruby>さんがあつた。わるい賊共が<ruby><rb>勢</rb><rt>いきほひ</rt></ruby>をふるつて、天皇さまは、山の中へ住まひしていらせられた頃であつた。資朝は、そのやうな世の有様をなげいて、天皇さまのためにことを計つた。しかし計画は実行されぬうちに、賊共に<ruby><rb>嗅附</rb><rt>かぎつ</rt></ruby>けられ、資朝は都を遠く佐渡ヶ島へ流された。流されたばかりでなく、数年ののち、賊共の手にかかつて死んでしまつた。お前が毎日見てゐる、あの佐渡ヶ島で……。

以南さんは良寛さんに、よく覚えておけといふやうに、力をこめて何度もこの話をきかせてくれた。

賢い良寛さんはよく覚えた。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>お父さんが、この話をするのか、そのわけも悟つた。そして、いつか良寛さんは、お父さんの志に、こつそり自分の志を、合はせるやうになつてゐた。

――父が俳句にことよせて、京都にのぼつたのも、その志を遂げる<ruby><rb>機会</rb><rt>をり</rt></ruby>を、見つけたかつたために違ひない、と良寛さんは思つた。

――しかし、その機会は見つかつたらうか？　いやいや、見つかつたなら、川に身を投げて死ぬわけがどうしてあらう。

――幕府の大きな力の前に、父は自分一人の力が、どんなに弱いものかを知つて絶望したのだ。絶望の余り死んでしまつたのだ。……

良寛さんは出来るなら、お父さんの志をつぎたかつた。しかし、今はまだそのためには早すぎることを、良寛さんは知つてゐた。

――わたしのやうな能なしが、いくら、もがいたとてどうならう。いたづらに、もがけば父と同じ破滅を招くばかりだ。

――よい時期が来るまで待たねばならない。よい時期が来るまで。

そして良寛さんは、京都を立去り、故郷に向かつた。

良寛さんは、<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>をしながら、だんだん故郷に近づいていつた。

二十年前、若かつた日の良寛さんが歩いた同じ道を、今は逆の方向に歩いてゐるのである。

方向が逆であるばかりではない、すべてが二十年前とは逆になつてゐるやうに、良寛さんには思はれた。

あの時は、まだよく世間を知らなかつた。大きな<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>に胸がふくらんでゐた。今は人の世の様々の苦しみを知つてしまつた。胸には何の希望もない。……

――<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>のしなければならぬ仕事があると思つて、この道を二十年前歩いたのだが、自分は果して、どれだけのことをなしたか。さう思ふと良寛さんは、<ruby><rb>羞</rb><rt>はづか</rt></ruby>しいのである。

「何もわしはしなかつた。世の人のためになるやうなことは。」

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いて良寛さんは、山路の、とある石の上に、腰をおろした。

――何もしなかつたどころか、父上母上に不孝をした。父上母上は、わしが「学問をして、きつと偉くなります。」と申しあげたとき、こんなつまらない雲水坊主で、一生を終るとは思はれなかつたらう。母上は、わしが今にきつと偉い<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりよ</rt></ruby>になると思ひながら、死んでゆかれたのだらう。父上はきつと、わしが父上の志をついでゆくと思はれただらう。

――いや、ほんたうに、わしは能なしぢや。こんな能なしは人の世の<ruby><rb>片隅</rb><rt>かたすみ</rt></ruby>に、こつそり生かして<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ふより仕方がない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こつそり片隅に生かして貰はう</span>。

良寛さんは、<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>のさす方へ、足をそろへてそつと出しながら、思ひにふけつてゐた。

突然バタバタと<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>が二羽、すぐそばへとびおりで来た。そして石の上に置かれた、良寛さんの<ruby><rb>木鉢</rb><rt>きばち</rt></ruby>のふちに、ひよいひよいととびうつつた。一羽はふちにとまつたまま、もう一羽は木鉢の中へはいつて、米粒を<ruby><rb>啄</rb><rt>ついば</rt></ruby>みはじめた。

良寛さんは追はうともせず、いつまでもじつと眺めてゐた。

<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>、海の水平線の上に、小さく浮かんだ佐渡ヶ島が見えた。いよいよ<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>に来たと良寛さんは思つた。

## 十三　五合庵で

年とつた良寛さんは、<ruby><rb>五合庵</rb><rt>ごがふあん</rt></ruby>といふ小さな<ruby><rb>庵</rb><rt>いほり</rt></ruby>に住むことになつた。その庵は、<ruby><rb>故郷</rb><rt>こきやう</rt></ruby><ruby><rb>出雲崎</rb><rt>いづもざき</rt></ruby>から少し離れた、<ruby><rb>国上</rb><rt>くがみ</rt></ruby>といふ山の中腹にあつた。

五合庵といふ名は、どうしたわけだらう。その頃から百年余りも前、<ruby><rb>万元</rb><rt>まんげん</rt></ruby>といふ偉い坊さんが、大きな仕事をしとげたあと、隠居するためにその庵を建てた。そして万元和尚は、毎日お米を五合づつ頂いて、それだけでその日その日を送つたので、五合といふのを庵の名にしたのである。だから五合庵といふのは質素な家といふことになる。

その庵に住むことになつた、良寛さんの生活も、ひどく質素なものであつた。良寛さんは五合庵のことを、自分で詩にうたつてゐるからよく<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>る。それは、かういふ意味の詩である。

五合庵は寂しい。

つるした石の楽器のやうに頼りない。

外は杉ばかり、

壁にかかつてゐるものは詩ばかり。

お<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>の中には<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>が積つて、

かまどに煙の立たぬ日が多い。

だが東の村には友達がゐる、

月夜になると訪ねて来る。

そして、そこで良寛さんはどんなに、こつそり住んだか。良寛さんの歌を見ればわかる。

山かげの<ruby><rb>石間</rb><rt>いはま</rt></ruby>をつたふこけ水の

かすかにわれはすみわたるかも

――静かな山のかげの、<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>のついた石を伝つて流れる<ruby><rb>清水</rb><rt>しみづ</rt></ruby>のやうに、わたしは澄んで音も立てずに暮してゐます、といふ意味である。

しかし良寛さんは、ただひつそり生きてゐただけではない。静かな生活の中で、いつも勉強をおこたらなかつた。修養も忘れなかつた。

朝、眼がさめると良寛さんは、庵の裏の小さい泉へいつて、口を<ruby><rb>嗽</rb><rt>すす</rt></ruby>ぎ顔を洗つた。すがすがしい朝だ。小鳥の声が拍子木のやうに、森にとほつてよく響く。

それから良寛さんは、海と佐渡ヶ島の見えるところまで歩をはこんだ。木々の間から海が銀色に光つて見える。そしてその上には、なつかしい緑の佐渡が。

「お母さん、お早うございます。」

さういふ心持で良寛さんは、佐渡の方に頭を下げた。良寛さんはこの頃では、お母さんがそこで生れて、少女の頃を送つたといふ佐渡ヶ島は、お母さんその人を見るやうに、懐しく思はれてならなかつたのである。

それから良寛さんは、少し方向をかへて西南に向いた。そして、ていねいに頭をさげた。いくつかの山河と、いくへかの雲の奥に、皇居があらせられるのである。そしてまた京都は、勤皇の志を遂げることが出来ず、憤慨して死んだ父の、最後の場所でもあつた。

太陽も、もうかなりのぼつたらしかつた。<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の中へ光がさして明かるくなつてゐる。

良寛さんは庵に<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>つて来ると、<ruby><rb>米櫃</rb><rt>こめびつ</rt></ruby>の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をあけて見た。<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>で貰つて来たお米が、底にちらばつてゐる。櫃をかたげて<ruby><rb>片隅</rb><rt>かたすみ</rt></ruby>によせて見ると、まだ二日分位は、あることがわかつた。良寛さんは、小さな<ruby><rb>土釜</rb><rt>どがま</rt></ruby>に米を研いで入れて、かまどにしかけた。

<ruby><rb>焚物</rb><rt>たきもの</rt></ruby>も良寛さんが、自分でかきあつめて来た、松葉や枯芝である。良寛さんは、それを少しづつ、ゆつくりかまどの中へ入れてやる。ちやうど<ruby><rb>兎</rb><rt>うさぎ</rt></ruby>に草を<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べさせるやうに。良寛さんは、こんなひとときが好きだ。燃えるとき松葉はよい香を発し、その炎も何だか他のものの炎より、美しいやうに思はれる。かうしてゐると、ついこの静かなみちたりた自分の生活を、詩か歌にうたつて見たくなるのである。

お金がほしい<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>がほしいと

思はないので心は満足だ。

あれがほしいこれがほしいと

思へばきりがなく、しまひには苦しくなる。

粗末なたべものでも

お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>はくちくなる。

粗末な衣でも私は

これでよいのだ。

寂しければ山にはいつて

<ruby><rb>鹿</rb><rt>しか</rt></ruby>と遊ばう。

また村に下つて

子供達と一緒に<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>を歌はう。

ときどき泉の水で

耳を洗ふのだ。

すると松風の音は

一層すがすがしい。

かういふ意味の詩が、御飯の炊けるまでに良寛さんの頭の中で、ちやんと出来あがつてゐるのである。

御飯は炊けたが熟ませるため、しばらくそのまま置かねばならない。良寛さんは何といふことなく庭に出ていつた。

あちこち<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めまはしてゐた良寛さんは、ふと縁の下に<ruby><rb>筍</rb><rt>たけのこ</rt></ruby>が生えてゐるのを見つけた。竹藪の根がそこまでもぐつて来て、その根の端から芽を出した筍なのだらう。

