１

天保元年正月五日、場所は浅草、日は<ruby><rb>午後</rb><rt>ひるさがり</rt></ruby>、人の出盛る時刻であった。大道手品師の鬼小僧、<ruby><rb>傴僂</rb><rt>せむし</rt></ruby>で片眼で無類の<ruby><rb>醜男</rb><rt>ぶおとこ</rt></ruby>、一見すると五十歳ぐらい、その実年は<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>なのであった。

「浅草名物鬼小僧の手品、さあさあ遠慮なく見て行ってくれ。口を開いて見るは大馬鹿者、ゲラゲラ笑うはなお間抜け、渋面つくるは厭な奴、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちん</span>と穏しく見る人にはこっちから褒美を出してやる。……まず初めは小手調べ、結んでも結べない手拭いの術、おおお立会誰でもいい、一本手拭いを貸してくんな」

「おいよ」と一人の職人が、腰の手拭いをポンと投げた。

「いやこいつア有難え、こう気前よく貸して貰うと、芸を<ruby><rb>演</rb><rt>や</rt></ruby>るにも演り<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>いってものだ。どうだい親方そのついでに一両がとこ貸してくれないか。アッハハハこいつア嘘だ！　さて」と言うと鬼小僧は、手拭いを二三度打ち振ったが、

「たった今借りたこの手拭い、種もなければ仕掛もねえ。さあこいつをこう結ぶ」

云いながらヤンワリ結んだが、

「おおお立会誰でもいい、片っ方の端を引っ張ってくんな」

「よし来た」と云って飛び出して来たのは、この界隈の地廻りらしい。

「それ引っ張るぜ、どうだどうだ」

グイと引いたのが自ずと解けて、手拭いには結び玉が出来なかった。

「小手調べはこれで済んだ。お次は本芸の水術だ。……ここに大きな<ruby><rb>盃洗</rb><rt>どんぶり</rt></ruby>がんある。盃洗の中へ水を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐ」

こう云いながら鬼小僧は、<ruby><rb>足下</rb><rt>あしもと</rt></ruby>に置いてあった盃洗を取り上げ、グイと左手で差し出した。それからこれも足元にあった、<ruby><rb>欠土瓶</rb><rt>かけどびん</rt></ruby>をヒョイと取り上げたが、ドクドクと水を注ぎ込んだ。

「嘘も仕掛けもねえ真清水だ。観音様の手洗い水よ。さてこの中へ砂糖を入れる」

<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から紙包みを取り出した。

「さあ誰でもいいちょっと来な。この砂糖を嘗めてくんな」

「ああ<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らが嘗めてやろう」

一人の丁稚が飛び出して来た。ペロリと嘗めたがニヤニヤ笑い、

「やあ本当だ、<ruby><rb>甘</rb><rt>あめ</rt></ruby>え砂糖だ」

「べらぼうめエ、あたりめエよ。<ruby><rb>辛</rb><rt>かれ</rt></ruby>え砂糖ってあるものか。……そこで砂糖を水へ入れる。と、出来るのは砂糖水。これじゃア一向くだらねえ。手品でも何でもありゃアしねえ。そこでグッと趣向を変え、素晴しい物を作ってみせる」

パッと砂糖を投げ込んだ。と盃洗の水面から、一団の火焔が燃え立った。

ドッと囃す見物の声、小銭がパラパラと投げられた。

盃洗の水をザンブリと<ruby><rb>覆</rb><rt>あ</rt></ruby>け、鬼小僧はひどく上機嫌、ニヤリニヤリと笑ったが、

「さあ今度は何にしよう？　うんそうだ鳥芸がいい。まず鳥籠から出すことにしよう」

キッと空を見上げたが、頭上には<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>の大<ruby><rb>公孫樹</rb><rt>いちょう</rt></ruby>が、枝を<ruby><rb>参差</rb><rt>しんし</rt></ruby>と差し出していた。

「おお太夫さん下りておいで。お客様方がお待ちかねだ」

こう云って招くような手附をした。

と、公孫樹の<ruby><rb>頂上</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>から、何やらスーッと<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りて来た。それは小さな鳥籠であった。誰が鳥籠を下ろしたんだろう？　それでは高い公孫樹の梢に、鬼小僧の仲間でもいるのだろうか？　それに<ruby><rb>洵</rb><rt>まこと</rt></ruby>に不思議なのは鳥籠を支えている縄がない。鳥籠は宙にういていた。これには見物も<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した。ワーッと拍手喝采が起こった。鳥籠はスルスルと下りて来た。しかし下り切りはしなかった。地上から大方一丈の宙で急に鳥籠は止まってしまった。

「あっ」と驚いたのは見物ではなくて、太夫の鬼小僧自身であった。

「どうしたんだい、驚いたなあ」

<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた途端に見物の中から、

「小僧、取れるなら取ってみろ！」

嘲るような声がした。

２

鬼小僧はギョッと驚いて、声のした方へ眼をやった。<ruby><rb>鶴髪</rb><rt>かくはつ</rt></ruby><ruby><rb>白髯</rb><rt>はくぜん</rt></ruby><ruby><rb>長身</rb><rt>ちょうしん</rt></ruby><ruby><rb>痩躯</rb><rt>そうく</rt></ruby>、眼に不思議な光を宿し、唇に苦笑を漂わせた、神々しくもあれば凄くもある、一人の老人が立っていた。地に突いたは自然木の杖、その上へ両手を重ねて<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せ、その甲の上へ頤を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もたせ</span>、及び腰をした様子には、一種の気高さと鬼気とがあった。

