## 書冊の灰

二月も末のことである。春が近づいたとはいいながらまだ寒いには寒い。老年になった鶴見には寒さは何よりも体にこたえる。湘南の地と呼ばれているものの、静岡で戦災に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>って、<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>い思いをして、去年の秋やっとこの鎌倉へ移って来たばかりか、静岡地方と比べれば気温の差の<ruby><rb>著</rb><rt>いちじ</rt></ruby>るしい最初の冬をいきなり越すことが危ぶまれて、それを苦労にして、耐乏生活を続けながら、どうやら今日まで故障もなく暮らして来たのである。珍らしく風邪一つひかない。好いあんばいに、おれも丈夫になったといって、鶴見はひとりで喜んでいる。

「梅がぽつぽつ咲き出して来たね。」

鶴見は<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>をゆっくり歩いて来て、部屋に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>りしなに、<ruby><rb>老刀自</rb><rt>ろうとじ</rt></ruby>に向って、だしぬけにこういった。静かに振舞っているかと見れば性急に何かするというようなのが、鶴見の癖である。

「梅がね。それ何というかな。花弁を<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>く畳み込んでいる、あの<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>の表の皮。花包とでもいうのかな。紫がかった褐色の奴さ。あれが破れて、なかの乳白な粒々が<ruby><rb>霰</rb><rt>あられ</rt></ruby>のように枝一ぱいに散らかって、その中で五、六輪咲き出したよ。<ruby><rb>魁</rb><rt>さきがけ</rt></ruby>をしたが何かまだおずおずしているというような<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>だな。それに<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>まで雨が降っていたろう。しっとりと濡れていて、今が一番見どころがあるね。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に梅は咲き揃うと面白くなくなるよ。」

鶴見はいっぱしの<ruby><rb>手柄</rb><rt>てがら</rt></ruby>でもした様子で、言葉を多くして、はずみをつけて、これだけの事を語り続けた。

「そうですか。だんだん暖くなって来ます。もう少しの辛抱でございますね。」

刀自はあっさりとそういったきりで、<ruby><rb>縫針</rb><rt>ぬいばり</rt></ruby>の手を休めない。不足がちな<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>をせっせと<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>くっているのである。<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に置いてある電熱器もとかく電力が不調で、今も<ruby><rb>滅</rb><rt>き</rt></ruby>えたようになっている。木炭は殆ど配給がなく、町に出たときコオライトというものを買って来て、<ruby><rb>臭</rb><rt>くさ</rt></ruby>い煙の出るのを<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>いながら、それを<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いていたが、それさえ供給が絶えてから、この電熱器を備え付けたのである。

しかしこの日はどうしたことか、鶴見は妙にはしゃいでいる。いつもの通り机の前に<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>わって、刀自の<ruby><rb>為事</rb><rt>しごと</rt></ruby>をする手を心地よく見つづけながら、また話しだした。

「あの梅を植えたときのことを覚えているかい。まだずぶの若木であったよ。それがどうだろう、あんな老木になっている。無理もないね。あの関東大震災から二十年以上にもなるからな。」

そういって感慨に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っているようであるが心は<ruby><rb>朗</rb><rt>ほが</rt></ruby>らかである。鶴見は自分の年とったことは余り考えずに、梅の老木になって栄えているのを喜んでいる。

鶴見は震災後静岡へ行って、そこで居ついていたが、前にもいった通り戦火に<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かされて丸裸になり、ちょうど渡鳥が本能でするように、またもとの古巣に舞い戻って来たのである。かれにはそうするつもりは全くなかったのであるが、ふとしてそういうことになったのを、必然の筋道に<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>かされたものとして解釈している。安心のただ一つの<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>りどころが残されてある。彼はそこを新たに発見した。そういう風に考えているのである。ただし当今はどこにいたとて<ruby><rb>不如意</rb><rt>ふにょい</rt></ruby>なことに変りはない。それにしても古巣は古巣だけのことはある。<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>の<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がりのある場所に寝起きをするということが、鶴見をその生活のいらだたしさから次第に落ち<ruby><rb>著</rb><rt>つ</rt></ruby>けた。殊に今日は梅の老木に花が匂い出したのを見て、心の中でその風趣をいたわりながら、いつまでもその余香を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いでいるのである。

この鶴見というのは一体どういう人間なのであろうか。かれは名を<ruby><rb>正根</rb><rt>まさね</rt></ruby>といって、はやくから文芸の道にたずさわっていたので、<ruby><rb>黙子</rb><rt>もくし</rt></ruby>なんぞという筆名で多少知られている。学歴とてもなく、知友にも乏しかったかれは、いつでも孤立のほかはなかった。生まれつきひ弱で、勝気ではあっても強気なところが見えない。世間に出てからは他に押され気味で、いつとはなしに<ruby><rb>引込</rb><rt>ひっこ</rt></ruby>み<ruby><rb>思案</rb><rt>じあん</rt></ruby>に陥ることが<ruby><rb>慣</rb><rt>なら</rt></ruby>いとなった。彼はしょっちゅうそれを<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>しがり寂しがるのみで、その<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>を打開する方法はあっても、それに対する処置を取り得なかった。またそうさせぬものが胸中に<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>っていて自由な行動を制していたのである。

かれが文壇に登場したはじめには、小説というものを真似事のように書いてみた。二度目に苦心して書き上げてみたが、苦心をしただけに、すぐに<ruby><rb>厭気</rb><rt>いやけ</rt></ruby>がさす。なぜというに、小説を書くことは自分の宿志に<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>くと思ったからである。そして反省する。反省に反省を重ねて、その<ruby><rb>苛責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>に悩むのがかれの癖である。彼はそれから詩を書く決心をした。かれの好みは幼年時より詩の方に向いていたのである。詩は書きたい。しかし<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ちに詩人になろうとまでははっきりさせていなかった。今となってはそうしているだけでは済まされない。かれはこの時はじめて詩人になろうと<ruby><rb>盟</rb><rt>ちか</rt></ruby>って、おれはこれから詩人になるのだと叫んでみて、その声を自分自身に言い聞かせた。そうして既に詩人となったつもりで詩を書こうというのである。それが既に無理である。あれこれと試みたものの、書き上げてみればそのあらだけが目について、どうにも長く見ているに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えられなくなる。おれには叙情についての才能が足りない。かれはつくづくそう思って困惑した。<ruby><rb>素直</rb><rt>すなお</rt></ruby>に情感が流れて来ないということは、そういう<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかな雰囲気を<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>し<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>す境遇にかれが置かれていないという事、その事をかれは次第に自覚してきた。かれはこの叙情の才能に欠けていることを、詩人として立つ上において殆ど致命的であるかの如く思い詰めた。実際にその作詩は情趣に乏しかった。題材は自然、神話、伝説にわたって、各〻異ってはいたが、事象の取扱はいずれも外面的で、どうやら合理的科学的な方法への傾向を持っていた。その上にも時事問題にまで心を牽かされていた。それはそれで調和が取れていれば好かったが、ただわけもなく雑然と<ruby><rb>混糅</rb><rt>こんじゅう</rt></ruby>していた。

鶴見がそこに気がついてから、これを苦にして<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くにしてたどりついたのが言葉の修練ということである。先ず自分に欠けている情趣を自分のなかから作り出そうという考に到達した。さてその考を実現するには何を根本に置くべきか。それが順序として次に解かねばならぬ疑問である。かれはその当時それほどまでの分別はしていなかった。それにしても既に案出した問題の性質から、詩の重要性が言葉の修練にあるということの暗示を受けていたのだろう。かれはだんだんその方に目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ましていった。鶴見が晩年に至るまで、言葉の修練をかれには似合わず執拗に説いていたのは、その由来がそういうところに深く根をおろしていたからである。

言葉の修練を積むに従って詩の天地が<ruby><rb>開闢</rb><rt>かいびゃく</rt></ruby>する。鶴見はおずおずとその様子を<ruby><rb>垣間見</rb><rt>かいまみ</rt></ruby>ていたが、後には少し大胆になって、その成りゆきを<ruby><rb>見戍</rb><rt>みまも</rt></ruby>ることが出来るようになった。それと同時に、好奇と驚異、清寧と冷徹――詩の両極をなす思想が、かれを中軸として<ruby><rb>旋回</rb><rt>せんかい</rt></ruby>しはじめるのを覚える。<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>らされぬ境界に置かれたかれはその激しい渦動のなかで、時としては目が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>まされるのである。

こういう経験をかれは全く予期しなかった。あとから思量すれば、そういう経験のなかに、近代ロマンチック精神の<ruby><rb>育</rb><rt>はぐ</rt></ruby>くまれつつあった実証が<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>げながら見られる。

鶴見はとにかく不毛な詩作の失望から救われた。言葉の修練を日々の<ruby><rb>行持</rb><rt>ぎょうじ</rt></ruby>として、どうやら一家をなすだけの<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>をひたむきに<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>いていった。

かれにも油の乗る時機はあった。そうはいうものの、久しからずして気運は一転し、またたく間に危機が襲いかかった。危機はもとより外から来た。しかしかれの内には外から来る危機に応じて動くばかりになっていたものを蔵していたということもまた争われない。内から形を現わして来たものが外からのものよりも、その迫力がむしろ強かったという方が当っている。それに対して抵抗し反撥することは<ruby><rb>難</rb><rt>むずかし</rt></ruby>かった。理不尽に陥ってまでもそれを<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>てすることはないとかれは思っていたからである。

孤立であったかれは、<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えば支えるものもない一本の<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>のごときものであった。その杭の上にささやかな<ruby><rb>龕</rb><rt>がん</rt></ruby>を載せて、浮世の波の押寄せる道の辻に立てて、かすかな<ruby><rb>一穂</rb><rt>いっすい</rt></ruby>の<ruby><rb>燈明</rb><rt>とうみょう</rt></ruby>をかかげようと念じていたことも、今となってはそれもはかない夢であった。かれには夢が多すぎた。しかもその夢はいつしか<ruby><rb>蝕</rb><rt>むしば</rt></ruby>まれていた。危機に襲われて、これまで隠していた弱所が一時に暴露したことを、かれは不思議とは思っていない。それがためにかれは<ruby><rb>独</rb><rt>ひとり</rt></ruby>で悩み、独で敗れることになったのである。

その時、体をひどく悪くしていたことも手伝って、それなりに文壇を<ruby><rb>遠退</rb><rt>とおの</rt></ruby>いてしまった。<ruby><rb>傍目</rb><rt>はため</rt></ruby>にはそうまでしなくてもよさそうに思われたに違いない。反抗が<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>なら嫌で、もっと<ruby><rb>落</rb><rt>お</rt></ruby>ち<ruby><rb>著</rb><rt>つ</rt></ruby>いていればよかったろうと思われたに違いない。暴風も一過すれば必ず収まるものである。かれはそれを知らぬでもなかったが、そういう<ruby><rb>心構</rb><rt>こころがまえ</rt></ruby>をするだけの多少の気力も、体力と共に失われていて、かれにはその時頼みにする何物もなかったからである。

実を言えば、鶴見は結婚後重患にかかり、その打撃から十分に<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>されていなかったのである。そればかりか、病余の衰弱はかれの神経を過度に<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>ぶらせた。しばしば<ruby><rb>迷眩</rb><rt>めいげん</rt></ruby>を感ずるようになったのは、それからのことである。そういう状態が一進一退して、長いことかれを苦しめ抜いた。その<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>にあってかれの生活も思想もおのずから変って来た。ひとしきり憂鬱になって、気まぐれにも自殺についての考察をめぐらして見たり、またその頃はやった郊外生活を実行して、<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さい都会を避けて田園を楽しむような<ruby><rb>気振</rb><rt>けぶり</rt></ruby>を見せたりして、そんなことを少しずつ書いたりしてもいた。

鶴見の逃避生活はそういう風にして始められた。神経を痛める細字の書は<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く取りかたづけられて、読書人の日々の課業として仏典が<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>ばれた。かれは少年時より仏教については関心を持っていた。その志を今果そうとしているのである。<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>がもしヂレッタントだといって卑しめればかれは腹を立てただろうが、かれみずからはどうかすると、おれはヂレッタントだといって笑っていた。そういう時のかれには職業的文士というものが何物よりも<ruby><rb>目障</rb><rt>めざわり</rt></ruby>になっていたのである。

詩作にはすでに興味を失っていた。かれ自身としても詩人になろうと思いたったのが間違いのはじめで、詩だけを思うままに作っていればよかったのだと、老年になったかれはしきりに<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>んでいる。その上に他と一しょになって物を言うのをひどく<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>むのである。詩社を結ぶなんぞということは、てんでかれの頭にない。一生涯孤立は避けられもせず、また避けようとも思わずに、別にしでかしたこともなく、ずるずると今日に及んだのである。これが鶴見の経歴といえば経歴のようなものである。

それに、これは余談であるが、鶴見は十年ばかり前から<ruby><rb>聾</rb><rt>つんぼ</rt></ruby>になっている。単に耳が遠いというだけではない。殆ど全く聞えないのである。

鶴見が聾になる<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ前のことであった。かれは老妻の<ruby><rb>曾乃</rb><rt>その</rt></ruby>に向って、「お前はどうかしたのかね。声がすっかり変ってぼやけてしまっている。もっとはっきり物をいってもよさそうなものだ」といって、かえって<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かったものであるが、或る日の朝いつものとおり起きて、茶の間の席に就いていると、家人のする朝の挨拶がさっぱり聞えて来ない。鶴見はこのときはじめて自分の聴覚不能に気が附いたのである。

かれは久しく悩まされている体の変調子などから、いずれはどこかに現証を見せられるものと推量していた。それが聴覚にあらわれて来たのである。ふだんからそう考えていたので、その朝争われぬ証拠を見せつけられても、<ruby><rb>惶</rb><rt>あわ</rt></ruby>てもせず驚きもしなかった。びっくりしたのはむしろ曾乃刀自の方である。いろいろ他にも相談したすえに、結局市の<ruby><rb>聾唖</rb><rt>ろうあ</rt></ruby>学校へ行って、聴音器などのことをよく聞きただして来ることに<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まった。鶴見は例によって学校なんぞへ行くのをおっくうがって、あまり気がすすまない。しかしそうばかりもいっていられぬので、曾乃刀自に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて学校へ出向いてみた。

学校では若い教諭が出て来て親切にしてくれる。一応こちらの事情を聞いた上で、ガラス戸棚からさまざまな器具を取りおろして、それを卓上に<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>べて、それらの器具の使用法について詳しい説明をする。その中には乾電池を使った、機巧の複雑なものもある。しかし実際に<ruby><rb>試</rb><rt>た</rt></ruby>めしてみたところでは、そんな<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な器具よりも、簡単で自然なものの方が要領を得ていた。鶴見は学校へ行ってそれだけの智識を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って来たのである。それから東京へ出掛けて、学校で見たものと同じ物を買入れて来た。<ruby><rb>喇叭状</rb><rt>らっぱじょう</rt></ruby>の聴音器である。鶴見はその喇叭をかれこれ十年も使っているので、表にかけた<ruby><rb>黒漆</rb><rt>くろうるし</rt></ruby>も<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げてところ<ruby><rb>斑</rb><rt>まだら</rt></ruby>に<ruby><rb>地金</rb><rt>じがね</rt></ruby>の真鍮が顔を出している。その器具を耳にあてがってみても、実は不充分である。言葉のうちには幾度も聞き返さねば分らぬ音韻がある。大抵の日常会話は、慣れてくれば、よくは聞えなくても想像がつく。話題が突然一転する。そうなると想像の糸がふっつりと断たれて殆ど判別が出来なくなる。客と対座するときには曾乃刀自が脇についていて、喇叭を通して、仲介に立って、客の言葉を受けて、それを伝えてくれる。聞き慣れたものの音声が、何といっても聞きよいのである。そうでない場合は、客に一方的な筆談を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わすことになる。それでは客に対して気の毒でならない。そういうようなわけで、たずねて来てくれる客も絶えがちになり、こちらからはもとより往訪も出来ない。かれの孤独は一層甚しくなる。それにもかかわらず、鶴見はよく堪えて、静かに<ruby><rb>引籠</rb><rt>ひきこも</rt></ruby>って、僅かにその残年を送っているのである。

その鶴見がきょうは珍らしく機嫌が好い。梅の花が咲き初めたということがまだかれの思考を繋ぎとめているらしい。

『<ruby><rb>正法眼蔵</rb><rt>しょうぼうげんぞう</rt></ruby>』に「梅花の巻」といわれているものがある。かれはそうと気がついて、急に見たくなって、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に<ruby><rb>書架</rb><rt>しょか</rt></ruby>があれば、手を出してその本を探したいような心持がした。そうは思ってみても、今の境遇ではそのようには行かない。かれの蔵書はすべて焼けて灰になっているのである。梅花の巻に代えて<ruby><rb>劫火</rb><rt>ごうか</rt></ruby>の巻が眼前に展開する。またしても寂しい思いがさせられる。せっかく明るくなっていた気分が<ruby><rb>損</rb><rt>そこな</rt></ruby>われるのを惜しんでもしかたがない。かれは気を励まして、本なんぞに追随するのを<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めて、まだ手馴れていない批判的態度に出てみるのも面白かろうと考えている。もし間違っていれば引込ますだけのことである。かれもここで少し横著な構えになる。

『正法眼蔵』が何であろうと、今日のかれには余り<ruby><rb>関</rb><rt>かか</rt></ruby>わりはないはずである。あれを書いた道元は禅には珍らしく緻密な頭脳を持っていたということを、誰しもが説いている。それには違いなかろう。峻厳である一方<ruby><rb>悟道</rb><rt>ごどう</rt></ruby>の用心が慎重である。<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に<ruby><rb>喝棒</rb><rt>かつぼう</rt></ruby>なんぞと、芝居めいた<ruby><rb>振舞</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>にも出でない。そこにも好感が持たれる。殊にこの『正法眼蔵』は和文で物してある。われわれに取っては漢文を誤読するような<ruby><rb>過</rb><rt>あやまち</rt></ruby>をせずに済む。それが先ずありがたい。ずっと前に読んで、まだ頭に残っている印象をたどって見れば、何か近頃の評論家の文章を読むような気がするものがあるように思われて来る。それもなつかしい。

鶴見に取ってはそこに出てくる、今の言葉でいえば、分析とか弁証とか超克とかいうものは、ただそれだけのものとして、そう深くは心を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>かされていない。「梅花の巻」に限らず、どの<ruby><rb>公案</rb><rt>こうあん</rt></ruby>にも同様な解結の手段がめぐらされている。

鶴見は『正法眼蔵』全体を一つの<ruby><rb>譬喩</rb><rt>ひゆ</rt></ruby>と見ている。梅花はこの譬喩の中でも代表的なものである。そして春になって梅の花が咲くの、梅の花が咲いて春になるのと、わざわざ矛盾を提示しての分析は、暇のある時ゆっくり考えてみても好かろうと思っているのである。

鶴見にはかれ相応な見方がある。そこにいうところの梅花は前にいったとおり一つの譬喩に過ぎない。公案で思想を<ruby><rb>鍛</rb><rt>きた</rt></ruby>えて、さて<ruby><rb>現成</rb><rt>げんじょう</rt></ruby>させる絶対境は要するに抽象世界である。先天的な自然の生命はいみじくも悟得されようが、鶴見が懐抱しているような、<ruby><rb>無碍自在</rb><rt>むげじざい</rt></ruby>なる事象界の具体性が実証されているものとはどうしても思われない。譬喩があって象徴がないからである。そこに宗教哲理の窮極はあっても、芸術とは根本の差が見られるということになる。

また考えて見る。伝えるものと<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けるものと二人相対している。そして微笑する。仏々相照というようなことにもなるか知れないが、それでも困る。誰にでも見える帰納的な表現が欲しいものである。芸術がただその事を<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くする。

鶴見は聾になってから、いつかしらに独語をする癖がついている。いつもは口のなかで噛みつぶしているのであるが、今思わず「芸術」という語に力を入れた。それでその言葉がかれの口を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて洩れてくる。老刀自はまたかと思って、取り合わずに、老眼鏡をかけて針のめどに糸を通そうとして熱中している。

鶴見はなお思いつづけながら、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに気を<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>して、娘の方に振向いて、「さあ。どうだろう。少し休んで、あの梅の枝を<ruby><rb>手折</rb><rt>たお</rt></ruby>って来てね、ちょっと工夫して、<ruby><rb>一輪</rb><rt>いちりん</rt></ruby>ざしに<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>けて見せてくれないか。」鶴見はそういい放して置いて、自分は自分で、やはりさっきからの考を追っている。娘というのは静代といって養女である。夫婦とも老年になるばかりで、子がないのを苦にして、あとの事など思い詰めたあげくに、この四、五年来家事の加勢に呼寄せていた曾乃刀自の姪を籍に入れたのである。老刀自が華道に専心して忙がしがっていたのを助けて来ただけあって、花も相応に活かるようになっている。静代は鶴見に花を活けて見せろといわれたのを面倒がりもせずに、仕事の手を休めて、ついと庭へ下りて行った。

鶴見はほほえみながら、老刀自の顔を見て、「あのね。<ruby><rb>家隆</rb><rt>いえたか</rt></ruby>卿の歌にこんなのがあるのだよ。いいかね。――花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや。これなら分るだろう。雪間の草の春と<ruby><rb>一纏</rb><rt>ひとまと</rt></ruby>めにいって、それを都の人々に見せてやりたい。実に好いじゃないか。どうだね」といって、ひとりで感心している。

「わたくしなぞには歌のことなんか分りっこはございませんが、そう<ruby><rb>仰</rb><rt>お</rt></ruby>っしゃられれば、好い歌は好いと思われますね。」老刀自はしかたがなさそうに<ruby><rb>合槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打つのである。

「それで好いのだ。その上に無理に詮索するにも及ばないが、おれには少し思いついたことがあるよ。」

鶴見はそういって置いて、この「見せばや」を問題に取り上げて、歌の成り立ちに関する考をやさしく分らせるにはどういう風に述べて行ったものかと、しきりに思案している。その見せてやりたいという相手は誰だろうか。歌の表の都の人々よりも、先ずもって作者自身ではなかったろうかと思って見る。そこが眼目だと気がつく。気がついて見れば、それでも解決がついたようなものである。「雪間の草の春」は陣痛の<ruby><rb>苦</rb><rt>くるしみ</rt></ruby>を味って自分が生んだ胎児にちがいない。血を引いた個性がそこにあらわれている。もともと雪間の草を発見したのは自分自身である。自分の見方が好かった。正しかったからだとはいえる。しかし分身の胎児は、これを自分ひとりで生んだものと断言することが果たして出来ようか。自分の発見が<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>となって、胎中にあって、ひそかに生態の形が整えられ、そしてかずけられた自然のいのちをちからとして生まれて来たものである。そこで自分ならぬ自分の声が聞えて来る。何といって好いものか、多分それを暗示とでもいうのだろう。その声が「見せばや」である。その声を聞くとともに自分から私というものが取り除かれる。そうなると今までは私のものであった「雪間の春」が直ちに転身して、ひろびろとした自由の世界の空気を呼吸する。その一部分を<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えていえば、ひとりよがりの自慢の手料理が、それどころでなく、立派な饗宴の<ruby><rb>膳部</rb><rt>ぜんぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>向附</rb><rt>むこうづけ</rt></ruby>にもふさわしい滋味を備えたものになるのである。

鶴見はそれだけの説明を分りやすいように<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>いていおうとして見たが、思うようにはうまく行かなかった。ただいつになく熱意の籠っているのが窺われたので、老刀自は黙って聞いていた。鶴見は語りやめたが、その談義が果して終ったものかどうか、それさえよくは分らなかった。そこで老刀自は分ったような、分らぬような顔をしている。

鶴見にしてみても、ここまで来て何か拍子抜けがしたようで収まりがつかない。そう思って結末の文句を探している様子であったが、ふと探しあてたと見えて、かれは改めてこういった。

「まあ、こんなことになるのだろう。今日のこの事に当はめていうと、雪間の草の春は老木の梅の春だね。そっくりそうなるよ。」かれはいい終って愉快そうにからからと笑う。

老刀自はまたはぐらかされるのかと思ったが、鶴見が余り心持よさそうなのを見て、わざとらしくなく共笑いをしている。

鶴見が止めどなく長談議をつぶやいていたうちに、娘の静代は梅の枝を<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>って来て、しばらく<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んでいて、話の終るのを待ち構えていた。言いつけられた小品の花は、もうとっくに活け上げているのである。

花器といっても今ではまるでないも同様である。ただ一つ、焼けた灰のなかから掘り出して来た朝鮮三島の<ruby><rb>瓢形</rb><rt>ひさごがた</rt></ruby>の徳利が残っている。少し<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>はついたがまだ使われるのを惜しんでここまで持って来ているのである。小品はその徳利に挿してある。あしらいには熊笹の小葉を<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かせてある。この熊笹は庭にいくらでも<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えている。それを見たてて取って来たものである。

鶴見はその花について格別批評もしない。ただ時々目を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って、ちらりちらりと見ている。技術というものは理論よりも直接なものである。どうやら見苦しくないだけに出来ている。かれはそう思って花を幾度も見返している。

「花を活け上げた時の心持だね。それを軽く扱ってはいけないよ。存分に活かったと思う時には、それに応ずるだけの心持が、たとえ無意識であろうとも、その作者には感ぜられよう。それが華道の精神というものだ。自然に思い当るところのあるものだから、その心持を忘れずに抱いていなくてはいけないよ。技術ばかりでは本当の修業にはならないものだからな。」

鶴見は娘の静代にそういって<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>していたが、それも終ると、番茶をいれさせて、一口飲んでほっとしていた。

それから<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くたって、鶴見はまた何か忘れていたことを思い起したという<ruby><rb>気振</rb><rt>けぶり</rt></ruby>を見せて、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>の粗末な本立から、去年の日記帳を引きずり出して繰っている。

「あの静岡の乗杉さんね。その後はどうしていることか。こちらからも、済まないとは知りながら、そのままになってしまっているが。」

「ええ。その乗杉さんでございましたのでしょう。あの小さな紙切れに俳句とかを書いて、焼け瓦の間に挿んでお置きになったのを、わたくしが見つけ出して持ってまいりました。それなりになっていますね。」

「おれも今それを見直そうと思っているところだ。あった、あった。その紙切れはここに<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>りつけてあるよ。」

日記にはその日の記事の<ruby><rb>傍</rb><rt>わき</rt></ruby>に紙切れが丹念に貼りつけてある。小さな伝票用紙である。俳句は走り書きにしたためてあって、極めて読みにくい。

万巻の書灰は夏の蝶と舞ひ

そのように判読される。最初は「蝶と飛び」と<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えてあったのを「蝶と舞ひ」に直してある。そういうところも筆あとをたどって見れば、ほぼ推量される。鶴見はその事をひどく面白いように思っている。戦災直後焼け跡に見舞に来て、それだけの余裕を保っていた。その証拠がたまたまこの小さな伝票の上に残されている。鶴見はその事を知って面白いと思っているのである。乗杉の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>も無論同時に<ruby><rb>罹災</rb><rt>りさい</rt></ruby>していたに違いない。いろいろ思い合わせればなお更のことである。俳句の下には吐志亭と署名してある。

「この吐志亭とあるのが乗杉さんの俳号なのだよ。」鶴見はそういって、なつかしそうに、その日その所で伝票を引きちぎって即吟を書きつけている乗杉の姿を想像にえがいている。

この乗杉はもともと静岡市きってのしにせの主人で、眼鏡を<ruby><rb>商</rb><rt>あきな</rt></ruby>って地味な家業をつづけていたが、<ruby><rb>呉服町</rb><rt>ごふくちょう</rt></ruby>の乗杉といえば誰知らぬものもなかった。乗杉はまた地方の民俗から文化史方面のことにわたって、その造詣が深かった。現に戦災の前まで、静岡の新聞に府中の町人史を連載していた。その乗杉が店の方を閉めてから、つい先年まで清水市史の編纂にたずさわっていた。そのうちに戦争が追々不利に陥ったとき、市では市史編纂を閑事業として、<ruby><rb>用捨</rb><rt>ようしゃ</rt></ruby>なく予算を削ってしまった。乗杉はそういう市の処置を歎いていたが、それから間もなくさる会社の事務員を勤めることになった。「万巻の書灰」の句を書くために伝票が使われたのは、そういうわけからである。

鶴見の心のなかでは、今しきりに幻想が渦を巻いている。乗杉がいったように万巻は<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ誇張であるが、<ruby><rb>執著</rb><rt>しゅうちゃく</rt></ruby>の書灰が蝶と化して、その幻想をいよいよ掻きたてて、ちらちらと舞を舞っているのが見えるようである。鶴見は現在自分の内部に<ruby><rb>沸</rb><rt>わ</rt></ruby>き<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>っているこの幻想を、少し離れたところからながめていられるようになっている。それがせめてもの<ruby><rb>心遣</rb><rt>こころや</rt></ruby>りであろう。

  


## 種子開顕

珍らしく<ruby><rb>景彦</rb><rt>かげひこ</rt></ruby>が<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来た。景彦は人には姿を見せたことがない。ただ鶴見にだけはその面影が立って見えるのである。笑いもするし、怒りもするし、また<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>にもなる。その度ごとに<ruby><rb>速</rb><rt>すみやか</rt></ruby>に変る表情を鶴見は目ざとくたどって、少しく不気味に思うこともある。どうかすると彼は神々にも鬼畜にも、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちのうちに変貌する。常に分身であり、伴侶であり、かつまた警告者である。気随気儘なしれもので、いつ遣ってくるとも予想されない。とにかく彼の行動は出没自在である。きょうもどこからともなく、ついと入り来って鶴見と対座した。

鶴見も心得ているので、微笑しながら、「やあ、暫くだったね」といって彼を迎えた。

「暫くでした」といったきり、景彦はあいそもこそもない態度を取っていたが、ふと気附いたという口振で、「いや、あなたも随分不自由な生活をしてお<ruby><rb>出</rb><rt>いで</rt></ruby>になる。お気の毒だと思って、つい控え目になったのです。」

鶴見はいった。「そんなお人柄かい。おれがまだ農家に転出していた時のことだ。覚えているだろう。しかも夜半だった。おれは小用をしに立って、<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>戸</rb><rt>ど</rt></ruby>の<ruby><rb>桟</rb><rt>さん</rt></ruby>をはずして表に出る。暗さは暗し、農家のこととて<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>は外に設けてある。ちょうど<ruby><rb>雨滴落</rb><rt>あまだれお</rt></ruby>ちのところで物に<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>いて<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けに倒れたね。そして後頭部をしたたか打った。おれはその時死ぬ思いをして苦しんでいたのだ。そこへ君がひょっこり遣って来て、何をしていたかね。手一つ貸そうともせずに、ただ傍観して、冷やかに見おろしていたじゃないか。それだのに、きょうはまた余りに殊勝らしいね。でも好いよ。冗談でも何でも好いから話し合おう。まあ、ゆっくりするさ。」

「そうですか。あの時のことですか。あなたがあれぐらいのことで、ほんとうに死ぬものとは信じていなかったからです。ちと<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>すぎましたな。それはそうとして、この窮屈な世の中で困った困ったといったって方図がありません。ないものもあるようにしたいものですが。」

「不可能を可能にするのかな。これは皮肉でも何でもないよ。おれもな、ないものをあるようにしようと試みたことがあるのだ。」

「へえ。それは聞きものですね。」景彦はそういって妙な顔つきをして見せる。

「まあ、聞いてからのことだ。それからおれの発明ぶりを讃歎するなり嘲笑するなり、勝手にしろよ。手っ取り早くいえば、おれは酒の代用品を思いついたのだ。どんな思いつきだというのかね。それはもとより簡単だ。直接でもあり純真でもあるようなものはいつでも簡単なのだ。どうも代用品としてはそうなくてはならぬように思われる。余り技巧を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らさぬところに実用価値があるからな。それはこうだ。番茶を熱く濃く出して、<ruby><rb>唐辛子</rb><rt>とうがらし</rt></ruby>を利用して調味すること、ただそれだけの手順で結構<ruby><rb>刺戟性</rb><rt>しげきせい</rt></ruby>に富んだ飲物が得られる。この節酒が容易に見当らないからな。自慢だが、この代用品はどうしたものだろう。」

「なんだ。おおかたそんなものかと思っていました。人を馬鹿にしたものですね。あなたはそれで満足ができるのですか。」

「満足どころか、今もいった通り、自慢物なのだよ。」

景彦は口の端を引き<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めて、今にも痛烈な皮肉が飛びだそうとするのを制しているようなもどかしさを感じながら、思わず片目をつぶって、まじまじと鶴見を見ている。

鶴見はひとりで興に乗って語り続けた。「その発明をしたのは戦災前の事だがね。何か防空設備のことで一軒おいたとなりの箱職の主人が遣って来た。親分肌で、体は小柄であるが才気が勝っている。それで人の嫌がる組長を引き受けて勤めているのだ。おれがその男に今いった通りの酒代用品のことを話して見た。――そんなことで、やっと我慢しているが、確かに<ruby><rb>利目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>があるから、一時のごまかしとも違うなんどと、おれはその時強調していい足したことででもあったろう。あとで家のものに聞くと、その組長の親分が、しみじみと、それじゃ旦那も<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうだといったそうである。その親分はね。やっぱり酒好きで、一週に二度ぐらい、夜になってから女房に隠して、どこかへ無理をして酒飲みに出掛けるということであった。おれはこれを聞いて、可哀そうな旦那はよかったと思った。そう思うと、心の底からおかしさが込み上げてきたよ。<ruby><rb>渋江抽斎</rb><rt>しぶえちゅうさい</rt></ruby>は<ruby><rb>鰻酒</rb><rt>うなぎざけ</rt></ruby>というものを発明したそうだが、おれの南蛮渋茶の方がうわ手だな。だれか南蛮渋茶を飲み伝えてくれる人々がありそうなものだがね。」

「随分おめでたい話ですな。もう好い加減にしておつもりにしましょう。」

「何ね。そんなに<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れをきらさないで、もう少し我慢して聞いているのだね。しかし今度は本物の方だよ。」

鶴見はますます乗り気になって長話をはじめた。

その長話というのはこうである。鶴見はそれが夏時分であったということを先ず<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い<ruby><rb>起</rb><rt>おこ</rt></ruby>す。自家用の<ruby><rb>風呂桶</rb><rt>ふろおけ</rt></ruby>が損じたので、<ruby><rb>直</rb><rt>なお</rt></ruby>しに出しているあいだ、汗を流しにちょくちょく町の<ruby><rb>銭湯</rb><rt>せんとう</rt></ruby>に行った。鶴見にはその折の情景がようように<ruby><rb>象</rb><rt>かたち</rt></ruby>を<ruby><rb>具</rb><rt>そな</rt></ruby>えて喚起されるに従って、その夏というのは日華事変の起ったその年の夏であったように思われてくる。

或る日のことである。晩方早目に銭湯に出掛けて見ると、浴客はただ一人ぎりで<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>に<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>っていた。ほどよく沸いた湯がなみなみと<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えられて、淡い蒸気がかげろうを立てている。その湯のなかで、肌の<ruby><rb>生白</rb><rt>なまじろ</rt></ruby>い男が両手をひろげて、泳ぐような真似をしていたが、鶴見を迎えて「静岡は水道が好いので水がこんなに澄んでいる。それにこの水の柔らかさときたらたまりませんな」と話相手欲しそうにいった。

鶴見はこの男を貨物の注文を取りに来たか<ruby><rb>買出</rb><rt>かいだし</rt></ruby>に来たか、そんな用事で、近所の商人宿に泊っているものだろうと思って見た。

その男と話しているうちに、何かの<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>から、話は琉球の<ruby><rb>泡盛</rb><rt>あわもり</rt></ruby>のことに移った。最近その泡盛を飲ませる店が、この風呂屋の<ruby><rb>向横町</rb><rt>むこうよこちょう</rt></ruby>に出来て、一杯売をしている。鶴見もついさっきその店の前を通ってきたのである。スタンドの上にコップが数個並べてあり、その前に椅子が二、三脚置いてあるのが見える。設備といえばただそれだけに過ぎない。一杯売の外には多量に分けられぬというのを、近所の<ruby><rb>誼</rb><rt>よし</rt></ruby>みでと無理に頼み込んで、時々一升<ruby><rb>壜</rb><rt>びん</rt></ruby>を持たせて買いに遣る。鶴見は<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の飲物としては<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>を用い、焼酎よりもこの泡盛が何よりの<ruby><rb>好物</rb><rt>こうぶつ</rt></ruby>である。

泡盛の話を最初にしかけて来た商人風の男も、だんだん聞いてみると、この横町の店に毎日通っているということが分った。きょうは既に一杯引っ掛けて来たらしく、手附や話振にどこやら酔態があるようにも疑われる。そのうちに浴客がたて込んできたので、鶴見はそこそこに湯から上った。もっと詳しく話を聞けば同気相求めて佳境に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>ったでもあろうにと、それなりになったのを、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くちお</rt></ruby>しくも思っている。

泡盛の前話はそれで終る。しかるに鶴見の記憶は<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>の作用を起して、この時はからずも往年の親友の一人が鮮やかな姿を取って意識の表に押し出される。ここに泡盛の後話が誕生する。

その親友の一人がにこにこと笑って、「おい居るか」といって不遠慮にはいって来る。鶴見がここで親友といっているのは<ruby><rb>岩野泡鳴</rb><rt>いわのほうめい</rt></ruby>のことである。

泡鳴はいきなり、「これから一風呂浴びに行こう。どこか近所に銭湯があるだろう。」

それはやはり暑さの<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい夏の午後のことであった。

鶴見は泡鳴を案内して行きつけの風呂屋に出掛けた。<ruby><rb>能登湯</rb><rt>のとゆ</rt></ruby>といって、その頃は入口の欄間に五色の<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>が装われていた。それだけやっと近代化した伝統のある家で、<ruby><rb>浅葱</rb><rt>あさぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を昔ながらにまだ懸けていたかと思う。そこの若主人は鶴見の学校友達であった。

鶴見は湯につかりながら、もとはこの湯槽の前を絵板が<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>め込みになっていて、そのために湯槽はその高さの<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>を覆われて、外から内を見透すことは出来ない。絵板はあくどい彩具で塗られている。それを<ruby><rb>柘榴口</rb><rt>ざくろぐち</rt></ruby>といって、そこを<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って、足掛の<ruby><rb>踏段</rb><rt>ふみだん</rt></ruby>を上って、湯槽にはいるのである。自然湯槽は高くなっている。今のように低くなったのを温泉といっていた。そんなことを想いだすままに泡鳴に説明した。また鶴見の<ruby><rb>稚</rb><rt>おさな</rt></ruby>かった時分には、<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>二階に意気な婆あさんがいて、折々三味線の音じめが聞える。町内の<ruby><rb>若衆</rb><rt>わかいしゅ</rt></ruby>を相手に<ruby><rb>常磐津</rb><rt>ときわず</rt></ruby>でも<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>っていたのだろう。<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>の後身かも知れない。そのこともついでにいわずにはおかなかった。

