Soranoha

ルネ・クレール私見

ルネ・クレールしけん

伊丹 万作

前書

ルネ・クレールに関する一文を求められたのであるが、由来クレールに関してはほとんどもう語り尽された観がある。しかし考えてみると私には別な見方がないでもない。それを書いて見ようというのであるが自分の仕事のことなどを考えると気恥ずかしくてクレール論などは書けないのがほんとうである。今日はひとつ批評家になつて書いてみようと思う。

ルネ・クレールと喜劇

ルネ・クレールについてまつたく何も知らない人から「ルネ・クレールとはどんな人だ」ときかれたならば、私は「非常に喜劇のうまい人だ」と答えるにちがいない。

少しいい方を変えるならば、ルネ・クレールは私に喜劇を見せてくれるただ一人の映画芸術家だともいえる。

正直な話、私のクレール観は以上でおしまいなのであるが、これでやめてしまつたのでは『キネマ旬報』の印刷所がひまで困るだろうから、もう少しルネ・クレールをもてあそんでみるが、それにつけても残念千万なのはルネ・クレールが日本の雑誌を読まないことである。

ルネ・クレールとチャップリン

ルネ・クレールとチャップリンとの比較はいろんな意味で興味がある。

ルネ・クレールの喜劇の最も重大な意味は俳優の手から監督の手へ奪い取つたことにあるのだと私は考えている。

「ル・ミリオン」を見た時に私はそれを痛感した。こういう人に出てこられてはチャップリンももうおしまいだと。

最後の喜劇俳優、チャップリン。最初の喜劇監督、ルネ・クレール。

悲劇的要素で持つている喜劇俳優、チャップリン。喜劇だけで最高の椅子をかち得たクレール。

ゲテ物、チャップリン。本場物、クレール。

世界で一番頑迷なトーキー反対論者、(彼が明治維新に遭遇したら明治三十年ごろまでちよんまげをつけていたにちがいない)チャップリン。世界中で一番はやくトーキーを飼いならした人間、ルネ・クレール。

感傷派代表、チャップリン。理知派代表、クレール。

これでは勝負にならない。

しかし、と諸君はいうだろう。チャップリンはいまだに世界で一番高価な映画を作つているではないか、と。だからしにせほどありがたいものはないというのだ。

ルネ・クレールと諷刺

ルネ・クレールの作品にはパリ下町ものの系列と諷刺ものの系列との二種あることは万人のひとしく認めるところである。

そしてそれらの表現形式は下町ものの場合は比較的リアリズムの色彩を帯び、諷刺ものの場合は比較的象徴主義ないし様式主義的傾向を示すものと大体きまつているようである。

しかして二つの系列のうちでは、諷刺もののほうをクレール自身も得意とするらしく、世間もまた、より高位に取り扱い、より問題視しているようである。事実、彼の仕事がパリ下町ものの系列以外に出なかつたならば、彼は一種の郷土詩人に終つたかもしれない。すなわち公平なところ、彼が一流の地位を獲得したのは一にその諷刺ものの系列によつてであると見てさしつかえなかろう。つまり喜劇によつてである。

元来クレールの喜劇は諷刺あるがゆえに尊しとされているのである。

しかし、少し物事を考えてみたら、いまさらこういうことをいうのははなはだ腑に落ちぬ話である。なぜならば、いまの世の中で諷刺のない喜劇などというものを人が喜んで見てくれるものかどうかを考えてみるがいい。

つまり喜劇に諷刺があるのは、あるべきものがあるべきところにあるというだけの話で別にありがたがるにはおよばんではないかというのである。人を笑わせるだけのことならからだのどこかをくすぐつてもできるのである。芸術だの何だのという大仰な言葉を使つて人さわがせをするにはあたらないのである。問題は諷刺の有無ではない。問題は諷刺の質にある。諷刺の質を決定するものは何かといえば、それは思想にきまつている。ではクレールの思想は?

クレールと思想

最も面にしてかつ倒なる問題に逢着してしまつた。白状すると私にはクレールの思想はわからない。少なくともいままで私の見た彼の作品(日本にきたものは全部見たが。)をつうじては彼の思想はつかめない。彼は何ごともいわないのかあるいは彼にははつきりした思想がないのか、どちらかである。彼は世間のできごとを観察する。そして判断する。こういうことは愚劣だ。あるいはこつけいである。たとえばそれはこういうふうなこつけいに似ている。見たまえ。これが彼らの姿だ。そういつて彼は私たちにこつけいな画面を示す。そこで我々はそれを見て笑う。

クレールのすることはそれだけである。

これも思想だといえば思想なのであろう。なぜならば思想なしには判断もできないから。

しかし、クレールの示したものよりもさらに愚劣なもの、さらにこつけいなものはいくらでもある。

しかしクレールはあえてそれらを指摘しようとはしない。また、彼の指摘するところの愚劣やこつけいは何に原因しているのか、そしてそれらを取り除くにはどうすればいいのか、等々の問題については彼はいつこうに関心を示そうとしない。

もしも思想というものが現われるものなら、それは彼の関心を示さない、これらの部分にこそその姿を現わすはずのものである。したがつて私は彼の思想をどう解釈していいかほとんど手がかりを発見することができないのである。

私がいつかある場所において、クレールの作に現われているのは思想ではなくて趣味だといつたのはこのゆえである。

あれだけ多量の諷刺を通じてなおかつその思想の一端に触れることができないような、そんな諷刺に人々はなぜあれほど大さわぎをするのであろうか。

クレールの本質

私たちがクレールにとてもかなわないと思うのは多くの場合その技巧と機知に対してである。

クレールほどあざやかな技巧を持つており、クレールほど泉のように機知を湧かす映画作家を私は知らない。

彼が最もすぐれた喜劇作者であるゆえんは一にこの技巧と機知にかかつている。

彼が持つ精鋭なる武器、斬新なる技巧と鋭角的な機知をさげて立ち現われると我々はそれだけでまず圧倒されてしまう。

技巧と機知を縦横に馳駆する絢爛たる知的遊戯、私はこれをルネ・クレールの本質と考える。

クレールの個々の作品

以上の本質論からいつて彼の技巧と機知が目も綾な喜劇を織り上げた場合に彼の作品は最も完璧な相貌を帯びてくる。

たとえば「ル・ミリオン」である。「幽霊西へ行く」である。

「自由を我等に」「最後の億万長者」のほうを上位に置く人々は、彼の本質を知らぬ人であり、その諷刺を買いかぶつている人であろう。

「自由を我等に」は作の意図と形式との間に重大なる破綻があり、「最後の億万長者」の場合は思想のない諷刺のために息切れがしているのである。ことにあのラストのあたりはつまらぬ落語の下げのようで私の最も好まぬ作品である。作全体の手ざわりもガサツで、絶えずかんなくずの散らばつているオープン・セットを見ている感じが去らないで不愉快であつた。

そこへ行くと「ル・ミリオン」「幽霊西へ行く」の二作は、彼が彼の本領に即して融通無碍に仕事をしているし、形式と内容がぴつたりと合致して寸分のすきもない。完璧なる作品という語に近い。

なお彼の作品に現われた様式美についても論ずる価値があるが、これは別の機会に譲ろう。

(『キネマ旬報』昭和十一年六月二十一日号)

底本 / Source edition

底本:「新装版 伊丹万作全集2」筑摩書房
1961(昭和36)年8月20日初版発行
1982(昭和57)年6月25日3版発行
初出:「キネマ旬報」
1936(昭和11)年6月21日号
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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伊丹 万作「ルネ・クレール私見」(新字新仮名)、底本『新装版 伊丹万作全集2』筑摩書房、1961年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043642_000231, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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