痛む耳

「耳が痛んでなりませぬ」

と女は云って、<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>で左の耳を抑えた。

<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>ではあるが美しいその武士の妻女は、地に据えられた駕籠の、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たれ</span>のかかげられた隙から顔を覗かせて、そう云ったのであった。

もう一挺の駕籠が地に据えられてあり、それには、女の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>らしい立派な武士が乗っていたが、

「こまったものだの。出来たら<ruby><rb>辛棒</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>おし。もう<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>だから」

と、優しく云った。

「とても辛棒なりませぬ。痛んで痛んで、いまにも耳が千切れそうでございます」

と女は、武士の妻としては<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>めきすぎて見える、細眉の、くくり頤の顔をしかめ、身悶えした。

「このまま沼田まで駕籠で揺られて参りましては、死にまする、死んでしまうでございましょう」

「<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>な、耳ぐらいで。……とはいえそう痛んではのう」

と武士は、当惑したように云った。

ここは、群馬の須川在、猿ヶ京であった。

三国、大源太、仙ノ倉、万太郎の山々に四方を取り巻かれ、西川と<ruby><rb>赤谷</rb><rt>あかや</rt></ruby>川との合流が眼の下を流れている盆地であった。

文政二年三月下旬の、午後の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>が滑らかに照っていて、山々谷々の木々を水銀のように輝かせ、岩にあたって<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>をあげている<ruby><rb>谿水</rb><rt>たにみず</rt></ruby>を、<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな虹で飾っていた。散り初めた山桜が、時々渡る微風に連れて、駕籠の上へも人の肩へも降って来た。

「やむを得ない」

と武士は云った。

「舅殿がお待ちかねではあろうが、そう耳が痛んでは、無理強いに行くもなるまい。……今夜一晩猿ヶ京の<ruby><rb>温泉宿</rb><rt>ゆやど</rt></ruby>で泊まることにしよう」

「そうしていただきますれば……そこで一晩手あてしましたら、……明日はもう大丈夫」

と女は云って、遙かの谿川の下流、山の中腹のあたりに、懸け作りのようになって建ててある<ruby><rb>温泉宿</rb><rt>ゆやど</rt></ruby>、桔梗屋の方を見た。

「聞いたか」

と武士は、駕籠の横の草の上へ腰をおろし、揷み箱を膝の上へのせている、忠実らしい老僕へ云った。

「今夜はここの温泉宿へ泊まるのじゃ。そちも皺のばしが出来るぞ」

「有難いことで」

と<ruby><rb>僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>は云った。

「越後の長岡から三国を越しての旅、おいぼれの私には難渋でございましたが、一晩でも湯治が出来ましたら元気が出ることでございましょう」

猿ヶ京と云われているだけにこの辺には猿が多く、それが木の枝や藪の蔭などから、この人たちを眺めていた。丘をへだてた<ruby><rb>竹叢</rb><rt>たけむら</rt></ruby>のほとりから、<ruby><rb>老鶯</rb><rt>ろうおう</rt></ruby>の<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が聞こえて来た。

「痛い！　ま、どうしてこう痛むのだろう！」

女は駕籠の中で突っ伏した。

「駕籠屋、桔梗屋へやれ」

と武士は、あわてたように云った。

お蘭は、月を越すと、相思の仲の、渋川宿の<ruby><rb>旅舎</rb><rt>はたごや</rt></ruby>、布施屋の長男、進一のもとへ輿入ることになっていた。今夜も彼女は新婚の日の楽しさを胸に描きながら、帳場格子の中で帳面を調べている父親の横へ坐り、縫い物の針を動かしていた。<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>い立ての島田が、行燈の灯に艶々しく光り、くくり頤の愛くるしい顔には、幸福そうな微笑さえ浮かんでいた。

土間をへだてた表戸はもう下ろされていたが、昼の間に吹き込んで来た桜の花が、敷居の下に残っていて、長い薄白い雪の筋かのように見えていた。

「こんな気の毒な男があるのですよ」

という声が聞こえた時、両耳の辺ばかりにわずかの髪をのこしている、お<ruby><rb>父親</rb><rt>とう</rt></ruby>さんの<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>た頭が上がり、声の来た方へ向いたので、お蘭もそっちへ顔を向けた。

猿ヶ京にたった一軒だけ立っている湯宿、この桔梗屋は、百年以上を経た旧家だといわれていたが、それはこの店の間の板敷が、黒檀のように黒く艶を出しているのでも<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>かれた。

板敷には囲炉裡が切ってあり、自在鉤にかけられてある<ruby><rb>薬罐</rb><rt>やかん</rt></ruby>からは、湯気が立っていた。炉を囲んでいるのは五人の湯治客で、茶を飲み飲みさっきから話しているのであった。

「こんな気の毒な男があるのですよ」

と云ったのは、その中の、絹商人だという三十八、九の、顔に<ruby><rb>薄菊石</rb><rt>うすあばた</rt></ruby>のある男であった。

「お侍さんですがね、若い頃に、あるお屋敷へ、若党として住み込んだそうで。ところがそこに、若い綺麗なお嬢様がおありなされたが、同藩のお奉行様のご子息と婚約が出来、いよいよ行かれることになったそうで。婚礼の晴着姿で駕籠に乗られた時の美しさにはその若党も<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>としたそうです。ところがどうでしょう、向こうのお屋敷で、今頃は<ruby><rb>高砂</rb><rt>たかさご</rt></ruby>をうたっておられるだろうと思われる時刻に、そのお嬢様が一人で帰って来られ、若党へ、これからすぐ妾と一緒に行っておくれとおっしゃったそうで。どこへと若党が驚いて訊くと、いいから妾と一緒においでと云うのだそうです。そこで若党は夢中のありさまで<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行ったところ、お嬢様は途中で駕籠をやとい、山越しをして<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>という湯治場へ行かれ、そこで一夜をその若党と明かされたそうですが、もちろん二人の仲には何事も……」

「へえ、そいつは感心ですねえ。……それにしてもどうして婚礼の席から？」

片耳を切られて

こう口を出したのは、越中の薬売りだという三十一、二の小柄の男であった。

「まアお聞きなさい。……お嬢様は、<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>になる奉行の息子というのが、<ruby><rb>兎口</rb><rt>みつくち</rt></ruby>の<ruby><rb>醜男</rb><rt>ぶおとこ</rt></ruby>なので嫌いぬいていたんですが、親と親との約束なのでどうにもならず、それで婚礼の席へは出たものの、今夜からこの男と……と思ったらいても立ってもいられず……そこでその席から逃げ出し……若党をつれて湯治場へ<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がれ……」

「婚礼の当夜ではあり、若い若党と、そんな<ruby><rb>温泉宿</rb><rt>ゆやど</rt></ruby>で、二人だけで泊まったのに、何んでもなかったとは偉いですなあ」

と云ったのは、同じ越中の薬売りであった。

「だが人は信じますまいよ」

「そうなのです」

と、絹商人は話をつづけた。

「お嬢様の父親というのがまず信じなかったそうで……」

「どうしました？」

「主家の娘を誘惑し、連れ出し、傷者にした不届きの若党というので……」

「どうしました？」

「打ち首……」

「へえ」

「というところを、片耳を剃いで、<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りだしたそうで」

「ひどいことをしやがる。娘がそいつを止めないという法はない」

「そうですとも」

「それから娘はどうしました？」

「翌年、他藩の重役のご子息のもとへ、めでたく輿入れなされたそうで」

「結構なことで、フン！」

「結構でないのは若党――お侍さんで、ガラリと性質が変わりましたそうで」

「変わりましょうなア」

「それからは女という女を憎むようになったそうです」

「あっしだって憎みますよ」

と、口を出したのは、八木原宿の葉茶屋の亭主だという、四十がらみの男であった。

「あっしばかりじゃアない、誰だって憎むでしょうよ。……ねえご主人、そうじゃアありませんか」

こう云うと葉茶屋の亭主だという男は、桔梗屋の主人の方へ顔を向けた。

桔梗屋の主人の佐五衛門は、持っていた筆を、ヒョイと耳へ揷んだが、帳場格子へ、うっかり額を打ち付けそうに頷き、

「ごもっともさまで、女出入りで、そんな<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目にあわされましたら、誰だって女を憎むようになりますとも」

「若党っていう男に、同情だってするでしょうねえ」

とまた口を出したのは、左官の親方だという触れ込みの、三十四、五の男であった。

「さようですとも、その気の毒な若党殿には、私ばかりか、誰だって同情するでございましょうよ」

と、佐五衛門はまた頷いてみせた。

「ところで、その若党――お侍さんが、どんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に女を憎んだかってこと、お話ししましょうかね」

と、絹商人は、話のつづきを話し出した。

「そのことがあってからというもの、そのお侍さんは、<ruby><rb>生活</rb><rt>たつき</rt></ruby>の<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>を失い……そりゃアそうでしょうよ、片耳ないような人間を、誰だって使う者はおりませんからねえ。……ウロウロと諸地方を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>いましたそうで。……木曽街道を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っていた時のことだといいますが、板橋宿外れの葉茶屋へ寄って、昼食をしたためたそうで。すると<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に、二十一、二ぐらいの仇めいた道中姿の女がいて、これも飯を食べていたそうで。いざお勘定となると、百文の勘定に、何んと女は小判を出して、これで取ってくれといったそうで。ところが、そんな葉茶屋ですから釣銭がない。それで女にそういうと、女は当惑したような顔をしいしい、妾にも小銭はないと云い、ヒョイとそのお侍さんの方へ向き、

『申し兼ねますがお立て替えを』

『よろしゅうござる』

とお侍さんは何んと感心にも、乏しい<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>の中から金を立て替えてやり、それを縁に連れ立って歩き、日の暮れに上尾宿まで参りましたところ、女の姿が見えなくなったそうで。

『はぐれた筈もないが』

と不思議に思いながらその宿の安宿へ泊まり、翌朝発足して熊谷宿まで行くと、<ruby><rb>棒端</rb><rt>ぼうはな</rt></ruby>の葉茶屋にその女がいたそうで。そこでお侍さんも寄って茶を飲み、女と話したそうですが、いざお勘定となると同じことが行われたそうで。……女が小判を出す、葉茶屋には釣銭がない。

『申し兼ねますがお立て替えを』

『よろしゅうござる』

……こうしてそこを出、野道へさしかかった時、お侍さんが開き直り、

『拙者立て替えた銭お払いなされ」

……すると女はさもさも軽蔑したように、

『あればかりの<ruby><rb>小銭</rb><rt>こぜに</rt></ruby>……』

――とたんにお侍さんは女を<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>り<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>し……いや、峰打ちで気絶するまで叩き倒したそうで」

「なるほど」

「お侍さんの心持ちはこうだったそうで『弱いを看板に、女が男を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たぶらかし</span>たとあっては許されぬ』と……」

「こりゃアもっともだ」

と云ったのは、<ruby><rb>易者</rb><rt>うらない</rt></ruby>だという触れ込みの、総髪の男であったが、

「ご主人、何んと思われるかな？」

と、佐五衛門の方を見た。

佐五衛門は、少し当惑したような表情をしたが、

「さようで。女が男を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たぶらかす</span>ということ、こいつアよろしくございませんなあ。……重ね重ね、そのお侍さんはご不運で」

<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>が<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねて炉の火がパッと<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>を立てた。

湯治客たちは一斉に胸を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らせたが、五人が五人ながらたがいに顔を見合わせた。

大盗になった理由

（厭な話だこと）

とお蘭は思った。

（男も男だけれど、女の方が悪いわ……）

この<ruby><rb>囲炉裡側</rb><rt>いろりばた</rt></ruby>へは、毎夜のように客が集まって来て、無聊なままに世間話をした。それを聞くのを楽しいものにして、お蘭も、毎夜のようにここへ来て、お<ruby><rb>母親</rb><rt>かあ</rt></ruby>さんが早く<ruby><rb>死去</rb><rt>なくな</rt></ruby>り、お<ruby><rb>父親</rb><rt>とう</rt></ruby>さん一人きりになっている、その大切なお<ruby><rb>父親</rb><rt>とう</rt></ruby>さんの側に坐り込み、耳を澄ますのを習慣としていた。

しかし十七歳の、それも一月後には嫁入ろうとする<ruby><rb>処女</rb><rt>きむすめ</rt></ruby>にとっては、今の「女を憎む男の話」は嬉しいものではなかった。

（わたし行って寝ようかしら）

「ところが、そのお侍さんは気の毒にも、女のためばかりでなく、金のために、とうとう半生を誤りましてねえ」

と、絹商人だという男が話し出したので、お蘭は、つい、また聞き耳を立てた。

「その後、そのお侍さんは、いよいよ零落し、下谷のひどい裏長屋に住むようになられたそうです。ところがその長屋の大屋さんですがちょっとした物持ちでしてな、<ruby><rb>因業</rb><rt>いんごう</rt></ruby>だったので憎まれていましたが、大屋のうえに金持ちなので歯が立たず、<ruby><rb>店子</rb><rt>たなこ</rt></ruby>たちは歯ぎしりしながらも<ruby><rb>追従</rb><rt>ついしょう</rt></ruby>していたそうです。ところがある晩、祝い事があるというので、この大屋さん、店子一同を<ruby><rb>自宅</rb><rt>うち</rt></ruby>へ<ruby><rb>招待</rb><rt>よ</rt></ruby>んでご馳走したそうで。とそこへ<ruby><rb>新鋳</rb><rt>しんぶき</rt></ruby>の小判十枚が届けられて来たそうです。ナーニ、その小判の自慢をしたかったので大屋の<ruby><rb>禿頭</rb><rt>はげあたま</rt></ruby>、店子たちを<ruby><rb>招待</rb><rt>よ</rt></ruby>んだんで。さて自慢をしたはいいが、ご馳走が終ってみんな帰った後で、小判を調べてみると、一枚不足しているんで。盗られた！　と思ったとたんに自分と一番近く並んでいた貧乏なお侍さんの、物欲しそうだった顔が眼に浮かんで来たそうで。そこで『盗んだなアあいつだ』と云いふらしたそうで。これが長屋中の評判になったんですねえ。お侍さんはとうとう居たたまらずに長屋を出たそうですが、出る際黙って小判一枚を大屋さんの門口から抛りこんだそうで。『やっぱりあいつがやったんだわい』と大屋さんはまたこのことを云いふらしたそうですが、その実お侍さんは、大事な刀を売りはらって、その金で<ruby><rb>償</rb><rt>つぐな</rt></ruby>ったのだそうです。ところがどうでしょうその年の<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おおみそか</rt></ruby>になって、煤払いをしたところ、なくなったと思った<ruby><rb>新鋳</rb><rt>しんぶき</rt></ruby>の小判が畳の下から出て来たそうで。さあさすがの大屋さんも参りましたねえ。『あのお侍さんにあやまらなければならねえ』とその<ruby><rb>行方</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>をさがしましたが、行方がわからない。当惑しながら日を送り、三月になるとお花見、<ruby><rb>向島</rb><rt>むこうじま</rt></ruby>へお花見に行ったところ、そのお侍さんが花の下で、<ruby><rb>謡</rb><rt>うたい</rt></ruby>をうたって合力を乞うていたそうで。そこで大屋の禿頭、オズオズ寄って行って、事情を話して小判を返そうとすると『エイ！』という鋭い声で。見れば大屋の首が堤の上に、ころがっていたそうで。というところへ行きたいんですが、やはり峰打ちで叩き倒したんだそうで。……しかし、それからが大変で『金がなければこそこの恥辱を受ける』とそのお侍さん、その晩大屋さんの家へ<ruby><rb>強盗</rb><rt>おしこみ</rt></ruby>にはいって、大金を奪いとったのを手始めに、大泥棒になったそうです」

風呂の中の人形

「泥棒に！」

と、<ruby><rb>脅</rb><rt>おび</rt></ruby>えたような声で云ったのは佐五衛門であった。でも、すぐに幾度も頷き、

「無理はない。次から次と、ひどい目にあわされれば、どんな人間だろうと……」

「おおご主人もそうお思いか」

と、云ったは、<ruby><rb>易者</rb><rt>うらない</rt></ruby>という触れ込みの男であったが、

「それで安心」

と口を辷らせたように云い継ぎ、ハッとしたように、急に黙ってしまった。この時深い谷の方から鋭い笛の音が一声聞こえて来た。

「何んだろう」

と云ったのは、佐五衛門であった。

「<ruby><rb>季節</rb><rt>しゅん</rt></ruby>違いだから鹿笛じゃアなし。……<ruby><rb>呼笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>かな」

首をかしげ、眉と眉との間へ皺をたたんだ。

お蘭は立ち上がった。

「どこへ行くんだえ」

「お湯へはいって、それから寝るの」

「こんな晩は早く寝た方がいいなア」

五人の湯治客も、今の笛の音に不審を起こしたらしく、黙って顔を見合わせ、耳を澄ました。

お蘭は湯に<ruby><rb>浸</rb><rt>つ</rt></ruby>かりながら空想にふけっていた。

（あたしは男に憎まれたり、大事な男の心を、女を憎むようなひねくれた心になんかしやしない）

そんなことを空想していた。大事な男というのは、一ヵ月先になると自分の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>となるべき、<ruby><rb>布施屋</rb><rt>ふせや</rt></ruby>の息子のことであった。

（進一さんだって、わずかな金――小判一枚の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆきちがい</span>ぐらいで、人を叩き倒すような<ruby><rb>兇暴</rb><rt>あら</rt></ruby>い<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>の人じゃアないから安心だわ）

彼女にはさっきの湯治客の話が、やはり心にかかっているのであった。

この湯殿は<ruby><rb>主屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>と離れてたててあり、そうして主屋よりひくくたててあった。それで二十段もある階段が<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>に上にかかって、その行き詰まりの所に出入り口があり、そこに古びた長方形の行燈がかけてあった。それでこの十坪ぐらいしかない湯殿は、ほんのぼんやりとしか明るくなかった。<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>の広さは三坪ぐらいでもあろうか、だから高い階段の一番上に立って、湯に浸かっているお蘭を見下ろしたなら、薄黄色い行燈の光と、灰色の湯気とに包まれた、可愛らしい小さい<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>の人形が、行水でも使っているように見えたことだろう。<ruby><rb>明礬質</rb><rt>みょうばんしつ</rt></ruby>のこの<ruby><rb>温泉</rb><rt>いでゆ</rt></ruby>は、清水以上に玲瓏としていて、<ruby><rb>入浴</rb><rt>はい</rt></ruby>っている人の体を美しく見せた。胸が豊かで、膝から下の足が素直に延びているお蘭の体は、湯から出ている胸から上は<ruby><rb>瑪瑙色</rb><rt>めのういろ</rt></ruby>に<ruby><rb>映</rb><rt>は</rt></ruby>えていたが、胸から下は、<ruby><rb>白蝋</rb><rt>はくろう</rt></ruby>のように蒼いまでに白く見えていた。お蘭は時々唇をとんがらせ、顔を上向け、眼の辺へかかって来る、絹糸のような湯気を吹き散らした。フーッと音を立てて吹くのであった。その動作は、罪のない子供の、屈托のない動作そのものであった。

フーッとまた吹いた。そうして笑った。

と、その時<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方で物音がした。お蘭は振り返って見た。頬冠りをした一人の男が、階段の下に、行燈の光を背にして立っていた。

「まあ」

とお蘭は云った。

「それ妾の着物よ。どうするのさ」

男女混浴の湯殿へ、男がはいって来るに不思議はなかったが、その男が、衣裳棚の中へ脱ぎ入れてあったお蘭の着物を抱えていたので、そう云ったのであった。男は着物を棚の中へ返した。

「お湯へはいったらどう」

とお蘭は云った。

「お客様ね、何番さん？」

しかし男は返辞をしないで、暗い頬冠りの中から刺すような眼でお蘭を見詰めた。

「おかしな人ね。……何番さんだったかしら？　……お湯へおはいりなさいよ」

そういうとお蘭は、背中を<ruby><rb>湯面</rb><rt>ゆおもて</rt></ruby>へ浮かせ、<ruby><rb>蛙泳</rb><rt>かわずおよ</rt></ruby>ぎをして<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>の向こう側へ泳いで行き、振り返ると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんのくぼ</span>を湯槽の縁へかけ、フーッと、唇をとんがらかして湯気を吹き、男と向かい合った。

「おかしな人ね、棒ッ杭のように突っ立ってるってことないわ。……わかった、あんた恥ずかしがり屋さんね、女の子と一緒にお湯へはいるの恥ずかしいのね。……大丈夫、あたし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまやア</span>しないことよ。……おはいりなさいよ。フーッ」

「はいってもいいかい」

と男ははじめて云った。その声は深みのある、また濁りのある、聞く人の心をゾッとさせるようなところのある声であった。しかも<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を憚るように、押し殺した声であった。

怪しの男

でもお蘭にはそんなことは気が付かないらしく、

「どうしたって変な人ね、湯治に来たくせに、湯へはいっていいかいなんて。……おはいりなさいよ」

「じゃアはいろう」

男は<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>の中へ下りて来た。すぐ沈んだ。

「湯の中へ頬冠りしたままではいるなんてことないわ。おとりなさいよ」

「取らねえ方がいいようだ」

「何故よ」

「恐がるといけねえ」

「誰がよ」

「娘っ子が」

「あたし？　フーッ。……湯屋の娘が男の顔見て恐がっていたのでは商売にならないわ。フーッ。明日は雨よ、今夜のお湯とても湯気が濃いんだもの。匂いだって強いし。……こうと、あんたきっと<ruby><rb>猟師</rb><rt>かりゅうど</rt></ruby>さんね」