鶴見が泡鳴を案内した風呂屋はそういういわれのあるところであった。

しかし鶴見に取って問題は別なところにあった。泡鳴は何故だしぬけに鶴見を銭湯に案内させたか。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>そこには、日盛りを歩いて来て汗をかいた。その汗を洗い落しに行くというだけの理由はある。それは認めて好い。むしろ分り過ぎるくらい分っているが、それだけでは納得されない。泡鳴の日常を知るものならば、何が彼を<ruby><rb>唐突</rb><rt>とうとつ</rt></ruby>な行動に導くか、その行動の結果がどのように彼の生涯を<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>るか、それについての推量はほぼつくことである。泡鳴には常に動いて止まぬ好奇心がある。その発作は自然でもあり、また異常でもある。この矛盾を即座に生ずる烈しい衝動が、その力を以て混同する。そこに泡鳴の行動が彗星の如く出現し発光する。彼に対する批評はいつでもこの衝動的な実行に向けられる。一度念頭に湧き上ったものを、<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>くも<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しくも、直ちに実行する。泡鳴の生活はそれほどまでに簡単である。他人の批評はそれでも気にしていたが、決してそれによって動かされることもなかった。彼の経験は、とにもかくにも、そういうような道をたどって累積せられたのである。

泡鳴が衝動的行動を取るとき、もとよりそこに一分の余裕を持っていたはずはない。ただ彼の作家かたぎが、彼をして後からその行動を豊富な経験として客観せしめた。そうでなければ、彼の生涯は悲壮な色を極度に帯びていたに違いない。しかるに彼は存外楽観的であった。それが慣習となって、その効果が一面<ruby><rb>抜目</rb><rt>ぬけめ</rt></ruby>がなく如才のない性格を彼に附与した。それがために時としては<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>とさえ思われた。

泡鳴はいつも物質に<ruby><rb>惑溺</rb><rt>わくでき</rt></ruby>していて、その惑溺のうちに恋愛と神性とを求めていた。彼は暫くも傍観者として立ってはいられなかった。人生に対する観察はいよいよ手馴らされ、皮肉になり、それと共に彼の好奇心は<ruby><rb>弥</rb><rt>いや</rt></ruby>が上にも昂進して行った。

鶴見はこの頃になって、泡鳴をバルザックに比較して考えて見るようになった。両者の間に相似点がある。押詰めて検討して行けばおもしろかろうなどと思っている。

泡鳴の晩年にはそういう状態が既に熟していたが、鶴見を銭湯に促がした時分の泡鳴にも早くそれらの傾向は現われていたのである。好奇の心を養うためには犠牲を要する。その犠牲に手を<ruby><rb>伸</rb><rt>のば</rt></ruby>す<ruby><rb>貪婪</rb><rt>どんらん</rt></ruby>さを彼ぐらい露骨に示したものも少かろう。鶴見が銭湯に<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>われたのを犠牲と呼ぶには当らないが、どういうものか、そういうような気持がふと心のなかを<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて行った。<ruby><rb>僻目</rb><rt>ひがめ</rt></ruby>であろうかと恐れたが、それかといって、その疑を払拭する反証をも捉え得なかった。

鶴見は気張って、痩っぽちの裸体を風呂屋の洗い場で彼に見せてやった。

銭湯からの帰りしなに、泡鳴は満足げにぶらぶらと歩いていたが、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに気がついたと見えて、煙草を買いに、とある雑貨店に立寄った。その店先に、「琉球泡盛あり」と<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>もなく書いた<ruby><rb>貼紙</rb><rt>はりがみ</rt></ruby>が出ている。コップ飲をさせるというのである。鶴見はそれが場所にふさわしくないので多少不安におもっている。

泡鳴はその貼紙に目をつけて、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>にこういった。

「おい、君。一杯やってゆこう。」

「それも好かろう。」鶴見はそういって彼の要求に応ずるより外はなかった。そしておれはまた<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>われたなと感じた。ちょうど手網にかかった<ruby><rb>雑魚</rb><rt>ざこ</rt></ruby>のようにも思われたからである。

こういうような<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>な行動で、泡鳴は人生の機微を捕える。工夫といって別段の方法があったようには考えられない。

湯上りの泡盛は<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に旨かった。

木曾旅行の途次、<ruby><rb>贄川</rb><rt>にえかわ</rt></ruby>の宿で乗合馬車が暫くのあいだ<ruby><rb>停</rb><rt>とま</rt></ruby>っていた時のことである。折から鉄道工事の最中なので、大勢集っていた工夫たちにまじって、名産の「ななわらい」を一杯試みた。今湯上りの泡盛が、鶴見にそれ以来の快味を覚えさせたのである。

長話はここで尽きた。黙って聞いていたはずの景彦はいつしか姿を消している。鶴見にはそれを少しでも気にかける様子はなかった。

長話の後で鶴見はまた別な事を勝手に想い浮べている。

戦災後十日ばかりもたってからのことであったろう。鶴見は所用があって、焼け跡の静岡市に出掛けた。町内で班長を勤めていた人に逢って、始末をつけておくべき要件を持っていたが、その人の<ruby><rb>立退先</rb><rt>たちのきさき</rt></ruby>が分らなかった。それが少し見当がついたので、そのあたりを尋ねて見た。いくら捜しても尋ねあたらない。鶴見は諦めて、疲れ切った体を持て余すようにして足を引きずっていた。

その辺は安東といって住宅地である。大部分は焼け残っている。<ruby><rb>浅間社</rb><rt>せんげんしゃ</rt></ruby>の花崗岩の<ruby><rb>大鳥居</rb><rt>おおとりい</rt></ruby>の立っている<ruby><rb>長谷通</rb><rt>はせどおり</rt></ruby>も、安東寄りの片側はおおむね無事である。その通をがっかりして戻って来ると、平常に変らず店を開けている古本屋が先ず目についた。

小さな店のなかは立読みなどをしている青年たちで込み合っている。焼けあとの<ruby><rb>形</rb><rt>かた</rt></ruby>づけさえ<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ない状況のさなかで、一方ではこのありさまである。その光景にひどく驚いたが、店の主人は<ruby><rb>顔馴染</rb><rt>かおなじみ</rt></ruby>でもあるし、鶴見にしてからがその店の前は素通りにはできなかった。恐らく市内でここがただ一軒残った古本屋であるかも知れない。そう思って見るとなお更のことである。

鶴見は店にはいって、いつもするように書棚の前に立って、ぎっしり詰めてある本を仔細に調べて行こうとしたが、それを為すだけの根気も既に失せていた。目がちらちらする。精力の尽きているのを知って、鶴見は我ながら情なくなる。それでも多数の書のなかから三冊を選んで購って来た。

その三冊というのは、<ruby><rb>真淵</rb><rt>まぶち</rt></ruby>の評伝と、<ruby><rb>篤胤</rb><rt>あつたね</rt></ruby>の家庭や生活記録を主として取扱ったものと、ロオデンバッハの『死都ブルウジュ』の訳本とである。

鶴見はやっとの思いで、転出先の農家に帰り著いた。そして手に入れた三冊の本を机の上にならべて見た。これが果して自分で選び出して来たものか、どうしてもそうとは思われない。まるでちぐはぐで三題話の種にもならないじゃないか。鶴見は例の癖で自嘲の念に駆られながら苦笑した。

とにもかくにも、鶴見はこの三冊の外には読み物を持たない。それで先ず真淵から手をつけた。

真淵に「うま酒の歌」というのがある。

うまらにをやらふ（喫）るがねや、一つき二つき、ゑらゑらにたなぞこ（掌底）うちあぐるがねや、三つき四つき、言直し心直しもよ、五つき六つき、天足し国足すもよ、七つき八つき。

評伝はこれを引用して置きながら、その歌には余り価値を認めていない。鶴見は一読して感歎した。それから毎日のように<ruby><rb>口誦</rb><rt>くちずさ</rt></ruby>んでは、そのあとで沈思しているのである。

鶴見にはこの歌につき別に思い出があって、それが<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みついて、その印象をますます深くしている。それというのは、先年静岡市の図書館で名家墨蹟記念展覧会が開催されたことがある。その会場で真淵の横幅物を見た。浜松の某家からの出品である。鶴見はその幅の中で、一度この「うま酒の歌」を知っていたからである。知ってはいたが<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>十年も昔のことである。忘れていたといっても好いぐらいである。よく練れた温雅な薄墨の筆蹟で、いかにも調子は高いが、どこまでも静かにおち<ruby><rb>著</rb><rt>つ</rt></ruby>いていて、そこにおのずから気品が備っていたように覚えている。

この「うま酒の歌」が重ね重ねの機縁となって鶴見を刺戟した。刺戟されたのは久しく眠っていた製作欲である。鶴見は物に<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれでもしたようになって、しきりにそれを不思議がっている。

しかしまた鶴見はそれを恐れもした。こんな時に景彦がやってきて反撃するかも知れぬということを恐れたのである。不思議不思議と<ruby><rb>言</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>ってみても、そのなかからは何も出て来ないのだ。実行だよ。不思議というのは実行の成績に待つべきものだ。こういっておれを言下に痛罵するかも知れない。

<ruby><rb>杜甫</rb><rt>とほ</rt></ruby>に「飲中八仙歌」がある。気象が盛んで華やいでいる。<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて<ruby><rb>較</rb><rt>くら</rt></ruby>べるのではないが、真淵の「うま酒の歌」においても同じことがいえる。そこで鶴見はこう考えている。詩には何を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いても気象が立っていなければならない。<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>高いすがたである。どんなに柔艶な言葉を弄しても、底の底から<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆる</rt></ruby>ぎのないいきざしが貫き通っていなくてはならない。それを気象が立つというのである。おのずから生の華やぎが作品の表に見えて来ねばならない。それがないのは<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>飢えた詩である。そんな考が不意に<ruby><rb>射出</rb><rt>いだ</rt></ruby>した<ruby><rb>征矢</rb><rt>そや</rt></ruby>のように、鶴見の頭脳のなかを一瞬の間に飛び過ぎた。

戦災にかかってからは、いや更に荒されたまま、<ruby><rb>痺</rb><rt>し</rt></ruby>びらされたままになっていた頭脳が、ここに<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く本然の調子を取り戻す機会を得たことになる。この回復の徴を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>した「うま酒」はあたかも霊薬の如きものであった。霊薬の効験は著しかったといって好い。鶴見はそれをよろこんで、将来に何物をか期待する予感を抱くようになった。

今直ぐに手を伸せば把握される何物かがあるようにも思われる。さてそれがどこに<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいるかは分らない。鶴見は依然として坐ったまま黙りつづけている。そうしている間に、この日もまたいつしか暮れて、電燈が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

鶴見たちが世話になっている家は、農家の常とて、表口から裏口にかけて、突き抜けていて、その空所が広い土間である。この家では、その土間の中ほどより裏口に近いところに大きな食卓を据え、その周囲に腰掛が置いてある。食事のおりにはめいめいが<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まった席に順序に著く。電燈を点けることが、おおかた夕食開始の刻限になっている。

今晩も電燈が点いたので、鶴見は<ruby><rb>出居</rb><rt>でい</rt></ruby>から<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>に降りて、定めの椅子を引き出して腰をおろす。鶴見の席は卓の幅の狭い側面を一人で占めることになっているのである。家族の人々は老人夫婦をはじめ出揃っている。

この家の古い建築の仕方から見れば、いま食卓の据えてある土間の奥に<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>が<ruby><rb>築</rb><rt>きず</rt></ruby>かれていて、朝夕に赤い火が燃えていたものと推測される。<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>が<ruby><rb>建増</rb><rt>たてまし</rt></ruby>になってから、三つ続きの大きな竈もその方へ移されて、別に改良した煉瓦の竈も添わっている。内井戸も出来て、流し場も取りつけられ、すべては便利になっている。

それで電燈は、出居と<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>との仕切の<ruby><rb>鴨居</rb><rt>かもい</rt></ruby>に<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>を打ちつけて、その釘にコオドを引き掛けてあるのを、夕食のおりだけはずして来て、食卓を側面から照らすように仕向けるのである。囲炉裏の間ともとは台所であったらしい部屋とのあいだには大きな柱が立っていて、<ruby><rb>大黒柱</rb><rt>だいこくばしら</rt></ruby>と向い合いになっている。その柱をこの辺で、うし柱といっている。電燈はそのうし柱のすぐ<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に掛けられる。丁度鶴見の席の背後になる。そんなわけで、そこに火の点く時が食事をはじめる合図になるのである。

この家の主人は、おかたが抱えて来て卓上に置いた大鉢に盛ったものを、二つずつ分けてわれわれの前にならべてある皿の上にも配って廻る。紡錘形のにこやかな物である。蒸し芋である。

主人は鶴見にこっそりいった。「きょうは一月遅れの<ruby><rb>七夕</rb><rt>たなばた</rt></ruby>ですから、<ruby><rb>初穂</rb><rt>はつほ</rt></ruby>として早出来の甘藷を掘って見ました。」

こういって、主人は自席へ戻って行った。

ほほえましい空気が一座の人々の心を<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>めずにはおかない。誰の顔を見ても微笑の影が漂っている。

鶴見ははからずもこの事に感興を得て、数日の後に一篇の古調を<ruby><rb>賦</rb><rt>ふ</rt></ruby>した。全くの異例である。病人に食慾が出てきたようなものだといえばそれまでであるが、鶴見はそれを今以て不思議がっている。

国足らす畑つ益芋（ますうも）、

をしげなく早めに掘りて、

初穂をば<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けたまへと、

たなばたのまつりに供へ、

<ruby><rb>家刀自</rb><rt>いへとじ</rt></ruby>はそがあまり

鉢に盛り、うからにぎはす。

主人（あるじ）は皿に取りわけ、

われらにもいざとすすめぬ。

土をいでて時もあらせず、

このうもの蒸しのうましきや。

まろらに、にこげに、

食うべぬさきよりぞ

おのづからほほゑまる。

うべ、うべ、<ruby><rb>味</rb><rt>あぢは</rt></ruby>ひのよささや。

身ゆるび、心またたのしぶ。

み国はし今<ruby><rb>危</rb><rt>あやふ</rt></ruby>きに立ち、

たたかひは言はむやうなし。

きのふはそれの都市焼かれ、

けふはこれの港くやさる。

われらもかたのごとく、

まがつみの火に追はれ、

ここの家をひとへにたのみ、

せぐくまり、かがまりてあり。

しかあるに、この<ruby><rb>幸</rb><rt>さち</rt></ruby>、この芋。

うち食むに、ゑみくづほるるかなや。

うまらや、うまらや、

老もなどおちざらめやも。

神むすび、高みむすび、

その神の神わざ、

<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>さしていくばくもあらぬに、

宝うもかくも成りいづ。

くすしきは神のみちから、

たくましきは農人のつとめ。

この辛き、烈しき日々を

すこやかに生きねと、

言はいはねども、

この芋のわれらうながす

その<ruby><rb>諭</rb><rt>さとし</rt></ruby>、よく聞け、

よく味へ。

日の照らす畑よりとりし益芋の

<ruby><rb>幸</rb><rt>さき</rt></ruby>はふさとしよくきけ、

わが子。

このからきいらだたし世を

足らはすや、芋のひとつさへ

たふときろかも。

鶴見は<ruby><rb>控帳</rb><rt>ひかえちょう</rt></ruby>を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めて見た。控帳には当時この長歌を書き放しておいたきり、まだ題名さえも附けていなかった。それをありのままに「蒸しうもの歌<ruby><rb>並</rb><rt>ならびに</rt></ruby>反歌」と書き添えて、それなりに控帳を<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>して、<ruby><rb>擲</rb><rt>な</rt></ruby>げ<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てるようにして、側の方へ<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>し<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>った。そしてちと長たらしいなと<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いている。どこかにこだわりがあるらしい。

この時、突如として、からからとよく響く<ruby><rb>天狗笑</rb><rt>てんぐわらい</rt></ruby>の声が聞えて来た。景彦が意地悪げにこの場に出現して来たのである。

「とうとうあなたも真相を暴露しましたな。蒸し芋の歌なぞ、あれは好い加減なしろ物です。それにご自慢とは。」

「言え、言え。なんとでも言うが好かろう。おれは自作の歌の巧拙を今問うているのではないのだ。おれはだ。一たん荒廃した頭脳のなかにも、いつの代にかこぼれた<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>が<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>もれていて、それが時に触れて、けちな芽を出し貧しい花を咲かす。そういうこともあって好さそうに思うからだ。いや、それだけではすまされないのだ。そういう筋道を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>めて行けば、思想の開顕という概念が得られそうに思うからだね。真淵の「うま酒の歌」にしろ、あれをおれが推奨するのは、そこに思想の開顕が見られるからだ。『万葉』の大伴卿の「<ruby><rb>讃酒歌</rb><rt>さけをほむるうた</rt></ruby>十三首」にしても同事だ。いずれもが教養の高さと修錬の深さとを示している。真美の芸術はそういう境地に生い立ち呼吸するものだよ。そこでだね。芸術における思想の開顕ということは単なる伝統の復興ではあり得ない。それはむしろ伝統を超越しているのだ。思想の種子のなかに永遠の生命が<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>められている。そこの道理を了解して不易というのも可なりじゃないか。おれは今そんなことを考えているのだ。」鶴見はいつになく強気になる。

景彦はそれをまた苦々しく思った。

「そうですか。それではあなたも、その高い教養とやらの重荷を背負っている一人なのですな。窮屈ではないでしょうか。」

「いや。おれだって多少の教養は持っているよ。そうだね。それを重荷とも思っていないが、そのちとの教養のためにとかく自省心が起りがちで、実践力が鈍らされる。それは認めるね。それかといって、教養を欠いては本当の芸術の芽も出ないのだ。矛盾といえば矛盾さ。例えばだね。あの『万葉』の東歌だ。あれなどもその時代の教養人が、遠国にいて、その地方の俗言を取り入れたものだ。ただ名もなく教養もない人々の手で、いわゆる素朴と直情だけで、あの東歌が成ったものとは、おれは信じていない。教養とはそんなものなのだ。この教養が製作を促がすと共に実行を妨げる。この矛盾には悩まされるよ。」

「あなたもかぶとを脱ぎましたね。その自省心とかが<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>ですよ。」

「そうだ。過度の自省心は確に曲者だ。」

「そんなことを繰り返していって見たところでなんにもなりませんよ。そのうちに妥協して万事を解決しようとでもするのですな。そんな言訳なぞするようなことをせずに、<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>いものは拙いものとして、堂々と吐き出してしまったらどうです。そして心を新たにするのですな。」

景彦は何か腹に据えかねるというように、けしきばんで、たちまちに影を隠してしまった。

取り残された鶴見は、景彦に大きな<ruby><rb>翼</rb><rt>つばさ</rt></ruby>があって、そのひと羽ばたきで<ruby><rb>払</rb><rt>はら</rt></ruby>い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けられるような強い衝撃を受けたのである。

  


## 「朝目よし」

ここ数日はつづいて梅雨時のような天気<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>である。

夕がたに少し晴間が見えるかと思うと、夜分はまた<ruby><rb>陰</rb><rt>くも</rt></ruby>り、明がたには雨がさっと通りすぎる。そして朝からどんよりしていた空が午後はいよいよ暗くなって小雨が降り出し、晩景にはちょっと<ruby><rb>雲切</rb><rt>くもぎれ</rt></ruby>がして夕日が射す。不定な気象がそんな調子でぐずついている。

それがどうだろう。きょうは鶴見が朝早く目を覚してみると、もうとうに鮮かな日光が西の丘の小高い頂を輝かしている。いつもの通り座敷を掃除させて、机の前に端坐し、そして向うを眺めて好い気持になっている。端坐するということは、鶴見にはいつからか癖になっているので、厳格な意味でわざわざそうするのではない。一つは子供の時からの家庭の<ruby><rb>躾</rb><rt>しつけ</rt></ruby>によるのであるが、父が言葉少なに忍耐を教えた指導法が、どんなにストイックなものであったかはさて<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、そうするのが、つまり彼には勝手になっていたからである。長時間坐っているのには、あぐらを組むよりも正坐が好ましい。合理的でもある。鶴見はそう思って、机に向うときはいつも正坐をする。<ruby><rb>書見</rb><rt>しょけん</rt></ruby>をするにも体が引締められて、まともに本が読める。長年にわたるそうした経験が今ではならわしとなって身に附いているのである。

鶴見は<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を開け放ったまま、朝の空気を心ゆくばかり静かに吸っていた。そしてこう思った。<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかな空気なら遠慮なくたっぷり吸える。いくら吸っても尽きることはない。乏しい煙草をがつがつ吸うよりも<ruby><rb>遥</rb><rt>はるか</rt></ruby>に増しだと思っているのである。

彼も若い頃は<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の愛煙家であったに違いない。少し<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>み過ぎたと気が附いて、止めようとして、<ruby><rb>初手</rb><rt>しょて</rt></ruby>は誰でもする代用品を使ってごまかした。それではいけない。たとえ代用品であろうが、その方へ手を出すのがいけないのである。煙草がなかなか止められないのはこの手を出すという習慣が止められないからである。代用品であっても、見ずにいられるように手を出さずに済ましていられるようになることである。こうやってみても絶対に禁煙するまでになるにはおよそ一年かかった。

薄志弱行になりがちな彼にもなお我慢と忍耐とが、痩せた体のどこやらにその力を<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めていたのであろう。鶴見はこれも父から受けた沈黙の実践によって養われて来たものと反省してありがたく思っている。

この朝の久しぶりの好天気、それが鶴見には何よりもうれしかった。物を書くにも陽気の変化が直ちに影響する。年を取るにつれて、それがますます<ruby><rb>著</rb><rt>いちじ</rt></ruby>るしくなって来た。何よりも望ましいのは好天気である。鶴見はいう。

「こう<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>っていて、新鮮な空気を思う存分吸っていると、おれの精神も<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに羽根を<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>やして、<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>の寄ったこのからだを抜け出して、あの日光を浴びて、自由に飛んで行って、舞い遊んでいるような気分になる。まあ一口で言えば仙人修行が積んだというかたちだね。実際そういう修行をした人が昔から日本にだって幾らもあったのだ。おれも禁煙で煙草は楽になったが、もう一つ代用食にも手を出さずに済ます工夫はあるまいかな。気を吸って心を養うのだ。わけなさそうだが」といって高笑いをする。

庭木のうちでは<ruby><rb>槙</rb><rt>まき</rt></ruby>がいちばん大木であり、<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>も高い。朝日が今その<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>を照し出している。<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>はうっとうしいくらい繁って来たが、それでもけさは青葉の色が<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>るように見える。

<ruby><rb>縁先</rb><rt>えんさき</rt></ruby>の左横手に寄って<ruby><rb>柘榴</rb><rt>ざくろ</rt></ruby>が<ruby><rb>臥</rb><rt>ふし</rt></ruby>ている。この柘榴は槙にも劣らぬ老木である。<ruby><rb>駱駝</rb><rt>らくだ</rt></ruby>の背の<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>のような枝葉の集団が幾つかもくもくと盛りあがっている。そして太い幹が地を<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>って<ruby><rb>遠呂智</rb><rt>おろち</rt></ruby>のうねりを思わせるが、一<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>ばかり這って、急に頭を斜に上の方へと<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ちあがらせている。土を破って地上に<ruby><rb>曝</rb><rt>さ</rt></ruby>らされた根株は、大風雨の日に倒されたときのままに置かれてあるのであろう。その根元近くから幹の分れの大枝が出て、これも本幹に添うて斜に腕を押し伸べている。その上に密生して<ruby><rb>簇</rb><rt>むらが</rt></ruby>っている細かい枝までがこの木特有の癖を見せて、屈曲して垂れさがり、その<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>を一せいに<ruby><rb>撥</rb><rt>は</rt></ruby>ねあげる。柘榴の<ruby><rb>木立</rb><rt>こだち</rt></ruby>の姿はそういうところに、魅力がある。

今は季節であるから盛に若芽をふいているが、仔細に見ると、老木の割に若芽がひどく<ruby><rb>競</rb><rt>せ</rt></ruby>り<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>い過ぎるように思われる。鶴見は<ruby><rb>颱風</rb><rt>たいふう</rt></ruby>で一度倒されたということを聞いたのみで、その後の状態については知らされていない。想うに、樹勢は一時衰えていて、それが追々に回復して来たというように見られる。今年は極めて威勢が好い。<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちのうちに若葉が<ruby><rb>重</rb><rt>かさな</rt></ruby>って幹の大半を隠してしまう。花つきの悪いのはそのためであろう。それでも若葉の底の方の、思いもかけぬところから<ruby><rb>真紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>の花の<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>が<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>く。二つ三つ咲きかけたのもある。

そこへ<ruby><rb>翅</rb><rt>はね</rt></ruby>の白い<ruby><rb>蝶</rb><rt>ちょう</rt></ruby>がいちはやく訪れて来て、ひらひらと羽ばたいて、花に<ruby><rb>即</rb><rt>つ</rt></ruby>いたり花を離れたりして、いつまでも花のあたりを去りかねて飛び廻っている。

そのうちに朝日は柘榴のこんもりとしてそっくり繁って行く若葉の端々を<ruby><rb>唐棣色</rb><rt>とうていしょく</rt></ruby>に染め出し、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くにして<ruby><rb>濡縁</rb><rt>ぬれえん</rt></ruby>にも及んで来る。

鶴見はこうやって濡縁に及ぼして来た朝日の<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>どりを<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かにながめていたが、やや暫く立ってから、ふと昨夜読んだ本のことを思い起した。

「おお、そうであった。<ruby><rb>朝目</rb><rt>あさめ</rt></ruby>よしだ。」太い息をつくようにして、ただそれだけのことをいって、また目をつぶった。

鶴見が読んだというのは『死者の書』である。

その本のなかでは世に<ruby><rb>流伝</rb><rt>るでん</rt></ruby>している<ruby><rb>中将姫</rb><rt>ちゅうじょうひめ</rt></ruby>の物語が、俗見とは全く違った方角から取扱われている。『死者の書』は鶴見が数年前から見たいと心がけていながら、手に入れ難かった本の一つである。それを昨夜はゆっくり<ruby><rb>繙</rb><rt>ひもと</rt></ruby>くことが出来た。感得という言葉はこういう場合に使われるのであろう。彼はそう思って丁寧にその書を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>して行った。すべてが調子を<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>にしているので、初のうちは少し取り附きにくい。それでも頁が進んで来るままに、文義を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>うているかの如く見えた闇から脱して、読者はふいときらきらしい別天地に放り出される。今までにはあり得なかった<ruby><rb>暁</rb><rt>あかつき</rt></ruby>が開けて来る。鶴見もまた、藤原<ruby><rb>南家</rb><rt>なんけ</rt></ruby>の一の<ruby><rb>嬢子</rb><rt>じょうし</rt></ruby>と共に風雨の<ruby><rb>暴</rb><rt>あ</rt></ruby>れ<ruby><rb>狂</rb><rt>くる</rt></ruby>う夜中をさまよいぬいた<ruby><rb>挙句</rb><rt>あげく</rt></ruby>の果、ここに始めて言おうようなき「朝目よき」光景を迎えて、その驚きを身に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みて感じているのである。

鶴見は今『死者の書』の中でその事を叙述してある一段を想い起して太い息をつく。<ruby><rb>迢空</rb><rt>ちょうくう</rt></ruby>さんが姫に考えさせた「朝目よし」の深い意義が彼が身にも<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>と伝って来るからである。姫の抱懐する心ばせには縦横に織り込まれる複雑な文彩が動いている。創造の意義である。それゆえに微妙であり清新である。その意義は絶えず生長して行く。

人間には執心というのがある、この事ばかりはどんな<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りがあっても朽ちさせまいとする念願がある。それがやがて執心である。<ruby><rb>子代</rb><rt>こしろ</rt></ruby>もなく<ruby><rb>名代</rb><rt>なしろ</rt></ruby>もないその執心は、いわば反逆者の魂となって<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>え苦しむ。その執念を晴らそうとして、変遷推移する世代から、犠牲の座に据えられた第一人者を選んで、いつでも<ruby><rb>憑</rb><rt>よ</rt></ruby>りつき乗りうつる。迢空さんはそういっているのである。

犠牲者はその時から献身者の地位に立たされねばならなかった。<ruby><rb>繭</rb><rt>まゆ</rt></ruby>に籠っていた<ruby><rb>蛹</rb><rt>さなぎ</rt></ruby>が<ruby><rb>蛾</rb><rt>が</rt></ruby>と<ruby><rb>化</rb><rt>かわ</rt></ruby>り、不随意に見えた世界を破って、随意自在の世界に出現する。考えてみればこの急激な変貌の<ruby><rb>畏</rb><rt>おそろ</rt></ruby>しさがよく分る。受身であった過去は既に破り棄てられた。献身者は全く新たな目標を向うに見つけて未知の<ruby><rb>途</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>る。身心を挙げてすべてに当るより外はない。肉身といえばか弱い。心といっても<ruby><rb>掌</rb><rt>たなごころ</rt></ruby>に握り得るものでもない。ただあるものは<ruby><rb>渇仰</rb><rt>かつごう</rt></ruby>である。光明に<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>まされた憧憬である。

現実に即して言えば、それは旧制度が停滞していたそのなかで諦めようにも諦められずに知性の発揚をいちはやく感じていたものの目覚めである。

家庭も社会もただ一色の<ruby><rb>淀</rb><rt>よど</rt></ruby>みの底に沈んでいる。そういう環境の中で人々は相互に不安を抱いて語り合っていた。そして灰色に見える<ruby><rb>塗籠</rb><rt>ぬりご</rt></ruby>の奥では、因襲は伝統の衣を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>って、ひそひそと人の世の秩序を説いた。新智識を制圧して浅はかな恩恵を売ろうとしていたのである。殆ど自意識を持たせられなかった女人において、その制圧の状態は殊に<ruby><rb>甚</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しかった。

その女人のなかから諦めようにも諦められぬ心のすがたが象徴の形を取って現れる時が来た。その女人がその時代の第一人者である。ここにいう犠牲者である。

かつて人を疑うことを知らなかった姫が今その選に入るのである。

因習から人を救解するには、その人自らが先だって純一無雑な信念を持たねばならない。信の外に何があろう。信は智慧を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んで、犠牲者の悲痛を反逆者の魂の執著の一念のうちに示して見せると共に、その悲痛の自覚を<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に歓喜の生に代えるのである。姫は夜の闇にもほのかに映る<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>をたどって、<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>くような体をひたむきに<ruby><rb>抛</rb><rt>な</rt></ruby>げ<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>す。<ruby><rb>行手</rb><rt>ゆくて</rt></ruby>に認められるのは光明であり、理想である。

悌は手招く。それは瞬間を永遠にしつつ、しかも遂に到達されぬ目標である。永遠というものはそういう考察を要求するものとして、その実相をあるがままに捉えねばならない。帰一と同時に開展する。そこに事象の具現性が見られる。巻くことが<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げることと同義になる。巻くというのも展げるというのも<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>形式である。形式はその内容をなす生命の流動によって<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>かされるのである。

生命は渦動する。新旧交替の時期において、人文はその渦動に催されて一歩進める。ただの一歩とは言え、それは創造世界への開展のきざしであり、はやくも革新を約束された社会にあっては重圧の土を破る。そして個性の<ruby><rb>穎割</rb><rt>えいかつ</rt></ruby>が認められるようになり、外来文化の刺戟ともろもろの発見とを緒として次第に学問芸術の<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>が咲き匂う。

鶴見はここまで一気に考えつづけて来て、ほっとして、溜息をついた。こんな風に特異な考察をめぐらしたことはこれまでついぞなかった。それだけに、重荷を背負って遠い<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>にかしまだちするようにも感ぜられる。またそれだけの余力がこの老年の身にもなお残っていたのかということが<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かしくも感ぜられる。いずれにしてもそう感ずることが、即ち若返りの徴でなくてはならない。鶴見は<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いてそう思ってみた。それがまた彼を力づけた。

機縁はすでに<ruby><rb>釈迢空</rb><rt>しゃくちょうくう</rt></ruby>さんの『死者の書』によって作られた。鶴見のためには、この書がたまさかに<ruby><rb>変若水</rb><rt>おちみず</rt></ruby>の役目を果すことになったのである。

しかし若返るといっても、ただそれだけでは<ruby><rb>徒言</rb><rt>いたずらごと</rt></ruby>である。はかない夢に過ぎない。鶴見は更に省察を重ねねばならなかった。そしてこう思った。これもまた<ruby><rb>貌</rb><rt>かたち</rt></ruby>を変えた執著であろうと。彼は執著をまた執著するのである。おれには<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>過去があるばかりだ。背後が<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに顧みられる。背後には何があるのであろう。おれは絶え絶えに声に立つ痛恨をそこに認めるばかりである。目も<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>むような光明劇は前方で演ぜられる。おれには前途はない。将来に希望を繋ぐには朽ちかけて来た命の綱が今にも切れそうである。おれのからだのどこを捜して見ても何ほどの物も残っているはずがない。若返るためには<ruby><rb>贖物</rb><rt>あがないもの</rt></ruby>が<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>る。贖いもせずにいては<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>助かる見込はあるまい。天寿国は夢にも見られないのである。

鶴見はここで彼をたしなめる<ruby><rb>笞</rb><rt>むち</rt></ruby>の音をはっきり聞いた。なるほどそうである。贖物を<ruby><rb>供</rb><rt>そな</rt></ruby>えずにいて、それなりに若返るすべはない。鶴見は思い詰めた一心から、その<ruby><rb>業因</rb><rt>ごういん</rt></ruby>を贖物に供えようと考えている。これは<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むに已まれぬ執著に外ならない。執著の業には因がある。その業因は彼の<ruby><rb>未生以前</rb><rt>みしょういぜん</rt></ruby>に<ruby><rb>遡</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>る。目を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>れば遣るほど計り知れぬ<ruby><rb>劫初</rb><rt>ごうしょ</rt></ruby>にきざしているといってもなお及ばない。生は限りなく連続する。鶴見は、今そこに<ruby><rb>輪廻</rb><rt>りんね</rt></ruby>を観じているのである。

空無に見えるのは、それが一切であるからである。鶴見は今空無そのものを若返りの贖物にささげようとする。よしやそれが贖物の千位の一位にも足らぬものであろうとも、美衣も<ruby><rb>珍饌</rb><rt>ちんせん</rt></ruby>も重宝も用をなさぬ永遠の若返りのために、彼はそうすることを欲しているのである。犠牲となる空無の羊は<ruby><rb>屠</rb><rt>ほふ</rt></ruby>られもしよう。屠られはしても、流されたその血しおにはやがて流転する生の因子が含まれていよう。

鶴見はまた溜息をついた。そして遠い所を見渡すようにしていたが、見当さえも定めかねた目に<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず映じたものは、時空のけじめを超えて、<ruby><rb>涯</rb><rt>はて</rt></ruby>しもなく<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>く世界の獣の如き幻影である。それにもかかわらず彼の執著はなおもこの茫漠たる世界の雲霧を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて、執著を執著する一心の姿を辿って見ようとする。

輪廻は確に贖いである。苦行である。それ故にその一々を贖いの過程と見て行けば、その贖いのための顕証として、歓喜の相をそこに多少とも示さねばならない。鶴見はそれを内心に予感し得るものであろうと考えている。その歓喜の予感のなかで、永遠の若返りの内容が連続錯綜して開展するのである。その姿をおぼろげにながめやりながら、彼はその一々に<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いている。

因循して旧を守っていて好いものか、それとも破壊してまでも急進すべきものであろうか。常識では判断は出来ない。ましてやその中を得るということはむずかしい。そういう状態に置かれた社会が、沈黙の言葉を以て、献身者を求めるのである。誰しも時としては何ものかを胸に蔵していて、考えさせられもするように感じながら、口に出してあらわには<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>えられぬ想念を持っている。未だ表現を知らぬ思想である。どこに向って鬱した気を晴らして好いのか。人々はその<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>を模索して、そのために悶え苦しんでいる。そういう時期がある。

動揺期にある社会は守旧破壊の双方の主張の風を受けてますます<ruby><rb>波瀾</rb><rt>はらん</rt></ruby>をあげているが、多数の人々はその双方の思想を識別して向背を決するだけの文化を有していない。少数の当事者は私利我慾を<ruby><rb>恣</rb><rt>ほしいまま</rt></ruby>にしようとして盲動している。あたかも好し、この時に当って、献身者は時代の両極を成す思想を超克して身を起す。そしてその事を無意識の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に成就する。

献身は非常の事態である。それを為すには飛躍を要する。超ゆべきものを超えるには身を捨てて掛らねばならない。やがて<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がれた生命の流が疎通する。かくて献身者は生命の流のしかもその中流に舟を浮べて、舟の漂い行くに任せて、ひとりほほえんでいる。

献身は非常の事態である。反逆者の魂にこもる執著の<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>いてさせる業としか思われない。しかもその成し遂げた<ruby><rb>蹟</rb><rt>あと</rt></ruby>を見るに、そこには人文の中心に向って<ruby><rb>奏</rb><rt>かな</rt></ruby>でられる微妙な諧和が絶えず鳴り響いている。朽ちせぬ<ruby><rb>瓊琴</rb><rt>ぬごと</rt></ruby>の<ruby><rb>調</rb><rt>しらべ</rt></ruby>である。これこそ真にその中を得たるものといわねばなるまい。人間わざとは思われないからである。不思議といえば不思議である。

献身者の使命はここで終る。それと共に献身者は身を隠してしまう。人は想像をめぐらしてその隠れの里を執著の<ruby><rb>窟</rb><rt>いわや</rt></ruby>に求めても好い。その執著の<ruby><rb>窟戸</rb><rt>いわやど</rt></ruby>を折々開けて、新機運に促されつつ進展して行く人の世の風光を心ゆくばかり打眺めて<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいる姿がある。<ruby><rb>暁</rb><rt>あかつき</rt></ruby>の夢にその面影を見かけたといったとしても、誰がそれを過度の空想を<ruby><rb>逞</rb><rt>たくまし</rt></ruby>うしたものといってむげに非難し得るであろう。

生命は<ruby><rb>滞</rb><rt>とどこお</rt></ruby>るところなく流動する。創造の華が枯木にも咲くのである。藤原南家の<ruby><rb>郎女</rb><rt>いらつめ</rt></ruby>が<ruby><rb>藕糸</rb><rt>はすいと</rt></ruby>を<ruby><rb>績</rb><rt>つむ</rt></ruby>いで織った<ruby><rb>曼陀羅</rb><rt>まんだら</rt></ruby>から光明が泉のように<ruby><rb>涌</rb><rt>わ</rt></ruby>きあがると見られる暁が来る。

釈迢空さんは『死者の書』の結尾にこういっている。「姫の<ruby><rb>俤</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>びとに貸すための衣に描いた<ruby><rb>絵様</rb><rt>えよう</rt></ruby>は、そのまま曼陀羅の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>を具えていたにしても、姫はその中に、唯一人の<ruby><rb>色身</rb><rt>しきしん</rt></ruby>の幻を描いたに過ぎなかった。しかし残された<ruby><rb>刀自</rb><rt>とじ</rt></ruby>、若人たちのうち<ruby><rb>瞻</rb><rt>まも</rt></ruby>る画面には、見る見る数千の<ruby><rb>地涌</rb><rt>じゆ</rt></ruby>の菩薩の姿が、浮き出てきた。それは幾人の人々が、同時に見た、<ruby><rb>白日夢</rb><rt>はくじつむ</rt></ruby>のたぐいかも知れぬ。」

迢空さんの美しい文章はいつまでもその書を読むものを手招きしている。鶴見もまた迢空さんに誘われて、何かもう少しいってみたいと思う言葉が醸成され、<ruby><rb>涌</rb><rt>わ</rt></ruby>き<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>して来るのを内心に感じている。

鶴見はここで、創造ということについていってみたいのである。輪廻と創造との関係と言い換えても好い。

輪廻が<ruby><rb>贖</rb><rt>あがな</rt></ruby>いであり、そこに歓喜が伴うということは、鶴見が前にいっていた。彼はそれを基礎として更に考えを進めてみるのである。

