一

乞食の権七が物語った。

尾張の国春日井郡、庄内川の岸の、草の中に寝ていたのは、正徳三年六月十日の、午後のことでありました。いくらか<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>を含んでいて、白っぽく見えてはおりましたが、でもよく晴れた夏の空を、自分の<ruby><rb>遊歩場</rb><rt>あそびば</rt></ruby>ででもあるかのように、<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>が舞っておりましたっけ。

ふと人の<ruby><rb>気勢</rb><rt>けはい</rt></ruby>を感じたので、<ruby><rb>躰</rb><rt>からだ</rt></ruby>を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>うている草の間から、わたしはそっちを眺めました。

二十八、九歳の職人風の男が、いつのまにやって来たものか、わたしのいるところから<ruby><rb>数間</rb><rt>すうけん</rt></ruby>はなれた岸に、佇んでいるではありませんか。（はてな？）とわたしは思いながら、その男の視線を辿って行きました。岸に近い水面を睨んでいました。そこでわたしも水面を見ました。

（成程、これじゃア誰だって、眼をつけるだろうよ）

と、わたしは呟きましたっけ。この川（幅三十間といわれている庄内川）は、周囲にひろがってい、<ruby><rb>広漠</rb><rt>ひろびろ</rt></ruby>とした耕地一帯をうるおす、<ruby><rb>灌漑</rb><rt>かんがい</rt></ruby>用の川だったので、上流からは菜の葉や大根の葉や、<ruby><rb>藁屑</rb><rt>わらくず</rt></ruby>などが流れて来ていましたが、どうでしょう、流れて来たそれらの葉や藁屑が、その男の立っている辺まで来ますと、<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>く<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>をまき、<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>でもするように漂ったあげく、沈んでしまうではありませんか。（あれへ眼をつけるあの野郎こそ怪しい）

と、私といたしましては、職人風の男へかえって不審を打ったのでございます。

（只者じゃアない、うろんな奴だ）

私は考えに沈みながら、広い耕地を見やりました。野菜の名産地の尾張城下の郊外です、畑という畑には<ruby><rb>季節</rb><rt>とき</rt></ruby>の野菜が、濃い緑、淡い緑、黄がかった緑などの<ruby><rb>氈</rb><rt>かお</rt></ruby>を敷いておりましたっけ。人家などどこにも見えず、百姓家さえ近所にはありませんでした。いやたった一軒だけ、数町はなれた<ruby><rb>巽</rb><rt>たつみ</rt></ruby>の方角に、お屋敷が立っておりましたっけ。それも因縁づきのお屋敷が。……尾張様の先々代<ruby><rb>継友卿</rb><rt>つぎともきょう</rt></ruby>が、お<ruby><rb>家督</rb><rt>よつぎ</rt></ruby>の絶えた徳川<ruby><rb>宗家</rb><rt>そうけ</rt></ruby>を継いで、八代の将軍様におなりなさろうとしたところ、紀伊様によって邪魔をされて、その<ruby><rb>希望</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>が水の泡と消え、紀伊様が代わって将軍家になられた。当代の<ruby><rb>吉宗</rb><rt>よしむね</rt></ruby>卿で。……その<ruby><rb>憂欝</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>からお心が<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>み、継友様には再三家臣をお手討ちなされましたが、その中に、平塚刑部様という、御用人があり、生前に建てた庄内川近くの<ruby><rb>別墅</rb><rt>やしき</rt></ruby>へ、ひどく執着を持ち、お手討ちになってからも、その別墅へ夜な夜な姿を現わされる。――という因縁づきのお屋敷なので。

（流れ屑が<ruby><rb>自然</rb><rt>ひとりで</rt></ruby>に沈む淵があったり、化け物屋敷があったりして、この<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>は物騒だよ）と、私は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いたことでした。

二

（おや）と驚いて川添いの堤へ眼をやったのは、それから間もなくのことでした。<ruby><rb>野袴</rb><rt>のばかま</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き、<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>をかむった、立派なみなりのお侍様五人が、半僧半俗といったような、<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>めたお<ruby><rb>頭</rb><rt>つむ</rt></ruby>へ<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>をいただかれ、<ruby><rb>羅織</rb><rt>うすもの</rt></ruby>の<ruby><rb>被風</rb><rt>ひふ</rt></ruby>をお羽織りになられた、気高いお方を守り、こなたへ歩いて来るからでした。

（これは大変なお方が来られた）

こうわたしは<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きましたが、半僧半俗のそのお方が、<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>の尾張中納言様、ただ今はご隠居あそばされて、<ruby><rb>無念坊退身</rb><rt>むねんぼうたいしん</rt></ruby>とお<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>りになり、西丸に住居しておいであそばす、徳川宗春様であられるのですから、驚いたのは当然でしょう。

と、宗春様はお足をとめられ、何やら一人のご家来に向かい、ささやかれたようでございました。するとそのご家来は群れから離れ、職人風の男の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って来ましたが、

「これ<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>そこで何をしておる」と、<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしい口調で申されました。

