別るる恋

「相手の権勢に酔わされたか！　ないしは美貌に魅せられたか！　よくも<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>を欺むかれたな！」

こう罵ったのは若い武士で、その名を<ruby><rb>北畠秋安</rb><rt>きたばたけあきやす</rt></ruby>と云って、年は二十三であった。

罵られているのは若い娘で、名は<ruby><rb>萩野</rb><rt>はぎの</rt></ruby>、十九歳であった。

罵られても萩野は黙っている。口を固く結んでいる。そうして足許を見詰めている。その態度には憎々しいほどの、決心の相が見えている。

「さようか、さようか、物を言わぬ気か、それ程までに某を、もう嫌って居られるのか。薄情もそこまで行き詰めれば、また潔いものがある。で、某も潔くやろう。二人の仲は今日限りに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あか</span>の他人の昔に帰ろう。が、一言云って置く、<ruby><rb>不破小四郎</rb><rt>ふわこしろう</rt></ruby>は<ruby><rb>伴作</rb><rt>ばんさく</rt></ruby>殿の<ruby><rb>従兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>で、関白殿下のご愛臣で美貌と権勢と財宝とを、三つながら遺憾なく備えて居られる。で、幸福のお身の上よ。が、そういうお身の上の方は、何事につけても執着がなくて、女子などにも薄情なものだ。で、<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>に予言して置く、間もなく小四郎に捨られるであろうぞ」

捨石から腰を上げた秋安は、萩野を尻眼に睨んだが、そのままスタスタと歩き出した。一切未練は俺にはない――と云ったような歩き方である。とは云え灌木の陰へかくれて、萩野の姿の見えなくなると一緒に、その歩き方は力なげになった。

絶望が心に涌いたからである。

ここは京都の郊外の、<ruby><rb>上嵯峨</rb><rt>かみさが</rt></ruby>へ通う野路である。<ruby><rb>御室</rb><rt>おむろ</rt></ruby>の<ruby><rb>仁和寺</rb><rt>にんなじ</rt></ruby>は北に見え、<ruby><rb>妙心寺</rb><rt>みょうしんじ</rt></ruby>は東に見えている。野路を西へ辿ったならば、<ruby><rb>太秦</rb><rt>うずまさ</rt></ruby>の村へ行けるであろう。

その野路をあてもなく、秋安は西の方へ<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>って行く。

季節は<ruby><rb>酣</rb><rt>たけなわ</rt></ruby>の春であった。四條の<ruby><rb>西壬生</rb><rt>にしみぶ</rt></ruby>の壬生寺では、壬生狂言があるというので、洛内では噂とりどりであった。そうして嵯峨の嵯峨念仏は、数日前に終わっていた。

そういう酣の春であった。

この野路の美しさよ。

<ruby><rb>木瓜</rb><rt>ぼけ</rt></ruby>の花が咲いている。<ruby><rb>樝</rb><rt>しどみ</rt></ruby>の花が咲いている。<ruby><rb>￼花</rb><rt>こごめ</rt></ruby>の花が咲いている。そうして畑には麦が延びて、巣ごもりをしている<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby>達が、いうところのヒヒ鳴きを立てている。

農家がパラパラと蒔かれていたが、多くは花に包まれていた。白いのは木蓮か梨の花であろう。赤紫に見えるのは、<ruby><rb>蘇枋</rb><rt>すおう</rt></ruby>の花に相違ない。

と、灌木の裾を巡って、<ruby><rb>孕鹿</rb><rt>はらみじか</rt></ruby>が現われた。どこから紛れ込んだ鹿なのであろう？　優しい眼をして秋安を見たが、臆病らしく走り去った。

白味を含んだ蒼い空から、銀笛の音色を思わせるような、<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>の声が降って来る。そうしてヒラヒラと野路からは、絹糸のような<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>が立つ。

万事<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は明るくて、陽気で美しくて楽しそうであった。

が、暗いものが一つあった。他ならぬ秋安の心であった。

「萩野と馴染んで一年になる。その交情は厚かったはずだ。あの女を苦しめた覚えはない。愛して愛して愛し抜いたはずだ。裏切られるような薄情なことを、俺は一度もしたことがない。にもかかわらず裏切られた。女の心というものは、ああも手の平を<ruby><rb>飜</rb><rt>か</rt></ruby>えすように、ひっくりかえるものだろうか？」

考えながら歩いて行く。

「あの花園の森の中で、去年松の花の咲く頃に、はじめて恋を語り合ったが、同じ松の花の咲く季節の、今年の春には同じ森で、<ruby><rb>気不味</rb><rt>きまず</rt></ruby>い別離を告げようとは……何だか俺には夢のようだ。化かされているような気持もする」

考えながら彷徨って行く。

と、にわかに笑い出した。

「ハッハッハッ、何と云うことだ！　未練もいい加減にするがいい。向こうから俺を捨たのだ。何をクヨクヨ思っているのだ」

しかしやっぱり寂しかった。

で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>なしに歩いて行く。

しかしそういう寂しい心を、厭でも捨なければならないような、一つの事件が勃発した。

行く手の森陰からけたたましい、若い女の悲鳴が聞こえて、つづいて四五人の男の声が、これもけたたましく聞こえたからである。

で、秋安は走って行った。

廻国風の美しい娘を、五人の若い侍が、今や手籠めにしようとしている。

助けた女は？

それと見てとって秋安が、勃然と怒りを発したのは、まさに当然ということが出来よう。

「方々！」と声をかけながら、武士の間へ割って行ったが、

「お見受けすればいずれも武士、しかも立派なご身分らしい。しかるに何ぞや若い娘を捉えて、乱暴狼藉をなされるとは！　体面にお恥じなさるがよろしい！」

叱咤の声をひびかせた。

凜々しい態度と鋭い声に、気を呑まれたらしい五人の武士は、捉えていた娘を手放すと、一斉に<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ飛び退いたが、見れば相手は一人であった。それに年なども若いらしい。で、顔を見合わせたが、中の一人が進み出た。

「これ貴様は何者か！　我々の姿が眼に付かぬか！　銀の元結、金繍の羽織、<ruby><rb>聚楽風</rb><rt>じゅらくふう</rt></ruby>だぞ、聚楽風だぞ！」

云われて秋安は眼を止めて見た。

いかにもそれは聚楽風であった。

すなわち関白<ruby><rb>秀次</rb><rt>ひでつぐ</rt></ruby>に仕える、聚楽第の若い武士の、一風変わった派手やかな、豪奢を極めた風俗であった。

そうしてその事が秋安の心を、一層の憤りに導いた。

「ははあ左様か、ご貴殿方は、関白殿下にお仕えする、聚楽第のお歴々でござるか。ではなおさらのことでござる。乱暴狼藉はおやめなされ！　それ関白と申す者は、百官を<ruby><rb>總</rb><rt>す</rt></ruby>べ、万機を行ない、天下を<ruby><rb>関</rb><rt>はか</rt></ruby>り<ruby><rb>白</rb><rt>もう</rt></ruby>する者、<ruby><rb>太政大臣</rb><rt>だじょうだいじん</rt></ruby>の上に坐し、一ノ上とも、一ノ人とも、一ノ所とも申し上ぐる御身分、百<ruby><rb>姓</rb><rt>せい</rt></ruby>の模範たるべきお方であるはずだ。従ってそれにお仕えする、諸家臣方におかれても、等しく<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の模範として、事を振舞いなさるが当然。しかるに何ぞや娘を捉え、淫がましい<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>をなさる！　いよいよお恥じなさるがよい」

ウンとばかりに遣り込めた。

こう云われたら一言もなく、引き下るかと思ったところ、事は案外に反対となった。五人刀を抜きつらね、秋安へ切ってかかったのである。

「関白の説明汝に聞こうか！　<ruby><rb>地下侍</rb><rt>じげざむらい</rt></ruby>の分際で、<ruby><rb>痴</rb><rt>おこ</rt></ruby>がましいことは云わぬがよい。ここに居られるのは殿下の寵臣、不破小四郎行春様だ。廻国風のその娘に、用あればこそ手をかけたのだ！　じゃま立てするからにはようしゃはしない、<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>犬のように殺してくれよう！」

一人が飜然と飛び込んで来た。

身をひるがえした秋安は、太刀を抜いたが横ッ払った。殺しては後が面倒だ、そう思ったがためであろう、腰の<ruby><rb>支</rb><rt>つがい</rt></ruby>を平打ちに一刀！

「ウ――ム」と呻いてぶっ仆れる。

と、懲りずまにもう一人が、刎ねるがように切り込んで来た。

すかさず突き出した秋安の太刀に、ガラガラガラと太刀を搦らまれ、ギョッとして引こうとしたところを、秋安太刀をグッと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">セメ</span>た。ガラガラと地上で音のしたのは、敵が獲物を落としたからである。

「これ！」と叫ぶと秋安は、五人をツラツラと見渡したが、

「不破小四郎と申したな！　誰だ、どいつだ、進み出ろ！　この秋安一見したい！　少しく拙者には怨みがある」

ここで一人へ眼をつけたが、

「ははあ貴殿か！　貴殿でござろう！」

そっちへツカツカと歩み寄る。

歩み寄られた若侍は、いかさま不破小四郎でもあろう、一際目立つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きらびやか</span>の風で、そうして凄いような美男であった。

が、案外な卑怯者らしい。太刀こそ抜いて構えてはいるが、ヂタ、ヂタ、ヂタと後へ引く。

秋安にとっては怨敵である。萩野を奪われた怨みがある。

「こいつばかりは叩っ切ってやろう！」

で、ツツ――ッと寄り添った。

主人あやうしと見て取ったものか、二人の武士が左右から、挿むようにして切り込んで来た。

と、鏘然たる太刀の音！

つづいて森の木洩陽を縫って、宙に閃めくものがあった。払い上げられた太刀である。

すなわちは北畠秋安が、一人の武士の太刀を払い、そうして直ぐにもう一人の太刀を、宙へ刎ね上げてしまったのである。

と、逃げ出す足音がした。

主人の小四郎を丸く包み、五人の武士が太刀を拾わず、森から外へ逃げ出したのである。

「待て！」と秋安は声をかけたが、苦笑いをすると突立った。

「追い詰めて殺すにも及ぶまい。祟りのほどがうるさいからなあ」

で、抜いた太刀を鞘へ納め、パチンと鍔音を小高く立てたが、改めて娘の様子を見た。

木洩陽を浴びて坐っている、廻国風の娘の顔の、何と美しく気高いことよ！

そうしてこれほどの闘いにも、大して恐れはしなかったと見えて、別に体を顫わせてもいない。

とは云え勿論顔の色は、蒼味を加えてはいるのである。

「ほう」

秋安が声を上げたのは、その美しさと気高さとに、心を驚かせたからである。

恋を失った秋安は、どうやら意外の出来事から、新しい恋を得るようである。

が、それはそれとして、この日が暮れて夜になった時、花園の森の一所へ、一人の女が現われた。

闇の中の声

「秋安様の予言どおりに、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は小四郎様にあざむかれた」

さも後悔に堪えないように、声に出して女は呟いたが、他ならぬ娘の萩野であった。

今宵も忍んで来るがよいと、こういう約束があったので、萩野は恋心をたかぶらせながら、<ruby><rb>聚楽第</rb><rt>じゅらくだい</rt></ruby>の付近にある、小四郎の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>まで行ったところ、小四郎はどうしたものであろうか、けんもほろろの挨拶をして、萩野を追い返してしまったのである。

「野に在る花は野にあるがよい。<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>はやっぱり野にある花だ。しかるに<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は聚楽の家臣、地下の者とは身分が違う。何もお前を嫌うのではないが、これまでの縁はこれまでとして、其方は其方の昔にかえり、私は私の昔にかえろう。で、今後は私も行かぬ。其方も私を訪ねないがよい」

こういう露骨の言葉をさえ、萩野は小四郎から貰ったのである。

ことの意外に驚きながらも、どうすることも出来なかった。しかしどうしてそうもにわかに、小四郎の心が変わったのか、萩野には見当が付かなかった。

で、それだけでも聞きだそうと思って、小四郎の袖を抑えた時、<ruby><rb>潜戸</rb><rt>くぐりど</rt></ruby>が内からとざされた。で、聞くことさえ出来なかった。

で、そのまま<ruby><rb>婢女</rb><rt>はしため</rt></ruby>を連れて、しおしおと家へ帰ったのであったが、悲しさと口惜しさと怒りとで、眠ることなど出来そうもない。

で、フラフラと家を出て、近くの花園の森へまで、来るともなしに来たのであった。

萩野は松の木へ額をあて、じっと物思いに沈んでいる。

木洩れの月光が森の中へ、薄蒼い縞を投げている。それに照らされた萩野の肩の、寂しそうなことと云うものは！

と、その肩が顫え出した。すすり泣いている証拠である。

「小四郎様と<ruby><rb>比較</rb><rt>ひきくらべ</rt></ruby>て、秋安様の親切だったことは！　そういうお方を振りすてて、小四郎様へ気を向けたのは、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の愚かというよりも、魔が射したものと思わなければならない。その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あげくに</span>妾は捨られたのだ。誰にも逢わす顔がない。ましてや今さらオメオメと、秋安様とは逢うことは出来ない。ちょっとした心の迷いから、二つの恋を失ってしまった」

限りない絶望と悔恨とが、今や萩野をとらえたのである。

「ああこの森で秋安様と、幾度<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>をしたことやら。そのつど何と秋安様が、妾を愛撫して下すったことやら。思い出の多い花園の森！　一本の木にも一つの石にも、忘れられない思い出がある」

フラフラと萩野は歩き出した。

「ああここに杉の木がある」

一本の杉の木へ手を触れたが、しずかに幹を撫で廻した。

「この木の幹に背をもたせかけて、はじめて秋安様がこの妾へ、恋心をお打ち明け下されたのは、一年前の今頃であった。あの時妾はまあどんなに、嬉しくも恥しくも思ったことか。『妾は幸福でござります。妾も<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>様をお愛しします』と、<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼっ</rt></ruby>とした声でお答えしたはずだ」

一本の桜の老木があった。木洩れの月光に浮き出して、満開の花が綿のように、森の天井を染めている。

その桜の木へ<ruby><rb>障</rb><rt>さ</rt></ruby>わったが、萩野は幹へ額をあてた。

「この桜の花の下で、行末のことを語り合い、あのお方の熱い唇を、はじめて額へ受けたことがある。<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>のように思われるが、やはり一年の昔だった」

松の巨木が聳えている、幹に月光が斑を置いていた。

その幹へ萩野は寄りかかったが、袂で顔を蔽うようにした。にわかに体が<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>まったのは、根元へうずくまったからであろう。しばらくの間は身動きもしない。何かを思い詰めているらしい。ただ肩ばかりが顫えている。いぜんとして泣いているからであろう。

やがて心を定めたかのように、萩野はゆるゆると立ち上ったが、腰の辺りを探り出した。

と、紐がクルクルと解けた。

仰ぐように顔を上向けて、松の下枝へ眼をやったが、片手を上げて紐を投げた。

松の枝へかかって下った紐を、両手で握って引いたのは、<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>れて死のうとするのでもあろう。

縊れて死のうとしたのであった。

しかし紐の端へ頤をかけた時に、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から二本の腕が出て、萩野の肩を引っかかえた。

「ひとつ御相談にのりましょう。短気はおやめなさりませ。死ぬほどの事情がありましても、生きられる事情にもなりますもので。ひとつ御相談に乗りましょう。私にお<ruby><rb>任</rb><rt>まか</rt></ruby>せなさりませ」

つづいてこういう声がしたが、優しい老人の声であった。

秋安の館

ちょうど同じ晩のことであるが、秋安の屋敷の一間の中で、廻国風の美しい娘と、北畠秋安とが話していた。

秋安の父は<ruby><rb>秋元</rb><rt>あきもと</rt></ruby>と云い、北畠<ruby><rb>親房</rb><rt>ちかふさ</rt></ruby>の後胤として、非常に勝れた家柄であった。学者風の人物であるところから、公卿にも、武家にも仕えようとはせずと、豪族の一人として閑居していた。

<ruby><rb>聚楽第</rb><rt>じゅらくだい</rt></ruby>の西の花園の地に、手広い屋敷を営んで、家の子郎党も多少貯え、近郷の者には尊敬され、太閤秀吉にも認められ、殿上人にも親しまれて、のびやかに風雅にくらしていた。しかし身分は無位無官で、地下侍には相違なかった。

「人間の栄華というようなものは、そうそう長くつづくものではない。よし又長くつづいたところで、大して嬉しいものではない。栄華には栄華の<ruby><rb>陰影</rb><rt>かげ</rt></ruby>として、不安なものがあるものだ。人の本当の幸福は、小慾にあり知足にある」

これが秋元の心持であった。従って伏見桃山の栄華や、聚楽の豪奢に対しても、全くのところ風馬牛であった。

とは云え関白秀次の態度――すなわち兇暴と荒淫との、交響楽じみた態度については、苦々しく思っていた。

「今にあの卿は亡ぼされるであろう」と、人に向かって噂などもした。

そういう秋元の子であった。秋安も閑雅の人物であったが、若いだけに覇気があって、<ruby><rb>飯篠長威斎</rb><rt>いいささちょういさい</rt></ruby>の剣法を学び、極意にさえも達していた。

そういう豪族の居間である。

秋安と美しい廻国風の娘と、語り合っているその部屋には、<ruby><rb>狩野山楽</rb><rt>かのうさんらく</rt></ruby>の描いたところの、雌雄孔雀の金屏風が、紙燭の<ruby><rb>燈火</rb><rt>ひかり</rt></ruby>を明るく受けて、さも華やかに輝いている。

「……そういう訳でございまして、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の父母と申しますものは、秀次公に滅ぼされました、<ruby><rb>佐々隆行</rb><rt>ささたかゆき</rt></ruby>の一族で、相当に栄華にくらしました。でも両親が宗家と共に、城中で切腹いたしまして、妾一人が乳母や下僕に、わずかに守られて城を出てからは、昔の栄華は夢となり、<ruby><rb>丹波</rb><rt>たんば</rt></ruby>の奥の<ruby><rb>狩野</rb><rt>かの</rt></ruby>の庄で、みすぼらしく寂しく暮らしました。その中に親切な乳母も下僕も、この世を去ってしまいましたので、いよいよ妾は一人ぼっちとなり、途方にくれたのでござります。今は天下は治まりまして、秀次公には関白職、そうして妾は女の身分、それに戦いで滅ぼされましたは、戦国時代の習慣としまして、誰も怨もうこともなく、で、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby>といたしましては、今さら父母の仇敵と、秀次公を狙おうなどとは、決して思っては居りませぬどころが、<ruby><rb>手頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>り無い身でござりますので、いっそ両親の菩提のために、諸国の神社仏閣を、巡拝いたそうと存じまして、京都へ参ったのでございました。でもともかくも秀次公に仕える聚楽第の若いお侍に、手籠めに合いなどいたしましたら、逝き父母に対しては申訳なく、妾自身に対しましては、恥しい次第にございます。……ほんにあの時お助け下され、何とお礼を申してよいやら、有難い次第にござります。……それにこのようにご親切に、お屋敷へさえお連れ下され、手厚い介抱を受けまして、いよいよ<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじ</rt></ruby>けなく存じます」

その娘の名はお<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>と云い、北国の名家、佐々隆行、その一族の姫なのであった。その父の名は<ruby><rb>時明</rb><rt>ときあきら</rt></ruby>、その母の名はお園の方、一時は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ときめいた</span>身分なのであった。

それであればこそお紅という娘も、貧しい貧しい廻国風の姿に、身を俏してはいるけれど、臈たけいまでに品位があり、容貌が打ち上って見えるのであった。

素性を聞いたために秋安が、いよいよお紅という娘に対して、いわれぬ愛着と尊敬とを、感じたことは言うまでもない。

で、幾度も頷いたが、

「いずれ<ruby><rb>由緒</rb><rt>よし</rt></ruby>あるお身の上とは、最初から存じて居りましたが、そのような名家の<ruby><rb>遺兒</rb><rt>わすれがたみ</rt></ruby>とは、思い及びも致しませんでした。そういうお方をお助けしたことは、この秋安にとりましては、名誉のことにござります。で、お尋ねいたしますが、今後はいかようになされます？　やはりご廻国なさいますお気で？」

「はい」と云うと娘のお紅は、寂しそうに顔を俯向けたが、

「手頼り無い身にござります。一人ぼっちの身にござります。やはり諸国を巡りまして、神社仏閣を参拝し、この一生を終わります他には、手段はないように存ぜられます。今宵一夜だけお泊め下されて。明日はお許し下さりませ。早々においとまいたしまして……」

「旅へ立たれるお<ruby><rb>意</rb><rt>つもり</rt></ruby>なので？」

「そう致しとう存じます」

「が、またもや悪漢どもが、苦しめましたならどうなされます」

途絶えた鼓

これがお紅には気がかりなのであろう。俯向いたままで黙っている。

どうやら夜風でも出たらしい、この<ruby><rb>離座敷</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の中庭あたりで、木々のざわめく音がした。

庭には花が咲いているはずだ。風に巻かれて諸々の花が、繚乱と散っていることであろう。

が、この部屋は静かである。<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>が<ruby><rb>金屏</rb><rt>きんぺい</rt></ruby>に栄えている。円窓の障子に薄蒼く、月の光が照っている。馨しい焚物の匂いがして、唐金の獅子型の香炉から、細々と煙が立っている。

なやましい春の深夜である。

それに似つかわしい美男、美女が、向かい合って黙って坐っている。

花ヲ踏ンデ等シク惜シム少年ノ春

燈火ニ背ムイテ共ニ憐ム深夜ノ月

そういう眺めと云わなければならない。

と、鼓の音がした。秋元の居間から聞こえてくる。つれづれのままに取り出して、秋元が調べているのであろう。曲はまさしく<ruby><rb>敦盛</rb><rt>あつもり</rt></ruby>であった。一つ一つの鼓の音が、春の夜に<ruby><rb>螺鈿</rb><rt>らでん</rt></ruby>でも置くように、鮮やかに都雅に抜けて聞こえる。

秋安とお紅とは顔をあげたが、じっとその耳を傾けた。

と、自ずから眼が合った。

「まずお聞きなさりませ」

眼を見合わせた一瞬間に、秋安はお紅の眼の中に、愛情の籠もっていることを、直覚的に看て取った。

「廻国をするということは、この娘の本当の願いではない。たしかにこの俺を愛している」

そういうことも感ぜられた。

で、秋安は勇気づいて、思う所を述べ出した。

「まずお聞きなさりませ」――秋安は云いつづけた。

「手頼り無いお身の上でござりましょう。では<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>には何を措いても、手頼りになるような人物を、お求めにならなければなりません。一人ぼっちでござりましょう。では貴女は、何を措いても、一人ぼっちでないように、お務めなされなければなりません。天下は治まっては居りますものの、洛中にさえ乱暴者はいます。ましてや他国へ出ましたならば、<ruby><rb>魑魅魍魎</rb><rt>ちみもうりょう</rt></ruby>にも劣るような、悪漢どもが居りまして、よくないことをいたしましょう。で、そのような危険な旅へ、好んでお出かけなさるよりも、ここに止まりなさりませ。私ことは土地の豪族で、先祖は<ruby><rb>北畠親房</rb><rt>きたばたけちかふさ</rt></ruby>で、名家の末にござります。家の子郎党も多少はあり、家の<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>も不自由はせず、父は学究でござりまして、心も<ruby><rb>寛</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く親切でもあり、そうして私といたしましても、自分で自分を褒めますのは、ちとおかしくはござりますが、まず悪人ではござりませぬ。名家の遺児の貴方様を、ここでお世話をいたすことぐらいは、私の家といたしましては、何でもないことでござります。そうして率直に申しますれば、私の心と申しますものは、ただいま寂しいのでござります。訳はただいまは申しませぬが、ある軽率な女子のために、裏切られたからでございます。……でもし貴女がお止まり下され、朝夕お話し下されましたら、どんなに私といたしましては、有難いことでござりましょう。心の傷手も自然と癒り、ほんとうに新しく生きることが、出来ますようにも存ぜられます。……是非にお止まり下さりませ。それこそ貴女のおためでもあれば、私のためでもござります。助け合う者がありましてこそ、慰め合うものがありましてこそ、この殺伐でくらしにくい、厭な人の世もくらしよくなり、生きて行くことが出来ましょう」

しかしお紅はそう云われても、すぐにその言葉に応じようとはせず、いぜんとして黙って俯向いていた。

と云って秋安のそういう言葉を、決して疑っているのではなく、ましてや秋安の親切な心を、受け入れまいとしているのではなかった。

ただお紅の心としては、秋安の好意が著しいために、かえってそれに圧倒され、そうしてそれに従うことは、その著しい秋安の好意に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>込むように感ぜられて、相済まないように思われるのであった。

素性の卑しい人間ならば、相手の好意に取り縋って、すぐにも自分の苦しい境遇を、救って貰おうとするだろう、立派な素性であるがために、かえってお紅は矛盾を感じて、心を苦しめているのであった。

で、しばらくは無言である。

鼓の音ばかりが聞こえてくる。

が、にわかに鼓の音が、糸でも切ったようにフッと切れた。

これはどうしたことなのであろう？　曲は終わってもいないのに。

しかし向かい合って沈黙して、互いに相手の心持を、探り合っている二人には、にわかに切れた鼓の音に、注意の向かうはずはなかった。そうして、いっそう人の足音が、秋元の居間から幽かに聞こえ、そうして襖が一二度開き、そうして足音が家の中から、庭上へ移ったということなぞに、感付かなかったのは当然と云えよう。