「猟師？」

と男は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっく</rt></ruby>りし、

「何故だい？」

「いい体しているもの。……骨太で、肉附きがよくて、肩幅が広くて……」

「猟師じゃアねえ」

「じゃア<ruby><rb>樵夫</rb><rt>きこり</rt></ruby>さんね」

「樵夫だって」

吃驚りして、

「違う」

「そう」

「お前さん何んていう名だい？」

と今度は男が訊いた。

「お蘭ちゃん」

「ふうん。そのお蘭ちゃん<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>だい？」

「十七」

「年頃だ」

「そうよ。だから<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>来月お嫁に行くんだわ」

「どこへ？」

「進一さんの所へ」

「親しそうに云うなア。<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>から知ってる男かい？」

「幼な馴染なの」

「お前さんを可愛がっているかい？」

「<ruby><rb>雪弾丸</rb><rt>ゆきだま</rt></ruby>投げつけてよく泣かせたわ」

「ひどい野郎だな」

「あたしの泣き顔が可愛いのでそれが見たかったんだって」

「負けた」

と男ははじめて笑った。好意ある笑い方だった。

この時、また鋭い笛の音が谷の方から聞こえて来た。と、それに答えて、山の方からも同じような笛の音が聞こえて来た。

「チェ」

と男は舌打ちをした。

「取巻きゃアがったな」

「何よ？」

とお蘭は聞き咎めた。

「取巻いたって？」

「<ruby><rb>猛々</rb><rt>たけだけ</rt></ruby>しいケダモノを取巻いたというのさ」

「猪？　……だって、<ruby><rb>季節</rb><rt>しゅん</rt></ruby>じゃアないわ」

「猪よりもっと恐ろしいケダモノだ」

「何んだろう？」

「邪悪――そうだ、女をとりわけ憎んだっけ。……<ruby><rb>強盗</rb><rt>おしこみ</rt></ruby>、<ruby><rb>放火</rb><rt>ひつけ</rt></ruby>、<ruby><rb>殺人</rb><rt>ひとごろし</rt></ruby>、ありとあらゆる悪業を働いた野郎だ」

「じゃア『三国峠の<ruby><rb>権</rb><rt>ごん</rt></ruby>』のような奴ね」

「知ってるのか？」

「三国峠の権の<ruby><rb>悪漢</rb><rt>わるもの</rt></ruby>だってこと、誰だって知ってるわ。でも、その権、ご領主様に捕えられたじゃアないの」

「うん、沼田のお城下で、土岐様の手に捕えられたよ」

「お牢屋へ入れられたっていうじゃないの」

「その牢を破ったんだ」

「まア。いつ？」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>」

「まア」

「そいつがこの土地へ逃げ込んだらしい」

「どうして解るの？」

「捕り手がこの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>を取巻いたからさ」

「じゃアこの家の中に？」

「うん。……恐いか！」

「恐いわ」

「だから俺はさっき恐かアないかと云ったんだ！　俺が権だ！」

ヌーッと男は、湯から、<ruby><rb>巨大</rb><rt>おおき</rt></ruby>な柱でも抜き上げたように立ち上がった。

「フーッ」

とお蘭は湯気を吹いた。

「あたし思いあたったわ、あんたきっと役者ね」

「何んだって？」

「あんたきっと旅役者だわ」

「…………」

「とても芝居うまいものね」

男は湯の中へ沈んでしまった。

三国峠の権

「そうかい、俺を役者だというのかい」

と男は溜息をしながら云った。頬冠りの顔は俯向いて、湯の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に見入っていた。

「三国峠の権の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>上手だものね。お役者さんよ」

「どうして物真似だってこと解るんだい？」

「そりゃア<ruby><rb>眼力</rb><rt>め</rt></ruby>だわ。……あたし客商売の<ruby><rb>温泉宿</rb><rt>ゆやど</rt></ruby>の娘でしょう。ですから、悪い人かいい人か、贋物か本物かってこと一眼見ればわかるわ」

「なるほどなア、それで<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らを……」

「いい人だと睨んだのよ。だってそうでしょう、女と一緒にお風呂にはいるの恥ずかしがったり、顔見られるの恥ずかしがって、頬冠り取らなかったりするあなたですものね。恥ずかしがり屋に悪人ってものないわ」

「恥ずかしがり屋に悪人はないとも。……だが<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>ら恥ずかしがり屋かなア」

「あたしの眼に狂いないわ」

「それならいいが」

「フーッ。狂いないわ」

「<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らア初めてだ」

と男はしみじみとした声で云った。

「<ruby><rb>冒頭</rb><rt>のっけ</rt></ruby>から善人だと女に云われ、何んの疑がいもなく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつかって</span>来られたなア、今夜のお蘭ちゃんが初めてだ。……礼云うぜ」

烈しい<ruby><rb>呼笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>の音がこの<ruby><rb>温泉宿</rb><rt>ゆやど</rt></ruby>の表と裏とから聞こえ、遙かに離れている主屋の方から、大勢の者の詈しり声や悲鳴や、雨戸や障子の仆れる音が聞こえて来た。

「<ruby><rb>捕手</rb><rt>いぬ</rt></ruby>どもとうとう<ruby><rb>猟立</rb><rt>かりた</rt></ruby>てに来やがったな！　ようし！」

こう云った時にはもう男は湯槽から躍り上がっていた。

「おいお蘭ちゃん、済まないがお前の着物貰って行くぜ、……着物どころかお前の体も貰うつもりだったが、<ruby><rb>裸身</rb><rt>はだか</rt></ruby>で――そうよ、心も体も綺麗な裸身でぶつかって来られたので、俺らにゃア手が出せなかった。……お前のためにも<ruby><rb>幸福</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>だったろうが、俺らにも幸福だった。<ruby><rb>将来</rb><rt>これから</rt></ruby>は俺らは女だけは。……それもお前のおかげで女の<ruby><rb>観方</rb><rt>みかた</rt></ruby>変わったからよ。世間にゃお蘭ちゃんのような女もあると思やアなア。……それにしても、俺らに<ruby><rb>最初</rb><rt>はな</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつかって</span>来た女が、お前のような女だったら、俺らこんな身の上にゃアならなかったんだが……」

頬冠りを取り、手拭いで体を拭き拭き、

「それにしても進一さんて人は<ruby><rb>幸福</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>だなア、お蘭ちゃんのような可愛らしい人を嫁さんにするなんて。……おいお蘭ちゃん、俺らお前さんに<ruby><rb>餞別</rb><rt>はなむけ</rt></ruby>するぜ。どうかまア今のような綺麗な<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>の心で、進一さんに尽くしてくんなと。……男なんてもなア女のやり方一つで、どうにでもなるんだからなあ」

男は手早くお蘭の着物を<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>った。

「アッハッハッ、この風で<ruby><rb>捕手</rb><rt>いぬ</rt></ruby>どもの眼を<ruby><rb>眩</rb><rt>くらま</rt></ruby>し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とっ</span>走るのよ！　……おかげで湯にもはいれた。……心と一緒に体も綺麗になったってものさ」