「川を見ているのでございますよ」そう職人風の男は申しましたっけ。

「川に何か変わったことでもあるのか」

「いいえそうではございませんが。所在なさに見ていますんで」

「所在ない？　なぜ所在ない」

「わたしは大工なのでございますが、親方のご機嫌をとりそこなって、職を分けてもらうことができなくなったんで。……どうしたものかと、思案しいしい歩いていますうちに、こんなところへ来ましたんで。……そこでぼんやり川を眺めて……」

「大工、そうか、手を見せろ」

「手を？　なんで？　なんで手を？」

「大工か大工でないか調べてやる」

「…………」

「大工なら<ruby><rb>鉋</rb><rt>かんな</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だこ</span>があるはずだ」

「…………」

「これ手を出せ、調べてやる。……<ruby><rb>此奴</rb><rt>こやつ</rt></ruby>手を<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ入れおったな！」

「斬れ！」

とその時烈しいお声で、宗春様が仰せられました。

「あッ」

これはわたしが言ったのです。

ご家来が編笠をうしろへ<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね、抜く手も見せず、職人風の男の右の肩を、<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>がけにかけたからで。

職人風の男は倒れました。でもそれは斬られて倒れたのではなくて、太刀先を避けて倒れたのです。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>！」

と<ruby><rb>西条勘右衛門</rb><rt>さいじょうかんえもん</rt></ruby>様は――そう、編笠が取れましたので、そのご家来が尾張の藩中でも、<ruby><rb>中条流</rb><rt>ちゅうじょうりゅう</rt></ruby>では使い手といわれる、西条様だということがわかりましたが、そう仰せられると、踏み込み、刀を<ruby><rb>真向</rb><rt>まっこう</rt></ruby>にふりかぶり、倒れている職人風の男の背をめがけ、お斬りつけなさいました。

が、その途端に土と小石と、むしられた草とがひとつになって、バッと宙へ投げ上げられ、つづいて烈しい水音がして、職人風の男は見えなくなってしまいました。川へ飛び込んで逃げたのでした。

三

二度目にこの男と<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>いましたのは、それから三日後のことでありまして、名古屋お城下は<ruby><rb>水主町</rb><rt>かこまち</rt></ruby>、尾張様御用の船大工の<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby>、<ruby><rb>持田</rb><rt>もちだ</rt></ruby>という<ruby><rb>苗字</rb><rt>みょうじ</rt></ruby>を許されている八郎右衛門というお方の台所口で。

<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>ともしころのことでありまして、わたしはその日、そのお宅へ、<ruby><rb>物乞</rb><rt>ものご</rt></ruby>いに参ったのでございます。それまでにも再々参ったことがありまして、そのお宅はいわばわたしにとりましては、縄張りの一つだったのでございます。ご主人様がご親切だからでございましょうが、下女下男までが親切で、わたしの顔を見ますると「<ruby><rb>勢州</rb><rt>せいしゅう</rt></ruby>が見えたから何かやりな」と、<ruby><rb>面桶</rb><rt>めんつう</rt></ruby>の中へ、<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>きたてのご飯などを、お入れ下さるのでございます。さてその日も、ご飯を頂戴いたしましたので、台所口から出て、<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>に添って<ruby><rb>往来</rb><rt>とおり</rt></ruby>の方へ歩いて行きました。すると行く手から、一人の男がやって参りましたが、お台所ちかくまで参りますと、にわかに<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声をあげて、地へ倒れたではございませんか。驚いてわたしは引き返し、その男の側へ参り、顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこみましたところ、例の男だったのでございます。

（さてはこの男ここでまた<ruby><rb>一芝居</rb><rt>ひとしばい</rt></ruby>を……）

と、胸に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こたえる</span>ところがありましたので、いっそ蹴殺してやろうかと足を上げました。

四

ところが、お台所口から射し出している<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>の光で、その男の地に倒れている姿が、女中衆や下男衆に見えたとみえて、飛び出して来て、

「可哀そうに」

「行き倒れだね」

「自身番へ知らせてやんな」

「何より薬を」

「水を持って来い」

などと、口々に言って、その男の介抱にかかったではありませんか。その騒がしさに不審を打ちましたものか、持田様のお嬢様と、そのお気に入りのお<ruby><rb>上女中</rb><rt>かみじょちゅう</rt></ruby>のお柳さんというお方が、奥から出て参られ、

「気の毒だから<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ入れて介抱してあげたがいいよ」

と言われました。下男衆がその男をかかえて、家の中へ運んで行く時、その男の顔を覗き、

「<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>ね」

とお嬢様のお小夜様が、お柳という女中へささやかれたのを聞いて、わたしは厭な気がいたしましたっけ。それというのも日ごろから、そのお美しさと<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しさとに、感心もし敬ってもいる、お小夜様だったからでございます。お小夜様のお年は十九歳でございましたが、すこし小柄でございましたので、十七歳ぐらいにしか眺められず、小さい口、つまみ鼻、<ruby><rb>鮠</rb><rt>はや</rt></ruby>の形をした艶のある眼、人形そっくりでございました。大工の棟梁とは申しましても、尾張様御用の持田家は、素晴らしい格式を持っていまして、津田助左衛門様、倉田新十郎様、などという、<ruby><rb>清洲越</rb><rt>きよすごえ</rt></ruby>十九人衆の、大金持の<ruby><rb>御用達衆</rb><rt>ごようたししゅう</rt></ruby>と、なんの<ruby><rb>遜色</rb><rt>そんしょく</rt></ruby>もないのでありまして、その持田様のお娘御でございますことゆえ、召されておられるお召し物なども、豪勢なもので、髪飾りなどは銀や<ruby><rb>玳瑁</rb><rt>たいまい</rt></ruby>でございました。

「ほんとに好い男振りでございますのね」

とお柳という女中も申しましたっけ。

「馬鹿め、何が好い男だ！」

とうとうわたしは腹立たしさのあまり、かなり烈しい声で、そう言ったものでございます。するとどうでしょうお柳という女は、わたしをジロリと見返しましたが、「いいじゃアないか、お<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>やき</rt></ruby>でないよ」

と、言い返したではありませんか。

それから十日ばかりの日がたちました。ある日わたしはいつものように、縄張りの<ruby><rb>諸家様</rb><rt>しょけさま</rt></ruby>を廻り、<ruby><rb>合力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>を受け、夕方帰路につきました。鳥にだって寝倉がありますように、乞食にだって巣はございますので。<ruby><rb>瓦町</rb><rt>かわらまち</rt></ruby>の方へ歩いて行きました。考えごとをしておりましたので。町の口へ参りましたころには、<ruby><rb>初夜</rb><rt>しょや</rt></ruby>近くなっておりましたっけ。ふと行く手を見ますと、一人のお侍さんが、思案にくれたように、首を垂れ、肩をちぢめて歩いて行く姿が、月の光でぼんやりと見えました。

（途方にくれているらしい）わたしはおかしくなりました。（<ruby><rb>殺生</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>だが一つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からかって</span>やろう）というのは、そのお侍さんの誰であるかが、私にわかっていたからで。

そこでわたしはお侍さんに近より、

「討ち損じたは<ruby><rb>貴郎様</rb><rt>あなたさま</rt></ruby>の未熟、それでさがし出して討とうとなされても、あてなしにおさがしなされては、なんで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はしっこい</span>江戸者などを、さがし出すことができましょう」

と、ささやくように言ってやりました。

西条勘右衛門様の驚くまいことか――そう、そのお侍様は西条様なので――ギョッとしたように振りかえられました。でも見廻した西条様の眼には、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>をまとい竹の杖をつき、<ruby><rb>面桶</rb><rt>めんつう</rt></ruby>を抱いた乞食のほかには、人っ子一人見えなかったはずで。そうしてまさかその乞食が、今のようなことを言ったとは、思わなかったことと存じます。

はたして西条様は、自分の耳を疑うかのように、首をかしげましたが、やがて足を運ばれました。そこでわたしもしばらくの間は、無言で<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行きました。でもまたこっそり<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ近寄り、ささやくように言ってやりました。

五

「大工だと申したではございませんか。ではお城下の大工の棟領を――それも船大工の棟領を、おしらべなさいましたら、あの男の素性も、現在のおり場所も、おわかりになろうかと存ぜられまする」

「チエ」

もうこの時には西条様の刀が、抜き打ちにわたしの右の肩へ、<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>がけに来ておりました。

わたしは前へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つんのめり</span>ました。

「そう、あの男もこんなように、貴郎様の太刀先をのがれましたねえ」

「乞食め！」

と西条様はわたしの背を目がけ、斬りおろしました。

それを<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いくぐって左へ飛び、

「ここに庄内川がありましたら、わたしもあの男のように川へ飛び込んで、のがれることでございましょうよ。……それにしても惜しいものだ、乞食にばかりこだわらずに、素直に私という人間の言葉を聞いて、持田さんあたりを調べたら、たいした功が立てられるのに……」

言いすててわたしは露路の一つへ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けこみましたっけ。

庄内川の岸で、職人風の男を討ちそこなって逃がし、西丸様からお叱りを受け、どうあろうとその男をさがし出し、討ってとれとの厳命を受け、さがし廻っているがわからない。そのムシャクシャしている腹の中へ、グッと棒でも突っ込んだように、わたしの言葉がはいったのですから、わたしに対する憎しみは烈しく、あくまでも斬りすてようと、わたしの<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>を追って、西条様が、露路へ駈け込んで来たのは、当然のことかと存ぜられます。でも露路には<ruby><rb>枝道</rb><rt>えだみち</rt></ruby>が多く、こみいっておりましたので、わたしがどこへかくれたか、西条様にはわからなかったようです。

その西条様がぼんやりした様子で、一軒の家の前に佇んだのは、それから間もなくのことでした。

<ruby><rb>平家</rb><rt>ひらや</rt></ruby>だての格子づくりの、<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な真新しい家の前でした。

と、格子戸の奥の障子が、土間をへだてて明るみ、やがて障子が開き<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>をさげた<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>っぽい女が、しどけない姿をあらわしました。<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の濃い大型の眼、中<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だるみ</span>のない高い鼻、口はといえばこれも大型でしたが、受け口めいておりましたので、色気にかけては充分でした。<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いている左手を<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>へ持って行き、女のくせで、こぼれている毛筋を、<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きあげるようにいたしましたが、<ruby><rb>八口</rb><rt>やつくち</rt></ruby>や袖口から、紅色がチラチラこぼれて、男の心持を、迷わせるようなところがありました。及び腰をして格子戸の方を<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>かし、

「どなた、宅にご用？」

と、含みのある水っぽい声で言ったものです。

「いや」

と西条さんは<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>したような声で、

「<ruby><rb>狼藉者</rb><rt>ろうぜきもの</rt></ruby>が入り込んだのでな」

「狼藉者？　気味の悪い……どのような様子の狼藉者で？」

「乞食じゃよ、<ruby><rb>穢</rb><rt>きた</rt></ruby>ない乞食じゃ」

「お<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>さん、おやおや……お菰さんでございましたら、もうこの辺へは、毎日のように、いくらでも立ち廻るのでございますよ」

「それが<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからん乞食でな」

「旦那様に失礼でもなさいましたので？」

「うむ、まあ、そういったことになる」

「息づかいがお荒うございますのね。お<ruby><rb>水</rb><rt>ひや</rt></ruby>でも……」

「水か、いや、それには及ばぬ」

「ではお茶でも、ホ、ホ」

その女は、プリプリしているお侍さんを、からかってやろうというような様子を、見せはじめましてございます。

「戸じまりなど充分気をつけるがよいぞ」

西条様はテレかくしのように言って、歩き出されました。

女は持田様の女中お柳でございました。そうしてそのお柳は少したったのちには、この家の奥の茶の間にすわって、<ruby><rb>丹前</rb><rt>たんぜん</rt></ruby>を着た三十五、六の、眼の鋭い、口元の締まった武士と、砕けた様子で話していました。長火鉢の横には塗り膳があって、それには小鉢物がのせてあり、<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>徳利などものせてあるという始末で。お柳がその男を旗さんと呼んだり、<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>さんと呼んだりするところを見ると、それがその男の姓名であり、二人の間柄は、情夫情婦のようでありました。

そうして、その<ruby><rb>旗頼母</rb><rt>はたたのも</rt></ruby>という武士こそ、<ruby><rb>勢州</rb><rt>せいしゅう</rt></ruby>と呼ばれているこの乞食の私なのでございます。どうして武士の私が乞食などになっているかと申しますに、ある重大な計画の秘密を探るためなので。つまり私は乞食に身を<ruby><rb>俏</rb><rt>やつ</rt></ruby>して隠密をしているのでございます。庄内川の岸に寝ていたのも、持田家の周囲を立ち廻ったのも、そのためなので。それにしてもどうして露路へ逃げ込んだ私が、そんな家で、お柳と、取膳で、酒など飲んでいたのかと申しますに、私は、露路へ逃げ込むや、その家――それは私の隠れ家なのですが、その家の前のしもた家の蔭に隠れて、お柳と西条様との<ruby><rb>会話</rb><rt>はなし</rt></ruby>を聞いていたのでしたが、西条様が立ち去るやすぐに私は、自分の家の裏口から台所へはいって行き、持田家の秘密を探らせるために、持田家へ、女中として入り込ませておいたお柳が、持田家の秘密を持って、この夜来合わせていたのに手伝わせ、乞食の衣裳を脱ぎ、行水を使い、茶の間で、そんなように、取膳で……と、いうことになったのでありまして、さてそれからは、私とお柳との<ruby><rb>会話</rb><rt>はなし</rt></ruby>になるのでございます。――

「今夜は泊まって行ってもいいのだろう」これは私で。

「というわけにもいかないのさ。……何しろお嬢様があんなだからねえ」

「惚れるのに事を欠いて、あんな野郎に惚れるとはなア」

「鶴吉と宣っているあの江戸者、女にかけちゃア凄いものさ」

「そこへもって来てお<ruby><rb>小夜坊</rb><rt>さよぼう</rt></ruby>が、<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>生娘</rb><rt>きむすめ</rt></ruby>ときているのだからなあ」

「ころりと参って無我夢中さ」

「駆け落ちの相談ができ上がったとは、<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ返って話にもならない」

「世間知らずの娘だからだよ」

「男の素性に気もつかずか」

「男の心にも気がつかずさ」

「まったくそうだ、だから困るのさ。本当の恋からの<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>ならいいのだが、そうでないのだから恐ろしい」

「江戸へうまうま連れ出されてから、どうされるかってこと、知らないんだからねえ」

「生き証拠にされるってこと、ご存知ないからお気の毒さ」

お柳の注いだ<ruby><rb>猪口</rb><rt>ちょこ</rt></ruby>を私は口へ持って行きました。

六

「駆け落ちの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">日にち</span>と刻限とに、間違いがあっちゃア大変だが」

「今日から五日後の<ruby><rb>子</rb><rt>ね</rt></ruby>の刻さ。たしかめておいたから大丈夫だよ」

「お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>も<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行くんだったな」

「そうさ途中までお見送りするのさ。お嬢様は可愛らしいよ、何から何まで、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>にだけはお明かしなさるのだから」

「そこがこっちの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけめ</span>なのだが……それにしても鶴吉というあの男、お小夜坊ばかりを連れ出して、それで満足するような、優しい玉とは思われないが」

「これまでにお嬢様の手を通して、いろいろの物を引きだしたらしいよ」

「証拠になるような品をだろう」

「ああそうさ、証拠になるような品さ」

「ところで職場の仕事だが、どうだな、はかどっているようかな」

「それだけは妾にもわからないのさ。こしらえた<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>から化け物屋敷の方へ、こっそり運んで行くのだからねえ」

「そういうことは鶴吉って男も、とうに知っているだろうに、化け物屋敷を調べないとは、どうにも俺には<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>におちないよ」

「これから調べるのかもしれないじゃアないか」

「そうよなア、そうかもしれない……駆け落ちの前にか、駆け落ちの夜にかな」

私は<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の<ruby><rb>地袋</rb><rt>じぶくろ</rt></ruby>を開け、木箱を取り出し、その中から太い竹の筒を取り出しました。

「こいつ湿らせちゃア大変だ」

「変な物だねえ、何なのさ？」

「いってみりゃア地雷火さ。普通にゃ<ruby><rb>落火</rb><rt>らっか</rt></ruby>というが」

「地雷火？　まア、気味の悪い……どうしてお前さんそんなものを？」

「お殿様から下げ渡されたのさ」

「お殿様って？　どこのお殿様？」

「殿様に二人あるものか。<ruby><rb>俺等</rb><rt>おいら</rt></ruby>のご主君は犬山の御前さ」

「それじゃア<ruby><rb>成瀬様</rb><rt>なるせさま</rt></ruby>から。……でも、成瀬様がそんな恐ろしいものを……」

「いよいよの場合には火をかけろってね、俺等前もって言いつけられているのさ」

この時露路のあちこちで、犬が<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>え出しましてございます。私は竹筒を木箱の中へ納め、また地袋の中へ押し入れて、犬の吠え声に耳をかしげましたが、「あらかた話は済んだらしいな。それじゃア……」

「何がさ」

「隣の部屋に<ruby><rb>紅裏</rb><rt>もみうら</rt></ruby>の布団が敷いてあるってことさ」

「ばからしい、……わたしゃア小母様が病気だから、ちょっと見舞いに行って来るといって、お暇をいただいて来たんだよ」

「ありもしない小母様に病気をさせて、<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>に逢いに来るなんて、隅に置けない<ruby><rb>歌舞伎者</rb><rt>かぶきもの</rt></ruby>さ」

「その歌舞伎者で心配になったよ。行き倒れ者に自分を仕組んで、持田様へ<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>え込まれ、ずるずるべったりに居ついてしまって、お嬢様をたらしたあの鶴吉、わたしの居ない間に、二番狂言でも仕組んで、わたしたちを出し抜きゃアしないかとねえ」

「それじゃアすぐに帰る気か」

「どうしよう」

「じらすのか。……それともじれているのか……」

「あれ、痛いよ」

見る眼に痛い絵模様となりましたので……。

七

相変らず菰をかむり、竹の杖をつき、<ruby><rb>面桶</rb><rt>めんつう</rt></ruby>を<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えた、乞食のわたしが、庄内川の方へ辿って行きましたのは、それから五日後の夜のことでした。

化け物屋敷の前まで来ました。

一<ruby><rb>町四方</rb><rt>ちょうしほう</rt></ruby>もある、宏大なお屋敷は、樹木と土塀とで、厳重に<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>まれておりまして、外から見ますると、<ruby><rb>内部</rb><rt>なか</rt></ruby>の<ruby><rb>建物</rb><rt>たてもの</rt></ruby>は、家根さえ見えないほどなのでございます。

しばらくわたしは土塀について、お屋敷の周囲をまわりました。と、東側の<ruby><rb>小門</rb><rt>こもん</rt></ruby>から<ruby><rb>小半町</rb><rt>こはんちょう</rt></ruby>ほど距たった辺に、こんもりした林がありました。それをわたしは眺めやりましたが（<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あれ</span>に<ruby><rb>任</rb><rt>ま</rt></ruby>かせて置けば大丈夫さ）と、こう心中で思いまして、そのまま先へ進んで行きました。足場のよいところまでやって来ました。そこでわたしは木立へ登り、そこから土塀の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>へ登り、お屋敷の構内へ飛び下りました。構内の土塀近くに茂っているのは、松や<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>や<ruby><rb>槇</rb><rt>まき</rt></ruby>や桜の、植え込みでございました。

（塀外の木立ちと高い厚い土塀と、そうして内側のこの植え込みとで、こう厳重に<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろ</rt></ruby>われたんでは、屋敷内で何を企てようと、外からは見えもしなければ聞こえもしない。ましてその上に化け物屋敷などという、気味の悪い噂を立てておいたら、近寄ろうとする人はないだろう。）

そんなことをわたしは思いながら、植え込みをわけて進んで行きました。と行く手から大勢の人声や、物を打つ音や物を切る音やが、潮の遠鳴りのように聞こえ、<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>の光なども見えて来ました。不意にその時人声が、<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>へ近づいて参りましたので、わたしは<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>蔭へ身をかくしました。

「見慣れない奴でありましたよ」

「外から忍び込んだ人間らしい」

「どうあろうとさがし出して捕えねば……」

それは二人のお侍さんでした。

「居た！」

とその中の一人が、わたしを目付けて叫び、手取りにしようとしてか組みついて来ました。（やむを得ない）と思って、わたしは竹の杖を突き出しました。もちろん急所へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>たんで。かすかに呻き声をあげたばかりで、そのお侍さんは倒れてしまいました。

「<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>！」

この人は斬り込んで来ました。

でもその人も倒れてしまいました。

わたしの突き出した竹の杖が、うまく<ruby><rb>鳩尾</rb><rt>みぞおち</rt></ruby>へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はまった</span>からで。

（ナーニ<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>のご辛棒で。自然と息を吹き返しまさあ）

わたしは先へ進んで行きました。

でもわたしは気が気ではありませんでした。あの鶴吉という男が、わたしのように土塀を乗り越えて、屋敷内にはいり込んだということは、わたしにはわかっておりましたが、愚図愚図しているうちに目的を遂げて、この屋敷から脱け出されたら、一大事と思ったからです。

わたしは先へ進んで行きました。

すると「誰だ！」という声が起こり、つづいて「わッ」という悲鳴が起こり、すぐに「曲者！」と<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>く声が聞こえ、つづいて「わッ」という悲鳴が聞こえ、さらに逃げてでも行くらしい、けたたましい足音が聞こえましたが、またもや「わッ」という悲鳴が聞こえ、その後は<ruby><rb>寂然</rb><rt>しん</rt></ruby>となってしまいました。

（<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いな。三人<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>った！　<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>だ！）

とわたしは走って行きました。

そうして<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>もなくわたしは、厳重な旅の仕度をし、黒い頭巾で顔をつつんだ、鶴吉と呼ぶ例の男と、木立ちの中で刀を構えていました。そうですわたしも<ruby><rb>竹杖</rb><rt>たけづえ</rt></ruby>仕込みの刀を、ひっこ抜いて構えたのです。

わたしたちの足許にころがっているのは、三人の武士の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しがい</rt></ruby>でした。みんな一太刀で仕止められていました。

（凄い<ruby><rb>剣技</rb><rt>てなみ</rt></ruby>だ、油断するとあぶない）

わたしは必死に構えました。

と、鶴吉は月の光で、わたしの姿を認めたらしく、

「なんだ、貴様、乞食ではないか。……しかし、……本当の乞食ではないな。……<ruby><rb>宣</rb><rt>なの</rt></ruby>れ、身分を！」

「そういう貴様こそ身分を宣れ！　庄内川からこの屋敷へ、<ruby><rb>大水</rb><rt>たいすい</rt></ruby>を取り入れるために作り設けた、取入口を探ったり、行き倒れ者に身を<ruby><rb>俏</rb><rt>やつ</rt></ruby>して、船大工の棟領持田の家へはいり込み、娘をたぶらかして秘密を探ったり、最後にはこの屋敷へ忍び入り、現場を見届けようとしたり……」

「黙れ！　<ruby><rb>此奴</rb><rt>こやつ</rt></ruby>、それにしてもそこまで俺の素性を知るとは？……さては、<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>は、……もしや汝は⁈」

「…………」

「<ruby><rb>隠密</rb><rt>おんみつ</rt></ruby>ではないかな？　どこぞの国の？」

「…………」

「ものは相談じゃ、いや頼みじゃ、同じ身分のものと見かけ、頼む<ruby><rb>見遁</rb><rt>みのが</rt></ruby>してくれ」

八

「礼には何をくれる」わたしはこう言ってやりました。

「ナニ礼だと、礼がほしいのか？」

「ただで<ruby><rb>頼</rb><rt>たの</rt></ruby>まれてたまるものか」

「なるほどな、もっともだ。……かえって話が早くていい。……何がほしい、なんでもやる。」

「調べた秘密をこっちへ吐き出せ」

「…………」

「<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えた<ruby><rb>材料</rb><rt>ねた</rt></ruby>を当方へ渡せ」

「…………」

「江戸まで連れて逃げようとする生き証拠を俺の手へ返せ」

「チェッ、<ruby><rb>要求</rb><rt>のぞみ</rt></ruby>はそれだけか」

「もう一つ残っている」

「まだあるのか、早く言え！」

「<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>この場で消えてなくなれ」

「ナ、なんだと？」

「<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>に生きていられては都合が悪いと言っているのだ」

疾風迅雷とでも形容しましょうか、怒りと<ruby><rb>憎悪</rb><rt>にくみ</rt></ruby>とで斬り込んで来た、鶴吉の刀の<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じかったことは！　あやうく受け流し、わたしは木立ちの中へ駈け込みました。そのわたしを追いかけて来る、鶴吉の姿というものは、さながら<ruby><rb>豹</rb><rt>ひょう</rt></ruby>でしたよ。

（駄目だ）とわたしは観念しました。（俺の手では仕止められない）

松の木を盾として、鶴吉の太刀先を防ぎながら、わたしは大音に呼びました。

「お屋敷の方々お出合い下され、江戸<ruby><rb>柳営</rb><rt>りゅうえい</rt></ruby>より<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わされた、<ruby><rb>黒鍬組</rb><rt>くろくわぐみ</rt></ruby>の隠密が、西丸様お<ruby><rb>企</rb><rt>くわだ</rt></ruby>ての秘密を探りに、当屋敷へ忍び込みましてござる！　生かして江戸へ帰しましては、お家の<ruby><rb>瑕瑾</rb><rt>かきん</rt></ruby>となりましょう！　曲者はここにおりまする、お駈けつけ下され！」

声に応じて四方から、おっ取り刀のお侍さんや、<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>や<ruby><rb>槌</rb><rt>つち</rt></ruby>を持った船大工の群れが、<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>などを振り照らして、わたしたちの方へ駈けつけて来ました。その先頭に立っておりましたのが、西条勘左衛門様でございましたので、

「あなた様の太刀先を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span><ruby><rb>外</rb><rt>ぱず</rt></ruby>して、庄内川へ飛び込んだ男が、隠密の<ruby><rb>此奴</rb><rt>こやつ</rt></ruby>でございます。川がないから大丈夫で。今度こそお討ちとりなさりませ」

「そういう<ruby><rb>貴様</rb><rt>きさま</rt></ruby>は……や、いつぞやの晩……」

「あれは<ruby><rb>内証</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>にしておきましょうよ。お味方同志でございますから」

言いすてるとわたしはお屋敷の建物の方へ、一散に走って行きました。

やるべき仕事をやってしまうと、わたしは引っ返して来ました。屋敷の門が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いていました。で、わたしは走り出ました。

何が門外にあったでしょう？

東側の小門から、小半町ほどはなされている林の中から、人声が聞こえ、<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火が射しているのです。

わたしはそっちへ走って行きました。

そこでわたしの見たものといえば、<ruby><rb>垂</rb><rt>たれ</rt></ruby>を<ruby><rb>下</rb><rt>さ</rt></ruby>げた<ruby><rb>一梃</rb><rt>いっちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>の前に、返り血やら自分の血やらで、<ruby><rb>血達磨</rb><rt>ちだるま</rt></ruby>のようになりながら、まだ闘士満々としている、<ruby><rb>精悍</rb><rt>せいかん</rt></ruby>そのもののような鶴吉が、血刀を右手にふりかぶり、左手を駕籠の峯へかけ、自分の前に集まっている尾張藩の武士や、持田八郎右衛門の弟子の、大勢の船大工たちを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいる、<ruby><rb>凄愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>とした光景でした。

「かかれ、<ruby><rb>汝等</rb><rt>おのれら</rt></ruby>、かかったが最後だ！」

と、<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れた声で、鶴吉は叫びましたっけ。

「かかったが最後駕籠の中の女は、俺が一刀に刺し殺す！……持田八郎右衛門の娘を殺す！　かかれたらかかれ！」

船大工たちは口惜しそうに、口々に<ruby><rb>詈</rb><rt>ののし</rt></ruby>りました。

「畜生、鶴吉！」

「恩知らず！」

――しかし棟領の秘蔵の娘を、人質にとられているのですから、かかって行くことはできませんでした。西条様はじめお侍さんたちも、刀を構えて<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>っているばかりで、どうすることもできませんでした。というのは持田八郎右衛門は、船大工の棟領とはいいながら、立派な藩の<ruby><rb>御用番匠</rb><rt>ごようばんしょう</rt></ruby>であり、ことには西丸様の今度のお企ての、大立物でありますので、その人の娘に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もしも</span>のことがあったら、一大事だと思ったからで。

しかしわたしは遠慮しませんでした。大声で言ってやりました。

「今だ、お<ruby><rb>小夜坊</rb><rt>さよぼう</rt></ruby>、やっつけな！」

九

途端に「あッ」という悲鳴が起こり、刀をふりかぶったまま、鶴吉は<ruby><rb>躰</rb><rt>からだ</rt></ruby>を<ruby><rb>捻</rb><rt>ねじ</rt></ruby>りましたが、やがて、よろめくと、ドット倒れました。<ruby><rb>脇腹</rb><rt>わきばら</rt></ruby>から血が吹き出しています。

「わーッ」という声が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>き上がりましたが、これは船大工や藩士の方々が、思わずあげた声でした。でもその声はすぐに<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>んで、気味悪くひっそりとなってしまいました。