骸を前の新生の恋

とは云え忽ち庭上から、

「何者！」という鋭い声が響き、つづいてアッという悲鳴が起こり、それに引きつづいて乱れた足音が、いくつか聞こえてきた時には、秋安とお紅も感付いた。

<ruby><rb>素破</rb><rt>すわ</rt></ruby>！　と云うような意気込みで、秋安は円座から飛び上ったが、鹿角にかけてあった太刀を<ruby><rb>握</rb><rt>つか</rt></ruby>むと、襖をひらいて外へ出た。出た所に縁がある。縁を飛び下りた秋安は、声のした方へ突っ走った。

蒼白い<ruby><rb>紗布</rb><rt>しゃぎぬ</rt></ruby>でも張り廻したような、月明の春の夜が広がっている。そういう春の夜の寵児かのように、のびやかな空へ顔を向けて、満開の白い木蓮が、簇々として咲いていたが、その木蓮の花の下に、抜身を引っ下げた一人の武士が、物思わしそうに佇んでいた。

見れば足許に一人の武士が、姿の様子で大方は<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>る、切られて転がって斃れていた。

秋安はそっちへ走り寄ったが、

「父上、何事でござりますか？」

抜身を引っ下げて佇んでいたのは、秋安の父秋元であった。

「うむ、秋安か、この有様だ」

それから太刀へ拭いをかけ、鞘へソロリと納めたが、

「実はな、音色が変わったのだ」

「は？　音色？　何でございますか？」

「調べていた鼓の音色なのだ。……それが何となく変わったのだ。……そういうことも無いことはない。おおよその楽器というものは、調べる人の心持によって、音色を変化させると共に、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の著しい変化によっても、また音色を変えるものだ。……鼓の音色が変わったのだ。で、庭へ出て見たのさ。五六人の武士がいるではないか。で、誰何したというものだ。すると一人が切りかかって来た。で、一刀に切り仆したところ、後の者は一散に逃げてしまった」

死骸へ改めて眼をやったが

「その風俗で大概は知れる。困った奴らがやって来たものだ。何の目的かは知らないが。……<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>も用心をするがよい」

花木の間だをくぐるようにして、秋元は静かに歩み去ったが、月光を浴びた<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>姿が、ひどく心配のある人のようであった。

と、その時人の影が、忍びやかに秋安へ近づいて来た。

たしなみの懐刀を握りしめたところの、廻国風の娘であった。

「秋安様」と寄り添うようにした。

「ああここに切られた人が！」

「<ruby><rb>聚楽</rb><rt>じゅらく</rt></ruby>の<ruby><rb>奴原</rb><rt>やつばら</rt></ruby>にござりますよ」

秋安は死骸を指さしたが、

「<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>を手籠めにいたそうとした、彼らの一人でござりますよ」

お紅には言葉が出なかった。俯向いて死骸を見下ろしている。

「都にあってもこの有様でござる。一度地方へ出られようものなら、もっと恐ろしい数々のことが、降りかかって来ることでござりましょう。お紅どのここへお止まりなされ。我々がご保護いたしましょう」

無意識に秋安は手を延ばした。

これもほとんど無意識のように、お紅も片手を上げた。

で、死骸を前にして、二人の手と手とが握られた。

白い木蓮が背景となって、手を取り合った男女の姿が、月下に幸福そうに立っている。

しかしこういう二人の恋が、無事に流れて行こうとは、想像されないことであった。

執念深くて淫蕩で、傍若無人で権勢を持った、聚楽の若い侍に、お紅は狙われているのである。

奪い取られると見做さなければならない。

どのように北畠一家の者が、そのお紅を保護した所で、守り切れないことともなろう。

しかし、お紅にも秋安にも、そういう形勢は解っていた。

「もしものことがあろうものなら、潔よく自害をいたします」

九燿の星の紋所の付いた、懐刀をお紅は秋安に示して、そういうことを云ったりした。

が、ともかくも五日十日と、その後無事に日が流れて、二人の恋は愈々益々、その<ruby><rb>密</rb><rt>こまやか</rt></ruby>さを加えて行った。

不破小四郎の邸

「<ruby><rb>浮田鴨丸</rb><rt>うきたかもまる</rt></ruby>めが不足している。ちょっと寂しい気持がする」

「まさかにあの晩に鴨丸めが、切り付けようとは思わなかった」

「性来鴨丸めは<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>者なのだ」

「それに北畠秋元めが、切り返そうとは思わなかった」

「それに第一秋元めは、どうして俺達の忍び込んだことを、感付いたものか合点がいかない」

「随分上手に忍び込んだのだが」

「のっそりと秋元が現われた時には、さすがに俺もギョッとしたよ」

「秋元め随分冴えた腕だの」

「一刀に鴨丸を斃したのだからな」

「仰天して俺達は逃げ出したが、いつまでもマゴマゴしていようものなら、やっぱり秋元に切られたかも知れない」

「切られないまでも捕らえられでもしたら、それこそ本当に目もあてられない」

「何と云ったところで若い娘を、引っ攫おうとしたのだからな」

「いぜん娘は北畠の邸に、身をかくしているということだ」

「外出などもしないそうだ」

「つまりは守られているのだろう」

不破小四郎の邸の一間で、四五人の若い<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>達が、雑然として話している。

宵を過ごした初夏の夜で、<ruby><rb>衣笠</rb><rt>きぬがさ</rt></ruby>山の方へでも<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>けるのであろう、<ruby><rb>杜鵑</rb><rt>ほととぎす</rt></ruby>の声が聞こえてきた。

小四郎は<ruby><rb>秀次</rb><rt>ひでつぐ</rt></ruby>の寵臣である。邸なども豪奢である。銀燭などが立ててある。

その銀燭を左手へ置いて、上座の円座に坐っているのは、邸の主人の小四郎で、前髪も剃らない若衆であったが、不愉快そうに苦り切っている。

「俺はな」と小四郎は云い出した。

「ひどくあの娘が好きなのだ。廻国風の娘がよ。で、どうしても手に入れなければならない。そこでお主達に頼んだのさ。是非あの娘を盗み出してくれとな。ところがお主達はやりそこなった。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から話を聞いていれば、どうやら今後もお主達の手では、盗み出せそうにも思われない。あきらめてしまいえばいいのだが、変に俺にはあきらめられない。一体俺にしてもお主達にしても、<ruby><rb>普通</rb><rt>なみ</rt></ruby>の女には飽きている。つまり上流の娘とか、ないしは遊女とかいうようなものには、もうすっかり飽きている。漁って漁って漁りぬいたからよ。で、土民の娘とか、地下侍の娘とか、そういう種類の女共に、ついつい引っ張られるというものさ。それお主達も知っている通り、萩野という地下侍の娘があった。そうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そいつ</span>を手に入れた。いや随分面白かった。その<ruby><rb>手障</rb><rt>てざ</rt></ruby>わりが違っていたからな。ところがどうだろうあの女を見てから――廻国風の娘のことだが――すっかり萩野に厭気がさし、薄情ではあったがつッ放してしまった。……で、そういう訳なのだ。そんなにも<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく廻国風の娘に、この俺は今捉えられている。ところが手に入れる手段がない。そこで俺は考えたのだ。ご主君にお縋りしようとな。関白殿下にお願いして、関白殿下のご威光を以て、あの娘を御殿へ引き上げるのさ。そうしてそれから改めて、殿下から俺が戴くのだ。これではいかな北畠家でも、何とも苦情は云えないだろう。名案と思うがどうだろうかな？」

<ruby><rb>侫奸</rb><rt>ねいかん</rt></ruby>の徒には侫奸の徒らしい、侫奸の策略があるものである。こう云って来て不破小四郎は、得意そうに、一座を身廻した。

「いやこれは素晴らしい妙案」

「さすがは聡明の不破殿だ、よい所へお気が附かれた」

座に集まった一同の武士は、即座に同意をしてしまった。

「しかし」とこの時一人の武士が――栃木三四郎という<ruby><rb>若武士</rb><rt>わかざむらい</rt></ruby>であったが――ちょっと不安そうに首を傾げたが、

「目下伏見から<ruby><rb>幸蔵主</rb><rt>こうぞうす</rt></ruby>殿が、太閤殿下のお旨を帯して、<ruby><rb>聚楽</rb><rt>じゅらく</rt></ruby>にご滞在なされて居られる。この際そのような振舞いをして、よろしいものでござろうかな？」

「いや大丈夫、大丈夫」

こう云いながら手を振ったのは、桃ノ井<ruby><rb>紋哉</rb><rt>もんや</rt></ruby>という若い武士であった。

「幸蔵主殿は私用とのことで、何も恐れるには及ばない。それに我君と幸蔵主殿とは、幼少の頃からのご懇親で、万事につけて聚楽のお為を、以前からお計らい下されて居られる。悪いようには覚し召すまい」

「いやいや一考する必要がある」

こう意議をはさんだ武士があった。<ruby><rb>加嶋欽作</rb><rt>かしまきんさく</rt></ruby>という若武士である。

「女ながらも幸蔵主殿は、太閤殿下の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>刀で、智謀すぐれて居られるとのこと、なかなか油断は出来ますまい」

「それに」ともう一人が心配そうにした。山崎<ruby><rb>内膳</rb><rt>ないぜん</rt></ruby>という若武士である。

「ご宿老の木村<ruby><rb>常陸介</rb><rt>ひたちのすけ</rt></ruby>様が、幸蔵主殿のおいで以来、気鬱のように陰気になられた。その常陸介殿はどうかというに、智謀逞邁、誠忠無双、容易に物に動じないお方だ。そのお方が陰気になられたのだ。幸蔵主殿の聚楽参第は、単なる私用とは思われない」

聚楽第の秘密

そもそも幸蔵主とは何者であろうか？　豊臣秀吉の大奥に仕えてそれの切り盛りをしているところの、いうところの老女であった。女ながらもずば抜けた知恵者で、一面権謀術数に富み、一面仁慈寛大であった。加藤清正や福島正則や、<ruby><rb>片桐且元</rb><rt>かたぎりかつもと</rt></ruby>というような人さえ、幸蔵主には恩顧を蒙り、一目も二目も置いていた。秀吉さえも智謀を愛して、裏面の政治に関与させ、懐中刀として活用した。もう老年ではあったけれど、壮者をしのぐ、意気もあった。

また秀次が孫七郎と<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>って、三好<ruby><rb>法印浄閑</rb><rt>ほういんじょうかん</rt></ruby>なるものの、実子として家にいた頃から、幸蔵主は秀次を知っていた。三好<ruby><rb>康長</rb><rt>やすなが</rt></ruby>が秀次を養い、さらに秀吉が養子として、秀次を殊遇しはじめてから、幸蔵主は一層秀次に眼をかけ、よき注意を与えていた。で、幸蔵主は秀次にとっては、母とも乳母ともあたる人であった。

ところで秀次は累進して、そうして秀吉の後を受けて、関白職に経上って、<ruby><rb>聚楽</rb><rt>じゅらく</rt></ruby>の<ruby><rb>第</rb><rt>だい</rt></ruby>の主人となって、権を揮うようになって以来、ようやく秀吉と不和になった。

秀吉の謀将の石田三成や、増田<ruby><rb>長盛</rb><rt>ながもり</rt></ruby>というような人と、気が合わなかったのが原因の一つで、秀吉の愛妾の淀君なるものが、実子<ruby><rb>秀頼</rb><rt>ひでより</rt></ruby>を産んだところから、秀頼に家督をとらせたいと、淀君も思えば秀吉も思った。自然秀次が邪魔になる――というのが原因の第二でもあった。

秀吉との不和は秀次にとっては、何よりも恐ろしいものであった。で、甘心を買おうとした。それを中にいて斡旋したのが他ならぬ老女の幸蔵主であった。

その幸蔵主が忍ぶようにして、伏見の秀吉の居城からこの聚楽へ来たのであった。

そうして何やら幸蔵主は、秀次に旨を含ませたらしい。

どういう旨だか<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らない。

しかしどうやら秀次にとっては、快くない旨らしい。それには従おうとはしないのであった。

そうして終日不機嫌であった。

で、何となくここ数日、聚楽第の空気は険悪であった。

「ナーニ大丈夫だ大丈夫だ」

不破小四郎は事もないように、さも不雑作にこう云ったが、自信がありそうに一同を見た。

「幸蔵主の姥がやって来て、殿下のご機嫌がよくなくて、終日終夜の乱痴気騒ぎで、上下が昏迷をしているのが、かえって俺には好都合なのさ。どさくさまぎれに申し上げて、殿下のお許しを受けるのさ。よろしい<ruby><rb>行</rb><rt>や</rt></ruby>れ！　と仰せられるであろうよ。どっちみち俺は明日か明後日、関白殿下のお使者として、北畠の邸へ出かけて行こう。<ruby><rb>承知</rb><rt>き</rt></ruby>くも<ruby><rb>承知</rb><rt>き</rt></ruby>かないもありはしない。関白殿下よりのご命令なのだ。娘を差し出すに相違ない。承知かない場合には攫って来る」

間違いはないよと云うように、小四郎は額を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こする</span>ようにしたが、果たして成功するであろうか？

