Soranoha

内部生命論

ないぶせいめいろん

北村 透谷

人間は到底枯燥したるものにあらず。宇宙は到底無味の者にあらず。一輪の花も詳つまびらかに之を察すれば、万古の思あるべし。造化は常久不変なれども、之に対する人間の心は千々に異なるなり。

造化は不変なり、然れども之に対する人間の心の異なるに因よつて、造化も亦た其趣を変ゆるなり。仏教的厭世詩家の観たる造化は、悉こと〲く無常的厭世的なり。基督教的楽天詩家の観たる造化は、悉く有望的楽天的なり、彼を非とし、此を是とするは余が今日の題目にあらず。夫れ斯の如く変化なき造化を、斯の如く変化ある者とするもの、果して人間の心なりとせば、吾人豈あに人間の心を研究することを苟且かりそめにして可ならんや。

造化ネーチユアは人間を支配す、然れども人間も亦た造化を支配す、人間の中に存する自由の精神は造化に黙従するを肯がへんぜざるなり。造化の権ちからは大なり、然れども人間の自由も亦た大なり。人間豈に造化に帰合するのみを以て満足することを得べけんや。然れども造化も亦た宇宙の精神の一発表なり、神の形の象顕なり、その中に至大至粋の美を籠こむることあるは疑ふべからざる事実なり、之に対して人間の心が自からに畏敬の念を発し、自からに精神的の経験を生ずるは、豈不当なることならんや、此塲合に於て、吾人と雖いへども、聊いさゝか万有的趣味を持たざるにあらず。

人間果して生命を持てる者なりや、生命といふは、この五十年の人生を指して言ふにあらざるなり、謂ふ所の生命の泉源なるものは、果して吾人々類の享有する者なりや。この疑問は人の常に思ひ至るところにして、而して人の常に軽んずる所なり、五十年の事を経綸するは、到底五十年の事を経綸せざるに若しかざるなり、明日あるを知らずして今日の事を計るは、到底真に今日の事を計るものにあらざるなり、五十年の人生の為に五十年の計を為すは、如何いかに其計の大に、密に、妙に、精にあるとも、到底其計なきに若かざるなり。二十五年を労作に費し、他の二十五年を逸楽に費やすとせば、極めて面白き方寸なるべし、人間の多数は斯の如き夢を見て、消光するなり、然れども実際世界は決して斯の如き夢想を容るゝの余地を備へず。我が心われに告ぐるに、五十年の人生の外はすべて夢なりといふを以てせば、我は寧むしろ勤労を廃し、事業を廃し、逸楽晏眠を以て残生を送るべきのみ。

吾人は人間に生命ある事を信ずる者なり。今日の思想界は仏教思想と耶教思想との間に於ける競争なりと云ふより、寧ろ生命思想と不生命思想との戦争なりと云ふを可とす。吾人が思想界に向つて微力を献ぜんと欲することは、耶蘇教の用語を以て仏教の用語を奪はんとするにあらず、耶蘇教の文明(外部の)を以て仏教の文明を仆たふさんとするにあらず、耶蘇教の智識を以て仏教の智識を破らんとするにあらず、吾人は生命思想を以て不生命思想を滅せんとするものなり、彼の用語の如き、彼の文明の如き、彼の学芸の如き、是等外部の物は、自然の陶汰を以て自然の進化を経べきなり、吾人の関する所爰こゝにあらず、生命と不生命、之れ即ち東西思想の大衝突なり。

つら〱明治世界の思想界に於て、新領地を開拓したる耶教一派の先輩の事業の跡を尋ぬるに、宗教上の言葉にて、謂ふ所の生命の木なるものを人間の心の中に植ゑ付けたる外に、彼等は何の事業をか成さんや。洋服を着用し、高帽子を冠ることは思想界の人を労せずして、自然に之を為すなり。凡およそ外部の文明を補益することは、何ぞ思想界の達士を煩わづらはすことを要せんや。外部の文明は内部の文明の反影なり、而して東西二大文明の要素は、生命を教ふるの宗教あると、生命を教ふる宗教なきとの差異あるのみ。優勝劣敗の由つて起るところ、茲こゝに存せずんばあらざるなり。平民的道徳の率先者も、社会改良の先覚者も、政治的自由の唱道者も、誰か斯民に生命を教ふる者ならざらんや、誰れか斯民に明日あるを知らしむる者にあらざらんや。誰か斯民に数々さく〱慼々せき〱として今日にのみ之れ控捉せらるゝを警醒するものにあらざらんや。宗教としての宗教、彼れ何物ぞや、哲学としての哲学、彼れ何物ぞや、宗教を説かざるも生命を説かば、既に立派なる宗教にあらずや、哲学を談ぜざるも生命を談ぜば、既に立派なる哲学にあらずや、生命を知らずして信仰を知る者ありや、信仰を知らずして道徳を知る者ありや、生命を教ふるの外に、道徳なるものゝ泉源ありや、凡そ生命を教ふる者は、既に功利派にあらざるなり、凡そ生命を伝ふる者は、既に瞹眛派あいまいはにあらざるなり、凡そ生命を知るものは、既に高蹈派にあらざるなり、危言流行の今日、世人自から惑ふこと勿なからんことを願ふなり。

