Soranoha

『物言う術』の序に代へて

『ものいうすべ』のじょにかえて

岸田 国士

われわれが昔からその実体をもたぬわけではないのに、それがひとつの概念として規定されず、従つて、それを指し示す共通の言葉が生れなかつた、といふ例は、枚挙にいとまがない。

西欧文明の移入が、そのことをはつきりわれわれに覚らせた。

芸術の領域に於ても、われわれはしばしば新造語の助けをかりて何事かを語らねばならぬが、それらの多くは西欧の言葉の翻訳であり、そのために、思想がつねに借物の観を呈するのである。

私がかつてフランスに渡つてフランスの芝居なるものを実地に学ばうとした時、まづ困難を感じたことは、専門語の意味を観念として理解することではなく、それが指し示す実体を正確に捉へることであつた。そして、私が更に感慨無量であつたことは、かくしてやうやく捉へ得た実体は、別に、私にとつて、それ自身としては言葉ほど珍しいものではなく、ただ、それが、ひとつの厳しさをもつた現実のすがたになつてゐるのを注意すればよいことであつた。

ART DE DIRE(物言ふ術)といふ言葉にぶつかつた時、それが芝居の言葉であるだけに、私は首をひねつた。もちろん、誰でも使ふ言葉ではなく、舞台の白せりふが、近代劇の洗礼によつて、DÉCLAMER(朗誦する)から DIRE(語る)に変りつつある時代に、誰からともなく使はれだした言葉にちがひない。ジャック・コポオも、好んでそれを使ふ一人であつた。

私は、「白を朗読する」と称する古来の習慣を打破する意味で、「白を言ふ」と端的に宣言する演劇革新の旗じるしがそこにもあると知つた。が、しばらくたつて、国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワル)の教授、ブレモンの著書「ART DE DIRE」を読むに及んで、この考へがすこし早呑みこみであることに気がついた。

この書物が私の眼をひらいてくれた一番大きな部分は、

――白を正確に言ふことだけが、教師の生徒に教へ得る唯ひとつの有効な課業である。主要なことは、「ほぼ正確な」といふ白の言ひ方が最も不幸な結果をもたらすことである。

といふ意味の信念に満ちた断定であつた。

私は、日本に帰つて来て、できるだけ正統的な道をふんだ俳優養成の必要を痛切に感じ、微力ながら、同志と共に、この仕事をはじめようとした。

田中千禾夫君は、実に、二十年前、今日からみれば奇しき縁であるが、われわれの研究所の第一回生として、慶応仏文科に籍をおいたまま、熱心に「新しい芝居の門」を押しくぐらうとしたのである。

私の講義「物言ふ術」は、ブレモンの「ART DE DIRE」がまぎれもない種本であつたから、仏文の読める田中君に原書の一読をすすめ、同君もやがて同人の一人に加つた第一次「劇作」誌上にその紹介を依嘱した記憶がある。

だが、爾来、田中君は、作家として大きな成長を遂げ、しかもなほ、演技に関する研究と俳優の指導とに熱意を傾け、特に、その間、田中君一流の、言ひ換へれば、ブレモンを自己の経験のうちに消化し、ブレモンを批判しつつ自家薬籠中のものとした「物言ふ術」の体系ができあがつてゐるのを知り、私は、切に、その草案の公表を望んでやまなかつた。第二次「劇作」が、この機会を与へたのである。

世界文学社は、この貴重な文献をわが演劇界に贈ることによつて、ひとつの「正統的にして、しかも革新的な」寄与をなし得たといふべきである。

千九百四十九年 初夏

田中夫妻を嘗て迎へた浅間山麓の楢林にて

底本 / Source edition

底本:「岸田國士全集28」岩波書店
1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「物言う術――俳優術第一歩」世界文学社
1949(昭和24)年12月10日発行
初出:「物言う術――俳優術第一歩」世界文学社
1949(昭和24)年12月10日発行
※「物言う術――俳優術第一歩」は田中千禾夫著
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年10月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/044812_001154/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/044812_001154/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/044812_001154/

岸田 国士「『物言う術』の序に代へて」(新字旧仮名)、底本『岸田國士全集28』岩波書店、1992年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 044812_001154, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite