消えた<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>、女の悲鳴

「……雪の<ruby><rb>夜半</rb><rt>よわ</rt></ruby>、雪の夜半……どうも<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の句が出ないわい」

寮のあるじはつぶやいた。今、パッチリ<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い石を置いて、ちょっと余裕が出来たのであった。

「まずゆっくりお考えなされ。そこで愚老は雪一見」

立ち上がったあるじは障子を開けて、縁の方へ出て行った。

「降ったる雪かな、降りも降ったり、ざっと三寸は積もったかな。……今年の最後の雪でもあろうか、これからだんだん暖かくなろうよ」

「しかし随分寒うござるな」

侍客はこういって、じっと盤面を睨んでいたが、「きちがい雪の寒いことわ」

「……雪の夜半、雪の夜半……」あるじは雪景色を眺めていた。

「よい上の句が出ないと見える」

「よい打ち手がめつからぬと見える」

二人は<ruby><rb>哄然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>と笑い合った。

「これからだんだん暖かくなろう」あるじはまたも<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「しかし今日は寒うござるな」侍客がまぜっかえす。

「さよう。しかし余寒でござるよ」

「余寒で一句出来ませんかな」「さようさ、何かでっち上げましょうかな。<ruby><rb>下萠</rb><rt>したもえ</rt></ruby>、<ruby><rb>雪解</rb><rt>ゆきげ</rt></ruby>、春浅し、残る鴨などはよい季題だ」「そろそろうぐいすの啼き合わせ会も、根岸あたりで催されましょう」

「<ruby><rb>盆石</rb><rt>ぼんせき</rt></ruby>、<ruby><rb>香会</rb><rt>こうかい</rt></ruby>、いや忙しいぞ」「しゃくやくの根分けもせずばならず」「<ruby><rb>喘息</rb><rt>ぜんそく</rt></ruby>の手当もせずばならず」「アッハハハ、これはぶち壊しだ。もっともそういえば、しもやけあかぎれの、予防もせずばなりますまいよ」

「いよいよもって<ruby><rb>下</rb><rt>さ</rt></ruby>がりましたな。下がったついでに食い物の詮議だ。ぼらにかれいにあさりなどが、そろそろしゅんにはいりましたな。<ruby><rb>鳩飯</rb><rt>はとめし</rt></ruby>などは最もおつで」「ところが<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は野菜党でな、うどにくわいに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うぐいすな</span>ときたら、それこそ何よりの好物でござるよ。さわらびときたら眼がありませんな」「さといも。八ツ<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>はいかがでござる」「いやはや芋類はいけませんな」「万両、まんさく、水仙花、梅に椿に寒紅梅か、春先の花はようござるな」「そのうち桜が咲き出します」「世間が陽気になりますて」――「そこで泥棒と火事が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>る」

「その泥棒で思い出した。噂に高い<ruby><rb>鼠小僧</rb><rt>ねずみこぞう</rt></ruby>、つかまりそうもありませんかな？」ふと<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>はこんな事をいった。

「つかまりそうもありませんな」

「彼は一個の義賊というので、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の方でもお<ruby><rb>目零</rb><rt>めこぼ</rt></ruby>しをなされ、つかまえないのではありますまいかな？」

「さようなことはありますまい」客の声には自信があった。「とらえられぬは素早いからでござるよ」

「ははあさようでございますかな。いやほかならぬあなたのお言葉だ。それに違いはございますまい」

「わしはな」と客は物うそうに、「五年以前あの賊のために、ひどく煮え湯を呑ませられましてな。……いまだに怨みは忘れられませんて」

「おやおやそんな事がございましたかな。五年前の<ruby><rb>郡上様</rb><rt>ぐじょうさま</rt></ruby>といえば、名与力として<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>われたものだ。その<ruby><rb>貴郎</rb><rt>ひと</rt></ruby>の手に余ったといえば、いよいよもって偉い奴でござるな。……おや、<ruby><rb>堤</rb><rt>つつみ</rt></ruby>を<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>が行くそうな。提灯の火が飛んで行く」

「<ruby><rb>水神</rb><rt>すいじん</rt></ruby>あたりのお客でしょうよ。この大雪に駕籠を走らせ、水神あたりへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しけ</span>込むとは、若くなければ出来ない道楽だ」

「お互い年を取りましたな。<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>はもうこれ五十七だ」

「<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は三つ下の五十四でござる」

「あっ」と突然寮のあるじ一<ruby><rb>閑斎</rb><rt>かんさい</rt></ruby>は声を上げた。「提灯が！　提灯が！　バッサリと！」

その時<ruby><rb>墨堤</rb><rt>ぼくてい</rt></ruby>の方角から、女の悲鳴が聞こえて来た。

「ははあ何か出ましたな」

――与力の職を長男に譲り、今は隠居の身分ながら、根岸<ruby><rb>肥前守</rb><rt>ひぜんのかみ</rt></ruby>、岩瀬<ruby><rb>加賀守</rb><rt>かがのかみ</rt></ruby>、荒尾<ruby><rb>但馬守</rb><rt>たじまのかみ</rt></ruby>、筒井<ruby><rb>和泉守</rb><rt>いずみのかみ</rt></ruby>、四代の町奉行に歴仕して、<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>を「<ruby><rb>玻璃窓</rb><rt>はりまど</rt></ruby>」と呼ばれたところの、郡上平八は呟いたが、急にニヤリと片笑いをすると、

「やれ助かった」と手を延ばし、パチリと<ruby><rb>黒石</rb><rt>くろ</rt></ruby>を置いたものである。「まずこれで脈はある」

「それはわからぬ」とどなったのは、縁の上の一閑斎で、「<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>の稲妻、消えた提灯、ヒーッという女の悲鳴、殺されたに相違ない！」

「いや<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は<ruby><rb>碁</rb><rt>ご</rt></ruby>の事だ」

「ナニ碁？」と、いかにもあきれたように、「人が殺されたのだ！　人が殺されたのだ！　行って見ましょう。さあさあ早く！」

「いや、それなら大丈夫」平八老人は悠々と、「提灯の消えたのは私にも見えた。が、私にはお前様のいう、刃の稲妻は見えなかった」

「フ、フ、フ、フ、実はそのな。……」

「お前様にも見えなかった筈だ」

「さよう、実は、おまけでござるよ」

「芝居気の抜けぬ爺様だ。刃の稲妻の見えるには、いささか距離が遠過ぎる」

「……が、あの悲鳴は？　消えた提灯は？」

「それがさ、変に間延びしている」

「<ruby><rb>殺人</rb><rt>ひとごろし</rt></ruby>ではないのかえ？」

「ナーニ誰も殺されはしない」

登場人物はまさしく五人

しかし主人は不安そうに、「確かかな？　大丈夫かな？」

「三十の<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby>から五十まで、寛政七年から文政元年まで、ざっと数えて二十年間、<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>はこの道では苦労しています」

「が、そのお偉い『玻璃窓』の旦那も、鼠小僧にかかってはね」

「あれは別だ」と厭な顔をして「鼠小僧は私の苦手だ」

おりから同じ方角から、<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>の音が聞こえて来た。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、堤に添って<ruby><rb>遠隔</rb><rt>とおざか</rt></ruby>って行った。

すいかけた<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を膝へ取り、平八老人は耳を澄ましたが、次第にその顔が<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んで来た。

梅はおおかた散りつくし、彼岸の入りは三日前、早い桜は咲こうというのに、季節違いの大雪が降り、江戸はもちろん<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>一円、<ruby><rb>経帷子</rb><rt>きょうかたびら</rt></ruby>に包まれたように、真っ白になって眠っていたが、ここ小梅の里の<ruby><rb>辺</rb><rt>あた</rt></ruby>りは、家もまばらに耕地ひらけ、雪景色にはもってこいであった。その地上の雪に響いて、鼓の音は冴え返るのであった。

「よく抜ける鼓だなあ」思わず平八は感嘆したが、「これは容易には忘れられぬわい。ああ本当にいい<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>だなあ。……しかし待てよ？　あの打ち方は？　これは野暮だ！　滅茶苦茶だ！　それにも拘らずよい音だなあ」

ついと平八は立ち上がった。それから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のそり</span>と縁へ出た。

「さて、ご老体、出かけましょうかな」

「ナニ出かける？　はてどこへ？」一閑斎は<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>そうであった。

「刃の稲妻……」と<ruby><rb>故意</rb><rt>わざ</rt></ruby>と皮肉に、「消えた提灯、女の悲鳴、雪に響き渡る小鼓とあっては、こいつうっちゃっては置けませんからな」「ははあそれではお調べか？」「玻璃窓の平八お<ruby><rb>出張</rb><rt>でば</rt></ruby>りござる」「鼠小僧がおりましょうぞ」「ううん」とこれには平八老人も、悲鳴を上げざるを得なかった。「八蔵八蔵！」と一閑斎は、下男部屋の方へ声をかけた。「急いで提灯へ火を入れて来い。そうしてお前も<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いておいで。――それでは旦那出かけましょうかな。フ、フ、フ、フ、玻璃窓の旦那」

そこで皮肉な二老人は、庭の上へ下り立った。下男の提灯が先に立ち、続いて平八と一閑斎、裏木戸を押すと外へ出た。と広々とした一面の耕地で、<ruby><rb>隅田堤</rb><rt>すみだづつみ</rt></ruby>が長々と、雪を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って<ruby><rb>横仆</rb><rt>よこたわ</rt></ruby>っていた。雪を踏み踏みその方角へ、三人の者は<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って行った。

堤へ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って見廻したが、なるほど死骸らしいものはない。血汐一滴<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れていない。ただ無数の足跡ばかりが、雪に印されているばかりであった。「提灯を」と平八はいった。「……で、あらかじめ申して置きます。こればかりが手がかりでござる、足跡を消してくださるなよ」

八蔵から受け取った、提灯をズイと地面へさしつけると、彼は足跡を調べ出した。もう<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>な隠居ではない。<ruby><rb>元</rb><rt>もと</rt></ruby>の名与力郡上平八で、シャンと姿勢もきまって来れば、提灯の光をまともに浴びて、キラキラ輝く眼の中にも、燃えるような活気が充ちていた。一文字に結んだ唇の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>には、強い意志さえ<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われた。昔取った<ruby><rb>杵柄</rb><rt>きねづか</rt></ruby>とでもいおうか、調べ方は手堅くて早く、<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>んだかと思うと背伸びをした。膝を突いたかと思うと手を延ばし、何か黒い物をひろい上げた。つと立ち木の幹を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でたり、なお降りしきる雪空を、じっとしばらく見上げたりした。堤の端を遠廻りにあるき、決して内側へは足を入れない。やがて立ち上がると雪を払ったが、片手で提灯の弓を握り、片手を<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>で暖めると、しばらく<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで考えていた。提灯の光の届く<ruby><rb>範囲</rb><rt>かぎり</rt></ruby>の、茫と明るい輪の中へ、しきりに降り込む粉雪が、縞を作って乱れるのを、鋭いその眼で<ruby><rb>見詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めてはいるが、それは観察しているのではなく、無心に眺めているのであった。

「疑惑」と「意外」のこの二つが、彼の顔に現われていた。

「登場人物は締めて五人だ」彼は静かにやがていった。「二人は<ruby><rb>駕籠舁</rb><rt>かごか</rt></ruby>き、一人は武辺者、そうして一人は若い女……」

「玻璃窓」平八の科学的探偵

「そうして残ったもう一人は？」一閑斎が<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>から聞いた。

「その一人が<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>の苦手だ」

「ええお前様の苦手とは？」

「……どうも、こいつは驚いたなあ。……」平八はなおも考え込んだ。

「それじゃもしや鼠小僧が？」

「なに。……いやいや。……まずさよう。……が、一層こういった方がいい。鼠小僧に相違ないと、かつて<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>が目星をつけ、あべこべに<ruby><rb>煮</rb><rt>に</rt></ruby>え<ruby><rb>湯</rb><rt>ゆ</rt></ruby>を呑ませられた、ある人間の足跡が、ここにはっきりついているとな。――とにかく順を追って話して見よう。第一番にこの足跡だ。わらじの先から<ruby><rb>裸指</rb><rt>はだかゆび</rt></ruby>が、五本ニョッキリ出ていたと見えて、その指跡がついている。この雪降りに<ruby><rb>素足</rb><rt>すあし</rt></ruby>にわらじ、百姓でなければ人足だ。それがずっと両国の方から、二つずつ四つ規則正しい、隔たりを持ってついている。先に立った足跡は、つま先よりもかがとの方が、深く雪へ踏ん込んでいる。これはかがとへ力を入れた証拠だ。<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の足跡はこれと反対に、つま先が深く雪へはいっている。これはつま先へ力を入れた証拠だ。ところで<ruby><rb>駕籠舁</rb><rt>かごか</rt></ruby>きという者は、<ruby><rb>先棒担</rb><rt>さきぼうかつ</rt></ruby>ぎはきっと<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>る。反って中心を取ろうとする。自然かがとへ力がはいる。しかるに<ruby><rb>後棒</rb><rt>あとぼう</rt></ruby>はこれと反対に、前へ前へと身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>める。そうやって先棒を押しやろうとする、だからつま先へ力がはいる。でこの四つの足跡は、駕籠舁きの足跡に相違ない。ところで駕籠舁きのその足跡は、ここまでやって来て消えている。……と思うのは間違いで、河に向かった土手の腹に、非常に乱暴についている。これは何物かに驚いて、かごを雪の上へほうり出したまま、そっちへあわてて逃げたがためで、長方形のかご底の跡が、雪へはっきりついている」

こういいながら雪の積もった、堤の一<ruby><rb>所</rb><rt>ところ</rt></ruby>を指差した。かご底の跡がついていた。

「こっちへ」といいながら平八は、堤を横切って向こう<ruby><rb>側</rb><rt>がわ</rt></ruby>へ行ったが、「何んと一閑老土手の腹に、乱暴な足跡がついていましょうがな？」

「いかにも足跡がついています。おおそうしてあの跡は？」一閑斎は指差した。その指先の向かった所に、雪に<ruby><rb>人形</rb><rt>ひとがた</rt></ruby>が<ruby><rb>印</rb><rt>いん</rt></ruby>せられていた。

「<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>い物見たさで駕籠舁きども、あそこへピッタリ<ruby><rb>体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を寝かせ、鎌首ばかりを堤から出して、兇行を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていたのでござるよ。で、人形がついたのでござる」

「何がいったい出たのでござるな？」「白刃をさげた<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい武辺者」「そうしてどこから出たのでござろう？」「あの桜の古木の<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>から」

こういいながら平八は、再び堤を横切って、元いた方へ引き返したが、巨大な一本の桜の古木が、雪を<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろ</rt></ruby>って立っている根もとへ、一閑斎を案内した。「ご覧なされ桜の根もとに、別の足跡がございましょうがな」「さよう、たしかにありますな」「すなわち武辺者が先廻りをして、待ち伏せしていた証拠でござる」

「何、待ち伏せ？　先廻りとな？　さような事まで<ruby><rb>分</rb><rt>わか</rt></ruby>りますかな？」「何んでもない事、すぐに分ります」平八は提灯を差し出したが、「両国の方からこの根もとまで、堤の端を歩くようにして、人の足跡が大股に、一筋ついておりましょうがな。これは大急ぎで走って来たからでござる。堤の真ん中を歩かずに、端ばかり選んで歩いたというのは、心に<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかまり</rt></ruby>があったからで、他人に見られるのを恐れる人は、<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>ってこういう態度を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>ります。さて、しかるにその足跡たるや、<ruby><rb>一刻</rb><rt>しばらく</rt></ruby>もやまない<ruby><rb>粉雪</rb><rt>こゆき</rt></ruby>のために、薄く<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われておりますが、これがきわめて大切な点で、ほかの無数の足跡と比べて蔽われ方が著しゅうござる。つまりそれはその足跡が、どの足跡よりも古いという証拠だ。すなわち足跡の主人公は、駕籠より先に堤を通り、駕籠の来るのを木の蔭で、待っていたことになりましょうがな」「いかにもこれはごもっとも。そしてそれからどうしましたな？」一閑斎は熱心に訊いた。

「まず提灯を切り落としました」「それは<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>にもうなずかれる。提灯の消えたのは私も見た」

横歩きの不思議な足跡？

「それから駕籠へ近寄りました。その証拠には同じ足跡が、これこのように桜の木蔭から、駕籠の捨ててあった所まで、続いているではござらぬかな」「なるほどなるほど続いておりますな。そうしてそれからどうしましたな？」「駕籠から女を引き出しました」「さっき聞こえたは女の悲鳴、これはいかさまごもっとも。駕籠にいたのは女でござろう」「いやそればかりではございません。女の証拠はこれでござる」

平八は雪の上を指差した。たびをはいた<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な足跡が、<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>か点々とついていた。

「ははあなるほど、女の足跡だ。が、子供の足跡ともいえる」一閑斎は呟いた。

「よろしい、それではもう一つ、動かぬ証拠をお目に掛けよう」平八は懐中へ手を入れると、さっき拾った黒い物を、一閑斎の前へ突き出した。

「おやおやこれは女の<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみのけ</rt></ruby>……」

「根もとから一太刀できり落とした、刀の冴えをご<ruby><rb>覧</rb><rt>ろう</rt></ruby>じろ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きり</span>手は武辺者に相違ござらぬ。しかも非常な手練の武士だ。……ところでその髪の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>の形を、一閑老にはご存知かな？」「<ruby><rb>勝山</rb><rt>かつやま</rt></ruby>でなし<ruby><rb>島田</rb><rt>しまだ</rt></ruby>でなし、さあ何でござろうな」「その髷こそ<ruby><rb>鬘下地</rb><rt>かつらしたじ</rt></ruby>でござる」「鬘下地？　ははアこれがな」「したがって女は<ruby><rb>小屋者</rb><rt>こやもの</rt></ruby>でござる。女義太夫か女役者でござる」「で、その女はどうしましたな？　締め殺されて川の中へでも、投げ込まれたのではありますまいかな？」「いや、それにしてはもがいた跡がない。人一人<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>れて死のうというのに、もがかぬという訳はない」「切られもせず縊られもせず、しかも姿が見えないとは、天へ昇ったか地へ潜ったか、不思議な事があればあるものだ」「駕籠へ乗って水神の方へ急いでひき上げて行ったのでござるよ」郡上平八は自信を持っていった。

「それには証拠がござるかな？」

「さよう、やはり足跡だが、まずこっちへ」といいながら、川に向かった土手の腹を、川の岸まで下りて行ったが、低く提灯を差し出すと、それで雪の上を照らしたものである。二つずつ四つの足跡が、規則正しい間隔を保って、川下の方へついていた。いうまでもなく駕籠舁きの足で、彼らは駕籠を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎながら、堤の下を川に添い、水神の方へ行ったものと見える。一閑斎と平八とは、川下の方へ足跡を追って、十間余りも行って見た。すると足跡が見えなくなった。しかしそれは消えたのではなく、土手の腹を堤の上へ、同じ足跡がついていた。駕籠を担いだ駕籠舁きが、そこから堤へ上ったものであろう。そこで二人も堤へ上った。はたして同じ足跡が、堤の上を規則正しく水神の方へついていた。

「おや！」と突然一閑斎は不思議そうに声を張り上げた。「ここに見慣れない足跡がござる」

いかにも見慣れない足跡が、駕籠舁き二人の足跡に添って、一筋水神の方へついていた。

「さよう、見慣れない足跡がござる」平八の声は沈痛であった。「これこそ鼠小僧と想像される、ある一人の足跡でござるよ」「おおこれがそれでござるかな」「よくよくご覧なさるがよい。奇妙な特徴がございましょうがな」「どれ」というと一閑斎は、顔を地面へ近づけた。「や、これは不思議不思議、<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>のように横歩きだ！」

「その通り」と平八は、やはり沈痛の声でいった。「その横歩きが特徴でござる。……すべて横歩きは縦歩きと比べて――すなわち普通の歩き方と比べて、ほとんど十倍の速さがござる。昔から早足といわれた者は、おおかた横歩きを用いましたそうな」「ほほうさようでございますかな」

「ところで」と平八は力をこめ、「この地点から水神へ向けて、一筋ついている足跡の外に、さらに一筋同じような、横歩きの足跡のついているのが、お解りではあるまいかな」「さようでござるかな、どれどれどこに？」一閑斎は雪の地面を、改めて<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>に調べて見た。はたして足跡はついていた。今も降っている雪のために、おおかた消されてはいたけれど、その足跡は水神の方から、こっちへあるいて来たものらしい。

「つまり」と平八は説明した。「鼠小僧と想像される、ある一人の人間が、水神の方から大急ぎで、横歩きでここまで来たところ、十間のあなたで一組の男女が、何やら<ruby><rb>悶着</rb><rt>もんちゃく</rt></ruby>を起こしている。そこでその男はここに<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで、しばらく様子を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ったあげく、やって来た駕籠に付き添って、元来た方へ引き返して行った。……とこう想像を<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らしたところで、さして不自然ではござるまいがな」

泥棒の<ruby><rb>嚏</rb><rt>くさめ</rt></ruby>も寒し雪の<ruby><rb>夜半</rb><rt>よわ</rt></ruby>

「それに相違ござるまい。細かい観察恐れ入りましたな」一閑斎はここに至って、すっかり感心したものである。

二人の老人は堤の上を、もと来た方へ引き返して行った。もとの場所へ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りつくと、「さて最後にお見せしたい物が、実はここにもう一つござる」こういいながら平八は、巨大な<ruby><rb>桜樹</rb><rt>おうじゅ</rt></ruby>の根もとから、川とは反対に<ruby><rb>耕地</rb><rt>はたち</rt></ruby>の方へ、土手の腹を下って行ったが、提灯で地面を振り照らすと、「ご覧なされ足跡が、土手下の<ruby><rb>耕地</rb><rt>はたち</rt></ruby>を両国の方へ、走っているではござらぬかな。さて何者の足跡でござろう？」

一閑斎は眼を近づけ、仔細に足跡を調べたが、

「どうやらこれは武辺者の……」「さよう、武辺者の足跡でござる。目的をとげた武辺者は、人に見られるのを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>って、堤から飛び下り耕地を伝い、両国の方へ逃げたのでござる」

「そうして、武辺者の目的というは？」

「それがとんと<ruby><rb>分</rb><rt>わか</rt></ruby>らぬのでござるよ」平八の声には元気がない。「五人の人間の行動は、あらかた足跡で分ったものの、その外のことはトンと分らぬ」「お前様ほどの<ruby><rb>慧眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>にも、分らないことがござるかな？」「不可解の点が四つござる」「四つ？　さようかな、お聞かせくだされ」

「鼠小僧と想像される男が、この場へ来かかったのは何のためか？　偶然かそれとも計っての事か？」「いかさまこれは分らぬわい」「<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>を切ったは何のためか？　<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>のためか意趣斬りか？　これが第二の難点でござる。武辺者はいったい何者か？　浪人か藩士かその外の者か？　これが三つ目の難点でござる」「そこで四つ目の難点は？」

「美音の鼓！　美音の鼓！」

「さようさ、鼓が鳴りましたな」

「誰が鼓を持っていたのか？　何のために鼓を鳴らしたのか？　誰が鼓を鳴らしたのか？　その鼓はどこへ行ったか？」

「いやはやまるっきり分りませぬかな？」「かいくれ見当がつきませぬ」

この時下男の八蔵が、突然大きな<ruby><rb>嚏</rb><rt>くしゃみ</rt></ruby>をした。彼はいくらかおろかしいのであった。さっきから一人<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と雪中に立っていたのであった。下男の嚏が<ruby><rb>伝染</rb><rt>うつ</rt></ruby>ったのでもあろう、一閑斎も嚏をした。

「これはいけない。風邪をひきそうだ。……そろそろ帰ろうではござらぬかな」

しかし平八は返辞をしない。ただ一心に考えていた。

「玻璃窓の旦那、いかがでござる、そろそろ帰ろうではござらぬかな」例の皮肉を飛び出させ、一閑斎はまたいった。

ようやく気がついた平八は、口もとへ苦笑を浮かべたが、「これは失礼、さあ帰りましょう」

三人は<ruby><rb>耕地</rb><rt>はたち</rt></ruby>を寮の方へ、大急ぎで帰って行った。

とまた一閑斎は<ruby><rb>嚏</rb><rt>くしゃみ</rt></ruby>をした。

「今夜は嚏のよく出る晩だ」平八は思わず笑ったが、「泥棒も嚏をした事であろう」

「何」というと一閑斎は、そのまま野良路へ立ち止まったが、「出来た！　有難い！　出来ましたぞ！」「ははあ何が出来ましたな」――「まずこうだ。……『泥棒の』と」「ははあなるほど『泥棒の』と」「『嚏も寒し』と行きましょうかな」「『嚏も寒し』と、行きましたかな」「『雪の夜半』」「『雪の夜半』」「何んと出来たではござらぬかな」「泥棒の嚏も寒し雪の夜半。……いかさまこれは名句でござる」「句の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よし</span><ruby><rb>悪</rb><rt>あし</rt></ruby>はともかくも、産みの苦しみは遁がれましたよ。ああいい気持ちだ。セイセイした」「<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は駄目だ！」と平八は、憂鬱にその声を曇らせたが、「見当もつかぬ。見当もつかぬ。しかしきっと<ruby><rb>眼付</rb><rt>めつ</rt></ruby>けて見せる。耳についている鼓の音！　これを<ruby><rb>手頼</rb><rt>たより</rt></ruby>に眼付けて見せる」

季節はずれの大雪は、藪も畑もまっ白にして、今なおさんさんと降っていた。

無任所与力と音響学

季節はずれの大雪で、桜の咲くのはおくれたが、いよいよその花の咲いたときには、例年よりは見事であった。「小うるさい花が咲くとて寝釈迦かな」こういう人間は別として、「今の世や猫も杓子も花見笠」で、江戸の人達はきょうもきのうも、花見花見で日を暮らした。

一閑斎の小梅の寮へも、毎日来客が絶えなかった。<ruby><rb>以前</rb><rt>むかし</rt></ruby>の彼の身分といえば、微禄のご家人に過ぎなかったが、商才のある<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>だったので、ご家人の株を他人に譲り、その金を持って長崎へ行き、蘭人相手の商法をしたのが、素晴らしい幸運の開く基で、二十年後に帰って来た時には、二十万両という大金を、その<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に持っていた。利巧な彼は江戸へ帰ってからも、危険な仕事へは手を出さず、地所を買ったり家作を設けたり、堅実一方に世を渡ったが、それも今から数年前までで、総領の吾市に世を譲ってからは、小梅の里へ寮住居、歌俳諧や茶の湯してと、端唄の文句をそのままののんきなくらしにはいってしまった。そこは器用な彼のことで、碁を習えば碁に達し俳句を学べば俳句に達し、相当のところまで行くことが出来、時間を潰すには苦労しなかった。もっともそういう人間に限って、<ruby><rb>蘊奥</rb><rt>うんのう</rt></ruby>を極めるというようなことは、ほとんど出来難いものであるが、そういう事を苦にするような、芸術的人間でもなかったので、結句その方が勝手であり、まずい皮肉をいう以外には、社交上これという欠点もなく、座談はじょうず金はあり、案外親切でもあったので、武士時代の同僚はじめ、風雅の友から書画骨董商等、根気よく彼のもとへ出入りした。

しかるにこれも常連の、郡上平八だけはあの夜以来、ピッタリ姿を見せなくなった。それを不思議がって人がきくと、一閑斎は下手な皮肉で、こんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に答えるのであった。「なにさ、あの仁は無任所与力でな、隠居はしてもお忙しい。それに目下は音響学で、どうやら一苦労なすっているらしい。油を売りになど見えられるものか」「何んでござるな、音響学とは？」相手がもしもこうきこうものなら、一閑斎は大得意で、さらに皮肉を飛ばせるのであった。「音響学でござるかな、音響学とは読んで字の如し。もっともあの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じん</span>の音響学は、ちと変態でござってな、ポンポンと鳴る小鼓の音から、鼠小僧を現じ出そうという、きわめて珍しいものでござるよ」

これではどうにも聞く人にとっては、なんのことだかわからない。しかし実際郡上平八は、あの晩以来思うところあって、あの時耳にした鼓の音を、是非もう一度聞きたいものと、全身の神経を<ruby><rb>緊張</rb><rt>ひきし</rt></ruby>めて、江戸市中を<ruby><rb>万遍</rb><rt>まんべん</rt></ruby>なく、歩き廻っているのであった。人間の心理や世間の悪事を、玻璃窓を透して見るように、正しく明らかに見るというところから、あざ名を「玻璃窓」とつけられた彼は、老いても体力衰えず、職は<ruby><rb>引退</rb><rt>のい</rt></ruby>ても頭脳は鋭く、その頭脳の働き方が、近代の言葉で説明すると、いわゆる合理的であり科学的であって、<ruby><rb>在来</rb><rt>ざいらい</rt></ruby>の唯一の探偵法たる「見込み手段」を排斥し、動かぬ証拠を蒐集して、もって犯人をとらえようという「証拠手段」をとるのが好きで、若い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かいなで</span>の与力や同心経験一点張りの<ruby><rb>岡</rb><rt>おか</rt></ruby>っ<ruby><rb>引</rb><rt>ぴき</rt></ruby>など、実にこの点に至っては、その足もとへも寄りつけなかった。その彼が何か思うところあって、鼓の音を追うというからには、その鼓の音なるものが、いかに大切なものなるかが、想像されるではあるまいか。

江戸を飾っていた桜の花が「ひとよさに桜はささらほさらかな」と、奇矯な俳人が咏んだように、一夜の嵐に散ってからは、世は次第に夏に入った。苗売り、金魚売り、虫売りの声々、カタンカタンという<ruby><rb>定斎屋</rb><rt>じょうさいや</rt></ruby>の音、腹を見せて飛ぶ若い燕の、健康そうな啼き声などにも、万物生々たるこの季節の、<ruby><rb>清々</rb><rt>すがすが</rt></ruby>しい呼吸が感ぜられた。春にだらけた人々の心も、一時ピンとひきしまり、溌溂たる元気をとりかえしたが一人寂しいのは平八老人で、この時までも鼓の音を、耳にすることが出来なかった。そもそも鼓はどこにあるのであろう？　二度と再びあの鼓は、美妙な音色を立てないのであろうか？

いやいや決してそうではない。鼓はこの時も鳴っていたのであった。思いも及ばない<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>の土地、四時煙りを噴くという、浅間の山の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の里、追分節の発生地、追分駅路のある旅籠屋で、ポンポン、ポンポンと美しく、同じ音色に鳴っていたのであった。

浅間の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>追分宿

いまの地理で説明すると、長野県北佐久郡、沓掛近くの追分宿は、わずかに戸数にして五十戸ばかり、ひどくさびれた宿場であるが、徳川時代から明治初年まで、信越線の開通しないまえは、どうしてなかなか賑やかな駅路で、戸数五百遊女三百、中仙道と北国街道との、その有名な分岐点として、あまねく世間に知れていた。

まず有名な遊女屋としては、遊女七十人家人三十人、総勢百人と注されたところの、油屋というのを筆頭に、栄楽屋、大黒屋、小林屋、井筒屋、若葉屋、千歳屋など、軒を連ねて繁昌し、正木屋、小野屋、近江屋なども、随分名高いものであった。「追分<ruby><rb>女郎衆</rb><rt>じょろしゅ</rt></ruby>についだまされて縞の財布が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">から</span>になる」「追分宿場は沼やら田やら行くに行かれぬ一足も」「浅間山から飛んで来る<ruby><rb>烏</rb><rt>からす</rt></ruby>銭も持たずにカオカオと」

こういったような追分文句が、いまに残っているところから見ても、当時の全盛が思いやられよう。

同勢三千、人足五千、加賀の前田家は八千の人数で、ここを堂々と通って行った。年々通行の大名のうち、主なるものを挙げて見ると尾州大納言、紀州中納言、越前、薩摩、伊達、細川、黒田、毛利、鍋島家、池田、浅野、井伊、藤堂、阿波の蜂須賀、山内家、有馬、稲葉、立花家、中川、奥平、柳沢、大聖寺の前田等が最たるもので、お金御用の飛脚も行き、お茶壺、<ruby><rb>例幣使</rb><rt>れいへいし</rt></ruby>も通るとあっては、金の落ちるのは当然であろう。

さて、この時分この宿場に、甚三という馬子がいた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きだて</span>はやさしく正直者で、世間の評判もよかったが、特にこの男を名高くしたのは、美音で唄う追分節が、何ともいえずうまかったことで、甚三の唄う追分節には、草木も<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>くといわれていた。

ある日甚三は裏庭へ出て、<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と何かに聞き惚れていた。夕月が<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って<ruby><rb>野良</rb><rt>のら</rt></ruby>を照らし、水のような清光が庭にさし入り、<ruby><rb>厩舎</rb><rt>うまごや</rt></ruby>の影を地に敷いていた。フーフーいうのは馬の<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>で、コトンコトンと音のするのは、馬が破目板を蹴るのでもあろう。パサパサと蠅を払うらしい、かすかな尻尾の音もした。甚三は縁へ腰を掛け、じっと物の音に聞き惚れていた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、美妙な鼓の正調が、あざやかに抜けて来るからであった。

「ああ本当にいい<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>だなあ。……本陣油屋の逗留客だというが、何んとマア上手に調べるんだろう。鼓も上等に違えねえ。……『追分一丁二丁三丁四丁五丁目、中の三丁目がままならぬ』と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おいら</span>の好きな追分節の、その三丁目の油屋から、ここまで抜けて聞こえるとは、人間<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>では出来ねえ事だ。追分一杯鳴り渡り、軽井沢まで届きそうだ。それに比べりゃあ<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らの唄う、追分節なんか子供騙しにもならねえ。ああ本当にいい音だなあ」つぶやきつぶやき聞き惚れていた。

この時背戸のむしろを掲げ、庭へはいって来た若者があった。「兄貴！」と<ruby><rb>突然</rb><rt>だしぬけ</rt></ruby>に声をかけた。甚三の弟の甚内であった。「何をぼんやり考えているな」「おお甚内か、あれを聞きな。何んと素晴らしい音色じゃねえか」

「ああ鼓か。いい音だなあ」兄と並んで腰を掛け、甚内もしばらく耳を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、なおも鼓は鳴っていた。と、鼓は静かに止んだ。恐らく一曲打ちおえたのであろう。甚三は一つ溜息をした。二人はしばらく黙っていた。

「あにき、この頃変ったな」不意に甚内が咎めるようにいった。「お前、どうかしやしないかな」

「何を？」と甚三は不思議そうに、「別に変った覚えもねえ」「いいや変った、大変りだ。この頃<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに考え込むようになった。そうして元気がなくなった。そうかと思うと歌を唄うと、まえにも<ruby><rb>優</rb><rt>ま</rt></ruby>してうめえものだ」

兄貴、どうだな、思い切っては

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らの追分のうめえのは、今に始まった事じゃねえ」甚三は多少の自負をもって、やや得意らしくこういったが、その声にもいい方にも、思いなしか憂いがあった。「宿一杯知れていることだ」

「ああそうともそれはそうだ。宿一杯は愚かのこと、参覲交代のお大名から、乞食非人の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>まで、かりにも街道を通る者で、お前の追分を褒めねえものは、それこそ一人だってありゃしねえ。その追分を聞きてえばっかりに、歩いても行ける脇街道を、わざわざお前の馬に乗る、旅人衆だってあるくれえだ。お前の追分に堪能なことは、改めていうには及ばねえ。おいらのいうのはそれじゃねえ。そのお前の追分節が、近来めっきり変って来たのでね、それが心配でしかたがねえのさ」

こういう甚内の声の中には、兄弟の愛情が<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>もっていた。兄の甚三は感動しながらも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わざ</span>とさりげない様子を作り、「どんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に変ったものか、とんとおいらにゃあ解らねえ」「冴えていたのが曇って来た。いかにも山の歌らしく、涼しかったのが熱を持って来た。それでいて途方もなくうまいのだ。聞いていて体中がゾッとする。蒸されるような気持ちになる。そうして何かよくない事でも、起こって来そうな気持ちになる。何かにむちゅうに<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>れていて、その何かに呼びかけていると、こんな工合にも思われる。これはよくねえ変り方だ」「ふうん、こいつは驚いたな」甚三は内心ギョッとしながら、ことさら皮肉な言葉付きで、「お前はこれまで追分は愚か、鼻唄一つ唄えなかった筈だに、よくまあおいらの追分を、そうまで<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>く調べたものだ」「いいや自分で唄うのと他人の歌を聞くのとは、自然に差別がある筈だ。おいらには歌は唄えねえ。まるっきり<ruby><rb>音</rb><rt>おん</rt></ruby>をなさねえのだ。悲しくもなれば愛想も尽きる。そうしてお前が羨ましくもなる。お前の弟と生まれながら、そうしてこの宿に育ちながら、土地の地歌を一句半句、口に出すことが出来ねえとは、何んたら気の毒な男だろうと、時々自分が可哀そうにもなる。そこで<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らは考えたものだ。『これは俺らが悪いのじゃねえ。これはあにきがよくねえのだ。きっとあにきはおいらの声まで、さらって行ったに違ねえ』とな。アッハハハハこれは冗談だが、それほどおいらには歌は唄えねえ。それにも拘らず他人のを聞くと、<ruby><rb>善悪</rb><rt>よしあし</rt></ruby>ぐらいはまずわかる。それに」と甚内はちょっと考えたが「お前の歌の変ったことは、この宿中での評判だからな」「え？」と甚三は胆を潰し、「何が宿中での評判だって？」「お前の歌の変ったことがよ」「おどかしちゃいけねえ、おどかしちゃいけねえ」小心の甚三は仰天し、顔色をさえかえたものである。

「それにもう一つあにきの事で、宿中評判のことがある」「話してくれ。話してくれ！」甚三はあわててきくのであった。

「それはな」と甚内はいい<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>そうに、「あの油屋の<ruby><rb>板頭</rb><rt>いたがしら</rt></ruby>、お北さんとの噂だが、お前の歌の変ったのも、そこらあたりが原因だろうと、宿中もっぱらの取り沙汰だが、おいらもそうだと睨んでいる。……あにきこいつは考えものだぜ」

いわれて甚三は黙ってしまった。身に覚えがあるからであった。

「よしお北さんが飯盛りでも、宿一番の名物女、越後生まれの大<ruby><rb>莫連</rb><rt>ばくれん</rt></ruby>、侍衆か金持ちか、立派な客でなかったら、座敷へ出ぬという<ruby><rb>権高者</rb><rt>けんだかもの</rt></ruby>、なるほどお前も歌にかけたら、街道筋では名高いが、身分は劣った馬方風情、どうして懇意になったものか、不思議なことと人もいえば、このおいらもそう思う。……だがもうそれは出来たことだ、不思議だ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きたい</span>だといったところで、そいつがどうなるものでもねえ。おいらのいいてえのはこれからの事だ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あにき</span>、どうだな、思い切っては」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まごころ</span>をこめていうのであるが、甚三は返辞さえしなかった。ただ黙然と考えていた。

「こいつは駄目かな、仕方もねえ」甚内はノッソリ立ち上がったが、「あにき、おいらにゃあ眼に見えるがな。お前があの女に捨てられて、すぐに赤恥を掻くのがな」行きかけて甚内は立ち止まった。「あにき、おいらは近いうちに、越後の方へ出て行くぜ。おいらの永年ののぞみだからな」

平手造酒と観世銀之丞

甚内はじっとたたずんで甚三の様子を窺った。甚三は黙然と考えていた。その足の先に月の光が、<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに青く這い上っていた。かじかの啼く<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が手近に聞こえ、稲葉を渡って来た<ruby><rb>香</rb><rt>こう</rt></ruby>ばしい風が、<ruby><rb>莚戸</rb><rt>むしろど</rt></ruby>の裾をゆるがせた。高原、七月、静かな夕、螢が草の間に光っていた。

「お前の様子が苦になって、思い切っておいらは行き兼るのだ」甚内は<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>くようにいい出した。

「でもおいらは近々に行くよ。海がおいらを呼んでいるからな……おいらには山は不向きなのだ。どっちをむいても鼻を突きそうな、この追分はおれには向かねえ。小さい時からそうだった、海がおいらの<ruby><rb>情婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>だった。おれは夢にさえ見たものだ。ああ今だって夢に見るよ。山の風より海の風だ。力一杯働いて見てえ！　そうだよ帆綱を握ってな。……もう<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>きにお前ともおさらばだ。ああ、だが本当に気が揉めるなあ」

フラリと甚内は出て行った。

顔を上げて見ようともせず、なお甚三は黙然と、下<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて考えていたが、その時またも清涼とした鼓の音が聞こえて来た。

「ああいいなあ」といいながら、ムックリ顔を上げたかと思うと、体も一緒に立ち上がった。「唄い負かすか負かされるか、かなわぬまでも競って見よう。よし！　そうだ！」と<ruby><rb>厩舎</rb><rt>うまごや</rt></ruby>へ走り、グイと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ませぼう</span>をひっ<ruby><rb>外</rb><rt>ぱず</rt></ruby>すと、飼い馬を元気よくひき出した。「さあ<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>り頼むぞよ。パカパカパカと景気よく、ご苦労ながら歩いてくれ。蹄の音に合わせてこそ、追分の値打ちが出るのだからな。乗せるお客も荷もねえが、あると思って歩いてくれ！　ハイ、ハイ、ハイ」と声を掛け、自分は手綱を肩に掛け、土間を通って街道へ出た。

茫々と青い月の光、一路うねうねとかよっているのは、本街道の中仙道で、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに行けば江戸である。次の宿は沓掛宿で、わずか里程は一里三町、それをたどれば軽井沢、軽井沢まで二里八町、碓井峠の険しい道を、無事に越えれば阪本駅路、五里六町の里程であった。

西は追分、東は関所

関所越えれば、旅の空

<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>ぶがような歌声が、月の光を水と見て、水の底から哀々と空に向かって澄み通る。甚三の流す追分であった。パカパカパカと蹄の音が街道を東へ通って行った。

「おおまた追分が聞こえるな」

いうと一緒に肩の鼓を膝の上へトンと置いた。「まるで競争でもするように、俺が鼓を打ちさえすれば、あの追分が聞こえて来る」

本陣油屋の下座敷、裏庭に向かった二十畳の部屋に、久しいまえから逗留している、江戸の二人の侍のうち、一人がこういうと微笑した。名は<ruby><rb>観世銀之丞</rb><rt>かんぜぎんのじょう</rt></ruby>、二十一歳の若盛りで、柔弱者と思われるほど、<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な美しい男振りであった。もう一人の武士はこれと<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>い、年もおおかた三十でもあろうか、面擦れのした赭ら顔、肥えてはいるが<ruby><rb>贅肉</rb><rt>ぜいにく</rt></ruby>のない、隆々たる筋骨の大丈夫で、その名を<ruby><rb>平手造酒</rb><rt>ひらてみき</rt></ruby>といった。

ゴロリと畳へ横になると、「どうも退屈で仕方がない。何をやっても退屈だ。実際世の中っていう奴は、こうも退屈なものか知ら」銀之丞は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おはこ</span>をいうのであった。

「おい観世、また退屈か」造酒はニヤニヤ笑ったが、「何がそんなに退屈かな？」

「何がといって、何もかもさ」

「しかしこの俺の眼から見ると、貴公の退屈は贅沢だぞ」

「なに贅沢？　これは聞き物だ」

「まず身分を考えるがいい」

「うん、身分か、能役者よ」

「観世宗家の一族ではないか」

「ああまずそういったところだな」

「観世宗家と来た日には、五流を通じて第一の家柄、<ruby><rb>楽頭職</rb><rt>がくとうしょく</rt></ruby>として大したものだ。柳営お扱いも丁重だ」

襖を開けた商人客

「なんだつまらない、それがどうしたえ」

「聞けば貴公のご<ruby><rb>親父</rb><rt>しんぷ</rt></ruby>は、宗家当主の兄君だそうだが？」

「ああそうさ、それがどうしたな」

「宗家と貴公とは伯父甥ではないか」「うん、そうだ、伯父甥だよ」「宗家は病身だということだが」「まず余り永くはないな」「そこで貴公を養子として、<ruby><rb>楽頭職</rb><rt>がくとうしょく</rt></ruby>を継がせるというのが、世間もっぱらの評判だ」「世間は案外物識りだな。ああいかにもその通りだよ」

「とすると貴公は観世家にとっては、大事な大事な<ruby><rb>公達</rb><rt>きんだち</rt></ruby>ではないか」

「……公達にきつね化けけり宵の春か……やはり蕪村はうまいなあ」銀之丞はひょいと横へ<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らせた。

「何んだ俳句か、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つがもねえ</span>」造酒もとうとう笑い出したが、「<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に聞きな、悪いことはいわぬ」

「といってあんまりいいこともいわぬ……とこう云うと地口になるかな」

「それそいつがよくない<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>だ。かりにも観世の<ruby><rb>御曹司</rb><rt>おんぞうし</rt></ruby>が、地口を語るとは不似合だな」

「それ不似合、やれ不面目、家名にかかわる、芸の名折れ、どっちを向いてもアイタシコ。そいつが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きつい</span>嫌いでな」「ナール」と造酒はそれを聞くと、ちょっと胸に落ちたらしく、「つまり窮屈が厭なのだな。<ruby><rb>鬱</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎの虫の原因も、<ruby><rb>基</rb><rt>もと</rt></ruby>をただせばそいつだな」

「やさしくいえばまずそうだ」「ほかにも原因があるのかえ」「万事万端皆<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>だ」「大きく出たな。これはかなわぬ」「今の浮世の<ruby><rb>有様</rb><rt>ありさま</rt></ruby>は、いって見れば蓋をした釜だ。人を窒息させようとする」「おれにははっきり解らないが」「世の<ruby><rb>縄墨</rb><rt>じょうぼく</rt></ruby>に<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>いたが最後、それ異端者だ、<ruby><rb>切支丹</rb><rt>キリシタン</rt></ruby>だ、やれ<ruby><rb>謀反人</rb><rt>むほんにん</rt></ruby>だと大騒ぎをする」「うん、こいつはもっともだ」「今の浮世の有様は、太平無事でおめでたい」「結構ではないか。何が不平だ」「何らの昂奮をも許さない、何らの感激をも許さない、まして何らの革命をやだ」「お前は乱を望んでいるな？」「うん、そうだ、精神的のな。……おれは感激したいのだよ！」「感激をしてどうするのだ？」「おれは創造したいのだ！」「何、創造？　何をつくるのだ？」「何んでもいい、ただ何かを」「勝手につくったらよいではないか」「創造するに感激がいる」「大きに勝手に感激するさ」「ところが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひとの世</span>が許さない」「なに無理にも感激するさ」「無理にも感激しようとすると、親友なるものが邪魔をする」「え？　親友が邪魔をするって？」「恋も一つの感激だ。せっかく<ruby><rb>情女</rb><rt>おんな</rt></ruby>を見つけると、親友が邪魔をしてひき放してしまう」「それは女が悪党だからよ」「愛する物を捨てるのもまさしく一つの感激だ。すると親友が取りかえして来る」「それも物によりけりだ。伝家の至宝を失っては、先祖に対しても済むまいがな」「みやこに住むということは、おれにとっては感激だ。ところがおせっかいの親友なるものが、山の中へひっ張って来る」「その男が<ruby><rb>虚弱</rb><rt>よわい</rt></ruby>からだ。その男が病気だからだ。そうだ少くとも神経のな」「で、何もかもその親友は、平凡化そうと心掛ける。そうして感激の燃える火へ、冷たい水をそそぎかけ、創造の<ruby><rb>魂</rb><rt>たましい</rt></ruby>を消そうとする。しかも親友の名のもとにな。他はおおかた知るべきのみだ」

「おい！」と造酒は<ruby><rb>気不味</rb><rt>きまず</rt></ruby>そうに、「親切で<ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>った友達のしわざを、そうまで悪い方へ取らないでも、よかりそうなものに思われるがな」

「アッハハハ」と銀之丞は、突然大声で笑ったが、「怒るな、怒るな、怒ってはいけない。<ruby><rb>鬱</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎの虫のさせるわざだ。ああしかし退屈だな。何もかも面白くない。ああ実際退屈だな」

「ご免ください」

とそのとたん、襖の蔭から声がした。同時にスーと襖が開き、隣り座敷の<ruby><rb>商人客</rb><rt>あきゅうどきゃく</rt></ruby>が、にこやかに顔を突き出した。

「お武家様のお座敷へ、旅商人の身をもって、差出がましくあがりましたは、<ruby><rb>尾籠</rb><rt>びろう</rt></ruby>千万ではございますが、隣り座敷で洩れ承われば、どうやら大分ご退屈のご様子、実は私も退屈のまま、何か珍しい諸国話でも、お耳に入れたいと存じまして、お叱りを覚悟でまずい面を、突き出しましてござりますよ。<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>平</rb><rt>ぴら</rt></ruby>ご免くださいますよう」

ていねいにお辞儀をしたものである。

不思議な商人千三屋

「おお町人か、よく来てくれた。ちょうど無聊に苦しんでいたところだ。さあさあずっと進むがよい」平手造酒は喜んで、歓迎の意を現わした。

「では遠慮なくお邪魔致します」<ruby><rb>商人</rb><rt>あきゅうど</rt></ruby>はうしろで襖を立て擦り膝をして、はいって来た。四十がらみの小男ではあるが、鋭い眼付き高い鼻、<ruby><rb>緊張</rb><rt>ひきし</rt></ruby>まった薄い唇など、江戸っ子らしい顔立ちで、左の頬に<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かではあるが、切り傷らしいものがつたる。敏捷らしい四肢五体、どこか猟犬を思わせた。<ruby><rb>藍縦縞</rb><rt>あいたてじま</rt></ruby>の<ruby><rb>結城紬</rb><rt>ゆうきつむぎ</rt></ruby>の、仕立てのよいのをピチリと着け、帯は巾狭の一重<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>、水牛の筒に珊瑚の根締め、わに革の煙草入れを腰に差し、微笑を含んで話す様子が、途方もなく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いき</span>であった。

こういう場合の通例として身もと調べから話がはずみ、さてそれから商売の方へ、<ruby><rb>話柄</rb><rt>わへい</rt></ruby>が開展するものである。

「町人、お前は江戸っ子だな」造酒がまずこうきいた。

「へい、江戸っ子の端くれで、へ、へ、へ、へ」と世辞笑いをしたがそれが一向卑しくない。

「いったい何をあきなっているな？」

「へい、呉服商でございます」「<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>に喜ばれる商売だな」「その代り殿方にはいけません」「そう両方いい事はない。江戸はどこだ？　日本橋辺かな？」「なかなかもって、どう致しまして。そんな大屋台ではございません。いえもうほんの行商人で」「それにしては品がいいな」「これはどうも恐れ入りました」「屋号ぐらいは持っているだろう？」「へい、千三屋と申します」「ナニ千三屋？　ばかを申せ。そんな屋号があるものか」「アッハハハハ、さようでございますかな、いえ私どもの商売と来ては、口から出任せにしゃべり廻し、千に三つの<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>があれば、結構の方でございます。それそこで千三屋」「たとえ千三屋であろうとも、自分から好んでふいちょうするとは、とんとたわけた男だの」「そこは正直でございましてな。お気に召さずば道中師屋、<ruby><rb>胡麻</rb><rt>ごま</rt></ruby>の<ruby><rb>蠅屋</rb><rt>はいや</rt></ruby>大泥棒屋、放火屋とでもご随意に、おつけなすってくださいまし」「いよいよもって呆れたな。口の軽い男だわい。その<ruby><rb>口前</rb><rt>くちまえ</rt></ruby>で女子をたらし、面白い目にも逢ったであろうな」「これはとんだ<ruby><rb>寃罪</rb><rt>えんざい</rt></ruby>で、その方は不得手でございますよ。第一<ruby><rb>生物</rb><rt>なまもの</rt></ruby>は断っております」「そのいいわけちと暗いな」「ええ暗うございますって？」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あきゅうど</span>に不似合いな頬の傷、女出入りで受けたのでもあろう」

すると商人は笑い出したが、「ああこれでございますか。とんだものがお目にさわり、いやはやお恥ずかしゅう存じます。ナーニこれは子供時代に、柿の木の上から落ちましてな、下に捨ててあった鎌の先で、チョン切ったものでございますよ」

「町人！」と造酒は語気を強め、「これこのおれを<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>にする気か！」「これはまたなぜでございますな」「鎌傷か太刀傷か、それくらいのけじめが解らぬと思うか」

すると商人はまた笑ったが、「これはいかさまごもっともで、私のいい間違いでございました。実はな今から十年ほど前に、上州方面へ参りましたが、<ruby><rb>若気</rb><rt>わかげ</rt></ruby>の誤りと申すやつで、博徒の仲間へはいりましたところ忽ち起こる喧嘩出入り、その時受けましたのがこの傷で」「町人！」「ソーラ、おいでなすった」「このおれを盲目にする気か！」「へえ、どうもまたいけませんかな」「十年前の古傷か、ないしは去年の新しい傷か、それくらいのけじめが解らぬと思うか」「へえ、そこまでお解りで？」「五年前の太刀傷であろう？」「恐ろしい眼力でございますなあ。仰せの通りでございますよ」「とうとう泥を吐きおったな」造酒は快然と笑ったものである。

