一

ここは浅草の奥山である。そこに一軒の料理屋があった。その奥まった一室である。

四人の武士が話している。

夜である。初夏の宵だ。

「どうでも<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>す必要がある」

こういったのは三十年輩の、いやらしいほどの美男の武士で、寺侍かとも思われる。俳優といってもよさそうである。衣裳も持ち物も立派である。が、寺侍でも俳優でもなく、どうやら裕福の浪人らしい。

「どうして誘拐いたしましょう？」

こうきいたのは三十二、三の武士で、これは貧しい浪人らしい。左の小指が一本ない。はたしあいにでもまけて切られたのだろう。全体が卑しく物ほしそうである。

「そこはお前達工夫をするさ」

美男の武士は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そっけ</span>ない。

「どうしたものかの？」

と小指のない武士は、一人の武士へ話しかけた。誘拐の相談をしたのである。

「さればさ」

といったのは、二十八、九の、これも貧しげで物ほしそうで、そうして卑しげな浪人であったが、頤に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけど</span>のあとがあった。「姿をやつして立ち廻り、外へ出たところをさらうがよかろう」

「駄目だ、駄目」

と抑えたのは例の美男の武士であった。

「期限があるのだ、誘拐の期限が。それを過ごすと無駄になる。外へ出たところをさらうなどと、悠長なことはしていられない。今夜だ、今夜だ、今夜のうちにさらえ」

「では」

といったのは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もう</span>一人の武士で、四十がらみで薄あばたがあり、やはり同じく浪人と見え、衣裳も大小もみすぼらしい。

「ではともかくも姿をやつし、屋敷の門前を徘徊し、様子を計って忍び込み、何んとか玉を引き上げましょう」

「それがよかろう。ぜひに頼む」――美男の武士はうなずいた。「しかし一方潜入の方も、間違いないように手配りをな」

「この方がかえって楽でござる」こういったのは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけど</span>のある武士で、「人殺し商売は慣れておりますからな」

「それにさ」と今度は薄<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あばた</span>のある武士が、「敵には防備もないそうで」

「うん」といったは美男の武士である。「それに相手そのものが、一向腕ききではないのだからの」

「とはいえ聡明な人物とか、どんな素晴らしい用心を、いたしておるかもしれませんな」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけど</span>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あと</span>のある武士である。

「そうだそうだ、それは判らぬ」美男の武士は合槌をうった。「で、十分いい含めてな」

「よろしゅうござる。大丈夫でござる。……島路、大里、矢田、小泉、これらの手合いへも申し含めましょう。……いや実際あの連中と来ては、飯より人殺しが好物なので」

「それはそうと花垣殿」ニヤニヤ笑いながら美男の武士へ、こういったのは薄<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あばた</span>のある武士、「報酬に間違いはありますまいな」

すると花垣と呼ばれた武士は――その名は志津馬というのであったが、さも呑み込んだというように、ポンとばかりに胸を打った。「大丈夫だよ、安心するがいい」

「これはそうなくてはなりますまいて。濡れ手で粟のつかみ取り――という次第でございますからな」

「その代わり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こいつ</span>が失敗すると」花垣志津馬不安そうである。「あべこべに相手に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">してやられる</span>」

「だからわれわれを鞭撻し、十分にお働かせなさるがよろしい」ちょっと凄味を見せたのは、指の欠けている武士であった。

「というのはどういう意味なのかな？」

ちゃアんと分っておりながら、知らないように志津馬がいう。

「いただきたいもので、前祝いを」

「酒はさっきから飲んでいるではないか」

こういいながら花垣志津馬は飲み散らした杯盤を眺めやった。

と、ハッハッという笑声が、三人の口から同時に出た。

「酒も黄金の色ではあるが、ちと、その、どうも水っぽくてな」

「チャリンチャリンと音のするやつを」

「なんだなんだ、金がほしいのか」

今気がついたというように、花垣志津馬は苦笑したが、

「持ってけ持ってけ。……分けろ分けろ」

「これは莫大……」

「十両ずつかな」

「後へ二十両残りそうだ」

「うん、しめて五十両か」

安浪人め、三人ながら、手を延ばすとあわてて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>つかんだが、ちょうどこの頃一軒の屋敷の、一つの部屋で一人の武士が誰にともなく話しかけている。

二

「みんなお前が悪いのだ。俺は怨む、お前を怨む。またある意味では憐れんでもいる。……嫉妬！　そうだ、その嫉妬が、一切お前を眩ませたのだ。そのくせどうだ、お前自身は？　好色そのもののような生活だったではないか！　俺は随分我慢した。最後まで我慢したといってもいい。そうして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いまだ</span>に我慢している。……永い間の受難だった。いや、いまだに受難なのだ。俺ばかりではない。娘もだ！　それをさえお前は餌にした。嫉妬の餌に！　お前の嫉妬！　……だが俺は守って来た、お前の意志を守って来た！　もちろん素晴らしい財産の、継承のためには相違ないが、それより一層俺としては、娘の幸福を願ったからだ。というとお前はいうかもしれない、『その娘が！』『その娘が！』と！　……が、俺はハッキリという、娘は要するに娘だと！　それ以外には意味はない！　それへ疑がいをかけるとは！　それでも母か！　それでも妻か！　……もちろん、彼女はよい娘だ。愛すべき娘には相違ない。で俺は愛したのだ。だがその愛は純なものだ。お前が『あいつ』を愛したそれと、どうして比較出来るものか！　『あいつ』は実に悪人だ。『あいつ』はその後手を変え、品を変え、我々二人を迫害した。そうして今でも迫害している。で、安穏はなかったのだ！　しかしとうとう漕ぎ付けた。今日という日まで漕ぎ付けた。今夜さえ過ごせばもうよかろう。勝利はこっちのものになる。そうしたら俺達は自由になる。お前の意志から解放される。明るい日の目も見られるだろう。……それにしても俺は忘れない。俺達を縛った四ヵ条を！　あれは普通の人間には考えも及ばぬ残酷なものだ。巧妙なものといってもいい。……<ruby><rb>破壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>せばいくらでも破壊される！　手間暇もいらず簡単に、しかも何らの非難も受けず――ところが俺には出来なかった。そういうことの出来ないように、いつか『慣らされ』てしまったからだ。それをお前は知っていた。そこで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そいつ</span>へ付け込んだのだ。そうしてああいう条件を、俺の眼前へ出したのだ。……そこで、俺はハッキリという、お前は俺が良心のために、――俺の持っている良心のために――もがき苦しむのを見ようとして、ああいう条件を出したのだと！　そうしてそれは成功した。で俺は苦しんだよ」

突然ここで武士の声は、悲しそうな呻くような調子となった。

「良心のない者は幸福だ。それは何物にもとらえられないから」

ここで一層武士の声は、悲しそうな調子を帯びて来た。

「ところが俺は持っていた。だから締め木にかけられたのだ！　お前だお前だ、掛けたものは！」

武士の姿は解らない。部屋に燈火がないからである。

闇黒の中で誰にともなく、呼びかけ話しかけているのである。

独立をした建物である。

建物の周囲は庭園である。

樹木がすくすくと繁っている。

だが月光がさしている。

その月光に照らされて、その建物がぼんやりと見える。一所瓦屋根が水のように光り、一所白壁が水のように光り、その外は木蔭にぼかされている。

その中でしゃべっているのである。

広大な母屋が一方にある。そこから廻廊が渡されてある。

と、その廻廊の一所へ、ポッツリと人影が現われた。

若い娘の姿である。

建物に向かって声をかけた。

「お父様、お父様！」

肩の辺に月光がさしている。で、そこだけが生白く見える。

「お父様、お父様！」

――すると、建物の戸口から、ポッツリと人影が現われた。

戸口と廻廊とは続いている。

現われたのは武士であった。

しゃべっていた武士に相違ない。

ちょうど廻廊の真ん中どころで、二つの人影はいきあった。そこへは月光がさしていない。で、姿はわからない。

ただ、声ばかりが聞こえて来る。

「いよいよ今晩でございます。今晩限りでございます」

こういったのは娘らしい。

「ああそうだよ、今晩だよ。そうして今晩限りだよ」

こういったのは武士らしい。

と、しばらく無言であった。

三

ザワ、ザワ、ザワと音がする。木立へ宵の風が渡るらしい。

泉水の水が光っている。月が照らしているからだろう。

泉水の向こう側がもり上がっている。大きな築山でもあるのだろう。その頂きがぬれている。月光がこぼれているからだろう。パタ、パタ、パタ……パタ、パタ、パタ……水鳥の羽音が聞こえて来る。泉水に飼われているのだろう。

一団の真っ白の叢が見える。築山の裾に屯ろしている。ユラユラユラユラと揺れ動く。と、芳香が馨って来た。

牡丹が群れ咲いているのらしい。

と、娘の声がした。

「今夜も行かなければなりますまいか」悲しんでいるような声である。

「お行きお行き、行っておくれ」これは武士の声であった。

「それもお前のためなのだから」

「ああ」と娘の声がした。「どうでもよいのでございます。私のためなど、私のためなど」

咽び泣くような声であった。

「ただ私はお父様のために……」

「娘よ」と武士の声がした。「同時に私のためにもなるよ」

「参るどころではございません。お父様のおためになりますのなら」

ここでまたもや声が絶えた。

で、ひっそりと静かである。

ピシッ！　と刎ねる音がした。

泉水で鯉でも刎ねたのだろう。

やっぱり静かだ。風も止んだ。

と、また娘の声がした。

「恋の<ruby><rb>囮</rb><rt>おとり</rt></ruby>！　恋の囮！」

「いや」とすぐに武士の声がした。「幸福の囮！　幸福の囮！」

だが娘は反対らしい。「金の囮でございます！」

「仕方がないのだ、そういうことも。……この世に生きている以上はな」

「でもいつまでもお父様と、一緒に暮らすことが出来ましたら……」娘の声は思慕的であった。

「思うところはございません」

「それが……」と武士の声がした。たしなめるような声であった。「こういう受難を産んだのだよ」

「可哀そうな可哀そうなお母様！」

「だが私達も可哀そうだった」

「<ruby><rb>虐</rb><rt>しいた</rt></ruby>げられたのでございますから」

「で、それから逃がれなければならない。そうしてその上へ出なければならない」

「逃がれなければなりません。その上へ出なければなりません」

「で、お前は行かなければならない」

「弁吉、右門次、左近を連れて……」

「そうだ、そうして、その上で、所作をしなければならないのだ」

「同じようなことを、長い間……」

「目っからないからだよ、適当な人が……」

「恐らく生涯目っかりますまい」

「目っけなければならないよ。……それも今夜！　今夜限りに！」武士の声には真剣さがあった。

「でも、お父様のある限りは……」こういった娘の声の中には、いよいよ思慕的の響きがある。

と、泣き声が聞こえて来た。

娘が泣いているのらしい。

まだ宵である。で静かだ。屋敷は郊外にあるらしい。

「行っておいで！」と武士の声がした。

「はい」と娘の声がした。

後は森閑と静かである。

間もなく門の開く音がして、それが遠々しく聞こえて来たが、すぐに閉じる音がした。

武士だけが一人立っている。じっとうなだれて考えている。肩の辺に月光がさしている。

と女の呼ぶ声がした。

「今夜はお遁がしいたしません」

「うむ、お前か、うむ、島子か」

「はい」

と女が現われた。中年者らしい女である。

廻廊を伝って寄って来た。

「はっきりご返辞してくださいまし」

四

ここに一人の武士があった。

微禄ではあったが直参であった。といったところでたかが御家人、しかし剣道は随分たっしゃで、度胸もあれば年も若かった。悪の分子もちょっとあり、侠気もあってゴロン棒肌でもあった。名は結城旗二郎、欠点といえば美男ということで、これで時々失敗をした。

「アレーッ……どなたか！　……助けてくださいよーッ」女の悲鳴が聞こえて来た。

お誂え通り<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わる</span>が出て、若い女をいじめているらしい。

「よし、しめた、儲かるかもしれない」

で、旗二郎駈け付けた。

案の定というやつである、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ならずもの</span>らしい三人の男が、一人の娘を取りまいていた。

「これ」といったが旗二郎、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てんごう</span>はよせ、とんでもない奴らだ！」

「何を！」

と三人向かって来た。

「何をではない、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てんごう</span>は止めろ」

「何を！」

と一人飛び込んで来た。

「馬鹿め！」

と抜いた旗二郎、ピッシリ、平打ち、<ruby><rb>撲</rb><rt>は</rt></ruby>り倒した。

「野郎！」

ともう一人飛び込んで来た。

「うふん」

ピッシリ、撲り倒した。

「逃げろーッ」

三人、逃げてしまった。

「あぶないところで、怪我はなかったかな？」こういう場合の紋切り型だ、旗二郎娘へ声を掛けた。

すると娘も紋切り型だ。「はい有難う存じました。お蔭をもちまして幸いどこも……」

「若い娘ごが一人歩き、しかもこのような深夜などに……」これもどうにも紋切り型である。

「送って進ぜよう、家はどこかな？」どこまでいうても紋切り型である。

ところがそれが破壊されてしまった。紋切り型が破壊されたのである。

「屋敷はここでございます」

二人の前に宏大な屋敷が、門構え<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしく立っていたが、それを指差していったからである。

「ははあ」といったものの旗二郎、化かされたような気持ちがした。「それではご自分の屋敷の前で、かどわかされようとなされたので？」

「はいさようでございます」

「つまらない話で」と鼻白んだ。せっかくの武勇伝も駄目になったからだ。「が、それにしても<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>千万！　……何さ何さあなたではござらぬ。あなたの家の人達のことで。……あれほど悲鳴を上げられたのに、出て来られぬとはどうしたもので」こうはいったものの馬鹿らしくなった。（そんなことどうだっていいではないか。こっちにかかわりあることではない。先様のご都合に関することだ）「では送るにも及びますまいな」（あたりまえさ！）とおかしくなった。（十足もあるけば家の中へはいれる）「ご免」といいすてるとあるき出した。（どうもいけない、儲けそこなったよ）

だがその時娘がとめた。「どうぞお立ち寄りくださいまし。お礼申しとう存じます。あの、父にも申しまして」それから門をトントンと打った。「爺や爺や、あけておくれ」

「ヘーイ」と門内から返辞があって、すぐ小門がギーと開いたが、「お侍様え、おはいりなすって。……さあお嬢様、あなたからお先へ」

「はい」と娘、内へはいった。「どうぞお立ち寄りくださいまし」これは門内からいったのである。

結城旗二郎いやになった。「『爺や爺やあけておくれ』『ヘーイ』ギー、門があいて、『お侍様えおはいりなすって』これではまるで待っていたようなものだ。おかしいなア、どうしたというのだ、薄っ気味の悪い屋敷じゃアないか」

で改めて屋敷を見た。一町四方もあるだろうか、豪勢を極めた大伽藍、土塀がグルリと取り廻してある。塀越しに繁った植え込みが見える。林といってもよいほどである。

「この屋敷へノコノコはいって行くには、俺の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みなり</span>は悪過ぎるなあ」

