Soranoha

フランスに於けるシェイクスピア

フランスにおけるシェイクスピア

岸田 国士

嘗てイタリーへ旅行しました時、ヹロナで、或るシェイクスピアの作中のそれのやうな月のいゝ晩に、市中を歩いてをりますと、「ロミオとジュリエットの墓」といふ標札が目に附きました。多分、後人の拵へ物だらうと疑ひながら、その墓の中へ入つて行きますと、墓の中には、大理石の大きな棺桶がたつた一つ。「ロミオとジュリエットの墓」なら二つありさうなものと思つて、捜して見ましたけれども、見つかりませんでした。しかしその一つが可なり大きいので、今日の人間なら二人分だとも見えます。二人ゆつくり並んで寝られるほどの棺でありますが、その棺の中には、無論ロミオの頭蓋骨もなく、ジュリエットの腕の骨一つ入つてゐないのでした。うす暗くて、よくわかりませんでしたが、奥の方にはイタリー特有の糸杉の立木があつて、そこに何かの胸像らしいものが真白に浮き出てゐました。近づいて見ると、それはシェイクスピアの胸像でありました。棺を見ただけでは別にどういふ感じもなかつたのですが、その胸像を見ると共に、一種厳粛な、荘厳な気持に打たれ、実際自分が「ロミオとジュリエット」の舞台の人物といふほどでもありませんが、殆んどその時代にゐて、その物語りを直接に感じてゐるやうな気がしたのでした。同時に、その作者シェイクスピアは何国の人間であるかなどといふことを少しも考へずに、たゞもうわれわれのシェイクスピアだといふ風に思つて、なつかしみを感じたのでありました。

御註文の「フランスにおけるシェイクスピア」といふやうなことについては、さしあたり纏まつた知識も持合せてをりませんが、折角のお需めですからざつとした御報告を試みようと思ひます。

まづ、シェイクスピアがどういふ風にしてフランスに入つて来たかといふこと――これは、今日ではもう可なりはつきりしてをります。フランスでは、十七世紀までには、シェイクスピアといふ名前は、ほんの一人か二人の人の書いたものに遺つてゐるだけで、偉大な劇詩人としては、全く紹介されてゐなかつたのであります。この一人か二人は、しかしながら、非常に英国の芝居に通じた人でした。二人とも、久しくイギリスに往つてをり、帰国してから、その見聞を発表したのです。一人は Saint-Aman、もう一人は Saint-Evremont です。いづれも、英国の劇を紹介しましたが、作者としてはベン・ジョンソンを主としてゐます。シェイクスピアの名は挙げてゐません。殊にサンテヴルモンは、ウェストミンスクアに長くゐて、非常に芝居を沢山見てをり、そしてベン・ジョンソンの作を激賞してゐますが、シェイクスピアには一言も触れてゐません。但し或人の調べに依ると、中に「作者不詳」、――つまり歌でいふ「読人知らず」――の古い戯曲が、当時ロンドンで上演されてゐたことを書いてをり、さうしてそれはベン・ジョンソンの作に比するに足る立派な作品だが、たゞ非常に冗長で、無駄がある、その無駄を刈り取つてしまへば、なかなか立派な芝居になるのだが、といふ風な、簡単な説明が添へてあるのです。で、或人は言ふのです、恐らくサンテヴルモンは、当時まだ作者名不明のシェイクスピアの作品を嗅ぎ当てたのではなかつたらうか、すると、彼れこそシェイクスピアの最初の紹介者ではあるまいかと言つてをります。

ところが、こゝに Nicolas-Clement といふ人があります。この人は十七世紀の王宮の図書館の司書でありまして、沢山のカードを作つてゐますが、そのカードの中にシェイクスピアといふ名前が見えます。そしてその説明として、イギリスの劇作家、非常に生気に富んだ、力強い作品を発表したが、その中には可なり粗野な惨虐な部分があつて、フランス人の嗜好には適しない、云々と書いてあるのです。以上がまづ十七世紀におけるシェイクスピアについての紹介です。まだもう一人ありますが、それは略します。

