一、<ruby><rb>大人 O'Grie</rb><rt>サヒーブ・オーグリー</rt></ruby>

僕は、「実話」というのが大の嫌いだから、ここには本当のことを書く。

というものの、どうもこれが難題なので、弱る。作らず、嘘でなく、じっさい僕が聴いた他人の告白なんて――よくよく<ruby><rb>天邪鬼</rb><rt>あまのじゃく</rt></ruby>でないかぎり、いえた芸ではないと思う。

とにかく、これはいわゆる実話ではない。あくまで、僕が経験し、じっさいに聴いた話である。

で、冒頭に、僕の経歴の一部を明らかにする。これまで、経歴不明の神秘性がある――とかなんとか云われるのは心外であったが、この機に残らずぶちまけてサバサバとしてしまいたい。

それは、中学を出て一年遊び、翌大正八年五月から十一年二月まで、横浜山下町一五二番地、メーナード・エス・ジェソップ商会というのに勤めていた。この店は、ブロンズ<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>や、ボード・ジョインターや特殊錠、<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>調整器などの建築金具を輸入し、輸出のほうは、印度、蘭印方面へ日本雑貨を向けていた。もちろん僕は雑貨掛りのほうであった。

ところが、大正十年十一月九日、年に一度は、<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>廻りに出かけるジェソップ氏の伴をして、はじめて北回帰線を越えカルカッタに上陸した。

<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>だ。

<ruby><rb>頭被</rb><rt>ターバン</rt></ruby>、綿布、<ruby><rb>Maharajah</rb><rt>マハラジァ</rt></ruby> の国だ。僕は、象に乗り<ruby><rb>蛇使い</rb><rt>スネークチャーマー</rt></ruby>を見、<ruby><rb>Lingam</rb><rt>リンガム</rt></ruby> の、散在する印度教寺院を見歩いた。しかし、そのバトナやカルカッタにはなんの物語もない。それから、汽車で南行、中部印度のプーリという町にきてはじめてこの話が起る。

そこの宿は、ホテル「<ruby><rb>風の宮</rb><rt>ウインド・パレス</rt></ruby>」という<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>た名であったが、部屋は、<ruby><rb>Apadravya</rb><rt>アパドラヴィヤ</rt></ruby> という裏町に向いて汚い。

露台が、重なり合っている狭くるしい通りは、また、<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>や麻布の日覆いでしたの土が見えない。しかし、夜は美しい。更紗を洩れる灯、昼間は気付かなかった露台の<ruby><rb>影絵</rb><rt>シルエット</rt></ruby>、パタンやブルマンの<ruby><rb>喧囂たる取引</rb><rt>エロクエント・コムマース</rt></ruby>は、さながら、往時バグダッドの繁栄そのものである。

<ruby><rb>平太鼓</rb><rt>タム・タム</rt></ruby>が聴える……。それを子守唄に、寝ればまた「<ruby><rb>一千一夜物語</rb><rt>アラビアン・ナイト</rt></ruby>」を夢みる。バクストの<ruby><rb>装置</rb><rt>デザイン</rt></ruby>、カルサヴィナが踊るシェヘラザーデの<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>。まるでそれは、僕が <ruby><rb>Haroun</rb><rt>ハルーン</rt></ruby> <ruby><rb>al</rb><rt>アル</rt></ruby> <ruby><rb>Raschid</rb><rt>ラシッド</rt></ruby> で、ここへ<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>い着いたようであった。

ところが、そうして滞在三日目の夕のことである。

窓からみると、砂堤の蔭に首絞め台のようなものが見える。それが、最初の日から気になっていたので、ジェソップ氏を誘い散歩がてら出かけていった。が、側へゆくと、それは <ruby><rb>Masula</rb><rt>マスラ</rt></ruby> という名の、車井戸だったのだ（この <ruby><rb>Masula</rb><rt>マスラ</rt></ruby> というのは、あるいはこの地方の小舟の名であったかもしれぬ。いずれにせよ、いまは時経て記憶に定かでなし）。

水牛が、<ruby><rb>釣瓶縄</rb><rt>つるべなわ</rt></ruby>を引くと、絞め殺されるような音を立てる。陽は落ちんとして、マハナディ<ruby><rb>三角洲</rb><rt>デルタ</rt></ruby>はくらい<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>のしたにあった。