中身は<ruby><rb>銘</rb><rt>な</rt></ruby>ある<ruby><rb>長船</rb><rt>おさふね</rt></ruby>だが、剥げチョロケた鞘の拵えなどが、旗二郎を気恥ずかしくさせたのである。

とまた娘の声がした。「お礼申しとう存じます、どうぞお立ち寄りくださいまし」

「度胸で乗り込め、構うものか」

で旗二郎入り込んだが、これから大変なことになった。

五

ここは屋敷の一室である。

三十五、六の武士が、旗二郎を相手に話している。

「ようこそお助けくださいました。千万お礼を申します。あれは娘でございましてな、名は葉末、年は二十歳、陰気な性質ではございますが、その本性はしっかりものでござる。……迂濶と申せば迂濶の至りで、自分自身の屋敷の前で、かどわかされようとしましたので。とはいえどうもこの屋敷、ご承知の通り甚だ手広く、たとえ門前で悲鳴いたしても、母屋へまでは容易に聞こえず、困ったものでございます。……おおおおこれは申し遅れました、拙者ことは当屋敷の主人、<ruby><rb>三蔵</rb><rt>みくら</rt></ruby>琢磨にございます。本年取って三十五歳、自分は侍ではございますが、仕官もいたさず浪人者で、それに性来書籍が好きで、終日終夜<ruby><rb>紙魚</rb><rt>しみ</rt></ruby>のように、文字ばかりに食いついております次第、隠居ぐらし、隠遁生活、それこそ庭下駄を穿かないこと、二十日間にもわたろうかという、そんな生活をいたしております。……ははあ、あなた様でございましたか、なるほどなるほどご浪人で、ほほうお名前は結城旗二郎殿で、で、お年は？　二十三歳？　それはそれは、ちょうどよろしい。二十歳と二十三歳、全く頃加減でございますからな。……ほほうさようで、御家人の御身で、天下の直参、まことに結構、何んの申し分がありましょう。……ははあご家計はご不如意とか？　なんのなんのそのようなこと、問題になることではございません。……家計と申せば当家などは、それこそ人の羨むほど、豊かなものではございますが、そのためかえって煩い多く、敵さえあるのでございますよ。……が、まずそれはそれとして、もはや深夜でございますので、なにとぞ別室でお休みあって、明朝ゆるゆるお話をな。……いやはやこれはとんでもない、ご内室の有無も承わらず、おとめしようとは失礼いたしてござる。しかしどうやら拝見しましたところ、ご独身のように存ぜられますが。……あッ、さようで、それは幸い、やはりご独身でございましたかな。何から何までよい具合で。……それに大変武芸にも勝れ人品もよく骨柄もよく、お立派なものでございますよ。……ええとところで今夜でござるが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょっとか</span>すると当屋敷へ、襲って来る人間があるやも知れず、ええその際にはご武勇をな、ぜひともお揮い願いたいもので。……ええとそれからもう一つ、ひょっとかすると当屋敷に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちょっと</span>変わった事件が起こり、お驚かせするかも知れませぬが、決して決してご介意なく、安心してお泊まりくださるよう」

三蔵琢磨というこの家の主人、こんな具合に話すのであった。

その琢磨の風貌だが、まことに立派なものであった。

艶々しい髪を総髪に結び、バラ毛一筋こぼしていない。広い額、秀でた眉、――それがノンビリと一文字である。軟らか味を持ち冴え返り、人情と智恵とを兼有したような、非常に美しい穏かな眼。鼻の高さ形のよさ、高尚という言葉さながらである。どこか女性的の小さな口。唇は刻薄に薄くもなく、さりとて卑しく厚くもない。で、やっぱり立派なのである。豊かな垂れ頬、ひきしまった頤、厚い耳<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たぶ</span>、長目の首、総体が<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>で上品で、そうして何んとなく学者らしい。体格は中肉中<ruby><rb>身長</rb><rt>ぜい</rt></ruby>である。顔に負けない品位がある。着流しの黒紋付き、それで端然と坐っている様子は、安く踏んでも大旗本である。品位と貫禄と有福と、智恵と人情とを円満に備えた、立派な武士ということが出来る。

だが一つだけ不思議なのは、そのいうことやいう態度に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おちつき</span>のないことであった。どことなく何んとなくオドオドしている。何物をか恐れているようである。いっている言葉にも矛盾がある。そうしていわないでもよいようなことまで、いっているようなところがある。といってもそれが悪い心から、発しているものとは思われない。で、もちろん、加工的でもない。自然とそんなようになるのらしい。だからいよいよ変なのである。

何かに脅えているのらしい。何かに縋ろうとしているのらしい。助けられたがっているのらしい。――つまりそんなように見えるのであった。

「どうも不思議な人物だな。……変なところへ入り込んでしまった」

結城旗二郎は気味悪くなった。

「俺の意志など勘定にも入れず、勝手に決めてしまうのだからな。……俺が泊まろうともいわない先に、勝手に泊まることに決めてしまった。……が、どっちみちこの人物、悪党でないことは確からしい。で、この点は安心だ。いやいや悪党どころではない、非常に勝れた人物らしい。……だがそれにしても変だなあ、娘の親だとはいうけれど、ちっとも二人とも似ていないではないか。それにさ少し若過ぎる。娘の親としては若過ぎる。二十歳の娘に三十五歳の親。とすると十五で出来た子だ。女が十五で子を産むはいいが、男親の方が十五歳で子を産ませるとは早過ぎる。……といって、もちろん世の中に、全然ないことではないけれどな。……それにしても娘はどうしたんだろう？　ちっとも姿を見せないではないか。……それにさこんなに途方もない、立派な広い屋敷だのに、一向召使いがいないらしい。考えてみれば、これも変だ。……何物か襲って来るという、その時には武勇を揮ってくれという、どう考えても変な屋敷だ。……が、まあまあそれもよかろう、よろしいよろしい乞われるままに、今夜この屋敷へ泊まってやろう。何か秘密があるのだろう、ひとつそいつをあばいてやろう」

で、旗二郎泊まることにしたが、はたしていろいろ気味の悪いことが、陸続として起こって来た。

六

通された部屋は寝所であった。

豪勢な夜具がしいてあった。

一通りの物が揃っていた。というのは結構な酒肴が、タラリと並べられてあるのであった。蒔絵の杯盤、蒔絵の銚子、九谷の盃、九谷の小皿、九谷の小鉢、九谷の大皿、それへ盛られた馳走なども、凝りに凝ったものである。金屏風が一双立て廻してある。それに描かれた孔雀の絵は、どうやら応挙の筆らしい。朱塗りの行燈が置いてある。その燈火に映じて金屏風が、眼を射るばかりに輝いている。片寄せて茶道具が置いてあり、茶釜がシンシン音立てている。

茶も飲めれば酒も飲める。寝たければ勝手に寝るがよい、寝ながら飲もうと随意である――といったように万事万端、自由に出来ているのであった。

が、一つだけ不足のものがあった。

酌をしてくれるものがないことである。

<ruby><rb>上</rb><rt>かけ</rt></ruby>蒲団を刎ねた旗二郎、見ている者もないところから、敷蒲団の上へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぐら</span>を組み、手酌でグイグイ飲み出したが、考え込まざるを得なかった。

「どう考えたって変な屋敷だ、どう思ったって変な連中だ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からきし</span>俺には見当がつかない。……それにさ、さっきの主人の言葉に、妙に気になる節があった」

というのは他でもない、「二十歳と二十三歳、ちょうど頃加減でございますからな」こういった主人の言葉である。

「これでは、まるでこの家の娘――そうそう葉末とかいったようだが、それと、この俺とを一緒にして、婚礼させようとしているように聞こえる。そういえば、さっき俺の身分を、それとなく尋ねたようでもあった。いよいよ合点がいかないなあ」