良寛さんは、この筍を見てゐると、いつか川のふちで見た<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>のことを、思ひ出して<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しくなつた。その蝗は良寛さんの足下から、ぴよいぴよいと跳んだ。どうやら跳ぶことが、その蝗は得意らしかつた。そしてしまひに跳びすぎたため、川の中へ落ちた。それでも蝗は跳ばうとした。蝗には水と草の区別がつかなかつたと見える。しかし、水ではいくら<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>つても<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かひ</rt></ruby>がなかつた。蝗はとうとう流されていつたのであつた。きつとこの筍も、地の中をもぐるのが得意だつたのだらう。お母さんの竹が、そんなにそつちへいつちや<ruby><rb>駄目</rb><rt>だめ</rt></ruby>だよと止めても、きかなかつたのだらう。そしてとうとう、こんなところに芽を出してしまつた。もう先端が縁に届いてゐる。今になつて筍は、水の上にちよぼんと落ちた蝗みたいに驚いてゐるだらう。

可笑しかつたので一人で笑ひながら、良寛さんは庵にはいつた。もう御飯がうまく熟んでゐるころだ。

蓋をとるとふわつと白い湯気が顔を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>で、うまさうな<ruby><rb>匂</rb><rt>にほひ</rt></ruby>が鼻をうつ。上出来らしい。

「詩はまづく出来たが、飯はうまく出来た。」

一人でそんな冗談をいひながら、良寛さんはささやかな朝飯をしたためた。

朝御飯をすますと、<ruby><rb>机</rb><rt>つくゑ</rt></ruby>の前にきて<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>つた。さつき出来あがつた詩を、忘れぬうちに書きつけて置くためだ。

一通り紙の上に書いてしまふ。なかなかよく出来たと<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しくなる。しかし、<ruby><rb>一所</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>気に入らないところがある。初めから、すらすらと読んでゆくと、そこの所でひつかかる。ここがどうもまづい。

「飯はうまいが、詩はまづい。」

とむだ口をききながら、良寛さんは詩に一生懸命になつてしまつた。もう庭先に来て鳴いてゐる<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐひす</rt></ruby>の声も聞えなきや、窓から迷ひこんで来て、裏口からぬけ出てゆく<ruby><rb>蝶々</rb><rt>てふてふ</rt></ruby>も見えない。ただ、詩のまづいところを、よくしようとばかり骨折るのであつた。

すると良寛さんは、さつきから自分の心の<ruby><rb>一隅</rb><rt>いちぐう</rt></ruby>で、何かほかのことを、苦にしていゐるのに<ruby><rb>気附</rb><rt>きづ</rt></ruby>いた。何だか知らないが、或事が気にかかつてゐるのである。それが何だか、はつきりしないので気持が悪い。ちやうど<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>に背中を<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>はれてゐて、まだそれをはつきり知らないとき、何となく不愉快なやうに。

――何か気にかかる。一体何だらう、それは。

良寛さんは、筆を投げ出して首をかしげた。

――そいつが詩を作らうとするわしを邪魔するのだ。はやく、そいつの始末をつけてしまはなきや、こりやとても、詩は立派なものにならない。

「あッ、さうだ。」

いろいろ考へてゐて突然わかつたので、良寛さんは大きな声をあげた。

――筍のことである。縁の下から生えて、頭がつかへてしまつた筍。……

「だうりで、わしは何となく頭を抑へられるやうな気がした。さうだ、こりや、ほつとけない。」

良寛さんは、すぐ外に飛び出すと、同じ山の少し上の方にある<ruby><rb>国上寺</rb><rt>くがみでら</rt></ruby>まで、<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けるやうにしていつた。

「すまないが、<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>を貸しておくれ。」

寺男を見ると、良寛さんはいつた。

「何なさるだね。」

と寺男は、鋸を出して来て渡しながらきいた。

「何さ、縁の下に筍が生えよつての。」

「筍。筍なら<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>で掘つた方がええですよ、良寛さん。」

「何の、何の、これで結構。」

鋸を借りた良寛さんは、また走るやうにして五合庵に帰つて来た。

間もなく、<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の村へ使にゆく国上寺の寺男が、五合庵に立寄つた。

「良寛さん、筍はうまくいきましたかな。」

「ああ、うまくいきました。」

と良寛さんの声が庵の中からした。

寺男は縁側を見てびつくりした。切られたのは筍ではなくて、縁側であつた。筍の頭の触るところが、四角に切りぬかれてあつた。

「いやはや、どうも。」

寺男はあきれて立つてゐた。

「それなら筍も、せいせいしただらうの。わしも頭が軽くなつた。そいつの頭が縁側につかへてゐるうちは、どうも<ruby><rb>他人事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>のやうな気がせんでのう、わしも頭を誰かに抑へつけられてゐるやうな気がしてをつた。」

「なるほどね。」

「まあ、これでええ。おかげで詩もうまく出来あがつた。」

――良寛さんは変つたお人だ。いや変つたお人だ。縁側より筍を、大事にしておいでる。

さう思ひながら、寺男は坂道を下りていつた。

寺男の驚きは、それだけでは済まなかつた。半月ほどたつて、また五合庵にやつて来た寺男は、前より一層びつくりした。

筍は伸びて軒端に届き、そこにもう一つ穴をあけて貰ひ、<ruby><rb>悠々</rb><rt>いういう</rt></ruby>と屋根の上に、頭を出してゐたからである。そして良寛さんは、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をすぱりすぱりと吸ひながら、たのもしい若者でも見るやうに、若竹を見上げ見おろしてゐるといふ有様であつた。

――いや、良寛さんは驚いたお人だ。何とも、あきれたお人だ。

寺男はさう思ひながら、国上寺の方へのぼつていつたのである。

次の日、良寛さんが若竹を見ながら、竹の詩を作つてゐると、坂の下から馬の<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>の音が聞えて来た。

――いづれ国上寺へいく人だらうが、馬で来るのは珍しい。武家かな。

さう思つてゐると、音はだんだん近づいてきて、国上寺の方へのぼつてゆかずに、五合庵の庭へはいつて来た。

「ああ、<ruby><rb>由之</rb><rt>よしゆき</rt></ruby>か。」

良寛さんのすぐ次の弟である。小さかつたときは<ruby><rb>左衛門</rb><rt>さゑもん</rt></ruby>といつたが、今は名を改めて由之といふのである。もう由之さんも良寛さんと同じやうに、男ざかりの時期をすぎて老人になりかけてゐる。何しろ家には、もう名主職の見習をしてゐる、<ruby><rb>馬之助</rb><rt>うまのすけ</rt></ruby>といふ大きな息子があるほどなのだ。

「兄さん、その竹は一体何ですか。」

由之さんも、縁側の竹には驚いて、馬を庭の木につなぎながらきいた。

「なあに、こいつは間違つて、縁の下へ芽を出しよつたのさ。切つて<ruby><rb>味噌汁</rb><rt>みそじる</rt></ruby>に入れて、喰べてしまはうかと思つたが、折角わしの<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へやつて来たのに、そんなことをするのも<ruby><rb>可哀</rb><rt>かはい</rt></ruby>さうぢやと思うて……。」

「そんな<ruby><rb>馬鹿</rb><rt>ばか</rt></ruby>な。相手は竹ぢやありませんか。」

「うん、竹ぢやが、竹でもええぢやないか。」

「馬鹿馬鹿しくて、あいた口がふさがりませんよ。縁や軒端にまで穴なんかあけて。たかが一本の竹なんかのために。」

由之さんは縁先へきて腰をかけた。

「たかが一本の竹といふが、わしには、竹も<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>も<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>も人の子も、みな同じやうに<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>のある、<ruby><rb>可愛</rb><rt>かはい</rt></ruby>いものに思はれてのう。」

「本気になつてきいてゐられませんよ、そんな話は。とんだ酔狂です。」

由之さんは、もう竹の話は興味がないといふやうに、庵の中をきよろきよろと見まはした。そしていつた。

「兄さん、<ruby><rb>庵室</rb><rt>あんしつ</rt></ruby>つて、こんなに何もないものですか。」

「うん。」

「まるでさつぱりしてゐますね。」

「うん、さつぱりしてゐる。」

「不自由はありませんか。」

「別に不自由はない。」

「これで<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>が出来るんですか。」

「この通り出来てゐる。」

「さうですか。」

由之さんは感心して、中を一層よく見るために、上にあがつて歩いてまはつた。歩いてまはるといつても、五足か六足歩けばもう一まはりすんでしまふ。大変小さな庵なのである。

「兄さん、ほんたうに不自由はありませんか。欲しいものがあつたら、何でも遠慮なくさういつて下さい。すぐ届けさせますから。」

「うん、<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがた</rt></ruby>う。でも今のところ何も不自由はない。わしは、これで満足してゐる。あたりは静かで心を乱すものはない。よい大気は自由自在に吸ふことが出来る。水は泉でいつも<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いてゐる。寝てをつても<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐひす</rt></ruby>や、ほととぎすのいい声を聞くことが出来る。<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>にゆけば、みんなが米をめぐんでくれる。子供達は喜んでわしと遊んでくれる。春には花が咲き、秋には<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみぢ</rt></ruby>がわしの眼を、たのしませてくれる。何といふ有難いことだ。何一つ世の中のために出来なかつた、わしのやうなものには、ほんたうに<ruby><rb>勿体</rb><rt>もつたい</rt></ruby>ない位だ。だから、わしはこれ以上何も望まない。何でも有難いと思つて生きてゐる。」

「いやよく解りました。兄さんが御自分で満足していらつしやるなら結構です。」

それから三十分ばかり、由之さんは世間話をしてゐたが、

「ぢや、また来ます。兄さんも、陽気がいいときですから、ときどき出雲崎まで出掛けておいで下さい。」

といつて立去つた。

<ruby><rb>馬蹄</rb><rt>ばてい</rt></ruby>の音が聞えなくなつてしまつてから、良寛さんは思つた。

――由之は一体何をしに来たのか。

その由之さんも馬の背にゆられて、国上山をおりながら思つた。

――わしは一体何をしに来たのか。

由之さんは、この頃面白くない日が続いてゐた。町民たちが彼と息子の馬之助を<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>つて、いふことに反対ばかりした。そして税金はなかなかあつまらなかつた。そればかりか町民達は、由之さんと馬之助が不当の税金をとつたといつて、代官に訴へたりした。

