Soranoha

世界怪談名作集

せかいかいだんめいさくしゅう

マクドナルド ジョージ

一

コスモ・フォン・ウェルスタールはプラーグの大学生であった。

彼は貴族の一門であるにもかかわらず、貧乏であった。そうして、貧乏より生ずるところの独立をみずから誇っていた。誰でも貧乏から逃がれることが出来なければ、むしろそれを誇りとするよりほかはないのである。彼は学生仲間に可愛がられていながら、さてこれという友達もなく、学生仲間のうちでまだ一人も、古い町の最も高い家の頂上にある彼の下宿の戸口へはいった者はないのであった。

彼の謙遜的の態度が仲間内には評判がよかったのであるが、それは実のところ彼の隠遁的の思想から出ているのであった。夜になると、彼は誰からも妨げられることなしに、自分の好きな学問や空想にふけるのである。それらの学問のうちには、学校の課程に必要な学科のほかに、あまり世間には知られもせず、認められもしないようなものが含まれていた。彼の秘密の抽斗ひきだしには、アルベルタス・マグナス(十三世紀の科学者、神学者、哲学者)や、コンネリウス・アグリッパ(十五世紀より十六世紀にわたる哲学者で、錬金術や魔法を説いた人)の著作をはじめとして、その他にもあまりひろく読まれていない書物や、神秘的のむずかしい書物などがしまい込まれてあった。しかもそれらの研究は単に彼の好奇心にとどまって、それを実地に応用してみようなどという気はなかったのである。

その下宿は大きい低い天井の部屋で、家具らしい物はほとんどなかった。木製の椅子が一対つい、夜も昼も寝ころんで空想にふける寝台が一脚、それから大きい黒い槲かしわの書棚が一個、そのほかには部屋じゅうに家具と呼ばれそうな物は甚はなはだ少ないのであった。その代りに、部屋の隅ずみには得体えたいの知れない器具がいろいろ積まれてあって、一方の隅には骸骨が立っていた。その骸骨は半ばはうしろの壁に倚よりかかり、半ばは紐でその頸くびを支えていて、片手の指をそのそばに立ててある古い剣の柄つかがしらの上に置いているのであった。ほかにもいろいろの武器が床の上に散らかっている。壁はまったく装飾なく、羽はねをひろげた大きいひからびた蝙蝠こうもりや、豪猪やまあらしの皮や剥製の海毛虫シーマウスや、それらが何だか分からないような形になって懸かっている。但ただし、彼はこんな不可思議な妄想に耽っているかと思えば、また一方にはそれとまったく遠く懸け離れたことをも考えているのであった。

かれの心はけっして恍惚たる感情をもって満たされているのではなく、あたかも戸外の暁け方のように、匂いをただよわす微風ともなり、また、あるときは大木を吹きたわませる暴風ともなるのであった。彼は薔薇ばら色の眼鏡を透してすべての物を見た。かれが窓から下の町を通る処女おとめをみおろした時、その処女はすべて小説ちゅうの人物ならざるはなく、彼女の影が遠く街路樹のうちに消え去るまで、それを考えつづけているのである。彼が町をあるく時、あたかも小説を読んでいるような心持ちで、そこに起こるいろいろの出来事を興味ある場面として受けいれるのである。そうして、女の美しい声が耳にはいるごとに、彼はエンゼルの翼つばさが自分のたましいを撫でて行くようにも感ずるのである。実際、かれは無言の詩人で、むしろ本当の詩人よりも遙かに空想的で、かつ危険である。すなわちその心に湧くところの泉が外部へ流れ出る口を見いだすことが出来ないで、ますます水嵩みずかさがいやまして、後には漲みなぎりあふれて、その心の内部をそこなうことにもなるからである。

彼はいつも固い寝台に横たわって、何かの物語か詩を読むのである。のちにはその書物を取り落として、空想にふける。そうなると、夢か現うつつか区別がつかない。向うの壁がはっきりとわかってきて、あさ日の光りに明かるくなった時、かれもまた初めて起きあがるのである。そうして、元気旺盛な若い者のあらゆる官能がここに眼ざめてきて、日の暮れるまで自由に読書または遊戯をつづけるのである。昼の大きい瀑布に沈んでいた夜の世界がここにあらわれてくると、彼のこころには星がきらめいて、暗い幻影が再び浮かんでくるのである。しかもそんなことを長く続かせるのはむずかしい。遅かれ早かれ何物かが美しい世界へ踏み込んで来て、迷える魔術師を跪拝きはいせしめなければならないのである。

ある日の午後の黄昏たそがれに近いころであった。彼は例のごとく夢みるような心持ちで、この町の目貫めぬきの大通りをあるいていると、学生仲間のひとりが肩をたたいて声をかけた。そうして、自分は古い鎧よろいをみつけて、それを手に入れたいと思うから、裏通りまで一緒に来てくれないかと言った。

コスモは古代および現代の武器については非常にくわしく、斯道しどうの権威者とみとめられていた。ことに武器の使い方にかけては、学生仲間にも並ぶ者がなかった。そのなかでも、ある種の物の使い方に馴れているので、他のすべての物にまで彼が権威を持つようにもなったのである。コスモは喜んで彼と一緒に行った。

二人は狭い小路に入り込んで、ほこりだらけな小さい家にゆき着いた。低いアーチ型の扉ドアをはいると、そこには世間によく見うける種しゅじゅの黴かびくさい、ほこりだらけの古道具がならべてあった。学生はコスモの鑑定に満足して、すぐその鎧を買うことに決めた。

そこを出るときに、コスモは壁にかけてあるほこりだらけの楕円形の古い鏡に眼をつけた。鏡の周囲には奇異なる彫刻があって、店の主人がそれを運んだ時、輝いている灯に映じても、さのみに晃ひからなかった。コスモはその彫刻に心を惹ひかれたらしかったが、その以上に注意する様子もなく、彼は友達とともにここを立ち去ったのである。二人は元の大通りへ出て、ここで反対の方角に別れた。

独りになると、コスモはあの奇異なる古い鏡のことを思い出した。もっとよく見たいという念が強くなって、彼は再びその店の方へ足をむけた。彼が扉を叩くと、主人は待っていたように扉をあけた。主人は痩せた小柄の老人で、鉤鼻かぎばなの眼のひかった男で、そこらに何か落とし物はないかと休みなしにその眼をきょろつかせているような人物であった。コスモは他の品をひやかすようなふうをして、最後にかの鏡の前へ行って、それを下ろして見せてくれと言った。

「旦那。ご自分で取ってください。わたくしには手が届きませんから」と、老人は言った。

コスモは注意してその鏡をおろして見ると、彫刻は構図も技巧も共に優れていて、実に精巧でもあり、また高価の物でもあるらしく思われた。まだその上に、その彫刻にはコスモがまだ知らない幾多の技巧が施されていて、それが何かの意味ありげにも見えた。それが彼の趣味と性格の一面に合致しているので、彼は更にこの古い鏡に対して一段の興味を増した。こうなると、どうしてもこれを手に入れて、自分の暇をみてその縁ふちの彫刻を研究したくなったのである。

しかし、彼はこの鏡を普通の日用にするような顔をして、これはずいぶん古いから長く使用にたえないだろうと言いながら、その面おもての塵ちりを少しばかり拭いてみると、彼は非常に驚かされたのである。鏡の面はまばゆいほどに輝いていて、年を経たがために傷んでいる所もなく、すべての部分が製作者から新しく受け取ったと同様に、清らかに整っているのである。彼はまず主人にむかってその値あたいを訊きいた。

老人は貧しいコスモがとても手を出せないような高値を吹いたので、彼は黙ってその鏡を元のところに置いた。

「お高うございましょうか」と、老人は言った。

「どうしてそんなに高いのか、理屈がわからないな」と、コスモは答えた。「わたしの考えとはよほどの距離があるよ」

老人は灯をあげて、コスモの顔を見た。

「旦那は人好きのするかただ」

コスモはこんなお世辞にこたえることのできない男である。彼はこのとき初めて老人の顔を間近に見たのであるが、それが男だか女だか分からないような、一種の忌いやな感じを受けた。

「あなたのお名前は……」と、老人は話しつづけた。

「コスモ・フォン・ウェルスタール」

「ああ、そうでしたか。なるほど、そういえばお父さんに肖にておいでなさる。若旦那、わたくしはあなたのお父さんをよく存じておりますよ。実をいうと、このわたくしの家うちの中にも、あなたのお父さんの紋章や符号のついた古い品がいくつもあります。そうでしたか。いや、わたくしはあなたが気に入った。それでは、どうです。言い値の四分の一で差し上げることにいたしましょう。但し、一つの条件付きで……」

それでもコスモにとっては重大の負担であったが、そのくらいならば都合が出来る。ことに途方とほうもない高値を吹かれて、とても手がとどかないと思ったあとであるから、いっそうそれが欲しくなった。

「その条件というのは……」

「もしあなたがそれを手放したくなったらば、初めにわたくしが申し上げただけの金をわたくしにくださるように……」

「よろしい」と、コスモは微笑しながら付け加えた。「それはまったく穏当な条件だ」

「では、どうぞお間違いのないように……」と、売りぬしは念を押した。

「名誉にかけて、きっと間違いはないよ」と、買い手は言った。

これで売り買いは成り立ったのである。

コスモが鏡を手にとると、老人は、「お宅までわたくしがお届け申しましょう」と、言った。

「いや、いや、私が持って行くよ」と、コスモは言った。

彼は自分の住居を他人に見せることをひどく嫌っていた。ことにこんな奴、だんだんに嫌悪けんおの情の加わってくるこんな人間に、自分の住居を見られるのは忌いやであった。

「では、ご随意に……」と、おやじは言った。

彼はコスモのために灯を見せて、店から送り出してしまうと、独りでつぶやいた。

「あの鏡を売るのも六度目だ。もう今度あたりでおしまいにしてもらいたいな。あの女ももうたいてい満足するだろうに……」

二

コスモは自分の獲物を注意して持ち帰った。その途中も、誰かそれを見付けはしないか、誰か後から尾つけて来はしないかという懸念で、絶えず不安を感じていた。彼は幾たびか自分のまわりを見まわしたが、別に彼のうたがいをひくようなこともなかった。かりに彼の後を尾つける者があるとしても、いかに巧妙なる間者スパイでもその正体を暴露するであろうと思われるほどに、町は非常に混雑して、町の灯は非常に明かるかった。

コスモはつつがなく下宿に帰り着いて、買って来た鏡を壁にかけた。彼は体力の強い男であったが、それでも帰って来たときには、鏡の重さから逃がれて、初めて救われたように感じた。彼はまずパイプに火をつけて、寝台に体をなげ出して、すぐにまた、いつもの幻想にいだかれてしまった。

次の日、かれは常よりも早く家へ帰って、長い部屋の片端にある炉ろの上の壁にかの鏡をかけた。それから丁寧に鏡のおもての塵ちりを拭き去ると、鏡は日光にかがやく泉のように清くみえて、覆いをかけた下からも晃ひかっていた。しかも彼の興味は、やはり鏡のふちの彫刻にあった。それを出来るだけ綺麗にブラッシュをかけて、その彫刻のいろいろの部分について製作者の意図が那辺なへんにあったかを見いだすために、精密な研究を始めたが、それは不成功に終わった。後には退屈になって失望のうちにやめてしまった。そうして、鏡に映る部屋のなかをしばらくぼんやりと眺めていたが、やがて半ば叫ぶような声で言った。