輪廻は現実の事象に執著するということから始まる。鳥獣虫魚草木に至るまでの万物は、感覚を媒介として、個想を養う輪廻世界の苦行の姿として知覚される。そしてその苦行に宿る歓喜を求めて、一度求め得たるものを放とうともせぬ貪欲心が生ずる。それが執著である。鳥獣<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>草木においても、知覚の厚薄はあろうが何らかのかたちで人間と同じく、その苦行と歓喜とを感じているのではなかろうか。鶴見はそこまで推定して見ねば気が済まぬように思う。少くとも万有が<ruby><rb>錯綜</rb><rt>さくそう</rt></ruby>した知覚関係に置かれているものと信じさせられている。感応が行われねば世界は死滅である。

<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>は<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>に廻転する。なぜかなれば普遍の生命は流動しているからである。もろもろの感覚によって起される執著が<ruby><rb>因</rb><rt>もと</rt></ruby>となり<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>となって幻想の<ruby><rb>渾沌</rb><rt>こんとん</rt></ruby>を構成する。渾沌は渦動する。この渾沌たる幻想は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くにして流動する生命に<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>まれる白象の夢となるのである。新たなる言葉が陣痛する。<ruby><rb>托胎</rb><rt>たくたい</rt></ruby>の月満ちて、<ruby><rb>唯我独尊</rb><rt>ゆいがどくそん</rt></ruby>を叫ぶ<ruby><rb>産声</rb><rt>うぶごえ</rt></ruby>があがる。これこそ人文世界の<ruby><rb>薄伽梵</rb><rt>ばかぼん</rt></ruby>、<ruby><rb>仏世尊</rb><rt>ぶつせそん</rt></ruby>の誕生である。かくして<ruby><rb>耀</rb><rt>かがや</rt></ruby>かしい学芸の創造と興隆が現世に約束される。

観るが好い。誕生仏は裸身であってまた金色の相を具え、現実であってしかも理想の俤を浮べる。

創造のことを思量しつつも鶴見はいつしか夢に夢を見ていたのである。夢の<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>め<ruby><rb>際</rb><rt>ぎわ</rt></ruby>に少し身を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わしていたが、暫くしてから気が附いたらしく、口中で低声に何か<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>え<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>をしているように見えた。それは「南無」というように聞える。鶴見は<ruby><rb>両三遍</rb><rt>りょうさんべん</rt></ruby>唱え言を繰り返してから、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに勢づいていった。「天工を奪うとはこの事だ」と。

鶴見の輪廻観は要するにこの流転世界に対応する心像を因子として個想の発揚が欲求される創造観である。刹那に永遠を照見する幻想の色想観である。反逆の魂、執著の業因が創造に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>って浄化させられるまでの、その過程における心理の探討に外ならぬものである。たとえば盲目の大虫が思量の暗黒の底に<ruby><rb>爬行</rb><rt>はこう</rt></ruby>する姿を見る。鶴見はここにも歓喜の予感を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>り求める。そしてみずからを大虫に<ruby><rb>擬</rb><rt>ぎ</rt></ruby>して、原始的の泥沼のなかを這い廻ることすら<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わない。そしてまた一回の苦行が終り、その贖いの歓喜を<ruby><rb>恣</rb><rt>ほしいまま</rt></ruby>になし得るとき、<ruby><rb>徐</rb><rt>しず</rt></ruby>かに「南無」と唱えるのである。

過去に悔恨を懐く鶴見には、きょうの<ruby><rb>朝目</rb><rt>あさめ</rt></ruby>の好さもさほどには思われなかった。一度ならず二度までも溜息をついた。それにしても、輪廻に伴う創造観が観相の主題を占め、広汎な苦行世界を彼に見せてからは、彼がそれまで気にしていた小さな過去の悔恨の如きは物の数でもなくなった。彼は救われたような気持になっていて、我知らず、内心の秘密を明してしまった。

そうして見れば、朝目は彼のために決して悪くはなかったのである。

朝日はいよいよ鮮明を増し、露にうるおった木々の青葉は静かに目をさまして一斉にかがやいている。朝日はかくて<ruby><rb>濡縁</rb><rt>ぬれえん</rt></ruby>の端に及び、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちのうちにその全面に射し込んで来て、幾年の風雨に<ruby><rb>曝</rb><rt>さ</rt></ruby>らされて朽ちかかった縁板も、やがて<ruby><rb>人膚</rb><rt>ひとはだ</rt></ruby>ぐらいの<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>みを帯びるようになる。

その温みを慕って来たものか、<ruby><rb>綴</rb><rt>と</rt></ruby>じ<ruby><rb>合</rb><rt>あわ</rt></ruby>せた縁板の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>からちろちろと這いあがって来るものがある。見れば小さな<ruby><rb>蜥蜴</rb><rt>とかげ</rt></ruby>である。背の色が美しい。<ruby><rb>碧緑</rb><rt>へきりょく</rt></ruby>とも<ruby><rb>紫紺</rb><rt>しこん</rt></ruby>とも思われて、油を塗ったような光沢がある。胴体はいかにも<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>であるが、手足はよく均衡が取れていて、行動が<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>である。それがあたかも宝石を入れた精巧な懐中時計の機械のようである。

娘の静代はめざとくこれを見つけて、「ちっぽけな蜥蜴があんなとこを這っています」といった。軽蔑の念と共に憎悪の念もまじっているような言葉つきである。

「もう蜥蜴が出るような時節になりましたね。」曾乃刀自はこういったきり無心である。

「あんなちっぽけな虫。それでも気味のわるいことね。追っ払ってしまいましょう。」

静代は手を挙げて蜥蜴を追い払うまねをしている。

「いや、待て。あの蜥蜴のどこが憎くらしいのだ。あれはね。言って聞かすが、お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>うさんの、そうだな、魂だよ。」

静代は思いも掛けぬ父の言葉を受けてびっくりした。曾乃刀自は例によってただ笑っていた。

蜥蜴はそのうちに忽ち姿を隠してしまった。

「おお」といったきり鶴見は黙っていたが、少し間を置いて、「あが蜥蜴まろ」といい足した。

庭つくりすゑしいはほをしが山と昇り降りすもあがとかげまろ

鶴見はこんな歌を即興によんだことがある。その折のことをおおかた思い浮べているのだろう。

静岡で家を新築する時のことであった。狭い借地に家を建てるので、家を主とすれば庭なぞというようなものは造れない。そこで鶴見は計画をめぐらした。<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>に十坪ぐらいの余地しか使えないのでは、花壇を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるにしても、趣きを出すには<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>ぎが足りなさ過ぎる。その上いけないことには、その地所は鍵の手に板塀で囲まれていた。板塀の外は街路で交通量が多い。何かにつけて殺風景である。それを逆に取って見るのも面白かろう。狭い庭に思いきり大木と大石とを配置して見よう。

鶴見はそう思い附いて、庭師を呼んで、その処置をすっかり<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せることにした。庭師は若い時分名古屋へ行って修行して来たとかいっている。腕前の好いことは、市内に散在するその実績を見ているので間違いはあるまいと思ったからである。

庭造りには地所の狭い割に人夫も大勢かかり、<ruby><rb>万力</rb><rt>まんりき</rt></ruby>などという道具もいろいろと備え附けられる。そうこうするうちに、庭師の自慢の大石が運ばれて来た。市に接した山村に捜索に<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>って、渓流の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>に転がっていたものを見つけ出したというのである。鶴見に取って庭師の自慢話は実はどうでも好いのである。

その大石というのは<ruby><rb>子持石</rb><rt>こもちいし</rt></ruby>であった。<ruby><rb>凝灰岩</rb><rt>ぎょうかいがん</rt></ruby>に堅くて黒い<ruby><rb>礫</rb><rt>れき</rt></ruby>を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んでいる。その大小の礫の抜け出したあとが<ruby><rb>痘痕</rb><rt>あばた</rt></ruby>のように見える。その穴には<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しのぶ</span>が生えている。いわゆる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のきしのぶ</span>である。石の形は<ruby><rb>蝦蟇</rb><rt>がま</rt></ruby>が<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>っているようにも思われて、ちょっと渋い姿を見せている。一方の腹面には凹処があって、そこに水が溜る。頂上にはわざと削ったような平面が少しある。

鶴見はその石の頂上にある平面のところに、かつては小さな<ruby><rb>龕</rb><rt>がん</rt></ruby>が<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>られてあったものと想像した。この石はそこの村での或る信仰の対象物であったらしい。そう思って庭師にその事を<ruby><rb>訊</rb><rt>ただ</rt></ruby>してみたが、庭師は夢にも知らぬといった。

それはそれとして、据えられた大石を翌日になってじっと眺めていると、どうであろう。蜥蜴が一<ruby><rb>疋</rb><rt>ぴき</rt></ruby>、その岩の面を昇ったり降りたりしている。それが前からの遊びどころででもあったかのように、いかにも自適している。

一体鶴見には偏好性があって、虫類では蜥蜴が第一、それから<ruby><rb>守宮</rb><rt>やもり</rt></ruby>、<ruby><rb>蟷螂</rb><rt>かまきり</rt></ruby>という順序である。静岡に住んでいた間は、それらの三者に殊に親しさを感じていた。

前の歌はそんなわけで、そんな折によんだのである。

濡縁に這い出した蜥蜴は日光を浴びて忽ちに現われ、また忽ちにして眼の前より隠れ去った。夢のような輪廻観に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた折からでもあり、そこへあしらいに来たかと思われる蜥蜴を、鶴見はいよいよ親しいものにしている。そして朝目の好い徴として、この上もなく<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでいる。

  


## 探求と観相

鶴見はぐったりしている。

あまり坐りつづけたので少し気を励ますために庭に出てみた。<ruby><rb>梅雨時</rb><rt>つゆどき</rt></ruby>を繁りはびこる雑草は今のうちに<ruby><rb>挘</rb><rt>むし</rt></ruby>って置く方が好い。それがまた適当な仕事のように思われたからである。挘るといっても大半は鎌を使わねばならない。庭はそれほど荒れているのだ。それで二日もやっていると、鎌を持つ右の手の薬指の附根に<ruby><rb>肉刺</rb><rt>まめ</rt></ruby>をこしらえてしまった。

鶴見は元来若い時には老父の手助けになって、庭の整理ならかれこれと何でもやって来たので、大抵の事には心得がある。<ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>りおろした<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の枝を<ruby><rb>鉈</rb><rt>なた</rt></ruby>でこなして<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>に束ねる。そういうこともよくしていた。

秋のすえである。打ち込む鉈の下から樫の枝が裂ける。痛い血を流すかわりに、樫の<ruby><rb>生木</rb><rt>なまき</rt></ruby>はその裂け目から一種強烈な香気を放散する。それは強くはあるが、またどこやら<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かなところがあり、人を深みに誘い込むような匂である。自然の生命は樹木の枝々の端までも通っている。それを悟らせるための匂であるように思われる。鶴見はそんなことをその時しみじみと感じた。

鶴見に取っては、庭は自分の体とそう違ったものではない。樹木の枝は彼の<ruby><rb>四肢</rb><rt>しし</rt></ruby>であり、指先きである。役にも立たぬ雑草は彼の妄想でもあろう。そういう感じは年老いた今日までもまだ変っていない。

鶴見は鎌を揮いながらさまざまな匂を嗅いだ。どんな草にもそれ相応の特色がある。同じ青臭さのうちにも一つ一つ違いがある。折から白い花を咲かせている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どくだみ</span>は、その根を引き抜くとき、<ruby><rb>麝香</rb><rt>じゃこう</rt></ruby>のような、執念ぶかい烈しい<ruby><rb>薫</rb><rt>かおり</rt></ruby>を<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らす。嗅神経がこれを迎えて、<ruby><rb>遑</rb><rt>あわ</rt></ruby>てていよいよ緊張する。鶴見はそれをあたかも<ruby><rb>幼馴染</rb><rt>おさななじみ</rt></ruby>が齎らして来たもののように懐かしむのである。

話が一度<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どくだみ</span>の事になると、鶴見にはいつでも喚起される<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>のひとつがある。石川啄木に関することである。中央の詩界に華々しい<ruby><rb>初見参</rb><rt>ういげんざん</rt></ruby>をした上に、なおも暫く活動をつづけていたが、やがてまた寂しく故郷の盛岡へ帰って行った<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ後のことである。当時鶴見は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どくだみ</span>の詩を作って或る雑誌に寄稿した。啄木はその詩を読んだといって端書を一本送って来た。端書にはこういうことが書いてある。君は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どくだみ</span>に白い花が咲いて、それが四弁だと数えているが、あれは植物学上、実は<ruby><rb>萼片</rb><rt>がくへん</rt></ruby>に当るもので、花びらではないというのである。それだけのことを注意するためにわざわざ端書をよこした。鶴見は御苦労なことと思っただけでそれなりにしておいた。今になって考えて見れば啄木もその頃既に変った風格を具えた人間であった。あの矯飾していたような中に<ruby><rb>生一本</rb><rt>きいっぽん</rt></ruby>な気質を蔵していたということが分って、こんな<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な事が快く思い出されるのである。

鶴見は啄木のことを回想しながら右の手に出来た肉刺を見返した。だいぶ<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れてはいるがひどく痛みはしない。それで夢中になって鎌を扱っている。二時間くらいはすぐ立ってしまう。

そんな仕事を二、三日つづけてしていたので疲れが出てぐったりしているのである。

鶴見は思った。おれには植物に対する興味が押え切れぬほどある。鬱屈した気分を解くには草木<ruby><rb>花卉</rb><rt>かき</rt></ruby>のことを考えるに限る。鶴見はさきに『死者の書』を読み、感動して、動物の姿を追うて、過現未の<ruby><rb>三世</rb><rt>さんぜ</rt></ruby>に転々した。動物のことを考えると自然に輪廻の思想にはまり込んでゆく。それをおかしな事に思ってみても、さてどうするわけにもゆかなかった。執著のさせる<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>であったのである。

しかし草木となると動物の場合に較べてすべてがうらうえになる。鶴見はそれゆえに今度は植物の事に沈潜して肩を軽くし骨を休めたいと切に望んでいる。

実は輪廻思想を追い廻して考え詰めていたときに、或る新聞社から頼まれて余儀なく短文を書いた。<ruby><rb>卯</rb><rt>う</rt></ruby>の花についてあっさり書いた。それが幾らか気をかえてくれたので庭にも出てみた。仕事に少し無理をする。そしてまた疲れてしまった。曾乃刀自は<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>から心配して、あんまり無理をしてはいけないといった。

「何、無理なんぞするものか。おれは今面白いことを考えている最中だ。今までの主食はクラシックで、この節毎日のように<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>っている粉食はロマンチックだ。いいかね。米の飯は国粋かね。先ず固有なもので、メリケン粉の<ruby><rb>蒸</rb><rt>むし</rt></ruby>パンは外来的のものだ。少し当らぬところもあるが、手っ取り早くいえばそういうことになるのだ。」

「それはどうでもお考えどおりで好いも悪いもないでしょう。わたくしは無理をなさってはいけないといっているのです。」

「そうか、それほど疲れて見えるのか。」

鶴見が新聞に出した短文というのは、平安朝時代に卯の花熱が急に<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>まって、殿中の女房たちを田園に引き寄せた事実に対して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うつぎ</span>の果実が薬種であり、田舎に移植され、それが垣に、<ruby><rb>将</rb><rt>はた</rt></ruby>また畑地の境界に、盛んに生育して花を咲かせたのも、そのもとをいえば、そういう実用があったがためであろうと推量して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うつぎ</span>を漢土から渡来のものではあるまいかとの考を述べてある。外国からの伝来には種々な動機もあり機縁もある。万葉時代の梅もそのとおりである。この事もちょっと短文の中に書き加えてある。

鶴見には植物に限らず、一国の文化を推進せしめるものは外国文化の影響刺戟に<ruby><rb>因</rb><rt>よ</rt></ruby>るものであるという信念がいつからか<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>していてさして発育もしなかったが、根は抜けずに、そのままになっていて、<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れるということもなく持ちこたえている。これまでは一般にそういうような研究もどこやら遠慮がちなところがあった。それではいけない。各方面の人々の手でもっと大胆に検討する必要があろう。鶴見は自分で研究が出来ぬまでも理解は持っていたので、そういう方面の課題に対してはいつでも興味だけは<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>びるままに伸していた。

それで時々思い附くことがある。

その思い附きを<ruby><rb>趁</rb><rt>お</rt></ruby>って空想を<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せることに、鶴見は特に興味を感ずる。新聞社に投じた文章もそうした思い附きの一つに過ぎなかった。勿論科学的研究というようなしっかりしたものでないから根拠が浅い。肩を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>かれ腰を打たれれば直ぐにも転ぶ。そんなことは<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>ってはいられない。人がためらって口に出さぬことを、ただ思い附きなりに素直にいって置きたい。それが念願である。そしてそんな思い附きでも何かの機縁になって、他日良果を結ぶことでもあればなんぞと、<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>にもならぬ先の先を見越して<ruby><rb>空頼</rb><rt>そらだの</rt></ruby>みしていることもあるのである。

現に外国文化の影響は今日の食制の上に痛切な影を投じている。米食と並んで粉食がやがて国俗となろうとしていることである。外来の物を受け入れるにはそれに相応する理由があるのではあるが、それにはまた思いも掛けぬ動機と機縁とがあることも忘れてはならない。

ここに<ruby><rb>石蒜</rb><rt>せきさん</rt></ruby>の一例がある。鶴見はそれを面白い語り草としてよろこんでいる、<ruby><rb>伊沢蘭軒</rb><rt>いざわらんけん</rt></ruby>が石蒜を詩に入れているのを発見したといって、鴎外がひどく珍らしがっている、あの一条の話である。これは鴎外の大著蘭軒伝中に事をわけて<ruby><rb>備</rb><rt>つぶ</rt></ruby>さに述べてある。この日鴎外は文部省展覧会で児童が石蒜を<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>んで帰る図を観てこれを奇としたが、その夜蘭軒詩を<ruby><rb>閲</rb><rt>えっ</rt></ruby>してまたこの花に逢ったといってある。そして石蒜は和名したまがり、<ruby><rb>死人花</rb><rt>しびとばな</rt></ruby>、幽霊花の方言があって、邦人に<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>まれている。しかし英国人はその根を伝えて栽培し、一盆の<ruby><rb>価</rb><rt>あたい</rt></ruby>往々数<ruby><rb>磅</rb><rt>ポンド</rt></ruby>に上っていると書き加えているが、その石蒜がいかなる経路を取ってかの国に伝えられたかは語っていない。

<ruby><rb>因</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>にいう。鴎外の文中、昔年<ruby><rb>池辺義象</rb><rt>いけべよしかた</rt></ruby>さんの紀行に歌一首があったと思うが、今は忘れたというのは、鴎外自身が「きつねばな」と題して、『藝文』第二号（明治三十五年八月）に掲げた短文がある。それによると、藤園池辺氏が<ruby><rb>丹波</rb><rt>たんば</rt></ruby>に遊んで<ruby><rb>大江山</rb><rt>おおえやま</rt></ruby>あたりを歩いたとき、九州辺で<ruby><rb>彼岸花</rb><rt>ひがんばな</rt></ruby>というものを、土地の人に聞けばきつねばなと答えたといって、「姫百合のおもかげ見せてあきの野に人たぶらかすきつね花かも」とある。鴎外が忘れたというのはその歌を指しているのである。鴎外はなおもこれに註記して、先ず<ruby><rb>拉典</rb><rt>ラテン</rt></ruby>の学名を挙げ、漢名石蒜。まんじゅさげ、したまがり、てんがいばな等の称あり。<ruby><rb>石見国</rb><rt>いわみのくに</rt></ruby>の方言にはえんこうばなともいうとある。

さて石蒜即ち彼岸花の球根が英国に<ruby><rb>伝播</rb><rt>でんぱ</rt></ruby>し栽培されて<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る珍重がられた事については、別にあの博聞強記を以て鳴らした<ruby><rb>南方</rb><rt>みなかた</rt></ruby>翁に記述の一文があってその由来を<ruby><rb>詳</rb><rt>つまびらか</rt></ruby>にしている。その文は『南方随筆』に収めてある。その書を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>けば仔細は直ちに明らかになるのであるが、鶴見には今残念ながらそれが出来ない。記憶をたどって概略をいえばこうである。何でも日本から帰航の<ruby><rb>途</rb><rt>と</rt></ruby>に就いた運送船が英国の南海岸で難破し、その残骸は附近の島に打ちあげられた。記憶は確でないがホワイト島であったかと思う。船中には物好きがいて携えて行ったものであろう。それで砕かれた物件に<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>って彼岸花の球根があったと見える。島の土はその球根をひそかに埋めていた。自然は棄ててばかりは<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>かない。この孤児のように棄てられていた球根にも季節が来れば花を咲かす。秋ともなれば急に花茎だけが地中から伸長した。葉はまだ出していない。そしてあの<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>り<ruby><rb>返</rb><rt>かえ</rt></ruby>った細弁の真紅の巻き花が、物の見事に出現した。驚いたのは島人で、夢ではなかろうかと<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かった。この海中の一小島がまさに楽園の観を呈したのである。こうなって見れば、これが日本で忌まれた死人花とは思われない。

物の伝播にはそんな不思議な機運がある。いわんや文化の伝播にはもっと自在で不測な交流が行われていたはずだといっても好いのではあるまいか。

鶴見はこの頃鴎外の書いたものをずっと読みつづけている。『阿部一族』の中で、高見権右衛門が<ruby><rb>討手</rb><rt>うって</rt></ruby>の総勢を率いて引き上げて来て、松野右京の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>の書院の庭で主君の<ruby><rb>光尚</rb><rt>みつひさ</rt></ruby>に<ruby><rb>謁</rb><rt>えっ</rt></ruby>して討手の状況を<ruby><rb>言上</rb><rt>ごんじょう</rt></ruby>する一段のところで、丁度卯の花が真白に咲いている垣の間に小さい<ruby><rb>枝折戸</rb><rt>しおりど</rt></ruby>のあるのを開けて<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったと、先ずその境地が叙してある。書いてあることは何の<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>もないように見えてかえって印象が鮮やかだ。寛永十九年七月二十一日のことである。一つは卯の花の事を別段に考えていた関係もあったろうが、鶴見はここに読み到って、また新に卯の花が眼のあたりに咲き返って来たような心地がした。

これは極めて単純な例示に過ぎないが、鴎外の観照的能力がその具現を見せるときに、適確な記述の文章を背地に置いて<ruby><rb>奈何</rb><rt>いか</rt></ruby>に<ruby><rb>肯綮</rb><rt>こうけい</rt></ruby>に当り、手に入ったものであるかは、原文が簡単であるだけになおよく分る。

鶴見が今挙げた卯の花は阿部家滅亡の雰囲気のなかにくっきりと花を咲かせていたが、それとは別に内藤長十郎<ruby><rb>殉死</rb><rt>じゅんし</rt></ruby>の事がその前段にある。そこでは、<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>の高い石の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>を掘り<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>めた<ruby><rb>手水鉢</rb><rt>ちょうずばち</rt></ruby>に<ruby><rb>捲物</rb><rt>まきもの</rt></ruby>の<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしゃく</rt></ruby>が伏せてある。その柄杓に、やんまが一<ruby><rb>疋</rb><rt>ぴき</rt></ruby>止まって、羽を山形に垂れている。<ruby><rb>吹田順助</rb><rt>すいだじゅんすけ</rt></ruby>さんはこの<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>の描写を特に推奨して、こういった。――鴎外は取り乱さざるを沈著な態度を以て事象の実相を観照することを忘れていない。年代記的なもの、史伝的なものを書く場合でも、そういう観照力が時々片鱗を示して、無味なるべき叙述に塩を与えてくれる。『阿部一族』における蜻蛉の描写なども凄いほどの効果を示しているといって、鴎外の実相観入の力を<ruby><rb>称</rb><rt>たた</rt></ruby>えている。

その通りである。鶴見は一も二もなくそう思った。長十郎はその日一家四人と別れの<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>み<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>し、母のすすめに任せて、もとより酒好きであった長十郎は更に杯を重ね、快く酔って、微笑を含んだまま<ruby><rb>午睡</rb><rt>ごすい</rt></ruby>をした。家の内は物音一つ聞えずにひっそりしている。窓の<ruby><rb>吊葱</rb><rt>つりしのぶ</rt></ruby>に下げた<ruby><rb>風鈴</rb><rt>ふうりん</rt></ruby>が折々<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに鳴るだけである。かような奥深い静寂が前に挙げたような状態で一疋のやんまに具体化されているのである。この場合それはむしろ象徴といった方が好いかも知れない。

吹田さんは鴎外の文をよく読んでよく理解された。吹田さんはよほどこの蜻蛉に強く打たれたものと見えて、その感動をただ物凄いとかぞっとしたとかいう言葉で言い現わしているが、それも鴎外をよく読んだものの純粋<ruby><rb>無垢</rb><rt>むく</rt></ruby>なる感歎であろう。鶴見はそう思って見て、かえって自分がこの微妙な描写に行き当った時、最初果してどういう衝撃を受けたか、そこのところを顧みなくてはならなくなった。そして彼は吹田さんに対しても鴎外に対しても<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に恥じねばならないと思った。正直のところ、鶴見は吹田さんほど感じてはいなかったのである。人の文章を読むのはむずかしい。よく読んだつもりでいても、まだまだ至らぬところがあるものである。

鶴見はまた思った。その静寂の奥深さは分っているようで、さて心理の上で解説して見ようとしても、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>にその複雑を<ruby><rb>増益</rb><rt>ぞうえき</rt></ruby>するのみで、かえって切実な言葉が著けられない。ただ一つ言って置きたいのは、ここではその静寂が死相を<ruby><rb>被</rb><rt>おお</rt></ruby>った静寂ではないということである。殉死をすぐ前に置いて、長十郎と共に午睡しているのでもない。その静寂はいつでも目を覚している。<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>き一つしないのである。それが物凄く見られないで何であろう。そして更に永遠なるものを呼吸しているのである。この時の静寂の深刻さはそこにある。<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>く心を抑え切って、じっとして、その<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>の底を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うものの目には、すべての情意、すべての事象を一色に<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めた無限の沈黙世界が眼前に展開して、雲間の竜のように<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>いているのが見えよう。

鴎外は事象そのものの探求とその観照に驚くべき能力を発揮した。これは吹田さんの解説にもある通りのことである。鴎外はいかなる場合にも科学的態度を崩さずにいた。あるいはこれを装って芸術に臨んでいたといっても好い。そして<ruby><rb>冒</rb><rt>おか</rt></ruby>すべからざる冷静沈著のうちに、やがてその一生を終った。<ruby><rb>一毫</rb><rt>いちごう</rt></ruby>の差をもゆるがせにしなかった、あの細密な検討の心構えについては時に応じてこれを説き、自己の製作にこれを施して、遂に<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>むことを知らなかった。そしてこの無常の世の中で科学だけが大きい未来を有している。発展する望みがある。そういうことを、鴎外は『妄想』の結末で、鴎荘の白髪の翁に語らせている。

鶴見はそこを読み終って、その一貫した主張と倦むことを知らざる精神とに感動した。しかし読後の感はそれだけではなかった。

鴎外の倦まざる精神は専ら科学の信頼に向けられている。それは一先ず肯定されよう。しかして鴎外は人間行為の無常なるためしとして芸術を<ruby><rb>蔑</rb><rt>ないがしろ</rt></ruby>にしないまでも、その未来性を疑っていたのであろうか。それでは余りに矛盾が大き過ぎる。鶴見の読後感には何かそういった思想の<ruby><rb>乖離</rb><rt>かいり</rt></ruby>があった。よそよそしさがあった。それを長い間どうすることも出来ないでいた。鴎外は他を言っているのではなかろうか。自己を<ruby><rb>韜晦</rb><rt>とうかい</rt></ruby>しているのではなかろうか。それが心寂しく<ruby><rb>飽足</rb><rt>あきた</rt></ruby>らなかったのである。

鴎外の意図するところのものが追々に推測されて来る。

わが鴎外はことさらにそういう境地を仮に選んであそんでいるのではなかろうか。そういうようにも思われて来る。時としてはその境地が、鶴見には<ruby><rb>八幡</rb><rt>やわた</rt></ruby>の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>のようにも見える。鴎外はそこで<ruby><rb>円錐</rb><rt>えんすい</rt></ruby>の立方積を出す公式をひとりで盛んに講釈している。結局人を煙に巻いているのではなかろうか。それも好い。

鶴見はここであの才気の勝った風貌を思い浮べる。鴎外には人を人とも思わぬしたたかな魂があって、我を我とも思わぬのではなかろうか。ゲエテを引いて日々の勤めなんぞと考えて見るが内心は決して満たされていない。そして口にもし行いもするところのものは、いつも中庸であり、穏健である。ただその間に<ruby><rb>辛辣</rb><rt>しんらつ</rt></ruby>な風気が<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>ることがある。潔癖があったからである。それで思い切ったこともしかねない。現に人の好んでせぬことを独力で敢てした。

鴎外の<ruby><rb>為人</rb><rt>ひととなり</rt></ruby>の見どころはその辺にあるのではなかろうか。人はこれを聞いて言うにも及ばぬ平凡事となすであろう。鶴見は自分の言の平凡を嫌わない。彼は事実は事実として、そこから鴎外に対する見方をこの頃変えて来たのである。人はそれを聞いたなら<ruby><rb>不遜</rb><rt>ふそん</rt></ruby>だといって非難するであろう。しかしそれをも意に介せない。鶴見はこれによって鴎外の声価を少しも損ねようとは思っていないのである。

鴎外にも弱点はあった。鴎外は自己を知り過ぎるくらい知っていた。その弱点というのは、自負の心である。消極的にいえば『舞姫』以来のニルアドミラリである。それを自己の性癖として絶えず抑えつけている。鴎外が寛容を示そうとしたのはそのためである。それにもかかわらず自己制圧の手の下から<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れて僅に表面にあらわれて来たのが、例の難渋な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそび</span>である。現実離れのした<ruby><rb>遊刃</rb><rt>ゆうじん</rt></ruby>余りありというようなわけではあるまい。所詮は鴎外の諦めても諦らめられぬ鬱悶を消する玩具であろう。不平もあれば皮肉もある。<ruby><rb>嫌味</rb><rt>いやみ</rt></ruby>も交る。しかしそこには野趣がある。鴎外はここではじめて<ruby><rb>胸襟</rb><rt>きょうきん</rt></ruby>を開いて見せる。いわば羽目を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>すのである。鶴見は今ではその事を面白いと思っている。

あれは鴎外の玩具の操作である。しかもその玩具は手細工で<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る込み入ったものである。よく<ruby><rb>大夫</rb><rt>たゆう</rt></ruby>の手元を見るが好い。拍手の起らぬのを、鶴見はむしろ不審がっている。真の大夫が舞台に出ているのではないか。それを<ruby><rb>我人</rb><rt>われひと</rt></ruby>ともに、大夫は奥の楽屋に隠れてでもいるかのように思っていた。その楽屋は奥の奥で人を寄せつけない。鴎外は遂にその本領を示したことがないといって攻撃していたものである。

鴎外の読者は、右の座に就くものと左の座に就くものとがはっきりと分けられている。誰がそう分けたのでもないのに、そうなっている。右の座からは讃歎の辞が送られる。左の座からは<ruby><rb>罵詈</rb><rt>ばり</rt></ruby>の声が起る。いずれも極端で最大級の形容詞が使われる。誇張であって、ぎごちない。この読者というものの中には批評家が勿論<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>っている。左の座にはその<ruby><rb>音頭取</rb><rt>おんどとり</rt></ruby>があるようにも見えた。大抵の読者はそのいずれかに属しながら押黙っていたのである。鴎外はむしろそれを好いことにして、いよいよ<ruby><rb>韜晦</rb><rt>とうかい</rt></ruby>の術をめぐらすのである。少し言い過ぎであろうが、人々は手もなく鴎外に操られて、そうとも気がつかずにいたのである。

ここらで鴎外に対する在来の見方は<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>をつけて、これを変改するより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>はない。それには唯一の方法しか<ruby><rb>剰</rb><rt>あま</rt></ruby>されていない。即ち思い切って、鴎外をしたたかな魂を持った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそび</span>の発明家として推すことである。これは一流の大家でなくては出来ない仕事である。そこに鴎外の芸術家としての真骨頂が何の<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りもなく露呈することになる。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそび</span>はもはや余技ではない。気を負うた鴎外の全本領として<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>かされて来るからである。かの具象的観照の妙処の如きも、<ruby><rb>将</rb><rt>はた</rt></ruby>また私を隠した叙述のさばかりの冷徹さも、詰るところ、科学的のポオズを取った鴎外の擬態でなくて何であろう。世間がみんなそういう気になって鴎外を推奨していたならば、鴎外はもっともっと秘法の箱を開けて、その内心の影像を繰りひろげて見せてくれたであろうに、惜しいことをしたものである。

鶴見はそう思いながら、何事も徹底して思量すべき時機が来ていることを知って、いささか慰むるところがないでもなかった。

空想を抑制していたことも、確に鴎外の特徴をなしている。鴎外は空想の<ruby><rb>放肆</rb><rt>ほうし</rt></ruby>にわたるのを<ruby><rb>太</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しく恐れていたのである。しかしそれにもかかわらず、なぜか夢を好んでいたように見える。

鴎外はあの明徹な叙事の中にしばしば夢を織り込んだ。『青年』にも『大塩平八郎』にも夢の描写がある。心理的の現象として科学的に取扱ってはあるが、作者が一たびこの夢幻境に入るや否や、たちまちに<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の抑制から解放されて、ひたすらに筆端の自在を楽しんでいるかのようにも見える。鴎外自身としても絶えず夢を見ていたのだろう。科学的な生理的な夢といっても好い。要するに白日夢である。幻想である。

いくら鴎外に<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>がなかったといっても、<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかな夢を持たずに、あれだけの秀抜な芸術は創造されなかったであろう。

鴎外の文章のうちには、不思議とも思われる一種の香気が<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>っている。ほのかである。始めて接したときと数十年後とでその感触の程度に変りはない。いつも新しくいつもほのかである。言辞の森の<ruby><rb>下道</rb><rt>したみち</rt></ruby>を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って、その香気を嗅ぎ分けるときに、人々は直ちに魅了される。

鶴見は久しく鴎外の文章に親しんで来ながらその秘密を探り得なかった。そしてただ<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>っていた。鴎外の文と他の諸家の文とを較べるまでもなく、その差異の主要な部分はその香気の有無にある。語法を分解して考えて見れば、その秘密はどうやら助辞や助動詞の間にあるようにも推測されぬでもない。しかしそれがどうしてあれだけの品位を添えて、他と全く区別されるのか、やはり分らない。無駄を避け<ruby><rb>簡勁</rb><rt>かんけい</rt></ruby>を旨とする鴎外の文章に<ruby><rb>煩</rb><rt>わずらわ</rt></ruby>しい修辞を容れるはずもない。

鶴見はその<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>づくところを久しく探求していた後に、外面の修辞にこれを求めても得られないということを知った。それはまさしく作者の内心の夢の<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>し<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>した薫香の反映であり反響である。秘密はこの一事より外にあろうはずはない。鶴見は漸くにしてそれを悟った。それにしても一の夢から醒めてまた一つの夢に入ったような心持のするのを禁じ得ないのである。

鴎外といえども近代人である。そのわけは古典人ではあり得ないということである。<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>く養い来ったニルアドミラリの精神は必然の径路を<ruby><rb>履</rb><rt>ふ</rt></ruby>んで自己を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそび</span>の中に韜晦する。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそび</span>即ち芸術である。信を他に置くことの出来ない近代人は自己を信ずるより外ないからである。現実との矛盾は避けられない。芸術家はそういう矛盾の空気を吸って、息張って、内心の苦闘を重ねる。諦めが来る。そして中庸が説かれ、平常心が語られ、空想が抑制され、節度が守られる。鴎外はそれらの諸徳を一身に集めていたように、或る時は信じていたでもあろうが、それもまたあの<ruby><rb>端倪</rb><rt>たんげい</rt></ruby>すべからざる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそび</span>の変貌であったに違いない。

鶴見はそういう見方を取ることによって、鴎外のうちに光明面とは反対に悪魔的の半面を見出そうとしているのである。

鴎外は努めてアポロ的であらんことを期していた。それゆえにディオニソスの祭の招きに応ずることを嫌ってもいた。しかるにそれは外見上のことである。鴎外の生活の基調をなすものは、空想に対する異常な恐怖であったろう。空想には思想の悪魔性と物慾の逸楽性との誘惑が伴う。鴎外はそれを明らかに認めて、恐れていたのではなかろうか。

フロオベルといろいろの点で似たところが鴎外にある。鶴見は人間の内心に宿る悪魔性の問題に関聯してそんなことを考えているのである。両者とも医者の家に生れたこと、一生職業的文芸家とならなかったこと、そこらあたりは似たといえばよく似ている。境遇からいえば、鴎外の方は官制に縛られていて窮屈であったが、フロオベルは自由の身であった。そこが違う。フロオベルは現実と空想との闘いを極端まで押詰めた。その現実は信を失った物慾世界の盲目的展開である。そこには光明は期待されない。フロオベルはその光明をむしろ空想の悪魔性のうちに見つけようとしていた。そこがまた鴎外とちがう。しかし両者の行き方が全く違っているとは思われない。フロオベルはそれを交互に大きな文学として公にした。

鴎外はフロオベルから『三閑話』の中の一つである聖ジュリアンの物語を選んで翻訳した。翻訳は見事な出来栄えである。鶴見は鴎外の<ruby><rb>許多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の翻訳中でその物語をこの上なく<ruby><rb>愛誦</rb><rt>あいしょう</rt></ruby>している。聖ジュリアン物語は悪魔の誘惑を書き綴ったものである。ジュリアンは身を落して<ruby><rb>渡守</rb><rt>わたしもり</rt></ruby>になり、<ruby><rb>癩者</rb><rt>らいしゃ</rt></ruby>を渡して、偉大なる空想の天に救い上げられるのである。

鴎外はなぜその物語を翻訳したか。それを問うて見たいのである。鴎外が亡くなってから今年で二十五年になる。鶴見の問に答えるものは<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>鴎外の遺著より外にない。

鶴見は一先ずここらで考を打切ることにした。そしてうつろな目で外の景色を眺めていた。

蝉が鳴いているという。庭木にはまだ移って来ない。山の森で鳴いているのだという。耳しいた鶴見にはそれがわびしい。森に埋まった丘陵の青緑は反射する日光を映発して金色を<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>っている。鶴見はその鮮やかな金色の中から鳴く蝉の一声を絞り取ろうとして、ひたすらに聞きすましている。

すべな　すべな　耳しひをぢが　ふつ　ふつと　聞えぬ蝉に　ほほけ言いふ

  


## 竜宮小僧

<ruby><rb>輪廻</rb><rt>りんね</rt></ruby>思想には動物が必然に随伴する。植物はそれに<ruby><rb>与</rb><rt>あずか</rt></ruby>らない。人間が植物に変形するといわれても、それは輪廻世界においてのことではない。植物には能動的な行為がないからである。植物は種子を留めぬ限り、同じ生物でも強い個性を持たぬだけに自然の元素に分解されやすい。動物には妄執がある。特に錯綜した妄念によって繋がれているのが人間である。人間はそこに罪深くも思想として迷妄世界を建立する。<ruby><rb>嗔恚</rb><rt>しんい</rt></ruby>と悔恨とが<ruby><rb>苛責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>を噛む。

人間の霊はその迷妄世界をさまよって、形なきところに形を求める。その形象は妄執に相応する動物として示されねばならない。暗黒の中の光明、苦悩を<ruby><rb>蝉脱</rb><rt>せんだつ</rt></ruby>する献身も、やがてそこから生ぜねばならない。

鶴見の動物観は人間を輪廻の一環と<ruby><rb>見做</rb><rt>みな</rt></ruby>している。人間の霊が永遠の女性に導かれて昇天するよりも、永遠の輪廻の途を<ruby><rb>輾転</rb><rt>てんてん</rt></ruby>するのが順当だと思っているのである。迷妄の中で仏縁にあずかりたいのである。地上の夢の深刻さは味いつくし難いものがある。初はあろうが終はないものである。

鶴見はそんな事を考えていて肩荷を重くした。それを<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めようとして、思量を植物に転じた。<ruby><rb>石蒜</rb><rt>せきさん</rt></ruby>のことから鴎外を引き合いに出した。そして<ruby><rb>放肆</rb><rt>ほうし</rt></ruby>な考察はいつしか鴎外の文学の芸術性にまで及んだ。鶴見はいまさらのように、はてしない空想の飛躍におどろいている。しかしまたかれは自己の空想の放散を快く思っていぬのでもない。

植物のことが頭の中を一杯に占めている。植物にも動物の爪が生えているのではなかろうか。頭の中がその爪でむやみにひっ掻き廻わされているような刺戟を感ずる。

鶴見は単に植物を観賞しようというのではない。かれの考はその伝来と実用性との関係を中心に置いている。思い附きであり、そうらしいと推し量るに過ぎないが、それでも構わぬとなれば、言うことはいくらでもある。思ったとおりに何でも言いたいのが鶴見の<ruby><rb>性分</rb><rt>しょうぶん</rt></ruby>である。それを先ず言っておいて、疑わしいところは教を受けたいと思っているのである。

石蒜についてもまだかかわりがある。自分の意見は出し尽していない。心のなかのどこかに<ruby><rb>札</rb><rt>ふだ</rt></ruby>を掛けておいたなりではいつまでも気にかかる。それを鍵から<ruby><rb>脱</rb><rt>はず</rt></ruby>して見たいのである。

第一は石蒜が人里近く分布しているという事。そこにふと気が附いた。気が附いて、いろいろ思い合せると、どうもそうらしい。山にも生えていないし、曠野にも見当らない。

石蒜が群をなして繁っている場所は、田舎道の両側か、草土手か、墓地か、そんなところが数えられる。彼岸花、<ruby><rb>天蓋花</rb><rt>てんがいばな</rt></ruby>、<ruby><rb>死人花</rb><rt>しびとばな</rt></ruby>、幽霊花、狐花などという、あまり好ましくない和名が民間に行われている<ruby><rb>故以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>であろう。その中で穏かなのは彼岸花というのだけである。それとても<ruby><rb>抹香臭</rb><rt>まっこうくさ</rt></ruby>い。もともと実物がわが国になかったところへ、何かの理由があって<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>から<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来た。その理由が忘れられた後になって、あの異常な生態が<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>まれだした。葉は夏になると、すっかり枯れてしまう。それが秋の彼岸ごろになって、地面からいきなりに花茎だけを<ruby><rb>抽</rb><rt>ぬき</rt></ruby>んでる。咲く花もまた狂ったように見える。忌まれたのはそういうわけからであったらしい。それから墓場の<ruby><rb>手向草</rb><rt>たむけぐさ</rt></ruby>のようになって、いよいよ嫌われることになった。石蒜の歴史はざっとそういうところに帰著する。

要するに石蒜は外来種であって、人はその効用に無知になっている。そしてあのめざましい美花がついぞ観賞もせられずに、長いあいだ、路傍にうち棄てられてあった。やっとこの頃になって、いけ花の方で装飾的に使われてはいるが、まだまだ遠慮がちに取り扱われている。

石蒜のこの国で受けた運命は随分はかないものである。鶴見はそんなことを考えながら、庭の<ruby><rb>草挘</rb><rt>くさむし</rt></ruby>りをするついでに、石蒜の生える場所を綺麗に掃除をしておいた。<ruby><rb>濡縁</rb><rt>ぬれえん</rt></ruby>の横の<ruby><rb>戸袋</rb><rt>とぶくろ</rt></ruby>の前に南天の株が植えてある。その南天の<ruby><rb>根方</rb><rt>ねかた</rt></ruby>である。おもうにはじめ南天を移しうえたとき、その根に石蒜の球根が附いて来たものから次第に<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えたものだろう。今は何一つ、それらしいけはいもないのであるが、追々に彼岸も近づいて来る。或る朝目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さま</rt></ruby>して見ると、そこに思いも寄らぬ<ruby><rb>真紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>の花が歌っている。舞を舞っている。鶴見はその物狂いの姿を示す奇蹟の朝を楽しみにして待っているのである。静寂な「無」に<ruby><rb>育</rb><rt>はぐく</rt></ruby>まれる<ruby><rb>遑</rb><rt>あわ</rt></ruby>ただしい幻想でなくて何であろう。

田舎道を歩いて見る。<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>ばたに何ほどかの<ruby><rb>閑地</rb><rt>あきち</rt></ruby>が残されていて、そこが少し高みになった場所がある。苔蒸した石碑などが傾いたまま草むらに埋もれている。そういうところによく<ruby><rb>石地蔵</rb><rt>いしじぞう</rt></ruby>が据えてある。古い時代の墓地であったのであろうか。珍しくもない<ruby><rb>鄙</rb><rt>ひな</rt></ruby>びた光景であるが、そういうところで、わが彼岸花は、思いのままに村の小供を呼び寄せる。

石蒜の球根はたしか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へぼろ</span>といった。小供たちはその球根を掘り起して、<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いで、<ruby><rb>珠数</rb><rt>じゅず</rt></ruby>に<ruby><rb>擬</rb><rt>なぞら</rt></ruby>えて、石地蔵の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に掛けて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る。それだけではすまない。まだまだいたずらをする。球根を<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>りつぶすと粘った濃い汁が出る。その汁を地蔵尊の冷たい石の鼻の穴のあたりに塗り附けて見る。そうして手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>ち<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>って<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>したてる。「鼻垂れ地蔵だ。やい」というのである。

鼻垂れ地蔵の由来は、結局そんな無邪気なざれ事で説明せられる。

鶴見はここでふっと考えついた。戦争も下り坂になったころ、べにや板の需要が急にふえて来たと共に、その<ruby><rb>接著料</rb><rt>せっちゃくりょう</rt></ruby>が研究せられた。それには石蒜の球根がいちばん好いとなって、その採集に手を尽しているという事が、新聞紙で報道せられた。鶴見は今それを思い出したのである。

鼻垂れ地蔵の由来が航空機製造にまで応用せられるようになった。しかし考えて見ればそう不思議でもない。石蒜が人里近く繁殖しているということは、やがて石蒜に粘著料としての効用が認められていたからではあるまいか。何に使われたかは分らぬが、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて言えば、紡織とか<ruby><rb>染付</rb><rt>そめつけ</rt></ruby>とかそういうような工業に一時利用せられたのかとも思われる。そうでなければその他に何か薬用があったものか。勿論これは鶴見が幾度もことわっているとおり、ただの思い附きに過ぎない。

とにもかくにも、その実用性を念頭に置くとき、石蒜が外来植物の一つであったろうかという想像に、その事の可能であるべき理由が附与せられる。

<ruby><rb>檉柳</rb><rt>ていりゅう</rt></ruby>のことがある。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょりゅう</span>（御柳）といって、今日では主としていけ花の方で珍重がられている。世間にそう多くはない木である。御柳を知っているのは大抵いけ花界の人たちということになる。それも<ruby><rb>立木</rb><rt>たちき</rt></ruby>のままで見たものはいくらもないであろう。

鶴見は静岡に長年住んでいたが、近所で一本見たきりである。ちょっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いぶき</span>のような趣きがあり、枝先は素直に垂れて、<ruby><rb>粉紅</rb><rt>こなべに</rt></ruby>色の花をつける。あんな<ruby><rb>常磐木</rb><rt>ときわぎ</rt></ruby>にこんな柔かい花が咲くかと思わせるような、奇異で、うるわしい花である。鶴見が見つけたというその木は板塀に囲まれた狭苦しい<ruby><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby>に、雑木と隣り合って、塀から上へ六尺位は高くなっていた。それが年に一度は必ず坊主にされる。花屋が切りに来るのである。鶴見はその度ごとに「おや、おや。またか。」そういって苦笑するのを禁じ得なかった。

<ruby><rb>渋江抽斎</rb><rt>しぶえちゅうさい</rt></ruby>がこの木を愛していた。転居するおりには、いつでも掘り起して持って行き、そこに移しうえた。木はそれでも枯れずにいた事は、鴎外の抽斎伝に中に書いてある。何かの薬になるというので、抽斎の家にその木のあるのを知った人々が一枝を貰いに来る。ただそれだけのことが書いてある。別に考証はしていない。

檉は唐詩の中でしばしば見当る。檉が外来植物であるのは周知の事実である。叡山の<ruby><rb>根本中堂</rb><rt>こんぽんちゅうどう</rt></ruby>の前にその木があるという。鶴見はまだ見ないが、<ruby><rb>泡鳴</rb><rt>ほうめい</rt></ruby>がそれについて一度語ったことを覚えている。<ruby><rb>伝教大師</rb><rt>でんぎょうだいし</rt></ruby>の時代まで<ruby><rb>遡</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>るとすれば、その渡来も随分古いものである。しかしその割に世にひろまっていない。

東京ではその木を見掛けなかったようである。鶴見が始めてその生態に接したのは、<ruby><rb>初度</rb><rt>しょど</rt></ruby>に鎌倉に移ってからのことである。

雪の下の<ruby><rb>僑居</rb><rt>きょうきょ</rt></ruby>の筋向いに<ruby><rb>挿花</rb><rt>そうか</rt></ruby>の師匠が住んでいて、古流では名人に数えられていた。その家の入口の<ruby><rb>前坪</rb><rt>まえつぼ</rt></ruby>に四つ目を<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>って、その内側に、やっと四、五尺に伸びた御柳がうえてある。<ruby><rb>瀟洒</rb><rt>しょうしゃ</rt></ruby>としたたたずまいが物静かな気分をただよわせている。そのために狭い場所も自然にくつろいで見えるのである。鶴見は日々の出入に、その家の前を、目を掛けて通らぬことはなかった。

それがどうであろう。今度またこの地に戻って来て見れば、そのあたりはすっかり様子が違っている。その家の主人は上田といった。それから二十五、六年は立つ。上田さんも存命であらばよほどの高齢と思われる。その後どこかへ引移ったものであろう。<ruby><rb>門札</rb><rt>もんさつ</rt></ruby>は名前が変っていた。入口にあった御柳も姿を見せない。

その当時、鶴見の仮寓の真向いは<ruby><rb>桶屋</rb><rt>おけや</rt></ruby>だった。<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る勤勉な桶職で、夜明けがたから<ruby><rb>槌</rb><rt>つち</rt></ruby>の音をとんとん立てていた。その音に目を醒ますと、晴れた朝空に<ruby><rb>鳶</rb><rt>とんび</rt></ruby>が翼をひろげて、大きく輪を描いて、笛を吹いている。

鶴見が寓居のすぐ奥の隣家には海軍の尉官が<ruby><rb>住</rb><rt>すま</rt></ruby>っていた。子供が二人ある。よしという若い女中が働いている。朝食の済むころには、かしらの四、五歳になる男の子が、玄関の<ruby><rb>格子戸</rb><rt>こうしど</rt></ruby>に<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まって、這い上ったり下りたりするのが、まるでお猿のようである。そこへ女中が風呂敷を持ったまま出て来る。

「よしや。どこへ<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>くの。」坊ちゃんはいつもの問を繰り返す。

よしやは黙っている。

「よしや。よしやってば。どこへ往くのだい。」

「よしやはこれからお使にまいります。坊ちゃんも一しょにお出でになりますか。」

よしやはこういって、ずんずん格子戸を開けて出て往こうとする。

「うん。一しょに往くよ。」坊ちゃんは<ruby><rb>遑</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて格子戸から降りて、下駄を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、よしやのあとを追うようにして、走って出掛ける。

これが日々の行事である。

鶴見は部屋に引き籠っていて、その時分はよく『起信論』を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて読んでいた。そして論の中でのむずかしい課題である、あの<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつねん</rt></ruby>念起をいつまでも考えつづける。そうすると、今しがた出て往った隣の坊ちゃんが、まざまざとまた心眼に映る。

坊ちゃんは<ruby><rb>格子戸</rb><rt>こうしど</rt></ruby>につかまって昇り降りするが、その格子戸が<ruby><rb>因陀羅網</rb><rt>いんだらもう</rt></ruby>に見えて来る。坊ちゃんは無心で<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れる。あそびの境涯で自在に振舞っている。よしやが使に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>られる。よしやが誘う。<ruby><rb>衆生心</rb><rt>しゅじょうしん</rt></ruby>の無念が<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちに動く。坊ちゃんはよしやに<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、石に<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>きながら駈けて出る。

「そうだ。これが忽然念起だ。」

頭のなかを、そんな考が、たわいもなく、ふと<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いて過ぎる。

しかし鶴見はそれ以上深入りすることを恐れた。はっきりとではなかったが、あまり唯心の妙説に<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>かされて、理心の中で抽象されたくはなかったからである。ただ『起信論』が衆生心に据わって物を言っているのが親しまれた。

鶴見は鶴見で、『起信論』とは不即不離の態度を取って、むしろ妄心起動を<ruby><rb>自然法爾</rb><rt>じねんほうに</rt></ruby>の力と観て、その<ruby><rb>業力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>に、思想の経過から言えば最後の南無をささげようとしているのである。魔を以て魔の浄相を仰ぎ見ようとするのである。鶴見はそういうところに信念の糸を掛けて、自然に随順する生を営んで行こうとしている。つまるところ、無を修して全を<ruby><rb>獲</rb><rt>う</rt></ruby>る。そこで日々の勤めは否定されねばならない。その最後の一線はどうして<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み<ruby><rb>踰</rb><rt>こ</rt></ruby>えるか。ここで逡巡することは許されない。

その最後の一線を踰えるには自然の業力を頼みとするより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>にないのである。至上の力を頼んで最後の線を踰える時、そこに新に生ずる何物かがあるであろうか。鶴見に言わすれば、それが即ち第二の創造であるというのである。

ファウストは書斎の場で、『ヨハネ伝』のロゴスを翻訳しようと苦心する。語、意、力、業の四様に翻訳の順序を立てて考えて見る。鶴見はそこを『ファウスト考』の解釈によって読んで見て、面白いと思った。鶴見はこのファウストの思想を、おれの平生考えている思想にまるで無関係ではなさそうであると思って見たからである。

隣の坊ちゃんは日々の勤を無意識で行っている。それが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそび</span>である。我々衆生が無心であり得るのは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそび</span>の<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>においてのみである。我々は小供とは違って、いつでも無心ではあり得ない。否定の最後の線を踰える時に、やっと得られる無心である。これは勿論時間的にいうのではない。日々の行事の到るところに、この最後の線は張られているのである。

隣の坊ちゃんを<ruby><rb>竜宮</rb><rt>りゅうぐう</rt></ruby>小僧に<ruby><rb>擬</rb><rt>なぞら</rt></ruby>えて見る。ここでは坊ちゃんは<ruby><rb>海表</rb><rt>かいひょう</rt></ruby>の世界から縁あって、鶴見に授けられたものとする。坊ちゃんは<ruby><rb>打出</rb><rt>うちで</rt></ruby>の<ruby><rb>小槌</rb><rt>こづち</rt></ruby>を持って来る。そして無心で、いろいろの宝を、その小槌から打出しては、それを惜しげもなく鶴見に贈る。こういう考が鶴見の心の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の、どこかの<ruby><rb>曲</rb><rt>くま</rt></ruby>に<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>りはじめた。<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>きものに魅せられたようである。

思想はさまざまに動く。それはそれで好いと思い返しても見る。芸術の複雑性はそこから生まれて来る。その作用は豊饒でなくてはならない。ここに芸術のコルヌコピアがある。打出の小槌がある。

鶴見はそんな事にまでも思を<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せて、二十余年の昔の夢から今日に及ぼして、それを心の中に繰り返して見て、『起信論』全体を納得しようと念じているのである。

蘭軒伝の中で、鴎外が特に二章を費して考証しているものに<ruby><rb>楸</rb><rt>しゅう</rt></ruby>がある。これも外来植物である。丹念に検討したあとで、実際的智識に富んでいる、その道の人としての牧野さんに頼んで、説明を求め、最後の解決がつけてある。<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>く<ruby><rb>約</rb><rt>つづ</rt></ruby>めて言えば、楸はわが国の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あずさ</span>か<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きささげ</span>かという疑いである。牧野さんはいう。普通<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あかめがしわ</span>を<ruby><rb>梓</rb><rt>あずさ</rt></ruby>に当てているが、昔わが国で弓を作った木は、今でも<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あずさ</span>と称している。この方には漢名はないということである。鴎外は<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>ら漢土の文献について説を立てているのであるが、楸は漢土では<ruby><rb>松柏</rb><rt>しょうはく</rt></ruby>の熟語と殆ど同義に用いられ、めでたい木で、しかも大木になるとある。普通の辞書には<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あかめがしわ</span>に梓字を当てて、<ruby><rb>版木</rb><rt>はんぎ</rt></ruby>に使われるとある。<ruby><rb>上梓</rb><rt>じょうし</rt></ruby>とか梓行とかいうのはそれであろうか。そして見ればむこうでいう梓は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あかめがしわ</span>かとも思われる。牧野さんはまたいう。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あかめがしわ</span>は上野公園入口の左側の土堤の前に列植してある。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きささげ</span>は博物館の庭にあると。鴎外はこれに附記して、自分は<ruby><rb>賢所</rb><rt>かしこどころ</rt></ruby>参集所の東南に一株あったと記憶するといっている。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きささげ</span>は『万葉』に出ている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさき</span>のことである。鴎外は『万葉』の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさき</span>には少しも触れていない。鶴見はその<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさき</span>について書いて置きたいことがある。

『万葉』では楸を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさき</span>と<ruby><rb>訓</rb><rt>よ</rt></ruby>ませてある。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさき</span>というのは、辞書で見ると、久しきに<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>える意味からその名を得たという一説を挙げている。そんなわけで、賢所の前庭に植えてあったのであろう。この説にはしばらく疑を存して置いて好い。外来植物としてこの木を数えることが既に明らかな事実である以上、楸字はその木と共にわが国に伝ったものであろう。即ち楸の実物提示であったに違いない。渡来僧か、こちらから行った留学僧かがその称呼をあらわす文字をその実物と共に持って来たものに違いない。そうであれば、唐時代には楸はこちらになかった木で、『万葉』で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさき</span>と和訓が施されるまでにやっとなっていたものに違いない。『万葉』の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさき</span>が今日の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きささげ</span>ならば、楸はその当時<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あかめがしわ</span>ではなかったはずである。

さてこの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさき</span>は奈良の都の<ruby><rb>佐保川</rb><rt>さほがわ</rt></ruby>の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>などに、川風に吹かれて生長していたようである。渡来した理由はやはり薬種に関係があったからであろう。その実は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ささげ</span>豆のような形で、房になって枝ごとに垂れ下る。一本の木からかなり多量に取れる。そんなわけから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きささげ</span>の名称が起り、それが後世では広く行われた。夏の土用のころ、<ruby><rb>莢</rb><rt>さや</rt></ruby>のまだ青いうちに採って<ruby><rb>蔭干</rb><rt>かげぼし</rt></ruby>にして置く。利尿剤として薬種屋でも取扱い、今でもなお民間で使っているのがそれである。

鶴見はここまで考えつづけているうちに、心に一つの顔を思い浮べていた。記憶の鏡にぼんやり映っているのである。よくよく見れば、それは鶴見自身の困ったような顔である。

「あれには本当に困ったなあ。ほら、あの<ruby><rb>日除</rb><rt>ひよけ</rt></ruby>にもなるといって、青桐代りにうえさせた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きささげ</span>だよ。土用時分になると、毎年忘れずに、向いの家からその実を貰いに来たものだ。老人がいて、寝たり起きたりしている。薬にするからだといってたね。」

「そうですとも。うちでは入用がありませんから、いくらあげても好かったのでございます。ちっとも惜しくはなかったのですが、<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を掛けたり、屋根に上ったりして、高い枝から実を取って<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>るのでしょう。一仕事でございましたよ。」曾乃刀自はこういって、娘の静代を顧みて、いかにも同感に堪えないというような表情をする。

「それにまた実を取らないでそのまま附けて置くと、冬になってからあの莢がはじけて、古綿のようなこまかいものが飛び出して来ましたね。そこらじゅうを<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>だらけにします。それを掃除するのが骨折でございました。」

家人たちは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きささげ</span>にはよくよく<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りたものと見える。鶴見は苦笑しながらも、あの向いの家の年寄りも戦災後どうしたことやらと思ったりして、気の毒がっている。

そんなやかましい楸もすっかり焼けてしまった。

渡来植物といえば、なお一つ気に掛けていたことがある。<ruby><rb>夾竹桃</rb><rt>きょうちくとう</rt></ruby>である。鶴見は明治二十五年の夏になって、はじめて夾竹桃を実見した。ところは沼津の<ruby><rb>志下</rb><rt>しげ</rt></ruby>で、そこに某侯爵の別荘があった。引きめぐらした<ruby><rb>伊豆石</rb><rt>いずいし</rt></ruby>の塀の上に幾株かの夾竹桃が<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>さって、その<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>を茂らせていた。淡紅色で重弁の花が盛に咲いている。木の<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>はまるで違うが、花の趣が<ruby><rb>遠目</rb><rt>とおめ</rt></ruby>にはどこか<ruby><rb>百日紅</rb><rt>さるすべり</rt></ruby>に似たところがある。その後も志下にはたびたび<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>ったが、<ruby><rb>駐在所</rb><rt>ちゅうざいしょ</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>わき</rt></ruby>などに栽植せられているのを見るようになって来た。だんだん広く鑑賞せられて行くものらしい。切枝を地に挿して置けば<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く根が附く。三、四年もすれば花をもつ。これほどたやすく繁殖する木は、柳などを除いては、先ずないものかと思われる。

それから二年立って、明治二十七年に、鶴見は西遊を企てて九州へ往った。阪神地方の二、三の駅で、また夾竹桃を見かけた。あたりの殺風景に負けてもいずに、あの<ruby><rb>麗</rb><rt>うる</rt></ruby>わしい花を咲かせているのである。花は笑っている。微笑ではない。夏の烈しい日光に照らされて匂う高声の誇らしさを、天分の<ruby><rb>瑞々</rb><rt>みずみず</rt></ruby>しさで少しく<ruby><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby>げている。そのような笑いかたである。

鴎外は明治三十九年に九州に往った。『鶏』の一篇は鴎外が小倉に赴任当時の事実と観察との精密な叙述である。<ruby><rb>行文</rb><rt>こうぶん</rt></ruby>がまた<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る生彩に富んでいる。その中に夾竹桃が出て来る。

鴎外はその他に、もう一度夾竹桃を使った。それがこれから問題になるのである。

『阿部一族』のうちで、山崎にある阿部の屋敷に討ち入ろうとして、討手のものが払暁に表門の前に来る。その条下に板塀の上に夾竹桃が二、三尺伸びているように書いてある。徳川時代の初期、寛永年代のことである。夾竹桃がその時分既に渡来していたものか、そこに疑が生ずる。

しかしかかる疑念をうち消すために、こうもいえる。南蛮船が来航し、次で<ruby><rb>和蘭陀</rb><rt>オランダ</rt></ruby>からも<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来る。<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>との交通はもとよりのことである。香木の<ruby><rb>伽羅</rb><rt>きゃら</rt></ruby>を手に入れることで、熊本の細川家と仙台の<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>家との家臣が争っている。この事は鴎外の『<ruby><rb>興津弥五右衛門</rb><rt>おきつやごえもん</rt></ruby>の遺書』に書いてある。そんな時代の趨勢から見れば、夾竹桃ぐらいが伝っているのに、別段の不思議はないと。

それもそうであるが、果してそうであれば、それ以後の徳川期の文献に、何か記載がなければならない。殊に新奇を好んで<ruby><rb>飛耳張目</rb><rt>ひじちょうもく</rt></ruby>する俳諧者流の手にかからぬはずはなかろう。阿蘭陀西鶴に夾竹桃を読み込んだ一句でもあるか、どうだろう。そんな方面にも鶴見の見聞の領域は狭い。文献の有無を検討するにしても鶴見はまるで不案内である。こんな疑惑は<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>無知のさせる<ruby><rb>烏滸</rb><rt>おこ</rt></ruby>の沙汰である。そうであって欲しいと思って見ても、不審は解けない。

ただ、それにしても寛永ではあまりに早過ぎる。気にかかるのはそれだけのことである。鶴見の経験から推量しての<ruby><rb>言草</rb><rt>いいぐさ</rt></ruby>であるが、それを手離しでひっ込めようとする気にはなれない。

鴎外は名を知って物を知らぬということを、『サフラン』の書き出しに述べている。鶴見が夾竹桃の名を知ったのは明治二十五年の夏である。それまではどうであったかというに、東京で生れた彼は、実際のところ、その名をすら知らないでいたのである。名を知ったのは実物を見たのと同時であった。

この経験からいえば、夾竹桃の伝来は明治十年代でなければならぬように思われる。一個人の偶然の経験というものは確証には供し難い。譲歩はしなければなるまい。それはしようが、いくら譲歩して見ても、馬鈴薯の例などを参照して、先ず徳川時代の末か維新当座の頃ということになる。

鴎外が『阿部一族』で夾竹桃を使ったのには、何か拠りどころがあったであろう。『「プルムウラ」の由来』を見ると、脚本を書くとき、その現地の時候や<ruby><rb>花卉</rb><rt>かき</rt></ruby>のことまで当って見ねばならぬといってある。鴎外の文の精確であることは、いつもそれだけの用意を欠かさなかったところにある。

鶴見は今更のように、いらざる疑念を起したものとして、ひたすらに困惑するのみである。

「それにしても無知は致し方がないなあ。誰かの手でおれの無知の蒙を<ruby><rb>啓</rb><rt>ひら</rt></ruby>いてもらいたい。」そういって歎息しているが、疑惑は<ruby><rb>咀</rb><rt>のろ</rt></ruby>われてもなお執拗につきまとって離れない。

<ruby><rb>北平</rb><rt>ペイピン</rt></ruby>の<ruby><rb>胡同</rb><rt>フートン</rt></ruby>の石塀から表の街路に枝を出して、ここにもかしこにもといったように、夾竹桃が派手に咲いている。鮮やかな装いをした<ruby><rb>姑娘</rb><rt>クーニャン</rt></ruby>が胸を張って通り過ぎる。

夾竹桃はどうしても近代の雰囲気にふさわしい。

鴎外には『サフラン』という名文がある。

サフランは<ruby><rb>石蒜</rb><rt>せきさん</rt></ruby>とその寂しい運命を分け合っている。鶴見がまだ子供の時分、国から叔母が来ていたが、血の道の薬だといって濃い赤褐色の<ruby><rb>煎</rb><rt>せん</rt></ruby>じ<ruby><rb>汁</rb><rt>じる</rt></ruby>を飲んでいた。鶴見にはそれだけの思い出しかない。

名文といったが、鴎外の名文にもいろいろある。先ず『<ruby><rb>追儺</rb><rt>ついな</rt></ruby>』である。<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の古俗がどうのこうのといってあるが、実は文界の魔障を追い払う意味を裏面に含めたものである。<ruby><rb>劈頭</rb><rt>へきとう</rt></ruby>に自然主義が小説をかえって一定の型に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>め込む迷妄を破してあるのは表向きの議論であるに過ぎない。それをまた鴎外の文壇復帰の弁だとのみ思うのも皮相の見であろう。新喜楽の老婆の体のこなし方の好さから、多年<ruby><rb>鍛</rb><rt>きた</rt></ruby>われて来たその意気の強さまでが、さながらに、鴎外の魂が乗り移ってでもいるように、あの短い描写の中でまざまざと見える。赤いちゃんちゃんこを着たお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の鬼やらいを、鴎外はただ一人で見ている。演者と見者とがそこに合一している。

そのまた一つは『<ruby><rb>普請中</rb><rt>ふしんちゅう</rt></ruby>』である。鴎外としては最も感慨の深いものであろう。『舞姫』時代の夢がここによみ返って来る。その夢から見ると現在は何と変った姿であろう。また何という気分の分散であろう。身も心も境もおしなべて変っている。普請中の<ruby><rb>精養軒</rb><rt>せいようけん</rt></ruby>で、主人公が外国からやって来た<ruby><rb>昔馴染</rb><rt>むかしなじみ</rt></ruby>の女を待ち受けている。女が来る。主人公はここは日本だと云い云い女を食堂に案内する。給仕が附きっきりである。女がメロンが旨いのなんのという。そして、「あなたは<ruby><rb>妬</rb><rt>や</rt></ruby>いては下さらないのですね」という。中央劇場のはねたあとで、とある料亭で向い合って、おこったり、仲直りした昔のことを思い浮べる。冗談のつもりなのが、はからずも真面目な声になる。女は<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>しいと思う。女と一しょに演奏をしつつ世界を打って廻る相手の男のために、実は鴎外である主人公がシャンパニエの<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を上げる。それに<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えて杯を上げる女の手は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えている。

それから女を載せた車が銀座通を横切って芝の方へ行く。一<ruby><rb>輛</rb><rt>りょう</rt></ruby>の寂しい車である。どこにある銀座通やら、どこへ行く車やら。

その三は『花子』である。巨匠オオギュスト・ロダンの仕事場になっているオテル・ビロンでロダンは晴やかな顔つきをして、<ruby><rb>許多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の半成品を見渡している。恐るべき形の記憶力と意思の集中力とを有する異常なこの芸術家は、種々の植物が日光の下で華さくように、同時に幾つかの仕事を始めることが出来る。

戸を叩く音がする。花子が連れられて来たのである。「おはいり」という声は底に力が<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>っていて老人らしくない。

通訳に附いて来た医学士は別室でボオドレエルの『おもちゃの形而上学』を読む。ロダンはいう。「人の体も形が形として面白いのではない。霊の鏡です。形の上に<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>き<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>って見える内の<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>が面白いのです。」

この三篇はいつも識者からはそのどれかが名文だといわれている。鶴見ははじめからこの三つを名文だと思って見ていたのである。芥川竜之介も、鴎外の作中では『普請中』などをよく読めと、人に<ruby><rb>薦</rb><rt>すす</rt></ruby>めている。

傑作は名文を心としない。内容を重んずればそうもいわれる。しかし名文を伴わぬ傑作が果してあるだろうか。ここでは内容と、その表現形式の一致が望まれている。鴎外にはその一致がある。

『サフラン』がまた名文である。最も簡単であるだけにまた最も純粋でもある。

鴎外の筆に上ったサフランにも霊はあろう。その霊は鴎外の残るくまなき記述によって、定めし目を<ruby><rb>醒</rb><rt>さま</rt></ruby>して、西欧文物の<ruby><rb>東漸</rb><rt>とうぜん</rt></ruby>の昔をしのんでいることであろう。鶴見はそこが<ruby><rb>波羅葦僧</rb><rt>ハライソ</rt></ruby>の浄土であらんことを、切に願っている。

重ねていう、『サフラン』は名文である。

  


## 出生

人の子が或る日或る所に生れる。

そういうことを鶴見はぼんやりした気分で考えていた。それはそれなりのことで、殊更に思を費やすにも当らぬように見える。その生れて来た子が凡俗であればあるほど、つまらぬことである。しかし思い返してみれば、その子が生れて来たばかりに、何かは知らず、人間社会の片隅で、抜きさしのならぬ隠れた歴史を営みはじめる。どんな凡庸なものにもその人相応な歴史はあるものである。

鶴見は今そんな風に思ってみて、凡庸人の歴史を回想の中に探ろうとしている。

雲ともつかず霧ともつかぬものが一面にはびこって、回想の空間を灰色に塗りつぶしている。それが少しずつ動き出すらしい。鶴見は先ずそのけはいを感じたのである。そして目を据えて雲霧の動きを見極めようとしている。

雲霧は<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろに流れて来ては、ふっと<ruby><rb>滅</rb><rt>き</rt></ruby>えてゆく。おなじ動作が幾たびか繰り返される。雲霧は或る所まで来ると、必ずその所で滅えるのである。滅えて滅えて、そのあとがほんのりと明るくなる。

これは<ruby><rb>瑞兆</rb><rt>ずいちょう</rt></ruby>だ。小さな魂が新しい肉体に宿って現われて来るには、またとない潮時である。生れて来る子のために祝ってやれば、たったこれだけのことでも、瑞兆といっても好い。その<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に何一つ変ったことも起ってはいないからである。

もやもやとした雲霧の渦流する中に、一点でも明るいところが示されたこと、そのことを空漠たる回想を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って読み取っていた時、果して、その時その家で、平凡な子供が一人生れ落ちた。鶴見は今それを思い出して、こそばゆいような気持になる。どこかに暗愚の<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>でもくっつけてはいなかったかと、無意識に、首筋のあたりを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>で<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>している。生れて来たのは、実は、鶴見自身なのである。

出生した子供はひよわらしい。どうせ<ruby><rb>娑婆塞</rb><rt>しゃばふさ</rt></ruby>ぎであろうが、それでも<ruby><rb>産声</rb><rt>うぶごえ</rt></ruby>だけは確に挙げた。持前の高笑いは早くもその時に<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>していたものと見える。明治八年三月十五日の事である。ただし生れた時間は分らない。

鶴見はそれを<ruby><rb>憾</rb><rt>うら</rt></ruby>みとして、繰り<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げた回想の頁の上に<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな光のさしている一点を、指さきでしっかり押えた。感応がある。ぴったり朝の六時。それでなければならない。彼はそうと、独り極めに極めてしまって、

「おお、これがおれの道楽かな。その子の出生は午前<ruby><rb>正</rb><rt>しょう</rt></ruby>六時、好い時刻だ。それに三月十五日、明治八年か。それで事はすっかり明白になった。いや、維新変革の後八年。ちょっと待てよ。それでは<ruby><rb>上宮太子</rb><rt>じょうぐうたいし</rt></ruby>御生誕後幾年になる。」

これには鶴見も途方にくれている。<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>に一冊の年表でもあれば頼りになるのであるが、それもない。やっとのことで、大正十年が一千三百年の<ruby><rb>遠諱</rb><rt>おんき</rt></ruby>に当るということに気がついた。『日本書紀』は文庫本でこの頃手に入れたが、その本文から年代の<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>った知識を得ることは容易でない。年表がやはり必要になってくる。幸に鴎外の集なら借覧を許されていた。その集の中に、ふだんは余り注意しない文章であるが、『聖徳太子<ruby><rb>頌徳文</rb><rt>しょうとくぶん</rt></ruby>』というのがある。「皇国啓発の先覚、技芸外護の恩師」と冒頭に書き出してある、あの文章のことである。鴎外はこの<ruby><rb>祭文</rb><rt>さいもん</rt></ruby>を太子一千三百年遠諱記念の式場において、美術院長の資格で読み上げたことになっている。大正十年四月十五日である。これは確な資料に違いない。鶴見はそれを手がかりとして、更に<ruby><rb>平氏</rb><rt>へいし</rt></ruby>撰と称されている『<ruby><rb>伝暦</rb><rt>でんりゃく</rt></ruby>』を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて見た。静岡からこの地に舞い戻って来た当時古本屋をあさって『五教章』の講義と共に、最初に購ったのがこの書である。彼の頭にいつも太子がこびりついていた。それでこういった書物は計画的に出ないでも、自然に<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>にはいってくる。それを彼は格別怪しみもしないでいる。

鶴見はその『伝暦』を見て、太子<ruby><rb>薨去</rb><rt>こうきょ</rt></ruby>の時の<ruby><rb>宝算</rb><rt>ほうさん</rt></ruby>が四十九歳、または五十歳でおわしたことを知った。「そうして見れば、明治八年は薨去後一千二百五十年。それに宝算を加えて、まあ、ざっと一千三百余年になる。計数のことは不得手だが、そんなところだろうな。妙なことをいうようだが、おれの回想のなかで産声をあげた小さな魂は、幸か不幸か、そんな年廻りを身につけて生れて来たのだ。これが歴史の<ruby><rb>業因</rb><rt>ごういん</rt></ruby>というものだ。」

この時、突如として例の<ruby><rb>景彦</rb><rt>かげひこ</rt></ruby>が現れる。景彦は目を<ruby><rb>瞋</rb><rt>いか</rt></ruby>らしてはいるが、言葉は急に口を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて出てこない。しわがれたような、慎み深いささやきが聞える。それはただの一言である。

「たわけめ。」

鶴見はこれを聞いてぞっとした。しばらくしてから、こういった。

「生れて来た子供は、よかれあしかれ、そんな運命の<ruby><rb>枷</rb><rt>かせ</rt></ruby>の中で苦しまねばならないのだ。その子供は歴史を作るどころか、定められた歴史の網に<ruby><rb>縛</rb><rt>いまし</rt></ruby>められた小鳥に過ぎない。<ruby><rb>翼</rb><rt>つばさ</rt></ruby>はあっても、自由に飛び立つことも出来ない。社会は彼を手もなく<ruby><rb>押</rb><rt>お</rt></ruby>し<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>してしまう。しかし明治維新後八年、上宮太子降誕一千三百余年は、彼自身が彼を記念するには好い年代である。それがただ一つの記念である。誰が何といおうとも、これだけは彼の体から<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>取</rb><rt>と</rt></ruby>れない。彼のために彼を笑ってやれ。その笑が<ruby><rb>痛哭</rb><rt>つうこく</rt></ruby>であろうとも、自嘲であろうとも、解除であろうとも、それはどうでも好い。ただ<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に笑ってやれ。そう思っているのだ。たとえたわけと<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>られても、彼は満足しているのだ。」

こういってしまうと、鶴見も少しは胸が晴々とした。景彦に答えるのではない。まして弁解どころではない。鶴見は、この場合、言いたいことを言っただけである。

景彦の姿は<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かにおぼろげになって、遠くかすんで行った。幽微な雰囲気が、そのあたりに<ruby><rb>棚引</rb><rt>たなび</rt></ruby>いている。ほのかな<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>が少しずつ凝集する。物がまた<ruby><rb>象</rb><rt>かたど</rt></ruby>られて<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆら</rt></ruby>めくように感ぜられる。鶴見は、そこに、はからずも、<ruby><rb>畏</rb><rt>か</rt></ruby>しこげな<ruby><rb>御影</rb><rt>ぎょえい</rt></ruby>を仰ぎ見たのである。<ruby><rb>太秦</rb><rt>うずまさ</rt></ruby>広隆寺の<ruby><rb>桂宮院</rb><rt>けいきゅういん</rt></ruby>に納めてある太子の御尊像そっくりであった。左右に童子を随えて、<ruby><rb>笏</rb><rt>しゃく</rt></ruby>を捧げて立たせたまう、あの聡明と威厳を備えた御影である。