「小僧」と老人は教えるように云った。

「手品などとは勿体無い。それは『<ruby><rb>形学</rb><rt>けいがく</rt></ruby>』というべきものだ。どこで学んだか知らないが、ある程度までは達している。しかしまだまだ至境には遠い。それに大道で商うとは、若いとはいえ不埒千万、しかし食うための<ruby><rb>商売</rb><rt>あきない</rt></ruby>とあれば、強いて咎めるにもあたるまい。……とまれお前には見所がある。志があったら訪ねて来い。少し手を執って教えてやろう」

老人はスッと背を延ばした。

「重巌に我<ruby><rb>卜居</rb><rt>ぼっきょ</rt></ruby>す、鳥道人跡を絶つ、庭際何の得る所ぞ、白雲幽石を抱く……俺の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>は雲州の庭だ」

老人は飄然と立ち去った。つづいてバラバラと見物が散り、間もなく暮色が逼って来た。

腕を組んだ鬼小僧、考え込まざるを得なかった。

「驚いたなあ」と嘆息した。

「ズバリと見抜いて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>やアがった。全体どういう<ruby><rb>爺</rb><rt>おじい</rt></ruby>だろう？　謎のような事を云やアがった。俺の住居は雲州の庭だ。からきしこれじゃア見当がつかねえ。雲州の庭？　雲州の庭？　どうも見当がつかねえなあ。……」

「どうしたのだよ、え、鬼公！　変に<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>しているじゃアないか」

<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>で優しく呼ぶ声がした。

「さあ一緒に帰ろうよ」

「うん、お杉坊か、さあ帰ろう」

こうは云ったが鬼小僧は、身動き一つしなかった。

お杉は驚いてじっと見た。黒襟の衣装に赤前垂、麻形の帯を結んでいた。驚くばかりのその美貌、錦絵から抜け出した<ruby><rb>女形</rb><rt>おやま</rt></ruby>のようだ。

笠森お仙、<ruby><rb>公孫樹</rb><rt>いちょうのき</rt></ruby>のお藤、これは安永の代表的美人、しかしもうそれは過去の女で、この時代ではこのお杉が、一枚看板となっていた。身分は水茶屋の養女であったが、その綽名は「赤前垂」……もう赤前垂のお杉と云えば、武士階級から町人階級、職人乞食隠亡まで、誰一人知らないものはなかった。そうしてお仙やお藤のように、詩人や墨客からも認められた。彼女の出ている<ruby><rb>一葉</rb><rt>いちは</rt></ruby>茶屋、そのため客の絶え間がなかった。お杉はこの頃十七であった。

同じ浅草の人気者同士、鬼小僧とお杉とは<ruby><rb>仲宜</rb><rt>なかよ</rt></ruby>しであった。

「お杉坊」と鬼小僧は物憂そうに、

「今日は一人で帰ってくんな。俺ら偉いことにぶつかってな、考えなけりゃアならないんだよ」

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>も実はそうなのさ。それで相談をしたいんだがね」

「え、それじゃアお前もか？　アッハハハ大丈夫だ。<ruby><rb>養母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんと喧嘩したんだろう。お粂婆さんと来たひにゃア、骨まで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃぶろう</span>っていう強欲だからな。構うものか呶鳴ってやりねえ。俺らも助太刀をしてえんだが、今日は駄目だ、考え事がある」

「お<ruby><rb>養母</rb><rt>かあ</rt></ruby>さんと喧嘩も喧嘩だが、今度はそれが大変なのでね、妾ひょっとすると浅草へは、もう出ないかもしれないよ」

「や、こいつア驚いたなあ。実は俺らもそうなのだ。術を見破られてしまったんだからな。気恥しくって出られやしねえ」

「じゃア一緒には帰られないの」

お杉は寂しそうな様子をした。肩を縮め首を垂れ、車坂の方へ帰って行った。

「いやに寂しい様子だなア」

ふと鬼小僧はこう思ったが、もうその次の瞬間には、自分の問題へ立ち返っていた。

日が暮れて月が出た。寒月蒼い境内には、黙然と考えている鬼小僧以外、人の姿は見られなかった。

と、鬼小僧は突然云った。

「<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>った！　<ruby><rb>箆棒</rb><rt>べらぼう</rt></ruby>！　何のことだ！」

３

「解った！　箆棒！　何のことだ！」

こう叫んだ鬼小僧は、尻をからげて走り出した。

浅草から品川まで、彼は一息に走って行った。浜御殿を筆頭に、大名屋敷下屋敷、ベッタリその辺りに並んでいた。<ruby><rb>尾張</rb><rt>おわり</rt></ruby>殿、<ruby><rb>肥後</rb><rt>ひご</rt></ruby>殿、仙台殿、一ッ橋殿、脇坂殿、<ruby><rb>大頭</rb><rt>おおあたま</rt></ruby>ばかりが並んでいた。その裏門が海に向いた、わけても宏壮な一宇の屋敷の外廻りの土塀まで来た時であった。その土塀へ手を掛けると、鬼小僧はヒラリと飛び上った。土塀の<ruby><rb>頂上</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>で腹這いになり、<ruby><rb>家内</rb><rt>やうち</rt></ruby>の様子を窺ったが、樹木森々たる奥庭には、燈籠の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>がともっているばかり、人の居るらしい<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>もなかった。

「よし」と云うと飛び下りた。そこで地面へ這い這いになり、改めて奥庭を窺った。ある所は深山の姿、又ある所は深林の<ruby><rb>態</rb><rt>さま</rt></ruby>、そうかと思うと谷川が流れ、向うに石橋こちらに丸木橋、更にある所には<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>があり、寂と豪華、自然と人工、それの極致を尽くした所の庭園は眼前に展開されていたが、これぞと狙いを付けて来た、目的の物はみえなかった。

「おかしいなあ？」と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いたが、鬼小僧は失望しなかった。そろそろと爪先で歩き出した。と一棟の<ruby><rb>茶室</rb><rt>みずや</rt></ruby>があった。その前を通って先へと進んだ。

「これ小僧」と呼ぶ声がした。

「感心々々よく参った。ここだここだ、こっちへ来い」

茶室の中から聞こえてきた。

鬼小僧は度胆を抜かれたが、それでも<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>はしなかった。足を払うと縁へ上った。と、雨戸が内から開いた。そこで鬼小僧は身を細め、障子をあけて中へ入った。しかし老人は居なかった。

「はてな？」と小首を傾げた時、正面の壁が左右へあいた。

「ここだここだ」と云う声がした。

「これじゃアまるで化物屋敷だ」

またも度胆を抜かれたが、そこは大胆の鬼小僧、かまわず中に入って行った。地下へ下りる階段があった。それを下へ下りた。畳数にして五十畳、広い部屋が作られてあった。しかも日本流の部屋ではない。<ruby><rb>阿蘭陀</rb><rt>オランダ</rt></ruby>風の洋室であった。書棚に積まれた万巻の書、巨大な<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>のその上には、精巧な地球儀が置いてあった。椅子の一つに腰かけているのが、例の鶴髪の老人であった。

ここに至って鬼小僧は、完全に度胆を抜かれてしまった。で、ベタベタと床の上に坐った。その床には青と黄との、浮模様<ruby><rb>絨氈</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>が敷き詰められてあった。昼のように煌々と明るいのは、ギヤマン細工の花ランプが、天井から下っているからであった。

「雲州の庭、よく<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>ったな」

老人はこう云うと微笑した。手には洋書を持っていた。

「へえ、随分考えました。……雲州様なら松江侯、すなわち松平<ruby><rb>出雲守</rb><rt>いずものかみ</rt></ruby>様、出雲守様ときたひには、<ruby><rb>不昧</rb><rt>ふまい</rt></ruby>様以来の風流のお家、その奥庭の結構は名高いものでございます。……雲州の庭というからには、そのお庭に相違ないと、こう目星を付けましたので」

鬼小僧は正直にこう云った。

「ところで俺を何者と思う？」

「さあそいつだ、見当が付かねえ」

「あれを見ろ」と云いながら老人は壁へ指を指した。洋風の壁へかかっているのは、純日本風の<ruby><rb>扁額</rb><rt>へんがく</rt></ruby>であった。墨痕淋漓匂うばかりに「<ruby><rb>紙鳶堂</rb><rt>しえんどう</rt></ruby>」と三字書かれてあった。

「<ruby><rb>形学</rb><rt>けいがく</rt></ruby>を学んだお前のことだ、紙鳶堂の号ぐらい知っているだろう」

「知っている段じゃアございません。だが紙鳶堂先生なら、安永八年五十七歳で、牢死されたはずでございますが？」

「うん、表て向きはそうなっている。が、俺は生きている。雲州公に隠まわれてな。つまり俺の『形学』を、大変惜しんで下されたのだ。俺は本年百十歳だ」

「それじゃア本当にご老人には、平賀先生でございますか？」

「紙鳶堂平賀源内だ」

「へえ」とばかりに鬼小僧は床へ額を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span>付けてしまった。

４

その翌日から浅草は、二つの名物を失った。一つはお杉、一つは鬼小僧……どこへ行ったとも<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった。江戸の人達は<ruby><rb>落胆</rb><rt>がっかり</rt></ruby>した。観音様への帰り路、美しいお杉の纖手から、茶を貰うことも出来なければ、胆の潰れる鬼小僧の手品で、驚かして貰うことも出来なくなった。

鬼小僧はともかくも、お杉はどこへ行ったんだろう？

八千石の大旗本、大久保<ruby><rb>主計</rb><rt>かずえ</rt></ruby>の養女として、お杉は貰われて行ったのであった。

大久保主計は<ruby><rb>安祥</rb><rt>あんしょう</rt></ruby>旗本、将軍<ruby><rb>家斉</rb><rt>いえなり</rt></ruby>のお気に入りであった。それが何かの失敗から、最近すっかり不首尾となった。そこで主計はどうがなして、昔の首尾に<ruby><rb>復</rb><rt>かえ</rt></ruby>ろうとした。微行で浅草へ行った時、計らず赤前垂のお杉を見た。

「これは<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>い物が目つかった。養女として屋敷へ入れ、二三カ月磨いたら、飛び付くような<ruby><rb>料物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>になろう。将軍家は好色漢、食指を動かすに相違ない。そこを目掛けて取り入ってやろう」