「この鏡はふしぎな鏡だな。この鏡に映る影と、人間の想像とのあいだに何か不思議な関係がある。この部屋と、鏡に映っている部屋と、同じものでありながら、しかもだいぶ違っている。これは僕が現在住まっている部屋のありさまとは違って、僕の小説のなかで読んだ部屋のように見える。すべてありのままとは違っている。一切のものは事実のさかいを脱して芸術の境地に変わっている。普通ならば、ただ粗末な赤裸裸せきららの物が、僕にはすべて興味あるものに見える。ちょうど舞台の上に一人の登場人物が出て来ただけで、もうこの退屈で堪えられない人生から逃がれて愉快になるようなものである。芸術というものは、疲れ切った日常の感覚から逃がれ、不安な日常の生活から離れて自然に帰り、また、われわれの住む世界から懸け離れた想像に訴えて、自然をある程度まであるがままに生かして、あたかも毎日なんの野心もなく、なんの恐れをも持たずに生活している子供の眼に、そのまわりをめぐる驚異の世界を示して、それに対してなんの疑いをも懐いだかしめないようにするがごときものではあるまいか。今のあの鏡のうちにうつる骸骨をみると、怖ろしい姿に見える。その骸骨はこの忙がしい世界を隔てて、さらに遠い世界をながめる望楼のように、見えない物をも見るかのごとく寂然せきぜんとして立っている。またその骨や、その関節は、僕自身の拳こぶしのように生けるがごとくに見える。……さらにまた、鏡のうちにうつる戦闘用の斧おのを見ろ。それはあたかも甲冑かっちゅうをつけた何者かがその斧を手に持って、力強い腕で相手の兜かぶとを打ち割り、頭蓋骨や脳を打ち砕き、他の迷える幽霊とともに未知の世界を侵略しているようにも見える。もし出来るものならば、僕はあの鏡のうちの部屋に住みたい」

こんな囈語うわことめいたことを言いながら、鏡のうちを見つめて起たちあがるや、彼は異常の驚きに打たれた。鏡にうつっている部屋の扉ドアをあけて、音もなく、声もなく、全身に白い物をまとっている婦人の美しい姿があらわれたのである。婦人は憂わしげな、消ゆるがごとき足取りで、彼に背中をみせながら、しずかに部屋のはずれの寝台に行き、わびしげにそこへ腰をおろして、悩ましげな、悲しげな表情をその美しい眼に浮かべながら、無言の愛情をこめた顔をコスモの方へ振り向けた。

コスモはしばらく身動きもせずに、避よけるに避けられぬその眼を彼女の上にそそいだ。動けば動かれるとは思いながら、さて振り返って、鏡のなかならぬ本当の部屋にむかって、まともに彼女を見るほどの勇気も出なかった。しかも最後に、思わずふっと寝台の方を見かえると、そこには何の影もなかった。驚きと怖れとが一つになって、再び鏡にむかうと、鏡のうちには依然として美女の姿が見えるのである。彼女は今や眼をとじて、その睫毛まつげのあいだからは熱い涙をながしつつ、その胸に深い溜め息をつくばかりで、死せるがごとくに静かであった。

コスモは自分の心持ちを、自分で何とも言いあらわすことが出来ないくらいであった。彼はもう自覚を失って、ふたたび元へはかえらない人になってしまった。彼はもう鏡のそばに立っていられなくなった。それでも、貴女きじょに対して失礼だとは心苦しく思いながら、また彼女が眼をあいて自分と眼を見合わせはしないかと恐れながら、なお、いつまでもじっと彼女を見つめていた。やがて彼は少しく気が楽になった。彼女はしずかに眼瞼まぶたをひらいたが、その眼にはもう涙が宿っていなかった。そうして、しばらくぼんやりしていたが、やがてまた、あたりの物を見ようとするかのように、部屋のうちを見まわしていたが、その眼はコスモの方へ向けられなかった。

鏡にうつっている部屋のうちには、彼女の眼を惹ひいた物はないらしかった。そうして、最後に彼を見るとしても、彼は鏡にむかっているのであるから、当然その背中しか見えないわけである。鏡のうちに現われている二人の姿――それは現在の部屋において彼がうしろ向きにならない限り、彼と彼女とが顔を見あわせることが出来ないのである。しかも彼がうしろを向けば、現在の部屋には彼女の姿は見いだせないのである。そうなると、鏡のうちの彼女からは、彼が空くうを見ているように眺められて、眼と眼がぴったりと出合わないために、かえって相互の心を強く接近させるかとも思われた。

彼女はだんだんに骸骨の上に眼を落とした。そうして、それを見るとにわかにふるえて眼をとじたように思われた。彼女は再び眼をひらかなかったが、その顔にはいつまでも嫌悪けんおの色が残っていた。コスモはこの忌いやな物をすぐに取りのけようかと思ったが、それがために自分の存在を彼女に知らせたらば、あるいは彼女に不安を与えはしないかという懸念があったので、彼はそのままにして立ちながら彼女をながめていると、彼女の眼瞼は宝玉をおさめた貴い箱のように、その眼をつつんでいた。そのうちに、彼女の困惑の表情は次第に顔の上から消えていって、わずかに悲しみの表情を残しているばかりになった。その姿は動かないらしく、ただその呼吸するごとに規則正しいからだの動きを見るばかりになった。コスモは彼女の眠ったことを知った。

彼は今や何の遠慮もなしに彼女を見つめることが出来た。かれは質素な白い長い着物を着ている彼女の寝すがたを見た。その白い着物がいかにもよくその顔に値いして、いい調和をなしていた。しなやかなその足、おなじように優しい手、それらは彼女がすべての美をあらわして、その寝すがたは彼女の完全な肢体のくつろぎを見せていた。

コスモは飽きるほどそれを見つめていた。のちにはこの新しく発見した神殿のほとりに座を占めて、さながら病床に侍座じざする人のように、機械的に書物を手にとった。書物をみても、心はそのページの上に集中しないのである。彼は今までの経験にまったく反対している目前の出来事にひどく驚かされているばかりで、その驚きは断定的、思索的、自覚的などということなしに、単なる受動的のものであった。しかし、そういうなかにもコスモの空想は彼一流の夢を送って、一種の陶酔に入っていた。

彼は自分でも分からないほど長く腰をかけていたが、やがて驚いて起たちあがって総身そうみをふるわせながら再び鏡をながめると、鏡のうちに女はもういなかった。鏡はただこの部屋をあるがままにうつすのみで、ほかには何物もみえなかった。それは中央の宝石を取り去られた金の象嵌ぞうがんのごとく、または夜の空にかがやく星の消えたるがごとくであった。彼女はその姿と共に、鏡のうちにうつっていた一切のめずらかなる物を持ち去って、鏡の外にある物となんの異ることもなくなってしまった。それを見て彼はいったん失望したが、彼女はきっと再び帰って来るに相違ない、たぶん、あしたの夜も同じ時刻に帰って来るという希望をいだいて自ら慰めていた。そうして、もし彼女が重ねて来たならば、かの骸骨をみせて忌いやな心持ちを起こさせないようにするばかりでなく、すべて彼女に不愉快をあたえそうな物は、鏡にうつらない部屋の隅にことごとく移して、出来るだけこの部屋のうちを取り片づけた。