そこで由之さんは、家にゐても、気がくしやくしやするので、ひとつ兄の良寛さんに一切を打ちあけて、ここをうまく切開いてゆく方法はないか、<ruby><rb>訊</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねようと思つて、良寛さんを訪ねて来たのであつた。

――しかし、筍をのばしてやるために縁側や、軒端に穴をあけるやうな兄さんに、相談したつて何になるもんか、まだそこにつないである牛に、相談した方がいい位だ。

この考に<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しくなつて、由之さんは一人で笑つた。

平野に出ると由之さんは、馬をしばらく走らせた。やがて馬の速さをゆるめながら、

――待てよ、と思つた。

――兄さんのやうな生活、あれが人間のほんたうの生活なのかも知れない。<ruby><rb>慾</rb><rt>よく</rt></ruby>を出さないで、天から下さるものだけを頂いて、それで満足してゐる。木や小鳥や<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>の光をたのしんで……。

よく考へて見ると、由之さんの今の苦しみも、慾が深すぎるところから始つてゐた。町民達から<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>税金をとりたてた。この馬もその金で買つた。その金で息子の馬之助と物見遊山にもいつた。まだしたいことや欲しいものはいつぱいある。これでは、いくら町民から税金をとりたてても、きりがない。

――こいつは確に、私のやり方が間違つてゐた。やつぱり兄さんは、私に教へてくれた。さうだ、やつぱり兄さんは偉い。

由之さんは顔を明かるくして、あたりを眺めた。急に世の中が、美しくなつたやうに見えた。

## 十四　手毬

お米が無しになると、良寛さんは、山をおりて<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>する。家々の<ruby><rb>門先</rb><rt>かどさき</rt></ruby>に立つて、短い経を<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>んで、一つまみづつのお米や、麦を<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>の子のなかへ<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ふのである。

托鉢には、どんないでたちで出掛けたか。良寛さんも、この頃では齢をとつて、忘れつぽくなつたので、忘れないやうに、持物を<ruby><rb>紙切</rb><rt>かみきれ</rt></ruby>に記しておいた。それには、おほよそかう書いてあつた。

<ruby><rb>頭巾</rb><rt>づきん</rt></ruby>、<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐひ</rt></ruby>、扇子、<ruby><rb>手毬</rb><rt>てまり</rt></ruby>、おはじき、

<ruby><rb>笠</rb><rt>かさ</rt></ruby>、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きやはん</rt></ruby>、手甲、<ruby><rb>杖</rb><rt>つゑ</rt></ruby>、<ruby><rb>掛絡</rb><rt>けら</rt></ruby>、

<ruby><rb>桐油</rb><rt>とうゆ</rt></ruby>、<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>、<ruby><rb>嚢</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>、

<ruby><rb>庵</rb><rt>いほり</rt></ruby>を出るとき、これをよく読まぬと、先できつと不自由するなり。

こんな風に書きつけてあつても、これらの物をみんな身につけて、出掛けはしなかつた。天気のよい日、近いところを<ruby><rb>廻</rb><rt>まは</rt></ruby>るには、鉢と嚢があればそれでよい。しかし良寛さんは、どんなときでも、手毬とおはじきは、ちやんともつて外へ出た。托鉢の途中や、それが済んでから、子供達と一緒に遊ぶためだ。

良寛さんは近くの村々を、今日は西、明日は東といふ風に、托鉢して歩いた。そして到るところで、村の子供達と<ruby><rb>仲良</rb><rt>なかよ</rt></ruby>しになつた。それから、軒端や木の枝の<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>とも仲好しになつた。

子供達は、良寛さんを見ると歓迎するのであつたが、そのしかたが、村々によつて同じではなかつた。或村の子供達は口が汚くて、「やァ、坊主が来たァ、乞食坊主がァ。」といつて、はやしたてた。でも心は汚れてはゐなかつたので、<ruby><rb>榧</rb><rt>かや</rt></ruby>の実の一つや、<ruby><rb>落花生</rb><rt>ぢまめ</rt></ruby>の二つを、良寛さんの鉢の中へ入れてくれた。また或村の子供達は、良寛さんを見ると、みんな手をつなぎ合つて道をさへぎつて、通<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せんぼ</span>をするのであつた。またもう一つの村の子供達は、やたらに良寛さんの持物を珍しがつて、杖を借りてついてみたり、笠を借りてかむつて見たり、鉢を借りてころがして見たりするのであつた。

良寛さんが、ときどき訪れてゆく、<ruby><rb>地蔵堂町</rb><rt>ぢざうだうまち</rt></ruby>の子供達も、また特別の歓迎法を持つてゐた。

そこの子供達は、良寛さんを見るや、いちはやく、

「良寛さん、一貫。」

と叫ぶ。

すると良寛さんは、びつくりしたやうな<ruby><rb>恰好</rb><rt>かつかう</rt></ruby>で、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へそつくりかへる。以前からの約束で、さうしなければならないのである。

今度は子供達は、

「良寛さん、二貫。」

と叫ぶ。

すると良寛さんは、前より一層ひどくうしろへ、そつくりかへるのである。

かうして子供達は、だんだん貫数を増してゆく。それにつれて良寛さんは、ちやうど背中の荷物の目方が、一貫目づつ増えてゆくかのやうに、だんだん深く、そつくりかへる。そして子供達は最後にかういふ。

「良寛さん、十貫。」

良寛さんは、もうこれ以上深くは出来ないといふところまで、そつくりかへる。つまり、地<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べた</span>に仰向けに倒れてしまふのである。それから子供達と一緒に、良寛さんの好きな手毬やおはじきが始るといふあんばいだ。

今日も良寛さんは、地蔵堂町へやつて来た。ところで、子供達がよく遊んでゐる<ruby><rb>辻堂</rb><rt>つじだう</rt></ruby>の見える角まで来たとき、良寛さんは、自分がうつかりしてゐたことに気づいた。

「ほい、こいつはしまつた。今日はここへ来るのぢやなかつた。」

といふのは、良寛さんは今日、新調のお衣を着てゐたのである。前の衣はもう十年ばかりも着て、ぼろぼろになつてしまつたので、良寛さんと懇意な<ruby><rb>阿部造酒右衛門</rb><rt>あべみきゑもん</rt></ruby>といふ人が、今度新しくお衣を、つくつてくれたのであつた。それは歩くたび軽く<ruby><rb>爽</rb><rt>さはや</rt></ruby>かな音をたてる、よいお衣であつた。

「悪いことに、雨あがりと来てゐる。」

良寛さんは地面を見た。どこもかも少し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬか</span>つてゐた。

「ここへひつくりかへつちや、衣は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だいなし</span>にならうて。」

しかし良寛さんは、今更ひきかへすことも出来なかつた。といふのは、もう一つ新調のものが、良寛さんの<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>にあつた。手毬だ。

昨日良寛さんは暇だつたので、<ruby><rb>五合庵</rb><rt>ごがふあん</rt></ruby>で手毬をつくつた。たかが手毬といつても材料がなくては出来ないので、何も持たない良寛さんは、それを人から頂かねばならなかつた。そこで良寛さんは手紙を書いて、ちやうど<ruby><rb>柴</rb><rt>しば</rt></ruby>を刈つて<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>へおりてゆく百姓に持つていつて貰つた。手紙は阿部造酒右衛門さんの宅に届いた。造酒右衛門さんが開いて見ると、

「昨日は新しいお衣を<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけな</rt></ruby>く<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちやうだい</rt></ruby>しました。このたびもう一つ御無心を申したい。針一本と、白い木綿糸をたくさんに、黄、青、赤の糸を少しづつお届け下さい。早々とお届け下さい。」

といふ意味のことが書いてあつた。衣のすそを何かにひつかけて、破つたのかも知れない、と思つた造酒右衛門さんは、注文のものを下男に持たせてやりながら、

「<ruby><rb>禅師</rb><rt>ぜんじ</rt></ruby>はお年寄りで、そんな細かい仕事は難儀だらうから、お前がしてあげなさい。」

といつた。下男は五合庵へのぼつていつた。良寛さんは、下男から針と糸を受けとると、

「や、ごくらうさん。もうよろしいから、帰りなさい。」

といつた。下男は、もぞもぞしながら、

「それでも良寛さん、主人は私に、針仕事をして来いと<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>いましただ。足袋のつくろひでも何でもしますから、私にさせてくだされ。」

と答へた。

「いやいや。お前さんはもう用がないから、あつちへ行きなされ。」

と良寛さんは、そつけなくいつた。下男は、いくら頼んでも良寛さんが仕事をさせてくれないので、さうですか、と腰をあげて土間から出ていつた。しかし、このまま帰つては主人に叱られると思つたので、良寛さんが一体何をするか、見届けてから帰ることにした。彼は一たん<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>を立てて向かふへいつてしまつたが、すぐ跫音をしのばせて、<ruby><rb>庵</rb><rt>いほり</rt></ruby>の方へ<ruby><rb>戻</rb><rt>もど</rt></ruby>つて来た。そして薄暗い背戸口から、<ruby><rb>盗人猫</rb><rt>ぬすとねこ</rt></ruby>のやうにこつそり中にはいつて、物の<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>から良寛さんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しぐさ</span>を見守つた。

