袖の中には？

舞台には季節にふさわしい、夜桜の景がかざられてあった。

奥に深々と見えているのは、祗園辺りの<ruby><rb>社殿</rb><rt>やしろ</rt></ruby>であろう、朱の鳥居や春日燈籠などが、書割の花の間に見え隠れしていた。

上から下げられてある桜の釣花の、紙細工の花弁が枝からもげて、時々舞台へ散ってくるのも、なかなか風情のある<ruby><rb>眺望</rb><rt>ながめ</rt></ruby>であった。

濃化粧の顔、高島田、金糸銀糸で<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬいとり</rt></ruby>をした<ruby><rb>肩衣</rb><rt>かたぎぬ</rt></ruby>、そうして<ruby><rb>熨斗目</rb><rt>のしめ</rt></ruby>の紫の振袖――そういう姿の女太夫の、曲独楽使いの<ruby><rb>浪速</rb><rt>なにわ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が、いまその舞台に佇みながら、口上を述べているのであった。

「独楽のはじまりは唐の<ruby><rb>海螺弄</rb><rt>はいまわし</rt></ruby>、すなわち海の<ruby><rb>螺貝</rb><rt>らがい</rt></ruby>を採り、廻しましたのがそのはじまり、本朝に渡来いたしまして、大宮人のお気に召し、木作りとなって喜遊道具、十八種の中に数えられましたが、民間にはいってはいよいよますます、製法使法発達いたし、浪速の<ruby><rb>建部四国</rb><rt>たてべしこく</rt></ruby>太夫が、わけても製法使法の達人、無双の名人にござりました。これより<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の使いまする独楽は、その四国太夫の製法にかかわる、<ruby><rb>直径</rb><rt>さしわたし</rt></ruby>一尺の<ruby><rb>孕</rb><rt>はらみ</rt></ruby>独楽、用うる紐は一丈と八尺、麻に絹に女の髪を、<ruby><rb>綯</rb><rt>な</rt></ruby>い交ぜにしたものにござります。……サッと投げてスッと引く、紐さばきを先ずご<ruby><rb>覧</rb><rt>ろう</rt></ruby>じませ。……紐を放れた孕独楽が、さながら生ける魂あって、自在に動く神妙の働き、お眼とめてご覧じ下さりませ！　……東西々々」

こういう声に連れて、楽屋の方からも東西々々という声が、さも景気よく聞こえてきた。

すると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は赤毛氈を掛けた、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたえ</rt></ruby>の台から大独楽を取上げ、それへ克明に紐を捲いたが、がぜん左肩を上へ上げ、独楽を持った右手を頭上にかざすと、独楽を宙へ投げ上げた。

次の瞬間に見えたものは、翩翻と返って来た長紐と、鳥居の一所に静止して、キリキリ廻っている独楽とであった。

そうしてその次に起こったことは、土間に桟敷に充ち充ちていた、老若男女の見物が、拍手喝采したことであった。

しかし<ruby><rb>壮観</rb><rt>みもの</rt></ruby>はそればかりではなく、すぐに続いて見事な業が、見物の眼を<ruby><rb>眩惑</rb><rt>くら</rt></ruby>ました。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が黒地に金泥をもって、日輪を描き出した扇を開き、それをもって大独楽を受けたとたんに、その大独楽が左右に割れ、その中から<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かの小独楽を産み出し、産み出された小独楽が石燈籠や鳥居や、社殿の<ruby><rb>家根</rb><rt>やね</rt></ruby>などへ飛んで行き、そこで廻り出したことであった。

また見物たちは喝采した。

と、この時舞台に近い桟敷で、人々に交って見物していた二十五六歳の武士があったが、

「<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>も<ruby><rb>佳</rb><rt>よ</rt></ruby>いが<ruby><rb>芸</rb><rt>げい</rt></ruby>も<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>いわい」と口の中で呟いた。

<ruby><rb>田安中納言家</rb><rt>たやすちゅうなごんけ</rt></ruby>の近習役の、<ruby><rb>山岸主税</rb><rt>やまぎしちから</rt></ruby>という武士であった。

色白の細面、秀でた眉、高い鼻、いつも微笑しているような口、細味ではあるが睫毛が濃く、光こそ鋭く強かったが、でも涼しい朗かな眼――主税は稀に見る美青年であった。

その主税の秀麗な姿が、曲独楽定席のこの小屋を出たのは、それから間もなくのことであり、小屋の前に延びている盛場の、西両国の広小路を、両国橋の方へ歩いて行くのが、群集の間に雑って見えた。

もう夕暮ではあったけれど、ここは何という雑踏なのであろう。

武士、町人、鳶ノ者、<ruby><rb>折助</rb><rt>おりすけ</rt></ruby>、<ruby><rb>婢女</rb><rt>げじょ</rt></ruby>、<ruby><rb>田舎者</rb><rt>おのぼりさん</rt></ruby>、職人から医者、<ruby><rb>野幇間</rb><rt>のだいこ</rt></ruby>、<ruby><rb>芸者</rb><rt>はおり</rt></ruby>、茶屋女、女房子供――あらゆる<ruby><rb>社会</rb><rt>うきよ</rt></ruby>の人々が、忙しそうに又<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>そうに、往くさ来るさしているではないか。

無理もない！　歓楽境なのだから。

だから往来の片側には、屋台店が並んでおり、見世物小屋が立っており、<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>や旗がはためいており、また反対の片側には、隅田川に添って土地名物の「梅本」だの「うれし野」だのというような、水茶屋が軒を並べていた。

主税は橋の方へ足を進めた。

橋の上まで来た時である、

「おや」と彼は呟いて、左の袖へ手を入れた。

「あ」と思わず声をあげた。

袖の中には小独楽が入っていたからである。

（一体これはどうしたというのだ）

独楽を<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>の上へ載せ、体を欄干へもたせかけ、主税はぼんやり考え込んだ。

が、ふと彼に考えられたことは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が舞台から彼の袖の中へ、この独楽を投げ込んだということであった。

（あれほどの芸の持主なのだから、それくらいのことは出来るだろうが、それにしても何故に特に自分へこのようなことをしたのだろう？）

これが不思議でならなかった。

怪しの浪人

ふと心棒を指で摘み、何気なく一捻り捻ってみた。

「あ」と又も彼は言った。

独楽は掌の上で廻っている。

その独楽の心棒を中心にして、独楽の面に<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かの文字が白く朦朧と現われたからである。

「淀」という字がハッキリと見えた。

と、独楽は廻り切って倒れた。

同時に文字も消えてしまった。

「変だ」と<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>は呟きながら、改めて独楽を取り上げて、眼に近付けて子細に見た。

何の木で作られてある独楽なのか、作られてから幾年を経ているものか、それが上作なのか凡作なのか、何型に属する独楽なのか、そういう方面に関しては、彼は全く無知であった。が、そういう無知の彼にも、何となくこの独楽が凡作でなく、そうして制作されて以来、かなりの年月を経ていることが感じられてならなかった。

この独楽は直径二寸ほどのもので、全身黒く塗られていて、面に無数の筋が入っていた。

しかし、文字などは一字も書いてなかった。

「変だ」と同じことを呟きながら、なおも主税は独楽を見詰めていたが、また心棒を指で摘み、力を<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めて強く捻った。

独楽は烈しく廻り出し、その面へ又文字を現わした。しかし不思議にも今度の文字は、さっきの文字とは違うようであった。

「淀」という文字などは見えなかった。

その代わりかなりハッキリと「<ruby><rb>荏原</rb><rt>えばら</rt></ruby>屋敷」という文字が現われて見えた。

「面の筋に細工があって、廻り方の強さ弱さによって、いろいろの文字を現わすらしい」

（そうするとこの独楽には秘密があるぞ）

主税はにわかに興味を感じて来た。

すると、その時背後から、

「お武家、珍しいものをお持ちだの」と錆のある声で言うものがあった。

驚いて主税は振り返って見た。

三十五六の浪人らしい武士が、微笑を含んで立っていた。

髪を総髪の<ruby><rb>大束</rb><rt>おおたぶさ</rt></ruby>に結び、素足に草履を穿いている。夕陽の色に照らされていながら、なお蒼白く感じられるほど、その顔色は白かった。左の眼に星の入っているのが、いよいよこの浪人を気味悪いものにしていた。

「珍らしいもの？　……何でござるな？」

主税は独楽を掌に握り、何気なさそうに訊き返した。

「貴殿、手中に握っておられるもので」

「ははあこれで、独楽でござるか。アッハッハッ、子供騙しのようなもので」

「子供騙しと仰せられるなら、その品拙者に下さるまいか」

「…………」

「子供騙しではござるまい」

「…………」

「その品どちらで手に入れられましたかな？」

「ほんの偶然に……たった今しがた」

「ほほう偶然に……それも今しがた……それはそれはご運のよいことで……それに引き換え運の悪い者は、その品を手中に入れようとして、長の年月を旅から旅へ流浪いたしておりまするよ」

「…………」

「貴殿その品の何物であるかを、ではご存知ではござるまいな？」

「左様、とんと、がしかし、……」

「が、しかし、何でござるな？」

「不思議な独楽とは存じ申した」

「その通りで、不思議な独楽でござる」

「廻るにつれて、さまざまの文字が……」

「さようさよう現われまする。独楽の面へ現われまする。で、貴殿、それらの文字を、どの程度にまで読まれましたかな？」

「淀という文字を目つけてござる」

「淀？　ははア、それだけでござるか？」

「いやその他に荏原屋敷という文字も」

「ナニ荏原屋敷？　荏原屋敷？　……ふうん左様か、荏原屋敷――いや、これは<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけ</rt></ruby>のうござった」

云い云い浪人は懐中へ手を入れ、古びた帳面を取り出したが、さらに腰の方へ手を廻し、そこから矢立を引き抜いて、何やら帳面へ書き入れた。

睨み合い

「さてお武家」と浪人は言った。

「その独楽を拙者にお譲り下されい」

「なりませぬな、お断りする」

はじめて主税はハッキリと言った。

「貴殿のお話<ruby><rb>承</rb><rt>うけたま</rt></ruby>わらぬ<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>なら、お譲りしたかは知れませぬが、承わった現在においては、お譲りすることなりませぬ」

「ははあさては拙者の話によって……」

「さよう、興味を覚えてござる」

「興味ばかりではござるまい」

「さよう、価値をも知ってござる」

「独楽についての価値と興味とをな」

「さようさよう、その通りで」

「そうすると拙者の言動は、藪蛇になったというわけでござるかな」

「お気の毒さまながらその通りで」

「そこで貴殿にお<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねしますが、この拙者という人間こそ、その独楽を手中に入れようとして、永年尋ねておりました者と、ご推量されたでござりましょうな」

「さよう、推量いたしてござる」

「よいご推量、その通りでござる。……そこであからさまにお話しいたすが、その独楽を手中に入れようとする者、拙者一人だけではないのでござるよ。……拙者には幾人か同志がござってな、それらの者が永の年月、その独楽を手中に入れようとして、あらゆる苦労をいたしておるのでござる」

「さようでござるか、それはそれは」

「以前は大阪にありましたもので、それがほんの最近になって、江戸へ入ったとある方面よりの情報。そこで我ら同志と共々、今回江戸へ参りましたので」

「さようでござるか、それはそれは」

「八方探しましたが目つかりませなんだ」

「…………」

「しかるにその独楽の価値も知らず、秘密も知らぬご貴殿が、大した苦労もなされずに、楽々と手中へ入れられたという」

「好運とでも申しましょうよ」

「さあ、好運が好運のままで、いつまでも続けばよろしいが」

「…………」

「貴殿」と浪人は<ruby><rb>威嚇</rb><rt>おどか</rt></ruby>すように言った。

「拙者か、拙者の同志かが、必ずその独楽を貴殿の手より……」

「無礼な！　奪うと仰せられるか！」

「奪いますとも、命を<ruby><rb>殺</rb><rt>あや</rt></ruby>めても！」

「ナニ、命を殺めても？」

「貴殿の命を殺めても」

「<ruby><rb>威嚇</rb><rt>おどかし</rt></ruby>かな。怖いのう」

「アッハッハッ、そうでもござるまい。怖いのうと仰せられながら、一向怖くはなさそうなご様子。いや貴殿も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しっかりもの</span>らしい。……ご藩士かな？　ご直参かな？　拙者などとは事変わり、ご浪人などではなさそうじゃ。……衣装持物もお立派であるし。……いや、そのうち、我らにおいて、貴殿のご身分もご姓名も、探り知るでござりましょうよ。……ところでお尋ねしたい一儀がござる。……曲独楽使いの女太夫、<ruby><rb>浪速</rb><rt>なにわ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>と申す女と、貴殿ご懇意ではござりませぬかな？」

言われて<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>はにやりとしたが、

「存じませぬな、とんと存ぜぬ」

「ついそこの曲独楽の定席へ、最近に現われた太夫なので」

「さような女、存じませぬな」

「嘘言わっしゃい！」と忍び音ではあったが、鋭い声で浪人は言った。

「貴殿、その独楽を、浪速<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>より、奪い取ったに相違ない！」

「黙れ！」と主税は怒って呶鳴った。

「奪ったとは何だ、無礼千万！　拙者は武士だ、女芸人風情より……」

「奪ったでなければ貰ったか！」

「こやつ、いよいよ……<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>、一刀に！」

「切ろうとて切られぬわい。アッハッハッ、切られぬわい。……が、騒ぐはお互いに愚、愚というよりはお互いに損、そこで穏やかにまた話じゃ。……否」というとその浪人は、しばらくじっと考えたが、

「口を酸くして説いたところで、しょせん貴殿には拙者の手などへ、みすみすその独楽お渡し下さるまいよ、……そこで、今日はこれでお別れいたす。……だが、貴殿に申し上げておくが、その独楽貴殿のお手にあるということを、拙者この眼で見た以上、拙者か拙者の同志かが、早晩必ず貴殿のお手より、その独楽を当方へ奪い取るでござろう。――ということを申し上げておく」

言いすてると浪人は主税へ背を向け、夕陽が消えて宵が迫っているのに、なおも人通りの多い<ruby><rb>往来</rb><rt>とおり</rt></ruby>を、本所の方へ歩いて行った。

闇に降る刃

その浪人の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>姿を、主税はしばらく見送ったが、

（変な男だ）と口の中で呟き、やがて自分も人波を分け、浅草の方へ歩き出した。

歩きながら袖の中の独楽を、主税はしっかりと握りしめ、

――あの浪人をはじめとして、同志だという多数の人々が、永年この独楽を探していたという。ではこの独楽には<ruby><rb>尋常</rb><rt>ひととおり</rt></ruby>ならない、価値と秘密があるのだろう。よし、では、急いで家へ帰って、根気よく独楽を廻すことによって、独楽の面へ現われる文字を集め、その秘密を解き価値を<ruby><rb>発見</rb><rt>みつ</rt></ruby>けてやろう。――興味をもってこう思った。

（駕籠にでも乗って行こうかしら？）

（いや）と彼は思い返した。

（暗い所へでも差しかかった時、あの浪人か浪人の同志にでも、突然抜身を刺し込まれたら、駕籠では防ぎようがないからな。……<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の浪人の剣幕では、それくらいのことはやりかねない）

用心しいしい歩くことに決めた。

平川町を通り堀田町を通った。

右手に定火消の長屋があり、左手に岡部だの小泉だの、三上だのという旗本屋敷のある、御用地近くまで歩いて来た時には、夜も多少更けていた。

御用地を抜ければ田安御門で、それを通れば自分の屋敷へ行けた。それで、主税は安堵の思いをしながら、御用地の方へ足を向けた。

しかし、小泉の土塀を巡って、左の方へ曲がろうとした時、

「居たぞ！」「捕らえろ！」「斬ってしまえ！」と言う、荒々しい男の声が聞こえ、瞬間数人の武士が殺到して来た。

（出たな！）と主税は刹那に感じ、真先に切り込んで来た武士を<ruby><rb>反</rb><rt>かわ</rt></ruby>し、横から切り込んで来た武士の<ruby><rb>鳩尾</rb><rt>みぞおち</rt></ruby>へ、拳で一つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あてみ</span>をくれ、この勢いに驚いて、三人の武士が後へ退いた隙に、はじめて刀を引っこ抜き、正眼に構えて身を固めた。

すると、その時一人の武士が、主税を透かして見るようにしたが、

「や、貴殿は山岸氏ではないか」と驚いたように声をかけた。

主税も驚いて透かして見たが、

「何だ貴公、<ruby><rb>鷲見</rb><rt>すみ</rt></ruby>ではないか」

「さようさよう鷲見<ruby><rb>与四郎</rb><rt>よしろう</rt></ruby>じゃ」

それは同じ田安家の家臣で、主税とは友人の関係にある、近習役の鷲見与四郎であった。

見ればその他の武士たちも、ことごとく同家中の同僚であった。

主税は唖然として眉をひそめたが、

「呆れた話じゃ、どうしたというのだ」

「申し訳ない、人違いなのじゃ」

言い言い与四郎は小鬢を掻いた。

「承知の通りのお館の盗難、そこで拙者ら相談いたし、盗人をひっ捕らえようといたしてな、今夜もお館を中心にして、四方を見廻っていたところ、猿廻しめに邂逅いたした」

「猿廻し？　猿廻しとは？」

「長屋の女小供の噂によれば、この頃若い猿廻しめが、しげしげお長屋へやって来て、猿を廻して銭を乞うそうじゃ」

「そこで、怪しいと認めたのじゃな」

「いかにも、怪しいと認めたのじゃ。……その怪しい猿廻しめに、ついそこで逢ったので、ひっ捕らえようとしたところ、逃げ出しおって行方不明よ」

「なに逃げ出した？　それなら怪しい」

「……そこへ貴殿が土塀を巡って、突然姿をあらわしたので……」

「猿まわしと見誤ったというのか？」

「その通りじゃ、いやはやどうも」

「拙者猿は持っていない」

「御意で、いやはや、アッハッハッ」

「そそっかしいにも程があるな」

「程があるとも、一言もない、怪我なかったが幸いじゃ」

「すんでに貴公を斬るところだった。これから貴公たちどうするつもりじゃ」

「業腹じゃ。このままではのう。……そこでこの辺りをもう一度探して……」

「人違いをして叩っ切られるか」

「まさか、そうそうは、アッハッハッ。……貴殿も一緒に探さぬかな」

「厭なことじゃ。ご免蒙ろう。……今日拙者は非番なのでな、そこで両国へ行ったところ、あそこへ行くと妙なもので、<ruby><rb>田舎者</rb><rt>おのぼりさん</rt></ruby>のような気持になる。それで拙者もその気になって、曲独楽の定席へ飛び込んだものよ。すると、そこに綺麗な女太夫がいて……」

「ははあ、その美形を呼び出して、船宿でか？　……こいつがこいつが！」

「何の馬鹿らしいそのようなこと。……もう女には飽きている身じゃ。……ただその美しい女太夫から、珍らしい物を貰うたので、これから<ruby><rb>緩々</rb><rt>ゆるゆる</rt></ruby>屋敷へ帰って、その物を味わおうとこういうのじゃ。……ご免」と主税は歩き出した。

猿廻し

歩きながら考えた。

何故この頃お館には、金子などには眼をくれず、器物ばかりを狙って盗む、ああいう盗難があるのだろう？　それも一度ならずも二度三度、頻々としてあるのだろう？

（ある何物かを手に入れようとして、それに関係のありそうな器物を、狙いうちにして盗んでいるようだ。……そのある物とは何だろう？）

これまで盗まれた器物について、彼は記憶を辿ってみた。

蒔絵の文庫、青銅の香爐、<ruby><rb>明兆</rb><rt>みんちょう</rt></ruby>の仏書、利休の茶柄杓、世阿弥筆の謠の本……等々高価の物ばかりであった。

（盗難も盗難だがこのために、お館の中が不安になり、お互い同士疑い合うようになり、憂鬱の気の漂うことが、どうにもこうにもやりきれない）

こう主税は思うのであった。

（お互い同士疑い合うのも、理の当然ということが出来る。お館の中に内通者があって、外の盗賊と連絡取ればこそ、ああいう盗みが出来るのだからなア。……そこで内通者は誰だろうかと、お互い同士疑い合うのさ）

主税はこんなことを考えながら、御用地の辺りまで歩いて来た。

御用地なので空地ではあるが、木も雑草も繁っており、石材なども置いてあり、祠なども立っており、水溜や池などもある。そういう林であり藪地なのであった。

と、その林の奥の方から、キ――ッという猿の啼声が、物悲しそうに聞こえてきた。

（おや）と主税は足を止めた。

（いかに藪地であろうとも、猿など住んでいるはずはない。……では話の猿廻しが？）

そこで主税は堰を飛び越え、御用地の奥の方へ分け入った。草の露が足をぬらし、木の枝が顔を払ったりした。

また猿の啼声が聞こえてきた。

で、主税は突き進んだ。

すると、果たして一人の猿廻しが、猿を膝の上へ抱き上げて、祠の裾の辺りへうずくまり、編笠をかむった顔を俯向けて、木洩れの月光に肩の辺りを明るめ、寂しそうにしているのが見えた。

「猿廻し！」と声をかけ、突然主税はその前へ立った。

「用がある、拙者と一緒に参れ！」

「あッ」と猿廻しは飛び上ったが、木の間をくぐって逃げようとした。

「待て！」

主税は足を飛ばせ、素早くその前へ走って行き、左右に両手を開いて叫んだ。

「逃げようとて逃がしはせぬ、無理に逃げればぶった斬るぞ！」

「…………」

しかし無言で猿廻しは、両手で猿を頭上に捧げたが、バッとばかりに投げつけた。

キ――ッと猿は宙で啼き、主税の顔へ飛びついて来た。

「馬鹿者！」

怒号して拳を固め、猿を地上へ叩き落とし、主税は猛然と躍りかかった。

だが、何と猿廻しの素早いことか、こんもり盛り上っている<ruby><rb>山査子</rb><rt>さんざし</rt></ruby>の<ruby><rb>叢</rb><rt>むら</rt></ruby>の、丘のように高い裾を巡って、もう<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>へ走っていた。

すぐに姿が見えなくなった。

（きゃつこそ猿だ！　なんという<ruby><rb>敏捷</rb><rt>すばしっこ</rt></ruby>さ！）

主税は一面感心もし、また一面怒りを感じ、憮然として佇んだが、気がついて地上へ眼をやった。

叩き落とした猿のことが、ちょっと気がかりになったからである。

木洩れの月光が銀箔のような<ruby><rb>斑</rb><rt>ふ</rt></ruby>を、枯草ばかりで青草のない、まだ春なかばの地面のあちこちに、露を光らせて敷いていて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼっ</span>と地面は明るかったが、猿の姿は見えなかった。

（たしかこの辺りへ叩き落としたはずだが）

主税は地面へ顔を持って行った。

「あ」

声に出して思わず言った。

小独楽が<ruby><rb>一個</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>落ちているではないか。

主税は袖を探ってみた。

袖の中にも小独楽はあった。

（では別の独楽なのだな）

地上の独楽を拾い上げ、主税は眼に近く持って来た。その独楽は大きさから形から、袖の中の独楽と同じであった。

「では」と呟いて左の掌の上で、主税は独楽を捻って廻し、月光の中へ掌を差し出し、廻る独楽の面をじっと見詰めた。

しかし、独楽の面には、なんらの文字も現われなかった。

（この独楽には細工はないとみえる）

いささか失望を感じながら、廻り止んだ独楽をつまみ上げ、なお<ruby><rb>仔細</rb><rt>こまか</rt></ruby>く調べてみた。

すると、独楽の面の手触りが何となく違うように思われた。

（はてな？）と主税は指に力を<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>め、その面を強く左の方へ擦った。

不思議な老人

「おおそうか、蓋なのか」と、擦ったに連れて独楽の面が弛み、心棒を中心にして持ち上ったので、そう<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>は呟いてすぐにその蓋を抜いてみた。

独楽の中は<ruby><rb>空洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>になっていて畳んだ紙が入れてあった。

何か書いてあるようである。

そこで、紙を延ばしてみた。

三十三、四十八、二十九、二十四、二十二、四十五、四十八、四、三十五

と書いてあった。

（何だつまらない）と主税は呟き、紙を丸めて捨ようとしたが、

（いや待てよ、<ruby><rb>隠語</rb><rt>かくしことば</rt></ruby>かもしれない）

ふとこんなように思われたので、またその紙へ眼を落とし、書かれてある数字を口の中で読んだ。

それから指を折って数え出した。

かなり長い間うち案じた。

「そうか！」と声に出して呟いた時には、主税の顔は硬ばっていた。

（ふうん、やはりそうだったのか、……しかし一体何者なのであろう？）

思いあたることがあると見えて、主税はグッと眼を据えて、空の一所へ視線をやった。

と、その視線の遥かかなたの、木立の間から一点の<ruby><rb>火光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>が、薄赤い色に輝いて見えた。

その火はユラユラと揺れたようであったが、やがて宙にとどまって、もう揺れようとはしなかった。

（こんな夜更けに御用地などで、火を<ruby><rb>点</rb><rt>と</rt></ruby>もすものがあろうとは？）

重ね重ね起こる変わった事件に、今では主税は当惑したが、しかし好奇心は失われないばかりか、かえって一層増して来た。

（何者であるか見届けてやろう）

新規に得た独楽を袖の中へ入れ、足を早めて火光の見える方へ、木立をくぐり藪を巡って進んだ。

火光から数間のこなたまで来た時、その火光が龕燈の光であり、その龕燈は藪を背にした、栗の木の枝にかけられてある。――ということが見てとられた。

だがその他には何があったか？

その火の光に朦朧と照らされ、袖無を着、伊賀袴を穿いた、白髪白髯の老人と、筒袖を着、伊賀袴を穿いた、十五六歳の美少年とが、草の上に坐っていた。

いやその他にも居るものがあった。

例の猿廻しと例の猿とが同じく草の上に坐っていた。

（<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>！）と主税は心から怒った。

（汝、猿廻しめ、人もなげな！　遠く逃げ延びて隠れればこそ、このような手近い所にいて、火まで燈して平然としているとは！　見おれ、こやつ、どうしてくれるか！）

突き進んで躍りかかろうとした。しかし足が言うことをきかなかった。

と云って足が麻痺したのではなく、眼の前にある光景が、変に異様であり妖しくもあり、厳かでさえあることによって、彼の心が妙に<ruby><rb>臆</rb><rt>おく</rt></ruby>れ、進むことが出来なくなったのである。

（しばらく様子を見てやろう）

木の根元にうずくまり、息を詰めて窺った。

老人は何やら云っているようであった。

白い顎鬚が上下に動き、そのつど肩まで垂れている髪が、これは左右に揺れるのが見えた。

どうやら老人は猿廻しに向かって、熱心に話しているらしかった。

しかし距離が遠かったので、声は聞こえてこなかった。

主税はそれがもどかしかったので、地を這いながら先へ進み、腐ちた大木の倒れている陰へ、体を伏せて聞耳を立てた。

「……大丈夫じゃ、心配おしでない、猿めの<ruby><rb>打撲傷</rb><rt>うちみ</rt></ruby>など直ぐにも癒る」

こういう老人の声が聞こえ、

「<ruby><rb>躄者</rb><rt>いざり</rt></ruby>さえ立つことが出来るのじゃからのう。――もう打撲傷は癒っているかもしれない。……これこれ小猿よ立ってごらん」

言葉に連れて地に倒れていた猿が、毬のように飛び上り、宙で二三度<ruby><rb>翻筋斗</rb><rt>もんどり</rt></ruby>を打ったが、やがて地に坐り手を膝へ置いた。

「ね、ごらん」と老人は云った。

「あの通りじゃ、すっかり癒った。……いや<ruby><rb>誠心</rb><rt>まごころ</rt></ruby>で祈りさえしたら、一本の稲から無数の穂が出て、花を咲かせて実りさえするよ」

その時猿廻しは編笠を脱いで、恭しく<ruby><rb>辞儀</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>をした。