鶴見はうっとりとして目を<ruby><rb>瞑</rb><rt>つぶ</rt></ruby>った。目を瞑りながらもなお御影を仰いでいたのである。

和国の教主聖徳王の和讃がどこからともなく流れて来ては去る。その<ruby><rb>讃頌</rb><rt>さんしょう</rt></ruby>の声がいつしかしずまる。もはや聞えなくなったかと思うと共に、今まで仰ぎ見ていた御影もまた<ruby><rb>滅</rb><rt>き</rt></ruby>えて行った。

そして、この<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>に生れて来たのは、男の<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>であった。

その子の父親はわざと産室に顔を出さずにいる。同宿をさせていた友達の一人と二階に上って、この日はひっそりと話し合っていた。友達というのは同じ郷里から出てきた後輩で、同じ役所に勤めているのである。そこへ下から、男の児が無事に生れたという知らせがあった。

主人の父親は、無愛想に、そうかといったきり、にこりともしない。友達の方がかえって、「それはめでたい」といって喜んでいる。

この家の主人は明治の初年に、藩中で<ruby><rb>三平</rb><rt>さんぺい</rt></ruby>の随一と呼ばれたほどの人物の従者になって、あこがれの東京に出てきた。むずかしい表情はしているものの、やはり社会大変革の手が当時の若者に分与した夢を抱いていたのだろう。<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>でも<ruby><rb>応</rb><rt>おう</rt></ruby>でも抱かねばならなかった立身出世の夢である。

今は昔で、既に過去となりきって、どこにも支障があろうはずもなかろうからと、鶴見も打明け話をする気になっている。これまで誰にも語らなかったものだけに、多少気遅れもするが、大木氏の従者となって上京したということも、父から直接聞かされていたのではなかった。これは大木氏の<ruby><rb>継嗣</rb><rt>けいし</rt></ruby>であった遠吉伯の手で、先代伯爵の東京遷都建白等について、その前後の経緯を纏めて編著された冊子があり、その書の公刊を見るに及んで、書中に引用された日記か何かによって、はじめてその事実を知ったぐらいな始末である。

前に三平といったが、佐賀藩の三平が、江藤新平、大木民平、古賀一平だというのは、ここに事新しく述べるまでもない。江藤氏は周知の如く悲劇に終り、古賀氏は不遇を<ruby><rb>託</rb><rt>かこ</rt></ruby>って振わなかった中にあって、大木氏は伯爵家を起すまでに時めいた。寛仁大度の天資が、変遷ただならぬ世に処して、その徳を潤おした結果かとも思われる。

そんな<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>から、この家の主人は、あとあとまでも伯爵家の恩顧を蒙りもし、また伯爵家のために、生涯骨身を惜しまずに誠意を尽した。

この主人がこうして男の児を設けた現在の家に<ruby><rb>落</rb><rt>お</rt></ruby>ち<ruby><rb>著</rb><rt>つ</rt></ruby>いてから、まだ二年とは立っていないようすである。結婚したというものの、それもこの家と地所とを買入れて移って来てからのことであるかどうかさえ、よくは分らない。以前は青山にいた。多分部屋借りをしていたのだろう。その頃はやった文人趣味にかぶれて、画ごころのあったところから、梅や竹なんぞをひねくって、作れもしない絶句を題して、青山居士と署した<ruby><rb>反故</rb><rt>ほご</rt></ruby>が、<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>り<ruby><rb>貫</rb><rt>ぬ</rt></ruby>きの箱の中に久しくしまってあった。芝の増上寺が焼けたのは、おれが青山にいた時だといっていた。鶴見はその話をかすかにおぼえている。

主人が結婚したのは青山にいた時か、現在の家に入ってからか、はっきりしないといったが、それが正式の結婚であったかどうかも疑えば疑われる。戸籍の問題などにもその頃は一般に不注意であった。とにもかくにも、この家の主人が既婚者の一人であって、現在妻を郷里に残して置き、しかもその妻に二人の女児を生ませていた。知り得る限りにおいて、これだけはその通りであったと認むるより外はない。

しからばおれの母は何であったろう。鶴見はこれまでも、幾百たびとなく、その事を思ってみた。彼の脳裡には、絶えず、往来する影がある。その影は解決を得ない不安をにれ<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んで、<ruby><rb>執</rb><rt>しゅう</rt></ruby>ねくも離れようとしない。それが殆ど彼の生涯にわたっているのである。

考えれば考えるほど胸が痛む。鶴見は堪えられなくなった。はっきりとはおぼえていないがもはやそれから十年は立ったであろう。その彼にも、その苦痛を、冷静に、淡々たる一句に<ruby><rb>約</rb><rt>つづ</rt></ruby>めて表現し得る或る日が到来した。少しばかりの余裕が心の中に<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>した<ruby><rb>賜物</rb><rt>たまもの</rt></ruby>といっても好い。鶴見にはその日にはじめて<ruby><rb>発心</rb><rt>ほっしん</rt></ruby>が出来たのである。

「おれの母は凡庸な世の常の女であった。それに違いはあるまい。しかしそうであったとしたところで、その母をなんといって、おれにも分り他にも分るようにさせたら好いであろうか。――おお、それ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">市井の女</span>。」

市井の女。ただ一句である。鶴見はこの一句のために、その一生を賭けていたといっても好い。人知れぬ痛苦は彼の心身を腐蝕していた。そして歪められたのは彼の性情であった。

この市井の女という言葉は、普通ならば、かかる場合に、呪いをこめた文句として吐かれたことであろう。その方がまたふさわしくもある。しかしこれは鶴見が苦しみぬいたあげく、後に到達した冷徹の心境である。鶴見は正直にそう思ったのである。「この一句には信念に通ずるものがある。呪いの言葉であって好かろうはずがない。」

単にこの句を舌頭に転ずるには、彼に取って、本来余りにも複雑な意義を含む言葉である。鶴見はそこから俳諧の芸術的精神を見極めようなどとしたのでは毛頭ない。鶴見はこの言葉を心の奥の奥、深淵の中で、うち返しうち返してみた後に、すべての暗い雑念を遠離して、この単純なる告白の言葉を得たものと信じている。複雑に徹した単純である。彼は今それをよろこんでいる。わずかに一句の<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>が彼を身軽にする。

聖徳太子四歳の<ruby><rb>御時</rb><rt>おんとき</rt></ruby>のことと伝えられている。みずからその<ruby><rb>笞</rb><rt>むち</rt></ruby>をうけんと、父皇子の前に進んで出られた。兄弟の諸王子たちが互にいさかって叫んでいたのを、父皇子がたしなめようとして笞を取っていられたのを、はやくもそれと知って、諸王子たちは逃げかくれている。太子だけは衣を脱いで父皇子を拝して、その罰をみずから受けられようとしたのである。鶴見はその伝説を思い浮べている。これこそ代衆生苦の御念願である。

鶴見はこれまで重荷にしていた痛苦がこの代衆生苦の御念願によって、<ruby><rb>冥々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>のうちにあっていつの間にか救われているのだろうと思う。それをそうと信ぜさせられた時、その市井の女はいよいよ<ruby><rb>些</rb><rt>いささか</rt></ruby>の<ruby><rb>歪曲</rb><rt>わいきょく</rt></ruby>をも<ruby><rb>容</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さぬ真相を示すのである。世間も、彼の母も、その母の地位も、すべて残る<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>なく、彼の心眼に映って来る。そこには欺瞞も虚飾もない。彼はそれを臆する色もなく見詰めている。それでいて、もはや心に動揺をおぼえるというようなことはない。

鶴見は、ここに、一つの安心を得たのである。

「何はともあれ、男の子が生れたのはめでたい。あなたには国に置いて来た女の子はある。男の子を設けたのは今度がはじめてなのだ。早速名を附けなければいけませんね。その内に戸籍の方へ届出もしなくてはなりません。どんな名が好いか。一つ案を立ててみたらどうです。」同宿の友の川西がそういった。

「子供は今生れたばかりだ。生い立つことが出来そうかどうかもまだ分らない。だが名を附けるとしたら、生れた町の名をそのまま貰ったらどんなものだろう。川西さん、それが分りやすくて好いね。第一に命名のために工夫を費やすなどという面倒を見ないですむ。先ずこうだね。」父親はそういって、畳の上に隼という字を大きく書いて見せた。

「なるほど。はやぶさと<ruby><rb>訓</rb><rt>よ</rt></ruby>ませるのですか。それでは余り<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に過ぎはしませんか。こうしたらどうでしょう。もう一字足して二字名にしては。隼男というように。」

この川西の提案に父親はすぐ賛同した。川西はそうと極まったなら、そのうちに戸籍の方へ届出をしようが、その手続は引受けたといって、父親をよろこばした。この父親は<ruby><rb>他</rb><rt>ひと</rt></ruby>の世話はよくしても、身辺の雑事で面倒を見るということが何よりも嫌いなのである。

鶴見は父が死ぬまでに、区役所などに出頭するのを一度なりとも見たことがない。記憶のどこを探しても、そんなためしは皆無のようだといって、<ruby><rb>匙</rb><rt>さじ</rt></ruby>を投げる。

それが家族に対しては、制度と秩序とを、<ruby><rb>細</rb><rt>こま</rt></ruby>やかにむしろ厳格に、守らせていなければ気が済まなかった父であった。しかるに社会生活においては、その新制度を極端に面倒ぐさがった。まだそういう観念と義務とに慣らされていなかったせいもあったろうが、父は生来片意地な性格の一面を持っていた。新時代の要請に容易に志を<ruby><rb>遷</rb><rt>うつ</rt></ruby>すということをなしえなかったのである。

その父が法律や規則などを<ruby><rb>煩</rb><rt>うる</rt></ruby>さがっていながら、当時は司法省に勤めていた。矛盾のようであるが、父の係りは<ruby><rb>営繕課</rb><rt>えいぜんか</rt></ruby>であった。建築の方で起用せられていたのである。築城の素養があるといって、それが自慢の一つであった。

各藩の城廓の平面図に淡彩を施したのが、何十枚となく<ruby><rb>一綴</rb><rt>ひとつづ</rt></ruby>りにしてあった。これが恐らく父の丹精によって集められたものであろう。<ruby><rb>反故</rb><rt>ほご</rt></ruby>同様に取扱われていても、鶴見の家に長らく残っていて、そんな書類の中でも異色を放っていた。鶴見はそれを見るたびに、父の自慢もまんざらではなかったらしいと思うのである。

鶴見はこうして、東京<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby><ruby><rb>隼町</rb><rt>はやぶさちょう</rt></ruby>で生れたことになっている。府内は大小区に分けられていたかと思うが麹町隼町に変りはない。幕府でお<ruby><rb>鷹匠</rb><rt>たかじょう</rt></ruby>を住まわせて置いた町だといわれている。鶴見の家のあった方は、いわゆる三軒家の通りで、<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>の三宅侯の邸地からつづいて、その大部分は旗本の大名屋敷の跡であった。お鷹匠ばかりでなく、三宅侯の邸内にはあの画技に<ruby><rb>勁烈</rb><rt>けいれつ</rt></ruby>な意気と共に軽妙な写生の一面を<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>き、現実に早くから目を醒ましていた蘭学者の渡辺崋山が住んでいたのである。その家はどのみちここから直ぐに手の届きそうな近所であったに違いない。鶴見の生れた場所はそんなような由来と歴史とを持っていた。

鶴見にはこの町名に<ruby><rb>因</rb><rt>ちな</rt></ruby>み、動物に因んだ隼男というのが好ましかった。彼がここで特にそういうのは、別に<ruby><rb>正根</rb><rt>まさね</rt></ruby>という名を持たされていたからである。父親の同僚に誰か読書人がいて、隼の<ruby><rb>字面</rb><rt>じづら</rt></ruby>の殺伐さを嫌って、こんな雅名を与えたものであろう。しかし小供の呼名としてはかえってこの名が呼びよかったので、父親は鶴見の幼年時に、よく正根といって、彼を呼び寄せた。鶴見は後にそれを別号のようにして使うことにしていた。

鶴見の家には古い手文庫が一つあった。工芸品といっても月並の程度は出ていない。塗りにも<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>にも格別特色は見られなかった。それでも、昨年静岡の家が焼けるまでは、客間の<ruby><rb>床脇</rb><rt>とこわき</rt></ruby>の<ruby><rb>違棚</rb><rt>ちがいだな</rt></ruby>に飾ってあって、毎朝<ruby><rb>布巾</rb><rt>ふきん</rt></ruby>で、みずから<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>っていた。長年の間、そうやって、彼が手しおにかけていたものである。

その文庫というのは、<ruby><rb>頃合</rb><rt>ころあい</rt></ruby>の<ruby><rb>手匣</rb><rt>てばこ</rt></ruby>で、深さも相応にあり、<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>は<ruby><rb>中高</rb><rt>なかだか</rt></ruby>になっていて柔かい円みがついている。蓋の表面には、少し低めにして、おもいきり大きい<ruby><rb>銀泥</rb><rt>ぎんでい</rt></ruby>の月が出してある。古くなって手ずれたせいもあろうが、それはほんのりとした夢である。一むらの<ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>が金線あざやかに、穂先を月のおもてに<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>かせる。薄の穂は乱れたままに、蓋から胴の方へ<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>みだして来る。外は蝋色ぬり、内は<ruby><rb>梨地</rb><rt>なしじ</rt></ruby>である。

<ruby><rb>匣</rb><rt>はこ</rt></ruby>の中には、父親が若いころ、時の流行にかぶれて道楽にかいた書画に<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>した大小の雅印が入れてあった。銅の<ruby><rb>糸印</rb><rt>いといん</rt></ruby>などもまじっている。蝋石の頭に<ruby><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby>の<ruby><rb>鈕</rb><rt>つま</rt></ruby>みを彫った印材のままのものがある。箱入の<ruby><rb>唐墨</rb><rt>からすみ</rt></ruby>がある。<ruby><rb>雌黄</rb><rt>しおう</rt></ruby>なんどの絵具類をまとめた<ruby><rb>袱紗包</rb><rt>ふくさづつみ</rt></ruby>がある。そんなものが匣の大半を埋めていて、その<ruby><rb>上積</rb><rt>うわづみ</rt></ruby>のようになって、やや大型の女持の<ruby><rb>懐中物</rb><rt>かいちゅうもの</rt></ruby>がある。

それは<ruby><rb>錦襴地</rb><rt>きんらんじ</rt></ruby>の色の<ruby><rb>褪</rb><rt>さ</rt></ruby>めた紙入であるが、開けてみると長方形の小さな鏡が<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>め<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んであるのが目につく。鏡は曇っている。仕切りがあって、袋になっているところに、紙包がしまってある。鶴見がなつかしがるのは、これがその正体である。明治八年三月十五日出生隼男と明記した包の中から<ruby><rb>干乾</rb><rt>ひから</rt></ruby>びて黒褐色を呈したものがあらわれる。<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>の<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>である。

臍の緒の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に、も一つ、鶴見がいよいよなつかしがる記念品がはいっている。これには説明も何もない。それは当時はやった<ruby><rb>手札形</rb><rt>てふだがた</rt></ruby>の<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>写真である。わかい一人の女性が<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に腰をかけている。小ざっぱりした衣装には、これも当時の風俗のままに<ruby><rb>繻子</rb><rt>しゅす</rt></ruby>の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がかかっている。顔は何かなしに<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れて見える。それで年の割にふけて見えるのではないかとさえ思われる。顔だちは先ず尋常である。<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>の<ruby><rb>釵</rb><rt>かんざし</rt></ruby>もつつましい。よく気を入れて見ると、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の毛がちとほつれたまま写っている。顔に窶れの見えるのはそのためであるかも知れない。

写真はそれだけのものである。黙っている。それがつくづくと見ていると、沈黙を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いられているようにしかおもわれない。黙ってはいるが、今にも唇がほころびそうでもある。またこうも思われる。堅く押し黙っていることが物を一層よく語っているではなかろうかと。写真はそんなふうに黙りきって、永久にこちらを向いている。

鶴見はこの写真を、おりおり、こっそり引き出して、ながめ入ることがある。紙入に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めてある鏡を拭って、拭い切れぬ水銀のさびを悲しみながら、その鏡に自分の顔をうつして、かの写真とこの面影とを見較べて、身じろぎもせずに何か考え込むことが、これまでも、しばしばあった。かれとこれとにどこか似ているところがありはせぬかと、そういうように思われるからである。

「お前も随分年を取ったね。」どこからか、こういう声が聞えてくる。「お忘れかも知れないが、わたしがお前の生みの親だよ。母親だよ。お常だよ。」

鶴見の実母はお常といった。

彼はその名を胸の奥の<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>の<ruby><rb>臓</rb><rt>ぞう</rt></ruby>にきざみつけて、一生を守りどおして来たのである。忘れるどころではない。

しかし母親の里方については、鶴見には一切知らされていない。この母親には鶴見が六歳の年に別れた。どうして離籍されたか、それも知らされていない。町内にあった平河小学に入校した年である。その後母親は学校の昼休みの時間を見はからって、逢いに来たことが一度ある。近所の店に連れて行かれて、好きなものを食べさせてもらった。その時の母親は藤ねずみのお<ruby><rb>高祖頭巾</rb><rt>こそずきん</rt></ruby>に顔をつつんで、人目を避けていた。冬の頃かと思う。その姿を、鶴見はまざまざと、いつであろうとも、<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりに思い浮べることが出来る。

  


## 幼年期

鶴見の心眼の前を、例によって、幼年時の追憶の断片がちらちらと通り過ぎる。それが<ruby><rb>譬</rb><rt>たと</rt></ruby>えていえば、小川に洗われて底に沈んでいる陶器の破片が<ruby><rb>染付</rb><rt>そめつけ</rt></ruby>や<ruby><rb>錦手</rb><rt>にしきで</rt></ruby>に<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>られた草木<ruby><rb>花卉</rb><rt>かき</rt></ruby>の模様、アラベスクの鎖の一環を反映屈折させて、水の流れと共にその影を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>らめかしているかのように見える。

その一つ。青緑の海が逆立ちになっている。いきなり海がそう見えたというのは、その時の偽ることのできぬ心像であったのだろう。海が平面から立ちあがって急傾斜をなしているそのままのものを肯定して不自然とも何とも思わなかった。海をはじめて見た幼い日の<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きょうがく</rt></ruby>の念は、それが引き起した錯覚に強調されて、いつまでも<ruby><rb>滅</rb><rt>き</rt></ruby>えずに残って来ているのである。見ていると、その海の急傾斜の面を、煙筒から黒い煙を吐いている小蒸汽船がことことと機関の音をさせて転覆もせずに快調にすべってゆく。エドガア・アラン・ポオにあの名高いメエルスツルムの<ruby><rb>渦潮</rb><rt>うずしお</rt></ruby>の恐ろしい記述がある。いわば海も船もあんな状態であるが、今ここに挙げる心像にはいささかの危険も伴わないのである。

回想はもちろんこれ以上には<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がらない。汽船は進行を続けているはずであるのに、始終同じところを運転しているように思われるのが、この不思議な画面に一種の落著きを与えている。場所は<ruby><rb>芝浦</rb><rt>しばうら</rt></ruby>、海は東京湾である。

その二つ。京橋の<ruby><rb>数奇屋河岸</rb><rt>すきやがし</rt></ruby>である。或る家の二階の窓から母と一しょに火事を見ている。よくは見えぬが茶褐色の煙が向うにあがっている。「坊ちゃん。火事はお<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の近所です」と誰やらが告げる。母は心配して、すぐ帰り仕度をして、車を急がせた。帰り著いて見ると、形勢は穏かでない。町筋は人と荷物で混雑を<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めている。

「こんなところへ小供を連れて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来てはあぶない。」父であったか他の人であったかわからなかったが、叱るようにいう。

すごすごとまた同じ車でもとの河岸ぷちの家に戻る。そうこうするうちに日が暮れて来る。二階の窓から向うを見る。昼間煙の<ruby><rb>簇々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>と立っていたその方角の空を、夜に入って、今度は火焔が赤々と染める。とうとう不安のうちに一夜をその家で過ごすことになった。これが恐らくは、母の膝に乗り腕に抱かれていても、なお人生には不安のあることを<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>ったはじめであったろう。

その三つ。突如として大きな音響が聞える。それと同時に、<ruby><rb>玉屋</rb><rt>たまや</rt></ruby><ruby><rb>鍵屋</rb><rt>かぎや</rt></ruby>の声々がどっと起る。大河ぶちの<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>を一ぱいに埋めた見物客がその顔を空へ<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>ける。顔の輪廓が<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くのあいだくっきりと照らし出される。天上の星屑の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に、人工の星が閃光を放って散乱し爆発する。それを見るために集った人々である。こまかい花火の技巧を鑑賞するのでは<ruby><rb>素</rb><rt>もと</rt></ruby>よりない。玉屋鍵屋の競争もその頃は既になくなっていたと考証家はいう。しかしそんなことはどうであろうとも、ただこの伝統的な河開きの気分を味えば好いのである。壮快という感じがその気分の一部分を占めていて、それが万人に共通する。都会における日常生活の屈托と不平とが一時に解消するように感ぜられるからであろう。

鶴見は花火が殊に好きで、<ruby><rb>両国</rb><rt>りょうごく</rt></ruby>の河開きには一頃毎年欠かさずに出掛けて行った。

先年静岡に移ってからのことである。近郊の<ruby><rb>有度村</rb><rt>うどむら</rt></ruby>の農家から、<ruby><rb>草薙社</rb><rt>くさなぎしゃ</rt></ruby>に奉納の花火があるから一度は見ておいてもらいたい、桟敷も好い場所を取ってあるという。今の主人の父親がまだ隠居せぬ時のことであった。花火のようすはその前から若主人を通じて聞かされていた。<ruby><rb>打揚</rb><rt>うちあげ</rt></ruby>も多数あるが、その夜の興味の中心は流星という仕掛ものにある。そしてその仕掛の特殊の構造も図示されたので、大概は承知していた。

当日は若主人が迎えに来て、丁重な夕食を<ruby><rb>相客</rb><rt>あいきゃく</rt></ruby>と一しょに馳走になった。膳の上には一皿の小魚の煮附が載っている。それが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もろこ</span>であると説明しておいて、老主人はひどく土地の<ruby><rb>訛</rb><rt>なまり</rt></ruby>のある言葉でなおもいい足した。自分は海の魚をあまり好かない。この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もろこ</span>は近所の川で今朝<ruby><rb>漁</rb><rt>と</rt></ruby>ってきたものであるというのである。鶴見にはそれが何よりの珍味であった。

老主人は草薙社への参道である一筋の夜みちを幼児の手を引くようにして、鶴見をみちびいて、親切にも案内された。人家もない畑の傍をたどって行くので足もとは暗い。その上に人が先を争って押合っていたからである。

社前に<ruby><rb>著</rb><rt>つ</rt></ruby>くと、<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>や露店などの明りがさして薄ぼんやりと明るくはなっているが<ruby><rb>雑沓</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>はいよいよ激しい。見ればその真中を村の青年たちがおおぜいかかって、太い縄のようなものを<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで、それに繋がって静に歩いてゆく、その傍に立って、一人列を離れて<ruby><rb>音頭</rb><rt>おんど</rt></ruby>を取っている<ruby><rb>老爺</rb><rt>ろうや</rt></ruby>がある。がんじょうそうな小柄な男である。肌脱ぎの中腰になって、体を左右にゆすぶりながら、右の手に持った<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>るようにして<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>って、しきりに何やら<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いている。多少だるそうにも見える青年の行列に対照して、これはまた異常な熱狂ぶりである。太い縄のようなものといったのは、流星に火を点ずる時の導線となるもので、その中に火薬が詰めてあるとのことである。

桟敷は社外の畑に多数設けられてある。丘陵の側面などにも点々として灯が見える。その<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>一体に人が充満していて動きが取れない。甲州辺からも<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来る見物客もあるという話である。やがて打揚がぽんぽんとあがる。桟敷では歌謡の斉唱がはじまる。一方からそれが起ると<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちに四方に<ruby><rb>伝播</rb><rt>でんぱ</rt></ruby>する。そして幾度も反復される。田の蛙の鳴き交す声々の嵐そのままに感ぜられる。

そのうちにいよいよ流星に火が附くというものがある。正直のところ鶴見ははじめからそれほどの大光景が見られるものとは期待していなかった。それがまたどうしたことか、五彩の星が乱れ飛んだぐらいで終ってしまった。あまりにもあっけない。「あれは遣りそこなったのだ」といって皆が失望している。流星は長い間の伝統を維持して来ただけに、構造製作が原始的であるのは<ruby><rb>免</rb><rt>まぬ</rt></ruby>かれ難い。しかもここ数年中止していた<ruby><rb>挙句</rb><rt>あげく</rt></ruby>のことで、余計<ruby><rb>不手際</rb><rt>ふてぎわ</rt></ruby>になったのであろう。それでも鶴見は満足した。鶴見としては彼の花火に関する閲歴にめずらしい一例を加え得たのである。米国大統領の観覧に供した両国橋<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>の大花火のことが自然に想起される。それは母に抱かれていた幼時のこと、これは草深い地方の田園で由緒ある花火に興じたこと、恐らくはこれがおれの花火に関する閲歴のとじめになるだろう。鶴見はそう思ってみて、更に深い感慨に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>るのである。

さて元へ戻るにしても、母の膝にあがって仕掛花火に火のつく<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>ごとに手を<ruby><rb>拍</rb><rt>う</rt></ruby>ってよろこんだ元の桟敷へは戻れない。深々と<ruby><rb>幌</rb><rt>ほろ</rt></ruby>をかけた車の中で、帰路を急がせる切ない思いをして、母はしっかり幼児を抱えている。花火見物の最中に天候が一変してひどい雷雨となったからである。電光が幌を破るようにして<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>から射し込んで来る。おりおり<ruby><rb>神解</rb><rt>かみと</rt></ruby>けがするもようである。<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じいその音響に湿気を帯びた重い空気がびりびりと震動する。

このありさまに車夫も走るのをためらって、暫くのあいだ車を<ruby><rb>駐</rb><rt>と</rt></ruby>めた。そこはとある店屋の前であった。

ここに不思議な記憶の破片が残っていて、その店屋の菓子屋であるということが確められる。車を駐めたのは日本橋の裏通りあたりではなかったかと、ついそんな気がさせられる場所である。あとから立ち入って考えて見れば、車をそこに駐めたのは、母が名物のみやげでも買うつもりであったかとも思われる。それはともかく、そういうところが菓子屋であるという、店の格好から来る印象は前々から既に強く受けていたものがあったにちがいない。幼いなりに、またそれだけに、そういう印象を拠りどころにして、無意識にもせよ、それとこれとを比較する能力をいつかしらに蓄えていたにちがいない。その比較の証拠に立つのは麹町三丁目の船橋である。

船橋は有名な<ruby><rb>古肆</rb><rt>こし</rt></ruby>で、<ruby><rb>御菓子司</rb><rt>おかしづかさ</rt></ruby>の称号を<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>に染め出していた<ruby><rb>御用達</rb><rt>ごようたし</rt></ruby>である。屋号を<ruby><rb>朱漆</rb><rt>しゅうるし</rt></ruby>で書いた墨塗の菓子箱が奥深く積み重ねてあって、派手な飾りつけは見せていない。<ruby><rb>番頭</rb><rt>ばんとう</rt></ruby>がその箱を持って来たり、持って行ったりして、物静かに立ち働いている。すべてが地味で堅実らしい。その店へよく母に連れられて行った。それをしっかり覚えているのである。たまたま雷雨に<ruby><rb>阻</rb><rt>はば</rt></ruby>まれて車を駐めたその店がちょうど船橋と同じ格好である。そんなわけから、その店が菓子屋であったということを、今だに疑わずにいる。

その四。西郷星というものが出るといっておどかされていた。どんな恐しい星であろうか、臆病な鶴見はついに見ずにしまった。そのころのことである。島原の<ruby><rb>新富座</rb><rt>しんとみざ</rt></ruby>で西郷隆盛の新作の芝居が打たれた。あれは多分<ruby><rb>黙阿弥</rb><rt>もくあみ</rt></ruby>の脚色に成ったものであったろう。連日の大入であったそうである。この芝居へも母に連れられて見に行ったものの、<ruby><rb>平土間</rb><rt>ひらどま</rt></ruby>はもとよりどの桟敷も超満員で、その上に入り込むだけの余裕がない。なんでも<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざがしら</rt></ruby>の席とかで、正面の高いところへ無理に押し上げられた。そこまでは<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かにおぼえているが、印象はそこで消えて、その先は思い出せない。その代りここまでくると年代はよほど明かになる。この芝居も折から来朝中の米国大統領グランド将軍の観覧に供えたものという。もしそうとすれば明治十二年である。果してこの年であれば鶴見が戸籍面四歳の時である。

もっと零細な記憶の破片なら幾らでも拾われよう。そうは思うものの、その数はいたって少ないものである。漸く拾いあげたものを次に列挙する。

<ruby><rb>多摩川</rb><rt>たまがわ</rt></ruby>の渡し場。そこから川上に富士を仰ぎ見たこと。これは大師詣の<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>すがらであったのだろう。それから品川の料亭で、愛想の好いお<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に、「坊ちゃん。あそこをご覧なさい。お舟がきれいに明りをつけていごいていますね。」少女はそんな言葉をささやいた。母に連れられて、どうしてそんな場所に来ていたものか、それは判らない。まだも一つ。それは<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>森元座</rb><rt>もりもとざ</rt></ruby>で、佐倉宗五郎の磔刑に処せられる芝居を見たこと。四谷の<ruby><rb>桐座</rb><rt>きりざ</rt></ruby>へも行ったこと。その頃は何かというと観劇である。それで見ても母の好みのほどがどうであったかが<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われる。

先ず鶴見が四、五歳ぐらいまでの思い出としては以上のようなものである。

それにしても母に連れられて<ruby><rb>物見遊山</rb><rt>ものみゆさん</rt></ruby>に出歩いた享楽の日も、やがて終末を告げねばならなくなった。

明治十三年、五歳の時平河小学に入校。同十五年には今までの古い家を壊して、その跡に新築することになり、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>にあった小屋で一冬を過すことになった。郷里から次姉が迎えられたが、この不自由な<ruby><rb>佗住居</rb><rt>わびずまい</rt></ruby>で<ruby><rb>炊事</rb><rt>すいじ</rt></ruby>の手伝をしていた。ささやかな菜園にわずかに<ruby><rb>萌</rb><rt>も</rt></ruby>え<ruby><rb>出</rb><rt>で</rt></ruby>た<ruby><rb>小松菜</rb><rt>こまつな</rt></ruby>を摘んで朝々の味噌汁の<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>をする。そんな生活の様子がまざまざと思い出される。菜園にはまだ雪が消え残っていたのである。

その翌十六年には、父が生母を離別した。鶴見がためには大きな生涯の変動が生じたのである。たまたま国から上って来た姉も貰い泣きをした。母の引き取られていた家へ二人で行くことを、さすがに厳しい父も、一度は許してくれた。その家は芝<ruby><rb>明舟町</rb><rt>あけふねちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>路次</rb><rt>ろじ</rt></ruby>の中にあった。左手は上り口で、右手には勝手の<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>り<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>が<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めてあって、それに油で二重の波形の模様が描いてある。そんな家である。二人はそこで泣き通した。

幼時の記憶はとかくはっきりしていない。そこには一貫した糸も見えず、連続した関係もうまくたどれない。ただそれが思量の或る一角に置かれた時、結晶体に予想せられるように、その一部分がどうかすると、ふと強い光を放つことがある。それだけである。もしこれがアナトオル・フランスであったなら、こんな幼時の<ruby><rb>些少</rb><rt>さしょう</rt></ruby>な<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>けた感動の種子からも、丹誠して見事な花を咲かせたであろう。鶴見は気まぐれにも、ここでそんな考を<ruby><rb>運</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らして見た。アナトオル・フランスの幾巻かを成す幼年物は、晩年も晩年、老熟し切った文芸の畑の土壌に<ruby><rb>培</rb><rt>つちか</rt></ruby>われた作品である。おおよその人が老年になって、往事を無邪気に顧みて、ただそれなりに<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>ばんだ<ruby><rb>口辺</rb><rt>こうへん</rt></ruby>に微笑を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>え得るならば、それでも人生の静かな<ruby><rb>怡楽</rb><rt>いらく</rt></ruby>が感ぜられもし、またその境地で満足してもいられよう。しかしそれは凡俗のことである。彼の作品は凡俗とは全く質を異にしていた。

彼にあっては、その作品は幼時の<ruby><rb>溌剌</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>たる官能を老いてますます増強した<ruby><rb>炯眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>に<ruby><rb>依憑</rb><rt>いひょう</rt></ruby>させ、そこから推移発展させて、始めて収めえたる数十篇である。その一つ一つが珠玉を<ruby><rb>聯</rb><rt>つら</rt></ruby>ねて編み成されている。多少作り事の嫌いがあると疑うものがあれば、それは短見であろう。<ruby><rb>試</rb><rt>ためし</rt></ruby>にその珠玉の一つを取って透して見れば、人はその多彩に驚かされるにちがいない。あの複雑な<ruby><rb>巴里</rb><rt>パリ</rt></ruby>が、適確な観察の光線の中で、首尾よく踊らされているのである。盛大があり、零落があり、恋愛があり、欺瞞があり、嬌笑がある。それらはいわば機智と冷刺との雰囲気の中で、動く<ruby><rb>塵埃</rb><rt>じんあい</rt></ruby>でその塵埃が虹のような光彩を<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らしているのである。幼年の作家は老熟した足どりで、いつもその中心を歩いている。これこそ<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しくアナトオル・フランスの作品である。

鶴見の回想はそれに較べてあまりにも寂し過ぎる。第一に老年の畑が荒れていては、急にその発育を期待されない。多かるべきはずであった流星雨が降り足らなかったといっても好い。しかもそれが<ruby><rb>一刹那</rb><rt>いっせつな</rt></ruby><ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めくことがあっても次の瞬間にはすでに<ruby><rb>滅</rb><rt>き</rt></ruby>えてしまっている。いわゆる前方を<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>してわだかまるのは<ruby><rb>常闇</rb><rt>とこやみ</rt></ruby>である。一刹那の光はむしろ<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>の暗黒を指示するが如くに見える。

それでも鶴見にとっては、よしや回想の破片であろうとも、これを記念の<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>につないで置けば、まさかの時の<ruby><rb>念珠</rb><rt>ねんじゅ</rt></ruby>の数え玉の用にも立とう。鶴見はそう思ってみて、それで好いのだと<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めている。

明治十六年、新築落成。これが一つの変動であった。旧家屋の構造様式が徳川末期の江戸風のもので、それがちょっとした旗本の隠居所とも思われるものであったとすれば、新築はどこか明治の役人向きの<ruby><rb>臭味</rb><rt>くさみ</rt></ruby>に染ったものであった。広さはたいして違わぬが全体に殺風景なところが感ぜられる。趣味からいえば、もとのままの方が落ちつきがあって好ましかった。そのくせ今度は家の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>に茶室めいたものが造られて、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>が切ってあった。

父はその茶室に閉じ籠って、七十歳を超えてから死ぬるまでの幾年かをすわり続けた。父の茶道は<ruby><rb>素</rb><rt>もと</rt></ruby>より<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るべき<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>内</rb><rt>うち</rt></ruby>の宗匠に<ruby><rb>就</rb><rt>つい</rt></ruby>て仕上げをしていたのであるが、しかも父の強い個性は<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らな風流を欲しなかった。朝茶の炉手前は何かしら<ruby><rb>苦業</rb><rt>くぎょう</rt></ruby>を修する発端で、その日も終日不可解の茶の渋味を<ruby><rb>呪法</rb><rt>じゅほう</rt></ruby>に<ruby><rb>則</rb><rt>のっと</rt></ruby>るごとき泡立てに<ruby><rb>和</rb><rt>やわ</rt></ruby>らげて、静座しつつ、<ruby><rb>楽</rb><rt>らく</rt></ruby>の茶碗を取りあげて、ひとりで苦しんで喫してあるべき運命の前提のようにも思われた。父は<ruby><rb>閑日月</rb><rt>かんじつげつ</rt></ruby>の<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>よりもむしろその方をよろこんでいたのだろう。そこに父の平生抑えていて<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めぬ<ruby><rb>克己心</rb><rt>こっきしん</rt></ruby>の発露がある。こうして父は苦行の道を<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>んで一生を過したといって好い。

こんな事がある。会席の真似事をして<ruby><rb>銅鑼</rb><rt>どら</rt></ruby>を打つ。会席では用意が整えられたしらせに銅鑼を打って、路次の待合客に入室をうながす合図とする。それを打つには秘訣がある。呼吸がある。それで<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>から父の打つのを聞いていると、その心意気があたかも敵陣へ突き進む時の決意を示すように響いて来るのである。家族のものがそれを「まるで忠臣蔵の<ruby><rb>討入</rb><rt>うちいり</rt></ruby>ですね」といって笑った。

父の茶道はまずそんな風格のものであった。

新築と共に国から一人の叔母が家事の監督がてらに上って来た。その叔母の顔には特徴があった。長面で頬がやつれていて<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>の中央に目立って大きい<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>がある。それが神々しく感ぜられる。唇にはいつも寂しい微笑を含ませ、<ruby><rb>眼差</rb><rt>まなざ</rt></ruby>しにはいつも異様な<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めきを見せている。いつ見てもそうときまっていて、その顔つきには表情の変化が現われて来ない。後から聞けば、その叔母はどうしたわけか結婚して間もなく、裏の<ruby><rb>溝川</rb><rt>みぞがわ</rt></ruby>に身を投げた。気がふれたのだという。そういう話を聞けば顔だちの特徴にはなるほどと思われるふしがある。鶴見は今は未亡人であるこの叔母を尊敬もし、また親しんでもいた。特色の出ている人を好む彼の性向は早くこのころから<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>していたものと思われる。

新築後は以前から長くいたおだいという<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>もいなくなった。二人までいた同居の人たちも<ruby><rb>立退</rb><rt>たちの</rt></ruby>いた。別れた母の代りには姉と叔母とが立働いている。これも家庭の改革であった。

新築祝いがあった。

先ず客を招く準備として、<ruby><rb>襖絵</rb><rt>ふすまえ</rt></ruby>の<ruby><rb>揮毫</rb><rt>きごう</rt></ruby>に<ruby><rb>大場学僊</rb><rt>おおばがくせん</rt></ruby>を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わした。学僊は当時の老大家である。毎朝<ruby><rb>谷中</rb><rt>やなか</rt></ruby>から老体を運んで来て描いてくれた。<ruby><rb>下座敷</rb><rt>したざしき</rt></ruby>の襖六枚には<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>に<ruby><rb>雁</rb><rt>がん</rt></ruby>を<ruby><rb>雄勁</rb><rt>ゆうけい</rt></ruby>な筆で活写した。雁の姿態は一羽一羽変化の妙を極めているが、放胆な<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>を以て、その複雑さを貫通している。二階には大きな波のうねりを見せ、波の上を鶴がのどかに舞っている。襖四枚である。これには淡彩を施してあったが気品があった。小襖には斜に出た菊の枝、通い口の三尺の襖には小松が景色を添えている。二階には宴会の席が設けられてある。十畳の間である。

もとよりゴブランではないが、大層もない外国輸入の<ruby><rb>絨毯</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>がその十畳の間に敷きつめてあった。田舎出の役人の家としてはちと出来すぎたようである。冷やかな観察者があれば、<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>からそんな皮肉な口をきかぬでもなかったろう。父とすれば考えた上でのことでなく、新築祝の設備としてだけの意味しかなかったにちがいない。そんな新奇な装飾品が当時流行しかけていた。父の負けじ魂の性癖から、一時の物として、つい奮発することになったのだろう。果してこの異国の<ruby><rb>花卉</rb><rt>かき</rt></ruby>を浮織にした絨毯はその後あまり役に立ったとは見えなかった。

