１

「おいおいマリア、どうしたものだ。そう嫌うにもあたるまい。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まんざら</span>の男振りでもない<ruby><rb>意</rb><rt>つもり</rt></ruby>だ。いう事を聞きな、いう事を聞きな」

ユダはこう云って抱き<ruby><rb>介</rb><rt>かか</rt></ruby>えようとした。

<ruby><rb>猶太</rb><rt>ユダヤ</rt></ruby>第一美貌の娼婦、マグダラのマリアは鼻で笑った。

「ふん、なんだい、金もない癖に。持っておいでよ、銀三十枚……」

「え、なんだって？　三十枚だって？　そんなにお前は高いのか」

「胸をご覧、<ruby><rb>妾</rb><rt>あたし</rt></ruby>の胸を」

マリアはグイと襟を開けた。盛り上った二顆の乳が見えた。ユダは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くらくら</span>と目が廻った。

「持っておいでよ、銀三十枚。……そのくらいの値打はあろうってものさ」

「マリア、忘れるなよ、その言葉を。……銀三十枚！　よく<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>った」

ユダは部屋を飛び出した。引き違いにセカセカ入って来たのは、革<ruby><rb>商人</rb><rt>あきゅうど</rt></ruby>のヤコブであった。

「さあさあマリア、銀三十枚だ。受け取ってくれ、お前の物だ。……その代わりお前は俺のものだ」

革財布をチャラチャラ揺すぶった。

「どれお見せ！」と引っ攫ったが、チラリと財布の底を見ると、

「ほんとにあるのね、銀三十枚。……じゃアいいわ、さあおいで」

寝室の戸をギーと開けた。

充分満足した革商人が、彼女の寝室から辷り出たのは、春の月が枝頭へ昇る頃であった。

マリアは深紅の寝巻を着、両股の間へ襞をつくり、寝台の縁へ腰かけていた。

銀三十枚が股の上にあった。

「畜生！」と突然彼女は叫んだ。

「一杯食った！　ヤコブ面に！」

三十枚の銀を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶちまけ</span>た。

「マリア！」とその時呼ぶ声がした。

「<ruby><rb>誰</rb><rt>だアれ</rt></ruby>！」と彼女は娼婦声で云った。

「解らないのかい。驚いたなあ」

「あら解ってよ。お入んなさい」

彼女の情夫、祭司の長、カヤパが寝室へ入って来た。

「これはこれは」と彼は云った。

「<ruby><rb>銀</rb><rt>しろがね</rt></ruby>の洪水と見えますわい」

「よかったらお前さん持っておいでな」

「気前がいいな。そいつアほんとか？」

カヤパは<ruby><rb>勿怪</rb><rt>もっけ</rt></ruby>な顔をした。

２

イエスと十二人の使徒の上に、春の夜が深く垂れ下っていた。ニサン十三夜の朧月は、<ruby><rb>棕樹</rb><rt>そうじゅ</rt></ruby>、<ruby><rb>橄欖</rb><rt>かんらん</rt></ruby>、<ruby><rb>無花果</rb><rt>いちじく</rt></ruby>の木々を、銀鼠色に燻らせていた。

<ruby><rb>肉柱</rb><rt>にくけい</rt></ruby>の香、<ruby><rb>沈丁</rb><rt>ちんちょう</rt></ruby>の香、空気は匂いに充たされていた。

十三人は歩いて行った。

小鳥が<ruby><rb>塒</rb><rt>ねぐら</rt></ruby>で騒ぎ出した。その<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>に驚いたのであろう。

と、夜風が吹いて来た。暖かい咽るような夜風であった。ケロデンの<ruby><rb>渓流</rb><rt>ながれ</rt></ruby>、ゲッセマネの園、そっちの方へ流れて行った。エルサレムの方へ流れて行った。

月光は黎明を想わせた。

十三人の顔は白かった。そうして蒼味を帯びていた。練絹のような春の靄！　それが行く手に立ち迷っていた。

イスカリオテのユダばかりが、一人遅れて歩いていた。

ユダがイエスを売ったのは、マグダラのマリアの美貌ばかりに、誘惑されたのではないのであった。

彼にはイエスが疑わしく見えた。

イエスに疑念を<ruby><rb>挟</rb><rt>さしはさ</rt></ruby>んだのは、かなり<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>からのことであった。ユダにはイエスが傲慢に見えた。それが不愉快でならなかった。

女の産んだ最大の偉人、バプテズマのヨハネが礼を尽くし、二人の使者をよこした時、イエスはこういう返辞をした。

「<ruby><rb>瞽</rb><rt>めし</rt></ruby>いた者は見ることが出来、<ruby><rb>跛</rb><rt>あしな</rt></ruby>えた者は歩くことが出来、<ruby><rb>癩病</rb><rt>やめ</rt></ruby>る者は潔まることが出来、<ruby><rb>聾</rb><rt>し</rt></ruby>いた者は聞くことが出来、死んだ者は<ruby><rb>復活</rb><rt>よみが</rt></ruby>えることが出来、貧者は福音を聞かされる。<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>に来たる者は<ruby><rb>幸福</rb><rt>さいわい</rt></ruby>である」と。

その時ユダはこう思った。

「これは途方もない傲慢な言葉だ。仮りにも預言者と称する者が、何ということを云うのだろう」

しかしユダはこんなことぐらいで、決してイエスを裏切ったのではなかった。

<ruby><rb>浅薄</rb><rt>あさはか</rt></ruby>な感情のためではなく、もっと深刻な思想のために、彼はイエスを裏切ったのであった。

「神とは一体何だろう？」

ユダはここから発足した。

「宇宙の生物と無生物とを、創造し支配する唯一の物！　<ruby><rb>猶太教</rb><rt>ユダヤきょう</rt></ruby>ではこう説いている。そうしてイエスもこう説いている。だが果たしてそうだろうか？」

３

ユダはその説とは反対であった。

「宇宙は決して支配されてはいない。万象は勝手に動き廻っている。勝手に生れ死んでいる。神！　そんな物は存在しない」

イエスの行なう様々の奇蹟も、アラビヤ人の手品としか、ユダの眼には映らなかった。

そうしてそういう幼稚な奇蹟に、惑い呆れ驚嘆し、「イスラエルの救い」だと立ち騒ぐ、愚にもつかない狂信者や、そのイエスの奇蹟に<ruby><rb>手頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>り「神の国」を建てようとする愛国狂が、ユダの眼には滑稽に見えた。

ガリラヤの湖水が眼の下に見える美しい小さい丘の上で、またぞろイエスが手品を使い、五千人の信者を熱狂させ、その喝采の鳴り止まぬ中に、一人姿を眩ました時も、ユダは冷やかに笑っていた。

そのイエスがカペナウムの村で、こう信者達に説いた時には、ユダは本当に怒ってしまった。

「お前達が<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>を尋ねるのは、パンを貰ったためだろう？　だがお前達よそれは<ruby><rb>可</rb><rt>よ</rt></ruby>くない。朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働くがいい。……神は今やお前達へ、真のパンをお与えなされた。この俺こそそのパンだ。俺に来る者は飢えないだろう、俺を信ずる者は渇かないだろう」

「莫迦な話だ」とユダは思った。

「預言者どころの騒ぎではない。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどい</span>利己主義者だ。途方もない妄想狂だ。『朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働け』という。これこそ妄想狂の白昼夢だ。永生とは一体何だろう？　<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>ある物はきっと死ぬ。永存する物は無生物だけだ。『俺に来る者は飢えないだろう。俺を信ずる者は渇かないだろう』ではお前へ行かない者は飢えるということになるのだな。ではお前を信じない者は、渇くということになるのだな。彼奴は要するに大山師だ！」

ユダがイエスを裏切ったのは、こういう考えの相違からであった。

十三人は歩いて行った。

次第に夜が更けてきた。月光は少しずつ冴えて来た。十三人は痩せて見えた。<ruby><rb>木乃伊</rb><rt>ミイラ</rt></ruby>のように痩せて見えた。

ユダ奴が俺を売ったらしい。パリサイ人の追手達が、身近に逼っているらしい。

――イエスはすでに察していた。彼の動作は狂わしかった。いつものような<ruby><rb>平和</rb><rt>おだやか</rt></ruby>さがなく、木の根や岩に<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>いた。そうして幾度も休息した。それでもそのつど説教した。

<ruby><rb>楊</rb><rt>やなぎ</rt></ruby>の茂みを潜りぬけ、ケロデンの<ruby><rb>渓流</rb><rt>ながれ</rt></ruby>を<ruby><rb>徒歩</rb><rt>かち</rt></ruby>渡りし、やがてゲッセマネの廃園へ来た。

イエスの体は顫えていた。ひどく恐れているらしかった。

「さあお前達は<ruby><rb>監視</rb><rt>みまも</rt></ruby>っていろ。……ヨハネ、ペテロ、ヤコブは来い。俺と一緒に来るがいい」

こう云ってイエスは奥へ進んだ。

「俺は一人で祈りたい。お前達も帰って監視しろ」

ついに三人をさえ追い払った。

イエスはよろめき躓きながら、一人奥へ入って行った。

と、林が立っていた。楊、<ruby><rb>橄欖</rb><rt>かんらん</rt></ruby>の林であった。イエスはその中へ入って行った。そこへは月光は射さなかった。禁慾行者の禅定のような、沈黙ばかりが巣食っていた。

突然イエスは自分の体を、大木の根元へ投げ出した。

「もし出来ることでございましたら、どうぞ私をお助け下さい！　父よ、あなたは万能です」

<ruby><rb>白痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>か、子供か、臆病者か、そんなような憐れな声を上げて、こうイエスはお祈りをした。

４

ユダは後を<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>て来た。菩提樹の陰へ身を隠し、そこから様子をうかがった。

彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、<ruby><rb>疾</rb><rt>やまし</rt></ruby>くなかった事を知ることが出来た。

「<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>はイエスだ、ただイエスだ。なんの彼奴が<ruby><rb>預言者</rb><rt>キリスト</rt></ruby>なものか！　<ruby><rb>預言者</rb><rt>よげんしゃ</rt></ruby>なら助けを乞うはずはない。例の得意の奇蹟というので、さっさと難を遁れるはずだ。しかし」と彼は考え込んだ。

「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら？　そうして難を遁れたら？」

彼は心に痛みを感じた。

「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」

梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。

やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。

不安と<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>とで使徒達は、木の根や岩角を枕とし、<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>として眠っていた。

イエスは一人々々呼び起こした。

「眠っては<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ない。お祈りをしよう」

ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。

しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。麻痺的に病的に眠いらしい。

「また眠るのか、何ということだ！　<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>いに入らぬよう祈るがいい」

イエスは<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも寂しそうに云った。

と、にわかに叫び声を上げた。

「時は近づいた！　遣って来た！」

麓の方を指さした。

山葡萄の茂みに身をひそめ、ユダは様子をうかがっていたが、この時麓を隙かして見た。

打ち重なった木の葉を透し、チラチラ松火の火が見えた。兵士達の持っている松火であった。時々兵士達の兜が見えた。松火の火で輝いていた。剣戟の触れ合う音もした。

「うん、来たな」とユダは云った。

それからその方へ小走って行った。

ユダを認めると兵士達は、足を止めて敬礼した。その先頭にマルコがいた。祭司長カヤパの家来であった。

「マルコ」とユダは近寄って行った。

「接吻が合図だ。間違うなよ」

「大丈夫だ。大丈夫だ」

そこで一隊は歩き出した。<ruby><rb>傍路</rb><rt>わきみち</rt></ruby>からユダは先へ廻った。

「山師なら悲しみ恐れるだろう、預言者なら奇蹟を行なうだろう。……二つに一つだ。面白い芝居だ」

ユダは走りながらワクワクした。

マルコと兵士の一隊は、イエスと使徒との前まで来た。

使徒達はイエスを<ruby><rb>囲繞</rb><rt>とりま</rt></ruby>いた。

イエスはマルコを凝視したが、その眼は火のように輝いていた。だがその態度は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おちついて</span>いた。もう顫えてはいなかった。死海の水！　そんなように見えた。

その時<ruby><rb>無花果</rb><rt>いちじく</rt></ruby>の茂みを分け、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つと</span>ユダが進み出た。

「ラビ、安きか！」とユダは云った。

そうしてイエスを抱擁した。それから突然接吻した。

イエスの顔は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひん</span>曲がった。琥珀のように青褪めた。唇と瞼とが痙攣した。