巨人と怪人

その日からちょうど二日経った。

ここは聚楽の奥庭である。おりから深夜で月はあったが、植え込みが茂っているために、月の光が遮られている。

一宇の<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>が立っていて、縁の一所が月光に濡れて、水のように蒼白く暈けていた。

そこに腰をかけている武士がある。

思案にあまったというように、胸の辺りへ腕を組んで、じっと足許を見詰めている。

木の間をとおして聚楽第の、宏壮な<ruby><rb>主殿</rb><rt>おもや</rt></ruby>が見えていたが、今夜も酒宴と思われて、陽気な声が聞こえてくる。<ruby><rb>間毎々々</rb><rt>まごとまごと</rt></ruby>に点もされた<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が、不夜城のようにも明るく見える。

「どうしたのだろう、遅いではないか」

縁に腰をかけた大兵の武士は、誰かを待ってでもいると見えて、ふとこう口に出して呟いた。

と、その呟きに呼ばれたかのように、巨大な蘇鉄の根元を巡って、小兵の武士があらわれた。

「木村殿かな？　<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>殿かな」

「おお五右衛門か、待ちかねていたよ」

「約束の時刻よりは早いつもりだ」

云い云い静かに歩み寄って、縁へ腰をかけた常陸介と、押し並ぶように腰かけたのは、<ruby><rb>無徳道人</rb><rt>むとくどうじん</rt></ruby>事石川五右衛門であった。

ちょいと五右衛門は<ruby><rb>主殿</rb><rt>おもや</rt></ruby>の方を見たが、

「相変わらず今夜も盛んだの」

「うん」と云ったものの常陸介の声には、憂わしい不安な響きがあった。

「あの有様だから困るのだ」

「そうさ、あれでは困るだろう」

で、沈黙が二人へ来た。

「ところで五右衛門結果はどうだ？」

ややあって常陸介がこう<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「うむ、ともかくも一通りは探った」

五右衛門の声には<ruby><rb>笑殺</rb><rt>しょうさつ</rt></ruby>がある。

「ただの私用ではないのだよ」

「俺もそうだろうとは感付いていたが、幸蔵主の態度が不明なのでな」

「あれは秀吉の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>刀さ」

「が、我君にも忠実のはずだ」

「しかしそれは私情だよ。大事に処せば私情などは、<ruby><rb>古沓</rb><rt>ふるぐつ</rt></ruby>のように捨てしまう」

「お互いそれには相違ないさ。……で、幸蔵主が我君を連れて伏見の城へ行こうとするのは、やはり太閤の指し金かな？」

「そうだ秀吉の指し金なのだ」

「伏見へ召してどうするのだろうな？」

「まず詰腹でも切らせるだろうよ」

「詰腹。……ふうむ。……そうかも知れない。……」

常陸介にもそういうことは、以前から心にあったものと見えて、そう云われても驚かなかった。しかし苦悶は感じたらしい。俯向いて足許を睨んでいる。五右衛門もしばらくは物を云わない。で、この境地はひそやかであった。

それと反対の趣をなして、明るい華やかな笑い声が、主殿の方から聞こえてきた。

「五右衛門」と常陸介は呼びかけた。

「ひとつ詳しく話してくれ、伏見はどんな様子なのだ」

「詳しく話せと云ったところで、これと云って詳しく話すところもないが。だがマア探っただけを話して見よう。……お前から<ruby><rb>依頼</rb><rt>たのみ</rt></ruby>を受けたので、その足で直ぐに伏見へ行って、城中へ忍んだというものさ。秀吉め天下に敵がないというので、安心しきっているのだろう。城の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かため</span>なんか隙だらけだった。で、奥御殿へ行くことが出来た。それでもさすがに<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>の部屋には、<ruby><rb>仙石</rb><rt>せんごく</rt></ruby>権兵衛だの<ruby><rb>薄田隼人</rb><rt>すすきだはやと</rt></ruby>だのが、肩や肘を張って詰めていたよ、しかしそいつの話と来ては、お話にも何にもならなかった。女の話ばかりしているのだからな。ところで秀吉はどうかといえば、例の淀君めを相手にして、これもやはり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たわい</span>ないことを、話していたというものさ。と、声が聞こえてきた。

『……幸蔵主に胸を含ましておいた。大方うまくやるだろう。……そう心にかけないがよい。……実子は俺だって可愛いいからの……』

秀吉が淀君へ云ったのさ。すると淀めが笑い出したっけ。――これだけ聞けば用はない。で城から抜け出したが、その時つくづく思ったものだ。ナニ秀吉の寝首などは、掻こうと思えば掻けるものだとな。……秀吉だと云ったって人間だ、油断もあれば隙もあるとな。……それから俺は念のために、石田<ruby><rb>治部</rb><rt>ちぶ</rt></ruby>めの屋敷へ忍んだ。するとどうだろう増田<ruby><rb>長盛</rb><rt>ながもり</rt></ruby>めが、ちゃんと遣って来ているではないか。

『幸蔵主殿の甘言を以て秀次君をおびき出し、城中で詰腹を切らせましょう』

『いやいや我君のお眼に入れては、血縁のある伯父姪でござる。いっそ途中の伏見街道で、お腹を召さすがよろしかろう』

これが二人の話なのだ。――これだけ耳にすれば用はない。で俺は直ぐに抜け出したのだが、道々俺は考えたよ。大胆不敵の話だとな。何故というに他でもない。とにかく天下の関白職を、まるで鶏でも絞めるように、無雑作に殺すことに決めているからさ。そうしてにわかに恐ろしくなった。やはり秀吉は偉い奴だ。やろうと思えばどんなことでもやる。とても普通の人間ではない。隙だらけと思っていた伏見の城が、恐ろしいものにも思われて来た。今度忍んだら<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>られるだろう――そんなようにも思ったものさ」

黙って聞いていた木村常陸介は、五右衛門の話が終えてからも、いぜんとして沈黙をつづけていた。

で、境地はひそやかである。

それだけに聚楽の主殿における、夜宴の賑かさが気味悪く聞こえる。

と、卒然と常陸介は云った。

「五右衛門もう一度忍んでくれ」

「もう一度伏見城を探れと云うのか？」

「秀吉の寝首を掻いてくれ」

「…………」

またも沈黙がやって来た。

二人ながら黙っている。

忍び込んだ武士は？

石川五右衛門は浪人であった。学者でもあるし茶人でもあるし、伊賀流の<ruby><rb>忍</rb><rt>しのび</rt></ruby>もよくするし、侠気もあれば気概もあったが、放浪性に富んでいて、物に飽き易くて辛抱がなくて、<ruby><rb>則</rb><rt>のり</rt></ruby>に附くことが出来なかった。二三の大名が才幹を愛して、召しかかえたこともあったけれど、朋輩との中が円満にゆかない。

で、すぐに浪人をした。それを知った木村<ruby><rb>常陸介</rb><rt>ひたちのすけ</rt></ruby>は、何かの用に立つこともあろうと、莫大な捨扶持を施して、ここ二三年養って置いた。

すると五右衛門のことである、常陸介を主人と<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>むべきを、友人のように思ってしまって、対等の<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>をやり出した。

大概の人物なら怒ったであろう、ところが常陸介は大人物であった。そのようなことは意にもかけずに、同じように対等の交際をした。これが五右衛門には嬉しかったらしい。知己を得たような気持がした。で、非常に感激をして、この人のためなら死んでもよいと、そんなようにさえ思うようになった。

で、今度も常陸介から、伏見城の様子を探ってくれと、こう頼まれたのに直ぐに応じて、その役目を果たしたのであった。

ところがもう一度伏見城へ忍んで、秀吉の寝首を掻いてくれという。――これには豪快な石川五右衛門も、考え込まざるを得なかった。

で、即答をすることが出来ない。腕を組んだまま黙っている。

が、木村常陸介が、低くはあったが凄愴の口調で、次のようなことを云ったがために、五右衛門は困難な常陸介の頼みを、むしろ勇んで引き受けた。

次のように常陸介は云ったのである。

「お前ばかりを死なせはしないよ。俺もおっつけ死ぬことになろう。……お前の<ruby><rb>企</rb><rt>くわだて</rt></ruby>が破れたならば、捕らえられてお前は殺されるだろう。……そうしてそれが聚楽第の、没落の原因となるだろう。――太閤ほどの人物だ、聚楽からの刺客だと察するからさ。……で伏見と聚楽とは、戦いをひらくことになろう。秀次公におかれては、島津や細川へ金子を貢いで、<ruby><rb>誼</rb><rt>よしみ</rt></ruby>を通じて居るとはいっても、いざ戦いとなった日には、伏見方へ<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>くに相違ない。勝敗の数は知れて居る。聚楽第は亡ぼされて、秀次公には自害されよう。従って俺も腹を切る。お前の後を追うことになる……がもしお前の企が、成功をした場合には、天下はそれこそ聚楽第の、秀次公のものとなる。で今度の企は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のる</span>か<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そる</span>かの企なのだ。するとお前は云うかもしれない、そういう危険な企を、どういう理由でやるのか？　と、で、俺は答えることにしよう。どうやら我君秀次公には、幸蔵主の甘言に乗せられて、太閤との不和をなだめるために、伏見の城へ出かけて行かれて、太閤のご機嫌を取られるらしい。その結果はどうなるか？　お前の云った通りになる。伏見城で詰腹を切らせられるか、ないしは途中で殺されるだろう。……それが俺には残念なのだ、同じくその身を失うにしても、太閤ほどの人傑を、向こうへ廻して戦って、華々しくご最後を遂げさせたいのだ。……で、道は二つしかない。太閤を守備よく<ruby><rb>弑</rb><rt>しい</rt></ruby>するか、そうでなかったら戦うかだ。で、お前に俺は頼む。もう一度伏見城へ忍んでくれ、太閤の寝首を掻いてくれ、やりそこなったら死んでくれ！」

「わかった」と云うと五右衛門は、縁からユラリと腰を上げた。

「末代までも名が残ろうよ。太閤の寝首を掻いたなら！　よしんば失敗をしたところで……」

云いすてると石川五右衛門は、木立を廻って立ち去った。

その足音が消えた時に、木村常陸介も立ち上ったが、思案にくれながら歩き出した。

「どうともして我君秀次公を、危険きわまる伏見の城へ、参第せぬようお諌めしなければならない」

行手に築山が聳えている。

裾を巡って先へ進む。

と、泉水が堪えられていた。

廻って<ruby><rb>主殿</rb><rt>おもや</rt></ruby>の方へ進んで行く。

「はてな」と呟いて佇んだのは、厳しい聚楽第の石垣の上から、武士姿の一つの人影が庭へ飛び下りたがためである。

「これは怪しい、何者であろう？」

常陸は首を傾げたが、

「伏見方の間者ではあるまいか？」

自分が五右衛門を刺客として、伏見城へやったおりからである。

伏見方の間者ではあるまいかと、ふと考えたのは当然といえよう。

「よしよし後を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>てやろう」

で、足音を盗むようにして、常陸介は後を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>た。

曲者は顔を包んでいる。どうやら年は若いらしい。心が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いてでもいると見えて、走るがように歩いて行く。主殿の方へ行くのである。

「ああこれは間者ではない。まして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いわんや</span>刺客などではない。歩き方や態度で自ずとわかる。これは決して悪者ではない。とは云え聚楽第の武士ではない。おかしいなあ何者だろう」

心掛けの深い常陸介ではあったが、これ以上は知ることは出来なかった。

瞬間四人を討って取る

曲者は先へ進んで行く。常陸介はつけて行く。次第に主殿へ近づいて行く。

と、その主殿の方角から、四五人の武士が話しながら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>にこっちへ歩いて来た。

「不破氏、不破氏、小四郎殿、そう憤慨をなさらないがよろしい。何も主命でござるからな」

一人の声が、なだめるように云った。

「さようさよう何も主命で」

相槌を打つ声が直ぐにした。

「それにさ、あれくらいの女なら、この世間にはいくらでもござる。あの女はあのまま差し上げなされ。そうしてその代わりにご愛妾の一人を、頂戴なさるがよろしかろう」

「その方がいい、その方がいい」

また相槌を打つ声がした。

「たかが廻国にやって来て、京へ止まった田舎娘でござる。そのような女に未練をもたれて、殿下のご機嫌を取り損なったら、これほどつまらないことはない。おあきらめなされ、おあきらめなされ」

「さようさようお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あきらめ</span>なされ」

四人目の声も相槌を打つ。

が、そういう取りなしに答えて、怨みと憤りに充ちたような、狂気じみた声が聞こえてきた。

「いやいやせっかくのご忠告ではあるが、<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>においてはあきらめられん。……あまりと云えば横暴でござる！　某より殿下へお願いしたところ、よかろうよかろう好きな女があるなら、余が懇望だと申して連れて来い。その上で<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>にくれてやろう。――で、某は使者という格で、北畠家へ押して行き、あのお<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>を引き上げて来た。……と、どうだろう殿下においては、これは以外に美しい。<ruby><rb>側室</rb><rt>そばめ</rt></ruby>の一人に加えよう。こう仰せられて手放そうとはされぬ。某を前に据えて置いて、お紅に無理強いに酌などさせる。寝所へ連れて行こうとされる。誰も彼も笑って眺めている。其のために<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつかおう</span>とはしない！　無体なのは殿下のやり口だ！　庶民に対してはともかくも、臣下の某に対しての、やり口としては余りに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどい</span>！　もはや某は<ruby><rb>聚楽</rb><rt>じゅらく</rt></ruby>へは仕えぬ。ご奉公も今日限り。浪人をする浪人をする！」

