Soranoha

演出者として

えんしゅつしゃとして

岸田 国士

近代劇の古典といわれるゴーリキイの「どん底」を文学座がそのレパートリーのなかに入れたことは、そんなに驚くには当らない。

しかし、私が演出を引受けるについては、自分でもその柄でないような気がしなくもなかつた。

第一に、私はロシア文学について勉強が足りず、原作も原語で読めない弱味は、戯曲演出の場合はまず致命的といつていいからである。

それにも拘わらず、私は、少々図々しく構えて、委員会の指名に従つた。やつぱりこの戯曲は、私の演出欲をそそつたものと見える。

かねがね「翻訳劇」の演出というものには手を触れたくないと思つていた私も、この「どん底」だけは、ついに例外となつた。

そこで、やる以上は、それだけの意味を考えなければならぬ。

順序として、私がこの作品に興味をもちだした因縁と経路を話せば、そもそも最初にこの風変りな戯曲にぶつかつたのは、今から卅年前、たまたま世界巡業の旅にあつたモスクワ芸術座の舞台をパリで観た時である。

当時既に、スタニスラフスキイ、ダンチェンコを首脳とするこの劇団の名は欧州を風靡していたので、一演劇学生であつた私は、胸を躍らせて、この千載一遇の好機を捉え、シャンゼリゼェ劇場へ十日興行の殆ど毎夜を通いつめた。

チェーホフの「桜の園」「ワーニャ伯父さん」ツルゲーニェフの「田舎の女」トルストイの「イワン皇帝」ゴーリキイの「どん底」等、目星しいレパートリーの数々を親しくこの眼で見、この耳で聴くことができた。

私は予めそれらの戯曲の仏訳を読んで行つた。読んだ印象よりもずつと面白く、快い感動にひたることができ、なるほど、さすがはモスクワ芸術座だと思い、近代劇の一つの頂点はたしかにここにあるとさえ信じるに至つた。

ほかのレパートリーはとにかく、ゴーリキイの「どん底」から受けた極めて特徴的な印象は、いろんな意味で人生の、最も惨めで「暗い」生活の断面を描きながら、この舞台には、なんともいえぬ明るさが、漂つていることであつた。

私は、その「明るさ」を、戯曲のジャンルや手法に帰すべきではなく、登場人物それぞれの性格のなかに、すなわち、この種の社会を形づくる人間群のタイプのなかに求めなければならぬように思つた。

なるほど、彼等は「かつて人間であつた」ものたちとも呼ばれている一種の落伍者たちである。しかし、それにも拘わらず、作者は、彼等に、最後の「人間らしさ」を残し、その人間らしさは、スラブ民族特有の楽天主義と、信仰と矛盾しない「ニヒリズム」とに支えられて、おおらかな人生の歌を唱つているのである。

なによりも、ゴーリキイ自身のロシア民衆的な本質が、この作品のなかで、分裂し、対立し、衝突し、渦巻き、乱舞しているすがたが、この上もなく私の興味をひく。

ゴーリキイは、なるほど、虐げられたものの味方であり、正義の敵が、何者であり、社会のバチルスがどこにひそんでいるかも知つていたに違いない。しかし、そのことだけを大声に訴えるためにこの戯曲を書いたのではあるまい。

彼は、何よりも、自分の経験と才能のすべてを賭けて、感動的な一つのドラマを創り出そうとしたのである。

底本 / Source edition

底本:「岸田國士全集28」岩波書店
1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「産業経済新聞」
1954(昭和29)年3月3日発行
初出:「産業経済新聞」
1954(昭和29)年3月3日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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岸田 国士「演出者として」(新字新仮名)、底本『岸田國士全集28』岩波書店、1992年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 044861_001154, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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