## 一

<ruby><rb>岸田直介</rb><rt>きしだなおすけ</rt></ruby>が奇怪な死を遂げたとの急報に接した弁護士の<ruby><rb>大月対次</rb><rt>おおつきたいじ</rt></ruby>は、<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>忙しい事務もひと息ついた形だったので、歳若いながらも仕事に掛けては実直な秘書の<ruby><rb>秋田</rb><rt>あきた</rt></ruby>を同伴して、取るものも<ruby><rb>不取敢</rb><rt>とりあえず</rt></ruby>大急ぎで<ruby><rb>両国</rb><rt>りょうごく</rt></ruby>駅から<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>行の列車に乗り込んだ。

岸田直介――と言うのは、最近東京に於て結成された<ruby><rb>瑪瑙座</rb><rt>めのうざ</rt></ruby>と言う新しい劇団の出資者で、大月と同じ大学を<ruby><rb>卒</rb><rt>お</rt></ruby>えた齢若い資産家であるが、不幸にして一人の<ruby><rb>身寄</rb><rt>みより</rt></ruby>をも持たなかった代りに、以前<ruby><rb>飯田橋舞踏場</rb><rt>いいだばしホール</rt></ruby>でダンサーをしていたと言う美しい<ruby><rb>比露子</rb><rt>ひろこ</rt></ruby>夫人とたった二人で充分な財産にひたりながら、相当に<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な生活を営んでいた。もともと東京の人で、数ヶ月前から健康を害した為<ruby><rb>房総</rb><rt>ぼうそう</rt></ruby>の<ruby><rb>屏風浦</rb><rt>びょうぶがうら</rt></ruby>にあるささやかな海岸の別荘へ移って転地療養をしてはいたが、その後の経過も大変好く最近では<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど健康を取戻していたし、<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>数日後に瑪瑙座の創立記念公演があると言うので、関係者からはそれとなく出京を促されていた為、一両日の中に帰京する筈になっていた。が、その帰京に先立って、意外な不幸に見舞われたのだ。――<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、知己と迄言う程の深いものではなかったが、身寄のない直介の財産の良き相談相手であり同窓の友であると言う意外に<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>て、だから大月は、夫人から悲報を真っ先に受けたわけである。

冬とは言え珍らしい小春日和で、列車内はスチームの熱気でムッとする程の暖さだった。銚子に着いたのが午後の一時過ぎ。東京から銚子<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>にさえ相当距離がある上に、銚子で汽車を降りてから屏風浦付近の小さな町迄の間がこれ又案外の交通不便と来ている。だから大月と秘書の秋田が寂しい町外れの岸田家の別荘へ着いた時には、もうとっくに午後の二時を回っていた。

この付近の海岸は一帯に地面が恐ろしく高く、殆ど<ruby><rb>切断</rb><rt>きりた</rt></ruby>った様な断崖で、洋風の小さな岸田家の別荘は、その静かな海岸に面した見晴の好い処に雑木林に囲まれながら暖い南風を<ruby><rb>真面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に受ける様にして建てられていた。

<ruby><rb>金雀児</rb><rt>えにしだ</rt></ruby>の生垣に挟まれた表現派風の可愛いポーチには、奇妙に大きなカイゼル髭を生した一人の警官が物々しく頑張っていたが、大月が名刺を示して夫人から依頼されている旨を知らせると、急に態度を柔げ、大月の早速の問に対して、岸田直介の急死はこの先の断崖から真逆様に<ruby><rb>突墜</rb><rt>つきおと</rt></ruby>された他殺である事。加害者は白っぽい水色の服を着た小柄な男である事。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>も兇行の現場を被害者の夫人と他にもう二人の証人が目撃していたにも<ruby><rb>不拘</rb><rt>かかわらず</rt></ruby>いまだに犯人は逮捕されない事。既にひと通りの調査は済まされて係官はひとまず引挙げ屍体は事件の性質上一応千葉医大の解剖室へ運ばれた事。等々を手短かに語り聞かせて呉れた。

<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>てカイゼル氏の案内で、間もなく大月と秋田は、ささやかなサロンで比露子夫人と<ruby><rb>対座</rb><rt>たいざ</rt></ruby>した。

悲しみの為か心なしやつれの見える夫人の<ruby><rb>容貌</rb><rt>かお</rt></ruby>は、暗緑の勝ったアフタヌーン・ドレスの落着いた色地によくうつりあって、それが又二人の訪問者には<ruby><rb>甚</rb><rt>たま</rt></ruby>らなく痛々しげに思われた。こんな時誰でもが交す様なあの変に物静かなお<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>りの挨拶が済むと、瞼をしばたたきながら、夫人は大月の問に促されて目撃したと言う兇行の有様に就いて語り始めた。