するとそれから、<ruby><rb>騾</rb><rt>ら</rt></ruby>をつないであるアカシヤのしたまで来ると、とたんに、そばの<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>がガサガサっと動いた。

（<ruby><rb>眼鏡蛇</rb><rt>コブラ</rt></ruby>かな？）

それは、<ruby><rb>慄</rb><rt>ぞ</rt></ruby>っとするのと飛び退くのと、同時だった。しかしジェソップ氏は、からだをかがめ顔を地にすれすれにして、とおく残光が、黄麻畑の果にただようあたりに<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>した。

間もなく彼は、手の泥を払いながら<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>える私をながめ、

「ありゃ、君、人間の手だよ」

と、<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>うのだった。

そこで、<ruby><rb>Mr\. O'Grie</rb><rt>ミスター・オーグリー</rt></ruby> が安堵したことは云うまでもない。

しかしジェソップ氏は、顎を撫でながらじっと考え込んでいる。僕は、その腹芸を<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>に思い、とにかく、騾を引いてきてお乗んなさいとばかりにすると、

「君、ちょっとあの男を呼んで来てくれんかね」

と云うのだ。

「でも……何でです？」

私は、なにがなんでも得体が分らないので、躊躇するとジェソップ氏は手をあげ、

「いや君は分らんだろうが、これには<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>がある」

と、声を低め、云い訳顔に語りはじめた。

「このね、マハナディ川の上流には、ダイアモンド鉱地がある。昔とちがって、いまは<ruby><rb>萎靡凋落</rb><rt>いびちょうらく</rt></ruby>のどん底にあるが、それでも、<ruby><rb>肉紅玉髄</rb><rt>カーネリアン</rt></ruby>、<ruby><rb>柘榴石</rb><rt>ガーネット</rt></ruby>などに混ってたまたま出ることがある。それもなんだ、<ruby><rb>藩王</rb><rt>マハラジァ</rt></ruby>の経営だから採収法が古い。警備も、南阿の諸鉱地とは、てんで比較にならんのだ。鉄条網もない。電気柵もない。南阿じゃ、着物を縫目まで解いて身体検査をするというが、ここじゃそれほどでもあるまい」

「では、発見した鉱夫が逃げられるじゃありませんか」

「そこなんだ。<ruby><rb>宝石</rb><rt>いし</rt></ruby>が、たまたま出るとそれを持ち逃げして追手を避け避け、外国船に売り込む……。いや、あれがそうだとは、必ずしも云わんよ。しかし、万事こうしたことは、カン一つだからね」

それが、ジェソップ氏の持つ、最大の悪癖だった。賭けたがること、相場が好き、ボロ株が好き、おまけに、<ruby><rb>角力</rb><rt>すもう</rt></ruby>が好きで<ruby><rb>光風</rb><rt>てるかぜ</rt></ruby>が<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>であった。しかし、それも考えれば理由のないこともない。<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>という、<ruby><rb>眼鏡蛇</rb><rt>コブラ</rt></ruby>の通路に這い寝そべっているのは、なんぼなんでも並々のことではないからだ。

やがて僕は、主命もだしがたく、草叢に近寄っていった。そうして、怪人 <ruby><rb>Ram</rb><rt>ラム</rt></ruby> <ruby><rb>Chand</rb><rt>チャンド</rt></ruby> 君の出現ということになったのである。

そこで断っておくが、ジェソップ氏は<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>語が<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>れない。僕も、<ruby><rb>Indian</rb><rt>インディアン</rt></ruby> <ruby><rb>Press</rb><rt>プレッス</rt></ruby> <ruby><rb>Reader</rb><rt>リーダー</rt></ruby> の初級くらいのところ、けだし僕を引っ張り役にしたのも、理由がその辺にあるらしい。が、僕とはいえ……ペラペラやられたら冷汗もののところが、運よく、その青年は正統の英語が喋れた。

かれはすぐ飯を食わすというと<ruby><rb>懶</rb><rt>だ</rt></ruby>るそうに起きあがり、のそのそと僕のあとを<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いてきたのである。

それから、僕が日本語でやる<ruby><rb>生擒</rb><rt>いけどり</rt></ruby>の報告中、チャンドを見るジェソップ氏の眼に、失望の色が濃くなってきた。