その猿廻しの顔を見て、主税は思わず、

「あッ」と叫んだ。それは女であるからであった。しかも両国の曲独楽使いの、女太夫の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>であった。

隠語を解く

曲独楽使いの<ruby><rb>浪速</rb><rt>なにわ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が、女猿廻しになっている！　これは山岸<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>にとっては、全く驚異といわざるを得なかった。

しかも同一のその女が、自分へ二つの独楽をくれた。

そうしてその独楽には二つながら、秘密らしいものがからまっている。

（よし）と主税は決心した。

（女猿廻しを引っとらえ、秘密の内容を問いただしてやろう）

そこで、主税は立ち上った。

するとその瞬間に龕燈が消えて、いままで明るかった反動として、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>がすっかり闇となった。

主税の眼が闇に慣れて、木洩れの月光だけで林の中のようすが、朧気ながらも見えるようになった時には、女猿廻しの姿も、美童の姿も猿の姿も、眼前から消えてなくなっていた。

その翌日のことである、田安家の奥家老<ruby><rb>松浦頼母</rb><rt>まつうらたのも</rt></ruby>は、中納言家のご前へ出で、

「お館様これを」とこう言上して、一葉の紙片を差し出した。

泉水に水が落ちていて、その<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に築山があり、築山をめぐって桜の老樹が、花を渦高く咲かせており、その下を将軍家より頂戴したところの、丹頂の鶴が徘徊している――そういう中庭の風景を、脇息に倚って眺めていた田安中納言はその紙片を、無言で取上げ熟視された。

一杯に数字が書いてあった。

「これは何だ？」と、中納言家は訊かれた。

「隠語とのことにござります」

「…………」

「昨夜近習の山岸主税こと、怪しき女猿廻しを、ご用地にて発見いたし、取り抑えようといたしましたところ、女猿廻しには逃げられましたが、その者独楽を落としました由にて、とりあえず独楽を調べましたところ、この紙片が籠められておりましたとか……これがその独楽にござります」

頼母は懐中から独楽を出した。

中納言家はそれを手にとられたが、

「これは奥の秘蔵の独楽じゃ」

「奥方様ご秘蔵の独楽？」

「うん、わしには見覚えがある、これは奥の秘蔵の独楽じゃ。……それにしても怪しい猿廻しとは？」

「近頃、ひんぴんたるお館の盗難、それにどうやら関係あるらしく……」

「隠語の意味わかっておるかな？」

「主税<ruby><rb>儀</rb><rt>こと</rt></ruby>解きましてござります」

「最初に『三十三』と記してあるが？」

「『こ』という意味の由にござります」

「『こ』という意味？　どうしてそうなる？」

「いろは四十八文字の三十三番目が『こ』の字にあたるからと申しますことで」

「ははアなるほど」

「山岸主税申しますには、おおよそ簡単の隠語の種本は、いろは四十八文字にござりますそうで、それを上より数えたり、又、下より数えたりしまして、隠語としますそうにござります」

「すると二番目に『四十八』とあるが、これは『ん』の隠語だな」

「御意の通りにござります」

「三番目に『二十九』とあるが、……これは『や』の隠語だな」

「御意の通りにござります」

「その次にあるは『二十四』だから、言うまでもなく『う』の字の隠語、その次の『二十二』は『ら』の字の隠語、その次の『四十五』は『も』の字の隠語、『四十八』は『ん』の字の隠語、『四』は『に』の字の隠語、『三十五』は『て』の字の隠語。……これで全部終えたことになるが、この全部を寄せ集めれば……」

「こんやうらもんにて――となりまする」

「今夜裏門にて――いかにもそうなる」

「事件が昨夜のことにござりますれば、今夜とあるは昨夜のこと。で、昨夜館の裏門にて、何事かありましたと解釈すべきで……」

「なるほどな。……で、何事が？」

「山岸主税の申しまするには、お館の中に居る女の内通者が、<ruby><rb>外界</rb><rt>そと</rt></ruby>の賊と気脈を通じ、昨夜裏門にて密会し……」

「館の中に居る女の内通者とは？」

「その数字の書体、女文字とのことで」

「うむ、そうらしい、わしもそう見た」

「それにただ今うかがいますれば、その独楽は奥方様の御秘蔵の品とか……さすれば奥方様の腰元あたりに、賊との内通者がありまして、そのような隠語を認めまして、その独楽の中へ密封し、ひそかに門外へ投げ出し、その外界の同類の手に渡し、昨夜両人裏門にて逢い……」

「なるほど」

「内通者がお館より掠めました品を、その同類の手に渡したか……あるいは今夜の悪事などにつき、ひそかに手筈を定めましたか……」

「うむ」と云うと中納言家には、眉の辺りに憂色を浮かべ、眼を半眼にして考え込まれた。

腰元の死

「頼母」

ややあって中納言家は口を開いた。

「これはいかにもお前の言う通り、館の中に内通者があるらしい。そうでなくてあのような品物ばかりが、次々に奪われるはずはない。……ところで頼母、盗まれた品だが、あれらの品を<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>はどう思うな？」

「お大切の品物と存じまする」

「大切の由緒存じおるか？」

「…………」

「盗まれた品のことごとくは、柳営より下されたものなのじゃ」

「…………」

「我家のご先祖<ruby><rb>宗武</rb><rt>むねたけ</rt></ruby>卿が、お父上にしてその時の<ruby><rb>将軍家</rb><rt>うえさま</rt></ruby>、すなわち八代の<ruby><rb>吉宗</rb><rt>よしむね</rt></ruby>将軍家から、家宝にせよと賜わった利休の茶杓子をはじめとし、従来盗まれた品々といえば、その後代々の我家の主人が、代々の将軍家から賜わったものばかりじゃ」

「…………」

「それでわしはいたく心配しておるのじゃ。将軍家より賜わった品であるが故に、いつなんどき柳営からお沙汰があって、上覧の旨仰せらるるやもしれぬ。その時ないとは言われない。盗まれたなどと申したら……」

「お家の<ruby><rb>瑕瑾</rb><rt>きず</rt></ruby>にござります」

「それも一品ででもあろうことか、幾品となく盗まれたなどとあっては……」

「家事不取り締りとして重いお咎め……」

「拝領の品であるが故に、他に遣わしたとは言われない」

「御意の通りにござります」

「頼母！」と沈痛の中納言家は言われた。

「この盗難の背後には、我家を呪い我家を滅ぼそうとする、恐ろしい<ruby><rb>陰謀</rb><rt>たくらみ</rt></ruby>があるらしいぞ！」

「お館様！」と頼母も顔色を変え、五十を過ごした白い鬢の辺りを、神経質的に震わせた。

中納言家はこの時四十歳であったが、宗武卿以来聡明の血が伝わり、代々英主を出したが、当中納言家もその選に漏れず、聡明にして闊達であり、それが風貌にも現われていて鳳眼隆鼻高雅であった。

でも今は高雅のその顔に、苦悶の色があらわれていた。

「とにかく、内通者を至急見現わさねばならぬ」

「御意で。しかしいかがいたしまして？」

「これは奥に取り計らわせよう」

「奥方様にでござりまするか」

「うむ」と中納言家が言われた時、庭の築山の背後から女の悲鳴らしい声が聞こえ、つづいてけたたましい叫び声が聞こえ、すぐに庭番らしい小侍が、こなたへ走って来る姿が見えた。

「ご免」と頼母は一揖してから、ツカツカと縁側へ出て行ったが、

「これ源兵衛何事じゃ⁉」と庭番の小侍へ声をかけた。

小侍は走り寄るなり、地面へ坐り手をつかえたが、

「お腰元楓殿が築山の背後にて、頓死いたしましてござります」

「ナニ⁉」

頼母は胸を反らせ、

「楓殿が頓死⁉　頓死とは？」

「奥方様のお<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつけ</rt></ruby>とかで、三人の腰元衆お庭へ出てまいられ、桜の花お手折り遊ばされ、お引き上げなさろうとされました際、その中の楓殿不意に苦悶され、そのまま卒倒なされましたが、もうその時には<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>がなく……」

「お館様！」と頼母は振り返った。

「履物を出せ、行ってみよう」

中納言家には立って来られた。

「それでは余りお軽々しく……」

「よい、行ってみよう、履物を出せ」

庭番の揃えた履物を穿き、中納言家には庭へ出られた。

もちろん頼母は後からつづいた。

庭番の源兵衛に案内され、築山の背後へ行った時には、苦しさに身悶えしたからであろう、髪を乱し、胸をはだけた、美しい十九の腰元楓が、横倒しに倒れて死んでいる<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に、二人の腰元が当惑し恐怖し泣きぬれて立っていた。

第二の犠牲

手折った桜の枝が地に落ちていて、花が<ruby><rb>屍</rb><rt>しがい</rt></ruby>の辺りに散り敷いているのが、憐れさの風情を添えていた。

中納言家は<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>わしそうに、<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>の死骸を見下ろしていたが、

「<ruby><rb>玄達</rb><rt>げんたつ</rt></ruby>を呼んでともかくも手当てを」

こう頼母に囁くように云い、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を仔細に見廻したが、ふと審しそうに呟かれた。

「この頃に庭を手入れしたと見えるな」

頼母は庭番の源兵衛へ、奥医師の玄達を連れて来るように<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>け、それから中納言家へ頭を下げ、

「数日前に庭師を入れまして、樹木の植込み手入れ刈込み、庭石の置き換えなどいたさせました」

「そうらしいの、様子が変わっている」

改めて中納言家は四辺を見廻された。

桜の老樹や若木に雑って、棕櫚だの梅だの松だの楓だの、竹だの青桐だのが、趣深く、布置整然と植込まれてい、その間に珍奇な庭石が、春の陽に面を照らしながら、暖かそうに据えられてあった。

ずっとあなたに椿の林があって、その中に亭が立っていた。

間もなく幾人かの侍臣と共に、奥医師玄達が小走って来た。大奥の腰元や老女たちも、その後から<ruby><rb>狼狽</rb><rt>あわて</rt></ruby>て走って来た。

玄達はすぐに死骸の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へかがみ仔細に死骸を調べ出した。

「駄目か？」と中納言家は小声で訊かれた。

「全く絶望にござります」

玄達も小声で答えた。

「死因は何か？」

「さあその儀――いまだ不明にござりまする。……腹中の食物など調べましたなら……」

「では、外傷らしいものはないのだな」

「はい、いささかも……外傷らしいものは」

「ともかくも死骸を奥へ運んで、外科医宗沢とも相談し、是非死因を確かめるよう」

「かしこまりましてござります」

やがて楓の死骸は侍臣たちによって、館の方へ運ばれた。

「不思議だのう」と呟きながら、なお中納言家は佇んでおられた。

その間には侍臣や腰元たちは、楓を殺した敵らしいものが、どこかその辺りに隠れていないかと、それを探そうとでもするかのように、木立の間や岩の陰や、椿の林などへ分け入った。

広いといっても庭であり、植込みが繁っているといっても、たかが庭の植込みであって、怪しい者など隠れていようものなら、すぐにも発見されなければならなかった。

何者も隠れていなかったらしく、人々はポツポツと戻って来た。

と、不意に人々の間から、絹を裂くような女の悲鳴が聞こえた。

老女と一緒に来た腰元の中の一人、<ruby><rb>萩枝</rb><rt>はぎえ</rt></ruby>という二十一の小肥りの女が、両手で空を掴みながら、クルリと体を回転し、そのまま地上へ転がったのである。

狼狽して人々は飛び退いた。

その人の垣に囲まれたまま、萩枝は地上を転がり廻り、胸を掻き髪を毮り、

「苦しい！　<ruby><rb>麻痺</rb><rt>しびれ</rt></ruby>る！　……助けて助けて！」と<ruby><rb>嗄</rb><rt>しゃが</rt></ruby>れた声で叫んだが、見る見る顔から血の気が消え、やがて延びて動かなくなった。

この日の宵のことであった。山岸<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>は両国広小路の、例の曲独楽の定席小屋の、裏木戸口に佇んで、太夫元の勘兵衛という四十五六の男と、当惑しながら話していた。

「ではもう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は居ないというのか」

「へい、この小屋にはおりません」

「つまり席を退いたのだな」

「と云うことになりましょうね」

どうにも云うことが曖昧であった。

それに何とこの辺りは、暗くそうして寂しいことか。

裏木戸に面した反対側は、小借長屋らしく思われたが、どうやら空店になっているらしく、ビッシリ雨戸がとざされていて、火影一筋洩れて来なかった。

洞窟の穴かのように、長方形に空いている木戸口にも、<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>というものは<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていなかった。しかし、遥かの小屋の奥から、ぼんやり蝋燭の光が射して来ていて、眼の窪んだ、鼻の尖った、頬骨の立った悪相の持主の、勘兵衛という男を厭らしい存在として、照らし出してはいるのであった。

「<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>まではこの小屋に出ていたはずだが、いつ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は席を退いたのだ？」

こう主税は又訊いた。

「退いたとも何とも申しちゃアいません。ただ<ruby><rb>彼女</rb><rt>あいつ</rt></ruby>今日はいないので」

「一体<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>はどこに住んでいるのだ？」

「さあ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そいつ</span>は……そいつはどうも……それより一体<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>様は、どうして何のために彼女を訪ねて、わざわざおいでなすったんで？」

かえって怪訝そうに勘兵衛は訊いた。

第三の犠牲

<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>を訪ねて来たのは、何と思って自分へ独楽をくれたのか？　どうして猿廻しなどに身をやつしていたのか？　その事情を訊こうと思ったからであった。

昼の中に来るのが至当なのであったが、昼の中彼は屋敷へ籠って――お館へは病気を云い立てて休み――例の独楽を廻しに廻し、現われて来る文字を寄せ集め、秘密を知るべく努力した。

しかし、結果は<ruby><rb>徒労</rb><rt>むだ</rt></ruby>だった。

というのは、その後に現われて来た文字は「に有りて」という四つの文字と「飛加藤の亜流」という訳のわからない、六つの文字に過ぎなかったからで……

そこで彼は夕方駕籠を飛ばせて、ここへ訪ねて来たのであった。そうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>に逢いたいと言った。

すると勘兵衛という男が出て来て、極めて曖昧な言葉と態度で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は居ないというのである。

「少し尋ねたい<ruby><rb>仔細</rb><rt>こと</rt></ruby>があってな」

主税はこっちでも曖昧味を現わし、

「それで訪ねて参ったのだが、居ないとあっては止むを得ぬの。どれ、それでは帰るとしようか」

「ま、旦那様ちょっとお待ちなすって」

勘兵衛の方が<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>て止めた。

「実は<ruby><rb>彼女</rb><rt>あいつ</rt></ruby>がいなくなったので<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>はすっかり参っていますので。何せ金箱でございますからな。へい大事な太夫なので。……それで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>も小屋の者も、大騒ぎをして探していますので」

「しかし<ruby><rb>宿所</rb><rt>やど</rt></ruby>には居るのだろう？」

「それが貴郎様、居ないんで」

「宿所にもいない、ふうんそうか。一体宿所はどこなのだ？」

「へい、宿所は……さあ宿所は……神田辺りなのでございますが……それはどうでもよいとして、宿所にもいず小屋へも来ない。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>ポカンと消えてしまったんで」

「ふうん、昨夜消えてしまった。……猿廻しに身を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やつし</span>て消えてしまったのではあるまいかな」

「え、何だって？　猿廻しにだって？」

勘兵衛はあっけにとられたように、

「旦那、そりゃア一体何のことで？」

（しまった）と主税は後悔した。

（云わでものことを口走ってしまった）

主税は口を噤んで横をむいた。

「こいつア変だ！　変ですねえ旦那！　……旦那何か知ってますね！」と勘兵衛はにわかに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かさ</span>にかかり、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の<ruby><rb>阿魔</rb><rt>あま</rt></ruby>が消えてしまった途端に、これまで縁のなかったお侍さんが、ヒョッコリ訪ねておいでなすって、根掘り葉掘り<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>のことをお訊きになる。その後で猿廻しに身を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やつして</span>なんて、変なことを仰せになる！　……旦那、お前さんあの阿魔を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の阿魔を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おびき</span>出し……」

「黙れ！」と主税は一喝した。

「黙っておればこやつ無礼！　拙者を<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>しか何かのように……」

「おお誘拐しだとも、誘拐しでなくて何だ！　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の阿魔を誘拐して、彼女の持っている秘密を奪い、一儲けしようとするのだろう！　……が、そうならお気の毒だ！　彼女はそんな秘密などより、<ruby><rb>荏原</rb><rt>えばら</rt></ruby>屋敷の奴原を……」

「荏原屋敷だと⁉　おおその荏原屋敷とは……」

「そうれ、そうれ、そうれどうだ！　荏原屋敷まで知っている<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>、どうでも平記帳面の侍じゃアねえ！　食わせ者だア――食わせものだア――ッ……わーッ」

と、これはどうしたことだろう。にわかに勘兵衛は悲鳴を上げ、両手で咽喉の辺りを掻き毮ったかと思うと、前<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のめり</span>にバッタリと地へ倒れた。

「どうした勘兵衛！」と主税は驚き、介抱しようとして屈み込んだ。

その主税の眼の前の地上を、小蛇らしいものが一蜒りしたが、<ruby><rb>空店</rb><rt>あきだな</rt></ruby>の雨戸の隙の方へ消えた。

息絶えたらしい勘兵衛の体は、もう延びたまま動かなかった。

「どうしたどうした！」

「勘兵衛の声だったぞ」と小屋の中から人声がし、幾人かの人間がドヤドヤと、木戸口の方へ来るらしかった。

（巻添えを食ってはたまらない）

こう思った主税が身を飜えして、この露路から走り出したのは、それから間もなくのことであった。

白刃に囲まれて

この<ruby><rb>時代</rb><rt>ころ</rt></ruby>のお茶の水といえば、樹木と藪地と<ruby><rb>渓谷</rb><rt>たに</rt></ruby>と川とで、<ruby><rb>形成</rb><rt>かたちづく</rt></ruby>られた別天地で、都会の中の森林地帯であった。

昼間こそ人々は<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き来したが、夜になるとほとんどだれも通らず、ただひたすら先を急いで迂回することをいとう人ばかりが、<ruby><rb>恐々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby>ながらもこの<ruby><rb>境地</rb><rt>とち</rt></ruby>を、走るようにしてとおるばかりであった。

そのお茶の水の森林地帯へ、山岸主税が通りかかったのは、<ruby><rb>亥</rb><rt>い</rt></ruby>の刻を過ごした頃であった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が行方不明となった、勘兵衛という太夫元が、何者かに頓死させられた、この二つの意外な事件によって、さすがの彼も心を痛め、この時まであてなく江戸の市中を、さまよい歩いていたのであった。

（荏原屋敷とは何だろう？）

このことが彼の気になっていた。

独楽の隠語の中にもこの字があった。勘兵衛という男もこの言葉を云った。そうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>という曲独楽使いも、この屋敷に関係があるらしい。

（<ruby><rb>荏原郡</rb><rt>えばらごおり</rt></ruby>の馬込の郷に、そういう屋敷があるということは、以前チラリと耳にはしたが）

しかし、それとて非常に古い屋敷――大昔から一貫した正しい血統を伝えたところの、珍らしい旧家だということばかりを、人づてに聞いたばかりであった。

（がしかしこうなってみれば、その屋敷の何物かを調べてみよう）

主税はそんなように考えた。

独楽のことも勿論気にかかっていた。

――どれほどあの独楽を廻してみたところで、これまでに現われた隠語以外に、新しい隠語が現われそうにもない。そうしてこれまでの隠語だけでは、何の秘密をも知ることは出来ない。どうやらこれは隠語を隠した独楽は、あれ以外にも<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かあるらしく、それらの独楽を<ruby><rb>悉皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>集めて<ruby><rb>全部</rb><rt>すっかり</rt></ruby>の隠語を知った時、はじめて秘密が解けるものらしい。

（とすると大変な仕事だわい）

そう思わざるを得なかった。

しかし何より主税の心を、憂鬱に抑えているものは、頻々とあるお館の盗難と、猿廻しに変装した<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とが、密接の関係にあることで、今日あやめを小屋へ訪ねたのも、その真相を探ろうためなのであった。

（猿廻しから得た独楽と隠語と、お館の中に内通者ありという、自分の意見とを松浦殿へ、今朝方早く差し上げたが、その結果女の内通者が、お館の中で見付かったかしら？）

考えながら主税は歩いて行った。

腐ちた大木が倒れていたり、水溜りに月光が映っていたり、藪の陰から狐らしい獣が、突然走り出て道を遮ったりした。

不意に女の声が聞こえた。

「あぶない！　気をおつけ！　<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から！」

瞬間に主税は地へ仆れた。

「あッ」

その主税の体へ<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>き、背後から切り込んで来た一人の武士が、こう叫んで主税のからだ越しにドッとばかりに向こうへ仆れた。

疾風迅雷も物かわと、二人目の武士が左横から、なお仆れている主税を目掛け、拝み討ちに切り付けた。

「わ、わ、わ、わ――ッ」とその武士は喚いた。脇腹から血を吹き出しているのが、木洩れの月光に黒く見えた。

その武士が足を空ざまにして、丸太ん棒のように仆れた時には、とうに飛び起き、飛び起きざまに引き抜き、引き抜いた瞬間には敵を斬っていた、小野派一刀流では無双の使い手の、山岸主税は返り血を浴びずに、そこに聳えていた大楠木の幹を、背負うようにして立っていた。

が、それにしても何と大勢の武士に、主税は取巻かれていることか！

数間を距てて十数人の人影が、抜身をギラギラ光らせながら、静まり返っているではないか。

（何物だろう？）と主税は思った。

しかし、問さえ発っせられなかった。

前から二人、左右から一人ずつ、四人の武士が殺到して来た。

（死中活！）

主税は躍り出で、前の一人の真向を割り、返す刀で右から来た一人の、肩を胸まで斬り下げた。

とは云え、その次の瞬間には、主税は二本の白刃の下に、身をさらさざるを得なかった。

しかし、辛うじてひとりの武士の、真向へ来た刀を巻き落とした。

でも、もう一人の武士の刀を、左肩に受けなければならなかった。

（やられた！）

しかし何たる奇跡か！　その武士は刀をポタリと落とし、その手が首の辺りを掻きむしり、前のめりにドッと地上へ倒れた。

勘兵衛の死に態と同じであった。

その時であった<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>の大藪の陰から、女の声が聞こえてきた。

「助太刀してあげてよ、ね、助太刀して！」

「参るぞーッ」という怒りの大音が、その時女の声を蔽うたが、一人の武士が大鷲さながらに、主税を目掛けて襲いかかった。

悄然たる太刀音がし、二本の刀が鍔迫り合いとなり、交叉された二本の白刃が、粘りをもって右に左に前に後ろに捻じ合った。

主税は刀の間から、相手の顔を凝視した。

両国橋で逢った浪人武士であった。

解けた独楽の秘密

「やあ<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>は！」と主税は叫んだ。

「両国橋で逢った浪人者！」

「そうよ」と浪人も即座に答えた。

「貴殿が手に入れた淀屋の独楽を、譲り受けようと掛け合った者よ。……隠すにもあたらぬ<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>ってやろう、<ruby><rb>浪速</rb><rt>なにわ</rt></ruby>の浪人<ruby><rb>飛田林覚兵衛</rb><rt>とんだばやしかくべえ</rt></ruby>！　……さてその時拙者は申した、貴殿の命を<ruby><rb>殺</rb><rt>あや</rt></ruby>めても、淀屋の独楽を拙者が取ると！　……その期が今こそめぐって来たのじゃ！」

「淀屋の独楽とは？　淀屋の独楽とは？」

「どうせ<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>は死んで行く奴、秘密を教えても大事あるまい、そこで秘密を教えてやる。……浪速の豪商淀屋辰五郎、百万にも余る巨富を積み、栄耀栄華を極めたが、元禄年間<ruby><rb>官</rb><rt>かみ</rt></ruby>のお咎めを受け、家財一切を没収されたこと、汝といえども伝え聞いていよう。……しかるに辰五郎、事の起こる前、ひそかに家財の大半を分け、絶対秘密の場所へ隠し、その隠し場所を<ruby><rb>三個</rb><rt>みっつ</rt></ruby>の独楽へ……とここまで申したら、万事推量出来るであろう。……汝が手に入れたあの独楽こそ、淀屋の独楽の一つなのじゃ。……今後汝によって三つの独楽を、それからそれと手に入れられ、独楽に記されてある隠語を解かれ、淀屋の巨財の隠し場所を知られ、巨財を汝に探し出されては、長年その独楽の行方を尋ね、淀屋の巨財を手に入れようと、苦心いたしおる我らにとっては、一大事とも一大事！　そこで汝をこの場において殺し、汝の屋敷に潜入し、独楽をこっちへ奪い取るのだ！」

二本の刀を交叉させ、鍔と鍔とを迫り合わせ、顔と顔とを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひた</span>と付けながら、覚兵衛はそう云うとグーッと押した。

それを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんわり</span>と受けながら、主税は二歩ばかり後へ下った。

すると今度は山岸主税が、押手に出でてジリジリと進んだ。

二人の眼と眼とは暗い中で、さながら燠のように燃えている。

鍔迫り合いの危険さは、体の放れる一刹那にあった。遅れれば斬られ、<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>まれば突かれる。さりとて<ruby><rb>焦躁</rb><rt>あせ</rt></ruby>れば息切れを起こして、結局斃されてしまうのであった。

いぜんとして二人は迫り合っている。

そういう二人を中へ囲んで、飛田林覚兵衛の一味の者は、抜身を構え位い取りをし、隙があったら躍り込み、主税を討って取ろうものと、気息を呑んで機を待っていた。

と、あらかじめの計画だったらしい、

「やれ」と大音に叫ぶと共に、覚兵衛は烈しい体<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたり</span>をくれ、くれると同時に引く水のように、サーッと自身後へ引き、すぐに飜然と横へ飛んだ。

主税は体<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたり</span>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あてられ</span>て、思わずタジタジと後へ下ったが、踏み止まろうとした一瞬間に、相手に後へ引かれたため、体が延び足が進み、あたかも覚兵衛を追うかのように、覚兵衛の一味の屯している中へ、一文字に突き入った。

「しめた！」

「斬れ！」

「火に入る夏の虫！」

「わッはッはッ、斬れ、斬れ、斬れ！」

<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざけり</rt></ruby>、<ruby><rb>罵声</rb><rt>ののしり</rt></ruby>、<ruby><rb>憎悪</rb><rt>にくしみ</rt></ruby>の声の中に、縦横に上下に走る稲妻！　それかのように十数本の白刃が、主税の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>で閃いた。

二声ばかり悲鳴が起こった。

バラバラと囲みが解けて散った。

乱れた髪、乱れた衣裳、敵の返り血を浴びて紅斑々！　そういう姿の山岸主税は、血刀高々と頭上に捧げ、樫の木かのように立っている。

が、彼の足許には、死骸が二つころがっていた。

一人を取り囲んで十数人が、斬ろう突こうとしたところで、味方同士が邪魔となって、斬ることも突くことも出来ないものである。

そこを狙って敵二人まで、主税は討って取ったらしい。

地団太踏んで口惜しがったのは、飛田林覚兵衛であった。

「云い甲斐ない方々！」と杉の老木が、桶ほどの太さに立っている、その根元に突立ちながら、

「相手は一人、鬼神であろうと、討って取るに何の手間暇！　……もう一度引っつつんで斬り立てなされ！　……見られい<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>め心身疲れ、人心地とてない有様！　今が機会じゃ、ソレ斬り立てられい！」

覚兵衛の言葉は事実であった。

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>よりの乱闘に<ruby><rb>肉体</rb><rt>からだ</rt></ruby>も<ruby><rb>精神</rb><rt>こころ</rt></ruby>も<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>果てたらしい山岸主税は、立ってはいたが右へ左へ、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロとよろめいて、今にも仆れそうに見受けられた。