不破小四郎を取り囲んで、<ruby><rb>朽木</rb><rt>くちき</rt></ruby>三四郎、加島<ruby><rb>欽哉</rb><rt>きんや</rt></ruby>、山崎<ruby><rb>内膳</rb><rt>ないぜん</rt></ruby>、桃ノ井<ruby><rb>紋哉</rb><rt>もんや</rt></ruby>、四人の若<ruby><rb>武士</rb><rt>ざむらい</rt></ruby>が話しながら、こっちへ歩いて来るのであった。

ところで彼らの話によれば、気の毒なことにはお紅という娘は、北畠家から奪い取られて、今、聚楽第にいるらしい。では<ruby><rb>主殿</rb><rt>おもや</rt></ruby>での夜遊の宴の、その中にも入っていることであろう。

不破小四郎と四人の武士とは、云い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つのり</span>ながら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なだめ</span>ながら、次第にこっちへ近寄って来る。

と、一所に木立があって、そこの前までやって来た時に、飜然と飛び出した人影があった。同時に月光を横に裂いて、蒼白く閃めくものがあった。と、すぐに悲鳴が起こって、朽木三四郎が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっ</span>仆れた。すなわち木立から飛び出して来た、覆面姿の侍が、先に立って歩いて来た朽木三四郎を、抜き打ちに切って斃したのである。

「曲者！」と叫んだのは加島欽哉で、太刀柄へ右手をグッと掛けたが、引き抜くことは出来なかった。三四郎を斃した覆面の武士が、間髪を入れないで閃めかした太刀に、左肩を胸まで割られたからである。

「曲者！」とまたも同音に叫んで、山崎内膳と桃ノ井紋哉とが、左右から同時に切り込んで行った。が、それとても無駄であった。片膝を敷いた覆面の武士が、横へ払った太刀につれて、まず内膳が腰車にかけられ、ノッと立ち上った覆面の武士の、鋭い突きに桃ノ井紋哉が、胸を突かれて斃れたからである。

四人を瞬間に打って取った、覆面の武士の腕の冴えには、形容に絶した凄いものがあった。

と、その武士がツと進んだ。

「小四郎！　不破！　極悪人め！　よくもお紅殿を奪ったな！　某こそは北畠秋安！　怨みを晴らしにやって来た。お紅殿を取り返しにやって来た！　観念！」

とばかり切り込んだ。

「出合え！　曲者！」と叫んだが、不破小四郎は見苦しくも、主殿をさして逃げ出した。

「逃げるか！　卑怯！　何で遁そう！」

四人を切った血刀を、頭上に振り冠った秋安は、すぐに小四郎を追っかけた。

と、その眼前へ大兵の武士が、遮るようにして現われたが、威厳のあるドッシリとした沈着の声で、

「北畠殿と仰せられるか、まずお待ちなさるよう。某事は木村常陸介、子細は見届け承わってござる。悪いようには計らいますまい」

こう云うと手を上げて制するようにした。

廊下を渡る雪燈の火

現われた武士は誰あろう、<ruby><rb>聚楽第</rb><rt>じゅらくだい</rt></ruby>における第一の智謀で、かつは誠忠無双であって、しかも身分は宿老であって、その上性質は寛仁大度、この人一人があるがために、秀次の生命は保たれて居り、聚楽の生命も保たれて居ると、世評一般に云われて居るところの、木村常陸介と耳にするや、<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>り切っていた北畠秋安も、足を止めざるを得なかった。

で、ダラリと刀を下げて、常陸介を見守った。

「さて」と云うと常陸介は、一層物憂しい口調になったが、なだめるように説き出した。

「貴殿のお父上秋元殿は、高朗としたお人柄で、<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>も平素より尊敬いたし居ります。ご子息の貴殿のお噂も、兼々承わって居りました。清廉潔白でおわすとのこと、これまた敬意を払っていました。……ただ今立ち聞きいたしましたところ、お紅殿とやら申される女子を、不破小四郎が理不尽にも、関白殿下のお旨と申して、聚楽の第へ連れて参り、それを怒られてご貴殿には、この厳重の聚楽第へ、潜入して四人を討って取り、なお小四郎を討ち取った上、更に<ruby><rb>主殿</rb><rt>おもや</rt></ruby>へ切り入って、お紅殿を奪回なされようとのご様子。……小四郎の不義は申すも憎く、関白殿下のなされ方も、よろしくないことと存じます。しかし」

とここまで云って来て、木村常陸介は叱るようにつづけた。

「聚楽第には<ruby><rb>強者</rb><rt>つわもの</rt></ruby>もござる。貴殿お一人に荒らされるほどの、不用心のことは致して居らぬ！　あまりに自己をお頼みなさるな！　またそれほどにも聚楽第を、力弱きものとお思いなさるな！」

しかしまたもや優しくなり、慰めるような口調となった。

「余計なことは申しますまい。某をお信じなさりませ。某必ずお紅殿を、無垢の<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>として聚楽第から、貴殿にお返し致しましょう、安心して一先ずお引き取り下され、……四人の武士を討たれたことも、某秘密に取り行ない、貴殿にご迷惑のかからぬよう、葬むることにいたしましょう」

こう云われてみれば秋安には、押して云うべきことはなかった。なるほど主殿へ切り入ったならば、討って取られることであろう。決死の覚悟で来たのではあったが、殺されるのを望んでいるのではない。それにお紅を処女のままで、返してくれるというのである。苦情を云うべき筋はない。しかも言葉を誓ったのは、他ならぬ木村常陸介である。充分に信頼してよかった。

で、ひき上げることにした。

「ご芳志<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじ</rt></ruby>けのう存じます。ではお言葉に従いまして、立ち返ることにいたしましょう。つきましてはきっとお紅殿を……」

「大丈夫でござる、お案じなさるな」

「は」と恭しく一礼して、木立をくぐって北畠秋安は、忍びやかに後へ引き返した。

しかし十足とは歩かない中に、一つの恐ろしい事件が起こった。

酒宴をひらいている主殿の樓の、明るい華やかな笑声を縫って、悲痛極まる女の声が、一声けたたましく聞こえたかと思うと、一所の襖が仆されて、女の姿がよろめき出たが、欄干へ体をもたせかけると、そのままグッタリと動かなくなり、つづいて何物かが女の手から、秋安の足許へ投げられた。

秋安は驚いて小腰を屈め、投げられた物を取り上げて見た。

「九燿の紋の付いた懐刀だ！　血にぬれている、血にぬれている！　ああお紅殿は自害なされた！　常陸介殿！」

と、飛びかかるようにしたが、

「お紅殿は自害を致しましたぞ！」

「うむ」と云うと木村常陸介は、腕をしっかりと胸へ組んだが、しばらくの間は黙っている。

と、グイと顔を上げたが、樓上の女の死骸を見た。四五人の人影が現われて、欄干に仆れている女の死骸を、屋内へ運んで行こうとしている。

と、木村常陸介は、にわかに頭を巡らしたが、主殿と並んで立っている、一宇の奇形な建物を見た。その建物と主殿とを繋いで、長い廻廊が出来ていたが、その廻廊に青い<ruby><rb>燈火</rb><rt>ひ</rt></ruby>が、一点ユラユラと揺れながら、建物の方へ進んで行く。一人の<ruby><rb>侍女</rb><rt>こしもと</rt></ruby>が<ruby><rb>雪洞</rb><rt>ぼんぼり</rt></ruby>をささげて、廻廊を進んで行くのであった。いやいやその女一人だけではなくて、その後につづいて四五人の侍女が、群像のように固まって、建物の方へ進んでいた。

「なるほど」と呟いたのは常陸介であった。秋安の方へ顔を向けたが、

「誓った言葉に背きはしませぬ。<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>のままの娘として、お紅殿をお返しいたしましょう。お信じなされ、お信じなされ」

そういう言葉には確信らしいものが、さも重々しく籠もってもいた。

酒乱の関白

ちょうどこの頃<ruby><rb>主殿</rb><rt>おもや</rt></ruby>の樓の、華麗を極めた大広間で、関白秀次が喚いていた。

「女は死んだか、自害したか、ワッ、ハッ、ハッ、それもよかろう。死にたい奴は死ぬがよい。殺してくれなら殺してもやろう。たかが卑しい女一人だ！　切ろうと<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>ろうと俺のままよ！　これこれ死骸を片付けろ！　目障りだ目障りだ持って行け！　……さあさあ酒だ！　酌をせい！　今夜は徹夜で飲み明かす。お前達も飲め、俺も飲む」

蒼白の顔色、充血した眼、釣り上った眉、歯を剥いた口、これが関白たる貴人であろうか？　そんなようにも思われるほどに、すさみにすさんだ容貌である。髪を茶筌に取り上げて、練絹の小袖を纏っている。盃を握った右の手が、ブルブルと恐ろしく顫えている。癇をつのらせている証拠である。

金泥銀泥で塗り立てられた、絢爛を極めた盃盤が、無数に立てられた銀燭に照らされ、蒔絵をクッキリと浮き出している。朱色に塗られた長柄の銚子が、次から次と運ばれて来る。床の間には黄金の香炉があって、催情的の香の煙が、太い紐のように立っている。

「お<ruby><rb>那々</rb><rt>なな</rt></ruby>、謡え！　<ruby><rb>幸若</rb><rt>こうわか</rt></ruby>、舞え！　<ruby><rb>伴作</rb><rt>ばんさく</rt></ruby>々々鼓を調べろ！」

またも秀次は喚き出した。

「……何を恐れる！　天下人だぞ！　何を遠慮する、関白だ！　一天四界俺の物だ！　何を怯える、石田、増田に！　巷の<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>どもが悪口を云わば、用捨はいらない、切ってすてろ！　妻妾の数三十余人！　それがどうした、少ないくらいだ！　まだまだ美人を集めて見せる！　俺を殺生関白だという！　殺生ならぬ人間がどこにある！　政治に暗く人心離反し衆人俺を笑うという！　伏見の<ruby><rb>爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>が悪いからだ！　爺が政治を執っているからだ。で俺は飾り物だ！　虚器を擁しているばかりだ！　不平もあろう、淫蕩にもなろう、残忍にもなろう、酷薄にもなろう！　しかも関白をやめさせようとする。淀君の子を立てようとする。で、俺を迫害する！　僻むのは当然だ当然だ！　……騒げ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はしゃげ</span>、謡え、舞え！　京都の柔弱兒を驚かせてやれ！　注げ！　酒だ！　イスパニアの酒だ！　……<ruby><rb>安南</rb><rt>あんなん</rt></ruby>、<ruby><rb>交趾</rb><rt>こうし</rt></ruby>から献上した、<ruby><rb>紅玉</rb><rt>ルビー</rt></ruby>色をした酒を注げ！　バタニア胡椒を酒へ入れろ！　さぞ舌ざわりがよいだろう。酔が烈しく廻るだろう。……ソレソレこぼれた酒がこぼれた！　スラスの懸布で拭くがいい。……鳥銃をもて、鳥銃をもて、往来の奴を撃ってやろう。象眼入の鳥銃がいい！　<ruby><rb>暹羅</rb><rt>しゃむ</rt></ruby>から献じた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あいつ</span>がいい。……沈香で部屋をくゆらせろ、伽羅で部屋をくゆらせろ！　龍涎香で部屋をくゆらせろ！」

金銀で飾った脇息に倚って、秀次はのべつに喚き立てる。

座に列なっている妻妾や<ruby><rb>侍女</rb><rt>こしもと</rt></ruby>や、近習役や茶道衆や、幸若太夫の面々は、顔を見合わせて黙っている。

たった今女が死んだのである。懐刀で自害をしたのである。で、すっかり怯かされている。その上に例の酒乱が出て、秀次の態度が兇暴になった。果たしてどうなることだろう？　で、黙っているのである。

狩野永徳の唐獅子の屏風、<ruby><rb>海北友松</rb><rt>うみきたゆうしょう</rt></ruby>の牡丹絵の襖、<ruby><rb>定家俊成</rb><rt>ていかしゅんぜい</rt></ruby>の肉筆色紙を張り交ぜにした黒檀縁の衝立、天井は銀箔で塗られて居り、柱は珊瑚で飾られて居る。そういう華美の大広間も秀次の喚く兇暴の声で、ビリビリ顫えるばかりである。

と、秀次は眼を据えたが、一人の侍女へ視線を止めた。

「これこれ<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>は何というぞ」

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたくし</rt></ruby>は<ruby><rb>千浪</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>と申します」