<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>は汚い、それも泥だらけで<ruby><rb>芬々</rb><rt>ふんぷん</rt></ruby>たる臭気だ。が、顔は、印度アールヤン族の正系ともいう、どう見ても、サンブルプールあたりからのダイヤモンド鉱夫ではない。しかし、人は見かけによらぬという――おそらくジェソップ氏の腹も、同じだったろうと思われる。

とにかく、チャンドの気品は、絶品というに近かった。たとえて云えば、キップリングの<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“<ruby><rb>Naulakha</rb><rt>ナウラーカ</rt></ruby>”</span>に出てくるラホールの王子――といっても、僕自身には<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>め過ぎとは思えない。

しかし、そのチャンドにはなんの用もないのだ。といって、ブラブラさせては不安がるだろうというので、おもにジェソップ氏の身廻りの用をさせていた。がその間、僕には大命が下っていた。それは、チャンドをそれとなく探ることで、ジェソップ氏は、またまたダイヤならずば<ruby><rb>黄玉石</rb><rt>トパーズ</rt></ruby>くらいの夢を見ていたらしい。

しかし僕は、いつかチャンドの別の方面に、興味を持つようになった。それは、ジェソップ氏に対しても決して<ruby><rb>大人</rb><rt>サヒーブ</rt></ruby>とは云わないこと、印度人が、自らを卑くして<ruby><rb>駱駝</rb><rt>らくだ</rt></ruby>のように膝を折る、あれがチャンドの雰囲気にはないのだ。

やがて、イギリス嫌いの僕は、この青年が好きになった。実際ジェソップ氏のような、ズボラで人の良い英人はいないのだから、僕には、クライヴもヘースチングも村井長庵と大差ないのだ。そんなもんだから、チャンド君に打ち込んだせいもあり、今度は彼の健康が気遣われてきた。

はじめ来たときは、二、三日食わないとこんなかと思ったのが、五日、十日となっても少しも回復しない。

憔悴、脱力、眼に力はなく、<ruby><rb>気懶</rb><rt>けだ</rt></ruby>るげに動いている。僕もしまいには、心配になってきて、あれこれとなだめすかしては問い訊した結果、ついにある夜口を割らしてしまったのである。

それは、<ruby><rb>黄玉石</rb><rt>トパーズ</rt></ruby>でも、ダイヤでもなかった。<ruby><rb>愛経</rb><rt>カーマ・スートラ</rt></ruby>の印度、<ruby><rb>￼婆</rb><rt>シヴァ</rt></ruby>の破壊をいまだに疑わぬ印度――その板挾みに、哀れやチャンド君はペシャンコにされ、青春の泉を<ruby><rb>涸々</rb><rt>からから</rt></ruby>にしてしまったというのである。

この告白は、たぶん惰気と暑さで、諸君を困らしめるにちがいない。それほど、印度も暑いが、この話もそうである。

二、<ruby><rb>嫐</rb><rt>なぶり</rt></ruby>味絶々

（以下、ラム・チャンドの告白）

<ruby><rb>Mr\. O'Grie</rb><rt>ミスター・オーグリー</rt></ruby> あなたは、紳士にも似ず<ruby><rb>執拗</rb><rt>しっつこ</rt></ruby>いですね。さっきは、僕の生家もなにも<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>かないと、約束したくせに……。

だが、教育を受けた、学校だけはお話しましょう。

それは、<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>の北西部カシュミールの首都、スリナガールにあるブリスコー氏の学校というのです。ここには、印度教徒も回教徒もキリスト教徒も、すべてこの地方の上流の子弟があつまるのです。

聴いて御覧なさい。Tyndal\-Briscoe's <ruby><rb>School</rb><rt>ティンダル・ブリスコーズ・スクール</rt></ruby> といえば、たいていのものは知っています。

で、そこの、教程を終えてから何をしたかというと、まず助教師、そして最近は、校主の知己のヘミングウェー嬢が、本土から来られたについて案内役となりました。

その、ミス・ロバータ・ヘミングウェーは、財団の有力者である<ruby><rb>国璽尚書</rb><rt>こくじしょうしょ</rt></ruby>の令嬢です。まだ二十二か三くらいでしょう。匂いはないかわりに、清純な線があります。