観世銀之丞は起き上がろうともせず、畳の上へ肘を突き、それへ頭を転がしながら、面白くもないというように、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ましらましら</span>と<ruby><rb>上眼</rb><rt>うわめ</rt></ruby>を使い、商人の様子を眺めていた。話の仲間へはいろうともしない。

商人は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょい</span>と床の間を見たが、そこに置いてある小鼓へ、チラリと視線を走らせると、

「ははあ、あれでございますな。いつもお調べになる小鼓は」

感心したように声をはずませ、

「よい鼓でございますなあ」

寂しい寂しい別離の歌

すると銀之丞は顔を上げたが、「お前のような町人にも、鼓の<ruby><rb>善悪</rb><rt>よしあし</rt></ruby>がわかるかな。いったいどこがよいと思うな？」ちょっと興味を感じたらしく、こうまじめにきいたものである。

すると<ruby><rb>商人</rb><rt>あきゅうど</rt></ruby>は困ったように、<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>のあたりへ手をやったが、「へいへい、いやもうとんでもないことで、どこがよいのかしこがよいのと、さようなことはわかりませんが、しかし名器と申しますものは、ただ一見致しましただけでも、いうにいわれぬ品位があり、このもしい物でございます」「何んだ詰まらない、それだけか」

銀之丞はまたもゴロリと寝た。そそられかかったわずかな興味も、商人の平凡な答えによって、忽ち冷めてしまったらしい。無感激の眼つきをして、ぼんやり天井を眺め出した。

「いえそればかりではございません」商人は一膝進めたが、「家内中評判でございます。いえもうこれは本当の事で」「何、評判？　何が評判だ？」「はいその旦那様のお鼓が」「盲目千人に何が<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>る」「そうおっしゃられればそれまでですが、一度お鼓が鳴り出しますと、三味線、太鼓、四つ竹までが、一時に音色をとめてしまって、それこそ家中<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を殺し、聞き惚れるのでございますよ」

「有難迷惑という奴さな。信州あたりの山猿に、江戸の鼓が何んでわかる」かえって銀之丞は不機嫌であった。

「町人町人、千三屋、その男にはさわらぬがよい」

見かねて造酒が取りなした。「その男は病人だ。狂犬病という奴でな、むやみに誰にでもくってかかる。アッハハハハ、困った病気だ。それよりどうだ碁でも<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>もうか」「これは結構でございますな。ひとつお相手致しましょう」

そこで二人は碁を初めた。平手造酒も弱かったが商人も負けずに弱かった。<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>同志の<ruby><rb>弱碁</rb><rt>よわご</rt></ruby>と来ては、興味津々たるものである。二人はすっかりむちゅうになった。

甚三甚内の兄弟の上へ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おさらば</span>の日がやって来たのは、それから間もなくの事であった。その朝は<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>が深かった。甚三の馬へ甚内が乗り、それを甚三が追いながら、追分の宿を旅立った。宿の人々はまだ覚めず家々の雨戸も<ruby><rb>鎖</rb><rt>と</rt></ruby>ざされていた。宿の外れに立っているのは、有名な<ruby><rb>桝形</rb><rt>ますがた</rt></ruby>の茶屋であったがそこの雨戸も鎖ざされていた。そこを右すれば中仙道、また左すれば北国街道で、<ruby><rb>石標</rb><rt>いしぶみ</rt></ruby>の立った分岐点を、二人の兄弟は右に取り、中仙道を<ruby><rb>歩</rb><rt>あゆ</rt></ruby>ませた。宿を出ると峠道で、朝陽出ぬ間の露の玉が木にも草にも置かれていた。夜明け前の暁風に、はためく物は<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>の穂で、行くなと招いているようであった。

「せめて関所の茶屋までも」と、甚三の好きな追分節の、その関所の前まで来ると、二人は無言で<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ。「あにき、お願いだ、唄ってくれ」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おいら</span>は今日は悲しくて、どうにも声が出そうもねえ」「そういわずと唄ってくれ、今日別れていつ会うやら、いつまた歌が聞けるやら、こいつを思うと寂しくてならぬ。別れの歌だ唄ってくれ」

「うん」というと甚三は、声張り上げて唄い出した。草茫々たる<ruby><rb>碓井峠</rb><rt>うすいとうげ</rt></ruby>、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に関所が立っていた。眼の下を見れば<ruby><rb>山脈</rb><rt>やまなみ</rt></ruby>で、故郷の追分も見え<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ぬ。朝陽は高く空に昇り、きょうも一日晴天だと、空にも地にも鳥が啼き、<ruby><rb>草蒸</rb><rt>くさいき</rt></ruby>れの高い日であったが、甚三の唄う追分は、いつもほどには精彩がなく、<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>ぶがような<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え声が、低く低く草を這い、風に<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われて消えて行った。

弟と別れた甚三が、空馬を曳いて帰りかけた時、

「馬子！」とうしろから呼ぶ者があった。振り返って見ると旅の武士が、編笠を傾けて立っていた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けんかたばみ</span>の紋服に、浮き織りの野袴を裾短かに穿き、金銀ちりばめた大小を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そりだか</span>に差した人品は、旗本衆の<ruby><rb>遊山旅</rb><rt>ゆさんたび</rt></ruby>か、千石以上の若殿の、気随の微行とも想われたが、それにしてはお供がない。

病的に美しい旅の武士

編笠をもれた<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>の色が、<ruby><rb>透明</rb><rt>すきとお</rt></ruby>るようにあお白く、時々見える唇の色が、べにを<ruby><rb>注</rb><rt>さ</rt></ruby>したように紅いのが気味悪いまでに美しく、野苺に捲きついた青大将だと、こう形容をしたところで、さらに誇張とは思われない。開いたばかりの関所の門を、たった今潜って来たところであろう。

「戻り馬であろう。乗ってやる」こういった声は陰気であった。

「へい有難う存じます」甚三は実は今日一日は、稼業をしたくはなかったのであるが、侍客に呼び止められて見れば、断ることも出来なかった。「どうぞお召しくださいまし」

シャン、シャン、シャンと鈴を響かせ、馬は元気よく歩き出した。どう、どう、どう、と馬をいたわり、甚三は峠を下って行った。手綱は曳いても心の中では、弟のことを思っていた。でムッツリと無言であった。馬上の武士も物をいわない。これも頻りに考え込んでいた。

カバ、カバ、カバと蹄の音が、あたりの木立ちへ反響し、空を仰げば三筋の煙りが、浅間山から<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いていた。と、突然武士がいった。「追分宿の<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>では、何んというのが名高いかな？」「本陣油屋でございます」「ではその油屋へ着けてくれ」「かしこまりましてございます」

それだけでまたも無言となった。夏の陽射しが傾いて、物影が長く地にしいた。追分宿へはいった頃には、家々に燈火がともされていた。

両親は去年つづいて死に、十四になった<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>の妹と、甚内を入れて兄弟三人、仲よく水入らずに暮らして来たのが、その甚内が旅へ出た今は、二人ばかりの暮らしであった。……そのさびしい自分の家へ甚三は馬を曳いて帰って来た。

「おい、お<ruby><rb>霜</rb><rt>しも</rt></ruby>、今帰ったよ」<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>に向かって声を掛けたが、声が掛かっても唖のことで、お霜が返辞をしようもない。いつもの癖で掛けたまでであった。<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>の中では先刻から、コトコト水音がしていたが、ひょいと小娘が顔を出した。丸顔の色白で、目鼻立ちもパラリとして、愛くるしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりょう</span>であった。赤い襷を綾取って、二の腕の上まで袂をかかげ、その腕を前垂れで拭きながら、甚三を眺めて笑った様子には、片輪者らしいところもなく、野菊のような気品さえあった。

「あッ、あッ、あッ」と千切れるような、<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>特有の叫び声を上げ、指で部屋の方を差したのは、夕飯を食えという意味であろう。

「よしよし飯が出来たそうな、どれご馳走になろうかな」つぶやきながら足を洗い、馬へ<ruby><rb>秣</rb><rt>まぐさ</rt></ruby>を飼ってから、家の中へはいったが、部屋とは名ばかりで板敷きの上に、簀子が一枚敷いてあるばかり、煤けて暗い<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の側に、剥げた箱膳が置いてあった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぐら</span>を掻くと<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を取ったが、給仕をしようと坐っている、妹を見ると寂しく笑い、

「お前もこれからは寂しくなろうよ。<ruby><rb>兄</rb><rt>あに</rt></ruby>やが一人いなくなったからな。それにしても甚内は馬鹿な奴だ。何故海へなぞ行ったのかしら。こんなよい土地を棒に振ってよ。ほんとに馬鹿な野郎じゃねえか。土地が好かない馬子が厭だ、この追分に馬子がなかったら、国主大名も行き立つめえ。馬方商売いい商売、そいつを嫌って行くなんて、ほんとに馬鹿な野郎だなあ。……だがもうそれも今は愚痴だ。望んで海へ行ったからには、立派に出世してもれえてえものだ、なあお霜そうじゃねえか。……おや太鼓の音がするな。四つ竹の音も聞こえて来る。ああ町は賑やかだなあ。あれはどうやら三丁目らしい。さては油屋かな永楽屋かな。いいお客があると見える。油屋とするとお北めも、<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>っているに相違ねえ」

甚三はじっと考え込んだ。やがてカラリと箸を置くと、フラリと立って土間へ下り、<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>をはくとのめるように、灯の明るい町へ引かれて行った。

お霜は<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>坐っていたが、やがてシクシク泣き出した。聞くことも出来ずいうことも出来ない、天性の唖ではあったけれど、女の感情は持っていた。可愛がってくれた甚内が、遠い他国へ行ったことも兄の甚三がお北という、宿場女郎に<ruby><rb>魅入</rb><rt>みい</rt></ruby>られて、魂をなくなしたということも、ちゃんと心に感じていた。それがお霜には悲しいのであった。

出合い<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>にいきあった二人

絹<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>の千三屋は、ザッと体へ拭いを掛けると、丸めた衣裳を小脇にかかえ、湯殿からひょいと廊下へ出た。とたんにぶつかった者があった。「これは失礼を」「いや拙者こそ」双方いいながら顔を見合わせた。<ruby><rb>剣酸漿</rb><rt>けんかたばみ</rt></ruby>の紋服を着た、眼覚めるばかりの美男の武士が、冷然として立っていた。

「とんだ粗忽を致しまして、真っ平ご免くださいまし」いい捨て千三屋は擦り抜けたが、十足ばかりも行ったところで、何気ない様子をして振り返って見た。とその武士も湯殿の口で、じろじろこっちを眺めていた。

「こいつ只者じゃなかりそうだ」こう千三屋はつぶやくと、小走りに走って廊下を曲がり、自分の部屋へ帰って来たが、どうも心が落ち着かない。「途方もねえ美男だが、美男なりが気に食わねえ。まるで毒草の花のようだ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よこしまなもの</span>を持っている。ひょっとするとレコじゃないかな？　これまでただの一度でも狂ったことのねえ眼力だ。この眼力に間違いなくば、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>はただの鼠じゃねえ。巻物をくわえてドロドロとすっぽんからせり上がる<ruby><rb>溝鼠</rb><rt>どぶねずみ</rt></ruby>だ」

腕を組んで考え込んだ。

剽軽者で名の通っている、女中頭のお杉というのが、夕飯の給仕に来た時である、彼は何気なくたずねて見た。

「下でお見掛けしたんだが、<ruby><rb>剣酸漿</rb><rt>けんかたばみ</rt></ruby>の紋服を召した、綺麗な綺麗なお侍様が、泊まっておいでのご様子だね」「そのお方なら松の間の富士甚内様でございましょう」「おお富士様とおっしゃるか。<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に見るご綺麗なお方だな。男が見てさえボッとする」「ほんとにお綺麗でございますね」「店の<ruby><rb>女郎</rb><rt>こども</rt></ruby>達は大騒ぎだろうね」「へえ、わけてもお北さんがね」「ナニお北さん？　<ruby><rb>板頭</rb><rt>いたがしら</rt></ruby>のかえ？」「へえ、板頭のお北さんで」「噂に聞けばお北さんは、馬子でこそあれ追分の名人、甚三という若者と、深い仲だということだが」「へえ、そうなのでございますよ」「可哀そうにその馬子は、それじゃこれからミジメを見るね」「それがそうでないのですよ」「そうでないとはどういうのかえ？」「つまりお北さんはお二人さんを、一しょに可愛がっているのですよ」「へえ、そんな事が出来るものかね」「お北さんには出来ると見えて、甚三さんは捨てられない、富士様とも離れられない、こういっているのでございますよ」「――つまり<ruby><rb>情夫</rb><rt>いろ</rt></ruby>と<ruby><rb>客色</rb><rt>きゃくいろ</rt></ruby>だな」「いいえどっちも<ruby><rb>本鴨</rb><rt>ほんかも</rt></ruby>なので」「ははあ、それじゃお北という女郎は、金箔つきの浮気者だな」「浮気といえば浮気でもあり真実といえば大真実、どっちにしても<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>抜けの、ケタはずれの女でございますよ」「ちょっと面白い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きしょう</span>だな」「面白いどころか三人ながら、大苦しみなのでございますよ」「三人とは誰々だな？」「お北さんと富士様と、甚三さんとでございますよ」「それじゃ何か近いうちに、恐ろしいことが起こって来るぞ」「<ruby><rb>内所</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>でもそれを心配して、ご相談中なのでございますよ」

追分宿の七不思議

「相談とは何を相談かな？」「甚三さんは土地のお方、これはどうも断ることが出来ぬ。金使いも綺麗、人品もよく、惜しいお方ではあるけれど、富士様の方はフリの客、いっそご出立を願おうかってね」「それが一番よさそうだな。そうだ、早くそうした方がいい。しかし素直に行くかしら？」「それはあなた、行きますとも。<ruby><rb>人柄</rb><rt>ひとがら</rt></ruby>のお方でございますもの」「ふうん、あれが人柄かな。人柄のお方に見えるかな。<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>には怪しく思われるがな」

するとお杉はニヤニヤしたが、「その怪しいで思い出した。この追分の七不思議、あなたご存知じゃございませんかね」「ナニ追分の七不思議？　いいや一向聞かないね」「それじゃ話してあげましょうか。まず<ruby><rb>隣室</rb><rt>となり</rt></ruby>の観世様」「観世様が何故不思議だ？」「あんまり鼓がお上手ゆえ」「なるほどこれはもっともだ」「それから馬子の甚三さん」「はあて追分がうま過ぎるからか」「それから<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>娘のお霜さん。あんな可愛い様子でいて、物がいえないとは不思議だとね」「うん、そうしてその次は？」「綺麗すぎる富士甚内様」「これは確かに受け取れた」「心の分らないお北さん」「いかにもいかにもこれも不思議だ。さてその次は何者だな？」「このお杉だと申しますことで」「アッハハハハ、これは<ruby><rb>秀逸</rb><rt>しゅういつ</rt></ruby>だ。実際お前は不思議な女だ。見さえすればおかしくなる。ところでしまいのもう一人は？」「他ならぬあなた様でございます」「へえどうしておれが不思議だ？」「絹商人と振れ込みながら、毎日毎日商売もせず、<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>に暮らしておいでゆえ」

「ふん、何んだ、そんな事か」吐き出すようにいったものの、千三屋はいやな顔をした。

「で、何かい七不思議は、今宿場で評判なのかい？」

「さあどうでございますか」いいいい膳を片付けたが、「そんな事もございますまいよ。と、いいますのはその七不思議は、このお杉がたった今、即席に拵えたのでございますもの。はいさようなら、お<ruby><rb>粗相様</rb><rt>そそうさま</rt></ruby>」

いい捨て廊下へすべり出た。後を見送った千三屋は、「馬鹿！」と思わず怒鳴ったが、<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>ててその口を抑えたものである。

「油断も隙もならねえ奴だ。まさかこのおれを怪しい奴と、感付いたのじゃあるめえな。……こいつ仕事を急がずばなるめえ」

腕を組み天井を見上げ、じっと何か考え出したが、その眼の中には商人らしくない、不敵な光が充ちていた。と、パラリと腕を解くと、その手でトントンと襖を叩き、

「平手様、平手様、ご都合よくば一面いかがで？　おうかがい致してもよござんすかえ？」

「おお千三屋か、平手は留守だ。が構わぬ、はいって来い」観世銀之丞の声であった。

「真っ平ご免くださいまし」

スルリと千三屋は襖を開けると、隣りの部屋へ入り込んだ。

相変らず銀之丞は寝転んでいた。無感激の顔であった。しかしその眼の奥の方に、火のようなものが燃えていた。圧迫された魂であった。

「おい千三屋、おれは考えたよ」珍しく銀之丞はしゃべり出した。「禁制の海外へ密行するか、そうでなければ牢へはいるか。この二つより法はないとな。こうでもしたらおれの退屈も、少しぐらいは<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>されるかも知れない。海外密行はむずかしいとしても、牢へはいるのは訳はない。他人の物を盗めばいい。どうだ千三屋賛成しないかな」「へーい」といったが商人は、<ruby><rb>度胆</rb><rt>どぎも</rt></ruby>を抜かれた格好であった。「今日は悪日でございますよ。お杉の奴には<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>される、あなた様には脅かされる、ゆうべの夢見が悪かった筈だ」「お杉が何を嚇かしたな？」「へい七不思議の講釈で」「ナニ、七不思議だ？　馬鹿な事をいえ。そんな言葉は犬に食わせろ。一切この世には不思議などはないのだ。おれは神秘を信じない。だから、だから、退屈だともいえる」

<ruby><rb>後朝</rb><rt>きぬぎぬ</rt></ruby>の場所<ruby><rb>桝形</rb><rt>ますがた</rt></ruby>の茶屋

千三屋は無意味に笑ったが、その眼をキラリと床の間へ向けた。そこに小鼓が置いてあった。それへ視線が喰い入った。

北国街道と中仙道、その分岐点を桝形といった。高さ六尺の石垣が、道の左右から突き出ていて、それに囲われた内側が、桝形をなしているからであった。これは一種の防禦堤なので、また簡単な関所でもあった。ここを抜けて左へ行けば、中仙道へ行くことが出来、ここを通って右へ行けば、北国街道へ出ることが出来た。でこの桝形へ兵を置けば、両街道から押し寄せて来る、敵の軍勢をささえることが出来た。大名などが参府の途次、追分宿へとまるような時には、必ずここへ夜警をおいて非常をいましめたものであった。しかし桝形はそういうことによって、決して有名ではないのであった。つるが屋、伊勢屋、上州屋、武蔵屋、若菜屋というような、幾つかの茶屋があることによって、この桝形は名高かった。いつづけの客や<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>などを、宿の<ruby><rb>遊女</rb><rt>おんな</rt></ruby>達はこの茶屋まで、きっと送って来たものであった。つまり桝形は追分における、唯一の<ruby><rb>後朝</rb><rt>きぬぎぬ</rt></ruby>の場所なので、「信州追分桝形の茶屋でホロリと泣いたが忘らりょか」と、今に残っている追分節によっても、そういう情調は伺われよう。大正年間の今日でも、ややそのおもかげは残っていた。一方の石垣は取り壊され、麦の畑となっているが、もう一つの石垣は残っていた。そうして上州屋、つるが屋等の、昔ながらの茶屋もあった。つるが屋清吉の白壁に「桝形」と<ruby><rb>文字</rb><rt>もんじ</rt></ruby>が刻まれてあるのは、分けても懐しい思い出といえよう。なお街道の<ruby><rb>岐道</rb><rt>わかれみち</rt></ruby>には、常夜燈といしぶみとが立っていた。

右<ruby><rb>従是</rb><rt>これより</rt></ruby>北国街道　東二里安楽追分町　左従是中仙道

こう<ruby><rb>石標</rb><rt>いしぶみ</rt></ruby>には刻まれてあるが、これも懐しい記念物であろう。

さてある夜若菜屋の座敷に、客と遊女とが向かい合っていた。客は美貌の富士甚内で、遊女は油屋のお北であった。<ruby><rb>別離</rb><rt>わかれ</rt></ruby>を惜しんでいるのであった。二人の他には誰もいない。人を避けて二人ばかりで、酒を汲み交わせているのであった。

「お北、いよいよおさらばだ」甚内は盃を下へ置いた。「いうだけの事はいってしまい、聞くだけの事は聞いてしまった。もう別れてもよさそうだ」

「別れてもよろしゅうございますとも」お北はぼんやりとうけこたえた。「ではお立ちなさりませ」「おれも果報な人間だな。お北そうは、思わぬかな」「それはなぜでございます？」「なぜといってそうではないか、女郎屋の亭主から<ruby><rb>謝絶</rb><rt>ことわ</rt></ruby>られたのだ」「<ruby><rb>男冥利</rb><rt>おとこみょうり</rt></ruby>でございますよ」「おれもそう思って諦めている」「それが一番ようございます。諦めが肝腎でございます」「止むを得ない諦めだ」「ようお諦めなさいました」「ふん、冷淡な女だな」「いいえわたしは燃えております」「ではなぜいうことを聞いてくれない」「もうその訳は先刻から、申し上げておるではございませんか」「ふん、お前はそんなにまで、あんな男に<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>がれているのか」

するとお北は眼を据えたが、

「解らないお方でございますこと！」「いやおれには解っている」「ではなぜそんなことをおっしゃいます」「愚痴だ」と甚内は息づまるようにいった。

甚内は堅く眼をつむり、天井の方へ顔を向けた。思案に余った様子であった。お北は盃を握りしめていた。<ruby><rb>上瞼</rb><rt>うわまぶた</rt></ruby>が弓形を作り、下瞼が一文字をなした、潤みを持った妖艶な眼は、いわゆる立派な毒婦型であったが、今はその眼が<ruby><rb>洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>のように、光もなく見開かれていた。盃中の酒を見てはいるが、別に飲もうとするのでもない。

夜は次第に更けまさり、家の内外静かであった。他に客もないかして、三味線の<ruby><rb>音締</rb><rt>ねじ</rt></ruby>めも聞こえない。銀の鈴でも振るような、涼しい<ruby><rb>河鹿</rb><rt>かじか</rt></ruby>の声ばかりが、どこからともなく聞こえて来た。

「芸の力は恐ろしいものだ」ふと甚内はつぶやいた。

「あの馬子の唄う追分が、そうまでお前の心持ちを、捉えていようとは想像もつかぬ」

怪しい恋の三<ruby><rb>縮</rb><rt>すく</rt></ruby>み

「魅入られているのでございます」「魅入られている？　いかにもそうだ」「あんな男と思いながら、一度追分を唄い出されると、急に心が騒ぎ立ち、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からだじゅう</span>の血が煮え返り狂わしくなるのでございます」「そうして男から離れられぬ」「はいさようでございます」「そうしておれをさえ捨てようとする」「いいえそうではございません。何んのあなたが捨てられましょう」「いやいやおれをさえ捨てようとする」

お北の眼はまた据わった。

「あなたこそ恋人でございます！」むせぶような声であった。「ああ、あなたこそ<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>にとって、本当の恋人でございます」

「おれのどこが気に入ったな？」嘲笑うような調子であった。

「ただれたような美しさが！」「おれがもしも悪党なら？」「その悪党を恋します」「おれがもしもひとごろしなら？」「そのひとごろしを恋します」「おれがもしも泥棒なら？」「その泥棒を恋します」「おれがお前を殺したら？」「わたしは喜んで死にましょう」「ではなぜおれについて来ない？」「申し上げた筈でございます」

「お北！」と甚内はさぐるようにいった。「もし追分が未来<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>、お前の耳へ聞こえなくなったら、その時お前はどうするな？」「その時こそ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わたし</span>というものは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あなた</span>の物でございます」「言葉に嘘はあるまいな」「何んのいつわり申しましょう」「その言葉忘れるなよ」「はいご念には及びませぬ」

甚内は満足したように、不思議な微笑を頬に浮かべた。……思えば奇怪な恋ではあった。これという<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さしたる</span>あてもなく、追分宿へやって来て、本陣油屋へとまった夜、何気なくよんだ遊女に恋し、また遊女にも恋されながら、その女が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いうこと</span>を聞かぬ。殺すといえば殺されようという。それほどの恋を持ちながら、にげようという男の言葉を、すげなく女はことわるのであった。外におとこがあるからでもあろうが、おとこその者には心をひかれず、その歌に心ひかれるのだという。立ち去るといえば立ち去れという。捨てたのかといえば捨てはしないという。そういう言葉には嘘はない。不思議な恋の三すくみ！　女が死ねば恋は終る。どっちか一人男が死ねば、いきた方が女を獲る。所詮一人は死ななければならない。そうでなければ苦しむばかりだ。

「いっそ自分が立ち去ったなら、万事平和に納まろうが、この女ばかりは放されぬ」これが甚内の心持ちであった。「天下の金は自分の物だ。金には何んの苦労もない。有難いことには自分は美貌だ。これまでほとんど至る所で、色々の女を征服もし、また女に征服もされた。女の秘密もおおかたは知った。<ruby><rb>与</rb><rt>くみ</rt></ruby>し<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いは女である。しかるに意外にも意外の土地で、意外の女とでっくわした。類例のない女である。だから自分には珍らしい。珍らしいものはほかへはやれぬ。是非征服しなければならない。ではどうしたらよかろうか？　女の心を引きつけている、不思議な追分の歌い手を、永遠にお北から遠避けなければならない。そのほかには手段はない」

これが甚内の心持ちであった。「よしそうだ、やっつけよう！」

冷えた盃を取り上げると、つと唇へ持って行った。

河鹿の鳴く<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>は益〻冴え、夏とはいっても二千尺の高地、夜気が冷え冷えと身にしみて来た。

「お北、それではまたあおう」

「おあいしたいものでございます」

「すぐにあえる、待っているがいい」

「早くお帰りくださいまし」

いつもと<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>う歌の節

頼んで置いた甚三が、馬をひいて迎えに来た、それに跨がった甚内がいた。北国街道を北へ向け、桝形の茶屋を出かけたのは、それから間もなくのことであった。

間もなく追分を出外れた。振り返って見ると<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>が、<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>の奥から<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに見えた。

「旦那様」と不意に甚三がいった。「いよいよご出立でございますかな」

「うん」と甚内は冷やかに、「追分宿ともおさらばだ」

「永らくご滞在でございましたな」「意外に永く滞在した」「旦那様と私とは、ご縁が深うございますな」「縁が深い？　それはなぜかな？」「宿までご案内致しましたのはこの甚三でございます」「そうであったな。覚えておる」「お送りするのも甚三で」「そういえば縁が深いようだ」「ご縁が深うございます」「ところで甚三われわれの縁は、もっと深くなりそうだな」

「え？」といって振り返った時には、甚内は口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでいた。押して甚三も尋ねようとはしない。カパカパという蹄の音、フーフーという馬の鼻息、二人は無言で進んで行った。

「甚三、追分を唄ってくれ」しばらく経って甚内がいった。

「夜が深うございます」

「構うものか、唄ってくれ」「私の声は甲高で、宿まで響いて参ります」「構うものか、唄ってくれ」「よろしゅうございます、唄いましょう」

やがて甚三は唄い出した。夜のかんばしい空気を通し、美音朗々たる追分節が、宿の方まで流れて行った。

「甚三の追分が聞こえて来る。はてな、いつもとは唄い振りが<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>う。……うまいものだ、何んともいえぬ。……今夜の節は分けてもよい」

こういったのは銀之丞であった。

本陣油屋の下座敷であった。彼は相変らず寝そべっていた。鼓が床の間に置いてあった。

「おい平手、行って見よう」銀之丞は立ち上がった。

「何、行って見よう？　どこへ行くのだ？」

千三屋相手に碁を囲んでいた、平手造酒は振り返った。

「追分を聞きにだ、行って見よう」「今夜に限って<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>く熱心だな」「いつもと唄い振りが異うからだ」「そいつはおれには解らない」「行って見よう。おれは行くぞ」「何に対しても執着の薄い、貴公としては珍らしいな」「だんだん遠くへ行ってしまう。おいどうする、行くか厭か？」「さあおれはどっちでもいい」「おれは行く。行って聞く。後からこっそりついて行って、堪能するまで聞いてやろう」「全く貴公としては珍らしい。何に対しても興ずることのない、退屈し切ったいつもに似ず、今夜は馬鹿に面白がるではないか」「それがさ、今もいった通り、今夜に限って甚三の歌が、ひどく違って聞こえるからだ」「いつもとどこが違うかな？」「<ruby><rb>鬱</rb><rt>うっ</rt></ruby>していたのが延びている。燃えていたのが澄み切っている。<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだか</rt></ruby>まっていたのが晴れている。いつもは余りに悲痛だった。今夜の唄い振りは楽しそうだ。心に喜びがあればこそ、ああいう歌声が出て来るのだろう。めったに一生に二度とは来ない、愉快な境地にいるらしい」「ふうん、そんなに異うかな。どれ一つ聞いて見よう」

造酒は碁石を膝へ置き、首を垂れて聞き澄ました。次第に遠退き<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かとはなったが、なお追分は聞こえていた。節の巧緻声の抑揚、音楽としての美妙な点は、武骨な造酒には解らなかった。しかしそれとは関係のない、しかしそれより<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もっと</span>大事な、ある気分が感ぜられた。しかも恐ろしい気分であった。造酒はにわかに立ち上がった。

「観世、行こう。すぐに行こう」そういう声はせき立っていた。

「これは驚いた。どうしたのだ？」

「どうもこうもない捨てては置けぬ。行ってあの男を助けてやろう」「ナニ助ける？　誰を助けるのだ？」「あの追分の歌い手をな」「不安なものでも感じたのか？」「陰惨たる殺気、陰惨たる殺気、それが歌声を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>とりま</rt></ruby>いている」「それは大変だ。急いで行こう」

ありあう庭下駄を突っ掛けると、ポンと<ruby><rb>枝折戸</rb><rt>しおりど</rt></ruby>を押し開けた。往来へ出ると一散に、桝形の方へ走って行った。さらにそれから右へ折れ、月<ruby><rb>明</rb><rt>あき</rt></ruby>らかに星<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>な、北国街道の<ruby><rb>岨道</rb><rt>そばみち</rt></ruby>を、歌声を追って走って行った。

馬上ながら斬り付けた

こなた甚三は蹄に合わせ、次々に追分を唄って行った。彼の心は楽しかった。彼の心は晴れ渡っていた。……恋の競争者の富士甚内が、追分を見捨てて立ち去るのであった。お北を見捨てて立ち去るのであった。もうこれからは油屋お北は彼一人の物となろう。これまでは随分苦しかった。人知れず心を悩ましたものだ。相手は立派なお<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらい</rt></ruby>、殊に美貌で金もあるらしい。それがお北に<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>っていた。そうしてお北もその侍に、心を奪われていたものだ。宿の人達は噂した。いよいよ甚三は捨てられるなと。誰に訴えることも出来ず、また訴えもしなかったが、心では悲しみもし苦しみもした。訴えられない苦しさは、泣くに泣かれない苦しさであった。泣ける苦痛は泣けばよい。訴えられる苦痛は訴えればよい。人に明かされない苦しさは、苦しさの量を二倍にする。宿の人達にでも洩らそうものなら、その人達はいうだろう、街道筋の馬子風情が、油屋の板頭と契るとは、<ruby><rb>分</rb><rt>ぶん</rt></ruby>に過ぎた身の果報だ。捨てられるのが当然だと。では妹にでも訴えようか、妹お霜は<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>であった。苦楽を分ける弟は、遠く去って土地にいない。神も仏も頼みにならぬ。……富士甚内が追分宿の、本陣油屋へ泊まって以来、甚三の心は一日として、平和の時はなかったのであった。……しかし今は過去となった。苦痛はまさに過ぎ去ろうとしていた。富士甚内がお北と別れ、追分宿を立ち去りつつある。すぐに平和が帰って来よう。これまで通り二人だけの、恋の世界が立ち帰って来よう。……

甚三は声を張り上げて、次から次と唄うのであった。馬上では甚内が腕<ruby><rb>拱</rb><rt>こまね</rt></ruby>き、じっと唄声に耳を澄まし、機会の来るのを待っていた。

「もうよかろう」と心でいって、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに見廻した時には、追分宿は山に隠れ、<ruby><rb>燈</rb><rt>ともしび</rt></ruby>一つ見えなかった。おおかた二里は離れたであろう。左は茫々たる<ruby><rb>芒原</rb><rt>すすきはら</rt></ruby>。右手は谷川を一筋隔て、峨々たる山が聳えていた。甚内は拱いた腕を解くと、静かに柄を握りしめた。知らぬ甚三は唄って行った。今はひとのために唄うのではない。自分の声に自分が惚れ、自分のために唄うのであった。

追分油屋掛け<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>に

浮気ご免と書いちゃない

甚内はキラリと刀を抜いた。

浅間山さんなぜやけしゃんす

腰に三宿持ちながら

甚内は刀を振りかぶった。

北山時雨で越後は雨か

あの雨やまなきゃ会われない

甚内はさっと甚三の、右の肩へ切りつけた。「わっ」と<ruby><rb>魂消</rb><rt>たまぎ</rt></ruby>える声と共に、甚三は<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>へよろめいたが、そのままドタリと転がった時、甚内は馬から飛び下りた。止どめの一刀を刺そうとした。

「まあ待ってくれ、富士甚内！　<ruby><rb>汝</rb><rt>われ</rt></ruby>アおれを殺す気だな！」

「唄の上手が身の不祥、気の毒ながら助けては置けぬ」

「さてはお北も同腹だな！」

「どうとも思え、うぬが勝手だ」

「弟ヤーイ！」と甚三は、<ruby><rb>致死期</rb><rt>ちしご</rt></ruby>の声を振り絞った。「われの言葉、あたったぞヤーイ！　おれはお北に殺されるぞヤーイ！」

よろぼいよろぼい立ち上がるのを、ドンと甚内は蹴り仆した。とその足へしがみ付いた。

のたうち廻る馬方を、甚内は足で踏み敷いたが、おりから人の足音が、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方から聞こえて来たので、ハッとばかりに振り返った。二人の武士が走って来た。「南無三宝！」と仰天し、手負いの馬子を飛び越すと、街道を向こうへ突っ切ろうとした。と、行手から旅姿、菅の小笠に合羽を着、足<ruby><rb>拵</rb><rt>ごしら</rt></ruby>えも厳重の、一見博徒か口入れ稼業、<ruby><rb>小兵</rb><rt>こひょう</rt></ruby>ながら隙のない、一人の旅人が現われたが、笠を傾けこっちを<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>かすと、ピタリと止まって手を拡げた。腹背敵を受けたのであった。ギョッとしながらも甚内は、相手が博徒と見定めると、抜いたままの血刀を二、三度宙で振って見せ、

「邪魔ひろぐな！」

と叱咜した。

この旅人何者であろう？

博徒風の旅人は、微動をさえもしなかった。依然両手を広げたまま、地から<ruby><rb>根生</rb><rt>ねば</rt></ruby>えた樫の木のように、無言の威嚇を続けていた。脈々と<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとば</rt></ruby>しる底力が、甚内の身内へ逼って来た。強敵！　と甚内は直覚した。彼は忽然身を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるが</rt></ruby>えすと、この時間近く追い逼って来た、二人の武士の方へ飛びかかって行った。一人の武士はそれと見るとつと<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らへ身をひいたが、もう一人の武士は足をとめ、グイと拳を突き出した。拳一つに全身隠れ、鵜の毛で突いた隙もない。北辰一刀流直正伝拳隠れの真骨法、流祖周作か平手造酒か、二人以外にこれほどの術を、これほどに使う者はない。「あっ」と甚内は身を締めた。この堅陣破ることは出来ぬ。ジリ、ジリ、ジリと<ruby><rb>後退</rb><rt>あとしざ</rt></ruby>り、またもやグルリと身を翻えすと、窮鼠かえって猫を噛む。破れかぶれに旅人眼掛け、富士甚内は躍り掛かって行った。

「馬鹿め！」と<ruby><rb>訛</rb><rt>なまり</rt></ruby>ある上州弁、旅人は初めて一喝したが、まず菅笠を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ刎ね、<ruby><rb>道中差</rb><rt>どうちゅうざし</rt></ruby>を引き抜いた。構えは真っ向大上段、足を左右へ踏ん張ったものである。「あっ」とまたもや甚内は、声を上げざるを得なかった。日本に流派は数あるが、足を前後に開かずに、左右へ踏ん張るというような、そんな構えのある筈がない。

今は進みも引きもならぬ。タラタラと額から汗を落とし、甚内は総身を<ruby><rb>強</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばらせた。

「よしこうなれば相討ちだ。相手を斃しておれも死ぬ。卑怯ながら腹を突こう」外れっこのない相手の腹。突嗟に思案した甚内が、下段に刀を構えたまま、体当りの心組み、ドンとばかりに飛び込んだとたん、「ガーッ」という恐ろしい真の気合いが、耳の側で鳴り渡った。武士が<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>からかけたのであった。甚内の意気はくじかれたが、同時に活路が<ruby><rb>発見</rb><rt>みつか</rt></ruby>った。張り詰めた気の弛みから機智がピカリと閃めいたのであった。彼は「えい！」と一声叫ぶと、パッと<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>へ身を<ruby><rb>逸</rb><rt>いっ</rt></ruby>したが、そこは芒の原であった。甚三の馬が悠々と、主人の兇事も知らぬ顔に、一心に草を食っていた。その鞍壺へ手を掛けると甚内は<ruby><rb>翩翻</rb><rt>へんぽん</rt></ruby>と飛び乗った。ピッタリ<ruby><rb>馬背</rb><rt>ばはい</rt></ruby>へ身を伏せたのは、手裏剣を恐れたためであって、「やっ」というと馬腹を蹴った。馬は<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と走り出した。馬首は追分へ向いていた。月皎々たる芒原、団々たる夜の露、芒を開き露をちらし、見る見る人馬は遠ざかって行った。草に隠れ草を出で、木の間に隠れ木の間を出で、棒となり点とちぢみ、やがて山腹へ隠れたが、なおしばらくはカツカツという、蹄の音が聞こえてきた。しかしそれさえ間もなく消えた。

余りの<ruby><rb>早業</rb><rt>はやわざ</rt></ruby>に三人の者は、手を拱ねいて見ているばかり、とめも<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>りも出来なかった。苦笑を洩らすばかりであった。

「素早い奴だ、あきれた奴だ」

博徒姿の旅人は、こうつぶやくとニヤリとしたが、道中差しを鞘へ納めると、その手で菅笠の紐を結んだ。それから二人の武士の方へ、ちょっと小腰を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めたが、追分の方へ足を向けた。

「失礼ながらお待ちくだされ」一人の武士が声を掛けた。拳隠れの構えをつけ、甚内を驚かせた武士であった。他ならぬ平手造酒であった。

「何かご用でござんすかえ」旅人は振り返って足を止めた。

「<ruby><rb>天晴</rb><rt>あっぱ</rt></ruby>れ見事なお腕前、それに不思議な構え方、お差し支えなくばご流名を、お明かしなされてはくださるまいか」

「へい」といったが旅人は、迷惑そうに肩を縮め、「とんだところをお眼にかけ、いやはやお恥ずかしゅう存じます。何、<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>の剣術には、流名も何もござんせん。さあ強いてつけましょうなら、『待ったなし流』とでも申しましょうか。アッハハハ自己流でござんす」

「待ったなし流？　これは面白い。どなたについて学ばれたな？」

「最初は師匠にもつきましたが、それもほんの半年ほどで、後は出鱈目でございますよ」

「失礼ながらご身分は？」「ご覧の通りの無職渡世で」「お差しつかえなくばお名前を。……われら事は江戸表……」

「おっとおっとそいつあいけねえ」

造酒が姓名を<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>ろうとするのを、急いで旅人は止めたものである。

「なにいけない？　なぜいけないな？」

造酒は<ruby><rb>気不味</rb><rt>きまず</rt></ruby>い顔をした。

それと見て取った旅人は、<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>の縁へ片手を掛け、詫びるように<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げたが、また繰り返していうのであった。

「へいへいそいつアいけません。そいつあどうもいけませんなあ」

造酒はムッツリと立っていた。しかし旅人はビクともせず

「お見受け申せばお二人ながら、どうして立派なお武家様、<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>ふぜいにお<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>りくださるのは、<ruby><rb>勿体至極</rb><rt>もったいしごく</rt></ruby>もございません。それにお<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>りくだされても、<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>の方からは失礼ながら、宣り返すことが出来ませんので、重ね重ね勿体ない話、どうぞ今日はこのままでお別れ致しとう存じます。広いようでも世間は狭く、そのうちどこかで巡り合い、おお、お前かあなた様かと、宣り合う時もございましょう。今は<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>も<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しい体、追い込まれているのでございましてな。兇状持ちなのでございますよ。それではご免くださいますよう」

こういい捨てると旅人は、二人の武士の挨拶も待たず、風のように走って行った。

<ruby><rb>鼓賊</rb><rt>こぞく</rt></ruby>江戸を横行す

馬子の甚三の殺されたことは、追分にとっては驚きであった。驚きといえばもう一つ、油屋のお北が同じその夜にあたかも紛失でもしたように、姿を隠してしまったことで、これは<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>く宿の人達を、失望落胆させたものであった。さて、ところで、<ruby><rb>紛失</rb><rt>なくな</rt></ruby>ったといえば、もう一つ<ruby><rb>紛失</rb><rt>なくな</rt></ruby>った物があった。他ならぬ銀之丞の鼓であった。それと知ると平手造酒は、躍り上がって<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しがり、

「千三屋が怪しい千三屋が怪しい！」と、隣室の呉服商を罵ったが、なるほどこれはいかにも怪しく、同じその夜にその千三屋も、どこへ行ったものか行方が知れなかった。

「おい観世、計られたな」

「いいではないか。うっちゃって置けよ」

「あれは名器だ。何がいい！」

「ナーニこれも一つの<ruby><rb>解脱</rb><rt>げだつ</rt></ruby>だ」銀之丞はのんきであった。

「何が解脱だ。惜しいことをした」「<ruby><rb>捨身成仏</rb><rt>しゃしんじょうぶつ</rt></ruby>ということがある。大事な物を捨てた時、そこへ解脱がやって来る」「また談義か、<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>でも食らえ」「アッハハハ、面白いなあ」「何が面白い、生臭坊主め！」

造酒は目茶苦茶に昂奮したが、「ああそれにしても一晩の中に、これだけの事件が起ころうとは、何んという不思議なことだろう」

「おい平手、詰まらないことをいうな」銀之丞はニヤリとし、「不思議も何もありゃしないよ。この人の世には不思議はない。あるものは事実ばかりだ」「事実ばかりだ！　ばかをいうな！　これだけの事件の<ruby><rb>重畳</rb><rt>じゅうじょう</rt></ruby>を、ただの偶然だと見るような奴には、運命も神秘も感ぜられまい」「運命だって？　神秘だって？　馬鹿な、そんなものがあるものか。それは低能児のお題目だ。無知なるがゆえに<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らない。その無知を恥ずかしいとも思わず、判らないところのその物を差して、不思議だ神秘だ宿命だという。馬鹿馬鹿しくて話にもならぬ。……それはそうと実のところ、おれは少々失望したよ」「それ見るがいい、本音を吐いたな」「これだけの事件の<ruby><rb>衝突</rb><rt>ぶつか</rt></ruby>り合いだ。もう少しこのおれを刺戟して、創造的境地へ引き上げてくれても、よかりそうなものだと思うのだがな」「ふん、何んだ、そんなことか。刺戟、昂奮、創造的境地！　何んのことだか解りゃしない」

「おれは駄目だ！」と観世銀之丞は、<ruby><rb>悄気</rb><rt>しょげ</rt></ruby>たみじめな表情をした。「おれの所へ来るとあらゆる物が退屈そのものに化してしまう」「<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>がままだからよ。貴公は我がままだ」「おれの心は誰にもわからない。おれは気の毒な人間だ」「そうだとも気の毒な人間だとも」「この地にもあきた。江戸へ行きたい」「おれもあきた。江戸へ帰ろう」

翌日二人は追分を立ち、中仙道を江戸へ下った。

この頃不思議な盗賊が、江戸市中を横行した。鼓を利用する賊であった。微妙きわまる鼓の音が、ポン、ポン、ポンと鳴り渡ると、それを耳にした屋敷では、必ず賊に襲われた。どんなに奥深く隠して置いても、きっと財宝を掠められた。大名屋敷、旗本屋敷、そうでなければ大富豪、主として賊はこういう所を襲った。不思議といえば不思議であった。屋敷を廻って鼓が鳴る。それ賊だと警戒する。無数の人が<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>をする。しかしやっぱり盗まれてしまう。<ruby><rb>鼓賊</rb><rt>こぞく</rt></ruby>、鼓賊とこう呼んで、江戸の人達は<ruby><rb>怖</rb><rt>お</rt></ruby>じ恐れた。「何のために鼓を鳴らすのだろう？　どういう必要があるのだろう？」こう人々は噂し合ったが、真相を知ることは出来なかった。南町奉行<ruby><rb>筒井和泉守</rb><rt>つついいずみのかみ</rt></ruby>、北町奉行<ruby><rb>榊原主計守</rb><rt>さかきばらかずえのかみ</rt></ruby>、二人ながら立派な名奉行であったが、鼓賊にだけは手が出せなかった。<ruby><rb>跳梁跋扈</rb><rt>ちょうりょうばっこ</rt></ruby>に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>すばかりであった。

この評判を耳にして一人<ruby><rb>雀躍</rb><rt>こおどり</rt></ruby>して喜んだのは、「<ruby><rb>玻璃窓</rb><rt>はりまど</rt></ruby>」の<ruby><rb>郡上</rb><rt>ぐじょう</rt></ruby>平八であった。今年の春の大雪の夜、隅田堤で鼓の音を初めて彼が耳にして以来、実に文字通り寝食を忘れて、その鼓を突き止めようと、追っ駈け廻したものであった。しかるに不幸にも今日まで、行方を知ることが出来なかった。根気のよい彼も最近に至って、多少絶望を感じて来て、手をひこうかとさえ思っていた。その矢先に鼓賊なるものの、輩出したことを聞いたのであった。

二人の<ruby><rb>虚無僧</rb><rt>こむそう</rt></ruby>の物語

そこは玻璃窓の平八であった。あの時の鼓とこの鼓賊とが、関係あるものと直覚した。「よしよし今度こそはのがさぬぞ」堅く心に誓いながら、鼓賊の詮議に着手したが、いわゆる今日での科学的捜索それを尊ぶ彼であったから、むやみと<ruby><rb>蠢動</rb><rt>しゅんどう</rt></ruby>するのをやめ、理詰めで行こうと決心した。

「賊と鼓？　賊と鼓？　この二つの間には、何らか関係がなくてはならない」まずここから初めたものである。で彼は何より先に、鼓に関する古い文献を、多方面に渡って調べたが、鼓と賊との関係について、記録したものは見つからなかった。そこで今度は方面を変え、鼓造り師や<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>し方や、鼓の名人といわれている、色々の人を訪問し、この問題について尋ねたが、やはり少しも得るところがなかった。

「昔の有名な大盗で鼓を利用したというようなものは、どうも一向聞きませんな」誰の答えもこうであった。

「一人ぐらいはございましょう！」平八が押してたずねても、知らないものは知らないのであった。

「残念ながらこれは駄目だ」平八老人は失望したものの、

「小梅で聞いた鼓の音、何んともいえず美音であったが、いずれ名器に相違あるまい。それを鼓賊が持っているとすると、盗んだものに違いない。よしよしこいつから調べてやろう」

また訪問をやり出した。鼓造り師、囃し方、鼓の名人といわれる人、各流能楽の<ruby><rb>家元</rb><rt>いえもと</rt></ruby>から、音楽ずきの物持ち長者、<ruby><rb>骨董商</rb><rt>こっとうしょう</rt></ruby>というような所を、根気よく<ruby><rb>万遍</rb><rt>まんべん</rt></ruby>なく<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>めぐって「鼓をご紛失ではござらぬかな？」こういって尋ねたものである。

しかるに<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby>土手三番町、観世宗家の伯父にあたる、同姓信行の屋敷まで来た時、彼の労は酬いられた。嫡子銀之丞が家に伝わる、少納言の鼓を信州追分で、紛失したというのであった。

「まず有難い」と喜んで、その銀之丞へ面会をもとめ、当時の様子をきこうとした。銀之丞は会いは会ったものの、盗難については冷淡であった。はかばかしく模様も語らなかった。

「これとあなたがご覧になって、怪しく思われた人間が、多少はあったでございましょうな？」

「さよう」といったが銀之丞は、例の物うい表情で、

「一人二人はありましたが、罪の疑わしきは咎めずといいます、お話しすることは出来ませんな」

こうにべもなくいい切ってしまった。どこに取りつくすべもない。これが役付きの与力なら、押してきくことは出来るのであるが、今は役を<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた平八であった。どうすることも出来なかった。「それにしても変った性質だな」こう思って平八は、つくづく相手の顔を見た。さすがは名門の嫡子である、それに一流の芸術家、銀之丞の姿は高朗として、犯しがたく思われた。

「これで三番手も破れたという訳だ」平八老人は観世家を辞し、本所の自宅へ帰りながら、さびしそうに心でつぶやいた。「さてこれからどうしたものだ。……どうにもこうにも手が出ない。これまで通り江戸市中を、あるき廻るより策はない。いや我ながら智慧のない話さ。むしゃくしゃするなあ、浅草へでも行こう」

で平八は足を返し、浅草の方へ歩いて行った。

いつも賑やかな浅草はその日もひどく賑わっていた。奥山を廻って観音堂へ出、階段を<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って<ruby><rb>拝</rb><rt>はい</rt></ruby>を済まし、戻ろうとしたその時であった、そこに立っていた<ruby><rb>虚無僧</rb><rt>こむそう</rt></ruby>の話が平八の好奇心を引き付けた。

「小さいご本尊に大きい<ruby><rb>御堂</rb><rt>みどう</rt></ruby>、これには不思議はないとしても、この浅草の観音堂と信州長野の善光寺とは、特にそれが著しいな」こういったのは<ruby><rb>年嵩</rb><rt>としかさ</rt></ruby>の方で、どうやら階級も上らしい。「わしは善光寺は不案内だが、そんなに御堂は大きいかな」年下の虚無僧がきき返した。

「観音堂よりはまだ大きい。一<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りももっとも大きいかな」「それは随分大きなものだな」「そうだ、あれは一昨年だった、わしは深夜ただ一人で、その善光寺の廻廊に立って、尺八を吹いたことがある。なんともいえずいい気持ちだった。まるで<ruby><rb>音色</rb><rt>ねいろ</rt></ruby>が<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>って聞こえた」「ナニ尺八のねいろが異った？　ふうむ、それは何故だろうな？」「善光寺本堂の天井に、金塊が釣るしてあるからだ」「ナニ金塊が釣るしてある？」「さよう金塊が釣るしてある。つまり火災に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>った時など、改めて建立しなければならない。その時の費用にするために、随分昔から<ruby><rb>黄金</rb><rt>きん</rt></ruby>の<ruby><rb>延棒</rb><rt>のべぼう</rt></ruby>が、天井に大切に釣るしてあるのだ」「これは<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>には初耳だ」「ところで楽器というものは、分けても笛と鼓とはだな、<ruby><rb>黄金</rb><rt>おうごん</rt></ruby>の気を感じ易い。名器になれば名器になるほど、黄金の気を強く感じ、必ずねいろが変化する。つまり一層微妙になるのだ。で<ruby><rb>鉱脈</rb><rt>こうみゃく</rt></ruby>を探る時など、よく<ruby><rb>鉱山</rb><rt>かなやま</rt></ruby>の山師などは、笛か鼓を持って行って、それを奏して金の<ruby><rb>有無</rb><rt>うむ</rt></ruby>を、うまく<ruby><rb>中</rb><rt>あ</rt></ruby>てるということだよ」

黙って聞いていた平八は、思わずこの時膝を打った。「やれ有難い、いい事を聞いた。これで事情が<ruby><rb>大略</rb><rt>あらかた</rt></ruby>解った。ははあなるほどそうであったか。鼓賊と呼ばれるその泥棒が、少納言の鼓を奪い取ったのは、その鼓を奏する事によって、目星をつけた家々の、金の<ruby><rb>有無</rb><rt>ありなし</rt></ruby>を知るためだったのか。盗みも進歩したものだな。……よしよしここまで見当がつけば、後はほんの一息だ。きっと間違いなく捕えて見せる」

踏む足も軽くいそいそと、本所<ruby><rb>業平</rb><rt>なりひら</rt></ruby>町一丁目の、自分の家へ帰って行った。

千葉道場の田舎者

北辰一刀流の開祖といえば、千葉周作成政であった。生まれは仙台気仙村、父忠左衛門の時代まで、<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>家に仕えて禄を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>んだが、後忠左衛門江戸へ出で、医をもって業とした。しかし本来豪傑で、北辰無双流の、達人であり、本業の傍ら弟子を取り、剣道教授をしたものであった。その子周作の剣技に至っては、遙かに父にも勝るところから、当時将軍お手直し役、浅利又七郎に懇望され、浅利家の養子となったほどであった。後故あって離縁となり、神田お玉ヶ池に道場を開き、一派を創始して北辰一刀流ととなえ、一生の間取り立てた門弟、三千人と註されていた。水戸藩の剣道指南役でもあり、塾弟子常に二百人に余り、<ruby><rb>男谷下総守</rb><rt>おたにしもうさのかみ</rt></ruby>、斎藤弥九郎、<ruby><rb>桃井</rb><rt>もものい</rt></ruby>春蔵、<ruby><rb>伊庭</rb><rt>いば</rt></ruby>軍兵衛と、名声を競ったものであった。