といふ風で、十七世紀に於てはフランスで殆んどシェイクスピアは知られなかつたといつていゝのですが、十八世紀になると、シェイクスピアの偉大さを十分に一般に徹底させた文学者がありました。これは御承知の『マノン・レスコオ』の作者 Abbé-Prévost です。彼はシェイクスピアのことをそのイギリス滞在中の感想記“Le Pour et le Contre”中に書いてゐます。この書名は、イギリスにはいゝところもあれば悪いところもあるといふやうな意味で、「英国是非」とでも訳しませう歟。それは一七三三年のことです。その翌年、例の Voltaire が、――シェイクスピアを大速力で読んだものと見えまして――、矢継早にシェイクスピア評論を書き始めました。で、フランス人一般がはじめてシェイクスピアに注意を向けるやうになりました。ヴォルテールは、御承知のやうに、文学的にもまた思想的にも、一種の革命家でありましたから、そのシェイクスピア紹介の勢ひは、いはば今日の新人がマルクスを日本に紹介するのに似てゐたらうと思ひます。彼れのシェイクスピアに関する解釈、理解に対しては大分問題がありますが、とにかく彼は口を極めてシェイクスピアを賞讃してゐるのです。そして自分もシェイクスピアの作に摸して、多くの脚本を発表したのみならず、おれはシェイクスピアから影響を受けたと自白してもゐるのです。そしてヴォルテールすらもシェイクスピアの影響を受けたといふことはフランスの舞台芸術に一種の革命を齎した所以であります。

ヴォルテールについで Ducis(デュシス)といふ作者が、シェイクスピアの翻案をしきりに始めました。「ハムレット」、「ロミオとジュリエット」、「リヤ王」、「マクベス」、「オセロー」、かういふものがどんどん翻案となつてフランスの舞台に現はれました。その後、一七七六年に Letourneur といふ人が、シェイクスピアの翻訳を完成しました。ところが、その翻訳が完成すると、ヴォルテールは非常に苦い顔をしました。その苦い顔は、当時彼れが発表したシェイクスピア論の到る所に見えてゐます。これは甚だ奇妙な現象でありました。ヴォルテールの態度が目立つて変りました。シェイクスピアには、なるほど、多少いゝところもあるけれども、概していふと、趣味が下劣で、野蛮で、一口に言つて見れば、気狂ひが酔つぱらつてるやうなもんだ、云々。かういふ暴評をしたのであります。ところが、その当時には既にフランス内にシェイクスピア党が可なりあつたのですから、この暴評を聞き捨てにしませんでした。当時の批評家達は挙つてヴォルテールの変節を怒つたのでありました。

が、この「変節」について、最近おもしろい意見を発表してゐる一学者があります。それは Emile Faguet といふ劇評家兼アカデミイ会員です。(もう亡くなりましたが)この人はその一著の中で、右の「変節」について弁護をしてゐる。自分は一体ヴォルテールが非常に好きで、いつでも彼のためには弁護の地位に立つ者だが、右の「変節」問題についても一言弁じたいと前提しまして、ヴォルテールはシェイクスピアの第一の紹介者として功労があるのみならず、シェイクスピアを善く理解し、その偉大さを十分芸術家的に味得した、今日迄の有数な人の一人である。従つて、ヴォルテールが最初シェイクスピアを非常に褒めて紹介をした時と、その後何十年かの後に、彼れを殆んど罵倒せんばかりに批評をした時と、必ずしも考へは変つてゐない。たゞ、初めて紹介した時のヴォルテールは一種の革命家であつたからシェイクスピアの長所を強調するに力めた。ところが数十年経つて後には、ヴォルテールは、文学的にも思想的にも、既に一個の反動家となつてゐたのである。だから、その当時余りに世間にかつぎ上げられてゐるシェイクスピアに対して、寧ろその悪いところを強調して警戒したに過ぎない、だから変節ではない。――といふのである。

ヴォルテールの「変節」の動機に関しては、もう一つおもしろい個人的な理由がありました。さつき申したルトルヌウルといふシェイクスピアの翻訳全集を出した人は、劇評家でもありましたが、この人がフランスの戯曲家総論といふやうな本を書きましたが、その書物のなかに、「フランスにおける偉大なる劇作家」といふ項目がある。それにはラシーヌ、モリエール、コルネイユ、マリヴォー、さういふ人を入れてゐながら、ヴォルテールの名前を入れなかつたのです。そこでヴォルテールは、そのルトルヌウルに対する反感から、シェイクスピアを同時にやつつけたんだといひます。これは甚だヴォルテールらしい、天才的な態度であつて、われわれは到底まねることが出来ないといふことを、ファゲがフランス式の諧謔まじりで書いてをります。

十九世紀になつては、例の Stendhal が、一八二三年に「ラシーヌとシェイクスピア」といふ題で一大論文を発表してゐます。彼はフランス劇壇では神の如く祀り上げられてゐるラシーヌをシェイクスピアに較べて、今日われわれの学ぶべきはシェイクスピアである、今の人間の心を写す上からも、今の劇場を通して民心に愬へる上からも、もうラシーヌではいけない、すべからくシェイクスピアに学ぶべきだといつてゐます。この論は一八二三年に出版されました。と、一八二七年に英国から一劇団が来て、パリで公演しましたが、その上演目録は殆んどすべてシェイクスピアの物でありました。この中には、例のイギリスの名優 Kean、それから Kemble、それから Smithson といふやうな人がをり、そしてパリで上演したのですから、単にフランスの劇団のみならず、文壇、延いて一般民衆間にも非常なセンセイションを惹き起しました。当時の劇評を読んで見ると、その騒ぎの甚だしさが察せられます。が、誰にでも、とかく国自慢といふことがありますから、フランスでも、シェイクスピアを一面では非常に感心しながら、他面では何か難癖を附けたり、ある批評家らは、いや、惨虐に過ぎる部分が多過ぎるとか、悪趣味に堕してゐるところがあるとか、非難的な結論を添へてゐるのです。しかしこの英国劇団のパリ公演といふことは、殆んどフランスに於ける浪曼派劇の革命的事件であつて、これによつてフランス浪曼派の劇的運動が、一層はなやかに行はれたとも言へるのです。

当時のフランスの浪曼派の詩人達は、イギリス乃至ドイツの詩風に動かされてゐたのですが、シェイクスピアには特に傾倒してゐて、Alfred de Vigny の如きは、「オセロー」や「ヴェニスの商人」を翻訳してをり、Alfred de Musset ――これは今日フランスの劇作家として代表的な作家でありますが――これもやはりシェイクスピアに負ふところが非常に多いのであります。ミュッセの書いた物には必ずシェイクスピアの名前が出て来る。で、ミュッセは、十七歳で文学者にならうと志望し、宣言のやうな物を書いてゐますが、その中に、俺はシェイクスピアたらざればシルレルたらんといふことを言つてゐます。彼れは二十歳で初めて戯曲を書いた。「ヴェニスの夜」といふ戯曲です。この作のエピグラフに、「オセロー」の中の文句を書き入れてゐるくらゐです。が、ミュッセは、その後フランスの古典を研究した結果、自国の大作家ラシーヌに対しての理解が深まるとともに、それに傾倒したものの、なほシェイクスピアに対する崇拝の念を捨てることが出来ず、否、ラシーヌを読むことによつて、一層シェイクスピアの長所がわかつたといふ風に、そこに相互的な関係を生じ、ラシーヌ中の力強い、生気に満ちた場面を読むと、これはまるでシェイクスピアのやうだと感心し、それからまた、シェイクスピア中の非常に純粋なリリシズムを発見すると、あゝ、これはまるでラシーヌのやうだと感心したのでありました。彼れはかういふ風に、二十歳から二十六歳までの間に最も多くシェイクスピアの影響を受け、シェイクスピア風の戯曲をも書いた。殊にイタリーを舞台にした彼の作品には、シェイクスピアの戯曲から直接何らかの暗示を受けたと思はれるものがあります。例へば、ミュッセの「マリアンヌの気紛れ」といふ脚本がありますが、これはシェイクスピアの「ヴェロナの二紳士」と非常に類似してゐる。それからまたハムレットは、ミュッセのローレンスといふ人物と実によく似てゐるのです。

それから降つては、Dumas fils ――伜のデューマ――「椿姫」を書いたデューマ――がまた「ハムレット」の翻案をした。この翻案を、フランスの当時の第一の悲劇役者 Mounet Sully が、四回までも上演して、一回毎にますます立派な演技を見せたといふ記録があります。また当時、François Hugo といふ人が、シェイクスピアの全集を翻訳してゐます。

二十世紀になりますと、――十九世紀におけるシェイクスピア熱は、十九世紀末の自然主義運動でやゝ影を潜めたのですが――再び盛り返して来た。それは例の Antoine が自由劇場運動をひと先づ打切つて、アントワヌ座で従来とはやゝ傾向を異にした戯曲を取りあげましたが、その時「リヤ王」が上演されたのです。今迄のフランスにおける「リヤ王」の上演はカットだらけのものであつたが、この時のはシェイクスピアの原作通りでした。翻訳者はピエール・ロチー。この上演はアントワヌが自分の記録の中に書いてゐますが、大成功。この場数の多い戯曲を、前後の幕に仕切つて、小さなシーンは幕前でやり、幕が上がると奥に別の舞台が出来てゐるといふ仕掛け。間に十五分の幕あひの時間を二つ置いてやつた。エミール・ファゲがその批評の冒頭で、この時、時計を見てゐたら二時間五十七分かゝつたといつてゐます。これは日本の演出法上の参考にもなると思ひます。

この上演は、アントワヌ一派、及び当時の新興演劇、その他演劇の革新運動に携はつてゐた若い連中からは、非常な感激を以つて迎へられたのですが、古い批評家、殊にフランスのアカデミックな批評家からは、可なりの嘲笑を以つて迎へられたのでした。

どういふ点が気に入らなかつたかといふと、「リヤ王」に属する悲劇、「リヤ王」を一つのタイプとする悲劇に対する趣味の相違からです。ファゲによれば「リヤ王」はシェイクスピアの中の駄作だ、なるほど、ところどころいゝところもあるが、要するに一個のメロドラマたるに過ぎない、この作者は、一方で、世界中の誰も真似の出来ないやうな物を書いてはゐるが、「リヤ王」だけは誰にでも書ける、俺にでも書けると云はんばかりな顔をしてゐます。

それから二十世紀のフランスの新劇運動では――既に御承知と思ひますが、例へば、Gémier といふ役者は、「じやじや馬馴らし」「ヴェニスの商人」等をやつてをり、例のヴィユー・コロンビエのコポオは、「冬の夜話」や「お気に召すまゝ」等をやつてゐます。この二人はフランスの最近演劇の中心人物でありますが、二人とも大のシェイクスピア党であります。

次ぎに、注意すべきは、かういふ演劇の実際運動に携はつてゐる人達ばかりでなく、文学者間にも、以前にもまさるシェイクスピア熱が勃興してゐることです。まづ第一に、André Gide――この人は、シェイクスピア党の親方といつてもいゝ位で、その評論中にシェイクスピアを讃美してゐるばかりでなく、「アントニーとクレオパトラ」や「ロメオとジュリエット」を翻訳し、なほ幾つかの自作脚本――例へば「サユル」或は「ウヂイプ」などの中にも極めて濃厚なシェイクスピアの匂を漂はせてゐます。

大戦後は、皆さん御承知の如く、フランスで僅々二三年間ではありましたけれども、新劇連動の非常に盛んな時代がありました。それはちやうど私がパリに行つてゐる頃でしたが、その頃のシェイクスピア熱といふものは、殆んど彼れはフランスの古典作家であるかのやうでした。