お蘭は驚愕した大きな眼で男の顔を見詰め、

「あ、あんたの耳！　ないわないわ、一つしかないわ！」

男はこの時もう階段を上がっていたが、振り返ると云った。

「三国峠の権は片耳なのだよ」

三国峠の権が女装をし頬冠りをして湯殿から飛び出し、廊下づたいに主屋の方へ走り出した時には、沼田藩の捕り手たち数十人が、この<ruby><rb>温泉宿</rb><rt>ゆやど</rt></ruby>へ混み入って、部屋部屋を探し廻っていた。<ruby><rb>上野</rb><rt>こうずけ</rt></ruby>、<ruby><rb>下野</rb><rt>しもつけ</rt></ruby>、<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>、<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>、<ruby><rb>安房</rb><rt>あわ</rt></ruby>、<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>、<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>、<ruby><rb>相模</rb><rt>さがみ</rt></ruby>と股にかけ、ある時は一人で、ある時は数十人の<ruby><rb>眷属</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>と共に、<ruby><rb>強盗</rb><rt>おしこみ</rt></ruby>、<ruby><rb>放火</rb><rt>ひつけ</rt></ruby>、<ruby><rb>殺人</rb><rt>ひとごろし</rt></ruby>の兇行を演じて来た、武士あがりのこの大盗が、破牢して逃げたということだけでも、沼田藩は、捕り手組子を押し出して捕縛に大わらわにならなければならないのであったが、そればかりでなく、三国峠の権は、破牢するとその夜、藩の蔵奉行五百枝将左衛門の屋敷へ押し入り、主人将左衛門の片耳を切り落とし、「汝の娘、<ruby><rb>松乃</rb><rt>まつの</rt></ruby>の嫁入り先、長岡の牧野家の槍奉行、坂田方へ押し入り、松乃の片耳を切り取るぞよ」と威嚇して立ち去ったのであった。一藩が<ruby><rb>震駭</rb><rt>しんがい</rt></ruby>し、数十人の捕り手を繰り出し、逃げ込み先の猿ヶ京の<ruby><rb>温泉</rb><rt>いでゆ</rt></ruby>をおっとり囲んだのは当然といえよう。

権は今廊下を走って行く。と、行く手に四、五人の捕り方が現われた。権は素早く廊下添いの部屋の襖を開けて飛び込んだ。

「それ」

と捕り方たちは走って来た。襖をあけて覗くと、若い女が俯伏しに寝て、両袖で顔をかくしていた。

「女だ」

「恐いことはないぞ。アッハッハ」

と、捕り方たちは走り去った。権はしばらく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>としていたが、やがて起き上がると廊下へ出、主屋の方へ小走り出した。廊下が丁字形になっている所へ来た。左へ曲がったとたん、二人の捕り方に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつ</span>かった。顔を見られた。

懺悔の妻

「曲者！」

と一人の捕り方が正面から組付いて来た。

「わッ」

と捕り方は悲鳴をあげて仆れた。脇腹から血が流れ出ている。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>おのれ</rt></ruby>！」

ともう一人の捕り方が横から躍りかかった。権の<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>が捕り方の咽喉へ飛んだ。権は、仆れてノタウチ廻る捕り方を見すてて走った。

「お<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>アーッ」

と呼ぶ声がした。行く手の降り口から、囲炉裡<ruby><rb>側</rb><rt>ばた</rt></ruby>で、片耳のない武士の話をしていた絹商人が、顔を出していた。

「七五郎か、他の奴らは？」

「さっきまで囲炉裡側で、五人揃って、お頭のおいでになるのを待っていましたが、<ruby><rb>捕方</rb><rt>いぬ</rt></ruby>どもが飛び込んで参りましたのでチリヂリバラバラ、この家のあちこちに……」

「集めなけりゃアならねえ。……一つに集まって三国を越して越後境いへ！」

主屋と離れ、崖の中腹に、懸け作りになっている<ruby><rb>別館</rb><rt>はなれ</rt></ruby>が一棟、桜や椿や<ruby><rb>朴</rb><rt>ほお</rt></ruby>の木に囲まれ、寂然として立っていた。主屋と<ruby><rb>別館</rb><rt>はなれ</rt></ruby>とをつないでいるものは、屋根を持っている渡り廊下で、真珠のような月の光が、木の間を洩れて廊の欄干へ、光の斑を置いていた。別館の一間に寝ているのは、耳を病んでいる松乃であった。枕もとには水を張った小桶が置いてあり、その横には<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の<ruby><rb>内記</rb><rt>ないき</rt></ruby>が、心配そうにして坐っていた。

この優しい親切な良人は、寝もしないで妻の介抱をしているのであった。

「だんだん騒ぎが烈しくなるが、何んだろう？」

長岡藩の槍奉行、坂田内蔵之丞の総領内記は、妻が眠るようにと、わざと燈を細めた行燈を無心に見詰め、耳をかしげながら呟いた。

松乃は、痛む左の耳を上にし、反対の頬を枕にうずめ、夜具の襟から、蒼白の顔を覗かせ、眼を閉じていた。さっき、鋭い<ruby><rb>呼笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>がし、つづいて主屋の方から、悲鳴や、襖、障子を蹴ひらく音や、走り廻る音が聞こえて来、<ruby><rb>僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>の三平<ruby><rb>翁</rb><rt>じいや</rt></ruby>が、あわただしく様子を見に行ったがまだ帰って来ない。――これらのことも心にかかっていたが、しかし彼女には、もっと心にかかることがあった。