グイグイ手酌で飲んで行く。

だが酔いは少しも廻ろうともしない。心気がさえるばかりである。

「家の構え、諸道具や諸調度、これから推してもこの家は、大変もない財産家らしい。いや主人もそういった筈だ、人もうらやむほどの財産家だと。……その上娘はあの通り綺麗だ。婿にでもなれたら幸福者さ」

グイグイ手酌で飲んで行く。

葉末という娘の風采が、ボッと眼の前へ浮かんで来た。月の光で見たのだから、門前ではハッキリ判らなかったが、燈火の明るい家の中へはいり、旗二郎を父親へひきあわせ、スルリと奥へひっ込んだまでに、見て取った彼女の顔形は、全く美しいものであった。キッパリとした富士額、生え際の濃さは珍らしいほどで、鬘を冠っているのかもしれない、そんなように思われたほどである。眉毛はむしろ上がり気持ちで、描いたそれのように鮮やかであった。鼻は高く肉薄く、神経質的の点があり、それがかえって彼女の顔を、気高いものに見せていた。唇は薄く、やや大きく、その左右がキュッと緊まり、意志の強さを示していた。だが何より特色的なのは、情熱そのもののような眼であった。どっちかといえば細くはあったが、そうして何んとなく三白眼式で、上眼を使う癖はあったが、その清らかさは<ruby><rb>類稀</rb><rt>たぐいまれ</rt></ruby>で、近づきがたくさえ思われた。女としては高い<ruby><rb>身長</rb><rt>せい</rt></ruby>で、発育盛りの娘としては、少し痩せすぎていることが、一方欠点とは思われたが、一方反対にそのために、姿が非常に美しく見えた。全体の様子が濃艶というより、清楚という方に近かったが、また内心に燃え上がっている、情熱の火を押し殺し、無理に冷静に構えているような、そんな様子も感ぜられた。

「あの娘と夫婦になる。どう考えたって有難いことだ」

旗二郎はこんなことを思いながら、グイグイ手酌で飲んで行った。

依然として酔いが廻らない。いよいよ眼が冴え心が冴え、とても眠気など<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>そうともしない。夜がだんだん更けて行く。更けるに従って屋敷内が、いよいよ静けさを呈して来る。

それにもかかわらず不思議なことには、訳のわからぬ不安の気が、旗二郎の心に感じられた。「よし」と突然どうしたのか、旗二郎は呟くと立ち上がった。取り上げたのは大小である。「どっちみち怪しい屋敷らしい。思い切って様子を探ってみよう。一室に籠もって酒を飲んで、事件の起こって来るやつを、待っているのは消極的だ。こっちから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>に出かけて行き、屋敷の秘密を探ってやろう」

で、部屋から出て行ったが、はたして結城旗二郎、どんな怪異にぶつかったろう？

七

いつか旗二郎裏庭へ出た。

素晴らしく宏大な庭である。山の中へでもはいったようだ。

木立が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">か</span>黒く繁っている。築山が高く盛り上がっている。広い泉水がたたえられてある。いたる所に花木がある。泉水には石橋がかかっている。

ずっと遙かの前方で、月光を刎ねているものがある。風にそよいでいる大竹藪だ。その奥に燈火がともっている。神の祠でもあるらしい。燈明の火がともっているらしい。

地面は苔でおおわれている。で、気味悪く足がすべる。

一所に小滝が落ちている。それに反射して月光が、水銀のようにチラチラする。

と、ほととぎすのなき声がした。

「まるで大名の下屋敷のようだ。その下屋敷の庭のようだ」

呟きながら旗二郎、築山のうしろまで行った時である。

築山の裾に岩組があり、それの蔭から黒々と、一個の人影が現われた。

「おや」

と思った時、掛け声もなく、スーッと何物か突き出した。キラキラと光る！　槍の穂だ！　黒影、槍を突き出したのである。

「あぶない！」

と思わず叫んだが、「何者！」と再度声を掛けた。とその時には旗二郎、槍のケラ首を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっ</span>掴んでいた。

と、黒影、声をかけた。

「先刻はご苦労、まさしく平打ち、ピッシリ肩先へ頂戴してござる。……で、お礼じゃ、槍進上！　……そこで拙者はこれでご免！　ただし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もう</span>一人現われましょう」

スポリとどこかへ消えてしまった。

団々と揺れるものがある。雪のように真っ白い。白牡丹の叢があるのであった。黒い人影の消えた時、恐らく花を揺すったのであろう。プーンと芳香が馨って来た。

「驚いたなあ、何んということだ。物騒千万、注意が肝腎。……槍進上とは胆が潰れる。……待てよ待てよ、何んとかいったっけ『先刻はご苦労、まさしく平打ち、ピッシリ肩先へ頂戴してござる』――ははあそうするとさっき方、この家の娘を門前で、かどわかそうとした奴だな？　……ふうむ、それではあいつらが、潜入をしているものと見える。いよいよ物騒、うっちゃっては置けない。葉末とかいう娘のため、ここの庭から駆り出してやろう」

ソロソロと進むと滝の前へ出た。

そこを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よぎる</span>と林である。<ruby><rb>蘇鉄</rb><rt>そてつ</rt></ruby>が十数本立っている。

と、その蔭から声がした。「これは結城氏結城氏、さっきは平打ち、いただいてござる。で、お礼！　まずこうだ！」

ポンと人影飛び出して来た。キラリと夜空へ円が描かれ、続いて<ruby><rb>鏘然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>と音がした。パッと散ったは火花である。切り込んで来た敵の太刀を、抜き合わせた結城旗二郎、受けて火花を散らしたのである。

二人前後へ飛び退いた。

「お見事」と敵の声がした。「が、もう一人ご用心！　ご免」

というと消えてしまった。

蘇鉄の頂きが光っている。月があたっているかららしい。

「ふざけた奴らだ」と旗二郎、気を悪くしたが仕方なかった。庭は宏大、地の理は不明、木立や築山が聳えている。どこへ逃げたか解らない。追っかけようにも追っかけようがない。

「よし」と旗二郎決心した。「もう一人出るということだ。今度こそ遁がさぬ、料理してくれよう」

だがその企ても駄目であった。

というのは旗二郎抜き身を下げ、用心しながら先へ進み、竹藪の前まで来た時である、竹藪の中から声がした。

「お手並拝見してござる。なかなかもって拙者など、お相手すること出来ませぬ。先刻の平打ちも見事のもの、十分武道ご鍛練と見受けた。ついてはお願い、お聞き届けくだされ。……ずっと進むと裏門になります。そこから参るでございましょう、十数人の武士どもが。……今回こそはご用捨なく、手練でお打取りくださいますよう。……それこそ葉末殿のおためでござる。また、ご主人のおためでござる。ご免」と一声！　それっきりであった。いや、ガサガサと音がした。竹藪を分けてどこともなく、どうやら立ち去ってしまったらしい。

「何んということだ」と旗二郎、本当に驚いて突っ立った。

「きゃつら敵ではなかったのか。葉末殿のため、ご主人のため、こういったからには敵ではなく、味方であるとしか思われない……。ではなぜ切り込んで来たのであろう？　ではなぜ葉末というあの娘を、かどわかそうとしたのだろう？　何が何んだか解らない。解っていることはただ一つだ、怪しい館だということだけだ。どうでもこの屋敷、どうでも怪しい」

旗二郎怒りを催して来た。翻弄されたと思ったからである。

「主人のためでなかろうと、娘のためでなかろうと、俺は俺のために叩っ切る。来やがれ！　誰でも！　叩っ切る！」

で、スルスルと足音を忍ばせ、先へ進むと木立があり、それを抜けた時行く手にあたり、取り廻した厳重の土塀が見え、ガッシリとした裏門が、その一所に立っていた。

「うむ、あいつが裏門だな」

小走ろうとした時、トン、トン、トン、と、その裏門を外の方から、忍びやかに叩く音がした。

と、一つの人影が、母屋の方から現われた。意外にも女の姿である。裏門の方へ小走って行く。で、旗二郎地へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひれ</span>伏し、じっと様子をうかがったが、またも意外の光景を見た。

八

というのは他でもない、小走って来たその女と、門外にいるらしい男との間に、こんな話が交わされたのである。

「首尾はどうだ？」と男の声がした。

「今夜十二時……」と女の声が答えた。

「ハッキリした返辞をするそうだよ」

「ナニ十二時？」と怒ったように、「それでは少し遅いではないか」

「遅くはないよ」と女の声も、何んとなく怒っているようである。「十二時キッチリにまとまったら、何んのちっとも遅いものか」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞんざい</span>な伝法な口調である。

「が、一分でも遅れては駄目だ」不安そうな男の声である。

「九仭の功を一<ruby><rb>簣</rb><rt>き</rt></ruby>に欠くよ」

「百も承知さ」と嘲笑うように、「お前さんにいわれるまでもない」

「で、どうだい？」とあやぶむように、「まとまりそうかな、その話は？」

「そうだねえ」と女の声、ここでいくらか不安らしくなった。「はっきり、どっちともいわれないよ」

「腕がないの」と憎々しく、男の声は笑ったらしい。「それでもお前といわれるか」

「お互いッこさ」と負けてはいない。「そういうお前さんにしてからが、大して腕はないではないか」女の声も憎々しくなった。「こんな土壇場へ<ruby><rb>迫</rb><rt>せ</rt></ruby>り詰まるまでいったい、何をしていたんだい」

「止せ！」といったものの男の声は、どうやら鼻白んだ様子である。「<ruby><rb>争</rb><rt>いさか</rt></ruby>いは止めよう、つまらない」

ここでしばらく沈黙した。

茂みに隠れ、地に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へばりつき</span>、聞き耳を立てていた旗二郎、「解らないなあ」と呟いた。「何をいったいいっているのだろう？」

しかしどっちみち男も女も、善人であろうとは思われなかった。ここの屋敷の人達に対し、よくないことを企んでいる――そういう人間どもであることは疑がいないように思われた。

「事件は複雑になって来た。いよいよもって怪しい屋敷だ。……門外の男は何者だろう？　眼の前にいる女は何者だろう？」

で、旗二郎微動もせず、なおも様子を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。

「とにかく」と男の声がした。門の外にいる男の声だ。「是が非でも成功させるがいい」

「お前さんもさ」といい返した。門内の女がいい返したのである。「万全の策をとるがいいよ」

「いうまでもないよ」と笑止らしく、「武士を入れるよ、切り込みのな。……備えはどうだ、屋敷内の備えは？」

「宵の間に一人若い武士が、屋敷へはいって泊まり込んでいるよ」

「え？」といったが驚いたらしい。「どんな人品だ？　立派かな？」

「ああ人品は立派だが、御家人らしいよ。安御家人らしい」

「ふうん」といったまま黙ってしまった。

門内の女も黙っている。で、森閑と静かである。ピシッ、ピシッと音がする。泉水で鯉が跳ねたのらしい。

「俺の噂をしているわい」ニヤリと笑った旗二郎、「立派な人品とは有難いが、安御家人とは正直すぎる」――で、なお様子をうかがった。

と、男の声がした。「どっちみち油断は出来ないの。うかうかしていてその御家人に、玉を取られては一大事だ。……よしよしすぐに手配りをしよう」

「それがいいよ」と女がいった。「それでは私は帰るとしよう」

そこで女は木立をくぐり、母屋の方へ帰ったが、間もなくポッツリと土塀の上へ、一つの人影が現われた。覆面をした武士である。とまたポッツリと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もう</span>一つ、同じく覆面姿の武士が土塀の上へ現われた。

隠れ窺っていた旗二郎、「ははあ切り込みの武士達だな。よしよし端から叩っ切ってやろう」

――で、ソロソロと身を起こし、片膝を立てると居合い腰、大刀の柄へ手を掛けたが、プッツリと切ったは鯉口である。上半身を前<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のめり</span>に、肘をワングリと鈎に曲げ、左の足を地面へ敷き、腰を浮かめたは飛び出す構え……頤を上向け額を反らし、上眼を使って睨んだは、土塀の上の人影が、飛び下りるのを狙ったのである。

「来やがれ、悪人、一人も残さぬ！　生れて初めての人殺しだ。片っ端から退治てみせる」

心の中で呟いた時、一つの人影土塀から、スーッと庭へ飛び下りた。

とたんに、抜き打ち、旗二郎、いざったままにスルリと出、右腕を延ばすと一揮した。月光の射さない木影の中、そこへ全身は隠していた。が、一揮した太刀先だけは、月光の中へ出たと見える。ピカリと燐のように閃めいたが、閃めいた時にはその太刀先、木影の中へ引っ込められていた。

グッ！　といったような変な呻き、飛び下りた武士の口から出て、息詰まるような様子であったが、まず両手を宙へ上げ泳ぐような格好をしたかと思うと、ドッと前倒れにぶっ倒れた。腰から上の半身が、月光の中に晒らされている。背がムクムクと波を打つ。それにつれて肩がＳ形にうねる。左の胴から黒いものが、ズルズルズルズル引き出されている。昼間見たら真っ赤に見えただろう、傷口から流れ出る血なのだから。と、まったく動かなくなった。

「どうした島路」という声がした。土塀の上のもう一人である。と、ヒラリと飛び下りた。「不覚だの、転んだのか？」

腰をかがめて覗き込んだ。

そこを目掛けて旗二郎、またもスルスルといざり出たが、今度は瞬間にスッと伸ばし、背高々と爪立ったが、こんな場合だ、卑怯ではない。声も掛けずに背後から、後脳を目掛けてただ一刀！　ザックリ割って飛びしさった。

すぐに木影へ隠れたのである。

九

ガッ！　といったような気味の悪い悲鳴、一声立てたが切られた武士だ。枯れ木仆しにそのままに、前方へドッと仆れたので、前に仆れていた死骸の上へ、蔽うようにして転がった。

月光それを照らしている。

急所を一刀に割られたのである。躰に痙攣を起こしもせず、静まり返って死んだらしい。

「二人仕止めた、これだけかな」

木影に立った旗二郎、決して決して油断はしない、血刀を下段に付けながら、眼で塀の上を見上げながら、さすがに少しばかり切迫する、胸の呼吸を静めながら、こう口の中で呟いた。

すると呟きの終えないうちに、土塀の上へ黒々と、五つの人影が現われた。同じである、覆面姿、武士であることはいうまでもない。じっと地面を見下ろしたが、どうやら不思議に思ったらしい、五人ヒソヒソ囁き出した。

と、キラキラと光り物がした。

五人ながら刀を抜いたのである。

それが月光を刎ねたのである。

「オイ」と一人の声がした。

「うむ」と答える声がした。

「やられたらしい」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もう</span>一人の声。

「島路と、そうして大里だ」

「そうらしいの」ともう一人。

「敵に<ruby><rb>防備</rb><rt>そなえ</rt></ruby>があるらしい」さらにもう一人の声がした。

と、一人が振り返った。「味方両人してやられてござる。……いかがしましょうな、花垣殿？」

すると門外から返辞がした。

「防備あるのがむしろ当然。……よろしい拙者も参るとしよう。……六人同時に切り込むといたそう」

すぐに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もう</span>一つの人影が、土塀の上へ現われた。