オドオド顫えながら答えたのは、秀次の愛妾<ruby><rb>葛葉</rb><rt>くずは</rt></ruby>の方が、この頃になって召しかかえた、十七の<ruby><rb>処女</rb><rt>おぼこ</rt></ruby>らしい侍女であった。

「千浪というか、よい名だよい名だ。参れ参れここへ参れ！」

愛妾の死

淫蕩とそうして兇暴の光を、その眼の中へ漂わせながら、こう秀次に呼びかけられて、千浪はいよいよ顫え出した。

「はい」と云ったものの近寄ろうとはしない。あべこべに葛葉の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ隠れて、体を縮めるばかりであった。

「何も恐れることはない。取って食おうとは云っていない。可愛がってやろうと云っているのだ。参れ！　厭かな？　厭なことはあるまい」

秀次はヒョロヒョロと立ち上ったが、千浪の方へ歩き出した。

と、そういう様子を見て、血相を変えた女がある。他ならぬ愛妾葛葉の方で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かばう</span>ように千浪を蔽うたが、

「許しておやり遊ばしませ。まだこの子は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほんの</span><ruby><rb>処女</rb><rt>おぼこ</rt></ruby>で、可哀そうな子にござります」

しかし葛葉の顔にあるものは、決して同情や愛憐ではなくて、むしろ自分の寵愛を、<ruby><rb>侍女</rb><rt>こしもと</rt></ruby>の千浪に横取られることを、恐れて案じているところの、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>らしい嫉妬の情であった。

「ナニ処女、ははあそうか」

秀次はカラカラと笑ったが、

「一層よいの、処女に限る。……<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>は<ruby><rb>幾年</rb><rt>いくつ</rt></ruby>だ？　二十九だったかな。年から云っても盛りは過ぎた。もう俺には興味はない。……代りに千浪をよこすがよい」

秀次はなおもヒョロヒョロと進む。

あれ！　というように声を上げて、千浪が立って逃げ出したところを、飛びかかって秀次は小脇に抱いた。

「もがけもがけ、あばれろあばれろ、そのつどお前の軟かい肌が、俺の体へぶつかるばかりだ！　小鳥よ、捕らえた！　可愛い色鳥！」

ズルズルと引き立てて行こうとした。

その秀次の両の足を、しっかりと抱いた者があった。やはり葛葉の方である。

冷やかに秀次は睨んだが、

「嫉妬か！」

「上様！」

「邪魔をするか！」

「はなしておやり遊ばしませ」

「<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>こそ放せ！　手を放せ！」

「上様、お慈悲にござります」

「ふん」といかにも憎々しく、秀次は鼻を鳴らしたが

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>自害をした女のように其方も自害をしたいそうな」

「いっそお手にかけて下さりませ」

「望みか！」と云うと秀次は、ドンと片足を持ち上げたが、ウンとばかりに蹴仆した。

と、悶絶をする声がした、胸を蹴られた葛葉の方は裾を乱して伏し転んだ。

一瞬間のざわめきの起こったのは、座に<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>っていた妻妾や近習が、一時に動揺したからであった。その動揺が静まると、反動的の静けさが、大広間一杯に拡がった。

「今夜はこれで二人死んだ。おそらくまだまだ殺されるだろう。殺せ殺せ、目茶苦茶に殺せ！　聚楽の栄華も先が知れている」

こう呟いた者があったが、<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬいとり</rt></ruby>の肩衣に前髪立の、眼のさめるような美少年であった。美童は<ruby><rb>不破伴作</rb><rt>ふわばんさく</rt></ruby>であった。

狂人じみた目付きをして、秀次は大広間を見廻したが、

「目障りになる！　片付けろ！　死骸は厭だ！　井戸へでも沈めろ！」

それから千浪を引きずったが、

「今夜の<ruby><rb>伽</rb><rt>とぎ</rt></ruby>だ！　嬉しそうに笑え！」

で、襖を開けようとした。

と、その襖が向こうから開いて、

「孫七郎様」と云う声が聞こえてきた。優しくて穏かではあったけれど、威厳のある老女の声であった。

つと立ちいでた人物がある。

円頂黒衣鼠色の衣裳、手に珠数をつまぐっている。眉長く鼻秀で、額は広く頤は厳しい。澄んではいるが鋭い眼、頬に無数の皺はあるが、かえって顔を高貴にしている。

これこそ女傑<ruby><rb>幸蔵主</rb><rt>こうぞうす</rt></ruby>であった。

「相変わらずのお<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いた</rt></ruby>でござりますか」

あたかも子供でもあしらうように、こう秀次に云いかけたが、咎めるような調子はなくて、なだめるような調子があった。そうしてそれが大広間の殺気と、秀次の兇暴の心持とを、平和な甘いものにした。

「幸蔵主の姥か」と鼻白んだように、秀次は千浪の手を放したが、

「<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>はな心が寂しいのだよ」

云い云い元の座へ押し坐った。

と、幸蔵主も膝を揃えて、秀次の前へ坐ったが、手を上げると大広間を撫でるようにした。立ち去れという所作なのである。

これで助かったというように、座に並んでいた妻妾達が近習の武士達と立ち上って、一整に姿をかくした後には秀次と幸蔵主ばかりが残された。

能弁の幸蔵主

しばらく幸蔵主は秀次の顔を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まじろぎ</span>もせずに見ていたが、いかにも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたわしさ</span>に堪えないように、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたわる</span>ように話しかけた。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>が<ruby><rb>聚楽</rb><rt>じゅらく</rt></ruby>へ参りましてこの方、繰返し繰返し申しましたが、まだご決心が付きませぬそうな。よくないことでござりますよ。早うご決心をなさりませ。伏見へおでかけなさりませ。そうしてご弁解なさりませ。太閤殿下と<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>様とは、血縁の伯父姪ではございませぬか。親しくお二人がお逢いなされて、穏かにお話をなさいましたら、疑いは自然と解けましょう。ご謀反を巧まれたというのではなし、ただ少しご身分柄として、ご醉興の程度が過ぎるという、それだけのお咎めではござりませぬか。恐ろしいことなどはござりませぬ。何の何の恐ろしいことなどが。……本来このような場合には、伏見からお呼びのない前に、貴郎様から参られて、お咎めの<ruby><rb>故以</rb><rt>いわれ</rt></ruby>のないということを、お申しひらきなさるのが、本当なのでござりますよ。しかるに今回は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>となって、伏見から参れとのご諚があっても、貴郎様には参られようともなされぬ。これではいかな太閤様でも、ご立腹なされるでござりましょう。と、……云いましても今のところでは、太閤様のご立腹とて、大したものではござりませぬ。お逢いしてお詫びをなされましたら、直ぐにも融けるでござりましょう。決してご心配には及びませぬ。が、只今の機会を逃がして、伏見へおでかけなされぬようなら、それこそ一大事になりましょう。あの<ruby><rb>治部</rb><rt>ちぶ</rt></ruby>様や<ruby><rb>長盛</rb><rt>ながもり</rt></ruby>様が、あの巧弁で讒言などして、太閤様のご聡明を、眩まさないものでもござりませぬ。そうして貴郎様のお嫌いの、淀様などがそこへつけ込み、姦策を巡らさないものでもなく、何やら彼やらの中傷が入って、今度こそ本当に太閤様のお心持が貴郎様から離れて、貴郎様をお憎みなされようも知れぬ。が、是非ともこの機会に、伏見へおいでなさりませ。……あるいは貴郎様におかれましては、<ruby><rb>秀頼公</rb><rt>ひでよりぎみ</rt></ruby>に太閤様が、豊臣の筋目や関白職を、お譲りなさろうと覚し召して、それで貴郎様を伏見へ呼び寄せ、殺すのではあるまいかと、ご懸念遊ばすかも知れませぬが、何の何の太閤様が、そのようなお腹の小さいことを、どうしてお企てなさりましょう。そのご心配には及びませぬよ……」

と、ここまで云って来て幸蔵主は、繊細微妙な笑い方をしたが、

「お疑いさえ晴れましたら、貴郎様には直ぐにもご帰洛、ここ聚楽第の主として、いぜんとして一ノ人関白職、どのような栄華にでも耽けられます」

この言葉が何よりも秀次の心を、強く烈しく打ったようであった。

「幸蔵主の姥！」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっと</span>なったが、

「伏見へ参ってお詫びさえしたら、俺は聚楽へ帰られようかな？　現在の位置に居られようかな？」

「妾をお信じなさりませ。孫七郎様の昔から、膝へ掻き上げてご介抱をした、この幸蔵主ではござりませぬか。今はお偉い関白様でも、妾の眼から見ますれば、可愛らしい<ruby><rb>和兒</rb><rt>わこ</rt></ruby>様でござります。そういう可愛らしい和兒様に何で嘘など申しましょう」

「行こう行こう、伏見へ行こう！」

子供のように他愛なく、こう秀次は甘えるように云った。

「俺にもお前は懐かしい。<ruby><rb>母者人</rb><rt>ははじゃびと</rt></ruby>のような気持がする。俺はお前の云う通りになろう」

「ようご決心なされました」

「伏見へ行こう！　明日にも行こう」

秀次は決心をしたのである。

と、幸蔵主の眼の中へ、憐愍の情がチラツイたが、直ぐに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さり</span>気なく消してしまった。

二人はしばらく無言であった。

と、聚楽第の一所から、人が斬られでもしたような、悲鳴が一声聞こえてきた。

不意に立ち上った幸蔵主は、スルスルと、欄干の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ行った。で、悲鳴のした方を見た。

<ruby><rb>主殿</rb><rt>おもや</rt></ruby>と廻廊でつながれている奇形な建物の方角から、どうやら悲鳴は聞こえたらしい。

で、そっちへ眼をやったが、

「今夜はこれで三人斬られた。……それにしても奇形な建物は、何を入れて置く建物なのであろう？」

この部屋は？

奇形な建物の内部の一間で、老婆が<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りながら歩いている。

「最初は誰も彼も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんばり</span>ますよ。でもこの部屋へ押し入れられて、ものの五日と経たないうちに、大概は往生をしますよ。そうして今度は自分の方から、懇願をするようになりますよ。お側へ行かせて下さいましと。……だからお前様におかせられましても、もうもうそれこそ間違いなく、この部屋をお出し下さいまし、関白様のご寝所へ、お連れなすって下さいまし、男の肌、男の匂い、男の力、男の<ruby><rb>意志</rb><rt>こころ</rt></ruby>、それが欲しゅうござりますと、<ruby><rb>有仰</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>ることでござりましょうよ。まあまあ出来るだけご随意に、強情をお張りなさりませ。強情が強ければ強いほど、要求も強くなりましょう。……そうしてお前様の要求が、強まれば強まるほど、関白様は喜ばれますので。……お前様は飛び付いて行きましょう。関白様は引っ抱えましょう。……それから幸福になりますので。はいはい、関白様もお前様も！　……これまで一度の間違いもなく、そうなったのでございますよ。ほんとにこれまで幾十人の娘が、この部屋の中へ入れられて、そうして愛慾の餓鬼となって、飛び出して行ったことでござりましょう。……でもお気の毒でござります。この部屋へ入って出て行って、愛慾を遂げた娘たちは、愛慾を遂げたその後では、九分九厘狂人になりました。一時に遂げた歓楽の力が、その人達を疲労させて、そうさせたのでござりましょう。……たしかお<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>殿と有仰いましたな、お紅殿遠慮はいりませぬ。ご馳走をお食べなさりませ。風呂へお入りなさりませ、香水をお浴びなさりませ。床へお伏せりなさりませ。そうしてお眠りなさりませ。今夜が過ぎて明日にでもなったら、効験が現われるでござりましょう。……それでは<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は他のお部屋の、他の女の人達を、見廻って来ることにいたしましょう」

六十あまりの老婆である、脂肪肥りに肥っている。胡麻塩の髪の毛、刺のような鼻、おち窪んだ眼、皮肉な口、それが老婆の風采である。

部屋の朦朧とした光に照らされ、妖怪じみて立っている。

その部屋の様の艶妖なことよ！　そうして異国じみていることよ！

部屋の一所に浴槽があって、淡黄色の清らかな湯が、滑石の浴槽の縁をあふれて、床へダブダブとこぼれている。その傍らの壁の<ruby><rb>高所</rb><rt>たかみ</rt></ruby>に、銀製の<ruby><rb>漏斗</rb><rt>じょうご</rt></ruby>型の管があって、そこから香水の霧<ruby><rb>水沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>が、絶間なく部屋へ吹き出している。が、浴槽は<ruby><rb>呂宋</rb><rt>ルソン</rt></ruby>織りらしい、男女痴遊の浮模様のある、<ruby><rb>垂布</rb><rt>タピー</rt></ruby>の向う側にあるところから、ハッキリ見ることは出来なかった。更に部屋の一所に、一人寝の寝台が置いてあった。張られてあるのは<ruby><rb>天鵞￼</rb><rt>びろうど</rt></ruby>であって、深紅の色をなしていた。が、尋常の寝台ではなく、一度その中へ寝ようものなら、リズムをもって上下へ動き、寝ている人の愛慾を、自然にそそるように出来ていた。寝部屋の天井に描かれてあるのは、曲線ばかりの模様であった。