それは、この部屋そのものであった。

彼女がまだ娘であった頃、同藩――沼田藩の槍奉行、斉藤源太夫の息子源之進と結婚することになり、婚礼の席へ臨んだ。ところが源之進が余りの<ruby><rb>醜男</rb><rt>ぶおとこ</rt></ruby>なのに厭気がさし（長いこれからの浮世を、こんな男と一緒にくらさなければならないとは。厭だ厭だ）と思い詰め、<ruby><rb>生</rb><rt>き</rt></ruby>一本の娘の、<ruby><rb>前後</rb><rt>あとさき</rt></ruby>見ない感情からその席を<ruby><rb>遁</rb><rt>の</rt></ruby>がれ、実家へ逃げ帰り、居合わせた若党の井口権之介というのを連れ、夢中で家出し、駕籠で山越えをし、この猿ヶ京の、この桔梗屋の、この<ruby><rb>別館</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の、この部屋で一夜を明かしたが……

（その因縁の部屋へ泊まるとは）

松乃は眼を開き、いまさらに部屋の中を見廻した。<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>の山の<ruby><rb>温泉</rb><rt>ゆ</rt></ruby>の宿は、部屋の<ruby><rb>造作</rb><rt>つくり</rt></ruby>も<ruby><rb>装飾</rb><rt>かざり</rt></ruby>も<ruby><rb>以前</rb><rt>むかし</rt></ruby>と変わらなかった。天井の雨漏りの跡さえそのままであった。

（主家の娘を<ruby><rb>誘惑</rb><rt>そそのか</rt></ruby>したというかどで、権之介は、お父様に片耳を剃がれて放逐されたが、その後どうしたことやら。……噂によれば、身を持ち崩したあげく、恐ろしい大賊になったということだが……三国峠の権という大賊に。……それもこれも元はといえば<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>の不注意から。……あの人には罪はなかったのだ）

「痛い！」

と松乃は思わず悲鳴をあげた。耳の痛みが烈しくなったからである。

<ruby><rb>実父</rb><rt>ちち</rt></ruby>の将左衛門から、久しく逢わないから逢いたい、婿殿ともども逢いに来るようにと<ruby><rb>伝言</rb><rt>ことづて</rt></ruby>があった。そこで松乃は良人と一緒に里帰りの旅へ出たのであったが、昨夜、<ruby><rb>浅貝</rb><rt>あさかい</rt></ruby>の<ruby><rb>旅宿</rb><rt>やどり</rt></ruby>あたりから耳が痛み出し、次第に烈しくなって来た。今は堪えられないほどに痛むのであった。

（片耳を切られた権之介の怨み！　それで妾の耳が！）

こんなことも思われた。

（恐ろしい因縁の部屋で、痛む耳の手あてをするとは）

ゾッとするような思いもした。

そっと良人を見た。妻の過去の過失など知らないで、ただただ松乃を愛している内記は、気づかわしそうに妻の顔を見詰め、

「痛むか、困ったのう。この辺には医者はなし……」

と云った。

主屋の方でのけたたましい物音は、いよいよ烈しくなった。

と、渡り廊下をこっちへ走って来る足音がした。

内記は思わず刀を引きつけた。

あわただしく襖をあけて走り込んで来たのは<ruby><rb>僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>の三平であったが、

「大変でございます。お捕り物で！　……昨夜、沼田様のお牢を破りました三国峠の権という大泥棒が……」

「あッ」

と松乃は起き上がった。

「三国峠の権が？」

「はい。……破牢したばかりか、……奥様、旦那様、決してお驚きなさいますな、……それに致しても何んと申してよいやら……その権という泥棒、奥様の<ruby><rb>実家</rb><rt>おさと</rt></ruby>、五百枝様のお屋敷へ忍び入り、将左衛門様の片耳を切り取り……」

「あッ」

と松乃は立ち上がった。

「お父様の片耳を！　……権が！」

「はい。……そうしてここへ、この猿ヶ京へ逃げ込みましたそうで。……それで沼田様からお捕り方が出……」

「権！　権之介よ！　……無理はない、さあ妾の耳も切っておくれ！　……みんな妾が悪かったからじゃ！　……切って怨みを晴らしておくれ！　……おお痛む！　痛む痛む耳！　いっそ切られた方が！　……あげまする、この耳あげまする！　権よ権よ切っておくれ！　……昨夜から痛む訳じゃ！　お父様がお切られなされたのじゃもの！　……同じ時刻から痛み出した耳！　……親の苦痛が娘へ伝わったのじゃ！　……それもこれも権の怨み！　……権よ、さあこの耳を切っておくれ！」

松乃は廊下へ走り出た。

救われた命、助かった心

これより少し<ruby><rb>以前</rb><rt>まえ</rt></ruby>のことであるが、桔梗屋の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>佐五衛門は、行燈を提げ、帳場の辺をウロウロしていた。

（娘は？）

とこのことばかりを思っていた。

（どこへ行ったろう？　何をしているのだ！　こんな時に、こんな物騒な時に！）

廊下の方から、部屋部屋から、二階からも<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>からも、足音、悲鳴、呶声、罵しり声、物を投げる音、襖障子を<ruby><rb>開閉</rb><rt>あけたて</rt></ruby>する音が、凄まじく聞こえて来た。

――五人の湯治客が囲炉裡<ruby><rb>側</rb><rt>ばた</rt></ruby>で、片耳のない武士の話をしていると、表戸を蹴開き十数人の捕り方が混み入り「三国峠の権という盗賊この家に潜みおる、<ruby><rb>縛</rb><rt>から</rt></ruby>め取るぞ」と叫び家探しにとりかかった。裏口からも捕り方は侵入したらしく、その方からも足音や呶声が聞こえて来た。

それはほんの<ruby><rb>寸刻前</rb><rt>いましがた</rt></ruby>のことで、今はもうこの店の間には、捕り方も湯治客もいなかった。捕り方は奥へ走り込み、湯治客たちは<ruby><rb>散々</rb><rt>ちりぢり</rt></ruby>に逃げたからであった。