同一の覆面である。

「では」

というと飛び下りた。

六人一緒に集まったが、二つの死骸を調べ出した。

木影で見ていた旗二郎、「これはいけない」と考えた。「六人と一人では勝負にならぬ。引っ返して屋敷の人達に、このありさまを知らせてやろう」

そこで物音を立てぬよう、彼らに姿を見せぬよう、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>下がりに退いた。数間来た所でクルリと振り向き、抜き身を袖で蔽ったが、腰をかがめると木蔭づたい、母屋の方へ小走った。

築山裾まで来た時である。

「ご苦労でござった、結城氏」

こういう声が聞こえて来た。

と、すぐ別の声がした。

「我らこちらを守りましょう。願わくば貴殿、石橋を渡られ、向こうに立っている離れ座敷、それをお守りくださるよう」

とまた別の声がした。

「そちらに主人おりますのでな」

どこにいるのか解らない。どこかに隠れているのだろう。そうして<ruby><rb>悉皆</rb><rt>しっかい</rt></ruby>を見たのだろう。

十

「ははあ、さっきの奴らだな」

結城旗二郎察したが、問答をしている時ではない、頼まれて人を切った以上、乗りかかった船だ、最後まで、手助けをしてやろうと決心した。

「承知」

と一声簡単にいったが、築山を巡ると泉水へ出、石橋を向こうへ渡り越した。

行く手に建物が立っている。廻廊で母屋と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つながって</span>いる。独立をした建物である。木立がその辺を暗めている。雨戸がピッシリ閉ざされてある。

そこまでやって来た旗二郎、グルリと周囲を見廻したが、建物のはずれの一角の、暗い所へ身をひそめた。

で、向こうをすかして見た。

が、庭木が繁っている。土塀のあり場所など解らない。したがって土塀から飛び下りた、六人の姿なども解らない。

深夜の裏庭は静かである。とはいえ殺気が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っている。

ピシッ！　鯉が飛んだのである。

パタパタ！　<ruby><rb>水禽</rb><rt>みずとり</rt></ruby>が羽搏いたのである。

後は森然と風さえない。

だが殺気は漲っている。

「妙な運命に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶつかった</span>ものさ」旗二郎こんな場合にも、こんなことを考える余裕があった。

「ゆくりなく女を助けたのが、偶然人を殺す運命となった」

おかしいようにも思われた。

「どんな儲けに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ありつく</span>かしらん？」

期待されるような気持ちもした。

「美人の葉末、手にはいるかな？」

ふと思ったので嬉しくもなった。

「養子にでもなれたら大したものだ。素晴らしい屋敷、宏大な宅地、手にはいろうというものさ、うまうま養子になれるとな」

ニコツキたいような気持ちもした。

「とにかくウンと働くのだ。見せつけてやろうぜ、冴えた腕を。だが」と母屋の方を見た。「肝腎の娘はどうしているんだ。肝腎の主人はどうしているんだ。いやに静まっているではないか……オッ、足音！」

と耳を立てた。

シトシトと足音が聞こえて来る。だが姿はわからない。木立を縫って来るからだろう。

不意に足音が消えてしまった。

と思った時また聞こえた。

「はてな？」と呟いたのはその足音が、二手に別れたからである。

三人ずつ二手に別れたらしい。こちらの方へ三人が来、母屋の方へ三人が、築山を巡って行くようである。

「いよいよ来るか」

と旗二郎、建物の角へ背中をつけ、太刀を中段、堅固に構え、奥歯を噛みしめ呼吸をととのえ、一心に前方をすかして見た。

だんだん足音が近づいて来る。だがまだ敵の姿は見えぬ。

すると忽然、太刀打ちの音！　築山の方から聞こえて来た。

チャリーンと一合！　つづいて数合！　それに続いて数声の悲鳴！　向こうへ向かった敵を相手に、味方の三人が切り合ったらしい。

「ウム、やったな！　どうだ勝負は？　やっつけたかな？　やられたかな？」

旗二郎の全身はひきしまった。「出ろ出ろ出ろ！　こっちへも出ろ！」

ブルッと<ruby><rb>武者顫</rb><rt>むしゃぶる</rt></ruby>いをした時である。前方の繁った木立を抜き、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>と走り出た人影があった。

三人の覆面の武士である。

「来い！」

と勇躍、旗二郎、建物の角から走り出た。

「悪漢！」

と一声、胆を奪い、真っ先に進んで来た一人を、サーッと右の袈裟に掛けた。

が、それは駄目であった。十分用心をしていたのだろう、旗二郎の太刀を横に払い、翻然斜めに飛びのいた。

「方々！」

「うむ」

「ご用心！」

三人声をかけ合ったが、抜き身を構えると三方へ開き、旗二郎を中へ取り込めようとした。

「これはいけない」

と旗二郎、ポンと飛び返ると闇の中――以前隠れていた建物の角へ、ピッタリ背中を食っつけたが、「さあて、これからどうしたものだ」

突嗟の間に思案した。

見れば三人の敵の勢、大事を取るのか早速にはかからず、且つは秘密を保とうとしてか、無駄な掛け声をかけようともせず、タラタラと三本の太刀を揃え、ジリジリ……ジリジリ……と寄せて来る。

いずれも相当の手利きらしい。が、その中では真ん中にいる、体付きの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きゃしゃ</span>な一人の武士が、どうやら一番未熟らしい。そのくせどうやらその人物が、彼らの仲間での首領らしい。花垣と呼ばれた人物らしい。

「よし」

と旗二郎うなずいた。「真ん中の奴を打ち取ってやろう」

で、闇中に構えながら、その男の隙を窺った。ところがそれが自ら、その人物に感じられたらしい。卑怯にもスルスルと退いた。

「こやつ」

と思った旗二郎、卑怯な態度に気を悪くしたか、二人の敵のいるのを忘れ不覚にもツツーと進み出た。

と、月光が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっかけ</span>て来た。で、全身が露出した。

そこを狙った二人の武士、あたかも「しめた！」といわんばかりに、呼吸を合わせて左右同時、毬のように<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>んで切り込んで来た。

「おっ」と叫んだ旗二郎、一瞬ヒヤリと胆を冷やしたが、そこは手練だ、切られなかった。

チャリーンと一刀、右手の太刀、それを抑えると首を返し、左手の一人を一喝した。すなわち鋭く甲の声で「カーッ」とばかりに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くらわせた</span>のである。声をかけられた左手の武士、ピリッとしたらしかったが太刀を引き躊躇するところを旗二郎、パッとばかりに足踏み違え、太刀を返すとサーッと切った。

「ワッ」という悲鳴！　カチンという音！　すなわち切られた左手の一人、得物を落とすとヒョロヒョロヒョロヒョロと、背後の方へよろめいたが、左肩を両手で押えると、二本の足を宙に刎ね、ドンと背後へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっ</span>倒れた。

もうその頃には旗二郎、モロにうしろへ飛び返り、以前の場所だ、建物の角、闇の中へ体を没していた。

そうしてそこから呼んだものである。「さあ来い、さあ来い！　……さあ来い、さあ来い！」ここで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆっくり</span>と、「来やアがれエーッ」

グッと引きつけた太刀の柄、丹田に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あてた</span>は中段の序、そこでもう一度、