ところが、方々見歩いてこの町に来たとき、偶然ガンディの示威運動が起ったのでした。町は、兵士の発砲以来、廃墟のようになりました。雨が降る、汗が蒸し暑さに腐るように匂う――、事の起りはそういう晩だったのです。

そうそう、宿は「<ruby><rb>神主」館</rb><rt>ラジュラーナ</rt></ruby>でしたよ。そして僕は、そのときヘミングウェー嬢の部屋にいました。外は、ザクザクガチャガチャという音で<ruby><rb>巡邏</rb><rt>じゅんら</rt></ruby>が絶えません。しかし僕は、地図を見ながら、南行のスケデュールを組んでいました。と、隣りから、湯のはねる<ruby><rb>媚</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしい音がする。いま、ミス・ヘミングウェーが御入浴中なのです。

するとそこから、

「パドミーニ、パドミーニや」

とお呼びになる声がします。

尻あがりの、声を聴いただけでも一人娘の、びりびり蟲のつよいところが触れてくる。

しかし、下婢のパドミーニはここには居りません。私は、なんと入浴中のレディにお答えしていいものかと、惑っているうちに、二度目のお声です。

「パドミーニ、パドミーニはいるんじゃないの、そこに。駄目よ、黙って、<ruby><rb>拗</rb><rt>す</rt></ruby>ねていたって、ちゃんと分るんだから……」

と、湯の面にぴしゃりと何かを叩きつけたらしいのです。

「パドミーニ、パドミーニってば……」

そういって、ミス・ヘミングウェーはしばらくのあいだ、耳を澄ますようにじっと湯の音をさせませんでした。

「じゃ誰よ、そこにいんのは？　さっきから、かさこそ音をさせていて、<ruby><rb>給仕</rb><rt>ボーイ</rt></ruby>？」

「いや、僕です。パドミーニは、さっきからここには居りません」

「ああ、なんだ、チャンドさんか」

しかし私は、爽やかな、処女を<ruby><rb>粧</rb><rt>いろど</rt></ruby>るさまざまな香りに、こう隣ったことを、たいへん有難く思いました。

とやがて、

「チャンドさん」

と<ruby><rb>羞</rb><rt>はじ</rt></ruby>らったような声で、

「ちょっと、あんたにお願いがあるんだけど、……実はパドミーニがいないんで、お願いするんだけど……、そこにある、<ruby><rb>三角海綿</rb><rt>ルーファ</rt></ruby>をここへ持ってきてくれない？」

とたんに、私は、ぱちぱちっと瞬きました。ゆらゆら、鍵穴を洩れる湯気が、肢体のように<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しく見えます。

「でも……」と、やっと返辞はしたが、子供のような答えです。すると、ヘミングウェー嬢は、

「アラ、厭なの。じゃ、何かそこでしていんじゃない？　<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>や、下着入れを覗いているんだったら、今のうちに<ruby><rb>蔵</rb><rt>しま</rt></ruby>うことよ……」

やがて私は、パドミーニが出しわすれていた三角スポンジを手に、<ruby><rb>把手</rb><rt>ノッブ</rt></ruby>をやんわりとひねっていました。が、実のところは、動作に現われているような、そんな落着きはないのです。

（なにを……ミス・ヘミングウェーのこれは、意味するのだろう。処女が、娘の媚態ともいう羞恥心を捨ててまで、自分に、浴室に入れとは、戯れだけと云えないことだ。）

と、妙な自負心に、私はからだ中浮いてしまったように……ああ、<ruby><rb>Mr\. O'Grie</rb><rt>ミスター・オーグリー</rt></ruby>、<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>いますね。が、それも、あなたはミス・ヘミングウェーを知らないからです。

つぶらな<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>、弾力のあるふっくらとした<ruby><rb>頬</rb><rt>ほほ</rt></ruby>、顔もからだも、ほどよく締っていて、<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みだしそうです。

神品ですよ。触れようとしても出来ぬものはことごとく神品です。

私は……だが、いかなる場合でも、ブリスコーの生徒でした。

「じゃ、ここへ置きますから」

「そう。有難う。でも、ちょっとの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>なら、ここにいてもいいわ」