愛する人を

「そうだ！」「やれ！」と覚兵衛の一味が、さながら逆浪の寄せるように、<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>を目掛けて寄せた時、遥かあなたの木間から、薄赤い一点の火の光が、鬼火のように不意に現われて、こなたへユラユラと寄って来た。

「南無三宝！　方々待たれい！　火の光が見える、何者か来る！　目つけられては一大事！　残念ながら一まず引こう！　味方の死人<ruby><rb>負傷者</rb><rt>ておい</rt></ruby>を片付け、退散々々方々退散」と杉の根元にいる覚兵衛が、狼狽した声でそう叫んだ。

いかにも訓練が行き届いていた。その声に応じて十数人の、飛田林覚兵衛の一味達は、仆れている死人や負傷者を抱え、林を分け藪を巡り、いずこへともなく走り去った。

で、その後には気味の悪いような、<ruby><rb>静寂</rb><rt>しずけさ</rt></ruby>ばかりがこの境地に残った。

<ruby><rb>常磐木</rb><rt>ときわぎ</rt></ruby>――杉や松や柏や、榎、桧などの間に立ち雑って、仄白い花を咲かせていた桜の花がひとしきり、<ruby><rb>花弁</rb><rt>はなびら</rt></ruby>を瀧のように零したのは、逃げて行く際に覚兵衛の一味が、それらの木々に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつかっ</span>たからであろう。

と、俄然主税の体が、刀をしっかりと握ったまま<ruby><rb>腐木</rb><rt>くちき</rt></ruby>のように地に仆れた。斬られて死んで斃れたのではなかった。

心身まったく<ruby><rb>疲労</rb><rt>つかれ</rt></ruby>果て、気絶をして仆れたのである。

そういう主税の仆れている体へ、降りかかっているのは落花であり、そういう主税の方へ寄って来るのは薄赤い燈の光であった。

そうして薄赤いその燈の光は、昨夜御用地の林の中で、老人と少年と女猿廻しとが、かかげていたところの龕燈の火と、全く同じ光であった。その龕燈の燈が近づいて来る。ではあの老人と少年と、女猿廻しとがその燈と共に、近付いて来るものと解さなければならない。

でもにわかにその龕燈の燈は、大藪の辺りから横に逸れ、やがて大藪の陰へかくれ、ふたたび姿を現わさなかった。

そこで又この境地はひっそりとなり、鋭い切先の一所を、ギラギラ月光に光らせた抜身を、いまだにしっかり握っている主税が、干鱈のように仆れているばかりであった。

時がだんだんに経って行った。

やがて、主税は気絶から覚めた。

誰か自分を呼んでいるようである。

そうして、自分の後脳の下に、暖かい柔らかい枕があった。

主税はぼんやり眼を開けて見た。

自分の顔のすぐの真上に、自分の顔へ蔽いかぶさるように、星のような眼と、高い鼻と、薄くはあるが大型の口と、そういう道具の女の顔が、<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を黒の楕円形で仕切って、浮いているのが見て取られた。

お高祖頭巾で顔を包んだ、<ruby><rb>浪速</rb><rt>なにわ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の顔であった。

（<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>がどうしてこんな所に？）

気力は恢復してはいなかったが、意識は返っていた主税はこう思って、口に出してそれを云おうとした。

でも言葉は出せなかった。それ程に衰弱しているのであった。眼を開けていることも出来なくなった。そこで彼は眼を閉じた。

そう、主税に膝枕をさせ、介抱している女は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>であった。鼠小紋の小袖に小柳繻子の帯、紫の半襟というその風俗は、女太夫というよりも、町家の若女房という風であり、お高祖頭巾で顔を包んでいるので、謎を持った秘密の女めいても見えた。

「山岸様、山岸主税様！　お気が付かれたそうな、まア嬉しい！　山岸様々々々！」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>はいかにも嬉しそうに、自分の顔を主税の顔へ近づけ、情熱的の声で云った。

「それに致しましても何て<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は、申し訳のないこといたしましたことか！　どうぞお許しなすって下さいまし。……ほんの妾の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>心から、差しあげた独楽が原因となって、こんな恐ろしいことになるなんて。……それはあの独楽には何か秘密が、――深い秘密のあるということは、妾にも感づいてはおりましたが、でもそのためにあなた様へ、あの独楽を上げたのではごさいません。……ほんの妾の出来心から。……それもあなた様がお可愛らしかったから。……まあ厭な、なんて妾は……」

これがもし昼間であろうものなら、彼女の頬に赤味が注し、恥らいでその眼が潤んだことを、見てとることが出来たであろう。

勘兵衛や武士を殺した者は？

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>があの独楽を手に入れたのは、<ruby><rb>浪速高津</rb><rt>なにわこうず</rt></ruby>の古物商からであった。それも<ruby><rb>孕独楽</rb><rt>はらみごま</rt></ruby>一揃いとして、普通に買入れたのに過ぎなかった。その親独楽も十個の子独楽も、名工四国太夫の製作にかかわる、名品であるということは、彼女にもよく<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていた。そうして子独楽の中の<ruby><rb>一個</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>だけが、廻すとその面へ文字を現わすことをも彼女はよく解っていた。

すると、或日一人の武士が、<ruby><rb>飛田林覚兵衛</rb><rt>とんだばやしかくべえ</rt></ruby>と<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>りながら、彼女の許へ訪ねて来て、孕独楽を譲ってくれるようにと云った。しかし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は商売道具だから、独楽は譲れないと断った。すると覚兵衛は子独楽の一つ、文字を現わす子独楽を譲ってくれるようにと云い、莫大な金高を切り出した。それで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>はその子独楽が、尋常の品でないことを知った。それにその子独楽一つだけを譲れば、孕独楽は後家独楽になってしまう。そこで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は断った。

しかし、覚兵衛は断念しないで、その後もあやめを付け廻し、或いは嚇し或いは透かして、その子独楽を手中に入れようとした。それが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の疳に障り、感情的にその子独楽を、覚兵衛には譲るまいと決心した。と同時にその子独楽が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>には荷厄介の物に思われて来た。その中<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は縁があって、江戸の両国へ出ることになった。

そこで浪速から江戸へ来た。するとどうだろう飛田林覚兵衛も、江戸へ追っかけて来たではないか。

こうして<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>の昼席となった。

舞台で孕独楽を使っていると、間近の桟敷で美貌の若武士が――すなわち山岸主税なのであるが、熱心に芸当を見物していた。ところが同じその桟敷に、飛田林覚兵衛もいて、いかにも子独楽が欲しそうに、眼を据えて見物していた。

（可愛らしいお方）と主税に対しては思い、（小面憎い奴）と覚兵衛に対しては感じ、この二つの心持から、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をしてしまったのである。即ち舞台から例の小独楽を、見事に覚兵衛の眼を掠め、主税の袖の中へ投げ込んだのである。

（孕独楽が後家独楽になろうとままよ、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>にはあんな子独楽用はない。……これで本当にサバサバしてしまった）

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>はそう思ったことであった。

そうして彼女は今日の昼席から、定席へも<ruby><rb>出演</rb><rt>で</rt></ruby>ないことに決心し、<ruby><rb>宿所</rb><rt>やど</rt></ruby>をさえ出て行方を眩ましてしまった。それは彼女にとっては一生の大事業を、決行することに心を定め、その準備に取りかかったからであった。

でも彼女は夕方になった時、職場が恋しくなって来た。そこでこっそり出かけて行った。ところが裏木戸の辺りまで行って見ると、太夫元の勘兵衛と山岸主税とが、自分のことについて話しているではないか。そこで、彼女は<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>の<ruby><rb>空店</rb><rt>あきだな</rt></ruby>の中へ、素早く入って身を忍ばせ、二人の話を立聞きした。その中に勘兵衛が無礼の仕打ちを、主税に対してとろうとした。

（どうで勘兵衛は遅かれ早かれ、妾が手にかけて殺さなければ、虫の納まらない奴なのだから、いっそ此処で殺してしまおう）

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は心をそう定めた。

で、手練の独楽の紐を――麻と絹糸と女の髪の毛とで、蛇のように強い弾力性を持たせて、独特に作った独楽の紐を、雨戸の隙から繰り出して、勘兵衛の首へ巻き付けて、締めて他愛なく殺してしまった。

（これで妾の一生の大事業の、一つだけを片付けたというものさ）

もっと苦しめて殺してやれなかったことに、心外さこそは覚えたが、殺したことには満足を感じ、彼女は紐を手繰り寄せ、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ納めて様子をうかがった。

すると小屋から人が出て来るらしく、主税が急いで立ち去った。

そこで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>も空店から走り出し、主税の後を追っかけた。

主税が自分を両国広小路の、独楽の定席へ訪ねて来たのは、自分が主税の袖へ投げ込んだ独楽の、秘密を聞きたかったに相違ないと、そう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は思ったので、主税に逢ってそれを話そうと、さてこそ主税を追っかけたのであったが、愛を感じている相手だっただけに、突然近付いて話しかけることが、彼女のような女にも面伏せであり、そこでただ彼女は主税の行く方へ、後から従いて行くばかりであった。そのあげく、お茶の水のここへ来た。その結果がこの有様となった。

「山岸様！」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は呼んで、膝の上に乗っている主税の顔へ、また自分の顔を近付けて行った。

「大藪の中から紐を繰り出し、お侍さんの一人を絞め殺しましたのは、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>でございます。……わたしの差し上げた独楽のことから、このような大難にお逢いなされ、あなた様にはさぞこの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が、憎い女に思われるでございましょうが、あなた様のお為に人間一人を、締め殺しましたことにお免じ下され、どうぞお許しなすって下さいまし」

教団の祖師

でも主税は返辞をしなかった。

ますます衰弱が激しくなり、又神気が朦朧となり、返辞をすることが出来ないからであった。

（このお方死ぬのではあるまいか？）

こう思うと彼女は悲しかった。

（<ruby><rb>実家</rb><rt>いえ</rt></ruby>を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが、真底から<ruby><rb>可愛</rb><rt>いと</rt></ruby>しいと思われたのは、偶然にお逢いしたこの方ばかり。……それだのにこのお方死なれるのかしら？）

月の位置が移ったからであろう。梢から射していた月光が、円い巨大な柱のように、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>と主税との二人の体の上へ、蛍草の色に降りて来ていた。その明るい光の輪の中では、産れて間もないらしい細い羽虫が、塵のように飛び交っていた。そうして明るい光の輪の底には、白芙蓉のように蒼白い、彫刻のように端正の、主税の顔が弱々しく、眼を閉じ口を閉じて沈んでいた。

（こうしてはいられない）

にわかに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は気がついて思った。

（町へ行って駕籠を雇って、主税様をお屋敷へお送りしなければ）

そこで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は立ち上った。

この時から<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ばかり経った時、龕燈の光で<ruby><rb>往来</rb><rt>みち</rt></ruby>を照らしながら、老人と少年と女猿廻しとが、秋山様通りの辺りを通っていた。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>御用地の林の中にいた、その一組に相違なかった。

お屋敷町のこの辺りは、この時刻には人通りがなく、犬さえ歩いてはいなかった。武家屋敷の武者窓もとざされていて、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>を覗いている人の顔など、一つとして見えてはいなかった。で、左右を<ruby><rb>海鼠</rb><rt>なまこ</rt></ruby>壁によって、高く仕切られているこの<ruby><rb>往来</rb><rt>とおり</rt></ruby>には、真珠色の春の夜の靄と、それを<ruby><rb>淹</rb><rt>こ</rt></ruby>して射している月光とが、しめやかに充ちているばかりであった。

伊賀袴を穿いた美少年が、手に持っている龕燈で、時々海鼠壁を照らしたりした。と、その都度壁の面へ、薄赤い光の輪が出来た。

龕燈を持った美少年を先に立て、その後から老人と女猿廻しとが、肩を並べて歩いて行くのであった。

「ねえお爺様……」と女猿廻しは云って、編笠は取って腰へ付け、星のような眼の、高い鼻の、薄くはあるが大型の口の、そういう顔を少し上向け、老人を仰ぎながら審かしそうに続けた。

「なぜ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たかが</span>一本ばかりの木を、三十年も<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>って育てましたの？」

「それはわしにも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないのだよ」

袖無を着、伊賀袴を穿き、自然木の杖を突いた老人は、卯の花のように白い長い髪を、肩の辺りでユサユサ揺りながら、威厳はあるが優しい声で云った。

「なぜ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たかが</span>一本ばかりのそんな木を、三十年もの間育てたかと、そういう疑いを抱くことよりそんなたかが一本ばかりの木を、迷わず怠らず粗末にせず、三十年もの間護り育てた、そのお方の根気と<ruby><rb>誠心</rb><rt>まごころ</rt></ruby>と、敬虔な心持に感心して、そのお方のお話を承わろうと、そう思った方がいいようだよ」

「ええそれはそうかもしれませんけれど。……で、その木は何の木ですの？」

「<ruby><rb>榊</rb><rt>さかき</rt></ruby>の木だということだが、松であろうと杉であろうと、柳であろうと柏の木であろうと、そんなことはどうでもよいのだよ」

「それでたくさんのいろいろの人が、そのお方の所に伺って、お教えを乞うたと<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るのね？」

「そうなのだよ、そうなのだよ。そんなに根気のよい、そんなに誠心の敬虔のお心を持ったお方なら、私達の持っている心の病気や、体の病気を癒して下されて、幸福な身の上にして下さるかもしれないと、悩みを持ったたくさんの人達が、そのお方の所へ伺って、自分たちの悩みを訴えたのだよ」

「するとそのお方がその人達の悩みを、みんな<ruby><rb>除去</rb><rt>とりさ</rt></ruby>って下すったのね」

「解り易い言葉でお説きなされて、心の病気と体の病気を、みんな除去って下されたのだよ」

「それでだんだん信者が増えて、大きな教団になったと仰有るのね」

「そうなのだよ。そうなのだよ」

「そのお方どんなお方ですの？」

「わしのような老人なのだよ」

「そのお方の名、何て仰有るの？」

「信者は<ruby><rb>祖師</rb><rt>そし</rt></ruby>様と呼んでいるよ。……でも反対派の人達は『<ruby><rb>飛加藤</rb><rt>とびかとう</rt></ruby>の亜流』だと云っているよ」

「飛加藤？　飛加藤とは？」

「戦国時代に現われた、心の邪な忍術使いでな、<ruby><rb>衆人</rb><rt>みんな</rt></ruby>の前で牛を呑んで見せたり、観世縒で人間や牛馬を作って、それを生かして耕作させたり、一丈の<ruby><rb>晒布</rb><rt>さらし</rt></ruby>に身を変じて、大名屋敷へ忍び込んだり、上杉謙信の寝所へ忍び、大切な宝刀を盗んだりした、始末の悪い人間なのだよ」

植木師の一隊

「どうしてお偉いお祖師様のことを、飛加藤の亜流などというのでしょう？」

「祖師様のなさるいろいろの業が、忍術使いの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まやかし</span>の業のように、人達の眼に見えるからだよ」

「お爺さん、あなたもそのお祖師様の、信者のお一人なのでごさいますのね」

「ああそうだよ、信者の一人なのだよ」

「お爺さんのお名前、何て<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るの？」

「世間の人はわしの事を、飛加藤の亜流だと云っているよ」

「ではもしやお爺さんが、そのお偉いお祖師様では？」

しかし老人は返辞をしないで、優しい意味の深い微笑をした。

三人は先へ進んで行った。

背中の猿は眠ったと見えて、重さが少し加わって来た。それを女猿廻しは揺り上げながら、

（<ruby><rb>実家</rb><rt>いえ</rt></ruby>を出て十年にもなる。流浪から流浪、艱難から艱難、いろいろのお方とも出入りを重ねたが真底から偉いと思ったお方は、このご老人の他にはない。このお方がきっとお祖師様なのだよ）

（でも<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は一生の大事業の、その小口に取りかかったのに、こんなお爺さんと連立って、こんなお話をして歩くなんて、よいことだろうか悪いことだろうか？）

こうも彼女には思われるのであった。

三人は先へ進んで行った。

やがて、四辻の交叉点へ出た。

それを左の方へ曲がりかけた時、右手の方から一隊の人数が、粛々とこっちへ歩いて来た。

根元の辺りを<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>で包んだ、松だの柏だの桜だの梅だの、柳だの桧だのの無数の植木を、十台の大八車へ<ruby><rb>舁</rb><rt>か</rt></ruby>き乗せて、それを曳いたりそれを押したり、また左右に付添ったりして、四十人ほどの植木師らしい男が、こっちへ歩いて来るのであった。深夜だから音を立てまいとしてか、車の輪は布で巻かれていた。植木師の風俗も変わっていた。岡山頭巾で顔をつつみ、半纏の代わりに黒の<ruby><rb>短羽織</rb><rt>みじかばおり</rt></ruby>を着、股引の代わりに<ruby><rb>裁着</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き、そうして腰に一本ずつ、短い刀を差していた。

車の上の植木はいずれも高価な、立派な品らしく見受けられたが、<ruby><rb>往来</rb><rt>みち</rt></ruby>の左右の海鼠壁よりも高く、月夜の空の方へ葉や枝を延ばし、車の揺れるに従って、それをユサユサと揺する様子は、林が歩いてでも来るようであった。

その一隊が三人の前まで来た時、手を左右に振りながら、警戒するように『<ruby><rb>叱</rb><rt>しっ</rt></ruby>！』と云った。近寄るなとでも云っているようであった。

「叱！」「叱！」と口々に云った。

一隊は二人の前を通り過ぎようとした。

すると、この辺りの屋敷へ呼ばれ、療治を済ませて帰るらしい、一人の按摩が向う側の辻から、杖を突きながら現われたが、その一隊の中へうっかりと入った。

「<ruby><rb>叱</rb><rt>しっ</rt></ruby>！」「<ruby><rb>叱</rb><rt>しっ</rt></ruby>！」という例の声が、植木師の声などとは思われないような、威嚇的の調子をもって、一際高く響きわたり、ふいに行列が立ち止まった。

数人の植木師が走って来て、一所へ集まって囁き合い、ひとしきりそこに混乱が起こった。

がすぐに混乱は治まって、一隊は粛々と動き出し、林は先へ進んで行った。しかし見れば<ruby><rb>往来</rb><rt>みち</rt></ruby>の一所に、黒い大きな斑点が出来ていた。

按摩の死骸が転がっているのである。

「お爺さん！」と恐ろしさに女猿廻しは叫んで、老人の腕に縋りついた。それを老人は抱えるようにしたが、

「<ruby><rb>障</rb><rt>さ</rt></ruby>わったからじゃ。……殺されたのじゃ」

「何に、お爺さん、何に障わったから？」

「木へ！　そう、一本の木へ！」

それから老人は歩き出した。三人はしばらく沈黙して歩いた。道がまた辻になっていた。

それを右へ曲がった時、屋敷勤めの仲間らしい男が、仰向けに道に仆れているのが見えた。

その男も死んでいた。

「お爺さん、またここにも！」

「障わったからじゃ。殺されたのじゃ」

「お爺さん、お爺さん、あなたのお力で……」

「あの木で殺された人間ばかりは、わしの力でもどうにもならない」

悪魔の一隊は今も近くの、裏通りあたりを通っていると見え、そうして又も人を殺したと見え、

「叱！」「叱！」という混乱した声が、三人の耳へ聞こえてきた。

美しき囚人

同じこの夜のことであった。

田安家の大奥の一室に、座敷牢が出来ていて、腰元風の若い女と、奥家老の松浦頼母とが、向かい合って坐っていた。

「<ruby><rb>八重</rb><rt>やえ</rt></ruby>、<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>は強情だのう」

眼袋の出来ている尻下りの眼へ、野獣的の光を湛え、酷薄らしい薄い唇を、なめずるように舌で濡らしながら、頼母はネットリとお八重へ云った。

「<ruby><rb>将軍家</rb><rt>うえさま</rt></ruby>より頂戴した器類を、館より次々に盗み出したことは、潔よく其方も白状したではないか。では何者に頼まれて、そのような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だいそれ</span>た悪事をしたか、これも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ついで</span>に云ってしまうがよい。……其方がどのようにシラを切ったところで、其方一人の考えから、そのような悪事を企てたものとは、誰一人として思うものはないのだからのう」

云うことは田安家の奥家老として、もっとも千万のことであり、問い方も厳しくはあったけれど、しかし頼母の声や態度の中には、不純な<ruby><rb>夾雑物</rb><rt>まじりもの</rt></ruby>が入っていて、ひどく厭らしさを感じさせるのであった。

「ご家老様」とお八重は云って、白百合のように垂れていた頸を、物憂そうに重々しく上げた。

「ご家老様へお尋ねいたしまするが、<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>様がもしもお館様より、これこれのことを致して参れと、ご命令をお受け遊ばされて、ご使命を執り行ない居られます途中で、相手の方に見現わされました際、貴郎様にはお館様のお名を、口にお出しなさるでございましょうか？」

「なにを馬鹿な、そのようなこと、わしは云わぬの、決して云わぬ」

「八重も申しはいたしませぬ」

「…………」

頼母は無言で眉をひそめたが、やがてその眉をのんびりさせると、大胆な美しいお八重の姿を、寧ろ感心したように眺めやった。

まことお八重は美しかった。年は二十二三でもあろうか、細々とした長目の頸は、象牙のように白く滑かであり、重く崩れて落ちそうな程にも、たくさんの髪の島田髷は、鬘かのように艶やかであった。張の強い涼しい眼、三ヶ月形の優しい眉、高くはあるがふっくりとした鼻、それが純粋の処女の気を帯びて、瓜実形の輪郭の顔に、綺麗に調和よく蒔かれている。

小造りの体に纏っている衣裳は、紫の<ruby><rb>矢飛白</rb><rt>やがすり</rt></ruby>の振袖で、帯は立矢の字に結ばれていた。

そういう彼女が牢格子の中の、薄縁を敷いた上に膝を揃えて、端然として坐っている姿は「美しい悲惨」そのものであった。牢の中は薄明るかった。というのは格子の外側に、頼母が提げて来たらしい、網行燈が置いてあって、それから射している幽かな光が、格子の間々から射し入って、明暗を作っているからであった。

「見上げたの、見上げたものじゃ」

ややあってから松浦頼母は、感心したような声で云った。

「武家に仕える女の身として、そういう覚悟は感心なものじゃ。……使命を仕損じた暁には、たとえ殺されても主人の名は云わぬ！　なるほどな、感心なものじゃ」

しかし、何となくその云い方には、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おだてる</span>ような所があった。そうしてやはり不純なものが、声の中に含まれていた。

「<ruby><rb>天晴</rb><rt>あっぱ</rt></ruby>れ女丈夫と云ってもよい。……処刑するには惜しい烈婦じゃ。……とはいえ、お館の掟としてはのう」

網行燈の光に照らされ、猪首からかけて右反面が、薄<ruby><rb>瑪瑙</rb><rt>めのう</rt></ruby>色にパッと明るく、左反面は暗かったが、明るい方の眼をギラリと光らせ、頼母はにわかに怯かすように云った。

「いよいよ白状いたさぬとあれば、明日<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>を打ち首にせよとの、お館様よりのお沙汰なのだぞよ！」

お八重と女猿廻し

しかしお八重は「覚悟の前です」と、そういってでもいるかのように、髪の毛一筋動かさなかった。ただ<ruby><rb>柘榴</rb><rt>ざくろ</rt></ruby>の蕾のような唇を、心持噛んだばかりであった。

（どうしてこんなことになったのだろう？）と彼女は心ひそかに思った。

お八重は今から二年ほど前に、奥方様附の腰元として、雇い入れられた女なのであるが、今日の昼間奥方様に呼ばれ、奥方様のお部屋へ行った。すると奥方様は彼女に向かい、百までの数字を書いてごらんと云われた。不思議なことと思いながら、云われるままに彼女は書いた。彼女は部屋へ戻ってから、そのようにして数字を書かされた者が、自分一人ではなくて大奥全体の女が、同じように書かされたということを聞いて、少しばかり不安に思った。

すると、間もなく奥方様のお部屋へ、また彼女は呼び出された。行ってみると何とその部屋には、奥家老の松浦頼母がいて、一葉の紙片を突き出した。昨夜女猿廻しのお<ruby><rb>葉</rb><rt>よう</rt></ruby>へ、独楽のなかへ封じ入れて投げて与えた、自分からの隠語の紙片であった。ハ――ッとお八重は溜息を吐いた。

頼母の訊問は烈しかった。

「隠語の文字と<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>の文字、同一のものと思われる、其方この隠語を書いたであろう？」

「書きましてござります」

「お館の外の何者かと<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>り、お館の器類を、数々盗んで持ち出したであろう？」

「お言葉通りにござります」

「これほどの大事を女の身一つで、行なったものとは思われぬ、何者に頼まれてこのようなことをしたか？」

「わたくしの利慾からにござります。決して<ruby><rb>誰人</rb><rt>どなた</rt></ruby>にも頼まれましたのではなく……」

「黙れ、浅はかな、隠し立ていたすか！　尋常な品物であろうことか、代々の将軍家より賜わった、当家にとっては至極の宝物ばかりを、選りに選って盗んだは、単なる女の利慾からではない。頼んだ者があるはずじゃ、何者が頼んだか名を明かせ！」

しかしお八重は口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んで、それについては一言も答えなかった。すると頼母は訊問を転じ、

「お館の外の共謀者、何者であるか素性を申せ！」

「申し上げることなりませぬ」

この訊問に対しても、お八重は答えを拒んだのであった。

そこで、お八重は座敷牢へ入れられた。

すると、このような深夜になってから、頼母一人がやって来て、また訊問にとりかかったのであった。

（どうしてこんなことになったのだろう？）

（どうして秘密の隠語の紙が、ご家老様の手へなど渡ったのだろう？）

これが不思議でならなかった。

（女猿廻しのあのお葉が、では頼母様の手に捕らえられたのでは？）

お葉と<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>っている女猿廻しは、お八重にとってはよい加担者であった。でもお葉を加担者に引き入れたのは、全く偶然のことからであった。――ある日お八重はお長屋の方へ、用を達すために何気なく行った。すると女の猿廻しが、お長屋で猿を廻していた。あんまりその様子が可愛かったので、多分の鳥目を猿廻しにくれた。これが縁の始まりで、その後しばしば女猿廻しとお八重は、あちこちのお長屋で逢って話した。その間にお八重はその女猿廻しが、聡明で大胆だということと、再々田安家のお長屋へ来て、猿を廻して稼ぐのは、単なる<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>のためではなく、何らか田安家そのものに対して、企らむところがあってのことらしいと、そういうことを見て取った。そこでお八重は女猿廻しを呼んで、自分の大事を打ち明けた。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は田安家の奥方様附の、腰元には相違ないけれど、その実は田安家に秘蔵されている、ある大切な器物を、盗み出すためにあるお方より、入り込ませられた者なのです。もっともその品を盗み出す<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>に、その他のいろいろの器物を、盗み出すのではありますけれど。……ついては<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>妾の加担者となって、盗んだ器物を機会を見て、妾から其方へ渡しますゆえ、其方その品を何処へなりと、秘密に隠しては下さるまいか。……是非にお頼みいたします。事成就の暁には、褒美は何なりと差し上げます」

こう大事を打ち明けた。すると女猿廻しは考えこんだが、

「田安様の品物が盗まれました際、その責任は田安様の、<ruby><rb>誰人</rb><rt>どなた</rt></ruby>に行くのでございましょうか？」と訊いた。

「それはまァ奥家老の松浦様へ」

「松浦へ！　おお松浦頼母へ！　……では<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>あなた様の、加担者になるでございましょう！　……そうしてあの松浦頼母めを、切腹になと召し放しになと！」と女猿廻しは力を籠めて云った。

それでお八重は女猿廻しのお葉が、何かの理由で松浦頼母に、深い怨みを抱いていることを、いち早く見て取ったが、しかしお葉がどういう<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>から、松浦頼母に怨みを抱くかを、押して訊こうとはしなかった。