「来やアがれーッ」

だがこんな場合にも、旗二郎心中で考えていた。「随分切った、働いた。儲からなければやりきれない、娘の婿になれるかな。ここの養子になれるかな？」

――それだけの余裕があったのである。

十一

太刀音、悲鳴、「来やアがれーッ」の喚き、十分けたたましいといわなければならない。で建っている離れ座敷の中に、一人でも人がいたのなら、出て来なければならないだろう。

ところが人は出て来ない。静まり返って音もしない。それでは誰もいないのだろうか？

いやいや人はいたのである。

しかも男女二人いた。

ここは建物の内部である。

「さあご返辞なさりませ」

こういったのは女である。寝椅子の上に腹這っている。両肘で顎をささえている。乳のように白い肘である。ムッチリとして肉づきがよい。顔は妖婦！　<ruby><rb>妖婦</rb><rt>バンプ</rt></ruby>型である。髪をグタグタに崩している。黒い焔を思わせる。その髪に包まれて顔がある。目ばかりの顔ではあるまいか？　といったような形容詞をどうにもこの際用いなければ、到底形容出来ないような、そんな印象的な目をしていた。二重まぶたに相違ない。が、思うさま見開いているので、それが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まるっきり</span>一重まぶたに見える。目の中が黒く見えるのは、黒目が余りにも多いからだろう。白眼が縞をなしている。濃い<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の陰影が、そういう作用をしているのだろう。その目が一所を見詰めている。で黒目が二つながら、目頭の方へ寄っている。で、一種の斜視に見える。斜視には斜視としての美しさがある。いや斜視そのものは美しいものだ。で、その女――島子なのであるが――その島子の人工的斜視は、妖精的に美しい。また<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>的といってもいい。また誘惑的といってもいい。いやいや明きらかに彼女の目は、露骨に誘惑をしているのであった。紅を塗られた唇は尋常よりもグッと小さい。

島子は<ruby><rb>襲衣</rb><rt>したぎ</rt></ruby>一枚である。一枚だけをひっかけている。真紅の色というものは、誘惑的ではあるけれど、あまりに刺戟が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あくどい</span>ため、教養ある人には好かれない。肉色こそは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">より</span>一層、男の情慾をそそるものである。それを島子は着ているのである。裾と胴とに鱗型をつけた、肉色絹の襲衣なるものを！　よい体格だ！　肥えている。腰のあたりがクリクリと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くくれ</span>、臀部がワングリと盛り上がっている。二本の足が少し開かれ、襲衣に包まれているのだろう、臀部から踵までの足の形が、襲衣を透かして窺われる。襲衣が溝を作っている。ひらかれた足のひらき目である。襲衣の襟が<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>いでいる。で胸もとが一杯に見える。肋骨などあるのだろうか？　そんなようにも感じられるほど、脂肪づいた丸い厚い胸が、呼吸のために相違ない、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆるやか</span>に顫え動いている。

「味のよい果物がここにあります」

島子歌うようにいい出した。

「めしあがりませ、琢磨様！」

頤を支えていた左の腕を、こういいながらダラリと落とし、寝台の上へ長々と延ばした。と、襲衣の襟が捲くれ円々とした肩が現われた。連れて一方左の乳房が、タップリと全量を現わした。さも重たそうな乳房である。

「さあご返辞をなさりませ」

こういうと島子は眼を閉じた。いや半眼に閉じたのである。と大きな眼が急に細まり、下のまぶたへ濃いかげが出来た。睫毛がかげを作ったのである。何んとひときわその眼付き、誘惑的になったことか！　陶酔的の眼であった。恍惚とした眼であった。

と、その眼をすっかり閉じ、支えていた右手を頤から取ると、島子はガックリ首を垂れた。寝椅子へ額を押しあてて、ベッタリ<ruby><rb>臥伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>せに寝たのである。襲衣の襟が<ruby><rb>楔形</rb><rt>くさびがた</rt></ruby>に、深く背の方へひかれたためか、背筋まで見せて頸足が、ろくろっ首のように長くなった。そこへ髪の毛が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もつれ</span>ている。髪の毛の間からヌラヌラと、白い艶のよい肉が見える。海草の中から、白珊瑚が、チラチラ光っているようである。

「味のよいお酒がここにあります」

眠くて眠くてたまらないような、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼっと</span>した声で、うっとりとこう島子は呼びかけた。

「お飲みなさりませ、琢磨様」

そろそろと全身をうねらせた。寝返りを打とうとするらしい。<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けになろうとするらしい。

武士が一人立っている。

寝椅子の傍に立っている。

ほかならぬ三蔵琢磨である。

冷然として立っている。島子の嬌態など見ようともしない。顔など決して充血していない。といって決して青ざめてもいない。眼を正しく向けている。口を普通に結んでいる。足も決してふるえていない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぶし</span>なども決して握っていない。あくまでも冷静沈着である。

だが額の一所に、汗の玉のあるのはどうしたのだろう？

木彫のように黙っている。だがもし彼が物をいったら、ふるえないということがどうしていえよう。

ふるえ声を女に聞かれるのを、恐れて物をいわないのかもしれない。

なぜ彼は島子を見ないのだろう？　そういう女の嬌態などに、感興をひかない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>だからだろうか？　そういうようにも解される。だがその反対にも解される。そういう嬌態の誘惑を恐れ、それで島子を見ないのだと。

だが彼はある物を見てはいた。

彼の正面に壁がある。そこにある物がかかっていた。文政時代に似つかわしくない、外国製の柱時計であった。

黒檀の枠、真鍮の振子！　振子は枠から長く垂れ、規則正しく揺れている。で、そこから音が聞こえる。カチ、カチ、カチ、……カチ、カチ、カチ！　――セコンドを刻む音である。

長針と短針とが矢のように、白い平盤の表面に、矩形をなして突き出ている。その周囲を真円に囲み、アラビア文字が描かれてある。短針は十二時を指そうとしている。しかし長針は十時にあった。

カチ、カチ、カチ、……カチ、カチ、カチ、……時は刻々に移って行く。

「十分前だ！」

呻くような声！　琢磨の口から出たのである。冷静な顔や態度にも似ず、息詰まるような声であることよ！

カチ、カチ、カチ……カチ、カチ、カチ！

時は刻々に移って行く。

二人の男女を包んでいるところの、部屋の様子というものも、まことに異様なものであった。

十二

とはいえ今日の眼から見れば、洋風の書斎に過ぎないのではあるが。

壁の一方にドアがあり、壁の一方に窓があり、巨大な書棚が並んでおり、書物がギッシリ詰まっており、数脚の椅子と卓とがあり、洋燈が卓の上に燃えており、それに照らされて青磁色をした、床の<ruby><rb>氈</rb><rt>かも</rt></ruby>が明るんでおり、同じ色をした窓掛けが、その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひだ</span>にかげをつけており、高い白堊の天井の、油絵の図案を輝かせている。――というまでに過ぎなかった。