吾人をして去さつて文芸上に於ける生命の動機を論ぜしめよ。

文芸は宗教若もしくは哲学の如く正面より生命を説くを要せざるなり、又た能はざるなり。文芸は思想と美術とを抱合したる者にして、思想ありとも美術なくんば既に文芸にあらず、美術ありとも思想なくんば既に文芸にあらず、華文妙辞のみにては文芸の上乗に達し難く、左さりとて思想のみにては決して文芸といふこと能はざるなり、此点に於て吾人は非文学党の非文学見に同意すること能はず。先覚者は知らず、末派のポジチビズムに於て、文学をポジチーブの事業とするの余りに、清教徒の誤謬を繰返さんとするに至らんことを恐るゝなり。

戯文世界の文学は、価値ある思想を含有せし者にあらざること、吾人と雖、之を視みざるにあらず、然れども戯文は戯文なり、何ぞ特更ことさらに之を以て今の文学を責むるの要あらんや。吾人を以て之を見れば、過去の戯文が、華文妙辞にのみ失したるは、華文妙辞の罪にあらずして、文学の中に生命を説くの途を備へざりしが故なり、請ふ、少しく徳川氏の美文学に就きて、之を言はしめよ。

すべての倫理道徳は必らず、多少、人間の生命に関係ある者なり。人間の生命に関係多きものは人間を益する事多き者にして、人間の生命に関係少なき者は、人間を益する事少なき者なり。徳川氏の時代にあつて、最も人間の生命に近かりしものは儒教道徳なりしこと、何人も之を疑はざるべし。然れども儒教道徳は実際的道徳にして、未だ以て全く人間の生命を教へ尽したるものとは言ふべからず。繁雑なる礼法を設け、種々なる儀式を備ふるも、到底 Formality に陥るを免かれざりしなり、到底貴族的に流るゝを免かれざりしなり、之を要するに其の教ふる処が、人間の根本の生命の絃に触れざりければなり。其時代に於ける所謂美文学なるものを観察するに至りては、吾人更に其の甚しきを見る、人間の生命の根本を愚弄ぐろうすること彼等の如くなるは、吾人の常に痛惜する処なり。彼等は儀式的に流れたる、儒教道徳をさへ備へたるもの稀なり。彼等の多くは、卑下なる人情の写実家なり。人間の生命なるものは彼等に於ては、諧謔かいぎやくを逞たくましふすべき目的物たるに過ぎざりしなり、彼等は愛情を描けり、然れども彼等は愛情を尽さゞりしなり、彼等の筆に上りたる愛情は肉情的愛情のみなりしなり、肉情よりして恋愛に入るより外には、愛情を説くの道なかりしなり、プラトーの愛情も、ダンテの愛情も、バイロンの愛情も、彼等には夢想だもすること能はざりしなり。彼等は忠孝を説けり、然れども彼等の忠孝は、寧ろ忠孝の教理あるが故に忠孝あるを説きしのみ、今日の僻論家が敕語ちよくごあるが故に忠孝を説かんとすると大差なきなり、彼等は人間の根本の生命よりして忠孝を説くこと能はざりしなり。彼等は節義を説けり、善悪を説けり、然れども彼等の節義も、彼等の善悪も、寧ろ人形を并ならべたるものにして、人間の根本の生命の絃に触れたる者にあらざるなり。謂いふ所の勧善懲悪なるものも、斯る者が善なり、斯るものが悪なりと定めて、之に対する勧懲を加へんとしたる者にして、未だ以て真正の勧懲なりと云ふ可からず。真正の勧懲は心の経験の上に立たざるべからず、即ち内部の生命インナーライフの上に立たざるべからず、故に内部の生命を認めざる勧懲主義は、到底真正の勧懲なりと云ふべからざるなり。彼等は世道人心を説けり、為なすあるが為めに文を草すべきを説けり、世を益するが為めに文を草すべきを説けり、然れども彼等の世道人心主義も、到底偏狭なるポジチビズムの誤謬を免かれざりしなり、未だ根本の生命を知らずして、世道人心を益するの正鵠せいこくを得るものあらず。要するに彼等の誤謬は、人間の根本の生命を認めざりしに因するものなり、読者よ、吾人が五十年の人生に重きを置かずして、人間の根本の生命を尋ぬるを責むる勿なかれ、読者よ、吾人が眼に見うる的てきの事業に心を注がずして、人間の根本の生命を暗索するものを重んぜんとするを責むる勿れ、読者よ、吾人の中に或は唯心的に傾き、或は万有的に傾むくものあるを責むる勿れ、吾人は人間の根本の生命に重きを置かんとするものなり、而して吾人が不肖を顧みずして、明治文学に微力を献ぜんとするは、此範囲の中にあることを記憶せられよ。

明治の思想は大革命を経ざるべからず、貴族的思想を打破して、平民的思想を創興せざるべからず、吾人が敬愛する先輩思想家にして既に大に此般しはんの事業に鉄腕を振ひたるものあり、吾人が若少の身分を以て是より進まんとするもの、豈に彼等の既に進みたる途みちに外はづれんや、吾人豈に人情以外に出でゝベベルの高塔を築かんとする者ならんや、若し夫れ人間の根本の生命を尋ねて、或は平民的道徳を教へ、或は社会的改良を図る者をしも、ベベルの高塔を砂丘に築くものなりと言ふを得ば、吾人も亦たベベルの高塔を築かんとする人足の一人たるを甘んぜんのみ。

文芸は論議にあらざること、幾度言ふとも同じ事なり。論議の範囲に於て、根本の生命を伝へんとするは、論議の筆を握れる者の任なり、文芸(純文学と言ふも宜し)の範囲に於て、根本の生命を伝へんとするは、文芸に従事するものゝ任なり。純文学は論議をせず、故に純文学なるもの無し、と言はゞ誰か其の極端なるを笑はざらんや。論議の範囲に於て、善悪を説くは、正面に之を談ずるなり。文芸の範囲に於て善悪を説くは、裡面りめんより之を談ずるなり。

人性に上下なく、人情に古今なし、とは「観察論」の著者の名言なり。実にや詩人哲学者の言ふところは、人情が自ら筆を執つて万人の心に描きたるものに外ならざるなり。善と言ひ、悪と言ふも元より道徳学上の製作物にあらざること明らかなり。究竟するに善悪正邪の区別は人間の内部の生命を離れて立つこと能はず、内部の自覚と言ひ、内部の経験と言ひ、一々其名を異にすと雖、要するに根本の生命を指して言ふに外ならざるなり。詩人哲学者の高上なる事業は、実に此の内部の生命を語セイるより外に、出づること能はざるなり。内部の生命は千古一様にして、神の外は之を動かすこと能はざるなり、詩人哲学者の為すところ豈に神の業を奪ふものならんや、彼等は内部の生命を観察する者にあらずして何ぞや(国民之友「観察論」参照)、然れども彼等が内部の生命を観察するは、沈静不動なる内部の生命を観るにあらざるなり、内部の生命の百般の表顕を観るの外に彼等が観るべき事は之なきなり、即ち人性人情の Various Manifestations を観るの外には、観るべき事は之なきなり。観は何処までも観なり、然れども此の塲合に於ては観の中に知の意味あるなり、即ち、観の終は知に落つるなり、而して観の始も亦た知に出るなり、人間の内部の生命を観ずるは、其の百般の表顕を観ずる所以ゆゑんにして、霊知霊覚と観察との相離れざるは、之を以てなり。霊知霊覚なきの観察が真正の観察にあらざること、之を以てなり。

夫れヒユーマニチー(人性、人情)とは、人間の特有性の義なり。詩人哲学者は無論ヒユーマニチーの観察者ならずんばあらず、然れども吾人は恐る、民友子の「観察論」の読者には、或は詩人哲学者を以て単に人性人情の観察者なりと、誤解する者あらんことを。民友子の「観察論」を読みたる人は必らず又た民友子の「インスピレーシヨン」を読まざるべからず。然らずんば吾人民友子に対する誤解の生ぜんことを危ぶむなり。詩人哲学者は到底人間の内部の生命を解釈ソルヴするものたるに外ならざるなり、而して人間の内部の生命なるものは、吾人之れを如何に考ふるとも、人間の自造的のものならざることを信ぜずんばあらざるなり、人間のヒユーマニチー即ち人性人情なるものが、他の動物の固有性と異なる所以の源は、即ち爰こゝに存するものなるを信ぜずんばあらざるなり。生命! 此語の中にいかばかり深奥なる意味を含むよ。宗教の泉源は爰にあり、之なくして教あるはなし、之なくして道あるはなし。之なくして法あるはなし。真理! 世上所謂真理なるもの、果して何事をか意味する。ソクラテスも霊魂不朽を説かざれば、一個の功利論家を出る能はざるなり、孔子も道は邇ちかきにありと説かざれば、一個の藪医者たるに過ぎざりしなり。道は邇きにありと言ひたるもの、即ち、人間の秘奥ひあうの心宮を認めたるものなり。霊魂不朽を説きたるもの、即ち生命の泉源は人間の自造的にあらざるを認めたるものなり。内部の生命あらずして、天下豈、人性人情なる者あらんや。インスピレーシヨンを信ずるものにあらずして、真正の人性人情を知るものあらんや。五十年の人生を以て人性人情を解釈すべき唯一の舞台とする論者の誤謬は、多言を須もちひずして明白なるべし。

文芸上にて之を論ずれば、所謂写実派なるものは、客観的に内部の生命を観察すべきものなり。客観的に内部の生命の百般の顕象を観察する者なり。此目的の外に嘉讃すべき写実派の目的はあらざるなり。世道人心を益するといふ一派の写実論も、此目的を外はづれたらば何等の功益もあらざるなり。勧善懲悪を目的とする写実派も、此目的を外れたらば何の勧懲もあらざるなり。為すあるが為と言ひ、世を益するが為と言ふも、真正に此の目的に適かなはするより外なきなり。所謂理想派なるものは、主観的に内部の生命を観察すべきものなり。主観的に内部の生命の百般の顕象を観察すべき者なり。いかに高大なる極致を唱ふるとも、いかに美妙なる理想を歌ふとも、この目的の外に理想派の嘉讃すべき目的はあらざるなり。

理想とは何ぞや。理想派とは何ぞや。吾人は此小論文に於て、理想とは何ぞやを説かざるべし。然れども爰に一言せざるべからざることは、文芸の上にて言ふところのアイデアなる者は、形而上学に於て言ふところのアイデアとは、名を同うして物を異にする者なること之なり。形而上学にてアイデアリスト(唯心論者)といふものは、文芸上にてアイデアリスト(理想家)といふところの者とは全く別物なり。

文芸上にて理想派と謂ふところのものは、人間の内部の生命を観察するの途に於て、極致を事実リアリチーの上に具躰の形となすものなり。絶対的にアイデアなるものを研究するは形而上学の唯心論なれども、そのアイデアを事実リアリチーの上に加ふるものは文芸上の理想派なり。ゆゑに文芸上にては殆どアイデアと称すべきものはあらざるなり、其の之あるは、理想家が暫らく人生と人生の事実的顕象を離れて、何物にか冥契めいけいする時に於てあるなり、然れども其は瞬間の冥契なり、若しこの瞬間にして連続したる瞬間ならしめば、詩人は既に詩人たらざるなり、必らず組織的学問を以て研究する哲学者になるなり。詩人豈に斯の如き者ならんや。

瞬間の冥契とは何ぞ、インスピレーシヨン是なり、この瞬間の冥契ある者をインスパイアドされたる詩人とは云ふなり、而して吾人は、真正なる理想家なる者はこのインスパイアドされたる詩人の外には、之なきを信ぜんとする者なり。インスピレーシヨンを知らざる理想家もあらん、宗教の何たるを確認せざる理想家もあらん、然れども吾人は各種の理想家の中に就きて、斯の如きインスピレーシヨンを受けたる者を以て最醇最粋のものと信ぜんとするなり。インスピレーシヨンとは何ぞ、必らずしも宗教上の意味にて之を言ふにあらざるなり、一の宗教(組織として)あらざるもインスピレーシヨンは之あるなり。一の哲学なきもインスピレーシヨンは之あるなり、畢竟ひつきやうするにインスピレーシヨンとは宇宙の精神即ち神なるものよりして、人間の精神即ち内部の生命なるものに対する一種の感応に過ぎざるなり。吾人の之を感ずるは、電気の感応を感ずるが如きなり、斯の感応あらずして、曷いづくんぞ純聖なる理想家あらんや。

この感応は人間の内部の生命を再造する者なり、この感応は人間の内部の経験と内部の自覚とを再造する者なり。この感応によりて瞬時の間、人間の眼光はセンシユアル・ウオルドを離るゝなり、吾人が肉を離れ、実を忘れ、と言ひたるもの之に外ならざるなり、然れども夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出たちいづるものにはあらざるなり、何処までも生命の眼を以て、超自然のものを観るなり。再造せられたる生命の眼を以て。

再造せられたる生命の眼を以て観る時に、造化万物何いづれか極致なきものあらんや。然れども其極致は絶対的のアイデアにあらざるなり、何物にか具躰的の形を顕はしたるもの即ち其極致なり、万有的眼光には万有の中に其極致を見るなり、心理的眼光には人心の上に其極致を見るなり。

(明治二十六年五月)

底本 / Source edition

底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「文學界 五號」文學界雜誌社
1893(明治26)年5月31日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2004年10月31日作成
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書誌 / Bibliography
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北村 透谷「内部生命論」(新字旧仮名)、底本『現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、1974年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043443_000157, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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