宴会の当日は、明治初年以来父が世話になった上官やら先輩やらの知名の人々を招待した。大抵は同藩の出身者である。酒席のとりなしには新橋の名うての妓を選んで、<ruby><rb>舞子</rb><rt>まいこ</rt></ruby>も来ている。幾つも立てた燭台には真白な舶来の西洋蝋がともされる。その夜美形らが何を歌い何を踊ったか、それを鶴見は記憶していない。ただ綺麗に着飾った舞子に目をつけている。これも鶴見がそれを記憶しているのではなかった。<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>のものがそういって、あとから幾度も冷やかすのである。母がいなくなってから、観劇のことが止めになり、何か寂しく物足りなかったところへ、このあでやかな享楽世界を見せられた。子供心にも<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>たるものを感じていたにはちがいないからである。

小学校へは姉と一しょに登校していた。姉は上級に編入されて試験にはいつも優等であった。この姉がいたばかりに、中学に通うようになるまでを、幼いなりに余り歪められもせずに生い立つことが出来た。そう思って、鶴見は<ruby><rb>往昔</rb><rt>おうせき</rt></ruby>を追想してなつかしがっている。その姉ももうとうに亡くなった。

明治二十年に小学の業を終え、直に府立の中学へ入校したのだが、この年に父は後妻として村山氏を家に<ruby><rb>納</rb><rt>い</rt></ruby>れた。鶴見はここに継母を持つことになったのである。鶴見が<ruby><rb>尫弱</rb><rt>おうじゃく</rt></ruby>な小供で意気地のないことを諷して、後年に至るまで、姉は気性がすぐれていたといってよく誉めていた。それで見ると、姉が国に帰ったのはこの年も<ruby><rb>晩</rb><rt>おそ</rt></ruby>いころであったろうか。

鶴見は姉と肩をならべながら、『新体詩歌』の中の自由の歌やハムレットの独白なんぞを<ruby><rb>誦</rb><rt>そらん</rt></ruby>じて、街頭を歌って歩いた。この『新体詩歌』は有名な『新体詩抄』の民間版ともいうべきもので、明治十六年にはその第五集を出している。鶴見が今持っているこの小冊子は<ruby><rb>奥附</rb><rt>おくづけ</rt></ruby>を見ると十九年二月の出版となっている。この書は岩野泡鳴から譲り受けたもので、その当時鶴見が手にした<ruby><rb>袖珍本</rb><rt>しゅうちんぼん</rt></ruby>と版式に変りはない。そうしてみれば、彼がその本を読んで感動した年代もほぼ明らかになる。今までに類のない新しい歌を歌って町を歩いたことがそう突飛とも思われなかったというのは時勢であろう。その時勢に応じて、いつとなく少年なるべき彼の心に、やがて意志の自由や個性の発現が望まれるようになっていたと解しても好かろう。新時代は確にこうした道をたどってその波動をひろめつつあったのである。

生母に別れた後の鶴見は、<ruby><rb>親身</rb><rt>しんみ</rt></ruby>になって世話をやいてくれるものは誰一人なく、一旦棄てられた小供がまた拾われてかつがつ養われていたような気分に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>われていた。それにもかかわらず、時勢にふさわしい歌を朗かにうたって、鬱屈した精神を素直に伸してゆけたことは全く姉のおかげであった。

しかるに継母が来て、干渉がはじまった。その干渉の裏には<ruby><rb>棘</rb><rt>とげ</rt></ruby>があった。

姉は好い時機に国へ立って行った。それと共に姉は好い時分に東京にいたともいえる。

毛糸の編みものがその頃流行していた。そういう<ruby><rb>手工</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>にも姉は器用であった。あの鹿鳴館に貴婦人たちが集って、井上外交の華やかさを、その<ruby><rb>繊手</rb><rt>せんしゅ</rt></ruby>と<ruby><rb>嬌笑</rb><rt>きょうしょう</rt></ruby>とをもって飾った時代である。有名なのは夜会の舞踏であった。昼間はバザアが催された。姉は相当な官吏の女であるというので、勧められて編物も少しは出品したが、要するに売子に雇い上げられたのである。それはそれで好い。鶴見も絹の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>に<ruby><rb>紋附</rb><rt>もんつき</rt></ruby>を着て、叔母に連れられて後から出掛けて行った。

そこでは休憩室で、<ruby><rb>珈琲</rb><rt>コーヒー</rt></ruby>とカステイラを頂戴する。立派な椅子にも腰かけられる。バザアも<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>く。姉も鶴見もいわゆる文明開化の誇示をまのあたりに見て、珍らしい経験を得て帰って来たことをおぼえている。忘れえぬ感銘の一つである。

明治十八年には官制の大変革があった。

父は許される限りの出世をして、文部書記官に昇進する。それは好いが、新官制によって定めたとおり、父も<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に<ruby><rb>大礼服</rb><rt>たいれいふく</rt></ruby>というものを<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えて一着に及んだ。父には到底似合もせぬしろものである。御用商人の手で最上等に仕立てられた。肩や胸には金モオルがこてこてと光っている。それに<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>の<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>さには一同びっくりした。こんな物を引掛けては小さい<ruby><rb>人力車</rb><rt>じんりきしゃ</rt></ruby>などには乗れそうもない。是非馬車が必要になるといって、皆あきれて、あとでは笑いこけた。それほど偉大な怪物であったのである。父もたった一度身につけたなりで、またと再び大礼服に手を通すことはなかった。

父は出世するだけ出世して<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>めさせられたのである。それを非職と称していた。その後は嘱託という名義で、仕事はこれまでと余り変らずに、主として地方への出張を続けていた。もちろんそれも四、五年の間であった。

姉は父の全盛を見て国へ帰って行ったのである。暫くの間であったが、<ruby><rb>風月</rb><rt>ふうげつ</rt></ruby>の洋菓子などふんだんにあった。ボンボンといって一粒ごとにいろいろの銘酒を入れた球状の菓子もある。父はそんなものには目もくれず、カステイラなどはいつでも<ruby><rb>黴</rb><rt>かび</rt></ruby>が生える。それでも手をつけさせなかった。家族のものは<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ないといったが、どうにもならない。

官制の改革は多数の犠牲者を出した。<ruby><rb>安穏</rb><rt>あんのん</rt></ruby>に眠を<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>っていた官吏社会をはじめての恐慌が襲ったのである。維新当座どさくさまぎれに登用された武士階級中の老年者とか無能者とか、たいていそういう人々が<ruby><rb>淘汰</rb><rt>とうた</rt></ruby>された。そういう人々の家族は困り切って、寄るとさわると、窮乏の話をひそひそとしていた。今度の継母は父と同じ藩の然るべき武士の家から出ていたので、そういう窮乏組の女たちがよく尋ねて来て、<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>をいって、為すこともなく一日を暮らして行った。

継母は継母で一家の経済を極端につましくした。

これまでぼんやり育って来た鶴見にはまだ買物をする呼吸がわからない。いつでも同じ事であるが、その頃の商人はことにこすかった。こすいのはまだ好いがごまかしをやった。<ruby><rb>空缶</rb><rt>あきかん</rt></ruby>を持って行って<ruby><rb>煎餅</rb><rt>せんべい</rt></ruby>を買いにやられる。買って来ると、

「何といって買ったの。」継母から意外な問が出る。

「この缶にいくらだけ入れてくださいといいました。」鶴見にはまだ様子がわからないので、そういって正直なところを打あける。

「そんな<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>なことで好いのかね。これからは品物を缶に入れさせて置いて、これでいくらと聞いてみるのだね。ごまかされるよ。」

事ごとにこんな風にたしなめられて今までに覚えぬつらさを感じた。

鶴見はこうして、日々に鍛え上げられる。<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>なことのようであるが、それでも効果はあった。<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>をあげているのは継母の手を借りた人生の<ruby><rb>世智辛</rb><rt>せちがら</rt></ruby>さであるということが、追々に納得が出来るようになる。人心の機微を察するということも、こうしているうちに、見当がつくようになる。鶴見にはそれだけの変化が起った。

継母は継母らしく振舞ったのである。鶴見はそう思って、別段に悪感情も<ruby><rb>懐</rb><rt>いだ</rt></ruby>かずにじっとしていた。

  


## 宿命的孤独と自由

まだ中学に入らぬ少し前のころであった。多分明治十九年も押詰まった暮のことであったかと思う。その年ひどく流行した<ruby><rb>麻疹</rb><rt>はしか</rt></ruby>に感染して、一応はどうやら<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ったものの、病毒が廻って全身に<ruby><rb>吹出物</rb><rt>ふきでもの</rt></ruby>を生じた。<ruby><rb>薬湯</rb><rt>くすりゆ</rt></ruby>に連れて行くにもあまり見苦しいので家人も<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>がっていたところ、西岡という若い未亡人が来て、自分の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らせている塩湯はどうだろうと<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>めてくれた。家人のためには渡りに船であった。

塩湯というのは京橋<ruby><rb>木挽町河岸</rb><rt>こびきちょうがし</rt></ruby>にあった。そんなわけで鶴見はさっそくそこへ遣られた。<ruby><rb>出養生</rb><rt>でようじょう</rt></ruby>である。幼少の鶴見にとっては、これが家庭以外の世間というものにはじめて触れて、未知の<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>を少しずつ知る機縁となった。

鶴見はその塩湯に寝どまりすることになって、万事は西岡の若い未亡人がよいように取運んでくれた。朝早くまだ誰も入浴に来ないうちを見計らって、風呂の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を開けてもらい、湯気の盛んに立つ綺麗な湯につかるのである。鶴見ははからずも一番風呂の贅沢を独占する。その上にも一しょに入る未亡人からは、流し場で、一面に<ruby><rb>瘡</rb><rt>かさ</rt></ruby>になった体をたでてもらえる。そのおりのことを、彼はいつまでも忘れないでいる。かほどまでに親身になってかばわれたのは、彼にはかつてなかったためしである。

父とは同国の出身で、<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くから病気療養に対するその効用を認めて海水温浴を主唱し、少しは世に知られていた医家があった。西岡である。西岡は不幸にして志も達せずに歿したが生前の主張が一つの果実を結んで、それが未亡人の手に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>されていた。芝浦の塩湯と呼ばれて、その後も幾多の変遷を経て、ずっとその遺業はつづけられた、塩湯の方はおいおい附帯のように成っていったが、芝浦館といえば東京では知らぬ人はまずなかったといって好かろう。

西岡未亡人の家にはそんなわけで、西岡医院開設当時に贈られた<ruby><rb>蒼海翁</rb><rt>そうかいおう</rt></ruby>のあの<ruby><rb>雄勁</rb><rt>ゆうけい</rt></ruby>な筆力を見せた大字の<ruby><rb>扁額</rb><rt>へんがく</rt></ruby>を持ち伝えていた。鶴見が幼い観察から、急傾斜になっている海面にひっくり返りもせずに小蒸汽船の動いてゆくのを見たというのは、その塩湯でのことであった。木挽町の塩湯はいわばその分身のようなものである。越後長岡の出で、どういう因縁のあってのことか、左団次<ruby><rb>贔屓</rb><rt>びいき</rt></ruby>の婆さんが<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>だって切り廻していた。場所柄でもあり、また婆さんの趣味も加わって、築地辺に住んでいる名うての俳優の家族などにもその宣伝がきいたと見えて、その連中が常連として入浴に出掛けて来る。そう聞かされて見れば、子供心にもなるほどとうなずかれる。流し場の隅に積み重ねてある<ruby><rb>留桶</rb><rt>とめおけ</rt></ruby>のなかで<ruby><rb>三升</rb><rt>みます</rt></ruby>の<ruby><rb>紋</rb><rt>もん</rt></ruby>などが光っていたからである。

西岡の若い未亡人はその塩湯の奥座敷を自分の部屋として占めていた。<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>寄りの<ruby><rb>中硝子</rb><rt>なかガラス</rt></ruby>の<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>の前に<ruby><rb>文机</rb><rt>ふづくえ</rt></ruby>がかたの如く据えてある。派手な卓布がかかっている。その一事のみがこの部屋の主人の若い女性であるのを思わせている。筆立には二、三本毛筆が挿してある外にペン軸が<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>って見える。その横にインキ壺が備えつけてある。朝日が射し込むとそのペン先が<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち金色に輝き出す。インキ壺の<ruby><rb>切子</rb><rt>きりこ</rt></ruby>の角が閃光を放つ。机上の左の方には二、三冊の洋書が<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に置いてある。簡素で、たったそれだけの道具立てであるが、鶴見は朝々それらを目にするたびに、そこにどうやら身に迫ってくる時代の新鮮味をおぼえるのである。

この部屋の主人公である若い未亡人はカトリックの尼さんたちと懇意にしていたが、そのころ発展の気運に向っていた女子教養のためのミッションスクウルが、麹町<ruby><rb>四</rb><rt>よ</rt></ruby>ツ<ruby><rb>谷</rb><rt>や</rt></ruby><ruby><rb>見附</rb><rt>みつけ</rt></ruby>内に開設せられ、西岡未亡人がその学校の校長に推されているというようなことなども段々知らされた。この未亡人が鶴見の結婚の仲介もし、その前年の日露戦役の終った年の暮には、あわただしく病に倒れた鶴見の老父の葬儀にも彼は格別の世話を受けた。このたびの戦時中、八十幾歳で亡くなったが、鶴見は父の死後少しも変らずに長く附き合っていたのはこの夫人だけである。

鶴見はこんなことを思っている。――西岡夫人は実際特異の存在であった。時代を<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>り時代に順応して、八十幾歳の長い生涯に複雑な経歴を<ruby><rb>閲</rb><rt>けみ</rt></ruby>しつつ、しかも平凡に、そのために更に自由に身を処して、未亡人として思うままの享楽も<ruby><rb>為尽</rb><rt>しつく</rt></ruby>して、晩年は二、三の知名の士の夫人と同好の仲間を作って、観劇に老を忘れていた。世間のことなら何もかも知りぬいていながら、飽きて退屈するような<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>は少しも表に現わさない。それだけに老いてもくずおれるということがなかった。そしていつも優雅な言葉つき、そうかと思えば随分と放胆な調子も<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わぬ言葉のあやと表情<ruby><rb>饒</rb><rt>ゆた</rt></ruby>かな微妙な振舞とに溢れるばかりの才気を見せる。西岡未亡人にはそういうような、他に優れた特質の美が目立っていた。引きつづいてカトリックに信仰を持っていたとは言えなかったが、その薫染がどこやらに残っていて、未亡人に接するたびにその匂いをかぐように感ぜられた。とにもかくにも未亡人はこの宗教と死ぬまでも縁を切らないでいたのである。

西岡夫人はすでに他界したが、鶴見には夫人は第三者としてではなくて、もっと身近にいつまでもいてくれる。鶴見はふと気がついてそんな風な考にはまり込む時がある。夫人の生涯を鶴見は自個の生涯の上にも見たのである。

「おれの生涯は敏慧で親切で寛容な夫人の優雅な言葉を<ruby><rb>縫糸</rb><rt>ぬいいと</rt></ruby>にしてはじめて仕立てられた一領の衣である。おれにはそう思われて仕方がない。清新と自主と自由とが縫い目縫い目に現われている。野性に圧された重たい麻衣の上に少しばかりの<ruby><rb>柔靭</rb><rt>じゅうじん</rt></ruby>さが加わったとすれば、あの不思議な縫糸と自然な運針とを<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>にあらためて見ねばならない。そこにはあの奥深い情味のこもった宗教の香味がそこはかとなく匂っているのである。

<ruby><rb>冥々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の化ということがある。夫人の長い生涯の間の感化がそれである。いつとは知れず、その感化がおれの体に浸み込んだのだ。そしてそれが冥々の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>におれの思想を支配していたのでもあったかのように反省される。この夫人ならおれの生母のいきさつをも熟知していたかも知れない。おれはおりおり聞いて見ようとしたが、口には出せなかった。おれにはつまらぬ片意地がある。それでいつも損ばかりしている。夫人は不幸なおれの境遇をよく知っていたので、余計に孤児としてのおれを憐んでいたのかも知れない。」鶴見はそう思って、この夫人に特に感謝の念を致しているのである。

鶴見は明治二十年に府立の中学に入校した。中学の校舎は<ruby><rb>木挽町</rb><rt>こびきちょう</rt></ruby>の歌舞伎座の前を通り過ぎて橋を渡ると直ぐ右角の地所を占めていた。かれが出養生をしていた塩湯とは堀割を隔てて筋向いになっている。

鶴見はもう幼年期を終って立派に少年時代に入る。<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>や<ruby><rb>凧</rb><rt>たこ</rt></ruby>や<ruby><rb>竹馬</rb><rt>たけうま</rt></ruby>や<ruby><rb>根</rb><rt>ね</rt></ruby>っ<ruby><rb>木</rb><rt>き</rt></ruby>やらは棄てられねばならない。鶴見はそのなかでも独楽は得意で、近所の町屋の子や貧民の子らと共に天下取りをやった。その外にめんこもやった。とんぼも追いかけ廻した。殊にとんぼには興味をもっていた。どうしてそんなに沢山いたかと思われるほど、とんぼが飛んでいた。種類も多かった。しおからやむぎわらは問題にならない。虎やんまもいたし、車やんまもいた。そしてそれを珍重がっていた。虎やんまは往来を低く飛んできて、たちまちのうちにもち<ruby><rb>竿</rb><rt>ざお</rt></ruby>の陣を突破してしまう。虎やんまの出るのは<ruby><rb>主</rb><rt>おも</rt></ruby>に日盛りの時分である。なかなか手におえぬところに次の機会が期待される。車やんまというのは虎やんまに似ていたが尾の先に車の半輪のような格好をした<ruby><rb>鰭</rb><rt>ひれ</rt></ruby>がついている。特性としては、<ruby><rb>物干</rb><rt>ものほし</rt></ruby>の柱に立てた丸太のてっぺんなどに羽を休めることである。さてその日も暮れかかってくると、普通のやんまが<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しく集まってくる。それが町の<ruby><rb>四辻</rb><rt>よつつじ</rt></ruby>に渦を巻いて飛び交わしている。そのやんまの両性をおんちょ・めんちょといって呼び別けていた。交尾のために集まったやんまに違いないのである。

子供たちはそこを目がけて竿でめった打ちにするものもあれば、趣向を変えて、とんぼ釣をすることもある。とんぼ釣といっても、これは計略で、あながちに釣り落すのである。計略とはいえ至極簡単なもので、女の髪の毛一筋あれば事足りるのである。その髪の毛の両端に小石を<ruby><rb>反故紙</rb><rt>ほごがみ</rt></ruby>にくるんで結びつける。仕掛けはそれだけで済む。それを手早く<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて、持っていって、あてもなくやんまのかがいの中に放り上げる。引っかかったやんまこそ災難である。やんまは首筋を髪の毛にはさまれて、その両端につけた小石の重みに圧されて落ちてくる。それによっても推量されるようにやんまは一箇所に押合っている。二、三百は飛んでいたろうかと思う。取れた獲物は籠に入れたり、手の指の股に挿んだりする。

およそとんぼのことといえば夢中になっていたのである。取ったとんぼは鈴虫のように好い音を聞かせるでもない。ただそれだけのなぐさみに過ぎなかったが、それでも籠に入れ持って歩いた。子供仲間でとんぼ草と呼んでいたものが、乾いた溝の縁なんどに生えている。紫褐色の肉の厚い葉を平たく伸している雑草である。<ruby><rb>莧</rb><rt>ひゆ</rt></ruby>の種類でもあろうか。その草を<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>んで籠の中のとんぼにやったりする。果してとんぼがその草の葉を食べるものか、それはどうでも好かった。ただそういうことをするのが、何というわけもなしに、面白かったのである。

しかるに昨年の秋になって、転出先から疲れ切った翼を休めにもとの古巣に戻って来て、さて今年の夏になって見ると、裏庭を畑におこしたそのあとの土に、この久しく忘れていたとんぼ草が一面にはびこり出したのを発見した。それを見ると、幼時の日常が思い出されるといって、鶴見はつくづくと懐かしがっているのである。

幼年期のこうした回想もいよいよとんぼ釣で終末を告げる。鶴見は中学に入って急に大人びて来たからである。世間もそれと同時にめまぐるしく変っていった。二十二年、二十三年には憲法が発布され、議会が開設される。万事が改まって新しく明るくはなったが、また騒がしくもなった。その騒しさが少年の心を<ruby><rb>弥</rb><rt>いや</rt></ruby>が上にも刺戟した。まだ社会の裏面を<ruby><rb>渾沌</rb><rt>こんとん</rt></ruby>として動きつつあった思想が、時としては激情の形で<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>り<ruby><rb>出</rb><rt>で</rt></ruby>ようとすることがある。

憲法発布の日には、時の文相<ruby><rb>森有礼</rb><rt>もりありのり</rt></ruby>が暴漢のために刺殺された。事実の痛ましさはめでたい記念日の<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎわ</rt></ruby>いに浮き立っていた誰しもの胸を打った。しかしその惨事が国運にどれだけの意義を持っていたかは、当時の少年などに分ろうはずもなかった。ひとり少年とはいわず、然るべき識者にしても恐らくそうであったと思われる。一口にいえば文明開化と国粋思想の<ruby><rb>相剋</rb><rt>そうこく</rt></ruby>である。それが将来に如何なる展開を示すものか、その意義を正しく認識し批判し得るものは恐らく稀であったろうと思う。世間では大部分雷同して森文相の自由主義を攻撃していた。それでも外国文化の移入は国粋思想の抵抗によってそれほどの影響も受けずに、むしろ<ruby><rb>両々</rb><rt>りょうりょう</rt></ruby>相待って進んで行った。国学の再興にしても、その<ruby><rb>根蔕</rb><rt>こんたい</rt></ruby>には文化に対する新しい見解が含まれていた。

時代思潮は暗黙の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に進んでゆく。無理をしてまで押通そうとするのではない。いわば社会を動かす全生命の力である。物をも言わずに絶えず物を言っている。そういうところにその強みがある。創造の能力がそこに見られるからである。鶴見の少年期はそんな時代の波をくぐって来た。その一事を生涯のよろこびとすることを、彼は<ruby><rb>私</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに誇りとしている。そのよろこびの中でかれはこれまで幾度か若返って来たのである。今でもそうである。「おれにはそうとしか思われぬ」といって、かれはその時代に対する讃美を惜しんでいない。

とんぼ釣をやめて急に大人びたかれは、とんぼの代りにこれから先釣り出して見たいと思うものを、空想のかたちにおいてでも持っていなければならぬはずであった。かれにはそういう考がなかった。この時になってもまだ自己について何らの思量をも加えずにうっかりとしていた。人生を無意識に遊戯の場地と見なす癖は改まっていない。家庭でこそかれを強圧するものがあり、<ruby><rb>畏縮</rb><rt>いしゅく</rt></ruby>させるものがあったとはいえ、一たび外に出れば、そこには自由な小天地がかれをここちよく迎えてくれた。とんぼの代りに自然を観察することが、かれを家庭の憂鬱から<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らかした。自然というような広汎な抽象的観念がここに少しく開かれて、今までに覚えなかった快楽をかれの方にさし向けて来た。理性が<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くその機能の<ruby><rb>蠕動</rb><rt>ぜんどう</rt></ruby>をもって自覚の徴候を示すようになって来たのである。しかしとんぼの代りに<ruby><rb>名利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>を釣る。世間の誰しもがそういう考になる。そんな平俗の意味すらかれにははっきりとしていなかった。随って名利に対する興味が浅かった。つまるところ、かれには欲望の発達が、どこか性情に欠陥があって、他よりも鈍っていたものとも思われる。その穴を自然が来てうずめてくれたのである。

少年の鶴見は当時の風潮に従って新聞では『読売』、雑誌では『国民之友』を読むことにした。新聞はとにかく、雑誌を毎号手にするということはこれがはじめてである。明治二十三年の新年からであった。『国民之友』は春秋二期に文芸附録を添える。前年の新年にはＳ・Ｓ・Ｓの「<ruby><rb>於母影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>」が載せられ、ことしは鴎外署名の「舞姫」が附録の巻頭を飾った。その書き出しが素晴しかった。今までに全く知られなかった新味と独特の風格とを併せ備えた名文章である。少年のかれは一読するや直ちに魅惑せられてしまった。古びることを知らぬ文章というものがそこに展開せられているのである。ただ一つその文章のなかで分らぬことがあった。ニルアドミラリということである。うぶな少年にはついぞ経験せぬ心的状態である。それは聡明な鴎外が不満足感を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らすために、たまたま気をぬいて見せた、いわば精神的に<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>なあそびの態度である。ニルアドミラリが分らぬといっても無理はない。

かれに取っては名利を釣るということもまた同様であった。言葉と文字とは分っていても、その実際に達するにはまだまだ遠かった。父親はかれのためには医学を望んでいた。そのことはかねて薄々聞かされてはいたのだが、痛切には感じなかった。そのかれにも欲求があったとすれば、それは自由に出来る仕事である。それは仕事とはいわれなかった。そこにはただ空想の動きがあったばかりである。

そうした空想に応ずる自由な雰囲気のなかで、かれは文芸と手を組むことをおぼえだした。そして勝手気儘な道をたどって行くようになった。正道を<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れることがあっても何とも思わない。<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>があれば埒を踏み越えて行く。文芸との親しみは日ごとに深くなる。それが病みつきとなって、遂には切っても切れぬ仲となったのである。

縁といい約束といえば、いつも<ruby><rb>絆</rb><rt>ほだ</rt></ruby>されているように想像されるが、その中には自由はある。法悦さえ感ずることがある。そんな予感が文芸に絆された少年の心に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びる。未知の<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>がこの少年を招き寄せる。迎えるものがあって迎えられるように思うのである。かれが気がついた時には、<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>深入りしていた。そして名利の方の欲は一切忘れてしまった。とはいえ、その事は生への執著を一切離れてしまったことにはならない。執著心はかえってますます増益する。文芸道にたずさわることは容易なものでない。そのわけが追々に分明になる。魔性の手が脅威の<ruby><rb>矛先</rb><rt>ほこさき</rt></ruby>を向ける。それが絶間なくかれを苦しめる。その苦悩をも<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>いで、なお法悦を見出そうとして、かれは一生を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けてしまった。漂泊の魂のためには、<ruby><rb>涯</rb><rt>はて</rt></ruby>しも知らぬ曠野の旅である。それにもかかわらず、かれは少年時の甘い夢を見つづけている。しかもその夢の再現がまたかれを苦しめる。見返すたびごとにその影像が無慈悲と思われるまでに鮮明の度を増す。鶴見にはすべてが今や絶望のように感じられる。「おれの夢は明瞭すぎるほど明瞭な輪廓と人の胸を突き刺す鋭角とをもった形式ばかりのものとなって示される。それも好い。おれはなお自由と法悦とを求めて止まない。探求の苦しい旅はどこまでもつづけて行く。」

鶴見の目の前には幻滅の夢の殻が残されているばかりである。「<ruby><rb>刻薄</rb><rt>こくはく</rt></ruby>の現実はどこまでも刻薄であれよ。おれはそう思って、現実に抗して現実の無意義と無内容とを観じようとすれば、現実はその<ruby><rb>骨骼</rb><rt>こっかく</rt></ruby>ばかりの機構を露呈して、かえっておれの無知を責めてかかる。おれはその背後に虚無を見る。おれにはおれの立場がある。おれにはおれの為すべきことがある。おれは現実から刻薄の毒素を絞り取って、<ruby><rb>徐</rb><rt>おもむ</rt></ruby>ろにそれを苦悩の<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>に<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>らしめる。おれは早晩その杯を傾けねばならない。毒液と知りつつそれを飲み乾さねばならない。」

鶴見は目をつぶってじっとしている。息をこらしている。しばらくあってまた目を開ける。その目は外に向けられずに、ひたすら心の奥底を見透しでもするように、<ruby><rb>目蓋</rb><rt>まぶた</rt></ruby>の下で静かに廻転している。「少年時に夢みた自由と法悦――その宝器の隠くされた至極の境へ、おれはこうやって倒れるまで探求の旅をつづけてゆくのだ。」

涯しのない荒涼たる曠野が<ruby><rb>展</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げられる。ただ暗灰色に鈍り<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいる天地の間に夕日が一筋、何かの啓示でもあるように流れている。とぼとぼと歩いてゆく姿が映る。枯木を杖にして道をたどっているのではあるまいか。そうして見れば人であろうか。それとも飢え衰えた<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>であろうか。鶴見はその<ruby><rb>後影</rb><rt>うしろかげ</rt></ruby>を見送っている。それがだんだん小さくなる。かれはじっとしていて動かない。その顔色には無関心が少し意地悪そうな表情を装っているに過ぎない。それでもその表情のうちにだけ<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>に<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな生気が<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>っているように思われる。

鶴見は老いてもまだたやすくは死ぬまいと決心したのである。

近ごろこれを読めといって文庫本の一冊を、知人が置いていった。鶴見はこれを感謝して、早速に<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて見た。『ラサリーリョ・デ・トルメスおよびその幸運と不運との生涯』というのがこの小冊子の全題である。こんな風に長々と標榜したところに、いかにも中世らしい好みを、読むに先だって<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うことが出来る。スペインの説話である。鶴見はそう思って、のどかな心持ちになって、何げなく巻を披くと、そのとっぱなから頭をがんとなぐられたように感じて、はっとする。疲れ切っていた心身も急に緊張してはずみだす。

ラサリーリョ少年が<ruby><rb>奸黠</rb><rt>かんかつ</rt></ruby>な<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざとう</rt></ruby>の手引きとなって連れて行かれる途中で、橋飾りの<ruby><rb>牡牛</rb><rt>おうし</rt></ruby>の石像に耳をつけて聞けばどえらい音がしているといって、座頭はいきなり少年の頭を石像にぶっつけたのである。そして悪魔よりちっとばかり利口になれるのだと笑っている。これで今まで無邪気であった少年は目を覚ました。生きる上には相応な智慧を持たねばならない。少年はこの座頭からこうしてその智慧を<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>かるのである。

鶴見はこの中世の説話を説話なりには聞いてはいられなかった。かれの心内には急激な衝動が起った。かれは<ruby><rb>己</rb><rt>おのれ</rt></ruby>の身に引き当ててしみじみと感じたのである。これほどの活手段はあの『無門関』などにもちょっとなかったようである。

鶴見は考えてみた。いくら考えたところでかれの経歴には、幸か不幸か、この盲人の教訓のごときものを欠いていた。そのために開悟の機会を失ったかれは、誰からも生活に必要な智慧を授けられずに大事な時を無為に過してしまった。かれは既に老衰に及んで、よろよろしている。盲人ならぬ<ruby><rb>目開</rb><rt>めあ</rt></ruby>きがかえって目を開けずにうろうろうろついている。そう思ってくるとまた考えずにはいられない。その上に更に考えようのないことを考えてみても解決はつかない。過去は<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>まぬこと――かれは平生からそれだけの心構えはしていた。その根本さえ立てておけば好い。そう思ってみてもかれはやはり弱かった。自分の考に考え<ruby><rb>呆</rb><rt>ほう</rt></ruby>けて、その<ruby><rb>挙句</rb><rt>あげく</rt></ruby>ぼんやりする。

一旦古い説話に出てくる盲人の活手段を身に引き当てて蘇生のおもいをしたものの、それもその当座だけで、そのあとで鶴見はまた一層の疲労をおぼえた。実はこの一カ月ばかり前から、どういうものか、たあいもなくぐったりしていたのである。それではいけぬと反撥して、気を変えてみる手段をいよいよ実行することにした。このほどから客間も自由に使えるようになったので、<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の壁に青木の絵をかけるというだけの仕事である。それを<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>がって<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>していたのを、今日はもはや猶予もせずに、直ちに<ruby><rb>老刀自</rb><rt>ろうとじ</rt></ruby>を呼んで相談して、娘にいいつけて、青木の絵を取り出してかけさせた。

青木の絵が戦災から助かったのには、こんないきさつがある。衣類や<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>などを少しばかり<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めて静岡市近郊の農家に預けた当時、急に思いついて、掛けてあった壁からおろして、古毛布にくるんだまま、蒲団の間に押込んでおいたものである。それがまだそのままにしてある。あちらこちらと持ち運んで来たものであるが、毛布を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>いで見れば、どこにも損傷がない。それを見て鶴見は<ruby><rb>無性</rb><rt>むしょう</rt></ruby>に嬉しがる。

多数の蔵書はその殆どすべてを焼いてしまった。それであるのに、この一<ruby><rb>幀</rb><rt>とう</rt></ruby>の画を戦火から救っておこうとした、あの発作的の行動は、そもそもどこから生れて来たものであろうか。鶴見にはそれも一つの不思議である。

とにかく青木の画は、戦災から救われたのである。娘の静代がその絵を床の壁に掛けるのに骨を折っている。油絵には珍らしい横長の型である。しばらくするとそれが工合よく掛けられた。

故友の青木繁はその絵を房州の<ruby><rb>布良</rb><rt>めら</rt></ruby>で描いた。一見印象派風のものであるが、故人は単に写実を目あてに筆を運んだものであろうか。鶴見はうべなわない。かれにはどうしてもそうは思われぬからである。多分に作者の特異な個性と空想とが全画面に混り合い、融け合っている。印象は重んずるが、その表現は物象に直接ではなくて、幻想のるつぼを通して来たものである。真の意味における創作である。

海の水平線は<ruby><rb>画幀</rb><rt>がとう</rt></ruby>の上部を狭く<ruby><rb>劃</rb><rt>かぎ</rt></ruby>って、青灰色の天空が風に流れている。そこには<ruby><rb>島山</rb><rt>しまやま</rt></ruby>の噴煙が<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>き、雲が<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>っている。地理的にいえばこの島山はこの絵を描いた位置からは少しわきにはずれているのであるが、青木はそれを知りつつも、ことさらに画の正面に移して据えた。青木の心眼にはそう見えるのである。この島山は伊豆の大島である。

その天空の帯の下に、これも左に細く右へややひろがった青緑の海が動いている。ところどころに<ruby><rb>波頭</rb><rt>なみがしら</rt></ruby>がたつ。その海が前方に迫るに従って海中の<ruby><rb>岩礁</rb><rt>がんしょう</rt></ruby>に砕けてしぶきをあげる。更に前景には大きな岩礁が横たわり突き出ている。その間を潮流が<ruby><rb>湍津瀬</rb><rt>たぎつせ</rt></ruby>をなして沸きあがり崩れ落ちる。岩礁には真夏の強い日光が反射する。紫褐色の地にめった<ruby><rb>無性</rb><rt>むしょう</rt></ruby>に打たれた赤い斑点がちかちかと光ったり<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>ったりしている。青木はこれをつつき廻していたので、蜂の巣蜂の巣といっていたが、その岩礁は蜂の巣というよりもむしろ怪獣のような巨大な生物に見える。狂乱に近い画家の精神が一種の自爆性を帯びて激しく発散する。いかなる<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どとう</rt></ruby>にも<ruby><rb>滅</rb><rt>ほろぼ</rt></ruby>されまいとする情意の熱がそこに<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>いばかりの<ruby><rb>耀</rb><rt>かがや</rt></ruby>きを放って、この海景の気分をまとめようとあせる。それほどまでにもこの岩礁は誰の目にも異様に映ずるのである。

全画面はかくして、左から右へ、うしろから前へ、絶間なく揺すりどよめいて、動乱の極に達している。それがメヅウサの頭にもつれ<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まる蛇をおもわせる。

これが青木繁の若い時に描いた海景である。<ruby><rb>額縁</rb><rt>がくぶち</rt></ruby>の横幅約二尺八寸、縦幅一尺八寸はあろうと思われる。

鶴見は海と共に<ruby><rb>際涯</rb><rt>さいがい</rt></ruby>もない感情を抱いてその画を丹念に見返し見返ししている。波と岩との争闘の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に火と海との相剋がそこにある。揺すり動かし砕き去ろうとする狂瀾怒濤に抗して、不滅を叫ぶ興奮から岩礁はいやが上にも情熱の火を燃やす。<ruby><rb>遠空</rb><rt>とおぞら</rt></ruby>にかすむ火山の<ruby><rb>円錐</rb><rt>えんすい</rt></ruby>がこの死闘を静かに見おろして煙を<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>く。

鶴見はその画の中に、人生における情熱と冷酷な現実との瞬間に縮められた永遠のたたかいを、ふいと見てとって深い深い息をつく。

<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の壁に掛けた青木の画幀はその額縁を一つの窓として、そこからはユニクな海景が残りなく見わたされるようになっている。そう思っているうちに、鶴見には錯覚が起って来て、かれはいつの間にか、その窓からかれが往年の情熱的な争闘の生活を、食い入るばかりにしてながめていたのである。少年時にきざして、<ruby><rb>間歇的</rb><rt>かんけつてき</rt></ruby>にかれを襲った性慾の経歴である。鶴見にもそういう時代がつづいたのであった。

老刀自の傍にいることを鶴見は全く忘れていた。

「青木さんの絵は青木さんなりに特色があり過ぎるように思いますの。それで釣合がとれるかどうかわかりませんが、ちょっと何か<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>けさせてもらいましょうか。」そういって、老刀自は<ruby><rb>片頬</rb><rt>かたほお</rt></ruby>にさみしく笑う。

鶴見はその声を聞いてびっくりした。急に覚醒した人がおぼえるように、胸には動悸が打って<ruby><rb>鳩尾</rb><rt>みぞおち</rt></ruby>のところが<ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>やりとする。これだけの心理の衝動を、身近にいる老刀自は感づいていないように見える。かれは妙だなと思う。しかしまたそんなことを考える自分もまた妙だなと思う。

鶴見は黙っている。老刀自は裏山からかねて見つけておいた、すがれた秋草を取揃えて持って来て、李朝白磁の手頃なふっくりした花瓶に<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>に挿す。すすきの<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>えた穂と<ruby><rb>唐糸草</rb><rt>からいとそう</rt></ruby>の実つきと、残りの赤い色を細かにつけた<ruby><rb>水引草</rb><rt>みずひきぐさ</rt></ruby>と、それに<ruby><rb>刺</rb><rt>とげ</rt></ruby>なしひいらぎの白い花を極めてあっさりと低くあしらったものである。至極の出来である。

「何という対照であろう。おれは気に入ったよ。おれはたった今青木の絵を仲立ちにして、若いおりの情熱の世界をまざまざとながめていたのだよ。そんな時代もね、もうとっくの昔の夢となった。おれも老いこんだよ。明日はどうなるだろう。どうなっても、それを自然であらせたいね。こうやって活けた花をのどかに見ておれば老境もわるくはない。そうじゃあるまいか。」

鶴見は冗談だという風に見せかけて、そういって老刀自を顧みた。

二人は床の間を前にして、じっとして寂しく笑う。

  


## 磁気嵐

透谷の『<ruby><rb>蓬莱曲</rb><rt>ほうらいきょく</rt></ruby>』が出た。鶴見の回想は今この本のイメエジをめぐって渦動をはじめるかに見える<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>やかな曲線をえがいている。この『蓬莱曲』が出たという事実は、古い伝説が語るところの、<ruby><rb>江水</rb><rt>こうすい</rt></ruby>の流れからあらわれた大きな亀が、その背に負うていたという、あの<ruby><rb>河図</rb><rt>かと</rt></ruby>に比すべきものであったかも知れない。しかるにそれはどうであろう。質素極まる仮表装で、一点の飾もない白と黒とが、まるで何かの<ruby><rb>喪</rb><rt>も</rt></ruby>に籠っているように思われる。『蓬莱曲』というのは<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>にそんな本であった。しかもこっそりと世の中に出たのである。