ある日、千葉家の玄関先へ、一人の<ruby><rb>田舎者</rb><rt>いなかもの</rt></ruby>がやって来た。着ている衣裳は<ruby><rb>手織木綿</rb><rt>ておりもめん</rt></ruby>、きたないよれよれの帯をしめ<ruby><rb>冷飯草履</rb><rt>ひやめしぞうり</rt></ruby>を穿いていた。<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>は小さく痩せぎすで、顔色あかぐろく日に焼けていた。

「ご免くだせえ。ご免くだせえ」さも不器用に案内を乞うた。「ドーレ」といって出て来たのは小袴を着けた取り次ぎの武士。

「ええどちらから参られたな」

「へえ、甲州から参りました」そのいう事が<ruby><rb>半間</rb><rt>はんま</rt></ruby>であった。

「して何んのご用かな？」「お目にかかりてえんでごぜえますよ」「お目にかかりたい？　どなたにだな？」「千葉先生にでごぜえますよ」「お目にかかってなんになさる？」「へえ立ち合って戴きたいんで」

取り次ぎはプッと吹き出したが、「では試合に参ったのか」「へえさようでごぜえます」「千葉道場と知って来たのか」「へえへえさようでごぜえます」「ふうん、そうか。いい度胸だな」「へえ、よい度胸でごぜえます」田舎者は臆面がない。

取り次ぎの武士は面白くなったか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からかう</span>ようにいい出した。「で、ご貴殿のご流名は？」「流名なんかありましねえ」「流名がない。それはそれは。してご貴殿のご姓名は？」「姓名の儀は千代千兵衛でがす」「アッハハハ、千代千兵衛殿か。いやこれはよいお名前だ」「どうぞ取り次いでおくんなせえ」「悪いことはいわぬ。帰った方がいい」「へえ、なぜでごぜえますな？」「なぜときくのか。ほかでもない、大先生は謹厳のお方、さようなことはなさらないが、若い血気の門弟衆の中には、<ruby><rb>悪</rb><rt>わる</rt></ruby>ふざけをなさるお方がある。うかうか道場などへ参って見ろ、なぶられたあげく<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られるぞ」「へえ、そいつはおっかないね」「おっかないとも、だから帰れ」「撲られるのは大嫌いだ」「好きな奴があるものか」「だからおいら撲られねえだ。おいらの方から撲ってやるだ」「呆れた奴だ。物もいえぬ」「だから取り次いでおくんなせえまし」「取り次ぐことは<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>りならぬよ」「ではどうしても出来ねえだか」「さようどうしても出来ないな」「ではしかたがねえ、帰るべえ」「その方がいい。安全だ」「その代り世間へいい触らすがいいか」「ナニいい触らす？　何をいい触らすのだ？」「千葉周作だ、北辰一刀流だと、大きな看板は上げているが、その実とんだ<ruby><rb>贋物</rb><rt>いかさまもの</rt></ruby>で、甲州の千代千兵衛に試合を望まれたら、おっかながって逢わなかったと、こういい触らしても文句あるめえな」

大胆なのか<ruby><rb>白痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>なのか？

これを聞くと取り次ぎの武士は、にわかにその眼を怒らせたが、「いやはやなんと申してよいか、田舎者と思えばこそ、事を分けて<ruby><rb>訓</rb><rt>さと</rt></ruby>してやったに、それが解らぬとは気の毒なもの。よしよしそれほど撲られたいなら、望みにまかせ取り次いでやろう。逃げるなよ、待っておれ」

こういい捨てて奥へはいったが、やがて笑いながらひっ返して来た。

「大先生はご来客で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そち</span>などにはお目にかかれぬ。しかし道場にはご<ruby><rb>舎弟</rb><rt>しゃてい</rt></ruby>様はじめ、お歴々の方が控えておられる。望みとあらば通るがよい」「へえ、有難う存じますだ」

で、田舎者は上がり込んだ。長い廊下を行き尽くすと、別構えの道場であった。カチ、カチ、カチ、というしないの音、鋭い掛け声も聞こえて来た。

「さあはいれ」といいながら、取り次ぎの武士がまずはいると、その後に続いて田舎者は、構えの内へはいっていった。見かすむばかりの大道場、<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>づくりの真新しさ、最近に建てかえたものらしい。向かって正面が審判席で、その左側の板壁一面に、撃剣道具がかけつらねてあり、それと向かい合った右側には、門弟衆の記名札が、ズラとばかり並んでいた。審判席にすわっているのは、四十年輩の立派な人物、外ならぬ千葉定吉で、周作に取っては実の弟、文武兼備という点では周作以上といわれた人、この人物であったればこそ、北辰一刀流は繁昌し、千葉道場は栄えたのであった。性来無慾<ruby><rb>恬淡</rb><rt>てんたん</rt></ruby>であったが、その代りちょっと<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>好きであった。で、田舎者の姿を見るとニヤリと笑ったものである。その左側に控えていたのは、周作の嫡子<ruby><rb>岐蘇太郎</rb><rt>きそたろう</rt></ruby>、また右側に坐っていたのは、同じく次男栄次郎であって、文にかけては岐蘇太郎、武においては栄次郎といわれ、いずれも高名の人物であった。岐蘇太郎の横には平手造酒が坐し、それと並んで坐っているのは、他ならぬ観世銀之丞であった。打ち合っていた門弟達は、田舎者の姿へ眼をつけると、にわかにクスクス笑い出したが、やがてガラガラと<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>を引くと、<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>りへ行って道具を脱ぎ、左右の破目板を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に負い、ズラリと二列に居流れた。

「他流試合希望の者、召し連れましてござります」

取り次ぎの武士は披露した。

すると定吉は<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にっこり</rt></ruby>としたが「千代千兵衛とやら申したな」

「へえ、千代千兵衛と申しますだ。どうぞハアこれからはお心易く、<ruby><rb>願</rb><rt>ねげ</rt></ruby>えてえものでごぜえます」田舎者はこういうと、一向平気で頭を下げた。<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>が太いのか<ruby><rb>白痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>なのか、にわかに判断がつき兼ねた。

「で、流名はないそうだな？」

「へえ、そんなものごぜえません」

「当道場の掟として門弟二、三人差し出すによって、まずそれと立ち合って見い」

「へえ、よろしゅうごぜえます。どうぞ<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby>強そうなところをお出しなすってくだせえまし」

「秋田<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>、お出なさい」

「はっ」というと秋田藤作、不承不承に立ち出でた。相手は阿呆の田舎者である、勝ったところで名誉にならず、負けたらそれこそ<ruby><rb>面汚</rb><rt>つらよご</rt></ruby>しだ。一向<ruby><rb>栄</rb><rt>はえ</rt></ruby>ない試合だと思うと、ムシャクシャせざるを得なかった。そのうっぷんは必然的に、田舎者の上へ洩らされた。「こん畜生め覚えていろ、厭というほどぶん撲ってやるから」で手早く道具を着けると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>を持って前へ出た。これに反して田舎者は、さも大儀だというように、ノロノロ道具を着けだしたが、恐ろしく長目の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>を握ると、ノッソリとばかり前へ出た。双方向かい合ってしないを合わせた。

礼儀だから仕方がない、「お手柔らかに」と藤作はいった。

「へえ、よろしゅうごぜえます」これが田舎者の挨拶であった。まるで頼まれでもしたようであった。

「よろしゅうござるとは呆れたな。悪くふざけた田舎者じゃねえか。よし脳天をどやしつけ、きな臭い匂いでも嗅がせてやろう」藤作は益〻気を悪くしたが、「ヤッ」というと立ち上がり、一足引くと青眼につけた。と相手の田舎者は、同時にヌッと立ち上がりはしたが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>とも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すん</span>ともいわばこそ、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ一足引くでもなく、ぼやっとして立っていた。位取りばかりは上段であった。

合点のいかない剣脈である

「へ、<ruby><rb>生意気</rb><rt>なまいき</rt></ruby>な、上段と来たな。今に見ていろひっくり返してやるから」じっと様子を窺った。相手の全身は隙だらけであった。「ざまア見やがれ田舎者め。構えも屁ったくれもありゃしない。全身隙とはこれどうだ。といってこれが機に応じて、ヒラリ構えが変るというような、そんなしゃれた玉ではなし、フフン、こいつ<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>かな。他流試合とは恐れ入る。かまうものかひっ叩いてやれ」

ツト一足進んだ時、どうしたものか田舎者は、ダラリと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>を下げてしまった。

「もしもしお尋ね致しますだ」こんな事をいい出した。「ちょっくらお尋ね致しますだよ」

「なんだ？」といったが秋田藤作すっかり気勢を削がれてしまった。試合の最中しないを下ろし、ちょっくら待てという型はない。無作法にも事を欠く、うんざりせざるを得なかった。

「何か用か、早くいえ」

「あのお<ruby><rb>前様</rb><rt>めえさま</rt></ruby>の<ruby><rb>位所</rb><rt>くらいどころ</rt></ruby>は、どこらあたりでごぜえますな？」

「剣道における位置の事か？」「へえ、さようでごぜえます」「拙者はな、切り紙だ」「切り紙というとビリッ<ruby><rb>尻</rb><rt>けつ</rt></ruby>だね」「無礼なことをいうものではない」「さあそれじゃやりやしょう」

そこで二人はまた構えた。千葉道場の切り紙は、他の道場での目録に当たった。もう立派な腕前であった。その藤作が怒りをなし、<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>を使い出したので、随分荒い試合となった。「ヤ、ヤ、ヤ、ヤ……ヤ、ヤ、ヤ、ヤ」こう気合を畳み込んで、藤作は前へ押し出して行ったが、相手の田舎者は微動さえしない。同じ場所に立っていた。一歩も進まず一歩も退かない。盤石のような姿勢であった。そうして全身隙だらけであった。しかも上段に振り冠っていた。

見当のつかない試合ぶりであった。

「胴！」とばかり藤作は、風を切って打ち込んだ。ポーンといういい音がした。

「<ruby><rb>擦</rb><rt>かす</rt></ruby>った！」と田舎者は嘲笑った。審判席からも声が掛からない。で藤作はツト退いた。じっと双方睨み合った。

「小手！」とばかり藤作は、再度相手の急所を取った。

「擦った」と田舎者はまたいった。嘲けるような声であった。審判席からは声が掛からない。

またも双方睨み合った。

「面！」と一<ruby><rb>声</rb><rt>せい</rt></ruby>藤作が、相手の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ飛び込んだとたん、

「野郎！」という劇しい声がした。その瞬間に藤作は、床の上へ尻餅を突いた。プーンときな臭い匂いがして、眼の前をキラキラと火花が飛び脳天の具合が少し変だ。「ははあ、おれは打たれたんだな」……そうだ！　十二分にどやされたのであった。

「勝負あった」と審判席から、はじめて定吉の声がした。

「参った」といったものの秋田藤作は、どうにも合点がいかなかった。いつ撲られたのかわからなかった。

審判席では定吉が、眉をしかめて考え込んだ。

「これは普通の田舎者ではない。十分腕のある奴らしい。道場破りに来たのかも知れない。それにしても不思議な剣脈だな。動かざること山の如しだ。それにただの一撃で、相手の死命を制するという、あの素晴らしい意気組は、尋常の者には出来ることではない。……<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>な相手は出されない。……観世氏、お出なさい」

「はっ」というと観世銀之丞は物臭さそうに立ち上がった。

観世銀之丞引き退く

観世銀之丞は能役者であった。それが剣道を学ぶとは、ちょっと不自然に思われるが、そこは変り者の彼のことで、一門の反対を押し切って、千葉道場へは五年前から、門弟としてかよっていた。天才にありがちの熱情は、剣道においても<ruby><rb>英発</rb><rt>えいはつ</rt></ruby>し、今日ではすでに上目録であった。千葉道場での上目録は、他の道場での免許に当たり、どうして堂々たるものであった。もっとも近来憂鬱になり、物事が退屈になってからは、剣道の方も冷淡となり、道場へ来る日も<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>となったが、今日は珍らしく顔を見せていた。

道具を着けると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>を取り、静かに前へ進み出た。で田舎者もうずくまり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>とを突き合わせた。と田舎者はまたいい出した。

「へえ、ちょっくらおきき致しますだ」「ああ何んでもきくがいい」「お前様の<ruby><rb>位所</rb><rt>くらいどころ</rt></ruby>はえ？」「おれはこれでも上目録だよ」「へえさようでごぜえますかな。千葉道場での上目録は、大したものだと聞いているだ。さっきの野郎とは少し違うな」「これこれ何んだ。口の悪い奴だ」「それじゃおいらもちっとばかり、本気にならずばなるめえよ」「一ついいところを見せてくれ」

「やっ」と銀之丞は立ち上がった。ヌッと田舎者も立ち上がり、例によって例の如く、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>を上段に振り冠ったが、姿勢が何んとなく変であった。「おや」と思って銀之丞は、相手の構えを吟味した。突然彼は、「あっ」といった。それと同時に審判席から、同じく、「あっ」という声がした。声の主は平手造酒だ。二人の驚いたのはもっともであった。千代千兵衛となのる田舎者は、足を前後へ構えずに、左右へウンと踏ん張っていた。銀之丞は考えた。

「ははあ、さては<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あいつ</span>であったか。北国街道の芒原で、甚三殺しの富士甚内を、不思議な構えでおどしつけた、博徒姿の旅人があったが、ははあさては<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こいつ</span>であったか。それにしてもいったい何者であろう？」……で、じっと様子を見た。相変らず全身隙だらけであった。胴も取れれば小手も取れた。決して習った剣道ではなかった。それにもかかわらず彼の体からは、不思議な力がほとばしり、こっちの心へ逼って来た。<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>も向けられない殺気ともいえれば、戦闘的の生命力ともいえた。とまれ恐ろしい力であった。

「<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>からいったら問題にもならぬ。おれの方がずっと上だ。しかし打ち合ったらおれが負けよう。ところで平手とはどうだろう？　いや平手でも覚束ない、この勝負はおれの負けだ。負ける試合ならやらない方がいい」こう考えて来た銀之丞は、一足足を後へ引いた。そうして「参った」と声をかけた。道具を解くとわるびれもせず、元の席へ引き上げて行った。

「どうした？」と造酒はそれと見ると、気づかわしそうにささやいた。「お前の手にも合わないのか？」

すると銀之丞は<ruby><rb>頷</rb><rt>うな</rt></ruby>ずいたが、「恐ろしい意気だ。途方もない気合いだ」「追分で逢った博徒のようだが」「うん、そうだ、あいつだよ」「待ったなし流とかいったようだな」「うん、そうそう、そんなことをいったな」「ポンポンガラガラ打ち合わずに、最初の一撃でやっつける、つまりこういう意味らしいな」「うん、どうやらそうらしい」「足を左右に踏ん張ったでは、進みもひきもならないからな。<ruby><rb>居所攻</rb><rt>いどころぜ</rt></ruby>めという奴だな」「そうだ、そいつだ、居所攻めだ。胴を取られても小手を打たれても、<ruby><rb>擦</rb><rt>かす</rt></ruby>った擦ったといって置いて、敵が<ruby><rb>急</rb><rt>あせ</rt></ruby>って飛び込んで来るところを、真っ向から拝み打ち、ただ一撃でやっつけるのだ」「観世、おれとはどうだろう？」「平手、お前となら面白かろう。しかし、あるいは覚束ないかもしれない」

いわれて造酒は厭な顔をしたが、田舎者の方をジロリと見た。と田舎者は相も変らず、ノッソリとした様子をして、道場の真ん中に立っていた。たいして<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れてもいないらしい。審判席では定吉先生が、さも驚いたというように、長い<ruby><rb>頤髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>扱</rb><rt>しご</rt></ruby>いていた。眉の間に皺が寄っていた。神経的の皺であった。

「秋田藤作は駄目としても、観世銀之丞は上目録だ、それが一合も交わさずに、引き退くとは驚いたな。非常な腕前といわなければならない。しかしどうも不思議だな、そんな腕前とは思われない」

平手造酒と田舎者

定吉は思案に余ってしまった。「これはおれの眼が曇ったのかもしれない。どうにも太刀筋が解らない。とまれこやつは道場破りだな。このままでは帰されない。もうこうなれば仕方がない。平手造酒を出すばかりだ」

で彼は厳然といった。「平手氏、お出なさい」

平手造酒は一礼した。それから悠然と立ち上がった。

千葉門下三千人、第一番の使い手といえば、この平手造酒であった。師匠周作と立ち合っても、三本のうち一本は取った。次男栄次郎も名人であったが、造酒と立ち合うと互角であった。しかしこれは造酒の方で、多少手加減をするからで、造酒の方が<ruby><rb>技倆</rb><rt>うで</rt></ruby>は上であった。定吉に至ると剣道学者で、故実歴史には通じていたが、剣技はずっと落ちていた。

由来造酒は尾張国、清洲在の<ruby><rb>郷士</rb><rt>ごうし</rt></ruby>の<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>で、放蕩無頼且つ酒豪、手に余ったところから、父が心配して江戸へ出し、伯父の屋敷へ預けたほどであった。しかしそういう時代から、剣技にかけては優秀を極め、ほとんど<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>の域にあった。それを見込んだのが周作で、懇々身上を戒めた上己が塾へ入れることにした。爾来<ruby><rb>研磨</rb><rt>けんま</rt></ruby><ruby><rb>幾星霜</rb><rt>いくせいそう</rt></ruby>、千葉道場の四天王たる、<ruby><rb>庄司</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>弁吉、<ruby><rb>海保</rb><rt>かいほ</rt></ruby>半平、井上八郎、塚田幸平、これらの<ruby><rb>儕輩</rb><rt>せいはい</rt></ruby>にぬきんでて、実に今では一人武者であった。すなわち<ruby><rb>上泉伊勢守</rb><rt>こうずみいせのかみ</rt></ruby>における、塚原小太郎という位置であった。もしこの造酒が打ち込まれたなら、もう外には出る者がない。厭でも周作が出なければならない。

それほどの造酒が定吉の<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>で、不思議な田舎者と立ち合おうため、己が席から立ったのであった。場内しいんと静まり返り、しわぶき一つする者のないのは、正に当然な事であろう。そのおかし<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>な田舎者の態度に、ともすれば笑った門弟達も、今は悉くかたずを呑み、不安の瞳を輝かせていた。

その息苦しい気分の中で、造酒は悠然と道具を着けた。彼の心には今や一つの、成算が湧いていたのであった。「恐ろしいのは一撃だ。そうだはじめの一撃だ。これさえ避ければこっちのものだ」彼は<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かにこう思った。「あせってはいけないあせってはいけない。こっちはあくまで冷静に、水のように澄み返ってやろう。そうして相手をあせらせてやろう。一ときでも二ときでも、ないしは一日でも待ってやろう。つまり二人の<ruby><rb>根比</rb><rt>こんくら</rt></ruby>べだ。根が尽きて気があせり、構えが崩れた一<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>を、一気に勝ちを制してやろう。相手の不思議なあの構えを、突き崩すのが急務である」

やがて道具を着けおわると、別誂えの太く長く、持ち<ruby><rb>重</rb><rt>おも</rt></ruby>りのする<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>を握り、静かに道場の真ん中へ出た。両膝を曲げ肘を張り、ズイと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>を床上へ置いた。それと見ると田舎者も、肘を張り両膝を曲げ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>の先を食っつけたが、「ちょっくらおたずね致しますだ」例のやつをやり出した。「平手様とおっしゃったようだが、そうすると平手造酒様だかね？」

「さよう、拙者は平手造酒だ」

「へえ、さようでごぜえますか。では皆伝でごぜえますな」「さよう、拙者は皆伝だ」「お前様さえ打ち込んだら、こっちのものでごぜえますな。ほかに出る人はねえわけだね。ヤレ有難い、とうとう漕ぎつけた。それじゃおいらも一生懸命、精一杯のところを出しますべえ」

二人はしばらくおしだまった。ややあって同時に立ち上がった。造酒はピタリと中段につけ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>の端から真っ直ぐに、相手の両眼を睨みつけた。例によって田舎者は、二本の足を左右へ踏ん張り、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>を上段に振り冠ったが、これまた<ruby><rb>柄頭</rb><rt>つかがしら</rt></ruby>から相手の眼を、<ruby><rb>凝然</rb><rt>ぎょうぜん</rt></ruby>と見詰めたものである。

突き出された一本の鉄扇

木彫りの像でも立てたように、二人はじっと静まっていた。双方無駄な掛け声さえしない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>の先さえ動かない。息使いさえ聞こえない。

根気比べだと決心して、さて立ち上がった平手造酒は、水ももらさぬ構えをつけ、相手の様子を窺ったが、さっき銀之丞が感じたようなものを、やはり感ぜざるを得なかった。かつてこれまで経験したことのない、殺気といおうか圧力といおうか、ゾッとするような凄い力が、相手の体全体から、脈々として逼って来た。……「不思議だな」と彼は思った。「何んだろういったいこの力は？　いったい何から来るのだろう？」……どうもはっきりわからない。わからないだけに気味が悪い。で、なお造酒は考えた。

「あいつはまるであけっぱなしだ。全身まるで隙だらけだ。それでいてやっぱり打ち込めない。不可解な力が邪魔をするからだ。それに反してこのおれは、あらゆる神経を働かせ、あらゆる万全の策を取り、全力的に構えている。おれの方が歩が悪い。おれの方が早く<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>る。おれの方が根負けする」

こう思って来て平手造酒は、動揺せざるを得なかった。「あぶない！」と彼はその<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>、自分の心を<ruby><rb>緊張</rb><rt>ひきし</rt></ruby>めた。「考えてはいけない考えてはいけない。無念無想、一念透徹、やっつけるより仕方がない」

で彼は自分の構えを、一層益〻かたくした。場内<ruby><rb>寂然</rb><rt>せきぜん</rt></ruby>と声もない。

窓からさし込む陽の光さえ、思いなしか暗く見えた。

こうして時が過ぎて行った。

造酒にとってはその「時」が、非常に長く思われた。それが彼には苦痛であった。「打ち込んで行くか、打ち込まれるか、どうかしなければいたたまれない。とてもこのままでは持ち<ruby><rb>耐</rb><rt>こた</rt></ruby>えられない……といって向こうからは打ち込んでは来まい。ではこっちから打ち込まなければならぬ」

で造酒は構えたまま、ジリッと一足前へ出た。そうしてしばらく持ち耐えた。そうして相手の様子を見た。しかるに相手は動かない。凝然として同じ位置に、同じ姿勢で突ったっていた。これが常道の剣道なら、一方が進めば一方が退き、さらに盛り返し押し返すか、出合い頭を打って来るか、ないしはズルズルと押しに押され、つめに詰められて取りひしがれるか、この三つに帰着するのであるが、そこは変態の剣道であった。一足ジリリと詰め寄せられても、田舎者は微動さえしない。そこでやむを得ず造酒の方で、せっかく詰めたのを後戻りした。一歩後へひいたのであった。でまた二人は<ruby><rb>位取</rb><rt>くらいど</rt></ruby>ったまま、木像のように動かない。しかしやはり造酒にとっては、この「動かない」ということが、どうにも苦しくてならなかった。で一足引いて見た。相手を<ruby><rb>誘</rb><rt>おび</rt></ruby>き出すためであった。しかるに相手は動かない。左右に踏ん張った二本の足が、鉄で造られた<ruby><rb>雁股</rb><rt>かりまた</rt></ruby>のように、<ruby><rb>巌然</rb><rt>がんぜん</rt></ruby>と床から生え上がっていた。前へも進まず後へも退かず、真に徹底した<ruby><rb>居所攻</rb><rt>いどころぜ</rt></ruby>めだ。で、やむを得ず造酒の方で、一端ひいたのを寄り戻した。同じ位置に復したのであった。「もうこれ以上は仕方がない。心気<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れて仆れるまで、ここにこうして立っていよう」造酒は<ruby><rb>捨鉢</rb><rt>すてばち</rt></ruby>の決心をした。こうして二人は場の真ん中に、数百人の眼に見守られながら、静まり返って立っていた。

と気味の悪い幻覚が、造酒の眼に見えて来た。相手が上段に構えている、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>の先へポッツリと、<ruby><rb>真紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみ</span>が現われたが、それが見る間に流れ出し、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>を伝い<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>を伝い、柄頭まで伝わった。と思うとタラタラと、床の上へ流れ落ちた。他でもない血潮であった。ハッと思って見直す、とそんなしみなどはどこにもない。「何んだ馬鹿な！」と思う間もなく、またもや同じ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>の先へ、ポッツリ真紅のしみが出来、それがタラタラと流れ下った。プンと生臭い匂いがした。とたんにグラグラと眼が廻った。同時に造酒は、「しまった！」と思った。「打たれる！　打たれる！　いよいよ打たれる！」

果然相手の千代千兵衛の眼が面越しに火のように輝いた。と同時に武者顫いがその全身を突き通った。

「今、打たれる！　今、打たれる！」造酒は我知らず眼を閉じた。しかし不思議にも相手の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しない</span>が、体のどこへも落ちて来ない。彼はカッと眼を開けた。彼と敵とのその間に、一本の鉄扇が突き出されていた。太い指がガッシリと、鉄扇の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>を握っていた。指に生えている細い毛が、幽かに幽かに顫えていた。造酒は鉄扇の持ち主を見た。

忽ち崩れた金剛の構え

中肉中<ruby><rb>丈</rb><rt>ぜい</rt></ruby>で色白く、眉目清秀で四十一、二、頬にも鼻下にも髯のない、一個<ruby><rb>瀟洒</rb><rt>しょうしゃ</rt></ruby>たる人物が、黒紋付きの羽織を着、白縞の袴を裾長に穿き、悠然とそこに立っていた。千葉周作成政であった。

「む」というと平手造酒は、構えを崩して後へ引いた。と、周作は造酒に代り、田舎者千代千兵衛へ立ち向かった。

田舎者の上段は、なお崩れずに構えられた。それへ向けられた鉄扇は、一見いかにも弱々しく、そうして周作の表情には、鋭さを示す何物もなかった。

静かであり冷ややかであった。しかるに<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>その顔へ、何かキラリと閃めいた。その時初めて田舎者の金剛不動の構えが崩れ、両足でピョンと<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ飛んだ。そうしてそこで持ち<ruby><rb>耐</rb><rt>こら</rt></ruby>えようとした。しかしまたもや周作の顔へ、ある感情が閃めいた。とまた千代千兵衛は後へさがった。そうしてそこで持ち耐えようとした。しかし三度目の感情が、周作の顔へ閃めいた時、千代千兵衛の構えは全く崩れ、タ、タ、タ、タ、タ、タと<ruby><rb>崩砂</rb><rt>なだれ</rt></ruby>のように、広い道場を<ruby><rb>破目板</rb><rt>はめいた</rt></ruby>まで、後ろ向きに押されて行った。そうしてピッタリ破目板へ背中をくっつけてしまったのである。

追い詰めて行った周作は、この時初めて「カッ」という、凄じい気合いを一つ掛けたが、それと同時に鉄扇を、グイとばかりに手もとへひいた。するとあたかも糸でひかれた、<ruby><rb>繰</rb><rt>あやつ</rt></ruby>り人形がたおれるように、そのひかれた鉄扇に連れ、千代千兵衛のからだはパッタリと、前のめりにたおれたが、起き上がることが出来なかった。全く気絶したのであった。

周作は<ruby><rb>穏</rb><rt>おだや</rt></ruby>かに微笑したが、審判席へ歩み寄った。舎弟定吉が席を譲った。その席へ悠然と坐った時、道場一杯に充ちていた、不安と鬱気とが一時に、快然と解けるような思いがした。

「平手、平手」と周作は呼んだ。「今の勝負、お前の負けだ」

「私もさよう存じました」造酒は額の汗を拭き、「恐ろしい相手でございます」

「これはな、別に不思議はない。実戦から来た必勝の手だ」

「実戦から来た必勝の手？　ははあさようでございますかな」

「というのは外でもない」周作はにこやかに笑ったが、「泰平の世の有難さ、わしの門弟は数多いが、<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>の稲妻、血汐の雨、こういう修羅場を経て来たものは、恐らく一人もあるまいと思う。いやそれはない筈だ。しかるにそこにいる千代千兵衛という男、その男だけは経て来ている。恐らくこやつは博徒であろう。それも名のある博徒であろう。彼らの言葉で<ruby><rb>出入</rb><rt>でい</rt></ruby>りというが、百本二百本の長脇差が、縦横に乱れる喧嘩の場を、<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って来た奴に相違ない。それも一回や二回ではない。幾度となく潜って来た奴だ。それは自然と様子で知れる。そこだ、陸上の水練の、役に立たないというところは！　胴をつけ面を冠り、しないを取っての試合など、例えどんなに上手になっても、一端戦場へ出ようものなら、雑兵ほどの役にも立たぬ。残念ではあるが仕方がない、これは実にやむを得ぬことだ」

こういって周作は、またにこやかに笑ったが、

「もうそろそろよいだろう。どれ」というと立ち上がり、田舎者の側へ寄って行った。この時までも<ruby><rb>緊</rb><rt>しっか</rt></ruby>りと、しないを握っていた十本の指を、まず順々に解いて行き、やがてすっかり解いてしまうと、上半身を抱き起こした。やっ！　という澄み切った気合い、ウーンという呻き声が、田舎者の口から洩れたかと思うと、すぐムックリと起き上がった。別にキョロキョロするでもなく、一渡り<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻したが、周作の姿へ眼を止めると、「参った！」といって手を突いた。

「どうだな気分は？　苦しくはないかな？」

気の毒そうに周作はきいた。

「へい、お<ruby><rb>肚</rb><rt>なか</rt></ruby>が空きやした」これが田舎者の挨拶であった。

「おお空腹か、そうであろう、誰か<ruby><rb>湯漬</rb><rt>ゆづ</rt></ruby>けを持って来い。……さてその間にきく事がある。もう本名を明かせてもよかろう」

<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>の神様でございます

「へい、もうこうなりゃ仕方がない、何んでも申し上げてしまいますよ」「産まれはどこだ？　これから聞きたい」「へい、上州でございます」「うん、そうして上州はどこだ？」「<ruby><rb>佐位郡</rb><rt>さいごおり</rt></ruby><ruby><rb>国定村</rb><rt>くにさだむら</rt></ruby>で」

すると周作は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いたが、「ではお前は忠次であろう？」

「へい、図星でございます。国定忠次でございます」

これを聞くと道場一杯、押し並んでいた門弟の口から、「ハーッ」というような声が洩れた。これは驚いた声でもあり、感動をした声でもあった。当時国定忠次といえば、関東切っての大侠客、その名は全国に鳴り渡っていて、「国定忠次は鬼より怖い、ニッコリ笑えば人を斬る」と唄にまで唄われていたものである。その忠次だというのであるから、ハーッと驚くのももっともであろう。

「おお、そうか、忠次であったか、わしもおおかたその辺であろうと、実は眼星をつけていたが、いよいよそうだと明かされて見ると、妙に懐かしく思われるな。それはそうとさて忠次、よい構えを見つけたな」

「へい、これは恐れ入ります。ほんの自己流でございまして、お恥ずかしく存じます」

「剣の終局は自己流にある。一派を編み出し一流を開く、すべて自己の発揮だからな。いつその構えは発明したな？」

「島の伊三郎を討ち取りました時から、自得致しましてございます」

「しかし忠次その構えでは、お前も随分切られた筈だが？」

「仰せの通りでございます」こういうと忠次は右腕を捲った。五、六ヵ所の<ruby><rb>切傷</rb><rt>きず</rt></ruby>があった。「かような有様でございます」それから彼は左腕を捲った。七、八ヵ所の<ruby><rb>切傷</rb><rt>きず</rt></ruby>があった。「この通りでございます」それから彼はスッポリと、両方の肌を押し脱いだ。胸にも肩にも左右の胴にも、ほとんど無数の太刀傷があった。「ご覧の如くでございます」それから彼は肌を入れた。

「ううむなるほど、見事なものだな」周作は感心してうなずいた。

「へい、わっちが待ったなし流で、じっと構えておりますと、相手の野郎はいい気になって、ちょくちょく切り込んで参ります。それをわっちは平気の平左で、切らして置くのでございますな。ビクビクもので切って来る太刀が、何んできまることがございましょう。皮を切るか肉にさわるか、とても骨までは達しません。そこがつけ目でございます。そうやって充分引きつけて置いて、いよいよ気合いが充ちた時、それこそ待ったなしでございますな、一撃にぶっ潰すのでございます」忠次はここでニヤリとした。

「お前と立ち合った人間の中、これは恐ろしいと思った者が、一人ぐらいはあったかな？」「へい、一人ございました」「おおそうか、それは誰だな？」「そこにいらっしゃる平手様で」「ナニ平手？　ふうん、そうか」「何んと申したらよろしいやら、細い鋭い針のようなものが、遠い所に立っている。とてもそこまでは手が届かない。こんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に思われました。<ruby><rb>技芸</rb><rt>わざ</rt></ruby>の恐ろしさをその時初めて、感じましてございますよ」「しかし試合はお前の勝ちだ」「それはさようかも知れませぬ。わっちの構えは技芸だけでは、破られるものではございません」

すると周作は<ruby><rb>莞爾</rb><rt>にっこり</rt></ruby>としたが、「ではなぜおれに破られたな？」

すると忠次はいずまいを正し、「へい、それは先生には、人間でないからでございますよ」「人間でない？　それでは何か？」

「<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>のひじりでございます。剣の神様でございます。先生にじっとつけられました時、これまでかつて感じたことのない、畏敬の心が湧きました。そうして先生のお姿も、また鉄扇もなんにも見えず、ただ先生のお眼ばかりが、二つの鏡を懸けたように、わっちの眼前で<ruby><rb>皎々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>と、輝いたものでございます。とたんにわっちの構えが崩れ、あの通りの有様に気絶してしまったのでございます」

忠次ほどの豪傑も、こういってしまうと額の汗を、改めて拭ったものである。

国定忠次の置き土産

上州の侠客国定忠次が、江戸へ姿を現わしたのは、八州の手に追われたからで、上州から信州へ逃げ、その信州の追分で、甚三殺しと<ruby><rb>関係</rb><rt>かかりあ</rt></ruby>い、その後ずっと甲州へ隠れ、さらに急流富士川を下り、東海道へ出現し、江戸は将軍お膝元で、かえって燈台<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>暗しというので、大胆にも忍んで来たのであった。千葉道場へやって来たのも、深い魂胆があったからではなく、自分の<ruby><rb>我無沙羅</rb><rt>がむしゃら</rt></ruby>な「待ったなし流」を、見て貰いたいがためであった。

「千葉道場におりさえしたら、八州といえども手を出すまい。忠次ここで遊んで行け」

千葉周作はこういって勧めた。

「へい、有難う存じます」忠次はひどく喜んで、二十日あまり逗留した。と云っていつまでもおられない、いわゆる<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しい体だったので、やがて<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を乞うことにした。

「お前達はずんで餞別をやれ」千葉周作がこういったので、門弟達は包み金を出した。それが積もって五十両、それを持って国定忠次は、日光指して旅立って行った。

さて、これまでは無難であったが、これから先が無難でない。ある日造酒が銀之丞へいった。

「観世、お前はどう思うな？」藪から棒の質問であった。

「どう思うとは何を思うのだ？」銀之丞は変な顔をした。

「国定忠次のあの太刀筋、素晴らしいとは思わぬかな」「うむ、随分素晴らしいものだな」「ところであれは習った技ではない」「それは先生もおっしゃった」「人を斬って鍜えた技だ」「それも先生はおっしゃった筈だ」「ところが我々はただの一度も、人を斬った経験がない」「幸か不幸か一度もないな」「そこで腕前はありながら、忠次風情にしてやられたのだ」「いやはや<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>の悪い話ではあったぞ」「それというのもこのわれわれが、人を斬っていないからだ」「残念ながら<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>の通りだ」「観世、お前も残念と思うか？」「ナニ、大して残念でもないな」「貴公はそういう人間だ」「アッハハハ、仰せの通り」「張り合いのない手合いだな」「では大いに残念と行くか？」

すると造酒はニヤリとしたが、

「観世、今夜散歩しよう」

「散歩？　よかろう、どこへでも行こう。……が、散歩してどうするのだ？」

すると造酒はまた笑ったが、

「観世、貴公は知っているかな、当時江戸の三塾なるものを」

「ふざけちゃいけない、ばかな話だ、三児といえども知っているよ。まず第一が千葉道場よ、つづいて斎藤弥九郎塾、それから桃井春蔵塾だ。それがいったいどうしたのだえ？」「その桃井の内弟子ども、吉原を騒がすということだ」「そういう噂は聞いている。無銭遊興をやるそうだな」

「だからこいつらは悪い奴だ」「義理にもいいとはいわれないな」「こんな手合いは叩っ切ってもいい」

これを聞くと銀之丞は、造酒のいう意味がはじめてわかった。で彼は声をひそめ、

「平手、辻斬りをする気だな」

すると造酒はうなずいて見せたが、「厭なら遠慮なくいうがいい」

銀之丞は考え込んだ。「平手、面白い、やっつけようぜ！」

「それじゃ貴公も賛成か」「平手、おれはこう思うのだ。自分が何より大事だとな。おれの根深いふさぎの虫は、容易なことでは癒らない。海外密行か入牢か、そうでなければ人殺し、こんな事でもしなかったら、まず癒る見込みはない。……で、おれは思うのだ、構うものかやっつけろとな。……それも町人や百姓を、金のために殺すのではない。桃井塾の門弟といえば、こっちと同じ剣道家だ。殺したところで罪は浅い。それにうかうかしようものなら、あべこべにこっちがしとめられる。いってみれば真剣勝負だ。構うものかやっつけよう」「いい決心だ。ではやるか」

「うんやろう！　散歩しよう」「アッハハハ、散歩しよう」

血気にまかせて二人の者は、その夜フラリと家を出た。

江戸市中人心<ruby><rb>恟々</rb><rt>きょうきょう</rt></ruby>

その翌日のことであるが、江戸市中は動揺した。日本堤の土手の上で、恐ろしい辻斬りがあったからであった。殺されたのは二人の武士で、桃井塾の門弟の中でも、使い手の方だということであったが、一人は袈裟掛け一人は腰車、いずれも一刀でしとめられていた。

「桃井塾の乱暴者、結句殺されていい気味だ」と、人々はかえって喜んだが、ただ喜んでいられないような、恐ろしい事件がもう一つ起こった。その同じ夜に谷中の辻で、掛け取り帰りの商家の手代が、これも一刀にしとめられ、金を五十両取られたのであった。

「おい観世、少し変だな」

その翌日道場の隅で、二人顔を合わせた時、造酒は銀之丞へささやいた。「我々がやったのは二人だけだのに、死人が三人とはおかしいではないか」

「うん、少しおかしいな」銀之丞は首をかしげ、「我々以外にもう一人、辻斬りをやったものがあるらしいな」「そうだ、どうやらあるらしい。それにしても不都合だな。殺したあげく金を取るとは」

二人はちょっと厭な顔をした。

「それはそうとオイ観世、人を斬ってどんな気持ちがしたな？」「平手、何んともいえなかったよ。まず一刀切りつけたね、するとカッと血が燃えたものだ。と思った次の瞬間には、スーッとそいつが冷え切ったものだ。頭が一時に澄み返り、シーンとあたりが寂しくなった。その時おれは思ったよ、生き甲斐がある生き甲斐があるとな」「ふうむなるほど、面白いな」「で、お前はどうだったな？」「真の手応え！　こいつを感じたよ」「ふうむなるほど、面白いな」

翌晩またも辻斬りがあった。場所は上野の山下で、殺されたのは二人の武士、やっぱり桃井の塾弟子であった。しかるにもう一人隅田堤で、町家の主人が殺されていた。

それからひきつづいて十日というもの、毎晩三人ずつ殺された。二人はいつも武士であったが、一人はおおかた町人で、そうしてきっと金を取られていた。

鼓賊の禍いにかててくわえて、辻斬り沙汰というのであるから、江戸の人心は<ruby><rb>恟々</rb><rt>きょうきょう</rt></ruby>として、夜間の通行さえ途絶えがちになった。

こういう物騒なある晩のこと、面白い事件が勃発した。いやそれはむしろ面白いというより、奇怪な事件といった方がよい。町人一人に武士五人、登場人物は六人であった。素晴らしい事件ではあったけれど、また非常に複雑を極めた、微妙な事件ではあったけれど、秘密の間に行われたためか、市民達はほとんど知らなかった。捕物帳にも載せてなければ、奉行所の記録にも記されてない。これは<ruby><rb>疎漏</rb><rt>そろう</rt></ruby>といわなければならない。

で、その晩のことであるが、みすぼらしい一人の<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらい</rt></ruby>が、下谷池ノ端をあるいていた。登場人物の一人であった。すると向こうから老武士が来た。登場人物の二人目であった。

二人は事もなく擦れ違おうとした。「あいやしばらくお待ちくだされ」とたんに老武士が声を掛けた。

すると、みすぼらしい侍は、そのまま静かに足をとめたが、「何かご用でござるかな？」

「用と申すではござらぬが、物騒のおりからかかる深夜に、どこへお越しなされるな？」

「これはこれは異なお尋ね、深夜にあるくが不審なら、なぜそこもともおあるきなさる」みすぼらしい侍はしっぺ返したが、これはいかにももっともであった。

「いやナニそのように仰せられては、角が立って変なもの、とがめ立てしたが悪いとなら、拙者幾重にもおわび致す」老武士は言葉を改めた。

流名取り上げ破門の<ruby><rb>宣言</rb><rt>せんこく</rt></ruby>

「ナニ、それほどの事でもない」みすぼらしい侍は笑ったが、「実をいえばお言葉通り、世間物騒のおりからといい、かような深夜の一人歩きは、好ましいことではござらぬが、実は拙者は余儀ない理由で、物を尋ねているのでな」

「ははあさようでござるかな。して何をお尋ねかな？」

「ちと変った尋ねものでござる」

「お差し支えなくばお明かしを」

「いやそれはなりませぬ」

「さようでござるかな、やむを得ませぬ。……実はな、拙者もそこもとと同じく、物を尋ねておるのでござるよ。ちと変った尋ねものをな」

「似たような境遇があればあるものだ」

「さよう似たような境遇でござる」

二人はそっと笑い合った。

「ご免くだされ」「ご免くだされ」事もなく二人は別れたものである。

で、老武士はゆるゆると、<ruby><rb>不忍池</rb><rt>しのばずのいけ</rt></ruby>に沿いながら、北の方へあるいて行った。二町余りもあるいたであろうか、彼は<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>のように突っ立った。

「聞こえる聞こえる鼓の音が！」

果然鼓の音がした。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、微妙極まる音であった。

「うむ、とうとう見つけたぞ！　今度こそは逃がしはせぬ！　小梅で聞いた鼓の音！　おのれ鼓賊！　こっちのものだ！」

音を慕って老武士は、松平出雲守の邸の方へ、脱兎のように走って行った。

これとちょうど同じ時刻に、例のみすぼらしい侍は、黒門町を歩いていたが、何か考えていると見えて、その顔は深く沈んでいた。

と、行く手の闇の中へ、二つの人影が現われたが、しずしずとこっちへ近寄って来た。登場人物の三人目と、登場人物の四人目であった。近付くままによく見ると、ふたりながら武士であった。

双方ゆるゆる行き過ぎようとした。とたんに事件が勃発した。

と云うのはほかでもない。行き過ぎようとした刹那、その三番目の登場人物が、声も掛けず抜き打ちに、みすぼらしい侍へ切り付けたのであった。その太刀風の鋭いこと、闇をつんざいて紫電一条斜めに走ると思われたが、はたしてアッという悲鳴が聞こえた。しかし見れば意外にも、切り込んで行った武士の方が、大地の上に倒れていた。そうしてみすぼらしい侍が、その上を膝で抑えていた。驚いた四番目の登場人物が、すかさず<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と切り込んで行ったが、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に掛かった真の気合い、カーッという恐ろしい声に打たれ、タジタジと二、三歩後へ退った。間髪を入れず息抜き気合い、エイ！　という声がまた掛かった。と四番目の人物は、バッタリ大地へ膝をついた。この間わずかに一分であった。後は<ruby><rb>森然</rb><rt>しん</rt></ruby>と静かであった。と、みすぼらしい侍は、膝を起こして立ち上がったが、それからポンポンと塵を払うと、憐れむような含み声で、

「殺人剣活人剣、このけじめさえ解らぬような、言語に絶えた大馬鹿者、天に代って成敗しようか。いやそれさえ刀の穢れ、このまま見遁がしてやるほどに、好きな所へ行きおろう。……但し、北辰一刀流は、今日限り取り上げる。師弟の<ruby><rb>誼</rb><rt>よし</rt></ruby>みももうこれまで、千葉道場はもちろん破門、立ち廻らば<ruby><rb>用捨</rb><rt>ようしゃ</rt></ruby>せぬぞ」

そのままシトシトと行き過ぎてしまった。実に堂々たる態度であった。二人の武士は一言もなく、そのあとを見送るばかりであった。

と、一人が<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>をした。「オイ観世、ひどい目にあったな？」

「大先生とは知らなかった。平手、これからどうするな？」

「うむ」といって思案したが、「いい機会だ、旅へ出よう。そうして一修行することにしよう」

「武者修行か、それもいいな。ではおれもそういうことにしよう。但しおれは剣はやめだ。おれはおれの本職へ帰る。能役者としての本職へな」

意外、意外、また意外！

さて一方老武士は、ポンポンと鳴る鼓を追って、ドンドンそっちへ走って行ったが、松平出雲守の邸前まで来ると、音の<ruby><rb>有所</rb><rt>ありか</rt></ruby>が解らなくなった。はてなと思って耳を澄ますと、やっぱり鼓は鳴っていた。どうやら西の方で鳴っているらしい。でそっちへ走って行った。そこに立派な屋敷があった。松平備後守の屋敷であった。しかしそこまで行った時には、もう音は聞こえない。しかしそれより南の方角で、<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かにポンポンと鳴っていた。

「素早い奴だ」と舌を巻きながら、老武士は走らざるを得なかった。式部少輔榊原家の、裏門あたりまで来た時であったが、はじめて人影を見ることが出来た。<ruby><rb>尾行</rb><rt>つ</rt></ruby>ける者ありと知ったのでもあろう、もう鼓を打とうとはせず、その人影は走って行った。その走り方を一眼見ると、

「しめた！」と老武士は思わずいった。

「横あるきだ横あるきだ！」

その横歩きの人影は、見る見る煙りのように消えてしまった。

「よし、あの辺は<ruby><rb>今生院</rb><rt>こんじょういん</rt></ruby>だな。東へ抜けると板倉家、西へ突っ切ると賀州殿、これはどっちも行き止まりだ。さて後は南ばかり、あっ、そうだ湯島へ出たな！」

考える間も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とし</span><ruby><rb>遅</rb><rt>おそ</rt></ruby>しで、老武士は近道を突っ走った。

「これ、ばか者、気をつけるがいい、何んだ、うしろからぶつかって来て」

こう怒鳴りつける声がした。湯島天神の境内であった。怒鳴ったのは侍で、ほかならぬ観世銀之丞であった。<ruby><rb>各〻</rb><rt>おのおの</rt></ruby>好む道へ行こう、お前は武者修行へ出るがよい、おれは本職の能役者へ帰ると、こういって親友の平手造酒と、黒門町で手を分かつと、麹町のやしきへ戻ろうと、彼はここまで来たのであった。その時やにわにうしろから、ドンとぶつかったものがあった。

「これ何んとか挨拶をせい。黙っているとは不都合な奴だ」

いいいい<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻した。するとどこにも人影がない。

「あっ」と銀之丞は<ruby><rb>飽気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>に取られた。

「これは不思議、誰もいない」

気がついて自分の手もとを見た。そこでまた彼は「あっ」といった。空身であった彼の手が、変な物を持っていた。

「なんだこれは？」とすかして見たが、三度彼は「あっ」といった。今度こそ本当の驚きであった。彼の持っている変な物こそ、ほかでもない鼓であった。それも尋常な鼓ではない。かつて追分で盗まれた、家宝少納言の鼓であった。

「むう」思わず唸ったが、そのままじっと考え込んだ。

と、また人の足音がした。ハッと思って振り返った<ruby><rb>眼前</rb><rt>めさき</rt></ruby>へ、ツト現われた老武士があった。

「<ruby><rb>卒爾</rb><rt>そつじ</rt></ruby>ながらおたずね致す」

「何んでござるな、ご用かな？」場合が場合なので銀之丞は、身構えをしてきき返した。

「只今ここへ怪しい人間、確かに逃げ込み参った筈、貴殿にはお見掛けなされぬかな？」

「見掛けませぬな。とんと見掛けぬ」

「それは残念、ご免くだされ」

いい捨て向こうへ駆け抜けようとしたが、幽かな常夜燈の灯に照らし、銀之丞の持っている鼓を見ると、飛燕のように飛び返って来た。

銀之丞の手首をひっ掴むと、「曲者<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>った……鼓！　鼓！」

「黙れ！」と銀之丞は一喝した。「鼓がどうした？　拙者の鼓だ！」

「何んの鼓賊め！　その手には乗らぬ！　神妙に致せ！　<ruby><rb>逃</rb><rt>の</rt></ruby>がしはせぬぞ！」

「鼓賊とは何んだ！　おおたわけ！　拙者は観世銀之丞、柳営<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おとめ</span>芸の家門だぞ！」

これを聞くと老武士は、にわかに後へ下がったが、

「ナニ観世銀之丞とな。誠でござるかな、どれお顔を……あっ、いかにも銀之丞殿だ！」

「<ruby><rb>掛</rb><rt>か</rt></ruby>け<ruby><rb>値</rb><rt>ね</rt></ruby>はござらぬ。銀之丞でござる。……ところで貴殿はどなたでござるな？」

河中へ飛び込んだその<ruby><rb>早業</rb><rt>はやわざ</rt></ruby>

「拙者は郡上平八でござる」

「おお玻璃窓の平八老か」

「それに致してもその鼓は？」

「家宝少納言の鼓でござる」

「では、ご紛失なされたという？」

「偶然手もとへ戻りましてな」

「ははあ」といったが平八は、深い絶望に<ruby><rb>墜落</rb><rt>おちい</rt></ruby>った。「うむ残念、鼓賊めに、また一杯食わされたそうな」

「ご用がなくばこれで失礼」銀之丞は会釈した。

「ご随意にお引き取りくださいますよう」こういったまま平八は、首を垂れて考え込んだ。

銀之丞と別れた平手造酒は、両国の方へあるいて行った。

「下総の侠客笹川の繁蔵は、おれと一面の識がある。ひとまずあそこへ落ち着くとしようか」こんな事を考え考え、橋なかばまで歩いて来た。

と、悲鳴が聞こえて来た。「人殺しい！」と叫んでいた。向こう詰めから聞こえるのであった。造酒は大小を<ruby><rb>束</rb><rt>そく</rt></ruby>に掴むと、<ruby><rb>韋駄天</rb><rt>いだてん</rt></ruby>のように走って行った。

見ると覆面の侍が、切り斃した町人の懐中から、財布を引き出すところであった。

「わるもの！」と叫ぶと、<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を揮い、造酒はやにわにうってかかった。「おお、さては貴様だな！　辻斬りをして金を奪う、武士にあるまじき卑怯者は！」

すると覆面の侍は、抜き持っていた血刀を、ズイとばかりに突き出したが、

「貴様も命が惜しくないそうな」……そういう声には鬼気があった。その構えにも鬼気があった。そうして造酒にはその侍に、覚えがあるような気持ちがした。剣技も確かに抜群であった。

油断はならぬと思ったので、造酒はピタリと拳を付けた。北辰一刀流直正伝拳隠れの固めであった。

それと見て取った覆面の武士は、にわかに刀を手もとへひいたが、それと同時に左の手が、橋の欄干へピタリとかかった。一呼吸する隙もない、その体が宙へうき、それが橋下へ隠れたかと思うと、ドボーンという水音がした。水を潜ってにげたのであった。

「恐ろしい<ruby><rb>早業</rb><rt>はやわざ</rt></ruby>、まるで鳥だ」造酒は思わず舌を巻いたが、「しかしこれであたりが付いた。ううむ、そうか！　きゃつであったか」

玻璃窓の平八と別れると、観世銀之丞は夜道を急ぎ、邸の裏門まで帰って来た。と、門の暗闇から、チョコチョコと走り出た小男があった。

「観世様、お久しぶりで」その小男はいったものである。

「お久しぶりとな？　どなたでござるな？」

「へい、<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>でございます」ヌッと顔を突き出した。

「おお、お前は千三屋ではないか」

「<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>に千三屋でございます」

「なるほどこれは久しぶりだな」

「へい、久しぶりでございます」

「して何か用事でもあるのか？」

「ちと、ご相談がございましてな」

「ナニ相談？　どんな相談だな？」

「鼓をお譲りくださいまし」千三屋はいったものである。

すると銀之丞は吹き出してしまった。それから皮肉にこういった。

「貴様、実に悪い奴だ。鼓を盗んだのは貴様だろう？」「いえ、拝借しましたので」「永い拝借があるものだな」「長期拝借という奴で」「黙って持って行けば泥棒だ」「だからお返し致しました」

