無くて七癖というように誰れでも癖は持っているものだが、水島の癖は又一風変っていた。それは貴方にお話してもおそらくは信じてくれないだろうと思うがその癖は『息を止める』ということなのである。

私も始め友人から聞いた時は冗談かと信じなかったが、一日彼の家に遊びに行った時に笑い<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら訊いてみると、彼は<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る真面目でそれを肯定するのである。私も不思議に思ってどうしてそんなことをするのかと聞いてみたが彼は首を振るばかりでなかなか話してくれなかった。

<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>し話してくれないと尚聞き度くなるものであるし、又あまり変なことなので好奇心に馳られた私はどこまでも<ruby><rb>五月蠅</rb><rt>うるさ</rt></ruby>く追窮したので、水島もとうとう笑いながら話してくれた。

『その話はね、誰れでも五月蠅く聞くんだ、その癖皆んな途中で<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>らしいと笑って<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>うんだ。それで僕もあまり話したくないんだ。まあ話を聞くよりは自分で<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>息を止めてみ給え、始めの二三十秒はなんでもないかも知れないが、仕舞いになると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こめかみ</span>の辺の脈管の搏動が頭の<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>まで響いて来る。胸の中は空っぽになってわくわくと込み上げる様になる――遂、堪らなくなって、ハアーと大きく息を吸うと胸の中の汚いものがすっかり嘔き出されたようにすがすがしい気持になって、虐げられた心臓は嬉しそうに生れ変ったような新らしい力でドキンドキンと動き出す。

僕はその胸のわくわくする快感が堪らなく好きなのだ。ハアーと大きく息する時の気持、快よい心臓の響き。僕は是等の快感を味わう為には何物も惜しくないと思っている』

水島はそう言って、この妙な話を私が真面目に聞いているかどうかを確かめるように私の顔を見てから又話しを続けた。

『しかし、近頃一つ心配な事が起って来たのだ、よく<ruby><rb>阿片</rb><rt>アヘン</rt></ruby>中毒者――イヤそんな例をとらなくてもいい、煙草のみでも酒のみでも――などが始めの中はこんなものが、と思ってそれを続けて行く中には何時しかそれが恍惚の夢を齎すのだ、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う習慣になってくると今度はその吸飲量を増さなければ満足しなくなる、<ruby><rb>馥郁</rb><rt>ふくいく</rt></ruby>たる幻を追うことが出来なくなる。それと同じに僕も最初のうちは四五十秒から一分もすると全身がうずうずして言い知れぬ快感に身をもだえたものなのに、それがこの頃は五分になり、十分になり、今では十五分以上も息を止めていても平気なのだ、だけど僕は少しも恐れていない、この素晴らしい快感の為には僕の命位は余りに小さいものだ、それに海女なども矢張り必要上の練習から、随分長く海に潜っていられるということも聞いているからね、海女といえばどうして彼女等はあの戦慄的な業に満足しているのだろうか、僕は矢張あの舟べりにもたれて大きく息する時の快感が潜在的にある為だと思うね』

水島はそう言って又私の顔を覗くようにして笑った。

然し私はまだそれが信じられなかった、息を止めてその快感を味う！　私はそれがとてつもない大嘘のように思われたり、本当かも知れないという気もした、その上十五分以上も息を止めて平気だというのだから――

水島は私の信じられないような様子を見てか、子供にでもいうように、

『君は嘘だと思うんだね、そりゃ誰だってすぐには信じられないだろうさ。嘘か本当か今実験して見様じゃないか』

私はぼんやりしていたが水島はそんなことにお構いなく、

『さあ、時計でも見てくれ給え』

斯ういうと彼は椅子に深か深かと腰を掛けなおした。

彼が斯う無造作にして来ると、私にも又持前の好奇心が動き始めた。

『一寸。今三時三十八分だからもう二分してきっちり四十分からにしよう』

というと水島は相変らず無造作に『ウン』と軽くいったきり目をつぶっている、斯うなると私の好奇心はもう押えきれなくなって了った。

『よおし、四十分だ』

私は胸を躍らせながら言った、水島はそれと同時に大きく息を吸い込んで悪戯っ子のように眼をぱちぱちして見せた。

私は十五分間やっとこらえた、私は不安になって来たのである、耐えられない沈黙と重苦しい雰囲気が部屋一杯に覆いかかっている、墓石のような顔色をした彼の額には青黒い静脈が<ruby><rb>絛虫</rb><rt>さなだむし</rt></ruby>のようにうねって、高くつき出た頬骨の下の青白いくぼみには死の影が浮動している。