良寛さんは、紙をまるめたものを<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>にして、糸を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きつけてゐた。くるくるくるくると、長い間捲いた。それが丸いものになつてもまだ、物蔭から見てゐる下男には、何のことかわからなかつた。一体何をするんだらう、と下男はいぶかりながら見てゐた。よい加減の大きさに球が出来ると、良寛さんは今度は、色の糸でさまざまに、かがりはじめた。良寛さんは一心になつて、かがつてゐる。ときどき<ruby><rb>出来工合</rb><rt>できぐあひ</rt></ruby>を見るためか、手をのばして目から離して<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めてゐる。そのとき良寛さんの<ruby><rb>長頭</rb><rt>ながあたま</rt></ruby>が、こてんこてんと左右にかたぶくので、うしろから見てゐる下男は<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しくなつて、つい、ぷつ、と噴き出してしまつた。すると良寛さんは、さつと顔を<ruby><rb>赫</rb><rt>あか</rt></ruby>めて、

「お前さんは人の悪い御仁ぢや。わしはこんなところを見られて<ruby><rb>羞</rb><rt>はづか</rt></ruby>しい。」

といつた。

「良寛さん、一体何をお造りなさる？　まさか手毬ぢやないでせうね。」

良寛さんは、ますます顔を赫くして、

「その手毬ですわい。」

と、<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>の下から出来かかりの毬を出して見せた。

こんな工合にして、出来あがつた手毬だつた。そして良寛さんは、その毬の形や、色糸でかがつた花模様のあんばいが、自分でほれぼれするほど、よく出来たつもりなので、早く子供達と一緒になつて、その新調の美しい手毬を、ついて見たくてたまらないのであつた。

――さうだ、今日はひつくりかへるのはよさう。今日は地<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べた</span>が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬか</span>つてゐるから、子供達がいくらいつても、ひつくりかへるのはよさう。さう<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>をきめながら、良寛さんは辻堂のそばへいつた。

しかし、辻堂の縁の上で遊んでゐた五、六人の女の子が、いつものやうに、

「良寛さん、一貫。」

と叫ぶと、さつきの決心がにぶるのであつた。それも、ゆつくりにぶるのではなく、一度にどつと、にぶつてしまつた。そこで良寛さんは、いつものやうに、うしろにそつくりかへつた。

「良寛さん、二貫。」

――ええ、仕方がない、と良寛さんは更に深くそつくりかへる。

「良寛さん、三貫。」

やれこら、どつこいしよ、と良寛さんは仰向く。

だんだん貫数は増えてゆく。

「良寛さん、十貫。」

――やれこらせいの、どつこいしよ。良寛さんは、うしろに尻もちをついた。そして新しいお衣はうしろ側が<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>でよごれた。

――やれやれ、子供といふ<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>は、しやうのないもんだ。さう口の中でいひながら、良寛さんは腰をあげた。そして、そのしやうのない子供が、良寛さんは好きだつた。

それから、良寛さんの待ちのぞんでゐた手毬つきが始つた。良寛さんは、初めのうち新調の手毬を出さなかつた。みんなをびつくりさせるために、しばらくのうちは、女の子達のもつてゐた古い手毬をついてゐて、新しい毬は<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>にかくしてゐた。

じやんけんをして、良寛さんが一番初めにつき出した。縁板の上で手毬は、ぽんぽんとよい音をたてた。――なあに、今にわしの毬を見せてやるから驚くな、と心の中でいひながら、良寛さんは一人でこつそり笑つてゐた。

良寛さんがつきそこなつて顔をあげたとき、どこかで<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐひす</rt></ruby>の鳴き声がした。

「今時分、鶯が鳴いてるのは、どうしたわけかい。もう秋だといふのに。」

と良寛さんはいつた。

「さうぢやない、良寛さん、キクやんが鶯笛を吹いとるだ。ほらあの<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>の蔭で。」

良寛さんがそつちを見ると、土塀の蔭へ女の子の顔がちらつとかくれた。それからまたそつと半分ほど顔を出して、こつちをじつと見てゐる。

「さあ、今度はあたいがつく番。良寛さんがうたふ番。」

良寛さんはそこで、毬つき歌をうたひ初める。

むかふ通るは

<ruby><rb>伊勢</rb><rt>いせ</rt></ruby>の道者か

<ruby><rb>熊野</rb><rt>くまの</rt></ruby>道者か

肩に掛けたるかァたびら

………………。

良寛さんの鼻先では、女の子が一心に、こきざみに、手毬をついてゐる。

するとまた鶯笛が鳴つた。

「どうして、あの子は一人で、鶯笛なんか吹いてゐるのかい。ここへ来て一緒に遊ばないのかい。」

と良寛さんは、毬をついてた女の子が、つきそこなつてやめたとききいた。

「でもキクやん、おつ<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さんがないもの。」

「おつ母さんがなくても、ええぢやないか。一緒に遊べば。」

女の子達は、ちよつと顔を見合はせた。

「だつてキクやん、毬がないだもの。」

と一人の子がいつた。

「さ、今度はあたいがつく番。」

と三番目の子がいつた。また手毬が始つた。良寛さんは、もう塀の角ばかり見てゐた。そこに半分出たり隠れたりする、人なつこい、<ruby><rb>可愛</rb><rt>かはい</rt></ruby>い眼の顔を見てゐた。

またその子は鶯笛を吹いた。

「ホー、ホケッキョ。」

――春でもないのに、お前はどうして鶯笛なんか吹くのか、と良寛さんは心の中でその子を<ruby><rb>憐</rb><rt>あはれ</rt></ruby>んだ。

ここで手毬をついてゐる子達は、あの、母さんのない子を<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>してゐるのだ。――この子供達は、大人達でもよくさうするやうに、<ruby><rb>憐</rb><rt>あは</rt></ruby>れまねばならないものを間違へて軽蔑してゐるのだ。さう良寛さんは思つた。

良寛さんは、塀の蔭の二つの眼に向かつて、手招きした。二つの黒い眼は、しばらくまたたきながら、良寛さんを見てゐるだけだつた。良寛さんは何べんも招いた。すると、信じたものか疑つたものか迷つてゐるやうに、鶯笛の女の子は、少しづつ姿を現し、良寛さんの方へ近づいて来た。

鶯笛の女の子は、良寛さんの<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>つてゐる縁のそばまで来た。そしてまたたきもせず、良寛さんの眼を見つめて、立つてゐた。

「お前の鶯笛はいい音がするね。ンでも今時分鶯笛を吹くのは<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しいの。わしのこれと取りかへつこしよう。」

さういつて、良寛さんが<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から出したのは、昨日半日かかつて造りあげた手毬だつた。

鶯笛の女の子は、手毬を見てのどをこくりと鳴らした。欲しいのだ。しかし良寛さんの本当の心が疑はしいといふやうに、顔をふり仰いだ。

「さァ、遠慮なくおとり。」

その子は、良寛さんの大きな眼にたたへられた、やさしい慈愛の色を見た。そこで手毬をそつと取ると、良寛さんの<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>の上に、まだ<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れてゐる小さい鶯笛をのせた。

さつきから、毬つきをやめて見てゐた女の子達には、良寛さんのしたのが正しいことであると、すぐわかつた。自分達は間違つてゐた、人はかういふ風にして、いたはり合はねばならないのだ、と心の奥ではつきりわかつた。

「わしに鳴らせるかな。」

といつて良寛さんが、下手に鶯笛を吹くと、みんなはわつと笑つた。毬を貰つた子も、はじめて笑つたのである。

## 十五　亀田鵬斎先生の訪問

<ruby><rb>亀田鵬斎</rb><rt>かめだほうさい</rt></ruby>といふ、偉い学者が、江戸にゐた。その人は字がうまいので、天下に勇名であつた。

或年の秋の頃、亀田先生は北国を旅してゐて、<ruby><rb>越後</rb><rt>ゑちご</rt></ruby>の<ruby><rb>長岡</rb><rt>ながをか</rt></ruby>へやつて来た。

長岡の町の一番にぎやかな通を、歩いてゐると、亀田先生は、今までにあまり見たことのない、立派な文字を見つけた。そこで自然に足がとまつてしまつた。

それは道ばたの一軒の大きな商家が、<ruby><rb>明障子</rb><rt>あかりしやうじ</rt></ruby>の上に<ruby><rb>貼出</rb><rt>はりだ</rt></ruby>した広告の文字であつた。太い筆でかう書いてあつた。

「<ruby><rb>酢</rb><rt>す</rt></ruby>、<ruby><rb>醤油</rb><rt>しやうゆ</rt></ruby>、<ruby><rb>上州屋</rb><rt>じやうしうや</rt></ruby>」

何といふ美しい文字だらう。見れば見るほど好きになる、温い、優しい、そして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">りん</span>としたところのある文字だ。心の美しい、立派な人でなければ書けない文字だ。

――誰だらう、こんなすばらしい字を書いたのは。

亀田先生は、貼紙のそばに行つて、長い間<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めてゐた。棒の一本一本、点の一つ一つを、何度も眺め味はつてゐた。それから思ひきつて、上州屋の中へはいつていつた。

「わたしは、江戸の亀田鵬斎といふものですが……。」

と亀田先生がいいかけると、主人らしい人が、

「へッ、あなたがあの御有名な亀田鵬斎先生！　さうですか。さあどうぞ奥へおあがり下さい。いえ、御名前はもう以前からうかがつてをります。」

といつた。

――こんなところでも、わたしの名を知つてゐてくれるのだな、と亀田先生は<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しかつた。

「実は、お店の障子に貼つてありました文字を見て、お邪魔にあがつたのですが、あれは一体どなたがお書きになりました。」

と奥へ通されると、亀田先生はきいた。

「あれは、<ruby><rb>国上山</rb><rt>くがみやま</rt></ruby>に住んでをられる、良寛といふお坊さんが、書かれたものです。私の父が、何かの折に書いて頂いたのです。」

「良寛……。良寛禅師なら、私もちよつときいてをります。なるほど良寛禅師の御筆ですか。さうですか。」

と亀田先生は深く感心してゐた。

「わたしどもには、心得がなくてよくわかりませんが、そんなに立派な字でございませうか、先生。」

「立派なものです。わたしは方々旅して来ましたが、こんないい文字を<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>ばたで見掛けたのは始めてです。」

「さうですか。」

「いや、良寛禅師の書を、あんな風におもていさらしておくのは、<ruby><rb>勿体</rb><rt>もつたい</rt></ruby>ないことです。あれは、おしまひになる方が、いいと思ひます。」

「でも、あれは、うちのかんばんですから。」

「何なら、わたしが代りに書いて上げます。わたしの字位が、ちやうどかんばんにするには<ruby><rb>恰好</rb><rt>かつかう</rt></ruby>です。良寛禅師の書など、あんなことをしておいては罰があたります。」

「さうでせうか。」

亀田先生は、そこで、良寛さんの書いたのをしまはせて、代りに自分で、その通りに書いたのである。

さて上州屋を出た亀田先生は、急に良寛さんを訪ねて見たくなつた。今まで、良寛といふ人は大変よい字を書き、かなりよい歌もよむときいてゐたけれど、どうせ越後みたいな、片田舎に住んでゐる坊主のことだから、大したこともあるまいと、たかをくくつてゐた。それが、上州屋の障子に貼つてあつた文字を見て、一度に尊敬の念が、起つて来たのである。

――これは、自分などとは<ruby><rb>桁違</rb><rt>けたちが</rt></ruby>ひの大先生だ。いろいろ教へて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>はう。

亀田先生は馬をやとつて、国上山にいつた。そこの<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>についたのは、落ちかかつた秋の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>が、赤い光を投げかけて、山の<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみぢ</rt></ruby>が一層あかく美しく見えてゐる頃だつた。

馬をおりて亀田先生は、両側に竹や木の生ひしげつてゐる、細い山道をのぼつていつた。あたりは静かで、その道をおりて来るものは誰もなかつた。道には<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>のいがが落ちてゐたりした。

――こんな静かな山の中に、住んでゐられるから、あんな味はひの深い、よい字が書けるのだ、と亀田先生は思つた。

道のわきに小さい<ruby><rb>庵</rb><rt>いほり</rt></ruby>があつたので、亀田先生は、つかつかと庭へはいつていつて、

「ちよつとお<ruby><rb>訊</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねしますが、良寛禅師の宅はまだこの上ですか。」

ときいた。

「良寛のゐるのはここですが。さうしてこのわしが<ruby><rb>即</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち良寛ぢやが。」

と、顔の長い見すぼらしい坊さんが、つくねんと部屋の真中に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>つたまま答へた。

亀田先生はびつくりした。もつと立派な住まひにゐると思つてゐたのである。――自分の書く文字でもかなりよい値段で売れる。良寛禅師は、あれほどすばらしい字を書かれるのだから、<ruby><rb>懐中工合</rb><rt>ふところぐあひ</rt></ruby>は悪くない<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だ、堂々たる家を建てて住んでゐる筈だ、と思つてゐたのである。

亀田先生が、自分の名を告げると、

「ほう、あなたが亀田先生。よく来られたのう。」

といつて良寛さんは、始めて立つて来た。

「旅でお疲れぢやろ、まあ足を洗つておあがりなされ。この水でお洗ひなされ。」

さういひながら良寛さんが、背戸から<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んで来たのを見ると、器が<ruby><rb>摺鉢</rb><rt>すりばち</rt></ruby>であつた。

「これはあの、摺鉢ではございませぬか。」

と<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらぢ</rt></ruby>のひもを解きかけてゐた亀田先生は、また驚いてきいた。

「ああ摺鉢ぢや。」

「摺鉢と申して、あの<ruby><rb>味噌</rb><rt>みそ</rt></ruby>を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>る味噌摺鉢ではございませぬか。」

「味噌摺鉢ぢや。」

「いや、あきれました。それではこれで足を洗うことは出来ません。」

「いや、相済まぬ。わしのところは貧乏でのう、<ruby><rb>盥</rb><rt>たらひ</rt></ruby>だの<ruby><rb>桶</rb><rt>をけ</rt></ruby>だのいふものがないので、大方のことはこの摺鉢で間に合はせますぢや。それで顔も洗ふ、手も洗ふ、口もゆすぐし、足の<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>も落す、味噌も摺るといつたわけぢや。だが知らない人には、汚らしく見えるぢやろ。いやわしが悪かつた。裏に泉がある、そこへいつて洗つて下され。」

良寛さんは、ほんたうに済まないやうに、あやまつたのである。

亀田先生は、泉の水で足の埃を洗ひ落しながら思つた。――良寛禅師のやうなよい書を書く人が、摺鉢で足を洗はねばならないやうな貧しい<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>を、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>してゐるのだらう、江戸へ持つてゆけば、禅師の書はきつとよい値で売れるだらうに。

それから二人の間に書の話が始つた。二人とも字を書くことが好きなので、話は尽きなかつた。二人は実際に筆をとつて、一枚の紙に思ひ思ひのことを書いたりした。話の途中で亀田先生は、

「あなたは、字を書いた短冊や半切をお売りにならないのですか。」

ときくと良寛さんは、

「さういふことは、しようと思つたこともありませんのう。わしは、みなさんから物を恵んで頂いて、不自由なく暮してゐますから、わしの方でも、欲しい人には、字を書いてさしあげますぢや。もつとも、自分の気分の悪いときは、書けませんがの。」

と答へた。

また亀田先生が、

「一つ、江戸へ出て来られてはいかがですか。それだけの手を持つてゐられれば、弟子の百人や二百人は、すぐにあつまりませう。ぱつと有名になりませう。」

と誘ふと、良寛さんは、

「いや、わしは、ぱつと有名になりたくありませんのぢや。わしは、何一つ世のためになるやうなことは出来なかつた、ほんとの能無しぢやから、この山の中に、こつそり暮させて頂けるさへ、有難いことと思つてをりますぢや。」

と答へるのであつた。さういはれると亀田先生は、もう何もいふことがなかつた。

二人は書が好きなばかりでなく、酒も好きだつたので、夜になると良寛さんが買ひにゆくことになつた。

「ぢや、麓の村まで、ひとはしり行つて来るでの、あんたは<ruby><rb>鼻唄</rb><rt>はなうた</rt></ruby>でも、うたつて待つてゐておくれ。」

さういつて良寛さんは、徳利をぶらさげて出ていつた。

風のない静かな夜だ。庵の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まはり</rt></ruby>では虫の声がしてゐる。庵の中でも、こほろぎが鳴いてゐる。一匹のこほろぎは、ぼとッぼとッと<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>の上を跳んで来て、亀田先生が寂しく思ひながら見つめてゐる、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の下にとまつた。そして長い時間が過ぎた。

頭の上で<ruby><rb>雁</rb><rt>かり</rt></ruby>の声がした。亀田先生は待ちくたぶれてしまつた。

――どうしたんだらう。いくら麓の村といつても、もう帰つて来ていい頃だ。

とうとう待切れなくなつて、亀田先生は庵を出て、麓の方へ迎へに出かけた。ちよつとおりたところに、少しの広場があつて、そこから下の<ruby><rb>眺</rb><rt>ながめ</rt></ruby>がよかつた。

誰かが、そこの松の木の根元に、腰をおろして、<ruby><rb>爽</rb><rt>さわや</rt></ruby>かにのぼつた月を見てゐた。

「良寛禅師ぢやありませんか。」

と、亀田先生は声をかけた。

「ああ。わしぢや。見られい、いい月ぢや。いい月ぢやのう。」

と、良寛さんは、月から眼を離さなかつた。

「いい月ですね。月もいいですが、酒は手にはいりましたか。」

と亀田先生がいふと、良寛さんは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とむね</span>をつかれたやうに、はつとして、そばにおいてあつた徳利を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>むや、さあつと麓の方へ走り出した。良寛さんは月に<ruby><rb>見惚</rb><rt>みほ</rt></ruby>れて酒のことを忘れてゐたのである。

――いや、どうも、と残つた亀田先生は苦笑しながら思つた。――天下の亀田鵬斎が、待たされて忘れられたのは、これが最初だ。良寛禅師にかかつちやかなはない。

しかし亀田先生は、それで、ますます良寛さんが好きになり、尊敬もしたのである。

上州屋に亀田先生が書いてやつた広告は、どうなつたらう。

その後、或日また、一人の通行人が、上州屋の「酢、醤油、上州屋」に眼をとめた。

その人はかういつて、上州屋にはいつて来た。

「障子の表に<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>つてあるのは、亀田鵬斎先生のお手と見受けたが、さうではないか。」

それは<ruby><rb>巻菱湖</rb><rt>まきりようこ</rt></ruby>といふ、やはり字のうまい人であつた。

巻先生は、亀田先生が良寛さんの字に対して、いつたのと同じやうなことをいつた。

「亀田先生の書を道にさらしておくといふ法がありますか。わしが代りに書いて進ぜるから、しまつて置きなさい。」

そこで亀田先生の「酢、醤油、上州屋」は、しまはれて、巻先生の「酢、醤油、上州屋」がかかげられた。

しかし巻先生の「酢、醤油、上州屋」も、あまり長く通行人に見て貰ふことは出来なかつた。

やがて<ruby><rb>富川大晦</rb><rt>とみかはたいくわい</rt></ruby>といふ、これも書道の先生がやつて来て、巻先生の「酢、醤油、上州屋」をしまはせ、自分の書いた「酢、醤油、上州屋」をかかげさせたからである。

これで見ると、一番初めに広告を書いた良寛さんが、どんなにすぐれた書家であつたかが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るだらう。

## 十六　船頭の試み

<ruby><rb>渡守</rb><rt>わたしもり</rt></ruby>の武助さんは横柄な人であつた。そして武助さんの、一番いけない点は、誰のいふことにでも反対をして見るといふ、しやうのない癖であつた。

たとへば人が、

「あそこの家ぢや、足の裏に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あざ</span>のある赤ん坊が生れたさうだ。おめでたいことぢやないかね。今にいい<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしよ</rt></ruby>になるに違ひない。」