「ははあ、湯島の境内で、おれにぶつかったのは貴様であったか？」「その時お返し致しました」

千三屋はケロリとした。

捨てるによって拾うがよい

「是非欲しいというのなら、譲ってやらないものでもないが、お前のような旅商人に、鼓が何んの必要があるな？」銀之丞は不思議そうに訊いた。

「是非欲しいのでございますよ」千三屋は熱心であった。「命掛けで欲しいので」

「いよいよもっておかしいな。この鼓で何をする気だ？」

「ちょっとそいつは申されませんなあ」当惑をした様子であった。

「いえないものなら聞きたくもない」銀之丞はそっけなく「その代り鼓も譲ることは出来ぬ」<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り戸を開けてはいろうとした。

「おっとおっと観世様、そいつアどうも困りましたなあ」「ではわけを話すがいい」「ようがす。思い切って話しましょう」「おお話すか、では聞いてやろう」「その代り<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>を話しましたら、鼓は譲って戴けましょうね」「胸に落ちたら譲ってやろう」「へえなるほど、胸に落ちたらね。……どうもこいつア困ったなあ。胸に落ちる話じゃねえんだから。……ええままよ話しっちめえ、それで譲って戴けなかったら、ナーニもう一度盗むまでだ。……世間の<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>を手に入れるために、鼓が必要なのでございますよ」「世間の黄金を手に入れるため？」「ハイ、江戸中の<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>をね。ナニ江戸だけじゃ事が小せえ。日本中の<ruby><rb>黄金</rb><rt>かね</rt></ruby>を掻き集めたいんで」「鼓が何んの用に立つな？」「名鼓は<ruby><rb>金気</rb><rt>きんき</rt></ruby>を感じます。ポンポンポンポンと打っていると、自然と黄金のあり場所が、わかって来るのでございますよ」

これを聞くと銀之丞は、しばらくじっと打ち案じていたが、

「さては貴様は鼓賊だな」忍び音で叱咜した。

「へい、お手の筋でございます」

「ううむ、そうか、鼓賊であったか」

「相済みませんでございます」

「おれに<ruby><rb>謝</rb><rt>あやま</rt></ruby>る必要はない」銀之丞は笑ったが、「どうだ鼓賊、儲かるかな？」

「一向不景気でございます」

「そうでもあるまい。もとでいらずだからな」

「が、その代り命掛けで」

「だから一層面白いではないか」

「これはご挨拶でございますな。相変らずの観世様で」

「ところでお前は知っているかな、あの有名な『玻璃窓』が、お前の後を追っかけているのを」

「へい、今夜も追っかけられました」

「貴様、今に取っ捉かまるぞ」

「いい勝負でございます」

「なに、いい勝負だ、これは面白い。で、どっちが勝つと思うな？」

「とにかく今は私の勝ちで。……あすのことは判りませんなあ。……ところで鼓は頂けますまいかな？」

「さあそれだ」と銀之丞は、皮肉な笑を浮かべたが、「鼓賊であろうがあるまいが、おれには何んのかかわりもない。金を盗もうと盗むまいと、それとておれには風馬牛だ。ところで少納言の鼓だが、たとえ名器であるにしても、一旦賊の手に渡ったからは、いわば不浄を経て来たものだ。伝家の宝とすることは出来ぬ。なあ千三屋、そんなものではないか」

「へい、そんなものでございましょうな」

「と云ってお前へ譲ることは出来ぬ」

「え、どうでもいけませんかな」

「ただしおれには不用の品だ。捨てるによって拾うがよい」

鼓をひょいと地へ置くと、ギーと潜り戸を押し開き、銀之丞は入って行った。

もう夜は明けに近かった。その明け近い江戸の夜の、静かな夜気を驚かせて、またも鼓が鳴り出したのは、それから間もなくのことであった。ポンポンポンポンと江戸市中を、町から町へと伝わって行った。

弟を呼ぶ兄の声

追分油屋掛け行燈に

浮気ご免と書いちゃない

清涼とした追分節が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へさき</span>の方から聞こえて来た。

ここは外海の九十九里ヶ浜で、おりから秋の日暮れ時、天末を染めた<ruby><rb>夕筒</rb><rt>ゆうづつ</rt></ruby>が、浪<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>かな海に映り、物寂しい景色であったが、一隻の帆船が銚子港へ向かって、<ruby><rb>駸々</rb><rt>しんしん</rt></ruby>として<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>っていた。

その帆船の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へさき</span>にたたずみ、遙かに海上を眺めながら、追分を唄っている<ruby><rb>水夫</rb><rt>かこ</rt></ruby>があった。

北山時雨で越後は雨か

この雨やまなきゃあわれない

続けて唄う追分が、長い尾をひいて消えた時、

「うまい」という声が聞こえて来た。で、ヒョイと振り返って見た。若い侍が立っていた。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>なかなか上手だな」<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>早速な性質と見えて、その侍は話しかけた。

「どこでそれほど仕込んだな？」

「これはこれはお武家様、お褒めくだされ有難い仕合わせ」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>は<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>に会釈したが、「自然に覚えましてございますよ」

「自然に覚えた？　それは器用だな」こういいいい侍は、帆綱の上へ腰を掛けたが、「実はなわしにはその追分が、特になつかしく思われるのだよ」

「おやさようでございますか」

「というのは他でもない。その文句なりその節なり、それとそっくりの追分を、わしは信州の追分宿で聞いた」

すると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>は笑い出したが、「甚三の追分でございましょうが」

「これは不思議、どうして知っているな？」

「信州追分での歌い手なら、私の兄の甚三が、一番だからでございます」

「お前は甚三の弟かな？」

「弟の甚内でございます」

「そうであったか、奇遇だな」侍はちょっと懐かしそうに、「いや甚三の弟なら、追分節はうまい筈だ」

「ところがそうではなかったので、唄えるようになりましたのは、このごろのことでございます」

「というのはどういう意味だな？」侍は<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な顔をした。

「はい、こうなのでございます。ご承知の通り<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>の兄は、あの通り上手でございますのに、どうしたものかこの私は、<ruby><rb>音</rb><rt>おん</rt></ruby>に出すことさえ出来ないという、不器用者でございましたところ、さああれはいつでしたかな、月の良い晩でございましたが、ぼんやり船の<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>に立ち、<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>のことや兄のことを、思い出していたのでございますな。すると不意にどこからともなく、兄の声が聞こえて参りました」

「ふうんなるほど、面白いな」

「いえ面白くはございません。気味が悪うございました。『弟ヤーイ』と呼ぶ声が、はっきり聞こえたのでございますもの」

「弟ヤーイ、うんなるほど」

「『お前のいったこと<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>ったぞヤーイ』と、こうすぐ追っ駈けて聞こえて参りました」

「それはいったいどういう意味だ？」

「どういう意味だかこの私にも、解らないのでございますよ。とにかく大変悲しそうな声で、それを聞くと私のからだは、総毛立ったほどでございます。と、どうでしょうそのとたんに、私の口から追分が、流れ出たではございませんか」

「不思議だなあ、不思議なことだ」

「不思議なことでございます。いまだに不思議でなりません。これは冗談にではございますが、よく私は兄に向かって、こういったものでございます。『兄貴はきっとおれの声まで、<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>って行ったに<ruby><rb>違</rb><rt>ちげ</rt></ruby>えねえ。だからそんなにうめえのだ』とね。で、私はその時にも、これは兄貴めがおれの声を、返してくれたに相違ねえと、こう思ったものでございますよ」

「それはあるいはそうかも知れない」若い侍はまじまじと、かこの顔を見守ったが、「いつ頃お前は追分を出たな？」

「今年の夏でございます」

「その後一度も帰ったことはないか？」

初めて知った甚三の死

「はい一度もございません」

「……だから何んにも知らないのだ。……悪いことはいわぬ一度帰れ。それも至急帰るがいい」

「はい、有難う存じます。実は私は思いたって、<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>を出て海へ来たからには、海で一旗上げるまでは、追分の土は踏むまいと、心をきめておりましたが、そんな事があって以来、兄のことが気にかかり、どうも心が落ち着きませんので、この頃一度帰ってみようかと、思っていたところでございますよ」「それは至急に帰るがいい。……恐らくお前の驚くようなことが、持ち上がっているに相違ない」

「へえ、さようでございましょうか？」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>甚内は疑わしそうに、侍の顔を見守った。

「わしはな、事情を知っているのだ。しかしどうも話しにくい。話したらお前はびっくりして、気を取り乱すに違いない。それが気の毒でいい兼ねる」

「それではもしや兄の身の上に、変事でもあったのではございますまいか？」

甚内はさっと顔色を変えた。

「それそういう顔をする。だからいい<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>いといったのだ。……変事があったら何んとする？」

「変事に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よりけり</span>でございますが、もしや人にでも殺されたのなら、そやつ活かして置きません」

「ふうむ、そうか」と若い侍は、それを聞くと眼をひそめたが、「さては予感があったと見える」

「ええ、予感とおっしゃいますと？」

「お前の兄が何者かに、深い怨みでも受けていて、そやつに殺されはしないかと……」

「飛んでもないことでございます。何んのそんなことがございますものか。兄は善人でございます。よい人間でございます。私と<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>って<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しくもあり、宿の人達には誰彼となく、可愛がられておりました。……だが、ここにたった一つ……」

「うむ、たった一つ、どうしたな？」

「心配なことがございました」

「恋であろう？　お北との恋！」

「おお、それではお武家様には、そんなことまでご存知で？」

「その恋が悪かったのだ」

「ではやっぱり私の兄は……あの女郎のお北めに？」

「無論お北も同腹だが、真の殺し手は他にある」

「それじゃ兄はどいつかに、殺されたのでござんすかえ？」

甚内はワナワナ顫え出した。

「助けてやろうと我々二人、すぐに後を追っかけたが、一足違いで間に合わなかった」

「嘘だ嘘だ！　殺されるものか！」

「凄いような美男の武士……」

「凄いような美男の武士？」思わず甚内は<ruby><rb>鸚鵡返</rb><rt>おうむがえ</rt></ruby>した。

「定紋は<ruby><rb>剣酸漿</rb><rt>けんかたばみ</rt></ruby>だ。……」

「定紋は剣酸漿！」

「お北の新しい恋男だ。……」

「ううむ、そいつが殺したんだな！」

「その名を富士甚内といった」

「それじゃそいつが<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>だね！」

「おおそうだ、尋ね出して討て！」

「お武家！」

というと甚内は、侍の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を引っ掴んだ。

「う、う、嘘じゃあるめえな⁉」

「嘘をいって何んになる！」

「う、う、嘘じゃあるめえな⁉」

「…………」

「嘘じゃねえ、嘘じゃねえ、ああ嘘じゃなさそうだ！」

ガックリ甚内は首を垂れたが、しばらくは顔を上げようともしない。

この間も船は<ruby><rb>帆駛</rb><rt>ほばし</rt></ruby>って行った。<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>の<ruby><rb>夕筒</rb><rt>ゆうづつ</rt></ruby>も次第にさめ、海は<ruby><rb>漸次</rb><rt>だんだん</rt></ruby>暗くなった。帆にぶつかる風の音も、夜に入るにしたがって、次第にその音を高めて来た。

<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>が討ちとうござります

と、甚内は顔を上げた。

「お武家様」といった声には、強い決心がこもっていた。「よく教えてくださいました。厚くお礼を申します。いえもう兄はおっしゃる通り、殺されたに相違ございますまい。可哀そうな兄でございます。死んでも死に切れはしますまい。また私と致しましても、諦めることは出来ません。その侍とお北とを、地を掘っても探し出し、殺してやりとうございます。ハイ、<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>が討ちたいので。……そこでお尋ね致しますが、そいつら二人は今もなお、追分にいるのでございましょうか？」

「いや」と侍は気の毒そうに、「甚三を殺したその晩に、二人ながら立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた」

「それはそうでございましょうな。人を一人殺したからには、その土地にはおられますまい。じゃそいつらは<ruby><rb>行方不明</rb><rt>ゆくえふめい</rt></ruby>で？」

「さよう、<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆきがた</rt></ruby>は不明だな」

「それは残念でございますなあ」見る見る甚内は打ち<ruby><rb>悄</rb><rt>しお</rt></ruby>れた。

しかし侍は元気付けるように、「恐らくは江戸にいようと思う」

「え、江戸におりましょうか？」

「江戸は浮世の掃き<ruby><rb>溜</rb><rt>だめ</rt></ruby>だ。無数の人間が渦巻いている。善人もいれば悪人もいる。心掛けある悪党はそういう所へ隠れるものだ」「へえ、さようでございますかな」「また自然の順序からいっても、まず江戸から探すべきだ」「へえ、さようでございますかな」「で、江戸から探してかかれ」

「ハイ、有難う存じます。それではお言葉に従いまして、江戸を探すことに致します」

侍はにわかに<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>わしそうに、

「ところで剣道は出来るのか？」

「え？」と甚内は訊き返した。

「剣術だよ。人を切る<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>だ」

「ああ剣術でございますか。いえ、やったことはございません」

「ははあ、少しも出来ないのか。それはどうも心もとない。……おおそうだいいことがある。お前江戸へ参ったら、千葉先生をお訪ね致せ。神田お玉ヶ池においでなさる、日本一の大先生だ。よく事情をお話し致し、是非お力を乞うようしろ。先生は尋常なお方ではない。堂々たる大丈夫だ。場合によっては先生ご自身、助太刀をしてくださるかもしれない」

「何から何まで有難いことで。そういう訳でございましたら、何を置いても千葉先生とやらを、お訪ね致すでございましょう」甚内は嬉しそうに頭を下げた。

「それがよい、是非訪ねろ。……そこでお前に頼みがある。千葉先生におあいしたら、一つこのように<ruby><rb>伝言</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>てくれ。大馬鹿者の観世銀之丞も、あの晩以来改心し、真人間になりました。そうして自分の本職を、いよいよ練磨致すため、犬吠崎へ参りました。岸へ打ち寄せる大海の<ruby><rb>濤</rb><rt>なみ</rt></ruby>、それへ向かって声を練り、二年三年のその後には、あっぱれ日本一の芸術家となり、再度お目にかかります。その時までは剣の方は、一切手にも触れませぬと、こう先生へ申し上げてくれ」

「やあ、それじゃあなた様は、観世様でございましたか？」さも驚いたというように、甚内は声を筒抜かせた。

「さよう、わしは観世だが、お前わしを知っているかな？」

「知っているどころじゃございません。本陣油屋でお調べになった、あの素敵もねえ鼓の手を、どんなにか喜んで死んだ兄は、お聞きしたか知れません」

「そういわれれば思い出す」銀之丞はその顔へ、寂しい笑いを浮かべたが、「おれが鼓を調べさえすれば、甚三も追分を唄ったものだ。おれと競争でもするようにな。……もうその追分も聞く事は出来ぬ」

いつかすっかり夕陽が消え、星が点々と産まれ出た。風は次第に勢いを強め、帆の鳴る音も凄くなった。

風雨を貫く<ruby><rb>謡</rb><rt>うたい</rt></ruby>の声

「オーイ甚内！」と呼ぶ声がした。「しけが来るぞヨー、帆を下ろせヨー」

「オーイ」と甚内はすぐ応じた。それから銀之丞へ会釈したが、「しけが来るようでございます。ちょっとご免を被ります」

いい捨てクルリと身を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるが</rt></ruby>えすと、兄の死を痛み悲しんでいた、もう今までの甚内ではない。熟練をした勇敢な、風浪と戦う<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>であった。

帆綱を握るとグイと引いた。ギーギーという音がして、左右に帆柱が<ruby><rb>揺</rb><rt>うご</rt></ruby>いたかと思うと、張り切った帆が弛んで来た。

「ヨイショヨイショ、ヨイショヨイショ！」

掛け声と共に<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り下ろした。

星が消えたと見る間もなく、ザーッと雨が落として来た。<ruby><rb>篠突</rb><rt>しのつ</rt></ruby>くような暴雨であった。<ruby><rb>雨脚</rb><rt>あまあし</rt></ruby>が乱れて<ruby><rb>濛気</rb><rt>もうき</rt></ruby>となり、その濛気が船を包み、一寸先も見えなくなった。<ruby><rb>轟々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>という凄じい音は、巻立ち狂う波の音で、キキー、キキーと物悲しい、<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>ぶような物の音は、船の<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>む音であった。空を仰げば黒雲湧き立ち、電光さえも加わった。凄じい暴風雨となったのであった。

「ヨイショヨイショ！　ヨイショヨイショ！」

その荒涼たる光景の中から、十数人の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>の声ばかりが、雄々しく勇ましく響いて来た。

乗客は悉く胴の間に隠れ、不安に胸を躍らしていた。ただ一人銀之丞ばかりが、船の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へさき</span>に突っ立っていた。

「ああいいな。勇ましいな」彼は呟いたものである。「自然の威力に比べては、何んて人間はちっぽけなんだろう？　だがいやいやそうでもないな、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>はどうだ！　あの姿は！」

銀之丞は武者揮いをした。

「自然の威力を突き破ろうと、ぶつかって行くあの力！　恐ろしい運命にヒタと見入り、刃向かって行くあの態度！　これが本当の人間だな！　ふさぎの虫も<ruby><rb>糸瓜</rb><rt>へちま</rt></ruby>もない！　あるものは力ばかりだ！　いいな、実にいい、生き甲斐があるな！」

嵐は益〻吹き募り、雨はいよいよ量を増した。所は名に負う九十九里ヶ浜、日本近海での難場であった。<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は暗く浪は黒く、時々白いものの閃めくのは、砕けた浪の<ruby><rb>穂頭</rb><rt>ほがしら</rt></ruby>であった。

「ヨイショヨイショ！　ヨイショヨイショ！」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>どもの呼ぶ掛け声は、益〻勇敢に響き渡った。しかし人力には限りがあり、自然の暴力は無限であった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>は次第に弱って来た。船がグルグルと廻り出した。

「もういけねえ！　もういけねえ！」

悲鳴の声が聞こえて来た。

真っ黒の大浪がうねりをなし、小山のように寄せたかと思うと、船はキリキリと舞い上がった。

「助けてくれえ！」

と叫ぶのは、胴の間にいる乗客達であった。

と、この時、朗々たる、<ruby><rb>謡</rb><rt>うたい</rt></ruby>の声が聞こえて来た。

神か鬼神かこの中にあって、悠々と謡をうたうとは！　暴風暴雨を貫いて、その声は鮮かに聞こえ渡った。

「誰だ誰だ謡をうたうのは！」

「<ruby><rb>偉</rb><rt>えれ</rt></ruby>えお方だ！　偉えお方だ！」

「偉えお方が乗っておいでになる！　船は助かるぞ助かるぞ！」

「ヨイショヨイショ！　ヨイショヨイショ！」

ふたたび<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>の声は盛り返した。その声々に<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬき</rt></ruby>んでて、謡の声はなおつづいた。

船が銚子へ着いたのは、その翌日のことであった。

「主知らずの別荘」の別荘番

「オイオイ若いの。オイ若いの」

〽かくばかり経高く見ゆる世の中に、羨ましくも澄む月の、出汐をいざや汲もうよ……

「オイオイ若いの。オイ若いの」

〽影はずかしき我が姿、忍び車を引く汐の……

「うなっては困る。うなっては困る」

「誰もうなってはいないではないか」

「お前の事だ。うなっては困る」

「おれは何もうなってはいない」

「今までうなっていたじゃないか」

〽おもしろや、馴れても須磨の夕まぐれ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あま</span>の呼び声かすかにて……

「あれ、いけねえ、またうなり出した」

〽沖に小さき<ruby><rb>漁</rb><rt>いさ</rt></ruby>り舟の、影<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かなる月の顔……

「やりきれねえなあ、うなっていやがら」

〽仮りの姿や友千鳥、<ruby><rb>野分</rb><rt>のわき</rt></ruby>汐風いずれも<ruby><rb>実</rb><rt>げ</rt></ruby>に、かかる所の秋なりけり、あら心すごの夜すがらやな……

「オイオイ若いの。困るじゃねえか」

「なんだ貴様。まだいたのか」

「お前がうなっているからよ」

「解らない奴だ。うなるとは何んだ。これはな謡をうたっているのだ」

「ははあ、そいつが謡ってものか」

「めったに聞けない名人の謡だ。後学のために謹聴しろ」

「あれ、あんなことをいっていやがる。自分で自分を名人だっていやがる」

「アッハッハッハッそれが悪いか」

「なんと<ruby><rb>自惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れの強い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わろ</span>だ」

「アッハッハッハッ、自惚れに見えるか。……さて、もう一度聞かせてやるかな」

「オットオットそいつあいけねえ。勘弁してくんな、おれが叱られる」

「おかしな奴だな。誰に叱られる？」

「旦那によ、旦那殿によ」

「なぜ叱られる。何んの理由で？」

「やかましいからよ。うなるのでな」

「ははあ、それでは謡のことか」

「うん、そうとも、他に何がある」

「我がままな奴だな。こういってやれ。ここは銚子獅子ヶ岩、向こうは荒海太平洋だ。あたり近所に人家はない。謡おうとうなろうと勝手だとな。その旦ツクにいってやれ」

「うんにゃ、駄目だ。おれが叱られる」

「よかろう。勝手に叱られるさ」

「おれが困るよ。だから頼む。……第一声が<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>り過ぎらあ。<ruby><rb>洞間声</rb><rt>どうまごえ</rt></ruby>っていう奴だからな」

「洞間声だって？　こいつは助からぬ。アッハッハッハッ、いや面白い」

「面白くはねえよ。面白いものか。叱られて何んの面白いものか」

「よっぽど解らずやの旦那だな」

「フン、何んとでもいうがいいや」

「いったい誰だ？　お前の旦那は？」

「お金持ちだよ。大金持ちだ」

「金があっても趣味がなければ、馬や牛と大差ないな」

厳重を極めた別荘普請

「だがお前の主人というのは、いったいどこに住んでるのか？」

「お前さんそいつを知らねえのか」

「知らないとも、知る訳がない」

「だが、やしきは知ってる筈だ」

「お前の主人のやしきをな？」

「うんそうさ、有名だからな」

「いいや、おれはちっとも知らない」

「そんな筈はねえ、きっと知ってる」

「おかしいな。おれは知らないよ」

「獅子ヶ岩から半町北だ」

「獅子ヶ岩から半町北と？」

「<ruby><rb>近来</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>普請に取りかかったやしきだ」

「や、それじゃ『<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>知らずの別荘』か？」

「そうれ、ちゃアんと知ってるでねえか」

「その別荘なら知ってるとも」

「それがおれの主人の巣だ」

「ふうん、そうか。やっと解った」

「随分有名な<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>だろうが？」

「銚子中で評判の邸だ」

「それがおれの主人の邸だ」

「そこでお前にきくことがある。何んと思ってあんな普請をした？」

「あんな普請とはどんな普請だ？」

「まるで<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>の構えではないか」

「…………」

「厚い石垣、高い土塀、たとえ大砲を打ちかけても、壊れそうもない厳重な門、海水をたたえた深い堀、上げ下げ自由な鉄の釣り橋、え、オイまるで砦じゃないか」

「おれの知ったことじゃねえ」

「で、主人はいつ来たのだ？」

「うん、主人はずっと<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>からよ……そうさ今から二月ほど前から、こっそりあそこへ来ているんだ」

「ほほう、そうか、それは知らなかった」

「ところが他のご家族達も、二、三日中には越して来るのだ」

「それで家族は多いのか？」

「うん、奥様とお嬢様と、坊様と召使い達だ」

「では『主知らずの別荘』が、いよいよ主を迎えた訳だな」

「そうかもしれねえ。うん、そうだ」

「ところで主人の身分は何んだ？」

「主人の身分か？　主人の身分はな……いやおれは何んにも知らねえ」

「ははあ<ruby><rb>隠</rb><rt>かく</rt></ruby>すつもりだな」

「おれは何んにも知らねえよ」

「で、お嬢様は<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>かな？」

「おれは何んにも知らねえよ」

「いよいよ隠すつもりだな」

「おれはちっとばかりしゃべり過ぎたからな」

「ところでお前は何者だな？」

「おれは何んにも知らねえよ」

「ふざけちゃいけない、馬鹿なことをいうな」

「ああおれか、別荘番だよ」

「うん、そうか、別荘番か。『主知らずの別荘』の別荘番だな」

「別荘番の<ruby><rb>丑松</rb><rt>うしまつ</rt></ruby>ってんだ」

「噂は以前から聞いていたよ」

「おれは銚子では名高いんだからな」

「そうだ、お前は名高いよ。『主知らずの別荘』と同じにな」

「ところでお前さん、何者だね？」

「おれか、おれは能役者だ」

「ああ役者か、何んだ詰まらねえ」

「口の悪い奴だ。詰まらねえとは何んだ」

駕籠から覗いた美しい女

「姓名の儀は何んていうね？」

「姓名の儀はとおいでなすったな。姓名は観世銀之丞」

「ほほん、銀之丞か。役者らしい名だ。詰めていうと銀公だな。そうじゃアねえ、銀的だ」

「口の悪い奴だ。いよいよ口が悪い。が、まあ銀公でも銀的でもいい」

「お前さん、この土地へはいつ来たね？」

「二十日ほどまえだ。それがどうしたな」

「あッ、やっと思い出した。そうそうお前さんはお<ruby><rb>品</rb><rt>しな</rt></ruby>の婿だね」

「お品の婿だって。何んのことだ？」

「隠したって駄目だ。評判だからな」

「そうか、何んにしても有難い」

「厭な野郎だな、礼をいっていやがる」

「めでたそうな話だからよ」

「だってお前さん評判だぜ。お品の所へ江戸の役者が、<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>り<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>となって来たってな」

「お品の家の離れ座敷を、たしかにおれは借りているよ」

「ソーレ見たか、泥を吐きおった」

「そうしてお品はいい娘だ」

「甘え野郎だ、<ruby><rb>惚気</rb><rt>のろけ</rt></ruby>ていやがる」

「銚子小町だということだな」

「鼻持ちがならねえ、いろきちげえ！」

「だが、銚子の小町娘も、田の草を取ったり網を干したり、野良馬の手綱をひいたりしたでは、こいつどうも色消しだな」

「そいつはどうも仕方がねえ。この辺は半農半漁だからな。よっぽどいい所の娘っ子でも、漁にも出れば作もするよ」

「それはそうだ、<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>の通りだ。そうして実はお品にしてからが、その網干しの姿とか、ないしは草取りの姿の方が、ちんと澄ました姿より、よっぽど可愛く見えるからな」

「おやまたかい。また<ruby><rb>惚気</rb><rt>のろけ</rt></ruby>かい」

「どれ、そろそろ帰ろうかな、お品の顔でも見に帰るか」

「変な野郎だ。どう考えても変だ」

観世銀之丞と丑松とはこんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に親しくなった。

「銀之丞さま、銀之丞さま！」

お品が往来で呼んでいた。

「オイ何んだい、お品さん」

「出てごらんなさいよ、通りますよ」

そこで銀之丞は離れ座敷から、往来の方へ出て行った。

お品や、お品の両親や、近所の人達が<ruby><rb>道側</rb><rt>みちばた</rt></ruby>に立って、南の方を眺めていた。

とそっちから行列が、だんだんこっちへ近寄って来た。馬が五頭駕籠が十挺、それから小荷駄を背に負った、十数人の人夫達で、外ならぬ「別荘」の家族連であった。今<ruby><rb>移転</rb><rt>ひっこ</rt></ruby>して来たのであろう。

「ねえ、随分大勢じゃないか」「そうさね、随分大勢だね」「荷物だって沢山じゃないか」「そうさ随分沢山だなあ」「どんな人達だか見たいものだね」「お<ruby><rb>生憎様</rb><rt>あいにくさま</rt></ruby>、駕籠が閉じている」「これでマア別荘も賑やかになるね」「化物屋敷でなくなるわけさ」「それにしても妙だったね。十年このかたあの別荘には<ruby><rb>主人</rb><rt>ぬし</rt></ruby>って者がなかったんだからね」「ところが<ruby><rb>主人</rb><rt>ぬし</rt></ruby>が来るとなると、この通り大仰だ」「きっと主人はお金持ちで、あっちにもこっちにも別荘があるので、こんな<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>な別荘なんか、今まで忘れていたのかもしれない」「それにしてもおかしいじゃないか、あの厳重な普請の仕方は」「ちょうど敵にでも攻められるのを、防ぐとでもいったような構えだね」「黙って黙って、ソレお通りだ」

そこへ行列がやって来た。

すると三番目の駕籠の戸が、コトンと内から開けられて、美しい女の顔が覗いた。

そそられた銀之丞の心

銀之丞は何気なくそっちを見た。

女の視線と銀之丞の視線が、偶然一つに結ばれた。と、女はどうしたものか、<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かではあるがニッと笑った。「おや」と銀之丞は思いながらも、その笑いにひき込まれて、思わず彼もニッと笑った。

と、駕籠の戸がポンと閉じ、そのまま行列は行き過ぎた。

はなれへ戻って来た銀之丞は、空想せざるを得なかった。

「悪くはないな、笑ってくれたんだ！　だがいったいあの女は、おれをまえから知っていたのかしら？　そんな訳はない知ってる筈はない。……とにかく非常な<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>だった。さて、恋が初まるかな。こんな事から恋が初まる？　あり得べからざる事でもない」

その時庭の飛び石を渡り、お品がはなれへ近寄って来た。色は浅黒いが丸顔で、眼は大きく情熱的で、そうして処女らしく清浄な、すべてが<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しい娘であったが、手に茶受けの盆を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げ、にこやかに笑いながら座敷へ上がった。

「お茶をお上がりなさいませ」

「ああお茶かね、これは有難い。<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>そうなお茶受けがありますな」

「土地の名物でございますの」

「ふうむ、なるほど、<ruby><rb>海苔煎餅</rb><rt>のりせんべい</rt></ruby>」

お品はいそいそと茶を注いだ。

豪農というのではなかったが、お品の家は裕福であった。主人夫婦も人柄で、しかもなかなか侠気があり、銚子の五郎蔵とも親しくしていた。銀之丞が頼むと快く、すぐにはなれを貸したばかりか、万事親切に世話をした。ひとつは銀之丞が江戸で名高い、観世宗家の一族として、名流の子弟であるからでもあったが、主人嘉介が風流人で、茶の湯<ruby><rb>活花</rb><rt>いけばな</rt></ruby>の心得などもあり、謡の味なども知っていたからであった。

お品は一人子で十九歳、肉体労働をするところから、体は発達していたが、心持ちはほんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねんねえ</span>であった。一見銀之丞が好きになり、兄に仕える妹のように、絶えず銀之丞へつきまとった。

そういう家庭に包まれながら、本職の謡を悠々と、研究するということは、彼にとっては理想的であった。それに彼にはこの土地が、ひどく心に<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>っていた。漁師町であり農村であり、且つ港である銚子なる土地は、粗野ではあったが詩的であった。単純の間に複雑があり、「光」と「影」の交錯が、きわめて微妙に行われていた。もちろん、信州追分のような、高原的風光には乏しかったが、名に負う関東大平原の、一角を占めていることであるから、森や林や丘や耕地や、沼や川の風致には、いい尽くせない美があって、それが彼には好もしかった。

それに何より嬉しかったのは、太平洋の荒浪が、岸の<ruby><rb>巌</rb><rt>いわお</rt></ruby>にぶつかって、不断に鼓の音を立てる、その豪快な光景で、それを見るとしみじみと「男性美」の極致を感じるのであった。

そこで彼は毎夜のように、獅子ヶ岩と呼ばれる岩の上へ行って、声の練磨をするのであった。

彼は本来からいう時は、観世の家からは勘当され、また観世流の流派からは、破門をされた身分であった。でもし彼が凡人なら、そういう自家の境遇を、悲観せざるを得なかったろう。しかるに彼は悲観もせず、また絶望もしなかった。それは彼が天才の上に、一個文字通りの近代人だからで、真の芸術には門閥はないと、固く信じているからであった。

とはいえ彼とて人間であり、殊には烈々たる情熱においては、人一倍強い芸術家のことで、父母のことや友人のことは、忘れる暇とてはないのであった。わけても親友の平手造酒の、その後の消息に関しては、絶えず心を配っていた。

それに彼は生まれながら、都会人の素質を持っていて、江戸の華やかな色彩に対しては、あこがれの心を禁じ得なかった。

ところが今日はからずも、江戸めいた美しい女の顔を、駕籠の中に見たばかりか、その女から笑い掛けられたのであった。

彼の心が動揺し、それが態度に現われたのは、やむを得ないことであろう。

紙つぶてに書かれた「あ」の一字

「どう遊ばして、銀之丞様」

お品が不足そうに声をかけた。「考え込んでおりますのね」

「や、そんなように見えますかな」

「お菓子を半分食べかけたまま、手に持っておいでではありませんか」

「これはこれは、どうしたことだ」

「どうしたことでございますやら」

「おおわかった、これはこうだ」テレ隠しにわざと笑い、「あんまりお品さんが可愛いので、それで見とれていた次第さ」

「お気の毒様でございますこと」

「ナニ気の毒？　なぜでござるな？」

「なぜと申してもあなた様のお目は、わたしの顔などご覧なされず、さっきからお庭の石燈籠ばかり、ご覧になっているではございませんか」

「いや、それには訳がある」

「なんの訳などございますものか」

「なかなかもってそうでない。すべて燈籠の据え方には、造庭上の故実があって、それがなかなかむずかしい」

「おやおや話がそれますこと」

「<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>かしてはいけないまずお聞き、ところでそこにある石燈籠、ちとその据え方が違っている」

「オヤさようでございますか」いつかお品はひき込まれてしまった。

「茶の湯、活花、造庭術、風雅の道というものは、皆これ仏教から来ているのだ」

「まあ、さようでございますか」

「ところが中頃その中へ、武術の道が加わって、大分作法がむずかしくなった」

「まあ、さようでございますか」お品は益〻熱心になった。

「で、そこにある石燈籠だが、これはこの<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>と<ruby><rb>枝折戸</rb><rt>しおりど</rt></ruby>との、真ん中に置くのが本格なのだ」

「どういう訳でございましょう？」

「門の外から室の様子を、見られまいための<ruby><rb>防禦物</rb><rt>ぼうぎょぶつ</rt></ruby>だからで、横へ<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れては目的に合わぬ。ところがこれは逸れている。室の様子がまる見えだ」

「そういえばまる見えでございますね」

お品はすっかり感心して、銀之丞の話に耳傾けた。

それが銀之丞には面白かった。もちろん彼の説などは、<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>りどころのない<ruby><rb>駄法螺</rb><rt>だぼら</rt></ruby>なので、それをいかにももっともらしく、<ruby><rb>真顔</rb><rt>まがお</rt></ruby>を作って話すというのは、どうやらお品に弱点を握られ、今にもそこへさわられそうなのが、気恥ずかしく思われたからであった。つまりいい加減の<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>をいって、話を<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>らそうとするのであった。

「だから」と銀之丞はいよいよ<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に、「もしもここに敵があって、この部屋の主人を討とうとして、あの枝折戸の向こうから、鉄砲か矢を放したとしたら、ここの主人はひとたまりもなく、討たれてしまうに相違ない。すなわち防禦物の石燈籠が、横へ逸れているからだ」

「ほんにさようでございますね」

「しかるによって……」

といよいよ図に乗り、<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>り続けようとした銀之丞は、にわかにこの時「あッ」と叫び、グイと右手を宙へ上げた。間髪を入れずとんで来たのは、紙を巻いたいしつぶて！　さすがは武道にも勝れた彼、危いところで受けとめた。

「あれ」

と驚くお品を制し、銀之丞は紙をクルクルと解いた。

と、紙面にはただ一字「あ」という文字が記されてあった。

<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね橋と開けられた小門

その翌日のことであったが、銀之丞が一人野をあるいていると、どこからともなくいしつぶてが、例のように飛んで来た。受け取って見ると紙が巻いてあった。そうして紙にはただ一字「い」という文字が書いてあった。

最初のつぶてには「あ」と書いてあり、次のつぶてには「い」と書いてあった。二つ合わせると「あい」であった。「ハテ『あい』とはなんだろう？」思案せざるを得なかった。「これを漢字に当て<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めると『<ruby><rb>鮎</rb><rt>あい</rt></ruby>』ともなれば『<ruby><rb>哀</rb><rt>あい</rt></ruby>』ともなる。『<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>』ともなれば『<ruby><rb>挨</rb><rt>あい</rt></ruby>』ともなる。そうかと思うと『<ruby><rb>靉</rb><rt>あい</rt></ruby>』ともなる。いずれ何かの暗号ではあろうが、さて何んの暗号だろう？　そうしていったい何者が、こんな<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をするのだろう？」

考えてみれば気味が悪かった。とはいえ<ruby><rb>大剛</rb><rt>たいごう</rt></ruby>の彼にとっては、恐怖の種とはなりそうもなかった。

それはとにかく、銀之丞は、駕籠の中に見た女の<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>を、忘れることが出来なかった。

「女は確かに娘らしい。あの『主知らずの別荘」の、家族の一人に相違ない。それも決して女中などではなく、丑松の話したお嬢さんでもあろう」

<ruby><rb>女色</rb><rt>じょしょく</rt></ruby>に淡い彼ではあったが、不思議と心をそそられた。

二度目の暗号を渡された日の、その翌晩のことであったが、彼はフラリと宿を出ると、別荘の方へ足を向けた。それは月影の美しい晩で、そぞろあるきには持って来いであった。少しあるくと町の<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れで、すぐに耕地となっていた。その耕地を左右に見て、一本の野良道を先へ進んだ。土橋を渡るともう荒野で、地層は荒々しい岩石であったが、これは海岸に近いからであった。そういえば波の音がした。

彼はズンズンあるいて行った。間もなく別荘の前へ出た。

廻れば五町はたっぷりあろうか、そういう広大な地所の中に、別荘は<ruby><rb>寂然</rb><rt>せきぜん</rt></ruby>と立っていた。三間巾の海水堀、高い厚い<ruby><rb>巌畳</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>な土塀、土塀の<ruby><rb>内側</rb><rt>うちがわ</rt></ruby>の茂った喬木、昼間見てさえなかの様子は、見る事が出来ないといわれていた。

夜はかなり更けていた。堀の水は鉛色に煙り、そとへ突き出した木々の枝葉で、土塀のあちこちには<ruby><rb>蔭影</rb><rt>かげ</rt></ruby>がつき、風が吹くたびにそれが<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>れた。前と左右は物寂しい荒野で、そうして<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>は<ruby><rb>岩畳</rb><rt>いわだたみ</rt></ruby>を隔てて、海に続いているらしい。

人っ子一人通っていない。<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>の<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>は見えていたが、ここからは遙かに隔たっていた。別荘には一点の火光もなく、人のけはいさえしなかった。

それは別荘というよりも、荒野の中の一つ<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>であり、わすれ去られた古砦であり、人の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>というよりも、死の<ruby><rb>古館</rb><rt>ふるやかた</rt></ruby>といった方が、ふさわしいように思われた。すでに刎ね橋はひき上げられていた。

「何という寂しい構えだろう」

呟きながら銀之丞は、堀に沿って右手へ廻った。すると意外にも眼の前に、刎ね橋が一筋かかっていた。そこは別荘の側面で、土塀には小門が作られてあったが、それへ通ずる刎ね橋であった。こういう場合おおかたの人は好奇心に捉われるものであった、で、彼も好奇心に駆られ、刎ね橋を向こうへ渡って行った。そうして小門へさわってみた。と、手に連れて音もなく、小門の戸が向こうへ開いた。

「おや」とばかり驚きの声を、思わず口から飛び出させたが、さらに一層の好奇心が、彼の心を駆り立てた。

魔法使いの魔法の部屋か

彼は小門をくぐったものである。

あたりを見ると<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>たる木立で、その木立のはるか<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に、一座の建物が立っていた、どうやら、別荘のおも屋らしい。さすがに彼もこれ以上、はいり込むには<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>された。

「しかし」と彼は思案した。「何んというこれは不用心だ。賊でもはいったらどうするつもりだ。一つ注意をしてやろう」で、彼は進んで行った。やがて建物の戸口へ出た。

「ご免」と小声でまず<ruby><rb>訪</rb><rt>おとな</rt></ruby>い、トントンと二つばかり戸を打った。と、何んたることであろう！　その戸がまたも内側へ開き、闇の廊下が現われた。

「おや」とばかり驚きの声を、また出さざるを得なかった。しかし驚きはそれだけではなく、

「おはいり」

というしわがれた声が、廊下の奥から聞こえて来た。

これには銀之丞も度胆を抜かれた。でぼんやり<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。するとまたもや同じ声がした。

「待っていたよ、はいるがいい」

度胆を抜かれた銀之丞は、今度は極度の好奇心に、追い立てられざるを得なかった。

彼は大胆にはいって行った。三十歩あまりもあるいた時、「ここだ！」という声が聞こえて来た。それは廊下の横からであった。見るとそこに開いた<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>があった。で、<ruby><rb>内</rb><rt>なか</rt></ruby>へはいって行った。カッと明るい<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の光が、真っ先に彼の眼を奪った。そのつぎに見えたのは一人の老人で、部屋の奥の方に腰かけていた。

「オイ若いの、戸を締めな」その老人はこういった。

いわれるままに戸を閉じた。それから老人を観察した。<ruby><rb>身長</rb><rt>たけ</rt></ruby>が非常に高かった。五尺七、八寸はあるらしい。肉付きもよく肥えてもいた。皮膚の色は<ruby><rb>銅色</rb><rt>あかがねいろ</rt></ruby>でそれがいかにも健康らしかった。ただし<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみのけ</rt></ruby>は真っ白で、ちょうど盛りの卯の花のようで、それを<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>に取り上げていた。<ruby><rb>銀</rb><rt>しろがね</rt></ruby>のように輝くのは、明るい<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の作用であろう。高い広い理智的な額、<ruby><rb>眼窩</rb><rt>がんか</rt></ruby>が深く落ち込んでいるため、<ruby><rb>蔭影</rb><rt>かげ</rt></ruby>を作っている鋭い眼……それは人間の眼というより、鋼鉄細工とでもいった方が、かえって当を得るようだ。美術的高い鼻、強い意志を現わした、固く結ばれた大きな口……顔全体に威厳があった。着ている衣裳も美術的であった。しかしそれは日本服ではなく、<ruby><rb>阿蘭陀風</rb><rt>オランダふう</rt></ruby>の服であった。それも船員の服らしく、袖口と襟とに見るも<ruby><rb>瞬</rb><rt>まば</rt></ruby>ゆい、金モールの飾りがついていた。手には変った特色もない。ただ手首がいかにも太く、そうして指がいかにも長く、船頭の手などに見るような、握力の強そうな手であった。さて最後に足であるが、足は最も特色的であった。というのは右の足が、膝の<ruby><rb>関節</rb><rt>つけね</rt></ruby>からなくなっているので、つまり気の毒な<ruby><rb>跛足</rb><rt>びっこ</rt></ruby>なのであった。でズボンも右の分は、左の分よりは短かかった。

彼は長椅子に腰かけていた。その長椅子も日本の物ではなく、やはりオランダかイスパニヤか、その辺の物に相違なかった。長椅子には毛皮がかけられていた。それは見事な虎の皮で、<ruby><rb>玻璃製</rb><rt>はりせい</rt></ruby>の義眼が燈火に反射し、キラキラ光る有様は、生ける虎の眼そっくりであった。毛皮の上には短銃があった。それとて日本の種子ヶ島ではなく、やはり舶来の品らしかった。

部屋はかなり広かった。そうして老人を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いにょう</rt></ruby>して、珍奇な器具類が飾られてあった。<ruby><rb>縅</rb><rt>おどし</rt></ruby>の糸のやや古びた、源平時代の<ruby><rb>鎧甲</rb><rt>よろいかぶと</rt></ruby>、宝石をちりばめた<ruby><rb>印度風</rb><rt>インドふう</rt></ruby>の太刀、磨ぎ澄ました<ruby><rb>偃月刀</rb><rt>えんげつとう</rt></ruby>、南洋産らしい<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>の剥製、どこかの国の国王が、冠っていたらしい黄金の冠、黒檀の机、紫檀の台、奈良朝時代の雅楽衣裳、同じく太鼓、同じく笛、<ruby><rb>大飛出</rb><rt>おおとびで</rt></ruby>、小飛出、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>、<ruby><rb>俊寛</rb><rt>しゅんかん</rt></ruby>、少将、釈迦などの能の面、黄龍を<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬい</rt></ruby>した清国の国旗、<ruby><rb>牧溪</rb><rt>ぼくけい</rt></ruby>筆らしい放馬の軸、応挙筆らしい大瀑布の屏風、高麗焼きの大花瓶、ゴブラン織の大絨毯、長い象牙に<ruby><rb>豺</rb><rt>さい</rt></ruby>の角、<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>の羽根に白熊の毛皮、異国の貨幣を一杯に充たした、漆塗りの長方形の箱、宝石を充たした銀製の箱、さまざまの形の古代仏像、青銅製の大香炉、香を充たした香木の箱、南蛮人の丸木船模型、羅針盤と航海図、この頃珍らしい銀の時計、忍び用の<ruby><rb>龕燈提灯</rb><rt>がんどうぢょうちん</rt></ruby>、忍術用の黒小袖、<ruby><rb>真鍮製</rb><rt>しんちゅうせい</rt></ruby>の大砲模型、籠に入れられた<ruby><rb>麝香猫</rb><rt>じゃこうねこ</rt></ruby>、エジプト産の人間の<ruby><rb>木乃伊</rb><rt>みいら</rt></ruby>、薬を入れた大小<ruby><rb>黄袋</rb><rt>きぶくろ</rt></ruby>、玻璃に載せられた朝鮮人参、オランダ文字の異国の書籍、水盤に入れられた真紅の小魚……もちろんいちいちそれらの物が、一巡見渡した銀之丞の眼に、理解されて映ったのではなかったけれど、しかし決して夢ではなく、まさしく「実在」として映ったのであった。

奇妙な老人の奇妙な話

「いったいこの部屋は何んだろう？　この老人は何者だろう？」銀之丞は茫然と、驚き呆れて佇んでいた。

と、老人が声をかけた。

「待っていたのだ。よく来てくれた。ところでお前は本人かな？　それともお前は代理かな？」

いうまでもなくこの言葉は、銀之丞にはわからなかった。すると老人がまたいった。

「本人なら市之丞と呼ぼう。もし代理なら別の名で呼ぼう。黙っていてはわからない」

「いや」と銀之丞はようやくいった。「市之丞ではございません。そんな者ではございません。……」

「ふん、それなら代理だな。それは困った。代理は困る」

「全然話が違います。……刎ね橋が下ろされてありましたので……」

「そうさ、お前を迎えるために、わざわざ下ろして置いたのだ」

「いえ、それに小門の戸も……」

「いうまでもない、開けて置いたよ。それは最初からの約束だからな」

「……それでうかうか参りましたので」

「ナニうかうか？　不用心な奴だ」

「と、いいますのもその不用心を、ご注意しようと存じましてな。……」

「うん、それがいい、お互いにな。不用心は禁物だ。……で、お前は代理なのだな？　やむを得ない、我慢しよう。……で、お前の名は何んというな？」

「さよう、拙者は銀之丞……」

「ナニ銀之丞？　よく似た名だな。市之丞代理銀之丞か。なるほど、これは代理らしい。よろしい、話を進めよう」

「しばらく、しばらく。お待ちください！」

「えい、あわてるな！　臆病者め！　ははあ、お前は恐れているな。いやそれなら大丈夫だ。家族の者は遠避けてある。そこで話を進めよう。だがその前にいうことがある、なぜお前達は俺を嚇した！　あんな手紙を何故よこした！　何故この俺を強迫した！」

「俺は知らない！」と銀之丞は、とうとう怒って怒鳴りつけた。「人違いだよ、人違いなのだ」

「ナニ人違いだ？　莫迦をいえ！　今さら何んだ！　卑怯な奴だ！　だがマアそれは過ぎ去ったことだ。蒸し返しても仕方がない。しかし俺はいっとくがな、以後強迫は一切止めろ！　そんな事には驚かないからな。もちろん本当にもしないのさ。だがいうだけはいった方がいい。そう思って返辞はやった。何んのこの俺が決闘を恐れる！　アッハハハ、莫迦な話だ。しかし話がつくものなら、そんな厭な血など見ずと、そうだ平和の談笑裡に、話し合った方がいいからな。で、返辞はやったのさ。そうして俺から指定した通り、ちゃんと小門も開けて置いたのさ。それでも感心に時間通りに来たな。よろしい、よろしい、それはよろしい。ふん、やっぱりお前達も、血を見るのは厭だと見える。あたりめえだ、誰だって厭だ。お互い命は大事だからな。粗末にしては<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ないからな。……よろしい、それでは話を進めよう。さて、お前達の要求だが、あれは全然問題にならない。あの要求は暴というものだ。まるっきり筋道が立っていない。いわば場違いというものだ。それに時効にもかかっている。オイ、大将、そうじゃないかな！　だからあれは<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>くことはならぬ！　とこうにべもなくいい切ったでは、お前達にしても納まりがつくまい。俺にしても気の毒だ。今夜の会見も無意味になる。後に怨みが残ろうもしれぬ。それではどうも面白くない。そこで少しく色気をつけよう。といってお前達に怖じ恐れて、妥協すると思うと間違うぞ！　なんのお前達を恐れるものか！　昔ながらの九郎右衛門だ」

胸に向けられた短銃の口

「俺には一切恐怖はない。恐怖を知らない人間なのだ。それはお前達も知ってるだろう。人の命を取ることなどは、屁とも思わぬ人間なのだからな。だから、それだから、そこを狙って、……いやいやそれはどうでもいい。お互い気取りや示威運動や、威嚇というような詰まらないものは、封じてしまわなければならないのだからな。……つまりお前達の境遇が――どうやら大分貧しいらしいな――それがおれには気の毒なので、そこで一片の慈悲心から、恵みを垂れるという意味で、俺の財産の幾分かを、分けてやろうとこう思うのだ。よいか、解ったか、解ったかな？　アッハハハ、それにしてもだ、お前達の要求は大きかったな。みんなよこせというのだからな。それが正当だというのだからな。オイ大将よく聞くがいい。俺は正直な人間だ。決して仲間など裏切りはしない。嘘もなければ<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りもない。で分配はどこから見ても、一点の不公平もなかったのだ。三人ながら同じように、同じタカに分け合ったのだ。それを俺は上手に利用し、あるが上にもなお<ruby><rb>蓄</rb><rt>た</rt></ruby>めた。それだのに一人藤九郎ばかりは、<ruby><rb>無考</rb><rt>むかんが</rt></ruby>えにも使い果たしてしまった。そうして恐ろしく貧乏して貧乏の中に死んでしまった。それを伜の市之丞めが、何をどこから聞き込んだものか、俺だけ一人余分に取ったの、藤九郎を殺したのは俺だのと、それこそ途方もないいいがかりをつけ、あげくのはてには強迫して俺から財産を取ろうとする！　莫迦な話だ、とんでもないことだ！　……ところで俺の財産だが、大部分この部屋に集めてある。いやこれで一切だ。この外には一文もない。金につもったら大したものだ。五万や八万はあるだろう。で俺はこの<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>を、半分だけお前達にくれてやろう。勿体ないが仕方がない。昔の仲間の伜のことだ、貧乏させても置けないからな。……俺のいうことはこれで終えた。代理のお前ではわかるまい。帰って市之丞にいうがいい。そうして急いで返答しろ。どうだ、不足はあるまいがな。……や！　貴様どうしたんだ！　何をぼんやりしているんだ！　おや、こいつめが、聞いていないな！　いったい貴様は何者だ！」

老人は突然怒号した。ようやく相手の若者が、怪しいものに見えて来たらしい。

「おれは観世銀之丞だ。おれは江戸の能役者だ」

銀之丞はひややかにいった。老人の話しでその老人が、善人ではないということを、早くも直感したからであった。「気の毒だが人違いだ」

「ナニ観世だと？　能役者だと？」

見る見る老人の眼の中へ、凄まじい殺気が現われた。つとその手が毛皮の上の、短銃の方へ延びて行った。

「では貴様は、あいつらではないのか？　市之丞の代理ではなかったのか？」

「その市之丞とかいう男、見たこともなければ聞いたこともない」

「しかし、しかし、それにしても、どうしてここへはいって来た？」

「それはもうさっきいった筈だ。小門が開いていたからよ」

「だが、指定した、こんな時刻に……」

「俺の知ったことではない。恐らくそれは暗合だろう」

「では、いよいよ人違いだな！」

「うん、そうだ、気の毒ながら」

「それだのに貴様は俺の話しを、黙ってしまいまで聞いてしまったな！」

「むやみとお前が話すからよ。俺は幾度もとめた筈だ」

「ふうむ、なるほど」と呻くようにいうと、九郎右衛門は眼を据えた。短銃を持った右の手がソロリソロリと上へ上がった。

「では、貴様は、生かしては帰せぬ！」

「そうか」と銀之丞は冷淡に「よかろう、一発ドンとやれ」

ピッタリ短銃の筒口が、銀之丞の胸へ向けられた。絶息しそうな沈黙が、分を刻み秒を刻んだ。

助太刀をしてくださるまいか

と、ピストルがソロソロと、下へ下へと下ろされた。

「そんな筈はない。能役者ではあるまい」

「何故な？」と銀之丞は平然ときいた。

「素晴らしい度胸だ。能役者ではあるまい」

「嘘はいわぬ。能役者だ」

「そうか」

と九郎右衛門は考えながら、

「無論剣道は学んだろうな？」

「うん、いささか、千葉道場でな」

「ははあ、千葉家で、それで解った」

九郎右衛門は眼をとじた。どうやら考えに耽るらしい。と、パッと眼を開けると、にわかに言葉を<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>にしたが、