私の、そのときの驚きは何ものに例えようもありません。しかし、ミス・ヘミングウェーは、続けさまに云うのです。

「どう私、頭のほうもそう悪かァないでしょう。湯気で、あんたの眼鏡が曇って、なにも見えないのを知ってるんだから。見えて？　……私が、いま、どんなことをしているか」

と、はげしい湯の音がして<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>がかかると、<ruby><rb>淡紅色</rb><rt>ときいろ</rt></ruby>の、<ruby><rb>暈</rb><rt>ぼ</rt></ruby>やっとした塊りが、眼前の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>のなかにあらわれました。

揺れる、くねる。

私は、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>がからからになって自分の<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎが、ガンガン鳴る耳のなかへ響いてきます。

「では御ゆるり」

私は、やっと咽喉をうるおし、これだけを云いました。すると、ヘミングウェー嬢は、

「マア、あんた、あんたは割と世帯染みてんのね」

そう云って、くすんとお笑いになったようです。が、その頃から、<ruby><rb>鏡玉</rb><rt>レンズ</rt></ruby>が<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の温度に馴れ、やっと靄が<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れはじめてきました。と、<ruby><rb>灌水</rb><rt>シャワー</rt></ruby>のひらいた、夕立のような音がする。

それも、湯のほうが<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>られて、もうもうと立ち<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めてくる。せっかくの、喘ぐような瞬間がまた<ruby><rb>旧</rb><rt>もと</rt></ruby>へ戻ってしまったのです。

「お気の毒さまね」

ミス・ヘミングウェーが、嘲るように云いました。

「なにがです」

「知っているくせに。……もっと黒檀紳士は、明けっ放しの人かと思っていたわ。つまり、四十<ruby><rb>碼</rb><rt>ヤード</rt></ruby>スクラムからスリークォーター・パスになって、それを、私がカットして好<ruby><rb>蹴</rb><rt>キック</rt></ruby>をタッチに蹴出す。一挙これじゃ、三十<ruby><rb>碼</rb><rt>ヤード</rt></ruby>挽回ね」

「分りませんね。何です、それは」

「分らないの、マアいいわ。いいから、出てないと水を引っかけるわよ」

私はさんざんに翻弄され、それでも、若葉を嗅ぐような、<ruby><rb>爽</rb><rt>さや</rt></ruby>けい匂いをつけて戻ってきました。

それから、部屋へ戻って寝台にころがっているうちに私は、四肢五体を揉みほごされるように狂わしくなってきたのです。

（なんのためだ……なんのために僕を浴室なんかへ呼んだのだ？）

それは、あるいはミス・ヘミングウェーの気紛れかもしれないが、いちがいにそう云い切ってしまうには、あまりに、奔騰的だ、噴油だ。鬱積しているものが<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>え出ようとしているのか。

（ふむ、よくあることだ。よく、青葉病といって、急に憂鬱になるか、それとも、見境いなく<ruby><rb>齧</rb><rt>かじ</rt></ruby>りつくような、<ruby><rb>亢進症</rb><rt>ニムフォマニー</rt></ruby>になるか――。とにかくあれは、殻を割りたくても、割り得ない悩みなんだ。あの娘は、心のなかじゃ充分熟れ切っている。そこへ、破ろうとしても、させないような潔癖さがあるのだ。そうだ、たしかに処女性の病的なものがある。）

と、決めてしまうのも、独り合点でしょうか。分りません⁉　ミス・ヘミングウェーと、私とのあいだには人種の壁がある。そしてこれも、一夜のほんの戯れだけでしょうか。

私は、そうして右せんか左せんかと悩み、奇怪な謎を投げかけたヘミングウェー嬢の行為を思いあぐみ惑乱に悶えておりました。

ああ、O'<ruby><rb>Grie</rb><rt>オーグリー</rt></ruby>、あなたは、それからの私をお<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>いになるでしょう。暇さえあれば、留守を狙ってヘミングウェー嬢の部屋へ忍び込み、部屋に残っている<ruby><rb>薫香</rb><rt>かおり</rt></ruby>に鼻をうごめかしたものです。O'Grie All is glowing, burning, trembling\.