で、早速家来をやり、養母お粂を説得させた。一生安楽に暮らせる程の、莫大な金をやろうという、大久保主計の申し出を、お粂が断わるはずがない。一も二もなく承知した。

お杉にとっては夢のようで、何が何だか解らなかった。水茶屋の養女から旗本の養女、それも八千石の旗本であった。二万三万の小大名より、内輪はどんなに裕福だかしれない。そこの養女になったのであった。お附の女中が二人もあり、遊芸から行儀作法、みんな別々の師匠が来て、恐れ謹んで教授した。衣類といえば<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>お召。髪飾りといえば黄金珊瑚、家内こぞって三ッ指で、お嬢様お嬢様と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たてまつる</span>、ポーッと上気するばかりであった。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>あたし</rt></ruby>なんだか気味が悪い」

これが彼女の本心であった。二月三月経つ中に、彼女は見違える程気高くなった。

地上のあらゆる生物の中、人間ほど境遇に順応し、生活を変え得るものはない。で、お杉もこの頃では、全く旗本のお嬢様として、暮らして行くことが出来るようになった。

そうして初恋にさえ捉えられた。

主計の奥方の弟にあたる、旗本の次男<ruby><rb>力石三之丞</rb><rt>りきいしさんのじょう</rt></ruby>、これが初恋の相手であった。三之丞は青年二十二歳、北辰一刀流の開祖たる、千葉周作の弟子であった。毎日のように三之丞は、主計方へ遊びに来た。その中に醸されたのであった。

今こそ旗本のお嬢様ではあるが、元は盛り場の茶屋女、男の肌こそ知らなかったが、お杉は決して<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>ではなかった。男の心を引き付けるコツは、遺憾ない迄に心得ていた。

美貌は江戸で第一番、気品は旗本のお嬢様、それで心は茶屋女、これがお杉の本態であった。そういう女が初恋を得て、男へ通って行くのであった。どんな男の鉄石心でも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とろけ</span>ざるを得ないだろう。一方三之丞は情熱家、家庭の風儀が厳しかったので、悪所へ通ったことがない。どっちかと云えば剣道自慢、無骨者の方へ近かった。とは云え旗本の若殿だけに、風貌態度は打ち上り、殊には生来の美男であった。女の心を引き付けるに足りた。

この恋成就しないはずがない。

しかし初恋というものは、漸進的のものである。心の中では燃えていても、形へ現わすには<ruby><rb>時間</rb><rt>とき</rt></ruby>が<ruby><rb>必要</rb><rt>い</rt></ruby>る。そうして多くはその間に、邪魔が入るものである。そうして消えてしまうものである。しかし往々邪魔が入り、しかも恋心が消えない時には、一生を棒に振るような、悲劇の主人公となるものである。

ある日主計と奥方とは、ひそひそ部屋で囁いていた。

５

「<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>、ご注意遊ばさねば……」

こう云ったのは奥方であった。

「うむ、お杉と三之丞か」

主計はむずかしい顔をしたが、

「何とかせずばなるまいな」

「どうぞ貴郎から三之丞へ。……<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>からお杉へ申しましょう」

「うむ、そうだな、そうしよう」

翌日三之丞が遊びに来た。

「三之丞殿、ちょっとこちらへ」

主計は奥の間へ呼び入れた。

「さて<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>も二十二歳、若盛りの大切の時期、文武両道を励まねばならぬ。時々参られるのはよろしいが、あまり<ruby><rb>繁々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>来ませぬよう」

婉曲に諷したものである。

「はっ」と云ったが三之丞には、よくその意味が<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>っていた。で頸筋を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>くした。

その夜奥方はお杉へ云った。

「<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>も今は旗本の娘、若い男と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はしたなく</span>、決して話してはなりませぬ」

こうしてお杉と三之丞とは、その間を隔てられた。隔てられて募らない恋だったら、恋の仲間へは入らない。おりから季節は五月であった。蛍でさえも生れ出でて、情火を燃やす時であった。蛙でさえも水田に鳴き、<ruby><rb>侶</rb><rt>とも</rt></ruby>を求める時であった。梅の実の熟する時、<ruby><rb>鵜飼</rb><rt>うかい</rt></ruby>の鵜さえ<ruby><rb>接</rb><rt>つ</rt></ruby>がう時、「お手討ちの夫婦なりしを<ruby><rb>衣更</rb><rt>ころもが</rt></ruby>え」不義乱倫の行ないさえ、美しく見える時であった。

二人は恋を募らせた。

お杉はすっかり憂鬱になった。そうして心が<ruby><rb>頑固</rb><rt>かたくな</rt></ruby>になった。ろくろく物さえ云わなくなった。そうして万事に意地悪くなり、思う所を通そうとした。

三之丞は次第に兇暴になった。

恐ろしいことが起こらなければよいが！

それは夕立の雨後の月が、傾きかけている深夜であった。新吉原の土手八丁、そこを二人の若い男女が、手を引き合って走っていた。

と、行手から編笠姿、<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>をした侍が、俯向きながら歩いて来た。擦れ違った一刹那、

「待て！」と侍は忍び音に呼んだ。

「ひえッ」と云うと男女の者は、<ruby><rb>泥濘</rb><rt>ぬかるみ</rt></ruby>へペタペタと膝をついた。

「どうぞお見遁し下さいまし」

こう云ったのは男であった。見れば女は手を合わせていた。

じっと見下ろした侍は、

「これ、<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>達は駈落だな」

こう云いながらジリリと寄った。陰森たる声であった。一味の殺気が籠もっていた。

「は、はい、深い事情があって」

男の声は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えていた。

「うむ、そうか、駈落か。……楽しいだろうな。嬉しいだろう」

それは狂気染みた声であった。

「…………」

二人ながら返辞が出来なかった。

「そうか、駈落か」とまた云った。

「うらやましいな。……駈落か、……よし、行くがいい、早く行け……」

「はい、はい、有難う存じます」

男女は泥濘へ額をつけた。刀の鞘走る音がした。蒼白い光が一閃した。

「むっ」という男の息詰った悲鳴、続いて重い鈍い物が、泥濘へ落ちる音がした。男の首が落ちたのであった。

「ひ――ッ」と女の悲声がした。もうその時は斬られていた。男女の死骸は打ち重なり、その手は宙で泳いでいた。と、女の左手と男の右手とが搦み合った。月が上から照らしていた。血が泥濘へ銀色に流れ、それがピカピカ目に光った。

茫然と侍は佇んだ。二つの死骸を見下ろした。女の衣装で刀を拭い、ゆるくサラサラと鞘へ納めた。

「<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>い気持だ」と呟いた。

「お杉様！」と咽ぶように云った。

それから後へ引っ返した。

６

江戸へ「<ruby><rb>夫婦</rb><rt>めおと</rt></ruby>斬り」の始まったのは、実にその夜が最初であった。あえて夫婦とは限らない。男女二人で連れ立って、夜更けた町を通って行くと、深編笠の侍が出て、斬って捨るということであった。江戸の人心は恟々とした。<ruby><rb>夜間</rb><rt>よる</rt></ruby>の通行が途絶え勝ちになった。

さて一方お杉の身の上には、来べきことが来ることになった。将軍<ruby><rb>家斉</rb><rt>いえなり</rt></ruby>の眼に止まり、<ruby><rb>局</rb><rt>つぼね</rt></ruby>へ<ruby><rb>納</rb><rt>い</rt></ruby>れられることになった。秋海棠が後苑に咲き、松虫が籠の中で歌う季節、七夕月のある日のこと、葵紋付の女駕籠で、お杉は千代田城へ迎えられた。お杉の局と命名され、寵を一身に集めることになった。もうこうなっては仕方がなかった。下様の眼から見る時は、将軍といえば神様であった。神様の覚し召しとあるからは、厭も応も無いはずであった。

で、お杉は奉仕した。しかし心では初恋の人を、前にも増して恋い慕った。逢うことも話すことも出来ないと思えば、その恋しさは増すばかりであった。<ruby><rb>洵</rb><rt>まこと</rt></ruby>に彼女の境遇は、女としては栄華の絶頂、夢のようでもあれば極楽のようでもあった。もし彼女に三之丞という、忘られぬ人がなかったなら、満足したに相違ない。恋の九分九厘は<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>の前には、<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くも挫けるものであった。しかし、後の一厘の恋は、いわゆる選ばれた恋であって、どんな物にも挫けない。選ばれた人の運命は、大方悲劇に終るものであった。それは浮世の俗流に対して、覚醒の鼓を鳴らすからで、たとえば遠い小亜細亜の、<ruby><rb>猶太</rb><rt>ユダヤ</rt></ruby>に産れた<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>が、大きな<ruby><rb>真理</rb><rt>まこと</rt></ruby>を説いたため、十字架の犠牲になったように。……で、お杉と三之丞との恋は、選ばれた人の恋であった。<ruby><rb>反</rb><rt>そら</rt></ruby>すことの出来ない恋であった。

将軍家斉は風流人、情界の機微に精通した、サッパリとした人物であった。お杉に三之丞がなかったなら、恋さないでは居られなかったろう。

後宮の佳麗三千人、これは支那流の形容詞、しかし家斉将軍には事実五十人の愛妾があった。いずれもソツのない美人揃い、眼を驚かすに足るものがあったが、しかしお杉に比べては、その美しさが及ばなかった。で、家斉は溺愛した。しかるに日を経るにしたがって、家斉はお杉の心の中に、秘密のあることに感付くようになった。相手を愛するということは、相手を占有することであった。愛は完全を<ruby><rb>要求</rb><rt>もと</rt></ruby>める点で、ほぼ芸術と同じであった。占有出来ないということは、愛する人の身にとって、堪え難いほどの苦痛であった。で、家斉はどうがなして、お杉の秘密を知ろうとした。

ある日お杉は<ruby><rb>偶然</rb><rt>ゆくりなく</rt></ruby>、宿下りをした召使の口から、市中の恐ろしい噂を聞いた。それは「<ruby><rb>夫婦</rb><rt>めおと</rt></ruby>斬り」の噂であった。

「人を殺したその後で、その辻斬りの侍は、さも恋しさに堪えないように『お杉様！』と呼ぶそうでございます」

「お杉様と呼ぶ？　お杉様と？」

お杉は思わず<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>返した。

彼女には辻斬りの侍の、何者であるかが直覚された。

「三之丞様に相違ない」

彼女は固くこう思った。恋する女の敏感が、そういう事を感じさせたのであった。お杉様と呼ばれる若い女は、この世に無数にあるだろう。お杉様と呼ぶ侍も、この世に無数にあるだろう。しかしお杉はその「お杉様」が、自分であることを固く信じた。そうしてそう呼ぶ侍が、三之丞であることを固く信じた。