二つ目の独楽

とにかくこうして二人の女は、それ以来一味となり、お八重から渡す隠語を<ruby><rb>手蔓</rb><rt>つて</rt></ruby>に、時と場所とを示し合わせ、お八重の盗み出す田安家の器物を、女猿廻しのお葉は受け取り、秘密の場所へ人知れず隠し、今日に及んで来たのであった。

（隠語の紙片が頼母様の手へ入った！　ではお葉も頼母様のお手に、引っとらえられたのではあるまいか？）

これがお八重の現在の不安であった。

（いやいや決してそんなことはない！）

お八重はやがて打ち消した。

（でも隠語を認めた紙片が、頼母様のお手へ入った以上、それを封じ込めてやったあの独楽が、頼母様のお手へ入ったことは、確かなことといわなければならない！）

これを思うとお八重の胸は、無念と口惜しさに煮えるのであった。

（淀屋の独楽を奪い取れ！　これがあの方のご命令だった。……淀屋の独楽を奪い取ろうとして、妾は二年間このお屋敷で、腰元奉公をしていたのだ。そうしてようやく目的を達し、淀屋の独楽を奪い取ったら、すぐに他人に奪い返されてしまった。何と云ったらいいだろう！）

代々の将軍家から田安家へ賜わった、数々の器類を奪ったのも、目的の一つには相違なかったが、真の目的はそれではなくて、淀屋の独楽を奪うことであった。

彼女は田安家へ入り込むや否や、淀屋の独楽の在場所を探した。と、教えられてきた淀屋の独楽と、そっくりの型の独楽を奥方妙子様が、ご秘蔵なされていることを知った。しかし一つだけ不思議なことには、その独楽は淀屋の独楽と違って、いくら廻しても独楽の面へ、一つとして文字を現わさなかった。

「では淀屋の独楽ではないのだろう」と思って、お八重は奪うことを躊躇した。ところが此頃になって老女の一人が「あの独楽は以前には廻す毎に、文字を現わしたものでございますが、いつの間にやらその事がなくなって、この頃ではどのように廻したところで、文字など一字も現われません」と話した。

「ではやはり奥方様お持ちの独楽は、淀屋の独楽に相違ない」とそうお八重は見極めをつけ、とうとうその独楽を昨日奪って、折柄塀外へ来たお葉の手へ、投げて素早く渡したのであった。今夜裏門にて――と隠語に書いたのは、望みの品物を奪い取ったのだから、もうこの屋敷にいる必要はない。でお葉に裏門まで来て貰って、一緒にこの屋敷から逃げ出そうと思い、さてこそそのように書いたのであった。

「ご家老様」とお八重は云って、今までじっと俯向いて、膝頭を見詰めていた眼を上げて、頼母の顔を正視した。

「隠語を記しましたあの紙片を、ご家老様には何者より？」

「あれか」

すると松浦頼母は複雑の顔へ一瞬間、冷笑らしいものを漂わせたが、

「<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>の恋人山岸主税が、わしの手にまで渡してくれたのよ！」

「え――ッ、まア！　いえいえそんな！」

物に動じなかったお八重の顔が、見る見る蒼褪め眼が血走った。

お八重の受難

そういうお八重を松浦頼母は、嘲笑いの眼で見詰めたが、

「去年の秋御殿で催された、観楓の酒宴以来<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>と<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>とが、恋仲になったということは、わしにおいては存じて居った。が、お八重其方も存じおるはずだが、其方を恋して其方という者を、主税より先に我物にしようと、懇望したものは誰だったかのう？」

頼母はお八重を嘗めるように見たが、

「わしであったはずじゃ、頼母であったはずじゃ」

云い云い頼母は老いても衰えない、盛り上っている肉太の膝を、お八重の方へニジリ寄せた。

お八重は<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ体を<ruby><rb>退</rb><rt>ず</rt></ruby>らせたが、しかしその瞬間去年の秋の、観楓の酒宴での出来事を、幻のように思い出した。

その日、夜になって座が乱れた。お八重は酒に酔わされたので、醒まそうと思って庭へ出た。と、突然背後から、彼女に触れようとする者があった。お八重は驚いて振り返ってみると、意外にも奥家老の松浦頼母で、

「<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>がお館へ上った日以来、わしは其方に執心だったのじゃ」と云った。

すると、そこへちょうど折よく、これも酒の酔いを醒まそうとして、通り掛かった山岸主税が、

「や、これはご家老様にはお八重殿にご酔興なそうな。アッ、ハッ、ハッ、お気の毒千万、そのお八重殿とわたくしめとは、夫婦約束いたした仲でござる。わたくしめの<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>をお取りなさるは殺生、まずまずお許し下されませ」と冗談にまぎらせて仲を距て、お八重の危難を救ってくれた。

ところがこれが縁となって、お八重と主税とは恋仲となり、<ruby><rb>肉体</rb><rt>からだ</rt></ruby>こそ未だに純潔ではあれ、末は必ず夫婦になろうと約束を結んだのであった。しかるに一方松浦頼母も、お八重への恋慕を捨ようとはしないで、絶えずお八重を口説いたことであった。そうして今お八重にとって、命の瀬戸際というこの時になって、……

「お八重」と頼母は唆かすように云った。

「今日の昼主税めわしの所へ参り、『私こと昨夜お館附近を、見廻り警戒いたしおりましたところ、怪しい女猿廻しめが、ご用地附近におりましたので、引っとらえようといたしましたところその猿廻しめは逃げましたが、独楽を落としましてござります。調べましたところ独楽に細工あって、隠語を認めましたこのような紙片が、封じ込めありましてございます。隠語を解けば――コンヤウラモンニテ、と。……思うにこれはお館の中に、女猿廻しの一味が居りまして、それと連絡をとりまして、お館の大切な器類を、盗み出したに相違なく、しかも女猿廻し一味のものは、女に相違ござりませぬ。何故と申せば隠語の文字、女文字ゆえでござりまする。左様、女にござりまする！　奥方様付のお腰元、お八重殿にごさりまする！　わたくしお八重殿の文字の癖をよく存じておりまする』とな。……」

「嘘だ嘘だ！　嘘でごさりまする！　主税殿が何でそのようなことを！」

手を握りしめ歯切りをし、お八重はほとんど狂乱の様で、思わず声高に叫ぶように云った。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の、妾の、主税様が！」

「フッフッフッ、ハッハッハッ、可哀そうや可哀そうや<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のう</span>お八重、<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>としては信じていた恋男が、そのようなことをするものかと、そう思うのは無理もないが、それこそ恋に眼の眩んだ、浅はかな女の思惑というもの、まことは主税というあの若造、軽薄で出世好みで、それくらいの所業など平気でやらかす、始末の悪い男なのじゃ。つまるところ恋女の其方を売って、自分の出世の種にしたのよ」

ここで頼母はお八重の顔を、上眼使いに盗むように見たが、

「だが、座敷牢へは入れたものの、其方の考え一つによって命助ける術もある。お八重、強情は張らぬがよい、この頼母の云うことを聞け！　頼母<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>の命を助ける！」と又肉太の膝をムズリと、お八重の方へ進めて行った。

陥穽から男が

すると、お八重の蒼白の顔へ、サッと血の気の注すのが見えたが、

「えい穢らわしい、何のおのれに！」

次の瞬間にお八重の口から、絹でも裂くように叫ばれたのは、憎悪に充ちたこの声であった。

「たとえ打ち首になろうとも、逆磔刑にされようとも、<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>ごときにこの体を、女の操を許そうや！　穢らわしい穢らわしい！　……山岸主税様が隠語の<ruby><rb>執筆家</rb><rt>かきて</rt></ruby>を、この八重と承知の上で、汝の許へ申し出たとか！　嘘だ、嘘です、何の何の、主税様がそのようなことをなされますものか！　……なるほど、あるいは主税様は、なにかの拍子に女猿廻しから、独楽に封じた隠語の紙を、お手に入れられたかもしれませぬが、わたくしの筆癖と隠語の文字とが、似ているなどと申しますものか！　もし又それにお気附きになったら、わたしの為に計られて、かえってそれを秘密にして、葬ってしまったでございましょう！　わたしに対する主税様の、熱い烈しい愛情からすれば……」

「黙れ！」と忍び音ではあったけれど、怒りと憎悪との鋭い声で、突然頼母は一喝したが、ヌッとばかりに立ち上った。

「何かと言えば主税様！　そうか、それほど山岸主税が、<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>には大切で恋しいか！　……よーしそれではその主税めを！　……が、まアよい、まアその中に、その主税様を忘れてしまって、頼母様、頼母様と<ruby><rb>可憐</rb><rt>いとし</rt></ruby>らしく、わしを呼ぶようになるであろう。またそのように呼ばせてもみせる。……とはいえ今の其方の様子ではのう。……第一正気でいられては……、眠れ！」と云うと壁の一所を、不意に頼母は指で押した。

と、その瞬間「あッ」という悲鳴が、お八重の口から迸り、忽然としてそのお八重の姿が、座敷牢から消えてなくなり、その代わりにお八重の坐って居た箇所へ、畳一畳ばかりの長方形の穴が、黒くわんぐりと口を開けた。<ruby><rb>陥穽</rb><rt>おとしあな</rt></ruby>にお八重は落ちたのであった。頼母は壁際に佇んだまま、陥穽の口を見詰めていた。すると、その口から男の半身が、<ruby><rb>妖怪</rb><rt>もののけ</rt></ruby>のように抽け出して来たが、

「お殿様、上首尾です」――こうその男は<ruby><rb>北叟</rb><rt>ほくそ</rt></ruby>笑みながら云った。

「そうか。そこで、気絶でもしたか？」

「ノンビリとお眠りでございます。……やんわりとした積藁の上に、お八重様にはお眠ねで」

「強情を張る女には、どうやらこの手がよいようだのう」

「死んだようになっている女の子を、ご介抱なさるのは別の味で……ところでお殿様お下りなさいますか？　……すこし<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>は急でござんすが」

「まさか穴倉の底などへは。……命じて置いた場所へ運んで行け」

「かしこまりましてございます」

奥眼と云われる窪んだ眼、鉤鼻と云われる険しい鼻、そういう顔をした四十五六歳の、陥穽から抽け出て来た男は、また陥穽の中へ隠れようとした。

と、頼母は声をかけた。

「八重めが途中で正気に返ったら、猿轡など噛ませて声立てさせるな。よいか勘兵衛、わかったろうな」

「わかりましてござります」

その男――勘兵衛は頷いて云った。

勘兵衛？　いかにもその男は、両国広小路の曲独楽の<ruby><rb>定席</rb><rt>こや</rt></ruby>の、太夫元をしていた勘兵衛であった。でもその勘兵衛は今日の夕方、その定席の裏木戸口で、浪速<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>のために独楽の紐で、締め殺されたはずである。それだのに生きてピンシャンしているとは？　しかも田安家の奥家老、松浦頼母というような、大身の武士とこのように親しく、主従かのように振舞っているとは？

しかしそういうさまざまの疑問を、座敷牢の中へ残したまま、勘兵衛は陥穽の中へ消えてしまった。と、下っていた陥穽の蓋が、自ずと上へ刎ね上り、陥穽の口を閉ざしてしまった。

頼母が網行燈をひっさげて、座敷牢から立去った後は、闇と<ruby><rb>静寂</rb><rt>さびしさ</rt></ruby>ばかりが座敷牢を包み、人気は全く絶えてしまった。

それから<ruby><rb>少時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>の時が経った。

同じ廓内の一所に、奥家老松浦頼母の屋敷が、月夜に厳めしく立っていた。その屋敷の北の隅に、こんもりとした植込に囲まれ、主屋と別に建物が立っていた。

土蔵造りにされているのが、この建物を陰気にしている。

と、この建物の一つの部屋に、山岸主税が高手籠手に縛られ、柱の傍に引き据えられてい、その周囲に五人の覆面の武士が、刀を引き付けて警戒してい、その前に淀屋の独楽の一つを、膝の上へ載せた松浦頼母が、主税を睨みながら坐ってい、そうしてその横に浪人組の頭の、飛田林覚兵衛が眼を嘲笑わせ、これも大刀を膝の前へ引き付け、主税を眺めている光景を、薄暗い燭台の黄色い光が朦朧として照していた。

それにしてもどうして山岸主税が、こんな所に縛られているのだろう？

そうして何故に飛田林覚兵衛が、こんな所へ現われて、松浦頼母の家来かのように、悠然と控えているのだろう？

悪家老の全貌

お茶の水で<ruby><rb>飛田林覚兵衛</rb><rt>とんだばやしかくべえ</rt></ruby>に襲われ、<ruby><rb>浪速</rb><rt>なにわ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>に助けられ、そのあやめが雇ってくれた駕籠で<ruby><rb>山岸主税</rb><rt>やまぎしちから</rt></ruby>は屋敷へかえって来た。

すると、屋敷の門前で、五人の覆面武士に襲撃された。まだ主税は身心衰弱していたので、他愛もなく捕らえられ、目隠しをされて運ばれた。

その目隠しを取られたところが、今居るこの部屋であり、自分の前には意外も意外、主家の奥家老である松浦頼母と、自分を襲った浪人の頭、飛田林覚兵衛がいるではないか！

夢に夢見るという心持、これが主税の心持であった。

「主税」と頼母は威嚇するように云った。

「淀屋の独楽を所持しおること、飛田林覚兵衛より耳にした。その独楽を当方へ渡せ！」

それから頼母は自分の膝の上の独楽を、<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>にのせて見せびらかすようにしたが、

「これが二つ目の淀屋の独楽じゃ。以前は田安殿奥方様が、ご秘蔵あそばされていたものじゃ。が、拙者代わりの品物を作り、本物とすり換えて本物の独楽は、<ruby><rb>疾</rb><rt>とく</rt></ruby>より拙者所持しておる。――と、このように秘密の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たくらみ</span>まで、自分の口から云う以上、是が非であろうと<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>の所持しておる独楽を、当方へ取るという拙者の決心を、其方といえども感ずるであろうな。隠し立てせずと独楽を渡せ！　……おおそれからもう一つ、其方に明かせて驚かすことがある。其方を襲った飛田林覚兵衛、此処におる覚兵衛じゃが、これは実は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>の家来なのじゃ」

「左様で」と初めて飛田林覚兵衛は、星の入っている薄気味悪い眼を、ほの暗い燭台の燈に光らせながら、

「拙者、松浦様の家来なのだ。淀屋の独楽を探そうため、浪速くんだりまで参ったのじゃ。浪速<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が独楽を持っていた。で、取ろうといたしたところ、あの女め強情に渡しおらぬ。そのうち江戸へ来てしまった。そこで拙者も江戸へ帰って、どうかして取ろうと苦心しているうちに、チョロリと貴殿に横取りされてしまった。と知った時松浦様へ、すぐご報告すればよかったのだが、独楽を探そうために長の年月、隠れ扶持をいただいておる拙者としては、自分の力で独楽を手に入れねばと、そこで貴殿を襲ったのじゃが、ご存知の通り失敗してしもうた。そこでとうとう我を折って、今夜松浦様へ小鬢を掻き掻き、つぶさに事情をお話しすると、では主税めを捕らえてしまえとな。……で、こういう有様となったので」

「主税」と今度は松浦頼母が、宥めすかすように猫撫声で云った。

「淀屋の財宝が目つかった際には、幾割かの分はくれてやる。その点は充分安心してよろしい。だから云え、どこにあるか。淀屋の独楽がどこにあるか。……それさえお前が云ってくれたなら、人を遣わして独楽を持って来させる。そうしてそれが事実淀屋の独楽であったら、即座に<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>の縄目を解き、我々の同士の一人として、わしの持っている独楽へ現われて来る隠語を、早速見せても<ruby><rb>進</rb><rt>しん</rt></ruby>ぜるし、二つの独楽をつき合わせ、互いの隠語をつなぎ合わせ、淀屋の財宝の在場所を調べるその謀議にもあずからせよう」

「黙れ！」と主税は怒声を上げた。

「逆臣！　いや悪党！」

乱れた鬢髪、血走った眼、蒼白の顔色、土気色の口、そういう形相を燭台の燈の、薄暗い中で強ばらせ、<ruby><rb>肋骨</rb><rt>あばら</rt></ruby>の見えるまで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はだかった</span>胸を、怒りのために小顫いさせ、主税は怒声を上げ続けた。

「お館様の寛大仁慈に、<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>つけ込んで年久しく、田安家内外に暴威を揮い、専横の振舞い致すということ、我ばかりでなく家中の誰彼、志ある人々によって、日頃取沙汰されていたが、よもや奥方様ご秘蔵の、淀屋の独楽を奪い取り、贋物をお<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に置いたとは、――そこまでの悪事を致しおるとは、何たる逆賊！　悪臣！　……いかにも拙者浪速<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>より、淀屋の独楽を貰い受けた。それも偶然貰い受けたばかりで、それには大して執着はない。長年その独楽を得ようとして、探し求めていたというからには、進んで呉れてやらないものでもない。……が、何の<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>ごときに――主君の家を乱脈に導き、奥方様のお大切の什器を、盗んだという汝如きに与えようや、呉れてやろうか！　それを何ぞや一味にしてくれるの、財宝の分け前与うるのと！　わッはッはッ、何を戯言！　一味になるは愚かのこと、縄引き千切り此処を脱け出し、直々お館にお眼通りいたし、汝の悪行を言上し、汝ら一味を狩りとる所存じゃ！　財宝の分け前与えると⁉　わッはッはッ、片腹痛いわい！　逆に汝の独楽を奪い、隠語の文字ことごとく探り、淀屋の財宝は一切合財、この主税が手に入れて見せる！　解け、頼母、この縄を解け！」

主税は満身の力を<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>め、かけられている縄を千切ろうとした。土気色の顔にパッと朱が注し、額から<ruby><rb>膏汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>が流れ出した。

生きている勘兵衛

「馬鹿者、騒ぐな、静かに致せ！」

<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>のそういう<ruby><rb>悲惨</rb><rt>みじめ</rt></ruby>な努力を、皮肉と嘲りとの眼をもって、憎々しく見ていた<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>は云った。

「縄は解けぬ、切れもしないわい！　……お前がこの場で執るべき道は、お前の持っておる独楽をわしに渡し、わしの一味配下となるか、それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひし</span>隠しに隠し、わしの配下に殺されるか、さあこの二つの道しかない！　……生きるつもりか、死ぬつもりか⁉　どうだ主税、どっちに致す！」

頼母は改めてまた主税を見詰めた。

しかし主税は返事さえしないで、憎しみと怒りとの籠った眼で、刺すように頼母を睨むばかりであった。

そういう主税を取り囲んで、まだ覆面を取らない五人の浪人は、すわといわば主税を切り伏せようと、刀の柄へ手をかけている。飛田林覚兵衛は例の気味の悪い、星の入っている眼を天眼に据えて、これも刀の柄へ手をかけながら、松浦頼母の横手から、主税の挙動を窺っていた。

部屋の<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>は殺気を帯び、血腥い事件の起こる前の、息詰るような<ruby><rb>静寂</rb><rt>しずけさ</rt></ruby>にあった。

「そうか」と頼母はやがて云った。

「物を云わぬな、黙っているな、ようし、そうか、では憂目を！」

覚兵衛の方へ顔を向け、

「こやつに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あれ</span>を見せてやれ！」

覚兵衛は無言で立ち上り、隣室への<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>をあけた。

何がそこに有ったろう？

猿轡をはめられ腕を縛られ、髪をふり乱した腰元のお八重が、桔梗の花の折れたような姿に、畳の上に横倒しになってい、それの横手に<ruby><rb>蟇</rb><rt>ひき</rt></ruby>かのような姿に、勘兵衛が<ruby><rb>胡座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を掻いているのであった。

「お八重！」と思わず声を筒抜かせ、主税は猛然と飛び立とうとした。

「動くな！」と瞬間、覆面武士の一人が、主税の肩を抑えつけた。

「お八重、どうして、どうしてここへは⁉　おおそうしてその有様は⁉」

お八重は顔をわずかに上げた。起きられないほど弱っているらしい。こっちの部屋から襖の<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>を通して、射し込んで行く幽かな燈の光に、蛾のように白いお八重の顔が、鬢を顫わせているのが見えた。猿轡をはめられている口であった。物云うことは出来なかった。

「お八重さんばっかりに眼をとられて、あっしを見ねえとは<ruby><rb>阿漕</rb><rt>あこぎ</rt></ruby>ですねえ」

胡座から立て膝に直ったかと思うと、こう勘兵衛が<ruby><rb>冷嘲</rb><rt>ひやか</rt></ruby>すように云った。

「見忘れたんでもござんすまいに」

「わりゃア勘兵衛！」と主税は叫んだ。

「死んだはずの勘兵衛が！」

「いかにも殺されたはずの勘兵衛で、へへへ！」と白い歯を見せ、

「あの時あっしア確かに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みっしり</span>、締め殺されたようでござんすねえ。……殺そうとした奴ア<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていまさア。‥…<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の<ruby><rb>阿魔</rb><rt>あま</rt></ruby>に相違ねえんで。……あの阿魔以前からあっしの命を、取ろう取ろうとしていたんですからねえ。……取られる<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>もあるんですから、まあまあそいつア仕方ねえとしても、どうやらあっしというこの人間、あんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちょろっか</span>の締め方じゃア、殺されそうもねえ罪業者と見え、次の瞬間にゃア生き返って、もうこの通りピンピンしていまさあ。……そこでこの屋敷へ飛んで来て、淀屋の独楽を取らねえ先に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の阿魔に逃げられたってこと、松浦様にご報告すると……」

「それでは<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>も松浦頼母の……」

重ね重ねの意外の事件に、主税は心を顛倒させながら、<ruby><rb>嗄</rb><rt>しゃが</rt></ruby>れた声で思わず叫んだ。

恋人が盗賊とは

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたぼう</span>よ、ご家来でさあ……もっとも<ruby><rb>最初</rb><rt>はな</rt></ruby>は松浦様のご舎弟、<ruby><rb>主馬之進</rb><rt>しゅめのしん</rt></ruby>様のご家来として、馬込の里の<ruby><rb>荏原</rb><rt>えばら</rt></ruby>屋敷で……」

「<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るな！」と叱るように一喝したのは、刀を杖のように突きながら、ノッソリと立ち上った頼母であった。

「お喋舌り坊主めが、何だベラベラと」

それから主税の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ行った。

「主税」と頼母は横柄の態度で、主税を上から見下ろしたが、

「<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>の恋女腰元八重、<ruby><rb>縛</rb><rt>いまし</rt></ruby>められてこの屋敷に居ること、さぞ其方には不思議であろうな。……その理由明かしてとらせる！　お館にての頻々たる盗難、……その盗人こそ八重であったからじゃ！」

「…………」

主税は無言で頼母を見上げた。余り意外のことを云われたので、その言葉の意味が受け取れず、で、呆然としたのであった。

「代々の将軍家より当田安家に対し下し賜わった名器什宝を、盗み出した盗人こそ、そこに居る腰元八重なのじゃ！」

驚かない主税をもどかしがるように、頼母は言葉に力を<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めて云った。

「…………」

しかし、依然として主税は無言のまま、頼母の顔を見上げていた。

と、静かに主税の顔へ、ヒヤリとするような凄い笑いが浮かんだ。

（この姦物め、何を云うか！　そのような出鱈目を云うことによって、こっちの心を惑わすのであろう。フフン、その手に乗るものか）

こう思ったからである。

「主税！」と頼母は吼えるように喚いた。しかし、今度は<ruby><rb>反対</rb><rt>あべこべ</rt></ruby>に、訓すような諄々とした口調で云った。

「女猿廻しより得たと申して、今朝<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>隠語の紙片と独楽とを、わしの許まで持って参り、お館の中に女の内通者あって、女猿廻しと連絡をとり、隠語の紙を<ruby><rb>伝</rb><rt>つて</rt></ruby>として、お館内の名器什宝を、盗み出すに相違ござりませぬ。隠語の文字女文字にござりますと、確かこのように申したのう。そこでわしはこの旨お館に申し、更に奥方様のお手を借り、大奥の腰元全部の手蹟を、残るところなく調べたのだ。するとどうじゃ、八重めの文字が、隠語の文字と同じではないか。そこで八重めを窮命したところ、盗人に相違ござりませぬと、素直に白状いたしおったわ」

「嘘だ！」と悲痛の主税の声が、腹の底から絞るように出た。

「八重が、八重殿が、盗人などと！　嘘だ！　信じぬ！　嘘だ嘘だ！」

しかし見る見る主税の顔から、血の気が消えて鉛色となった。

（もしや！）という疑惑からのことであろう。

そうして彼の眼――主税の眼は、頼母から離れて隣の部屋の、お八重の方へ移って行った。

「あッはッはッ、そう思うであろう。……恋女の八重が館の盗人！　これは信じたくはあるまいよ。……が、事実は事実なのでのう、信じまいとしても駄目なのじゃ。……念のため八重自身の口から、盗人の事実を語らせてやろう」

勘兵衛の方へ顔を向けると、

「その猿轡はずしてやれ」と頼母は冷然とした声で云った。

つと勘兵衛の手が伸びた時には、お八重の口は自由になっていた。

「八重殿！」と、それを見るや山岸主税は、ジリジリとそっちへ膝を進め、

「よもや、八重殿！　八重殿が⁉」

「山岸様！」とお八重は叫んだ。倒れていた体を起き返らせ、主税の方へ胸を差し出し、髪のふりかかった蒼白の顔を、苦痛に歪めて主税の方へ向け、歯ぎしるような声でお八重は叫んだ。

「深い事情はござりまするが、お館の数々の器類を、盗み出しましたはこの<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby>、この八重めにござります！」

その次の瞬間には彼女の体は、前のめりに倒れていた。そこから烈しい泣き声が起こった。畳へ食いついて泣き出したのである。

主税の全身に顫えが起こった。そうして彼の体も前のめりに倒れた。背の肉が波のように蜒っている。恋人八重が盗人とは！　これが彼を男泣きに泣かせたのらしい。

そういう二人を<ruby><rb>左見右見</rb><rt>とみこうみ</rt></ruby>しながら、頼母は酸味ある微笑をしたが、やがて提げていた刀の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>で主税の肩をコツコツと突き、

「八重が盗人であるということ、これで<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>にも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ったであろうな。……八重めはお館の命により、明朝打ち首に致すはずじゃ。……が、主税、よく聞くがよい、其方の持っておる淀屋の独楽を、わしの手へ渡すということであれば、八重の命はわしが助けてやる。そうして此処から逃がしてやる。勿論、その後は二人して夫婦になろうとそれは自由じゃ」

ここで頼母は言葉を切り、また二人をじろり見て、

「それともあくまで強情を張って、淀屋の独楽を渡さぬとなら、この場において<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>を殺し、明朝八重を打ち首にする。……主税、強情は張らぬがよいぞ。独楽の在り場所を云うがよい」

極重悪木の由来

この頃<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>の往来を、植木師の一隊が通っていた。そうして老人と美少年と、女猿廻しのお葉とが、その後を<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>て歩いていた。

と、静かに三人は足を止めた。

行手に大名屋敷の土塀が見え、裏門らしい大門が見え、その前へ植木師の一隊が、植木を積んだ車を囲み、月光の中に黒く固まり、動かずに佇んだからであった。

大名屋敷は田安家であった。

と、白い髪を肩の辺りで揺るがせ、白い髯を胸の辺りで顫わせ、深い感情を抑え切れないような声で「<ruby><rb>飛加藤</rb><rt>とびかとう</rt></ruby>の亜流」という老人は云った。

「数日前に『極重悪木』を、彼ら田安家へ植え込んで、腰元を数人殺したそうだが、今夜も田安家へ植え込もうとしておる。……彼、<ruby><rb>東海林自得斎</rb><rt>しょうじじとくさい</rt></ruby>め、よくよく田安家に怨みがあると見える！」

「お爺さん」とお葉は恐ろしそうに訊いた。

「極重悪木と<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るのは？　東海林自得斎と仰有るのは？」

「<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>たちの祖師様とはいつの場合でも、反対の立場に立っている、世にも恐ろしい恐ろしい男、それが東海林自得斎なのだよ。その男も私達の祖師様のように、三十年もの間一本の木を、苦心惨憺して育てたのだよ。それが極重悪木なのだ。触った生物を殺す木なのだ。来る道々按摩を殺し、仲間を殺したその木なのだ。あそこにいる植木師たちの植木の中に、その木が一本雑っているのだよ」

「その東海林自得斎という男、何をしてどこに居りますの？」

「日本一大きな植木師として、秩父山中に住んでいるのだよ。<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かの山、幾個かの谷、沢や平野を買い占めてのう。幾万本、いや幾十万本の木を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とりこ</span>にして置いて育てているのだよ。そうして大名衆や旗本衆や、大金持の人々から、大口の注文を承わっては、即座に数十本であろうと数百本であろうと、どのような珍木異木であろうと、注文通り納めているのだよ」

「そういう大きな植木師をしながら、人を殺す恐ろしい毒の木を、東海林自得斎は育てて居りますのね」

「いいや、今では数を殖やしているのさ。三十年もの間研究して極重悪木を作り上げたのだから、今ではその数を殖やしているのだよ。……憎いと思う人々の屋敷へ植え込んで、そこの人を根絶しにするためにな」

「その恐ろしい木が、極重悪木が、田安家へ植えこまれたと仰有るのね！　今夜も植えこまれると仰有るのね！　まあ、こうしてはいられない！　お八重様があぶない、お八重様のお命が！」

お葉は夢中のように歩き出した。

田安家の横手の土塀の前へ、女猿廻しのお葉が現われたのは、それから間もなくのことであった。

土塀の上を蔽うようにして、植込の松や楓や桜が、林のように枝葉を繁らせ、その上に月がかかっていて、その光が枝葉の間を通して、お葉の体へ光の<ruby><rb>飛白</rb><rt>かすり</rt></ruby>や、光の縞を織っている。そのお葉は背中に<ruby><rb>藤八</rb><rt>とうはち</rt></ruby>と名付ける、可愛らしい小猿の眠ったのを背負い、顔を上向けて土塀の上を、思案しいしい眺めていた。

「飛加藤の亜流」という老人と別れて、一人此処へ来たお葉なのであった。でも何のために此処へ来て、何をしようとするのであろう。

意外な邂合

「藤八よ」とお葉は云って、背中の小猿を揺り起こした。

「さあこれを持って木へ登って、木の枝へしっかり巻きつけておくれ」

腰に挟んでいた一丈八尺の紐を、お葉は取って小猿へ渡した。と直ぐに小猿が土塀を駆け上り、植込の松の木へ飛び付いた姿が、黒く軽快に月光に見えた。でも直ぐに小猿は飛び返って来た。紐が松の枝から土塀を越して、お葉の手にまで延びている。間もなくその紐を手頼りにし、藤八猿を肩にしたまま、塀を乗り越えるお葉の姿が、これも軽快に月光に見えた。

紐を<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>って腰へ挿み、藤八猿を肩にしたまま、お葉は田安家の土塀の内側の、植込の根元に身をかがめ、じっと<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻した。それにしてもお葉は何と思って、田安家のお庭へなど潜入したのであろう？　自分の加担者の腰元お八重へ、極重悪木という恐ろしい木の、植え込まれたことを告げ知らせ、その木へ決して触わらぬようにと、注意をしたいためからであった。

（お八重様の居り場所どこかしら？）

お葉は眼を四方へ配った。

三卿の筆頭であるところの、田安中納言家のお屋敷であった。客殿、本殿、脇本殿、<ruby><rb>離亭</rb><rt>はなれ</rt></ruby>、厩舎、<ruby><rb>望楼</rb><rt>ものみ</rt></ruby>台、そういう建物が厳しく、あるいは高くあるいは低く、木立の上に聳え木立の中に沈み、月光に光ったり<ruby><rb>陰影</rb><rt>かげ</rt></ruby>に暗まされたりして、宏大な地域を占領している。

（奥方様付きのお腰元ゆえ、大奥にお<ruby><rb>在</rb><rt>い</rt></ruby>でとは思うけれど、その大奥がどこにあるやら？）

といっていつ迄も植込の中などに、身を隠していることも出来なかったので、

（建物の方へ忍んで行ってみよう）

で、彼女は植込を出て、本殿らしい建物の方へ、物の陰を辿って歩いて行った。

この構内の一画に、泉水や築山や石橋などで、<ruby><rb>形成</rb><rt>かたちづく</rt></ruby>られている庭園があったが、その庭園の石橋の袂へ、忽然と一人の女が現われたのは、それから間もなくのことであった。女は？　<ruby><rb>浪速</rb><rt>なにわ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>であった。鼠小紋の小袖に小柳襦子の帯、お高祖頭巾をかむった<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>であった。

それにしても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>はほんの<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>まで、女猿廻しお葉として、老人主従と連れ立ってい、そうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つい</span>今しがた同じ姿で、土塀を乗り越えてこの構内へ、潜入をしたはずだのに、今見れば町家の女房風の、浪速<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>としてここにいるとは？

短かい短かい時間の間に、あるいは女猿廻しお葉となり、あるいは曲独楽使いの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>となる！　この女の本性は何なのであろう？

正体不可解の浪速<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は、石橋の袂に佇みながら、頭巾と肩とをわけても鮮かに、月の光に曝しながら、正面に見えている建物の方を、まじろぎもせず眺めていたが、やがてその方へ歩き出した。

と、築山の裾を巡った。

とたんに彼女は「あッ」と叫んで、居縮んだように佇んだ。同時に彼女の正面からも、同じような「あッ」という声が聞こえた。見ればそこにも女がいて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の顔を見詰めながら、居縮んだように立っている。それは女猿廻しのお葉であった。

おお、では二人のこの女は、別々の女であるのだろうか！　そうとしか思われない。

それにしても何と二人の女は、その顔立から肉付から、年恰好から<ruby><rb>同一</rb><rt>おんなじ</rt></ruby>なのであろう！　そうして何とこの二人は、経歴から目的から同一なのであろう！　二人の女の関係はどうなのであろう？

お茶の水で主税を助けた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は、辻駕籠を雇って主税を乗せて彼の屋敷へまで送ってやった。

でも彼女は心配だったので、見え隠れに駕籠の後をつけて、彼の屋敷の前まで来た。と五人の覆面武士が現われ、主税を手籠めにして担いで逃げた。

（一大事！）と彼女は思い、その一団の後を追った。が、この構内へ入り込んだ時には、その一団はどこへ行ったものか、姿がみえなくなっていた。

（どうあろうと主税様をお助けしなければ）

そこで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は主税を探しにかかった。

その結果がこうなったのである。

双生児の姉妹

「まあお前は妹！」

「お<ruby><rb>姉様</rb><rt>あねえさま</rt></ruby>か！」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とそうしてお葉の口から、こういう声のほとばしったのは、それから間もなくのことであり、その次の瞬間には二人の女は、抱き合ったままで地に坐っていた。

お高祖頭巾をかむった町女房風の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>と、猿廻し姿のお葉とが、搦み合うようにして抱き合って、頬と頬とをピッタリ付けて、烈しい感情の昂奮から、忍び泣きの音を洩らしている姿は、美しくもあれば妖しくもあった。

築山の裾に茂っているのは、満開の花をつけた<ruby><rb>連翹</rb><rt>れんぎょう</rt></ruby>の<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>で、黄色いその花は月光に化かされ、卯の花のように白く見えていたが、それが二人の女を蔽うように、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方から冠さっていた。

「お葉や！　おおおおその姿は！　……猿廻しのその姿は！　……別れてから経った日数は十年！　……その間中わたしは雨につけ風につけ、一日としてお前のことを、思い出さなかったことはなかったのに！　……<ruby><rb>高麗郡</rb><rt>こまごおり</rt></ruby>の高麗家と並び称され、関東での旧家と尊ばれている、<ruby><rb>荏原</rb><rt>えばら</rt></ruby>郡の荏原屋敷の娘が、猿廻しにおちぶれたとは！　……話しておくれ、その後のことを！　話しておくれ、お前の身の上を！」

妹お葉の背へ両手を廻し、それで抱きしめ抱きしめながら、喘ぐように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は云うのであった。

「お姉様、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>お姉様！」と、姉の胸の上へ顔を埋め、しゃくりあげながらお葉は云った。

「十年前に……お姉様が……不意に家出をなされてからというもの……わたしは、毎日、まアどんなに、お帰りなさる日をお待ちしたことか！　……いつまでお待ちしてもお帰りにならない。……そのうちだんだんわたしにしましても、お家にいることが苦痛になり……それでとうとう同じ年の、十二月の雪の日に、お姉様と同じように家出をし……」

「おお、まアそれではお前も家出を……」

「それからの憂艱難と申しましたら……世間知らずの身の上が祟って……<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>されたり売られたり……そのあげくがこんな身分に……」

「お葉や、わたしも、そうだった。今のわたしの身分といったら、曲独楽使いの太夫なのだよ！　……荏原屋敷の娘、<ruby><rb>双生児</rb><rt>ふたご</rt></ruby>のお嬢様と、自分から云ってはなんだけれど、可愛らしいのと幸福なのとで、人に羨まれたわたしたち二人が、揃いも揃って街の芸人に！」

泉水で鯉が跳ねたのであろう、鞭で打ったような水音がした。

高く<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬきんで</rt></ruby>て白蓮の花が、――夜だから花弁をふくよかに閉じて、宝珠かのように咲いていたが、そこから甘い惑わすような匂いが、双生児の<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の悲しい思いを、慰めるように香って来ていた。

「お葉や」とやがて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は云った。

「わたし決心をしたのだよ。一生の大事を遂げようとねえ」

「お姉様」とお葉も云った。

「わたしも、わたしも、そうなのです！　一生の大事を遂げようと、決心したのでございます！」

「わたし、<ruby><rb>主馬之進</rb><rt>しゅめのしん</rt></ruby>を殺す<ruby><rb>意</rb><rt>つもり</rt></ruby>なのだよ！　お父様を殺し、お母様を<ruby><rb>誑</rb><rt>たぶらか</rt></ruby>し、荏原屋敷を乗っ取って、わたしたち二人を家出させた、極悪人の主馬之進をねえ」

「お姉様」とお葉は云って、ヒタと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の顔を見詰め、

「わたしは、主馬之進をそそのかして、そういう悪事を行なわせた、主馬之進の兄にあたる、田安家の奥家老、<ruby><rb>松浦頼母</rb><rt>まつうらたのも</rt></ruby>を殺そうと、心掛けておるのでございます！」

「え⁉」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は仰天したように、

「お葉や、一体、それは一体！　……」

「おお、お姉様お姉様、あなたはご存知ないのです。……お姉様よりも六七ヶ月後に、家出をいたしたこのお葉ばかりが、知っていることなのでございます。……その六七ヶ月の間中、わたしは主馬之進という人間の素性を、懸命に探ったのでございます。その間幾度となく立派な<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>が、微行して屋敷へ参りまして、主馬之進と密談いたしましたり、主馬之進と一緒に屋敷内を、そここことなく探したりしました。探った結果その武士こそ、主馬之進の実の兄の、田安家の奥家老、松浦頼母だと知りました」

「知らなかった、わたしは！　まるで知らなかった！　……でもどうしてそんな立派な、田安中納言様の奥家老が、実の弟を荏原屋敷へ入れたり、自身微行して訪ねて行ったり？」

「慾からですお姉様、慾からです！　……それも大きな慾から！　……」

荏原屋敷の秘密

どこから話したらよかろうかと、思案するかのようにお葉は黙って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の顔を見守った。

<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>二人が抱き合った時、お葉の肩から飛び下りた小猿は――藤八猿は築山の頂きに、赤い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃんちゃんこ</span>を着て置物のように坐り、姉妹の姿を見下ろしている。

「高麗郡の高麗家と同じように、荏原郡の荏原屋敷が、天智天皇様のご治世に、高麗の国から移住して来た人々の、その<ruby><rb>首領</rb><rt>おかしら</rt></ruby>を先祖にして、今日まで連綿と続いて来た、そういう屋敷だということは、お<ruby><rb>姉様</rb><rt>あねえさま</rt></ruby>もご存知でございますわねえ」とやがてお葉は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しんみり</span>と、囁くような声で語り出した。

「その移住して来た人々が、高麗の国から持って来た宝を、荏原屋敷で保管して、代々伝えたということも、お姉様にはご存知ですわねえ。……でも、その宝物は長い年月の間に、持ち出されて使い果たされ、尋常の人間の智慧ぐらいでは、絶対に発見することの出来ない、宝物の<ruby><rb>隠匿</rb><rt>かくし</rt></ruby>場所ばかりが、今も荏原屋敷のどこかにあるという、そういうこともお姉様には、伝説として聞いて知っていますわねえ。……ところが……」と云って来て<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の両手を、お葉は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひし</span>と握りしめ、一層声を落として云った。

「ところが今から百五十年前、元禄年間に大財産が、その隠匿所へこっそりと、仕舞い込まれたということですの」

「まあ」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>も唾を呑み、握られている手を握り返したが、

「どういう財産？　どういう素性の？」

「<ruby><rb>浪速</rb><rt>なにわ</rt></ruby>の豪商淀屋辰五郎が、<ruby><rb>闕所</rb><rt>けっしょ</rt></ruby>になる前に家財の大半を、こっそり隠したということですが、その財産だということですの」

「まあ淀屋の？　淀辰のねえ」

「それをどうして知ったものか、松浦頼母が知りまして、美貌の弟の<ruby><rb>主馬之進</rb><rt>しゅめのしん</rt></ruby>を進め、わたし達のご両親に接近させ、そのあげくにお父様を、あのような手段で非業に死なせ、お母様を<ruby><rb>誑</rb><rt>たぶら</rt></ruby>かし、わたし達の家へ入婿になり……」

「おおなるほどそうなのかえ、そうして財産の隠匿場所を……」

「そうなのですそうなのです、時々やって来る頼母と一緒に、主馬之進めはその隠匿場所を……」

「<ruby><rb>発見</rb><rt>みつけだ</rt></ruby>そうとしているのだねえ。……そう聞いてみれば松浦頼母めが、お父様の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>の元兇なのだねえ。……ああそれでやっとわたしには<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>った。何でお前がこのような所へ、こんな田安様のお屋敷内へ、忍び込んで来たのかと不思議だったが、では頼母を殺そうとして……」

「いいえお姉様わたしはそれ前に、ここのお腰元のお八重様のお命を……それよりお姉様こそどうしてここへ？」

「ここのご家臣の山岸主税様の、お命をお助けいたそうとねえ……」

こうして<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>は<ruby><rb>各自</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の目的を――この夜この屋敷内へ忍び込んだ、その目的を話し出したが、この頃主税とお八重とは、どんな有様であるのであろう？

崩折れる美女

<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>とお<ruby><rb>八重</rb><rt>やえ</rt></ruby>とは依然として、松浦<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>の屋敷の部屋に、縄目の恥辱を受けながら、二人だけで向かい合っていた。

「独楽を渡して配下になるか、それとも拒んで殺されるか？　即答することも困難であろう。しばらく二人だけで考えるがよい」

こう云って頼母が配下を引き連れ、主屋の方へ立ち去ったので、二人だけとなってしまったのである。

一基の燭台には今にも消えそうに、蝋燭の火がともってい、その光の穂を巡りながら、小さい蛾が二つ飛んでいる。

顔に乱れた髪をかけ、その顔色を蒼白にし、衣紋を崩した主税の体は、その燭台の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にあった。そうして彼の<ruby><rb>空洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>のような眼は、飛んでいる蛾に向けられていた。

（もともと偶然手に入った独楽だ。頼母にくれてやってもよい。莫大な金高であろうとも、淀屋の財産など欲しいとは思わぬ。……しかしこのように武士たる自分を、恥かしめ、虐み、威嚇した頼母の、配下などには断じてなれない。と云って独楽を渡した上、頼母の配下にならなければ、自分ばかりかお八重の命をさえ、頼母は取ると云っている。残忍酷薄の彼のことだ、取ると云ったら取るだろう。……命を取られてたまるものか？）

無心に蛾の方へ眼を向けたまま、こう主税は思っていた。

一つの蛾が朱筆の穂のような<ruby><rb>火先</rb><rt>ほさき</rt></ruby>に、素早く嘗められて畳の上へ落ちた。死んだと見えて動かなかった。

（ではやっぱり頼母の意志に従い、淀屋の独楽を渡した上、彼の配下になる以外には、他に手段はないではないか）

逆流する血の気を<ruby><rb>顳顬</rb><rt>こめかみ</rt></ruby>の辺りへ感じた。しかし努力して冷静になった。

（そうだ独楽を渡した上、あなた様の配下になりますると、偽りの誓言を先ず立てて、ともかくも命を助かろう。その余のことはそれからで出来る）

何よりも命を保たなければと、主税はそれを思うのであった。

（それにしてもお八重が盗人とは！　お館の宝物の数々を盗んだ、その盗人がお八重だとは！）

これを思うと彼は発狂しそうであった。

（恋人が盗人とは！　それも尋常の盗人ではない、お館を破滅に導こうとする、獅子身中の虫のような盗人なのだ！）

見るに忍びないというような眼付をして、主税は隣室の方へ眼をやった。

そこにお八重が突っ伏していた。

こっちの部屋から流れこんで行く<ruby><rb>燈光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>で、その部屋は<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼっ</rt></ruby>と明るかったが、その底に<ruby><rb>濃紫</rb><rt>こむらさき</rt></ruby>の<ruby><rb>斑點</rb><rt>しみ</rt></ruby>かのように、お八重は突っ伏して泣いていた。

泣き声は聞こえてはこなかったが、畳の上へ両袖を重ね、その袖の上へ額を押しつけ、片頬を主税の方へわずかに見せ、その白い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふっくり</span>した艶かしい片頬を、かすかではあるが規則正しく、上下に揺すって動かしているので、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃくりあげ</span>ていることが窺われた。

それは可憐で痛々しくて、叱られて泣いている子供のような、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あどけなさ</span>をさえ感じさせる姿であった。

（あの子が、お八重が、何で盗人であろう！）

そういう姿を眼に入れるや、主税は猛然とそう思った。

（これは何かの間違いなのだ！）

「お八重殿」と<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れた声で、主税は嘆願でもするように云った。

「真実を……どうぞ、本当のことを……お話し下され、お話し下され！　……盗人などと……嘘でござろうのう」

狂わしい心持で返事を待った。

と、お八重は顔を上げた。

宵闇の中へ夕顔の花が、不意に一輪だけ咲いたように、上げたお八重の顔は蒼白かった。

「山岸様！」と、その顔は云った。

「八重は死にます！　……殺して下さりませ！　……八重は盗人でござります！　……深い事情がありまして……あるお方に頼まれまして……お館の数々のお宝物を、盗んだに相違ござりませぬ。……<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>様のお手にかかりまして、もし死ねましたら八重は本望！　……悲しいは愛想を尽かされますこと！　……死にたい！　殺して下さりませ！」

花が不意に散ったように、お八重の顔は沈んで袖の上へ消えた。

泣き声が細い糸のように引かれた。

（そうか、やっぱり盗人なのか）

主税は首を膝へ垂れた。

（深い事情があるといった。そうだろう！　その事情は？）

泣き声はなおも断続して聞こえた。

（事情によっては許されもするが……）

（あるお方に頼まれたという。何者だろう、頼んだものは？）

「ここを出たい！」と声に出して、主税は思わずそう叫んだ。

縄を千切って、お八重を助け出して、ここを出たい！　ここを出たい！

<ruby><rb>無効</rb><rt>むだ</rt></ruby>と知りながら又主税は、満身に力を籠めて体を揺すった。

しかし、縄は切れようともしない。

時がだんだん経って行く。

廊下に向いて立てられてある襖が、向う側から開いたのは、それから間もなくのことであった。

（来たな、頼母め！）と主税は睨んだ。

しかるに、部屋の中へ入って来たのは、赤い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃんちゃんこ</span>を着た小猿であった。

「猿！」と主税は思わず叫んだ。

途端に、小猿は飛びかかって来た。

「こやつ！」

しかし藤八猿は、主税の体にかかっている縄を、その鋭い歯で食い切り出した。

どこからともなく口笛の音が、猿の所業を鼓舞するかのように、幽かに幽かに聞こえてきた。

第二の独楽の文字

この頃主屋の一室では、覚兵衛や勘兵衛を相手にして、松浦<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>が話していた。<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>には杯盤が置き並べてあり、酒肴などがとり散らされていた。

「これに現われて来る文字というものが、まことにもって訳の<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らないものでな、ざっとまアこんな具合なのだ」

云い云い頼母は握っていた独楽を、畳の上で捻って廻した。幾台か立ててある燭台から、華やかな<ruby><rb>燈光</rb><rt>ひのひかり</rt></ruby>が射し出ていて、この部屋は美しく明るかったが、その<ruby><rb>燈光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>に照らされながら、森々と廻っている独楽の面へ、白く文字が現われた。

「屋の財宝は」という五つの文字であった。

「屋の字の上へ淀という字を入れれば、淀屋の財宝はという意味になって、これはまアまア解るにしても、その後に出る文字が解らないのだ」

頼母はまた手を延ばし独楽を捻った。烈しく廻る独楽の面へは、「代々」という二つの文字と「守護す」という三つの文字と「見る日は南うしろ北」という、九つの文字とが現われた。

「この意味はまったく解らないのう？」

頼母の声は当惑していた。

「が、主税めの持っている独楽を奪い、それへ現われ出る文字と合わせたら、これらの文字の意味は解るものと思う。どっちみち淀屋の財宝についての、在場所を示したものに相違ないのだからのう」

「その主税めもうそろそろ、決心した頃かと存ぜられます」と<ruby><rb>飛田林覚兵衛</rb><rt>とんだばやしかくべえ</rt></ruby>が追従笑いをしながら云った。

「誰もが命は惜しいもので。独楽は渡さぬ、配下にもならぬなどと、彼とてよもや申しますまい」

「そりゃアもう云うまでもないことで」とつづいて勘兵衛が合槌を打った。

「ましてや独楽を献上し、お殿様の配下になりさえすれば、お八重様という美しいお腰元と、夫婦になれるというのですからねえ。……が、そうなるとお殿様の方は？」と頼母の方へ厭な眼を向け、

「そうなりまするとお殿様の方は、お八重様をご断念なされるので？」

「またお<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りか」と苦笑いをし、頼母はジロリと勘兵衛を睨んだ。

「性懲りもなく又ベラベラと」

「これは、えへ、えッヘッヘッ」

勘兵衛は亀のように首を縮めた。

覆面をしていた五人の浪人も、今は頭巾を脱ぎすてて、遥か末座に居並んで、つつましく酒を飲んでいる。

（八重！　くれるには惜しい女さ）

ふと頼母はこう思った。

（が、独楽には換えられぬ。……それに主税というような、敵ながら立派な若い武士を、味方にすることが出来るのなら、女一人ぐらい何の惜しむものか）

その主税が主謀者となり、<ruby><rb>鷲見与四郎</rb><rt>すみよしろう</rt></ruby>といったような、血の気の多い正義派の武士たちが、どうやら一致団結して、以前から頼母の遣り口に対し――田安お館への施政に対し、反対しようとしていることを、頼母は薄々感付いていた。その主謀者の主税に恩を売り、八重を女房に持たせることによって、味方につけることが出来るのなら、こんな好都合なことはないと、そう頼母は思うのであった。

「誰か参って主税と八重の様子を、それとなく見て参れ」

浪人たちの方へ頼母は云った。

二人の浪人が立ち上り、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>をあけて部屋から出た。

「<ruby><rb>覚兵衛</rb><rt>かくべえ</rt></ruby>も<ruby><rb>勘兵衛</rb><rt>かんべえ</rt></ruby>も飲むがよい」

「は」

「頂戴」

「さあさあ飲め」

賑かに盃が廻り出した。

たちまち烈しい足音が、廊下の方から聞こえてきたが、出て行った二人の浪人の中、坂本というのが走り帰って来た。

「一大事！　一大事でござりまする……主税め縄を切り八重を助け……部屋を脱け出し庭の方へ！　……本庄殿は主税に斬られ！　……拙者も一太刀、左の肩を！」

見ればなるほどその浪人の肩から、胸の方へ血が流れ出ていた。

「行け！」と頼母は吼えるように叫び、猛然として躍り上った。

「主税を捕らえろ！　八重を捕らえろ！　……手に余らば斬って捨ろ！」

一同一斉に部屋を走り出た。

独楽を奪われる

八重を小脇に引っ抱え、血に濡れた刀をひっさげて、<ruby><rb>山岸主税</rb><rt>やまぎしちから</rt></ruby>は庭へ出た。

猿によって縛めの縄を切られ、勇躍してお八重へ走り寄り、その縛めの縄を解いた。すると、そこへ二人の武士が来た。やにわに一人を斬り伏せて、お八重を抱え廊下を走り、雨戸を蹴破り庭へ出た。

そういう山岸主税であった。

すぐに月光が二人を照らした。その月光の蒼白いなかに、二つの女の人影があったが、

「山岸様！」

「お八重様！」

と、同時に叫んで走り寄って来た。

「あッ、そなたは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>殿！」

「まあまああなたはお葉様か！」

主税とお八重とは驚いて叫んだ。

「事情は後から……今は遁れて！　……こっちへこっちへ！」と叫びながら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は門の方へ先頭に立って走った。

後につづいて一同も走った。開けられてある門を出れば、田安家お屋敷の廓内であった。

木立をくぐり建物を巡り、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の外へ出ようものと、男女四人は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひた</span>走った。するとその時<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から、追い迫って来る数人の足音が聞こえた。

（一人二人叩っ斬ってやろう）

今まで苦しめられた鬱忿と、女たちを逃がしてやる手段としても、そうしなければなるまいと主税は咄嗟に決心した。

「拙者にかまわず三人には、早く土塀を乗り越えて、屋敷より外へお出でなされ。……拙者は<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>らを一人二人！　……」

云いすてると主税は引っ返した。

「それでは<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>も！」と強気の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が、主税の後から後を追った。

「お葉や、お前はお八重様を連れて……」

「あい。……それでは。……お八重様！」

二人の女は先へ走った。主税の正面から浪人の一人が、命知らずにも斬り込んで来た。

「怨、晴らすぞ！」と主税は喚き、片膝折り敷くと思ったが、抜き持っていた刀を横へ払った。斬られた浪人は悲鳴と共に、手から刀を氷柱のように落とし、両手で右の脇腹を抑え、やがて仆れてノタウチ廻った。

すると、その横を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひた</span>走って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の方へ突き進む男があった。

「八重！　<ruby><rb>女郎</rb><rt>めろう</rt></ruby>！　逃がしてたまるか！」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>をお八重と間違えたらしく、こう叫んで大手を拡げたのは、太夫元の勘兵衛であった。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>は勘兵衛！　生きていたのか！」

お高祖頭巾をかなぐり捨た<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は、<ruby><rb>内懐中</rb><rt>うちぶところ</rt></ruby>へ片手を差し入れたまま、さすがに驚いて声をかけた。

「わりゃア<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>！」と仰天し、勘兵衛も震えながら音をあげた。

「どうしてここへ⁉　こんな夜中に！」――でもようやく元気を取り戻すと、

「生き返ったのよ、業が深いからのう。……あんな生温い締め方では……」

「そうか、それじゃアもう一度」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の手が素早く内懐中から抜かれて、高く頭上へ振りかぶられた。瞬間「わーッ」と勘兵衛は叫び、両手で咽喉を掻きむしった。

「これでもか！　これでもか！　これでもか」

ピンと延びている紐を<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り、勘兵衛を地上に引き摺り引き摺り、

「くたばれ！　殺す！　今度こそ殺す！　……お父様の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>！　敵の片割れ！」