が、その次の瞬間には、<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>の態度に返っていた。

兵士の方へ寄って行き、それからイエスはこう訊いた。

「お前達は誰を<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねるのだ？」

「ナザレのイエスを」とマルコが云った。

「ナザレのイエスを？　では俺だ」

マルコと兵士とは後退りした。

「お前達は誰を訊ねるのだ？」

またイエスはこう訊いた。

「ナザレのイエスを」とマルコが云った。

「それは俺だと云っているではないか。……お前達は俺を<ruby><rb>発見</rb><rt>みつけだ</rt></ruby>した。……この者達には罪はない。この者達を行かせてくれ」

こう云ってキリストは使徒達を眺め、行けと云うように手を上げた。使徒達は地上へ<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。

ユダだけは一人立っていた。

５

それは劇的の光景であった。

だが何物にも変化はなかった。

沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。

ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>で、曳かれて来るキリストを待っていた。

それは劇的の光景であった。

使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。

「ペテロ！」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。

「父から<ruby><rb>贈</rb><rt>くだ</rt></ruby>された盃だ」

彼は両手を差し出した。

彼は、<ruby><rb>従容</rb><rt>しょうよう</rt></ruby>と縄を受けた。

誰も彼もみんな立ち去った。<ruby><rb>橄欖山</rb><rt>かんらんざん</rt></ruby>は静かになった。

ユダ一人が残っていた。

「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>んでいた人の様に、従容と縛に<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>こうとは？　一体<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>は何者だろう？」

ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。

<ruby><rb>楊</rb><rt>やなぎ</rt></ruby>の木に体をもたせかけ、暁近い空を見た。

どうにも不安でならなかった。

イエスに対する審判は、その夜のうちに行なわれた。

祭司長カヤパはこう訊いた。

「お前は本当に神の子か？」

「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。

「人の子<ruby><rb>大権</rb><rt>たいけん</rt></ruby>の右に坐し、天の雲の中に現われるだろう。お前達はそれを見るだろう」

カヤパの司どる<ruby><rb>猶太教</rb><rt>ユダヤきょう</rt></ruby>からすれば、神の子だと自ら称することは、この上もない冒涜であった。その罪は<ruby><rb>将</rb><rt>まさ</rt></ruby>に死に当たった。

人を死罪に行なうには、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>政府の<ruby><rb>方伯</rb><rt>ほうはく</rt></ruby>たるピラトに聞かなければならなかった。

サンヒドリンの議員やパリサイ人や、祭司長カヤパは夜の明ける迄、愉快そうにイエスを嬲り物にした。

やがて夜が明けて朝となった。羅馬公庁ピラトの邸へ、カヤパ達はイエスを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しょびいて</span>行った。

それは金曜日にあたっていた。おりから<ruby><rb>逾越</rb><rt>すぎこし</rt></ruby>の<ruby><rb>祝日</rb><rt>いわいび</rt></ruby>で、往来には群集が漲っていた。家内では男女が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はしゃいで</span>いた。

ピラトは思慮のある官吏であった。しかし心が弱かった。

イエス一人を庁内へ呼び、

「お前は猶太の王なのか？」

彼は先ずこう訊いた。

「我国はこの世の国ではない」

これがイエスの返辞であった。

「とにかくお前は王なのか？」

「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。

「俺はそのために生れたのだ。……すなわち真理を説くために」

イエスの謂う所の王の意味と、キリストの謂う所の国の意味とを、ピラトはそこで直覚した。

玄関へ出て彼は云った。

「この男には罪はない」

しかし群集は喜ばなかった。イエスを<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ引き出した。<ruby><rb>棘</rb><rt>いばら</rt></ruby>の<ruby><rb>冕</rb><rt>かんむり</rt></ruby>を頭に冠せ、紫の袍を肩へ着せ、そうして一整に声を上げた。

「十字架に附けろ！　十字架に附けろ！」

エルサレム城外カルヴリの丘、そこへキリストを猟り立てて行った。

草の芽が満地を蔽っていた。樹立が丘を巡っていた。祭壇から煙りが立ち昇り、犠牲の小山羊が焚かれていた。殿堂では鐘が鳴らされていた。

イエスは十字架へ附けられた。

彼の苦しみは三時間つづいた。

「事は終った」と彼は云った。

彼の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>が絶えた時、殿堂の幕が二つに裂け、大地が顫え墓が開らけた。

６

この頃ユダは<ruby><rb>橄欖山</rb><rt>かんらんざん</rt></ruby>を、<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>のように歩いていた。

「彼は恐れず悲しまず、<ruby><rb>従容</rb><rt>しょうよう</rt></ruby>として死んで行った。とにもかくにも凡人ではない。……では<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>は預言者か？」

ユダにはそうは思われなかった。

「彼奴は帰する所妄信者なのだ。ただ預言者だと妄信しただけだ」

ユダはある歌を想い出した。それはイエスが<ruby><rb>幼</rb><rt>ちいさい</rt></ruby>時から、愛誦したという歌であった。

<ruby><rb>至誠</rb><rt>まこと</rt></ruby>をもて彼道を示さん

彼は<ruby><rb>衰</rb><rt>おとろ</rt></ruby>えず<ruby><rb>落胆</rb><rt>きおち</rt></ruby>せざるべし

道を地に立て終るまでは

彼は侮どられて人に捨られ

<ruby><rb>悲哀</rb><rt>かなしみ</rt></ruby>の人にして悩みを知れり

「なるほど」とユダは呟いた。

「彼奴の<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも好きそうな歌だ。そっくり彼奴に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あてはまる</span>からな」

「侮どられて人に捨られぬ」

「ほんとに侮どられて捨られた」

「彼は衰えず落胆せざるべし」

「これも全くその通りだ。最後まで落胆しなかった。……はてな、それではあの男は、そういう事を予期しながら、なおかつ道を立てようとして、ああ迄精進したのだろうか？」

ユダはにわかに行き詰まった。

「よし預言者でないにしても、妄信者以上の何者か、偉大な人間ではなかったろうか？」

彼の胸は痛くなった。

「いけないいけないこういう考えは！　世の中に偉人なんかありはしない。あると思うのは偏見だ。生きている物と死んでいる物、要するにただそれだけだ。そうして生物の世界では、雄と雌とがあるばかりだ。雌だ！　女だ！　あっ、マリア！」

ユダは<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>て<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>を探った。銀三十枚が入っていた。

マグダラのマリアは唄っていた。

キリスト様が死んだとさ

「ふん、いい気味だ、思い知ったか。……<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は<ruby><rb>最初</rb><rt>はじめ</rt></ruby>あの人が好きで、<ruby><rb>香油</rb><rt>においあぶら</rt></ruby>で足を洗い、精々ご機嫌を取ったのに、見返ろうとさえしなかったんだからね。そこでカヤパを<ruby><rb>情夫</rb><rt>いろ</rt></ruby>にして、進めてあの人を殺させたのさ」

「マリア！」とユダが飛び込んで来た。

「銀三十枚！　さあどうだ！」

ユダはマリアを抱き<ruby><rb>縮</rb><rt>すく</rt></ruby>めた。

「まあお待ちよ、どれお見せ」

革財布を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひったくり</span>、一眼中を覗いたが、

「お気の毒さま、贋金だよ！　一度は妾も<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>されたが、へん、二度とは喰うものか！　お前、カヤパに貰ったね。妾がカヤパに遣ったのさ」

ここ迄話して来た<ruby><rb>佐伯</rb><rt>さえき</rt></ruby>氏は、椅子からヒョイと立ち上ると、ひどく異国的の革財布を、蒐集棚から取り出した。

「まあご覧なさい、これですよ、いまの<ruby><rb>伝説</rb><rt>はなし</rt></ruby>の銀貨はね」

ドサリと投げるように<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上へ置いた。

「私がエルサレムへ行った時、ある古道具屋で買ったもので勿論本物ではありません。あっちにもこっちにもあるやつでね。漫遊者相手のイカ物ですよ。……だが面白いじゃアありませんか、今も<ruby><rb>猶太</rb><rt>ユダヤ</rt></ruby>の人間は、私がお話ししたように、キリストとユダとマリアとをそう解釈しているのですよ。そうして銀貨まで拵えて、<ruby><rb>理</rb><rt>もっとも</rt></ruby>らしく売り付けるのです。猶太人に逢っちゃ<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わない。一番馬鹿なのがキリストで、その次に馬鹿なのがイスカリオテのユダ、そうしてその次がマリア嬢で、一番利口なのが革商人ということになるのですからね」

私は銀貨を手に取った。厚さ五分に幅一寸、長さ二寸という大きな<ruby><rb>貨幣</rb><rt>もの</rt></ruby>で、持ち重りするほど重かった。そうして<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>鋳たかのように、ひどくいい色に輝いていた。

「恐ろしく重いじゃアありませんか」

私は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して佐伯氏に云った。

「ほんとに猶太の古代貨幣は、こんなに恐ろしく重かったのでしょうか？」

「さあ、そいつは<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りません。だが日本の天保銭なども、随分大きくて重かったですよ。……紋章が面白いじゃアありませんか」

いかにも面白い紋章であった。

「どうです私の今の話、小説の材料にはなりませんかね」

「ええなりますとも大なりです」

こうは云ったが私としては、そう云われるのは厭であった。大概の人は小説家だと見ると、<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まって一つの話をして、そうして書けというからであった。もう鼻に付いていた。

とは云え確かにこの話は、書くだけの値打はあるらしい。偶像破壊、価値転倒、そうして無神論、虚無思想が、色濃く現われているからであった。勿論書くならイスカリオテのユダを、当然主人公にしなければなるまい。

７

「是非お書きなさい、お進めします」

旅行家でもあり蒐集家でもある、佐伯準一郎氏はこう云った。

「ついては貨幣をお貸ししましょう。その紋章を調べるだけでも、趣味があるじゃアありませんか。一枚と云わず三十枚、みんな持っておいでなさい。実は私は明日か明後日、またちょっと旅行に出かけますので、当分それは不用なのです。<ruby><rb>紛失</rb><rt>なく</rt></ruby>されてはいささか困りますが、紛失なるような物ではなし、お貸しするとは云うものの、その実保管が願いたいので、ナーニご遠慮にゃア及びません。……それはそうと随分重い、とても持っては帰れますまい。ひとつ<ruby><rb>貸自動車</rb><rt>タクシ</rt></ruby>を呼びましょう」

事実私はその貨幣にも、貨幣の紋章にも興味があった。そうして物語に綴るとしても、何かそういう貨幣のような、物的参考があるということは、確実性を現わす上に、非常に便利に思われた。

私は遠慮なく借りることにした。

その中タクシがやって来た。

佐伯氏は貨幣を革財布へ入れ、そうしてタクシへ運び込んでくれた。

「いずれ旅行から帰りましたら、お手紙を上げることにいたしましょう。いや私がお訪ねしましょう。文士の家庭を見るということも、ちょっと私には興味があるので、しかしこんなことを申し上げては、はなはだ失礼かもしれませんな」

佐伯氏は玄関でこんなことを云った。タクシがやがて動き出した。

「左様なら」と私は帽子を取った。

「左様なら」と佐伯氏は微笑した。

だが私にはその微笑が、ひどく気味悪く思われた。

名古屋の夜景は美しかった。鶴舞公園動物園の横を、私のタクシは<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>って行った。

８

私のタクシは駛って行った。

公園は冬霧に埋もれていた。

公園を出ると町であった。町の燈も冬霧に埋もれていた。

名古屋市西区児玉町、二百二十三番地、二階建ての二軒長屋、新築の格子造り、それが私の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>であった。

そこへタクシの着いたのは、二十五分ばかりの後であった。

妻の<ruby><rb>粂子</rb><rt>くめこ</rt></ruby>は起きていた。

「遅かったのね」と咎めるように云った。私をしっかりと抱き<ruby><rb>介</rb><rt>かか</rt></ruby>えた。それから頬を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おっ</span>付けた。これが彼女の習慣であった。子供のように扱うのであった。

二階の書斎へ入って行った。

「おい好い物を見せてあげよう。これはね、<ruby><rb>猶太</rb><rt>ユダヤ</rt></ruby>の銀貨なのさ」

財布から銀貨を取り出した。

「まあ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけ</span>に大きいのね」

彼女は愉快そうに笑い出した。彼女の歯並は悪かった。上の前歯は二本を抜かし、後は全部<ruby><rb>義歯</rb><rt>いれば</rt></ruby>であった。笑うと義歯が露出した。それが私には好もしくなかった。だがその眼は可愛かった。眼尻の方から眼頭の方へ、一分ほど寄った一所の、下瞼が垂れていた。といって眼尻が下っているのではなかった。眼尻は普通の眼尻なのであった。ただそこだけが垂れていた。それが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどく</span>彼女の眼を、現代式に愛くるしくした。それは子供の眼であった。どこもかしこも発育したが、そこばっかりは子供のままに、ちっとも発育しなかったような、そういう愛くるしい眼なのであった。その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信頼してよかった。

