女から切り出された別れ話

天明六年のことであった。老中筆頭は<ruby><rb>田沼主殿頭</rb><rt>たぬまとのものかみ</rt></ruby>、横暴をきわめたものであった。時世は全く<ruby><rb>廃頽期</rb><rt>はいたいき</rt></ruby>に属し、下剋上の悪風潮が、あらゆる階級を毒していた。<ruby><rb>賄賂請託</rb><rt>わいろせいたく</rt></ruby>が横行し、物価が非常に高かった。武士も町人も<ruby><rb>奢侈</rb><rt>おごり</rt></ruby>に耽った。<ruby><rb>初鰹</rb><rt>はつがつお</rt></ruby>一尾に一両を投じた。上野山下、浅草境内、両国広小路、芝の久保町、こういう盛り場が繁昌した。吉原、品川、<ruby><rb>千住</rb><rt>こつ</rt></ruby>、新宿、こういう悪所が繋昌した。で悪人が<ruby><rb>跋扈</rb><rt>ばっこ</rt></ruby>した。

その悪人の物語。――

梅が散り桜が咲いた。江戸は<ruby><rb>紅霞</rb><rt>こうか</rt></ruby>に埋ずもれてしまった。鐘は上野か浅草か。紅霞の中からボーンと響く。こんな形容は既に古い。「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」耽溺詩人<ruby><rb>其角</rb><rt>きかく</rt></ruby>の句、まだこの方が精彩がある。とまれ江戸は湧き立っていた。人の葬式にさえ立ち騒ぐ、お祭りずきの江戸っ子であった。ましてや花が咲いたのであった。押すな押すなの人出であった。さあ江戸っ子よ<ruby><rb>飜筋斗</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>を切れ！　おっとおっと花道じゃあねえ。往来でだ、真ん中でだ。ワーッ、ワーッという景気であった。

その日<ruby><rb>情婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>から呼び出しが掛かった。若侍は出かけて行った。

いつも決まって<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>をする、両国広小路を横へ<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>れた、半太夫茶屋へ足を向けた。

女は先刻から待っていた。

やがて酒肴が運び出され、愉快な酒宴が始められた。

そうだ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつも</span>ならこの酒宴は、非常に愉快な酒宴なのであった。

この日に限って愉快でなかった。女の様子が変だからであった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろくろく</span>物さえいわなかった。下ばっかり俯向いていた。そうして時々溜息をした。

「おかしいなあ、どうしたんだろう？」若侍は気に掛かった。

と、女が切り出した。別れてくれというのであった。

これには若侍も面食らってしまった。で、しばらく黙っていた。

不快な沈黙が拡がった。

「ふふん、そうか、別れようというのか」こう若侍は<ruby><rb>洞声</rb><rt>うつろごえ</rt></ruby>で云った。

「余儀無い訳がございまして……」

女の声も<ruby><rb>洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>であった。

また沈黙が拡がった。

「別れるというなら別れもしよう。だが<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>が解らないではな」

「どうぞ訊かないでくださいまし」女は膝を手で撫でた。

「どうもおれにはわからない。藪から棒の話だからな」若侍は嘲けるようにいった。相手を嘲けるというよりも、自分を嘲けるような声であった。「では今日が逢い<ruby><rb>終</rb><rt>じま</rt></ruby>いか。ひどく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さばさば</span>した別れだな。いやその方がいいかもしれない。紋切り型で行く時は、泣いたり笑ったり手を取ったり、そうでなかったらお互いに、愛想<ruby><rb>吐</rb><rt>づ</rt></ruby>かしをいい合ったり、色々の道具立てが入るのだが、手数がかかり時間がかかりその上後に未練が残り、恨み合ったり憎んだり、詰まらないことをしなければならない。そういうことはおれは嫌いだ。いっそ別れるならこの方がいい。女の方から切り出され、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっさり</span>それを承知する。アッハッハッ新しいではないか」

決して厭味でいうのではなかった。それは顔色や眼色で知れた。本当にサラリとした心持ちから、そう若侍は言っているのであった。

「そうと話が決まったら、今日だけは気持ちよく飲ましてくれ」

若侍は盃を出した。女は俯向いて泣いていた。

「おや、どうしたのだ、泣いているではないか。おれは<ruby><rb>虐</rb><rt>いじ</rt></ruby>めた覚えはない。虐められたのはおれの方だ。虐めたお前が泣くなんて、どう考えても不合理だなあ」まさに唖然とした格好であった。「ははあ解った、こうなのだろう。あんまりおれが手っ取り早く、別れ話を<ruby><rb>諾</rb><rt>き</rt></ruby>いたので、それでお前には<ruby><rb>飽気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>なく、やはり月並の別れのように、互いに泣き合おうというのだろう。だがそいつは少し古い。それもお前が娘なら、うん、<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>の娘なら、そういう別れ方もいいだろう。ところがお前は娘とはいえ、浅草で名高い<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>茶屋のお色、一枚絵にさえ描かれた女だ。男<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あしらい</span>には慣れているはずだ。お止しよお止しよそんな古手はな。……おや、やっぱり泣いているね。いよいよ俺には解らなくなった。ははあなるほど、こうなのだろう。あんまり気前よく承知したので、気味が悪いとでもいうのだろう。そこでいわゆる化粧泣き、そいつで機嫌を取り結び、後に祟りのないように、首尾よく別れようというのだろう。もしそうならおれは怒る！」

若侍は睨むようにした。

恋敵は田沼主殿頭

「というのは他でもない。おれとお前とは二年越し、<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>を重ねた仲だのに、あんまり心持ちが判らなさ過ぎるからよ」いっている間にも若侍の顔には自嘲の色が浮かんでいた。「アッハッハッハッ違うかな。いや違ったらご勘弁、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こいつ</span>器用に<ruby><rb>謝</rb><rt>あや</rt></ruby>まってしまう。とはいえそうでも取らなかったら、他にとりようはないじゃあないか。二人の間にはこれといって、<ruby><rb>気不味</rb><rt>きまず</rt></ruby>いこともなかったのに別れ話を切り出され、しかも理由は訊くなという。ちょっと廻り気も起ころうってものさ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と女の様子を見た。女は顔を上げなかった。<ruby><rb>耳髱</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>がブルブル<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えていた。色がだんだん紅くなった。バッチリ噛み切る歯音がした。鬢の垂れ毛を噛み切ったらしい。

若侍は徳利を取った。自分の盃へ注ごうとした。その手首を握るものがあった。<ruby><rb>焔</rb><rt>も</rt></ruby>えるような女の手であった。

「わたしは買われて行くのです」女は突然<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっ</span>付けるようにいった。「それをあなたは<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>らしく、笑ってばかりおいでなさる」

「何、買われて行く？　吉原へか？」

「女郎なら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まだしも</span>よござんす。<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>に買われて行くのです」

「うむ、そうして行く先は？」

「はい、あなたの大嫌いな方」

「おれには厭な奴が沢山ある。人間は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みんな</span>嫌いだともいえる」

「一人あるではございませんか。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とりわけ</span>あなたの嫌いな人が」

「なに、一人？　うむ、いかにも。が、それは大物だ」

「そのお方でございます」

「老中筆頭田沼主殿頭！」

「はい、そうなのでございます」

「それをお前は承知したのか？」

「お<ruby><rb>養母様</rb><rt>かあさま</rt></ruby>が大金を。……」

「うむ、田沼から受け取ったのだな？」

「<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の何んにも知らないうちに。……用人とやらがやって来て。……」

若侍は立ち上がった。だがまたすぐに坐ってしまった。

「よくある奴だ。珍らしくもない。ふん。金持ちの権勢家、<ruby><rb>業突張</rb><rt>ごうつくば</rt></ruby>りの水茶屋養母、その犠牲になる若い娘、その娘の<ruby><rb>情夫</rb><rt>いろおとこ</rt></ruby>。ちゃんと筋立てが出来てらあ、物語の筋にある奴よ。今までは草双紙で読んでいたが、今日身の上にめぐって来たまでさ。泣くな泣くな何を泣きゃあがる」

翌日弓之助は軽装をして、三浦三崎へ出かけて行った。千五百石の安祥旗本、白旗小左衛門の次男であって、その時年齢二十三、神道無意流の大先生戸ヶ崎熊太郎の秘蔵弟子で、まだ皆伝にはなっていなかったが、免許はとうに通り越していた。武骨かというに武骨ではなく、柔弱に見えるほどの<ruby><rb>優男</rb><rt>やさおとこ</rt></ruby>。そうして風流才子であった。彼は文学が非常に好きで、わけても万葉の和歌を愛した。で今度の三崎行も西行を気取っての<ruby><rb>歌行脚</rb><rt>うたあんぎゃ</rt></ruby>であった。が、これは<ruby><rb>表面</rb><rt>おもてむき</rt></ruby>で、お色と別れた寂しさを、まぎらそうというのが真相であった。途中で悠々一泊し、その翌日三崎へ着いた。半漁半農の三崎の宿は、人情も厚ければ風景もよかった。小松屋というのへ宿まることにした。海に面した旅籠屋であった。

「五、六日ご厄介になりますよ」「へえへえ、有難う存じます」

その翌日から弓之助は、<ruby><rb>懐中硯</rb><rt>ふところすずり</rt></ruby>と<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>り紙を持って、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の風景を<ruby><rb>猟</rb><rt>あさ</rt></ruby>り廻った。

銅銭会茶椀陣

しかしよい歌は出来なかった。別れた女のことばかりが、胸のうちに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こだわ</span>っていた。もちろん女と別れたことも、彼には随分寂しかったが、その女を取った者が、田沼主殿頭だということが、一層彼には心外であった。というのはほかでもない、彼の父なる小左衛門が、わずか式第の<ruby><rb>仕損</rb><rt>しそこな</rt></ruby>いから主殿頭に睨まれて役付いていた鍵奉行から、失脚させられたという事が、数ヵ月前にあったからであった。

「側御用人の小身から、将軍家に<ruby><rb>胡麻</rb><rt>ごま</rt></ruby>を磨り老中に上がって七万七千石、それで政治の執り方といえば上をくらまし下を搾取、ろくなことは一つもしない。憎い奴だ悪い奴だ」これが彼の心持ちであった。

「一向三崎も面白くないな。どれそろそろ帰ろうか」

空の吟嚢を胸に抱き、弓之助は江戸へ引っ返した。

最初の予定が五、六日、それを二日で切り上げたのであった。

ある日弓之助は屋敷を出た。上野の方へ足を向けた。花の盛りは過ぎていたが、上野山下は景気立っていた。茶屋女が美しいので、近ごろ評判の一<ruby><rb>葉</rb><rt>は</rt></ruby>茶屋で、弓之助は喉を濡らすことにした。

女が渋茶を持って来た。ふと見ると弓之助の正面に、一人の老武士が腰かけていた。雪白の髪を総髪に結んだ、<ruby><rb>無髯</rb><rt>むぜん</rt></ruby>童顔の威厳のある顔が、まず弓之助の眼を惹いた。左の眉毛の眉尻に、豌豆ほどの<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>があった。

「はてな？」と弓之助は呟いた。武士の眼使いが変だからであった。顔を正面に向けながら、瞳だけをそっと眼角へ送り、じっと何かを見ているのであった。他人に気取られずに物を見る。――こういう見方で見ているのであった。「これはおかしい」と思いながら、老人の瞳の向いている方へ、弓之助は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こっそり</span>眼をやった。そっちに小座敷が出来ていた。そこに二人の町人がいた。その一人のやっている事が、弓之助の心をちょっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そそ</span>った。茶飲み茶椀と土瓶とで、変な芸当をしているのであった。茶椀の数は十個あった。しかし土瓶は一個しかなかった。その十個の茶飲み茶椀を、ある時はズラリと一列に並べある時はタラタラと二列に並べ、または方形にまたは弧形に、そうかと思うと向かい合わせたりした。そのつど土瓶の位置が変わった。非常に手早くやるのであった。いったい何をしているのだろう？　そうやって遊んでいるのだろうか？　座敷の隅で、チビチビ酒を飲んでいた。見ているような見ていないような、不得要領な眼使いを一人の町人はして、茶椀の変化へ眼を付けていた。二人は懇意の仲とも見え、また全くの他人とも見えた。そういう不思議な茶椀の芸当が、しばらくの間繰り返された後、二人の町人は茶屋を出た。ややあって老武士が編笠を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った。

「銅銭会の茶椀陣」こう老武士は呟くようにいった。それから茶屋を出て行った。

「銅銭会の茶椀陣」老人の言葉を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なぞ</span>って見たが、弓之助には意味がわからなかった。しかし何んとなく心に掛かった。意味を確かめて見たかった。そこで老武士の後を追った。

もうそれは夕暮れであった。花見帰りの人々が、ふざけながら往来を練っていた。老武士はズンズン歩いていった。足は谷中へ向いていた。この時代の谷中辺はただ一面の田畑であった。飛び飛びに<ruby><rb>藁葺</rb><rt>わらぶ</rt></ruby>きの百姓家があった。ぼんやり春の月が出た。と一軒の屋敷があった。大名方の控え屋敷と見え、<ruby><rb>数寄</rb><rt>すき</rt></ruby>の中にも<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしい構え、黒板塀がめぐらしてあった。裏門の<ruby><rb>潜戸</rb><rt>くぐり</rt></ruby>がギーと開いた。老武士の姿が吸いこまれた。

「いったい誰の屋敷だろう？」ここまで<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>て来た弓之助は、しばらく佇んで眺めやった。少し離れて百姓家があった。そこで弓之助は訊いて見た。

「大岡様のお屋敷でございますよ」

「ああそうか、大岡様のな」

弓之助は礼をいって足を返した。

「享保年間の名奉行、大岡越前守と来たひには、とても素晴らしい人傑だったが、子孫にはろくな物は出ないようだ。今の時代に大岡様がいたら、もっと市中は平和だろうに。……ナーニ案外駄目かもしれない。名君でなければ名臣を、活用することは出来ないからな。……それはそうと今の老人、大岡家のどういう人だろう？　非常な老年と思われるが、歩き方など若者のようだ。家老や用人ではないらしい。途方もなく威厳があったからな」

北町奉行曲淵甲斐守

彼の屋敷は本所にあった。

「お帰り遊ばせ」と若党がいった。

「ああ」と受けて部屋へはいった。小間使いが茶を<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れて持って来た。

「お父様は？」と弓之助は訊いた。

「はい、ご書見でございます」

「お兄様は？」と彼は訊いた。

「はい、ご書見でございます」

「みんな勉強しているのだな。何んのために勉強するのだろう？　論語を読んでどうなるんだろう？　どこかの世界で役立つかしら？　どうもおれには疑問だよ。そんな事より行儀でも習って、頭の下げっ振りでも覚えるんだね。そうでなかったら<ruby><rb>幇間</rb><rt>ほうかん</rt></ruby>でも呼んで、<ruby><rb>追従術</rb><rt>ついしょうじゅつ</rt></ruby>を習うんだね。こいつの方がすぐ役立たあ。お菊お前はどう思うな？」

「若旦那様何をおっしゃるやら、ホッホッホッホッ、そんな事」小間使いのお菊は無意味に笑った。

「ホッホッホッホッそんな事か？　なるほど、こいつも処世術だ。語尾を<ruby><rb>暈</rb><rt>ぼか</rt></ruby>して<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>してしまう。偉いぞお菊、その呼吸だ。<ruby><rb>御台所</rb><rt>みだいどころ</rt></ruby>に成れるかもしれねえ。俺はお前の弟子になろう、ひとつ俺を仕込んでくれ」

「厭でございますよ、若旦那様」小間使いのお菊は逃げてしまった。

弓之助は寝ることにした。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どぎった</span>事はないものかしら？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっくり</span>返るような大事件がよ。俺はそいつへ食い下がってゆきたい。何んだか知らねえがおれの心には変てこな<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>が出来ている。ともかくもこいつを吐き出したいものだ。つまり溜飲を下げるのさ」

北町奉行<ruby><rb>曲淵甲斐守</rb><rt>まがりぶちかいのかみ</rt></ruby>、列代町奉行のその<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>では、一流の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>へ数えられる人物、弓之助にとっては叔父であった。

その翌日のことであった、弓之助は叔父を訪問した。屋敷内が騒がしかった。与力が右往左往した。同心どもが出入りした。重大な事件でも起こったらしい。弓之助は叔母の部屋へ行った。

「叔母様、何か取り込みで？」

「おやこれは弓之助さんかい。何んだか<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>には解らないが、大変なことが起こったようだよ」

弓之助には母がなかった。五年ほど前に<ruby><rb>逝</rb><rt>なくな</rt></ruby>ってしまった。で、弓之助はこの叔母を、母のように、懐しんでいた。

「お茶でも<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れよう、遊んでおいで。叔父さんも帰って来ようからね」

「ええ有難うございます」

お茶を飲んで世間話をした。叔父は帰って来なかった。御殿へ詰め切りだということであった。夜になってようやく帰って来た。その顔色は蒼褪めていた。弓之助は叔父の部屋へ行った。

「毎日ご苦労に存じます」

「おお弓之助か、近ごろどうだ」こうはいったがいつものように、優しく扱かってはくれなかった。いわゆる心ここにあらず、何か全く別のことを、考えているような様子であった。

「これは大事件に相違ない」弓之助は直覚した。「何か大事件でも起こりましたので」顔色を見い見い訊いて見た。

「うん」と甲斐守は物憂そうにいった。「前古未曽有の大事件だ」

「いったいどんなことでございますな？」

「絶対秘密だ。いうことは出来ない」甲斐守は苦り切った。

変な噂は聞かなかったかな？

甲斐守は深沈大度、喜怒容易に色に出さぬ、代表的の役人であった。今度に限ってその甲斐守が、まざまざ憂色を<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に現わし、前古未曽有の大事件で、絶対秘密というからには、よほどの事件に相違ない。弓之助の好奇心は膨れ上がった。しかし甲斐守の性質として、一旦いわぬといったからには、<ruby><rb>金輪際</rb><rt>こんりんざい</rt></ruby>口を開かぬものと、諦めなければならなかった。そこで弓之助は一礼し、甲斐守の部屋を出ようとした。

「これ弓之助ちょっと待て、少し聞きたいことがある」甲斐守は急に止めた。

「はい、ご用でございますか」弓之助は座に直った。

「お前は随分道楽者で、盛り場や悪所を歩き廻るそうだな」

「おやおや何んだ、面白くもない。紋切り形の意見かい」弓之助は苦笑したが、

「これはどうも恐れ入ります。はい、さようでございますな。いくらかは道楽も致しますが、決して親や兄弟へは、迷惑などは掛けないつもりで」

「いやいや意見をするのではない。若いうちは遊ぶもよかろう。親父のように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かたくな</span>では、ろくな出世は出来ないからな。どうだ<ruby><rb>情婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>でも出来ているか」

「おやおやこいつは<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>だぞ。妙な風向きになったものだ。叔父貴としては珍らしい。ははあわかった、手段だな。いわせて置いて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とっちめ</span>る。ううんこいつに相違ない。町奉行なんか叔父に持つと、油断も隙も出来やあしない。甥に対してさえお白洲式の、訊問法を採るのだからな。構うものか、<ruby><rb>逆捻</rb><rt>さかねじ</rt></ruby>を食わせろ」そこで弓之助はニヤニヤした。

「実はね、叔父さん、出来ましたので。茶汲み女ではありますが、どうしてどうして一枚絵にさえ出た、素晴らしい別嬪でございますよ。だがね、叔父さん、つい最近、縁を切られてしまいました」

「切られたというのは変ではないか、お前が縁を切ったんだろう。<ruby><rb>冗</rb><rt>むだ</rt></ruby>なことをしたものだ」

「いいえそうじゃありません。女から<ruby><rb>引導</rb><rt>いんどう</rt></ruby>を渡されたんで」

「ほほうそうか、それは偉い」

「偉い女でございますよ」

「いやいや偉いのはお前の方だ」

「叔父さん<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>かしちゃあいけません」

「冷かすものか、本当のことだ。遊びもそこまで行かなければ、堂に入ったとはいわれない」

「振られて帰る果報者。叔父さん、こいつをいっているんですね」

「いやいやそれとは意味が異う。男へ引導を渡すような女だ、いずれ鉄火に相違あるまい。そういう女をともかくも、占めたということは偉いではないか」

「これはどうも恐れ入りました」弓之助は変に気味悪くなった。「この叔父貴変梃だぜ。金仏のような風采でいてそれで消息には通じている。ははあ昔は遊んだな」

その時甲斐守は一膝進めた。

「そこでお前に訊くことがある。盛り場ないし悪所などで近ごろ何か変わった噂を耳にしたことはなかったかな？」

「さあ、変わった噂というと？」

「銅銭会というようなことを」

「あっ、それなら聞きました。いや現在見たんです」

「ふうむ、そうか、知っているのか。……ひとつそいつを話してくれ」ピタリと甲斐守は坐り直した。

そこで弓之助は昨日、上野山下一葉茶屋で、怪しい振る舞いをした町人のことと、老武士のこととを物語った。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と聞いていた甲斐守は、一つ大きく頷いた。

「いやよいことを教えてくれた。ついては弓之助頼みがある。これから大至急谷中へ行き、大岡侯の下屋敷へ伺候し、その老体と面会し、もっと詳しく銅銭会のことを、聞き出して来てはくれまいかな」

「はい、よろしゅうございます。しかしはたしてその老人、会って話してくれましょうか」

「俺から書面をつけることにしよう」

「へえ、それでは叔父様は、その老人をご存知で？」こう弓之助は不思議そうに訊いた。

銅銭会縁起録

「さよう」といったが<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>であった。

「まず知っているとして置こう。あの老人は人物だ。徳川家の忠臣だ。しかし一面<ruby><rb>囚人</rb><rt>めしゅうど</rt></ruby>なのだ。同時に徳川家の客分でもある。<ruby><rb>捨扶持</rb><rt>すてぶち</rt></ruby>五千石をくれているはずだ。まずこのくらいにして置こう。書面が出来た。すぐ行ってくれ」

「はい、よろしゅうございます」

書面の面には京師殿と、ただ三文字書かれてあった。

書面を持って飛び出した。ポンと備え付けの駕籠に乗った。

「急いでやれ！　行く先は谷中！」

深夜ゆえに掛け声はない。駕籠は一散に宙を飛んだ。やがて大岡家の表門へ着いた。

トントントンと門を叩いた。「ご門番衆、ご門番衆」<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>って小声で呼んだ。

「かかる深夜に何用でござる」門の内から声がした。

「<ruby><rb>曲淵甲斐守</rb><rt>まがりぶちかいのかみ</rt></ruby>の使者でござる。ただし、私用、<ruby><rb>潜戸</rb><rt>くぐり</rt></ruby>を開けられい」

で、潜戸がギーと開いた。それを潜って玄関へかかった。

「頼む。頼む」と二声呼んだ。

と、小間使いが現われた。

「これを」と書面を差し出した。

一旦小間使いは引っ込んだが、再び現われると<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>にいった。「さ、お通り遊ばしませ」

十畳の部屋へ通された。間もなく現われたのは老人であった。

「<ruby><rb>白旗氏</rb><rt>しらはたうじ</rt></ruby>のご子息だそうで。弓之助殿と仰せられるかな。……書面の趣き承知致した。しかし<ruby><rb>談話</rb><rt>はなし</rt></ruby>では意を尽くさぬ。書物があるによってお持ちなされ」

懐中から写本を取り出した。

「愚老、研究、書き止め置いたもの、甲斐守殿へお見せくだされ。……さて次に弓之助殿、昨日は一葉茶屋で会いましたな」

「ご老人、それではご存知で？」

「さて、あの時の茶椀陣、この意味だけは本にはない。よって貴殿にお話し致す。――貴人横奪、<ruby><rb>槐門</rb><rt>かいもん</rt></ruby>周章。<ruby><rb>丙</rb><rt>ひのえ</rt></ruby>より<ruby><rb>壬</rb><rt>みずのえ</rt></ruby>、一所集合、牙城を<ruby><rb>屠</rb><rt>ほふ</rt></ruby>る。<ruby><rb>急々如律令</rb><rt>きゅうきゅうにょりつれい</rt></ruby>。――つまりこういう意味でござった。甲斐守殿へお伝えくだされ」

「して、茶椀陣とおっしゃるは？」

「うむ、茶椀陣か、それはこうだ。銅銭会の会員が、茶椀と土瓶の位置の変化で、互いの意思を伝える法」

「火急の場合、これでご免」

「謹慎の身の上、お見送り致さぬ」

で弓之助は下屋敷を辞した。門を潜ると駕籠へ乗った。

駕籠は一散に宙を飛んだ。

間もなく甲斐守の屋敷へ着いた。門を潜り、玄関を抜け、叔父の部屋へ走り込んだ。

依然<ruby><rb>肩衣</rb><rt>かたぎぬ</rt></ruby>を着けたまま、甲斐守は坐っていた。

「おお弓之助か、どうであった？」

「まずこれを」と<ruby><rb>書物</rb><rt>かきもの</rt></ruby>を出した。

「うむ、銅銭会縁起録」

「他に<ruby><rb>伝言</rb><rt>ことづて</rt></ruby>でございます」

「うむ、そうか、どんなことだ？」

「先ほど、私お話し致しました、上野山下一葉茶屋で、一人の町人の行なった茶椀芸についてでございますが、あれは銅銭会の茶椀陣と申し、茶椀の変化によりまして、会員同士互いの意思を、伝え合うところの方法だそうで、あの時の茶椀陣の意味はといえば、貴人横奪、槐門周章。<ruby><rb>丙</rb><rt>ひのえ</rt></ruby>より<ruby><rb>壬</rb><rt>みずのえ</rt></ruby>、一所集合、牙城を屠る。急々如律令。……かような由にございます」

「ううむそうか、よく解った」甲斐守はじっと考え込んだ。「……貴人横奪？　貴人横奪？　これはこの通りだ間違いない。いかにも貴人が横奪された。槐門周章？　槐門周章？　槐門というのは宰相の別名、当今の宰相は田沼殿、いかにもさよう田沼殿は、非常に<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てておいでになる。だからこれにも間違いはない。丙より壬？　丙より壬？　これがちょっと解らない」甲斐守は眼を閉じた。すると弓之助が何気なくいった。

「日柄のことではございませんかな。たしか<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おとつい</rt></ruby>が丙の日で」

将軍家治誘拐さる

「おっ、なるほど、そうかもしれない。うむ、よいことを教えてくれた。いかにもこれは日柄のことだ丙から壬というからには、丙から数えて壬の日まで、すなわち七日間という意味だ。一所集合？　一所集合？　これは読んで字のごとく某所へ集まれということだろう？　牙城を屠る？　牙城を屠る？　敵の本陣をつくという意味だ。急々如律令は添え言葉、たいして意味はないらしい……さてこれで字義は解った。貴人を横取りしたために、宰相田沼殿が<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てている。七日の間に某所へ集まり、敵の本陣を突くという意味だ」

甲斐守は沈吟した。

「解ったようで解らない。だがともかくも今度の事件が、銅銭会という秘密結社の、会員どもの<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>であることは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どっちみち</span>疑がいはなさそうだ」