私はこの洞穴のような空虚に堪えられなくなった、そして追い立てられるように椅子から立つと彼に近寄って、<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>取合せた仁丹の容器に付いている鏡をとり出すとよく検死医がするようにそれを口元に近付けて見た、矢張り鏡は曇らない、彼は完全に呼吸をしてないのだ……私は押しもどされるように椅子に帰って腰を掛けなおした。

四時。もう二十分も経った。その瞬間不吉な想像が後頭部に激しい痛みを残して通り過ぎた。彼は自殺したのではないかしら、日頃変り者で通っている彼のことだ、自殺するに事を欠いて親しい友人の私の面前で一生に一度の大きな芝居を<ruby><rb>仕乍</rb><rt>しなが</rt></ruby>ら死んで行こうとしているのではないだろうか、死の道程を見詰めている。そんな不吉な幻が私に軽い<ruby><rb>眩暈</rb><rt>めまい</rt></ruby>を感ぜしめた。

彼の顔は不自然に<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んで来た、歪んだ頬はひきつけたように震えた。私は自分を落付ける為に勢一杯の努力をした、然し遂にはこの重苦しい雰囲気の重圧には耐えられなくなって了った、そうして、死の<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>、断末魔の苦悶、そんな妙な形容詞が脳裏に浮んだ瞬間私は腰掛けていた椅子をはねのけて彼を抱き起し、力一杯ゆすぶって目をさまさせようと大声で水島の名を呼んでいたのだった――。

私のこの狂人染みた動作が効を奏してか、彼の青白い顔には次第に血の気が表われて来た。然しそうして少しの後、口が<ruby><rb>听</rb><rt>き</rt></ruby>けるようになると直ぐ乾からびた声で、

『駄目だなァ君は、今やっと最後の快感にはいり始めたのに……』そういって力のない瞳で私を見詰めるのだった。けれど私は水島にそういわれ乍らもなんとなく安心した様な気持になって、彼の言葉を淡く聞いていたのである。

私はあの息を止めるという不可能な実験の後、私の好奇心は急に水島に興味を覚えて、暇をみては彼の家に遊びに行くのが何時からとはなく例になっていた。

所が或る日、何時もの通り水島を訪れると恰度又彼があの不可思議な『眠り』をして居るところに行き合った、今見た彼の様子はいかにも幸福そうな、物静かな寝顔であった、この前は初めての事なので無意識の不安が彼の顔に死の連想を見せたのかも知れない……。

私はこの前のように<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>て起して機嫌を悪くされてもつまらぬから、そっと其儘にして見ているとしばらくして彼は目をさました。

そうして二十分も息を止めている間の奇怪な幻覚を話してくれたのである。それがどんな妖しい話であったか。

『僕が息を止めている間に様々な幻の世界を彷徨するというとさも大嘘のように思うだろうがまあ聞いてくれ給え。

例えばこの「息を止める」ということに一番近い状態は外界からの一切の刺激を断った「眠り」という状態だ、この不可思議な状態は凡ての人々が余りにも多く経験するので、それに就いて少しでも深く考えようとしないのは随分軽卒だということが出来る、君、この「眠り」の中にどんな知られぬ世界が<ruby><rb>蠢</rb><rt>うごめ</rt></ruby>いていることか……、そして又君は<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>寝ている間にどうしても解けなかった試験問題の解を得たり、或は素晴らしい小説の筋を思い付いたりして<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>霊感を感じるというようなことを聞いたり、或は君自身も経験したことがあると思う、それというのも皆この第二次以上の空間を隙見して来たに過ぎないのだ、ところが君、この「眠り」にも未だ現世との連絡がある、それは呼吸だ、それがある為に人々はまだ幻の世界に遊ぶことが出来ないのだ、併し僕は其唯一の連絡を切断して了ったのだ――。

人は皆胎児の間に一度は必ず是等の幻の世界に遊び、そうして其途上に何か収穫のあったものが生を享けてからこの現実の世界に於て学者となり、芸術家となり、又は犯罪者となるのだ。

幻の世界は一つではない、清澄な詩の国もあれば、陰惨な犯罪の国もある。昔、仏教は<ruby><rb>訓</rb><rt>おし</rt></ruby>えた、次の世界に極楽と地獄のあることを、それを思い合わせて見ると、この地獄極楽を訓えた者も或は僕の如くこの幻の世界の彷徨者であったかも知れぬ』