その眼で愉快そうに笑った。

私はそこで説明した。

「これはね、途方もない贋金なのさ。銀のようにピカピカ光っているだろう。だが銀じゃアないんだよ。鉛かなにかが詰めてあるのさ。借りて来たんだよお友達からね。こいつで物語を作ろうってのさ。まあご覧よ紋章を」

紋章はみんな<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>っていた。三十枚が三十枚ながら、別々の紋章を持っていた。貨幣の縁を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>とりまい</rt></ruby>ているのは、浮彫にされたローレルの葉で、その中に肖像が打ち出されてあった。肖像が異っているのであった。私は一つを取り上げて見た。長髪を肩までダラリと下げた、悲しそうではあるが高朗とした、間違いない<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。頭の禿げた眼の落ち込んだ、薄い唇を噛みしめた、意志の権化とでも云いたげな、老人の姿が打ち出されてあった。使徒ペテロに相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。火のように髪を渦巻かせ、瞑想的の眼を空へ向け、感覚的の唇を幽かに開けた、詩人のような人物が、ローレルの葉に囲繞かれていた。黙示録の著者に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。丸顔で無髯で眼の細い、平和的の使徒の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。最初にサマリヤへ布教した、ピリポの肖像に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。無気力ではないかと思われる程、痩せた皺だらけの貧相な顔が、その貨幣には打ち出されてあった。ヘロデ王の兇刃によって、無慚に殺された使徒ヤコブ、その肖像に相違なかった。

もう一つの貨幣を取り上げて見た。それにも肖像が打ち出されてあった。

「うん、こいつはイスカリオテのユダだ」

私は<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに知ることが出来た。そんなにもそれは特色的であった。一見醜悪の容貌であった。だが仔細に見る時は、恐ろしく勝れた容貌であった。先づ顱頂部が禿げていた。しかし左右の両耳から、項へかけて髪があった。つまり頭の後半を、髪が輪取っているのであった。これが一見不愉快に見えた。しかしこれは一方から云えば、学者などに見る叡智の相で、決して笑うことの出来ないものであった。額が不自然に狭かった。これも一見不愉快であった。先天的犯罪人の相でもあった。が、これとて一方から云えばソクラテスの額に似ていると云った、一種病的な天才等に、往々見受けられる額であった。両眼が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどく</span>飛び出していた。枝の端などで突かれなければよいが、こんな事を思わせる程飛び出していた。だがやっぱりこの眼付きも、ソクラテスの眼付きに似ているのであった。非常に智的な眼付きなのであった。鼻は<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆ</rt></ruby>る獅子鼻であった。唇がムックリ膨れ上っていた。二つながら強い意志の力の、表現だと云ってもよさそうであった。反逆性のあることを、さながらに示した高い頬骨、精神的苦悶の著しさを、そっくり現わした満面の皺、断じて俺は妥協しない！　こう言いたげな根張った顎、そうして頸は戦闘的に、牡牛のように太かった。

顔全体を蔽うているのは、懐疑的の憂鬱であった。

「いかなる物をも信じないよ」

こう云っているような顔であった。

９

「なるほど」と私は心の中で云った。

「従来の美学から云う時は、これは<ruby><rb>将</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく非審美的の顔だ。女や子供には喜ばれまい。だがしかしこの顔こそ、本当の人間の顔ではないか」

<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>の肖像と並べて見た。<ruby><rb>洵</rb><rt>まこと</rt></ruby>に面白い対照であった。信仰、柔和、愛、忍従、これが基督の肖像に、充ち溢れている特徴であった。全体が細身で美しく、古典的に調っていた。力が非常に弱かった。虚無、憤怒、憎悪、反抗、これがユダの肖像に、行き渡っている特色であった。全体が野太く荒削りで、近代的に畸形であった。力が恐ろしく強かった。

「これは極端と極端だ、両立すべきものではない。師弟となるべきものではない。相克するのは当然だ。基督といえどもユダの上へ、君臨することは出来ないだろう。ユダといえども基督の上へ、君臨することは出来ないだろう。互いに領分をもっている。で、基督へ行きたい人は、行って安心をするがいい。で、ユダへ行きたい人は、行って何かを掴むがいい。だが基督へ行った人は、去勢されるに相違ない。奴隷根性になるだろう。その代わり安心は出来るだろう。しかしユダへ行った人は、革命的精神を<ruby><rb>動</rb><rt>そそ</rt></ruby>られるだろう。そうして世間から迫害されるだろう。一生平和は得られないだろう」

基督とユダとを比べることによって、私はちょっと瞑想的になった。

一つ一つ紋章を調べて行った。その結果私は十二使徒と、<ruby><rb>耶蘇</rb><rt>エス</rt></ruby>基督との肖像を、三十枚の貨幣のその中から、苦心して選択をすることが出来た。まだ後十七枚残っていた。どれにも肖像が打ち出されてあった。それも間もなく知ることが出来た。

モーゼ、アブラハム、ヨブ、ソロモン、ダビデ、サムソン、ヨシュヤ、サムエル、エリヤ、その他の人々で、いずれも旧約聖書中の、大立者の肖像であった。肖像の下に有るか無い程の小さい小さい横文字で、署名書きがしてあったからで。

「<ruby><rb>猶太</rb><rt>ユダヤ</rt></ruby>の古代貨幣なら、猶太文字で署名がしてあるはずだ。ところが英語で署名してある。これ一つでもこの銀貨の、贋物ということが証明できる」

私は思わず呟いた。

「いいえ」とその時妻が云った。

「え？」と私は顔を上げた。

紋章の研究に心を奪われ、彼女の事を忘れていた。

「お前何とか云ったかい」

彼女は返事をしなかった。彼女の表情には変なものがあった。眼が銀貨に食い付いていた。燃えるような熱のある眼であった。頬が病的に充血していた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふっ</span>と彼女は私を見た。疑惑に充ちた眼であった。

「<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>」と彼女は叱るように云った。

「<ruby><rb>何人</rb><rt>どなた</rt></ruby>からお借りしていらしったの？　こんな妙な気味の悪いものを」

「気味が悪いって？　どうしてだい？」

いわゆる唖然とした心持で、聞き返さざるを得なかった。

「贋金なんだよ、古代猶太のね」

「ねえ貴郎」と彼女は云った。

「何人からお借りしていらしったの？　聞かせて下さいよ。さあ直ぐに」

<ruby><rb>厳粛</rb><rt>げんしゅく</rt></ruby>と云いたいような声であった。彼女に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そぐわない</span>声であった。

「佐伯って人だ。佐伯準一郎」

何だか私は不安になった。

「立派な紳士だよ、蒐集家なんだ」

「佐伯準一郎？　聞かない名ね。だって貴郎のお友達の中には、そんな名の方はなかったじゃアないの？」

私は急に厭になった。

「また何かを嗅ぎ付けやがったな、ほんとに仕方のない目っ早小僧だ！　だが今度はお生憎様さ、ちょっとも引け目なんかないんだからな」

こんなように考えた。

で、私は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やっつける</span>ように云った。

「これから俺の人名簿へ、新しく<ruby><rb>記</rb><rt>つ</rt></ruby>けようっていう友人なのさ」

「ねえ貴郎」と彼女は云った。

「どうしてどこでお友達になって？」

「公園でだよ。鶴舞公園でね」

「いつ？」と彼女は追っかけて訊いた。叱るような声であった。

危うく反感を持とうとした。しかし私は差し控えた。不安どころか悲しみをさえ、彼女の顔に見たからであった。

「今日の昼さ。病院の帰りにね。……何だかひどく心配そうだなあ。その可愛い凸ちゃんを、心配させちゃア可哀そうだ。よし来た詳しく話してやろう」

――私はバセドー氏病の患者であった。毎週一回病院へ通って、かなり強いレントゲンの、放射を受けなければならなかった。その往復に公園を通った。鶴舞公園はいい公園で、日比谷以上に調っていた。一つのロハ台へ腰を掛け、好きなラ・ラビアを<ruby><rb>喫</rb><rt>ふ</rt></ruby>かすのが、夏以来の習慣であった。

冬も冬、一月中旬、冷たい風が吹き迷っていたのに、この習慣は止められず、その日も私はロハ台に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>って、ラ・ラビアを喫かしていた。

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">10</span>

その時毛皮の外套を着た、四十五六の立派な紳士が、私の横へ腰を掛け、ゆるやかに葉巻を喫かし出した。

「あの大変失礼ですが、<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>は美術家ではいらっしゃいませんか？」

紳士が卒然話しかけた。

「いえ」と私は素っ気なく云った。

私は私の趣味として、商売のことを訊かれるのと、年齢のことを訊かれるのとを、好まないばかりか嫌っていた。そうして私はそんなように、見知らない人から話しかけられるのを、これまた趣味として好まなかった。

紳士は外套の内<ruby><rb>衣兜</rb><rt>かくし</rt></ruby>から、ゆっくり名刺入れを取り出した。一揖すると名刺を出した。

「私、佐伯と申します。最近<ruby><rb>欧羅巴</rb><rt>ヨーロッパ</rt></ruby>から帰りましたもので」

これは益々私にとっては、好ましくない態度であった。洋行帰りがどうしたんだ！　あぶなく心で毒吐こうとした。しかし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そいつ</span>をしなかったのは、その佐伯という紳士の態度が、よい意味における慇懃で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こしらえた</span>所がなかったからであった。

私も名刺を手渡した。

「おやそれでは一條さんで。よくお名前は存じて居ります。たしかお作も見たはずです。いや私は最初から、芸術家でいらっしゃると思っていました。それでお言葉を掛けましたので。全く芸術家の方々には、一つの型がございますのでね」

この言葉は<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>っていた。芸術家には型があった。たいして愉快な型ではないが。

「はなはだ突然で不作法ですが、ご迷惑でなかったら拙宅へ、これからおいで下さるまいか。お見せしたい物がありますので、恐らくお気にも入りましょう。実は私は好事家でしてな、その方面ではかなり広く、海外へも参って居りますので。相当珍品も集まって居ります。宅は公園の直ぐ裏で。ええそうです××町です。ナーニご遠慮にゃア及びません。私の方から見て頂きたいので。訳の解らない骨董屋などより、芸術家のお方に見て頂いた方が、どんなに有難いか知れません。物を集めるということは、自分の趣味性を充たすと同時に、やはり具眼者に見て頂いて、その批評を承わるのが、目的の一つでございますからね」

佐伯準一郎氏はこんなことを云った。

慇懃で如才なくて魅力的で、断わりかねるような云い方であった。そこで私は行くことにした。こうして私の見せられたのは、伝説の銀三十枚であった。

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">11</span>

私の話を聞いてしまうと、妻は一層不安そうにした。

「それでお借りしていらっしゃったのね。まあ本当に仕方のない方！」

バタバタと<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ下りて行った。

<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>を引き出す音がした。

彼女は書斎へ帰って来た。

「さあ比べてご覧なさい」

彼女は指環を投げ出した。

「ね、<ruby><rb>白金</rb><rt>プラチナ</rt></ruby>じゃアありませんか」

指環は白金に相違なかった。それが白金であるがために、彼女はそれを虎の子のように、奥深く秘蔵していたものである。私は二つを比べてみた。銀三十枚と指環とを。

私は変に寒気立った。二つは全く同じであった。

「おい、こいつア<ruby><rb>同</rb><rt>おんな</rt></ruby>じだ」

「贋金でなくて白金よ」

「この大きさでこの重さ……」

「数にして三十枚よ。さあお<ruby><rb>金</rb><rt>あし</rt></ruby>に<ruby><rb>意</rb><rt>つも</rt></ruby>もったら？　ああ妾にゃア見当がつかない」

「おい、自動車を呼んで来い！」

一人で行くのは怖かった。と云うよりも妻の方で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっそり</span>者のこの私を、一人でやるのが不安だったらしい。