「気の毒なお方。……三之丞様。……そうまで兇暴になられたのか。……妾には<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>る、お心持が。……では妾も覚悟しよう。……妾は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつえ</span>蔵へ入ることにしよう。……あのお方のために。……三之丞様のために」

７

浅草の夜は更けていた。馬道二丁目の辻から出て、吾妻橋の方へ行く者があった。子供かと思えば大人に見え、大人かと思えば子供に見える、変に気味の悪い人間であった。

と一人の侍が、吾妻橋の方からやって来た。深編笠を冠っていた。憂いありそうに俯向いていた。まさに二人は擦れ違おうとした。

「待て」と侍は声を掛けた。

「何でえ」と小男は足を止めた。

「連れはないか？　女の連れは？」

「いらざるお世話だ、こん畜生」

小男は勇敢に毒吐いた。

「片眼で<ruby><rb>傴僂</rb><rt>せむし</rt></ruby>のこの俺を、馬鹿にしようって云うんだな。誰だと思う鬼小僧だ！」

「何、鬼小僧？　それは何だ？」

「うん、昔は手品師さ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だが</span>今じゃア<ruby><rb>形学</rb><rt>けいがく</rt></ruby>者だ！　<ruby><rb>紙鳶堂</rb><rt>しえんどう</rt></ruby>主人平賀源内これが俺らのお師匠さんだ。手前なんかにゃア解るめえが、形学と云うなア<ruby><rb>形而</rb><rt>かたちの</rt></ruby>学問だ！　一名科学って云うやつだ。<ruby><rb>阿蘭陀</rb><rt>オランダ</rt></ruby>仕込みの西洋手品！　世間の奴らはこんなように云う。もっと馬鹿な奴は<ruby><rb>吉利支丹</rb><rt>キリシタン</rt></ruby>だと云う。ふん、みんな違ってらい！　本草学にエレキテル、機械学に解剖学、物理に化学に地理天文、人事百般から森羅万象、宇宙を<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>める学問だア！　もっとも馬鹿野郎の眼から見たら、手品吉利支丹に見えるかもしれねえ。……おお、<ruby><rb>侍</rb><rt>さむれえ</rt></ruby>それはそうと、お前さん一体何者だね？」

深編笠の侍は、それには返辞をしなかった。彼は<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ手をやった。取り出したのは小判であった。

「これをくれる持って行け。なるほどお前の<ruby><rb>風貌</rb><rt>かおかたち</rt></ruby>なら、美しい女に恋されもしまい。気の毒だな、同情する。俺はそういう人間へ、充分同情の出来る者だ。恋などするな、恋は苦しい。……さあ遠慮なく金を取れ。そうして酒でも飲んでくれ」

「馬鹿にするない！　乞食じゃアねえ」

鬼小僧はすっかり怒ってしまった。

「だが、おかしな侍だなあ。どう考えてもおかしな野郎だ。ははあ失恋で気がふれたな。……せっかくの好意だが受けられねえ」

「そう云わず取ってくれ。俺はそういう人間なのだ。女連れと見ると斬りたくなる。若い男が一人通ると、俺は金をやりたくなる」

これを聞くと鬼小僧は、後ろへピョンと飛び退いた。

「それじゃア手前は『<ruby><rb>夫婦</rb><rt>めおと</rt></ruby>斬り』だな！　こいつア<ruby><rb>可</rb><rt>い</rt></ruby>い所で<ruby><rb>邂逅</rb><rt>ぶつか</rt></ruby>った。逢いてえ逢いてえと思っていたのだ。ヤイ侍よく聞きねえ。俺はな、今から十日前まで、紙鳶堂先生のお<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に仕え、形学の奥義を究めていたものだ。印可となってお側を去り、これから長崎へ行くところだ。そこで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もっと</span>修行するのよ。ところで久しぶりで<ruby><rb>市</rb><rt>まち</rt></ruby>へ出てみると、夫婦斬り噂で大騒ぎだ。そこで俺は決心したのだ。よくよくそういう無慈悲の奴は、俺の形学で退治てやろうとな。で今夜も探していたのさ。ここで逢ったが百年目、さあ野郎観念しろ！」

云い捨て懐中へ手を入れると一尺ほどの<ruby><rb>円管</rb><rt>つつ</rt></ruby>を出した。キリキリと<ruby><rb>螺施</rb><rt>ねじ</rt></ruby>を捲く音がした。と、円管先から一道の火光が、煌々然と閃めき出た。

「眼が眩んだか、いい気味だ！　エレキで作った無煙の火、アッハハハ驚いたか！　古風に云やア<ruby><rb>火遁</rb><rt>かとん</rt></ruby>の術、このまま姿を隠したら、絶対に目つかる物じゃアねえ。……や、刀を抜きゃアがったな！　さあ切って来い、来られめえ！　おっ、<ruby><rb>浮雲</rb><rt>あぶね</rt></ruby>え！」と鬼小僧は、突然円管先の光を消した。