血にぬれた懐剣をひっさげて、駕籠の<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れを<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねてお小夜坊が、姿を現わしたからです。

お小夜坊ではなくてお<ruby><rb>柳</rb><rt>りゅう</rt></ruby>でした。

はじめて人を斬ったのでした。お柳の顔色はさすがに<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>く、その眼は血走っておりましたが、それだけにかえって<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>で、わたしとしましてはお柳という女を、この時ほど美しいと思ったことは、ほかに一度もありませんでした。お柳はわたしを見やってから、船大工たちへ言いましたっけ。

「皆様ご安心なさいまし、お小夜様は<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>がお助けして、この林の奥の、藪蔭にお隠しして置きました」

歓喜の声をあげて、船大工たちが林の奥へ走って行ったのは、いうまでもないことでございます。その間に西条様や藩士の方々は、鶴吉の息の根を止めようとしました。でもわたしは制止しました。

「どうせ死んで行く人間です、静かに死なせてやって下さい」

見れば鶴吉は断末魔に近い眼を、わたしの眼へヒタとつけて、物言いたげにしておりました。そこでわたしは近寄って行って、耳に口を寄せてささやきました。

「言いたいことがあるなら言うがいい」

「乞食に計られて死んだとあっては、オ、<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>は死に切れぬ。頼む、明かしてくれ、お前の素性を」

「もっともだ、明かすことにしよう。……尾張家の<ruby><rb>附家老</rb><rt>つけがろう</rt></ruby>、犬山の城主、<ruby><rb>成瀬隼人正</rb><rt>なるせはやとのしょう</rt></ruby>の家臣、<ruby><rb>旗頼母</rb><rt>はたたのも</rt></ruby>、それが俺だ」

ここで私は言葉を改め、「貴殿のご姓名なんと申されるかな？」

「…………」無言で首を振るのでした。

「隠密として事破れし以上、姓名は言わぬというお心か。ごもっともでござる」

この時突然屋敷内から、火の手が立ち昇りました。

「火事だ！」

「大変だ、<ruby><rb>作事場</rb><rt>さくじば</rt></ruby>が燃える！」

人々は叫んで走って行きました。

「鶴吉殿」と耳に口を寄せ、またわたしはささやきました。

「貴殿をこの地へ<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わした、そのお方が心にかけられた、宗春様ご建造の禁制の大船、ただ今燃えておりまする。貴殿のお役目遂げられたも同然、お喜びなされ、ご安心なされ！」

「火事？……大船が？……燃えている？」

「拙者が<ruby><rb>放火</rb><rt>つけび</rt></ruby>いたしたからでござる」

「貴殿が……お身内の貴殿が？」

「われらが主君成瀬隼人正、西丸様お企てを一大事と観じ、再三ご<ruby><rb>諫言</rb><rt>かんげん</rt></ruby>申し上げたれど聞かれず、やむを得ず拙者に旨を含め……」

この時船大工たちがお小夜様を連れて、林の奥から出て来ました。

「お柳、お小夜様を、鶴吉殿へ！」

わたしの相棒のお柳は、お小夜様の手を取って、鶴吉の側へ連れて行きました。お小夜様は<ruby><rb>恐怖</rb><rt>おそろしさ</rt></ruby>と<ruby><rb>悲哀</rb><rt>かなしさ</rt></ruby>とで、生きた空もないようでございましたが、でもベッタリと地へすわると、鶴吉の<ruby><rb>項</rb><rt>うなじ</rt></ruby>を膝の上へのせ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃくり</span>上げて泣きました。鶴吉を愛していたのですねえ。

宗家相続の問題以来、<ruby><rb>将軍吉宗様</rb><rt>はちだいさま</rt></ruby>と尾張家とは、面白くない<ruby><rb>関係</rb><rt>あいだがら</rt></ruby>となりまして、宗春様が年若の<ruby><rb>御身</rb><rt>おんみ</rt></ruby>で、早くご隠居なされましたのも、そのためからでございますし、ご禁制の大船を造られましたのも、<ruby><rb>吉宗様</rb><rt>はちだいさま</rt></ruby>に対する<ruby><rb>欝忿</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>晴らし、そのためだったように思われます。そのご禁制の大船ですが、もうあの時には九分がたできていて、立派なものでございました。ご主君から渡された竹筒仕込みの地雷で、わたしが焼き払いさえしなかったなら、完成したに相違ございません。庄内川から取り入れた水を、すぐに<ruby><rb>船渠</rb><rt>せんきょ</rt></ruby>へ注ぎ入れ、まず庄内川へ押しいだし、それから海へ出すように、巧みに仕組まれてもおりました。

<ruby><rb>勢州</rb><rt>せいしゅう</rt></ruby>産まれの<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby><ruby><rb>権七</rb><rt>ごんしち</rt></ruby>、そんなものにまで身を<ruby><rb>俏</rb><rt>やつ</rt></ruby>し、尾張家のためとはいいながら、あの立派な船を焼きはらったことは、もったいなく思われてなりません。