三

コスモはその夜は眠られなかった。

彼は戸外の夜風に吹かれ、夜の空を仰いで心を慰めるために外出した。外から帰って、心はいくらか落ち着いたが、寝床に横になる気にはなれなかった。その寝台にはまだ彼女が横たわっているように思われて、自分がそこに寝ころぶのは、なんだか神聖を涜けがすように感じられてならなかった。しかし、だんだんに疲労をおぼえて、着物を着かえもせずにそのまま寝台に横たわって、次の日の昼ごろまで寝てしまったのであった。

翌日の夕方、彼は息づまるほどに胸の動悸を感じながら、ひそかに希望をいだいて鏡の前に立ったのである。見るとまたもや鏡にうつる影は、たそがれの光りをあつめた紫色の霞かすみを透して光っていた。すべてのものは彼と同じように、天来の喜びがあらわれてきて、この貧しい地上に光明を与えるのを待っているようであった。近くの寺院からゆうべの鐘がひびいてきて六時の時刻を示すと、ふたたび青白い美女は現われて来て、寝台の上に腰を掛けたのであった。

コスモはそれを見ると、嬉しさのあまり夢中になった。彼女が再び出て来たのである。彼女はあたりを見まわして、骸骨がいないのを見ると、かすかに満足のおももちを見せた。その憂わしい顔色はまだ残っていたが、ゆうべほどではない。彼女は更にまわりのものに気をつけて、部屋のそこやここにある変わった器具などを物めずらしそうに見ていたが、それにもやがて倦あいたらしく、睡気に誘われたように寝入ってしまった。

今度こそは彼女の姿を見失うまいとコスモは決心して、その寝姿に眼を離さなかった。彼女の深い睡ねむりを見つめていると、その睡りが心をとろかすように、彼女からコスモに移って来るように思われた。しかも彼女が起きあがって、眼をとじたままで無遊病者のような足どりで部屋から歩み去った時には、コスモも夢からさめたように驚いた。

コスモはもう譬たとえようのない嬉しさであった。たいていの人間は秘密な宝をかくし持っているものである。吝嗇りんしょくの人間は金をかくしている。骨董家こっとうかは指環を、学生は珍書を、詩人は気に入った住居を、恋びとは秘密のひきだしを、みなそれぞれに持っている。コスモは愛すべき女のうつる鏡を持っているのである。

コスモは骸骨がなくなったのち、彼女が周囲に置いてあるものに興味を持ち始めたのを知って、人生に対する新しい対象物を考えた。彼は鏡にうつっている無一物のこの一室を、どの婦人が見ても軽蔑しないように作り変えようと思った。そうするには部屋を装飾して、家具を備えればいいのである。たとい貧しいとはいえ、彼はこの考えを果たし得る手腕を持っていた。これまでは財産がないために身分相応の面目を保つことが出来ないのを愧はじて、その財産を作るために努めて細ぼそと暮らしてきていたのであるが、いっぽう彼は大学における剣術の達人であったので、剣術その他の練習の教授を申しいでて、自分の思惑を果たすほどの報酬を要求したのであった。その申しいでには学生たちも驚いた。しかし、また熱心にこれを迎える連中も多かったので、結局は熱心なプラーグの若い貴族たちの仲間ばかりでなく、金持の学生や、近在の人たちにもそれを教授することになった。それがために彼は間もなくたくさんの金を得たのである。

彼はまず器具類や風変わりの置物を、部屋の押入れの中にしまい込んだ。それから彼の寝台その他の必要品を煖炉だんろの両側に置いて、そこと他とを仕切るために、印度の織物で二つのスクリーンを張った。それから今まで自分の寝台のあった隅の方に、彼女のために優美な新しい寝台を備えた。そんなふうに贅沢な品物が日ごとにふえて、後には立派な婦人室が出来たのであった。

毎夜、同じ時刻に女はこの部屋にはいって来た。彼女は初めてこの新しい寝台を見たとき、なかば微笑を浮かべて驚いたらしかった。それでもその顔色はまただんだんに悲しみの色になり、眼には涙を宿して、のちには寝台の上に身を投げ出して絹シルクのクッションに身を隠すように俯伏うつぶした。

彼女は部屋の中のものが増したり、変わったりするたびにそれに気がついて、それを喜んでいた。それでもやはり絶えず何か思い悩んでいるのであったが、ある夜ついに次のようなことが起こった。いつものように彼女が寝台に腰をおろすと、コスモがいま壁に飾ったばかりの絵画に彼女は目をつけたのである。コスモにとって嬉しかったのは、彼女は起たちあがって絵画の方に進みよって、注意ぶかくそれを眺め、いかにも嬉しそうな顔色を表わしたことであった。しかもそれがまた悲しい、涙ぐんだような表情に変わって、寝台の枕に俯伏してしまったかと思うと、またその顔色もだんだんに鎮まって、思い悩んでいる様子も消えていって、さらに平静な、希望ある表情が浮かんできたのであった。

この間に、コスモはどうであったかというに、彼の性情から誰しも考え得られるるように、恋の心を起こしたのであった。恋、それは充分に熟してきた恋である。しかも悲しいことには、彼は影に恋しているのである。近づくことも、言葉を伝えることも出来ない。彼女の美しい口唇くちびるから言葉をきくことも出来ない。ただ蜜蜂が蜜壺を見るがごとくに、彼は眼で彼女を求めているばかりである。彼は絶えず独りで歌っていた。

