Soranoha

映画と民族性

えいがとみんぞくせい

伊丹 万作

すでにある芸術を政治が利用して有効に役立てるということはいくらも例のあることであるが、政治の必要から新たにある種の芸術を生み出し、しかも短期間にそれを完成するというようなことはほとんど不可能なことで、いまだかつてそのようなことが芸術の歴史に記されたためしはない。

太平洋戦争が開始されて以来、外地向け映画の問題がやかましく論議せられ、各人各様の説が横行しているが具体的には何の成果もあがらないのは芸術の生命が政治的要求だけで自由にならないことを証明しているようなものである。

ある種の芸術が昭和二十年代の政治に役立つためには、遅くともそれが昭和の初年には完成していなければならぬし、そのためにはすでに明治大正のころに十分なる基礎が与えられていなければならぬ。明治大正のころには我々は何をしていたか。そして君たちは?

今となつて外地へ持ち出す一本の映画もないと叫び、その原因をあげて映画芸術家の無能低劣のゆえに帰し、口を極めてこれをののしる人がある。

ああ、古来他の責任を説くほどやすいことはない。それで物事が解決するなら私もまたよくそれをすることができる。すなわち、かくも無能低劣なる我々に映画を任せきりにして今まで省みようともしなかつたのはだれの責任であるかと。しかし、かくして互にどろの投げ合いをすればお互がどろまみれになるばかりでついに得るところはない。

日本映画の進出に関する方策については今までにおびただしい議論がくり返されたが、私の見るところではだいたいにおいてそれを二つの傾向にわかつことができる。すなわち一つは特別にいわゆる外地向きの映画を企画製作すべしという意見。他の一つは、ことさらに外地向きなどということを顧慮せず、優秀なる映画さえ製作すれば、進出は期して待つべしとなす議論である。こまかく拾つて行けばなおこのほかにもいくばくかの意見があるであろうが、方針の根幹はおよそ右の二途に尽きるようである。

順によつてまず最初に外地向き映画特製論を検討してみるが、ここでまず問題になるのはいわゆる外地向きとはいかなる謂かということである。論者は簡単にいう。すなわち取材の範囲を拡張せよと。またいう。雄大なる構想を練れと。もちろんいずれも結構なる議論である。私にはこれらの意見に反対するいささかの理由もない。それらは当然なさねばならぬことであるし、またできるときがあると思う。しかしながら、それは今日いつて今日できることではないのである。私はここでもまた、いうことのあまりにやすきを嘆ぜざるを得ない。

試みに思え、国民学校の一年生でも、今日先生の教えを理解し得るのは過去六年間の家庭の薫陶が基礎をなしているからである。我々の過去に何の薫陶があつたか!

説くものはまたいう。せりふの多い映画は不向きであるから、極力せりふを少なくし、動きを多くし、あたうべくんば活劇風のものを作れと。

あるいはそれもよいだろう。しかし、それをなすためには複雑な内容を忌避しなければならず、したがつて我々は意識的に一応退化しなければならない。一歩でも半歩でも絶えず前へ進むところに芸術にたずさわるもののよろこびがある。うしろへ進めといわれて熱情を湧かし得るものがあるかどうか。

説をなすものはさらにいう。畳の上に坐臥する日本の風習は彼らのわらいを買うからおもしろくない。百姓の生活は見せないほうがよい。貧しい階級の生活は見せないほうがよい。あるいはいわく何。いわく何。

ここにいたつて私は彼らに反問せずにはいられない。そもそも君たちは映画を何と心得ているのかと。国民の生活を反映しないような映画はすでに映画ではないのだ。芸術とは民族の生活のうえに咲く花なのだ。

他国の人間のしり馬に乗つて、百姓の姿を醜く感じるようなものはないはずである。百姓の姿は醜く、背広を着た月給取りは美しいというのか。そして、貧しい勤労者の生活を描くことは恥辱で、富みてひま多き人種を描くことは光栄なのか。世界のどこに貧者のおらぬ国があろう。世界の経済は、そして国家の生活力はほとんど彼ら貧しいものの勤労によつて維持されているではないか。

かくのごとき重要なる国家の構成分子の生活を除外してどこに芸術があろう。日本には百姓もいない。貧者もいない。いるのは軍人と金持だけであり、それが立派な洋館に住み、洋服を着て椅子に腰掛け、動けば雄大なる構想をもつて大活躍を演ずるというのが彼らのいう外地向きの映画なのだ。このような映画の作れる人は作るがよい。私には不可能である。