光の後の二倍の闇、闇に紛れて逃げたものか、鬼小僧の姿は見えなかった。

８

深編笠の侍は、<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>をダラリと下げたまま、茫然と往来へ立っていた。

「ここだここだ！」と呼ぶ声がした。一軒の家の屋根の上に、鬼小僧は立って笑っていた。

「やいやい侍<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したか。だが驚くにゃアあたらねえ。飛燕の術というやつさ。日本の武道で云う時はな。……<ruby><rb>形学</rb><rt>けいがく</rt></ruby>で云うと少し違う。物理の法則にちゃんとあるんだ。教えてやろう『<ruby><rb>槓桿</rb><rt>こうかん</rt></ruby>の原理』そいつを応用したまでだ。……さあ今度は何にしよう。水鉄砲がいい！　うんそうだ！」

また懐中から何か出した。

「おおおお侍気を附けろよ！　ただの水鉄砲たア鉄砲が<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>う。水一滴かかったが最後、手前の体は腐るんだからな」

闇に一条の白蛇を描き、シューッと水が<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>り出た。

危険と知ったか侍は、サッと軒下に身を隠した。

「あっ、畜生、こいつア<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ねえ。あべこべに<ruby><rb>先方</rb><rt>むこう</rt></ruby>が水遁の術だ。……中止々々！　水鉄砲は中止。……さてこれからどうしたものだ。ともあれ<ruby><rb>家根</rb><rt>やね</rt></ruby>から飛び下りるとしよう」

鬼小僧はヒラリと飛び下りた。

途端に侍が走り出た。

「小僧！」と掛けた血走った声、ザックリ肩先へ切り込んだ。

「どっこい！」という声と共に、辛く身を<ruby><rb>反</rb><rt>かわ</rt></ruby>せた鬼小僧、三間ばかり逃げ延びたが、そこでグルリと身を飜えし、ピューッと何か投げ付けた。それが地へ<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>った一刹那、ドーンと凄じい爆音がした。と、火花がキラキラと散り、煙りが濛々と立ち上った。

「へ、へ、へ、へ、どんなものだ。その煙りを嗅いだが最後、手前の鼻は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もげ</span>っちまうぜ。気息を抑える発臭剤！　可哀そうだなあ、<ruby><rb>死</rb><rt>くたば</rt></ruby>れ死れ！」

だが侍は死らなかった。煙りを<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って走って来た。

「わッ、<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ねえ、追って来やがった！」

吾妻橋の方へ逃げかけた時、天運尽きたか鬼小僧は、石に<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>いて転がった。得たりと追い付いた侍は、拝み討ちの大上段、

「小僧、今度は遁さぬぞ！」

切り下ろそうとした途端、にわかに侍は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よろめい</span>た。

「お杉様！」とうめくように云った。

やにわに飛び起きた鬼小僧、侍の様子を窺ったが、

「え、何だって？　お杉さんだって？　俺もお杉さんを探しているんだ。赤前垂のお杉さんをな。……お前さん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そいつ</span>を知ってるのか？　俺にとっちゃアお友達、同じ浅草にいたものだ」

「お杉様！」と侍はまた云った。

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>は死にかけて居りますね。……恋の一念私には<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>る。……餓えて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつえ</span>て死にかけて居られる」

侍はベタベタと地に坐った。

驚いたのは鬼小僧で、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を呑んで窺った。

「細い細い糸のような声！　私を呼んでおいでなさる。三之丞様！　三之丞様と！」

「お前さん三之丞って云うのかい。……そうしてどこのお杉さんだね？」

鬼小僧は顔を突き出した。

９

いかにもこの時お杉の<ruby><rb>局</rb><rt>つぼね</rt></ruby>は、柳営大奥<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつえ蔵</span>の中で、まさに生命を終ろうとしていた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつえ蔵</span>は柳営の極秘であった。

そこは恐ろしい地獄であった。地獄も地獄餓鬼地獄であった。

不義を犯した大奥の<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>を、餓え死にさせる土蔵であった。幾十人幾百人、美しい局や侍女達が、そこで非業に死んだかしれない。

その恐ろしい地獄の蔵へ、どうしてお杉は入れられたのだろう？

自分から進んで入ったのであった。

お杉は<ruby><rb>家斉</rb><rt>いえなり</rt></ruby>へこう云った。

「まだ大奥へ参らない前から、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>には恋人がございました。今も妾は焦れて居ります。その方も焦れて居りましょう。……妾は死骸でございます。恋の死骸でございます。……不義の女と云われましても、妾には<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>もございません。……どうぞ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつえ蔵</span>へお入れ下さい」

これは実に家斉にとって、恐ろしい程の苦痛であった。愛する女に恋人がある。そうして今も思い詰めている。自分から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつえ蔵</span>へ入りたいと云う。……一体どうしたものだろう？

「しかし大奥へ入ってから、密夫をこしらえたというのではない。決して不義とは云われない。思い切ってくれ、その男を。……かつえ蔵へは入れることは出来ない」

将軍の威厳も振り棄てて、こう家斉は頼むように云った。

「思い詰めておるのでございます。昔も、今も、<ruby><rb>将来</rb><rt>これから</rt></ruby>も。……」

これがお杉の返辞であった。

もうこうなっては仕方がなかった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつえ蔵</span>へ入れなければならなかった。