鶴見は中学に通うようになってから、毎日数寄屋橋をわたって、銀座<ruby><rb>尾張町</rb><rt>おわりちょう</rt></ruby>の四辻を突切って行く。そしてこんなことを思っている。「おれの足はきょうも透谷の住んでいる家の前の<ruby><rb>舗道</rb><rt>ほどう</rt></ruby>を踏んできたのだ。」こう思って、それをひそかに誇りとしていた。そんな日もあったのである。

透谷の家というのは、銀座通りよりもむしろ<ruby><rb>数奇屋河岸</rb><rt>すきやがし</rt></ruby>の方に近よっていたかと思う。河岸から来れば左側の小さな<ruby><rb>角店</rb><rt>かどみせ</rt></ruby>で、煙草をひさいでいた。そういう店の奥に将来を期待される詩人が世に容れられずにしじまっているということを、少年の心にはまだ不思議とも思わずにいられた。彼はただ詩人という呼声に酔わされていたのである。

北村透谷の『蓬莱曲』がその頃出た新刊書の一つである仮表装の素朴な本であることはすでに述べた。恐らく二、三十銭そこそこで売っていたのだろう。それにもかかわらず鶴見はその本をどうして手に入れたものかとその算段に数日心を悩ました。余裕のない家庭では二、三十銭といっても大金である。欲しいもの読みたいものもあるが、その位の小遣銭も貰えない状態では何事も思いとまるより外はない。すべてがそんな風で、少年の知識欲は常に抑えられていた。妙に偏屈な性癖がかれにこびりついている。その原因がどこにあったか、それは<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>問わずとも知れたことである。そう思って見て、伸び伸びと生い立ち得なかった性情を、かれは一生の終りになって、自ら顧みて自ら憐んでいるのである。

『蓬莱曲』は幸いに同級生の一人が買って持っているのを知った。鶴見はそうと知った上は、少しも遅疑せずに、その友人の家へ出掛けて行った。本は貸してくれるという。同級というだけで、ふだん余りに言葉も交わさないでいた間柄であったが、読みたさの一念から学校帰りに臆面もなく、その家を尋ねて行ったのである。

その友人は須藤といった。姓だけおぼえているに過ぎない。家は学校から間近の<ruby><rb>采女町</rb><rt>うねめちょう</rt></ruby>にあった。医家で、その当時は随分と門戸を張って繁昌していた。薬局に使っている部屋も広く、若い人たちが大勢立ち働いて、調剤に忙がしい。その合間に「坊ちゃん、どうですね。あれからどうしました。面白いことがあったでしょう」などといって、友人の須藤の顔をのぞいて、ちょっとからかう、その<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかさ。鶴見がひょっくり尋ねて行った時に、友人はたまたまこの薬局に出て来て、若い人々にたちまじって話しあっていたのである。

鶴見は須藤の姿を見て、いきなりこういった。「きょうは学校を休んだね。病気か。」

「うん。ちょっとばかり体の<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>がわるかったのだ。たいしたことはないよ。」

「そうか。そんなら好いが。」無愛想な受け答をしていた鶴見は、それから案内されるままに奥へ通った。

奥の八畳に病床が温かそうにしつらえてある。綿を厚く入れた<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>にくるまって休養していられる身分である。どこといって格別悪いらしくもないが、どうしたものかたびたび寝るくせがついている。学校の方も欠席がちになる。須藤も好箇の若者であるが惜しいことには体が弱い。鶴見はそう思ってあたりを見まわした。

室内は適度に保温されて、<ruby><rb>床脇</rb><rt>とこわき</rt></ruby>の違い棚の上に<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な鶯の籠が載せてある。鶴見にはそれがこの<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の表象ででもあるように目立って見えた。鶯は籠の中を時計の振子のようにあちこちと動いている。

「鶯は鳴きますか。」鶯は動いてはいたが鳴きはしなかった。それにひかされて、ついこんな間の抜けた口をきいたが、それが愚問であるのに、すぐ気が附きはしたものの弁解がましいことはしたくなかった。友人は寂しく笑った。

須藤は背は高かったがひどく痩せぎすなたちで、前歯が虫に食われて<ruby><rb>味噌歯</rb><rt>みそっぱ</rt></ruby>になっている。

その味噌歯がこの男の面貌に愛敬を添えていた。それでも寂しく笑った時に、鶴見はそこに若者らしくない<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れを見て取った。

鶯によい鳴きぐせをつけるにはその方法がいろいろある。その<ruby><rb>躾</rb><rt>しつけ</rt></ruby>かたについての話を一わたりきかされた。「何につけても修行が大切だね。」鶴見はそういおうとして、遂にその言葉を口に出さずにしまった。

鶯の修行の話を<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>にして、こうやって静かに寝ていられるところを見ると、友人はもはやこの家の立派な若主人である。そしてそれに相応した待遇を受けている。鶴見がこういうような生活ぶりを見たのは始めてである。しかしこの時は、学生の身分としての生活ぶりに懸隔の差が余りに多かったせいか、ただもの珍らしいと思ったばかりで、別段の感情は起さなかった。

須藤はそういう家庭に育っただけに、どことなく貴族的で、わざとらしくない品位が<ruby><rb>具</rb><rt>そなわ</rt></ruby>っていた。ただその様子を見ていると、次第に迫ってくる暗い影が、かれの身に落ちかかっているようにも思われる。それが果して倦怠であろうか、絶望的な苦悩であろうか、そんなことが鶴見に分ろうはずもない。鶴見はこの友人が体がもっと強かったらばと思ったのみであった。

鶴見はそんな友人から透谷の『蓬莱曲』を借りて来たのである。かれのためには、ここに新しい友人を一人得たというよりも、新しい書によって、透谷その人に深く親しむことができたという方が適切である。

『蓬莱曲』はもちろんすぐに読みおわった。そして感激した。

『蓬莱曲』を読むと、『マンフレッド』が自然に思い浮べられる。バイロンも気随気儘な生活を送っていた。そしてあの図抜けた旺盛な気力を養っていた。鶴見はまたここに至って、この書を貸してくれた友人のおもかげを、かれのえがいている妄想のなかでちらと見た。須藤に体力がもっとあればと惜しんだのも、そのためであったかとも疑った。須藤をバイロン卿にあやからしめようとするのではない。そんなことを思いつくというだけでも<ruby><rb>痴</rb><rt>たわ</rt></ruby>けたことである。鶴見はそれを知らぬではない。知ってなおかつ他愛もない狂想を追うているのである。かれはこの<ruby><rb>尫弱</rb><rt>おうじゃく</rt></ruby>な無名の若者の中に、その身を覆うていると想像される暗い影の中に、あの反抗心と絶望的な苦悩を持っているバイロン卿をえがこうとするのである。無理無体なことではあるが、かれはこの若者を<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>って、仮托してまでも、バイロン卿のえらさを現前したかった。要するにこの若者を<ruby><rb>憑座</rb><rt>よりまし</rt></ruby>に据えてこの大詩人の乗り移る魂の声を聞こうとしたのである。鶴見にはどうかするとこういうような考え方をして、情感の一時の満足を得ようとする妙な気まぐれがある。

鶴見はしばらくうつけた考に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていたが、何のかかわりもないのに、仮托の役に使われたこの若者こそ迷惑なことである。透谷の『蓬莱曲』がとんだ罪を作った、そう気がついて見ると、鶴見は心のうちでこの友人に対して、すまぬことを考えていたと詫びるより外はなかった。

透谷には『蓬莱曲』以外に、少し後になって出したものに『宿魂鏡』がある。観念小説だという評判がわけもなく鶴見少年の心を打った。かなりむずかしい短篇である。これもやはり『国民之友』の附録に載せられたものである。心理の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>がその下に通ずる路を暗くしていた。少年の好奇心がその迷路をおぼつかなくもたどらせた。そんな記憶が残っている。透谷のもので、今一度読み返してみたい作品の一つである。

鴎外はトルストイと同様に英国人を嫌った。その点から推しても、本国に愛想をつかしたバイロンにある程度の関心を持っていたにちがいない。すでに『マンフレッド』<ruby><rb>首齣</rb><rt>しゅせき</rt></ruby>の数十句の訳がある。そうかといって、バイロニズムには<ruby><rb>頓著</rb><rt>とんちゃく</rt></ruby>するところがなかった。バイロンその人というところのバイロニズムとは別物である。無分別な鶴見にそんなわけが<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>えられるはずはなかった。

『浴泉記』が出た。鴎外の実の妹に当る小金井喜美子の訳筆である。一ころ<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシヤ</rt></ruby>をバイロニズムが<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>した。そういう時代の世相をえがいたものである。うぶな少年にはその反社会的な行動が深刻に見なされて、矯激な思想の発揚に一種の魅惑を感じた。こんな深刻味のあるものを一女性の<ruby><rb>繊手</rb><rt>せんしゅ</rt></ruby>に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>せて<ruby><rb>夫子</rb><rt>ふうし</rt></ruby>自らは別の境地に収まっている。鴎外はなぜそんな態度を取っているのだろう。バイロニズムに浮かされかかっていた少年にはそれ相応な幼稚な不満があって、それが<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の見識でもあるかのように思いなされるのである。

鶴見少年にも思想らしいものが、内から<ruby><rb>甲</rb><rt>こう</rt></ruby>を<ruby><rb>拆</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて<ruby><rb>芽</rb><rt>め</rt></ruby>ぐんでいる。そこに見られるのは不満の<ruby><rb>穎割葉</rb><rt>かいわれば</rt></ruby>である。かれはいつのまにか生意気になってきた。

そのうちに中学の業を終える。明治二十五年である。少年期から青年期に入る。事の順序は表面平穏に推移するが、少年から青年に経過するその間の変遷は実際には驚くべきものがある。ただ一線を劃するのでなくして、平地に山のような波瀾を起すのである。別天地に入るのである。

性慾がはじめて問題になる。性慾は止むに止まれぬ本能の発露である。思想などとは違って徐々に進行するものではない。突如として湧いて出てくる。それが青年期の特調をかたちづくるのである。青年期への新入者は性慾を抑制する<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>を知らない。<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>をかけられぬ性慾は<ruby><rb>恣</rb><rt>ほしいまま</rt></ruby>に荒れまわる。鶴見は最初から性慾道をそんな風に経験したのである。

恋愛と性慾とをしばらく別な物としてみれば鶴見には性慾があって恋愛は殆どなかったといって好い。あとから顧みて少しはなつかしいと思い出されることのあるのは、初恋のほんの取りつきばなの短期間だけである。その期間のみが恋愛の手ほどきであったかと思えば、それはそれなりで、あわれを<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>う夢ともなる。当時流行の<ruby><rb>束髪</rb><rt>そくはつ</rt></ruby>で、前髪を切って垂らした額つき、眉と眉とが神経質を思わせて迫っているように見え、その上に黒目がちで眉毛の濃い、切れ長の<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>が、おのずからにあらわす勝気を、うら若い微笑の花がその匂いのなかで<ruby><rb>和</rb><rt>やわ</rt></ruby>らげている。夢の再現のうちに映ずるのは、そんな表情をもった<ruby><rb>円顔</rb><rt>まるがお</rt></ruby>の少女である。

少女は継母の親戚のもので、ちょくちょく遊びにきていた。鶴見が接する唯一の女性がそこにあった。夢ではないが夢のように感ぜられる。かれはその<ruby><rb>淡々</rb><rt>あわあわ</rt></ruby>しい夢を懐に抱いて温めていたのである。それが習慣となったが、別に気にも留めないでいると、体のどこやらがむずむずしてくる。何ものかが次第に<ruby><rb>浸</rb><rt>し</rt></ruby>み<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んでくるようにも思われ、また何ものかが生れ出ようとして悩んでいるようにも思われる。抱いた夢は<ruby><rb>雛</rb><rt>ひな</rt></ruby>を<ruby><rb>孵</rb><rt>か</rt></ruby>えさねばならない。それがどんな雛であるか、かれはまだそれを問うてみようともしなかった。

その少女というのは他家へはやくから養女に貰われていたのである。最近にその家でどういう事情があったのか、それは知らされていなかったが、叔母がその少女を見てやることに話が決って、鶴見の家に預けられた。そんなわけで、これまでたまたまに<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>っていた少女と毎日顔を合わせるようになる。<ruby><rb>禍機</rb><rt>かき</rt></ruby>はそこに<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいた。盲目の性慾は時を得顔にその暗い手を伸して、かれを未知のすさんだ道に<ruby><rb>押遣</rb><rt>おしや</rt></ruby>った。

急に発動した性慾の前には自もなく他もなかった。ただ情熱のうちに一つにならねばならぬという念慮のみが残されている。この強引な性慾の醜さを見せつけられて、少女はうるさく思ったにちがいない。それでも少女はこらえていた。見さかいがつかなくなった鶴見である。それからというもの、かれは本能の獣性の<ruby><rb>俘</rb><rt>とりこ</rt></ruby>となって、<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれゆくままに行動した。

折からの季節は真夏であった。あたりには白熱の光線が満ち溢れている。その中にあって鶴見の性慾は更に激しく燃えたった。そこには枝葉を繁らす樹木もなく<ruby><rb>濶達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>な青空もない。すべては発火点に達して、夢中になって狂躁曲を奏しているようにしか見えない。その光景は<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>に迷妄世界の大火災を思わせるが、鶴見にはもうそう思ってみる余裕すらない。どこを見てもかれの見るところに性慾の<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>が燃え移ってゆくのである。

時が変化をもたらした。少女は縁があって結婚した。しかしどうした理由があったものか、結婚後半年もたたぬうちに戻されて、今度は兄の家へ引き取られた。この兄というのは軍籍にあったので、日清戦争後は<ruby><rb>小倉</rb><rt>こくら</rt></ruby>の師団に転任させられた。少女もまた兄の赴任に<ruby><rb>随</rb><rt>つ</rt></ruby>いて小倉へ行った。

鶴見は兵役関係で父の郷里の本籍地へ行き、不合格を言い渡されてからもなお滞留していた。それから足掛け三年もぐずぐずしていたが、いよいよ帰京することに決して<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>を出発し、途中小倉に立寄った。鶴見はここで久しぶりに往年の少女と遇うことになった。

この家の兄嫁というのはきさくな性分で、食事のおり、「これが東京でお世話になっていたときには大分面白いことがあったそうですね」といった。そういわれて、突然のことなので、ちょっと<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>はゆかったが、かれはその言葉をむしろ冷やかに聞き流してしまった。かれには一旦事が過ぎれば極めて冷淡にものをあしらう性癖がある。根本の執著心は深いけれども思いも寄らぬ冷淡さで過去を離れて現実に処してゆくことが出来た。諦らめでもなく仮装というのでもない。鶴見は自分にそういう性癖があるのを知り抜いていて、時には余りに冷やかすぎると思って<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>むことさえある。

鶴見はこのたまたまの会見にも、<ruby><rb>些</rb><rt>いささか</rt></ruby>の感情をも動かさずに、それきりに別れてきた。

一つ思い出すことは、その小倉でその日に雪が降りだして、翌朝起きてみれば、めずらしくも二尺以上積っていたということだけである。

また時が立った。今度は歳月の間隔が長かった。その間に鶴見は父を<ruby><rb>亡</rb><rt>うしな</rt></ruby>い、その翌年には結婚していた。

或る日の晩方である。一人の<ruby><rb>比丘尼</rb><rt>びくに</rt></ruby>が<ruby><rb>訪</rb><rt>おとず</rt></ruby>れて来た。女中が「お比丘尼さまがお見えになりました」といって丁寧に取次いだ。会ってみると、姿を変えたさきの少女である。

小倉で<ruby><rb>発心</rb><rt>ほっしん</rt></ruby>して<ruby><rb>尼</rb><rt>あま</rt></ruby>になり、小さな庵をもつことになったとは聞いていたが、こうやってじかにその姿を見るまでは、そのことを切実に考えていなかったといって好い。しかるに今まのあたりに変った比丘尼姿を見てさすがに感慨は無量に起ってきた。それでもなお感傷的にはならずにすましたことが、かれの心を一層平静にした。

尼はこういった。「わたくしも<ruby><rb>永平寺</rb><rt>えいへいじ</rt></ruby>へ行って、思い立ったことでもあり、修行をして、こんどは正式に比丘尼のゆるしを貰って来ました」といった。尼は尼だけにあっさりしている。その晩は鶴見の<ruby><rb>供養</rb><rt>くよう</rt></ruby>を受けて一宿して、翌日は早々に九州へ立って行った。

また時が過ぎた。小倉で鉄道の方の工場に勤めていた親戚のたよりで、比丘尼は小庵にこもって相変らず行いすましていたが、病気があったと見えて、ある朝ところの人が尋ねていってみると、尼は畳の上にうつ伏せになって死んでいたというのである。大分苦しんだ形跡が見えるとも書き添えてあった。はかないことである。鶴見はこうして、とうとう<ruby><rb>本山</rb><rt>ほんざん</rt></ruby>から貰ってきたという、比丘尼の称号をすら知らずにすごしてしまった。かれはこんなことのあるたびに、性分とはいいながら、普通の人情に欠けたところのあるのを反省するのである。

鶴見はまた考えた。女の身の上ほど変化極りないものはない。自分などはやっとこれからというとき、女は既に人生の複雑な径路をたどって、<ruby><rb>最期</rb><rt>さいご</rt></ruby>の苦悩まで<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>め<ruby><rb>尽</rb><rt>つく</rt></ruby>して、しかも孤独のまま死んでゆくのである。かれはそう考えながら、謎めいた女の一生をひそかに気味わるくも感じているのである。

鶴見が小倉で女に別れてきてから、幾年かは比較的に無事に過ぎた。その平康のなかからまた新たな性慾の経験がはじまって、かれは忘れ得ぬ苦しみを身を以て苦しみぬいた。かれはここに至って、その回想が一倍の冷静さを要求することを知った。身を以て苦しみぬいたという外に回想すべき何物をもそこに<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>えないからである。<ruby><rb>如法</rb><rt>にょほう</rt></ruby>の<ruby><rb>黒闇</rb><rt>こくあん</rt></ruby>がすべてを領していた。経過した一々の事象も内心に何らの写象をもとどめていない。殆ど空無であるその心理状態を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いていえば、ただ「暗い」という一言で足りよう。目に見えぬものにも<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>いはあろう。どんな臭いがするかと聞かれれば、「臭いはする。あの燐の<ruby><rb>一塊</rb><rt>ひとかたまり</rt></ruby>を空気中に放出しておけば、ふすふすと白煙を<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げて自燃作用を起す、そのおりに発散するむせるような臭い、そんな臭いがする」と答えるのが関の山である。

絶体絶命の性慾のさせる<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>である。それを<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に観念の上で<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んではいられない。鶴見はそう思ってひとり<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>とする。

回想がかれに要求するものは客観的な事象そのもののみである。勢い誰が見ていても誰が聞いていても、その通りだといわれる事柄の羅列に過ぎなくなる。この覚書とても冷静が要求されればされるほど、乾燥無味な叙述にならざるを得ない。

鶴見と目を見合せているのは貴族ともいわるべき家柄の女である。どんな冗談をいうときにも、すまして、さりげない風を装って、それがわざとらしく見えぬように取りつくろうことを瞬時も忘れない、そういう態度を<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>い<ruby><rb>袋</rb><rt>ぶくろ</rt></ruby>のように肌につけている女である。年は鶴見より五つも多い。恐らくは最初姫君として嫁いだであろう名誉あるその家にもいにくくなり、<ruby><rb>放恣</rb><rt>ほうし</rt></ruby>に身を持ちくずして、困りもの<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>ものとして諸家に預けられ、無籍ものの浮浪にもひとしい生活をつづけていたことをも苦にせずに、かえってその境遇を利して自由に振舞って来た。この女にはそんな経歴がある。もともと<ruby><rb>竜造寺</rb><rt>りゅうぞうじ</rt></ruby>氏の出だという。家系の立派さに先ず驚かされる。

九州でも今の地理からすれば<ruby><rb>辺陬</rb><rt>へんすう</rt></ruby>と称しても好い土地に祖先以来の<ruby><rb>屋形</rb><rt>やかた</rt></ruby>がある。小高い野づかさが縦に列んでいるのが特異な景観として目につきやすい。それが三つ、それぞれ何城と呼ばれて区別される。戦国時代の土豪の<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>った<ruby><rb>砦跡</rb><rt>とりであと</rt></ruby>である。その中央にある城あとに代々の屋形があって、ちょっとした<ruby><rb>壕</rb><rt>ほり</rt></ruby>も廻らしている。屋形のうしろに断崖がある。八重垣落しである。

八重垣というのはこの竜造寺家幾代目かの<ruby><rb>寵姫</rb><rt>ちょうき</rt></ruby>である。戦乱の収まって以来、戦勝者が本藩を建て、竜造寺家はその支藩の名の下にこの土地に封ぜられた。その八重垣姫には落度があった。それが無実であるかどうかは分らぬが、密通の重罪を負わされ、まる裸にさせられて馬の背にかき乗せられ、そして本藩の城下の町々を引まわされた。土地の人はそういう風に伝承している。鶴見はこの伝説を聞いたとき、テニスンに似寄りの詩があったことを想起した。テニスンの詩は、サアジェントとか何とかいったような、どこやらの市の長が妻の不倫に対する懲罰であったように記憶している。東西同事だと思う。

こうやって裸体のまま引廻された八重垣姫は、その城下から<ruby><rb>封地</rb><rt>ほうち</rt></ruby>の屋形に連れ戻されることになり、馬は姫を載せて本居の城あとの見えるところまで進んできた。そこには一筋の川が流れていて、小さな渡船で人馬をわたすのである。馬からおろされた姫は向うに見える城あとの<ruby><rb>樹立</rb><rt>こだち</rt></ruby>をじっとながめていたが、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に気をあららげて、腰に手をやって、「こんなものが今更何になる。<ruby><rb>益</rb><rt>やく</rt></ruby>にもたたぬものは邪魔になるばかりだ」といった。その時<ruby><rb>擲</rb><rt>な</rt></ruby>げ<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てた一片の布を、ちょうど川岸に枝を伸していた松が受けとめたというのである。渡し場の目じるしとして立っていたその松は今に残っていて、<ruby><rb>脚布掛</rb><rt>きゃふが</rt></ruby>けの松と呼ばれている。

殿の屋形に<ruby><rb>著</rb><rt>つ</rt></ruby>いてからの姫は日夜<ruby><rb>拷問</rb><rt>ごうもん</rt></ruby>の<ruby><rb>責苦</rb><rt>せめく</rt></ruby>に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>い、その<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>はとうとう屋形のうしろの断崖から突き落されてこと切れた。<ruby><rb>無慚</rb><rt>むざん</rt></ruby>な伝説であるが、伝説はまだ終らない。名家の屋形にはけちがついたのである。姫の<ruby><rb>怨念</rb><rt>おんねん</rt></ruby>は八重垣落しの断崖のあたりをさまよっていて、屋形に<ruby><rb>凶事</rb><rt>きょうじ</rt></ruby>のある前には気味のわるい笑い声がしきりに聞え、<ruby><rb>吉事</rb><rt>きつじ</rt></ruby>にはさめざめと<ruby><rb>哭</rb><rt>な</rt></ruby>くけはいがする。怨念というものを信じていた時代のことである。それがどれだけか、屋形の空気を暗くしていたことだろう。

明治維新後はさすがの名家も急劇に衰えた。それには世間の圧迫もあったには違いないが、この屋形の主君の<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>が、専らその因をなしていたといっても好い。人の好い主君は、<ruby><rb>阿諛</rb><rt>あゆ</rt></ruby>する旧臣下や芸人の<ruby><rb>輩</rb><rt>やから</rt></ruby>に取巻かれて、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に遊楽の日を送り迎えていた。またそれよりもわるいのは、いろいろの女性によって家庭の乱されたことである。禍の種はそこにあった。維新後二十年はそれでもどうやら因襲の生活をつづけていられたが、それを過ぎるといよいよ没落の時期が来た。露命をつなぐにさえ事欠くようになったのである。有志の人々が世話をして、毎日わずかばかりの米を出し合って、袋に入れて置く。その袋を昔でいえば屋形の若君がさびしい身なりをして、破れ<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>をはいて、受け取りにくる。鶴見は国もとへ行っていたとき、その様子を傍からそっと見ていて、せっぱ<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>った気の毒な事情を知っていた。そんな状態になるまでに落ちぶれたのである。

鶴見のかかり合ったという女はそんな乱脈な家庭で育てられて来たのである。こんな話も聞いた。まだ娘のころ、若い男と<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>をならべて、田舎の<ruby><rb>畦道</rb><rt>あぜみち</rt></ruby>を馬で乗りまわして、百姓をおどろかした。嘘か本当か、そんな噂話も伝っている。一度久留米近傍のさる名家に嫁したが、その縁も長くはつづかずに出戻ってきた。その後は縁故のある諸家に転々と預けられた。どこでもその取扱に手を焼いたからである。鶴見の家がその最後の選に当ったのは鶴見の家が旧臣のことであり、鶴見の父親の厳格な性行が認められ、その上に家は閑散であり、そこに入れておけば、自然に茶道などの風雅な教養の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に好感化を及ぼすだろう、そんな望を抱いていた人たちから父は見込まれたのである。そしてその問題の女性を鶴見の家で余儀なく引受けた。それがはからずも鶴見に苦い閲歴を負わした端緒となったのである。

鶴見の相手になった女性の手ごわさは始から知れていたのであるが、それでいてどうしてもその悪関係を断ち切り難かったのは性慾のなす業であった。性慾は実は二人の間を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いでいたのではなかった。もし繋いでいたならば、そのきずなをあるいは断ち切ることもできたのであろう。しかるに二人は性慾を別々の意味で享楽していたのである。その間に共通のきずなはなかった。鶴見の方には盲目の衝動あるのみで、相手には性慾に加工した<ruby><rb>手練</rb><rt>てれん</rt></ruby><ruby><rb>手管</rb><rt>てくだ</rt></ruby>があった。鶴見は好い加減にそれに乗せられていたのである。

肉は<ruby><rb>殺</rb><rt>そ</rt></ruby>がれ骨は削られる。もうこれからどうして好いかわからない。破滅が目の前に見える。そこまで遂に押詰められたと観念していた矢先きに、たまたま一つの事件が起って来た。全体から見れば<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な事であるが、その事が鶴見を鋭く刺戟した。鶴見は目を醒した。その事が起ったばかりに彼は性慾の迷路を出ることが出来るようになったのである。かれは救われたのである。

鶴見の生涯に一の転機をもたらした事件というのはこうである。

或日のこと、鶴見は<ruby><rb>書見</rb><rt>しょけん</rt></ruby>をしていた。机の上には開かれた一冊の書物が載っている。鶴見はその本の中で、南欧の美しい風景を心ゆくばかり眺めている。海のあなたにはあの有名な活火山が隠さねばならぬことが世にあろうかとばかり、惜しげもなく全姿をあらわした。その<ruby><rb>巓</rb><rt>いただき</rt></ruby>から吐き出す煙が風に<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いて静かに低く流されてゆくのがよく見える。<ruby><rb>悠々</rb><rt>ゆうゆう</rt></ruby>たる思いがする。ここの海港の盛り場は殊の外<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わしい。ナポリである。鶴見はその本の訳者とともにナポリの町をさまよい歩いて、情熱のにおいを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いでみる。

その時であった。鶴見が離れようとすればするほど<ruby><rb>纏</rb><rt>まとわ</rt></ruby>りついてくる女の執拗さにあきれて、女の<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>には<ruby><rb>応諾</rb><rt>おうだく</rt></ruby>も与えずに、押黙って本を見ていた。女は激しい<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>でも起したかのように、<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>える手にいきなり鶴見の見ていた本を取り上げて、引き破って、座敷の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>に放りやった。

鶴見は女の行為に全く<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられてしまって、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に言句も出ない。それから後どうしたかも知らない。それでいてその折読みさしていた書中の条下はよく覚えている。その一章には「人火天火」という小みだしがある。それがはっきりと思い出される。

この書の訳者は老母に読ませたい一心から活字をわざわざ四号にして、文章の段落に空白を置かず、追い込みに組んで印刷させた。活字を大きくしたために増加する頁数を節減しようとしたのである。そういうことがその本のどこかに断ってあった。

鶴見は訳者の孝道に感じ入った。それに対してかれの為すところは浅ましいかぎりである。かれはいよいよ<ruby><rb>慚愧</rb><rt>ざんき</rt></ruby>した。

そういうことが一転機となって、鶴見は気を楽にした。それでもなお惰性になった性慾をかれはきっぱり打切りもせずにつづけていった。

女がこんなことをいった。「あなたのお父さんね、あんなむずかしい顔をしておいでだが、一度こんなことがあったの。」

鶴見は女の言葉に毒のあるのを悟った。見さかいというものを知らぬ女だから、別に毒を<ruby><rb>注</rb><rt>さ</rt></ruby>すとも思わずに、無意識にそういったかも知れない。しかしかれはもはや女のために弁解してやる必要を少しも感じない。そして取り合いもしなかった。

父親は茶室に籠って茶道に精進している。そして宗匠から伝えられてくる手前を繰返し繰返し復習してから、控帳へ書き留めをする。それが殆ど毎日の仕事である。女が相手をする。名家の育ちだけあってものごしは上品で、言葉つきもやさしい。色は衰えたといってもまだ<ruby><rb>残</rb><rt>のこ</rt></ruby>んの春を<ruby><rb>蓄</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えている。<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>だちは長年の<ruby><rb>放埒</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>で<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んだやつれも見えるが、目もと口もとには散りかけた花の感傷的な気分の反映がある。そういう女を茶室のうちに据えて見れば、<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>めかしく風流でないこともない。

その女と共に鶴見の継母も相手になる。順番に<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の前で、複雑な手前をする。

継母もさる支藩邸の奥向きを勤めて、手もよく書けば歌道も一通り心得ている。継母はこの女を嫌っていた。その心理はよくわかる。父親は父親で、この母が手もうまく和歌も相応によむのを何か出来過ぎでもあるようにして嫌っていた。それも思えば口実であったろう。そして時々訪ねてくる歌の師匠の老人をも嫌っていた。

その老人があの今井克復翁である。大阪で、大塩平八郎の騒動のあったとき、<ruby><rb>惣年寄</rb><rt>そうどしより</rt></ruby>として火消人足を引きつれて大塩父子の<ruby><rb>隠家</rb><rt>かくれが</rt></ruby>を取り巻き、そしてこの父子の<ruby><rb>最期</rb><rt>さいご</rt></ruby>を見届けたという、その人である。<ruby><rb>大家</rb><rt>たいか</rt></ruby>の生れでさすがに品位も備わり、濶達で古いことをよく記憶していた。中島<ruby><rb>広足</rb><rt>ひろたり</rt></ruby>とは姻戚であった。翁の夫人がたしか広足の娘であったように聞いていた。隣町に住んでいたので、短冊を背中に入れて気軽く<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねてくる。弟子の家を廻り歩くのが何よりの楽しみであったらしい。若いおりは能楽に凝って、そのために大きな身代をなくしてしまったということである。翁の歌は『新古今』の伝統を守って、『万葉』を遠ざけ、<ruby><rb>桂園</rb><rt>けいえん</rt></ruby>を疎外していた。翁は万葉張りを<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>していた。鶴見が『万葉』を好んでいたのを感づいて知っていたからである。

うばたまの<ruby><rb>闇雲</rb><rt>やみくも</rt></ruby>いそぐかごの中に

富士を見ながらむすこ行く見ゆ

これなどどうですと高笑いをして、翁は右の歌を書き示した。<ruby><rb>加茂季鷹</rb><rt>かものすえたか</rt></ruby>の作だというのである。

父親がこの老翁を嫌うのは老翁その人を嫌うのではない。それが鶴見に分らぬでもなかった。

或時父はこういった。鶴見が父の晩酌の世話をしているおりであった。継母は留守であった。父は小姓でも抱えたような気になって、鶴見に世話をさせて喜んでいる。「あのなあ、うちのみきね、あれも困りものだ。それに」といいさして、老顔に深い<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を寄せる。いつにない父のうち解けようである。みきというのは継母の名である。鶴見は父のこの言葉を聞いて、その先きを恐れた。その先を聞くというのは<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>かった。鶴見にはおおよそのことは分っている。それで別事にまぎらして、その話はそれなりに伏せてしまった。父親にはどこか女嫌いというところも見えていた。そんなこともあったのである。

父親は七十の古希に、<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>で同士集まって、歌仙であったか、百韻であったか、俳諧を一巻き巻いた。それを書物にして配りたいという。書物は『八重桜』といった。鶴見が受合って、印刷させて、<ruby><rb>和綴</rb><rt>わとじ</rt></ruby>の小冊子が出るようになった。<ruby><rb>端書</rb><rt>はしが</rt></ruby>きも添えておきたいという。鶴見が代筆をして、一枚ばかり俳文めいた文章を書いた。父は鶴見の文章を読んで、はじめて子供の文才を知って、少しは心を安めたようであった。鶴見はそれがうれしかった。

性慾の磁気嵐、人生の球体面に拡大する黒点、混迷と惑乱のみなもと、それもいつしか過ぎ去った。

鶴見はこういうことを夢みている。今一度童子となって、生みの母から、魔力にかかった昔々を聞いて、すやすやと長い眠りにつきたい。

<ruby><rb>厄落</rb><rt>やくおと</rt></ruby>しということがある。夢もさっぱり落してしまったらばと、おりおり思う。それでもかれは夢から離れることもできず、夢もまたかれを離さない。

鶴見は例のとおり、ひとりで何かつぶやいている。

  


## 夢は呼び交す

秋もすえのころである。鶴見は夏の季に入ってからどこへも出ずに籠っていたので、久しぶりで、<ruby><rb>長谷</rb><rt>はせ</rt></ruby>の方へ出掛けてみた。古本屋をあさって、雑書を五、六冊手に入れて、それを風呂敷に包んで持っていた。さて引き返えそうとすると、ひどく疲れがでて、歩行もはかどらない。戦災以来弾力を失った脚はまだ十分に恢復していないのである。それにかかえている風呂敷も重かった。

そんなありさまで八幡社の<ruby><rb>境内</rb><rt>けいだい</rt></ruby>までたどりついた。池の中央にはちょっとした<ruby><rb>出島</rb><rt>でじま</rt></ruby>がある。そこにはもと弁天堂があった。その跡が<ruby><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby>になっているのである。その空地でゆっくり休んだ。弁当も出して使ってみた。少し元気がついたので、予定していたことでありすぐ近くにある国宝館はやはり見てゆくことにした。

観覧料を払って、いざ本館へと石の階段を昇ろうとすると、足があがらない。やっとのことで館内に入った鶴見の面前に、いきなり等身大の仏像が立ち現われる。やれやれと思うひまもなかったのである。その仏像のひろげた腕があたかもかれを迎えて、かれの来るのを予期してでもいたように見える。鎌倉期の阿弥陀如来の座像である。それにしても例の中性的な弱々しい表情もなく、そんなマンネリズムから遠く離れて、しっかりした顔面や四肢の肉附けが男性的であるところなど、見る人の目を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>き、精神を新にさせずにはおかないという風格がある。鶴見はおもわず身づくろいをした。体のどこか急所に<ruby><rb>石鍼</rb><rt>いしばり</rt></ruby>をかけられたような感じに打たれたからである。

こういう阿弥陀像はこの外にも二、三あったが、それとは様式の変った如来の立像が一体ある。それがまた鶴見を感動させた。物々しくはないが特殊な製作ぶりを示している。<ruby><rb>浄明寺</rb><rt>じょうみょうじ</rt></ruby>の出陳である。<ruby><rb>舟型光背</rb><rt>ふながたこうはい</rt></ruby>につつまれた、明快で優に<ruby><rb>妙</rb><rt>たえ</rt></ruby>なる御姿である。技巧は極めて繊細であるが、よく味ってみれば作者の<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>みなき神経が仏像を一貫して、活きて<ruby><rb>顫動</rb><rt>せんどう</rt></ruby>している。そして全体は金色にかがやいている。<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>いようである。

おかしなことをいうようであるが、この像をながめた後で目をつぶると、鶴見にはその台座の蓮弁が危うげに動いて、今にも散ってゆくかのように見える。事実この蓮弁はその一つ一つが離れてでもいるらしく彫り込んである。そこに彫刀の<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えが見せてある。せいいっぱい<ruby><rb>開敷</rb><rt>かいふ</rt></ruby>したかたちであろう。そよとの風にもさそわれて散ってゆかぬでもないように思われるのである。

この浄明寺の阿弥陀像を鑑賞した目で、すぐ先にある<ruby><rb>弁財天</rb><rt>べんざいてん</rt></ruby>を見ることは、鶴見にはいかにもつらかった。先刻休んだ池中の出島に堂構えがあって、その堂内に安置されていた有名な裸体像である。写生的にはよくできていると<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打ってみても、これは一箇の人形に過ぎない。

たまにおもてに出て、ここの国宝館を見て来たということが、鶴見に取っては、かれの生活に、その単調を破る一つの刺戟をもたらした。しかし家に帰りついてみると、精神にまた<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>みを生じて、しばらく忘れていた疲労が体をくずおれさした。かれはなさけないと思ったが、悩む脚をなげだして、<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>をついた。

その夜、夢を見た。夢にあらわれたのは、あの浄明寺の阿弥陀如来にてまします。尊体は昼間見てきたように、蓮座を軽く踏まえて立たせたまうおん姿そのままである。そして身じろぎもしたまわずに伏せがちのおん<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしから無量の慈愛がこぼれでるままに、そのおん眼を迷惑する衆生の上にそそがれている。

鶴見はそのおぎろなき慈悲に身を染めて、さながら如来智をでも授かったように他念なく<ruby><rb>随喜渇仰</rb><rt>ずいきかつごう</rt></ruby>していたものである。その時である。ふと、ちらちらする動きを感じた。かれは夢の中で、心の散乱を<ruby><rb>拒</rb><rt>ふせ</rt></ruby>ごうとして努力する。それにもかかわらず、ちらちらする感じがつづいて起る。目をあげてよく見れば、それは尊像の台座から離れた蓮弁である。台座から離れたその一弁一弁が、ふわりと浮んで、落ちもせずに、空間にただよっているのである。かれは<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ながって腕を伸して、その蓮弁を掌にお受けしようとした。どういうわけかそれだけのことがどうしてもできない。あせればあせるほどその蓮弁の影が<ruby><rb>滅</rb><rt>き</rt></ruby>え失せるように薄らいで、骨を折っても手には取られない。そうかと思うと、つと<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れていって、向うできらりと<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めく。せつない思いをしてあせっているうちに、手足は<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れ目はくらんでくる。とうとう如法の闇がかれを<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>うてしまった。

かれはこれで死んでゆくのではないかと疑った。死ぬ前にもう一度阿弥陀仏をおがみたいと思って目をあげると、闇は開いて、尊像は何事もなかったように金色の光を放って立たせたまう。台座を見ると、蓮弁はこれももとのままに合さっている。かれはこれを見て驚くとともに安心した。そのはずみにまた夢がさまされた。