馬鹿です。しかし天はこの馬鹿に恵み給うたのか、翌日も雨、その次も雨、しかも暴動の気配が絶えず、ときどき銃声がする。風もない、ただ雨が滝のように地を打っている。

ところで、その日からはじまる八日のあいだが、カリーの女神を祭る精進日となるのです。

水浴をし、あらゆる慾望を絶ち、子羊を犠牲にする。そしてもって、破壊の女神カリーをお慰め申しあげるのです。けれど、いまここでは祭典どころではない。雨に暴動、加えて湯気のようなおそろしい湿気です。

しかしそうした時、ごろごろ<ruby><rb>懶</rb><rt>だる</rt></ruby>いままに転がっている姿は、だんだん心も獣のようなそれと同じになるのではないでしょうか。

私も、自分ながら、理性を失わんとしているのが分ります。やがて、暗い空がいっそう暗くなり、雨脚も消え、煮られるような夜となりました。

ところが、その夜ヘミングウェー嬢に、神経痛の発作が起りました。前年、ポロの競技中落馬が原因で、その後は、暑さ寒さにつれ、右肩が痛むのです。それでパドミーニと交代に、患部の湿布をかえておりました。甲斐甲斐しく、腕まくりしてギュッとタオルを絞る、すべてが、われながら驚くほど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">マメ</span>だったのです。とその時、通りをザッザッっと、靴音でない一群が通ってゆく。

「アッ、あれ、きっと何だわ」

「なるほど」

「あらッ、私まだなんにも云ってないのに……」

私は、ときどき失敗をやってはぎゅうぎゅうな目に逢わされ、それが久しく<ruby><rb>外道</rb><rt>げどう</rt></ruby>的な快楽となっているのです。いま私は、右手でタオルを抑えながら、左手は、ミス・ヘミングウェーの<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>に灰受けを捧げている。

ああ、いかに場合とはいえブリスコーの生徒が、落ちたにも百面相とはなったものです。

「ああ、そうか」

私は、ポンと手を打つかわりに灰皿を上げて、静かに<ruby><rb>莨灰</rb><rt>はい</rt></ruby>を落させる。

「分りましたよ、非常時の馬鹿力というのが、あれほど、お痛みだったのが土民がとおると、瞬間ケロリと忘れてしまう……。いや、気が張っとりますと、感じないのですなア」

「そうかしら」

「処世上、その点には、つどつど考えさせられます」

「じゃ、処生哲学ね」

ミス・ヘミングウェーがクスンと笑いながら、

「あたし、まえにはチャンドさんを、ちがう人かと思ってたわ。<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>き上手で、パドミーニのような娘を<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばせるかわりに、かならずただじゃ済ませない。よく、世間にあるあの類型ね？」

「…………」

「ところが」

と、云いながら、ヘミングウェー嬢は痛そうに顔をしかめはじめたのです。けれど、まだそれは忍べぬというほどのものではないらしい。

「ただ、あんたは実に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まめ</span>だと思う」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まめ</span>ですか。僕は」

「そう、ほかにも良いところが、きっとあるんだろうと思うわ。だけど、なにしろ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まめ</span>すぎるんでほかが分らなくなるの」

彼女一流の毒舌が、このときはまったく苦痛のなかから発せられました。

「パドミーニ、パドミーニを呼んで」

腰の痛みだけは、私にもさすが触らせない……しかしパドミーニは、いつになってもこの<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ戻ってこない。

（パドミーニがいない。）

それをさっきから、私はミス・ヘミングウェーに、思い出させまいとしていたのだ。彼女はいまコック部屋にいる。回教徒だから、カリーさまのこの日にも、なんのお咎めもあるまい。

そしてその間、私が万事取り仕切ってまめまめしく働き、ほとんど、触らんばかりの身近にいる愉悦を、パドミーニがきて妨げられまいとしていたのだ。私は、心のなかで、チェッと舌打ちをしました。ところへ、

「呼んで……、ねえ、早く」

とヘミングウェー嬢が、胸をそらし、苦しそうに呻きはじめました。

「はやく、チャンドさん、引っ張って来てよう」

「ですが」

さすがに私も<ruby><rb>狼狽</rb><rt>うろた</rt></ruby>え気味になって、

「考えてみますと……あれから、もう四、五時間も見えないのですから」

「そう、そう云えば……」

と、痛みを忘れたように、不安気に眼を据え、

「あれ、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>だったろう。パドミーニは、食堂から出て、たしか……」

と、だんだん、ミス・ヘミングウェーの顔は羞らったようになり、観念の色がなに事かを決めようとしました。

とその時、通りのどこかでワアッと喚声があがると、数発の、銃声とともにおそろしい音が部屋に起りました。窓<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>が<ruby><rb>木葉</rb><rt>こっぱ</rt></ruby>微塵となり、どこか、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>マット</rt></ruby>のしたからキナ臭い匂いが立ちのぼってきます。