江戸城の奥庭林の中に、一宇の蔵が立っていた。黒塗りの壁に鉄の扉、餓鬼地獄の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつえ蔵</span>であった。

ある夜ギイーとその戸が開いた。誰か蔵へ入れられたらしい。他ならぬお杉の局であった。と、ドーンと戸が閉じた。蔵の中は暗かった。

<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>一つ<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>されていない。それこそ文字通りの闇であった。一枚の円座と一脚の脇息、あるものと云えばそれだけであった。

お杉は円座へ端座した。

恋人<ruby><rb>力石三之丞</rb><rt>りきいしさんのじょう</rt></ruby>、その人のことばかり思い詰めた。

「三之丞様」と心の中で云った。

「どうぞご安心下さいまし。お杉は<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>を忘れはしません。妾は喜こんで貴郎のために、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かつえ死に</span>するつもりでございます。思う心を貫いて、自分で死ぬという事は、何という嬉しいことでしょう。……」

蔵の外では夜が明けた。しかし蔵の中は夜であった。蔵の外では日が暮れた。蔵の中には変化がない。こうして時が経って行った。

お杉の心は朦朧となった。

ほとんど<ruby><rb>餓</rb><rt>うえ</rt></ruby>が極まった。

その時突然お杉が云った。

「妾には<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>る、<ruby><rb>貴男</rb><rt>あなた</rt></ruby>のお姿が！　おお直ぐそこにお<ruby><rb>在</rb><rt>い</rt></ruby>でなさる。……ああ直ぐにも手が届きそうだ。……左様ならよ、三之丞様！　妾は死んで参ります。……妾は信じて疑いません。こんなに焦れている私達、一緒になれないでどうしましょう。美しい<ruby><rb>黄泉</rb><rt>あのよ</rt></ruby>で、魂と魂と……」

お杉は脇息にもたれたまま、さも美しく闇の中で死んだ。

それは力石三之丞が、鬼小僧と邂逅した同じ夜の、同じ時刻のことであった。

<span data-tei-rend="text-combine-upright" style="text-combine-upright: all">10</span>

一方<ruby><rb>吾妻橋</rb><rt>あずまばし</rt></ruby>橋畔の、三之丞と鬼小僧とはどうしたろう？

三之丞は地の上へ坐っていた。

鬼小僧は上から覗き込んでいた。

と、突然三之丞が云った。

「小僧、俺は腹を切る。情けがあったら介錯しろ」

抜身をキリキリと袖で捲いた。

「おっと待ってくれお侍さん。一体どうしたというんですえ？　腹を切るにも及ぶめえ」

鬼小僧は<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>て押し止めた。

「辻斬りしたのが悪かったと、懺悔なさるお<ruby><rb>意</rb><rt>つもり</rt></ruby>なら、頭を丸めて<ruby><rb>法衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>を着、高野山へお上りなさいませ」

「懺悔と？」

侍は頬で笑った。

「懺悔するような俺ではない。俺は一心を貫くのだ！　お杉様が今死んだ。その美しい<ruby><rb>死姿</rb><rt>しにすがた</rt></ruby>まで、俺にはハッキリ見えている。俺は後を追いかけるのだ」

グイと肌をくつろげた。左の脇腹へプッツリと、刀の先を突込んだ。キリキリキリと引き廻した。

「介錯」と血刀を前へ置いた。

気勢に誘われた鬼小僧、刀を握って飛び上った。

「苦しませるも気の毒だ。それじゃア介錯してやろう。ヤッ」と云った声の下に、侍の首は地に落ちた。

「さあこれからどうしたものだ。せめて首だけでも葬ってやりてえ。……それにしても一体この侍、どういう身分の者だろう。何だか悪人たア思われねえ。……お杉様と云ったなア誰の事だろう？　まさか浅草の赤前垂、お杉ッ子じゃアあるめえが。……まあそんなこたアどうでもいい。さてこれからどうしたものだ」

鬼小僧はちょっと途方に暮れた。

夜をかけて急ぐ旅人でもあろう吾妻橋の方から人が来た。

「うかうかしちゃアいられねえ。下手人と見られねえものでもねえ。よし」と云うと鬼小僧は、侍の片袖を引き千切り、首を包むと胸に抱き、ドンドン町の方へ走っていた。

数日経ったある日のこと、東海道の松並木を、スタスタ歩いて行く旅人があった。他でもない鬼小僧で、首の包みを持っていた。

「葬り損なって持って来たが、生首の土産とは有難くねえ。そうそうこの辺りで葬ってやろう。うん、ここは興津だな。海が見えていい景色だ。松の根方へ埋めてやろう。……おっと<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ねえ人が来た。……ではもう少し先へ行こう」

で、鬼小僧は歩いて行った。

爾来十数年が経過した。

その頃肥前長崎に、平賀<ruby><rb>浅草</rb><rt>せんそう</rt></ruby>という蘭学者があった。傴僂で片眼で醜かったが、しかし非常な博学で、多くの弟子を取り立てていた。

彼の書斎の床間に、<ruby><rb>髑髏</rb><rt>どくろ</rt></ruby>が一つ置いてあったが、どんな因縁がある髑髏なのかは、かつて一度も語ったことがない。

だが彼は時々云った。

「赤前垂のお杉さん、古い昔のお友達、あの人は今でも<ruby><rb>健康</rb><rt>たっしゃ</rt></ruby>かしらん？」