と話してゐるのをきくと、武助さんは、すぐに反対して見たくなるのである。自分でも、いはない方がよいことは<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>つてゐるのだが、のどから手が出るやうに、いひたくなるのだから、何ともしやうがない。そこで、

「何が、おめでたいことがあるもんかい。足の裏に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あざ</span>があるやうなものは、<ruby><rb>猫</rb><rt>ねこ</rt></ruby>か何かの生れ代りだ。ろくなこたないだ。今にその家の<ruby><rb>身上骨</rb><rt>しんしよぼね</rt></ruby>が傾くくれェが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けり</span>だ。」

といつてしまふ。

実際のところ、足の裏に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あざ</span>のある赤ん坊が生れたからといつて、そこの家の運がよくなるか、悪くなるか解るものではない。しかし、それは<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>として、武助さんにこんな風に反対されては、話をしはじめた人は、気を悪くするだらう。

ところで或日、武助さんはまたこの悪い癖を出してしまつた。

三人の村人達が、武助さんの船にのつたのである。そして三人は、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を吸ひながら、良寛さんといふ坊さんの話を始めた。

「良寛さんは立派なお人だ。ほんたうに立派な人といふものは、偉さうなことはいはない。何にもお説教をしない。黙つてゐる。それでゐて他人を感化するのですね。」

「良寛さんといふのは、そんな人ですか。何でも、もとは<ruby><rb>出雲崎</rb><rt>いづもざき</rt></ruby>の名主の長男だつたが、十八の時に出家して、長い間、日本国中を修行してゐて、三、四年前、<ruby><rb>越後</rb><rt>ゑちご</rt></ruby>に帰つて来た、といふことをききましたけれど。」

「さうです。そして良寛さんは、ちつとも威張らない。良寛さんが、或家へやつて来るとしますね。すると良寛さんは、下男のやうに、そこの家の庭を掃いたり、赤ん坊の守をしたり、時には<ruby><rb>風呂</rb><rt>ふろ</rt></ruby>を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いたり、そんなことまでするのですな。さうしてゐると、不思議なことに、家の人達の気持が和やかになつて、今まで何か<ruby><rb>争</rb><rt>あらそひ</rt></ruby>があつても、自然にとけてしまふといふわけです。」

「それぢやまるで、春の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>の光のやうですね。」

と、きく方の人は空を仰いでいつた。強くない柔かな春の陽光は、川の上に、川の向かふの<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>の枯草に、ふりそそいでゐた。

――そんな話は<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>だ、そんな人間がこの世にゐるもんかい、と黙つてきいてゐた船頭の武助さんは、口の中で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「ほんたうに春の陽の光のやうな方ですな。そばにゐると、温かくたのしくなつて来るんです。それが証拠に、良寛さんが道ばたに<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>つてゐると、<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>がですな、あのそこらにとんでゐる雀が、良寛さんの肩にとまつたり、手にとまつたりして、まるで安心しきつて遊ぶのですよ。雀などいふ<ruby><rb>生類</rb><rt>しやうるゐ</rt></ruby>がなつくといふのは、仏様のやうな人でなければないことですよ。」

――そんな話は<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>だ、もしもそれがほんたうなら、良寛といふ坊主は、<ruby><rb>大馬鹿野郎</rb><rt>おおばかやらう</rt></ruby>だ、雀が肩や手にとまつても、よう<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>へないやうなもんは、と武助さんはいひたくてたまらなかつた。もう口からその言葉が出かかつてゐたが、残念ながら、ちやうどその時、船が向かふ岸に着いてしまつた。

そこには顔色の黒い年とつた坊さんが、寒さうに体を丸くして、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に木の<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>の子をのせて、うづくまつてゐた。

「やつ、良寛さん。」

と、今まで良寛さんの話をしてゐた人が、船をおりながら、いつた。

「ああ、今日は、<ruby><rb>叔問</rb><rt>しゆくもん</rt></ruby>さん。」

「今、船の中で、あなたのお<ruby><rb>噂</rb><rt>うはさ</rt></ruby>をしてゐたところです。噂をすれば影とやらです。全く。今から<ruby><rb>何方</rb><rt>どちら</rt></ruby>へ。」

「天気がよいので、ぶらりぶらりと<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>に出て参りましたわい。」

「船で渡るなら、早くのるがええだ。」

と船頭の武助さんは、<ruby><rb>突慳貪</rb><rt>つつけんどん</rt></ruby>にいつた。武助さんは、自分の思つてゐることを、一言いつてやれなかつたので、腹が立つてゐたのである。

「ぢや、ごめん。いづれまた近いうちに。」

といつて良寛さんは、船にのつた。

武助さんは、<ruby><rb>棹</rb><rt>さを</rt></ruby>をあやつりながら、流しめに良寛さんを見てゐた。良寛さんは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へさき</span>に小さくかがまつて、川の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>や<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>の方を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めてゐた。

――何だい、こんな<ruby><rb>糞坊主</rb><rt>くそぼうず</rt></ruby>が、そばにをつても、<ruby><rb>些</rb><rt>ちつと</rt></ruby>も温くなりやしないぢやねえか、と口の中でいひながら、武助さんは邪険にぐらぐらと船を揺すぶつた。

良寛さんは、船がひどく揺れ出したので、びつくりして船べりにつかまつた。

「この船はよく揺れるだのう。」

「うん、よう揺れるだ。小せえ船はよう揺れるだ。」

武助さんはふと悪いことを考へた。良寛さんを川の中へ揺り落して、怒らせてやらうといふことだ。――きつと、かんかんになつて怒るだらう。怒るやうなものなら、普通の人間ぢやないか。

船は川の真中あたりへ来た。武助さんは良寛さんを安心させるために、船を揺りやめた。良寛さんは船べりから手を離して、また水の面を眺めた。

「ありや、<ruby><rb>蝶々</rb><rt>てふてふ</rt></ruby>が。蝶々めが川を越えてゆくわい。お彼岸参りかな。いい日だでのう。」

良寛さんは眼を細くして、すれちがつてゆく、一つの小さい白いものを見てゐた。それからまたいつた。

「川も春になると、<ruby><rb>雪解</rb><rt>ゆきどけ</rt></ruby>で水<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かさ</span>が増えるでええのう。かう水が<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れて、ゆつたり流れてゐるのは、気持のええものだわい。」

急にぐらりと船が揺れた。良寛さんは、どぶんと水の中に落ちて、「かう水が溢れてゐるのは、気持のいいもの」ではないことが解つた。水が深くて足が底に届かないので、良寛さんは沈むまいとして手足をばたばたやつた。

――坊さんといふものは、泳ぎのまづいもんに違ェねェ、としばらく武助さんは眺めてゐた。が、良寛さんが<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れ死んでは大変だから、いい加減なところで棹を良寛さんの方へさしだした。良寛さんはそれにつかまつて、船にあがつた。

――さァて、これから、この坊さんと<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>の間に、<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんくわ</rt></ruby>がおッ<ruby><rb>始</rb><rt>ぱじま</rt></ruby>るだらう、と武助さんは心にかまへて立つた。

しかし喧嘩は起らなかつた。

「済まなかつたのォ、ようわしを救つて下さつた。お前さんが棹をさしだしてくれなんだら、わしは溺れ死んでしまふところぢやつた。済まなかつたのォ、済まなかつたのォ。」と良寛さんはお礼をいつた。そして続けざまに三つ<ruby><rb>嚏</rb><rt>くしやみ</rt></ruby>をした。

「何の、何の。」

と武助さんは横柄に答へた。

「ほんとにお前さんは、わしの命の恩人ぢや。<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがた</rt></ruby>かつた、有難かつた。こんな老骨でも、まだ死ぬのは<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>なのぢやわい。あさはかなもんだわい。お前さんは見てゐて<ruby><rb>可笑</rb><rt>をか</rt></ruby>しかつたらう。」

「何の、何の。誰でも死ぬのは好かねェだ。」

喧嘩になると思つてゐた武助さんは、<ruby><rb>張合</rb><rt>はりあひ</rt></ruby>が抜けて、口先だけで、ものをいつてゐたのである。

船が岸に着くと、良寛さんは改めて武助さんにお礼をいつて、寒さにがつがつ<ruby><rb>慄</rb><rt>ふる</rt></ruby>へながら土堤をのぼつていつた。だんだん小さくなつてゆく<ruby><rb>後姿</rb><rt>うしろすがた</rt></ruby>を見送りながら、武助さんは、われを忘れて、船の中に突つ立つてゐたが、やがて、

「へッ、何でェ、あの坊主は。」

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。何が何だか、武助さんには解らなかつたのである。

村はづれの、<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>の中の、武助さんの小さい家に、あかりがふつとつく頃に、武助さんは帰つて来た。

「あッ、びつくりした。何でまた、そんな牛みたいに、のつそりはいつて来るだね。」

と、勝手場で夕御飯の支度をしてゐた、お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんはいつた。

武助さんは黙つて上にあがると、大黒柱の方に頭をむけて、ごろんと寝ころんだ。前の田圃で、蛙が遠慮勝に鳴いてゐる。ぐるぐる、ぐるぐるといつては、長い間黙つてゐる。武助さんは、ぼんやりそれを聞いてゐる。

「さあ、支度が出来ましたで。」

お内儀さんが台所から呼んだ。武助さんは立つていつて、<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>の前に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>ると、黙つて<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>をとつた。

「お前さんの大好物の、<ruby><rb>田螺</rb><rt>たにし</rt></ruby>の<ruby><rb>味噌</rb><rt>みそ</rt></ruby>あへだけど。」

とお内儀さんは、武助さんが黙つて<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べてゐるばかりなので、つまらなくなつていつた。