われは死なむ処女おとめの愛に……

コスモは愛慕の情に胸を破らるるばかりであったが、さすがに死ぬことはできなかった。彼女のために心尽くしをすればするほど、彼女への恋は弥増いやましてゆくばかりであった。たとい彼女がコスモに近づくことがないにしても、見知らぬ人間が彼女のために生命を捧ぐるまでに恋いこがれているということを、彼女が喜んでくれればそれでいいと望んでいた。コスモは自分と彼女とが今はこうして離れているが、いつかは彼女が自分を見て何かの合図をしてくれるものと思って、ひそかに自分を慰めていた。なぜといえば、「すべて恋する人の心は相手に通ずるものである」また、「実際、どれだけの愛人たちが、この鏡のうちと同じように、ただ見るばかりでそれ以上近づき得られないでいるか。知っているようで、また知っていないようで、相手の心に触れるひまもなく、ただこの宇宙のような漠然とした心持ちだけで何年もの間をさまよいあるいているか」また、「自分がもし彼女と語ることが出来さえすれば、彼女が自分の言うことを聴いてさえくれれば、それだけで自分は満足する」――コスモはそう思ったりした。あるときは、彼は壁に絵をかいて、自分の思いを伝えようかと思ったが、いざやって見ると、絵の上手な割りには手がふるえて描けなかった。彼はそれもやめてしまったのであった。

生けるものは死し、死するものまた生く。

ある夜のことであった。コスモは自分の宝である彼女を見つめていると、彼女はコスモの熱情ある眼が自分に注がれていることを知ったらしい自覚の顔色をほのかに現わしたのを見たのであった。彼女もしまいには、首から頬、額にかけて赤く染めたので、コスモはもう傍そばに寄りつきたい心持ちで夢中になっていた。その夜、彼女はダイヤモンドの輝いている夜会服を着ていた。それは格別彼女の美しさを増してはいなかったが、また別な美しさを見せていた。彼女の美しさは無限であって、こうして違った新しい身装みなりになると、さらに別な愛らしさを示していた。すべて自然の心は、自然の美しさを見せるために限りなくさまざまな形をあらわし、この世に出て来るすべての美しき人びとは、同じ心臓の鼓動を持っていても、二人とは同じ顔の持ち主はいないのである。個人については猶更なおさらのこと、身の廻りのものを限りなく変えて、あらゆる美しさを見せなければならないのである。

ダイヤモンドは彼女の髪の中から、暗い夜の雨雲のあいだから星が光るように、なかばその光りをかくしながら光っていた。彼女の腕環は、彼女が雪のような白い手でほてった顔をかくすたびに、虹の持つようなさまざまの色を輝かしていた。しかも彼女の美しさにくらべれば、これらの装飾は何ものでもなかった。

「一度でもいいから、もし彼女の片足にでも接吻キッスすることが出来たら、僕は満足するのだが……」

コスモはそう思った。ああ、しかし、その熱情も報むくわれないのである。彼女が美しい魔鏡の世界からこの世に出てくる二つの道があるのであるが、彼はそれを知らないのであった。たちまちある悲しみが外から湧いてきた。初めはただの歎なげきであったが、のちにはそれが悩みを起こして、彼の心に深く喰い入った。

「彼女はどこかに愛人がある。その愛人の言葉を思い出して彼女は顔を染めたに相違ない。彼女は僕の所から離れると、夜昼いつでも別の世界に生きている。僕の姿は彼女にはわからない。それでいながら、彼女はどうしてここへ来て、僕のような強い男が彼女をこれ以上に見あげることが出来ないくらいに恋ごころを起こさせるのだろう」

コスモは再び彼女のほうをみると、彼女は百合リリーのような青白い顔色をして、悲しみの色が休みなき宝石の光りを妨げているように見えていた。その眼にはまたもや静かな涙がにじんでいた。その夜の彼女はいつもより早く部屋を立ち去ったので、コスモは独り取り残されて、胸のうちが急に空虚になり、全世界はその地殻を破られたように思われた。

次の夜(彼女がこの部屋に来はじめてから最初のことである)彼女はこなかった。

コスモはもう破滅の状態にあった。彼女との恋について、自分の敵があるという考えが浮かんでからは、一瞬時も心を落ちつけていることは出来なかった。今までよりいや増して、彼は彼女に眼まのあたり逢いたく思った。彼は自分に言い聞かせた。もし、自分の恋が失敗であるならばそれでいい。その時はもうこのプラーグの町を去るだけである。そうして、何かの仕事に絶えず働いて、いっさいの苦くを忘れたい。それがすべて悲しみを受けた者のゆくべき道である。

そう思いながらも、彼は次の夜も言いがたい焦燥しょうそうの胸をいだいて、彼女のくるのを待っていた。しかし、彼女はこなかった。

四

今はコスモも煩わずらう人となった。その恋に破れた顔色を見て、仲間の学生たちがからかうので、彼はついに教授に出ることをやめて、契約もまた破れてしまった。彼はもう何もいらないと思った。偉大なる太陽の輝いている空も――心のない、ただ燃えている砂漠であった。町を歩いている男も女も、ただあやつりの人形を見るようで、なんの興味もなかった。彼にとってすべてのものは、ただ写真のすりガラスにうつる絶えざる現象の変化としか見えなかった。ただ彼女のみがコスモの宇宙であり、その生命であり、人間としての幸福であったのである。

六日もつづいて彼女は出てこなかった。コスモは疾とうに決心して、その決心を実行するはずであったが、彼はただ熱情に捉とらえられて頭を悩み苦しめていたのである。彼は理論的に考えた。彼女の姿が鏡のうちにうつるというのは、鏡に何かの魔力が結びつけられているに相違ない。そこで彼は、今までこういう怪奇なことに関して研究したものについて、あらためて考え直すことに決心した。彼は独りで言った。

「もし、悪魔が彼女を鏡のうちに現出させることが出来るならば、自分が知っている悪魔の話のように、鏡のうちに彼女をうつしたばかりでなく、さらに生きた姿のままを直接に自分の前に現出させてみせそうなものだ。もしも彼女が自分の前に現出して、僕が彼女に対して何か悪いことをしたとしても、それは愛がさせる業わざだ。僕は彼女の口から、ほんとうのことさえ聞けばいいのだ」

コスモは、彼女はこの地上の女に違いはない。地上の女が何かの理由でその影をこの魔鏡のなかにうつしているに相違ないと信じていた。

彼は秘密の抽斗ひきだしをあけて、その中から魔術の書物を取り出し、ランプをつけて、夜半から朝の三時まで三日もつづいて読み通して、それをノートに書きつけた。それから彼は書物をしまい込んで、次の晩には魔法に必要な材料を買うために町へ出かけたが、彼の求めているものを得るには容易でなかった。なぜといえば、この種の惚れ薬を作ったり、神おろしめいたことをするについて、必要なる合い薬が書物にも完全にしるされていない。またその分量も、自分の痛切なる要求を満たすにとどめておくという限度がなかなかむずかしいからであった。それでも遂に彼は自分の望むすべてのものを求めることができた。彼女が鏡のうちに出て来なくなってから七日目の夕方に、彼は無法な、暴君的な力をかりるべき準備を整えたのである。