「山岸氏参るぞ――ッ」と、もう一人の浪人と、主税の横から迫ったのは、<ruby><rb>飛田林覚兵衛</rb><rt>とんだばやしかくべえ</rt></ruby>であった。が、覚兵衛はお八重らしい女が、もう一人の女と遥か彼方を、木立をくぐって走って行くのを見るや、

「南部氏……主税は……貴殿へお任せ！　……拙者はお八重を！」と浪人へ叫び、二人の女を追っかけた。

頼母は一旦は走り出たが、部屋へ置いて来た独楽のことが、気にかかってならなかった。

それで屋敷へ取って返し、廊下を小走り部屋へ入った。

「あッ」

頼母は立縮んだ。

赤いちゃんちゃんこを着た一匹の小猿が、淀屋の独楽を両手に持ち、胸の辺りに支えて覗いているではないか。

頼母はクラクラと眼が廻った。

「…………」

無言で背後から躍りかかった。

その頼母の袖の下をくぐり、藤八猿は独楽を握ったまま、素早く廊下へ飛び出した。

「はーッ」と不安の溜息を吐き、後を追って頼母も廊下へ出た。数間の先を猿は走っている。

「はーッ」

頼母はよろめきながら追った。猿は庭へ飛び下りた。頼母も庭へ飛び下りたが、猿の姿は見えなかった。

頼母はベタベタと地へ坐った。

「取られた！　……独楽を！　……淀屋の独楽を！　……猿に！　……はーッ……猿に！　猿に！」

恋のわび住居

それから一月の日が経った。桜も散り<ruby><rb>連翹</rb><rt>れんぎょう</rt></ruby>も散り、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は新緑の候となった。

<ruby><rb>荏原郡</rb><rt>えばらごおり</rt></ruby>馬込の里の、農家の<ruby><rb>離家</rb><rt>はなれ</rt></ruby>に<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とが、夫婦のようにして暮らしていた。

<ruby><rb>表面</rb><rt>おもてむき</rt></ruby>は夫婦と云ってはいるが、体は他人の間柄であった。

三間ほどある部屋のその一つ、夕陽の射している西向きの部屋に、三味線を膝へ抱え上げ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が一人で坐っていた。

〽逢うことのまれまれなれば恋ぞかし

いつも逢うては何の恋ぞも

爪びきに合わせて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は唄い出した。<ruby><rb>隆達節</rb><rt>りゅうたつぶし</rt></ruby>の流れを汲み、天保末年に流行した、新隆達の小唄なのである。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の声には艶があった。よく慣らされている咽喉から出て、その声は細かい節となり、悩ましい初夏の午さがりを、いよいよ悩ましいものにした。

少し汗ばんでいる額の辺りへ、ばらりとほつれた前髪をかけ、薄紫の半襟から脱いた、白蝋のような頸を前に傾げ、潤いを持たせた切長の眼を、半眼にうっとりと見ひらいて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は唄っているのであった。

〽やるせなや帆かけて通る船さえも

都鳥<ruby><rb>番</rb><rt>つが</rt></ruby>いは<ruby><rb>水脈</rb><rt>みお</rt></ruby>にせかれたり

不意に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は溜息をし、だるそうに三味線を膝の上へ置くと、襖ごしに隣室へ声をかけた。

「主税さま、何をしておいで？」

そとから舞い込んで来たらしい、<ruby><rb>雌雄</rb><rt>めお</rt></ruby>の黄蝶がもつれ合いながら、襖へ時々羽を触れては、幽かな音を立てていた。

「例によりまして例の如くで」

主税の声が襖のむこうから、物憂そうに聞こえてきた。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>殿にはご機嫌そうな、三味線を弾いて小唄をうとうて」

「そう覚しめして？」と眉と眉との間へ、縦皺を二筋深く引き、

「昼日中なんの機嫌がよくて、三味線なんか弾きましょう」

「…………」

主税からの返事は聞こえてこなかった。

「ねえ主税様」と又<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は云った。

「心に悶えがあったればこそ、座頭の<ruby><rb>沢市</rb><rt>さわいち</rt></ruby>は三味線を弾いて、小唄をうたったじゃアありませんか」

隣室からは返事がなく、幽かな空咳が聞こえてきた。

不平そうに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は立ち上ったが、開けられてある障子の間から、縁側や裏庭が見え、卯の花が雪のように咲いている、垣根を越して麦や野菜の、広々とした青い畑が、数十町も<ruby><rb>展開</rb><rt>ひら</rt></ruby>けて見えた。

（何だろう？　人だかりがしているよ）

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は縁側へ出て行って、畑の中の野道の上に、十数人の男女が集まっているのへ、不思議そうに視線を投げた。

しかし距離が大分遠かったので、野道が白地の帯のように見え、人の姿が蟻のように見えるだけであった。

そこで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は眼を移し、はるかあなたの野の涯に、起伏している小山や谷を背に、林のような木立に囲まれ、宏大な屋敷の立っているのを見た。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>にとっては実家であり、不思議と怪奇と神秘と伝説とで、有名な荏原屋敷であった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>はしばらくその荏原屋敷を、<ruby><rb>憧憬</rb><rt>あこがれ</rt></ruby>と<ruby><rb>憎悪</rb><rt>にくしみ</rt></ruby>とのいりまじった眼で、まじろぎもせず眺めていたが、野道の上の人だかりが、にわかに動揺を起こしたので、慌ててその方へ眼をやった。

怪老人の魔法

野道の上に立っているのは、例の「<ruby><rb>飛加藤</rb><rt>とびかとう</rt></ruby>の亜流」と呼ばれた、白髪自髯の老人と、昼も点っている龕燈を持った珠玉のように美しい少年とであり、百姓、子守娘、旅人、行商人、托鉢僧などがその二人を、面白そうに<ruby><rb>囲繞</rb><rt>とりま</rt></ruby>いていた。

不思議な事件が行なわれていた。

美少年が手にした龕燈の光を、地面の一所へ投げかけていた。夕陽が強く照っている地面へ、龕燈の光など投げかけたところで、光の度に相違などないはずなのであるが、でもいくらかは違っていて、やはりそこだけが琥珀色の、微妙な色を呈していた。

と、その光の圏内へ、棒が一本突き出された。飛加藤の亜流という老人が、自然木の杖を突き出したのである。円味を帯びたその杖の先が、地面の一所を軽く突いて、一つの小さい穴をあけると、その穴の中から薄緑色の芽が、筆の穂先のように現われ出で、見る見るうちにそれが延びて、やがて可愛らしい双葉となった。

「これは変だ」「どうしたというのだ」「こう早く草が延びるとは妙だ」と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たかって</span>いた人々は、恐ろしさのあまり飛退いた。双葉はぐんぐんと生長を続け、蔓が生え、それが延び、蔓の左右から葉が生い出でた。二尺、三尺、一間、三間！

蔓は三間も延びたのである。

と、忽然蔓の<ruby><rb>頂上</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>へ、笠ほどの大きさの花が咲いた。

「わッ」

人々は声をあげ、驚きと賞讃と不気味さをもって、夕顔のような白い花を、まぶしそうにふり仰いで眺めた。

「アッハッハッ、幻じゃ！　<ruby><rb>実在</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>ではない仮の<ruby><rb>象</rb><rt>すがた</rt></ruby>じゃ！」

夕顔の花から二間ほど離れ、夕顔の花を仰ぎ見ながら、杖に寄っていた飛加藤の亜流は、払子のような白髯を顫わせながら、皮肉に愉快そうにそう云った。

「何で夕顔がこのように早く、このように大きく育つことがあろう！　みんなケレンじゃ、みんな詭計じゃ！　わしは不正直が嫌いだから、ほんとうのことを云っておく、みんなこいつはケレンじゃと。……ただし、印度の婆羅門僧は、こういうことをケレンでなく、実行するということだが、わしは一度も見たことがないから、真偽のほどは云い切れない。……しかしじゃ、皆さん、生きとし生けるものは、ことごとく愛情を基としていて、愛情あれば生長するし、愛情がなければ育たない。だからあるいはわしという人間が、特に愛情を強く持って『夕顔の花よお開き』と念じ、それだけの経営をやったなら、夕顔の花はその愛に感じ、多少は早く咲くかもしれない。……いやそれにしても<ruby><rb>現在</rb><rt>いま</rt></ruby>の浮世、愛情の深い真面目の人間が、めっきり少くなったのう。……そこでわしは昼も龕燈をともして、真面目の人間よどこかにいてくれと、歩きまわって探しているのさ。……ここにお立ち合いの皆様方は、みんな真面目のお方らしい。そこでわしはわしの信ずる、人間の道をお話しして……いや待てよ、一人だけ、<ruby><rb>邪悪</rb><rt>よこしま</rt></ruby>の人間がいるようだ。死にかわり生きかわり執念深く、人に禍いをする悪人がいる。――こういう悪人へ道を説いても駄目だ。説かれた道を悪用して、一層人間に禍いする！　こういう悪人へ制裁を加え、懲すのがわしの務めなのじゃ……」

突然高く自然木の杖が、夕顔の花と向かい合い、夕焼の空へかざされた。そうしてその杖が横へ流れた途端、夕顔の蔓の一所が折れ、夕顔の花が人間の顔のように、グッタリと垂れて宙に下った。

同時に獣の悲鳴のような声が、たかっている人達の間から起こり、すぐに乾いている野道から、パッと<ruby><rb>塵埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>が立ち上った。

見れば一人の人間が、首根ッ子を両手で抑え、野道の上を、塵埃の中を、転げ廻りノタウッている。

意外にもそれは勘兵衛であった。二度までも浪速<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>によって、締め殺されたはずの勘兵衛であった。

怨める美女

その距離が遠かったので、縁に立って見ている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の眼には、こういう<ruby><rb>異変</rb><rt>かわ</rt></ruby>った出来事も、人だかりが散ったり寄ったりしていると、そんなようにしか見えなかった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は座敷へ引き返し、<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の前に立ち、そっとその襖を引き開けた。

<ruby><rb>山岸主税</rb><rt>やまぎしちから</rt></ruby>がこっちへ背を向け、首を垂れて襟足を見せ、端然として坐ってい、その彼の膝のすこし向うの、少し古びた畳の上で、淀屋の独楽が静かに廻っていた。また何か文字でも現われまいかと、今日も熱心に淀屋の独楽を、彼は廻しているのであった。

「あッ！」と主税は思わず叫んだ。

「何をなさる、これは乱暴！」

でももうその時には主税の体は、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>からあやめの手によって、横倒しに倒されていた。

「悪<ruby><rb>巫山戯</rb><rt>ふざけ</rt></ruby>もいい加減になされ。人が見ましたら笑うでござろう」

主税は寝たままで顔を上げて見た。すぐ眼の上にあるものといえば、衣裳を通して窺われる、ふっくりとした<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の胸と、紫の艶めかしい半襟と、それを抜いて延びている滑らかな咽喉と、俯向けている顔とであった。

その顔の何と異様なことは！　眼には涙が溜まり唇は震え、頬の色は蒼褪め果て、まるで全体が怨みと悲しみとで、塗り潰されているようであった。そうしてその顔は主税の眼に近く、五寸と離れずに寄って来ていたので、普通より倍ほどの大きさに見えた。

「情無しのお方！　情知らずのお方！」

椿の花のような唇が開いて、雌蕊のような前歯が現われたかと思うと、咽ぶような訴えるような、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の声がそう云った。

「松浦<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>の屋敷を遁れ、ここに共住みいたしてからも、時たま話す話といえば、お八重様とやらいうお腰元衆の噂、そうでなければ淀屋の独楽を、日がな一日お廻しなされて、文字が出るの出ないのと……お<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に居る妾などへは眼もくれず、……ご一緒にこそ住んで居れ、夫婦でもなければ恋人でも……それにいたしても妾の心は、<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>さまにはご存知のはず……一度ぐらいは可愛そうなと。……お思いなすって下さいましても……」

高い長い鼻筋の横を、涙の紐が伝わった。

「ねえ主税さま」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は云って、<ruby><rb>介</rb><rt>かか</rt></ruby>えている手へ力を入れた。

「こう貴郎さまの身近くに寄って、貴郎さまを見下ろすのは、これで二度目でございますわねえ。一度はお茶ノ水の夜の林で、覚兵衛たちに襲われて、貴郎さまがお怪我をなさいました時。……あの時妾は心の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たけ</span>を、はじめてお打ち明けいたしましたわねえ……そうして今日は心の怨みを！　……でも、この次には、三度目には？　……いえいえ三度目こそは妾の方が、貴郎さまに介抱されて……それこそ本望！　女の本望！　……」

涙が主税の顔へ落ちた。しかし主税は眼を閉じていた。

（無理はない）と彼は思った。

（たとえば蛇の生殺しのような、そんな境遇に置いているのだからなあ）

一月前のことである、松浦頼母の屋敷の乱闘で、云いかわしたお八重とは別れ別れとなった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の妹だという女猿廻しの、お葉という娘とも別れ別れとなった。殺されたか捕らえられたか、それともうまく遁れることが出来て、どこかに安全に住んでいるか？　それさえいまだに不明であった。

三下悪党

<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>ばかりは<ruby><rb>幸福</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>にも、二人連れ立って遁れることが出来た。

しかし主税は田安家お長屋へ、帰って行くことは出来なかった。いずれ<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>があの夜の中に、田安中納言様へ自分のことを、お<ruby><rb>八重</rb><rt>やえ</rt></ruby>を奪って逃げた不所存者、お館を騒がした狼藉者として、<ruby><rb>讒誣</rb><rt>ざんぶ</rt></ruby>中傷したことであろう。そんなところへうかうか帰って行って、頼母の奸悪を申し立てたところで、信じられようはずはない。切腹かそれとも打ち首にされよう。これは分かりきった話であった。

そこで主税は自然の成り行きとして、浪人の身の上になってしまった。そうしてこれも自然の成り行きとして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>と一緒に住むようになった。

「おりを見て<ruby><rb>荏原</rb><rt>えばら</rt></ruby>屋敷へ忍び入り、お<ruby><rb>実父</rb><rt>とう</rt></ruby>様の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討たなければ……」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>としてはこういう心持から、又、一方主税としては、「淀屋の財宝と荏原屋敷とは、深い関係があるらしいから、探ってみよう」という心持から、二人合意で荏原屋敷の見える、ここの農家の<ruby><rb>離家</rb><rt>はなれ</rt></ruby>を借りて、夫婦のように<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>して来たのであった。

しかるに二人して住んでいる間も、主税に絶えず思い出されることは、云いかわした恋人お八重のことで、従って自ずとそれが口へ出た。そうでない時には淀屋の独楽を廻し、これまでに現われ出た文字以外の文字が、なお現われはしまいかと調べることであった。

しかしもちろん主税としては、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の寄せてくれる思慕の情を、解していないことはなく、のみならず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は自分の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を、二度までも救ってくれた恩人であった！

（<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の心に従わなければ……）

このように思うことさえあった。

しかし恋人お八重の生死が、凶とも吉とも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らない先に、他の女と契りを交わすことは、彼の心が許さなかった。そこでこれまでは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>に対して、<ruby><rb>故意</rb><rt>わざ</rt></ruby>と冷淡に振舞って来た。

が、今になってその<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>から、このように激しく訴えられては、主税としては無理なく思われ、心が動かないではいられなかった。

堅く眼を閉じてはいたけれど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の泣いていることが感じられる。

（決して嫌いな女ではない）

なかば恍惚となった心の中で、ふと主税はそう思った。

（綺麗で、情熱的で、覇気があって、家格も血統も立派な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>！　好きな女だ好きな女だ！　……云いかわしたお八重という女さえなければ……）

恋人ともなり夫婦ともなり、末長く暮らして行ける女だと思った。

（しかもこのように俺を愛して！）

カッと胸の奥の燃えるのを感じ、全身がにわかに汗ばむのを覚えた。

（いっそ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>と一緒になろうか）

悲しみを含んだ甘い感情が、主税の心をひたひたと浸した。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は涙の眼を見張って、主税の顔を見詰めている。

涙の<ruby><rb>面紗</rb><rt>ヴェール</rt></ruby>を通して見えているものは、畳の上の主税の顔であった。男らしい端麗な顔であった。わけても誘惑的に見えているものは、潤いを持ったふくよかな口であった。

いつか夕陽が消えてしまって、野は<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>に入りかけていた。少し開いている障子の隙から、その黄昏の微光が、部屋の中へ入り込んで来て、部屋は雀色に仄めいて見え、その中にいる若い男女を、悩ましい艶かしい塑像のように見せた。

横倒しになっている主税の足許に、その縁を白く<ruby><rb>微光</rb><rt>ひか</rt></ruby>らせながら、淀屋の独楽が転がっている。

と、その独楽を睨みながら、障子の外の縁側の方へ、生垣の裾から這い寄って来る、<ruby><rb>蟇</rb><rt>ひき</rt></ruby>のような男があった。三下悪党の勘兵衛であった。

二つ目の独楽を持って

田安屋敷の乱闘の際に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>によって独楽の紐で、首を締められ一旦は死んだが、再び業強く生き返り、勘兵衛はその翌日からピンシャンしていた。

そうして今日は頼母のお供をし、頼母の弟の<ruby><rb>主馬之進</rb><rt>しゅめのしん</rt></ruby>の家へ、――向こうに見える荏原屋敷へ来た。その途中で見かけたのが、野道での人だかりであった。そこで自分だけ引返して来て、群集に雑って魔法を見ていた。と、老人の小太い杖で、首根っ子をしたたか撲られた。息の止まりそうなその痛さ！　無我夢中で逃げて来ると、百姓家が立っていた。水でも貰おうと入り込んでみると、意外にも主税と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とが、艶な模様を描いているではないか。

淀屋の独楽さえ置いてある。

（凄いような獲物だ）と勘兵衛は思った。

（独楽を引っ攫って荏原屋敷へ駆けつけ、頼母様へ献上してやろう）

勘兵衛はこう心を<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めると、ソロリソロリと縁側の方へ、身をしずかに這い寄せて行った。

まだ痛む首根っ子を片手で抑え、別の片手を縁の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふち</span>へかけ、開いている障子の隙間から、部屋の中を窺っている勘兵衛の姿は、迫って来る宵闇の<ruby><rb>微光</rb><rt>うすびかり</rt></ruby>の中で、まこと大きな蟇のように見えた。

頼母の屋敷で奪い取った、二つ目の淀屋の独楽を、<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>のように両手に持った、藤八猿を背中に背負い、猿廻しのお葉がこの百姓家の方へ、野道を伝わって歩いて来たのも、ちょうどこの頃のことであった。

<ruby><rb>離家</rb><rt>はなれや</rt></ruby>の門口まで来た。

（この家じゃアないかしら？）と思案しながら佇んだ。

藤八猿の着ている赤い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃんちゃんこ</span>と、お葉の冠っている白手拭とが、もう蚊柱の立ち初めている門の、宵闇の中で際立って見えた。

（案内を乞うて見ようかしら？）

思い惑いながら佇んでいる。

田安屋敷の乱闘のおり、幸いお葉も遁れることが出来た。でも姉の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とも、腰元のお八重とも、姉の恋人だという山岸主税とも、一緒になれずに一人ぼっちとなった。

（姉さんが恋しい、姉さんと逢いたい。主税様の行方が解ったら、姉さんの行方も解るかも知れない）

ふとお葉はこう思って、今日の昼こっそり田安家のお長屋、主税の屋敷の方へ行ってみた。すると幸いにも主税の親友の、<ruby><rb>鷲見</rb><rt>すみ</rt></ruby>与四郎と逢うことが出来た。

「馬込のこうこういう百姓家の<ruby><rb>離家</rb><rt>はなれ</rt></ruby>に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>という女と住んで居るよ」と、そう与四郎は教えてくれた。

主税にとって鷲見与四郎は、親友でもあり同志でもあった。――頼母の勢力を覆えそうとする、その運動の同志だったので、与四郎へだけは自分の住居を、主税はそっと明かしていたのであった。

聞かされたお葉は躍り上って、すぐに馬込の方へ足を向け、こうして今ここへやって来たのであった。

（この家らしい）とお葉は思った。

（考えていたって仕方がない。案内を乞おう、声をかけてみよう。……いいえそれより藤八を舞わして、座敷の中へ入れてみよう）

お葉は肩から藤八猿を下ろした。

藤八猿は二つ目の淀屋の独楽を、大切そうに手に持ったまま、地面へヒラリと飛び下りた。

藤八猿はこの独楽を手に入れて以来、玩具のようにひどく気に入っていると見え、容易に手放そうとはしないのである。

「今日の最後の芸当だよ、器用に飛び込んで行って舞ってごらん」

人間にでも云い聞かせるように云って、お葉は土間へ入って行った。

蝋燭の燈の下で

「お猿廻しましょう」と声がかかり、赤い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃんちゃんこ</span>を着た藤八猿が、奥の部屋へ毬のように飛び込んで来たので主税と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とははっとした。

「まあ藤八だよ！」と叫んだのは、襟を掻き合わせた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>であり、

「独楽を持っている、淀屋の独楽を！」と、つづいて叫んだのは主税であった。

その前で藤八猿は独楽を持ったまま、綺麗に<ruby><rb>飜斗</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>を切って見せた。

「捕らえろ！　捕らえて淀屋の独楽を！」

二人が藤八猿を追っかけると、猿は驚いて門口の方へ逃げた。それを追って門口まで走った……

と、土間の宵闇の中に、女猿廻しが静かに立っていた。

「ま、やっぱり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>お姉様！」

「お前は妹！　まアお葉かえ！」

この頃勘兵衛は野の道を、荏原屋敷の方へ走っていた。<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>をしっかり抑えている。主税と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とが猿を追って、土間の方へ走って行った隙を狙い、奪い取った第一の淀屋の独楽が、懐中の中にあるのであった。

（こいつを頼母様へ献上してみろ、俺、どんなに褒められるかしれねえ。……それにしても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>と主税とが、あんな所に住んでいようとは。……頼母様にお勧めして、今夜にも捕らえて処刑してやらなけりゃア。……）

飛加藤の亜流という老人も、それに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たかって</span>いた人々も、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>に散って誰もいない野の道を、小鬼のように走りながら、そんなことを思っているのであった。

空には星がちらばってい、荏原屋敷を囲んでいる森が、遥かの行手に黒く見えていた。

やがてこの夜も更けて真夜中となった。

と、荏原屋敷の一所に、ポッツリ蝋燭の燈が点った。

森と、土塀と、植込と、三重の囲いにかこわれて、大旗本の下屋敷かのように、荏原屋敷の建物が立っていた。歴史と<ruby><rb>伝説</rb><rt>いいつたえ</rt></ruby>と<ruby><rb>罪悪</rb><rt>つみ</rt></ruby>と<ruby><rb>栄誉</rb><rt>ほまれ</rt></ruby>とで、長年蔽われていたこの屋敷には、主人夫婦や<ruby><rb>寄宿人</rb><rt>かかりうど</rt></ruby>や、<ruby><rb>使僕</rb><rt>めしつかい</rt></ruby>や小作人の家族たちが、三十人近くも住んでいるのであった。でも今は宏大なその屋敷も、星と月との光の下に、静かな眠りに入っていた。

その屋敷の一所に、蝋燭の燈が点っているのであった。

四方を木々に囲まれながら、一宇の<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>が立っていて、<ruby><rb>陶器</rb><rt>すえもの</rt></ruby>で造った円形の卓が、その中央に置かれてあり、その上に、太巻の蝋燭が、赤黄色く燃えているのであった。そうしてその燈に照らされながら、三つの顔が明るく浮き出していた。松浦頼母と弟の主馬之進――すなわちこの屋敷の主人公と、その主馬之進の妻の<ruby><rb>松女</rb><rt>まつじょ</rt></ruby>との顔で、その三人は<ruby><rb>榻</rb><rt>とう</rt></ruby>に腰かけ、卓の上の蝋燭の燈の下で、渦のように廻っている淀屋の独楽を、睨むようにして見守っていた。……

独楽は勘兵衛が今日の宵の口に、主税とあやめとの住居から奪い、頼母に献じたその独楽で、この独楽を頼母は手に入れるや、部屋で即座に廻してみた。幾十回となく廻してみた。と、独楽の蓋にあたる箇所へ、次々に文字が現われて来た。

「淀」「荏原屋敷」「に有りて」「飛加藤の亜流」等々という文字が現われて来た。……でももうそれ以上は現われなかった。ではどうしてこんな深夜に、庭の亭の卓の上などで、改めて独楽を廻すのだろう？

それは荏原屋敷の伝説からであった。

伝説によるとこれらの亭は、荏原屋敷の祖先の高麗人が、高麗から持って来たものであり、それをここへ据え付ける場合にも、特にその卓の面は絶対に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">水平</span>に、据えられたと云い伝えられていた。そういう意味からこの亭のことを、「水平の亭」と呼んで、遥かあなたに杉の木に囲まれた「<ruby><rb>閉扉</rb><rt>あけず</rt></ruby>の館」などと共に、荏原屋敷の七不思議の中の、一つの不思議として数えられているのであった……

まだ解けぬ謎

「絶対に水平のあの卓の上で、淀屋の独楽をお廻しになったら、別の文字が現われはしますまいか」

ふと気がついたというように、深夜になって頼母へそう云ったのは、主馬之進の妻の松女であった。

「なるほど、それではやってみよう」

でも卓の上で廻しても、独楽の面へ現われる文字は、あれの他には何もなかった。

「駄目だのう」と頼母は云って、落胆したように顔を上げた。

「あれ以上に文字は現われないのであろうよ。……この独楽に現われたあれらの文字と、以前にわしの持っていた独楽へ現われた文字、それを一緒にして綴ってみようではないか。何らかの意味をなすかもしれない」

「それがよろしゅうございましょう」

こう云ったのは主馬之進であった。主馬之進は頼母の弟だけに、頼母にその容貌は酷似していたが、俳優などに見られるような、厭らしいまでの色気があって、<ruby><rb>婦人</rb><rt>おんな</rt></ruby>の愛情を掻き立てるだけの、強い魅力を持っていた。

「この独楽へ現われた文字といえば『淀』『荏原屋敷』『有りて』『「飛加藤の亜流』という十五文字だし、<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>にわしの持っていた独楽へ現われた文字は、『屋の財宝は』『代々』『守護す』『見る日は南』の十五文字じゃ。……で、わしは<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>からこの三十文字を、いろいろに考えて綴り合わせてみたが、こう綴るのが正しいらしい……ともかくも意味をなすよ『淀屋の財宝は代々荏原屋敷に有りて、飛加藤の亜流守護す』と、なるのだからの」

「飛加藤の亜流とは何でしょう？」

主馬之進の妻の松女が訊いた。

彼女はもう四十を過ごしていた。でも美貌は失われていなかった。大旗本以上の豪族であるところの、荏原屋敷の主婦としての貫禄、それも体に備わっていた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>やお葉の母親だけあって、品位なども人に立ち勝っていた。が、蝋燭の燈に照らされると、さすが小鼻の左右に深い<ruby><rb>陰影</rb><rt>かげ</rt></ruby>などがつき、全体に窶れが窺われ、それに眼なども<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おちつか</span>ないで、なにか良心に咎められている。――そんなようなところが感じられた。

「飛加藤の亜流と申すのはな」と、頼母は松女を見い見い云った。

「白昼に龕燈をともしなどして、奇行をして世間を歩き廻っている、隠者のような老人とのことで。……勘兵衛めがそう云いましたよ。今日も夕方この近くの野道で、怪しい行ないをいたしましたとかで……」

「その飛加藤の亜流とかいう老人が、代々財宝を守護するなどと、文字の上に現われました以上は、その老人を捕らえませねば……」

「左様、捕らえて糺明するのが、万全の策には相違ござらぬが、その飛加藤の亜流という老人、どこにいるのやらどこへ現われるのやら、とんと我らにしれませぬのでな」

「それより……」と主馬之進が口を出した。

「『見る日は南』という訳のわらぬ文句が、隠語の中にありまするが、何のことでございましょうな？」

「それがさ、わしにも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らぬのだよ」と頼母は当惑したように云った。

「この文句だけが独立して――他の文句と飛び離れて記されてあるので、何ともわしにも意味が解らぬ。……だがしかしそれだけに、この文句の意味が解けた時に、淀屋の財宝の真の在場所が、解るようにも思われる……」

「三つ目の淀屋の独楽を目つけ出し、隠語を探り知りました時、この文句の意味も自ずから解けると、そんなように思われまするが」

「そうだよそうだよわしもそう思う。が、三つ目の淀屋の独楽が、果たしてどこにあるものやら、とんとわしには解らぬのでのう」

三人はここで黙ってしまった。

屋敷の構内に古池でもあって、そこに<ruby><rb>鷭</rb><rt>ばん</rt></ruby>でも住んでいるのだろう、その啼声と羽搏きとが聞こえた。

と、ふいにこの時<ruby><rb>茂</rb><rt>しげみ</rt></ruby>の陰から、「誰だ！」という誰何の声が聞こえた。

三人はハッとして顔を見合わせた。と、すぐに悲鳴が聞こえ、つづいて物の仆れる音がした。三人は思わず立ち上った。

するとこの亭を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>とりま</rt></ruby>いている木々の向こうから、この亭の人々を警護していた、飛田林覚兵衛と勘兵衛との声が、狼狽したらしく聞こえてきた。

母娘は逢ったが

「曲者だ！」

「追え！」

「それ向こうへ逃げたぞ！」

「斬られたのは近藤氏じゃ」

こんな声が聞こえてきた。そうして覚兵衛と勘兵衛とが、<ruby><rb>閉扉</rb><rt>あけず</rt></ruby>の館の方角をさして、走って行く足音が聞こえてきた。

「行ってみよう」と頼母は云って、榻から立ち上って歩き出した。

「それでは私も」と主馬之進も云って兄に続いて亭を出た。

亭には一人松女だけが残った。

松女は寂しそうに卓へ倚り、両の肘を卓の上へのせ、その上へ顔をうずめるようにし、何やら物思いに耽っていた。燃え尽きかけている蝋燭の燈が、白い細い<ruby><rb>頸</rb><rt>うなじ</rt></ruby>の辺りへ、琥珀色の光を投げているのが、妙にこの女を佗しく見せた。

といつの間に現われたものか、その松女のすぐの<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に、<ruby><rb>妖怪</rb><rt>もののけ</rt></ruby>のような女の姿が、朦朧として佇んでいた。

猿廻し姿のお葉であった。じっと松女を見詰めている。その様子が何となく松女を狙い、襲おうとでもしているような様子で……

と、不意にお葉の片手が上り、松女の肩を抑えたかと思うと、

「お母様！」と忍び音に云った。

松女はひどく驚いたらしく、顔を上げると、

「誰だえ⁉」と訊いた。

「お母様、わたしでございます」

「お母様だって？　このわたしを！　まアまアまア失礼な！　見ればみすぼらしい猿廻しらしいが、夜ふけに無断にこんな所へ来て、わたしに向かってお母様などと！　……怪しいお人だ、人を呼ぼうか！」

「お母様、お久しぶりねえ」

「…………」

「お別れしたのは十年前の、雪の積もった日でございましたが、……お母様もお変わりなさいましたこと。……でも<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は、このお葉は、もっと変わりましてございます。……苦労したからでございましょうよ。……産みのお母様がご覽になっても、それと知れない程ですものねえ。……妾はお葉でございます……」

「お葉⁉」

それは<ruby><rb>譫言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のような、魘されているような声であった。よろめきながら立ち上り、よろめきながら前へ進み、松女は近々と顔を寄せた。

「ほんに……お前は……おお……お葉だ！　お葉だ！」

グラグラと体が傾ぎ、前<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のめり</span>にのめったかと思うと、もう<ruby><rb>親娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>は抱き合っていた。しばらくは二人のすすり泣きの声が、しずかな夜の中に震えて聞こえた。

「不孝者！　お葉！　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だいそれた</span>不孝者！　親を捨て家出をして！　……」

やがて松女の感情の籠った、途切れ途切れの声が響いた。

「でも……それでも……とうとうお葉や、よく帰って来ておくれだったねえ。……どこへもやらない、どこへもやらない！　家に置きます。<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の手許へ！」

「お母様！」と、お葉は烈しく云った。

「あのお部屋へ参ろうではございませんか！」

「何をお云いだ、え、お葉や！　あのお部屋へとは、お葉やお葉や！」

「あのお部屋へ参ろうではございませんか。……あのお部屋へお母様をお連れして、懺悔と浄罪とをさせようため、十年ぶりにこのお葉は、帰って来たのでございます！」

「お葉、それでは、それではお前は？」

「知っておりました、知っておりました！　知っておればこそこのお葉は、この罪悪の巣におられず、家出をしたのでございます！」

「そんな……お前……いえいえそれは！」

「悪人！　姦婦！　八ツ裂きにしてやろうか！　……いえいえいえ、やっぱりお母様だ！　……わたしを、わたしを、いとしがり可愛がり、<ruby><rb>花簪</rb><rt>はなかんざし</rt></ruby>を買って下されたり、抱いて寝させて下さいました、産みのお母様でございます！　……でも、おおおお、そのお母様が、あの建物で、あのお部屋で……」

「いいえ妾は……いいえこの手で……」

「存じております、何のお母様が、何の悪行をなさいましたものか！　……ただお母様は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みすみす</span>ズルズルと、引き込まれただけでございます。……ですから妾は申しております。懺悔なされて下さりませと……」

「行けない、妾は、あの部屋へは！　……あの時以来十年もの間、雨戸を閉め切り開けたことのない、あの建物のあのお部屋なのだよ。……堪忍しておくれ、妾には行けない！」

恋と敵のあいだ

「おお、まアそれではあのお部屋は、十年間<ruby><rb>閉扉</rb><rt>あけず</rt></ruby>の間か！　……さすが悪漢毒婦にも、<ruby><rb>罪業</rb><rt>つみ</rt></ruby>を恐れる善根が、心の片隅に残っていたそうな。……ではあのお部屋にはあのお方の、いまだに浮かばれない修羅の妄執が、黴と湿気と闇とに包まれ、残っておることでございましょうよ。なにより幸い、なにより幸い、さあそのお部屋へお入りなされて、懺悔なさりませ、懺悔なさりませ！　そうしてそれから<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>と共々、復讐の手段を講じましょう。……」

「復讐？　お葉や、復讐とは？」

「わたしにとりましては実のお父様、お母様にとりましては最初の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の、先代の荏原屋敷の主人を殺した、当代の主人の<ruby><rb>主馬之進</rb><rt>しゅめのしん</rt></ruby>を！」

「ヒエーッ、それでは主馬之進を！」

「お父様を殺した主馬之進を殺し、お父様の怨みを晴らすのさ。……さあお母様参りましょう！」

お葉は、<ruby><rb>松女</rb><rt>まつじょ</rt></ruby>の腕を握り、亭から外へ引き出した。

この頃亭から少し離れた、閉扉の館の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>の木立の陰に、<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とが<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>をよせながら、地に腹這い<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を呑んでいた。

主税が片手に握っているものは、血のしたたる抜身であった。

それにしてもどうして主税や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>や、お葉までが荏原屋敷へ、この夜忍び込んで来たのであろう？

自分たちの持っていた淀屋の独楽は何者かに奪われてしまったけれど、藤八猿から得た独楽によって、幾行かの<ruby><rb>隠語</rb><rt>かくしことば</rt></ruby>を知ることが出来た。

そこで主税はその隠語を、<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>から知っている隠語と合わせて、何かの意味を探ろうとした。隠語はこのように綴られた。……「淀屋の財宝は代々荏原屋敷にありて飛加藤の亜流守護す。見る日は南」と。「見る日は南」という意味は<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかったが、その他の意味はよく解った。飛加藤の亜流という老人のことも、お葉のくわしい説明によって解った。そうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どっちみち</span>淀屋の財宝が、荏原屋敷のどこかにあるということが、ハッキリ主税に感じられた。そこで主税は荏原屋敷へ忍び込んで、財宝の在場所を探りたいと思った。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>で又思った。

（<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>二人が揃ったのだから、すぐにも荏原屋敷へ乗り込んで行って、主馬之進を殺して復讐したい。お父様の怨みを晴らしたい）

双方の<ruby><rb>祈願</rb><rt>ねがい</rt></ruby>が一緒になって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とお葉と主税とは、この夜荏原屋敷へ忍び込んだのであった。

さて三人忍び込んでみれば、天の助けというのでもあろうか、頼母がい、勘兵衛がいた。

（よし、それでは次々に、機をみて討って取ってやろう）

木陰に隠れて<ruby><rb>機会</rb><rt>おり</rt></ruby>を待った。

と、構え内を警護していた、頼母の家来の覆面武士の一人に、見現わされて誰何された。主税はその覆面武士を、一刀の下に斬り仆した。と、大勢がこの方面へ走って来た。主税は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>を引っ抱えて、木立の陰へ隠れたのであるが、どうしたのかお葉は一人離れて、亭の方へ忍んで行った。声をかけて止めようと思ったが、声をあげたら敵の者共に、隠れ場所を知られる不安があった。そこで二人は無言のまま見過ごし、ここに忍んでいるのであった。……

二人の眼前にみえているものは、主税に斬り仆された覆面武士を囲んで、同僚の三人の覆面武士と、頼母と主馬之進と飛田林覚兵衛と、絞殺したはずの勘兵衛とが、佇んでいる姿であった。

飛び出していって斬ってかかることは、二人にとっては何でもなかったが、敵は大勢であり味方は二人、返り討ちに遇う心配があった。<ruby><rb>機</rb><rt>おり</rt></ruby>を見て別々に一人々々、討って取らなければならなかった。

二人は<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を呑み潜んでいた。

閉扉の館

「曲者を探せ！」という烈しい怒声が、頼母の口からほとばしったのは、それから間もなくのことであった。

俄然武士たちは四方へ散った。そして二人の覆面武士が主税たちの方へ小走って来た。

「居たーッ」と一人の覆面武士が叫んだ。

だがもうその次の瞬間には、躍り上った主税によって、斬り仆されてノタウッていた。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>！」ともう一人の覆面武士が、主税を目掛けて斬り込んで来た。

そこを横から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が突いた。

その武士の仆れるのを後に見捨て、

「主税様、こっちへ」と主税の手を引き、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は木立をくぐって走った。……

案内を知っている自分の屋敷の、木立や茂や築山などの多い――障害物の多い構内であった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は逃げるに苦心しなかった。木立をくぐり藪を巡り、建物の陰の方へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は走った。

とうとう建物の裏側へ出た。二階づくりの古い建物は、杉の木立を周囲に持ち、月の光にも照らされず、黒い一塊の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かたまり</span>のように、静まり返って立っていた。

それは<ruby><rb>閉扉</rb><rt>あけず</rt></ruby>の館であった。

と、建物の一方の角から、数人の武士が現われた。

飛田林覚兵衛と頼母と家来の、五人ばかりの一団で、こちらへ走って来るらしかった。

すると、つづいて<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方から、大勢の喚く声が聞こえてきた。

主税と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とは振り返って見た。

十数人の姿が見えた。

主馬之進と勘兵衛と、覆面の武士と屋敷の<ruby><rb>使僕</rb><rt>こもの</rt></ruby>たちが、こっちへ走って来る姿であった。二人は腹背に敵を受け、進退まったく<ruby><rb>谷</rb><rt>きわ</rt></ruby>まった。

一方には十年間開いたことのない、閉扉の館が城壁のように、高く険しく立っている。そしてその反対側は古沼であった。

泥の深さ底が知れず、しかも<ruby><rb>蛇</rb><rt>くちなわ</rt></ruby>や蛭の類が、取りつくすことの出来ないほどに、住んでいると云われている、荏原屋敷七不思議の、その一つに数えられている、その恐ろしい古沼であった。

逃げようにも逃げられない。

敵を迎えて戦ったなら、大勢に無勢殺されるであろう。

（どうしよう）

（ここで死ぬのか）

（おお、みすみす返り討ちに遇うのか）

その時何たる不思議であろう！

閉扉の館の裏の門の扉が、内側から自ずとひらいたではないか！

二人は夢中に駆け込んだ。

すると、扉が内側から、又自ずと閉ざされたではないか。

屋内は真の闇であった。

死ぬ運命の二人

<ruby><rb>閉扉</rb><rt>あけず</rt></ruby>の館の闇の部屋で、主税と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とが寄り添っている時、館の外側では頼母や主馬之進や覚兵衛や勘兵衛たちが集まって、ひそやかな声で話し合っていた。

「不思議だな、消えてしまった」

抜いた刀をダラリと下げて、さも審しいというように、頼母はこう云って主馬之進を眺めた。主馬之進も抜き身をひっさげたまま、これも審しいというように、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を忙しく見廻したが、

「一方は閉扉の館、また一方は底なしの古沼、前と<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>とからは我々や覚兵衛たちが、隙なく取り詰めて参りましたのに、主税も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>も消えてなくなったように、姿をくらましてしまいましたとは？　……不思議を通りこして気味のわるいことで」

「沼へ落ちたのではございますまいか？」

覚兵衛が横から口を出した。

「沼へ落ちたのなら水音がして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>たちにも聞こえるはずで」と勘兵衛が<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>から打ち消した。

「ところが水音なんか聞こえませんでしたよ。……天に昇ったか地にくぐったか、面妖な話ったらありゃアしない」

「主馬！」と頼母は決心したように云った。

「主税と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>との隠れ場所は、閉扉の館以外にはないと思うよ。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>らなんとかしてこの戸をひらき、<ruby><rb>屋内</rb><rt>なか</rt></ruby>へ入ったに相違ない。戸を破り我らも屋内へ入るとしよう！　……それでなくともこの閉扉の館へ、わしは入ろうと思っていたのだ。淀屋の財宝を手に入れようとして、長の年月この荏原屋敷を、隅から隅まで探したが、この館ばかりは探さなかった。<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>や松女が厭がるからじゃ！　が、今夜はどうあろうと、屋内へ入って探さなければならぬ」

「兄上！　しかし、そればかりは……」と主馬之進は夜眼にも知られるほどに、顔色を変え胴顫いをし、

「ご勘弁を、平に、ご勘弁を！」

「覚兵衛、勘兵衛！」と頼母は叫んだ。

「この館の戸を破れ！」

「いけねえ、殿様ア――ッ」と勘兵衛は喚いた。

「そいつア<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ねえ！　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっしゃア</span>恐い！　……先代の怨みの籠っている館だ！　……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっしも</span>手伝って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やったん</span>ですからねえ！」

「臆病者揃いめ、<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>らには頼まぬ！　……覚兵衛、館の戸を破れ！」

飛田林覚兵衛はその声に応じ、閉扉の館の戸へ躍りかかった。

が、戸は容易に開かなかった。

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>は内側から自然と開いて、主税と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とを飲み込んだ戸が、今は容易に開かないのである。

「方々お手伝い下されい」

覚兵衛はそう声をかけた。

覆面をしている頼母の家来たちは、すぐに覚兵衛に手を貸して、館の戸を破りだした。

この物音を耳にした時、屋内の闇に包まれていた主税と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とはハッとなった。

「主税様」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は云った。

「頼母や主馬之進たちが戸を破って……」

「うむ、乱入いたすそうな。……そうなってはどうせ切り死に……」

「切り死に？　……<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>と、お父様の敵と……それでは返り討ちになりますのね。……構わない構わないどうなろうと！　……本望、わたしは、わたしは本望！　……主税様と二人で死ぬのなら……」

亡魂の招くところ

たちまちふいに闇の部屋の中へ、一筋の薄赤い光が射した。

（あっ）と二人ながら驚いて、光の来た方へ眼をやった。

奥の部屋を境している襖があって、その襖が細目に開いて、そっちの部屋にある<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の光が、その隙間から射し込んで来たと、そう思われるような薄赤い光が、ぼっとこの部屋に射して来ていた。

「<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>！」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は怯えた声で云った。

「あけずの館に燈火の光が！　……では誰かがいるのです！　……恐ろしい、おおどうしよう！」

主税も恐怖を<ruby><rb>新規</rb><rt>あらた</rt></ruby>にして、燈火の光を睨んだが、

「そういえば閉扉の館の戸が、内から自ずと開きましたのも、不思議なことの一つでござる。……そこへ燈火の光が射した！　……いかにも、さては、この古館には、何者か住んで居るものと見える！　……どっちみち助からぬ二人の命！　……敵の手にかかって殺されようと、怪しいものの手にかかって殺されようと、死ぬる命はひとつでござれば、怪しいものの正体を……」と主税はヌッと立ち上った。

「では<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>も」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>も立った。

でも二人が隣部屋へ入った時には、薄赤い光は消えてしまった。

（さては心の迷いだったか）

（わたしたちの眼違いであったのかしら）

二人は茫然と闇の中に、手を取り合って佇んだ。この間も戸を破る烈しい音が、二人の耳へ聞こえてきた。

と、又も同じ光が、廊下をへだてている襖の隙から、幽かに薄赤く射して来た。

（さては廊下に！）

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>と主税とは、夢中のようにそっちへ走った。

しかし廊下へ出た時には、その光は消えていた。

が、廊下の一方の詰の、天井の方から同じ光が、気味悪く朦朧と射して来た。

二階へ登る階段があって、その頂上から来るらしかった。

二人はふたたび夢中の様で、階段を駈け上って二階へ登った。しかし二階へ上った時には、その光は消えていて、闇ばかりが二人の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>にあった。

悪漢毒婦の毒手によって、無残に殺された男の<ruby><rb>怨恨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>が、十年もの間籠っているところの、ここは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あけず</span>の館であった。その館に持主の知れない薄赤い燈火の光が射して、あっちへ動きこっちへ移って、二人の男女を迷わせる！　さては殺された先代の亡魂が、怨恨の執念から行なう業では？　……

こう思えば思われる。

これが二人を怯かしたのである。

「主税様<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ降りましょう。……もう<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>はこんな所には……こんな恐ろしい所には！　……それより<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いっそ</span>階下へ降りて、頼母たちと斬り合って、<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わぬまでも一太刀怨み、その上で死にましょう！」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は前歯を鳴らしながら云った。

「うむ」と主税も呻くように云った。

「亡魂などにたぶらかされ、うろついて生恥さらすより、斬り死にしましょう、斬り死にしましょう」

階段の方へ足を向けた。

すると、又も朦朧と、例の薄赤い燈火の光が、廊下の方から射して釆た。

「あッ」

「又も、執念深い！」

今は主税は恐怖よりも、烈しい怒りに駆り立てられ、猛然と廊下へ突き進んだ。

その後から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>も続いた。

しかし、廊下には燈火はなく、堅く閉ざされてあるはずの雨戸の一枚が、細目に開けられてあるばかりであった。

二人はその隙から<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>を見た。

三階造りの頂上よりも高く、特殊に建てられてある閉扉の館の、高い高い二階から眺められる夜景は、随分美しいものであった。主屋をはじめ諸々の建物や、おおよその庭木は眼の下にあった。土塀なども勿論眼の下にあった。月は澄みきった空に漂い、その光は<ruby><rb>物象</rb><rt>もののかたち</rt></ruby>を清く蒼白く、神々しい姿に照らしていた。

庭上の人影

間もなく死ぬ運命の二人ではあったが、この美しい夜の景色には、うっとりとせざるを得なかった。

ふいに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が驚喜の声をあげた。

「まア梯子が！　ここに梯子が！」

いかさま廊下の欄干ごしに、一筋の梯子が懸かっていて、それが地にまで達していた。

それはあたかも二人の者に対して、この梯子をつたわって逃げ出すがよいと、そう教えてでもいるようであった。

「いかにも梯子が！　……天の与え！　……それにしても何者がこのようなことを！」

主税も驚喜の声で叫んだ。

「不思議といえば不思議千万！　……いやいや不思議といえばこればかりではない！　……<ruby><rb>閉扉</rb><rt>あけず</rt></ruby>の館の戸が開いたのも、燈火の光が現われて、われわれを二階へみちびいたのも、釘づけにされてある館の雨戸が、このように一枚だけ外されてあるのも、一切ことごとく不思議でござる」

「きっと誰かが……お父様の霊が、……わたしたちの運命をお憐れみ下されて、それで様々の不思議を現わし、救って下さるのでございましょうよ。……さあ主税様、この梯子をつたわり、ともかくも戸外へ！　ともかくも戸外へ！」

「まず<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>から。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>よ先に！」

「あい」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は褄をかかげ、梯子の桟へ足をかけた。

「あッ、しばらく、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>よお待ち！　……何者かこっちへ！　何者かこっちへ！」

見れば月光が蒼白く明るい、眼の前の庭を二つの人影が、組みつほぐれつ、追いつ追われつしながら、梯子の裾の方へ走って来ていた。

二人は素早く雨戸の陰へかくれ、顔だけ出して窺った。

夜眼ではあり遠眼だったので、庭上の人影の何者であるかが、主税にも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>にもわからなかったが、でもそれはお葉と松女なのであった。

「さあお母様あの館で――十年戸をあけない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あけず</span>の館で、懺悔浄罪なさりませ！　……あの館のあの二階で、御寝なされていたお父様の臥所へ、古沼から捕った毒虫を追い込み、それに噛せてお父様を殺した……罪悪の巣の館の二階で、懺悔なさりませ懺悔なさりませ！」

母の松女の両手を掴み、引きずるようにして導きながら、お葉は館の方へ走るのであった。

行くまいと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もがく</span>松女の姿は、捻れ捩れ痛々しかった。

「お葉やお葉や堪忍しておくれ、あそこへばかりは<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は行けない！　……この年月、十年もの間、もう妾は毎日々々、心の苛責に苦しんで、後悔ばかりしていたのだよ。……それを、残酷な、娘の身で、あのような所へお母様を追い込み！　……それに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそこ</span>は、あの館は、扉も雨戸も<ruby><rb>鎹</rb><rt>かすがい</rt></ruby>や太い釘で、厳しく隙なく止めに止めて、めったに開かないようにしてあるのだよ。……いいえいいえ女の力などでは、戸をあけることなど出来ないのだよ。……行っても無駄です！　お葉やお葉や！」

しかし二人が閉扉の館の、裾の辺りまで走りついた時、二人ながら「あッ」と声をあげた。

二階の雨戸が開いており、梯子がかかっているからであった。

「あッあッ雨戸が開いている！　……十年このかた開けたことのない、閉扉の館の雨戸が雨戸が！　それに梯子がかかっているとは！」

松女は梯子の根元の土へ、恐怖で、ベッタリ仆れてしまった。

その母親の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に突っ立ち、これも意外の出来事のために、一瞬間放心したお葉がいた。

しかし直ぐお葉は躍り上って叫んだ。

「これこそお父様のお導き！　お父様の霊のお導き！　……妻よここへ来て懺悔せよと、怒りながらも愛しておられる、お父様の霊魂が招いておる証拠！　……そうでなくて何でそうも厳重に、十年とざされていた閉扉の館の、雨戸が自然と開きましょうや！　……梯子までかけられてありましょうや！」

母親の手をひっ掴み、お葉は梯子へ足をかけた。

「お母様！」と松女を引き立て、

「さあ一緒に、一緒に参って、お父様にお逢いいたしましょう！　いまだに浮かばれずに迷っておられる、悲しい悲しいお父様の亡魂に！」

月下の殺人

「お葉かえ！」とその途端に、二階から女の声がかかった。

お葉は無言で二階を見上げた。

欄干から半身をのり出して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>が下を見下ろしている。

「あッ、お姉様！　どうしてそこには？」

しかし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>はそれには答えず、松女の姿へじっと眼をつけ、

「お葉やお葉や、そこにいるのは？」

「お母様よ！　お姉様！」

「お母様だって？　<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>殺しの！」

「…………」

「良人殺しの松女という女かえ！」

「…………」

「よくノメノメとここへは来られたねえ」

「いいえお姉様」とお葉は叫んだ。

「わたしがお母様をここまで連れて……」

「お前がお母様を？　何のために？」

「お父様を殺したあのお部屋へ、お母様をお連れして懺悔させようと……」

「その悪女、懺悔するかえ？」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>や！」とはじめて松女は叫んだ。

連続して起こる意外の出来事に、今にも発狂しようとして、やっと正気を保っている松女が、<ruby><rb>嗄</rb><rt>しゃが</rt></ruby>れた声で叫んだのである。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>や……お前までが……この屋敷へ！　……いいえいいえ生みの家へ……おおおお帰っておいでだったのか！　……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>や、あんまりな、あんまりな言葉！　……悪女とは！　懺悔するかえとは！　……わたしは、あれから、毎日々々、涙の乾く暇もないほどに、後悔して後悔して……」

「お黙り！」と絹でも引裂くような声が、――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>の声が遮った。

「わたしは<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から雨戸の隙から、お前さんたちの様子を見ていたのだよ。……お葉がお前さんを引っ張って、この二階へ連れて来ようとするのに、お前さんは行くまいと拒んでいたじゃアないか……ほんとうに後悔しているなら、日夜二階の部屋へ来て、香でも焚いて唱名して、お父様の菩提を葬えばよいのだ！　……それを行くまいとして拒むのは、……」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>や、それも恐ろしいからだよ。……あのお方の怨みが恐ろしく、わたしの罪業が恐ろしく、その館が恐ろしく……」

「おおそうとも、恐ろしいとも！　この館は今も恐ろしいのだ！　……恐ろしいのも色々だが、今のこの館の恐ろしさは、又もや<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むごたらしい</span>人殺しが、行なわれようとしていることさ！」

「また人殺しが？　誰が、誰を？」

「お前さんの良人の主馬之進と、主馬之進の兄の松浦頼母とが、たくさんの眷族をかたらって、わたしとわたしの恋しい人とを、この館へとりこめて、これから殺そうとしているのさ。……お聞き、聞こえるだろう、戸をこわしている音が！　……館の裏の戸をぶちこわして、この館へ乱入し、わたしたちを殺そうとしているのさ！　……あッ、しめた！　いいことがある！　……お葉やお葉やその女を捉え、ここへおよこし、引きずり上げておくれ！　人質にするのだよその女を！　……もう大丈夫だ、殺されっこはない。その女を人質に取っておいたら、いかな主馬之進や頼母でも、わたしたちを殺すことは出来ないだろうよ。……」

松女の腕を<ruby><rb>捉</rb><rt>と</rt></ruby>り引きずり引きずり、梯子を上るお葉の姿が、すぐに月光に照らされて見えた。

松女を中へ取り籠めて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とお葉と主税とが、刀や短刀を抜きそばめ、闇の二階の部屋の中に、息を殺して突立ったのは、それから間もなくのことであった。

裏戸の破られた音が聞こえた。

乱入して来る足音が聞こえた。

間もなく階段を駈け上る、数人の足音が聞こえてきた。

「よし降り口に待ちかまえていて……」と、主税は云いすて三人を残し、階段の降り口へ突進して行った。

頼母の家来の一人の武士が、いつの間に用意したか弓張提燈をかかげて、階段を駆け上り姿を現わした。

その脳天を真上から、主税は一刀に斬りつけた。

わッという悲鳴を響かせながら、武士は階段からころがり落ちた。

「居たぞ！」

「二階だ！」

「用心して進め！」

声々が階下から聞こえてきた。

さまよう娘

この頃植木師の一隊が、植木車を数台囲み、荏原屋敷の土塀の外側を、山の手の方へ進んでいた。車には植木が一本もなかった。

どこかのお屋敷へ植木を植えて、車をすっかり空にして、自分たちの本拠の秩父の山中へ、今帰って行く途中らしい。

二十人に近い植木師たちは、例によって袖無しに伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむった姿で、粛々として歩いていた。

その中に一人女がいた。意外にもそれはお八重であった。

やはり袖無しを着、伊賀袴を穿き、山岡頭巾をかむっている。

肩を落とし、首を垂れ、<ruby><rb>悄々</rb><rt>しおしお</rt></ruby>として歩いて行く姿は、憐れに寂しく悲しそうであった。それにしてもどうして植木師などの中に、彼女、お八重はいるのであろう？

松浦頼母の一味によって、田安様お屋敷の構内で、お八重もあのとおり迫害されたが、でも辛うじて構内から遁れた。すると、そこに<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>していたのが、十数人の植木師たちであった。

彼女は植木師たちに助けを乞うた。植木師たちは承知して、彼女に彼らの衣裳を着せ、追って来た頼母の家来たちの眼を、巧みにくらませて隠してくれた。

それからというもの彼女はその姿で、植木師たちと一緒に住み、植木師たちと一緒に出歩き、恋人主税の行方を探し、今日までくらして来たのであった。

主税もお葉もその姉の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>も、無事に田安邸から遁れ出たという、そういう消息は人伝てに聞いたが、どこに主税が居ることやら、それはいまだに解らなかった。

植木師たちの本拠は秩父にあったが、秩父から直接植木を運んで、諸家へ植え込みはしないのであった。

まず秩父から運んで来て、本門寺つづきの丘や谷に、その植木を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とりこ</span>にして置き――そこが秩父の出店なのであるが――そこから次々に植木を運んで、諸家へ納めるようにしているのであった。ところが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とりこ</span>にして置いたたくさんの植木が、今日ですっかり片付いてしまった。

そこで彼らは本拠の秩父へ、今夜帰って行くことにし、今歩いているのであった。……

（わたしには他に行くところはない。わたしも秩父へ行くことにしよう）

お八重はこう悲しく心に決めて、彼らと一緒に歩いているのであった。

（主税様はどこにどうしておられるやら。……）

思われるのは恋人のことであった。

ほとんど江戸中残るところなく、主税の行方を探したのであったが、けっきょく知ることが出来なかった。

秩父山中へ行ってしまったら、――又、江戸へでる機会はあるにしても、秩父山中にいる間は、主税を探すことは出来ないわけであって、探すことさえ出来ないのであるから、まして逢うことは絶対に出来ない。

このことが彼女には悲しいのであった。

（いっそ江戸へ残ろうかしら？）

でも一人江戸へ残ったところで、<ruby><rb>生活</rb><rt>くら</rt></ruby>して行くことは出来そうもなかった。

奉公をすれば奉公先の屋敷へ、体をしばられなければならないし、と云ってまさかに門付などになって、人の家の門へなどは立てそうもなかった。

（わたしには主税様は諦められない）

月光が霜のように地面を明るめ、彼女の影や植木師たちの影を、長く細く曳いていた。

荏原屋敷の土塀に添って、なお一行は歩いていた。

と、土塀を抜きん出て、植込がこんもり茂っていたが、その植込の葉の陰から、何物か躍り出して宙を飛び、お八重の肩へ飛び移った。

「あれッ」とさすがに驚いて、お八重は悲鳴をあげ飛び上ったが、そのお八重の足許の地面へ、お八重の肩から飛び下りた物が、赤い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃんちゃんこ</span>を着た小猿だったので、お八重は驚きを繰り返して叫んだ。

「まア、お前は藤八じゃアないかえ！」

さよう、それはお葉の飼猿、お八重もよく知っている藤八猿であった。

奇怪な邂逅

藤八猿が居るからには、持主のお葉がいなければならない。――とお八重はそう思った。お葉に逢って訊ねたならば、恋人主税のその後の<ruby><rb>消息</rb><rt>ようす</rt></ruby>を、耳にすることが出来るかもしれない。――

（このお屋敷の土塀を越して、藤八猿は来たはずだった！）

裾にまつわる藤八猿を、自由に裾にまつわらせながら、お八重は荏原屋敷の土塀を見上げた。土塀を高くぬきん出て、繁った植込の枝や葉が建物の姿を隠している。

（人声や物音がするようだが？）

（何か間違いでも起こったのかしら？）

（それとも<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の空耳かしら？）

なおもお八重は聞き澄ました。物音は間断なく聞こえてくる。

主税の<ruby><rb>消息</rb><rt>ようす</rt></ruby>を知っているお葉が、居るかもしれない屋敷の構内から、不穏な物音の聞こえるということは、お八重にとっては心配であった。

（妾、屋敷内へ入って行ってみようか？）

でもどこから入れるだろう？　土塀を乗り越したら入れるかもしれない。

けれどそんなことをしているうちに、植木師の一隊は彼女を見捨て秩父山中へ行ってしまうにちがいない。

現に彼女が思案に余って、土塀を眺めて佇んでいる間に、植木師の一隊は彼女から離れて、一町も先の方を歩いているのだから。……

（どうしよう？　どうしたらよかろう？）

地団太を踏みたい心持で、彼女は同じ所に立っていた。

でも、間もなく彼女の姿が、土塀に上って行くのが見えた。

恋人の消息が知れるかも知れない。――この魅力が荏原屋敷へ、彼女をとうとう引き入れたのであった。

月光に照らされたお八重の姿が、<ruby><rb>閉扉</rb><rt>あけず</rt></ruby>の館の前に現われたのは、それから間もなくのことであった。

高い二階建ての館の二階へ、地上から梯子がかかってい、閉ざされている鎧のような雨戸が、一枚だけ開いている。そうして館の裏側と、館の屋内から人声や物音が、間断なく聞こえてくるようであった。

（やはり何か事件が起こっているのだよ）

お八重は二階を見上げながら、しばらく<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>と佇んでいた。

すると、あけられてある雨戸の隙から、薄赤い<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の光が射し、つづいて人影が現われた。龕燈を持った老人で、それは「飛加藤の亜流」であった。

飛加藤の亜流は雨戸の隙から出て、梯子をソロソロと降り出した。

飛加藤の亜流が地へ下り立ち、お八重と顔を合わせた時、お八重の口から迸しり出たのは、「叔父様！」という言葉であった。

「姪か、お八重か、苦労したようだのう」

飛加藤の亜流はこう云って、空いている片手を前へ出した。

お八重はその手へ縋りついたが、

「叔父様、どうしてこのような所に……」

「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのような所へでも入り込まれるよ。……お前の父親、わしの実兄の、<ruby><rb>東海林自得斎</rb><rt>しょうじじとくさい</rt></ruby>が極重悪木を利用し、自由に人が殺せるようにのう。……それにしてもわし達兄弟は、何という変わった兄弟であろう。徳川によって滅ぼされた、小西摂津守の遺臣として、徳川家に怨みを抱いていることは、わしも兄上も同じなのではあるが、兄上は魔神の世界に住んで、悪木を作り人を殺し――田安中納言家をはじめとし、徳川家に縁ある人々を殺し、主家の怨を晴らそうとしているのに、わしは一念頓悟して、誠の教の庭に住み、<ruby><rb>真実</rb><rt>まこと</rt></ruby>の人間を目つけ出そうとして、乞食のように歩き廻っている。……わが兄ながら惨忍な、実の娘を間者として、田安家の大奥へ住み込ませ、淀屋の独楽を奪わせようとは……」

「まあ叔父様、そのようなことまで……」

「わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのようなことでも知っている……」

「では、叔父様には、淀屋の独楽の――<ruby><rb>三個</rb><rt>みっつ</rt></ruby>あるという淀屋の独楽の、その<ruby><rb>所在</rb><rt>ありばしょ</rt></ruby>もご存知なので？」

「<ruby><rb>一個</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>は頼母が持っておる。お前を苦しめた松浦頼母が。もう一つは主税が持っておる、お前が愛している山岸主税が。……が、最後の一つはのう」

「最後の一個は？　叔父様どこに？」

「それは云えぬ、今は云えぬ！　……勿論わしは知っているが」

聞こえる歌声

「では叔父様、独楽に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まつわる</span>、淀屋の財宝の所在も？」

「淀屋の財宝を守護する者こそ、この飛加藤の亜流なのだよ」

「…………」

「この荏原屋敷の先代の主人は、わしの教の弟子なのじゃ。そうして淀屋の財宝は、この荏原屋敷に隠されてあるのじゃ。淀屋の財宝の所在について、わしの知っているのは当然であろう」

「…………」

「おいで、お八重」と飛加藤の亜流は云って、館を巡って歩き出した。

「眼には眼をもって、歯には歯をもって……因果応報の恐ろしさを、若いお前に見せてあげよう」

お八重は飛加藤の亜流の後から、胸を踊らせながら<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。

この頃館の裏口では、頼母と主馬之進とが不安そうに、破壊された戸口から<ruby><rb>屋内</rb><rt>なか</rt></ruby>を覗きながら、聞こえてくる物音に耳を澄ましていた。

そこへ屋内から走り出して来たのは、<ruby><rb>飛田林覚兵衛</rb><rt>とんだばやしかくべえ</rt></ruby>であった。

「大変なことになりましてございます。<ruby><rb>主税</rb><rt>ちから</rt></ruby>めどうして手に入れましたものか、<ruby><rb>主馬之進</rb><rt>しゅめのしん</rt></ruby>殿のご内儀を<ruby><rb>捕虜</rb><rt>とりこ</rt></ruby>とし、左様人質といたしまして、その人質を盾となし、二階座敷に攻勢をとり、階段を上る我らの味方を、斬り落とし斬り落としいたしまする」

大息吐いて注進する後から、お<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りの<ruby><rb>勘兵衛</rb><rt>かんべえ</rt></ruby>が飛出して来て、

「坂本様も宇津木殿も、斬り仆されましてございます。とてもこいつア<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>いませんや。向こうにゃア奥様という人質があって、こっちが無鉄砲に斬り込んで行きゃア、奥様に大怪我させるんですからねえ」とこれも大息吐いて呶鳴り立てた。

「ナニ家内が描虜にされた⁉」とさすがの主馬之進も仰天したらしく、

「それは一大事うち捨ては置けない！　……方々お続き下されい！」と屋内へ夢中で駈け込んだ。

「では拙者も」と、それにつづいて覚兵衛が屋内に駈け込めば、

「それじゃア<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっし</span>ももう一度」と勘兵衛も意気込んで駈け込んだ。

（夫婦の情愛は別のものだな）と後に残った頼母は呟き、戸口から屋内を覗き込んだ。

（臆病者の主馬ではあるが、女房が敵の手に捕らえられたと聞くや、阿修羅のように飛び込んで行きおった。……ところで<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>はどうしたものかな？）

頼母にとっては<ruby><rb>松女</rb><rt>まつじょ</rt></ruby>の命などより、淀屋の財宝の方が大切なのであった。主税や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>などを討ってとるより、独楽の秘密を解くことの方が、遥かに遥かに大切なのであった。

で、危険な屋内などへは、入って行く気にはなれないのであった。

太刀音、掛け声、悲鳴などが、いよいよ烈しく聞こえてはきたが、頼母ばかりはなお門口に立っていた。

するとその時老人の声が、どこからともなく聞こえてきた。しかもそれは歌声であった。

（はてな？）と頼母は聞き耳を立てた。

〽真昼頃、見る日は南、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>北、左は東、右は西なり

歌の文句はこうであった。

そうしてその歌声は林の奥の、古沼の方から聞こえてくる。

「見る日は南と云ったようだな」と頼母は思わず声に出して云った。

（見る日は南というこの言葉は、独楽の隠語の中に有ったはずだ。その言葉を詠み込んだ歌を歌うからには、その歌の意味を知っていなければならない）

頼母は歌の聞こえた方へ、足を空にして走って行った。

歌の主を引っ捕らえ、歌の意味を<ruby><rb>質</rb><rt>ただ</rt></ruby>そうと思ったからである。

歌声は林に囲繞された大古沼の方から聞こえてきた。

頼母は林の中へ走り込んだ。

でも林の中には人影はなく、<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>だの糸杉だの山桜だの、栗の木だの槇の木だのが繁りに繁り、月光を遮ぎり月光を澪し、萱だの芒だの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いら</span>草だのの、生い茂り乱れ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もつれ</span>合っている地面へ、水銀のような光の斑を置き、長年積もり腐敗した落葉が、悪臭を発しているばかりであった。

秘密は解けたり！

そうして林の一方には、周囲五町もある大古沼が、葦だの萱だのに岸を茂らせ、水面に浮藻や落葉を浮かべ、曇った鏡のように月光に光り、楕円形に広がっていた。そうして沼の中央に在る、岩で出来ている小さい島の、岩の頂にある小さい祠が、鳥の形に見えていた。

でも人影はどこにもなかった。失望して頼母は佇んだ。

と、又もや歌声が、行手の方から聞こえてきた。

（さてはむこうか）と頼母は喜び、<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>を忍ばせてそっちへ走った。

茨と灌木と蔓草とで出来た、小丘のような藪があったが、その藪の向こう側から、男女の話し声が聞こえてきた。

（さては？）と頼母は胸をドキつかせ、藪の横から向こう側を覗いた。

一人の娘と一人の老人とが、草に坐りながら話していた。

老人は白髪白髯の、神々しいような人物であったが、しかしそれは一向見知らない人物であった。しかし、女の方はお八重であった。田安中納言家の腰元で、そうして自分が想いを懸けた、その美しいお八重であった。

（これは一体どうしたことだ。こんな深夜にこんな所に、お八重などがいようとは？）

夢に夢見る心持で、頼母は一刹那ぼんやりしてしまった。

しかし、老人の膝の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に、龕燈が<ruby><rb>一個</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>置いてあり、その龕燈の光に照らされ、淀屋の独楽に相違ない独楽が、地上に廻っているのを眼に入れると、頼母は俄然正気づいた。

（独楽がある！　淀屋の独楽が！　三つ目の独楽に相違ない！）

この時老人が話し出した。

「ね、この独楽へ現われる文字は『真昼頃』という三つの文字と『<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>北、左は東、右は西なり』という、十一<ruby><rb>文字</rb><rt>もじ</rt></ruby>の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>にはない。……もう一つの独楽に現われて来るところの『見る日は南』という五つの文字へ、この独楽へ現われた文字を差し加えると「真昼頃、見る日は南、背後北、左は東、右は西なり」という、一首の和歌になるのだよ。……そうしてこの和歌は古歌の一つで、方角を教えた和歌なのさ。広野か海などをさまよって、不幸にも方角を失った際、それが真昼であったなら、先ず太陽を見るがよい。太陽は南にかかっているであろう。だから背後は北にあたり、左は東、右は西にあたる。――ただこういう意味なのだよ」

「でも、そんな和歌が淀屋の財宝と、どんな関係があるのでございます？」と好奇心で眼を輝かせながら、お八重は息をはずませて訊いた。

「淀屋の財宝の<ruby><rb>所在</rb><rt>ありばしょ</rt></ruby>が、この和歌の中に詠まれているのだよ。……太陽を仰いでいる人間の位置は、東西南北の中央にある。その人間の位置にあたる所に、淀屋の財宝が隠されてあるのさ」

「ではどこかの中央に？」

「この屋敷の中央に？」

「この屋敷の中央とは？」

「荏原屋敷は大昔においては、沼を中央にして作られていたものさ」

「まア、では、財宝は古沼の中に？」

「沼の中央は岩の小島なのさ」

「まア、では、沼の小島の内に？」

「小島の中央は祠なのだ」

「では淀屋の財宝は祠の中に隠されてあるのね」

「そうだ」と老人は感慨深そうに云った。

「そうしてそのことを知っている者は、荏原屋敷の先代の主人と、この飛加藤の亜流だけなのさ。そうしてそのことを記してあったのは、三つの淀屋の独楽だけだったのさ。その独楽は以前には三つながら、荏原屋敷にあったのさ。ところがいつの間にか三つながら、荏原屋敷から失われてしまった。だがその中の一つだけは、ずっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>が持っていた。……それにしても淀屋の独楽を巡って、幾十人の者が長の年月、悲劇や喜劇を起こしたことか。……でも、いよいよ淀屋の独楽が、一所に集まる時期が来た。……お八重、わしに<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いておいで。淀屋の財宝の莫大な額を、親しくお前の眼に見せてあげよう」

地上の独楽を懐中に納め、龕燈を取り上げて飛加藤の亜流は、やおら草から立ち上った。

お八重もつづいて立ち上ったが、

「でも叔父様、船もないのに、沼を渡って、どうして小島へ……」

因果応報

「ナーニ、わしは飛加藤の亜流だよ。どんなことでも出来る人間だよ。そうしてわしに<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いてさえ来れば、お前もどんなことでも出来るのだよ。……沼を渡って行くことなども……」

二人は沼の方へ歩いて行った。

藪の陰に佇んで、見聞きしていた頼母は太い息を吐き、

「さてはそういう事情だったのか」と声に出して呟いた。

（淀屋の独楽の隠語は解けた。淀屋の財宝の在場所も知れた）

このことは頼母には有り難かったが、飛加藤の亜流とお八重とが揃って、財宝の所在地へ行くということが、どうにも不安でならなかった。

（財宝を二人に持ち出されては、これまでの苦心も水の泡だ）

こう思われるからであった。

（俺も沼の中の島へ行こう）

――頼母は飛加藤の亜流の後を追い、沼の方へ小走った。

頼母が沼の縁へ行きついた時、彼の眼に不思議な光景が見えた。

月光に薄光っている沼の上を、飛加藤の亜流という老人が、植木師風のお八重を連れ、まるで平地でも歩くように、悠々と歩いて行くのであった。重なっていた浮藻が左右に別れ、水に浮いて眠っていた鴨の群が、これも左右に別れるのさえ見えた。

（水も泥も深い沼だのに、どうして歩いて行けるのだろう？）

超自然的の行動ではなくて、水中に堤防が作られていて、陸からはそれが見えなかったが、飛加藤の亜流には<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていたので、それを渡って行ったまでである。しかし頼母には解っていなかったので、呆然佇んで見ていたが、

（そうだ、飛加藤の亜流には、出来ないことはないはずだった。水を渡ることなど何でもないのだろう。……飛加藤の亜流にさえ<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行けば、こっちの身も沼を渡れるだろう）

頼母は沼の中へ入って行った。

しかし数間とは歩けなかった。水が首まで彼を呑んだ。蛭、長虫が彼を目指し、四方八方から泳ぎ寄って来た。

「助けてくれーッ」と悲鳴を上げ、頼母は岸へ帰ろうとした。

しかし深い泥が彼の足を捉え、彼を底の方へ引き込んだ。

突然彼の姿が見えなくなり、彼の姿の消えた辺りへ、泡と渦巻とが現われた。

と、ふいにその水面へ、一つの独楽が浮かび上った。頼母の持っていた独楽であって、水底に沈んだ彼の懐中から、水の面へ現われたのであった。独楽にも長虫はからみ付いていた。そうしてその虫は島を指して泳いだ。飛加藤の亜流とお八重との姿が、その島の岸に立っていた。そっちへ独楽は引かれて行く。

<ruby><rb>閉扉</rb><rt>あけず</rt></ruby>の館の二階では、なお血闘が行なわれていた。頼母の家来の数名の者が、死骸となって転がっていた。

髪を乱し襟を拡げ、返り血を浴びた主税がその間に立ち、血にぬれた刀を中段に構え、開いている雨戸から射し込んでいる<ruby><rb>月光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>に、姿を仄かに見せていた。

その<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に息を呑み、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とお葉とが立っていた。二人の女の持っている刀も、ヌラヌラと血にぬれていた。そうして二人の女の裾には、ほとんど正気を失ったところの、松女が倒れて蠢いていた。

階段の下からは罵る声や怒声が、怯かすように聞こえてくる。

しかし登っては来なかった。

これ迄に登って行った者一人として、帰って来る者がないからであった。決死の主税に一人のこらず、二階で討って取られたからであった。

しかしにわかにその階下から、主馬之進の声が聞こえてきた。

「お松、お松、お松は二階か！　心配するな、俺が行く！」

つづいて勘兵衛の声が聞こえる。

「旦那、あぶねえ、まアお待ちなすって！　……とてもあぶねえ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うかつ</span>には行けねえ！　……行くなら皆で、みんなで行きやしょう！　……覚兵衛殿、覚兵衛殿、あんたが真先に！」

しかし飛田林覚兵衛の声は、それに対して何とも答えなかった。

「お松、お松！」と主馬之進の声が、また悲痛に聞こえてきた。

「すぐ行くぞよ、しっかりしてくれ！」

「勘兵衛放せ、えい馬鹿者！」

つづいて階段を駆け上る音がし、階段口を睨んでいる主税の眼に、主馬之進の狂気じみた姿が映った。

「…………」

人々の運命

（来たな！）と主税は<ruby><rb>雀躍</rb><rt>こおどり</rt></ruby>したが、相手を身近く引寄せようとして、かえって部屋の隅へ退いた。

「あなた！」とさながら<ruby><rb>巾</rb><rt>きぬ</rt></ruby>を裂くような声で、倒れている松女が叫んだのは、主馬之進が階段を上り尽くし、二階へ現われた時であった。

「お松！」と叫んで<ruby><rb>蹣跚</rb><rt>よろめき</rt></ruby>々々、主馬之進はお松の方へ走り寄った。

「…………」

「…………」

が、その瞬間<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>とお葉とが、左右から飛鳥のように躍りかかり、

「お父様の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>！」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は叫び、脇差で主馬之進の胸を突くと、

「お父様の敵！」とお葉も叫び、主馬之進の脇腹を<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>で刺した。

グタグタと主馬之進は仆たれが、必死の声を絞って叫んだ。

「ま、待ってくれ！　少し待ってくれ！　どうせ殺されて死んでゆく<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>、殺されるのは恐れないが、それ前にお松へ云いたいことがある！　それも懺悔だ、お松へのお礼だ！　……おおおおお松、よくまアこれまで、貞女を保ってくらして来たなア。……俺と夫婦にはなったものの、拒んで拒んで拒みとおして、俺とは一度の枕も交わさず、よくまア<ruby><rb>貞操</rb><rt>みさお</rt></ruby>を立て通したものだ！　……そのため俺はどんなに怒り、どんなに苦しみ苦しんだことか！　……しかし今になって考えてみれば、けっきょくお前が偉かったのだ！　……俺はただ名ばかりの<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>として、荏原屋敷の格と財産とを、今日まで守護して来たばかりだった。……」

「主馬之進殿オーッ」

松女は松女で、主馬之進へ取り縋り、

「あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>の死んだ後は主馬之進殿と、夫婦になって荏原屋敷を守れ』と……その時<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>はどんなに悲しく『いいえ妾はあなたの妻、あなたがおなくなりなさいました後は、有髪の尼の心持で、あなた様のご冥福をお祈りし』『それでは屋敷は滅びるぞ！　先祖に対して相済まぬ！』『では妾は形ばかり主馬之進様の妻となり……』こうして妾は良人の死後……」

「その御先代の死態だが……」

いよいよ迫る死の息の下で、主馬之進は云いついだ。

「変死、怪死、他殺の死と、人々によって噂され、それに相違なかったが、しかし決してこの主馬之進が、手をくだして殺したのでもなく、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>にすすめて殺したのでもない！　……わしの<ruby><rb>僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>のあの勘兵衛、わしがこの家へ住み込ませたが、性来まことにかるはずみの男、勝手にわしの心持を……わしが先代のこの屋敷の主人の、死ぬのを<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>んでいるものと推し、古沼から毒ある長虫を捕り、先代の病床へ投げ込んで……」

しかしこれ以上断末魔の彼には、言葉を出すことが出来なくなったらしい、両手で虚空を握むかと見えたが、体をのばして動かなくなった。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>よ、お葉よ、二人の娘よ！」と、これは精神の過労から、死相を呈して来た松女は叫んだ。

「お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りかお解りか！　……なき良人の遺言を守って、家のためにこの身を苦しめ……でも、もう妾は生きていたくない！　……可哀そうな主馬様の後を追い……」

「お母様アーッ」

「お母様アーッ」

意外の事の真相に、心を顛動させた二人の娘は、左右から母へすがりついた。

「そうとは知らずお母様を怨み……」

「そうとは知らず主馬之進殿を殺し……」

「わたしたちこそどうしよう！」

「お母様アーッ」

「主馬之進様アーッ」

「いやいや」と、本当に最後の息で、主馬之進は言葉を発した。

「やっぱりわしは殺されていい男……荏原屋敷を横領し、隠されてある淀屋の財宝を、ウ、奪おう、ト、取ろうと……殺されていい身じゃ殺されていい身じゃ」

まったく息が絶えてしまった。

途端に松女もガックリとなった。

この時階段の上り口から、勘兵衛の狼狽した喚き声が聞こえた。

「<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ねえ、<ruby><rb>殺</rb><rt>やら</rt></ruby>れた、旦那が殺れた！　……オ、奥様も死んだらしいわ――ッ」

バタバタと階段から駈け下りる音が、けたたましく聞こえてきた。

しかし、その音は中途で止んで、呻き声が聞こえてきた。見れば階段の中央の辺りに、勘兵衛の体が延びていた。

紐が首に捲き付いている。

そうしてその紐は<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>られて、勘兵衛の体は階段を辷って、二階の方へ上って行った。紐を手繰っているのは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>であった。

「古沼から蝮を捕らえて来て、この座敷へ投げ入れて、直々お父様を殺した<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>！　今度こそ遁さぬ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くたばれくたばれ</span>！」

勘兵衛の体が二階へ上るや、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>は勘兵衛に引導を渡し、脇差で勘兵衛の咽喉をえぐった。

ある時は主馬之進の若党となり、ある時は見世物の太夫元となり、ある時は荏原屋敷の<ruby><rb>僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>となり、又ある時は松浦頼母の用心棒めいた家来となって、悪事をつくした執念深い、一面道化た勘兵衛も、今度こそ本当に殺されたのであった。

なお<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>にいる<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>の輩下を、討って取ろうと主税や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>達が、二階から階下へ駈け下りるや、飛田林覚兵衛が先ず逃走し、その他の者共一人残らず、屋敷から逃げ出し姿を消してしまった。

こうして今までは修羅の巷として、叫喚と悲鳴とで充たされていた屋敷は、静寂の場と化してしまった。わけても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あけず</span>の館の二階は、無数の死骸を抱いたまま凄じい静かさに包まれていた。

と、その部屋へ雨戸の隙から、子供のような物が飛び込んで来た。

それは藤八猿であった。

乱闘の際に<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から落とした、主税の持っていた淀屋の独楽が、部屋の片隅にころがっているのへ、その藤八猿は眼を付けると、それを抱いて部屋を飛び出し、雨戸の隙から庭へ下り、さらに林の中へ走り込んだ。

でも古沼の縁まで来た時、その独楽にも飽きたと見え、沼を目掛けて投げ込んだ。

と独楽は自ずと動いて、小島の方へ進んで行った。飛加藤の亜流が超自然の力で、独楽を島の方へ招いたのでもあろうか。いややはり長虫が巻き付いていて、島の方へ泳いで行ったからである。

お八重よりも一層生死を共にし、苦難に苦難を重ねたところの、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>と主税とは夫婦になり、一旦は辛労で気絶したものの、息吹き返した貞婦の松女や、妹娘のお葉と一緒に、荏原屋敷に住むようになったのは、それから間もなくのことであり、そういう事実をさぐり知り、主税との恋を断念したお八重は、父の許秩父の山中へも帰らず、飛加藤の亜流の弟子となり、飛加藤の亜流に従って、世人を説き廻ったということである。

淀屋の財宝はどうなったか？　一つに集まった独楽と一緒に、いぜんとして古沼の島の中にあるか、飛加藤の亜流やお八重の手により、他の場所へ移されたか？　謎はいまだに謎として、飛加藤の亜流とお八重以外には、知る者一人もないのであった。しかし飛加藤の亜流の教義が、その後ますます隆盛になり、善人に対し善事に対し、飛加藤の亜流は惜気もなく、多額の金子を与えたというから、淀屋の財宝はその方面に、浄財としてあるいは使われたのかもしれない。

松女がその後有髪の尼として、清浄の生活を継続し、良人や主馬之進をとむらいながら、主税夫婦やお葉によって孝養されたということや、お葉が良縁を求めながら、その優しい心持から、藤八猿を可愛がり、いつまでも手放さなかったというようなことは、あえて贅言する必要はあるまい。