「いかがでござろう今夜のこと、他言ご無用に願いたいが」

そこで銀之丞も言葉を改め、

「そこもと、それが希望なら……」

「希望でござる、是非願いたい」

「よろしゅうござる。申しますまい」

二人はまたも沈黙した。

「さて、改めてお願いがござる」一句一句噛みしめるように、九郎右衛門はいい出した。「何んとお聞き済みくださるまいか」

「お話の筋によりましては。……」

「いかさまこれはごもっとも」

九郎右衛門はまた眼をとじ、じっと思案に耽ったが、

「私、昔は悪人でござった。しかし今は善人でござる。……とこう申したばかりでは、あるいはご信用くださるまいが、今後ご交際くださらば、自然お解りにもなりましょう。ところが先刻不用意の間にうっかりお耳に入れました通り、私には敵がござる」

「どうやらそんなご様子でござるな」

「それがなかなか強敵でござる」

「それに人数も多いようでござるな」

「しかし恐ろしいはただ一人、金子市之丞と申しましてな、非常な小太刀の名人でござる」

「ふうむ、なるほど、さようでござるかな」

「それが徒党を引率して、最近襲撃して参る筈、ナニ私が壮健なら、ビクともすることではござらぬが、何を申すにも不具の躰、実は閉口しておるのでござる。そのため<ruby><rb>使者</rb><rt>つかい</rt></ruby>を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わして、今晩参って話し合うよう、その市之丞まで申し入れましたところ、その者は来ずに代りとして、あなたがお見えになられたような次第、もうこうなっては平和の間に折り合うことは不可能でござる。是が非でも戦わねばならぬ。ところで味方はおおかた召使い、太刀取る術さえ知らぬ手合い、戦えばわれらの敗けでござる。お願いと申すはここのこと、何んと助太刀してくださるまいか。侠気あるご仁と見受けましたれば、折り入ってお願い致すのでござる」

「ははあ、なるほど、よくわかってござる」

銀之丞は腕をくんだ。「さてこれはどうしたものだ。自分は能役者で剣客ではない。それに当分剣の方は、封じることにきめている。それに見たところこの老人、善人とはいうがアテにはならぬ。その上相手の市之丞というは、小太刀の名人だということである。うかうか助太刀して切られでもしたら、<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>を見る上に外聞も悪い。これは一層断わった方がいいな。……だが両刀を<ruby><rb>手挾</rb><rt>たばさ</rt></ruby>む身分だ、見込んで頼むといわれては、どうも<ruby><rb>没義道</rb><rt>もぎどう</rt></ruby>に突っ放すことは出来ぬ。どうもこれは困ったぞ。……いや待てよ、この老人には、美しい娘があった筈だ。こんなことから親しくなり、恋でもうまく<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>されようものなら、こいつとんだ儲けものだ。といって誘惑するのではないが、だが美人と話すのは、決して悪いものではない。第一生活に退屈しない。よしきた、一番ひき受けてやれ」

そこで彼は元気よくいった。

「よろしゅうござる、助太刀しましょう」

厳重を極めた邸の様子

「もうこうなりゃア謡なんか、どうなろうと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ままのかわ</span>だ。面白いのは恋愛だ！　恋よ恋よ何んて素敵だ！」

これが銀之丞の心境であった。

つまり彼は九郎右衛門の娘、お<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>というのと恋仲になり、楽しい身の上となったのであった。

だがしかし恋の描写は、もう少し後に譲ることにしよう。

助太刀の依頼に応じてからの、観世銀之丞というものは、九郎右衛門の別荘へ、夜昼となく詰めかけた。

彼の眼に映った別荘は、まことに奇妙なものであった。まずその構造からいう時はきわめて斬新奇異なもので、宅地の真ん中と思われる辺に、平屋造りの建物があった。一番広大な建物で、城でいうと本丸であった。ここには九郎右衛門の肉親と、その護衛者とが住んでいた。その建物の真ん中に、一つの大きな部屋があった。九郎右衛門の居間であった。あらゆる珍奇な器具類が、隙間もなく飾ってあった。すなわち過ぐる夜偶然のことから、銀之丞がこの家を訪れた時、呼び込まれたところの部屋であった。その部屋は四方厚い壁で、襖や障子は一本もなく、壁の四隅に扉を持った、四つの出入り口が出来ていた。そうして四つのその口からは、四つの部屋へ行くことが出来た。

さてその四つの部屋であるが、東南にある一室には、九郎右衛門の病身の妻、お<ruby><rb>妙</rb><rt>たえ</rt></ruby>というのが住んでいた。またその反対の西南の部屋には、娘のお艶が住んでいた。さらに東北の一室には、これも病身の伜の六蔵が、床についたままで住んでいた。最後の西北の一室には、別荘番の丑松と、護衛の男達が雑居していた。

以上五つの部屋によって、本邸の一郭は形作られていたが、それら部屋部屋の間には、共通の<ruby><rb>警鐘</rb><rt>けいしょう</rt></ruby>が設けられてあって、異変のあった場合には、知らせ合うことになっていた。

この本邸を囲むようにして、独立した四つの建物があった。城でいうと出丸に当たった。これも低い平屋づくりで、本邸と比べては粗末であったが、しかし<ruby><rb>牢固</rb><rt>ろうこ</rt></ruby>という点では、むしろ本邸に勝っていた。四つとも同じような建て方で、その特色とするところは、<ruby><rb>矢狭間</rb><rt>やざま</rt></ruby>づくりの窓のあることと、四筋の長い廻廊をもって、本邸と通じていることとであった。そうして本邸との間には、共通の警鐘が設けられてあった。

別荘の人達はこれらの建物を、四つの<ruby><rb>出邸</rb><rt>でやしき</rt></ruby>と呼んでいた。この四つの出邸には、いずれも屈強な男達が、三十人余りもこもっていた。すなわち警護の者どもであった。

なおこの他にも<ruby><rb>厩舎</rb><rt>うまごや</rt></ruby>とかないしは納屋とか番小屋とか<ruby><rb>細々</rb><rt>こまごま</rt></ruby>しい建物は設けられていたが目ぼしい物は見当たらなかった……構内を囲んだ堅固な土塀。土塀の外側の深い堀。堀にかけられた四筋の刎ね橋。そうして邸内至る所に、喬木が林のように立っていた。南にあるのが表門で、北にあるのが裏門であった。その裏門を半町ほど行くと、大洋の浪岩を噛む、岩石<ruby><rb>峨々</rb><rt>がが</rt></ruby>たる海岸であり、海岸から見下ろした足もとには、小さな入江が出来ていた。入江の上に突き出しているのが、象ヶ鼻という<ruby><rb>大磐石</rb><rt>だいばんじゃく</rt></ruby>であった。

観世銀之丞人数をくばる

「人数は全部で五十人、このうち女が十人いる。非戦闘員としてはぶかなければならない。九郎右衛門殿と六蔵殿とは、不具と病人だからこれも駄目だ。正味働けるのは三十八人だが、このうちはたして幾人が武術の心得があるだろう？」

それを調べるのが先決問題であった。で、ある日銀之丞は、それらの者どもを庭に集めて、剣術の試合をさせて見た。準太、卓三、千吉、松次郎、そうして丑松の五人だけは、どうやら眼鼻がついていた。

「俺を加えて六人だけは、普通に働けると認めていい。よし、それではこの連中を、ひとつ上手に配置してやろう」

そこで銀之丞は命令した。

「準太は八人の<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>をつれ東南の<ruby><rb>出邸</rb><rt>でやしき</rt></ruby>を守るがいい。卓三も八人の仲間をつれ東北の出邸を守るがいい。千吉も松次郎も八人ずつつれて、西北と西南の出邸とを、やはり厳重に守るがいい。俺と丑松とは二人だけで、邸の警護にあたることにしよう。……敵の人数は多く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つもって</span>、百人内外だということである。味方よりは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すこし</span>多い。しかし味方には別荘がある。この厳重な別荘は、優に百人を防ぐに足りる。で油断さえしなかったら、味方が勝つにきまっている。ところで夜間の警戒だが、<ruby><rb>各自</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の組から一人ずつ、屈強の者を選び出して、交替に邸内を廻ることにしよう。そうして変事のあったつど、警鐘を鳴らして知らせることにしよう。どうだ、異存はあるまいな？」

「なんの異存なぞございましょう」

こうして邸内はその時以来、厳重に固められることとなった。

親しく一緒に暮らして見て、九郎右衛門という人物がはじめの考えとは色々の点で、銀之丞には<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>って見えた。彼には最初九郎右衛門が、足こそ気の毒な不具ではあるが、体はたっしゃのように思われた。ところが九郎右衛門は病弱であった。肥えているのが悪いのであり、血色のよいのがよくないのであった。彼は今日の病名でいえば、動脈硬化症の末期なのであった。いやそれよりもっと悪く、すでに中風の初期なのであった。

それから銀之丞は九郎右衛門を、最初悪人だと睨んだものであった。しかしそれも異っているらしい。なかなか立派な人物らしい。<ruby><rb>敢為冒険</rb><rt>かんいぼうけん</rt></ruby>の精神にとんだ、一個堂々たる大丈夫らしい。そうして珍奇な器具類や、莫大もない財産は、壮年時代の冒険によって、作ったもののように思われた。とはいえどういう冒険をして、それらの財産を作ったものかは、九郎右衛門が話さないので、銀之丞には解らなかった。

それからもう一つ重大なことを、銀之丞は耳にした。というのは他でもない、九郎右衛門の財産なるものが、予想にも増して豪富なもので、別荘にあるところの財産の如きは、全財産から比べれば、百分の一にも足りないという、そういう驚くべき事実であって、そうしてそれを明かしたのは、別荘番の丑松であった。

「……つまりそいつをふんだくろうとして、市之丞めとその徒党が、ここへ攻め込んで来るんでさあ。が、そいつは見つかりッこはねえ。何せ別荘にはないんだからね。それこそ途方もねえ素晴らしいところに、しっかり<ruby><rb>蔵</rb><rt>しま</rt></ruby>ってあるんだからね」

その丑松はこの邸では、かなり重用の位置にいた。九郎右衛門も丑松だけには、どうやら一目置いているらしかった。年は三十とはいっているけれど、一見すると五十ぐらいに見え、<ruby><rb>身長</rb><rt>たけ</rt></ruby>といえば四尺そこそこ、そうして醜いみつくちであった。

彼はいつも象ヶ鼻の上から、入江ばかりを見下ろしていた。

この家で一番の不幸者は、お艶の弟の六蔵であった。それは重い心臓病で、死は時間の問題であった。それに次いで不幸なのは、六蔵達の母であった。<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の強い意志のもとに、長年の間圧迫され、精も根も尽きたというように、いつもオドオドして暮らしていた。

妖艶たる九郎右衛門の娘

この中にあってお艶ばかりは、太陽のように輝いていた。美しい<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>はその母から、大胆な性質はその父から、いずれも程よく遺伝されていた。そうして彼女の美しさは、清楚ではなくて艶麗であった。もし一歩を誤れば、妖婦になり兼ねない素質があった。肉付き豊かなそのからだは、雪というより象牙のようで、白く滑らかに<ruby><rb>沢</rb><rt>つや</rt></ruby>を持っていた。涼しい切れ長の情熱的の眼、いつも潤おっている紅い唇、厚味を持った高い鼻、笑うたびに<ruby><rb>靨</rb><rt>えくぼ</rt></ruby>の出る、ムッチリとした厚手の頬……そうして声には魅力があって、聞く人の心を掻きむしった。

いつぞや駕籠から顔を出し、ニッと銀之丞へ笑いかけたのは、このお艶に他ならない。

そうして丑松をそそのかし、例の「あ」と「い」の<ruby><rb>紙飛礫</rb><rt>かみつぶて</rt></ruby>を、投げさせたのも彼女であった。彼女にいわせるとその「あい」は、「愛」の符牒だということであった。つまり彼女は銀之丞に、一目惚れをしたのであった。そうしてそういう芝居染みた、大胆不敵な口説き方をして、思う男を厭応なしに、引き付けようとしたのであった。

ところが人々の噂によると、その美しいお艶に対し、醜いみつくちの丑松が、恋しているということであった。これはもちろん銀之丞の心を、少なからず暗くはしたけれど、しかし信じようとはしなかった。「まさか」と彼は思うのであった。

銀之丞ほどの人物も、お艶の美しさには勝てなかった。近代的の人間だけに、お艶のような変り種には、一層心を引き付けられた。強烈な刺戟、<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れた美、苦痛にともなう陶酔的快楽！　そういう物にあこがれる彼には、お艶のような妖婦型の女は、何よりも好もしい相手であった。

で、彼は文字通り、恋の奴隷となり下がってしまった。

やがて初冬がおとずれて来た。岸に打つ浪が音を高め、沖から吹いて来る潮風が、肌を刺すように寒くなった。銚子港の寂れる季節が、だんだん近寄って来たのであった。

敵は襲って来なかった。で別荘は平和であった。<ruby><rb>無為</rb><rt>むい</rt></ruby>の日がドンドンたって行った。

とはいえその間怪しいことが、全然なかったとはいわれなかった。ある朝、どこから投げ込んだものか、一通の手紙が東側の、出邸の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>に落ちていた。書かれた文字は簡単で、「図面を渡せ」とあるばかりであった。でもちろん銀之丞には、なんのことだかわからなかった。だがしかし九郎右衛門には、恐らくその意味がわかったのであろう、さっとばかりに顔色を変えた。それから数日たった時、またも手紙が投げ込まれた。「鍵を渡せ」というのであった。

「いよいよ敵が<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>って来た。警戒警戒、警戒しなければならない」

九郎右衛門はこういった。しかしその後は変ったこともなく、またも無為に日が経った。と、またもや一通の手紙が邸の内に落ちていた。

「観世銀之丞よ。早く立ち去れ」

こうその手紙には書いてあった。

これには銀之丞も仰天したが、しかし恐れはしなかった。

「うん、面白い、張り合いがある」かえってこんなように思ったものであった。

変な様子をした二、三人の者が、邸の周囲をさまよったり、夜陰堀の中へ石を投げたり、突然大勢の笑い声が、明け方の夢を驚かしたり、そういったような細々しい変事は、幾度となく起こっては消えた。

だが攻めては来なかった。で、邸内の人々は、次第にそれに慣れて来た。だんだん油断をするようになった。

お艶とそうして銀之丞との恋は、この間にも進歩した。

ところで二人のその恋を、快く思わない人間が、邸の内に一人あった。醜い例の丑松で、彼は内々蔭へまわっては、二人の悪口をいうらしかった。しかし恋する二人にとっては、そんなことは苦にもならず、問題にしようともしなかった。

こうしてまた日が経って、やがて初雪が降るようになった。

深い深い水の底で重々しく開いた扉の音

そのうちだんだん銀之丞に、ある疑問が湧くようになった。

「それにしても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆうちょう</span>な敵ではないか。いつ攻めて来るのだろう？　それに邸内の人達も、変に最近ダレて来た。全体が一向真剣でない」

一つの疑いは二つの疑いを呼ぶ。

「邸内の構造も不思議なものだ。どうもなんとなく気味がわるい。そういえば主人の九郎右衛門にも、変に隠すようなところがある。それに素晴らしい珍器異具、どうも少々異国的に過ぎる。若い時代の冒険によって、<ruby><rb>蒐集</rb><rt>しゅうしゅう</rt></ruby>したのだといわれてみれば、そんなようにも思われるが、しかしそれにしても怪しいところがある。……わけても最も怪しいのは、象ヶ鼻という大磐石だ。決して人を近寄らせない。そうしていつも丑松めが、恐ろしい様子をして頑張っている」

こう思って来ると何から何まで、怪しいもののように思われてならない。

「そういえば娘のお艶の恋も、大胆なようでよそよそしい」

しまいには恋をまで疑うようになった。

「よし、ひとつ心を入れ替え、邸内の様子を探ることにしよう。」

彼は態度を一変させた。この時までは全力を挙げて、邸のために尽くしたものであった。その時以来はそれとはあべこべに、自分をすっかり邸から放し、第三者として観察することにした。

するとはたして心得ぬことが、続々として起こって来た。例えば深夜こっそりと、邸内多数の人間が、象ヶ鼻の方へ出て行ったり、ある夜の如きは燈火を点けない、大型の一隻の帆船が、どこからともなく現われて来て、象ヶ鼻の真下の小さい入江へ、こっそり<ruby><rb>碇</rb><rt>いかり</rt></ruby>を下ろしたりした。

「怪しい怪しい」

と、銀之丞は、いよいよその眼をそばだてた。

しかしこれらはよい方であった。そのうちとうとう銀之丞は、恐ろしいことを発見した。

というのは他でもない。四つの出邸を繋いでいる廊下が、十字形をなしていることであった。

「おおこれは十字架の形だ！」

つづいて連想されたのは、ご禁制<ruby><rb>吉利支丹</rb><rt>キリシタン</rt></ruby>のことであった。

「ううむ、それではこの邸は、邪教の巣窟ではあるまいか」

さすがの彼もゾッとした。

「これは大変だ。逃げなければならない」

しかし逃げることは出来なかった。

出邸にこもった数十人の者が、夜も昼も警戒していた。

「ああこれこそ自縄自縛だ。出邸に人数を配ったのは、他でもないこの俺だ。その人数に見張られるとは、なんという矛盾したことだろう」

止どまっていることは破滅であった。しかし脱出は不可能であった。ではいったいどうしたらいいのか？

銀之丞の様子の変ったことに、彼らが気づかない筈がない。

ある夜丑松と九郎右衛門とが、九郎右衛門の部屋で<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いていた。

何をいったい囁き合ったのか？　何をいったい相談したのか？　それは誰にもわからなかった。とはいえ、いずれ恐ろしいことが、囁きかわされたに相違ない。その証拠にはその夜以来、銀之丞の姿が見えなくなった。空へ消えたのか地へ潜ったのか、忽然姿が消えてしまった。

しかも邸内誰一人として、それを怪しんだものがない。もっとも彼らはその夜遅く、金属製の大きな戸が、深い深い水の底で、重々しく開くような音を聞いた。

が、誰一人それについて、噂しようともしなかった。

で、邸内は平和であった。<ruby><rb>無為</rb><rt>むい</rt></ruby>に日数が経って行った。

全く不思議な邸ではある。

だが銀之丞はどうしたのだろう？　いずれは恐ろしい運命が、彼を見舞ったに相違ない。はたして生きているだろうか？　それとも死んでしまっただろうか？　死んだとしたら殺されたのであろう。

可哀そうな彼の運命よ！

だが私の物語は、ここから江戸へ移らなければならない。

<ruby><rb>家斉</rb><rt>いえなり</rt></ruby>将軍と中野<ruby><rb>碩翁</rb><rt>せきおう</rt></ruby>

赤い格子に黒い船

ちかごろお江戸は恐ろしい

こういう唄が<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>り出した。

十数年前にはやった唄で、それがまたもやはやり出したのであった。

恐ろしい勢いで流行し、柳営にまで聞こえるようになった。

時の将軍は<ruby><rb>家斉</rb><rt>いえなり</rt></ruby>であったが、ひどくこの唄を気にかけた。

「不祥の唄だ、どうかしなければならない」

こう侍臣に洩らしさえした。侍臣達はみんな不思議に思った。名に負う将軍家斉公ときては、風流人としての通り者であった。どんなはやり唄がはやろうと、気にかけるようなお方ではない。ところがそれを気にかけるのであった。

「珍らしいことだ。不思議だな」こう思わざるを得なかった。

ある日お気に入りの<ruby><rb>中野碩翁</rb><rt>なかのせきおう</rt></ruby>が、ご機嫌うかがいに伺候した。

「おお播磨か、機嫌はどうだな」将軍の方から機嫌をきいた。

「変ったこともございませんな」

碩翁の方でも友人づきあいであった。

この二人の仲のよさは、当時有名なものであった。というのも碩翁の養女が、将軍晩年の愛妾だからで、もっとも碩翁その人も一個変った人物ではあった。才智があって大胆で、直言をして憚らない。そうして非常な風流人で、六芸十能に達していた。だから家斉とは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うま</span>があった。で二人の関係は主従というよりも友達であった。

身分は九千石の旗本で、たいしたものではなかったが、その権勢に至っては、老中も若年寄もクソを喰らえで、まして諸藩の大名など、その眼中になかったものである。

したがって随分わがままもした。市井の<ruby><rb>無頼漢</rb><rt>ぶらいかん</rt></ruby>を<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>にしたり、諸芸人を近づけたりした。いわゆる一種の時代の子で、形を変えた大久保彦左衛門、まずそういった人物であった。

<ruby><rb>賄賂</rb><rt>わいろ</rt></ruby>も取れば<ruby><rb>請託</rb><rt>せいたく</rt></ruby>も受けた。その代わり自分でも施しをした。顕職を得たいと思う者が、押すな押すなの有様で、彼の門を潜ったそうだ。

悪さにかけても人一倍、善事にかけても人一倍、これが彼の真骨頭であった。恐れられ、憚られ、憎まれもした。とまれ清濁併せ飲む<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てい</span>の、大物であったことは疑いない。

「お前、聞いたろうな、あの唄を」家斉は早速いい出した。

「お前あいつをどう思うな？」

「<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>な唄でございますな」碩翁はこうはいったものの、厄介らしい様子もない。

「十数年前にはやった唄だ」

「そんな噂でございますな」

「海賊赤格子をうたった唄だ」

「ははあさようでございますかな」碩翁はちゃんと知っているくせに、知らないような様子をした。これが老獪なところであった。家斉をしていわせようとするのだ。

「そうだよ赤格子を唄った唄だよ。あの海賊めが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばっこ</span>した、十数年前にはやった唄だ」

「海賊の上に邪教徒だったそうで」

「うん、そうだ、吉利支丹だったよ」

「ただし噂によりますと、なかなか<ruby><rb>大豪</rb><rt>だいごう</rt></ruby>の人間だったそうで」

「それに随分と学問もあった。吉利支丹的の学問がな」

「つまり魔法でございますかな」

「いいや、違う、その反対だ」

「反対というと？　ハテ何んでしょうな？」

「実際的の学問なのさ。うん、そうだ科学とかいった」

「科学？　科学？　こいつ解らないぞ」

「建築術なんかうまかったそうだ」

「建築術？　これは解る」

「それから色々の造船術」

「造船術？　これもわかる」

「それから色々の製薬術」

「製薬術？　これもわかる」

「大砲の製造、火薬の製造、そういう物もうまかったそうだ」

「恐ろしい奴でございますな」

「学問があって大豪で、それで海賊というのだから、随分ととらえるには<ruby><rb>手古摺</rb><rt>てこず</rt></ruby>ったものだ」

「それはさようでございましょうとも」

「その上神出鬼没と来ている」

「さすがは名誉の海賊で」

「何しろ船が別製だからな」

「自家製造の船なのでしょうな」

「うん、そうだ、だから困ったのさ。……その上、いつも日本ばかりにはいない」

「ははあ、海外を荒らすので」

「支那、朝鮮、南洋諸島……」

「痛快な人間でございますな」

「海賊係りの役人どもも、これには全く手古摺ったものだ」

「それでもとうとう大坂表で、とらえられたそうでございますな」

「大坂の役人めえらいことをしたよ」

「どうやら万事大坂の方が、手っ取り早いようでございますな」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>をいえ、そんなことはない」

家斉はここで厭な顔をした。

「で、さすがの大海賊も、処刑されたのでございますな」

「ところが」と家斉は声をひそめ、「それがそうでないのだよ」

「それは不思議でございますな」これは碩翁にも意外であった。

「もっとも訴訟の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>では、処刑されたことになっている」

「では、事実は異いますので」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きゃつ</span>は今でも生きている筈だ」

「とんと合点がいきませんな」

「というのは外でもない。命乞いをした人間がある」

「しかし、さような大海賊を。……」いよいよ碩翁には意外であった。

「いや、さような海賊なればこそ、命乞いをしたのだよ」

「とんと合点がいきませんな」

「とまれ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きゃつ</span>は生きている筈だ」

文庫から出した秘密状

「恐ろしいことでございますな」

「ただし南洋にいる筈だ。いや、いなければならない筈だ」

「ははあ、南洋にでございますか」

「国内に置いては危険だからな」

「申すまでもございません」

「しかるにきゃつめ、最近に至って、日本へ帰って来たらしい」

「どうしてお解りでございますな」

「赤い格子に黒い船……こういう唄がはやっているからよ。……それにこの頃犬吠付近で、よく荷船が襲われるそうだ」

「それは事実でございます」

「だから、俺は、そう睨んだのさ」

「こまったことでございますな」

「どうでもこれはうっちゃっては置けぬ」

「なんとか致さねばなりますまい」

「きゃつがこの世に生きているについては、この家斉、責任がある」

「これはこれはどうしたことで」碩翁すっかり面喰らった。

「きゃつの命を助けたのは、他でもない、このおれだ」

「あなた様が？　これはこれは！」

「おれはその頃は野心があった。海外に対する野心がな。で、きゃつを助けたのさ。その素晴らしい科学の力、その素晴らしい海外の知識、それをムザムザ亡ぼすのが、おれにはどうにも惜しかったからな」

「これはごもっともでございます」

「で、南洋へ追いやったのさ、ただし、その時約束をした」

手文庫をあけて取り出したのは、文字を書いた紙であった。

「これがきゃつの書いたものだ」

「ははあ、なんでございますな？」

「民間でいう<ruby><rb>書証文</rb><rt>かきしょうもん</rt></ruby>だ」

「妙なものでございますな」

「これをきゃつに見せてやりたい」

「何かの役に立ちますので」

「きゃつがほんとうの勇士なら、赤面するに相違ない。そうして日本を立ち去るだろう」

「手渡すことに致しましょう」

「だが、どうして手渡したものか」

「きゃつの根拠を突き止めるのが、先決問題かと存じます」

「だが、どうして突き止めたものか」

「海賊係りを<ruby><rb>督励</rb><rt>とくれい</rt></ruby>し……」

「駄目だよ、駄目だよ、そんなことは」

駄々っ子のように首を振った。

「まさか海賊の張本へ、俺から物を渡すのに、幕府の有司は使えないではないか」

「これはいかにもごもっともで」

「どうだ、民間にはあるまいかな？」

「は、なんでございますか？」

「忍びの術の名人とか、それに類した人物よ」

碩翁はしばらく考えたが、ポンと一つ手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>った。

「幸い一人ございます」

「おおあるか、何者だな？」

「郡上平八と申しまして、与力あがりにございます」

「うん、そうか、名人かな」

「探索にかけては当代一人、あだ名を玻璃窓と申します」

「ナニ、玻璃窓？　どういう意味だ？」

「ハイ、見とおしの別名で」

「見とおしだから玻璃窓か、なるほど、これは名人らしい」

「命ずることに致しましょう」

「俺からとあっては大仰になる。お前の名義で頼んでくれ」

「その点<ruby><rb>如才</rb><rt>じょさい</rt></ruby>はございません」

やがて碩翁は退出した。

退出はしたが碩翁は、少なからず肝をひやした。いかに我がままが通り相場とはいえ、国家を毒する大賊を、将軍たるものが助けたとあっては、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>ご一人に対しても、<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>万民に対しても、申し訳の立たない曲事であった。

「これが世間へ洩れようものなら、どんな大事が起ころうもしれぬ。早く手当をしなければならない」――で<ruby><rb>倉皇</rb><rt>そうこう</rt></ruby>として家へ帰った。

ようやくわかった切り髪の女

「旦那お家でござんすかえ」

ご用聞きの松五郎が、こういいながら訪ねて来たのは、その同じ日の午後のことであった。「おお小松屋か、こっちへはいれ。……どうだ、大分寒くなったな」

玻璃窓の平八は炬燵の上で、市中図面を見ていたが、物憂そうに声をかけた。

「へい、有難う存じます。ではご免を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>りまして。おや何かお調べ物で？」

「ナーニ江戸の図面だよ。<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>も近頃は暇だからな、所在なさに見ているやつさ」

「お暇は結構でございますな」「やむを得ない暇なのさ」「やむを得ないはいけませんな」

すると平八は苦笑したが、「俺もこの頃はヤキが廻ったよ。どうも一向元気がない」「いよいよもっていけませんな」「と、いうのもあの事件<ruby><rb>以来</rb><rt>から</rt></ruby>だ」「鼓賊からでございますかな？」

すると平八は頷いたが、「こう目星が外れては、俺も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねっから</span>値打ちがないよ」

「実はね、旦那。その事について、よい耳をお聞かせにあがったんで」小松屋松五郎は膝を進めた。

「ふうん、そうかい、そいつは有難いね」

「旦那、目星がつきましたよ。切り髪女の目星がね」

「ほほう、そいつは耳よりだな」平八の顔は輝いた。「で、もちろん小屋者だろうな？」

「へい、両国の女役者で」

「そいつは少し変じゃないか。両国橋の小屋者なら、とうに<ruby><rb>悉皆</rb><rt>しっかい</rt></ruby>洗ってしまった筈だ」

「ところが最近別の一座が、新規に掛かったのでございますよ」

「ううむ、そうか、そいつは知らなかった」

「旦那としてはちょっと<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>だ」

「まさに迂濶だ、一言もない。それというのもこの事件では、気を腐らせていたからさ。……ひとつ詳しく話してくれ」

「ところが旦那、詳しいところは、まだわかっていませんので。実はこうなのでございますよ。……それもきのうのひるすぎですが、ちょっと野暮用がありましてね、両国を通ったと覚し召せ。ふと眼についた看板がある。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わっち</span>は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おや</span>と思いやした。その<ruby><rb>芸題</rb><rt>げだい</rt></ruby>が面白いので、『名人地獄』とこういうのですよ……わっちはそこで<ruby><rb>猶予</rb><rt>ゆうよ</rt></ruby>なく、木戸を潜って覗いたものです。あッとまたそこで驚ろかされました。何んとその筋が大変物なので。そっくり鼓賊じゃありませんか」

「ナニ鼓賊？　鼓賊がどうした？」平八はグッと眼を据えた。

「へい、そっくり鼓賊なので、いや全く驚きやした」「頼む、筋立てて話してくれ」「順を追って申しましょう。序幕は信州追分宿、そこに<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>がございます。何んとかいったっけ、うん油屋だ。その油屋に江戸の武士が、二人泊まっているのですね。その一人が能役者で、そうして<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>の名人なので。すると隣室に商人がいます。すなわち鼓賊の張本なので」「ふうん、なるほど。それからどうした？」「いろいろ事件があった後で、鼓を盗むのでございますよ。そこで幕が締まります」「ふうん、なるほど、それからどうした？」「で、また幕がひらきます。すると大江戸の夜景色で」「まだるっこいな。それからどうした？」「さあそれからは話し<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>い」松五郎は妙にこだわった。

「どうしたんだ？　何が話しにくい。気取らずにサッサと話してくれ」「ようがす、思い切って話しましょう。つまりなんだ、その鼓賊と、あるやくざな与力あがりとが、競争するのでございますな。ところでいつも与力あがりの方が、カスばかり食わされるのでございますよ。それがまた途方もなく面白いので」「なるほど、そいつは面白そうだな」

こうはいったが平八は、苦く笑わざるを得なかった。

名人地獄！　名人地獄！

「ふん、それからどうしたな？」平八は先をうながした。

「……で、おおかた筋といえば、そういったものでございますがね、どうもつくりがあくどいので。へへへへ、全くあくどいや」「なんだい、いったいつくりとは？」「へい役者のつくりなので」

「役者のつくりがどうしたんだ？」「こればっかりは申されません。旦那ご自分でごらんなすって」

小松屋松五郎はこういうと、何かひどく気の毒そうに、クックックッと含み笑いをした。

「で、<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざがしら</rt></ruby>は何んというんだ？」

「阪東米八といいますので」

「そいつが切り髪の女なのか？」「へい、さようでございます。<ruby><rb>滅法</rb><rt>めっぽう</rt></ruby><ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>っぽい<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い女で、阪東しゅうかの弟子だそうです」

「<ruby><rb>鬘</rb><rt>かつら</rt></ruby>を着けていたひにゃア、切り髪なんかわかるまいに、どうしてお前は探ったな？」「いえ、そいつはこうなので、見物の中に見巧者がいて、噂をしたのでございますよ」「ほほう、なるほど、どんな噂だな？」「なんでも今年の春のこと、旦那というのに髪を切られ、世間に顔向けが出来ないので、それでずっと休んでいたのが、今度旦那から金を取り、自分が座頭で一座を作り、打って出たのだとこういうので」「これは筋道が立っているな。いかさまこいつは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いい</span>耳で、知らせてくれて有難い。ゆっくり茶でも飲んで行きな」

一つ二つ世間話があって、やがて松五郎は帰って行った。その後から平八も、<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>をして家を出た。

さすがの玻璃窓の平八も、鼓賊ばかりには手古摺っていた。鼓の音を目あてとして、尋ねあぐんだそのあげく、うまく池ノ端で探りあてたはいいが、湯島天神へ追い込んで、さていよいよ捉えてみると、何んのことだ観世銀之丞！　それ以来方針を一変し、髪を切られた小屋者はないかと、その方面から探ることにしたが、ねっから目星しい獲物もなかった。で、すっかり<ruby><rb>悄気</rb><rt>しょげ</rt></ruby>返り、「鼓賊はどうでも俺の苦手だ。ひどい間違いのないうちに、手を引いた方がよさそうだ」などと思いあぐんでいたところであった。

で、松五郎の話にも、大して気乗りしてはいないのであった。「どうせアブレるに違いない、今度アブレたらそれを機会に、一切探索にはたずさわるまい。頭を丸めて法衣を着て、高野山へでも登ってやろう。ああああ浮世は面白くねえ」

こんなことを思いながら、彼はポツポツ歩いて行った。

阪東米八の掛け小屋は、かなり立派で大きかった。絵看板も美しく、「名人地獄」と記した文字も、躍り出しそうに元気がよい。

しばらく見ていた平八は、木戸を潜って内へはいった。

ギッシリ見物が詰まっていた。そうして幕が開いていた。上野山下池ノ端、美しい夜景が展開されていた。と、一人の人物が、鼓を打ちながら現われた。縦縞の<ruby><rb>結城紬</rb><rt>ゆうきつむぎ</rt></ruby>、商人じみた風采であった。

「ははあこいつが鼓賊だな」

平八は口の中で呟いた。と、もう一人の人物が、それを追いながら走り出た。古ぼけた紋服、古ぼけた袴、年の頃は五十四、五、皺の寄った痩せた顔、郡上平八そっくりであった。

「ううん、さてはこいつだな、松五郎めがいいにくそうに、あくどいつくりだといったのは！　いかにもこれはあくど過ぎる。だが、それにしても不思議だな。どうして俺と鼓賊とが、あの晩湯島と池ノ端とで、追いつ追われつしたことを、この役者達は知っているのだろう？　これではまるでこの俺を、からかっているとしか思われない」

奥歯を噛みしめ、こぶしを握り、平八はブルブル身ぶるいをした。

と、その時、鼓の音が、一きわ高く打ち込まれた。

さすがの玻璃窓行きづまる

聞き覚えある鼓であった。忘れられようとしても忘れない、例の鼓の音であった。

ポンポンポン！　ポンポンポン！

あたかも彼を嘲笑うように、舞台一杯に鳴り渡った。

「これはいけない」と平八は、思わず耳を手で抑えた。「こんな筈はない。こんな筈はない。こんなところで、あの鼓が、こんなにおおっぴらに鳴る筈がない！　どうかしている、俺の耳は！」

いやいや決して彼の耳が、どうかしているのではないのであった。間違いもなくあの鼓が、元気よく鳴り渡っているのであった。

もう見ているに耐えられなかった。で、平八は小屋を出た。これは実際彼にとっては、予期以上の<ruby><rb>痛事</rb><rt>いたごと</rt></ruby>であった。

打ち<ruby><rb>拉</rb><rt>ひし</rt></ruby>がれた平八は、両国橋の方へ辿って行った。<ruby><rb>雪催</rb><rt>ゆきもよ</rt></ruby>いの寒い風が、ピューッと河から吹き上がった。「おお寒い」と呟いたとたん、彼の理性が回復された。橋の欄干へ体をもたせ、河面へじっと眼をやりながら、彼は考えをまとめようとした。

「何んでもない事だ、何んでもない事だ」彼は自分へいい聞かせた。「あらゆる浮世の出来事は、成るようにして成ったものだ。不合理のものは一つもない。よし、一つ考えてみよう。……最初に鼓を聞いたのは、今年の春の雪の夜で、そうしてその場に落ちていたのは、鬘下地の切り髪であった。で、切り髪と鼓とは、深い関係がなければならない。さて、ところで、鼓の音を、二度目に俺が聞いたのは、池ノ端の界隈であった。そうしてその時は鼓賊めが、確かに鼓を打っていた筈だ。しかしいよいよとらえてみれば、能役者観世銀之丞であった。ううむ、こいつが判らない」

ここまで考えて来て平八は、行きづまらざるを得なかった。

彼の考えを押し詰めて行けば、能役者観世銀之丞が、鼓賊でなければならなかった。

「いやいや断じてそんなことはない」

ぼやけた声でこういうと、彼はトボトボとあるき出した。彼はスッカリまいってしまった。精も根も尽きてしまった。

その日も暮れて夜となった時、彼は自宅へ帰って来た。と、全く意外なことが、彼の帰りを待ちかまえていた。

碩翁様からの使者であった。

「はてな？」

と彼は首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げた。

役付いていた昔から、碩翁様には一方ならず、彼は恩顧を蒙っていた。役目を引いた今日でも、二人は仲のよい<ruby><rb>碁敵</rb><rt>ごがたき</rt></ruby>であった。

「わざわざのお使者とは不思議だな」

怪しみながら衣服を改め、使者に伴われて出かけて行った。

彼が自宅へ帰ったのは、夜もずっと更けてからであったが、彼はなんとなくニコツイていた。ひどく顔にも活気があった。

彼は家の者へこんなことをいった。

「俺はあすから旅へ出るよ。鼓賊なんか七里<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けっぱい</span>だ。もっともっと大きな仕事が、この俺を待っているのだからな。」

南無幽霊頓証菩提

隅田のほとり、小梅の里。……

十一月の終り頃。弱々しい夕陽が射していた。

竹藪で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しずれる</span>雪の音、近くで聞こえる読経の声、近所に<ruby><rb>庵室</rb><rt>あんしつ</rt></ruby>でもあるらしい。

古ぼけた百姓家。間数といっても二間しかない。一つの部屋に炉が切ってあった。

雪を冠った竹の垣、みすぼらしい浪人のかり住居。……

美男の浪人が炉の前で、内職の<ruby><rb>楊枝</rb><rt>ようじ</rt></ruby>を削っていた。あたりは<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>と静かであった。

「少し<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れた。……眼が痛い。……」

茫然と何かを見詰め出した。

「ああきょうも日が暮れる」

また内職に取りかかった。

しずかであった。

物さびしい。

ポク、ポク、ポク、と、木魚の音。……

夕暮れがヒタヒタと逼って来た。

隣りの部屋に女房がいた。昔はさこそと思われる、今も美しい病妻であった。これも内職の仕立て物――賃仕事にいそしんでいた。

ふと女房は手を止めた。そうして凝然と見詰め出した。あてのないものを見詰めるのであった。……が、またうつむいて針を運んだ。

サラサラと雪のしずれる音。すっかり夕陽が消えてしまった。ヒタヒタと闇が逼って来た。

浪人は一つ<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をした。それから内職を片付け出した。

と、傍らの本を取り、物憂そうに読み出した。あたりは灰色の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>であった。

「何をお読みでございます？」

「うん」といったが元気がない。「珍らしくもない、<ruby><rb>武鑑</rb><rt>ぶかん</rt></ruby>だよ」

二人はそれっきり黙ってしまった。

と、浪人が誰にともつかず、

「どこぞへ主取りでもしようかしらん」

しかし女房は返辞をしない。

浪人は武鑑をポンと投げた。

「だが仕官は俺には向かぬ」

「それではおよしなさりませ」女房の声には力がない。むしろ冷淡な声であった。

「やっぱり俺は浪人がいい」浪人の声にも元気がない。

女房は黙って考えていた。

また雪のしずれる音。……

「その仕立て物はどこのだな？」

「お隣りのでございます」

「隣りというと一閑斎殿か」

女房は黙って<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

すると浪人は微笑したが、それから物でも探るように、

「あのお家は裕福らしいな？」

「そんなご様子でございます」

「ふん」と浪人は嘲笑った。「昔の俺なら見遁がさぬものを……」

――意味のあるらしい言葉であった。気味の悪い言葉であった。

ここで二人はまた黙った。

と、浪人は卒然といった。

「俺はすっかり変ってしまった」嘆くような声であった。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>も変ってしまいました」女房の声は顫えていた。

「俺は自分が解らなくなった。……それというのもあの晩からだ」

女房は返辞をしなかった。返辞の代りに立ち上がった。

「これ、どこへ行く。どうするのだ」

「灯でも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とも</span>そうではございませんか」

やがて行燈がともされた。<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼう</rt></ruby>っと立つ黄色い<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>に、煤びた天井が<ruby><rb>隈取</rb><rt>くまど</rt></ruby>られた。

と、女房は仏壇へ行った。

カチカチという切り火の音。……

ここへも燈明が<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>された。

「<ruby><rb>南無幽霊頓証菩提</rb><rt>なむゆうれいとんしょうぼだい</rt></ruby>。南無幽霊頓証菩提」

ブルッと浪人は身顫いをした。

「陰気な声だな。俺は嫌いだ」

「南無幽霊頓証菩提」

「その声を聞くと身が<ruby><rb>縮</rb><rt>すく</rt></ruby>む」

「どうぞどうぞお許しください。どうぞどうぞお許しください」

「止めてくれ！　止めてくれ！」

「妾はこんなに懺悔しています。どうぞ怨んでくださいますな」

ザワザワと<ruby><rb>竹叢</rb><rt>たけむら</rt></ruby>の揺れる音。……

どうやら夜風が出たらしい。

悪人同志の夫婦仲

「俺の心は弱くなった。それというのもあの晩からだ。……憎い奴は平手造酒だ！」

なお女房は祈っていた。

ザワザワと竹叢の揺れる音。……

次第に夜が更けて行った。

「天下の金は俺の物だ。斬り取り強盗武士の習い。昔の俺はそうだった。……両国橋の橋詰めで、あいつに河へ追い込まれてからは、<ruby><rb>何彼</rb><rt>なにか</rt></ruby>につけて怖じ気がつき、やることなすこと食い違い……」

なお女房は祈っていた。

やがてそろそろと立ち上がると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おっと</span>の側へ膝をついた。

そうして何かを聞き澄まそうとした。しかし何んにも聞こえない。

「ああ」と襟を掻き合わせたが、「まだ今夜は聞こえて来ない。どうぞ聞こえて来ないように」

チェッと浪人は舌打ちをした。

「毎晩きこえてたまるものか。なんの毎晩きこえるものか」

「毎晩きこえるではございませんか。ゆうべも、おとついも、その前の晩も。……」

「あれは……あれはな……空耳だ」

「なんの空耳でございましょう。あなたにも聞こえたではございませんか」

二人は顔をそむけ合った。

「……あれはな、亡魂の声ではない。……たしかに人間の声だった」

しかし女房は首を振った。

「あの人の声でございました。何んの<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>が聞き違いましょう。……」

近くに古沼でもあるとみえて、ギャーッと<ruby><rb>五位鷺</rb><rt>ごいさぎ</rt></ruby>の啼く声がした。

と、それと合奏するように、シャーッ、シャーッという狐の声が、物さびしい夜を物さびしくした。ホイホイホイ、ホイホイホイ、<ruby><rb>墨堤</rb><rt>つつみ</rt></ruby>を走る駕籠であった。

二人はもはや物をいわない。

物をいうことさえ恐れているのだ。

行き詰まった二人の心持ち！　しかも生活までも行き詰まっていた。

二人はいつまでも黙っていた。黙っていても不安であった。物をいっても不安であった。いったいどうしたらいいのだろう？

と、浪人はうめくようにいった。

「それにしても俺には解らない。……あんなものが！　馬方が！　ふん、あんな馬子の唄が、そうまでお前の心持ちを……」

「魅入られているのでございます」

「魅入られていると？　いかにもそうだ！　ああそれも、昔からだ！」

「あんな男と思いながら……それも死んでいる人間だのに……一度あの唄が聞こえて来ると、急に心が狂わしくなり、体じゅうの血が煮えかえり……生きている空とてはございません」

女は髪を掻きむしろうとした。

「因果な俺達だ。救いはない」

憐れむような声であった。

ふと、笑い声が聞こえて来た。この場に不似合いな笑い声であった。それを耳にすると二人の心は、一瞬の間晴々しくなった。

「なにか取り込みでもあるらしいな」

「ご客来だそうでございます。……能面をおもとめなされたそうで」

「ふん、それを見せるのか」

「お知り合いのお方をお呼びして」

「勝手なものだ。金持ちは」ギラリと浪人は眼を光らせた。「お北！」と相手の眼を見ながら、

「昔のお前に返る気はないかな？」

女房は凝然と動こうともしない。

「たかが相手はオイボレだ。……お前にぞっこん参っているらしい。……女中が去った、手伝いに来い。……などとお前をよぶではないか……急場のしのぎだ。格好な口だ」

亡魂のうたう追分節

「妾はイヤでございます」

「今の俺達は食うにも困る。それはお前も知っている筈だ。……なにもむずかしいことはない。ただ、笑って見せてやれ」

「昔の妾でございましたら……」

「俺から頼む、笑って見せてやれ」

「妾には出来そうもございません」

「そこを俺が頼むのだ」

「…………」

「ではいよいよ不承知か！　そういうお前は薄情者か！」

ポキリポキリと枯れ枝を折り、それを炉の火へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くべ</span>ながら、美男の浪人はいいつづけた。

「落ち目になれば憐れなものだ。女房にさえも馬鹿にされる。その女房とはその昔、殺すといえば殺されましょうと、こういい合ったほどの仲だったのに。が、それも今は愚痴か」

浪人はムッツリと腕をくんだ。

「俺はお前と別れようと思う」浪人は<ruby><rb>憎々</rb><rt>にくにく</rt></ruby>しくやがていった。「くらしが変れば心持ちも変る。……俺は成りたいのだ、明るい人間にな」

女は肩をすくませた。

「それがあなたに出来ましたら……」

「別れられないとでも思うのか」

「あなたも妾も二人ながら、のろわれている身ではございませんか。二人一所におってさえ、毎日毎夜恐ろしいのに。……それがあなたに出来ましたら」

夜がふけるにしたがって、隣家の騒ぎもしずまった。笑い声もきこえない。

ボーンと鐘が鳴り出した。諸行無常の<ruby><rb>後夜</rb><rt>ごや</rt></ruby>の鐘だ。

「酒はないか？」と浪人はいった。

「なんの酒などございましょう」

きまずい沈黙が長くつづいた。耳を澄ませば按摩の笛。それに続いて夜鍋うどんの声……。

「こんな晩には寝た方がよい。ああせめてよい夢でも。……」

枕にはついたが眠れない。

犬の遠吠え、夜烏の<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>く<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>、ギーギーと櫓を漕ぐ音。……隅田川を上るのでもあろう。

寂しいなアと思ったとたん、

西は追分東は関所……

追分の唄が聞こえて来た。

「あッ」

というと二人ながら、ガバと夜具の上へ起き上がった。

関所越えれば旅の空

「あなた！」と女房は取り縋った。

「うむ」といったが、耳を澄ました。

「あの唄声でございます！」

「いやいやあれは……人間の声だ！」

「甚三の声でございます！」

「そっくりそのまま……いや異う！」

「亡魂の声でございます！」

「待て待て！　しかし似ているなア」

<ruby><rb>碓井</rb><rt>うすい</rt></ruby>峠の権現さまよ……

だんだんこっちへ近寄って来た。

わしがためには守り神

もう門口へ来たらしい。

浪人は刀をツト握った。そっと立つと夜具を離れ、足を刻むと戸口へ寄った。

追分、油屋、掛け行燈に

聞き澄まして置いて浪人は、そろそろと雨戸へ手をかけた。

浮気ごめんと書いちゃない

「うん」というとひっ外した。抜き打ちの一文字、横へ払った気合いと共に、<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で飛び下りた雪の中、ヒヤリと寒さは感じたが、眼に遮る物影もない。

忽然響き渡る鼓の音

今年の最初の雪だというに、江戸に珍らしく五寸も積もり、藪も耕地も白一色、その雪明りに照らされて、<ruby><rb>遠方</rb><rt>おちかた</rt></ruby><ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と見渡されたが、命ある何物をも見られなかった。

行燈の灯が消えようとした。

その向こう側に物影があった。

「誰！」

といいながら<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>かして見たが、もちろん誰もいなかった。で、女房は溜息をした。

<ruby><rb>鼬</rb><rt>いたち</rt></ruby>が鼠を追うのであろう、天井で烈しい音がした。バラバラと煤が落ちて来た。

すると今度は浪人がいった。

「肩から真っ赤に血を浴びて、坐っているのは何者だ！」

そうして行燈の向こう側を、及び腰をして透かして見たが、

「ハ、ハ、ハ、何んにもいない」

<ruby><rb>空洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>のような声であった。

二人はピッタリ寄り添った。しっかり手と手が握られた。二人に共通する恐怖感！　それが二人を親しいものにした。

冬なかばの夜であった。容易なことでは明けようともしない。<ruby><rb>丑満</rb><rt>うしみつ</rt></ruby>には風さえ止むものであった。鼠も鼬も眠ったらしい。塵の音さえ聞こえそうであった。

と、その時、ポン、ポン、ポンと、<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>の音が聞こえて来た。

聞き覚えのある音であった。追分で聞いた鼓であった。江戸の能役者観世銀之丞が、追分一杯を驚かせて、時々調べた鼓の音だ。いいようもない美音の鼓、どうしてそれが忘られよう。

しかし打ち手は異うらしい。正調でもなければ乱曲でもない。それは素人の打ち方であった。

しかも深夜の静寂を貫き、一筋水のように鳴り渡った。

誰が調べているのだろう？　何んのために調べているのだろう？　それも厳冬の雪の戸外で！

ポン、ポン、ポン！

ポン、ポン、ポン！

一音、一音が一つ一つ、冬夜の空間へ印を押すように、鮮やかにクッキリと抜けて響いた。

と、鼓は鳴り止んだ。

二人はホーッと溜息をした。

鼓の鳴り止んだその後は、鳴る前よりも静かになった。鳴る前よりも寂しくなった。

そうして凄くさえ思われた。

二人はビッショリ汗をかいていた。

その凄さ、その寂しさ、その静かさを掻き乱し、「泥棒！」という声のひびいたのは、それから間もなくのことであった。

戸のあく物音、走り廻る足音。「こっちだ」「あっちだ」「逃げた逃げた」<ruby><rb>詈</rb><rt>ののし</rt></ruby>る声々の湧き上がったのも、それから間もなくのことであった。

「そうか」

と浪人ははじめていった。「噂に高い鼓賊であったか」

「お気の毒に、一閑斎様は、能面でも取られたのでございましょう」

「ふん、それもいいだろう。金持ちの馬鹿道楽、あらいざらい盗まれるがいい」

賊は首尾よく逃げたらしい。

やがて人声もしずまった。

また静寂が返って来た。

サラサラと崩れる雪の音。……

「俺は鼓賊が<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましい」

<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くと同時に浪人は、刀を提げて立ち上がった。

「どちらへお越しでございます？」

「俺か」というと浪人は、顔に殺気を漂わせたが、「仕事に行くよ。仕事にな。……今夜は仕事が出来そうだ」

「どうぞお止めくださいまし」

「ふん、何故な？　なぜいけない」

「後生をお願いなさいませ」

「うん後生か。それもよかろう。が、どうして食って行くな」

「<ruby><rb>饑</rb><rt>う</rt></ruby>え死のうではございませんか」

「死ぬには早い。俺はイヤだ」

「妾は死にそうでございます。……殺されそうでございます。……自分で<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>れて死のうもしれぬ。……」

「死にたければ死ぬもよかろう」

「あなた！」といって取り縋った。「ひと思いに殺してくださいまし」

「そんなに俺の手で死にたいか」

浪人は鼻でセセラ笑ったが、「そうさ、いずれはそうなろうよ」縋られた手を振り払い、「俺は行くのだ。行かなければならない。鼓賊が俺をそそのかしてくれた。鼓賊が俺を勇気づけてくれた」

「<ruby><rb>悪行</rb><rt>あくぎょう</rt></ruby>はおやめくださいまし」

「どうしてきょうの日を食って行く」

「ハイ、この上は、この妾が……」

女房は<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で顔を蔽うた。

「うん、やるつもりか！　<ruby><rb>美人局</rb><rt>つつもたせ</rt></ruby>！」

「ハイ、<ruby><rb>夜鷹</rb><rt>よたか</rt></ruby>でも、<ruby><rb>惣嫁</rb><rt>そうか</rt></ruby>でも」

「そんなことではまだるッこいわい！」

ポンと足で蹴返すと、浪人はツト外へ出た。

……開けられた<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>から舞い込んだのは、風に捲かれた粉雪であった。

女房は門の戸を閉じようともしない。

遠くで追分が聞こえていた。

今の雪風に煽られたのか、炉の<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>み火が燃え上がった。

サラサラと落ちる雪の音。……

「身を苦しめるが罪障消滅。……もうあの人は帰って来まい。……ああまた追分が聞こえて来る」

耳を澄まし眼を据えた。

木立ちに風があたっていた。

どこぞに遠火事でもあると見えて、ひとつばんが鳴っていた。カーンと一つ聞こえて来ては、そのまましんと静まり返り、ややあってまたもカーンと鳴った。

女房はヨロヨロと立ち上がった。

そうして部屋の中を廻り出した。

「お前に習った信濃追分、お前が唄うなら妾も唄う。……『信州追分桝形の茶屋で』……妾が悪うございました。どうぞかんにんしてくださいまし。……『ほろりと泣いたが忘らりょか』……妾が悪うございました。そんなに怨んでくださいますな。……おおおおだんだん近寄って来る！」

振り乱した髪、もつれた<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>、<ruby><rb>肋</rb><rt>あばら</rt></ruby>の露出したあお白い胸。……<ruby><rb>懊悩地獄</rb><rt>おうのうじごく</rt></ruby>の亡者であった。

手を泳がせ、裾を蹴り、唄いながら女房は部屋を廻った。

富士甚内とお北との生活。……

鋭利をきわめた五寸釘の手裏剣

「あッあッあッ、あッあッあッ」

「おおよしよし、解った、解った」

「あッあッあッ、あッあッあッ」

「もういいもういい、解った解った。あッハハハハ、びっくりしていやがる。いや驚くのがあたりめえだ。信州追分とは違うからな。名に負う将軍お膝元、八百万石のお城下だからな。土一升金一升、お江戸と来たひにゃア豪勢なものさ。しかも盛り場の両国詰め、どうだいマアマアこの人出は！　ペンペンドンドンピーヒャラピーヒャラ、三味線太鼓に笛の音、いや全く景気がいいなあ。ははあ、あいつは女<ruby><rb>相撲</rb><rt>ずもう</rt></ruby>だな。こっちの小屋掛けは<ruby><rb>軽業</rb><rt>かるわざ</rt></ruby>一座。ええとあれは<ruby><rb>山雀</rb><rt>やまがら</rt></ruby>の芸当、それからこいつは徳蔵手品、いやどうも全盛だなあ」「あッあッあッ。あッあッあッ」「うんよしよし、解った解った、あんまりあッあッといわねえがいい。人様がお笑いなさるじゃねえか。きりょうは結構可愛いのに、ふふんなアんだ<ruby><rb>唖娘</rb><rt>おしむすめ</rt></ruby>か、こういってお笑いなさるからな」「あッあッあッ、あッあッあッ」「あれまたあッあッていやアがる。あッハハハ、どうも仕方がねえ。じゃ勝手にいうがいいさ。いう方がこいつ本当かも知れねえ。追分宿からポッと出の、きょうきのう江戸へ来たんだからな。見る物聞く物といいてえが、お前は唖だから聞くことは出来ねえ。そこで見る物見る物だが、その見る物見る物が、珍しいなあ無理はねえ。うん、精々いうがいい。あッあッあッていうがいい」

こんなことをいいながら、雪解けでぬかる往来を、ノッソリノッソリやって来たのは、甚三の弟の甚内と、その妹のお霜とであった。

ここは両国の盛り場で、興行物もあれば茶屋もあり、武士も通れば町人も通り、そうかと思えばおのぼりさんも通る。色と匂いと音楽と、……雑沓と歓楽との場であって、大概<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>な田舎者でも、ここではたいして目立たなかった。

急にお霜が立ち止まり、じっと一点を見詰め出したので、甚内も連れて立ち止まった。

「どうしたどうした、え、お霜、オヤ何か見ているな。ははあ芝居の看板か」

坂東米八の掛け小屋が、旗や<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>で飾られて、素晴らしい景気を呼んでいたが、そこに懸けられた、絵看板に、宿場女郎らしい美女の姿が、<ruby><rb>極彩色</rb><rt>ごくさいしき</rt></ruby>で描かれていた。その顔の辺へお霜の眼が、しっかり食いついて離れない。

「奇態だな、見たような顔だ」

呟きながら甚内も、その絵看板へ見入ったが、思わずポンと膝を叩いた。

「ううん、こいつア油屋お北だ！」

兄甚三を殺害した、富士甚内と油屋お北、そのお北に看板の絵が、そっくりそのままだということは、それら二人を<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>と狙う、甚内兄妹の身にとっては、驚くべき発見といわざるを得ない。

しばらく見詰めていた甚内の眼へ、一抹の殺気の漂ったのは、当然なことといわなければならない。「チェ」と彼は舌打ちをした。「看板にゃ罪はねえ。が、お北にゃ怨みがある。幸か不幸か看板の絵が、こうもお北に似ているからにゃ、こいつ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっちゃっちゃ</span>置けねえなあ」

彼はあたりを見廻した。人通りは繁かったが、彼ら二人を見ている者はない。木戸に番人は坐っているものの、これまた二人などに注意してはいない。

「イラハイイラハイ、今が初まり、名人地獄、鼓賊伝、イラハイイラハイ、今が初まり！」大声でまねいているばかりであった。

「よし」というと甚内は、右手で懐中をソロソロと探った。そうしてその手がひき抜かれた時には、五寸釘が握られていた。ヤッともエイとも掛け声なしに、肩の辺で手首が閃めいたとたん、物をつん裂く音がした。

「<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>ア見やがれ」と捨てゼリフ、甚内はお霜の手を曳くと、橋を渡って姿を消した。

いったい何をしたのだろう？　絵看板を見るがいい。宿場女郎の立ち姿の、その右の眼が突き抜かれていた。それも尋常な抜き方ではない。看板を貫いたその余勢で、掛け小屋の板壁を貫いていた。小柄を投げてもこうはいかない。

甚内の喧嘩の得手

これには当然な理由があった。というのはその師匠が、千葉周作だからであった。

千葉道場へ入門してから、すでに三月経っていた。

初め敵討ちの希望をもって、千葉道場を<ruby><rb>訪</rb><rt>おと</rt></ruby>ずれて、武術修行を懇願するや、周作はすぐに承知した。

「どうやら話の様子によると、富士甚内というその人間、武術鍛練の豪の者のようだ。ところでお前はどうかというに、以前は馬方今は<ruby><rb>水夫</rb><rt>かこ</rt></ruby>、太刀抜く<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>も知らないという。ちとこれは<ruby><rb>剣呑</rb><rt>けんのん</rt></ruby>だな。なかなか武術というものは、二年三年習ったところで、そう名人になれるものではない。しかるに一方敵とは、いつなん時出逢うかもしれぬ。今のお前の有様では返り討ちは必定だ。……そこでお前に訊くことがある。どうだ、喧嘩などしたことがあろうな？」

「へえ」といったが甚内は、びっくりせざるを得なかった。「喧嘩なら今でも致しますので。馬方船頭お<ruby><rb>乳</rb><rt>ち</rt></ruby>の人と、がさつな物の例にある、その馬方なり船頭なりが、私の稼業でございますので。」

「そこで喧嘩は強いかな？」

「へえ」といったが甚内は、いよいよ変な顔をした。「強いつもりでございます」

「得手は何んだな？　喧嘩の得手は？」「へえ、得手とおっしゃいますと？」「突くとか蹴るとか撲るとか、何か得意の手があろう」「ああそのことでございますか。へえ、それならございます。石を投げるのが大得意で」「石を投げる？　<ruby><rb>石飛礫</rb><rt>いしつぶて</rt></ruby>だな。いやこれは面白い。どうだタマにはあたるかな？」

すると甚内は不平顔をしたが、

「へえ、なんでございますかね？」「石飛礫だよ、タマにはあたるかな」「いえ、タマにはあたりません」「ナニあたらないと、それは困ったな」「へえタマにはあたらないので、その代りいつもあたります」「アッハハハ、そういう意味か」

千葉周作は笑い出してしまった。

「ところでどういうところから、そういう変り手を発明したな？」「それには訳がございます。つまり撲られるのがイヤだからで」「それは誰でもイヤだろう」「私は特別イヤなので。撲られると痛うございます」「うん、そういう話だな」「それに撲られると腹が立ちます」「礼をいって笑ってもいられまい」「ところが取っ組んでしまったら、一つや二つは撲られます。それが私にはイヤなので。そこでソリャコソ喧嘩だとなると、二間なり三間なりバラバラと逃げてしまうのでございますな。それから小石を拾うので。そうして投げつけるのでございますよ。へえ、百発百中で、それこそ今日まで、一度だって、外れたことはございません」「おおそうか、それは偉いな」

こういうと周作は立ち上がった。「甚内、ちょっと道場へ来い。……これ誰か外へ行って小石を二、三十拾って来い」

で、道場へやって来た。

「さて、甚内、お前の足もとに、小石が二、三十置いてある。それを俺に投げつけるがいい」

「へえ」といったが甚内は、困ったような顔をした。

「それは先生様いけません」

「なぜな？」と周作は笑いながら訊いた。

「もってえねえ話でございますよ」

「そうさ、一つでも<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>ったらな」「では<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>らねえとおっしゃるので？」「ひとつお前と約束しよう。お前の投げた石ツブテが、一つでも俺に中ったら、この道場をお前に譲ろう」「こんな立派な道場をね。……そうして先生はどうなされます」「俺か、アッハハハ、そうしたら、武者修行へでも出るとしようさ」「それはお気の毒でございますな」「そうきまったら投げるがいい」

北辰一刀流手裏剣用の武器

「へえ」といったが甚内は、なお何か考えていた。「で、どこを目掛けましょう？」「人間の急所はまず<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>だ。眉間を目掛けて投げてこい」「それじゃ思いきって投げますべえ」

二人は左右へス――ッと離れた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あわい</span>はおおかた十間もあろうか、一本の鉄扇を右手に握り、周作は笑って突っ立った。

「はじめの一つはお毒見だ」

こういいながら甚内は、手頃の小石を一つ握った。

「それじゃいよいよやりますだよ」叫ぶと同時にピュ――ッと投げた。恐ろしいような速さであった。と周作の鉄扇が、チラリと左へ傾いたらしい。カチッという音がした。つづいてドンという音がした。石が鉄扇へさわった音と、板の間へ落ちた音であった。

「やり損なったかな、こいつアいけねえ。が、二度目から本式だ」

甚内は二つ目の石を取った。とまたピュ――ッと投げつけた。今度は鉄扇が右に動き、カチッという音がして、石は右手へ転がり落ちた。

「ほう、こいつも失敗か」甚内は呆れたというように、口をあけて突っ立ったが、「よし」というと残りの石を、一度に<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>って懐中へ入れた。

「ようござんすか、先生様、今度は続けて投げますぞ」

「うん、よろしい、好きなようにせい」

その瞬間に甚内の<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>が、懐中の中へスルリとはいり、石を握った手首ばかりを、襟からヌッと外へ出した。と、その石を<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>が受け取り、取った時には投げていた。そうして投げた次の瞬間には、<ruby><rb>左手</rb><rt>ゆんで</rt></ruby>に握っていた送り石を、すでに<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>が受け取っていた。するともうそれも投げられていた。最初の石の届かないうちに、二番目の石が宙を飛び二番目の石が飛んでいるうちに、三番目四番目の石ツブテが、次から次と投げられた。

石は一本の棒となって、周作目掛けて飛んで行った。自慢するだけの値打ちのある、実に見事な放れ<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>であった。

しかし一方それに対する、周作の態度に至っては、子供に向かう大人といおうか、まことに悠然たるものであって、ただ端然と正面を向き、突き出した鉄扇を手の先で、右と左へ動かすばかり、微動をさえもしなかった。

カチカチと鉄扇へさわる音、トントンと板の間へ落ちる音、それが幾秒か続いたらしい。

「もういけねえ。元が切れた」

甚内の叫ぶ声がした。

周作は微笑を浮かべたが、

「どうだ、甚内、少しは解ったか」

「一つぐらい<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>りはしませんかね？」

「道場は譲れぬよ、気の毒だがな」

「へえ、さようでございますかね」

「こっちへこい。いうことがある」

元の座敷へ戻って来た。

「さて甚内」と改まり、「思ったよりも立派な業だ。周作少なからず感心した。稽古して完成させるがいい。しかし小石では利き目が薄い、小石の代りに五寸釘を使え」

それから周作は説明した。

「というのは剣道の中に、知新流の手裏剣といって、一個独立した業がある。俺も多少は心得ている。それをお前に伝授するによって、お前の得手のツブテ術に加えて、発明研究するがいい。以前から俺はそれについて、一つの考えを持っていた。……武士は<ruby><rb>平常</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>護身用として、腰に両刀をたばさんでいる。で剣術さえ心得ていたら、まずもって体を守ることが出来る。しかるに町人百姓や、なおそれ以下の職人などになると、大小は愚か<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>一本、容易なことでは持つことがならぬ。これは随分危険な話だ。そこで俺は彼らのために、何か格好な護身具はないかと、内々研究をした結果、見つけ出したのが五寸釘だ。ただし普通の五寸釘では、目方が軽くて投げにくい。そこで特別にあつらえてみた」

こういいながら周作は、手文庫から釘を取り出した。

「見るがいいこの釘を。先が細く頭部が太く、そうして全体が肉太だ。ちょっと持っても持ち重りがする。しかし形や寸法は、何ら五寸釘と<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>りがない。で幾十本持っていようと、官に咎められる気遣いはない。これ北辰一刀流手裏剣用の五寸釘だ」

急拵えの大道芸人

周作は優しく微笑した。

「どうだ甚内、この五寸釘を、練磨体得する所存はないか」

「なんのないことがございましょう。習いたいものでございます」勇気を含んで甚内はいった。

「おお習うか、それは結構。この一流に秀でさえしたら、<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>に逢ってもおくれは取るまい。なまじ剣術など習うより、これに専念をした方がいい」「そういうことに致します」「実はな、俺は案じていたのだ。剣術槍術弓薙刀、一流に達していたところで、一撃で相手を斃すことは出来ない。例えば鎌倉権五郎だ、十三<ruby><rb>束</rb><rt>ぞく</rt></ruby>三<ruby><rb>伏</rb><rt>ぶせ</rt></ruby>の矢を、三人張りで射出され、それで片目射潰されても、なお堂々と敵を斬り、生命には何んの別状もなかった。剣豪塚原卜伝でさえ、一刀では相手を殺し兼ねたという。まして獲物が五寸釘とあっては、機先を制して投げつけて、<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby>相手を追い散らすぐらいが、関の山であろうと思っていた。ところがお前の精鋭極まる、ツブテの手並みを見るに及んで、俺の不安は杞憂となった。一本二本では討ち取れないにしても、三本目には斃すことが出来よう」「へえ、大丈夫でございましょうか」「大丈夫だ。保証する」「有難いことでございます」

こうして甚内はこの日以来、千葉道場の内弟子となり、五寸釘手裏剣の妙法を周作から伝授されることとなった。教える周作は天下一の剣聖、習う甚内には下地がある。これで上達しなかったら、それこそ面妖といわざるを得ない。

ところで一方甚内は、武芸を習う余暇をもって、江戸市中を<ruby><rb>万遍</rb><rt>まんべん</rt></ruby>なくあるき、目差す<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を探すことにした。しかし直接の用事もないのに、広い市中をブラブラと、手ぶらであるくということは、かなり退屈なことであった。そこでいろいろ考えた末、「追分を唄って合力を乞い、軒別に尋ねてあるくことにしよう」こういうことに心をきめた。

既に<ruby><rb>以前</rb><rt>まえかた</rt></ruby>記したように、元来甚内は追分にかけては、からきし唄えない人間であった。それが一夜奇怪な理由から、唄えるようになってからは、彼はにわかに興味を覚え、ない歌詞までも自分で作って、折にふれては唄い唄いした。しかるにまことに不思議なことには、彼の唄の節たるや、兄甚三そっくりであった。ちょうど甚三その人が、甚内の腹にでも宿っていて、その甚三の唄う唄が、甚内の口から出るのではないかと、こう疑われるほどであった。で、誰か追分宿あたりで、甚三のうたう追分を聞き、さらに大江戸を流して歩く、甚内の追分を耳にしたとしたら、その差別に苦しんで、恐らくこういうに違いない。

「いやいやあれは甚三の唄だ。もし甚三が死んでいるとすれば、甚三その人の亡魂の唄だ」

とまれ甚内は追分を唄って、江戸市中をさまよった。しかし敵の手がかりはない。そこでまた彼は考えた。

「油屋お北は知っている。だが肝腎の富士甚内を、俺は一度も見たことがない。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>について聞き知ってることは、非常な美男だということと、着物につけた定紋が、<ruby><rb>剣酸漿</rb><rt>けんかたばみ</rt></ruby>だということだけだ。これではよしや逢ったところで、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>が紋服を着ていない限りは、敵だと知ることが出来ないだろう。これはどうも困ったことだ」

これは実際彼にとって、何よりも辛い事柄であった。しかしとうとう考えついた。

「うん、そうだ、いいことがある。<ruby><rb>唖者</rb><rt>おし</rt></ruby>ではあるが、妹のお霜は、富士甚内を見知っている筈だ。妹を江戸へ連れて来て、一緒に市中を廻ったら、よい手引きになろうもしれぬ」

復讐の念いよいよ堅し

そこで周作に暇を乞い、故郷の追分へ帰ることにした。

この頃お霜は油屋にいた。

一人の兄は<ruby><rb>非業</rb><rt>ひごう</rt></ruby>に死し、もう一人の兄は他国へ行き、二、三親類はあるとはいえ、その日ぐらしの貧乏人で、片輪のお霜を引き取って、世話をしようという者はない。で甚三が殺されてからの、お霜の身の上というものは、まことに憐れなものであったが、捨てる神あれば助ける神ありで、油屋本陣の女中頭、<ruby><rb>剽軽者</rb><rt>ひょうきんもの</rt></ruby>の例のお杉が、気の毒がって手もとへ引き取り、台所などを手伝わせて、可愛がって養ったので、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつえ</span>て死ぬというような、そんな境遇にはいなかったが、さりとて楽しい境遇でもなかった。自分はといえば<ruby><rb>唖者</rb><rt>おし</rt></ruby>であった。周囲といえば他人ばかり、泣く日の方が多かった。自然兄弟を恋い慕った。

そこへ甚内が現われたのであった。

お霜の喜びも大きかったが、お杉もホッと安心した。

「おお甚内さん、よう戻られたな。お前さんの兄さんの甚三さんは、お前さんと同じ名の富士甚内に、むごたらしい目に合わされてな、今は石塔になっておられる」

お杉をはじめ近所の人達に、こんな具合に話し出されて、甚内は悲しみと怨みとを、またそこで新たにした。

貧しい二、三の親類や、近所の人達の<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>によって、営まれたという葬式の様子や、形ばかりの石塔を見聞きするにつれ、故郷の人々の厚情を、感謝せざるを得なかった。

「これから甚内さんどうなさる？」

こう宿の人に訊かれた時、甚内は正直に打ち明けた。

「草を分けても探し出し、敵を討つつもりでございます」

「おおおお、それは勇ましいことだ」宿の人達は驚きながらも、賞讃の辞を惜しまなかった。

追分宿で七日を暮らし、いよいよ江戸へ立つことになった。心づくしの餞別も集まり、宿の人達は数を尽くして、関所前まで見送った。妹お霜を馬に乗せ、甚内自身手綱を曳き、関所越えれば旅の空、その旅へ再び出ることになった。

見れば三筋の噴煙が、浅間山から立っていた。思えば今年の夏のこと、兄甚三に送られて、この曠野まで来た時には、緑が<ruby><rb>鬱々</rb><rt>うつうつ</rt></ruby>と茂っていた。その時甚内の乞うに<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せ、甚三の唄った追分節は、今も耳に残っていた。しかるに今は冬の<ruby><rb>最中</rb><rt>もなか</rt></ruby>、草木山川<ruby><rb>白皚々</rb><rt>はくがいがい</rt></ruby>、見渡す限り雪であった。自然はことごとく色を変えた。しかし再び夏が来れば、また緑は萌え出よう。だが甚三は帰って来ない。<ruby><rb>遠離茫々</rb><rt>えんりぼうぼう</rt></ruby>幾千載。たとえ千載待ったところで、死者の甦えった<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>はない。<ruby><rb>如露</rb><rt>にょろ</rt></ruby>また<ruby><rb>如電</rb><rt>にょでん</rt></ruby>これ人生。命ほどはかないものはない。

人は往々こういう場合に、宗教的悟覚に入るものであった。しかし甚内は反対であった。

「この悲しさも、このはかなさも、富士甚内とお北とのためだ。討たねば置かぬ！　討たねば置かぬ！　敵の名前は富士甚内、富士に対する名山と云えば、俺の故郷の浅間山だ。それでは今日から俺が名も、浅間甚内と呼ぶことにしよう。聞けば昔京師の伶人、富士と浅間というものが、喧嘩をしたということだが、今は天保<ruby><rb>癸未</rb><rt>みずのとひつじ</rt></ruby>ここ一年か半年のうちには、どうでも敵を討たなければならぬ」

いよいよ復讐の一念を、益〻ここで強めたのであった。

二人が江戸へ着いたのは、それから間もなくのことであった。

子柄がよくて不具というので、かえってお霜は同情され、千葉家の人達から可愛がられ、にわかに幸福の身の上となった。

爾来二人は連れ立って、時々市中を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>ったが、甚内が唄う追分たるや、信州本場の名調なので、忽ち江戸の評判となった。ひとつは歌詞がいいからでもあった。

日ぐれ草取り寂してならぬ、鳴けよ草間のきりぎりす

親の意見と<ruby><rb>茄子</rb><rt>なすび</rt></ruby>の花は、千に一つのむだもない

めでた若松<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>に染めて、着せてやりましょ伊勢様へ

思いとげたがこの投げ島田、丸く結うのが恥ずかしい

かあいものだよ鳴く<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>をとめて、来たを知らせのくつわ虫

<ruby><rb>百日百夜</rb><rt>ももかももよ</rt></ruby>をひとりで寝たら、あけの<ruby><rb>鶏</rb><rt>とり</rt></ruby>さえ<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>さびし

浅間山風吹かぬ日はあれど、君を思わぬ時はない

よしや辛かれ身はなかなかに、人の情の憂やつらや

見る目ばかりに浪立ちさわぎ、<ruby><rb>鳴門船</rb><rt>なるとぶね</rt></ruby>かや阿波で漕ぐ

月を待つ夜は雲さえ立つに、君を待つ夜は冴えかえる

君と我とは<ruby><rb>木框</rb><rt>きわく</rt></ruby>の糸か、切れて離れてまたむすぶ

山で小柴をしむるが如く、こよいそさまとしめあかす

多くは甚内自作の歌詞で、情緒<ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>率直であるのが、江戸の人気に投じたのであった。

<ruby><rb>深編笠</rb><rt>ふかあみがさ</rt></ruby>で二人ながら、スッポリ顔を隠したまま、扇一本で拍子を取り、朗々と唄うその様子は、まさしく大道の芸人であったが、いずくんぞ知らんその懐中に、<ruby><rb>磨</rb><rt>と</rt></ruby>ぎ澄ましたところの釘手裏剣が、数十本<ruby><rb>蔵</rb><rt>ぞう</rt></ruby>してあろうとは。

お<ruby><rb>船手頭</rb><rt>ふなてがしら</rt></ruby>向井<ruby><rb>将監</rb><rt>しょうげん</rt></ruby>

赤格子九郎右衛門の本拠を突き止め、何かを入れた封じ箱を、その九郎右衛門に手渡せというのが、碩翁様からの命令であった。

郡上平八は名探偵、すぐに品川から船に乗り出し、日本の海岸をうろつくような、そんなへまはしなかった。

市中の探索から取りかかった。

翌朝早く家を出ると、駕籠を京橋へ走らせた。

「ここでよろしい」

と下り立ったところは、新船松町の辻であった。

そこに宏壮な邸があった。

二千四百石のお旗本、お<ruby><rb>船手頭</rb><rt>ふなてがしら</rt></ruby>の首位を占める、<ruby><rb>向井将監</rb><rt>むかいしょうげん</rt></ruby>の邸であったが、つと平八は玄関へかかり、一封の書面を差し出した。碩翁様からの紹介状であった。

「殿様ご在宅でございましたら、お目通り致しとう存じます」

「しばらく」

と取り次ぎは引っ込んだが、すぐに引っ返して現われた。

「お目にかかるそうでございます。いざお通りくださいますよう」

「ご免」

というと玄関へ上がり、そこで刀を取り次ぎへ渡し、郡上平八は奥へ通った。

待つ間ほどなく現われたのは、大兵肥満威厳のある、五十年輩の武士であったが、すなわち向井将監であった。

「おおそこもとが郡上氏か、玻璃窓の高名存じておる。碩翁殿よりの紹介状、<ruby><rb>丁寧</rb><rt>ていねい</rt></ruby>でかえって痛み入る。くつろぐがよい、ゆっくりしやれ」

濶達豪放な態度であった。

「早速お目通りお許しくだされ、有難き仕合わせに存じます」

「大坂表で処刑された、海賊赤格子九郎右衛門について、何か聞きたいということだが」

「ハイ、さようにございます。お殿様には先祖代々、お船手頭でございまして、その方面の智識にかけては、他に<ruby><rb>匹儔</rb><rt>ひっちゅう</rt></ruby>がございませぬ筈、つきましては赤格子九郎右衛門が、乗り廻したところの海賊船の、構造ご存知ではございますまいか？」

「さようさ、いささかは存じておる」

「やっぱり帆船でございましたかな？」

「さよう、帆船ではあったけれど、帆の数が非常に多かったよ」

「ははあ、さようでございますか」

「それにその帆の形たるや、四角もあれば三角もあり、大きなのもあれば小さなのもあった」

「ははあ、さようでございますか」

「日本の型ではないのだそうだ。南蛮の型だということだ」

「それは、さようでございましょうとも」

「で、<ruby><rb>船脚</rb><rt>ふなあし</rt></ruby>が恐ろしく速く、風がなくても<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>ることが出来た。ヨット型とか申したよ」

「ははあ、ヨット型でございますな」

平八は手帳へ書きつけた。

「それから」と将監はいいつづけた。

「<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の格子が朱塗りであったな。それが赤格子の異名ある由縁だ」

「ははあ、さようでございますか」平八は手帳へ書きつけた。

「ええと、それから大砲が二門、<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>と<ruby><rb>船尾</rb><rt>とも</rt></ruby>とに備えつけてあった。それも尋常な大砲ではない。そうだ、やっぱり南蛮式であった」

「南蛮式の大砲二門」

平八はまたも書きつけた。

「まず大体そんなものだ」

「よく解りましてございます。……ええと、ところで、もう一つ、その赤格子の襲撃振りは、いかがなものでございましたかな？」

「襲撃ぶりか、武士的であったよ」

「は？　武士的と申しますと？」

「決して婦女子は殺さなかった。そうして敵対をしない限りは、男子といえども殺さなかった」

町奉行所の与力たち

「それは感心でございますな」

こういいながら平八は、またも手帳へ書きつけた。

「つまり彼は威嚇をもって、相手を<ruby><rb>慴伏</rb><rt>しょうふく</rt></ruby>させたのだ」将監は先へ語りつづけた。「こいつと目差した船があると、まずその進路を<ruby><rb>要扼</rb><rt>ようやく</rt></ruby>し、ドンと大砲をぶっ放すのだ。だがそいつは空砲だ。つまり停まれという信号なのだ。それで相手が停まればよし、もしそれでも停まらない時には、今度は実弾をぶっ放すのだ。が、それとてもあてはしない。相手の前路へ落とすのだ。これが<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る有効で、大概の船は顫えあがり、そのまま停まったということだ。しかしそれでも強情に、道を転じて逃げようとでもすると、その時こそは<ruby><rb>用捨</rb><rt>ようしゃ</rt></ruby>なく、三発目の大砲をぶっ放し、沈没させたということだ」

「一発は空砲、二発は実弾、ただしそのうち一発は、わざとあてずに前路へ落とす、つまりかようでございますな」

平八は四たび書きつけた。

「もはや充分でございます」

お礼をいって邸を出ると、平八はふたたび駕籠へ乗った。

「駕籠屋、急げ！　数寄屋町だ！」

「へい」

と駕籠屋は駈け出した。

「よろしい、下ろせ」

と駕籠を出たところは、南町奉行所の門前であった。

裏門へ廻ると平八は、ズンズン<ruby><rb>内</rb><rt>なか</rt></ruby>へはいって行った。

与力詰所までやって来ると、顔見知りの与力が幾人かいた。

「いよう、これは郡上氏」

「いよう、これは玻璃窓の旦那」

「いよう、これは無任所与力」

などといずれも声を掛けた。それほどみんなと親しいのであった。

「玻璃窓の<ruby><rb>爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>の出張だ。大事件が起こったに違いない、うかつにノホホンに構えていて、抜かれでもしたら不面目、あぶねえあぶねえ、用心用心」

なかにはこんなことをいう者もあった。

平八はニヤリと笑ったばかり、一人の与力へ眼をつけると、

「石本氏、ちょっとお顔を」

「なんでござるな」

と立って来るのを、平八は別室へ<ruby><rb>誘</rb><rt>いざな</rt></ruby>った。

「秘密に書き上げを拝見したいが」

「ははあ、書き上げ？　どうなされるな？」

「いやちょっと、ご迷惑はかけぬ」

「貴殿のこと、よろしゅうござる」

持って来た書き上げをパラパラめくると、二、三平八は書きとめた。

「そこで、もう一つお願いがござる。……貴殿のお名を拝借したい」

「いと易いこと、お使いなされ」

また平八は駕籠へ乗った。

「日本橋だ、河岸へやれ」

下りたところに廻船問屋、加賀屋というのが立っていた。

「許せよ」

と平八はズイとはいった。

「これはおいでなさいませ。ええ、何か廻船のご用で？」

店の者は揉み手をした。

「いやちょっと主人に逢いたい」

「どんなご用でございましょう？」<ruby><rb>迂散</rb><rt>うさん</rt></ruby>らしく眼をひそめた。

「逢えば解る、主人にそういえ」

「失礼ながらあなた様は？」

「南町奉行所吟味与力、石本勘十郎と申す者だ」

「へーい」

というと二、三人、奥へバタバタと駈け込んだ。それほどまでに吟味与力は、権勢のあったものである。

「どうぞお通りくださりますよう」

「そうか」というと郡上平八はズイと奥の間へ通って行った。

廻船問屋を歴訪す

茶と<ruby><rb>莨盆</rb><rt>たばこぼん</rt></ruby>と菓子が出て、それから主人が現われた。

額をピッタリ畳へつけ、

「当家主人、<ruby><rb>卯三郎</rb><rt>うさぶろう</rt></ruby>、お見知り置かれくだされますよう」

「早速ながら訊くことがある」

「は、は、何事でござりましょうか？」

「今月初旬、七里ヶ浜沖で、そちの持ち船<ruby><rb>琴平丸</rb><rt>こんぴらまる</rt></ruby>、賊難に遭ったということだな。書き上げによって承知致しておる」

「<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>の通りにございます」

「で、<ruby><rb>水夫</rb><rt>かこ</rt></ruby>どもは今おるかな？」

「二、三人おりますでござります」

「ちょっと訊きたいことがある。多人数はいらぬ、一人出すよう」

「かしこまりましてござります」

やがてそこへ現われたのは、八助という<ruby><rb>水夫</rb><rt>かこ</rt></ruby>であった。

「八助というか、恐れなくともよい。遭難の様子を話してくれ。……で、賊船は幾隻あったな？」

八助はオドオド顫えながら、

「へえ、親船が一隻で」

「<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の格子は赤かったかな？」

「いえ、黒塗りでございました」

「ナニ、黒塗り？　ふうむ、そうか」平八は小首を傾げたが、「無論、帆船であったろうな？」

「へえ、さようでございます」

「<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>ったところはなかったかな？」

「へ？　なんでございますか？」

「帆の形だ。帆の形だよ」

「へえ、べつに、これといって……」

「普通の型の帆船であったか？」

「へえ、さようでございます」

「ふうむ、そうか。……ちょっと変だな」

考えざるを得なかった。

「で、大砲でも打ちかけたか？」

「なかなかもって、そんなこと」

「大砲二門、備えている筈だ。そんなものは見かけなかったかな？」

「なんであなた、大砲など……」

「ふうむ、そうか、これもいけない」

平八はまたも考え込んだ。

「で、どうだな、海賊どもは、<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しかったかな、乱暴だったかな？」

「仲間が五人殺されました」

「いずれ抵抗したのだろうな？」

「敵は大勢、味方は小人数、争ったところで追っ付きません」

「……これもいけない」

と平八は、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>かざるを得なかった。

加賀屋を出るとその足で、尚二、三軒廻船問屋を、郡上平八は訪問した。いずれも諸方の近海で、海賊に襲われた手合いであった。しかるに答えはどれも同じで、<ruby><rb>櫓格子</rb><rt>やぐらごうし</rt></ruby>は黒塗りであり、帆の形も尋常であり、大砲などは備えていず、海賊どもは乱暴で、武士的などとはいわれない。――と、こういう返辞であった。

「解った」

と平八は自分へいった。「この海賊は赤格子ではない。手口を見れば明らかだ。他の奴らに相違ない。……さて、では肝腎の赤格子は、いったいどこにいるのだろう？」

かえって見当がつかなくなった。

「それはとにかく、腹が減った。きょうは少々動き過ぎたからな」

で、平八は駕籠を返し、手近の<ruby><rb>縄暖簾</rb><rt>なわのれん</rt></ruby>へ飛び込んだ。

こんなことは彼にとって、ちっとも珍らしいことではない。

彼の前に職人がいた。威勢のいい江戸っ子で、<ruby><rb>扮装</rb><rt>みなり</rt></ruby>の様子が船大工らしい。

「おお初公、変じゃないか、どう考えても<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>だよ」

一人の職人がこういった。

と、もう一人が、それに応じた。

「うん、まったく変梃だなあ。なんと思って<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>りに選って、船大工ばかりを<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>うのだろう」

二人の職人の耳寄りな話

「はてな」

と平八は胸でいった。「おかしな話だ。なんだろう？」

で、捨て耳を働かせ、職人の話に聞き入った。

「<ruby><rb>喜公</rb><rt>きいこう</rt></ruby>も消えたっていうじゃねえか」

「それから松ヤンもなくなったそうだ」

「平河町の政兄イ、あそこでは一時に五人というもの、姿がなくなったということだぜ」

「ところがお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>、石町では、親方がどこかへ行っちゃったそうだ」

「天狗様かな？　お狐様かな？」

「天狗様にしろお狐様にしろ、船大工ばかりに<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>るなんて、どうでも<ruby><rb>阿漕</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>というものだ」

「見ていや、今に、江戸中から、船大工の影がなくなるから」

「亭主、いくらだ？」

と代を払って、郡上平八は外へ出た。

「おい駕籠屋、本所へやれ」

新しくやとった駕籠へ乗り、平八は自宅へ引き返した。

「おい、松五郎を呼びにやりな」

間もなくご用聞きの松五郎が、きのう見せた顔と同じ顔を、平八の前へ突きつけた。

「旦那、なにかご用でも？」

「うん、訊きたいことがある」

「へい、やっぱり切り髪女の？」

「いや、あれは打ち切りだ」

「え、なんですって？　打ち切りですって？」

松五郎は驚いて眼を見張った。「おどろいたなあ、どうしたんですい？　いよいよヤキが廻りましたかね」

「いやいやそういう訳ではない。実はな、もっと重大な事件を、あるお方から頼まれたのだ」

「おおさようで、それはそれは」

「ところでお前に訊くことがある。この江戸の船大工が、姿を消すっていうじゃないか」

「ええ、もう、そりゃあズッと<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>からで」

「どうして話してくれなかった？」

ちょっと平八は不機嫌そうにいった。

「だって旦那、この事件は、鼓賊とは関係ありませんよ」

「うん、そりゃそうだろう」

「で、黙っておりましたので」

「そういわれりゃあそれまでだな」平八は止むを得ず苦笑したが、「幾人ほど<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われたな？」

「さあ、ザッと五十人」

「ナニ、五十人？　それは大きい」

「ええ、大きゅうございます」

「ところで、いつ頃から始まったんだ？」

「秋口からポツポツとね」

「どんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>になくなるのだ？」

「どうもそれがマチマチで、こうだとハッキリいえませんので」

「まず一例をあげて見れば？」

「神田の由太郎でございますがね、随分有名な<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby>で、それが羽田へ参詣したまま、<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>が知れないじゃありませんか」

「おお、そうか。で、その次は？」

「<ruby><rb>業平町</rb><rt>なりひらちょう</rt></ruby>の甚太郎、これも相当の腕利きですが、品川へ魚釣りに行ったまま、家へ帰って来ないそうで」

「おお、そうか。で、その次は？」

「龍岡町の<ruby><rb>鋸安</rb><rt>のこぎりやす</rt></ruby>は、仕事場から姿が消えたそうで」

「ふうん、なるほど、面白いな」

「まったく<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>でございますよ」

「で、見当はついてるのか？」

「なんの見当でございますな？」

「当たりめえじゃねえか、人攫いのよ」

「それならついていませんそうで」

「呆れたものだ。無能な奴らだ」

「へえ、さようでございますかね」

「たった今耳にしたばかりだが、俺には目星がついている」

これには松五郎も驚いた。

「旦那、そりゃあ本当のことで？」

「嘘をいって何んになるかよ」

玻璃窓の平八江戸を離れる

「聞きてえものだ。教えてくだせえ」

「どこかで<ruby><rb>大船</rb><rt>おおぶね</rt></ruby>を造っているのさ」

「へへえ、ナーンだ、そんなことですかい」

「なんだとはなんだ。なんだではないよ」

「だがね、旦那、少しおかしいや。なにも大船を造るのに、大工を攫わなくてもよさそうなものだ」

「いやいや、それがそうでない。造り主が<ruby><rb>大変者</rb><rt>たいへんもの</rt></ruby>なのだ」

「大変者って、何者なので？」

松五郎はいくらか熱心になった。

「一口にいうと<ruby><rb>日蔭者</rb><rt>ひかげもの</rt></ruby>だ」

「どうも<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>には解らねえ」

すると平八は声を落としたが、

「教えてやろう。海賊だ」

「ははあ、海賊？　ナール、日蔭者だ」

「しかも一通りの海賊ではない。やはりこれは赤格子だ。そうでなければその余党だ。そいつがどこかでご禁制の船を、建造しているに相違ない」

益〻声を落としたが、

「小松屋、そこで頼みがある。あすかないしはあさって頃、船脚が遅くて小さな船で、そうして<ruby><rb>金目</rb><rt>かねめ</rt></ruby>を積み込んでいる、つまり海賊に襲われそうな船が、どこかの問屋から出はしないか、そいつを調べて来て貰いたい」

「変なご注文でございますね」

「是非今夜中に知りたいのだ」

「ようございます。すぐ行って来ましょう」

松五郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とつかわ</span>出て行ったが、真夜中になって戻って来た。

「旦那、一隻みつかりました」

「それはご苦労。どこの船だな」

「へい、淀屋の八<ruby><rb>幡丸</rb><rt>わたまる</rt></ruby>で」

「あ、そうか、それは有難い。……いいから帰って休んでくれ」

松五郎が帰ると平八は、すぐに変装にとりかかった。髯を剃り、髪を結い変え、紺の腹がけに同じ<ruby><rb>股引</rb><rt>ももひき</rt></ruby>、その上へ革の羽織を着たが、まさに一カドの棟梁であった。

夜のひきあけに家を出ると、深川の淀屋まで歩いて行った。

「許せ」

と声だけは武士のイキで、

「俺はな、南町奉行所吟味与力の石本だ、仔細あって犬吠へ行く。ついては八幡丸へ乗せてくれ」

「よろしい段ではございません。ご苦労様に存じます」

淀屋では異議なく承知した。

こうして名探索玻璃窓は、江戸から足を抜いたのであった。

阪東米八と和泉屋次郎吉

ここは両国の芝居小屋、阪東米八の楽屋であった。

午後の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>が窓からさしていた。あけ荷、<ruby><rb>衣桁</rb><rt>いこう</rt></ruby>、衣裳、<ruby><rb>鬘</rb><rt>かつら</rt></ruby>、丸型朱塗りの大鏡台、赤を白く抜いた大入り袋、<ruby><rb>南京繻子</rb><rt>なんきんじゅす</rt></ruby>の大座布団、ひらいたままの草双紙、こういった物が取り乱されてあったが、女太夫の部屋だけに、ひときわ光景がなまめかしい。

「ねえ、お前さん、ねえ吉っあん、ほんとに気色が悪いじゃないか。<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>アつくづく厭になったよ」

燃え立つばかりの<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>、その<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>をダラリと引っかけ、その上へ部屋着の丹前を重ね、鏡台の前へだらしなく坐り、胸を開けて乳房を見せ、そこへ大きな牡丹刷毛で、ヤケに<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>を叩きつけているのは、<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざがしら</rt></ruby>阪東米八であった。年はおおかた二十五、六、<ruby><rb>膏</rb><rt>あぶら</rt></ruby>の乗った年増盛り、大柄で肉付きよく、それでいて姿のぼやけないのは、踊りで体を鍛えたからであろう。肉太の高い鼻、少し大きいかと思われたが、それがかえって役者らしい。<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>をさした玉虫色の口、それから剃り落とした青い眉、顔の造作は見事であったが、とりわけ眼立つのはその眼であって、<ruby><rb>上瞼</rb><rt>うわまぶた</rt></ruby>が弓形をなし、下瞼が一文字を作った、びっくりするほど切れ長の眼は、妖艶<ruby><rb>婀娜</rb><rt>あだ</rt></ruby>たるものであった。<ruby><rb>􆏓々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>という形容詞が、そっくりそのままあてはまるような、光沢を持った純白な肌は、見る人の眼をクラクラさせた。

「妾アつくづく厭になったよ」くり返して彼女はこういった。

「いや俺も驚いた」

こう合い槌を打ったのは、彼女にとっては旦那でもあり、且つは嬉しい恋人でもある、魚屋の<ruby><rb>和泉屋</rb><rt>いずみや</rt></ruby>次郎吉であった。<ruby><rb>唐棧</rb><rt>とうざん</rt></ruby>ずくめの小粋ななり、色の浅黒い眼の鋭い、口もとのしまった好男子で、年はそちこち四十でもあろうか、小作りの体は敏捷らしく、五分の隙もない人品であったが、座布団の上へ腹這いになり、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をプカプカ吹かしていた。

「つぶてでなし手裏剣でなし、なんでいったいぶち抜いたものかな。看板と板壁とを突き通すなんて、ほんとにこいつ素晴らしい芸だ」

「そんなことどうでもよござんすよ。それより、妾<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわるのは、<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>りに選って妾の顔へ、あんな大きな穴をあけて……」

「ナーニそれとて<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>くはないのさ。あんまりお前が綺麗なので、それでいたずらをしたってやつさ」

「ヘン、おっしゃいよ、おためごかしを」

米八は横目で睨む真似をした。

「そうはいうものの惜しいことをした。あれは俺から五<ruby><rb>渡亭</rb><rt>とてい</rt></ruby>に頼んで、わざわざ描かせた看板だからな」

「そんなことどうでもよござんすよ」まだ米八は機嫌が悪い。「それに妾にはこの芝居、なんだか小気味が悪くってね」

「へえ、どうしてだい、おかしいね。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いり</span>だってこんなにあるじゃないか」今度は次郎吉が不満そうにした。

「だって、あんまりなまなましいんですもの」

「なまなましいって？　どうしてかい？」

「だってお前さんそうじゃないか。泥棒芝居の鼓賊伝、ところで主人公の鼓賊ときては、現在江戸を荒し廻っていて、お上に迷惑をかけてるんでしょう」

「うん、そうさ、だからいいのさ。つまり何んだ、はしりだからな。そうとも素敵もねえ<ruby><rb>際物</rb><rt>きわもの</rt></ruby>だからな。……もっとも他にも筋はある」

「ええ、そりゃありますとも。追分唄いの甚三馬子だの、宿場女郎のお北だの、あくどい<ruby><rb>色悪</rb><rt>いろあく</rt></ruby>の富士甚内だの。……」

「それから肝腎の探索がいらあ」

「ええ、見透しの平七老人」

「で、素晴らしくいい芝居さ」次郎吉はツルリと<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を撫でたが、にわかにズンと声を落とし、「実はおいらの道楽から行くと、その『見透しの平七』を『玻璃窓の平八』にしたかったのさ。だが、それじゃあんまりだからな。で、平七に負けてやったやつさ」

「おや変ですね、玻璃窓といえば、郡上の旦那じゃありませんか」米八は不思議そうに見返った。

「うん、そうさ、その旦那さ。あけすけにいえばこの芝居はだ、その玻璃窓に見せたいばっかりに、おいら筋立てをしたんだからな」

深い怨みの敵討ち

「その玻璃窓の旦那なら、おとつい<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>に来たじゃありませんか」

「百も承知だ。待っていたんだからな。そこで早速秀郎の野郎に例の鼓を打たせたのさ。アッハハハ、いい気味だった。あの鼓を聞いた時の玻璃窓の<ruby><rb>爺</rb><rt>だんな</rt></ruby>の顔といったら、今思い出しても腹がよじれる。いい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みせしめ</span>っていうやつさな」さもおかしいというように、<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>り上げ揺り上げ笑ったものである。

米八には意味がわからなかった。

「でもどうして玻璃窓の旦那に、こんどの芝居を見せたいんでしょう？」

「それか、それには訳がある。……ひらったくいうとまずこうだ。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>、としよりの<ruby><rb>冷水</rb><rt>ひやみず</rt></ruby>で、鼓賊を追っかけているんだよ。ところがさすがの名探索も、こんどばかりは荷が勝って、後手ばかり食らっているやつさ。それを俺は知ってるんだ。うん、そうさ、ある理由からな。ところで俺はあの<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>に五年前から怨みがあるんだ。で、そこで敵討ちよ。つまり<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>のトンマぶりを、そっくり芝居に仕組んだあげく、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>の眼の前にブラ下げたって訳さ。胸に<ruby><rb>堪</rb><rt>こた</rt></ruby>える五寸釘！　そいつがこれだ。『名人地獄』だ！」

「どんな怨みだか知らないけれど、つまらない事をしたものね」米八は浮かない顔をした。

「それはそうと、ねえお前さん、秀郎さんの鼓賊のつくり、何から何までお前さんじゃないか」

「俺が注文したからよ」次郎吉はそこでニタリとした。

「どうしてだろう？　ねえお前さん」

「それも玻璃窓に見せたかったからさ」

「なんだか<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>にゃあ解らない」きまずそうに眉をひそめ、「とにかく妾にゃあこの芝居は、気になることばかりで面白くないよ」

「それじゃ明日から<ruby><rb>芸題</rb><rt>げだい</rt></ruby>替えだ」次郎吉は<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>のホコを払い、「もう玻璃窓に見せたんだから、俺の目的はとげられたってものさ。いつ替えたって惜しかあねえ」

「アラそう、それじゃ替えようかしら」

「それがいい、つき替えねえ」

米八はいくらか愁眉をひらき、チラリと鏡を覗いてから、次郎吉の方へ膝を向けた。

「まだあるのよ、気になることが」

「文句の多い<ruby><rb>立</rb><rt>たて</rt></ruby>おやまさね」次郎吉はちょっとウンザリしたが、「おおせられましょう、お姫様、とこう一つ行くとするか」

「真面目にお聞きよ、心配なんだからね」

「おい、どうするんだ、<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>だなあ。<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>ならそっちにあるじゃねえか」

「お前さんの煙管でのみたいのさ」

「へん、<ruby><rb>安手</rb><rt>やすで</rt></ruby>な殺し文句だ」

「でも、まんざらでもないでしょうよ」

「こんどは押し売りと来やがったな。あッ、熱い！　なにをしやがる！」

左の頬を抑えたのは、<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>の先をおっつけられたからで。

「いい気味いい気味、セイセイしたよ」

「地震の後はどうせ火事だ。諦めているからどうともしなよ」

ゴロリと次郎吉はあおむけになった。

「<ruby><rb>節穴</rb><rt>ふしあな</rt></ruby>の多い天井だなあ。暇にまかせて数えてやるか。七ツ八ツ九ツ十」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>にしているよ、呆れもしない」

「そのまた莫迦が恋しくて、離れられないというやつさ」

「いい気なものさ、しょってるよ」

「あっ、畜生、五十八もあらあ」

とうとうみんな数えたらしい。

腑に落ちない色々の事

「ほんとにそうだよ」と米八は、何をにわかに考え出したものか、しみじみとしていい出した。

「どこがよくって惚れたのか、妾にゃまるっきり見当がつかない」

「オヤ、今度は恩にかけるのかい」

次郎吉はもっけな顔をした。

「なあに、そうじゃないけれどね、お前さんのためにゃほんとにほんとに、髪まで切られているんだからね」

「おっと、そいつアいいっこなしだ」

こうはいったが次郎吉も、これには多少こたえたらしい。

「どうだ、それでもすこしは伸びたか？」

「三月や半年で女の髪が、なんでそうそう伸びますかよ」米八は額で睨むようにした。

「あれは一生の失敗だった」むしろ次郎吉は<ruby><rb>慨然</rb><rt>がいぜん</rt></ruby>と、「厭がるお前を無理にすすめ、一幕うったほどでもねえ、たいした儲けもなかったんだからな」

「罪もない観世様をそそのかし、色仕掛けで巻き上げたまでは、まあまあ我慢をするとして、ご親友だとかいう平手さんに、駕籠から雪の中へ引き出され、鼓を取られたあげくのはてに、ブッツリ髷を切られたんだもの、悪い役ったらありゃしない」

「あんまり来ようが遅いので、心配をして迎えに出たら、アッハハハ、あの活劇さ」

「助けにも来ず、薄情者！　思い出すと腹が立つよ」

「そっと<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>って置くことさな。だが全くあの時は、見ていた俺さえ<ruby><rb>冷汗</rb><rt>ひやあせ</rt></ruby>をかいた」

「今こそ笑って話すけれど、あの時<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は殺されるかと思った」

「だがな、あんな時俺が出たら、騒ぎは大きくなるばかりさ。そこでゆっくり拝見し駕籠が来たので付き添って、茶屋へ行ってからは思う存分、可愛がってやったからいいじゃねえか」

「だがね」と米八は探るように、「どうしてお前さんはあの鼓を、そうまで苦心して欲しがったのだろう？」

「なに、そんなことはどうでもいい」

次郎吉はヒョイと横を向いた。

「妾ア気がかりでならないんだよ」

「ふふん」というと舌なめずりをした。

「そうかと思うと今年の夏中、フイと姿を消したりしてさ」

「旅へ行ったのさ、信州の方へな」

「その旅から帰ったかと思うと、例の鼓を持っているんだもの」

「ナーニ、そいつあ観世さんから、相談ずくで譲って貰ったのさ」

「そりゃあそうだろうとは思うけれど、それから間もなく起こったのが、鼓泥棒の鼓賊なんだもの……」

「ふん、それがどうしたんだい？」

次郎吉はギロリと眼をむいた。

「だから気が気でないんだよ」

その時チョンチョンと二丁が鳴った。

「おやもう幕が開くんだよ。それじゃ妾は行かなけりゃならない」

「では俺もおいとまとしよう」

次郎吉はポンと立ち上がった。

「オイ、はねたら飲みに行こうぜ」

「ええ」

というと部屋を出た。

チェッと次郎吉は舌打ちをしたが、

「あぶねえものだ、火がつきそうだ」

ちょっとあたりを見廻してから、部屋を出ると廊下へかかり、<ruby><rb>裏梯子</rb><rt>うらばしご</rt></ruby>を下りると裏口から、雪のたまっている往来へ出た。

プーッと風が吹いて来た。

「寒い寒い、ヤケに寒い」

チンと一つ鼻をかみ、

「さあて、どっちへ行ったものかな」

あてなしにブラブラ歩き出した。がその眼には油断がない。絶えず前後へ気をくばっていた。

バッタリ遭ったは河内山

「おお和泉屋、和泉屋ではないか！」

こう<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から呼ぶ者があるので、次郎吉はヒョイと振り返って見た。剃り立て頭に頭巾をかむり、無地の衣裳にお<ruby><rb>納戸色</rb><rt>なんどいろ</rt></ruby>の十徳、色の白い鼻の高い、眼のギョロリとした<ruby><rb>凄味</rb><rt>すごみ</rt></ruby>のある坊主、一見すると典医であるが、実は本丸のお<ruby><rb>数寄屋</rb><rt>すきや</rt></ruby>坊主、<ruby><rb>河内山宗俊</rb><rt>こうちやまそうしゅん</rt></ruby>が立っていた。