で、自動車へは二人で乗った。

私の両手と彼女の両手とが、革財布を抑えていた。

考え込まざるを得なかった。

「これは何かの間違いなのだ。でなかったら陰謀だ。どうぞ陰謀でないように。俺は問題にならないとしても、聡明らしい佐伯氏が、贋金と白金とを見分けぬはずはない。知っていて俺に借したのだ。しかしあんな猪牙がかりに、借せるような物じゃアないはずだが。<ruby><rb>金銭</rb><rt>かね</rt></ruby>に直して幾万円？　箆棒めえ借せられるものか！　だが借したのは事実なのだ。……曰くがなけりゃアならないぞ……」

私達のタクシは<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>っていた。彼女は物を云わなかった。夜は十二時を過ごしていた。何という町の冬霧だ。とうとうタクシは公園へ来た。その公園を突っ切った。××町まで遣って来た。こんな飛んでもない贋金は、早く早く返さなければならない！

「<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めろ！」と私は呶鳴るように云った。

徐行し、そうして停車した。

「どのお家！　佐伯さんのお家は？」

妻が私に呟いた。私は窓から覗いて見た。

「ご覧」と私は唾を飲んだ。

「赤い警察の<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>が、チラツイているあの屋敷だ」

妻も唾を飲んだらしい。運転手が<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けようとした。

「待て」と私は<ruby><rb>嗄声</rb><rt>かれごえ</rt></ruby>で制した。窓のカーテンを掻い遣った。妻の鬢の毛が頬に触れた。

佐伯家の厳めしい表門が、一杯に左右に押し開けられていた。赤筋の入った提燈が、二つ三つ走り廻っていた。遠巻きにした見物が、静まり返って眺めていた。門の<ruby><rb>家根</rb><rt>やね</rt></ruby>から空の方へ、松の木がニョッキリ突き出していた。遥かの町の四つ角を、終電車が通って行った。

刺すような静寂が漲っていた。

「おい、運転手君、引っ返しておくれ」

――で、タクシは引っ返した。

彼女は何とも云わなかった。彼女の肩が腕の辺りで、生暖かく震えていた。

何か<ruby><rb>捨白</rb><rt>すてぜりふ</rt></ruby>が言いたくなった。

「捕り物の静けさっていうやつさね。旅行しますと云ったっけ。ははあ刑務所のことだったのか。佐伯君、警句だぞ」

勿論腹の中で云ったのであった。

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">12</span>

その翌日の新聞は、刺戟的の記事で充たされていた。<ruby><rb>大標題</rb><rt>おおみだし</rt></ruby>だけを上げることにしよう。

国際的大詐欺師

佐伯準一郎捕縛さる

勿論特号活字であった。

欧米、南洋、支那、近東、こういう方面を舞台とし、十数年間組織的詐欺を、働いていたということや、日本知名の富豪紳士にも、被害者があるということや、数ヶ月前名古屋に入り込み、ために司法部の活動となり、捜索をしていたということや、昨夜何者か密告者があって、始めて所在を知ったということや、家宅捜索をした所、贋物の骨董があったばかりで金目の物のなかったということや、書生や女中は新米で、様子を知らなかったということや、××町の屋敷へは、ほんの最近に移って来たので、まだ近所への<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>さえ、はじめていなかったということや、最後に至って別標題を附け、国際的陰謀の秘密結社に、関係あるらしいということなどが、三段に渡って記されてあった。

私と妻とは眼を見合わせた。どうしていいか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった。<ruby><rb>白金</rb><rt>プラチナ</rt></ruby>に違いないと思われる、銀三十枚を携えて、警察へ訴え出ることが、とるべき至当の手段ではあったが、そのため同類と疑われ、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>うるさい取り調べを受け、新聞などへ書かれることが、どうにも不愉快でならなかった。と云って保存して置いたなら、いわゆる贓物隠匿として、露見した場合には必然的に、刑事問題を惹き起こすだろう。

「おい、どうしたものだろう？」

「さあ、ねえ」と彼女は考え込んだ。

「訴えて出るのが至当でしょうね」

「うん」と私は考え込んだ。

「変に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えこじ</span>に調べられると、カッと逆上する<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>だからなあ」

「それに<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>はお忙しいんでしょう」

「うん、目茶々々に忙しいんだ。動揺させられるのが一番困る。今が大事な時なんだからな。せっかくの空想が塞がれてしまう」

「それが一番困りますわね」

彼女は熱心に考え込んだ。

大方の芸術家がそうであるように、一面私は神経質で、他面私は放胆であった。又一面<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>者で他面著しく物臭であった。宿命的病気に取っ付かれて以来、その程度が烈しくなった。この病気の特徴として、いつも精神が興奮した。

だが私は私の病気を、祝福したいような時もあった。「空想」が奔馳して来るからであった。本来私という人間は、空想的の人間であった。空想には不自由しなかった。それが病気になって以来、その量が一層増したらしい。空で行なわれているエーテルの建築！　それを破壊する電子の群れ！　そんなものが私には、「見える」のであった。だがまだ私は<ruby><rb>霊媒</rb><rt>ミジャム</rt></ruby>ではなかった。しかし早晩なるだろう。他界の消息、黄泉の通信、幽霊達の<ruby><rb>訴言</rb><rt>うったえごと</rt></ruby>、そういうものだって知ることが出来よう。

物を書きながら苦しむことがあった。後から後からと空想が、駈け足で追っかけて来るからであった。文字にして原稿紙へ書き取る暇さえ、ゆっくり与えてはくれないからであった。そんな時私はゴロリと寝た。動悸の烈しい心臓を抑え、空想の駈け抜けるのを待つのであった。

町を歩きながら立ち止まり、電信柱へ倚りかかり、湧き上って来る空想を、鼻紙の上へ書いたりした。

ある夜空想が湧き上って来た。折悪しく鼻紙を持っていなかった。一軒の商店の板壁へ、万年筆で書き付けた。そうして翌朝出かけて行き、写し取って来たような事さえあった。

今に私は往来の人の、背中へ紙をおっ付けて、そこで書くようになるかもしれない。

創作力に<ruby><rb>充満</rb><rt>みちみち</rt></ruby>ていた。それをこんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つまらない</span>ことで、破壊されるのは厭だった。

急に妻は変に笑った。ゾッとするような笑い方であった。それから私を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からかい</span>出した。

「無理はないわね、貴郎としては。そうら出入りの呉服屋さん、ちょっと相場で儲けたと云って、<ruby><rb>白金</rb><rt>プラチナ</rt></ruby>の腕時計を巻いて来たらニッケルにしちゃアいい艶だって、こんな事を云ったじゃアありませんか、そうかと思うと妾の時計、そりゃあニッケルとしては類なしで、金時計より<ruby><rb>高価</rb><rt>たかい</rt></ruby>んですけれど、こいつア素晴らしい白金だって、大騒ぎをしたじゃアありませんか。白金だか銀だか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないのは、ちっとも不思議じゃアありませんわね」

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">13</span>

「何だ莫迦め！」と呶鳴り付けた。

「そんな事を云い出して何になるんだ」

だが彼女はますます笑い、ますます私を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からかった</span>。

「<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>、ペテンに掛かったのよ。ええそうとしか思われないわ。でもどうしてこんなペテンに？　いいえさ佐伯とかいう大詐欺師が、どうしてこんな変なペテンに、引っかけなければならなかったんでしょう？　儲かることでもないのにね。かえって大変な損をするのに。これには奥底があるんだわ。そうとしきゃア思われないわ。恐いわねえ、どうしましょう。返していらっしゃいよ、さあ直ぐに」

「莫迦め！」と私はまた呶鳴った。

「牢屋へ持ってって返せってのか」

「では貴郎には手が着かないのね？」

にわかに彼女は冷静になった。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>にお委せなさいまし」

「で、お前はどうするつもりだい？」

「貴郎それをお聞きになりたいの？　では自分でなさるがいいわ」

彼女は再び揶揄的になった。

「だってそうじゃアありませんか、一切妾に委されないなら」

「だが俺には手が出ないよ」

「お書きなさいまし、原稿をね」

それは歌うような調子であった。

「そうして何にも思わないがいいわ。食い付きなさいまし、お仕事にね。貴郎は可愛いお馬鹿ちゃんよ。組織立ったことをさせるのは、それは無理と云うものよ。お信じなさいまし、妾をね」

私は彼女へ委せてしまった。何にも考えないことにした。さあ仕事だ！　さあ創作だ！　空想よ駈り立ててくれ！

年が改たまって<ruby><rb>新年</rb><rt>はる</rt></ruby>となった。

妻の様子が変わって来た。

彼女と私とは恋愛によって、一緒になった夫婦であった。彼女は私を愛していた。ところがこの頃愛さなくなった。

「ねえ、お馬鹿ちゃん」

「ねえ、凸坊」

これが私への愛称であった。この頃ではそれを封じてしまった。彼女はひどく剽軽であった。途方もない警句を頻発しては、私を素晴らしく喜ばせてくれた。

「ね、ご覧なさいよ、ベッキイちゃんを、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てまつく</span>しているじゃアありませんか」

よく彼女はこんなことを云った。ベッキイというのは飼い犬であった。活動俳優の天才少女、ベビー・ベッキイの名を取って、彼女が<ruby><rb>命名</rb><rt>なづ</rt></ruby>けた犬の名であった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てまつく</span>というのは手枕のことで、その飼い犬が寝ている様子を、そう形容して云ったのであった。

これは何でもない云い方かもしれない。しかし彼女が云う時は、光景が躍如とするのであった。犬ではなくて人間の、可愛い可愛いベッキイという少女が、さも愛くるしく手枕をして、眠っているように思われるのであった。

しかし彼女はこの頃では、もうそんなことも云わなくなった。私が散歩でもしようとすると、彼女はきっと呼び止めた。立ったまま私を抱き<ruby><rb>介</rb><rt>かか</rt></ruby>え、少しおデコの彼女の額を、私の額へピッタリと食っ付け、梟のように眼を見張り、嚇かすように頬を膨らせ、

「いい事よ、行っていらっしゃい」

こう云ってようやく放してくれた。が、それも遣らなくなった。

泣くことの好きな女であった。ある朝私は顔を洗い、冷たい手をして居間へ行った。と、彼女が化粧をしていた。胸が蒼白くて綺麗だった。冷たい手先をおっ附けてやった。それが悲しいといって泣き出した。大変美しい泣き方であった。勿論拵えた媚態であった。それが彼女には似つかわしかった。が、それもやらなくなった。

笑うことの上手な女であった。「無智の笑い方」が上手であった。利口な彼女が笑い出すと、無智な無邪気な女に見えた。それこそ実際男にとっては、有難い笑いと云わなければならない。瞬間に苦労が癒えるからであった。が、それもやらなくなった。

彼女は不思議な女であった。千里眼的の所があった。ウイスキイの二三杯もひっかけて――私は元は非常な豪酒で、一升の酒は苦しまずに飲んだ――<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>の格子を静かにあけると、きっと彼女は云ったものである。

「ご機嫌ね、柄にないわ」

……時々<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>で<ruby><rb>旗亭</rb><rt>ちゃや</rt></ruby>へ行き、さり気なく家へ帰って来ると、三間も離れて居りながら、

「厭な凸坊、キスしたのね。若い綺麗な芸子さんと。襟に白粉が着いてるわ」

……だが彼女はこの頃では、もうそんな事も云わなくなった。

私が<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>で何をしようと、気に掛けようとはしなかった。

これは一体どうしたのだろう？　何が彼女を変えたのだろう？

彼女は丸髷が好きであった。いつかそれを<ruby><rb>王女</rb><rt>クイン</rt></ruby>髷に変えた。

家に居たがる女であった。ところがこの頃では用もないのに、戸外へばかり出たがった。

驚くべきことが発見された。彼女は実に僅かな間に、奇蹟的に美しくなり、奇蹟的に気高くなった。

「美粧倶楽部へでも行くのだな。恋人でも出来たのではあるまいか？　恋人が出来ると女という者は、急に美しくなるものだ」

私の心は痛くなった。憂鬱にならざるを得なかった。

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">14</span>

仰天するようなことが発見された。ある夜私は戸外から帰って来た。彼女は私の書斎にいた。細巻<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>ふ</rt></ruby>かしていた。煙草を支えた左手の指に、大きなダイヤが輝いていた。

「その指環は？」と私は云った。

私の知らない指環であった。

彼女は無言で指を延ばした。そうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっと</span>ダイヤに見入った。その燦然たる鯖色の光輝を、味わっているような眼付きであった。二本の指で支えられ、ピンと上向いた煙草からは、紫の煙りが上っていた。一筋ダイヤへ搦まった。光りと煙り！　微妙な調和！　何と貴族的の趣味ではないか！　彫刻のような彼女の顔！　今にも唇が綻びそうであった。モナリザの笑い？　そうではない！　娼婦マリヤ・マグダレナの笑い！