ここで第二の意見の検討に移る。すなわち優秀なる映画さえ作れば、進出は期して待つべしという説である。なるほどこの説はある程度まで正しい。しかし要するにある程度までである。

なぜか。今それを明らかにする。芸術が民族の生活のうえに咲く花だということを私はすでにいつた。ここに大きな問題がある。もちろん芸術には国際性もある。すぐれた芸術にしてしかも国際性を持つものは、その属する民族の生活をうるおしたうえ、さらに流出し国境の外へひろがつて行く。しかしいかに優れた芸術でもあまりにも民族性が濃厚で国際性に乏しい場合は他邦で理解せられず、したがつて国境を越えない場合がある。

たとえば芭蕉の俳句である。万葉の歌である。これらは民族の芸術としては世界に誇つていいものであるが国際性はない。しかるに浮世絵の場合になると、あれほど民族性が濃厚でありながら、造型芸術なるゆえに案外理解せられて国境を越えて行つた。(あるいは浮世絵の持つエロチシズムが多分に働いているかもしれないが。)

ここにはむろん芸術の範疇の問題もある。すなわち絵画は文学よりも国際性があり、散文は詩よりも国際性に富むという類である。

たとえばユゴーといえば我々はすぐに「レ・ミゼラブル」を想起するが、彼の本国において散文作家としてのユゴーよりも詩人としてのユゴーのほうがはるかに高く評価されているようである。しかし我々はユゴーに詩があることさえろくに知らない。この一例は芸術の範疇によつて国際性に径庭のある事実を端的に物語つているが、同時にまた、価値の高いものでさえあれば国際性を持つという意見が必ずしも正しくないことを証拠立ててもいるのである。

さらに次のような例もある。すなわち我々は過去において外国の探偵小説を読み、それらの作家の名前までおぼえてしまつた。しかし、それらとは比較にもならないほど高い作家である鴎外の名を知つている外国人が果して何人あるだろう。ここにもまた国際性が決して価値に比例しない実例を見る。

優れた作品を作りさえすれば、それらは易々と国外に進出するという楽観論は、芸術に国際性のみを認めて民族性のあることを見落したずさんな議論であつてまだ思考が浅いのである。

いま、日本の政治は何より映画の国際性を利用しようと焦つているのであるが、ここで特に為政者に深く考えてもらいたいことは芸術においては国際性というものはむしろ第二義の問題だということである。しからば芸術における第一義の問題は何か。他なし。芸術の第一義は実に民族性ということである。

諸君はハマモノという言葉を知つているであろう。いい換えれば横浜芸術である。民族に根ざし、民族に生れた芸術が、自己の民族に対する奉仕を忘れて国際性を第一義とし、輸出を目的とした場合、それはたちまちハマモノに転落し国籍不明の混血児ができあがるのである。「新しき土」はその悲惨なる一例である。この種のものは芸術国日本の真価を傷つけこそすれ、決して真の意味の政治に役立つはずはないと私は今にして確信する。

くり返していう。芸術は何よりもまずその民族のものである。したがつて自己の所属する民族に奉仕する以外には何ごとも考える必要はない。いな、むしろ考えてはならぬのである。自己の民族への奉仕をまつとうし、民族芸術としての責務をはたしたうえ、さらに余力をもつて国境を越えて行くなら、それはよろこばしいことであるが、最初から他の民族への迎合を考えて右顧左眄し始めたらそれはすでに芸術の自殺である。

およそ民族にはそれぞれ異なる事情がある。アメリカにはアメリカの事情があり、我々には我々の事情がある。彼の民族の垣は低く、我が民族の垣は高いのである。

垣とはすなわち風俗、習慣、言語の隔てを意味する。

我がたたみに坐し、彼が椅子に倚るのは風俗習慣の差であつて、それがただちに文化の高低を意味するものではない。

かつて安田靱彦は黄瀬川の陣に相会する頼朝義経の像を画いて三代美術の精粋をうたわれたが、殊に図中頼朝の坐像の美しさは比類がない。また、室町期以降の多くの武将の坐像、あるいは後醍醐天皇の坐像の安定した美しさなど、所詮椅子に腰掛けている人種のうかがい知るべきものではないが、私はこれらの美を解し得ない彼らにむしろ同情を禁じ得ない。

