Soranoha

狂言綺語

きょうげんきご

蒲原 有明

諸君子のひそみに倣つて爆彈のやうな詩を書いて見ようと思はぬでもない。も少し穩かなところで、民衆詩あたりでも惡くはなからうと思はぬでもない。さうは思ふが、さてどうにもならない。

格にはまつた詩も、格にはづれた詩も、いづれにしても、わたくしには今作れない。わたくしは言葉の探究に夢中になつてゐて、詩の作れぬわけをそれに託けてゐる。とは云へ、その探究は言葉を科學的に冷靜にぢりぢりと押へつけて行つて、その効果を擧げようと企てゝゐるやうなものではない。それにはまた別に人がある。

わたくしは夢を見てゐるに過ぎない。ただこの機運に際し、多年言葉の修練を唱へてきた餘力を驅つて、言葉の奧に蟠る祕義に參してみたいと思ふばかりなのである。詩は作れないといつたが、こゝに別樣の意味に於て、なほ詩作はつづけられてゐる。さう思つて少しく慰めてみるのである。

ダンテの神曲のことが不圖思考の表に上つてくる。氣儘に比較するのではないが、神と人との繋りに心を留めてみたからである。そしてその繋りによつて始められた文化を、古語の中から、或は又現に忘れられつゝある民間語の中から、探り出して、その暗示によつてわれ等が祖先の世界の面影を再現し、その生活を記述批判することも亦詩でなくて何であらう。

いづれにしても、言葉はその中にあつて淨瑠璃の役目をつとめるものである。それはアメノマヒトツノカミ、イシコリドメノミコトの精魂をこめて鑄た鏡よりも、更に曇りなく、更に不可思議なものである。言葉は民族的なものであるから、その闡明は民族精神によるところの批判であり、その批判はいかにも嚴しい。言葉は畢竟僞らぬものゝ隨一であらう。

爆彈のやうな詩を作るなら、眞に爆發するものであつて欲しい。それが若し不發に終るものならば、たとへ玩具にすぎぬとも、線香花火がまだ優つてゐる。その方が正直だからである。言葉を詩の爆彈に填充する火藥とすれば、その言葉の性質をも辨へず、調合をおろそかにすることは出來ないのであらう。それを怠つてゐたのでは、いくら擲つても爆發するはずがない。

さて、詩は爆彈に代るものであらうか。わたくしは第一にそれを疑ふ。

明日の夢を夢みて今日を破壞しようとするのは無謀でなくて何であらう。またその目的のために言葉を謬用することは、詩をも識らず、言葉にこもる民族精神にも徹せぬ所爲であらう。

詩は今日の正夢であつてよいのである。今日の境涯には不平、怨嗟は絶えず起る。さればといつて、それ等も今日の夢であつてこそ、それ等に相應する表現價値がある。然るにその不平怨嗟の境涯を以て、明日のために企劃された不逞なる成心による爭鬪意識の對象となすとき、詩の本質は曲解されなくてはならない。詩は詩の埒の外に逸脱しなくてはならない。それに比ぶれば、詩が今日の惡酒に醉ひ痴れてゐても、その方がいくらよいか判らない。

人生はこれを慰めてゆくべきものと諦められる。人生が慰められゝば個人もまた同時に慰められる。詩人はその間に立ちて、犧牲をさゝげ讚め言葉をまをす媒介者である。神と人との隔りを繋ぎとめるカムナギである。更にまた神慮にかなはんがために、世にもめでたき振舞をするワザヲギの民のたぐひである。

詩人のつとめは、それより外にあらうはずがない。詩はかくの如くにして、神と人とのつながりから、自然に巧まれてうちあげられたものである。上は出雲國造神壽詞から下は三河萬歳の言葉にいたるまで、それが詩の一貫した方式である。

詩はカムヨゴトである。それ故に、慰めの言葉、をかしき言葉、乃至は狂言綺語であることが、詩の正道にはづれたものとは決しられない。またかく云ふことが詩を蔑むとも考へられない。

ダンテはその一世一代の詩篇に標するにデイヴイナ・コメデイア(神聖喜曲)といふ題を置いた。これには傳承もあることであらうが、ダンテがこの曲を書いた意圖は、彼が言葉の最高の司祭者として、底知れぬ人生、即ち民族精神の綜合的現實世界の前にカムヨゴトを申したことより外には、これを尋ね難い。この意味に於て、この曲は神慮を測り、且つ慰むる狂言綺語の一類であつたと云つても、決してその偉大さは妨げられない。かの穢を祓ひ縁喜を祝ふたぐひの言葉とその系統に於て異るところがあらうとは見られないからである。そのやうなあやのある言葉を邦語でカムヨゴト(神壽詞)と云ふ。神曲のコメデイアにそつくり當はまる言葉である。

ダンテのカムヨゴトには、その至誠にかまけて神憑りがしてゐるところがある。そしてその言葉がほとほと神託の域に達してゐる。ダンテは明日の夢、理想の幻影のために私心をふくめる言葉を申さなかつた神人である。

カムヨゴトなるかな――わたくしはかう獨語して、そして筆を擲つた。筆が卓の上で微かな音をたてる。わたくしの氣分も少しく輕くなつてくるやうである。

(昭和十三年十二月 書物展望社刊)

底本 / Source edition

底本:「明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)」筑摩書房
1980(昭和55)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「飛雲抄」書物展望社
1938(昭和13)年12月10日初版
入力:広橋はやみ
校正:土屋隆
2005年11月24日作成
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書誌 / Bibliography
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蒲原 有明「狂言綺語」(旧字旧仮名)、底本『明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)』筑摩書房、1980年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 044905_001055, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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