夢から醒めた鶴見には、<ruby><rb>生死事大</rb><rt>しょうじじだい</rt></ruby>、無常迅速という言葉のみが、夢のあとに残されている。まだどこやら醒めきらぬ心のなかで、平凡な思想だとおもう。そんな平凡な思想が、言葉がどうしてあのような不可思議な影像を生み出したかと<ruby><rb>追尋</rb><rt>ついじん</rt></ruby>してみる。奥が知れぬほど深い。今更のように、せつないものが胸に迫ってくるのである。

死という観念が改まったすがたで、意識の上に頭を出す。

ここには生あるすべてのものを刈り尽す大鎌がある。<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>げば薙ぐほど自然に<ruby><rb>磨</rb><rt>と</rt></ruby>ぎすまされる大鎌である。それを見まいとしても見ずにはいられない。それを思うまいとしても思わずにはいられない。

しかるにこれはまたどういうわけか、鶴見はいざとなると、自分のことは棄てておいて、友人や先輩などの死について追想する。それも徒事ではあるまいが、おかしな心理といわざるをえない。ただ思い出すともなく思い出されるのをいかにともすることが出来ない。口があいて<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れてくる水を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎとめるだけの力を、かれはもっていないのである。

まず<ruby><rb>藤村</rb><rt>とうそん</rt></ruby>がおもかげに立つ。鶴見が藤村をはじめて<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねたのは、『<ruby><rb>落梅集</rb><rt>らくばいしゅう</rt></ruby>』が出る少し前であったかと思う。そう思うと同時に、種々雑多な記憶がむらがって<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ってくる。その当時藤村は本郷の新花町にいた。<ruby><rb>春木町</rb><rt>はるきちょう</rt></ruby>の裏通りを、<ruby><rb>湯島</rb><rt>ゆしま</rt></ruby>切通しの筋へ出る二、三<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>手前で、その突き当りが俗にいうからたち寺である。藤村は親戚の人と同居して、そこの二階で<ruby><rb>起臥</rb><rt>きが</rt></ruby>していた。

その二階というのが、天井も張らずに残しておいたような<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>で、見ると室の隅々には無造作に書物が積み重ねてある。後年の藤村が机に一冊の書の置かれてあるのも嫌って、あたりを綺麗にかたづけた上で、客に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>っていたあの潔癖に比べると雲泥の差であるが、かえってこの方が親しみ深くもあった。

藤村はそれからやがて<ruby><rb>小諸</rb><rt>こもろ</rt></ruby>へ行くことにきまり、その<ruby><rb>仕度</rb><rt>したく</rt></ruby>をしていた時分かとおもう。鶴見は俳人の<ruby><rb>谷活東</rb><rt>たにかっとう</rt></ruby>と一しょに新花町を訪ねたことがある。この訪問は藤村からすすめられて、それに応じたものではなかったか。その辺の細かな事情はよくはおぼえていない。活東は俳人であるが、藤村張りの詩を鶴見よりは器用に書いて、『新小説』などによく投じていた。藤村は活東がかれを敬慕していたことを知っていたにちがいない。そうしてみれば活東を伴って訪ねたのは鶴見のふとした思いつきからではなかったようである。それほどまでには親密になっていなかった。人をつれて行くということなぞは遠慮しなくてはならぬはずである。

それはとにかく、活東は<ruby><rb>飄々乎</rb><rt>ひょうひょうこ</rt></ruby>とした人物であった。母親とつつましい暮しをしていて、自分は雇員か何ぞになって区役所に勤めていた。かれはおりおり役所を勝手に休んで鶴見の家にやってきて、長話をして行く。拘束されることが何よりも嫌いらしい。勤務などに殆ど<ruby><rb>頓著</rb><rt>とんちゃく</rt></ruby>していない。なるがままになれというような<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>が見える。そしてかれはいつも快活であった。

藤村は訪ねて行った二人を、追々に閲歴のさびがついて島崎家の名物とまでなった、あの素朴な<ruby><rb>白木</rb><rt>しらき</rt></ruby>の机のそばに引きつけておいて真面目な顔でいった。「どうだね。これからみんなで浅草にくり出して行こうじゃないか。」そういって、煙草の<ruby><rb>脂</rb><rt>やに</rt></ruby>で染まった前歯をちらと見せて微笑する。

藤村がこんなときに言い出したことは、相談であるよりはむしろ命令にひとしい。そこにはかねて企図しておいた考がその実行を待っているというようなけはいがある。

この浅草行は鶴見たち二人にとって異存のあるべきようはなかった。たとえ多少の異存があったにしろ、異存をあらせまいとする力がその計画のうちにこめられていた。藤村の発言にはいつの場合でも、あとにはひかぬ意志のはたらきが婉曲なことばのなかにかくされていぬというためしはない。

浅草ではどんな風にわれわれ二人が<ruby><rb>訓</rb><rt>おし</rt></ruby>えられたか、それを今語ってみたい。藤村は例の玉乗り興行場の前に立ちどまって、ゆっくりと煙草をふかしている。そしてまたゆっくりした言葉つきで、調子を落してこういった。「君。わかるかね。あれがトランペット、それからフリウト。好いかね。こっちがクラリオネット。みんな吹奏楽器だね。」

興行場の看板の下の棚の上にはけばけばしい服装をした<ruby><rb>楽師</rb><rt>がくし</rt></ruby>たちが押合って身づくろいをしている。われわれは藤村の指揮するままに場内に入って、しばらくのあいだ、玉乗の技をおとなしく見る。まるで従順な田舎出の若者である。鶴見はすまぬとはおもいながら心の中で反撥した。

「これからね。多分<ruby><rb>大公孫樹</rb><rt>おおいちょう</rt></ruby>の向うの、<ruby><rb>境内</rb><rt>けいだい</rt></ruby>のはずれのところであったかと思うが、僕はいつぞや、観相の看板を出した家を見たことがあったよ。あそこへ行こう。ちょっと手相を見てもらうのさ。それはきっとおもしろいよ。どうだろう。」

藤村はこういっておいて、ずんずんその方へ足を向ける。二人はついて行った。どうやらこれなどもあらかじめ用意しておいた計画の一つであったのだろう。

観相家は果して相応におもしろいことをいった。藤村の手筋を<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>らしく<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めてみて、「あなたは今事業を企てておいでになる。すえには必ず目的を遂げなさるね。それ、ここに通っている筋があるでしょう。<ruby><rb>上々吉</rb><rt>じょうじょうきつ</rt></ruby>の相です。」そういわれて、まんざらでもない表情が顔色にあらわれる。藤村は首尾よく及第したのである。

次に鶴見が宣告を受けた。「あなたは注意なさらなくてはいけない。」といって、観相家は改めて左の手を開かせて、<ruby><rb>天眼鏡</rb><rt>てんがんきょう</rt></ruby>で物々しく見てから、その掌を指でたどって、「ここにこういう風にからまった線がありますな。あなたはどうご覧になりますか。ここをこうつなげば女という字が出る。あなたには<ruby><rb>女難</rb><rt>じょなん</rt></ruby>の相がある。」これはまた手厳しい申渡しである。

それを聞いて、鶴見は何か痛切な心持にこそばゆいような感じを交えて、押黙っているより外はなかった。

活東は何といわれたか、すっかり忘れてしまって、一言もおぼえていない。

「手相も馬鹿にはできないね。」と、藤村はそこを出てからいった。

「当るような、当らぬようなことをいっておいて、実はこちらで判断するように仕向けるのですな。どうして、どうして手馴れたものだ。」誰にいいかけるでもなく、そういっている藤村の言葉を聞き放して、鶴見はひとりで<ruby><rb>嘯</rb><rt>うそぶ</rt></ruby>いていた。

これで浅草へ<ruby><rb>遊行</rb><rt>ゆうこう</rt></ruby>を試みた意義は完了したことになる。

藤村が東京を引き払って、信州の小諸に赴任して浅間山のふもとで新生活をはじめたのはそれから一と月たたぬうちであった。藤村の芸術的生涯の第一期が、ここにまた完成を告げたのである。

その藤村が今では大磯の土に親んで、記念の梅樹の下にその魂を寄せている。藤村も<ruby><rb>宗祇</rb><rt>そうぎ</rt></ruby>や芭蕉と同じように自庵では死なないで、ずっと広い世界に<ruby><rb>涯</rb><rt>はてし</rt></ruby>ない旅をつづけている、死んで永遠に生きるのである。それをおもえばよい死かたをしたものと、<ruby><rb>羨</rb><rt>うらやま</rt></ruby>しくもある。これはこころがけていても、たやすくは出来がたいことであろう。

「妓に与ふ」と題した自作の歌を自書して、簡単に表装したのを壁にかけてある。その軸物におりおり眼をやって、<ruby><rb>盞</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をふくむ。酒を飲んでくつろげばくつろぐほど<ruby><rb>胸元</rb><rt>むなもと</rt></ruby>がはだけて、そこから胸毛をのぞかせる。それぐらい<ruby><rb>花袋</rb><rt>かたい</rt></ruby>は<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>っているのである。妓のおもかげと酒とが三昧境をかれの前に展開する。好いここちに浸り切った花袋がそこにある。単に花袋と呼ぶよりも花袋<ruby><rb>和尚</rb><rt>おしょう</rt></ruby>と呼んでみたい。酔態の中にも一種の風韻がある。近眼鏡の奥には<ruby><rb>慧敏</rb><rt>けいびん</rt></ruby>な目がぎろりと光っているが、そこにも人なつこいところが見える。和尚と呼ぶのがあながち不適当とも思われない。

鶴見は今花袋と相対して無礼講をきめこんでいる。<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>く暇もない。その時何かの拍子にこんなことをいった。「花袋君。因襲はもちろん破らねばならないね。固定はすべての因襲の根源だ。それではどうだろう。生死というのも一つの観念にちがいない。ことに死はね。死は特に異様な相を帯びて目だつのだ。そういう死も一の固定した観念として、因襲として、当然排除せられるのだろう。花袋君、どうだろう。」

そんなことを、鶴見はしどろもどろにいってみたのである。<ruby><rb>話下手</rb><rt>はなしべた</rt></ruby>ということはどうにもしようがない。花袋はそれをどうとったのか、「死が因襲であろうはずはない」と例の性急な口つきで声を励ました。鶴見はこの和尚の<ruby><rb>一喝</rb><rt>いっかつ</rt></ruby>を喫してたじろいだ。

そうこうしているうちに、玄関に訪問客が見えたようすである。細君が座敷にはいってきて、

「いつも来る、あの人ですよ。今日は会ってやってはどうでしょう」と、取りなしぶりにいった。

「ただ今来客中だと、そういって断ってくれ。」花袋は花袋で一向にとりあわない。

断れといった声は玄関にも筒抜けに聞えたにちがいない。鶴見は気の毒がって、「かまわないから会ってやったらどうだろう」と、いってはみたが、花袋は「会えぬ」といい張ってあとへは<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かない。そんなところにも禅家の老和尚というような格がある。鶴見はそう思って花袋の顔を見あげた。「妓に与ふ」と題した和歌の細ものが、かれの背後に微風をうけてゆらめいている。

花袋にも藤村にも、思想面においてはその深さを、広さを、どれだけ暗示していたところのものがあったろうか。そこには哲学も宗教も十分に批判されてはいなかったように思われる。自然主義の提唱といっても、つまるところ形式的な評論倒れで、探求の精神も科学的合理性も意外に希薄であった。現実尊重ということも、洗いだててみれば、芸術主義の一変貌に外ならない。それはそれで好いのである。その中でも、藤村は啓蒙に心を傾け、花袋は<ruby><rb>耽溺</rb><rt>たんでき</rt></ruby>に生を享楽する。それぞれのちがいはある。

藤村が啓蒙に心を傾けたところは、ちょっとルソオを思わせる。かれがルソオを読んでいたのはたしかである。『告白篇』のごとき、一時は座右から離されぬ宝典でもあったらしい。かれは家長風の権威をもっていた。それを謙虚な言葉に包んで、開発の精神を社会に及ぼそうとした。自然を生活するというのである。

かれには別様な一面があった。そこでは情意の発作的動揺が見られる。唐突な言動があの不断の平静な態度をかき乱すようなことがある。圧縮したものが急に反撥する。まずそんなものである。もちろんそれは<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な事がらの上に起る。気がつかねばそれなりにすんでゆく。それというのもかれには執拗な観念が一つあった。それが狂念となって潜んでいるが、時としては表面にあらわれてかれを<ruby><rb>脅</rb><rt>おびやか</rt></ruby>した。遺伝というものが<ruby><rb>心頭</rb><rt>しんとう</rt></ruby>に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みついていて離れない。かれはそれを払いのけようとして一生を通じて苦しんでいたものと思われる。狂念をいだいていたところもルソオと相通ずる。そういう狂念の発作があのような間違いを起したといって好い。かれは『新生』においてその事を告白するとともに、極度の節制を護りつづけた。

藤村にくらべれば花袋は単純である。藤村のように解決のつかぬものを胸中に蔵してはいなかった。妓と酒とはいわば風流のすさびであろう。そういう境地に<ruby><rb>韜晦</rb><rt>とうかい</rt></ruby>して、<ruby><rb>白眼</rb><rt>はくがん</rt></ruby>を以て世間を見下すという態度には出でなかった。南朝の詩でも朗吟すれば維新の志士のおもかげすらあった。それが『蒲団』を書いた花袋である。風流人という文人かたぎの本性においては終始かわらぬものがあったが、ただ<ruby><rb>一図</rb><rt>いちず</rt></ruby>に物を思いこむと、それが強い自負心のうちで高揚される。かれが自然主義に熱中したのもそれがためであろう。

かれはまた山川に放浪した。藤村のように自然を生活するのではなくて、自然のうちに身心を没却する。山川の勝境にわけ入って人間世界の拘束を忘れようとする。そう見る限り、花袋は人生を<ruby><rb>煩累</rb><rt>はんるい</rt></ruby>と思っていたにちがいない。それで花袋は旅をしつづけた。かれほどよく歩いたものも少い。それにもかかわらず、かれは病んで、自家の屋根の下で、無事に死んで行った。皮肉といえば皮肉である。そう思ってみて、鶴見は<ruby><rb>一抹</rb><rt>いちまつ</rt></ruby>の寂しさを感ずるのである。

花袋はあれだけの旅行家であっても、ただ一つ、ドオデエのプロォヴァンスというようなものをもたなかった。もしそれがあったなら花袋の文章はもっと精彩を放っていたろう。それはいかにも惜しむべきであったにしろ、自然主義作家のうちで類例を求むれば、やはりドオデエに似寄ったところがあったのではなかろうか。

<ruby><rb>天稟</rb><rt>てんぴん</rt></ruby>の美しい情緒を花袋はもっている。それを禅に参ずる<ruby><rb>居士</rb><rt>こじ</rt></ruby>が懐くような自負心で<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>うている。実際のところ、かれの情緒はその自負心によって人生の煩累から護られていたのである。

鶴見は<ruby><rb>短冊</rb><rt>たんざく</rt></ruby>を一枚花袋から貰って、戦禍に遇うまでは、ちょくちょく短冊かけにかけてながめていた。短冊は<ruby><rb>竜土会</rb><rt>りゅうどかい</rt></ruby>であったか、それとも別の会合のおりであったか、いずれにしてもその席上で、酔余の興に乗じて書き散らしたその中の一枚である。鶴見は<ruby><rb>半切</rb><rt>はんせつ</rt></ruby>や短冊をねだって書いてもらうのを好まなかったので、そんなものは一枚も持ってはいなかった。花袋はその夜どういうわけか、その短冊を黙って鶴見に手渡したのである。

山松のあらしのなかに落ちゆく月いかば

かりさびしかるらむ

こんな歌が書いてある。感傷的な気分はあっても、読んでみて、それがすこしも<ruby><rb>瑕</rb><rt>きず</rt></ruby>にはならない、好い歌として歌いあげられる。情緒と悟性との調和がそこに見られるからである。

花袋の月はこうした澄んだ心境にあって、山松のあらしのなかに沈んでいった。花袋は自家の屋根の下で家族にまもられて死んでいったのであるが、その<ruby><rb>知死期</rb><rt>ちしご</rt></ruby>のきわでかれの眼に浮んだのはこの嵐の中の月ではなかったろうか。かれはかれの魂を山の月に托して寂しく目をつぶったのでもあろう。鶴見は妄想がちなそんな考をさえ、繰り返し考え直しているうちにその考に客観性を生じて、今ではそうした考を信じて疑わぬようになっている。

<ruby><rb>景彦</rb><rt>かげひこ</rt></ruby>の声がする。姿は見せない。その声だけがはっきり聞えてくる。

「藤村も花袋もきみの先輩でかつまた友人であった。その二人のプロフィイルを、どういう考があって、あんな風に描いてみたのだね。<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>くさいのはしかたがないとしても、陰影のとりかたなど、まずいね。対比もおもしろくないよ。それはそれとして、二人とも好い死かたをしたという、あのことをきみはどんな意味で言い出したのかそれが聞きたいな。」

「別になんでもないのさ。そう改まって聞かれるとかえって言いにくくなる。藤村は旅に出て死んだというのじゃないが、自分の庵室の<ruby><rb>静</rb><rt>しず</rt></ruby>の<ruby><rb>廬</rb><rt>いおり</rt></ruby>を離れて他の地方で死んでいる。宗祇にしても芭蕉にしてもそうじゃないか。みんなああいう人たちは好い死かたをしている。おれはそう思っているのだ。」

「芭蕉から宗祇へ遡ってみればよくわかるように、人の死かたにも伝統があるね。それでは宗祇からどこに遡れるか、そう問われればぼくは<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に定家卿というね。」

「いかにも――。」

「そうじゃないか。定家はもちろん旅で死んだというのではない。だがね、好い死かたをしたというのは旅で死んだというだけではないのだろう。芸術に対する執心、その執心のなかに永遠のすがたをみたいという願望、好いかね、その願望がはてしない旅をつづけさせているのだ。芭蕉の「<ruby><rb>曠野</rb><rt>あらの</rt></ruby>の夢、宗祇の月をながめて」といった、あの臨終の言葉にこもるあくがれごこち、どちらも芸術の執心に<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>さぬものはない。定家とすれば俊成の幽玄から更に自個の立場を明らかにしようとして<ruby><rb>有心</rb><rt>うしん</rt></ruby>を説く。芸術の分野で絶えず完成されぬ旅をつづけていたということになる。そうだろう。」

「おれもそう思っているのだよ。それにしても宗祇はえらかったね。長い間かれを知らずに過してきたのはおれの不覚であった。おれの生涯もまさに尽きようとしている。そんな時になって、やっとかれを知った。<ruby><rb>一端</rb><rt>いったん</rt></ruby>知ってみれば、すぐかれがわが<ruby><rb>邦</rb><rt>くに</rt></ruby>文芸道の第一人者ということが分ったね。実は驚いているところさ。」

「宗祇が『古今集』のやまとうたは人の心を種とするといっているのを釈して、それを元初一念の人の心と断じ、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつねん</rt></ruby>念起、名づけて<ruby><rb>無明</rb><rt>むみょう</rt></ruby>と<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>すというのはこれだ。無明は<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>だ。この元初の一念が一切万物の根元だといって、「さらば無明の一念より歌もいでくるなり」と確言している。卓見だね。きみもいつかこの『起信論』の忽然念起を挙げて衆生心にすべてをもとづけようとしていたね。」

「そのとおりだ。あんまり察しが好いのであとがこわいよ。でもね、かれが文芸復興期と変革期との<ruby><rb>交叉</rb><rt>こうさ</rt></ruby>する辻に立って法を説いたということは争われない。復興期の人としては、美の伝統者でもあり、美の発見者でもあった。変革期の人としては啓蒙に従事した。そのためには東西に<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>むことなき旅をつづけていた。かれには宗教もあり哲学もあり学問もあった。そして人の心に自覚の精神を起して文化の光を認めさせるように努めていた。そういう人格者は見わたしたところ殆どないね。宗祇はたしかに近代文芸の祖と仰がれて好い。おれの結語はそこにあるのだよ。」

鶴見は景彦との問答を切りあげた。景彦はどうしたものか一度も姿を現わさない。問答が切れたので、鶴見はまた平生どおりの夢を見ている。夢を見るということがかれの生活になっている。その外には能がない。癖といえば癖、病といえば病であろう。あるいは渇望病だという診断が下るかも知れない。そういう病症を<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>すに別の処方のあろうはずはない。やはり夢には夢を与えるに限る。

<ruby><rb>海印三昧</rb><rt>かいいんざんまい</rt></ruby>ということを鶴見はしきりに考えている。仏が<ruby><rb>華厳</rb><rt>けごん</rt></ruby>を説いたのはその海印三昧を開いたものである。それによって始めて自内証の法が説き示された。三昧の<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>を出て説いたのは<ruby><rb>通途</rb><rt>つうず</rt></ruby>の経文である。定中の説の超越的、含蓄的なるには及ばない。そういってあの宗の人はありがたがっている。一心法界の海に森羅万象が映って一時に<ruby><rb>炳現</rb><rt>へいげん</rt></ruby>すると観るのである。そこに一切法の縁起の無尽があり、事々の<ruby><rb>無礙</rb><rt>むげ</rt></ruby>がある。一々の事象に万象が含まって相交錯して、刹那の起滅に息づいているのである。鶴見はそれを夢が夢と<ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>び<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>しているものと考えている。そういう考察が鶴見の思想に<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びているのである。<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>にわたって夢に夢を見る。そのことはこの世界の本性に<ruby><rb>適</rb><rt>かな</rt></ruby>っている。<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>にそんな夢想に溺れて出口を忘れているといわれてもやむをえない。出ることができれば出もしよう。しかも出ることは即ち入ることだ。無理に出るということは考えられない。

鶴見がこんな妄想に浸っている最中に、景彦の声がまた聞えてきた。今度は馬鹿に丁寧な言葉で物をいっている。

「相変らずですな。そういう説法も見事かは知りませんが、まあわたくしの手なみを見ていてください。あなたに好い夢を見せてあげますよ。」

「気まぐれものの景彦がまた何をしでかすかな。まあ、じっとして見ていてやろう」と<ruby><rb>独語</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>のようにいって、鶴見は黙ってしまう。

景彦はそれきり音沙汰がない。しばらくして鶴見は退屈して、何気なく向うを見る。その時である。すべての光景が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に一変した。

現実の刺戟はどこにも見られない。そこには深さもなければ広がりもない。ただうす<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>い雰囲気があたり一面を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>うているのである。

鶴見が<ruby><rb>壺中</rb><rt>こちゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>天地</rb><rt>てんち</rt></ruby>なぞというのはこんなものかと思っているうちに、夢が青い空気のなかから<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>りだされる。虚無の油である。それがまた<ruby><rb>蟄伏</rb><rt>ちっぷく</rt></ruby>していたくちなわのうごめきを思わせる。気に感ずるような衝動を鶴見も感ぜずにはいられなかった。かれもまたわが身のうちに夢に応ずる夢のけはいを感じたからである。

鶴見は現われてくる夢を見つめた。最初に目に映ってきたのは白馬である。よく<ruby><rb>神馬</rb><rt>じんめ</rt></ruby>として神社に納めてある、あの馬である。木像のようでもあったが、人を乗せて、静かに<ruby><rb>足掻</rb><rt>あが</rt></ruby>いている。馬のあとには若者がついてゆく。従者なのであろう。

一<ruby><rb>反</rb><rt>たん</rt></ruby>ばかりの畑地はよく<ruby><rb>均</rb><rt>な</rt></ruby>らされてある。麦でも直ぐ<ruby><rb>播</rb><rt>ま</rt></ruby>いてよさそうに準備されている。何の種を播くのかとなおよく見ていると、百姓の馬としては、あまりに神威を備えた白馬はふさわしくない。その上に馬が乗せている人物は<ruby><rb>僧形</rb><rt>そうぎょう</rt></ruby>である。鶴見はここでちょっと意外な思いをする。

馬上の僧形の人物は極めて沈著な声で、うしろを振り向いて、「これ、<ruby><rb>喜海</rb><rt>きかい</rt></ruby>、仕度は好いかな。さあ、一仕事はじめよう。わしもな、きょうは気分がいつになくすぐれているのじゃ。こういう時に仕事をすれば、きっとうまくゆこう。」

馬上の上人はこういって微笑する。喜海と呼ばれた若者は種壺を抱えて、馬のしりえに引き添って、「さあ、よろしゅうございます」と、いかにも慎しみふかく申し上げて、馬の歩みだすのを待っている。

上人は馬の手綱を無造作に操る。馬は器械か何かのように動きだす。それでも柔らかい畑地に馬の<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>はそれ相応の穴を掘ってゆく。その穴に、喜海と呼ばれた弟子は一つ一つ種ものを投げこんでいる。<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>からでは、それがどういう種であるかは想像されない。麦や豆類とはちがって、もう少し大振りな種である。

馬蹄の跡の窪だまりに放りこまれた種は、喜海の手で丁寧に土がかぶせられる。見る見るうちに、こうやって一<ruby><rb>反歩</rb><rt>たんぶ</rt></ruby>の種播は終りを告げる。

蒼みがかった夢の雰囲気がますます<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかになる。今やあたりは真青に染められて、そこからほのかの匂いがたっている。夢というものにも鋭敏な感受性があるにちがいない。そしてみずから<ruby><rb>発</rb><rt>はな</rt></ruby>つ芳香におのが官能を酔わしめて、ひそやかに楽しんでいる。それが、ほのかに、かすかに、香に立ってきこえてくるのであろう。

工作を終った上人とその弟子は、その畑地を見わたして快心のえみをたたえている。

「上人さま、早いものでございます。ご覧ください。あそこあたりはもう芽を吹きだしてまいりました。」

「おお、そうか」と上人はいった。「種も<ruby><rb>粒選</rb><rt>つぶよ</rt></ruby>りであったし、日もよかったし、気分もすぐれていたし、それにここの畑土は肥えているのだ。三拍子も四拍子も揃っていたからだな。」ゆっくりした口調である。

喜海は「ごきげんで結構でございます。これならきっと日本一の茶畑になりましょう。<ruby><rb>地味</rb><rt>ちみ</rt></ruby>もよほどよろしいようでございます」といってよろこんでいる。

「わしはよく夢ばかり見るが、その中でもきょうの夢は夢の中の夢のような気がするな。わしがふだんよくよく注意してそちに教えていた、あの海印三昧だがな。その海印三昧がこの畑地の鏡のおもてに実現しておるのじゃ。華厳の教理に関して、わしがむずかしいことばかり言っていたように、喜海、そちは思っていたろう。そんなことではいけないのだ。まずこの畑をようく見極めること。それが修行だ。いいか。」

「はい。仰せのとおりに一所懸命になって、見きわめておりますところでございます。」

「よし、よし。もう一遍見わたすこと。」

喜海は上人からそういわれて丹念に隅から隅まで見わたした。たった今<ruby><rb>穎被</rb><rt>かいわ</rt></ruby>れ<ruby><rb>葉</rb><rt>ば</rt></ruby>を出したかと思ったのが、もう二、三寸も伸びて<ruby><rb>本葉</rb><rt>もとは</rt></ruby>を開いている。この分ならばやがて葉も<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>めよう。花も咲こう、実もなろう。

「<ruby><rb>栄西禅師</rb><rt>えいさいぜんじ</rt></ruby>さまもさぞおよろこびでしょう。」喜海はそういって上人を仰ぎみる。

「よくいった、喜海。わしもこれで禅師の賜物に酬いることができたのだ。」

上人はそういってしばらく考えていて、そしてこういい足した。

「おれは信の種を播いたのだよ。」

鶴見がこの不思議な夢を傍観して驚異の念に打たれていた<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>に乗じたのでもあるまいが、その夢はすでに<ruby><rb>滅</rb><rt>き</rt></ruby>えかけていた。喜海に取って代った景彦のすがたをちらと見たかと思う瞬間に、それもまた虚無のうちに没し去った。

鶴見は狭い庵室の中に独り残されて、ぽつねんとして黙座している。上人と見たのは<ruby><rb>栂尾</rb><rt>とがのお</rt></ruby>の上人である。上人は茶の種を播いたばかりではなかった。上人は夢だといわれた。それは暗示である。上人は信の種、<ruby><rb>真言</rb><rt>しんごん</rt></ruby>の種を播かれたにちがいない。鶴見はそう思って上人の歌道に関する垂示を<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>すのである。

――すべての所有相は虚妄と見るより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>はない。しかしながら読み出すところの歌は真言である。虚空の如き心の上でさまざまの風情を<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>るといえども、そこには更に<ruby><rb>蹤跡</rb><rt>しょうせき</rt></ruby>というものがない。この歌こそは如来の真の形体。一首に仏像を刻む思いをなし、一首に秘密真言をこめなしている。自分は歌によって法を得ることがある。

これが栂尾上人の垂示の大略である。鶴見は一心になってその言葉を噛みしめつつ味っている。

歳が改まった。寒い寒い毎日がつづく。ことしはわけても寒威が厳しいのではなかろうか。大地も木の葉もはげしい霜に<ruby><rb>凍</rb><rt>い</rt></ruby>てはてている。

一月のもすえの或る日のこと。<ruby><rb>老刀自</rb><rt>ろうとじ</rt></ruby>が一本の書状をさし出して、これを読んでみるようにとのことである。<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>の妹からの来書である。

書面にはこう書いてある。――少しばかりだが餅を送る。その小包をこしらえているとき子供が不審がって、それからこんな問答を重ねたと書いてある。

「ナイネ。」

「モチタイ。」

「ナイスット。」

「カマクラノオバサントコヘオクル。」

「インニャ、タッタソイシコネ。」

「オバサントコハ三人ジャモン。」

「ウウ、ソイギイヨカネ。」

「これこそは真言である」といって鶴見は涙を流さんばかりにうれしがる。そして<ruby><rb>呪言</rb><rt>じゅごん</rt></ruby>のようにこの問答を繰り返し口に<ruby><rb>誦</rb><rt>ず</rt></ruby>している。こんな問答のうちにも、栂尾上人の夢の種がこぼれてひこばえているのかと、そう思ってみて、鶴見はいつまでもうっとりとしていた。

その時から更に二旬は過ぎた。送って来た餅も尽きてしまった。危機のおびやかしが寒気とともに<ruby><rb>痩身</rb><rt>そうしん</rt></ruby>に迫ってくる。

庭の<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>には残雪が、日中というのに解けもせずにすさまじく光っているのがながめられる。

鶴見は庵室に籠ったぎりで、心を想像世界に遊ばして、わずかに慰めている。永遠の夢がかれを支えているといって好い。<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に現実の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>となるのは堪えがたい。鶴見はこの上とも生きて生きてゆかねばならぬと覚悟しているのである。

（註記。前に出した問答はわかりにくい。それは純粋の地方語で語られている。それを標準語に訳してみる。

――それは何ね。――お餅です。――何をしているの。――鎌倉の伯母さんとこに送ります。――あら、たったそれだけ。――伯母さんとこは三人ですから。――うう、ではそれでよいのですね。）

南無、南無。

三昧の夢の法界に、生死を繰り返す無尽性に、固定を通ずる<ruby><rb>無礙性</rb><rt>むげせい</rt></ruby>に、その真実性に、われらは<ruby><rb>帰依</rb><rt>きえ</rt></ruby>し奉る。

われらはまた執著と浄念との諧和を、永遠を刹那に見る<ruby><rb>輪廻</rb><rt>りんね</rt></ruby>の一心法界を、絶対にして広大なる理智の徳を、真言を、創造を、獅子の活力と精神力とを、自然に周遍する白象の托胎性を、ここに<ruby><rb>斉</rb><rt>ひと</rt></ruby>しく<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>め奉る。

  


## 後記

『<ruby><rb>藝林間歩</rb><rt>げいりんかんぽ</rt></ruby>』に「黙子覚書」を寄稿し、十回に及んで一先ず完了を告げた。完了といっても実はどうして結びがついたのかわからぬようなものである。しかしここまで老の身をいたわり、励みをさえつけられて、その成就をよろこばれたのは野田宇太郎さんである。野田さんに対しては、何を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いても感謝せねばならない。野田さんはまたこれを一書にまとめる計画をたてられた。書物としては題名を第十回の小見出しである「夢は呼び交す」を採って改め、従って「黙子覚書」は副題として残すことになった。そして野田さんは何か後記を書いたらばという。

さてここに、あとがきようのものを書き添えておこうと思って、ペンはとりあげてみたものの、実のところ書くべき事がらが見当らない。それでは言いたいだけは本文に書いてあるかといえば、必ずしもそうでない。どこもかしこも穴だらけで書き足らぬがちである。それではその書き足らなかった理由でもちょっと歌っておけばよいではないか。そうもおもわれる。だがそんなはっきりしたわけなどと、やかましく<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を張ったものが、最初からあったかどうか、それさえ疑わしい。いかにもおかしなことだ。『藝林間歩』の野田さんから手をひかれ肩を押されてやっと十回分の文章を綴ったからには、野田さんの情誼にむくいるところが少しでも欠けていてはすむまい。

それは勿論のことである。さればこそ不馴れな仕事を、中途で止めもせずに、一応はその責を果しはした。ただ無計画に筆をつけはじめ、勢いに駆られてめくら滅法に書き<ruby><rb>了</rb><rt>おお</rt></ruby>せたというに過ぎない。終始漫然として断片的な資材を集めたに過ぎない。釘も打たず<ruby><rb>鎹</rb><rt>かすがい</rt></ruby>もかけていない。すぐにばらばらに崩壊する危さによって、その危さだけが逆に前後の文章を支持しているかに見える。

ひとくちに冒険といえば冒険であろう。綱わたりであろう。わたくしはもとよりそういうことを気にしつつ書きつづけたのである。

断片に断片が積み重なる。暗い一個の星の誕生を受けいれて、幼年時、少年時、青年時の追懐を、世相の推移と、それが現在の生活につながって起伏を見せているすがたとが、ただ漫然と描き出されている。漫然というよりもむしろ雑然としてきまぐれに点滅するおぼつかない燈火である。そこには人間像を構成するプロフィイルすら現われてはいない。すべては小さな行為のグリンプスである。しかしここで仮りに救って考えれば、<ruby><rb>一閃</rb><rt>いっせん</rt></ruby>の光線によって照しだされたところに脈絡がある。統合がある。わたくしはいつになってもこの断片的なものを溺愛する。

恐ろしいちからで虚空を押移る<ruby><rb>鱗雲</rb><rt>うろこぐも</rt></ruby>、

西から東へ沈黙の<ruby><rb>颶風</rb><rt>ぐふう</rt></ruby>が歩む、

進み、<ruby><rb>躍</rb><rt>をど</rt></ruby>り、飛ぶ、さあれただ押移る。

そこには<ruby><rb>無礙</rb><rt>むげ</rt></ruby>の混雑と不定の整調、

<ruby><rb>鵠</rb><rt>こふ</rt></ruby>の鳥の光明の<ruby><rb>胸毛</rb><rt>むなげ</rt></ruby>――その断片。

見えざるちからはいつも断片を溺愛し、

恋ひ<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>れ、引裂き、うち<ruby><rb>挘</rb><rt>むし</rt></ruby>り、統合す――

残酷な荘厳、そしてまた陶酔の妙音。

真我の<ruby><rb>極</rb><rt>はて</rt></ruby>へ、中心へ、虚空を押移りつつ、

無数の雲の鱗がひたすらに燃えてゆく。

こんな詩句を昔書いたことがある。今においてもその思想に変りはない。わたくしはわたくしの魂を粉にくだくのである。

つまるところ、焦土の灰から更生し出現したわが身であり作品であってみれば、そしてそれを一個の焼けただれた壺として見れば、その壺のおもてに、わたくしはあの深重な肉霊の輪廻をまざまざと知覚するのである。死灰から更生した壺の胴まわりには怪獣と夢想の花のアラベスクが浮きだされている。円環はつながってはてしもない。凝視すればするほどその壺は廻転の速度をすすめる。

われも又さながらにその壺に入る、

壺に入り、壺に収まり、壺となり、壺と目醒む。

火に媚びる<ruby><rb>蜥蜴</rb><rt>とかげ</rt></ruby>と<ruby><rb>殻</rb><rt>から</rt></ruby>を脱ぐ人魚の歌と、

日々夜々に爆発する天体の<ruby><rb>烽火</rb><rt>のろし</rt></ruby>と、

それ等はすべて壺に。われは壺を凝視す。

輪廻の車は妄執の業によって永劫にめぐりめぐる。人間なればこそ、生物なればこそ、わたくしはそこに僅に永遠の消息を知り、それをよりどころとして、わたくしの信念は連続する。これもわたくしが早くから抱かされた思想である。近ごろ『ツァラツストラ』を読み返してみたが、あの難解な永劫回帰がどうやら自分流に領会されるように思われた。永劫回帰といえども、輪廻思想に<ruby><rb>基</rb><rt>もとづ</rt></ruby>かねば建立されもしなかったろう。

――そこで死はどうであるか。「永遠なる再来」は<ruby><rb>慰藉</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>にはならない。ツァラツストラの<ruby><rb>末期</rb><rt>まつご</rt></ruby>に筆をつけ兼ねた作者の情を自分は憐んだ。

こういって、ファナチカルな行為を極端に<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>んだニル・アドミラリの作者は『妄想』の一文の中で、血の<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>りのほとばしるような芸術的な偉大な幻想をこともなく放りだした。わたくしにはそれだけの勇気がない。

輪廻は変貌であるともいえる。

わが皮膚は苦行の道場、閨房の<ruby><rb>絨氈</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>、

冷やかな石に地熱を吸ふ獅子の恍惚。

われはわが頭に本より生れぬ言語を<ruby><rb>哺育</rb><rt>はぐく</rt></ruby>み、

われは又わが心に本より死なぬ赤子を悲み嘆く。

われはこれ<ruby><rb>栴檀</rb><rt>せんだん</rt></ruby>の林、虚空の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>の大浪、

高山の車輪の一列、一切の変装者、

<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>もなく魂を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>み尽すが故に無上の法楽――

わが<ruby><rb>密厳詩</rb><rt>みつごんし</rt></ruby>。そこに「同時」を貪る「刹那」を聴く。

人生は永遠の眼から見れば、単調な、さして取柄もない一平面に見えもしよう。そうはいうもののその単調は絶えず刹那のきざみによって克服されねばならない。輪廻は終局の目的でもあり同時に手段でもある。そこで終局の目的は永遠の中に没してしまう。刹那の面に現われるものは千変万化の方便、修行の道である。

わたくしは老年の手習をはじめるつもりでこの文章を書いた。書いてゆくうちに、不思議なちからがわたくしを促した。魔性のさそいというようなものが加わってきたのかも知れない。そしていよいよこれが書きじまいになると急に気落ちがしてがっくりした。と思うと共に、きこえぬ<ruby><rb>霹靂</rb><rt>へきれき</rt></ruby>の大きな音がわたくしを振り<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆる</rt></ruby>がして気をひき立てた。もともと異教徒であったパウロがダマスコの町へ入る途中、大きな光に<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>り照らされて地に倒れた。パウロも今わたくしが感じたきこえぬ霹靂を聴いたのでもあったのだろう。パウロは眼には何も見ず、ただ復活のイエスの声を聴いた。さてわたくしは気落ちから恢復して何を知ったろう。わたくしは自分の卑小を知って、その素質である凡俗に立返えるのを見た。

詩生活と日常生活の平衡がそこに保たれてゆく。詩生活を日常生活に及ぼしたくないのである。それでよい。ことさらに求めた中庸をわたくしは嫌う。

この書の発刊に至るまでには野田さんをはじめ、編輯員の川上洋典、緒方秀雄両君のたびたびの往来を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わした。ここに厚く謝意を表す。

昭和二十二年九月、鎌倉にて　　　　　有明しるす。