「叔父様」と弓之助は窺うように、「貴人とおっしゃるのはどなたのことで？」

甲斐守はジロリと見た。

「これはな、天下の一大事だ。本来ならば話すことは出来ぬ。これが世間へ知れようものなら、忽ち謀叛が起こるだろう。が、お前には功がある。特別をもって話して聞かせる。貴人というのは将軍家のことだ」

「えっ！」と弓之助は眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>った。「それでは上様が何者かに？」

「一昨日の晩、盗み取られた」

「へえ」といったが弓之助は二の句を継ぐことが出来なかった。

時の将軍家は<ruby><rb>家治</rb><rt>いはえる</rt></ruby>であった。九代将軍家重の長子で、この事件の起こった時には、その年齢五十歳、普通の日本の歴史からいえば、暗愚の将となっている。しかしそうばかりでもなかったらしい。ただ余りに女性的で権臣を取って抑えることが出来ず、権臣のいうままになっていたらしい。少しも<ruby><rb>下情</rb><rt>かじょう</rt></ruby>に通じなかった。権臣がそれを<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>るからであった。で彼は日本の国は、泰平のものと思っていた。彼は性、画を好んだ。そこで権臣は絵師を進め、彼をしてそれにばかり没頭せしめた。

しかるに最近事件が起こった。近習山村彦太郎が、三河風土記を講読した。すると家治は慨嘆した。「俺は今までこんないい本が、世間にあろうとは思わなかった。もっと彦太郎読んでくれ」

そこで彦太郎は<ruby><rb>陸続</rb><rt>りくぞく</rt></ruby>と読んだ。それを怒ったのが権臣であった。すなわち田沼主殿頭であった。すぐ彦太郎を退けてしまった。

しかし将軍家はそれ以来大分心が変わったらしい。やや田沼を<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>むようになった。そうして下情に通じようとした。田沼はそれを遮ろうとした。しかし将軍は子供ではなかった。一旦覚えた智恵の味を忘れることは出来なかった。で将軍家と田沼との間が、どうも円滑に行かなくなった。五日ほど<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>のことであった。田沼は将軍家を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そそのかし</span>、上野へ微行で花見に行った、その帰り路のことであった。本郷の通りへ差しかかった。忽ち小柄が飛んで来た。が、幸い駕籠へ<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>った。小柄には毒が塗ってあった。そうして柄には<ruby><rb>彫刻</rb><rt>ほり</rt></ruby>があった。銅銭会と彫られてあった。

こうして一昨日の夜となった。その夜将軍家は近習も連れず、一人<ruby><rb>後苑</rb><rt>こうえん</rt></ruby>を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っていた。と、一人の非常な美人が、突然前へ現われた。見たことのない美人であった。大奥の女でないことは、その女の風俗で知れた。町娘風の振り袖姿、髪は島田に取り上げていた。

女は先に立って歩いて行った。将軍家は後を追った。近習の一人がそれを見付け、すぐ後を追っかけた。御天主台と大奥との間、そこまで行くと二人の姿が――すなわち将軍家と女とが、掻き消すように消えてしまった、爾来消息がないのであった。

弓之助感慨に耽る

甲斐守はこう語った。

弓之助は奇異の思いがした。

「これは陰謀でございますな。狐狸の<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>ではありませんな。怪しいのはその女で、何者かの<ruby><rb>傀儡</rb><rt>かいらい</rt></ruby>ではございますまいか？」

「うん俺もそう思う。振り袖姿のその女は、銅銭会の会員だろう」

「申すまでもありません。しかし私は銅銭会より、銅銭会を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやつっ</span>ているある大きな人物が……」

「これ」と甲斐守は手で抑えた。「お前、田沼殿を疑がっているね」

「勢いそうなるではございませんか」

「が、ここに不思議なことには、今度の事件では田沼殿は、心の底から<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てていられる」

「さては芝居がお上手と見える」

「いやおれの奉行眼から見ても、殿の<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>て方は本物だ。そこがおれには腑に落ちないのだ。……さて、よい物が手に入った。銅銭会縁起録、早速これから御殿へまいり、老中方にお眼に掛けよう」

叔父の家を出た弓之助は、<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>と更けた深夜の江戸を屋敷の方へ帰って行った。考えざるを得なかった。

「田沼の所業に相違ない。将軍家に<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>んぜられた。そこで将軍家を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おび</span>き出し、幽囚したか殺したか、どうかしたに相違ない。悪い奴だ、不忠者め！　その上俺の<ruby><rb>情婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>を取り、うまいことをしやがった。

<ruby><rb>公</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>の<ruby><rb>讐</rb><rt>あだ</rt></ruby>、私の<ruby><rb>敵</rb><rt>あだ</rt></ruby>、どうかして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とっちめ</span>てやりたいものだ。だが、どうにも証拠がない。是非とも証拠を握らなければならない。銅銭会とは何物だろう？　支那の結社だということだが、どういう性質の結社だろう？　だがそいつは縁起録を見たら、容易に知ることが出来るかもしれない。明日もう一度叔父貴を訪ね、縁起録の内容を知らせて貰おう。とまれ田沼めと銅銭会とは、関係があるに相違ない。あるともあるとも大ありだ。銅銭会員を利用して、将軍家誘殺を試みたのだ。無理に将軍家を花見に誘い、毒塗り小柄で討ち取ろうとした。ところがそいつが<ruby><rb>失敗</rb><rt>しくじ</rt></ruby>ったので、会員中の美人を利用し、大奥の庭へ入りこませ好色の将軍家を誘い出したのだ。容易なことでは大奥などへは、<ruby><rb>地下</rb><rt>じげ</rt></ruby>の女ははいれないが、そこは田沼が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つい</span>ている。忍び込ませたに相違ない。だがしかし不思議だなあ。突然消えたというのだから」

彼はブラブラ歩いて行った。

「田沼にいかに権勢があっても、深夜城門を開くことは、どんなことがあっても出来るものではない。だが城門を開かなかったら、城から外へ出ることは出来ない。それだのに突然消えたという。どうもこいつがわからないなあ」

弓之助には不思議であった。

「もしかすると将軍家には、千代田城内のどの部屋かに、隠されているのではあるまいかな？　お城には部屋が沢山ある。秘密の部屋だってあるだろう。どこかに隠されてはいないかな？」

神田を過ぎて下谷へ出た。<ruby><rb>朧月</rb><rt>おぼろづき</rt></ruby>が空にかかっていた。<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>が白絹でも張ったように、微妙な色に<ruby><rb>暈</rb><rt>ぼ</rt></ruby>かされていた。

「山村彦太郎が将軍家へ、風土記を講読したというが、結講な試みをしたものだ。そのため将軍家の眩まされた眼が、少しでも明いたということは、非常な成功といわなければならない。もっとも今度の大事件の、そもそもの発端というものは、その三河風土記の講読にあることは争われないが、決してそれを責めることは出来ない、聞けば山村彦太郎は、賢人松平越中守様に、私淑しているということだが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょっと</span>かすると越中守様の、何んとはなしの<ruby><rb>指金</rb><rt>さしがね</rt></ruby>によりて、そんなことをしたのではあるまいかな」

弓之助の社会観

弓之助は上野へ差しかかった。

「越中守はお偉い方だ。ああいう方が廟堂に立ち、政治をとってくだされたなら、日本の国も救われるのだが、そういう事も出来ないかして、いまだに<ruby><rb>枢機</rb><rt>すうき</rt></ruby>に列せられない。現代政治のとり方は、<ruby><rb>庚申堂</rb><rt>こうしんどう</rt></ruby>に建ててある、三猿の<ruby><rb>石碑</rb><rt>いしふみ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そっくり</span>だ。見ざる聞かざるいわざるだ。将軍家よ見てはいけない。人民どもよ見てはいけない。将軍家よ聞いてはいけない。人民どもよ聞いてはいけない。将軍家よいってはいけない。人民どもよいってはいけない。一口にいえば上をも下をも<ruby><rb>木偶坊</rb><rt>でくのぼう</rt></ruby>に仕立てようとしているのだがこいつは非常に危険だ。聞かせまいとすれば聞きたがる。いわせまいとすればいいたがる。見せまいとすれば見たがるものだ。圧迫するということは、いつの場合でもよくはない。圧迫、圧迫、さて圧迫！　その次に起こるものは爆発だ。この爆発は恐ろしい。一切の物を破壊しようとする。いっそうそれより処士横議、自由に見させ自由にいわせ、自由に聞かせた方がいいではないか。遙かにその方が安全だ。<ruby><rb>琉</rb><rt>は</rt></ruby>け口を作ってやるのだからな。……ところでここはどこだろう？」

そこは浅草馬道であった。

「お色め、今頃どうしているだろう？　まだ<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>にはゆくまいな。ちょっと様子を見たいものだ。別れた、女の様子を見る。未練と人はいうだろう。だが幸い<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>がない。おりから深夜で月ばかりだ。月に見られたって恥ずかしいものか。しかも春の朧月、<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>を、冠っておいでなさる」

観音堂の方へ歩いて行った。昼は賑やかな境内も、人影一つ見えなかった。家々の戸は閉ざされていた。屋根が水でも浴びたように、銀鼠色に光っていた。巨大な<ruby><rb>公孫樹</rb><rt>いちょう</rt></ruby>が立っていた。その根もとに茶店があった。すなわちお色の<ruby><rb>住居</rb><rt>いえ</rt></ruby>であった。犬が門を守っていた。と尾を振って走って来た。よく見慣れている弓之助だからで、懐しそうに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じゃれ</span>ついた。「おおよしよし」と頭を撫でた。「犬の方が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よっぽど</span>人間らしい。さて何かやりたいが、小判をやってもし方がねえ。その他には何んにもないお気の毒だがくれることは出来ねえ。……お色め、今ごろいい気持ちで、グッスリ眠っているだろう。そう思うといい気持ちはしねえ。間もなく田沼の皺<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くちゃ</span>爺に、乳房を自由にされるんだろう。こいつは一層いい気持ちがしねえ。だが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょっと</span>するとおれの事を案じて眼覚めているかもしれねえ。こいつはちょっといい気持ちだ。まずなるたけならいい方へ考えた方がよさそうだ。少なくも気休めにはなるからな」

観音堂の裏手へ廻った。花川戸の方へ歩いて行った。どこもかしこも寝静まっていた。家々がまるで廃墟のように見えた。隅田に添って両国の方へ歩いた。一方は大河一方は家並、その家並が一所切れて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こんもり</span>とした森があった。<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>でも祀ってあるらしい。

「どれ、神様でも拝むとするか」森の中へはいって行った。はたして社が祀ってあった。その拝殿へ腰を掛けた。一つ大きく<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>づいた。もう一度大きく呼吸づこうとした。中途で彼は止めてしまった。

「実際現代は息苦しい。重い石が冠さっている。勇気のある者は<ruby><rb>憤怒</rb><rt>いきどおり</rt></ruby>をもって、その重い石を刎ね退けるがいい。勇気のある者は笑ってはいけない！　肉体的にいう時は、笑ったとたんに筋が弛む。精神的にいう時は、笑ったとたんに心が弛む。弛むということは油断ということだ。その油断に付け込んで飛び込んで来るのが、妥協性だ。妥協、うやむや、去勢、萎縮、そこで小粋な<ruby><rb>姿</rb><rt>なり</rt></ruby>をして、天下は泰平でございます。浮世は結構でございます。皆さん愉快にやりましょう。<ruby><rb>粋</rb><rt>おつ</rt></ruby>でげすな。大通でげすな。なあァんて事になってしまう。そう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">や</span>って<ruby><rb>謳</rb><rt>うた</rt></ruby>っているうちに、それ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よこせ</span>やれ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よこせ</span>、洗いざらい持って行かれる。ヘッヘッヘッヘッヘッこれはこれは、いつの間に貧乏になったんだろう？　などと驚いても追っ付かない。だから決して笑ってはいけない。いつも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うんと</span>怒っているがいい。……だがこいつは勇士の態度だ。利口者には別の道がある。行儀作法を覚えることよ。お辞儀を上手にすることよ。お太鼓をうまく叩くことよ。お手拍子喝采を習うことよ。それで権勢家に取り入るのよ。そうして重用されるのよ。さてそれからジワジワと、自分の考えは権勢家に伝え、その権勢家の力を<ruby><rb>藉</rb><rt>か</rt></ruby>りて、もって実行に現わすのよ」

また感慨に耽り出した。

舁ぎ込まれた一丁の駕籠

と、その時一丁の駕籠が、森の中へ担ぎ込まれた。

「こんな深夜にこんな所へ、担ぎ込まれるとは不思議千万、何か様子があるらしい」弓之助は社の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ隠れた。

「おお先棒もうよかろう」「おっと合点、さあ下ろせ」

駕舁きはトンと駕籠を下ろした。それから額の汗を拭いた。それからヒソヒソと<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き合った。

「おい<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん、用があるんだ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちょっくら</span>駕籠から出ておくんなせえ」後棒の方がこういった。

「あい」と可愛らしい声がした。「もう着いたのでございますか」中から垂れが上げられた。「おやここは森の中、駕舁きさん、厭ですねえ。気味が悪いじゃあありませんか。どうぞ冗談なさらずに着ける所へ着けておくんなさい」言葉の調子が町娘らしい。

「まあ姐さん、<ruby><rb>急</rb><rt>せき</rt></ruby>なさんな。着ける所は眼の先だ。がその前にご相談、厭でも<ruby><rb>諾</rb><rt>き</rt></ruby>いて貰わなけりゃあならねえ」こういったのは先棒であった。「おお後棒、もうよかろう。お前から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっくり</span>いい聞かせてやんねえ」両膝を立ててうずくまり、腰の<ruby><rb>辺</rb><rt>あた</rt></ruby>りを探ったのは、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>でも取り出そうとするのだろう。

先棒は及び腰をして覗き込んだ。

「のう姐さん、もうおおかた、見当は着いているだろう。いかにも<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らは駕舁きだ。が、問屋場に腰掛けていて、いちいちお客様のお出でを待って、飛び出すような玉じゃあねえ。もう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちっとばかり</span>荒っぽい方だ。<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らは石地蔵の六といい、仲間は<ruby><rb>土鼠</rb><rt>もぐら</rt></ruby>の源太といって、大した悪事もやらねえが、コソコソ泥棒、掻っ払い、<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>しぐらいはやろうってものさ、さてそこでお前さんだが、品川から駕籠に乗んなすった時おりから<ruby><rb>深夜</rb><rt>よふけ</rt></ruby>、女身一人、出歩こうとは大胆だが<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>にあいたいの一心から、家を抜け出して来たんだな、こう目星を付けたってものさ。で、先棒がいう事には、何も男の所まで、担いで行くにゃああたるめえ、大の男が二人まで、ここに揃っているのだからな。なるほど<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>は悪かろう、肌だって荒いに<ruby><rb>違</rb><rt>ちげ</rt></ruby>えねえ。いうまでもなく<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>の方が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんわり</span>と当るに違えねえ。だがそいつあ勘弁して貰い、厭でもあろうが<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>ら二人を、亭主に持ってはくれまいか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちょっくら</span>相談<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶって</span>見ようてな。もっとも厭だといったところで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おいそれ</span>と、聞く俺らじゃあねえ。よくねえ奴らに魅入られたと、こう思って器用に往生しねえ」

「おおおお六やどうしたものだ。そう<ruby><rb>強面</rb><rt>こわもて</rt></ruby>に<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>すものじゃねえ。相手は娘だジワジワとやんな」先棒の源太は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かがん</span>だまま、駕籠の中を覗き込んだ。

「ナアーニ姐さん心配しなさんな。外見はちょっと<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>らしいが、これも案外親切ものでね。お前さんさえ<ruby><rb>諾</rb><rt>うん</rt></ruby>といったらそれこそ二人で可愛がって、堪能させるのは受け合いだ。が二人とも飽きっぽいんで、さんざっぱら可愛がったそのあげくには、<ruby><rb>千住</rb><rt>こつ</rt></ruby>か、品川か、新宿で、稼いで貰わなけりゃあならねえかも知れねえ。だがマアそいつは後のことだ。差し詰めここで決めてえのは、素直に俺らの女房になるか、それとも強情に首を振るか、二つに一つだ。返辞をしねえ」

駕籠の中からは返辞がなかった。どうやら顫えてでもいるらしい。と、ようやく声がした。

「まあそれじゃああなた方は、悪いお方でござんしたか」

振り袖姿に島田髷

「さあね、大して善人じゃあねえ。だがこいつもご時世のためだ。こんな事でもしなかったら、酒も飲めず、<ruby><rb>魚</rb><rt>とと</rt></ruby>も食えず、<ruby><rb>美婦</rb><rt>たぼ</rt></ruby>も<ruby><rb>自由</rb><rt>まま</rt></ruby>にゃあ出来ねえってものよ。恨むなら田沼様を恨むがいい」

「厭だと<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>が首を振ったら？」「二人で手籠めにするばかりさ」「もしも妾が声を立てたら？」「<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>をはめちまう。だがもし下手にジタバタすると、喉笛に手先がかかるかもしれねえ。そうなったらお陀仏だ」「それじゃあ妾は殺されるの？」「可哀そうだがその辺だ」「死んじゃあ随分つまらないわね」「あたりめえだあ、何をいやがる」

女の声はここで途絶えた。

「それじゃあ妾はどんなことをしても、<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がれることは出来ないんだね。仕方がないから<ruby><rb>自由</rb><rt>まま</rt></ruby>になろうよ」

「へえ、そうかい、こいつあ偉い。ひどく判りのいい<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんだ」

「だがねえ」と女の声がした。「見ればあなた方はお二人さん、妾の体はただ一つ、二人の亭主を持つなんて、いくら何んでも恥ずかしいよ。どうぞ二人で<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>でも引いて、勝った方へ、体をまかせようじゃないか」

「なるほどなあ、こいつあ理だ。六ヤイ手前どう思う」

「そうよなあ」と気のない声で「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らがきっと勝つのなら、籤を引いてもよいけれどな」

「そいつあこっちでいうことだ。おいどうする引くか厭か？」「どうも仕方がねえ引くとしよう。せっかく姐さんのいうことだ。逆らっちゃあ悪かろう」「よしそれじゃあ<ruby><rb>松葉籤</rb><rt>まつばくじ</rt></ruby>だ。長い松葉を引いた方が姐さんの花婿とこう決めよう」

源太は頭上へ手を延ばし、松の枝から葉を抜いた。

「さあ出来た。引いたり引いたり」「で、どちらが長いんだい？」「冗談いうな、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたぼう</span>め、そいつを教えてなるものか。ふふん、そうよなあ、こっちかも知れねえ」「へん、その手に乗るものか。こいつだ、こいつに違えねえ」

六蔵は松葉をヒョイと抜いた。

「あっ、いけねえ、短けえや！」

「だからよ、いわねえ事じゃねえ、こっちを引けといったんだ」

源太は駕籠へ飛びかかった。「おお姐さん、婿は決まった」駕籠へ腕を差し込んだ。「恥ずかしがるにゃあ及ばねえ、ニッコリ笑って出て来ねえ」

グイと引いた手に連れて、若い娘がヨロヨロと出た。頭上を蔽うた森の木の梢をもれて、月が射した。板高く結った島田髷、それに懸けられた<ruby><rb>金奴</rb><rt>きんやっこ</rt></ruby>、頸細く肩低く、腰の辺りは煙っていた。<ruby><rb>紅色</rb><rt>べにいろ</rt></ruby>勝った振り袖が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばったり</span>と地へ垂れそうであった。

「可愛いねえ、お前さんかえ、源さんや。花婿や」キリキリと腕を首へ巻いた。「さあ行こうよ、お宿へね」源太をグイと引き付けた。

「痛え痛え恐ろしい力だ。まあ待ってくれ、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>が詰まる」源太は手足をバタバタさせた。

「<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>がないねえ、どうしたんだよ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やわい</span>じゃあないかえ、お前さんの体は。ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、<ruby><rb>手頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>りないねえ」源太の首へ巻いた手を、グーッと胸へ引き寄せた。

「む――」と源太は唸ったが、ビリビリと手足を<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>させた。と、グンニャリと首を垂れた。

手を放し、足を上げ、ポンと娘は源太を蹴った。一団の火焔の燃え立ったのは、脛に纏った緋の<ruby><rb>蹴出</rb><rt>けだ</rt></ruby>しだ。

「<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>だあァ！」と叫ぶ声がした。石地蔵の六が叫んだのであった。

息杖を握ると飛び込んで来た。と、娘は入り身になり、六蔵の右腕を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>掴んだ。と、カラリと息杖が落ちた。「ワ――ッ」と六蔵は悲鳴を上げた。とたんにドンと地響きがした。六蔵の体が地の上へ潰された<ruby><rb>蟇</rb><rt>がま</rt></ruby>のようにヘタバった。<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>と後は静かであった。常夜燈の灯が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まばたい</span>た。ギー、ギーと櫓を漕ぐ音が、河の方から聞こえて来た。

怪しの家怪しの人々

クルリと娘は拝殿へ向いた。ポンポンと二つ<ruby><rb>柏手</rb><rt>かしわで</rt></ruby>を打った。それから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しとやか</span>に<ruby><rb>褄</rb><rt>つま</rt></ruby>を取った。と、境内を出て行った。

社の蔭に身を隠し、様子を見ていた弓之助は、胆を潰さざるを、得なかった。

「素晴らしい女もあるものだ。どういう素性の女だろう？　……待てよ、島田に大振り袖！　……ううむ、何んだか思いあたるなあ。一番後を<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>て見よう」

数間を隔てて後を追った。浅草河岸を花川戸の方へ、引っ返さざるを得なかった。女はズンズン歩いて行った。月の光を避けるように、家の軒下を伝って歩いた。遠くで犬が吠えていた。人の子一人通らなかった。隅田川から<ruby><rb>仄白</rb><rt>ほのしろ</rt></ruby>い物が、一団ムラムラと飛び上がった。が、すぐ水面へ消えてしまった。それは<ruby><rb>鴎</rb><rt>かもめ</rt></ruby>の群れらしかった。女は急に立ち止まった。そこに一軒の屋敷があった。グルリと黒塀が取りまいていた。一本の八重桜の老木が、門の内側から塀越しに、往来の方へ差し出ていた。満開の花は綿のように白く団々と<ruby><rb>塊</rb><rt>かた</rt></ruby>まっていた。女は前後を見廻した。つと弓之助は家蔭に隠れた。女は門の潜り戸へ、ピッタリ身体をくっ付けた。それから指先で戸を叩いた。と、中から声がした。

「おい誰だ。名を<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>れ」

「俺だよ、俺だよ、勘助だよ」

「うむそうか、女勘助か」

ギ――と潜り戸があけられた。女の姿は吸い込まれた。八重桜の花がポタポタと散った。

弓之助は思わず首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げた。「何んとかいったっけな、女勘助？　……では有名な賊ではないか」

その時往来の<ruby><rb>反対</rb><rt>むこう</rt></ruby>の方から、一つの人影が近付いて来た。月光が肩にこぼれていた。浪士風の大男であった。<ruby><rb>大髻</rb><rt>おおたぶさ</rt></ruby>に黒紋付き、袴無しの着流しであった。しずしずこっちへ近寄って来た。例の家の前まで来た。と、潜り戸へ体を寄せた。それから指でトントンと叩いた。

「何人でござるな、お<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>りくだされ」すぐに中から声がした。

「<ruby><rb>紫紐</rb><rt>むらさきひも</rt></ruby>丹左衛門」

すると潜り戸がギーと開いた。浪士の姿は中へ消えた。同時に潜り戸が閉ざされた。

とまた一つの人影が、ポッツリ月光に浮き出した。博徒風の小男であった。心持ち前へ首を傾げ、足先を見ながら歩いて来た。急に人影は立ち止まった。例の屋敷の門前であった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ツと</span>人影は潜り戸へ寄った。同じことが繰り返された。指先で潜り戸をトントンと打った。

「誰だ誰だ、名をいいねえ」

「新助だよ、早く開けろ」

「稲葉の兄貴か、はいりねえ」

潜り戸が開き人影が消え、ふたたび潜り戸がとざされた。

その後はしばらく静かであった。

またもその時足音がした。足駄と<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>との音であった。忽ち二つの人影が、弓之助の前へ現われた。その一人は旅僧であった。<ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby>、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>、<ruby><rb>阿弥陀笠</rb><rt>あみだがさ</rt></ruby>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずんぐり</span>と肥えた大坊主であった。もう一人の方は六部であった。<ruby><rb>負蔓</rb><rt>おいずる</rt></ruby>を背中に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しょっ</span>ていた。白の行衣を纏っていた。一本歯の足駄を穿いていた。弓之助の前を通り過ぎ、例の屋敷の門前まで行った。ちょっと二人は囁き合った。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ツと</span>旅僧が潜り戸へ寄った。指でトントンと戸を打った。すぐに中から声がした。

「かかる深夜に何人でござるな？」

「鼠小僧外伝だよ」

つづいて六部が忍ぶようにいった。

「俺は<ruby><rb>火柱夜叉丸</rb><rt>ひばしらやしゃまる</rt></ruby>だ」

例によって潜り戸が、ギ――と開いた。二人の姿は吸い込まれた。ゴトンと鈍い音がした。どうやら<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>を下ろしたらしい。サラサラサラサラと風が渡った。ポタポタと八重桜の花が落ちた。そのほかには音もなかった。

ガラガラと飛び出した四筋の鎖

闇に佇んだ弓之助は、考え込まざるを得なかった。「女勘助、紫紐丹左衛門、稲葉小僧新助、火柱夜叉丸、それからもう一人鼠小僧外伝、これへ神道徳次郎を入れれば、江戸市中から東海道、京大坂まで名に響いた、いわゆる天明の六人男だ。ううむ偉い者が集まったぞ。ははあそれではこの屋敷は、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>ら盗賊の集会所だな。いやよいことを嗅ぎ付けた。叔父へ早速知らせてやろう。一網打尽、根断やしにしてやれ」

スルスルと彼は家蔭を出た。

「いやいや待て待て、考え物だ。これから叔父貴の屋敷へ行き、事情を語っているうちには、夜が明けて朝になる。せっかくの獲物が逃げようもしれぬ。逃がしてしまってはもったいない。ちょっとこいつは困ったなあ」彼ははたと当惑した。

「気にかかるのは女勘助だ。島田髷に大振り袖、美人の装いをしていたが、大奥の後苑へ現われて、上様を誘拐したという、その女も島田髷、振り袖姿だということである。……<ruby><rb>関係</rb><rt>つながり</rt></ruby>があるのではあるまいかな？　……いよいよ<ruby><rb>此奴</rb><rt>こやつ</rt></ruby>は逃がせねえ。うむそうだ踏み込んでやろう。<ruby><rb>有名</rb><rt>なうて</rt></ruby>の<ruby><rb>悪漢</rb><rt>わるもの</rt></ruby>であろうとも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たか</span>の知れた盗賊だ。掛かって来たら切って捨て、女勘助一人だけでも、是非とも<ruby><rb>手擒</rb><rt>てどり</rt></ruby>にしてやろう」

彼は剣道には自信があった。それに彼は冒険児であった。胸に出来ている<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>を、吐き出したいという願いもあった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どぎっ</span>た事をやってみたい。こういう望みも持っていた。

彼は潜り戸へ身を寄せた。それから彼らの真似をして、指でトントンと戸を打った。中は森閑と静かであった。人のいるような気勢もなかった。彼は塀へ手を掛けた。ヒラリと上へ飛び上がった。腹這いになって<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。眼の下に小広い<ruby><rb>前庭</rb><rt>にわ</rt></ruby>があり、植え込みが飛び飛びに出来ていた。その奥の方に主屋があった。どこにも人影は見えなかった。で弓之助は飛び下りた。植え込みの蔭へ身を隠し、さらに様子を窺った。やはりさらに<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>はなかった。玄関の方へ寄って行った。戸の合わせ目へ耳をあて、家内の様子を窺った。無住の寺のように寂しかった。試みに片戸を引いてみた。意外にも、スルリと横へ開いた。「これは」と弓之助は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した。「いやこれはありそうなことだ。泥棒の<ruby><rb>巣窟</rb><rt>すみか</rt></ruby>へ泥棒が忍び込む気遣いはないからな、それで用心しないのだろう」彼は中へはいって行った。玄関の間は六畳らしく<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>がないので暗かった。隣室と仕切った襖があった。その襖へ体を付けた。それからソロソロと引き開けた。その部屋もやはり暗かった。十畳あまりの部屋らしかった。隣室と仕切った襖があった。その襖をソロソロと開けた。<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>がなくて暗かった。全体が手広い屋敷らしかった。しかも人影は皆無であった。どの部屋にも燈火がなかった。一つの部屋の障子を開けた。そこに一筋の廻廊があった。その突きあたりに<ruby><rb>別軒</rb><rt>べつむね</rt></ruby>があった。離れ座敷に相違ない。廻廊伝いにそっちへ行った。雨戸がピッタリ締まっていた。その雨戸をそっと開けた。<ruby><rb>仄明</rb><rt>ほのあか</rt></ruby>るい十畳の部屋があった。隣り部屋から漏れる燈が部屋を明るくしているのであった。弓之助はその部屋へはいった。隣り部屋の様子を窺った。やはり誰もいないらしい。思い切って襖を開けた。はたして人はいなかった。机が一脚置いてあった。そうしてその上に紙があった。紙には文字が記されてあった。

<ruby><rb>川大丁首</rb><rt>せんだいていしゅ</rt></ruby>

こう書いてあった。

「はてな、どういう意味だろう？」

で、弓之助は首を傾げた。突然ガチャンと音がした。部屋の片隅の柱の中から、鎖が一筋弧を描き弓之助の方へ飛んで来た。右手を上げて打ち払った。キリキリと手首へまきついた。「しまった！」と呻いたそのとたん、反対側の部屋の隅、そこの柱の中央から、またもや鎖が飛び出して来た。キリキリと左手へまきついた。またもや鎖の音がした。もう一本の柱から、同じように鎖が飛び出して来た。それが弓之助の胴をまいた。ともう一本の柱から、またもや鎖が飛び出して来た。それが弓之助の足をまいた。四筋の鎖にまき<ruby><rb>縮</rb><rt>すく</rt></ruby>められ、弓之助はバッタリ畳へ仆れた。身動きすることさえ出来なかった。

だが屋敷内は静かであった。<ruby><rb>咳</rb><rt>しわぶき</rt></ruby>一つ聞こえなかった。<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>は光の輪を、天井へボンヤリ投げていた。どうやら風が出たらしい、裏庭で木の揺れる音がした。……いつまで経っても静かであった。人の出て来る気勢もなかった。

「どうもこいつは驚いたなあ」心が静まるに従って、弓之助の心は自嘲的になった。「人間を相手に切り合うなら、こんな不覚は取らないのだが、鎖を相手じゃあ仕方がない。……これは何んという戦法だろう？　とにかくうまいことを考えついたものだ。敵ながらも感心感心。……といって感心していると、どんな<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目に合うかもしれない。さてこれからどうしたものだ。どうかして鎖を解きたいものだ」

彼は体を<ruby><rb>蜒</rb><rt>うね</rt></ruby>らせた。鎖が肉へ食い込んだ。

恋文を書く銀杏茶屋のお色

「痛え痛え、おお痛え。滅多に体は動かせねえ。莫迦にしていらあ、何んということだ。仕方がねえから<ruby><rb>穏</rb><rt>おとな</rt></ruby>しくしていよう。……だがそれにしても泥棒どもは、どこに何をしているのだろう？　姿を見せないとは皮肉じゃあないか。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひど</span>く薄っ気味が悪いなあ。これじゃあどうも喧嘩にもならねえ。……考えたって仕方がねえ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もがく</span>とかえって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひど</span>い目を見る。おちついて待つより仕方がねえ、うんそうだ、こんな時には、何かで心を紛らせるがいい。紙に書かれた『川大丁首』よしこの意味を解いてやろう」そこで彼は考え出した。だがどうにもわからなかった。「こんな熟字ってあるものじゃねえ。川は川だし大は大さ。丁は丁だし首は首だ。音で読めば<ruby><rb>川大丁首</rb><rt>せんだいていしゅ</rt></ruby>。川大にして<ruby><rb>丁</rb><rt>わかもの</rt></ruby>の首？　こう読んだって始まらねえ。……こいつ恐らく隠語なんだろう」

依然屋敷は静かであった。

銀杏茶屋のお色は奥の部屋で、袖垣をして<ruby><rb>恋文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>を書いていた。まだ春の日は午前であった。店の客も少なかった。部屋の中は明るかった。春陽が丸窓へ射していた。小鳥の影が二三度映った。彼女は大分ご機嫌であった。顔の紐が解けていた。頬に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こっぽり</span>した<ruby><rb>笑靨</rb><rt>えくぼ</rt></ruby>が出来うっかり指で突こうものなら指先が<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>まり込んで抜けそうもなかった。彼女はひどく嬉しいのであった。千代田城中に大事件が起こり、田沼主殿頭が狼狽し、お色を<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>にすることなど、とても出来まいということを――もちろんハッキリといったのではないが、とにかくそういう意味のことを、田沼の家の用人から、今朝方知らせがあったからであったのみならず、養母に渡したところの、手附けの金は手附け流れ、返すに及ばぬということであった。で、養母もご機嫌であった。そこでお色はこの事情を、恋しい男の弓之助へ告げ、今日<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつも</span>の半太夫茶屋で、逢おうと<ruby><rb>巧</rb><rt>たく</rt></ruby>んでいるのであった。

「恋しい恋しい」という文字や「嬉しい嬉しい」という文字も、目茶目茶に<ruby><rb>恋文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>へ書き込んだ。

「あらあらかしく、お色より、恋しい恋しい弓様へ」こう結んで筆を置いた。封筒へ入れて封じ目をし、さも大事そうに<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ入れた。それから<ruby><rb>他行</rb><rt>よそゆ</rt></ruby>きの衣裳を着、それから店へ出て行った。

「ちょっとお母さん出て来てよ」

「さあさあどこへなといらっしゃい」長火鉢の前へ片膝を立て、お誂え通りの長煙管、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>ふ</rt></ruby>かしていた養母のお<ruby><rb>兼</rb><rt>かね</rt></ruby>は、黒い歯茎で笑ってみせた。「おやおや大変<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おめかし</span>だね。ふふん、さてはあの人と……」

「いらざるお世話、よござんすよ」

「観音様へ参詣しお賽銭ぐらいは上げるだろうね」

「おや、そいつは本当だね」

いい捨ててお色は戸外へ出た。プーッと春風が鬢を吹いた。で彼女は鬢を押さえた。プーッと春風が裾を吹いた。今度は前を抑えなければならない。「風さえ<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>を<ruby><rb>嬲</rb><rt>なぶ</rt></ruby>っているよ」彼女はそこでニッコリとした。鳩がポッポと啼いていた。彼女の周囲へ集まって来た。

「厭だねえこの鳩は、邪魔じゃないか歩くのにさ」

御堂の前で掌を合わせた。帯の間から銭入れを抜き、賽銭箱へお宝を投げた。

「どうも有難う、観音様。みんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あなた</span>のご利益よ」

で彼女は歩いて行った。

「何て今日はいい日なんだろう。みんな<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>に笑いかけているよ。何だか知らないが有難うよ」

往来の人が<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き合った。

「あれが評判のお色だよ」「どうでえどうでえ綺麗だなあ」「今日は取りわけ美しいぜ」

「はいはい皆さん有難うよ」彼女は笑って口の中でいった。

「でもね、皆さんお<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>さまよ、見せる人はほかにあるんですよ」

逢ってくれない弓之助

走り使いの喜介の家は、二丁目の露路の奥にあった。お色は煤けた格子戸を開けた。

「ちょいと喜介どん、頼まれて頂戴」

<ruby><rb>菊石面</rb><rt>あばたづら</rt></ruby>の四十男、喜介がヒョイと顔を出した。「へいへいこれはお色さん」

「これをね」とお色は<ruby><rb>恋文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>を出した。「いつもの方の所へね。……これが駕籠賃、これが使い賃、これが向こうのお屋敷の、若党さんへの心付け」

「これはこれはいつもながら。……お気の付くことでございます。……そこで益〻ご繁昌」

「<ruby><rb>冗</rb><rt>むだ</rt></ruby>をいわずと早くおいでな」

喜介は門を飛び出した。お色は両国を渡って行った。「春の海<ruby><rb>終日</rb><rt>ひねもす</rt></ruby>のたりのたり<ruby><rb>哉</rb><rt>かな</rt></ruby>」……「海」を「河」に置き代えよう。「春の河終日のたりのたり哉」まさに隅田がそうであった。おりから水は上げ潮で河幅一杯に満々と、妊婦の腹のように膨れていた。荷足、帆船、<ruby><rb>櫂小船</rb><rt>かいこぶね</rt></ruby>、水の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちらば</span>っていた。両岸の家並が水に映り、そこだけ影がついていた。

「いい景色、嬉しいわね」お色は<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>と河を見た。「まるでお湯のように見えるじゃあないの」――嬉しい時には何も彼も、水さえ湯のように見えるものであった。「おや都鳥が浮いているよ。可愛いわねえ、有難うよ」またお色は礼をいった。嬉しい時には有難く、有難い時には礼をいう。これは大変自然であった。そこでお色は橋を越した。まだ広小路は<ruby><rb>午前</rb><rt>おひるまえ</rt></ruby>のことであんまり人が出ていなかった。それがまたお色には嬉しかった。芝居、見世物の小屋掛けからは、稽古囃しが聞こえて来た。

横へ<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れると半太夫茶屋で、ヒラリと渋染めの<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を潜った。

「おやお色さん、早々と」<ruby><rb>女将</rb><rt>おかみ</rt></ruby>が驚いて顔を長くした。眉を落とした<ruby><rb>中年増</rb><rt>ちゅうどしま</rt></ruby>唇から真っ白い歯を見せた。

「さあお通り。……後からだろうね？」

ヒョイと<ruby><rb>母指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>を出して見せた。

「私今日は嬉しいのよ」お色はトンと店へ上がった。

「そうだろうね。嬉しそうだよ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>とご馳走を食べるよ」

「<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の肴で間に合うかしら」

「そうして今日は三味線をひくわ」

「一の糸でも切るがいいよ。身受けされるっていうじゃあないか」

「その身受けが助かったのよ」

いつもの部屋へ通って行った。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちんまり</span>と坐って考え込んだ。

「私あの人を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>め殺してやるわ」

恐ろしいことを考え出した。

「逢い戻り！　いいわねえ」――いいことばかりが考えられた。「初めて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あの</span>人と逢うようだわ」自分で自分の胸を抱いた。ちょうど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あの</span>人に抱かれたように。「だが何んだか心配だわ」今度は少し心配になった。「あの人何んておっしゃるだろう」これはちょっと問題であった。「のっけに私はこういうわ。もういいのよ。済んだのよ。お<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>に行かなくってもいいのだわ」すると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あの</span>人おっしゃるかも知れない。「お色、大変気の毒だが、おれには他に<ruby><rb>情婦</rb><rt>おんな</rt></ruby>が出来たよ」……厭だわねえ、困っちまうわ。彼女は本当に困ったように部屋の中をウロウロ見た。「おやこの部屋は四畳半だわ」毎々通る部屋だのに、彼女は初めて気が附いたらしい。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ああでも</span>ないと四畳半！　いいわねえ。嬉しいわ」嬉しい方へ考えることにした。

「でも随分待たせるわねえ」

まだ十分しか待たないのに。

床に<ruby><rb>海棠</rb><rt>かいどう</rt></ruby>がいけてあった。春山の<ruby><rb>半折</rb><rt>はんせつ</rt></ruby>が懸かっていた。<ruby><rb>残鶯</rb><rt>ざんおう</rt></ruby>の<ruby><rb>啼音</rb><rt>なきね</rt></ruby>が聞こえて来た。次の部屋で足音がした。

「いらっしゃったか、やっとのこと」彼女は急いで居住居を直した。だが足音は引っ返した。

「莫迦にしているよ。人違いだわ」彼女はだんだん不機嫌になった。

長いこと待たなければならなかった。女中が茶を<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れて持って来た。

でもとうとうやって来た。弓之助でなくて喜介であった。

「どうもお色さんいけません。昨日お出かけになったまま、今日まだお帰りにならないそうで」

喜介の<ruby><rb>報告</rb><rt>しらせ</rt></ruby>はこうであった。お色は一時に気抜けした。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と首を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うな</span>垂れた。

両国橋の乞食の群

<ruby><rb>女将</rb><rt>おかみ</rt></ruby>が声を掛けたのに、ろくろく返事をしようともせず、お色はフラリと茶屋を出た。同じ道を帰って行った。

「案じた通りだ、出来たんだわ、ええそうよ、ほかに女が」まず彼女はこう思った。「そういうものだわ。男というものは」別れ話を持ち出したのが、彼女自身だということを、彼女はここで忘れていた。

「何んだか眼の前が真っ暗になったわ」両国橋へ差しかかった。橋の欄干へ身をもたせた。「河なものかまるで<ruby><rb>溜</rb><rt>ため</rt></ruby>だわ……！」隅田川の風景も、もう彼女には他人であった。「きっと河は深いんだろうねえ」ゾッとするようなことを考えた。「身を投げたらどうだろう？」死んでからのことが考えられた。「あの人泣いてくれるかしら？」決して泣くまいと決めてしまった。「では随分つまらないわねえ」<ruby><rb>手頼</rb><rt>たよ</rt></ruby>りなくてならなかった。

「ドボーンと<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>が身を投げたら、誰か助けてくれるかしら。そうよ今は昼だから。助けてくれたその人が、あの方だったらいいのにねえ」

ダラリと袖を欄干へ垂らし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span><ruby><rb>河面</rb><rt>かわも</rt></ruby>を眺めやった。やはり都鳥が浮かんでいた。やはり舟がとおっていた。皆々他人であった。急に<ruby><rb>眼頭</rb><rt>めがしら</rt></ruby>が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むず</span><ruby><rb>痒</rb><rt>がゆ</rt></ruby>くなった。眼尻がにわかに熱を持って来た。ボッと両の眼が霞んで来た。瞳へ<ruby><rb>紗</rb><rt>しゃ</rt></ruby>でも張られたようであった。家々の形が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひん</span>曲がって見えた。見える物がみんな遠く見えた。そうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みんな</span>濡れて見えた。

涙を透して見る時は、すべてそんなように見えるものであった。

体の筋でも抜かれたように、グンニャリとした歩き方で、お色は橋を向こうへ越した。すぐ人波に<ruby><rb>渦</rb><rt>ま</rt></ruby>き込まれた。

お色の<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>っていた欄干から、二間ほど離れた<ruby><rb>一所</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>に、五、六人の<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>が<ruby><rb>集</rb><rt>たか</rt></ruby>っていた。往来の人の袖に縋り、<ruby><rb>憐愍</rb><rt>あわれみ</rt></ruby>を乞う<ruby><rb>輩</rb><rt>やから</rt></ruby>であった。

<ruby><rb>一個</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>の手ごろの四角い石と、十個の小さい円石とで、一人の乞食が変なことをしていた。

やや離れた欄干に倚り、それを見ている老武士があった。編笠で顔を隠しているので何者であるかは解らなかった。

乞食は角石を右手へ置いた。それから小石を三個だけ、その左手へタラタラと並べた。

老武士が口の中で呟いた。

「銅銭会茶椀陣、その変格の<ruby><rb>石礫陣</rb><rt>せきれきじん</rt></ruby>。……うむ、今のは争闘陣だ」

乞食はバラバラと石を崩した。角石をまたも右手へ置き、その左手へ二つの小石を、少し斜めにピッタリと据えた。それから指で二の字を描いた。

と、老武士は口の中でいった。「<ruby><rb>雙龍</rb><rt>そうりゅう</rt></ruby>玉を争うの陣だ」

すると<ruby><rb>塊</rb><rt>かた</rt></ruby>まっていた数人の乞食の、その一人が手を延ばし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ツ</span>と一つの小石を取った。それを唇へ持って行った。それから<ruby><rb>以前</rb><rt>もと</rt></ruby>の場所へ置いた。他の乞食が同じことをした。次々に小石を取り上げた。それを唇へ持って行った。それから<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>の場所へ置いた。「茶を喫するという意味なのだ」老武士は口の中で呟いた。「雙龍玉を争うにより、その争闘に加わるよう。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よろしい</span>といって承知した意味だ。ふむ、何かやると見える」

乞食は手早く石を崩した。小石ばかりを三個並べた。その後へ二つ円を描いた。

「ははあ同勢三百人か」口の中で老武士はいった。

乞食はまたも石を崩した。角石を取って右手へ置いた。一個の小石を左手へ置いた。その左手へ四個の小石を、四角形に置き並べた。そうして四角形の石の周囲へ、指で四角の線を引いた。

と、老武士は呟いた。「これ患難<ruby><rb>相扶陣</rb><rt>そうふじん</rt></ruby>だ。今度の争闘は患難だによって、<ruby><rb>相扶</rb><rt>あいたす</rt></ruby>けよという意味だ」

乞食はまたも石を崩した。それから再び石を並べた。三個の小石を左手に並べ、三個の小石を右手へ並べた。中央へ二個の小石を置いた。

「これすなわち梅花陣だ」

周易の名家加藤左伝次

乞食は左右の手を延ばし、左右六個の石を取った。

「ははあ、花だけ残したな」

急に乞食は二個の小石へ、さらに一個の石を加えた。その左右に三個ずつ六個の小石を置き並べた。

「これはほかならぬ<ruby><rb>河川陣</rb><rt>かせんじん</rt></ruby>だ」

乞食はまたもや石を崩した。十個の小石を一列に並べた。その中央へ角石を置いた。

「これはほかならぬ閂陣。戸という文字を暗示したものだ。三つを合わせると花川戸。ははあこれは地名だな」

乞食はまたも石を崩した。小石を五個一列に並べた。そうして指で「刻」の字を書いた。

「うん、これは五<ruby><rb>更</rb><rt>こう</rt></ruby>という意味だ」老武士は口の中で呟いた。

乞食の石芸はこれで終った。人の往来が<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しくなった。乞食達は袖へ縋り出した。いつの間にか皆見えなくなった。

老武士は悠然と欄干を離れた。橋の袂に駕籠屋がいた。

「駕籠屋」と老武士は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さし</span>招いた。「<ruby><rb>数寄屋橋</rb><rt>すきやばし</rt></ruby>までやってくれ。うむ、行く先は北町奉行所」

すぐに駕籠は走り出した。

お色は俯向いて歩いていた。顔を上げると屋敷があった。門に看板が上がっていた。<ruby><rb>地泰天</rb><rt>じたいてん</rt></ruby>の<ruby><rb>卦面</rb><rt>けめん</rt></ruby>を上部に描き、周易活断、績善堂、加藤左伝次と記されてあった。

当時易学で名高かったのは、新井白峨と平沢左内、加藤左伝次は左内の高弟、師に譲らずと称されていた。左内の専門は人相であったが、左伝次の専門は易断であった。百発百中と称されていた。

お色は思わず足を止めた。

「あのお方のお心持ち、ちょっと占って貰おうかしら？」

で門内へはいっていった。すぐ溜り場へ通された。五、六人の人が待っていた。一人一人奥へ呼び込まれた。嬉しそうな顔、悲しそうな顔、いろいろの顔をして戻って来た。やがてお色の番が来た。お色は奥の部屋へ行った。部屋の正面に床の間があった。脇床の違い棚に積まれてあるのは、<ruby><rb>帙入</rb><rt>ちつにゅう</rt></ruby>の古書や巻軸であった。白熊の毛皮が敷いてあった。その上に端然と坐っているのは、三十四、五の人物であった。総髪の裾が両肩の上に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆるやか</span>に波を打っていた。その顔色は陶器のようで、ひどく冷たくて蒼白かった。眼の形は<ruby><rb>鮠</rb><rt>はや</rt></ruby>のようであった。眼尻が長く切れていた。<ruby><rb>耳髱</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>へまで届きそうであった。その左の目の瞳に近く、ポッツリ星がはいっていた。それが変に気味悪かった。黒塗りの見台が置いてあった。<ruby><rb>算木</rb><rt>さんぎ</rt></ruby>、<ruby><rb>筮竹</rb><rt>ぜいちく</rt></ruby>が載せてあった。その人物が左伝次であった。茶無地の被布を纏っていた。

お色は何がなしにゾッとした。凄気が逼るような気持ちがした。遠く離れて膝を突いた。それからうやうやしく辞儀をした。

と、左伝次は<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃく</span>った。

「恋だな、お娘ご<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>ったろう？」

「えっ」とお色は度胆を抜かれた。

「もっとお進み、見てあげよう」左伝次の声は乾いていた。枯れ葉が風に鳴るようであった。やはり変に不気味であった。「年は<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>だ、男の年は？」

「は、はい、年は二十三で」

「妻はあるかな、その男には？」

「いえ、奥様はございません」

「ナニ、奥様？　うむそうか。相当家柄の侍だな？」

「旗本衆のご次男様で」つい釣り込まれていってしまった。

「で、何を見るのかな？」

「はい、そのお方のお心持ちが……」赭くなっていい淀んだ。

「変わったか変わらないか見るのであろう？」

「は、はい、さようでございます」

「よし」というと筮竹を握った。「よいか、見る人と見られる人との精神が合盟一致した時、易というものは的中する。で、お前さんも一生懸命におなり」

お色は形を改めた。

「ヤ――ッ」と鋭い掛け声が、左伝次の口から<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>り出た。「ヤーッ、ヤーッ、ヤーッ、ヤーッ」ドン底へしみるような声であった。左伝次の額からは汗が流れた。ザラザラザラザラと筮竹が鳴った。

お色は心が<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>となった。これまでも易は見て貰ったが、こんな<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい立てかたは、一度も経験したことがなかった。「さすがは名題の加藤先生。ああこの易はきっと中る」お色は突嗟に信じてしまった。

左伝次は筮竹を額へあてた。パチパチパチパチパチ。パチパチパチパチ。力をこめて<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね上げた。と、算木へ手を掛けた。カタカタと算木が返された。ホーッと一つ<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をすると、ザラザラと筮竹を筒の中へ入れた。それから算木を睨み付けた。

お色は思わず呼吸を呑んだ。

死中ただ一活路

「おお、お娘ご、これはいけない」気の毒そうに左伝次はいった。

「あのそれではそのお方の、お心持ちが変わったので？」お色はブルブルと<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え出した。

「いや心は変わっていない。……もっと大変なことがある」

「え、そうして大変とは？」

「死地にはいっておられるのだ」

「まあ」と叫ぶとフラフラと立ったが、すぐベッタリと坐ってしまった。

「では、お命があぶないので？」

「うむ」と左伝次は顔を曇らせ、「しかもそれが<ruby><rb>冤罪</rb><rt>えんざい</rt></ruby>でな」

「どこにおられるのでございましょう？」

「さあ、そこまでは解らない」左伝次はお色を刺すように見た。「だがただ一つ道がある。そうだその人を救う道がな」

「どうぞお聞かせくださいまし」お色はズルズルと膝を進めた。「先生お願いでございます」

「医は肉体の<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>を<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>し、易は精神の病を癒す。いわば<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どっち</span>も仁術だ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>の力で出来るだけの事は骨を折ってしてあげよう。その人を救う唯一の道とは、その人と一番親しい人がさらに他の人に正直に事情を話して救いを乞う時、事情を話されたその人が、事件を解決して救うというのだ。易の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に現われている。詳しく分解して話してもよいが専門の言葉で説明しても、お前さんには解るまい。ところでその人と親しい人とは、今の場合お前さんだ。さらに他の人とは誰のことか。これはどうやら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>らしい。そこでお前さんが正直に今度の事情を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>に話したら、あるいはこの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わし</span>がその人を、救い出すことが出来るかも知れない。もちろん<ruby><rb>確実</rb><rt>たしか</rt></ruby>とはいわれないがな」

「はい有難う存じます。それではお話しいたします。どうぞお聞きくださいまし。あの<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>は浅草の、<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>茶屋のお色でございます」

――それから田沼に懇望され、その<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>になろうとしたこと、可愛い恋人と切れたこと、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>になることが止めになったこと、今日呼び出しを掛けたところ、恋人が昨日屋敷を出たきり、今に帰って来ないこと――一切合切打ち明けた。

左伝次は黙って聞いていたが、その顔には曖昧な、混乱したものが現われた。

「その人の名は何んというな？」やがて左伝次はこう訊いた。

「白旗弓之助様と申します」

「うむ、お旗本で白旗か……。小左衛門殿のご縁辺かな？」

「そのお方のご次男様で」

「では確か北お町奉行、曲淵様とはご親戚のはずだが」

「はい叔父甥の仲だそうで」

左伝次は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と考え込んだ。「昨日から行方が不明なのだな？」

「はいさようでございます」

ここで左伝次はまた考えた。

「弓之助殿のご様子は？　つまり容貌風采だな」

「色白の<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>、中肉<ruby><rb>中身長</rb><rt>ちゅうぜい</rt></ruby>でございます」

「うむ、そうして腰の物は？」

「あの細身の蝋鞘の大小……」

「うむ、そうしてご定紋は？」

「はい丸に<ruby><rb>蔦</rb><rt>つた</rt></ruby>の葉で」

すると左伝次はヒョイと立った。

「お色殿ちょっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こっち</span>へおいで」

障子を開けると縁へ出た。

午後の陽が中庭に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたっ</span>ていた。

お色は相手の気勢に引かれ、立ってその後へ従った。

縁は廻廊をなしていた。その外れに離れ座敷があった。不思議なことには、昼だというのに、雨戸がピッタリ閉まっていた。離れ座敷の前までゆくと、左伝次は入り口の戸を開けた。最初の部屋は暗かった。<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>の襖をサラリと開けた。

その部屋には<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>があった。<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>がボッと点っていた。

途方もねえ目違いさ

一人の武士が四筋の鎖で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんじ</span><ruby><rb>搦</rb><rt>がら</rt></ruby>みに<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>められていた。畳の上に転がっていた。それを五人の異形の男女が、真ん中にして<ruby><rb>囲繞</rb><rt>とりま</rt></ruby>いていた。一人は僧侶一人は六部、一人は遊び人、一人は武士もう一人は振り袖の娘であった。娘は<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を掻いていた。そうして弓の折れを持っていた。