「娘は？」

<ruby><rb>暴風</rb><rt>あらし</rt></ruby>の吹いた後のように、帳場格子は折れ、硯箱はひっくりかえり、薬罐は<ruby><rb>灰神楽</rb><rt>はいかぐら</rt></ruby>をあげている店の間を、グルグル廻りながら（娘は？）と佐五衛門は、そのことばかりを思った。

（あッ、風呂へはいりに行ったっけ！）

やっと思い出した。そこで行燈を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出し、廊下の方へ走り出した。

「お父様アーッ」

と、お蘭が、その廊下から駆け込んで来た。

「お蘭が！　わッ、その<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>は！」

お蘭は、男の着物、それも<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>のような着物を纒っていた。

「これ、権の着物よ、三国峠の権の……」

「権の？　じやア手前、……」

「逢ったの、権と。……風呂で……」

「ヒエーッ、それじゃア手前、体を、権に！　ヒエーッ、嫁入り前の体を！」

「何云ってるのよ。権、いい人だわ、恥ずかしがり屋だわ。悪人じゃアないわ。妾の眼に狂いはないわ！　……助けてやらなけりゃア！　捕られちゃア可哀そうよ」

「手エ付けなかったと？　お前へ！」

（本当だろうか？）

（本当ならどんなに有難いことか！）

と思う心の裏に、そんなことのあろう筈がないという不安が、すぐに湧いて来た。

（兇悪で通っている三国峠の権が、若い娘と、人のいない風呂で……）

ムラムラと疑惑が募るのであった。

でも、彼は、娘が、ひたむきに権を助けようとして<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>るばかりで、権に対し、怒りも悲しみも怨みもしていない様子を見ると、やはり権が、自分の娘へ毒牙を加えなかったことを、認めるより仕方がなかった。

（好きな<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>の進一と、一月先になると、<ruby><rb>夫婦</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>になることになっている娘だ、それが泥棒に……そんなことをされようものなら、泣き喚き怨み憤るは愚か、突き詰めた心で、首を<ruby><rb>絞</rb><rt>くく</rt></ruby>るぐらいのことはやるだろう。それだのにどうだお蘭は、泥棒の権を助けようとして夢中になっている。……とすると権は、やっぱり、ほんとうに、お蘭に手をつけなかったんだ！）

「偉えぞ権！」

と、佐五衛門は、嬉しさと、感謝と、神々しい奇蹟にでも<ruby><rb>遭遇</rb><rt>ぶつかっ</rt></ruby>たような心持ちとで、思わず喚き出した。

「悪人じゃアねえとも、権！　悪人どころか、神様みたいな男だ！」

「<ruby><rb>竹法螺</rb><rt>たけぼら</rt></ruby>を、お父さん、竹法螺を！」

「吹くか、いいとも、竹法螺吹いて、捕り方の奴らを！」

柱にかけてあった竹法螺を佐五衛門は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>外した。

「妾が吹く、妾が！」

と、お蘭は、父親から竹法螺を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひったくる</span>と、蹴放されたままで、月光を射し込ませている表戸の<ruby><rb>開間</rb><rt>あきま</rt></ruby>から、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ走り出た。

その後を追って佐五衛門も走った。

と、その時、捕り方の叫ぶ声が聞こえて来た。

「方々、ご用心なされ、三国峠の権の手下五人が、この湯宿に、権めを待ち迎えおるということでござるぞ！」

（あッ）

と佐五衛門は、それを聞くと、思わず口の中で叫んだ。そうして思った。

（そうか、これで解った、炉端に集まっていた五人の湯治客、三国峠の権の手下だったんだ。あいつらの話した話は――片耳を切られた<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>の話は、権の過去の出来事だったんだ。ああいう話を<ruby><rb>俺</rb><rt>おい</rt></ruby>らに聞かせておいて、こんな場合に、味方になってくれと謎をかけたんだ。それに違えねえ。……つづけざまにあんな目に逢わされりゃア誰だって悪党にならア。……三国峠の権、根は善人とも！）

谷の方から竹法螺の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が聞こえたので、捕り方たちは、三国峠の権が捕えられたと思ったのだろう、屋内や木蔭などから走り出し、谷を目ざして走って行った。と、その隙を狙い、五人の手下に護られた三国峠の権が、谷とは反対の、山の方へ遁がれて行くのが見られた。一刻も早く姿を隠さなければならなかった。見れば、主屋と離れて、山の中腹に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かけ</span>づくりになっている<ruby><rb>別館</rb><rt>はなれ</rt></ruby>があって、主屋と廊下でつながれていた。あの別館へ一時身をかくし、手下どもが用意して来た衣裳と着換えよう――こう権は思った。そこで崖をよじ上り、廊下へ這い上がった。部屋の中へ駆け込もうとしたとたんに、

「……権よ！　この耳を切っておくれ！」

という女の声が聞こえ、部屋から女が走り出して来た。

「…………」

「…………」

権之介――三国峠の権と松乃とはヒタと顔を合わせた。

谷からは尚お蘭の吹く竹法螺の音が聞こえて来ていた。

「権！　……権之介様、恨みある妾の耳を、さあお切りくださいませ！」

谷からは、――本当は悪党ではない三国峠の権よ、早くここから逃げておくれというように、お蘭の吹く竹法螺の音が聞こえて来た。

「俺ア」

と権は云った。

「お前なんか知らねえ、昔から今までお前のような女知らねえ」

松乃は廊下へ仆れた。

耳の痛みが次第に消えて行く中で彼女は思った。

（救われた！　妾は救われた）

三国峠の林の中を、五人の手下と一緒に、今は悠々と歩きながら、三国峠の権は思った。

（誰が吹いたかしらねえけれど、竹法螺のおかげで、俺ア助かったのだ）

権はその後改心したという。