Soranoha

「親近」と「拒絶」

「しんきん」と「きょぜつ」

梶井 基次郎

「スワン家の方」誌上出版記念會

佐藤君と淀野の譯したこんどの本を讀んで見て第一に感じることは、プルウストといふ人がこの小説において「回想」といふことを完成してゐるといふことだ。その形而上學から最も細かな記述に至るまですつかりがこのなかにあると云つていい。しかし何から何までべた一面に書いたといふのではなくて、これにはプルウストの方法といふものがあつて、それによつて僕達は恰度經驗を二度繰り返すやうな思ひをさされるのだ。プルウストは意志的な記憶、理智の記憶といふやうなものでは決してこの回想を書いてゐない。プルウストの書いたことを引合ひに出して來れば、

「われわれが過去を喚起しようとするのは徒勞であり、われわれの理知のあらゆる努力は空しい。過去は、理智の領域のそと、その力のとどかないところで、思ひもかけない、何か物質的な物體のなかに(その物質的な物體がわれわれに與へるだらう感覺のなかに)隱されてゐる。」

このやうな過去によつてプルウストは書いてゐるのだ。

その前をもう少し出して來ると――

「私はあのケルト民族の信仰を非常に尤ものことと思ふ。それは、われわれの失つた人の魂が何か下等なもの、獸類とか、植物とか、無生物とかのなかに閉ぢ籠められてゐて、われわれがその木の傍を通るとか、その魂の捕へられてゐる物を所有するとかいふ日が來るまでは、(多くの魂にとつては、さういふ日は決して來ないのだが、)實際その魂はわれわれに失はれてゐる。その日が來ると魂は顫へ、われわれを呼ぶ、そしてわれわれがそれを認めると直ぐに、咒縛は破れるのだ。われわれによつて自由にされた魂は死を征服して、われわれの許に歸つて一緒に生きるといふのである。われわれの過去についてもこれと同樣である。」

プルウストは過去といふものをこのやうに考へてゐる。またこのやうな考へから導き出されて來た方法はこの小説の全部に浸みわたつてゐて、どのやうに微細な感情のニユアンスでも彼は掴まへて來て生命を與へる。それによつて僕達はさきほども云つた經驗を二度繰返す切ない思ひにとらはれるのだ。

プルウストのこのやうな考へ方は「失ひし時を索めて」と表題の脇に記された言葉でも明かだが、失つた記憶が生き返つて來るのはこんな風に全然他力で偶然で、そんな偶然が生涯にいくらあることか、われわれはそんな偶然をすつかり逃してしまはないために際限もなく待つてゐるといふ譯にはいかないので、次には死といふもう一つの偶然が僕達をさらつていつてしまふと感慨を洩らしてゐる所など、いかにも過去の思ひ出のみに生きたプルウストらしく僕達の感慨を強ひるのだ。しかしこれはまた一方、題材を狹い心内の世界に限りながら何册もの大作を書いたプルウストの意氣込みとも見ていいので、彼がどんなに尻を落付けてこの回想を綴らうとしてゐるかがわかるのだ。實際プルウストの尻の落ち付け方はたいしたもので、例へば「自分は叔父の以前ゐた部屋の方へ歩いて行つた」と書くとすると次はその叔父さんのことになり、芝居のことになり、女優のことになり、僕達がもう夙つくに前のひつかかりを忘れてしまつた頃になつてひよつくりまた部屋のことに歸つて來るといふ風で、讀む方でもよほどさういふところを氣をつけて讀まないとコンテイニユイテイを失つてしまつて面白くなくなつてしまふ。しかしまあ全體の構成がさういふ風にして出來てゐるので、それが回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひないのだ。たとへて云つて見れば、田舍のお婆さんが病院へ來て自分の病氣を醫者に話してゐるときの説話法のやうなもので、それがまた最もインテイメイトな話し方でもあるのだ。實際このインテイメイトなプルウストの話し方は佛蘭西人の生活や生活感情と云つたものを、これまで僕達が佛蘭西の小説を讀んで親しんでゐたより以上に、よりリアルに、僕達に近づけたので、僕達はさう云つた生活のデイテイルに限りのない親しさを感じる一方、またこれまでにない拒絶の感情をもうけとるのだ。僕は一度ヴアイオリン彈きのクライスラーが舞臺にあらはれたのを見て、まるで狼が洋服を着て出て來たやうな大變「エトランジエ」の感じを起したことがあるが、こんどの感じもそれで、プルウストが彼の祖父さんや祖母さんをより生き生きと書けば書くほどその同じ「エトランジエ」の姿がくつきりして來る。このことはまた彼等の生活の敍述が必然僕達に縁のない佛蘭西人の信仰に固有な聖人の名だとか、教會の建物のこまごました部分の名だとか、さう云つたものの非常に多くを伴つて來ることからでも起り得るのだとも思ふ。

プルウストの文章はプルウストの話し方が少し難かしい上に、今云つたインテイメイトな話し方で、大層譯すのに困難な長いセンテンスを持つてゐるやうだ。そこへまた今云つた聖人の名だとか、お菓子の名だとか、僕達がそれに相應した心像を持つてゐない名が二つ三つ行列してはひつて來るともう駄目で、到底一度では意味の通らない文章になつてしまふ。僕はこの誌上出版記念の會へ顏出しするために是非一と通りは讀んでしまひ度かつたのだが、文章のさういふところがかたまつて出て來るとついほかのことを考へてしまつて大層進みが惡かつた。また無理にこんな本を讀んでしまひ度くもないので、回想の甘美な氣持に堪へなくなつて來ると遠慮なく頁から眼を離し、かういふ人間のものを讀んでゐるとどこまで此方の素朴な經驗の世界が侵されてしまふかわからないと思ふとまた本を閉ぢてしまふのだ。

プルウストのことについては立派な評論もあるだらうし、またこれからも立派なものが書かれるだらう。だから僕は喜んでこの半分しか讀んでゐない感想を書いて提出することとしよう。終りに臨んでこれから何册もこれを出してゆく譯者、佐藤君と淀野の自愛を願つておく。

(昭和六年九月)

底本 / Source edition

底本:「梶井基次郎全集 第一卷」筑摩書房
1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
初出:「作品」
1931(昭和6)年9月号
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2005年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/043692_000074/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/043692_000074/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/043692_000074/

梶井 基次郎「「親近」と「拒絶」」(旧字旧仮名)、底本『梶井基次郎全集 第一卷』筑摩書房、1999年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043692_000074, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite