物理學は19世紀の末から20世紀の初めにかけ革新的衝撃を受けた。クルツクスの輻射物　Ｊ・Ｊ・トムソンその他の放電攻究　電子の發明などは舊式の説明では齒に懸らず　皆當惑している際　相前後してエツキス線の發見あり　また放射性物質の存在を確め　益々迷宮に入らんとする頃開拓された電波通信は　難なくマツクスウエルの電磁論から明瞭なる解釋と指導とを得て　數年間に大なる發展を遂げた。

マツクスウエルの所論によれば　電波は光波の續きである故　その性質は同じである。電波が歐米間に往復するも當然である。然るに電磁論は正確であろうが　吾人が日常觀察している黒体を熱して發する光　若しくは輻射熱はどんな法則に從つて發散しているかの問題がまだ解釋されていない。スペクトル分析が發明されて以來　久しく蟠つている難題であつた。プランク先生が初めてその解題を與えて　遂に新派の基礎とする量子論の發端に緒を導いたのである。

先生がベルリン大學に呼ばれた頃　實驗物理學者が腐心していた研究は　黒体が温度の上昇に從い輻射する光波の波長に關する測定であつた。いわゆる黒体なるものは何であるかは　キルヒホツフが光の吸收と發散に關する論文に既に明示したから困難はなかつたが　これを如何なる物質で造るかの問題が横たわつていた。辛うじてこれを征服して理論に移らんとすれば　更に難關を生じた。先生は講習においてキルヒホツフのスペクトル分析發表當時の論文を讀ませたが　先生も大いに研鑽していたのである。

1900年に至り破天荒の著想を披瀝して學界を驚かし　初めて量子論の濫觴を開いた。從來エネルギは連續性を帶びると推定せられたが　先生の所説によれば　周波數 ν なる光波のエネルギは自然の恒數 h と ν を掛けた hν であつて　恰も通貨が錢位を單位としてその倍數で通用しているように　光波エネルギの單位即ち光量子は hν であるとすれば　輻射則を難なく解決できるを示し　遂にプランク黒体輻射則を發表して學界の蒙を啓いたのである。しかるに連續性を盲信していた學者達はこのような光量子のあることを　夢幻に似たりと批判して容易に許容しなかつた。殊に光は　不思議なエーテルの振動であると信じ來つた學者には　思いがけ無き聳動であつた。また革新であつた。やがて年少氣鋭の學者は　これに賛同するもの幾多現われ　プランク恒數 h を利用して　物理學と化學とにおいて諸問題を解釋するに至り益々聲價を揚げた。中にもアインシユタインは當時不可思議に思われた光電作用を只一行の方程式で演繹するを得たのは　一層の光輝を hν に放つたというべきである。また原子構造はますます具体的に啓發され原子は帶電微子の集合であるから　その運動するときは必ず輻射を伴う。それ故　原子論を進捗するに h の效用は偉大なるものがある。然しこれに關する論文を書けば h の現われないことは殆どないくらいに普及されている。しかし黒体の輻射により誘發されたプランク恒數は　どんな意味を含んでいるかは未來の問題である。

先生が自然恒數 h を提唱してより約10年自分はラザフオードに黒体輻射則を如何に考えるかと問うた。彼は愼重な態度で答えた。「そもそも宇宙は單純な法則で支配されている。万有引力は距離の２乘に反比例し相互の質量の積に比例する。電氣も磁氣もこれに類似している。しかるに輻射はこれに反し　恐らく複雜な　一言にして明らかにし難き法則により支配されている。單純を基としている自然が　輻射に限り　プランクの式の如き規程を設けたとは　いかにも不思議である。將來この法則は單純化するのであろう。自分はまだ承認し得ない」と　その疑惑を披瀝した。

續いてアーヘンにスタルク（スタルク效果の發見者）を訪ね　その輻射則に關する意見を叩けば　ラザフオードと表裏し「プランクの法則にはその恒數 h あり　光の速度あり　ボルツマン恒數ありで　獨り万有引力恒數が缺けているのは遺憾である。このくらい面白い法則は無い」と賞讚した。兩學者はまだ h の須要性を理解していなかつたからこんな氣焔を吐いたと思う。今は敢て是非を議する要はない。

先生は寫眞に示す如く　細面の人で鼻は高く　額に碧筋が現われていた。眼は鋭く　話ははつきりして　講釋は音吐晴朗　語調明確　別に氣取つた風采なく　抑揚頓挫なども稀で　偏に學生の理解を希うていた。

自分が初めて師事したのは　1893年であつたが　キール大學よりベルリン大學に移つてから間もない時分であつたから專らキルヒホツフの講義を蹈襲していた。聽講者は僅に30名くらいであつたが１年を經ずして100人を越した。その講義の大要は邦譯されている。

自分が最も先生の研究方法に敬服している点は理論を攻究するに　常に實驗結果に精通していることである。ベルリン大學で卒業生學生諸教授は毎週談話會（Colloquium）を開いて理論　實驗に關する報告論文等を批判する。先生は毎會出席して辯論し　實驗結果の良否を判斷し針路を指示するを常としている。即ち實驗は理論を築く源泉であるから　當然ではあるが　理論家は兎角實驗を忽にして失敗する。惡材料で堅牢な建築ができる筈はない。これを知りながらその調査を怠るは無謀である。深く戒めねばならぬ。

先生は屡々轉宅されたが　終に郊外グルーネワルドの松林内に閑靜な庭園付きの家に移られてから世界第二大戰まで住まわれた。大學まで約半時間　市街鉄道で通われた。勞働者と區別できない粗服をひよろ長い体にうて　泰然自若であつた。これは大學教授の習慣で　丁度高等學校生徒が　破帽弊靴で街路をねり歩くと同樣の心理状態に基いているから　敢て批評の限りではない。かくて宅を訪問すれば質素な紳士であつた。書齋には飾の無い書棚が列をなし　卓上は清淨塵埃を留めず　フアウストの讀書室とは全く趣を異にしていた。先生が松風颯々たるを耳にしつつ自然の恒數 h を案出された遺跡を偲ぶも無駄ではあるまい。

先生は音樂を好まれ　特に純正調につき啓發するところありし故田中正平博士と親交あり　特に先生の考案せるピアノがあるそうだが　他人はこれを彈くことができぬと噂されていた。自分は音樂に趣味少いから　遂に窺う閑はなかつた。

また夏はバイエルンに出懸け　80歳を超えても山登りで健康を保持していた由である。昨年89歳で逝去されたが　老齡　その開拓された量子論が光輝を放つを視たのは　幸福な學者であつたことを裏書きする。

1931年は　フアラデーが誘導電流を發見してから100年に當り　更に電磁氣學を現今の論據に確立したマツクスウエルの誕生より100歳を經たので　世界の學界から代表者を送り　祝賀の意を表した。

殊にケムブリツヂ大學は　マツクスウエルが教鞭を執りし舊蹟であれば　大學より招待により著名なる物理學者電氣工學者會合し　祝意を兼ねて互に談論した。その節プランク先生は宴會において縷々マツクスウエルの功績を英語で述べられたが　先生の英語演説を聽いたのはこれが初めてであり　また終りであつた。

この席に列した外國よりの參加者は　ケムブリツヂ大學から　名譽理學博士の稱號をもらつた學者多く　學位服である緋の衣を着ていたから　異樣な觀を呈した。自分もこの服をうて先生と對座したが　先生も伴われた夫人も　門弟とこの盛宴を共にするを非常に喜ばれた。別るるに臨み　再會を約したがその後戰亂相繼ぎ　遂に永訣となつた。これを想えば涙澘然たらざるを得ない。

今や原子に關する研究は　世界を風靡している。誰か h の有難味感ぜざるものあらん。將來 h の眞相を摘抉するものこそ第二のプランクと稱すべく恰もマツクスウエルを第二のニウトンとして尊奉するが如くなるであろう。敢て青年才士の努力を希願する。

（筆者は日本學士院院長・理博）