…………

そういう連想を見る人の心へ、起こさせるように出来ていた。

が、その部屋もバタビヤ織りらしい、これも深紅の垂布によって、入口を蔽われているがために、ハッキリと見ることは出来なかった。

お紅の坐っている部屋のつくりには、これといって特異なものはなかった。

ただ天井から下っている、珊瑚と鋼玉と爐眼石とで、要所要所を鏤められた、朝顔型のアレジヤ龕が、朝顔型に琥珀色の光を、床の上へ一ぱいに投げていた、それの光に照らされて、<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かの異国的の食器の類が、<ruby><rb>各自</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の持っている色と形とを、いよいよ美しく見せて居るのが、いちじるしい特色ということが出来る。

尖形のギアマンの水注がある。そうしてその色は紫である。盛られているのは水だろうか？　<ruby><rb>喇嘛僧</rb><rt>らまそう</rt></ruby>形の薬壺がある。そうしてその色は漆黒である。どのような薬が入っているのであろう？　錫製の椀には獣肉が盛られ、南京産らしい陶器の皿には、野菜と魚肉とが盛られてある。

そういう器類を前にして、坐っているお紅の姿というものは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むごたらしい</span>までに取り乱していた。髪はほどけて顔へかかり、裾は乱れて<ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby>を現わし、襟はひらけて乳房を見せ、一方の袖が引き千切れて、二の腕があらわに現われている。その腕を烈しく握られたからであろう、一所黒痣が出来ている。

さながら人魚

お紅の心は乱れていた。思い乱れているのである。今日一日の出来事が、夢かのように思われてならない。

――秀次公の使者として、不破小四郎がやって来たこと、<ruby><rb>聚楽第</rb><rt>じゅらくだい</rt></ruby>へやるまいと北畠一家が、最初はげしく争ったこと、とうとう聚楽第へ連れて来られて、眼を奪うような華やかさと、胆を冷すに足るような、荒淫な夜遊にぶつかったこと、秀次が自分を抱えたこと、それに対して抗ったこと、でもズルズルと引きずられたこと、その時懐刀の落ちたこと……最後に気絶をしたことなど……

「ここはどういう部屋なのであろう？」

お紅は<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻して見た。

いつか老婆は立ち去ったと見えて部屋には誰もいなかった。

「まるで異国へでも来たようだよ」

見る物が驚きの種であった。

「正気づいた時にはこの部屋にいた。変なお婆さんが何か云った。一言も<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>には<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった」

お紅は空腹を感じて来た。人が気絶から醒めた時には、空腹を感じるものである。

「妾に下された食物なのであろう。では妾は遠慮なく食べよう」

で、お紅は手を延ばして、順々に食物を食べて行った。

「ああ妾は<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>が乾いた。水注の水を飲むことにしよう」

で、咽喉を<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>おした。

しかしお紅は知らなかった。それらの食物や水の中に、愛慾をそそる××質が――<ruby><rb>麝香</rb><rt>じゃこう</rt></ruby>とか、<ruby><rb>芫花</rb><rt>けんか</rt></ruby>とか、<ruby><rb>禹余糧</rb><rt>うよりょう</rt></ruby>とか<ruby><rb>陽起石</rb><rt>ようきせき</rt></ruby>とか、<ruby><rb>狗背</rb><rt>くはい</rt></ruby>とか、<ruby><rb>馬兜鈴</rb><rt>ばとれい</rt></ruby>とか、<ruby><rb>漏蘆</rb><rt>ろろ</rt></ruby>などというそういう××質が、雑ぜられてあるということを。

ただお紅は飲食をしたため、にわかに体が活々となり、元気づいて来たということと、<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>とした甘い気持が、心に湧いたということを、感ずることが出来たまでであった。

「体が汗にぬれている。妾は風呂へ入ることにしよう」

で、お紅は立ち上ったが、念のために部屋の中を見廻してみた。

が、誰も見ていない。

で、そろそろと帯を解いて。一枚々々衣装を脱ぐ、花の蕾が萼から花弁と、――一枚々々、一枚々々と――だんだんほぐれて行くようである。

と、雌蕊が現われた。処女の肉体が一糸も纏わず、白く艶々とむき出されたのである。

余りに清浄であるがために、たとえ誰かが見ていたとしても、何らの邪心さえ起こさなかったであろう。そんなにもお紅の裸体の姿は、清らかで美しいものであった。そうしてお紅のその裸身が、<ruby><rb>呂宋</rb><rt>ルソン</rt></ruby>織りの<ruby><rb>垂布</rb><rt>タピー</rt></ruby>を左右にひらいて、浴槽の部屋へ消えた後には、脱ぎ捨られた紅紫の衣装が、散った花のように残されていた。

そうしてその頃にはお紅の裸身は、浴槽の中に埋もれていた。例えることが許されるなら、浴槽の中の緑色の湯は、紺碧をなした潮であり、それに埋もれている裸体のお紅は、若い美しい人魚でもあろうか？

まさしく人魚に相違なかった。乳房から上を、潮から乗り出し、肩の上へ黒髪を懸けいている。快く閉ざした眼の瞼の、上気して薄紅く艶めかしいことは！　ポッカリと唇を無心にあけて、前歯の一部分を現わしている。それがやはり艶かしい。

と、お紅は立ち上ったが、浴槽を出ると<ruby><rb>蹣跚</rb><rt>よろめ</rt></ruby>くように、香水管の下まで行って、起立したまま静まった。裸体から滴がしたたり落ちる。裸体を香水の霧が蔽う。<ruby><rb>斑</rb><rt>ふ</rt></ruby>のない大理石の彫像を、繭から出たばかりの生絹が、眼にも入らない細さをもって、十重に二十重に引っ包み、暈しているのではあるまいかと、そんなようにも見え做される。

だがお紅は知らなかった。浴槽の緑の湯の中に、<ruby><rb>熏陸</rb><rt>くんりく</rt></ruby>、<ruby><rb>烏薬</rb><rt>うやく</rt></ruby>、<ruby><rb>水銀郎</rb><rt>すいぎんろう</rt></ruby>等の、××質が入れてあったことを。

そうしてさらに知らなかった。管から吹き出している香水の中に、<ruby><rb>馬牙硝</rb><rt>ばがしょう</rt></ruby>、<ruby><rb>大腹子</rb><rt>たいふくし</rt></ruby>、<ruby><rb>杜仲</rb><rt>とちゅう</rt></ruby>などの、同じく××的香料が、まぜられてあったということを。

いつまでもお紅は陶然として、香水の霧に巻かれている。

しかしそれから体を拭って、垂布をくぐって前房へ出て、そうしていぜんとして一糸も纏わず、バタビヤ織りの垂布をひらいて、寝部屋の中へよろめき込み、寝台へ体を横仆えて、桃色の薄布を一枚だけ懸けて、ウトウトと眠りに入った頃から、身内の血潮が騒ぎ立ち、…………、…………、追っかけ追っかけ上ぼって行くのを、堪えることが出来なかった。

漁色の動物

「ああ<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>はどうしたんだろう？　こんな気持になったことは、それこそ産れて初めてだよ」

<ruby><rb>薄衣</rb><rt>うすぎぬ</rt></ruby>の下で身もだえをした。桃色の薄衣が裸休に準じて、蠱惑的の襞を作っている。胸の辺りが果物のように、両個ムッチリ盛り上っていたが、乳房がその下にあるからであった。下腹部の辺りが円錐形に<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>く、その上を蔽うている薄衣の面が、ピンと張り切って弛みのないのは、食物を充分に食べたがために、事実お腹が弾力をもって、張り切っているがためであろう。延ばされた左右の脚の間が、少し開らけていると見える。そこへ掛けられた薄衣の面が、深い窪味をこしらえている。薄衣は咽喉までかかっていたが、その薄衣から<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬきで</rt></ruby>たところの、顔の表情というものは、形容しがたく艶麗であった。と、その顔を抑えようとしてか、薄衣の縁から両腕を延ばし、肘から湾のように丸く曲げたが、直ぐに<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>で顔を抑えた。と、脇下の可愛らしい窪味が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きわだって</span>黒く見て取れた。

烈しく喘いでいるらしい。胸から胴から下腹部から、延ばされた二本の脚の方へ、<ruby><rb>蜒</rb><rt>うねり</rt></ruby>のようなものが伝わって行く。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のた</span>打っている爬虫類さながらである。

そういうお紅を載せているところの、<ruby><rb>天鵞￼</rb><rt>びろうど</rt></ruby>張りの異国風の寝椅子は、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から絶間のないリズムをもって、上へ下へと揺れている。

お紅の心へ萌したものは、異性恋しさの心持であった。

その異性の対象は、最初は北畠秋安であった。

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>…………！　妾を…………！」

で、若々しい健康らしい、秋安の肉体を描いてみた。

「妾はあのお方と約束をした。行末<ruby><rb>夫婦</rb><rt>めおと</rt></ruby>になりましょうと。……おいで下され！　おいで下され！　そうして妾を愛撫して下され！」

次第に心が恍惚として来る。全身が鞣めされ麻痺されて来る。<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>心が失われようとする。

「ああ妾には誰でもいい」

不健全で好色で惨忍な、秀次の顔が浮かんで来た。

と、秀次に…………甦って来た。ちっとも穢わしく思われない。ちっとも厭らしく思われない。今は全く反対であった。…………<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>っていた。

だがその次に浮かんで来たのは、不破小四郎の姿であった。

「今直ぐ妾へ来て下さるなら、……………！」

美しくはあったが上品ではなかった。――そういう不破小四郎の顔が、お紅には上品に見えさえした。

「ああ妾はあの人にだって…………！」

寝台がリズミカルに揺れている。

お紅の全身は汗ばんで来た。呼吸が…………。薄衣の下の肉体が…………。

で、この寝部屋の寝台の上に、…………裸形の女は、決してお紅ではないのであった。単なる漁色的の動物であった。つつましい清浄なお紅という処女は、ほんの少し前に消えたのである。

しかし漁色の動物は、お紅一人ではないのであった。

あの近東の回教国の、密房に則って作ったところの、この奇形な建物の内には、同じような部屋が<ruby><rb>幾個</rb><rt>いくつ</rt></ruby>かあって、その部屋々々には漁色狂の女が、無数に籠められて居るらしい。その証拠には四方八方から、極めて遠々しくはあったけれど、…………を柱へでも投げつけるらしい、物の音などが聞こえてきた。

みだらな唄声なども聞こえてくる。

だがお紅には聞こえなかった。

掻きむしられるような…………が、身心をメラメラと焼き立てる。その…………を消し止めようと、お紅は夢中で争っている。

しかし絶対に勝ち難かった。次第々々に負けて来た。とうとうお紅は打ちのめされた。

「妾は…………！　最初に来た人へ！」

桃色の薄衣を<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けようとする。そうしてお紅は立ち上ろうとした。そうしてお紅は叫ぼうとした。

「お婆さんお婆さん出して下さい！　そうでなかったら連れて来て下さい！」

で、お紅は泣き出した。

で、もし誰か異性の一人が、ここの寝部屋へ入り込んだならば、お紅は…………。…………を失うであろう。

そうして今やそういう異性が、奇形な建物の出入口の前へ、ひそかに姿を現わした。

他ならぬ不破小四郎であった。

出入口の前に扉がある。内部が厳重にとざされている。その前に立った小四郎は、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を憚ったひそやかな声で、

「姥はいるか、四塚の姥は！」

こう呼びかけて聞き耳を立てた。

光消えぬ矣簒奪星

と、扉の向こう側から、老婆の声が聞こえてきた。

「四塚の姥はこの<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>で。……何かご用でもござりますかな？」

嘲笑っているような声である。

「<ruby><rb>俺</rb><rt>わし</rt></ruby>はな、小四郎だ、不破小四郎だ」

「お声で大概<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>りますよ。小四郎様でござりましょうとも」

嘲笑っているような声である。

「姥か、お願いだ、扉をあけてくれ」

するといよいよ嘲笑いの声を、四塚の姥は扉の中で立てたが、

「これはこれは何を<ruby><rb>有仰</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>るやら、<ruby><rb>聚楽第</rb><rt>じゅらくだい</rt></ruby>のお侍でありながら、聚楽第の掟をご存知ないそうな。この密房は男禁制、開けることではござりませぬよ」

「何を、莫迦な、そんなことぐらい、この小四郎が知らないものか。知っていればこそ頼むのだ。是非この扉をあけてくれ。そうしてお紅に逢わせてくれ。……お紅という娘はいるだろうな？」

「ハイハイおいででござりますよ。今頃は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねんね</span>でござりましょう。いいご機嫌でな。夢中でな」

「お紅は俺の女なのだよ。それを殿下が横取ったのだよ。いやいや横取ろうとしているのだよ。で、この密房へ入れたのさ。……だがお紅は俺のものだ。渡してくれ、渡してくれ！」