私は瞬間に退治られた。

数日経って松坂屋から、一揃いの衣裳が届けられた。それは高価な衣裳であった。帯！　金具！　高価であった。誂えたはずのない衣裳であった。私の知らない衣裳であった。

そこで私は懇願した。

「話しておくれ、どうしたのだ？」

ただ彼女は微笑した。例のマリヤの微笑をもって。

「おい！」と私は威猛高になった。

「処分したな、贓物を！」

「<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>」と彼女は水のように云った。

「贓物ですって？　下等な言葉ね」

「売ったのだろう！　<ruby><rb>白金</rb><rt>プラチナ</rt></ruby>を！」

「貴郎」と彼女は繰り返した。

「約束でしたわね、訊かないと云う」

彼女は私を下目に見た。彼女は貴婦人そのものであった。

大詰の前の一齣が来た。

<ruby><rb>円頓寺街路</rb><rt>えんとんじどおり</rt></ruby>を歩いていた。霧の深い夜であった。<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から自動車が<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>って来た。

「馬鹿野郎！」と運転手が一喝した。

危く轢かれようとしたのであった。憤怒をもって振り返った。窓のカーテンが開いていた。紳士と淑女とが乗っていた。私は淑女に見覚えがあった。それは私の妻であった。彼女も私を認めたらしい。唇の間から<ruby><rb>義歯</rb><rt>いれば</rt></ruby>を見せた。紳士にも私は見覚えがあった。当市一流の紳商であった。新聞雑誌で知っていた。六十を過ごした老人で精力絶倫と好色とで、世間に有名な老紳士であった。

私はクラクラと眼が廻った。が、飛びかかっては行かなかった。肩を<ruby><rb>曲</rb><rt>こご</rt></ruby>め背を丸め、顔を低く地に垂れた。そうして<ruby><rb>撲</rb><rt>う</rt></ruby>たれた犬のように、ヨロヨロと横へ<ruby><rb>蹣跚</rb><rt>よろめ</rt></ruby>いた、私は何かへ縋り付こうとした。

冷たい物が手に触れた。それは入口の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>であった。私は内へ吸い込まれた。

真正面に人がいた。狭い額、飛び出した眼、牛のような喉、突き出した頬骨、イスカリオテのユダであった。

<ruby><rb>珈琲店</rb><rt>カフェ</rt></ruby>であった。鏡であった。私は写っていたのであった。

イエス・キリストがそれを呪った。マグダラのマリヤがそれを呪った。イスカリオテのユダがそれを呪った。みんな別々の意味において。そうして今や私が呪う。憎むべき銀三十枚を！

人は信仰を奪われた時、一朝にして無神論者となる。

人は愛情を裏切られた時、一朝にして虚無思想家となる。

ユダの運命がそれであった。

私は私の思想として、ユダの無神論と虚無思想とを、自分の心に<ruby><rb>所有</rb><rt>も</rt></ruby>っていた。

今や私は感情として、それを持たなければならなかった。

今、私はユダであった。

「助けて下さい！　助けて下さい！」

私は救いを求めるようになった。

しかし救いはどこにもなかった。

一つある！

<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>だ！

キリストを売ったイスカリオテのユダは、売った後でキリストを求めただろう！

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">15</span>

これがいよいよ大詰かもしれない。

その夜私は公園にいた。<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>ってそこ迄行ったのであった。詐欺師と<ruby><rb>邂逅</rb><rt>あ</rt></ruby>ったロハ台へ、私は一人で腰をかけていた。生暖かい夜風、咽るような花の香、春蘭の咲く季節であった。噴水はすでに眠っていた。音楽堂には<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>がなかった。日曜の晩でないからであった。公園には誰もいなかった。ひっそりとして寂しかった。夜は随分深かった。月が空に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>懸かっていた。靄が木間に立ち迷っていた。物の陰が淡く見えた。

私の精神も肉体も、磨り減らされるだけ磨り減っていた。長い間物を書かなかった。空想がすっかり消えてしまった。病気は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどく</span>進んでいた。心臓の動悸、<ruby><rb>指頭</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>の顫え、私は<ruby><rb>全然</rb><rt>まるで</rt></ruby>中風のようであった。視力が恐ろしく衰えてしまった。そうして強度の乱視となった。五分と物が見詰められなかった。絶えずパチパチと瞬きをした。瞼の裏が荒れてしまった。

誰も介抱してくれなかった。

お母様！　お母様！

実家とは音信不通であった。それも彼女との結婚からであった。高原信濃！　そこの実家！　誰とも逢わずに死ななければなるまい。

「もう一<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>だ。指先でいい。ちょっと<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から突いてくれ。死の深淵へ落ちることが出来る」

私は私の両膝を、ロハ台の上へ抱き上げた。膝頭へ額を押っ付けた。小さく固く塊まった。

「もう一呼吸だ。指先でいい」

その時自動車の音がした。

私は反射的に飛び上った。

病院の方角から自動車が、こっちへ向かって<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>って来た。私の<ruby><rb>眼前</rb><rt>めのまえ</rt></ruby>を横切った。紳士と淑女とが乗っていた。淑女は私の妻であった。紳士は例の紳士ではなかった。もっと評判の悪い紳士であった。デパートメントの主人であった。外妾を持っているということで新聞へ書かれた紳士であった。車内は桃色に明るかった。柔かいクッション、<ruby><rb>馨</rb><rt>かんば</rt></ruby>しい香水、二人はきっと幸福なんだろう。顔を突き合わせて話していた。一瞬の間に過ぎ去った。月光が<ruby><rb>車葢</rb><rt>おおい</rt></ruby>に滴っていた。タラタラと露が垂れそうだった。都会の空は赤かった。その方から警笛が聞こえてきた。

「もういい」と私は自分へ云った。

最後の一突きが来たからであった。花壇を越して林があった。目掛けて置いた林であった。私はその中へ分け入った。

「ユダも<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>れて死んだはずだ」

木を選ばなければならなかった。木はみんな若かった。一本の木へ手を掛けた。幹へ額を押し付けた。ひやひやとして冷たかった。そうして大変滑らかだった。シーンと心が静まった。平和が心へ返って来た。

「脆そうな木だ。折れるかもしれない」

もう一本の木へ手を触れた。

その時私へ障るものがあった。誰かが肩を抑えたのであった。

私は静かに振り返った。

一人の男が立っていた。

鳥打を頭に載っけていた。足に<ruby><rb>雪駄</rb><rt>せった</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つっ</span>かけていた。

私はもっと壮健の頃、新聞記者をしたことがあった。

この男は刑事だな。私は直覚することが出来た。

「どうしたね？」とその男が云った。

「…………」

「黙っていては<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らない」

刑事声には相違ないが、威嚇的の調子は見られなかった。

「不心得をしてはいけないよ」

むしろ訓すような声であった。

「無教育の人間とも見えないが」

刑事は私の足許を見た。

「君、どこに住んでるね」

「市内西区児玉町」

「何だね、一体、商売は？」

私は返事をしなかった。

「ナニ、厭なら云わなくてもいい。君もう家へ帰りたまえ」

刑事は背中を向けようとした。

「僕に家なんかあるものか」

「何イ！」と刑事は振り返った。

「児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか！」

「家はあるよ。……だがないんだ」

刑事はしばらく睨んでいた。

「ははあ貴様酔ってるな。……妻君が家に待ってるだろう。……馬鹿を云わずに早く帰れ」

「妻君」と私は肩を上げた。

「妻君は自動車に乗ってったよ」

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">16</span>

刑事はちょっと考えた。

「ふふん、こいつ<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>だな。……死にたければ勝手に死ぬがいい。だがここは俺の管轄だ。……他へ行って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶら</span>下るがいい」

「妻君は自動車へ乗ってったよ。たった今だ。紳士とな」

「これは<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しい」と刑事は云った。

「それじゃア<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あの</span>女を知ってるのか。俺の<ruby><rb>狙</rb><rt>つ</rt></ruby>けてる淫売だが」

「あれが僕の妻君さ」

私は何かに駈り立てられた。畜生！　こいつを<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>させてやれ！

「君、あいつは詐欺師なんだ。あいつは<ruby><rb>白金</rb><rt>プラチナ</rt></ruby>を詐欺したんだ。……勿論君も知ってるだろう、大詐欺師の佐伯準一郎ね、ありゃアあいつの片割れなんだ」

刑事は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と聞き澄ましていた。

「捕縛したまえ。手柄になるぜ」

刑事は急に緊張した。だがすぐに揶揄的になった。

「君のような狂人の妻君に、あんな別嬪がなるものか。まあまあいいから帰りたまえ」

たくましい手をグイと延ばし、私の腕を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>掴んだ。

「お前、金は持ってるのか？」

「うん」と私は頷いて見せた。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いくら</span>あるね、云って見給え」

「<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>にあるんだ、蟇口がな。いくらあるか知るものか」

刑事は腕から手を放した。

「調べてやろう、出したまえ」

私は袂から蟇口を出した。

「それ五円だ。それ赤銭だ。それ十銭だ。それ五円だ。まだあるぜ、それ十円だ」

「よしよし」と刑事は頷いた。

「それだけありゃア結構じゃアないか。歩いた歩いた送ってやろう。どうも手数のかかる奴だ」

また腕を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>掴んだ。町の方へ引っ張って行った。私は変に愉快になった。で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のべつ</span>にまくし立てた。

「莫迦だなあ刑事君、あの女は詐欺師なんだ。白金三十枚を隠しているんだ、一枚や二枚は使ったろう。とても大きな白金なんだ。五十<ruby><rb>匁</rb><rt>もんめ</rt></ruby>ぐらいはあるだろう。たった一枚で三千円だ。それが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みんな</span>で三十枚あるんだ。佐伯の物だ、大詐欺師のな。最初に俺が借りたんだ。そいつをあいつが取っちゃったんだ。あっ痛え！　そう引っ張るな！　嘘じゃアねえ、本当のことだ。大馬鹿野郎め、ふん掴まえてしまえ！　引っかかったんだよ、ペテンにな。捕縛されるのが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ってたんだ。俺は文士だ、小説書きだ。そこをきゃつが狙ったんだ。でたらめの話をしやがって、俺の好奇心をそそりゃアがって、そいつを俺に預けやがったんだ。古いペテンだ、古いとも。牢から出ると取りに来るやつよ。いい隠し所を目つけたって訳さ。本当の事だ、信用しろ。家捜ししなよ、俺の家を、きっとどこかにあるだろう。……そこは女のあさましさだ。眼がクラクラと眩んだんだ。うん、白金を手に入れるとな。すっかり変わってしまやアがった。……」

刑事はニヤニヤ笑っていた。公園を出ると町であった。右角に<ruby><rb>貸自動車</rb><rt>タクシ</rt></ruby>の待合があった。

「おい、<ruby><rb>自動車</rb><rt>タクシ</rt></ruby>」と刑事は呼んだ。

「へい」と運転手が走って来た。

「この男を載っけてくれ」

すぐ自動車が引き出された。私はその中へ押し込まれた。

「金は持ってる、大丈夫だ。中村へでも送り込んでやれ。遊廓で一晩遊ばせてやれ」

こう云うと刑事は愉快そうに笑った。ひどく人のいい笑い方であった。

ゴーッと自動車は動き出した。

彼女は彼女の生活をした。私は私の生活をした。家庭生活は破壊された。だが一緒には住んでいた。彼女はますます美しくなった。近付きがたいまでに美しくなった。そうして素晴らしく高貴になった。

「貴女様は一体<ruby><rb>何人</rb><rt>どなた</rt></ruby>様で？」

こう云いたいような女になった。

行くべき所へ行き着いてしまった。私は放蕩に耽るようになった。酒だ！　女だ！　寝泊りだ！

ある時ある所で三日泊まった。四日目の夕方帰って来た。

と、貸家札が張られてあった。

「鳥は逃げた！」と私は云った。

「オフェリヤ殿、オフェリヤ殿、尼寺へでもお行きやれ」

シェイクスピアの<ruby><rb>白</rb><rt>せりふ</rt></ruby>が浮かんできた。

「尼寺なものか、極楽だ！　マリア・マグダレナは極楽へ飛んだ」

私は大声で笑おうとした。が反対に胴顫いがした。

「だが、予定の行動を」

私は踵を返そうとした。

「お神さんえ、どうぞ一文、よし、俺は乞食になろう！」

「もし」とその時呼ぶ声がした。

<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に小男が立っていた。

「へえへえ」と私は手を揉んだ。

「旦那様え、何かご用で？」

乞食の稽古をやり出した。

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">17</span>

「貴郎はここのご主人で？」

その洋服の紳士は云った。

「へえへえ左様で、昔はね。今は立ん棒でございますよ」

その紳士は微笑した。

「奥様からのお<ruby><rb>伝言</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>で。あるよい家が目つかりましたので、<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>お移りなさいましたそうで。それで、お迎えに参りました」