以上で、ざつとシェイクスピアがフランスに入つて以来の動静をお話したわけであります。最後に申し添へたいことは、そもそもフランス人は果して能くシェイクスピアを理解し得るか、といふことであります。フランス人と一概に申しても、中にいろいろな性格の人間がありまして、その感受性にも、想像力にも、等差があります。但しフランス人の著しい性癖は不自然を嫌ふといふことと、物を先づ分析してかゝるといふことです。この二つの性癖が、シェイクスピアを十分に理解し、味得する上の一つの妨げとなつてゐるといふことはほゞ想像し得られるのであります。エミール・ファゲにしろ、或ひは Lemaitre といふやうな、いはば非常に悧巧な、頭のいゝ批評家でさへも、シェイクスピアの殆んど三分通りはわからなかつたやうな批評をしてゐます。例のゲーテが言つてゐますやうに、シェイクスピアは次第にわれわれの眼前にその作品の神秘なものを展開してくれるのであるが、そもそも作品の何処にその謎の言葉があるかといふことは容易に明言が出来ないのです。フランス人はその何処に謎の言葉があるか容易に言へないのがもどかしいのです。そして、そのもどかしいのがフランス人にとつては禁物なのです。フランス人はどういふ微妙なことでも、明言しなければ承知しない。言ひ表はさなければ承知しない。また言ひ表はせるといふ確信をもつてゐる。そして、その自尊心を甚だ傷つけるのがシェイクスピアの作品であるのです。で、ジェミエは言つてゐます、人類の最後のゼネレイションに到つて、初めてシェイクスピアの新しい意味が解かれるだらうと。これはシェイクスピア党にとつては甚だわが意を得た言葉であると同時に、ちよつと擽つたい言葉でもありませう。人類の最後のゼネレイションといふと、何十万年後でありませうか、その時にならなければシェイクスピアが解らない――とも言へますし、また、今日は今日として、よくシェイクスピアが解つてゐても、更に後の時代になれば、シェイクスピアは更に新しい姿になつて生れ代つて来る――といふ風にも解釈されるのです。フランス人中には、かういふ見方をしてゐる者もあるのです。

さて余談ですが、フランスでは――シェイクスピアが入つたのは十七世紀の終り乃至十八世紀の初めからですから、もう可なり年月も長いのですが、その間に、実に多くの人がシェイクスピアに関心を持ち、その作を愛読し、殊に文学者、中でも作家殊に戯曲家は、シェイクスピアの翻訳をして、国人にこれを紹介し、且つ自分の参考にしてゐるといふ人々が大勢あつた。にも拘らず、シェイクスピアは、実際なかなか外国人の間にそのほんたうの姿を現はさないのです。わが日本ではシェイクスピアが紹介されてからまだあまり久しくない。ところが、坪内先生の名訳が早く出た為か、研究的ないゝ訳も別にあることはありますが、更に違つた立場から、深く作品の精神を探らうとする翻訳者があまり出ないやうな現状であるのは遺憾です。あまり名訳の定評ができすぎてその為に後の人が多少憚つて手をつけかねてゐるといふやうなことも一の理由であらうと思ひますが、思ふにこのシェイクスピア協会設立の御趣旨は、寧ろ坪内先生の名訳をして日本における定訳たらしめないといふやうなことにもあるのではないでせうか。どうか、シェイクスピア協会は将来に於いて益々シェイクスピア熱を日本で煽つていたゞきたい。そして日本でもかのジェミエが後の時代になつてこそシェイクスピアの新しい姿が解ると言つた、せめてその一部分をでもわれわれ日本人のなかで発見する人が出て来る日のあるやうにと期待する次第であります。

昭和六年四月日本シェイクスピア協会の主催にかゝる講演会の速記で同会々報第二号に載つたものである。

底本 / Source edition

底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房
1940(昭和15)年7月25日発行
初出:「日本シェイクスピア協会会報2」
1931(昭和6)年12月30日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年11月20日作成
2016年5月12日修正
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書誌 / Bibliography
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岸田 国士「フランスに於けるシェイクスピア」(新字旧仮名)、底本『岸田國士全集21』岩波書店、1990年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 044594_001154, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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