とはいえ時代は文政である。所は江戸の郊外である。そういう時代のそういう所に、こういう部屋のあるということは、かなり驚いてもよいことであった。

さらに驚くべきものがあった。

とはいえそれとて一口にいえば、一枚の張り紙に過ぎないのではあるが――だがその張り紙に書かれてある、四ツの箇条書きを見た人は、非常に驚くに相違ない。

時計の真下、振子の下に、張り紙は張ってあるのであった。

「八分前だ！」

呻くような声！　琢磨の口から出たのである。

と、島子の声がした。

「こちらをお向きなさいまし」

だが琢磨はまたいった。

「四分前だ！　もうすぐだ！」

「こちらをご覧なさいまし。きっと見ることが出来ましょう！　私の肌を！」

やっぱり琢磨呻くようにいう。

「三分前だ！　もうすぐだ！　そうしたら解放されるだろう！」

あせった島子の声がした。

「あなたは見ることが出来ましょう！　私の肌を！」

だがまた呻くように琢磨がいった。

「後二分だ！　後二分だ」

同じく呻くように島子がいう。

「ご覧なさりませ！　ご覧なさりませ！　白い私を！　真っ白い私を！」

「後一分！」

「<ruby><rb>素裸体</rb><rt>すはだか</rt></ruby>の私！」

だが、その時音がした。

十二時を報ずる時計の音！

同時に庭から声がした。声というより悲鳴であった。しかも断末魔の悲鳴であった。しかも二人の悲鳴であった。

同時に寝台からも声がした。これもやっぱり悲鳴であった。やはり断末魔の悲鳴であった。

ギーッ！　音だ！　ドアが開いた。

「あなた！」

「娘か！」

「いいえ葉末！」

「葉末というのか？」

「あなたの花嫁！」

ひらかれたドアから現われたのは、花嫁姿の葉末であった。

「おいで！」

と琢磨、手をひろげた。

で、葉末と三蔵琢磨、はじめてやさしく抱擁した。

その時壁からヒラヒラと、床の上へ落ちたものがある。

四ヵ条を記した張り紙である。

風かないしは幽霊の手か？　どっちかがその紙を壁から放し、床の上へ落としたに相違ない。

十三

「何んでもなかったのでございますよ。つまり私の役目といえば、用心棒に過ぎなかったので。原因は四ヵ条を書き記した、張り紙なのでございますよ。で、それからいうことにしましょう。（一）養女と良人と結婚すれば、財産は官へ寄附する事（二）養女が二十歳になるまでに、養女が死ぬか良人が死ぬか、ないしは二人死去するか、そういう場合には財産は、全部情人が取るべき事（三）養女満二十歳になった瞬間、その養女が誰かと結婚すれば、財産は養女と良人とが、半分ずつ分けて取るべき事（四）養女が二十歳になるまでに、良人が他の女と結婚すれば、財産は情人と養女とが、半分ずつ分けて取るべき事。――というのが四ヵ条の箇条書きなので。そうしてこれを書いたのは、養女――すなわち葉末さんですが、その葉末さんの養母であり、そうして三蔵琢磨氏の家内、陸女という女だということで。情人というのは他でもない、花垣志津馬という武士なのだそうで。遺言状だったのでございますよ。陸女の死ぬ時の遺言状だったので。その陸女という女ですが、ある札差しの家内でしてな、大変な財産を持っていたそうで。そうして後家さんになってから、琢磨氏と同棲したのだそうで。しかし自分の財産だけは、自分で持っていたそうです。そうして非常な漁色家で、花垣という美男の浪人と、関係していたということです。で、子が一人もないところから、葉末さんという娘を養女にしたところ、どうやら養女の葉末さんと、良人の琢磨氏とが愛し合っているらしい。で、嫉妬をしたのですね。そのうち死病にとっつかれ――業病だったということですが――死んでしまったのでございますよ。ところが死んで行く前までも、養女と良人との関係が、どうにも心にかかってならない。そこでそんなような遺言を――とても意地の悪い遺言を、残して行ったのだということです。ナーニ本人は死んでいるんだ、そんなつまらない遺言なんか、履行しなくたっていいのですが、その琢磨氏という人が、西洋の学が大すきで、こっそり研究しているうちに、死者の遺言というようなものを、尊重するようになったので、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こだわって</span>しまったのでございますね。だがやり口がひどいというので、時々夜など遺言状の前で、生きてる女房に話しかけるように、大きな声で口説いたそうです。つまり非難をしたという訳で。……ところが遺言の中身ですが、よめばお解りになる通り、琢磨氏は葉末さんと結婚は出来ない。結婚すれば財産は、官へ没収されてしまう。葉末さんが二十歳になる前に、葉末さんも琢磨氏も死ぬことは出来ない。一人死んでも二人死んでも、財産は情人の花垣志津馬に、みんな取られることになる。で二人ながら注意して死なないようにしなければならない。葉末さんが二十歳になる前に、琢磨氏は誰とも結婚出来ない。もし琢磨氏が結婚すれば、財産は葉末さんと花垣とで、折半をして取ってしまう。ところで一方葉末さんとしては、満二十歳になった<ruby><rb>瞬間</rb><rt>とき</rt></ruby>、ぜひ誰かと結婚しなければならない。もしその時結婚すれば、財産は葉末さんと琢磨氏とで、折半をして取ることが出来る。……しかるに一方花垣としては、葉末さんが二十歳になる前に、葉末さんを殺すか琢磨氏を殺すか、ないしは二人を一緒に殺すか、とにかくなきものにしなければならない。そうしてそれに成功すれば、財産はすっかり手にはいる。が、もしそれが出来なければ、何者か美人を差し向けて、三蔵琢磨氏を誘惑し、ぜひとも結婚させなければならない。そうしてそれに成功すれば、全財産の半分だけを、自分の手中に入れることが出来る。そこで花垣志津馬ですが、一方島子という自分の情婦を、琢磨氏の家へ入り込ませ、琢磨氏を誘惑させたそうです。大変もない美人だったので、琢磨氏も随分そそのかされ、あぶない時などもあったそうですが、とうとう誘惑に勝ったそうです。負けた島子はくやしがって、舌を噛んで死んだということですが、いってみれば天罰<ruby><rb>覿面</rb><rt>てきめん</rt></ruby>でしょう。さらに一方花垣志津馬は、無頼の浪人を手下とし、葉末さん誘拐を企てたり、琢磨氏殺害を<ruby><rb>巧</rb><rt>たく</rt></ruby>んだり、いろいろ奸策をしたそうです。そうして養女の葉末さんが、満二十歳になる晩には、衆を率いて自分から、琢磨氏の屋敷へ切り込んだそうで。で、そいつを退治たのが、私だったのでございますよ。もっとも私以外にも、弁吉、右門次、左近などという、三人の忠義の家来があって、花垣部下の浪人を、三人がところ叩っ切り、災いを根絶しましたがね。……その三人で思い出しました。今考えてもおかしな話で、私はそれら三人へ、ピシピシ平打ちをくれたもので。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごろつき</span>だと思いましたので。つまり葉末さんをかどわかそうとした、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ならずもの</span>だと思いましたので。いやまた事実そうでもあったのです。というのは外でもありません、そんなような狂言をすることによって、手のきく武士を味方につけ、花垣一派の切り込みに、備えようとしたのでございますよ。……そうして娘の葉末さんさえ、もし承知をするようなら、私と夫婦にさせようと、事実琢磨氏は考えていたそうで。ところがどうもこの拙者、葉末さんの<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>にかなわなかったと見え、真似事の結婚をしたばかりで――さようさようその晩に、私とそうして葉末さんとは、結婚をしたのでございますよ、さようさよう真似事のな。それをしないと大財産が、琢磨氏と葉末さんに行きませんので。……話といえばまずザッと、こんな次第でございます。――さあその後あのお二人、琢磨氏と葉末さんとは、どんなくらしをしているやら、参ったこともありませんので、とんと一向存じませんが、琢磨氏は学者で人格者、恐らく独身で書斎に籠もり、その西洋の学問なるものを、勉強していることでございましょう。ええとそうして葉末さんは、事実琢磨氏を愛していたので、西洋の言葉でいいますと――これは琢磨氏に聞いたのですが、何んとかいったっけ、プラトニック・ラヴか――心ばかりの恋をささげ、肉体は依然として処女のままで、奉仕していることでございましょう。……いや、何んにしてもあの晩は、私にとって面白かった晩で、剣侠になったのでございますからな。アッハッハッ、思い出になります」