その瞬間、せっかくの<ruby><rb>機会</rb><rt>チャンス</rt></ruby>がぶち壊れてしまったばかりか、ミス・ヘミングウェーは、恐怖に駆られワアッと泣きながら、地下室の酒倉へ逃げ込んでしまったのです。

つまりこれは、カリーの女神の<ruby><rb>嘉</rb><rt>よみ</rt></ruby>し給わなかったことでしょうか。それからも、ミス・ヘミングウェーは相変らずの態度で、おお<ruby><rb>機会</rb><rt>チャンス</rt></ruby>と、叫ばせられたのも何度かありました。が、私には、印度教徒の戒律を思わぬわけには、ゆきません。最初の夜の、神意的破壊的の銃声が、もし啓示としたならばこの次はどうでしょう。

ああ、O'<ruby><rb>Grie</rb><rt>オーグリー</rt></ruby>、<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>はたけり、信仰は脅かす。<ruby><rb>精進潔斎</rb><rt>しょうじんけっさい</rt></ruby>のその日に、<ruby><rb>女人</rb><rt>にょにん</rt></ruby>を得ようとしたのは、返す返すも悲しいめぐり合わせでした。

私はそれから、来る日来る日うつらと送りましたが、しかし、希望はまだ九日目にあります。精進明けの、その日には何事も自由です。そして雨も、その前々夜にはからっと上がり、町にはすでに火薬の匂いもありません。朝の風が、<ruby><rb>黍</rb><rt>きび</rt></ruby>畑をひたす出水のうえを渡り、湿原で鳴く、印度<ruby><rb>犀</rb><rt>さい</rt></ruby>の声を手近のように送ってきます。ヘミングウェー嬢は、この朝<ruby><rb>高台公園</rb><rt>ハイ・パーク</rt></ruby>の遊歩場へゆき、八時頃には、木蔭を縫う馬蹄の響が聴えてきました。

そこで私は、とって降した彼女の手をかるく握りますと、どうでしょう、そのうえにピシリと鞭が降りました。

ああ、私はとたんに自己を失い……思わぬ変り方、あまりな恥辱にそのまま<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を伏せ、ホテルには入らず一目散に駈け出しました。

それからの放浪です。

私はつくづく、祭、祭に縛られる<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>民族が厭になり、と云って、遠い祖先の収穫をいのる声がふり<ruby><rb>捥</rb><rt>もぎ</rt></ruby>ろうとしてもどうしても離れないのです。おお、O'<ruby><rb>Grie</rb><rt>オーグリー</rt></ruby>、なに事にも印度民族はこのディレンマに<ruby><rb>困</rb><rt>くる</rt></ruby>しめられます。信教と、民族発展とに背反するものを持つ……。

おお、O'<ruby><rb>Grie</rb><rt>オーグリー</rt></ruby>、お国へ行きましょう。

しかし私は、聴いているうちにも、ほかの事を考えていた。それは、ミス・ヘミングウェーのことで、ああさせた、Aphrodisiac なものは何事であろうか。近傍の……<ruby><rb>日天</rb><rt>スールヤ</rt></ruby>の堂でも見たのか。そこには、奇矯のかぎりを尽す群神の嬌態がある。それとも、<ruby><rb>麝香</rb><rt>じゃこう</rt></ruby>、<ruby><rb>沈香</rb><rt>ちんこう</rt></ruby>、<ruby><rb>素馨</rb><rt>そけい</rt></ruby>の香りに――熱帯の香気に眩暈を感じたのではないか。

いずれにせよ、八日間精進のことは知っていたにちがいない。そして、雨後の冷気が、ムラ気と火遊びを鎮めるに充分だった――と。

やがて、夜が明けかかり闇が白みはじめたころ、私は、菩提樹の梢をとおして、暁にふるえるユニオン・ジャックの<ruby><rb>翩翻</rb><rt>へんぽん</rt></ruby>たるを見たのである。<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>の朝、しかし真実の<ruby><rb>黎明</rb><rt>れいめい</rt></ruby>には遠い。私はチャンド君の寝顔と見くらべ、そう呟いたのであった。