彼はまず部屋の中央にあるものを取りのけてしまった。それから身をまげて自分の立っている周囲に丸い赤い線を引いた。そうして、四隅に不思議な記号しるしをつけ、七と九に関する数字をつけて、その輪のどの部分にも少しの相違もないように、注意ぶかく検しらべてから起たちあがった。

彼が起つと、教会の鐘は七時を打った。それと同時に、彼女もあたかも初めて現われてきたときのように、気の進まないような緩ゆるい歩調で、出てきたのである。コスモはふるえた。そうして、鏡から離れて振り返って見ると、彼女は疲れたような蒼ざめた顔をして、何か病気か、心配でもありそうな風情ふぜいである。コスモは倒れそうになって、とても前へは進めなかった。それでもじっと彼女の顔と姿を見つめていると、すべての喜びや悲しみを離れて、ただ胸がいっぱいになって、彼女と語りたい、自分の言うことを彼女が聞いてくれるか、ひと言でいいから返事を聴きたい。彼はもうたまらなくなって、かねて準備した仕事にあわてて取りかかったのである。

線を引いた場所から注意ぶかく歩いて、線の中央に小さい火鉢を置き、そのなかの炭に火をつけて、それが燃えている間、彼は窓をあけて火鉢のそばに腰をおろしていたのであった。それは蒸し暑い夕方で、絶えず雷鳴がとどろいて、大空が重苦しいように下界の空気をおしつけている日であった。なんとなく紫色をした空気がただよっていて、町の煙霧えんむもそれを吹き消すことが出来ないような、遠い郊外の匂いが窓から吹いて来た。間もなく炭がさかんにおこってくると、コスモはその上に、香その他の材料を混合したものを撒まいた。それから描いた線のなかに歩み寄って、火鉢の所から振り向いて鏡のなかの女の頭を見つめながら、強い魔法の呪文じゅもんをふるえる声でくりかえした。

それがあまりに長く続かないうちに、彼女は顔を蒼くしたが、波が打ち返すように今度は顔をあからめて、手をもって顔をかくした。彼は魔法をさらに強くつづけた。彼女は起たって、室内を不安そうにあちらこちら歩きながら、何か腰をおろすものが欲しいように見まわしていた。とうとう、彼女は突然に見つけたようであった。彼女は眼を大きくいっぱいに見ひらいて彼を見つめていたが、なんだか気が進まないようなふうに身を引いて、鏡の近くに寄って行った。

コスモの眼が彼女に一種の魅力を与えたようであった。コスモは今までこんなに間近く彼女を見たことはなかった。眼と眼とが合うほどまでに近づいたが、それでも彼女の表情は分からなかった。その表情は優しい哀願をこめているものであったが、その以上の、言葉に尽くせない何物かがあった。彼は胸の思いが喉のどのところまで込み上げて来たが、なにぶんにもまだ魔法を続けていて、その歓喜も焦燥も表にあらわすわけにはゆかなかった。

彼女の顔に見入っていると、コスモは今までにない魅惑を感じた。突然に彼女はうつっている部屋のうちから扉の外へ歩いていったかと思うと、次の瞬間に彼女は、コスモの部屋に(鏡のうちではない)まことの姿になってはいって来た。

彼はいっさいの注意を忘れて、そこから飛びあがって彼女の前にひざまずいた。今こそ彼が熱情の夢に描いていた彼女が、生きた姿で雷鳴のたそがれに、魔術の火の輝きのなかにただひとり、彼のかたわらに立っているのである。

「どうしてあなたは、この雨のふっている町を通って、私のような哀れな女を連れて来たのです」と、彼女はふるえる声で言った。

「あなたを恋しているからです。私はあなたを鏡のうちから呼び出しただけです」

「ああ、あの鏡!」と、彼女は鏡を見上げて身をふるわせた。「ああ、わたしはあの鏡のある間は一種の奴隷に過ぎないのです。私がここに参ったのは、あなたの魔術の力だとお思いになってはいけません。あなたが私に逢いたがっていらっしゃることが、私の心を打ったのです。それが私をここへ来させたのです」

「では、あなたは私を愛してくださるのですか」

コスモは死のように静かな、しかし感情に激してよくは分からないような声で言った。

「それは分かりません。私がこの魔法の鏡のために苦しんでいるあいだは何とも申されません。それでもあなたの胸にいだかれて、死ぬまで泣くことが出来たら、どんなに嬉しいかしれません。あなたが私を愛していてくださることは知っております。いえ、それも分からないのですけれど……。それでも……」

ひざまずいていたコスモは起ち上がった。

「わたしはあなたを愛しています。どうしてだか、前から愛しています。そのほかにはなんにも考えておりません」

彼は彼女の手を握ると、彼女は手を引いた。

「いけません。わたしはあなたの手のうちにあるのです。それですからいけません……」

今度は彼女がコスモの前にひざまずいて泣き出した。

「もしあなたが私を愛してくださるならば、わたしを自由の身にして下さい。あなたからも自由にしてください。この鏡を毀こわしてください」

「そうしてからも、あなたに逢うことが出来ますか」

「それは言えません。あなたをおだまし申しませんけれど……。もう二度とお目にかからないかもしれません」

するどい驚きがコスモの胸に起こった。いま彼女は彼の手中にある。彼女はコスモを嫌ってもいない。そうして、逢いたい時はいつでも逢えるのであるが、鏡を毀すということは、彼の真実の生活を破壊することにもなり、彼の宇宙からただひとつの光明を追放することにもなるのである。愛の楽園を見ることの出来るこの一つの窓を失ってしまえば、全世界は彼にとって牢獄に過ぎない。愛に対して不純のようではあるが、彼はその実行をためらったのであった。

彼女は悲しみながら起ちあがった。

「ああ、あの人は私を愛してはくださらない。私は感じているのに、あの人は愛してくださらない。私はもう自由になれなくともいいから、あの人を愛します」

「もう待ってはいられない」

コスモはこう叫んで、大きな剣の立っている部屋の隅に飛んでいった。

もう暗くなっていた。部屋のうちには燃えさしの火が赤く輝いていた。彼は剣の鞘さやを手に持って鏡の前に立ったのである。彼が剣の柄つかがしらで鏡に一撃をあたえると、刀身は鞘から半分ほど抜け出して、柄がしらは鏡の上の壁を打った。このとき怖ろしい雷鳴が部屋のなかに発して、コスモは二度と鏡を打つことが出来ずに、無意識のままで炉のほとりに倒れてしまった。

五

コスモが意識をとりかえした時には、女も鏡も失せていた。彼はその以来頭痛を覚えて、数週間のあいだは寝台に横たわっていた。

彼は理性を回復すると、鏡の行くえについて考え始めた。彼女については、今までの通りに帰ってくれることを望んでいたが、彼女の運命は鏡のうちに含まれていて、鏡と運命を倶ともにしているのである。彼はそれについて更に焦燥を感じた。彼としては、彼女が鏡を持ち去ったとは思われなかった。それが壁にしっかりと取りつけてなかったとはいえ、それを持ち運ぶべく彼女にはあまり重いのである。彼はまたそのときの雷鳴について考えた。彼を打ち倒したものは、雷電いかずちではない、何か他の物であるかのように断定した。何か彼に復讐を企てた悪魔が、自己の安全を図るために、神変不思議の魔力をもってなしたのではあるまいか。それともまた、何か他の方法で彼の鏡が前の持ちぬしのところへ戻ったのではあるまいか。そうして恐るべきことは、またもや他の男に彼女を渡すのではあるまいか。その男は、コスモ以上の魔法の力を所有していて、あのときにためらって鏡を砕き得なかった彼の利己的な不決断を呪うような、種しゅじゅの事故を作りはしないであろうか。実際、それらのことを考えて、わが愛する者のために、また自分に自由を求めた女のために、さまざまに心を砕くのは、鏡の持ちぬしたるコスモとしてはある程度までは当然のことである。こうして、コスモの絶えざる観察の上に浮かんでくるすべてのものは、悩める恋びとの心を狂わすにじゅうぶんであった。

彼は自分のからだの回復を待っていられずに、とうとう外出するようになった。彼はまず、かの古道具屋の老人のところへ、何か他のものを求めにきたような顔をして出かけたのである。鏡のことについてよく知っているおやじの奴めが嘲笑的な顔をしているのが、コスモにも覚さとられた。しかもコスモは、そこにある家具や器物のうちに鏡を見いだすことはもちろん、またその鏡がどうなっているかを知ることもできなかった。

老人はその鏡が盗まれたということを聞いて、極度に驚いた。しかもその驚きはいつわりで、内心は平気であるらしいことをコスモは認めた。彼は悲しみを胸いっぱいにいだきながら、それをできるだけ押し隠して、そこらをいろいろに捜してみたが、ついに無効に終わったのであった。

彼は他人に対して別に何事も訊きこうとはしなかったが、それでも捜索の端緒いとぐちになるような暗示があらば、どんなことでも聞き逃がすまいと、常に聴き耳を立てていた。外出の節は、まんいち運よくかの鏡にひと目でも出逢う時があったらば、その時すぐに打ち割るために、いつも身には短い重い鉄鎚をつけていた。彼にとっては、彼女に逢うことはもはや第二の問題であった。ただ彼女の自由さえ得ることが出来ればそれでいいと思っていた。彼は蒼ざめた幽霊のように窶やつれ果てて、自分の失策しくじりのために彼女がどんなに苦しみ悩んでいるかと心を傷いため尽くして、所所方方をさまよい歩いていた。

ある晩、町でも最も宏壮なる別邸の一つとして知らるる家の集会にコスモもまじっていた。彼は貧しいながらも、何か自分の捜索を早める端緒を見いだしはしまいかと思って、すべての招待に応じて、その機会を失わないように努めていたのであった。この席上でも彼は何か探り出すことはないかと、洩れきこえる諸人の談話をいちいち聞き逃がさないようにうろつき廻っていた。そうして、会場の片隅で静かに話している婦人の群れに近づくと、ひとりの婦人は他の婦人にこんなことを話しているのが聞こえた。

「あなたはあのホーヘンワイス家のお姫ひいさまが、不思議なご病気でいらっしゃるのをご存じでございますか」

「はい、あのおかたはもう一年あまりもお悪いのでございます。あんなお美しいおかたが、そんな怖いお患わずらいをなすっていらっしゃるのは、お気の毒でございますね。つい二、三週間のあいだはたいそうよろしかったようでしたが、またこの二、三日以来お悪いそうで、以前よりもたしかにひどくおなりなすったといいますが、よほどわからない謂いわれがあるのでございましょうね」

「何かご病気に謂れがおありになるのでございますか」

「わたくしもよくは伺っておりませんけれど、こんな話でございます。一年半ほど前にお姫さまが、お屋敷で何か大事なご用を仰せつかっている老女を、お叱りになったことがあるのだそうでございます。そうすると、その老女は何か辻褄つじつまの合わない嚇おどし文句を残して、そのままいなくなってしまいました。それから間もなくご病気が起こったのだそうで……。そうして、おかしいことには、お姫さまの化粧室に置いてあって、いつもお使いになる古代の鏡が同時に失なくなっていたのだそうでございます」

それから婦人たちの話は小さいささやきになったので、コスモはしきりにそれを聞きたいと思っても、もうその以上を知ることは出来なかった。この場合、コスモはかの婦人たちの好奇心のなかに飛び込んで、一緒に話したらよかったかもしれなかったが、彼は驚きのあまりにそれをなし得なかったのである。ホーヘンワイス家の姫の名はコスモもかねて知っていたが、まだその人を見たことはなかった。姫が鏡の中から抜け出した彼女でない限り、コスモは見たことのない婦人であって、かの怖ろしい夜に自分の前にひざまずいた人であるかどうかを、彼は疑わざるを得なかった。彼はなにぶんにも体が弱っているので、今聞いたことのためにひどく心を労して、もうそこに落ち着いてはいられなくなった。彼は表へ出て、自分の下宿にたどりついた。

姫に近づき得るなどということは夢にも思えないことながら、その住居がわかったことは少なくも彼にとっては喜びである。また、憎むべき監禁状態から彼女を自由にすることが出来たらば、どんなに幸福であろうと思うだけでも、彼には大いなる喜びであった。彼は思いもよらずこれだけのことを知ったように、これからもまた、どんな思いがけないことが近いうちに起こってくるであろうかと待ち望んでいたのであった。

「君は最近にスタインワルドに逢ったかい」

「いや、しばらく逢わないね。あいつは剣闘で僕のいい相手なんだが……。あれが古道具屋から出て来た時に会ったぎりのように思うよ。それ、君と一緒に甲冑かっちゅうを見にいったことがあるだろう。あの店だよ。それはまる三週間まえだ」

この話でコスモはヒントを得たのであった。フォン・スタインワルドと言えば、向う見ずの烈はげしい性情の所有者で、大学でもみんなが怖れている男である。さてはあの男が鏡を持っているに違いないと思ったが、コスモにとっては苦手にがてであった。この場合、乱暴な急激手段はいずれにしても成功しそうもない。コスモが望んでいるのは、ただ、かの鏡を打ち割る機会さえ捉とらえ得ればいいのである。それには時を待つよりほかはない。彼は心のうちにいろいろの手段方法をめぐらしてみたが、どれもまとまらなかった。

とうとうその機会が来た。ある夕方、スタインワルドの家の前をとおると、いくつかの窓にめずらしく賑やかに灯がついているのを見た。しばらく気をつけて見ていると、何かの集まりのために、だんだんに人が入り込んでゆくので、コスモは急いで下宿に帰って、できるだけ贅沢な服装なりをして、自分も他の客にまじってその家の中へ無事に入り込むことを考えた。それには、コスモはその風采からいっても申し分はないのであった。

この町の別な処にある高楼たかどのの静かな一室に、生きているとは思われない、大理石のような姿をした一人の女が横たわっていた。口を硬くとじ、眼瞼まぶたをたたんでいて、その顔には美しい死が彼女を凍らせているかと思われた。その手は胸の上に置かれているが、呼吸いきもないようである。この死人のそばには、二、三の人が控えていて、人間の声がまだ生き残っているものを破るのを恐るるごとくに、小さくささやいていた。死人の霊魂は人間のすべての感覚がとどき得ない高い所にあるにもかかわらず、女のそばには二人の婦人が、悲しみを押さえるような極めて静かな声で話していた。

「このかたはもう一時間以上もこうしていられます」

「もう長いことはないかと存じます」

「この数週間のあいだに、どうしてこうもお痩せになったのでございましょう。このかたが何かお話しくだすって、なにを苦しんでいらっしゃるのかおっしゃってさえくださればよろしいのですが、お目ざめになっていましても、どうしてもおっしゃらないのでございます」

「昏睡状態になって、なにもおっしゃりませんでしたか」

「何もお聞き申さないのでございます。それでも、このおかたが時どきお歩きになって、ある時などは一時間のあいだもお見えにならなくなったことがあって、お屋敷じゅうの人たちがびっくりなすったそうでございます。その時、このおかたは雨にお濡れになってお疲れと恐れのために死んだようになっていらしったそうで……。その時でさえも、どんなことが起こったのか、なにもおっしゃらなかったそうでございます」

この時、そばについている人たちは、動かない死人の女の口から聞こえるか聞こえないかの弱い声をきいてびっくりした。つづいて何かしきりにわけの分からないような言葉が出たかと思うと、そのうちに、「コスモ」という言葉が彼女の口から出た。それからしばらくの間、またそのままに眠っていたが、突然大きい叫び声を立てて、寝台の上に飛びあがって、両手を強く握りしめて頭の上にあげ、その眼を大きく輝かして、墓場から抜け出してきた幽霊のように狂喜の叫び声をあげた。

「私はもう自由です。わたしは自由です。あなたにお礼を言います!」

彼女は寝台の上に身を投げ出して泣いた。それからまた起たちあがったかと思うと、烈しく部屋のうちをあちらこちら歩きまわって、何か嬉しいような呆あきれている様子であったが、やがて呆気あっけにとられている附き添いの者を見返って言った。

「早く、リザ。わたしの外套がいとうと頭巾ずきんを持ってきておくれ」

彼女はまた低い声で言った。

「早くしておくれ、あのかたの処ところへゆかなければならないから。ゆくなら一緒においでなさい」

間もなく二人は町へ出て、モルドーに架けられた橋にむかって急いだ。月は中空なかぞらにさえて、町には人の通りもなかった。姫はすぐに侍女のさきへ駈け抜けて、侍女が橋のたもとまで来たときに、彼女はもう橋の中ほどまで渡っていた。

「あなたは自由におなりになりましたか。鏡はこわしました。自由におなりでしたか」

姫が急いで行く時、彼女のそばでこういう声がきこえたのであった。姫は振り向いて見ると、橋の隅の欄干によりかかって、立派な服装なりをしていながら、白い顔をして顫ふるえているコスモが立っていた。

「おお、コスモ。わたしは自由になりました。私はいつまでもあなたのものです。私はあなたの処へゆく途中だったのです」

「私もあなたのところへ行く途中でした。死がこれだけのことをさせたのです。私はこの以上どうにも出来なかったのです。私は報われたのでしょうか。私は少しでもあなたを愛することが出来るでしょうか……。ほんとうに……」

「あなたが私を愛していらっしゃることは、わたしにもよく分かりました。それにしても、どうして〈死〉などということをおっしゃるのです」

その答えは聞かれなかった。コスモは手で横腹を強く抑おさえていたが、姫はそれをよく見ると、抑えている彼の指のあいだからおびただしい血がほとばしっていた。彼女は悼いたましさと悲しさが胸いっぱいになって、両手で彼をいだいた。

侍女のリザが駈けつけて来たとき、姫は蒼白い死人の顔の前にひざまずいていた。その死人の顔は妖魔のごとき月光のもとに微笑を浮かべて――

底本 / Source edition

底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年9月4日初版発行
2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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マクドナルド ジョージ「世界怪談名作集──16 鏡中の美女」(新字新仮名)、底本『世界怪談名作集 下』河出文庫、河出書房新社、1987年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043468_001117, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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