Soranoha

雑文的雑文

ざつぶんてきざつぶん

伊丹 万作

映画のことなら何でもよいから見計いで書けという命令であるが、私は天性頭脳朦朧、言語不明瞭、文章曖昧、挙動不審の人物であるからたちまちはたとばかりに当惑してしまう。

しかも命令の主は官営雑誌のごとき威厳を備えた『中央公論』である。断りでもしようものならたちまち懲役何カ月かをくいそうだし、引き受けたら最後八さん熊さんがホテルの大食堂に引き出されたような奇観を呈するに決まつているのである。

もつともひつぱり出すほうではもつぱら奇景の探勝を目的としているのであろうから、八さん熊さんがタキシードを着こなして手さばきも鮮かに料理を食うことよりもむしろその反対の光景を期待しているかもしれない。私は奇観をそこねないために法被はつぴで出かけることにする。

さて「日本にはろくなものは一つもない」というのは、いまどきの青年紳士諸君が一日三回、ないし二日に一回の割合をもつて好んで使用される警句の一つであるが、多くの警句がそうであるようにこの警句もまたほぼ五十パーセントの真理を含有している。なお、そのうえに「能と古美術と文楽と潜航艇のほかには」というような上の句を添加して用いた場合には事は一層迫真性を帯びてくるし、かたわら、使用者の価値判断の標準がいかに高いかということを暗示する点からいつてもはなはだ効果的である。

いずれにしてもごく少数の例外を除くところの日本の森羅万象がアツという間もなく、忽然としてろくでなしの範疇の中へ沈没してしまう壮観はちよつと比類のないものである。

しかもこの警句の内容の指定するところに従えば、警句の使用者自身も当然この挙国一致の大沈没から免れるわけには行かないのであるからいよいよ愉快である。

かくのごとく沈没が流行する時勢にあたつて、栄養不良の和製トーキーのみがひとり泰然自若としてろくであり得るわけはどう考えてもない。「日本にはろくなものが一つもない」ということを、かりに事実とするならば、その責任はいつたい何人が負うべきであろうか。だれかがそのうち、ろくなものをこしらえてくれるだろうとのんきに構えて、皆が皆、自分だけは日本人でないような顔をして「一つもない」をくり返していたのでは永久にろくなもののできつこはない。

「和製のトーキーはなぜつまらないのか」という質問はいたるところで投げかけられて実にうんざりするのであるが、しかし私は「和製のトーキーはつまらない」という事実を認めない。

もしもつまらない事実を認めるとすれば、まず日本の映画がつまらないという事実を認めるべきであり、さらにさかのぼつて「日本にろくなものはない」という事実をも認めなければならない。

ところが厳密にいえば日本のトーキーはまだ始まつていないのである。したがつて今から日本のトーキーがつまらないといつて騒ぐのはあたかも徳本峠を越さない先から上高地の風景をとやかくいうようなものである。

しかしともかくも現在の状態ではつまらないというなら、それは一応の事実として受け取れる。この一応の事実がよつてくるところを少々考えてみよう。

「めつたに感心するな」ということは、現代の紳士がその体面を保つうえにおいて忘れてはならない緊要なる身だしなみの一つである。これは何もいまさら私が指摘するまでもなく、いやしくも現代の紳士階級の一般心理に関心を持つほどのものならだれしもがとつくの昔に気づいている現象である。

「感心をしない」ということは、昔は「感心をする」という積極的な心理作用の反対の状態を示すための、極めて消極的な影の薄い言葉にすぎなかつたはずであるが、現在では「感心をしない」ということ自身が独立した一つの能動的心理作用にまで昇格してしまつた観がある。

現代の紳士たちは感心しないことを周囲からも奨励されると同時に自分自身からも強要されているわけである。

かくてある場合には「感心しない」という目的のもとにわざわざ劇場に足を運ぶというような理解し難い現象をさえ生ぜしめるにいたつたのである。

しかしこれらは我々が最も苦手とする連中に比較するときはまだ幾分愛すべき部類に属する。

我々が目して最も苦手とする連中は、かの「見ない先からすでに感心しない」紳士たちである。この手合いに対しては残念ながら我々は全く策の施しようがないのである。

もしもこの手合いに対して残された唯一の手段があるとすれば、それはいささかも彼らの意志を顧慮することなく直接行動に訴えて強制的にこれを館へ連行することであるが、この方法は法律的にも経済的にも心理学的にも障害が多くて実行が困難であり、あまつさえもしもこちらより向こうのほうが強い場合には物理学的困難にまで逢着しなければならぬ不便があるため、残念ながら我々はこの方法を放擲せざるを得ないのである。

ところが事実において今日相当の年配と教養とを一身に兼ね備えた紳士階級、すなわち我々にとつては理想的の獲物であるところの諸氏はほとんど例外なしに『中央公論』の愛読者であると同時に、我々の作る映画はこれを「見ない先にすでに感心しない」ところの嗅覚の異常に発達した連中である。

我々は見ない人たちを目標にして、映画を作る自由を持たない。我々の作る映画は要するに始終見てくれる人々に見せるためのものでしかない。

見ない人たちがある日極めて例外的に我々の映画を覗いてみて、何だくだらんじやないかと憤慨しても、それは我々のあえて意に介しないところである。文中おもしろいとかつまらないとかいう語が随所に出てくるはずであるがそれらの語の標準を奈辺においているかは右によつておのずから明らかであろう。

さてどうせ日本のトーキーがおもしろくないことを問題にするからには、ついでのことに、日本の大衆文芸がおもしろくないことも少し問題にしてみたらどんなものかといいたい。

なぜならば日本の映画はそのストーリーの供給の大部分をいわゆる大衆文芸に仰いでいるからである。出る写真も出る写真もほとんど限られた二、三氏の、原作以外に出ないというような退屈な現象は大衆文壇のためたいして名誉にはならない。

いつたい大衆文壇というものにはほとんど批評の存在がないようであるが、これに反して日本の映画界くらい批評の繁昌している国は昔からまたとあるまい。繁昌するばかりでなく、これがおよそ峻烈苛酷をきわめる。ある批評家がある監督を批評していわくに、この監督のただ一つのとりえは女優某を女房に持つている点だけであるとやつているのを見たことがあるが、批評家が作品をそつちのけにして女房の選択にまで口を出す国は古今東西歴史にあるまい。

女房の選択などはまだ事が小さい。もつと大きな例をあげる。日活という会社は批評家の意見によつてとうとう現代劇部を東京へ移転させてしまつた。

京都などに撮影所があるからいい現代劇ができない。早々東京へ引越すべしというのが批評家の意見なのである。会社の移転の指図までするやつもするやつだが、またそれをまに受けて引越すやつのまぬけさかげんときては話にも何にもならない。いつたい現代劇の撮影所が首府の近くになければならぬという理論がどうすれば成り立つのかそれが第一私などにはわからない。外国の例で見てもニューヨークとハリウッドではほとんどアメリカ大陸の胴の幅だけ離れているはずであるが、アメリカの現代劇はいつこうに悪くない。そんなことはどうでもよいが、とにかく批評家が撮影所を移転せしめた記録はだれが何といつても日本が持つているのだからまことに御同慶のいたりである。

かくのごとく僄悍無類の批評家の軍勢が一作いずるとみるやたちまち空をおおうて群りくるありさまはものすごいばかりである。それが思い思いにあるいは目の玉をえぐり、あるいは耳をちぎりあるいはへそを引き裂いて、もはや完膚なしと見るといつせいに引き揚げてさらに他の作に群つて行く状は凄愴とも何とも形容を絶した偉観である。

したがつて読物のほうは十や二十駄作の連発をやつてもたちまち生命に別条をきたすようなおそれはないが、映画のほうは三本続いて不評をこうむつたら気の毒ながら、もはや脈はないものと相場が決まつている。

次に純粋の映画脚本作家の不遇による、オリジナル・ストーリーの欠乏ということも一応問題にしなければなるまい。

北村小松、如月敏、山上伊太郎というような人たちはいずれも過去においては代表的な映画脚本作家であつたが、現在においては申し合わせたように転職あるいはそれに近いことをやつている。映画脚本作家は商売にならないからである。我々の体験からいつても映画脚本を一本書くのは監督を数本試みる労力に匹敵する。しかもむくいられる点は、監督にはるかにおよばないのだからとうていソロバンに合わない。しかもまだかけ出しのどしどし書ける時分にはほとんどただのような安い原稿料でかせがされる。

資本家が認めて相当の値で買つてくれる時分には作家は精力を消耗してかすみたいになつてしまつている。

私のごときものが現に相当の報酬を受けているのは、とつくの昔かすになつてしまつていることを彼らが知らないからである。こういうしくみでは才能ある作家をつかまえることも困難だし、育てることは一層不可能である。映画企業家のせつに一考を要する点であろう。

そもそも映画のおもしろさを決定するものは内容であり、内容を決定するものは原作である。したがつて原作をいいかげんに考えておきながら、いたずらにおもしろくないとか何とかいつて騒ぐのはあたかも空の池に魚を放つておいて魚が泳がないといつて騒ぐようなものである。今の日本の映画界の通弊は何でも監督監督と騒ぎまわることである。監督は一本の映画に関するかぎり、ありとあらゆる責任と義務を背負わされる。そしてそのかわりにほんのわずかな権限を。

監督の実際は、会社の方針、検閲制度、経済的制御、機械的不備、スターの精神異常、こういつた種類のこわい鬼どもの昼寝のすきをねらつてささやかなる切紙細工をして遊んでいる子供にも似たはかない存在である。

しかるに不幸にしていつたん作品ができあがつて世に現われるやいなや、この切紙細工のぼつちやんは突然防弾衣のごとく雨と降りくる攻撃の矢面に立たされる。そしてたちまちのうちにあわれはかなくのびてしまう。たとえば俳優の演技にしてもそれ自身独立した評価をくだされるというようなことは近ごろはほとんどないことである。うまいもまずいも監督の指揮いかんにあるというふうにみるのが通なるものの批評の仕方であるが、監督は神様ではない。へたな俳優はだれが監督してもへた以外には出ないのである。精々まずい芝居の部分を鋏で切り取るくらいの芸当しか監督にはできない。しかしそんなことはだれにでもできることである。要するにへたな俳優を使つてうまい芝居をさせるというのは人間にはできない相談である。うそだと思つたらまずい俳優を外国へ輸送してルビッチにでもスターンバーグにでも使わせてみるがいい。要するに監督ばかりを攻めたところで映画はおもしろくはならないのである。

次にもつとどしどし新人が現われなければ映画はおもしろくならない。我々もこの世界にはいつてきたときはしろうとであつたがためにごくわずかながら清新の気を注入するだけの役割は果したかとうぬぼれているが、現在ではもうくろうとになりすぎてしまつた。くろうとになるととかく視野が狭くなつて頭をひねる範囲が限られてくるものである。穂高のどの岩はどう取りついたらいいかというようなことは登山家の間では問題になり得るであろうが、門外漢にとつてはいつこうに興味をひかない問題である。それよりもむしろ信州側から登つたとか飛騨側から登つたとかいう大まかな問題のほうがおもしろい。

我々はたとえてみれば一つの岩の取りつき方を研究している連中のようなものである。視野がその岩に限られているからふもとのことは考えられない。ふもとのほうから新しいコースを発見して登つてみようという野心と熱意に欠けているのである。それをなし得るのは新人のほかにはない。

実際において映画をおもしろくする効果からいえば一人の天才的なる新人の出現は十人の撮影所長の存在よりも意義深きものである。

ここ数年来、日本映画界の前線を受け持つ顔触れにたいした変化がないということは如上の見地からあまりめでたい話とはいえないのである。

次に現在の日本トーキーのおもしろくない重大原因の一つに資本家側の準備不足がある。

この準備不足が実際的には機械的不備、その他経済的無力となつて日夜仕事の遂行を妨害しているのである。

彼らは損してもうけることを知らない。損をしないでもうけようと欲の深いことを考えているから結局たいしたもうけもできないのである。早い話が日本にトーキー化が始まつてから数年。まだ完全に近い設備をもつてトーキーの仕事をしている撮影所がない。

一番最初に完全に近いトーキー設備を完了したものが一番もうけるにきまつているのであるが、だれもそれをしない。だからごらんのとおりいつまでたつてもどんぐりのせいくらべである。

我々の仕事は設備のあとに始まるものと心得ていたらこれが大変なまちがいであつた。

「まず製作せよ。しからばそのもうけによつて設備すべし」これが、日本の映画資本家のトーキーに対する態度である。どうしても設備よりも製作が先なのである。したがつて日本の監督たちは設備ができあがるまでトーキーの仕事を保留する自由を有しない。もしそんな料簡でいたならば彼らは永久にトーキーを作る機会を逸してしまうかもしれないのである。

なおトーキーの機械的不備の問題は撮影所だけにとどまらない。これを上映する館の再生機という難物が控えている。再生機にもピンからキリまであつて、田舎のほうではそのうちもつぱらキリのほうを使用しているから田舎におけるトーキーはときに沈黙の美徳を発揮する。

私の関係して作つたトーキーが郷里の地方へ廻つていつたが何をいつているのかまつたくわからなかつたという報告がきている。トーキーはものをいう機械であるから、トオゴオさんの向こうを張つて沈黙を守つたところで人がほめてはくれない。見物から金を取つてトーキーを上映するからには原音どおり再生できる機械を備えるのが館として当然の義務である。もし何らかの事情でそれをやる能力がない場合には経営を断念すべきである。やめもしないかわりに音も聞かせないというのはもはや実業の域を脱している。それはむしろ招魂祭の見せ物に近きものである。

ロシヤには俳優の出ない映画などもできているが、日本の興行価値を主とする映画で俳擾の出ない写真というのは目下のところではまずない。作者なり監督なりが直接見物に話しかけるということはないので、すべて俳優の演技を介してものをいうのであるから、俳優の演技というものはずいぶん重要な役割を受け持つているわけである。しかるに日本にはトーキー俳優というものはまだいない。ほとんど無声映画時代の俳優をそのまま使つているのである。その中にはトーキーに適している人もあるだろうが、同時に全然落第の組もある。その淘汰はまつたく行われていない。

口をきくということはおしでないかぎりだれにもできることであるが、商売として口をきくことになると案外難しいものである。早い話が不愉快な音声は困る。発音不明瞭は困る。小唄の一つも歌つて調子はずれは困る。というふうにいつてくると、もうそれだけで落第者続出の盛況である。

舞台のほうでは普通に口がきけるようになるには五年以上かかるものとされている。普通にというがこの普通が大変で、三階の客にも聞えることを意味しているのだからなかなか普通の普通ではない。経験のないものは大きな声さえ出せば聞えるだろうと考えるがそんなものではない。声が大きいということと、言葉が明瞭に聞き取れるということは必ずしも両立しない。死んだ松助などは家にいるときもあのとおりであろうと想像されるような発声のしかたであつたが劇場の隅々までよくとおつた。何十年の習練の結果が、彼に発声法の真髄を会得せしめたのであろう。

トーキーの発声の場合は舞台と違つて距離に打ちかつ努力を必要としないからそれだけ容易なわけである。どんな低いささやきも機械が適宜に拡大して観客の耳にまで持つて行つてくれるのだから世話はない。そのかわり機械は機械でいくら完全に近くなつても決して肉声そのものではない。ことに現在の日本の機械の能力では俳優が機械から受ける制限にはかなり不自由なものがある。

なおたとえ将来においてこの種の制限がはるかに減少するときがきたとしても、トーキー俳優にとつて発声法の習練が何より大切であることにかわりはない。なぜならば観客は語のわかりにくい発声を努力して聞き分けながら映画を楽しむだけの雅量を持つていないだろうし、同じくわかりやすい発声のうちでも特に耳に快く響く流麗なものにひかれるであろうから。

現在の映画俳優は発声に関するかぎり未熟というよりもまつたく無教養であるといつていい。しかも著名な俳優の大部分は無声映画時代の好運にあまやかされて泰平の夢をむさぼるになれているから、いまさら年期を入れ直して勉強を始めるような殊勝さは持ち合していないように見受ける。

そこでまず当分の間は、すなわちトーキー俳優として立派な成績を示す人々が出そろうまでは日本のトーキーはある程度以上におもしろくならないということになる。

次にトーキーになつてから録音に関する部署を受け持つ人たちが新たに加わつたわけであるが現在のところではこの人たちに対する選択がまつたく行われていない。我々の見解ではこの部署を受け持つにはかなり高度の才能を要求したいのであるが、現在のところでは才能もへちまもない。要するに機械をいじることのできる人でさえあれば大威張りでこの部署に着いて収まつているわけである。画面がクローズ・アップの場合は声を大きく録音し、ロングの場合は小さく録音しさえすればいいと心得ているような人たちに音をまかせて仕事をしなければならないのではなかなかおもしろい映画はできにくいのである。いまさら監督学の初めからおさらえをする手はないが、クローズ・アップとは何もだれかが側へ寄つてつくづく顔を打ち眺めましたということではないのである。

次に音楽といつてわるければ音響の整理でもいい。そういうものがいかに重大であるかということを各会社ともにいつせいに認めていない。

その証拠にまだ日本には耳の監督がいない。西洋のことは知らない。そういうものがあるかないか私は知らないが、トーキーを作るうえにおいてこれは絶対に必要なものである。もしもそんなものはいらないという監督がいたら試みに半音程調子の狂つた楽器を混えたオーケストラを、その人の前で演奏させてみればよい。その人がただちにその半音の狂いを訂正する人ならあるいは音楽監督を必要としないかもしれない。しかし訂正する人はめつたにいないはずである。自分では健全なつもりでいるが我々の耳は専門家からみればつんぼも同然のものである。

ところで現状の実際からみれば音響監督のことなど夢のような話で、ほとんど各社とも一つの作品に付随する音楽の全部を一晩か二晩で入れているありさまである。いいもわるいもない。選曲のはちの頭のといつているひまもない。何かしらん音が出ればそれで満足してうれしがつているのが現在の映画会社である。

さて今までは他人のことばかりいつてきたが今度はいよいよ監督の番である。大体において日本にはトーキー監督としてたいしたやつはいないという定評になつているようである。事私自身に関するかぎり、この定評には黙つて頭を下げても差支えないが、他の人々、たとえば伊藤大輔氏にしろ衣笠貞之助氏にしろ、また蒲田の島津保次郎氏にしろトーキー監督としてすぐれた人でないといえないと思う。

ともかく現在の機械的不備のなかであれだけの仕事をしたというだけでも私にとつてはまさしく驚異である。ことに伊藤氏の「丹下左膳」第二篇のごときは撮影上の設備その他あらゆる意味において世界最悪のコンディションのもとに作られたという点からいつても、ともかくあれだけおもしろいものが作られたということは私にとつては人間業とは思えないものがある。

したがつてこの人たちを理想的なコンディションのもとに置いて仕事をさせた場合を考えると日本のトーキーがつまらないなどとは容易にいえない気がするのである。

日本の監督たちはまだ一度も普通に仕事し得るコンディションのもとに置かれたことがないといつても決して失当ではないのである。一度も普通のコンディションのもとに置いてみないでいきなり評価を定めるのはいささか短慮に失するキライがありはしないか。

さて現在の日本のトーキーの製作状態は大体において私が以上もうし述べたようなぐあいであつて、この状態の中からおもしろいトーキーができあがつたらむしろ不思議と称してなんらはばかるところはないわけである。そしてこの状態はまだ当分続く見込みであるから、日本のトーキーもまだ当分おもしろくならないものと思つていただいて結構である。

かくて日本のトーキーがつまらないということは現在のところでは残念ながら一般的事実としてこれを認めなければなるまい。しかし、日本のトーキーがいかにつまらないといつても、つまらない点からいえば無声映画のほうがなおいつそうつまらないであろう。

(『中央公論』昭和九年九月号。原題「トオキイ監督の苦悶――雑文的雑文――」)

底本 / Source edition

底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
初出:「中央公論」
1934(昭和9)年9月号
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
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書誌 / Bibliography
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伊丹 万作「雑文的雑文」(新字新仮名)、底本『新装版 伊丹万作全集1』筑摩書房、1961年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043871_000231, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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