左伝次とお色の姿を見ると彼らは一斉に顔を上げた。

と、左伝次はお色へいった。

「お色殿、この方かね」搦められた武士を指さした。

ヒョイとその武士が顔を上げた。お色はやにわに、<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>り付いた。

「弓様！　弓様！　お色でございます！」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひとしきり</span>部屋の中は静かであった。白旗弓之助はお色を見た。

「お色ではないか、どうして来た」驚いたような声であった。

「神道の兄貴、どうしたんだい？」

ややあって娘が――女勘助が、変な顔をして声を掛けた。

すると左伝次は苦笑いをした。

「飛んだ人違いだ。偉いことをやった。おいおい早く鎖を解きねえ」

鼠小僧外伝が、ガラガラと鎖を解き放した。と鎖は柱の中へ、<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>られたように飛び込んで行った。

「おい貴様達、謝まってしまえ。詳しい話はそれからだ」易学の大家加藤左伝次、本名神道徳次郎はピタリと畳へ端坐した。それから両手を膝の前へ突いた。

「いや、白旗弓之助様、とんだ<ruby><rb>粗忽</rb><rt>そこつ</rt></ruby>を致しました。まずお許しくださいますよう」恐縮し切って辞儀をした。

「おいおい貴様達このお方はな、お旗本白旗小左衛門様の、ご次男にあたられる弓之助様だ、曲淵様の甥ごだよ」

「へえ」と五人は後へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いざっ</span>た。

「銅銭会員じゃあなかったのか？」火柱夜叉丸が眼を丸くした。

「うん、途方もねえ目違いさ」

「だが、それにしてはなんのために、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>ここへ忍んだんだろう？」女勘助が疑がわしそうにいった。

「そうだ、そいつがわからねえ」稲葉小僧新助がいった。

「おれはどうでもこのお侍は、銅銭会員だと思うがな」鼠小僧外伝がいった。「そうでなかったら責められないうちにそいつを弁解するはずだが」紫紐丹左衛門は腕を組んだ。

「本当にそうだ、そいつが解らねえ。そいつをハッキリいってさえくれたらおれたち殴るんじゃあなかったのに」弓の折れを指先で廻しながら、女勘助は眼を光らせた。

「いや、いずれその事については、白旗様からいい訳があろう。とにかくおれの見たところでは、銅銭会員じゃあなさそうだ」神道徳次郎はいい切った。

「さて白旗弓之助様、昨夜はどういう覚し召しで、ここへお忍びなされましたな？」

「それよりおれには聞きたいことがある。部屋の四隅の柱から、四本の鎖が飛び出して来たが、あれはなんという兵法だな？」これが弓之助の言葉であった。

六人の者は眼を見合わせた。

「おい兄貴<ruby><rb>迂散</rb><rt>うさん</rt></ruby>だぜ」女勘助が怒るようにいった。「肝腎のいい訳をしねえじゃあねえか」

「待て待て」と徳次郎は叱るように。

「宝山流の振り杖から、私が考案致しました。捕り方の一手でございますよ」

「あれにはおれも降参したよ」弓之助は妙な苦笑いをした。「人間が斬ってかかったのなら、大して引けも取らないが、どうもね、鎖じゃあ相手にならねえ。……そこでもう一つ訊くことがある。紙に書かれた『川大丁首』いったいこいつはどういう意味だ？」

「それがおわかりになりませんので？」徳次郎は、いくらか探るように訊いた。

銅銭会縁起録内容

「随分考えたが解らなかった」弓之助はまたも苦笑をし、「そこにおいでの女勘助殿に、痛しめられている間中、その事ばかりを考えていたが、無学のおれには解らなかったよ」女勘助をジロリと見た。

女勘助は横を向き、プッと口を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とがらせ</span>た。

「それで初めてあなた様が、銅銭会員でないことが、ハッキリ証拠立てられました」徳次郎は一つ頷いたが、

「あれは隠語でございます。銅銭会の隠語なので。「順天行道」と申しますそうで。天に<ruby><rb>順</rb><rt>したが</rt></ruby>って道を行なう。こういう意味だそうでございます。つまり彼らの標語なので。「<ruby><rb>関開路現</rb><rt>かんをひらきみちをあらわす</rt></ruby>」こんな標語もございます。そうしてこれを隠語で記せば「<ruby><rb>並井足玉</rb><rt>へいせいそくぎょく</rt></ruby>」となりますそうで」

「ははあなるほど、そうであったか。扁を取ったり<ruby><rb>旁</rb><rt>つくり</rt></ruby>を取ったり、色々にして造った字だな。いかさまこれでは解らないはずだ」

「さてそこで白旗様、どうして昨夜はこの屋敷へ、忍び込まれたのでございますかな？」

するとクルリと弓之助は、女勘助の方へ体を向けた。

「おい勘助、偉いことをやったな。森の中でよ、社の森で」

「えっ」と勘助は胸を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らせた。「へえ、お前さんご存知で？」

「あんまり見事な<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>だったので、後からこっそり<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>て来た奴さ」

「あっ、さようでございましたか」女勘助は手を拍った。「そこでこの屋敷へ忍び込んだので？」

「そうさ天明の六人男、そいつが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みんな</span>揃ったとあっては、ちょっと様子も見たいからな」「ああこれで胸に落ちた」こう紫紐丹左衛門がいった。

北町奉行所の役宅であった。

その一室に坐っているのは、奉行曲淵甲斐守であった。銅銭会縁起録が開かれたまま、膝の上に乗っていた。

「<ruby><rb>往昔</rb><rt>おうせき</rt></ruby>福建省福州府、<ruby><rb>浦田</rb><rt>ほだ</rt></ruby>県九連山山中に、少林寺と称する大寺あり。堂塔<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>樹間に聳え、人をして崇敬せしむるものあり。<ruby><rb>達尊爺々</rb><rt>たつそんやや</rt></ruby>の創建せるも技一千数百年の星霜を経。僧侶数百の武に長じ、軍略剣法方術に達す。

<ruby><rb>康凞</rb><rt>こうき</rt></ruby>帝の治世に<ruby><rb>西蔵</rb><rt>チベット</rt></ruby>叛す。官軍ことごとく撃退さる。<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って皇帝諸国に令し、賊滅するものを求めしむ。少林寺の豪僧百二十八人、招に応じて難に<ruby><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby>く。国境に至りて大いに戦い、敵国をして降を乞わしむ。皇帝喜び賞を与え僧を少林寺に帰さんとす。<ruby><rb>隆文耀</rb><rt>りゅうもんよう</rt></ruby>、<ruby><rb>張近秋</rb><rt>ちょうきんしゅう</rt></ruby>、二人の大官皇帝に<ruby><rb>讒</rb><rt>ざん</rt></ruby>し、少林寺の僧を殺さしむ。

兵を発して少林寺を焼く、<ruby><rb>蔡徳忠</rb><rt>さいとくちゅう</rt></ruby>、<ruby><rb>方大洪</rb><rt>ほうたいこう</rt></ruby>、<ruby><rb>馬超興</rb><rt>ばちょうこう</rt></ruby>、<ruby><rb>胡徳帝</rb><rt>ことくてい</rt></ruby>、<ruby><rb>李式開</rb><rt>りしきかい</rt></ruby>の五人の僧、<ruby><rb>兵燹</rb><rt>へいせん</rt></ruby>をのがれて諸国を流浪し同志を語らい復讐に努む。すなわち清朝を仆さんとするなり。この結社を三合会また一名銅銭会と称す」

これがきわめて簡単な、銅銭会の縁起であって、今日に至るまでの紆余曲折が詳しく<ruby><rb>書物</rb><rt>ほん</rt></ruby>には記されてあった。

「公所（大結社）」のことや「会員」のことや「入会式」のことや「誓詞」のことや「諸律法」のことや「十禁」の事や「十刑」の事や「会員証」のことや「<ruby><rb>造字</rb><rt>つくりじ</rt></ruby>」のことや「隠語」のことや「符牒」のことや「事業」の事や「海外における活動」のことについても、かなり詳しく記されてあった。

しかし、将軍家紛失に関しての、暗示らしいものは記されてなかった。

とまれ非常な大結社で、支那の政治にも戦争にも、また外交の方面にも、偉大な潜勢力を持っていることが、記録によって<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われた。のみならず<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>や南洋にある、百万近くの支那人のうち、過半以上は会員として、働いていることも記されてあった。

それと同時に会員のうちには、不良分子も潜在していて、悪いことをしているということも、支那人以外にも会員があって、気脈を通じているということも、相当詳しく記されてあった。

京師殿と甲斐守

「恐らく今度の事件なるものは、日本における会員の、不良分子の<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>であろうが、どういう径路で将軍家をどうして奪ったかわからない。どこに将軍家を隠しているか、それとも無慚に<ruby><rb>弑</rb><rt>しい</rt></ruby>したか、これでは一向見当が付かない。……一人でもよいから銅銭会員をどうともして至急捕えたいものだ」

甲斐守は沈吟した。

その時近習がはいって来た。

「京師殿と仰せられるご老人が、お目にかかりたいと申しまして……」

「何、京師殿、それはそれは。<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>にここへお通し申せ」

近習と引き違いにはいって来たのは、両国橋にいた老人であった。

「おおこれは京師殿」

「甲斐守殿、いつもご健勝で」

二人は叮嚀に会釈した。

「さて」と京師殿は話し出した。「銅銭会の会員ども、今夜騒動を始めますぞ」

「何？」と甲斐守は膝を進めた。「銅銭会の会員がな？　してどこで？　どんな騒動を？」

「今夜五更花川戸に集まり、ある家を襲うということでござる。同勢おおかた三百人」

両国橋での出来事を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かいつまん</span>で京師殿は物語った。

「銅銭会員にご用ござらば、即刻大至急にご手配なされ、一網打尽になさるがよかろう」

「よい事をお聞かせくだされた。至急手配を致しましょう」

「何か柳営に大事件が、勃発したようでございますな」

「さよう、非常な大事件でござる。実は一昨夜上様が……」

「いやいや」と京師殿は手を振った。

「愚老は浮世を捨てた身分、直接柳営に関することは、どうぞお聞かせくださらぬよう」

「いかさまこれはごもっともでござる」

そこで甲斐守は沈黙した。

間もなく京師殿は飄然と去った。

さてその夜のことであった。

花川戸一帯を修羅場とし、奇怪な捕り物が行われた。

歴史の表には記されてないが、柳営秘録には相当詳しく記されてあるに相違ない、この捕り物があったがため幕府の政治が一変し、<ruby><rb>奢侈</rb><rt>しゃし</rt></ruby><ruby><rb>下剋上</rb><rt>げこくじょう</rt></ruby>の風習が、勤倹質素尚武となり、幕府瓦壊の運命を、その後も長く持ち<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こたえ</span>たのであった。

この捕り物での特徴は、捕られる方でも、捕る方でも、一言も言葉を掛け合わなかったことで、八百人あまりの大人数が、長い間格闘をしながらも、花川戸一帯の人達は、ほとんど知らずにおわってしまった。しかも内容の重大な点では、慶安年間由井正雪が、一味と計って徳川の<ruby><rb>社稷</rb><rt>しゃしょく</rt></ruby>に、大鉄槌を下そうとした、それにも増したものであった。捕り方の人数六百人！　この一事だけでも捕り物の、いかに大袈裟なものであり、いかに大事件であったかが、想像されるではあるまいか。一口にいえば銅銭会員と幕府の捕り方との格闘なのであった。

その夜はどんよりと曇っていた。月もなければ星もなかった。家々では悉く戸を閉ざし、大江戸一円静まり返り<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>一つ見えなかった。

と、闇から生まれたように、浅草花川戸の<ruby><rb>一所</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>に、十人の人影が現われた。一人の人間を真ん中に包み丸く<ruby><rb>塊</rb><rt>かた</rt></ruby>まって進んで来た。一軒の屋敷の前まで来た。黒板塀がかかっていた。門がピッタリ閉ざされていた。屋根の上に<ruby><rb>仄々</rb><rt>ほのぼの</rt></ruby>と、綿のようなものが集まっていたがどうやら八重桜の花らしい。

その前で彼らは立ち止まった。

とまた十人の一団が一人の人間を真ん中に包み、闇の中から産まれ出た。それが屋敷へ近付いて来た。先に現われた一団と後から現われた一団とは、屋敷の門前で一緒になった。互いに何か囁き合った。わけのわからない言葉であった。

慶安以来の大捕り物

「<ruby><rb>背</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に<ruby><rb>幾多</rb><rt>いくた</rt></ruby>の宝玉ありや？」

「一百八」

「途上虎あり、いかにして来たれる？」

「我すでに地神に請えり、全国通過を許されたり」

「汝橋を過ぎたるや否や？」

「我過ぎたり<ruby><rb>矣</rb><rt>い</rt></ruby>」

「いずれの橋ぞ？」

「二<ruby><rb>板</rb><rt>はん</rt></ruby>の橋」

「これすなわち二板橋、何ゆえに二板の橋というや？」

「<ruby><rb>明末</rb><rt>みんまつ</rt></ruby>に<ruby><rb>清</rb><rt>しん</rt></ruby>これを<ruby><rb>毀</rb><rt>こぼ</rt></ruby>ち、なおいまだ修せられず」

「何んの木の橋ぞ？」

「否々これ樹板にあらず、左は黄銅、右は鉄板」

「誰かこれを造れるものぞ？」

「朱開、及び朱光の徒」

「二板橋の起原<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>？」

「少林寺<ruby><rb>焚焼</rb><rt>ふんしょう</rt></ruby>され、五祖叛迷者に<ruby><rb>傷害</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>されんとするや、<ruby><rb>達尊爺々</rb><rt>たつそんやや</rt></ruby>験を現わし、黄雲を変じて黄銅となし黒雲を変じて鉄となす」

こんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>の言葉であった。はたして会員か会員でないかを、問答によって確かめたのであった。またも人影が産まれ出た。同じような陣形であった。門前で問答が行われた。続々人影が現われた。みんな門前へ集まって来た。そのつど問答が行われた。

銅銭会員三百人が、すっかり門前へ集まったのであった。

と、五、六人の人影が、スルスルと塀の上へ上って行った。音もなく門内へ飛び下りた。門を開けようとするのであろう。だが門は開かなかった。そうして物音もしなかった。人は帰って来なかった。何んの音沙汰もしなかった。

いつまでも寂然と静かであった。

十人の人影が塀を上った。それから向こうへ飛び下りた。何んの物音も聞こえなかった。そうして門は開かなかった。十人の者は帰って来なかった。何んの音沙汰もしなかった。いつまでも寂然と静かであった。

銅銭会員は動揺し出した。口を寄せ合って<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

「敵に用意があるらしい」不安そうに一人がいった。

「殺されたのか？　<ruby><rb>生擒</rb><rt>いけど</rt></ruby>られたのか？」

「どうして声を立てないのだろう？」

彼らの団結は崩れかかった。右往左往に歩き出した。

「門を破れ。押し込んで行け」

「いや今夜は引っ返したがいい」

彼らの囁やきは葉擦れのようであった。

「あっ！」と一人が絶叫した。「あの人数は？　包囲された！」

まさしくそれに相違なかった。往来の前後に黒々と、数百の人数が<ruby><rb>屯</rb><rt>たむ</rt></ruby>ろしていた。隅田川には人を乗せた、無数の小舟が浮かんでいた。露路という露路、小路という小路、ビッシリ人で一杯であった。捕り方の人数に相違なかった。騎馬の者、<ruby><rb>徒歩</rb><rt>かち</rt></ruby>の者、……八州の捕り方が向かったのであった。

銅銭会員は一団となった。やがて十人ずつ分解された。そうして前後の捕り方に向かった。

こうして格闘が行われた。

全く無言の格闘であった。だがどういう理由からであろう？

官の方からいう時は、<ruby><rb>御用提燈</rb><rt>ごようちょうちん</rt></ruby>を振り<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>したり、御用の声を響かせたりして、市民の眼を覚ますことを、極端に恐れ遠慮したからであった。捕り物の真相が伝わったなら、――すなわち将軍家紛失の、その真相が伝わったなら、どんな騒動が起こるかも知れない。それを非常に案じたからであった。

だがどうして銅銭会員は悲鳴呶号しなかったのであろう？　それは彼らの「十禁」のうちに、こういうことがあるからであった。

「究極において悲鳴すべからず。これに<ruby><rb>叛</rb><rt>そむ</rt></ruby>くものは九指を折らる」

九指とは九族の<ruby><rb>謂</rb><rt>いい</rt></ruby>であった。

春の闇夜を数時間に渡って、無言の格闘が行われた。

その結果は意外であった。銅銭会員は全部死んだ。すなわちある者は舌を噛み、またある者は水に投じ、さらにある者は斬り死にをした。

将軍家柳営へ帰る

この間も屋敷の表門は、<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>されたまま開かなかった。

捕り物がすっかり片付いた時、始めて門はひらかれた。

驚くべき光景がそこにあった。銅銭会員十六人が、<ruby><rb>髪縄</rb><rt>けなわ</rt></ruby>で絞首されていた。髪縄の一端には分銅があり、他の一端は門の柱の、<ruby><rb>刳</rb><rt>えぐ</rt></ruby>り穴の中に没していた。

十六人のうち三人が、辛うじて蘇生をすることが出来た。その三人の白状によって、事件の真相が明瞭になった。

その夜の暁千代田城内には、驚くべき愉快な出来事があった。いつもの将軍家の寝室に、紛失したはずの将軍家が、ひどく<ruby><rb>健康</rb><rt>じょうぶ</rt></ruby>そうな顔色をして、グッスリ寝込んでいたものである。

眼を覚ますと家治はいった。

「おれは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>と<ruby><rb>書物</rb><rt>ほん</rt></ruby>を読んだよ。実際浮世にはいい<ruby><rb>書物</rb><rt>ほん</rt></ruby>があるなあ。はじめておれは眼が覚めたよ。さてこれからは改革だ。政治の改革、社会の改革、暮しいい浮世にしなければならない」

「しかし上様には今日まで、どこにおいででございましたな？」老中水野忠友が聞いた。

「うん、越中の屋敷にいたよ」

「ははあ松平越中守様の？」

「うん、そうだよ、越中の屋敷に」

「どうしてどこからお<ruby><rb>出</rb><rt>いで</rt></ruby>になりました？」

「それがな、本当に<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>だったよ。おれが後苑を歩いていると、素的な別嬪が手招きしたものさ。でおれは<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。すると大奥と天主台の間に厳封をした井戸があろう。非常な場合に開くようにと、東照神君から遺言された井戸だ。そこまで行くとその別嬪が、蓋を取ってヒョイとはいった。オヤとおれは驚いて、井戸を覗くと縄梯子がある。井戸ではなくて間道だったのさ。こいつ面白いと思ったので梯子を伝わって下りたものさ。すると底に女がいた。それから五人の男がいた。六部と<ruby><rb>破落戸</rb><rt>ごろつき</rt></ruby>と<ruby><rb>売卜者</rb><rt>ばいぼくしゃ</rt></ruby>と、<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>と坊主とがいたってわけだ。すぐにおれは取っ掴まってしまった。でおれは仰天して助けてくれーッと叫んだものさ。だがすぐ<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>を<ruby><rb>篏</rb><rt>は</rt></ruby>められてしまった。そうしてとうとう引っ担がれてしまった。長い間横穴を走ったっけ。それでもとうとう外へ出たよ。駕籠が一挺置いてあった。いやどうもそれが<ruby><rb>穢</rb><rt>きたな</rt></ruby>い駕籠でな、おれは産まれて初めて乗ったよ。下ろされた<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に屋敷があった。黒板塀に門があって、八重桜の花が咲いていたっけ。そこで休憩したものさ。一杯お茶を貰ったが、ひどく咽喉が乾いていたので、途方途徹もなくうまかった。そこでまた駕籠へ乗せられたものさ。今度は立派な駕籠だった。大名の乗る駕籠だった。そうして武士どもが三十人も、駕籠の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まわり</span>を警護してくれた。でようやく安心したものさ。着いた所が越中の屋敷だ。あの<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>の越中めが、いよいよ真面目の顔をして『上様ようこそ渡らせられました。いざいざ奥へお通り遊ばせ』こういった時にはおれは怒った。

『越中！　お前の<ruby><rb>指金</rb><rt>さしがね</rt></ruby>だな！』すると越中めこういいおった。『上様のお命をお助けしたく、お連れ致しましてございます』とな。そこでおれは怒鳴ってやった。『誰かこのおれを殺そうとするのか？』

『はい上様の寵臣が、ある結社を味方とし、上様を狙っておりますので』

『それでお前が助けたというのか？』

『毒を制するに毒をもってし、ある六人の悪漢を手<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なずけ</span>、お連れ申しましてございます』――で、おれは黙ってしまった。そうして奥座敷へ通って行った。そこに彦太郎がいるじゃあないか。三河風土記を読んでくれた、近習の中山彦太郎がな。おれは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっかり</span>喜んでしまった。風土記の続きが聞きたかったからさ。『おい彦太郎風土記を読め』おれは早速いったものさ。そこで彦太郎め読んでくれたよ」

嬉しい再会

「三河風土記ばかりではなかった。いろいろの<ruby><rb>書物</rb><rt>ほん</rt></ruby>を読んでくれたよ。<ruby><rb>間々</rb><rt>あいだあいだ</rt></ruby>間々には越中めが、世間話をしてくれたっけ。わしは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっかり</span><ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>してしまった。ひどく浮世はセチ辛いそうだな。町人や百姓や武士までが、わしを怨んでいるそうだな。うん、越中めがそういってたよ。わしは最初は疑がったが、しかししまいには信じてしまった。そこでおれは決心したよ。これまでおれを<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつかい</span>にした、悪い家来めを遠ざけて、越中を代わりに据えようとな。……で、ともかくもそんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>で、今朝までおれは越中の屋敷で、暮らしていたというものさ。その今朝越中がこんなことをいった。『結社は退治られてしまいました。もはや安全でございます。お城へお帰り遊ばしませ』そこでまたもや駕籠へ乗り、以前の道を帰って来たのさ……。さあ改革だ！　建て直しだ。いい<ruby><rb>政事</rb><rt>まつりごと</rt></ruby>をしなけりゃならない」

だが不幸にも家治将軍は、その後間もなく<ruby><rb>逝去</rb><rt>せいきょ</rt></ruby>した。田沼主殿頭が<ruby><rb>薬師</rb><rt>くすし</rt></ruby>をして、毒を盛らせたということであるが、真相は今にわからない。

しかし家治の遺志なるものは、幸い実行することが出来た。家治の死後電光石火に、幕府の改革が行われ、田沼主殿頭は失脚し、大封を削られて一万石の、小大名の身分に落とされてしまった。代わって出たのが松平越中守で、老中筆頭の位置に坐り、寛政の治を行うことになった。

青葉の季節が訪ずれて来た。

半太夫茶屋の四畳半で、愉快な<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>が行われていた。

弓之助とお色との<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>であった。

「おいお色、おい女丈夫、お前は命の恩人だぜ」

「そう思ったら邪魔にせずに、<ruby><rb>精々</rb><rt>せいぜい</rt></ruby>これから可愛がるといいわ」

「あの時お前が来なかろうものなら、女勘助っていう奴に、おれはそれこそ殺されたかもしれねえ」

「ご身分を<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>ればよござんしたに」

「莫迦め、そんなことは出来るものか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんじ</span><ruby><rb>搦</rb><rt>がら</rt></ruby>みにされたんだからなあ。おめおめ生け捕りにされた身で、名前や素姓が明されるものか」

「ほんとにそれはそうですわねえ」お色は胸に落ちたらしい。

金魚売りの声が表を通った。燕のさえずりが空で聞こえた。

「六人の奴らどうしたかな？」

ふと弓之助は壊しそうにいった。「江戸にはいないということだが」

「泥棒なんて厭ですわねえ」お色は眉間へ皺を寄せた。

「それもご治世が悪かったからさ。人間いよいよ食えなくなると、どんな事でもやるものだからな」

ちょっと弓之助は感慨に耽った。

「ご治世は変わったじゃあありませんか。越中守様がお乗り出しになり」

「有難いことには変わったね。これから暮らしよくなるだろう。ところでどうだいお前の心は」

「何がさ？」

とお色は<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>そうに訊いた。

「変わったかよ？　変わらないかよ？」

「そうねえ」

とお色は物憂そうにいった。「あなた、お役附きになったんでしょう？」

「越中守様のお引き立てでね」

「権式張らなければいけないわねえ」

「へえ、そうかな、どうしてだい？」

「お役人様じゃあありませんか」

「ほほうお役人というものは、権式張らなけりゃあいけないのかえ」

「みんな威張るじゃあありませんか」

「よし来た、それじゃあおれも威張ろう」

「では、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>はさようならよ」

「おっと、おっと、どういう訳だ？」

「妾威張る人嫌いだからよ」

「俺が」と弓之助はゴロリと左寝の肘を後脳へ<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てた。「威張れるような人間なら、もっと早く役附いていたよ」

「どうしてでしょう？　解らないわ」

「一方で威張る人間は、それ一方では<ruby><rb>諂</rb><rt>へつら</rt></ruby>うからさ」

「ああそうね、それはそうだわ」

「おれの何より有難いのは、<ruby><rb>生地</rb><rt>きじ</rt></ruby>で仕えられるということさ。越中守様の下でなら、お太鼓を叩く必要もなければ怒ってばかりいる必要もない。楽に<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を吐けるというものさ」

この意味はお色にはわからなかった。

「お色、久しぶりで何か弾けよ」

「ええ」といって三味線を取った。「あら厭だ糸が切れたわ」

「三の糸だろう、薄情の証拠だ」

「お気の毒さま、一の糸よ」

「それじゃあいよいよ<ruby><rb>嬶</rb><rt>かかあ</rt></ruby>になれる」

「ゾッとするわ！　田沼の<ruby><rb>爺</rb><rt>じじい</rt></ruby>！」

「何さ、田沼のその位置へ、俺が坐ろうという<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やつ</span>よ」

「まあ」といって三味線を置いた。

「大して嬉しくもなさそうだな」

「<ruby><rb>瞞</rb><rt>だま</rt></ruby>すと妾<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>になるわ！」

二人はそこで寄り添おうとした。有難い事には<ruby><rb>野暮天</rb><rt>やぼてん</rt></ruby>ではなかった。寄り添う代わりに坐り直した。と、お色がスッと立った。裏の障子を引き開けた。眼の前に隅田が流れていた。行き交う船！　夕焼け水！

「ああ私にはあの水が……」湯のようだと彼女はいおうとした。だがそういわなかった。「ああまるで火のようだわ」こう彼女はいったものである。

間もなく季節は真夏に入ろう。恋だって火のように燃えるだろう。だがその次には秋が来よう。結構ではないか実を結ぶ季節だ。

京師殿とは何者であろう？　結局疑問の人物であった。あの有名な天一坊事件、その張本の山内伊賀介、その後身ではあるまいか？　非常な学者だというところから、特に助命して大岡家に預け、幕府執政の機関とし、<ruby><rb>捨扶持</rb><rt>すてぶち</rt></ruby>をくれていたのかもしれない。伊賀介の元の主人といえば、京師の公卿の九条殿であった。