「一体貴郎様はどういうお方で？」

「へい、タクシの運転手で」

「すぐ載っけろ！　馬鹿野郎！」

<ruby><rb>街</rb><rt>ちまた</rt></ruby>に落つる物の音

雨にはあらで落葉なる

明るき蒼き<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>に

さまよう物は残れる蛾

廃頽詩人ヴェルレイヌ、<ruby><rb>卿</rb><rt>おんみ</rt></ruby>だけだ！　知っている者は！　秋の<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いぶき</rt></ruby>を、落葉の心を、ひとり死に残った蛾の魂を。

私のタクシは<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>っていた。

街路樹がその葉をこぼしていた。人々は外套を鎧っていた。寒そうに首をすっ込めていた。冬がそこまで歩いて来ていた。白無垢姿の冬であった。

「俺も長い間苦しんだなあ」

クッションへ<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>って考えた。

「もう堪忍してくれないかなあ」

私はじっと瞑目した。

「でなかったら葬ってくれ。落葉がいいよ、<ruby><rb>朴</rb><rt>ほう</rt></ruby>の落葉が」

私のタクシは駛っていた。

「泣けたらどんなにいいだろう」

おずおず眼をあけて<ruby><rb>車外</rb><rt>そと</rt></ruby>を覗いた。

そこは賑かな広小路であった。冬物が飾り窓に並べられてあった。それを覗いている女があった。寒そうに<ruby><rb>髱</rb><rt>たぼ</rt></ruby>が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そそけ</span>立っていた。巨大な建物の前を過ぎた。明治銀行に相違なかった。地下室へ下りて行く夫婦連があった。食堂で<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby>を啜るのだろう。また巨大な建物があった。旧伊藤呉服店であった。タクシはそこから右へ曲った。少し町が寂しくなった。タクシは大津町を駛って行った。私はまたも瞑目した。

立派な屋敷の前へ来た。自動車から下りなければならなかった。厳めしい門が立っていた。黒板壁がかかっていた。

運転手は一揖した。

「はい、お屋敷へ参りました」

私は無言で表札を見上げた。一條寓と記されてあった。

<ruby><rb>潜戸</rb><rt>くぐり</rt></ruby>を開けて入って行った。玄関まで八間はあったろう。スベスベの石畳が敷き詰めてあった。しっとりと露が下りていた。高い松の植込みがあった。

「家賃にして三百円！」

<ruby><rb>譫言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のように呟いた。

私は玄関の前に立った。

と、障子がスーと開いた。

妻か？　いやいや知らない婦人が、恭しく手をついてかしこまっていた。

「旦那様お帰り遊ばしませ」

女は島田に結っていた。

「……で、貴女は？」と私は訊いた。

自動車の帰って行く音がした。

「はい、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby>、小間使で」

私はヌッと玄関を上った。

「うん。ところで<ruby><rb>山神</rb><rt>やまのかみ</rt></ruby>は？」

直ぐ左手に応接間があった。その<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>が開いていた。それは洋風の応接間であった。

「あの、お寝みでございます」

「伯爵夫人はお寝みか」

私は応接間へ入って行った。

一つの力に引き入れられたのであった。

その応接間には見覚えがあった。

佐伯準一郎氏の応接間であった。

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">18</span>

爾来私達はその家に住んだ。

彼女は依然として出歩いた。あたかもそれが日課のように。

彼女は入念にお化粧をした。あたかもそれが日課のように。

毎朝牛乳で顔を洗った。

とりわけ爪の手入れをした。これにはもっともの<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>があった。他がどんなに綺麗でも、爪に一点の<ruby><rb>斑点</rb><rt>しみ</rt></ruby>があったら、貴族の婦人とは見えないからであった。

彼女は<ruby><rb>耳髱</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>に注意した。耳髱はいつもピンク色であった。それが彼女を若々しく見せた。

彼女は踵に注意した。いつも円さと滑らかさと、<ruby><rb>花弁</rb><rt>はなびら</rt></ruby>の色とを保っていた。

耳の穴、鼻の穴に注意した。

だが顔色は蒼白かった。それも彼女の好嗜からであった。血色のよい赦ら顔は、田舎者に間違えられる恐れがあった。都会の貴婦人というものは、蒼い顔でなければ面白くない。どうやら彼女は<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>あたりの、青色の<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>を使うらしい。

臀部が目立って小さくなった。そうして腰が細くなった。彼女の姿勢は立ち勝って来た。

肌が真珠色に艶めいて来た。それは冷たそうな艶であった。

<ruby><rb>肌理</rb><rt>きめ</rt></ruby>が絹のように細かくなった。

きっと滑らかなことだろう。

だが触れることは出来なかった。彼女がそれを断わるからであった。

遥拝しなければならなかった。

又その方がある意味から云って、私にとっても幸せであった。うっかり<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>って手が辷って、転びでもしたら困るからであった。

「ああ彼女には洋装が似合う」

ある時私はつくづく云った。決して揶揄的の讃辞ではなかった。

その心配は無用であった。

翌日洋装が届けられた。肌色と同じ真珠色であった。

それを着て彼女は出かけようとした。

チラリと私の顔を見た。瞼を二度ばかり叩いて見せた。

命ずるような眼付きであった。

私は<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>て<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>をかがめた。

<ruby><rb>裳裾</rb><rt>もすそ</rt></ruby>を捧げようとしたのであった。ひどく気の利く小姓のように。

その配慮は無用であった。

今日<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby>の洋装は、長い裳裾などはないからであった。股の見えるほど短かいはずだ。

時々彼女は私へ云った。

「<ruby><rb>高尚</rb><rt>ノーブル</rt></ruby>にね。高尚にね。<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>もどうぞ高尚にね」

で私は腹の中で云った。

「まだこの女は成り切れない。そうさ貴族の夫人にはな！　『<ruby><rb>高尚</rb><rt>ノーブル</rt></ruby>にね、高尚にね、どうぞ御前様貴郎様もね、高尚にお成り遊ばしませ！』こう云わなけりゃアイタに付かねえ」

この心配も無用であった。彼女は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほんとに</span>翌日から、遊ばせ言葉を使うようになった。

もう贋物には見えなかった。

生れながらのおデコさえ、どうしたものか目立たなくなった。

下手に嵌め込まれた<ruby><rb>義歯</rb><rt>いれば</rt></ruby>さえ、どうしたものか目立たなくなった。

歯並の立派な誰かの歯と、きっと換えっこしたのだろう。

彼女の<ruby><rb>身長</rb><rt>せい</rt></ruby>は高かった。それが一層高く見えた。爪立ち歩く様子もないが。――姿勢のよくなったためだろう。

彼女は毎日美食をした。洋食！　洋食！　油っこい物！

勿論私へも美食を進めた。私はあまり食べなかった。

一日に幾度も衣裳を変えた。しかも正式に変えたのであった。これも貴婦人の習慣であった。

そうして私へもそれを進めた。

私は心でこう叫んだ。

「謀叛人の女が<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>を進め、同じ謀叛人にしようとしている！　マクベス夫人の心持だ！」

そうして私には感ぜられた、悲痛なマクベスの心持が。

彼女は<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まって一人で<ruby><rb>外出</rb><rt>で</rt></ruby>た。どんな事があってもこの私と、連れ立って歩こうとはしなかった。

良人のあるということを、隠したがっているらしかった。

家財道具が新調された。黒壇細工！　<ruby><rb>埋木</rb><rt>うもれぎ</rt></ruby>細工！

植木屋が庭の手入れに来た。鋏の音が庭に充ちた。

大工が部屋の手入れに来た。鉋の音が部屋に充ちた。

屋敷が次第に立派になった。

「そうさ、<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>がよくなければ、仏像に<ruby><rb>価値</rb><rt>ねうち</rt></ruby>がつかないからな」

ある夕方自動車が着いた。

彼女は洋装で出かけて行った。

私は玄関まで<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。それ、例の小姓のように。

自動車は自家用の大型物であった。

自動車の中に紳士がいた。顎鬚を撫して笑っていた。この市の有名な市長であった。

「ははあ誘いに来たのだな。大方ホテルへでも行くのだろう。夜会だな、結構なことだ。……俺は書生部屋で豚でも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つつ</span>こう」

だが一体どうしたことだ？　一晩も泊まっては来ないではないか。

どんなに遅くとも帰って来た。

「遠慮はいらない。泊まっておいでよ」

私は心で云ったものである。

「大方の貴婦人というものは、時々紳士と泊まるものだ。それも鍛練の一つじゃないか。何の私が怒るものか。また怒り切れるものでもない。第一お前はいつの間にか、絶対に私を怒らせないように、上手に仕込んでしまったではないか」

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">19</span>

それは初冬のある日であった。私は書斎の長椅子に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ころがり</span>、<ruby><rb>氈</rb><rt>かも</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふかふか</span>と包まれながら、とりとめのないことを考えていた。彼女はその日も留守であった。本当に「彼女」というこの言葉は、彼女に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うってつけ</span>の言葉であった。彼女と私とは他人であった。……三人称で呼ぶべきであった。

「物質的には食傷している。精神的には空腹だ。これが現在の生活だ。変に<ruby><rb>跛者</rb><rt>びっこ</rt></ruby>の生活だなア」

私は氈を撫で廻した。

「この毛並の軟らかさ、朝鮮産の虎の皮、決して安くはなさそうだ。児玉町に住んでいた頃には、空想する事さえ許されなかった品だ。そいつにふかふかと包まれている。さて私よ。幸福かね？」

そこで私は私へ答えた。

「悲しいことには幸福ではないよ」

私は正面の壁を見た。勿論小品ではあったけれど、<ruby><rb>模写</rb><rt>コピイ</rt></ruby>ではないマチスの本物が、似合の額縁に嵌められて、ちょうどいい位置に掛けられてあった。

「彼女が買って来た絵だろうか？　それとも色眼の報酬として、<ruby><rb>某紳商</rb><rt>なにがししんしょう</rt></ruby>の美術館から、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かっぱらって</span>来た絵だろうか？　本物のマチス、銀灰色の縁、狂いのない掲げ振り、よく調子が取れている。将しく彼女には審美眼がある。だが<ruby><rb>以前</rb><rt>むかし</rt></ruby>の彼女には、すくなくともマチスに<ruby><rb>憧憬</rb><rt>あこが</rt></ruby>れるような、そんな繊細な審美眼は、なかったように思われる。長足の進歩をしたものさなあ。もっとも驚くにはあたらない。彼女は伯爵夫人だからな」

私はまたもや私へ云った。

「よろしい彼女は伯爵夫人だ。それはどうしても認めなければならない。ところでここに困ったことには、彼女が伯爵夫人なら、ともかくも良人たるこの私は、自然伯爵でなければならない。私よ、伯爵を引き受けるかね？」

私は私へ云い返した。

「いいや私には荷が勝っているよ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けっきょく</span>私は引き受けないよ。何故だと君は訊くのかい？　説明しよう。こういう訳だ。虹と宝石と香水と、こういう物に蔽われている、深い泥沼があったとしたら、誰だって住むのは厭じゃアないか。<ruby><rb>孑孑</rb><rt>ぼうふら</rt></ruby>でない限りはね。ところで伯爵で居たかったら、そこに住まなければならないのだよ。と云うのは現在の生活が、その泥沼の生活だからさ」

大して気の利いた譬喩でもなかった。

「まあさ、それはそれとして、彼女は伯爵夫人だのに、どうして料理人を雇わないのだろう？」

私はこんな事を考え出した。

「二人の女中、一人の書生、五人ぐらしとは貧弱だなあ。夫人よ是非ともお雇いなさい。そうしたら私は献立を命ずる『安眠』という献立をね」

私は安眠さえ得られなかった。

「助けて下さい！　助けて下さい！」

依然として救いを求めていた。

救ってくれるものがあるだろうか？

あれば彼だ！　<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>だ！　だが現代の基督は、どんな姿で現われるだろう？