我々の感じる美、我々を刺戟する芸術的感興は、常にあるがままなる民族の生活、その風俗習慣の中にこそあるのである。

他民族がもしも我々の映画の中に畳の上の生活を見て醜いというならば見てもらわぬまでである。他民族の意を迎えるために我々の風俗習慣を歪曲した映画を作るがごときことは良心ある芸術家の堪え得べきことではない。

もちろん現在我々の映画はその表現において、技術において、残念ながら世界一流の域には遠くおよばないものがある。我々は一日たりともそのおよばざるところを追求する努力をおこたつてはならないが、しかしたとえ我々の映画が一流の域に達した暁においても、我々の特殊な風俗・習慣・言語の垣根は決して低くはならないことを銘記すべきである。そしてそのときにあたつて我々映画の進出をはばむ理由が一にかかつてこれらの垣根にあることが明らかにされたならば、もはやそれは天意である。我々はもつて瞑すべきであろう。

私はここで一時アメリカの映画が世界を風靡した事実を想起する。我々はそれをこの眼で見てきた。アメリカの映画業者にとつては、地球の全面積が市場であり、彼らの住む西半球は市場の一部にしかすぎなかつた。このような映画の歴史は人々の頭にあまりにも強烈な印象を焼きつけてしまつた。そのため、人々はともすれば映画に民族性のあることを忘れ、国境を無視して流行することが映画の第一義であるかのごとく錯覚してしまつたのである。

しかし、私をしていわしむれば、これらの事実は、世界がまだ芸術としての生育を遂げ得ない過渡期の変態的現象にすぎなかつたのである。もしも映画が真に芸術であるならば、それは何よりもまず民族固有のものとならなければならぬ。すなわち各々の民族は各々の映画を持たなければならぬ。そしてこのことは徐々にではあるが現に世界の隅々において現実化の方向をたどりつつある課題である。

近くは、我々に最も同化しやすいといわれる朝鮮の人々さえ我々の提供する映画だけではもの足らず、彼ら自身の映画を作り出すために苦悩をつづけているではないか。

かつて映画が言葉を得て自由にしやべり始めたとき、ある人が、映画は言葉を得たことによつてかえつて国際性を失い退化したと嘆じた。何ぞ知らん、国際性を失つたかわりに映画はそのとき始めて確実に民族のふところにかえつたのである。浮浪性を精算して深く民族の土に根を降し始めたのである。これを退歩と見るか進歩と見るかは各人の自由であるが、少なくとも私は映画が名実ともに芸術としての第一歩を踏み出したのは実にこのときからであると考えている。

今にして思えばアメリカ映画が最もその国際性を発揮したのはやはり無声映画の末期であり、ちよびひげをつけ、山高帽をかぶり、だぶだぶのズボンをはいた道化男が悲しい微笑を浮べて世界中を駆けまわつたときにとどめを刺すのである。アメリカ映画の黄金時代を象徴するものはこの悲しい道化であるが、同時にそれは芸術以前の映画の姿をも象徴しているのである。

私がこの小論で述べようと思つたことは、以上でほぼ尽きたわけであるが、この議論をさらに推し進めて行くと、結局映画工作はそれぞれの地理的関係のもとに映画を育成することに重点をおくべしということになりそうである。

しかし、現地の事情について何ら知るところのない私がそこまで筆を駛はしらせることは不謹慎であるから、ここではそのような具体策にまでは触れない。

ただ、私がここで何よりも問題としているところは、むしろ思考の出発点についてであり、要するに民族性を離れていかに映画を論じたところで、決して解答は出てこないということさえ警告すれば、それでこの一文の役目はおわつたのである。(『映画評論』昭和十九年三月号)

底本 / Source edition

底本:「新装版 伊丹万作全集1」筑摩書房
1961(昭和36)年7月10日初版発行
1982(昭和57)年5月25日3版発行
初出:「映画評論」
1944(昭和19)年3月号
※誤植の確認にあたっては「靜臥後記」(大雅堂、昭和21年12月25日発行)所収の「映畫と民族性」を参照しました。
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/043868_000231/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/043868_000231/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/043868_000231/

伊丹 万作「映画と民族性」(新字新仮名)、底本『新装版 伊丹万作全集1』筑摩書房、1961年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043868_000231, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite