Soranoha

一つの挿話

ひとつのそうわ

岸田 国士

亡くなつた林芙美子さんのことについて何か書けといふ注文である。なんといつても、これは少々筋ちがひのやうに思はれるが、編集者Yさんは非常に物覚えがよく、私がある時、映画の試写会のあとで林さんと夕食を共にしたといふ話を、私から直接聞いたことがあるから、そんなに懇意な間柄なら、書けない筈はないと言ふのである。

ところが、私は、Yさんにそんな話をした覚えはさらさらなく、まして、林さんと一緒に食事をしたことなどは、何かの会以外にはないのだから不思議である。Yさんが作り事を言ふ筈はないし、私も、そんなデタラメを喋る興味も必要もないとすると、私が、なにもかも忘れてしまつてゐるとしか考へられない。この方がむしろ大問題である。

そんなわけで、林さんと私との面識の程度を、もしはつきりさせなければならぬとすると、約二十年間に前後三回(私の記憶を信じるとして)会つたきりである。

最初は、徳田秋声さんの何かのお祝ひの会の時に、誰かに紹介され、その次ぎは、文芸春秋社主催の講演会で、これはたしか一週間に亘つて関西各地を廻る間、いはゆる行を共にした。かれこれ十五年乃至二十年も前のことである。

最後は、ついこの間、今日出海君のお祝ひの会に出て、偶然林さんと隣合せの席につき、しばらく雑談をした。

この程度の交渉で、私が特に林さんの思ひ出を語る資格があらうとは思へぬが、強ひて語るとすれば、また、それはそれで、私といふ人間の見た林さんのポルトレにはなるかも知れない。

初対面の時は別に口を利き合つたわけではなく、なんでも、だいぶん席が乱れて来てから、林さんが妙な恰好の踊りをはじめ、その頃の私は女文士の勇敢さに度胆をぬかれたが、それよりも、その踊りをまたかといふ風に横目で眺めてゐる秋声老の、なんとも言へぬ笑ひ顔がまだ眼の底に残つてゐる。

その後数年たつてのことだと思ふが、文芸春秋社の講演会で林さんと一緒になつた。ほかの土地でのことはもう記憶にないが、京都の宿に落ちついてからの、ちよつとした挿話をこゝに紹介しよう。これは、結局、林さんをだしに自分を語るやうなことになりさうだが、この挿話ひとつがあるために、私はこの一文を草する気になつたのである。

宿の夕食をすますと、私は久々で京都の町を少し歩いてみようと思ひ、外出の支度をしはじめた。すると、それを見てゐた林さんが、散歩に出るなら、自分も一緒に出かけるからと言つて、座を起つた。京都の町は、わりに詳しいから、案内をしてあげるなどと言ひながら、なるほど勝手を知つたものゝ歩き方で、私をあちこちと連れ廻つた。

やがて、私は、家へ何か土産を買つて帰らうと思ひ、そのことを林さんに言ふと、奥さんへのお土産なら、自分がいゝものを教へてあげるからと、いきなり、先づ、下駄屋へはいつて京風の桐の女下駄を、それから、袋物屋の店で、なんとかいふ名のついた絹地の紐を、これは女のひとが重宝がるものだといつて、私に買はせた。非常に安いもので、そいつを幾本も林さんは選り出してくれ、余分にあつたつて困りはせぬからとのことであつた。

家に帰つて早速その土産を取り出し、家内がなんと言ふか、興味をもつて眺めてゐると、下駄の方はまづ無事及第であつたが、例の細紐を手に取りながら、家内は、かう私に訊ねた。――これは、あなたがお見つくろひになつたの?

急いで言ふが、私もたまには外出先でふとその気になつたり、変つた土地へ旅に出たりすると、ちよつとした土産を買つて帰ることがある。一番無難なのは食ひ物であるが、女の持物に至つては全く自信がなく、失敗とまではいかなくても、おほかた、労多くして功少きを常とした。どこかピントが外れてゐるらしいのである。

家内の不審はまことに当然であるから、私も、事実ありのまゝを告白した。そして、林さんといふひとが、さういふことにまで細かく気のつくひとで、と、序に林さんの印象を語りはじめると、その土産の細紐を指先で弄んでゐる家内の表情が、ちつとも明るくないのに私は気づいた。

そこで私は、遅まきながら、一つの発見をした。曰く、夫の妻への土産は、概してあまりにピントが合ひすぎてゐては面白くないのである、と。ピント外れの味ひぐらゐ、林さんは決してわからぬひとではない。私は、この結果を林さんに報告するほど、彼女と親しくなかつたのが残念である。

底本 / Source edition

底本:「岸田國士全集28」岩波書店
1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「文芸 第八巻第九号」
1951(昭和26)年9月1日発行
初出:「文芸 第八巻第九号」
1951(昭和26)年9月1日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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岸田 国士「一つの挿話」(新字旧仮名)、底本『岸田國士全集28』岩波書店、1992年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 044836_001154, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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