「うん。」

と武助さんは、重く返事をした。

そして二杯御飯を頂くと、もういらない、といふのである。

「どうかしただね。加減でも悪いのかン。」

とお内儀さんは、いつもなら七杯位、ぺろりと喰べる武助さんの顔を、つくづく見ながらきいた。

「うん。」

と武助さんはまた重く答へた。

「腹が痛いのかン。」

「腹ぢやねェ。」

「それぢや、頭がやめるのかン。」

「さうでもねえやうだ。」

「そいぢや、胸が抑へられるやうな気持がするのかン。」

「さうでもねェ。」

「そいぢや、一体<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>が悪いのかン。」

「何処だか、よく解らねェ。」

しかし、確かに何処かが悪かつた。何処が悪かつたのだらう。武助さんの中の何が痛んでゐたのだらう。それは武助さんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">良心</span>だつたのだ。武助さんの胸の奥にかくれてゐる、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">良心</span>だつたのだ。

「あんなおとなしい坊さんを、<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>は水へ落してしまつた。何といふことをしてのけたらう。」

と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">良心</span>が胸の奥でいつてゐた。

夕御飯がすむと、武助さんは、もう寝る、といつて床にはいつた。

――眠つてしまへ、明日の朝になれば忘れるだらう、気持もさつぱりするだらう。さう武助さんは思つた。

しかし武助さんは眠れなかつた。しつかり眼を閉ぢてゐても、<ruby><rb>些</rb><rt>ちつと</rt></ruby>も眠くならなかつた。何度も寝返りをうつては<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついた。そして夜はだんだんふけて来た。

突然、武助さんは、起きて出て<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらぢ</rt></ruby>をはいた。

「今頃から何処へ行きなさるだね。」

とお内儀さんは、縫つてゐたものを<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に置いてきいた。

「<ruby><rb>国上山</rb><rt>くがみやま</rt></ruby>だ。」

「えッ国上山。どうしてまた急に、そんな遠くへ出掛けるのかン。」

武助さんは簡単に、今日の昼、良寛さんを船から揺り落したことを話した。そして良寛さんが怒ると思ひの外、かへつて武助さんにお礼をいつたことを話した。

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おら</rt></ruby>あ馬鹿だつただ。とんだことをしてしまつただ。だから今から、その坊さんのところへいつて<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>つて来る。」

お内儀さんも、武助さんの行為が間違つてゐたことを認めた。

「お前さんは、何でも他人のいふことに反対して見るんですよ。ほんとに悪い癖ですよ。」

しかし、<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>りにいくなら、こんな夜更けに出掛けずに、明日にすればいい、と止めた。

「いや、今から行つて来るだ。もう気が<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めて寝ちやをられないだ。」

さういつて武助さんは、外の明かるい月夜へ出ていつた。

村は静かで、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>を打つ音が、どつかでしてゐるばかりである。

武助さんは一人で船にのつて、立ててあつた棹をぬいた。舟は川の真中へ進んで来た。

「こりや、冷いだらう。」

とひとりごとをいつて、しばらく水の面を見てゐたが、やがて、どぶうん、と武助さんは跳びこんだ。

水面の月の光が乱されて、やがてだんだんしづまつて、しばらくは鏡のやうな水面に、誰ものつてゐない小舟だけが浮かんでゐた。がそのうちに、武助さんがぽかりと<ruby><rb>河童</rb><rt>かつぱ</rt></ruby>のやうに頭を出して、舟の方へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬきで</span>を切つた。

舟にあがると武助さんは、ぶるつと胴ぶるひして着物をしぼつて、

「これで、ちつとばかり気持が楽になつただ。だが、あの坊さんは不意をくらつたのだし、泳ぎを知らなかつたんだから、もつと苦しかつたに違ひない。済まねェ、済まねェ。」

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

良寛さんは、戸を叩く音で眼がさめた。まだ<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>である。外は月夜らしくて、戸の節穴が青白く明かるい。

「こんばんはァ、こんばんはァ。」

と外で誰かが呼んでゐた。

「誰ぢやな今時分に。<ruby><rb>泥棒</rb><rt>どろぼう</rt></ruby>さんかのう。」

「さうぢやねェだ。昼間の船頭ですだ。ここをあけて下せェ。」

「ほほォ、泥棒さんかと思つたら船頭さんか。」

良寛さんは戸をあけ、船頭を中に入れてやつた。すると船頭は、良寛さんの足元にばたつと平伏したので、良寛さんはびつくりした。

「済みませんでしただ。お坊さん。済みませんでしただ。この通りですだ。何とぞ御勘弁なすつて頂きてェ。」

船頭は額を地べたにすりつけた。

良寛さんは慌てて、

「お前さんは一体、どうなすつたぢや。赤鬼が桃太郎に降参したやうな、そんな<ruby><rb>恰好</rb><rt>かつかう</rt></ruby>をして……一体こりや、何ちふことぢやのう。」

武助さんは、舟をわざと揺すつて、良寛さんを川に落したといふことを話した。良寛さんが怒りもせず、<ruby><rb>反</rb><rt>かへ</rt></ruby>つて礼をいつたので、それからあと、気が咎めてならなかつたことを話した。寝ようとしても寝つかれないので、妻が止めるのもきかずに、<ruby><rb>謝罪</rb><rt>あやま</rt></ruby>りに来た事を話した。せめてもの罪滅しに、川の真中で水に跳びこんで、びしよぬれになつて来たことも話した。

「うんうん、さうだつたのか。いやいや、お前さんは感心な御仁ぢや。まああがらつしやい。炉に火をくべるから着物をあぶつて、今夜はわしのところで泊つてゆかつしやい。」

良寛さんは船頭を上にあげて、炉に<ruby><rb>柴</rb><rt>しば</rt></ruby>を入れた。

「そんなにして来んでもよかつたぢや。わしは、お前さんに救つて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>へたで、喜んでをりますだ。」

「お坊さん、あんたは、ほんたうに心のええ人です。あの人達がいつとつたことは、みんなほんたうだ。同じ人間に生れても、わしは、あんたに<ruby><rb>較</rb><rt>くら</rt></ruby>べると、何ちふ心の悪い因業ものでございますか。わしは、他人様がああいへばかういふ、かういへば、ああいふ。――いはにやをれん性質でござりますだ。わしの心は腐つとりますだ。」

「いやいや、そんなことはない。人間には誰にでも、よい心と悪い心と二つづつありますだ。なるほどお前さんが、他人のいふことに、何でも逆つて見たくなるといふのは、悪い心だが、今夜お前さんが、気が咎めて眠れなかつたのは、それはよい心ぢや。お前さんは本心はええ人ぢや。うはつつらが少しばかり悪いだけぢや。わしら人間はのう、悪い心を抑へて、ええ心をのばしてゆけばよい。わしはさう思ふ。」

武助さんは、うなづきながらきいてゐた。

――ほんたうに、このお坊さんの<ruby><rb>仰有</rb><rt>おつしや</rt></ruby>る通りだ。これから自分は、よい人間にならねばならぬ、と思つたのだつた。

## 十七　菫

良寛さんは、年とるにつれて、人々から尊敬されるやうになつた。みんなは良寛さんを偉いお方だと思つた。

べつだん良寛さんは、人が驚くやうな大きな仕事をしたわけではなかつた。良寛さんの偉さはじみで、目立たなかつた。ちやうど眼に見えないほど細い糸で、しみじみと降る春雨のやうに。春雨は土を黒くうるほし、草や木を芽ぶかせてやる。良寛さんの人がらも、その<ruby><rb>周囲</rb><rt>まはり</rt></ruby>の人々の心をうるほし、うはついてゐた心をしつとり落着かせ、知らぬ間に<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>と喜びの芽をふかせるといふ風である。

世間で偉いといはれてゐる人々の中には、なるほど固い意志の力を持つて大きな仕事をしとげはするが、人間らしさを持たないといふ人もないのではない。しかし良寛さんはそんな人とは違つてゐた。良寛さんは、飽くまで人間らしさを失はなかつた。

或日良寛さんは、野中の一本道を歩いてゐた。ひさしぶりで懇意にしてゐる家へ訪ねていつたのに、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>留守だつたので、もういく先のあてもなく、ぶらりぶらりと歩いてゐた。

空に一つの白くふくらんだ雲が流れてゐた。野には良寛さん、ただ一人の姿が見えた。<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>に何もなかつた。春風が軽く吹いてゐた。遠くにちらちら光るものがあつた。草の葉や水だつた。

良寛さんは、ぼんやりして歩いてゐた。すると、頭に不意と一つのことがうかんで来た。

「お<ruby><rb>銭</rb><rt>あし</rt></ruby>を道で拾ふと大変<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいものだ。」といつか誰かから、きいてゐたことである。

それを<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>ひ出すと良寛さんは、早速実験して見たくなつた。幸ひ、あたりには誰もゐなかつた。

良寛さんは<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>の子の中から、さつきお百姓家でもらつたお鳥目をとり出して、道の上に投げた。そして拾つた。

「なァんだ、ちつとも嬉しくない。」

とひとりごとをいつた。実際、少しも嬉しくはなかつた。

――もう一ぺんやつて見よう。

今度はもう少し遠くへ投げた。鳥目は石ころにあたつて、ちやりんとひつくりかへつた。良寛さんはまたそれを拾ひあげた。

「なァんだ、ちつとも嬉しくないぢやないか。」

――これはやり方がまづいのかも知れない、もう一ぺんやつて見よう。

今度はもつと遠くへ投げた。同時に自分の眼をつむつた。ちやりんと音がした。それからそうつと眼をひらいて見た。

「おや。」

鳥目は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かへ隠れてしまつた。もう道の上には見えなかつた。

良寛さんは、鳥目の落ちたあたりへ走つていつた。そして探しまはつた。

鳥目はなかなか見つからなかつた。

「こいつはしまつた。」

良寛さんは頭をかきながら、草の中を探しまはつた。

そのうちに、とうとう鳥目は見つかつた。小さい紫の花をつけてゐる<ruby><rb>菫</rb><rt>すみれ</rt></ruby>の葉の下にそれは隠れてゐた。

「なァんだ、菫めが隠してをつたのか。」

さういひながら、良寛さんは、鳥目をまたもとの鉢の子の中に収めた。

これで実験は済んだ。そしてその結果、人々が「道で銭を拾ふと嬉しい。」といふことは、確にほんたうであると、良寛さんに<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>つた。