私は<ruby><rb>漸時</rb><rt>だんだん</rt></ruby>皮肉になった。私は漸時忍従的になった。だがいつも脅かされていた。

「きゃつは詐欺師だ、殺人犯ではない。五年か十年、刑期さえ終えたら、出獄するに相違ない。取りに来るぞ、銀三十枚！　どうしたらいいのだ。返すことは出来ない！　彼女はその間に使ってしまうだろう」

だが人間というものは、そのドン底まで追い詰められると、反動的勇気に駈られるものであった。ある日私は自分へ云った。

「基督を求めるには及ばない。他力本願は卑怯者の手段だ。自分のことは自分でするがいい」

で私はすることにした。

そこで私は「左様なら」と云った。

直接彼女へ云ったのではなかった。泥沼の生活へ云ったのであった。

そうして「左様なら」を実行した。大した勇気もいらなかった。ほんの簡単に実行された。

何にも持たずに家出をし、お城近くの安下宿へ、私は下宿をしたのであった。

お城の堀と石垣と、松との見える小さな部屋へ、私は体を落ちつけた。

霧深い厳冬のことであった。

「彼女が驚こうが驚くまいが、私の知ったことではない。彼女が探そうが探すまいが。私の知ったことではない。とにかく私は彼女を捨た。私にとっては一飛躍だ」

不思議と私の心の中は、ある平和が返って来た。ひどく苦しんだ人間だけが、感ずる事の出来る平和であった。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょっと</span>すると創作が出来るかもしれない」

で私はペンを執って見た。楽にスラスラと書くことが出来た。思想と感情とが統一された。バラバラなものが纏まった。空想さえも湧いて来た。

「少しの努力をしさえしたら、昔の私になれるかもしれない。……書けさえすれば私はいいのだ」

生活の上の不安はあった。しかし原稿が売れさえしたら、下宿代ぐらいは払えそうであった。

「贅沢な生活には懲りている。だからそれへの欲望はない。これは大変有難いことだ一つ一つ欲望を抑えて行って、うんと単純の生活をしよう」

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">20</span>

性慾の方も抑えることが出来た。

私は長い間彼女のために「性のお預け」を食わされていた。いつの間にかそれが慣い性になった。それにもう一つ率直に云えば、私は異性に<ruby><rb>懲々</rb><rt>こりごり</rt></ruby>していた。

「彼女のことを忘れなければならない！」

これも困難ではなさそうであった。しかし努力と月日との、助けを借りなければならなかった。

まずまず平和と云ってよかった。

一人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼっち</span>の生活は、こうして静かに流れて行って、体も徐々に恢復した。神経も次第に強くなった。事件以前の私よりもかえって健康になれそうであった。

規則正しい生活をした。早く起きて早く寝た。慣れるとそれにさえ興味が持てた。貧弱な下宿の食膳をさえ、三度々々食べることにした。慣れるとそれにさえ美味を覚えた。

こっそり町を散歩した。精々<ruby><rb>珈琲店</rb><rt>カフェ</rt></ruby>へ寄るぐらいであった。酒も<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>も<ruby><rb>廃</rb><rt>や</rt></ruby>めてしまった。で、珈琲店では<ruby><rb>曹達</rb><rt>ソウダ</rt></ruby>水を飲んだ。

「文字通りの清教徒さ」

私は聖書を読むようになった。昔とは<ruby><rb>全然</rb><rt>まるで</rt></ruby>異って見えた。こんな言葉が身に滲みた。

「貧しき者は<ruby><rb>福</rb><rt>さいわい</rt></ruby>なり」「<ruby><rb>哀</rb><rt>かなし</rt></ruby>む者は福なり」「柔和なる者は福なり」「<ruby><rb>矜恤</rb><rt>あわれみ</rt></ruby>する者は福なり」「<ruby><rb>平和</rb><rt>やわらぎ</rt></ruby>を求むる者は福なり」

「不思議だなあ」と私は云った。

「事件以前の私だったら、卑屈な去勢的言葉として、一笑に付してしまっただろうに、今の私にはそうは取れない」

「不思議ではない」と私は云った。

「苦しみ悩んだ基督の思想は、苦しんだ者でなければ<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らない」

そうして尚も私は云った。

「これは平凡な解釈だ。だが平凡でもいいではないか」

私は一種の法悦を感じた。

「容易に私は動揺されまい」

こんなようにさえ思うようになった。

そうしてそれは本当であった。

ある朝私は自分の部屋で、紅茶を<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れて飲んでいた。

私の前に新聞があった。一つの記事が眼を引いた。

「佐伯準一郎放免さる。理由は証拠不充分」

私は動揺されなかった。しかし、

「さぞ彼女は驚いたろうなあ」と、彼女を<ruby><rb>愍</rb><rt>あわ</rt></ruby>れむ心持は動いた。

で私は呟いた。

「彼女よ。うまく切り抜けてくれ」

決して皮肉でも何でもなかった。私は心から願ったのであった。彼女を憎む感情などは、いつの間にか私からなくなっていた。それとは反対に愍れみの情が、私の心に芽生えていた。

<ruby><rb>翌日</rb><rt>あくるひ</rt></ruby>私は散歩した。二月上旬の曇った日で、町には人出が少なかった。公園の方へ歩いて行った。公園にも人はいなかった。花壇にも花は咲いていなかった。ただ冬薔薇が二三輪、寒そうに花弁を顫わせていた。

私はロハ台に腰を下ろした。佐伯氏と逢ったロハ台であった。音楽堂が正面にあり、<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>の柱が灰色に見えた。

と、誰か私の横へ、こっそり腰かける<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>がした。プンと葉巻の匂いがした。私はぼんやりと考えていた。

「少しお痩せになりましたね」

こう云う声が聞こえてきた。私はそっちへ顔を向けた。一人の紳士が微笑していた。毛皮の外套を纏っていた。それは佐伯準一郎氏であった。

「これはしばらく」と私は云った。

私は動揺されなかった。ただまじまじと相手を見た。佐伯氏は変わってはいなかった。脂肪質の赧ら顔は、昔ながらに<ruby><rb>健康</rb><rt>たっしゃ</rt></ruby>そうであった。永い未決の生活などを、経て来た人とは見えなかった。

「ただ今奥様とお逢いして来ました」

相変わらず慇懃の態度で云った。

「今はちょうどその帰りで」

「ああ左様でございますか」

「<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>この頃お留守だそうで」

「ええ」と私は微笑した。

急に佐伯氏は黙り込んだ。林の方を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と見た。そっちから人影が現われた。それは<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい外人であった。

不意に佐伯氏は立ち上った。それからひどく早口に云った。

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">21</span>

「私は大変急いで居ります。くだくだしい事は申しますまい。いずれ奥様がお話ししましょう。……さて例の銀三十枚、あれを頂戴に上ったのでした。しかし奥様にお目にかかり、私の考えは変わりました。……進呈することに致しました。いえ貴郎にではありません。貴郎の奥様へ差し上げたので。……奥様は大変お美しい。そうして大変大胆です。何と申したらよろしいか。とにかく私は退治られました。色々の婦人にも接しましたが、奥様のようなご婦人には、お目にかかったことはございません。……で、私は申し上げます。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちっとも</span>ご心配はいりませんとね。銀三十枚と私とは、今日限り縁が切れました。あれは貴郎方お二人の物です。もしもこれ迄あの金のために、ご苦労なされたと致しましても、今後はご無用に願います。……全く立派なご婦人ですなア。……今度こそ私は間違いなく、日本の国を立ち去ります。ご機嫌よろしゅう。ご機嫌よろしゅう」

ロハ台を離れて大股に、町の方へ歩いて行った。

と、二人の外人が、その後を追うように歩いて行った。

噴水の向こうに隠れてしまった。

私はロハ台から離れなかった。だが私は呟いた。

「ひとつ彼女を祝福しに行こう」

それでもロハ台から離れなかった。

「大金が彼女の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ入った。そのため私は行くのではない。……だが確かめて見たいものだ」

私は公園を横切った。町へ姿を現わした。それから電車道を突っ切った。

こうして彼女の家の前へ立った。門を入り玄関へかかった。

「案内を乞うにも及ぶまい」――で私は上って行った。

書斎の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>が開いていた。

大きく茫然と眼を見開き、――白昼に夢を見ているような、特殊な顔を窓の方へ向け、彼女が寝椅子に腰かけていた。

私は書斎へ入って行った。彼女の横へ腰を掛けた。しばらくの間黙っていた。

沈黙が部屋を占領した。

黙っていることは出来なかった。私は厳粛に彼女へ訊いた。

「話しておくれ。ねどうぞ。信じていいのかね、あの人の言葉を？　私はあの人に逢ったのだよ」

だが彼女は黙っていた。ただ弛そうに身を動かした。非常に<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>ているらしかった。

私は厳粛にもう一度訊いた。

「あの高価な<ruby><rb>白金</rb><rt>プラチナ</rt></ruby>は、お前の物になったんだね。それを信じていいのだね？」

すると彼女は頷いた。それから私の手を取った。彼女の両手は熱かった。そうして劇しく顫えていた。彼女の咽喉が音を立てた。どうやら固唾を飲んだらしい。

私はその手を静かに放し、書斎を抜けて玄関へ出た。

「やっぱりいけない。この家は」

私は門から外へ出た。

「彼女は一層悪くなった。……嬉しさに心を取り乱している。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そいつが</span>移ってはたまらない」

依然として下宿で暮らすことにした。

その翌日のことであった。

何気なく私は夕刊を見た。

「佐伯準一郎惨殺さる。自動車の中にて。……原因不明」

こういう記事が書いてあった。

「少し事件は悪化したな」

さすがに私は竦然とした。

「彼女の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>ではあるまいか？」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふと</span>私はこう思った。

「昨日の佐伯氏のあの言葉は、どうも私には疑わしい。あれだけ高価の白金を、ああ早速にくれるはずがない。一度はくれると云ったものの、考え直して惜しくなり、取り返しに行ったのではあるまいか？」

私は理詰めに考えて見た。

「銀三十枚を取り返すため、佐伯氏が彼女を訪問する。彼女はそれを返すまいとする。必然的に衝突が起こる。それが嵩ずれば兇行となる。彼女の性質なら遣りかねない」

翌日の新聞が心待たれた。

だが翌日の新聞には、下手人のことは書いてなかった。

「では彼女ではないのかしら？」

私は幾分ホッとした。

「彼女に平和があるように」

それでも私は気になった。二三日新聞を注意して読んだ。原因も下手人も不明らしかった。それについては書いてなかった。間もなく新聞から記事が消えた。

「これを流行語で云う時は、事件は迷宮に入りにけりさ。……だが大変結構だ」

これも決して皮肉ではなかった。もしも彼女が下手人なら、一緒に住んでいたこの私も、必然的に渦中に入れられ、現在の穏かな生活を、破壊されるに相違ない。それは私の望みでなかった。それにもう一つ何と云っても、彼女は私の妻であった。その女の身に不幸のあるのは、私としては苦しかった。

事件は迷宮に入った方がよかった。

穏かな日が流れて行った。

だが十日とは続かなかった。次のような広告が新聞へ出た。

「銀三十枚の持主へ告げる。△△新聞社迄郵送せよ。報酬として一万円を与う」

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">22</span>

「これはおかしい」と私は云った。

「銀三十枚の持主といえば、彼女以外にはありそうもない。そいつを請求出来る者は、佐伯準一郎氏の他にはない。だが佐伯氏は殺されている。誰が請求しているのだろう？」

新聞の来るのが待たれるようになった。数日経った新聞に、同じような広告が掲げられてあった。

「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。報酬として二万円を与う」

「報酬金が倍になった」

私の興味は加わった。

数日経った新聞に、同じような広告が載っていた。

「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として三万円を与う」

「十二使徒だけを送れという。深い意味があるらしい。だが私には<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らない」

数日経った新聞に、同じような記事が載せてあった。

「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として五万円を与う」

「報酬金が五万円になった」

私の興味は膨張した。

と、また新聞へ広告が出た。

「銀三十枚の持主に告げる。貴女の住居を突き止めた。貴女は東区に住んで居る。十二使徒だけを郵送せよ。もはや報酬は与えない」

「これは<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ない」と私は云った。

「この言葉には脅迫がある。さあ彼女はどうするだろう？」

と、また新聞へ広告が出た。

「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。詐欺師の運命となるなかれ」

「これは恐ろしい脅迫だ！」

私は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と考え込んだ。

「だが真相はこれで解った。広告主が持主なのだ。貨幣の<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>の持主なのだ。それを盗んだのが佐伯氏だ。それで佐伯氏の放免を待ち受け、殺して貨幣を取ろうとしたのだ。殺すことには成功したが、取り返すことには失敗した。それは当然と云わなければならない。持っている人間が佐伯氏でなくて、全然別の彼女だったからな。そこでその人は賞を懸けて、貨幣すなわち銀三十枚を、取り返そうと試みたのだ。そうして一方手を尽くして、貨幣の持主を探したのだ。そうして彼女を目つけ出したのだ。……<ruby><rb>浮雲</rb><rt>あぶな</rt></ruby>い浮雲い彼女は浮雲い！」