「おや、これは河内山の旦那で」

こうはいったが和泉屋次郎吉、たいして嬉しそうな顔もしない。むしろ酸っぱい顔をした。

「どこへ行くな、え、和泉屋」

黒塗りの足駄で薄雪を踏み、手は両方とも<ruby><rb>懐中手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>、<ruby><rb>大跨</rb><rt>おおまた</rt></ruby>にノシノシ近寄って来たが、

「穴ッぱいりか、え、和泉屋、羨ましいな、<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>れ奢れ」

「えッヘッヘッヘッ、どう致しまして。ちょっとそこまで野暮用で」

「冗談だろう、嘘をいえ。野暮用というなりではない。ここは浅草雷門、隅田を越すと両国盛り場。聞いたぞ聞いたぞその両国に、新しい穴を目つけたそうだな。羨ましいな一緒に行こう」

始末につかない坊主であった。

「それはそうと、オイ和泉屋、近来ちっとも顔を出さないな」

「へえ、ちょっと、稼業の方が……」

「ナニ稼業？　そんなものがあるのか」そらっ<ruby><rb>呆</rb><rt>とぼ</rt></ruby>けてやり込めた。

「やりきれねえなあ、魚屋で」

「いや、それなら知ってるよ。だが、そいつあ表向き、お上を<ruby><rb>偽</rb><rt>あざむ</rt></ruby>く手段じゃねえのか」

「とんでもないこと、どう致しまして」次郎吉はいやアな顔をした。

「ほんとに魚を売るのかえ」

「売る段じゃございません」

「塩引きの鮭でも売るのだろう」

「ピンピン生きてる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たい</span>や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こち</span>をね」

「おお、そうだったか、それは気の毒。アッハハハ、面白いなあ」

益〻厭味に出ようとした。

「なにの、俺は、お前の稼業は、こいつだろうと思っていたのさ」壺を振るような手付きをし、

「ソーレどうだ、<ruby><rb>袁彦道</rb><rt>えんげんどう</rt></ruby>！」

「そいつあ道楽でございますよ」

「ふふん、なるほど、道楽だったのか。それはそれはご結構なことじゃ。……それにしても思い切ったものだ。ちっとも<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>へ顔を出さないな」

「なあにそうでもございませんよ」気がなさそうに笑ったが、「やっぱりチョクチョク出かけているので」

「それにしては逢わないな」

「駆け違うのでございましょうよ」

「ちげえねえ、そうだろう。……だが細川へは行くまいな」こういうと宗俊はニヤリとした。これには意味があるのであった。

はたして次郎吉は厭な顔をしたが、

「七里<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けっぱい</span>でございますよ」

「ハッハッハッハッ、そうだろうて。……そこでいいことを聞かせてやる。気に入ったらテラを出せ」

「へえ、何んでございましょう？」

「玻璃窓の平八がいなくなったのさ」

「おっ、そりゃあほんとですかい？」思わず次郎吉は首を伸ばした。

「どうして旦那、ご存知で？」

「碩翁様からお聞きしたのさ」

「ははあなるほど、さようでございますか」

「どうだどうだ、いい耳だろう。十両でいい、十両貸せ」

「お安いご用でございますがね、……ようございます、では十両」

紙に包んで差し出した。

「安いものさ、<ruby><rb>滅法</rb><rt>めっぽう</rt></ruby>安い」チョロリと袖へ掻き込んだが、「オイ和泉屋、羽根が伸ばせるなあ」

しかし次郎吉は返事をしない。

「お前にとっては苦手の玻璃窓、そいつが江戸から消えたとあっては、ふふん、全く書き入れ時だ。盆と正月が来たようなものだ。なあ和泉屋、そんなものじゃねえか」

宗俊はネチネチみしみしとやった。

鼓賊と鼠小僧は同一人

「旦那」と次郎吉は探るように、「いったいどこへいったんですい？」

「え、誰が？　玻璃窓か？」

「あの好かねえじじく玉で」

「どうやら大分気になるらしいな。聞かせてやろうか、え、和泉屋」

「ききてえものだ。聞かせておくんなせえ」

「が、只じゃあるめえな」

「十両あげたじゃありませんか」

「これか、こいつあさっきの分だ。一話十両といこうじゃねえか」

「厭なことだ、ご免<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>りましょう」

「よかろう、それじゃ話さねえまでだ」

「旦那も随分あくどいねえ」とうとう次郎吉は憤然とした。「悪党のわりに垢抜けねえや」

「お互い様さ、不思議はねえ」

宗俊はノコノコ歩き出した。

「旦那旦那待っておくんなさい」

未練らしく呼び止めた。

「何か用か、え、和泉屋、止まるにも只じゃ止まらねえよ」

「出しますよ、ハイ十両」

「感心感心、思い切ったな」

「で、どこへ行ったんですい？」

「海へ行ったということだ」

「え、海へ？　どこの海へ？」

「そいつはどうもいわれねえ」

「へえ、それじゃそれだけで、<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>から二十両お取んなすったので？」

「悪いかな、え、和泉屋、悪いようなら、ソレ返すよ」

「ナーニ、それにゃ及ばねえ。それにしても<ruby><rb>阿漕</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>だなあ。……ようごす、旦那、もう十両だ、詳しく話しておくんなさい」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>をいえ」と宗俊は、苦笑いをして首を振り、「いかに俺があくどいにしろ、そうそうお前から取る気はねえ。……詳しく話してやりたいが、実はこれだけしか知らねえのさ。いかに中野碩翁様が、<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らの親分であろうとも、秘密は秘密、お堅いものだ。実はこれだけ聞き出すにも、たいてい苦労をしたことじゃねえ。……だが、この俺の考えでは、お前もとうから聞いていよう、ひんぴんと起こる海賊沙汰、それと関係があるらしいな」

「へへえ、なるほど、海賊にね。いや有難うございました。そこでついでにもう一つ、いつ江戸をたったので？」

「今朝のことだよ。あけがたにな」

「いつ頃帰って参りましょう」

「仕事の都合さ、俺には解らねえ」

「それはそうでございましょうな」

次郎吉はじっと考え込んだ。

「オイ和泉屋」と宗俊は、にわかにマジメな顔をしたが、「気をつけろよ気をつけろよ。あいつのことだ、じき帰って来よう。そうしたらやっぱりこれまで通り、お前をつけて廻そうぜ。あの細川の下屋敷以来、お前は睨まれているんだからな」

「ほんとに迷惑というものだ」次郎吉は変に薄笑いをしたが、「人もあろうに<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>のことを、鼠小僧だっていうんですからね」

「そいつあどうともいわれねえ」宗俊も変に薄笑いをし、「鼠小僧だっていいじゃねえか。俺ア鼠小僧が大好きだ。腐るほど持っている金持ちの金を、ふんだくるなあ悪かあねえよ」

「ほんとに迷惑というものだ」パチリと頬を叩いたが、「この片頬の切り傷だって、あの<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>に付けられたんでさあ」

「あれはたしか五年前だったな」

「ほんとに迷惑というものだ」

「ところがことしの秋口から、鼠小僧は影をかくし、代りに出たのが評判の鼓賊、オイ和泉屋、玻璃窓はな、その鼓賊と鼠小僧を、同じ人間だといってるぜ」

「ふふん、どうだって構うものか。<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>の知ったことじゃねえ」

「おおそうか、それもいいだろう。が宗俊は苦労人だ。よしんばお前がなんであろうと、洗い立てるような野暮はしねえ。だからそいつあ安心しねえ。……長い立ち話をしたものさ。どれ、そろそろ行こうかい。和泉屋、それじゃまた逢おう」

宗俊はノシノシ行ってしまった。

後を見送った和泉屋次郎吉、

「ふん、あれでもお直参か」吐き出すように呟いたが、「だがマアそれでもいいことを聞いた。鬼のいぬ間の洗濯だ。あばれて、あばれて、あばれ廻ってやろう」

その夜、江戸の到る所で、鼓の音を聞くことが出来た。そうして市内十ヵ所に渡って、大きな窃盗が行われた。

気味の悪い不思議な武士

品川を出た帆船で、銚子港へ行こうとするには、ざっと次のような順序を経て、航海しなければならなかった。

千葉、<ruby><rb>木更津</rb><rt>きさらづ</rt></ruby>、<ruby><rb>富津</rb><rt>ふっつ</rt></ruby>、<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>。<ruby><rb>安房</rb><rt>あわ</rt></ruby>へはいった<ruby><rb>保田</rb><rt>ほた</rt></ruby>、<ruby><rb>那古</rb><rt>なご</rt></ruby>、<ruby><rb>洲崎</rb><rt>すさき</rt></ruby>。野島ヶ岬をグルリと廻り、最初に着くは<ruby><rb>江見</rb><rt>えみ</rt></ruby>の港。それから前原港を経、上総へはいって勝浦、<ruby><rb>御宿</rb><rt>おんじゅく</rt></ruby>。その御宿からは世に名高い、九十九里の荒海で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>泣かせの難場であった。首尾よく越せば犬吠崎。それからようやく銚子となり、みちのりにして百五十里、風のない時には港へ寄って、風待ちをしなければならなかった。

で、玻璃窓の平八の乗った、淀屋の持ち船八幡丸も、この航路から行くことにした。海上風波の難もなく、那古の港まで来た時であったが、一人の武士が乗船した。

本来八幡丸は貨物船で、客を乗せる船ではないのであったが、やはり裏には裏があり、特に船頭と親しいような者は、こっそり乗ることを許されていた。

武士の年齢は四十五、六、総髪の大<ruby><rb>髻</rb><rt>たぶさ</rt></ruby>、見上げるばかりの長身であったが、肉付きはむしろ貧しい方で、そのかわりピンと引き締まっていた。着ている衣裳は黒羽二重。しかし大分年代もので、紋の白味が黄ばんでいた。横たえている大小も、紺の<ruby><rb>柄絲</rb><rt>つかいと</rt></ruby>は<ruby><rb>膏</rb><rt>あぶら</rt></ruby>じみ、鞘の蝋色は<ruby><rb>剥落</rb><rt>はくらく</rt></ruby>し、中身の良否はともかくも、うち見たところ立派ではない。それにもかかわらずその人品が、高朗としてうち上がり、人をして<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>れしめない威厳のあるのは、学か剣か宗教か、一流に秀でた人物らしい。

<ruby><rb>船尾</rb><rt>とも</rt></ruby>の積み荷の蔭に坐り、ぼんやりあたりを見廻していた、郡上平八の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>まで来ると、ふとその武士は足を止めた。

「職人職人よい天気だな」声をかけたものである。

「へい、よい天気でございます」平八はちょっと驚きながらも、こう<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に挨拶をした。

「どこへ行くな？　え、職人？」ひどくきさくな調子であった。

「へい、銚子まで参ります」

「うん、そうか、銚子までな」こういうと武士は坐り込んだが、それからじっと平八を眺め、「なんに行くな、え、銚子へ？」

「へい、いえちょっと、仕事の方で。……それはそうとお武家様も、やはり銚子でございますかな？」

「いやおれはすこし違う」武士は変に笑ったが、「ところでお前は何商売だな？」

「へい、船大工でございます」こうはいったが平八は、気味が悪くてならなかった。

「なに船大工？　嘘をいえ」武士はいよいよ変に笑い、「これ、大工というものはな、物を見るのに上から見る。ところがお前は下から見上げる。アッハハハ、これだけでも<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>う。どうだ、これでも大工というか？」

これを聞くと平八は「あっ、しまった」と胸の中でいった。武士の言葉に嘘はない。すべて大工というものは、<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>の<ruby><rb>出来栄</rb><rt>できばえ</rt></ruby>へまず眼をつけ、それからずっと柱づたいに、土台の仕組みまで見下ろすものであり、それが万事に習慣づけられ、人を見る時には頭から眺め、足に及ぼすものなのであった。これに反して与力、同心、岡っ引きなどというようなものは、何より先に足もとを見、その運びに狂いがないかを、吟味するのに慣らされていた。しかるに平八は思うところあって<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby>風にやつしてはいたが、ついうっかりとその点へまで、心を配ることをうち忘れ、武士を見る時にも与力風に、まず足から見たものであった。

「それにしてもこの侍、いったいどういう人物であろう？」改めて平八はつくづくと、武士を見守ったものである。

その混乱した平八の様子が、武士にはひどく面白いと見え、奥歯をかむようにして笑ったが、

「どうだ、これでも船大工かな」

「へい、大工でございますとも、だってそうじゃございませんか、旦那に嘘を申し上げたところで、百も儲かりゃあしませんからね」いわゆるヤケクソというやつで、こう平八はつっぱねた。

たたみ込んだ船問答

「おお、そうか、これは面白い、ではお前へ訊くことがある。どうだ、返辞が出来るかな」

「へい、わっちの知っていることなら、なんでもお答えいたしますよ」「知ってることとも、知ってることだよ、お前がほんとに船大工なら、いやでも知らなければならないことだ」

こういうと武士は懐中から、一葉の紙を取り出した。見れば絵図が描かれてあった。船体横断の図面であった。

「さあ、これだ、よく見るがいい」武士は一点を指差したが、「ここの名称は何というな？」

「へい、<ruby><rb>腰当梁</rb><rt>こしあて</rt></ruby>でございましょうが」平八は笑って即座にいった。己が姿を船大工にやつし、敵地へ乗り込もうというのであるから、忙しいうちにも平八は、一通り船のことは調べて置いた。

「それならここだ、ここは何というな？」「へい、<ruby><rb>赤間梁</rb><rt>あわち</rt></ruby>と申しやす」「うん、よろしい、ではここは？」「三<ruby><rb>間梁</rb><rt>のま</rt></ruby>でございますよ」「感心感心よく知っている。ではここは？　さあいえさあいえ」「<ruby><rb>下閂</rb><rt>したかんぬき</rt></ruby>でございまさあ」「ほほう、いよいよ感心だな。ここはなんという？　え、ここは？」

「なんでもないこと、<ruby><rb>小間</rb><rt>こま</rt></ruby>の牛で」「いかにもそうだ、さあここは？」「へい、<ruby><rb>横山梁</rb><rt>よこやま</rt></ruby>にございます」「うん、そうだ、さあここは？」「ヘッヘッヘッヘッ、<ruby><rb>蹴転</rb><rt>けころ</rt></ruby>でさあ」「ではここは？　さあわかるまい？」「<ruby><rb>胴</rb><rt>どいがえ</rt></ruby>じゃございませんか。それからこいつが<ruby><rb>轆轤座</rb><rt>ろくろざ</rt></ruby>、<ruby><rb>切梁</rb><rt>きりはり</rt></ruby>、ええと、こいつが甲板の<ruby><rb>丑</rb><rt>しん</rt></ruby>、こいつが<ruby><rb>雇</rb><rt>やとい</rt></ruby>でこいつが<ruby><rb>床梁</rb><rt>とこ</rt></ruby>、それからこいつが<ruby><rb>笠木</rb><rt>かさぎ</rt></ruby>、結び、以上は横材でございます」

ポンポンポンといい上げてしまった。

「ふうむ、感心、よく知っている。さては多少しらべて来たな。……よし今度は細工で行こう。……<ruby><rb>縦縁</rb><rt>たてべり</rt></ruby>固着はどうするな？」

「まず<ruby><rb>鉋</rb><rt>かんな</rt></ruby>で削りやす。それからピッタリ食っつけ合わせ、その間へ<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>を入れ、引き合わせをしたその後で、充分に釘を打ち込みやす。漏水のおそれはございませんな」

「上棚中棚の固着法は？」

「用いる釘は通り釘、接合の内側へ<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>を塗る。こんなものでようがしょう」

「釘の種類は？　さあどうだ？」

「<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>き釘に打ち込み釘、木釘に竹の釘に<ruby><rb>螺旋</rb><rt>らせん</rt></ruby>釘、ざっとこんなものでございます」

「螺旋釘の別名は？」

「<ruby><rb>捩</rb><rt>ね</rt></ruby>じ込み釘に捩じ止め釘」

「<ruby><rb>船首</rb><rt>とも</rt></ruby>の材には何を使うな？」

「第一等が<ruby><rb>槻材</rb><rt>けやきざい</rt></ruby>」

「それから何だな？　何を使うな？」

「つづいてよいのは<ruby><rb>檜材</rb><rt>ひのきざい</rt></ruby>、それから松を使います」

「よし」というと侍は、またも懐中へ手を入れたが、取り出したのは精妙を極めた、同じ船体の縦断面であった。

「さあここだ、なんというな？」

<ruby><rb>航</rb><rt>かわら</rt></ruby>と呼ばれる<ruby><rb>敷木</rb><rt>しき</rt></ruby>の上へ、ピッタリ指先を押しあてた。

「なんでもないこと、それは航で」「いかにも航だ。ではここは？」「へい、<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>でございます。そうしてその下が中入れで、そうしてその上が弦押しで」「<ruby><rb>矧</rb><rt>は</rt></ruby>ぎ付きというのはどのへんだな？」

「弦押しの上部、ここでございます」「では、ここにある一文字は？」「船の眼目、すなわち<ruby><rb>船梁</rb><rt>ふなばり</rt></ruby>」

「もうよろしい」といったかと思うと、武士は図面を巻き納めた。と、<ruby><rb>居住居</rb><rt>いずまい</rt></ruby>を正したが、にわかに声を低目にし、「正直にいえ、職人ではあるまい」

「くどいお方でございますな」平八は多少ムッとしたが「なにを証拠にそんなことを。……わっちは船大工でございますよ」

「そうか」というとその武士は、平八の右手をムズと掴んだ。

「これは乱暴、なにをなされます」

ご禁制の二千石船

不意に驚いた平八が、引っ込めようとするその手先を、武士は内側へグイと捻った。逆手というのではなかったので、苦痛も痛みも感じなかったが、なんともいえない神妙の呼吸は、平八をして<ruby><rb>抗</rb><rt>あらが</rt></ruby>わせなかった。

「さて、<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>だ、ここを見ろ！」いうと一緒に侍は、小指の付け根へ指をやったが、「よいか、ここは<ruby><rb>坤</rb><rt>こん</rt></ruby>という。中指の付け根ここは<ruby><rb>離</rb><rt>り</rt></ruby>だ。ええと、それから人差し指の付け根、ここを称して<ruby><rb>巽</rb><rt>そん</rt></ruby>という。ところで大工の<ruby><rb>鉋</rb><rt>かんな</rt></ruby>ダコだが、必ずこの辺へ出来なければならない。しかるにお前の掌を見るに、そんなものの気振りもない。これ疑いの第一だ。それに反して<ruby><rb>母指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>の内側、人差し指の内側へかけて、一面にタコが出来ている。これ<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>を永く使い、剣の道にいそしんだ証拠だ。……が、まずそれはよいとして、ここに不思議なタコがある。と、いうのは三筋の<ruby><rb>脉</rb><rt>みゃく</rt></ruby>、天地人の三脉に添って、<ruby><rb>巽</rb><rt>そん</rt></ruby>の位置から<ruby><rb>乾</rb><rt>けん</rt></ruby>の位置まで斜めにタコが出来ている。さあ、このタコはどうして出来た？」武士はニヤリと一笑したが、「お前、捕り縄を習ったな！　アッハハハ、驚くな驚くな、すこし注意をしさえしたら、こんなことぐらい誰にでも解る。……さて次にお前の足だが、心持ち内側へ曲がっている。そうしてふくらはぎに馬擦れがある。これ馬術に堪能の証拠だ。ところで、捕り縄の心得があり、しかも馬術に堪能とあっては、自ら職分が知れるではないか。これ、お前は与力だろうがな！　いや、しかし年からいうと、今は役目を退いている筈だ。……与力あがりの楽隠居。これだこれだこれに相違ない！　どうだ大将、一言もあるまいがな」

武士は哄然と笑ったものである。

「おい」と武士はまたいった。「変装をしてどこへ行くな？　しかも大工のみなりをして。いやそれとてこのおれには、おおかた見当がついている。そこでお前へ訊くことがある、いま見せてやった図面の船、何石ぐらいかあたりがつくかな？」

「へえ」といったが平八には、その見当がつかなかった。それに度胆を抜かれていた。で、眼ばかりパチクリさせた。

「解らないかな」と冷やかに笑い、フイと武士は立ち上がったが、「お前の目的とおれの目的と、どうやら同じように思われる。……それはとにかくこの船はな、二千石船だよ！　ご禁制の船だ！」いいすてると武士は大跨に歩き、胴の間の方へ下りていった。

後を見送った平八が、心の中で、「あっ」と叫んだのは、まさに当然というべきであろう。彼はウーンと唸り出してしまった。「武術が出来て手相が出来、そうしてご禁制の大船の図面を、二葉までも持っている。……みなりは随分粗末ながら、高朗としたその風采、一体全体何者だろう？」

しかし間もなく武士の素性は、意外な出来事から露見された。

それは上総の御宿の沖まで、船が進んで来た時であったが、忽ち海賊におそわれた。その時はもう夕ぐれで、浪も高く風も強く、そうしてあたりは薄暗かったが、忽然一せきの帆船が行く手の海上へあらわれた。べつに変ったところもない、普通の親船にすぎなかったが、しずかにしずかに八幡丸を、あっぱくするように近寄ってきた。ちょうどこの時平八は、船のへさきに<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかき、海の景色をながめていたが、その鋭い探偵眼で、賊船であることを見てとった。

「ははあ、いよいよおいでなすったな」

ニヤリとほくそ笑んだものである。

正直のところ平八は、海賊を待っていたのであった。そうして彼は十中八九、現われてくるものと察していた。というのは八幡丸は、船脚が遅く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>が少なく、しかも船としては老齢なのに、<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>大名から領地へ送る、<ruby><rb>莫大</rb><rt>ばくだい</rt></ruby>もない黄金を、<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に積みこんでいるからで、こういう船を襲わなかったら、それこそ海賊としては新米であった。

武士の剣技精妙を極む

八幡丸の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>どもが、海賊来襲に気がついたのは、それから間もなくのことであったが、しかしその時は遅かった。賊船から下ろされた軽舟が、すでに<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>をとりまいていた。と、投げかけた縄梯子をよじ、海賊の群がなだれこんで来た。

怒号、喚声、呻吟、悲鳴、おだやかであった船中が、みるまに修羅場と一ぺんしたのは悲惨というも愚かであった。賊は大勢のそのうえに手に手に刀を抜き持っていた。勝敗の数は<ruby><rb>自</rb><rt>おのずか</rt></ruby>ら知れた。最初はけなげに抵抗もしたが、あるいは傷つけられまたは縛られ、悉く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>たちは平げられてしまった。

船腹へ飛び込んだ海賊どもが、黄金の箱をかつぎだしたり、積み荷の行李を持ちだしたりする、不気味といえば不気味でもあり、壮快といえば壮快ともいえる、掠奪の光景が演じられたのも、それから間もなくのことであった。

海上を見ればすぐ手近に、その<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>を黒く塗った、海賊船の親船が、しずまりかえって横たわり、こっちの様子をうかがっていた。あたりを通る船もなく、煙波は茫々と見渡すかぎり、夕暮れの微光に煙っていた。

では不幸な八幡丸は、そのまま海賊の掠奪にあい、全部積み荷を奪われたのであろうか？　いやいやそうではなかったのであった。胴の間に眠っていた例の武士が、その眠りから覚めた時、形勢は逆転したのであった。

まず胴の間から叱咜する、武士の声が響いて来た。と、つづいてウワーッという、海賊どもの喚き声が聞こえ、忽ち<ruby><rb>田面</rb><rt>たのも</rt></ruby>の<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>のように、胴の間口から七、八人の、海賊どもが飛び出して来た。と、その後ろから現われたのが、怒気を含んだ例の武士で、両手に握った太い丸太を、ピューッピューッと振り廻した。が、振り方にも呼吸があり、決してむやみに振り廻すのではない。急所急所で横に縦に、あるいは斜めに振り下ろすのであった。

しかし一方賊どもも、命知らずの<ruby><rb>荒男</rb><rt>あらおとこ</rt></ruby>どもで、危険には不断に慣れていた。ことには甲板には二十人あまりの、味方の勢がいたことではあり、一団となって三十人、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だんびら</span>をかざし槍をしごき、ある者は威嚇用の大まさかりを、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby>上段に振りかぶり、さらにある者は破壊用の、巨大な槌を斜めに構え、「たかが三ピンただ一人、こいつさえ退治たらこっちのもの、ヤレヤレヤレ！　ワッワッワッ」と、四方八方から襲いかかった。

が、武士の精妙の剣技たるや、ほとんど類を絶したもので、人間業とは見えなかった。まず帆柱を背に取ったのは、後ろを襲われない用心であった。握った丸太はいつも上段で、じっと敵を<ruby><rb>睥睨</rb><rt>へいげい</rt></ruby>した。静かなること水の如く、動かざること山の如しといおうか、<ruby><rb>漣</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>ほどの微動もない。と、ゆっくり幾呼吸、ジリジリ逼る賊の群を一間あまり引きつけて置いて、「カッ」と一<ruby><rb>声</rb><rt>せい</rt></ruby><ruby><rb>喉的破裂</rb><rt>こうてきはれつ</rt></ruby>、もうその時には彼の体は敵勢の中へ飛び込んでいた。ピューッという風鳴りの音！　丸太が斜めに振られたのであった。生死は知らずバタバタと、三人あまり倒れたらしい。「エイ」という引き気合い！　まことに軟らかに掛けられた時には、彼のからだは以前の場所に、以前と同じに立っていた。と、ワッと<ruby><rb>閧</rb><rt>とき</rt></ruby>を上げ、バラバラと逃げる賊の後を、ただ冷然と見るばかり、無謀に追っかけて行こうとはしない。帆柱を背に不動の姿勢、そうして獲物は頭上高く、やや斜めにかざされていた。と、また懲りずにムラムラと、海賊どもが集まって来た。それを充分引きつけておいて、ふたたび喉的破裂の音、「カッ」とばかりに浴びせかけた時には、どこをどのようにいつ飛んだものか、長身<ruby><rb>痩躯</rb><rt>そうく</rt></ruby>の彼の体は、賊勢の只中に飛び込んでいた。またもやピューッという風を切る音、同時にバタバタと倒れる音、「エイ」と軟らかい引き呼吸、もうその時には彼の体は、帆柱の下に佇んでいた。それからゆるやかな幾呼吸、微塵<ruby><rb>労疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れた<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>もない。で、また賊はムラムラと散ったが、それでも逃げようとしないのは、不思議なほどの度胸であった。彼らは口々に<ruby><rb>警</rb><rt>いまし</rt></ruby>め合った。

「<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>いぞよ手強いぞよ！」「用心をしろよ用心をしろよ！」

秋山要介と森田屋清蔵

そこで遠巻きにジリジリと、またも賊どもは取り詰めて来た。しかし武士は動かない。ただ<ruby><rb>凝然</rb><rt>じっ</rt></ruby>と見詰めていた。口もとの辺にはいつの間にか、憐れみの微笑さえ浮かんでいた。

と、また同じことが繰り返された。賊どもがまたも押し寄せて来た。忽ち掛けられた<ruby><rb>喉的破音</rb><rt>こうてきはおん</rt></ruby>。同時に武士の長身は、敵の中へ飛び込んでいた。ピューッという風鳴りの音、続いて賊どもの倒れる音、そうして軟らかい気合いと共に、武士の姿は帆柱のもとに、端然冷然と立っていた。

判で押したように規則正しい、その凄烈の斬り込みは、なんと形容をしていいか、言葉に尽くせないものがあった。

帆綱の蔭に身をひそめこの有様を眺めていた、玻璃窓の郡上平八が、感嘆の溜息を洩らしたのは、まさに当然なことであろう。

「人間ではない天魔の業だ。それにしてもいったいこの人は、どういう身分のものだろう？　無双の剣客には違いないが、はて、それにしても誰だろう？　当時江戸の剣豪といえば、千葉周作に斎藤弥九郎、桃井春蔵に伊庭親子、老人ながら戸ヶ崎熊太郎、それから島田虎之助、お手直し役の浅利又七郎、だがこれらの人々は、みんな顔を知っている。武州練馬の樋口十郎左衛門、同じく小川の<ruby><rb>逸見</rb><rt>へんみ</rt></ruby>多四郎、それから、それからもう一人！　うん、そうだ、あの人だ！」

その時、ボ――ッという<ruby><rb>竹法螺</rb><rt>たけぼら</rt></ruby>の音が、賊の親船から鳴り渡った。それが何かの合図と見え、武士を取り巻いていた海賊は、一度に<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と引き退いたが、ピタピタと甲板へ腹這いになった。びっくりしたのは平八で、「はてな、おかしいぞ、どうしたのだろう？」グルリと海の方を振り返って見た。と、賊の親船が、数間の手前まで近寄っていた。そうして船の<ruby><rb>船首</rb><rt>へさき</rt></ruby>にあたり、一個の人物が突っ立っていた。どうやら海賊の首領らしく、手に一丁の種子ヶ島を捧げ、じっとこっちを狙っていた。武士を狙っているのであった。

「あっ、飛び道具だ！　こいつはいけない！」平八は思わず絶叫した。「種子ヶ島だア！　飛び道具だア！　お武家あぶねえ！　あぶねえあぶねえ！」そうして両手を握り締めた。武士はと見れば、冷然と、帆柱の下に立っていた。ただ上段に構えていたのを、中段に取り直したばかりであった。

風もやみ、浪も静まり、海賊どもは腹這いを続け、四辺<ruby><rb>寂</rb><rt>せき</rt></ruby>として声もなく、ただ平八の声ばかりが、こだまも起こさぬ大洋の上を、どこまでもどこまでも響いて行った。と、薄闇を貫いて、パッと火縄の火花が散り、ドンと一発鳴り渡ろうとした時、武士が<ruby><rb>大音</rb><rt>だいおん</rt></ruby>に呼ばわった。

「おお貴様は、森田屋じゃねえか！」

「えっ」といったらしい驚きの様子が、鉄砲の持ち主から見て取られたが、「やあそうおっしゃるあなた様は、秋山先生じゃございませんか！」

「いかにも俺は秋山要介、貴様を尋ねてやって来たのだ！」

「あっいけねえ、そいつあ大変だ！　わっちも先生のおいでくださるのを、一日千秋で待っていやした。いやどうもとんだ間違いだ！　取り舵イイ」とばかり声を絞った。ギ――と<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>る<ruby><rb>艫櫂</rb><rt>ろかい</rt></ruby>の音、見る見る賊船は位置を変え、八幡丸の船腹へ、ピッタリ船腹を食っつけてしまった。

この二人の問答を聞き、はっと思ったのは平八で、剣技神妙の侍が、秋山要介であろうとは、たった今し方感づいたところで、これには別に驚かなかったが、海賊船の頭領が、森田屋清蔵であろうとは、夢にも思わなかったところであった。

天保六花撰のその中でも、森田屋清蔵は宗俊に次いで、いい方の位置を占めていた。しかも人物からいう時は、どうしてどうして宗俊など、足もとへも寄りつけない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えらもの</span>なのであった。<ruby><rb>気宇</rb><rt>きう</rt></ruby>の広濶希望の雄大、任侠的の精神など、日本海賊史のその中でも、三役格といわなければならない。産まれは駿州江尻在、相当立派な網持ちの伜で、その地方での若旦那であり、それが海賊になったのには、いうにいわれぬ事情があったらしい。

海賊船は<ruby><rb>梵字丸</rb><rt>ぼんじまる</rt></ruby>

郡上平八が隠居せず、立派な与力であった時分、その豪快な性質を愛し、二、三度<ruby><rb>目零</rb><rt>めこぼ</rt></ruby>しをしたことがあった。で清蔵からいう時は、まさしく平八は恩人なのであり、また平八からいう時は、恩を施してやった人間なのであった。

しかるに清蔵はここ七、八年、全く消息をくらましていた。もう死んだというものもあり、南洋へいったというものもあり、日本近海からは彼の姿は、文字どおり消えてなくなっていた。で、今度の海賊沙汰についても、彼の噂はのぼらなかった。したがって平八の心頭へも、清蔵の名は浮かんで来なかった。しかるにいよいよぶつかってみれば、その海賊は森田屋なのであった。

「俺はまたもや目違いをした」

思うにつけても平八は、憮然たらざるを得なかった。

この時<ruby><rb>船縁</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>を飛び越えて、森田屋清蔵がやって来た。と見て取った平八は、つと前へ進み出たが、

「おお森田屋、久しぶりだな！」

「え？」といって眼を見張ったが、

「やあ、あなたは郡上の旦那！」

「ナニ、郡上？」といいながら、ツカツカやって来たのは武士であったが、

「うむ、それでは世に名高い、玻璃窓の郡上平八老かな」

「そうして、あなたは秋山殿で」「いかにも拙者は秋山要介、名探索とは思っていたが、郡上老とは知らなかった」「奇遇でござるな。奇遇でござる」二人はすっかりうちとけた。

「ヤイヤイ野郎どもトンデモない奴だ！　秋山先生と郡上の旦那へ、手向かいするとは不量見、あやまれあやまれ、大馬鹿野郎！」森田屋清蔵は手下の者どもを、睨み廻しながら怒鳴りつけた。

「ワーッ、こいつあやりきれねえ。強いと思ったが強い筈だ。だが、お頭は水臭いや。掛かれといったから掛かったんで。ぶん撲られたそのあげく、あやまるなんてコケな話だ」

「みんな<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>達がトンマだからさ。文句をいわずとあやまれあやまれ」――で、賊どもがあやまるという、滑稽な幕がひらかれた。

森田屋清蔵の海賊船は<ruby><rb>梵字丸</rb><rt>ぼんじまる</rt></ruby>と呼ばれていた。その梵字丸の胴の間に、苦笑いをして坐っているのは、他でもない平八で、それと向かい合って坐っているのは、すなわち森田屋清蔵であった。四十五、六の立派な<ruby><rb>仁態</rb><rt>じんてい</rt></ruby>、デップリと肥えた赧ら顔、しかもみなりは縞物ずくめで、どこから見ても海賊とは見えず、まずは<ruby><rb>大商店</rb><rt>おおどこ</rt></ruby>の旦那である。<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に大刀をひきつけてはいるが、それさえ一向そぐわない。

掠奪を終えた梵字丸は、しんしんと<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>っているらしい。轟々という浪の音、キ――キ――という帆鳴りの音、板と板とがぶつかり合う、軋り音さえ聞こえて来た。

「旦那がおいでと知っていたら、けっして掛かるんじゃなかったのに、とんだドジをふみやした。どうぞマアごかんべんを願います」森田屋清蔵は手を揉んだが、「それに致してもそのおみなりで、どちらへお出かけでございましたな。」

「うん、これか」といいながら、平八は自分を見廻したが「どうだ森田屋、似合うかな」「そっくり棟梁でございますよ」「アッハハハ、それは有難い。実はな、森田屋、この風で、海賊を釣ろうとしたやつさ」意味ありそうにきっといった。

「ええ、海賊でございますって？　おお、それじゃわっちたちを？」さすがにその眼がギラリと光った。

「うん、まずそうだ。そうともいえる。がまたそうでないともいえる」謎めいたことをいいながら、一膝グイと進めたが、「森田屋、正直に話してくれ。船を造っちゃいないかな？」「ええ、船でございますって？」森田屋はあっけにとられたらしく「それはなんのことでございますな？」「ご禁制の船だよ。ご禁制のな」「へえ、それじゃ千石船でも？」「どうだ、造っちゃいないかな？」

「とんでもないことでございますよ」森田屋清蔵は否定した。

「ふうむ、そうか、造っちゃいないのだな。……いやそれを聞いて安心した。それじゃやっぱり他にあるのだ。……まるまる目違いでもなかったらしい」どうやら安心をしたらしい。

莫大もない赤格子の財産

森田屋清蔵には平八の言葉が、どういう意味なのか解らなかった。で、ちょっとの間だまっていた。

が、やがて意味がわかると、

「ええええ、お目違いじゃございませんとも」急に森田屋は乗り出して来た。

「ご禁制の二千石船を、こしらえている者がありますので」

「それをお前は知ってるのか？」平八は思わず乗り出した。

「知ってる段じゃございません。<ruby><rb>私</rb><rt>わっち</rt></ruby>らはそいつらと張り合ってるので」「誰だな？　そいつは？　え、誰だな？」「赤格子九郎右衛門でございますよ」

これを聞くと平八は、しばらく森田屋を見詰めていたが、「うん、それでは赤格子は、日本の土地にいるのだな」「ハイ、いる段じゃございません。赤格子本人がやって来たのは、今年の秋のはじめですが、手下の奴らはずっと前から、日本へ入りこんでいたのですな。そうして連絡を取っていたので」「で、今はどこにいるのだ？」「へい、銚子におりますので」「ううむ、そうか、銚子にな……そこで<ruby><rb>大船</rb><rt>おおぶね</rt></ruby>を造っているのだな？　……なんのために造っているのだろう？」「莫大もない財産を、持ち運ぶためでございますよ」森田屋は居住居を正したが、「実はこうなのでございます。十数年前大坂表で、赤格子九郎右衛門一味の者が、刑死されたと聞いたとき、そこはいわゆる<ruby><rb>蛇</rb><rt>じゃ</rt></ruby>の道は<ruby><rb>蛇</rb><rt>へび</rt></ruby>で、<ruby><rb>眉唾</rb><rt>まゆつば</rt></ruby>ものだと思いました。はたしてそれから探ってみると、刑死どころかお上の手で、丁寧に船で送られて、南洋へ渡ったじゃございませんか。そこでわたしたちは考えたものです。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>が永年密貿易によって、集めた財産は莫大なものだが、どこに隠してあるだろうとね。南洋へ移した形跡はない。ではどうでも日本のうちにある。ソレ探せというところから、随分手を分けてさがしましたが、ねっから目っからないではございませんか。そうこうしているうち年が経ち、ある事情でこのわたしは、海賊の足を洗いました。……」

「ううむ、そうか、それじゃやっぱり、お前は海から足を洗い、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろと</rt></ruby>になっていたのだな」

平八はうなずいて言葉を揷んだ。「で、どこに住んでいたな？」「へい、江戸におりました」「ナニ江戸に？　江戸はどこに？」「日本橋は人形町、森田屋という国産問屋、それが私の隠れ家でした」「人形町の森田屋といえば、江戸でも一流の国産問屋だが、それがお前の隠れ家だとは、今が今まで知らなかった。……世に<ruby><rb>燈台</rb><rt>とうだい</rt></ruby><ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>くらしというが、これは少々暗すぎたな。いや、どうも俺も駄目になった」またも平八は<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>として嘆息せざるを得なかった。「そのお前がどうしてまた、荒稼ぎをするようになったのかな？」「それには訳がございます。どうぞお聞きくださいますよう。ある日ヒョッコリ<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて来たのが、義兄弟の金子市之丞で、父の仇が討ちたいから、どうぞ助太刀をしてくれと、こう申すではございませんか。仇は誰だと訊きましたところ、赤格子九郎右衛門だというのです。その赤格子なら南洋にいる、どうして討つ気かと訊ねましたところ、最近日本へ帰って来て、銚子にいるというのです。そこでわたしも考えました。相手が赤格子九郎右衛門なら、持って来いの取り組みだ。それにおりから商売にも飽き、<ruby><rb>平几帳面</rb><rt>ひらきちょうめん</rt></ruby>の素人ぐらしにも、どうやら面白味を失って来た。河育ちは河で死ぬ。よし一生の思い出に、それでは、もう一度海賊となり、赤格子めと張り合ってやろう。それがいいというところから、数隻の廻船を賊船に仕立て、昔の手下を呼び集め、なにしろ赤格子と戦うには、兵糧もいれば武器もいる。やれやれというので近海を、荒らしまわったのでございますよ」さすがにそれでも気が<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めると見え、こういうと森田屋は<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いた。

ムーと絶望した郡上平八

「なるほど」といったが平八は、しばらくじっと打ち案じた。「どうだろう森田屋、この俺を、船からおろしてはくれまいかな」「船をおりてどうなされます？」「実は」というと平八は、森田屋の側へズイと寄り、「さるお方に頼まれて、大事の密書を預かっているのだ。渡す相手は赤格子、そこでこんな変装までして、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>の行方をさがしていたのさ。銚子にいると耳にしては、どうも一刻もうっちゃってはおけない。頼む、小船を仕立ててくれ。そうして銚子へ着けてくれ」

これを聞くと森田屋は、にわかに当惑の表情をした。「旦那、せっかくのお頼みですが、どうもそいつだけは出来かねますなあ」「なぜ出来かねる？　え、なぜだ？」「秋山先生のおいでを待って、赤格子攻めをやろうというのが、私達の計画なのでございますよ。その先生がおいでなされた今は、一刻も急がなければなりませんので。で今船は根拠地へ向けて、走っているのでございますよ。それだのに旦那をお送りして、うっかり小船を陸へでも着け、もし役人にでも感づかれたら、それからそれと足がつき、一網打尽に私達は、召し捕られないものでもありません。大事な瀬戸際なのでございますよ。ですからどうもこればかりは、おひきうけすることはできませんなあ」「だが俺はどうしても、赤格子攻めのその前に、九郎右衛門に行き会わなかったら、頼まれたお方に申し訳が立たぬ。ぜひとも小船を仕立ててくれ」「残念ながらそればかりは……」「では、どうしても駄目なのだな」「どうぞお察しを願います」「ううむ」と唸ると平八は、絶望したように腕を組んだ。と、この時甲板の方から陽気な笑い声がドッと起こった。秋山要介を<ruby><rb>賓客</rb><rt>ひんきゃく</rt></ruby>とし、森田屋の手下の海賊どもが、酒宴をひらいているのであった。

ここは梵字丸の甲板であった。

十七日あまりの冴えた月が、船をも海をもてらしていた。船はしんしんとはしっていた。根拠地をさしてはしっているのだ。

大杯で酒をあおりながら、談論風発しているのが、他ならぬ秋山要介であった。武州<ruby><rb>入間郡</rb><rt>いるまごおり</rt></ruby>川越の城主、松平大和守十五万石、その藩中で五百石を領した、<ruby><rb>神陰</rb><rt>しんかげ</rt></ruby>流の剣道指南役、秋山要左衛門勝重の次男で、十五歳の時には父勝重を、ぶんなぐったという<ruby><rb>麒麟児</rb><rt>きりんじ</rt></ruby>であり、壮年の頃江戸へ出て、根岸お<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>の松へ道場を構え、大いに<ruby><rb>驥足</rb><rt>きそく</rt></ruby>を<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>ばそうとしたが、この人にしてこの<ruby><rb>病</rb><rt>やま</rt></ruby>いあり、女は好き酒は結構、勝負事は大好物、取れた弟子も離れてしまい、道場は<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>と一変し、門前<ruby><rb>雀羅</rb><rt>じゃくら</rt></ruby>を張るようになった。こいつはいけないというところから、道場をとじて武者修行に出たが、この武者修行たるや大変もので、どこへ行っても敬遠された。秋山要介の名を聞くと、「いやもう立ち会いは結構でござる。些少ながら旅用の足しに」こういってわらじ銭を出すのであった。というのは試合ぶりが世にも、荒っぽいものであって、小手を打たれると小手が折れる、横面を張られると耳がつぶれる、胴を取られると肋骨が<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>ける、もしそれお突きでやられようものなら、そのまま冥途へ行かなければならない。で、敬遠するのであった。彼の流儀は神陰流ではあったが、事実は流儀から外れていた。むりに名付けると秋山流であった。「<ruby><rb>飛込</rb><rt>とびこみ</rt></ruby>一刀」といわれたところの、玄妙な一手を工夫して、ほとんどこればかり用いていた。遠く離れてじっと構え、飛び込んで行ってただ一刀！　それだけでカタをつけるのであった。あんまり諸方で敬遠されるので、彼もいいかげん閉口してしまった。そこで博徒を訪問しては、そいつらに武芸を教えることにした。大前田英五郎、国定忠治、小金井小次郎、笹川繁蔵、飯岡助五郎、赤尾林蔵、関八州の博徒手合いで、彼に恩顧を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>らないものは、一人もないといってもよい。ある時は高級用心棒として、賭場を守ったこともあり、またある時はなぐりこみへ出張り、直々武勇を現わしたこともあった。ただしなぐりこみへ出た時は、剣を用いなかったという事であった。

さて秋山要介は、そういう人物であったので、取り立てた弟子も多くなかったが、しかし一面関東の侠客は、全部弟子だということが出来た。その間特に可愛がった弟子に金子市之丞という若者があった。下総国<ruby><rb>葛飾郡</rb><rt>かつしかごおり</rt></ruby>流山在の郷士の伜で、父藤九郎は快男子、赤格子九郎右衛門と義兄弟を結び、密貿易を企てたが、その後ゆえあって足を洗い、酒造業をいとなんだところ、士族の商法で失敗した。そこで昔の縁故を<ruby><rb>手頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>り、度々九郎右衛門へ無心をしたが、そのうち行方が知れなくなった。そこで市之丞は前後の関係から、九郎右衛門が無心を恐れ、父をあやめたに相違ないと、かたく心に信ずるようになった。そうして復讐をしたいというので、秋山要介に従って、武術の修業をするようになった。ところで彼も父に似て、海を愛したところから、いつか森田屋と義を結び、海賊の仲間にはいってしまった。

そこへ赤格子が帰って来た。そこで一方森田屋を説き、ふたたび海へひっぱり出し、一方諸国漫遊中の、秋山要介へ使いを出し、助太刀を依頼したのであった。そういう間にも赤格子の屋敷へ、威嚇の手紙を投げ込んだり、あるだけの財産を引き渡せという、不可能の難題を持ちかけたりまたは不時に上陸し、<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>の声をあげておびやかしたり、さらにある時は使者をもって、無理に会見を申し込みながら、先方が承知して待ち構えているのに、わざと行かずにじらしたりして、敵をして<ruby><rb>奔命</rb><rt>ほんめい</rt></ruby>に<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れさせようとした。そうしていよいよ今日となり、師匠秋山も来たところから、一旦根拠地へ引き上げた上、急速にしかし堂々と、赤格子攻めをしようというので、今や勇んでいるのであった。

鼓賊旅へ出立する

船は白波を高く上げ、九十九里ヶ浜の沖中を、北へ北へと走っていた。

いま酒宴は真っ盛りであった。

秋山要介の左側には、金子市之丞が坐っていた。総髪の<ruby><rb>大髻</rb><rt>おおたぶさ</rt></ruby>、紋付きの衣裳に白袴、色白の好男子であった。その二人を取り巻いて、ガヤガヤワイワイ騒いでいるのは、さっきまで、要介を向こうへ廻し、切り合っていた海賊どもで、白布で手足を巻いているのは、いずれも要介に船板子で、打ち倒された者どもであった。いわゆる山海の珍味なるものが、あたりいっぱいに並んでいた。眼まぐるしく飛ぶは<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>で、無茶苦茶に動くのは箸であった。牛飲馬食という言葉は、彼らのために出来ているようだ。

「どうやら最近赤格子めは、散在していた手下どもを、大分集めたということだが、ちと<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>いかもしれないぞ。だが俺がいるからには、五十人までは引き受ける。後はお前達で片づけるがいい。年頃指南した小太刀の妙法、市之丞うんと揮うがいいぞ」こう要介は豪快にいった。

「先生さえいれば千人力、いかに赤格子が豪傑でも、討ち取るに訳はございません」市之丞は<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>ましげに、「それはそうと先生には、どうしてそのような船図面を、お手に入れたのでございますな？」「これか」というと要介は、膝の上へひろげていた例の図面へ、きっと酔眼を落としたが「いやこれは偶然からだ。……実は便船を待ちながら、木更津の海辺をさまよっていると、細身蝋塗りの刀の鞘が、波にゆられて流れ寄ったものだ。何気なく拾い上げて調べてみると、口もとに粘土が詰めてある。ハテナと思って掘り出して見ると、中からこれが出て来たのさ」「それは不思議でございますな」「不思議だといえば全く不思議だ」「では赤格子めが造っているという、素晴らしく大きなご禁制船のたしかな図面ともいえませんな？」「うん、たしかとはいえないな」「しかしそれにしてもそんな図面を、なんで刀の鞘などへ入れ、海へ流したのでございましょう？」「わからないな、トンとわからぬ。しかし、赤格子めを退治てみたら、案外真相がわかるかもしれない。……さあ貴様達酒ばかり飲まずと、景気よく唄でもうたうがいい！」「へえ、よろしゅうございます」海賊どもは手拍子をとり、声を揃えてうたい出した。月が<ruby><rb>船縁</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>を照らしていた。海は真珠色に煙っていた。その海上を唄の声が、どこまでもどこまでも響いて行った。

ある時は千三屋、またある時は鼠小僧、そうして今は鼓賊たるところの、和泉屋次郎吉はこの日頃、ひどく退屈でならなかった。「チビチビ江戸の金を盗んだところで、それがどうなるものでもない。どうかしてドカ儲けをしたいものだ」こんなことを思うようになった。

「気が変っていいかもしれない、ひとつ旅へでも出てみよう」……で鼓を風呂敷へ包み、そいつをヒョイと首っ玉へ結び、紺の腹掛けに紺の股引き、その上へ唐棧の布子を着、茅場町の自宅をフラリと出た。「東海道は歩きあきた、日光街道と洒落のめすか。いや、それより千葉へ行こう。うん、そうだ、千葉がいい。酒屋醤油屋の大家ばかりが、ふんだんに並んでいるあの町は、金持ちで鼻を突きそうだ。千葉へ行ってあばれ廻ってやろう。しかし海路は平凡だ。<ruby><rb>陸地</rb><rt>くがじ</rt></ruby>を辿って行くことにしよう」

腹へ滲みわたる鼓の音

<ruby><rb>亀戸</rb><rt>かめいど</rt></ruby>から市川へ出、八幡を過ぎ船橋へあらわれ、津田沼から幕張を経、<ruby><rb>検見川</rb><rt>けみがわ</rt></ruby>の宿まで来た時であったが、茶屋へ休んで一杯ひっかけ、いざ行こうと腰を上げた時、ふと眼についたものがあった。というのは<ruby><rb>道標</rb><rt>みちしるべ</rt></ruby>で、それには不思議はなかったが、その道標の<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ん<ruby><rb>中所</rb><rt>なかどころ</rt></ruby>に、十文字の記号が石灰で、白く書かれてあるのであった。「婆さん」と次郎吉は話しかけた。「ありゃあ何だね、あの印は？」「あああの十文字でございますかな」茶店の婆さんは興もなさそうに、「さあ、なんでございますかね。妾にはトンとわかりませんが。なんでも今から一月ほど前から、あっちにもこっちにもああいう印が、書いてあるそうでございますよ」「あっちにもこっちにもあるんだって？　ヘエ、そいつあ不思議だね」「それもあなた成東街道を、銚子まで続いているそうで」「ふうむ、なるほど、銚子までね」次郎吉は腕を組んで考え込んだ。

「ははあわかった。これはこうだ。人寄せの符号に相違ねえ。仲間へ知らせる人寄せ符号だ。……なんだかちょっと気になるなあ。……よし、ひとつ突き止めてやろう。とんだいい目が出ようもしれぬ」そこで婆さんへ茶代をやると、街道を東へ突っ切った。さて川野辺へ来てみると、なるほどそこの<ruby><rb>道標</rb><rt>みちしるべ</rt></ruby>にも同じ十文字が記してあった。「こいつあいよいよ面白いぞ」そこで例の横歩き、風のように早い歩き方で、グングン東南へ走り下った。吉岡の関所の間道を越え、田中、大文字、東金宿、そこから街道を東北に曲がった。成東、松尾、横芝を経、福岡を過ぎ干潟を過ぎ、<ruby><rb>東足洗</rb><rt>ひがしあしあらい</rt></ruby>から忍阪、飯岡を通って、銚子港、そこの海岸まで来た時には、夕陽が海を色づけていた。と見ると海岸の小高い丘に、<ruby><rb>岩</rb><rt>いわお</rt></ruby>のように<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしい、一宇の別荘が立っていたが、そこの石垣にとりわけ大きく、例の十文字が記されてあった。

「ははあ、こいつが魔物だな」そこは商売<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みち</span>によって賢く、次郎吉は鋭い「盗賊眼」で早くもそれと見て取った。あたりを見廻すと人気がなく、波の音ばかりが高く聞こえた。「よし」というと岩の根方に、膝を正して坐ったが、まず風呂敷の包みを解き、取り出したのは少納言の鼓、調べの紐をキュッと締め、肩へかざすとポンと打った。とたんにアッといって飛び上がったのは、思いもよらず鼓の音が、素晴らしく高鳴りをしたからであった。「こんな筈はない。どうしたんだろう？」そこでもう一度坐り直し、ポンポンポンと続け打ってみた。と、その音は依然として、素晴らしい高鳴りをするのであった。「どうもこいつは解せねえなあ」こう次郎吉は呟いたが、そのまま鼓を膝へ置くと、眉をひそめて考えこんだ。「千代田城の大奥へ、一儲けしようと忍び込み、この鼓を調べたとき、ちょうどこんなような音がしたが、名に負う柳営とあるからは、八百万石の大屋台、腹のドン底へ滲み込むような、滅法な音がしようとも、ちっとも驚くにゃあたらねえが、いかに構えが大きいといっても、たかが個人の別荘から、こんな音色が伝わって来るとは、なんとも合点がいかねえなあ」……じっと思案にふけったが「三度が<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>の例えがある。よし、もう一度調べてみよう。それでも音色に変りがなかったら、十万二十万は愚かのこと、百万にもあまる<ruby><rb>黄金白金</rb><rt>こがねしろがね</rt></ruby>が、あの別荘にあるものと、見究めたところで間違いはねえ。いよいよそうなら忍び込み、奪い取って一<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>起こし、もうその後は足を洗い、あの米八でも側へ引き付け、<ruby><rb>大尽</rb><rt>だいじん</rt></ruby>ぐらし栄耀栄華、ううん、こいつあ途方もねえ、偉い幸運にぶつかるかもしれねえ。犬も歩けば棒というが、鼠小僧が田舎廻りをして、こんなご馳走にありつこうとは、いや夢にも思わなかったなあ。どれ」というと鼓を取り上げ、一調子ポ――ンと打ち込んだ。やっぱり同じ音色であった。