懇願的の声となった。

「あの娘は本当に<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い女だ。聚楽中にもないくらいだ。で、ご愛妾の一人が死んだ。お前も知って居る京極のお方だ。今日まで殿下のご寵愛を、一人占めにして占めていられた方だ、そのお方が懐刀で自害された。お紅の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から転び出た刀で、まるでお紅が殺したようなものだ。いや事実殺したのだ。お紅を嫉妬して死んだのだからな。お紅がご愛妾になろうものなら、寵愛を失うと思ったからさ。……そんなにも綺麗なお紅なのだ。俺だって恋しく思うではないか。頼む、あけてくれ、扉をあけてくれ！」

更にそれから誘惑するように。

「が、勿論頼むには、頼むだけのことはするつもりだ……殿下から拝領の生絹をやろう、殿下から拝領の羅紗布をやろう、殿下から拝領の紋唐革をやろう。もしお前が欲しいというなら、刺繍した黒<ruby><rb>天鵞￼</rb><rt>ビロード</rt></ruby>をくれてやる。黄金をやろう、背負いきれないほどの黄金を！」

どうやら最後のこの言葉は、四塚の姥を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まどわした</span>らしい。

しばらくの間は黙っていたが、諂うように声をかけた。

「黄金を下さると有仰るので？」

「やるよやるよ、背負いきれないほどやるよ」

「まあまあ左様でござりますか、考えることにいたしましょう。妾はすっかり老い枯ちて居ります。この女部屋の宰領役さえ、わずらわしいものになりました。どうぞ閑静な土地へ参って、安楽な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くらし</span>をいたしたいもので。それにはお宝が<ruby><rb>入用</rb><rt>い</rt></ruby>りますので。……<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>様がそれを下さるという。有難いことでござりますよ。ではこの扉をあけましょう。ご自身にお入りなさりませ。ご自身に寝部屋へ参られませ」

すぐにカチカチと音がした。どうやら錠でもあけるらしい。

「有難い有難い礼を云うぞ。そうしたら俺はお紅を連れ出し、遠く他国へ行くことにしよう。そうしてそこで一緒に住む」

やがてギーという音がした。

と、扉が一方へあいて、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>方お紅の部屋に在って、お紅に因果を含めていた、老婆が顔をつき出した。すなわち四塚の姥である。

「お入りなされ」

「もう<ruby><rb>占</rb><rt>し</rt></ruby>めたぞ！」

だがその時どうしたのであろうか、四塚の姥は、

「あッ」と云ったが、ビ――ンと扉をとじてしまった。

<ruby><rb>主殿</rb><rt>おもや</rt></ruby>とつながれている廻廊を、一つの人影が辷るように、こっちに近寄って来たからである。

「小四郎！」

「おッ、ご宿老様！」

「不忠者！」

か――ッと一太刀！

悲鳴が起こって骸が斃れた。

<ruby><rb>幸蔵主</rb><rt>こうぞうす</rt></ruby>が樓上で耳にしたのは、この小四郎の悲鳴なのであった。

「四塚の姥！　扉をあけろ。……うむ、開けたか、顔を出せ。……お紅という娘が居るはずだ。丁寧にあつかって連れて参れ」

「かしこまりましてござります」

密房の扉があけられている。

砂金色の<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>が隙から射して、廊下を明るく照らしている。

血刀を下げて突っ立っているのは、宿老の木村常陸介であった。

足許に死骸が転がっている。一刀で仕止められた小四郎の死骸で、肩から胸まで割られている。

切口から流れた血が溜まって、廊下へ深紅の敷物でも、一枚厚く敷いたようであった。

「聚楽の乱脈はこの有様だ。とうてい長い<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>ではあるまい。……頼むは五右衛門ばかりだが……」

懐紙で血刀をゆるゆるとぬぐい、鞘へ納めた木村常陸介は、廻廊の欄干へ体をもたせ、奥庭の木立の頂き越しに、伏見の方の空を見た。

「これは<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ない、仕損じたらしい」

<ruby><rb>公孫樹</rb><rt>いちょう</rt></ruby>の大木の真上にあたって、五帝星座がかかっていて、玄中星が輝いていたが、一ツの簒奪星が流星となって、玄中星を横切ろうとした。

が、そこまで届かないうちに、消えてなくなってしまったからである。

「可哀そうに五右衛門は捕らえられたらしい」

一年後の花園の森

こうして一年の日が経った。

その間に起こった事件といえば、聚楽第の主人の秀次が、高野山で自害をしたことであろう。

木村常陸介をはじめとして、家臣妻妾が死んだことであろう。

石川五右衛門が四條河原で、釜茄にされたことであろう。

で、春が巡って来た。花園の森には松の花が咲き、桜の花が散り出した。そうして、麦の畑では、<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby>がヒヒ啼きを立てはじめた。

そういう花園の森の中に、三人の男女が坐っていた。<ruby><rb>香具師</rb><rt>こうぐし</rt></ruby>姿の男女である。一人はその名を梶右衛門と云って、六十を過ごした老人であり、一人はその名を梶太郎と云って、その老人の子であった。二十三歳の若者である。そうしてもう一人は萩野であった。香具師姿の萩野であった。

「若い者同志は若い者同志、話をするのが面白かろう。どれどれ俺は見廻って来よう。……奴らあんまり騒ぎ過ぎるて」

森の奥に大勢の仲間がいて、陽気に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はしゃいで</span>いると見えて賑かな<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>り声が聞こえていたが、梶右衛門親方は腰をあげると、元気よくそっちへ歩いて行った。

で、軟かい草を敷いて、ここの境地へ残ったのは、梶太郎と萩野と二人だけであった。

昼の日が森へ差し込んでいる。その日に照らされた梶太郎の顔は、流浪の人種の若者などとは、どんなことをしても思われないほどに、上品でもあれば純情でもあった。しかし種族は争われないで、情熱的なところがあった。

じっと萩野を見守っている。烈しい恋の感情が、眼にも口にも漂っている。

梶太郎は事実燃えるがようにも、萩野を恋しているのであった。そうして幾度か打ち明けもした。しかし萩野はそれに対して、ハッキリした返事をしなかった。と云って萩野は衷心において、梶太郎を嫌っていないばかりか、仄かながらも愛していた。とは云えそれよりも一層烈しく、萩野は秋安に恋していた。未練を残していたのである。そうして過ぐる日その本心を、とうとう梶太郎の耳へ入れた。どんなに梶太郎の失望したことか！　これが普通の香具師の、兇暴な若者であったならば、自暴自棄の感情の下に、萩野に対して暴力を揮うか、ないしは秋安を殺そうとして、付け狙って姦策を巡らしたであろう。しかし梶太郎は、反対であった。自分の恋を抑え付けて、萩野を故郷へ送り届けて、秋安の手へ渡そうとした。ちょうどその頃香具師の群は、丹波の亀山に居たところから、そこを引き払って一年ぶりに、この京の地へ来たのである。

この花園の森の近くに、秋安の邸はあるのだという。そうして日が暮れて夜が来た時、萩野は香具師の群から別れて、秋安の邸へ行くのだという。――では二人での話し合いは、今が最後と見做さなければならない。

どんなに梶太郎の心持が、暗くて寂しくて悲しいか、云い現わすことさえ出来なかった。

しかし萩野の心持も、同じように寂しく悲しかった。一年前の月の夜に、この森で首をくくろうとして、野宿をしていた梶右衛門のために、あぶないところを助けられて<ruby><rb>以来</rb><rt>このかた</rt></ruby>、香具師の群の中へ投じて、諸々方々を流浪したが、その間にどれほど梶太郎のために、愛され<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたわられ</span>大事がられたことか。云い尽くせないものがあった。その人と別れなければならないのである。同じように寂しく悲しかった。

二人はいつ迄も動かない。

ところで萩野の心の中には、さらに別の不安があった。

「秋安様には薄情な<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>を、お許しなすって下さるかしら？――そうしていまだにこの妾を、昔どおりに愛して下さるかしら？」――と云うのが萩野の不安なのであった。

しかるに萩野のそういう不安は、全然別途の趣の下に、以外に解決が付けられることになった。

ああ二組の幸福の夫婦

数人の男女の話し声が、森の一方から聞こえてきたが、次第にこっちへ近寄って来て、間もなく姿を現わした。一人は北畠秋安で引き添うようにして美しい婦人が、――それは他ならぬお紅であったが、侍女を従えて歩いて来た。二人はどう見ても夫婦であった。そうして事実夫婦なのであった。その証拠さえそこにある、侍女が<ruby><rb>嬰兒</rb><rt>うぶこ</rt></ruby>を大切そうに、胸の辺りに抱いている。

話しながらゆるゆると歩いて来る。

「今年も松の花が咲くようになった。思い出の多い松の花だ。この森にも思い出が多い。……あれからあの女はどうしたことやら」

感慨にたえないというように、秋安はしめやかに呟いたが、

「どこぞで幸福にくらして居ればよいが」

「萩野様のことでございますか？」

こうお紅は訊き返したが、

「もうどうやら<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>様には、怨みも憎しみもなくなられたようで」

「今では幸福をいのるばかりだ。……これもお前のお蔭なのだよ」

「まあまあ何故でござりましょう？」

「お前が俺と一緒になって、俺を幸福にしてくれたからだ」

「もう愛しても居りませぬので？」

「愛するものはお前ばかりだ」

「いいえ、そうしてこの秋秀も」

こう云ってお紅は<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>ましそうに、嬰兒の方へ顔を向けた。

「可愛い坊や、可愛い坊や……妾は幸福でござりますよ」

「自分で幸福でいる時には、他人の幸福も願うものだよ。……萩野が幸福であるように」

「可愛らしい香具師さんが居りますのね」

こう云ってお紅が足を止めたので、秋安もふと足を止めた。

そうして萩野へ眼をやったが、萩野はその前から、深く俯向いていたがために、秋安には顔が見られなかった。そうして姿は香具師風である。萩野であることが何で<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>ろう。で、ゆるゆると行き過ぎた。

が、お紅は気安そうに、二人の香具師の前まで行った。

「お怒りなすっては困ります。私達は幸福なのでございます。どうぞ<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>方ご夫婦にも、祝っていただきたいと存じます。粗末な物ではござりますが、私達の志でござります。お受け取りなすって下さいまし」

云い云いお紅は簪を抜いたが、萩野の前へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そっ</span>と出した。

「はい、有難う存じます」

顔を上げた萩野の眼の中に、あふれる涙が光っていた。

「お美しい貴郎様のお志、いつ迄も忘れはいたしませぬ。……幸福におくらし遊ばすよう、おいのり致すでござりましょう」

「貴郎方ご夫婦もお幸福に……」

施しを快く受けられたので、お紅は喜悦を感じたらしい。ちょっと会釈すると身をひるがえして、行き過ぎた秋安の後を追って灌木の裾を向こうへ廻った。

と、じいいっとその後を、萩野は涙の眼で見送ったが、突然梶太郎の膝の上へ、しっかりと、顔を押しあてた。

「ねえ行きましょうよ、遠い他国へ、流浪しましょうよ、二人で一緒に！」

そうして烈しく咽び泣いた。

「…………」

茫然とした若者の梶太郎には、何故そうもにわかに萩野の心が、一変したかが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった。それは実際解らなかったが、一緒に流浪をしようという、萩野の心は嬉しかった。嬉しい以上に有難かった。

「萩野さん、私はお礼を云うよ。ああ行こう、一緒に行こう。……そうしてお前さんは私のものだ」

「貴郎のものでございますとも！　ただ今の若い美しいお方も、祝福をして下さいました。……私達二人を！　夫婦と見做して！」

「私の妻だ！」と抱きかかえた。その梶太郎に抱かれたままで、萩野は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっとり</span>と呟いた。

「あの人達は<ruby><rb>京都</rb><rt>みやこ</rt></ruby>に住む！　賑やかな明るい派手やかな京都に！　そうしてそこでお暮らしになる。幸福に、幸福に、幸福に！　……でも私達は林や野や、小さい<ruby><rb>駅</rb><rt>うまやじ</rt></ruby>や<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>で住む！　でもちっとも違いはない。幸福にさえ暮らそうとしたら……きっと幸福にくらすことが出来る！」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>は今でも幸福だよ、たった今<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>は幸福になった。……しかし、お前には、秋安というお方が……」

「何にも<ruby><rb>有仰</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>って下さいますな。……もう逢ったのでございます。……逢ったも同じなのでございます……」

拭くに由無い満眼の涙！　萩野の眼頭から流れ出たが、頬を伝わって頤まで来た。昔の恋を思い断って、新しい恋に生きようとする、悲しみと喜びの涙なのである。

花園の森は昼の日に明るく、草木と人とを照らしている。その中で桜花が蒸されている。

が、間もなく森の中から、十数人の香具師達が、流浪の人に特有の、軽快な自由な足どりで、笑いさざめきながら現われた。

近江をさして行くらしい。

その先頭に歩いて行くのは、新婿新妻を想わせるところの、梶太郎とそうして萩野であった。

肩と肩とを寄せ合って、つつましやかに歩いて行く。

野には陽炎、小鳥の声々！　そうして行手にあるものは、新しい恋と生活とである。