「いや、全くだ。全くほんたうだ。」

――それにしても、わしは<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>こんな野原の真中で、こんなことをしてゐるのだらう。良寛さんは、雲を見てちよつと考へたが、解らなかつた。

それから鉢を<ruby><rb>傍</rb><rt>かたはら</rt></ruby>に置くと、今度は菫の花を摘み始めた。まづ鳥目をその葉の下に隠した菫を摘んだ。それから、近くに生えてゐるのを順々に摘んでいつた。

だんだん菫の紫の花が、良寛さんの手の中で増えていつた。

「まだ、ここにもある。ほい、まだあそこにもある。」

きりがなかつた。良寛さんは菫摘みに夢中になつて、時のたつのを忘れてゐた。

やがて、両手に余る位、花がたまつたとき、腰が痛くなつた良寛さんは、立ちあがつて、いつの間にか、空が日暮の<ruby><rb>茜</rb><rt>あかね</rt></ruby>に染まつてゐるのを見た。

「ほい、もう日暮ぢや。どうやら風も冷くなつた。こりや急がにやなるまい。」

良寛さんは、前かがみになつて、野道を<ruby><rb>急足</rb><rt>いそぎあし</rt></ruby>でいつた。

間もなく一つの村にはいつた。村には静けさのうちに、何となく日暮の物音と、慌しいけはひがこもつてゐた。良寛さんが沿つてゆく<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>には、今夜そこに宿をもとめる<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>達が、まだ落着かなくて、ばたばたと羽音を立ててゐた。

良寛さんは、子供を探してゐた。子供に菫をわけてやりたかつたのだ。

<ruby><rb>土塀</rb><rt>どべい</rt></ruby>を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きながら、一人の男の子が、向かふからやつて来た。

「坊、菫の花あげようか。」

と良寛さんはいつてさしだした。

子供は良寛さんをよく知つてゐた。いつもよく遊ぶ心の優しい坊さんである。しかし今は日暮であつた。子供は家が恋しかつた。お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>が<ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>いてゐた。

「菫なんかいらん。」

子供は、さういつて過去つた。

良寛さんは、また別の子供を探した。すると間もなく、赤ん坊を負んだ子守娘が向かふからやつて来た。赤ん坊が泣くので、自分も泣きたいやうな顔で、子守歌をうたひながら来た。

「菫をあげようか。」

と良寛さんはいつて、また菫をさしだした。

昼間なら子守娘は、良寛さんと<ruby><rb>手毬</rb><rt>てまり</rt></ruby>をついて遊ぶのだ。けれど今は日暮だつた。それに赤ん坊が背中で泣いてゐた。自分も泣きたかつた。

「良寛さん、いりません。」

泣き声でいつて、子守娘は過ぎていつた。

良寛さんは、それから三、四人の子にゆきあつた。ゆきあふたびに、菫をあげようといつた。そして、どの子からも、いらないといはれた。

良寛さんは、もう<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて、菫の花束を両手に持つたまま、山の中の<ruby><rb>五合庵</rb><rt>ごがふあん</rt></ruby>に帰ることにした。

――それにしても、何故、わしはこんなことをしたのだらう。こんなに菫を摘んで、一人一人子供にあげようといつて……。良寛さんは、もう<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆふやみ</rt></ruby>で黒く見える菫の花を見ながら考へた。けれど、はつきりとは解らなかつた。

良寛さんは、とぼとぼと五合庵の方へ歩いていつた。足が大層重かつた。

――子供達は、日暮になると、みんな勇んで家へ帰つてゆく。しかし、わしは自分の家へ帰るといふのに、ちつとも楽しくはない。わしの家には、誰もわしを待つてゐるものがないからだ。

さう思ひながら、寂しい山道をのぼつていつた。

柴の折戸をぎいつとあけて、良寛さんは五合庵の中にはいつた。中は暗くなつてゐた。そして、ことりとも音がしなかつた。

――やれやて、暗くなつても誰もあかりをつけない。これがわしの住まひか。わしはこんなところに住んでゐたのか。

良寛さんは、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらぢ</rt></ruby>をぬいで上にあがると、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>に火を入れる気力もなくて、菫の花束を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>にのせたまま、ぼんやり<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>つてゐた。

間もなく、外に<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がして、誰かが<ruby><rb>庵</rb><rt>いほり</rt></ruby>にやつて来た。

「良寛さん。」

「おお、どなたかのう。」

良寛さんは人声をきくと、急に元気が出て、立ちあがつた。

はいつて来たのは、顔見知りの百姓であつた。

「これ、良寛さんの<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>ぢやねェですか。」

「おお、わしのぢや。」

良寛さんは、<ruby><rb>菫</rb><rt>すみれ</rt></ruby>の花を摘んでゐて、その鉢を野中に忘れて来てしまつたのであつた。

「やつぱり、さうですか。どうも見覚えのある鉢だと思ひましたら、やつぱりさうでしたか。」

「<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがた</rt></ruby>う、こりやどうも。菫を摘んどつて忘れて来てしまうた。ま、上にあがりなさい。」

良寛さんは、百姓をむりやり、上にあがらせた。そして行燈に火を入れ、お茶を沸かした。

「まだ、夕飯前ですから、ゆつくりは出来ませんが。」

「ま、ま、さういはんで。<ruby><rb>冷飯</rb><rt>ひやめし</rt></ruby>でよければ、わしのとこにもあるで、<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べてゆかつしやい。」

良寛さんは、しきりに百姓をひきとめたがつた。

百姓は五合庵の中を見まはして、

「良寛さんは、こんなとこで、毎日毎晩、暮してをらつしやつて、よくも寂しくねェもんですな。」

といつた。

「ああ、それさ。わしも今外から帰つて来て、つくづく自分でもさう思つてゐたところさ。こんなところによく一人でゐたもんだとのう。」

「<ruby><rb>島崎村</rb><rt>しまざきむら</rt></ruby>の木村の<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>がいつてをらつしやつたが、あそこの屋敷の中に小さい<ruby><rb>離</rb><rt>はなれ</rt></ruby>があるさうで、よかつたら良寛さんに、はいつて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ひたいげなが。」

「うん、わしも旦那からきいてゐた。」

「ぜひ、木村の旦那のところへ、いかつしやるがええ。」

「うん、有難う。」

お茶をのむと百姓は帰つていつた。

百姓がゐた間、心がたのしかつた良寛さんは、一人になるとまたしづんで来た。

――何故、こんなんだらう。

今は、はつきり解つた。良寛さんは人が恋しいのだ。一人でゐるのは寂しいのだ。

――若かつた日、わしは寂しさに耐へる修業をした。どんな寂しさでも平気でゐられるやうに努力した。そしてあの時分は、それも出来た。しかし、年をとつたのか、わしはまた寂しさが我慢出来なくなつて来た。<ruby><rb>結局</rb><rt>つまり</rt></ruby>、わしは、一人ぼつちではゐられない弱い人間なのだ。

良寛さんは<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の村を見るために、外へ出ていつた。

空には、まだ少し明かるさが残つてゐた。その明かるみの下を<ruby><rb>一群</rb><rt>ひとむれ</rt></ruby>の鳥が西の方へ飛んでいつた。一羽遅れた鳥が、<ruby><rb>落伍</rb><rt>らくご</rt></ruby>しまいとして、一生懸命に追ひすがつてゆくのが見られた。そしてすぐ見えなくなつてしまつた。

――わしら人間も、あの鳥共と同じだ、と良寛さんは思つた。――わしら人間も、一人ぼつちでは、生きてゐられないのだ。みんなが一緒になつて、お互に助け合つて生きてゆくのだ。

何といふことなしに、良寛さんは涙がこぼれた。そして、涙でうるんだ眼を下に向けると、平野の上の家々の小さいあかりが、あちこちかたまり合つて見えた。

――わしは、あそこへゆかう。島崎村の、わしを迎へてくれるといふ家へたよつてゆかう。一羽遅れた小鳥のやうに、わしは人々のところへ追ひすがつてゆかう。

良寛さんの眼からとめどなく涙が<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れ、平野の家々の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>はうるんで一つに見えた。

## この本のをはりに

私の話したかつたことは、これで大体終つた。

さて君達は、私がこの本のはじめで出しておいた、宿題を<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>ひ出してくれたまへ。それはかうだつた。

「良寛さんのどこが偉いか。」

君達に良寛さんの偉さが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>つたらうか。もし解つたなら、私にとつて大変<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいことである。

たとひ、良寛さんの偉さは解らないにしても、この話を読んで君達は、良寛さんが好きにならなかつたらうか。それでも私は満足に思ふ。

もし君達が、良寛さんを偉くも思へないし、好きにもなれないといふなら、私は大層残念だ。

しかし、それは良寛さんがいけないのではなくて、私の話し方がいけないのである。だから、君達はこの本だけで、良寛さんをつまらなく思つてしまつてはいけない。良寛さんのことを書いた書物は、まだ<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>にかなりある。

<ruby><rb>相馬御風</rb><rt>さうまぎよふう</rt></ruby>、<ruby><rb>西郡久吾</rb><rt>にしごほりきうご</rt></ruby>、<ruby><rb>津田青楓</rb><rt>つだせいふう</rt></ruby>等の諸先生がお書きになつた良寛さんの本を、君達がもう少し大きくなつたら、読むがよろしい。それらは大層すぐれた書物だ。それらが無かつたら、おそらく私もこの本を書くことが出来なかつたほどに。

では私は、これで私の話を終へることにしよう。