「こいつあいよいよ間違いはねえ。驚いたなあ」と呟いた時、

「オイ、千三屋！」

と呼ぶ声がした。

「え！」と驚いた次郎吉が、グルリ<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を振り返って見ると、一人の武士が岩蔭から、じっとこっちを見詰めていた。

「おっ、あなたは平手様！」ギョッとして次郎吉は叫んだものである。

地下二十尺救助を乞う

「おおやっぱり千三屋か。妙なところで逢ったなあ。これは奇遇だ、いや奇遇だ」こういいながら近寄って来たのは、他ならぬ平手造酒であった。今年の真夏追分宿で、仲よく（？）つきあった頃から見ると、多少やつれてはいたけれど、尚精悍の風貌は、<ruby><rb>眉宇</rb><rt>びう</rt></ruby>のあいだに現われていた。「オイ千三屋」と叱るように、「実に貴様は悪い奴だな。観世の小鼓をなぜ盗んだ」「ああこいつでございますか」次郎吉はテレたように笑ったが、「へい、いかにも追分では、無断拝借をいたしやした。だがその後観世様へ、一旦ご返却いたしましたので」「嘘をいえ、悪い奴だ」造酒は一足詰めよせたが「一旦返した観世の小鼓を、どうしてお前は持っている？」「それには訳がございます」気味が悪いというように、小刻みに後へ退りながら、「実はこうなのでございますよ。一旦お返ししたあとで、是非に頂戴いたしたいと、お願いしたのでございますな。すると観世様はこうおっしゃいました。盗まれてみれば不浄の品、もう家宝にすることはできぬ。往来へ捨てるから拾うがよいと。……で往来へお捨てなされたのを、わっちが急いで拾ったので。嘘も<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りもございません。ほんとうのことでございますよ」次郎吉は額の汗を拭いた。

造酒は<ruby><rb>迂散</rb><rt>うさん</rt></ruby>だというように、黙って話を聞いていたが、不承不承に頷いた。

「貴様も相当の悪党らしい。問い詰められた苦しまぎれに、ちょっと<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がれをいうような、そんなコソコソでもなさそうだ。それに観世の精神なら、そんな態度にも出るかもしれない。お前のいいぶんを信じることにしよう」「へえ、ありがとう存じます。ヤレヤレこれで寿命が延びた、抜き打ちのただ一刀、いまにバッサリやられるかと、どんなにハラハラしたことか。……それはそうと平手様、どうしてこんな<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>な土地に、おいでなさるのでございますな？」……聞かれて造酒は気まずそうに、寂しい笑いをうかべたが、「銚子港ならまだ結構だ。もっと辺鄙な笹川にいるのだ」「おやおやさようでございますか」「おれも江戸をしくじってな。道場の方も破門され、やむを得ずわずかの縁故を<ruby><rb>手頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>り、笹川の侠客繁蔵方に、態のいい<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>、子分どもに剣術を教え、その日をくらしているやつさ」「そいつはどうもお気の毒ですなあ。……それで今日はこの銚子に、何かご用でもございまして？」「うん」といったが声を落とし、「実は騒動が起こりそうなのだ」「へえ、なんでございますな？」「飯岡の侠客助五郎が、笹川繁蔵を眼の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>にして、だんだんこれまでセリ合って来たが、いよいよ爆発しそうなのさ。そこでおれは今朝早く、笹川を立って飯岡へ行き、それとなく様子を探って見たが、残念ながら喧嘩となれば、笹川方は七分の負けだ。なんといっても助五郎は、老巧の上に子分も多く、それにご用を聞いている。こいつは二足の草鞋といって、博徒仲間では軽蔑するが、いざといえば役に立つからな。……喧嘩は負けだと知ってみれば、気がむすぼれて面白くない。そこで大海の波でも見ようと、この銚子へやって来たのさ。それに銚子ははじめてだからな。……おや、あれはなんだろう？　おかしなものが流れ寄ったぞ」

つと<ruby><rb>渚</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>へ下りて行き、泡立つ潮へ手を入れると、グイと何かひき出した。それは細身の脇差しの鞘で、渋い蝋色に塗られていた。

「はてな？」と造酒は首をかしげたが、

「この鞘には見覚えがある」……で、鞘口へ眼をやった。と粘土が詰められてあった。粘土を取って逆に握り、ヒューッとひとつ振ってみた。すると、中から落ちて来たのは、小さく畳んだ紙であった。「これは不思議」と呟きながら、紙をひらくと血で書いたらしい、一行の文字が現われた。読み下した造酒の顔色が、サッと変ったのはどうしたのであろう？　これは驚くのが当然であった。紙には次のように書かれてあった。

「主知らずの別荘。地下二十尺。救助を乞う。観世銀之丞」

差し覗いていた次郎吉も、これを見ると眼をひそめた。

「こいつあ平手さん大変だ。文があんまり短くて、はっきりしたことは解らねえが、なんでも観世銀之丞さんは、悪い奴らにとっ掴まり、主知らずとかいう別荘へ、押し込められているのです。地下二十尺というからには、恐ろしい地下室に違えねえ。救助を乞うと血で書いてあらあ。まごまごしちゃいられねえ」「だが、どうして助け出す？」造酒は呻くように訊きかえした。「主知らずの別荘だって、どこにあるのかわからないではないか」「ナーニ、そんなことは訳はねえ。刀の鞘の鞘口へ、粘土が詰められてありましたね。そいつが崩れていなかったのは、永く海にいなかった証拠だ。いずれ手近のこの辺に、別荘はあるに違えねえ。銚子からはじめて付近の港を、これからズッと一巡し、人に訊いたら解りましょうよ」「いかさまこれはもっともだ。では一緒に尋ねようか」「いうにゃ及ぶだ。参りましょう！」そこで二人は手をたずさえ、町の方へ走って行った。

造酒と次郎吉別荘へ忍ぶ

次郎吉とそうして平手造酒とが「主知らずの別荘」のあり場所について、最初に尋ねた家といえば、好運にもお品の家であった。そこで二人は一切を聞いた。銀之丞が銚子へ来たことも、お品の家に泊まっていたことも、主知らずの別荘へ行ったきり、帰って来なかったということも。

「だからきっと銀之丞様は、いまでもあそこの『主知らずの別荘』に、おいでなさるのでございましょうよ」こういってお品は寂しそうにした。そこで二人はあすともいわず、今夜すぐに乗り込んで行って、造酒としては銀之丞を救い、次郎吉としては莫大もない、別荘の中の財宝を、盗み取ろうと決心した。

別荘へ二人が忍び込んだのは、その夜の十二時近くであった。不思議なことに別荘には、何の防備もしてなかった。<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね橋もちゃんと懸かっていたし、四方の門にも鍵がなかった。で、二人はなんの苦もなく、広い構内へ入ることが出来た。中心に一宇の館があり、その四方から廊下が出ていて、廊下の外れに一つずつ、四つの出邸のあるという、不思議な屋敷の建て方には、二人ながら驚いた。しかし、それよりもっと驚いたのは、その屋敷内が整然と、掃除が行き届いているにも似て、<ruby><rb>闃寂</rb><rt>げきじゃく</rt></ruby>と人気のないことで、あたかも無住の寺のようであった。

しかしじっと耳を澄ますと、<ruby><rb>金</rb><rt>かつ</rt></ruby>と金と触れ合う音、そうかと思うと岩にぶつかる、<ruby><rb>大濤</rb><rt>おおなみ</rt></ruby>のような物音が、ある時は地の下から、またある時は空の上から、<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かではあったけれど聞こえて来た。

「平手さん、どうも変ですね」次郎吉は耳もとで囁いた。「気味が悪いじゃありませんか」

「うむ」といったが平手造酒は、じっと出邸へ目をつけた。「とにかくあれは出邸らしい。ひとつあそこから探るとしよう」

土塀の内側に繁っている、杉や檜の林の中に、二人は隠れていたのであったが、こういうと造酒は歩き出した。

「まあまあちょっとお待ちなすって。そう簡単にゃいきませんよ。なにしろここは敵地ですからね。いかさまあいつが出邸らしい。と、するといっそうあぶねえものだ。人がいるならああいう所にいまさあ。つかまえられたらどうします」「いずれ人はいるだろうさ。これほどの大きな屋敷の中に、人のいない筈はない。が、おれは大丈夫だ。五人十人かかって来たところで、<ruby><rb>粟田口</rb><rt>あわたぐち</rt></ruby>がものをいう。斬って捨てるに手間ひまはいらぬ」「それはマアそうでございましょうがね。君子は危うきに近寄らず、いっそそれより本邸の方から、さがしてみようじゃございませんか」「いやいやそんな余裕はない。観世から来た鞘手紙、危険迫るとあったではないか。一刻の間も争うのだ」「なるほどこいつあもっともだ。だがあっしは気が進まねえ。うん、そうだ、こうするがいい。あなたは出邸をお探しなせえ。あっしは本邸を探しやしょう」「おお、こいつはいい考えだ。それではそういうことにしよう」

ここで二人は左右へ別れ、次郎吉は本邸へ進んで行った。木立ちを出ると小広い空地で、戦いよさそうに思われた。左手を見れば長廊下で、出邸の一つに通じていた。右手を見ても長廊下で、また別の出邸に通じていた。空地を突っ切ると本邸で、戸にさわると戸が開いた。と眼の前に長い廊下が、一筋左右に延びていた。耳を澄ましたが人気はなく、ただ薄赤い<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>が、どこからともなくさしていた。「ともしがさしているからには、どこかに人がいなけりゃあならねえ」で次郎吉はその廊下の、右手の方へと忍んで行った。すぐに一つの部屋の前に出た。これぞお艶の部屋なのであったが、今夜は誰もいなかった。で次郎吉は引き返そうとした。

しかし何んとなく未練があった、で、しばらく立っていた。

森田屋一味の赤格子<ruby><rb>征</rb><rt>ぜ</rt></ruby>め

しかるにこの頃暗い暗い、銚子の海の一所に数隻の親船が現われた。森田屋一味の海賊船で、赤格子ぜめに来たのであった。すなわち彼らの根拠地から、用意万端ととのえて、総勢すぐって二百人、有司の鋭い警戒網をくぐり、ここまでやって来たのであった。……親船は岸へ近づいて来た。やがて<ruby><rb>碇</rb><rt>いかり</rt></ruby>を下ろしたとみえ、ゆたかに海上へ漂った。と<ruby><rb>小船</rb><rt>はしけ</rt></ruby>が無数に下ろされ、それが一斉に岸へ向かって、さながら矢のように漕ぎ寄せられた。と、ヒラヒラと人が下りた。すると<ruby><rb>小船</rb><rt>はしけ</rt></ruby>は帰って行った。と、またその船が岸へ漕がれ、ヒラヒラと人が岸へ飛んだ。これが数回繰り返され、一百人あまりの人数が、海から岸へ陸揚げされた。森田屋の部下の海賊どもであった。

賊どもは一団に固まった。真っ先に立った人影は、秋山要介正勝で、<ruby><rb>櫂</rb><rt>かい</rt></ruby>で造った獲物を<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げ、一巡一同を見廻したが、重々しい口調でいい出した。

「森田屋は船へ残すことにした。海路を断たれると危険だからな。……さて市之丞前へ出ませい」声に連れて一つの人影が、ツト前へ現われた。「赤格子九郎右衛門はそちにとり、<ruby><rb>不倶戴天</rb><rt>ふぐたいてん</rt></ruby>の父の仇だ。で五十人の部下を率い、東の門から乱入し、赤格子一人を目掛けるよう。さて次に郡上殿！」呼ばれて一つの人影は、立ったままで一礼した。「貴殿には尊いお方から、密書を預かっておられる由、十人の部下をお貸し致す。それに守られてご活動なされ。行動は一切ご自由でござる。次に小頭小町の金太！」「へい」というと一つの人影が、群を離れて進み出た。「お前は二十人の部下を連れて、西の門から乱入しろ。そうして出邸へ火を掛けろ。さて、最後にこの俺だが、残りの二十人を引率し、表門から向かうことにする。一世一代の赤格子<ruby><rb>征</rb><rt>ぜ</rt></ruby>めだ、命限り働くがいい」

全軍<ruby><rb>粛々</rb><rt>しゅくしゅく</rt></ruby>と動き出した。

玻璃窓の郡上平八としては、ここが名誉と不名誉との、別れ<ruby><rb>際</rb><rt>ぎわ</rt></ruby>ともいうべきであった。赤格子が殺されてしまったら、せっかくの密書が役に立たぬ。これはどうでも戦いの前に、是非赤格子に渡さなければならない。で、つと群から駈け抜けると、付けられた十人の部下も連れず、大手の門へ走っていった。自由行動を許されていたので、誰も咎める者はない。来て見れば刎ね橋が下ろされてあった。それを渡って表門にかかり、試みに押すとギーと開いた。さて構内へはいって見ると、まことに異様な建築法であった。一渡り素早く見廻したが、中央に立っている建物へ、目を付けざるを得なかった。で、彼は足音を忍ばせ、空地を横切って本邸へ走った。手に連れて扉が開き、長い廊下が眼の前を、左右にズッと延びていた。彼はちょっとの間思案したが、つと廊下へ踏み入った。そうしてすぐに左へ廻った。

この時和泉屋次郎吉は、反対側の廊下の上に、考え込んで立っていたが、誰やら人の来たらしい、軽い足音が聞こえて来たので、ハッとして耳を引っ立てた。

「いずれ屋敷の者だろう。逢ってもみたし逢いたくなし。少し様子を探ってやれ」

で彼は西へ廻った。

この本邸の建て方は、中央に九郎右衛門の部屋があり、その部屋の四面を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いにょう</rt></ruby>して、廊下がグルリと作られてあり、その廊下の隅々に、四つの部屋が出来ている。

で、次郎吉の立っていた所は、その北側の廊下であって、それを今西の方へ歩き出した。また平八の立っていた所は、南側の廊下であったが、それを今東へ歩き出した。

九郎右衛門の居間たるや、四方厚い石壁で、<ruby><rb>各〻</rb><rt>おのおの</rt></ruby>の四隅に戸口はあったが、石壁の色と紛らわしく、発見することは不可能であった。

玻璃窓の平八は足を止めた。それは自分の反対側で、誰かこっそり歩いているとみえ、幽かな足音がしたからであった。しかしもちろん足音の主が、鼓賊だなどとは夢にも思わず、邸内の者だろうと想像した。

追いつ追われつ鼓賊と玻璃窓

「九郎右衛門には逢わなければならない。その他の者には逢いたくない。深夜に他家へ忍び込み、ウソウソ歩いているところを、とっ捉まえられたらそれっきりだ。泥棒といわれても仕方がない。しかし誰かに聞かないことには、九郎右衛門のありかは解らない。歩いているのは誰だろう？　九郎右衛門なら有難いが？　いやいや恐らく召使いだろう。とまれ様子をうかがってみよう」そこで彼は歩いて行った。行く手に一つの部屋があった。九郎右衛門の病身の妻、お妙の住んでいた部屋なのであるが、今は誰もいなかった。で、平八はその部屋へ素早くからだを<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り込ませ、<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>の隙間から廊下の方を息を凝らしてうかがった。こなた鼓賊の次郎吉は、西へ西へと歩を運んだが、かつて丑松の住んでいた、そうして今はガラ空きの、一つの部屋の前まで来た時反対側を歩いていた、忍ぶがような足音が、にわかにピッタリ止まったので、これもピッタリ足を止めた。そうして彼は考えた。

「銀之丞様も銀之丞様だが、俺の真の目的は、この家の巨財を奪うことだ。鼓に答えた億万の巨財！　いったいどこにあるのだろう？　ポンポンと鼓を調べさえしたら、音色を通して、感じられるのだが、まさかここでは打たれない。眼を覚まさせるようなものだからな。……おや足音が<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>んでしまったぞ。いずれはこの家の召使いだろうが、ちょっと様子を見たいものだ。……待ったり待ったりあぶねえあぶねえ、泥棒とでも呼ばれたものなら、百日の説法何とやらだ。……おおここに部屋がある。ここに少し忍んでいてやろう」

丑松の部屋へはいり込み、廊下の様子をうかがった。しんしんと<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は静かであった。物寂しく人気がない。

お妙の部屋へ忍び込み、様子をうかがっていた平八は、向こう側の足音が絶えたので、小首を傾けざるを得なかった。

「さてはこっちの<ruby><rb>木精</rb><rt>こだま</rt></ruby>かな？　奇妙きわまる館の造り、俺の歩く足音が、向こうの壁へ響くのかもしれない。名代の赤格子九郎右衛門だ、建築学でも大家だそうな。これは<ruby><rb>木精</rb><rt>こだま</rt></ruby>に相違ない。どれソロソロ歩いてみようか」

首につるした密書箱を、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>の中でしっかりと握り、平八は部屋から廊下へ出た。そうしていっそう足音を忍ばせ、東側の長廊下を北へ辿った。

和泉屋次郎吉は名誉の盗賊、相手がいかに足音を忍ばせ、空を踏むように歩いたところで、聞きのがすようなことはない。

「ははあ、そろそろ歩き出したな。待てよ、こいつは家人ではないぞ。召使いでもなさそうだ。この歩き方は<ruby><rb>忍術</rb><rt>しのび</rt></ruby>の骨法だ。……これはおかしい。不思議だな。まさか<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らと同じように、金を目掛けて忍び込んだ、<ruby><rb>白浪</rb><rt>しらなみ</rt></ruby>の仲間でもあるまいが。……いや全くこれは不思議だ。浮かぶような足取りで歩いている。よし、一つ驚かせてやろう。……エヘン！」と一つ咳をした。それから部屋から廊下へ出、西側の廊下を南の方へ、お艶の部屋までツツ――と走った。これも<ruby><rb>忍術</rb><rt>しのび</rt></ruby>の一秘法、電光のような横歩きであった。

胆を潰したのは平八であった。これも空っぽの六蔵の部屋の、まず正面でピタリと止まり、思わず「ムー」と呻き声を上げた。

「<ruby><rb>木精</rb><rt>こだま</rt></ruby>ではない、木精ではない！　やはり人間が歩いているのだ。ううむ、咳までしたんだからな。ではやっぱり召使いかな？　いや待てよ、あの歩き方は？」彼はそこで考え込んだ。「これは普通の歩き方ではない。エヘンと咳をしておいて、ツツ――と辷って行ったあの呼吸。何んともいえない身の軽さ。……だがしかし俺はこんなところで、まごまごしてはいられない。至急赤格子に逢わなければならない。グズグズしていると秋山が、兵を率いて攻めて来る。もし赤格子が殺されたら、俺の使命は無駄になる。<ruby><rb>碩翁様</rb><rt>せきおうさま</rt></ruby>にも合わす顔がない。……さんざ鼓賊に<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>され、尚その上に今度の使命まで、無駄にされては活きてはいられぬ。……だが、どうも気になるなあ誰がいったい歩いているのだろう？　俺が歩けば向こうも歩き、俺が止まれば向こうも止まる。俺をからかってでもいるようだ。館の造りもまことに変だ。真ん中に四角な石壁があって、その周囲に廊下があり、廊下の隅々に部屋がある。だが、どれも空っぽだ。いったい四角な石壁は、なんの必要があって出来ているのだろう？　部屋にしては戸口がない。<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>っても叩いてもビクともしない。……おや、畜生歩き出したかな？」平八はじっと耳を澄まし、向こう側の様子を聞き澄ました。

丑松短銃で玻璃窓を狙う

しかし足音はきこえなかった。

「では俺の方から歩いてやれ」<ruby><rb>丹田</rb><rt>たんでん</rt></ruby>の気を胸へ抜き、ほとんど垂直に爪先を立て、これも一種の<ruby><rb>忍術</rb><rt>しのび</rt></ruby>骨法、風を切って一息に、北側の廊下を丑松の部屋まで、電光のように走って行った。やっぱりその部屋も空であった。そうして憎い相手の者も、それに劣らぬ早足をもって、一瞬に位置を変えたとみえ、西側の廊下一帯には、人の姿は見えなかった。

<ruby><rb>勃然</rb><rt>ぼつぜん</rt></ruby>と平八の胸の中へ、怒りの燃えたのは無理ではなかろう。「よし、こうなれば意地ずくだ。どんなことをしても捉えてみせる！」

彼は四角の石壁に添い、四筋の廊下を猟犬のように、追い廻してやろうと決心した。

で、彼はそれをやり出した。風が烈しくぶつかって来た。<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>のようにぶん廻った。しかも少しも音を立てない。十回あまりも繰り返した。しかし憎むべき<ruby><rb>嘲弄者</rb><rt>ちょうろうしゃ</rt></ruby>を、発見することは出来なかった。やはり相手も彼と同じく、彼と同じ速力で、四筋の廊下を廻ったらしい。そうしていつも反対側に、その位置を占めているらしかった。平八は五十を過ごしていた。いかに鍛えた体とはいえ、疲労せざるを得なかった。彼は今にも仆れそうになった。ハッハッハッハッと<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>が<ruby><rb>逸</rb><rt>はず</rt></ruby>んだ。で彼は北側の廊下で、しばらく休むことにした。と、その時形容に絶した、恐ろしい事件が勃発した。しかしそれは彼以外の者には、痛痒を感じない出来事なのであった。ただし平八の身の上にとってはまさしく悪鬼のまどわしであった。ポンポンポン！　……ポンポンポン！　と、例の鼓が反対側から、ハッキリ聞こえて来たのであった。最初彼は茫然として、棒のように突っ立った。それから左へよろめいた。それから両手で顔を蔽うと、廊下の上へつっ伏した。彼の全身は顫え出した。彼の理性は転倒し、考えることが出来なくなった。彼は悪夢だと思いたかった。しかし決して悪夢ではない。

「これはいったいどうしたことだ！　……俺は鼓賊に憑かれている。行く所行く所で鼓が鳴る！　ここは銚子だ江戸ではない！　……」彼には起きる元気もなかった。

と、この時、もう一つ、驚くべきことが行われた。石壁へ縞が出来たのであった。それは一筋の光の縞で、だんだん巾が広くなった。そうしてそこから一道の光が、廊下の方へ射し出でた。そうしてそれがうずくまっている、平八の背中を明るくした。と、その石壁の明るみへ、短い棒切れが浮き出した。つづいて人の手が現われた。それから半身が現われた。種子ヶ島を握った一人の子供が――子供のような片輪者が――すなわち赤格子の腹心の、醜い兇悪な丑松が、秘密の扉を<ruby><rb>窃</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かにあけて、様子をうかがっているのであった。

顔を蔽い、背中を向け、うずくまっている平八には、光の縞も丑松も、見て取ることが出来なかった。……種子ヶ島の筒口が、ジリジリと下へ下がって来た。そうして一点にとどまった。その筒口の一間先に、平八の背中が静止していた。今、丑松の<ruby><rb>母指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>が、引き金をゆるゆると締め出した。

この時和泉屋次郎吉は、南側の廊下に立っていた。彼は愉快でたまらなかった。彼は相手の人間が、平八であるとは知らなかった。彼と同じ稼ぎ人が、彼と同じ目的のもとに、忍び込んでいるものと推量した。そうしてそやつは<ruby><rb>忍術</rb><rt>しのび</rt></ruby>にかけては、名ある奴であろうと想像した。そいつをうまうま<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>したことが、彼にはひどく愉快なのであった。

美しいかな人情の発露

しかしにわかに静かになったのが、彼には<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>に思われた。「<ruby><rb>疲労</rb><rt>つか</rt></ruby>れたかな、可愛そうに」で彼は耳を澄ました。次第に好奇心に駆られて来た。行って見たくてならなかった。そこで彼はソロソロと、南側の廊下を西にとり、お艶の部屋まで行って見た。そうしてそこから見渡される、西側の廊下を<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>かして見た。しかし誰もいなかった。で、今度は西側の廊下を、北の方へ歩いて行った。そうして丑松の部屋まで行った。そうしてそこから見渡される、北側の廊下を隙かして見た。と、驚くべき光景が、彼の眼前に展開されていた。一人の老人がうずくまっていた。一人の小男が種子ヶ島で、その老人を狙っていた。石壁から<ruby><rb>火光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>が射していた。……その老人が思いもよらず、玻璃窓の平八だと見て取った時、彼はドキリと胸を打った。そうして彼はクラクラとした。「それじゃ今まで玻璃窓めと、追いつ追われつしていたのか！」彼はブルッと身顫いした。

「江戸から追っかけて来たんだな！　恐ろしい奴だ。素早い奴だ！」彼は身の縮む思いがした。

「だが小男は何者だろう！　そうして何のために種子ヶ島で玻璃窓を狙っているのだろう？　玻璃窓はなんにも知らないらしい。顔を抑えてうずくまっている。泣いてるのじゃあるまいかな？　なんでもいい、いい気味だ！　殺されてしまえ！　消えてなくなれ！」

彼は嬉しさにニタニタ笑った。と、そのとたんに彼の心へ、別の感情が湧き出した。「ああ、だがしかし玻璃窓めは、俺にとっちゃ好敵手だった。あいつの他にこの俺を、鼓賊だと睨んだものはねえ。あの玻璃窓に縛られるなら、俺も往生して眼をつぶる。その玻璃窓めが殺されようとしている。……うん、こいつあうっちゃっちゃ置けねえ！　こいつあどうしても助けなけりゃあならねえ。あっ、引き金を締めやがった！　いけねえいけねえ間に合わねえ！　畜生！」

と怒鳴ると持っていた鼓を、種子ヶ島目掛けて投げ付けた。瞬間にド――ンと発砲された。

それから起こった格闘は、真に劇的のものであった。

少納言の鼓は種子ヶ島にあたり、鼓と種子ヶ島とは宙に飛んだ。で、鉄砲の狙いは外れた。玻璃窓の平八は飛び上がった。そうして丑松へ組み付いた。それを外した丑松は、逃げ場を失って北側の廊下を、西の方へ走って行った。そこへ飛び出したのが次郎吉であった。撲る、蹴る、掴み合う！　やがて一人が「ウ――ン」と呻き、バッタリ仆れる音がした。二人の人間は立ち上がり、はじめて顔を見合わせた。

「玻璃窓の旦那、お久しぶりで」

「おっ、貴様は和泉屋次郎吉！」

「あぶないところでございましたなあ」

「それじゃ貴様が何かを投げて……」

「走って行っちゃ間に合わねえ。そこで鼓を投げやした」「ううん、そうして俺を助けた！」「へん、敵を愛せよだ！」「眼力たがわず和泉屋次郎吉、わりゃあやっぱり鼓賊だったな！」「だが鼓はこわれっちゃった」「<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>った！」というと平八は、次郎吉の手首をひっ掴んだ。

「見事捕る気か！　さあ捕れ捕れ！　だが命の恩人だぞ！」

「ううん」というと平八は、とらえた次郎吉の手を放した。

<ruby><rb>森然</rb><rt>しん</rt></ruby>と更けた夜の館、二人は凝然と突っ立っていた。

一方こなた平手造酒は、次郎吉と別れるとその足で、出邸の一つへ走って行った。出邸には全く人気がなく、<ruby><rb>矢狭間</rb><rt>やざま</rt></ruby>造りの窓から覗くと、内部は整然と片付けられていた。で、内へはいってみた。ここへ七人立てこもったなら、五十人ぐらいは防げようもしれぬと、そう思われるほど厳重をきわめた<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>のような構造であったが、しかしどこにも隠れ戸もなければ、地下へ通う穴もなかった。で、造酒はそこを出て、次の出邸へ行ってみた。そこも全く同じであった。構造は厳重ではあったけれど、人気というものがさらになかった。

お艶と造酒一室に会す

こうして順次四つの出邸を、平手造酒は訪ね廻った。その結果彼の得たところは、疲労とそうして空虚とであった。親友の観世銀之丞については、全く知ることが出来なかった。

「ふうむ、それでは本邸に、観世は隠されているのだな」こう考えると<ruby><rb>猶予</rb><rt>ゆうよ</rt></ruby>ならず、彼は本邸へ走って行った。戸にさわるとすぐに開き、廊下が眼前に展開された。すなわち北側の廊下であった。正面に巨大な石壁があった。それについて西の方へ歩いた。と、廊下がそこで曲がった。西側の廊下が<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに、彼の足もとから延びていた。その廊下の一所に、三人の人影が集まっていた。一人は床の上に仆れているし、二人は向かい合って突っ立っていた。造酒はハッと胸を躍らした。しかしそれよりももう一つのことが、彼の心を引き付けた。それは石壁の一角が、扉のように口をあけ、そこから火光が洩れていることで、どうやら部屋でもあるらしい。

つと造酒は踏み込んでみた。そこははたして部屋であった。かつていつぞや観世銀之丞が、偶然のことから呼び込まれた、赤格子九郎右衛門の部屋であった。しかしその頃とは<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>っていた。金銀財宝珍器異類、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しかったそれらのものが、今は一つも見られない。ガランとした灰色のだだっぴろい部屋が、味も<ruby><rb>素</rb><rt>そ</rt></ruby>っ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>もなく広がっていた。そうして天井から飾り燈火が、明るい光を投げていた。その光に照されて、一人の女が浮き出ていた。女は床の上に仆れていた。そうして荒縄で縛られていた。口には<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>が嵌められていた。それは妖艶たる若い女で、他ならぬ九郎右衛門の娘であった。

造酒は意外に驚きながらも、女の側へ走り寄り、縄を解き<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>を外した。するとお艶は飛び上がったが、扉の側へ飛んで行き、ガッチリ内側から鍵を掛けた。

「<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>ア見やがれ丑松め！」あたかも<ruby><rb>凱歌</rb><rt>がいか</rt></ruby>でも上げるように、男のような鋭い声で、こう彼女は叫んだが、そこで初めて造酒を眺め、気高い態度で一礼した。

「お<ruby><rb>娘</rb><rt>むすめ</rt></ruby>ご、お怪我はなかったかな？」

造酒はその美に打たれながら、こういう場合の紋切り型、女の安否を気遣った。

「あぶないところでございました。でも幸い何事も。……あれは丑松と申しまして、父の家来なのでございます。ずっと前から横恋慕をし、今日のような大事の<ruby><rb>瀬戸際</rb><rt>せとぎわ</rt></ruby>に、こんな所へおびき出し、はずかしめようとしたのでございます。……失礼ながらあなた様は？」お艶は気が付いてこう訊いた。造酒はそれには返辞をせず、

「お見受けすればあなたには、どうやらこの家のお身内らしいが、しかとさようでござるかな？」

「ハイ、さようでございます。別荘の主人九郎右衛門の娘、艶と申す者でございます」「有難い！」と叫ぶと平手造酒はツカツカ二、三歩近寄ったが、「しからばお訊きしたい一義がござる。江戸の能役者観世銀之丞、当家に幽囚されおる筈、どこにいるかお明かしください！」勢い込んで詰め寄せた。

と、お艶の眼の中へ、<ruby><rb>活々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>した光が宿ったが、

「仰せ通り銀之丞様は、当家においででございます」「おお、そうなくてはならぬ筈だ。で、今はどこにいるな？　おおよそのところは解っている。地下にいるだろう、数十尺の地下に！」「ハイ」といったがニッコリと笑い、「ああそれではあなた様は、鞘に封じたあの方の文を、お拾いなされたのでございますね。それでここへあの方を、助けにおいでなされたので。……そうですあれは十日ほど前に、空洞内の土牢から、海へ投げたものでございます」「空洞内の土牢だと⁉　これ、なんのためにそんな所へ、あの観世を入れたのだ！　お前では解らぬ主人を出せ！　なんとかいったな九郎右衛門か、その九郎右衛門をここへ出せ！」造酒は<ruby><rb>威猛高</rb><rt>いたけだか</rt></ruby>に怒号した。しかしお艶は恐れようともせず、水のように冷然と立っていた。

その後の観世銀之丞

「父はこの世にはおりません」やがてお艶が咽ぶようにいった。「父さえ活きておりましたら。……中風で斃れたのでございます。……つづいて母が死にました。そうしてそれ前に可愛い弟の六蔵が死んでしまいました。心臓で死んだのでございます。そうして母の死んだのは、悲しみ死になのでございます。……名に<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>われた赤格子も、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>一人を後に残し、死に絶えてしまったのでございます。永い年月苦心に苦心し、ようやく出来あがった黒船へも、乗ることが出来ずに死にましたので。……それはそうとあなた様は、平手造酒さまでございましょうね？」

図星を指されて平手造酒は、思わず大きく眼を見開いた。

「お驚きになるには及びません」お艶は微笑を含んだが、「観世さまからこの日頃、お噂を承まわっておりました。それとそっくりでございます。それに<ruby><rb>鞘文</rb><rt>さやぶみ</rt></ruby>をご覧になり、この『主知らずの別荘』へ、すぐに踏み込み遊ばすような、そういう勇気のあるお方は、平手様以外にはございません。……それはとにかく観世さまは、只今はご無事でございます。そうして現在は黒船の上に、妾達一統の頭領として、君臨しておられるのでございます。……いえいえ嘘ではございません。どうぞお聞きくださいまし。みんなお話し致しましょう。でも時間がございません。出帆しなければなりませんので。妾の<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>が知れないので、騒いでいることでございましょう。……それではほんの簡単に、申し上げることに致しましょう。……今年の秋の初め頃、妾達はこの地へ参りました。妾達の本当の国土といえば、南洋なのでございます。そうして妾はその南洋で成長したものでございます。ボルネオ、パプア、フィリッピン諸島に、とりまかれているセレベス海に、妾達の国土はございますので。どうして日本に参りましたかというに、父の財産がそっくりそのまま日本に残してございましたからで。それを南洋へ移したいために、やって参ったのでございます。……この地へ参ったその日のうちに、妾はあの観世様を愛するようになりました。どうぞおさげすみくださいますな。妾のような異国育ちのものは、愛とか恋とかいうようなことを、憚からず申すものでございますから。……するとある晩観世様が、別荘へ迷って参られました。そうして父と逢いました。そうして父の依頼を<ruby><rb>諾</rb><rt>き</rt></ruby>かれ、この別荘へお止どまりくだされ、妾達を狙うある敵から、妾達を守ってくださるように、お約束が出来たのでございます。……どんなに妾が喜んだか、どうぞご推察くださいますよう。妾達二人はその時から、大変幸福になりました。妾達は恋の<ruby><rb>旨酒</rb><rt>うまざけ</rt></ruby>に酔いしれたのでございます。けれどそういう幸福には、きっとわざわいがつきやすいもので、一人の恋仇が現われました。あの丑松でございます。丑松は父に<ruby><rb>讒</rb><rt>ざん</rt></ruby>をかまえ、観世様を地の底の、造船工場へ追いやりました。――妾達の秘密を観世様が、探り知ったという罪条でね。で、それからの観世様は、多くの大工と同じように、暗い寒い空洞内で、働かなければなりませんでした。するとそのうち丑松は、また父にこんなことを申しました。それは観世様が二葉の図面を――ご禁制船の図面なので、それを妾達は地下の空洞で、拵えていたのでございますが、それをこっそり奪い取り、刀の鞘へ封じ込み、外海へ流したというのです。そうしてこれは事実でした。ほんとに観世様は二葉の地図を、海へ流したのでございます。幕臣である観世様としては、無理のないことと存じます。ご禁制船の建造は、謀反罪なのでございますもの。それをあばいて官に知らせるのは、当然なことなのでございますもの。でもそれは妾達にとり、特に父にとりましては、大打撃なのでございます。うっちゃって置くことはできません。処分しなければなりません。それでとうとう観世様を、妾達仲間の掟通りに、空洞内の土牢へ入れ、飢え死にさせることにいたしました。けれど観世様は死にませんでした。妾が毎日こっそりと、食物を差し入れたからでございます。……そのうちに船が出来上がり、つづいて父が死にました。そうして妾は申し上げましたように、一人ぼっちとなりました。するとそこへ付け込んで、丑松が口説くのでございます。妾は途方にくれました。その結果妾は観世様へお縋りしたのでございます。妾をお助けくださいまし。妾はあなたを愛しております。どうぞどうぞ丑松から、妾をお助けくださいまし。そうしてどうぞ妾達のために、頭領となってくださいまし。そうしてどうぞ妾達と一緒に、南洋へおいでくださいまし。美しい島でございます。<ruby><rb>椰子</rb><rt>やし</rt></ruby>、<ruby><rb>橄欖</rb><rt>かんらん</rt></ruby>、パプラ、バナナ、いちじくなどの珍らしい木々、<ruby><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby>だの虎だの<ruby><rb>麒麟</rb><rt>きりん</rt></ruby>だのの、見事な動物も住んでおります。妾の領地でございます。経営の手を待っております。男子一生の仕事として、これほど愉快で<ruby><rb>華々</rb><rt>はなばな</rt></ruby>しいことは、他にあろうとは思われません。そこへ君臨してくださいましと。……すると最初観世様は、妾の恋をお疑いなされ、信じようとはなさいませんでした。でもとうとうお信じくだされ、やがてこのように仰せられました。『よし、お艶、俺は信じる。お前と一緒にその島へ行こう。俺は前から望んでいたのだ！　牢屋へはいるか海外へ行くか、この二つを選びたいとな！　俺は退屈で仕方なかったのだ。その退屈は慰められよう。さあ俺を牢から出せ。俺はお前達の大将となろう。そうしてお前を妻にしよう』――で、あの方は只今では、妾の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>でございます。南洋へ参るのでございます」

この時別荘の四方にあたって、鬨の声がドッと上がった。秋山要介の軍勢が、赤格子征めに取りかかったのであった。

堂々浮かび出た赤格子の巨船

お艶はニコヤカに微笑したが、

「あれは敵でございます。妾達の敵でございます。あの人達の征めて来ることは、解っていたのでございます。父が活きてさえおりましたら、蹴散らしてしまうでございましょう。妾は嫌いでございます。血を見るのが嫌いなので。そうして妾の恋しいお方も、お嫌いなのでございます。で、別荘はあの人達に明け渡してやるつもりでございます。決して逃げるのではございません。大きなものへ向かうために、小さいものを見棄てますので。あの人達にも神様のめぐみが、どうぞどうぞありますよう。そうして、あなた、平手様には、さらにさらにもっともっと、神様のおめぐみがございますように！　妾はクリスチャンでございます。そうして只今は観世様も。――あなたの厚いご友情は、観世様へ伝えるでございましょう。どんなにかお喜びでございましょう。……もう行かなければなりません。待ちかねていることでございましょう。……ごめんください平手さま！　さようならでございます。神の<ruby><rb>恩寵</rb><rt>おんちょう</rt></ruby>あなたにありますよう。……一間ほどお下がりくださいまし。それではあぶのうございます。……ああそれからもう一つ、船出をご覧遊ばしたいなら、別荘の北、海の岸、象ヶ鼻へお駈けつけくださいまし。岩は人工でございます。開閉自由でございます。大きな湾がありますので。この別荘は湾の上に、造られてあるのでございます。父が造ったのでございます。父は科学者でございました。どんなことでも出来ましたので。……いよいよお別れでございます」

再びドッと鬨の声！　館へ乱入する足の音！　石壁を破壊する<ruby><rb>槌</rb><rt>かけや</rt></ruby>の音！

「さようならよ！　さようならよ！」

叫びながらお艶は手を上げて、石壁の一点へ指を触れた。と、お艶の足の下、一間四方の石床が、音もなくスーと下へ下がった。今日のエレベーター、そういう仕掛けがあったのであった。その時洞然と音を立てて、さすが堅固の石壁も、<ruby><rb>槌</rb><rt>かけや</rt></ruby>に砕かれて飛び散った。ムラムラと込み入る賊の群、それと引き違いに飛び出した造酒、敵と間違えて追い縋る賊を、刀を抜いて切り払い、象ヶ鼻へ走って行った。

ここは絶壁象ヶ鼻、太平洋の荒浪が、岩にぶつかり逆巻いていた。と、ゴーゴーと音がした。蝶つがいで出来た大扉が、あたかも左右にひらくように、今、岩が<ruby><rb>濤</rb><rt>なみ</rt></ruby>を分け、グ――と左右へ口をあけた。と、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>たる黒煙り。つづいて黒船の大船首。胴が悠々と現われた。一本<ruby><rb>煙突</rb><rt>チムニイ</rt></ruby>二本マスト、和船洋風取りまぜた、それは山のような巨船であった。船首に<ruby><rb>篝</rb><rt>かがり</rt></ruby>が燃えていた。その横手に一人の武士が、牀几に端然と腰かけていた。他ならぬ観世銀之丞であった。その傍らにお艶がいた。と、象ヶ鼻の岩上から、

「観世！」と呼ぶ声が聞こえて来た。平手造酒の声であった。闇にまぎれて立っているのだ。銀之丞は牀几から立ち上がった。

「おお平手！」と彼はいった。「おさらばだ、機嫌よく暮らせ！」

「航海の無事を祈るばかりだ！」

「有難う！　お礼をいう！　遠く別れても友情は変らぬ！」「お互い愉快に活きようではないか！」

「新天地！　新天地！　それが俺を迎えている！　生活は力だ！　俺は知った！」「ふさぎの虫など起こすなよ！」「過去の亡霊！　大丈夫！」「おさらばだ！　おさらばだ！」

「平手様、さようなら！」お艶の声が聞こえて来た。

「お艶どの、さようなら！」

船は沖へ<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>って行った。

間もなく大砲の音がした。森田屋の賊船が襲ったのであった。それを二発の大砲で、苦もなく追っ払ってしまったのであった。

恋の船、新生活の船、銀之丞とお艶の黒船は、明けなんとする<ruby><rb>暁近</rb><rt>あけちか</rt></ruby>い海を、地平線下へ消えて行った。

因果応報悪人の死

物語りは三月経過する。

桜の花が咲き出した。春が江戸へ訪ずれて来た。この物語りの最初の日から、ちょうど一年が過ぎ去った。「今の世や猫も<ruby><rb>杓子</rb><rt>しゃくし</rt></ruby>も花見笠」の、そういう麗かの陽気となった。隅田川には<ruby><rb>都鳥</rb><rt>みやこどり</rt></ruby>が浮かび、梅若塚には菜の花が<ruby><rb>手向</rb><rt>たむ</rt></ruby>けられ、竹屋の渡しでは船頭が、酔っぱらいながら<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>さしていた。

一閑斎の小梅の寮へは、相変らず人が寄って来た。ある日久しぶりで訪ねて来たのは、玻璃窓の郡上平八であった。

「これはこれは珍しい。それでも生きていたのかえ」「裾を見な、足があるから。へ、これでも幽霊じゃないのさ」皮肉な二老人は逢うと早々、双方で皮肉をいい合うのであった。「一局<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>もうかね、一年ぶりだ」「心得た。負かしてやろう」「きつい鼻息だ、悲鳴をあげるなよ」

パチリパチリと打ち出した。最初の一局は一閑斎が勝ち、次の一局は平八が勝った。で一<ruby><rb>服</rb><rt>ぷく</rt></ruby>ということになった。

「そこでちょっとおききするが、もう鼓賊はお手に入れたかな？」ニヤニヤ笑いながら一閑斎は訊いた。もちろんいやがらせの意味であった。

「うむ」といったが平八は、不快な顔もしなかった。「さよう実は捕えたがな、捕えてみれば我が子なり。……恩愛の糸がからまっていて、どうにもならなかったという訳さ」「へえ、本当に捕えたのか？　ふうむ、どこで捕えたな？」「銚子だよ、去年の冬」「で、鼓賊の素性はえ？」「それだ」いうと平八は、会心の笑みを浮かべたが、「わしの眼力は狂わなかった。鼠小僧と同一人だった」「ふうん、そいつあほんとかね？」一閑斎は眼を見張った。

「嘘をいってなんになる。ほんとだよ、信じていい。……だがどうしてもショビケなかったのさ。しかしその時約束した。『天運尽きたと知った時は、わしの手から自首しろ』とな。『あっしの娑婆も永かあねえ。その時はきっと旦那の手で、送られることに致しましょう』こうあいつもいったものだ。それでおれは待ってるのさ。……ところでどうだこの二、三ヵ月、鼓賊の噂を聞かないだろうな？」「さようさよう、ちっとも聞かない」「それは鼓がこわれてしまって、もう用に立たないからだ。投げた拍子にこわれたのさ。そうしてそのためこのわしは、命びろいをしたというものさ。いや全く世の中は、なにが幸いになるか解りゃしない」感慨深そうに平八はいった。もちろんそれがどういう意味だか、一閑斎にはわからなかった。しかし平八は日頃から、嘘をいわない人物であった。で一閑斎は平八の言葉を、是認せざるを得なかった。

そこへ下男の八蔵が、眼の色を変えて飛んで来た。「旦那様、大変でございますよ。あの綺麗な浪人の内儀が、しごきを<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>へ引っかけて、<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>れているじゃありませんか」

「おっ、ほんとか、そりゃあ大変だ！」一閑斎は仰天した。

「郡上氏、行ってみましょう」あわてて庭下駄を突っかけた。二人がその家へ行った時には、見物が黒山のようにたかっていた。<ruby><rb>病</rb><rt>や</rt></ruby>みほうけても美しい。油屋お北の<ruby><rb>死骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>は、赤いしごきを首に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>い、なるほど<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>から下がっていた。

壁に無数の落書きがあった。「ゆるしてください。恐ろしい」「馬子甚三」「信濃追分」「南無幽霊頓証菩提」「もう、わたしは生きてはいられない」「あの人、あの人、あの人、あの人」

意味のわからない落書きであった。

検死の結果は自害となった。乱心して死んだということになった。ただしどうして乱心したかは、誰も知ることは出来なかった。

「春になると自殺者が多い」平八は憮然として呟いた。

「いい女だったのに惜しいことをした」こういって一閑斎は苦笑したが、「亭主の浪人はどうしたかな？」

その浪人は殺されていた。それの解ったのは翌朝のことで、隅田堤の桜の幹へ、五寸釘の手裏剣で、両眼と<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>とを縫いつけられていた。

奇抜といおうか惨酷といおうか、その不思議な殺され方は、江戸市中の評判となった。

「いったい誰が殺したのだろう？」人々はこういって噂した。

もちろん甚内が殺したのであった。兄の敵の富士甚内を、浅間甚内が殺したのであった。

浅間甚内復讐を語る

どんな具合に巡り会い、どんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に立ち合って、兄の敵を討ったかについては、彼は恩師たる千葉周作へ、次のように話したということである。

「……とうとう本望をとげました。先生のお蔭でございます。一生忘れはいたしません。兄もどんなにか草葉の蔭で、喜んでいることでございましょう。おそらく<ruby><rb>修羅</rb><rt>しゅら</rt></ruby>の<ruby><rb>妄執</rb><rt>もうしゅう</rt></ruby>も、これで晴れたことでございましょう。……では、どうして敵と出会い、どんな具合に討ち止めたか、お話しすることに致します。なかばは偶然でございました。そうして後の半分は妹のおかげでございます。……追分をうたい、市中を流し、敵を目付けておりますうち、ふと隅田の片ほとり、小梅の里のみすぼらしい家に、お北によく似た若い女を、見掛けたことがございました。でもそれはたった一度だけで、後はいつもその家は、雨戸がしまっておりましたので、見かけることは出来ませんでした。それでも気になるところから、毎夜のようにそのあたりを、<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>ったものでございます。そのうち秋が冬となり、年が明けて春となり、昨夜となったのでございますが、いつもの通りお霜を連れて、信濃追分をうたいながら、隅田の方へ参りました。そうしてその家の前に立ち、しばらく様子をうかがってから、堤を歩いて行きました。と、ご承知のようによい月夜で、おりから桜は満開ではあり、つい私はよい気持ちになり、次々にうたいながら歩いて行きますと、後の方から何者か、つけて来るではございませんか。ふと振り返って見ましたが、それらしい人の影もない。不思議なことと思いながら、また歩いて行きますと、やっぱり足音が致します。春の月夜にうかれ出た。狐か狸のいたずらであろうと、そのまま歩いて参りますと、ピタピタピタピタと足音が、近付いて来るではございませんか。で、振り返ってみましたところ、山岡頭巾で顔を包んだ、一人の武士が一間の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に、追い逼っているではございませんか。ハッと思ったものでございます。と、いうのはその武士が、刀の柄をシッカリと、握っていたからでございます」

光風霽月大団円

「『ははあこいつが噂に高い、辻斬り強盗の張本だな』と、私は<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に思いましたが、よい気持ちはいたしませんでした。で、自然と右の手が、懐中へ忍ばせた手裏剣へ、つと走ったものでございます。すると突然妹のお霜が、千切れるような声を上げ、私の袖をグイグイと、三度引くではございませんか！　『うん』と私は呻きました。合図だったからでございます。……富士甚内を目っけたら、三度袖を引くようにと、教え込んで置いたからでございます。<ruby><rb>素早</rb><rt>すばや</rt></ruby>くこいつが敵かと、躍り立った一<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>『亡霊追分、正体見た！　二つになれ！』とその武士が、サッと斬り込んで参りました。その太刀風の物凄さ、なんで私に避けられましょう。真っ二つにされた筈でございます。ワッ、やられた！　と叫びながら、足もとを見ると妹のお霜が、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby>から胸板まで、切り割られて仆れておりました。身代りになったのでございます。私をかばう一心から、飛び込んで来たのでございます。可哀そうなことをいたしました。でも妹はああいう<ruby><rb>片輪</rb><rt>かたわ</rt></ruby>、なまじ活きておりますより、死んだ方がよかったかもしれません。いえいえそんなことはございません。やっぱり活きておりましたら、<ruby><rb>何彼</rb><rt>なにか</rt></ruby>につけて頼みにもなり、嬉しいことも楽しいことも、分け合うことが出来ますのに。……可哀そうなことをいたしました。もう取り返しがつきません。でも妹が死んでくれたため、私は<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>の第一の太刀を、避けることが出来ました。そうして敵が第二の太刀を、私に向けて来ました時には、もう私は二間の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あなた</span>に、飛びしさっていたのでございます。もうこうなればこっちのもの、ビューッと繰り出した釘手裏剣、狙いたがわず敵の右眼へ、叩き込んだものでございます。これは全く敵にとっては、予期しなかったことでございましょう。アッと叫ぶとヨロヨロと、桜の老木へ寄りかかりました。そこを狙ってもう一本、左眼へぶち込んだものでございます。これで勝負はつきました。敵は<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>になりましたので。そこで初めて私は、<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>りを上げたものでございます。『富士甚内よっく聞け、俺は<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>に殺された馬方甚三の実の弟、追分産まれの浅間甚内だ！　兄の敵妹の仇、思い知ったかこん畜生め！　口惜しくば立ち上がってかかって来い！　どうだどうだ富士甚内！』……敵は身顫いをいたしました。動くことは出来ません。そこで私は止どめとして三本目の釘を投げつけて、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を貫いたのでございます。それから妹を肩へかけ、帰って参ったのでございます。……聞けばお北もあの家で、首を<ruby><rb>縊</rb><rt>くく</rt></ruby>ったと申すこと。因果応報なのでございましょう。恨みはこれで晴れました。ああいい気持ちでございます。でも寂しゅうございます。一人ぼっちでございますもの。……お手数恐縮ではございますが、どうか私を召し連れて、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>へお訴えくださいますよう。人殺しをしたのでございます。兄の敵とはいいながら、武士を殺したのでございます。おしおきになりとうございます」

周作が甚内を召し連れて、西町奉行へ訴えたのは、その翌日のことであった。

そこで奉行は取り調べた。<ruby><rb>敵討</rb><rt>かたきう</rt></ruby>ちに相違なく、それに相手の富士甚内は、辻斬りの張本というところから、甚内はかえって賞美され、なんのお咎めも蒙らなかった。

喜んだのは周作で、甚内を屋敷へ引き取るや、今後の方針を訊ねてみた。

「追分へ帰りとう存じます。故郷はよい所でございます。兄の墓場もございますし、妹お霜も同じ土地へ、葬ってやりとう存じます。そうして私は追分で、兄の代りに馬を追い、馬子で暮らしとう存じます」

これが甚内の意志であった。

そこで周作もそれに同じ、諸方から集まった同情金へ、さらに周作が金を足し、門弟達にも餞別を出させ、三百両の大金とし、これを甚内へ送ることにした。

江戸で<ruby><rb>需</rb><rt>もと</rt></ruby>めた馬の<ruby><rb>前輪</rb><rt>まえわ</rt></ruby>へ、妹お霜の骨をつけ、

信州出た時ゃ涙で出たが

今じゃ信州の風もいや

それとは反対の心持ち――その信州の風を慕い、江戸を立ってふるさとの、追分宿へ向かったのは、それから一月の後であった。

こうして江戸の人々は、信州本場の追分を、永久聞くことが出来なくなったが、その代り恐ろしい辻斬りからは、首尾よく<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がれることが出来た。で、私の物語りも、この辺で幕を下ろすことにしよう。