私の心は動揺した。

「国際的詐欺師の佐伯氏でさえ、容易に殺した人間だ。彼女を殺すぐらい何でもなかろう」

ポッと私の眼の前に、彼女の死骸が浮かんで来た。

「これは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっちゃっては</span>置かれない」

私は急いで下宿を出た。<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>に乗って駈け付けた。公園を横切り町へ出た。

彼女の家へ駈け込んだ。

彼女は書斎に腰かけていた。彼女の顔は蒼白であった。銀三十枚が<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上にあった。

私はツカツカと入って行った。

フッと彼女は眼を上げた。ゾッとするような眼付きであった。

「もう<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ない」と私は云った。

「返しておしまい！　返しておしまい！」

「売りましょう！　売りましょう！　<ruby><rb>白金</rb><rt>プラチナ</rt></ruby>を！」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>叩くように彼女は云った。

「持っていなければいいのだわ」

彼女はフラフラと書斎を出た。電話を掛ける声がした。

貴金属商へでも掛けるのだろう。

彼女は書斎へ帰って来た。私と向かって腰を掛けた。だが一言も云わなかった。時々ギリギリと歯軋りをした。

貴金属商の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来たのは、それから一時間の後であった。

一枚の貨幣を投げ出した。ソロモンのマークの貨幣であった。

商人は貨幣を一見した。

「これは贋金でございますよ」

「莫迦をお云い！」と彼女は呶鳴った。

「以前一枚売ったんですよ。二つと世界にない質のいい白金！　こう云って大金で買ってくれたのに！」

「本物だったのでございましょう。貴女のお売りになった白金は。これは白金ではございません」

商人の言葉は冷淡であった。

「いいのよいいのよそうかもしれない。たくさんあるのよ。白金はね。一枚ぐらいは贋金かもしれない。これはどう？　この貨幣は？」

彼女はもう一枚投げ出した。ダビデのマークの貨幣であった。

「これも贋金でございます」

商人の答えは冷淡であった。

私と彼女とは眼を見合わせた。

「ふん、そうかい。贋金かい、白金はたくさんあるんだよ。二枚ぐらいは贋もあろうさ」

彼女は努めて冷静に云った。

「これはどうだろう！　この貨幣は？」

また一枚を投げ出した。使徒ポーロのマークの付いた、ぴかぴか光る貨幣であった。

「これは贋金じゃアあるまいね？」

商人は手にさえ取らなかった。

「やはり贋金でございますよ」

「いいわ」と彼女は呻くように云った。

革財布を逆さにした。全部の白金を吐き出した。

「幾枚あるの？　本物は？」

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">23</span>

商人は一渡り眼を通した。上唇を綻ばせた。

「みんな贋金でございますよ」

「お帰り！」と彼女は呶鳴り付けた。

商人は冷笑して帰って行った。

「いえあいつは廻し者よ！　例の悪党の広告主、ええ、そいつの廻し者よ！　贋金だ贋金だと嘘を吐き、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かっさらって</span>行こうとしたんだわ！　そんな古手に乗るものか！　電話ではいけない、行って来ましょう。行って店員を引っ張って来ましょう。信用のある金属商の、鑑定に達した店員をね」

彼女は書斎を飛び出した。電話をかける声がした。タクシを呼んでいるらしい。

間もなくタクシがやって来た。

彼女は乗って出て行った。

私は黙然と腰掛けていた。

「彼女は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょっと</span>すると<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>になるぞ」

私はしばらく待っていた。

「この家には用はないはずだ。一応の忠告！　それだけでいいのだ。聞くか聞かないかは彼女にある。……贋金であろうと本物であろうと、私には大して関係はない」

で、私は下宿へ帰った。

数日経った新聞に、次のような広告が掲げてあった。

「銀二十九枚の送主に告げる。貴女は非常に聡明であった。イスカリオテのユダを残し、後を郵送してよこしたことは、我等をして首肯せしめ微笑せしめた。安心せよ。危害を加えず」

「ついに彼女は郵送したと見える。イスカリオテのユダの付いた、一枚の貨幣を送らなかったのは、以前売ったからに相違ない」

とにかく私はホッとした。

「だが彼女は貧乏になった。もうあの家には住めないかもしれない」

ある日私は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こっそり</span>と、彼女の家の方へ行って見た。家には貸家札が張ってあった。

「予想通りだ」と私は云った。

「流浪の旅へでも出たのだろう」

私は安心と寂しさを感じた。彼女とは永遠に逢えないだろう。こう思われたからであった。

間もなく春が訪れて来た。

やがて晩春初夏となった。

彼女に目つかる心配はなかった。自由に散歩をすることが出来た。事の過ぎ去った後において、その事のあった遺跡を尋ね、思い出に耽るということは、作家には好もしいことであった。で私は公園へ行き、首を釣りかけた木へ触れたり、佐伯氏と逢ったロハ台に、腰を掛けて考えたりした。

<ruby><rb>菖蒲</rb><rt>あやめ</rt></ruby>の花の咲く季節、苺が八百屋へ出る季節、この季節を私は愛する。

だんだん私は健康になった。

ある日久しぶりでＫ博士を訊ねた。

博士は有名な法医学者で、そうして探偵小説家であった。

その日も書斎で物を書いていた。

私はそこで話し込んだ。

と、博士が不意に云った。

「<ruby><rb>汎猶太</rb><rt>はんユダヤ</rt></ruby>主義の秘密結社、フリーメーソンリイの会員達が、大分日本へ入り込みましたね」

「ああ左様でございますか」

「<ruby><rb>倫敦</rb><rt>ロンドン</rt></ruby>タイムスで見たのですが、彼等の大切な秘密文書を、ある日本人に盗まれたので、それを取り返しに来たのだそうです」

私はちょっと興味を持った。

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">24</span>

「それが大変探偵的なのです」

博士はいくらか小声になった。

「少し詳しく話しましょう。実は私は趣味として、フリーメーソンリイの内情を、調べたことがありましたのでね。今お話しした秘密文書ですが、紙に書かれてはいないのだそうです。三十枚の<ruby><rb>白金</rb><rt>プラチナ</rt></ruby>貨幣、その紋章のどの辺りかに、巧妙な図案式文字をもって彫み込んであるのだということです。ところで貨幣の紋章ですが、旧約聖書と新約聖書、その中に出て来る人物を、三十人だけ選択し、打ち出してあるということです。<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>はじめ十二使徒などは、勿論入っているのですね。その中<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とりわけ</span>大事なのは、ユダを抜かした十一人の使徒を、打ち出した所の貨幣だそうです。だが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まあ</span>これはいいとして、面白いのはその貨幣が、一枚を抜かして二十九枚は、白金ではなくて贋金なのだそうです。つまり勿体を付けるために、白金のようには作ってあるものの、中味は鉛か何かなのですね。ところが盗んだ日本人ですが、そんなこととは夢にも知らず、本物の素晴らしい白金だと、こう思って盗んで来たらしいのです」

「ははあ」と私は微笑して云った。

「本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか」

「おや、どうしてご存知です」

博士は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さもさも</span>驚いたように、

「仰せの通りそうなのですよ」

「だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう？」

「つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の<ruby><rb>守護</rb><rt>まもり</rt></ruby>本尊は、イスカリオテのユダなんですね。本尊を贋金で作っては、どうもちょっと勿体ない、こういう意味からそれだけを、非常に高価な白金で、作ったのだということです。だが真偽は知りませんよ、伝説的の話ですから」

私はそこで考えた。私の経験した物語を、博士の耳に入れようかしらと。……だが私は止めることにした。自慢の出来る物語ではなし、又その物語を語ることによって、消え去った不幸な私の妻を、辱しめる事を欲しなかったから。

それからしばらく世間話をして、私は博士の邸を辞した。

私には一つの疑問があった。

「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら？　それとも偶然その貨幣を……」

「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。

「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと<ruby><rb>関係</rb><rt>かかわり</rt></ruby>はない」

下宿生活が不便になった。

「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」

私は借家を探し出した。

児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。

「おや」と私は思わず云った。

表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。

「おかしいなあ、どうしたんだろう？」

格子の内側に障子があり、障子には<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。

「おや」と私はまた云った。

見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちんまり</span>とかしこまり、縫物をしているではないか。人の<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。

「粂子！」と私は声を上げた。

と、女はスッと立った。私は無意識に表戸を開けた。

彼女は土間に立っていた。

私は胸に重さを感じた。彼女の顔がそこにあった。私は両肩を締め付けられた。彼女の腕が締め付けたのであった。

彼女の口から啜り泣きが洩れた。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は信じて居りましたのよ。きっときっといらっしゃるとね。ええ帰っていらっしゃるとね。……待っていたのでございますわ。……信じて下さいよ。ねえ妾を！　妾は純潔でございますの」

彼女は眼を上げて私を見た。で、私も彼女を見た。

「その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信じてよい」

そういう眼を彼女は持っていた。昔ながらに、依然として。

彼女の態度が一変し、バンプ型の女になったのには、大した意味はなかったのであった。そういう振舞いをすることによって、彼女は精神を大胆にし、そうして容貌を妖艶にし、そうして動作を高尚にし、それを武器として大詐欺師に<ruby><rb>対向</rb><rt>あた</rt></ruby>り、大詐欺師をして屈伏せしめ、<ruby><rb>白金</rb><rt>プラチナ</rt></ruby>三十枚を詐欺師の手から、巻き上げようとしたのであった。

そうとも知らずに煩悶した私は、要するに馬鹿者に過ぎなかったのであった。

で、結果はどうだったかというに、彼女の勝利に帰したのであった。

これは当然と云わなければならない。敵を瞞ますには味方を計れ、こういう考えからしたことではあろうが、ともかくも<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の私をして、一度は死をさえ覚悟させたほど、深刻な放縦な行動をとって、心身を鍛えた彼女であった、たかが詐欺師なんかに負けるはずはなかった。

佐伯準一郎氏は恭しく、銀三十枚を彼女に献じた。

そうしてその帰路不幸にも、フリーメーソンリイの会員に、暗殺されてしまったのであった。――佐伯氏を追って行った二人の外人、あれが下手人に相違あるまい。

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">25</span>

私達は一緒に住むことになった。

最初のうちは変なものであった。何となくチグハグの心持であった。だがそのうちに慣れて来た。

次第に二人は幸福になった。

彼女は昔の彼女になった。相変わらず私を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやし</span>たりした。剽軽なことを云ったりした。

「今日は風が吹きますのよ。冬のように寒い風がね。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まきまき</span>するのよ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まきまき</span>をね」

襟巻を巻けというのであった。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たあた</span>を穿くのよ。ね、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たあた</span>を」

足袋を穿けというのであった。

ある時私はこう云って訊いた。

「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」

「え、したのよ。県知事さんと」

大変サッパリした返辞であった。――それだから私には安心であった。

「お前は知っていて売ったのかい？　ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の<ruby><rb>白金</rb><rt>プラチナ</rt></ruby>だと」

「いいえ」と彼女は笑いながら云った。

「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」

「なるほど」と私は胸に落ちた。

「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」

私達二人は平和であった。

しかし私は時々思った。

「キッスぐらいは許したかもしれない」

だが直ぐ私は思い返した。

「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」

穏かに時が流れて行った。

ここに一つ残念なことには――だが良人たる私にとっては、かえって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどく</span>安心な事には、――彼女の容色がにわかに落ちた。

それは苦労をしたからであった。

いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷を担いだため、俄然<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>を落としてしまった。

精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、<ruby><rb>不為</rb><rt>ふため</rt></ruby>のように思われる。

私も随分苦労をした。

年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。

彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。<ruby><rb>身長</rb><rt>せい</rt></ruby>も高くはなくなった。

だがそれも結構ではないか。

美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。

だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。

だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。

真夏が来、真夏が去った。

二人の生活には変わりがなかった。

何でもないことだが云い落とした。

佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう？

やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。