「――順序立てて申上げますれば、今朝の九時頃で御座居ました。朝食を済まして主人は珍しく散歩に出掛けたので御座居ます。今日は朝からこの通りの暖さで御座居ますし、それに御承知の通り近頃ではもう直介の健康もすっかり回復いたしまして実は明日帰京する様な予定になっていましたので、お名残の散歩だと言う様な事をさえ口にして出て行きました程で御座居ます。女中は、<ruby><rb>予</rb><rt>あらかじ</rt></ruby>め本宅の方の掃除から、その他の色々の仕度をさせますので、<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>達より一足先に今朝早く帰京させました為、主人の外出しました後は、妾一人で身回りの荷仕度などしていたので御座居ます。ところが十時過ぎてもまだ主人が戻りませんのでその辺を探しがてら町の運送屋迄出掛けるつもりで家を出たので御座居ます。一寸、あの、お断りいたしておきますが、御承知の通りこの辺一帯の海岸は高い崖になっておりまして、此処から<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ一丁半程の西に、一段高く海に向って突出した普通に<ruby><rb>梟山</rb><rt>ふくろやま</rt></ruby>と呼ぶ丘が御座居ます。恰度妾が家を出て二三十歩き掛けた頃で御座居ました。雑木林の幹と幹との隙間を通じて、梟山の断崖の上でチラリと二人の人影が見えたのです。何分遠方の事で充分には判り兼ねましたが、ふと何気なく注意して見ますと、その一人は外ならぬ主人なので御座居ます。が、他の一人は主人よりずっと小柄の男で、も一人の証人が申される通り水色の服をきていた様で御座居ますが、これが一向に見覚えのない、と申しますより遠距離で容貌その他の細かな点が少しもハッキリ見えないので御座居ます。妾は立止った<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>ジッと目の間から断崖の上を見詰めていました。――すると、突然二人は争い始めたので御座居ます。そして……それから……」

夫人はフッと言葉を切ると、そのまま堪え兼ねた様に<ruby><rb>差俯向</rb><rt>さしうつむ</rt></ruby>いて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>った。

「いや、<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっとも</rt></ruby>です。――すると、兇行の時間は、十時……？」

大月が<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「ええ。ま、十時十五分から二十分頃迄だろうと思います。何分、不意に恐ろしい場面を見て、すっかり取のぼせて了いましたので――」

恰度この時いつの間にかやって来た例のカイゼル氏が、二人の会話に口を入れた。

「――つまり奥さんは、もう一人の証人である百姓の男に助けられる迄は、その場で<ruby><rb>昏倒</rb><rt>こんとう</rt></ruby>していられたんです」

で、大月はその方へ向き直って、

「すると、その百姓の男と言うのは？」

「つまり奥さんと同じ様に、<ruby><rb>兇行</rb><rt>きょうこう</rt></ruby>の目撃者なんですがな。――いや、それに<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いて若し貴方がなんでしたなら、その男を呼んであげましょう。……もう、一応の取調べはすんだのだから、直ぐ近くの畑で仕事をしているに違いない」

親切にもそう言って警官は出て行った。

大月は、それから夫人に向って、この兇行の動機となる様なものに就いて、何か心当りはないか、と訊ねた。夫人はそれに対して、夫は決して他人に恨みを買う様な事はなかった事。又この兇行に依って物質的な被害は受けていない事。若しそれ等以外の動機があったとしても、自分には一向心当りがない事。等々を答えた。

軈て十分もすると、先程の警官が、人の好さそうな中年者の百姓を一人連れて来た。

大月の前へ立たされたその男は、まるで弁護士と検事を勘違いした様な物腰でぺこぺこ頭を下げながら、素朴な口調で喋り出した。

「――左様で御座居ます。手前共が家内と二人でそれを見ましたのは、何でも朝の十時頃で御座居ました。尤も見たと言いましても始めからずうと見ていたのではなく、始めと終りと、つまり二度に見たわけで御座居ます。始め見たのは殺された男の方が水色の洋服を着たやや小柄な細っそりとした男と二人で梟山の方へ歩いて行ったのを見たんで御座居ますが、何分手前共の仕事をしていました畑は其処から大分離れとりますし、それに第一あんな事になろうとは思ってませんので<ruby><rb>容貌</rb><rt>かお</rt></ruby>やその他の<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>な事は判らなかったで御座居ます」

「一寸、待って下さい」

証人の言葉を興味深げに聞いていた大月が口を入れた。

「その水色の服を着た男と言うのは、オーバーを着てはいなかったのですね。――それとも手に持っていましたか？」

そう言って大月は百姓と、それから夫人を促す様に見較べた。

「持っても着てもいませんでした」

夫人も百姓も同じ様に答えた。

「帽子は<ruby><rb>冠</rb><rt>かむ</rt></ruby>っていましたか？」

大月が再び訊ねた。この問に対しては百姓は冠っていなかったと言い、夫人は良くは判らなかったが<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し冠っていたとすればベレー帽だろう、と述べた。すると百姓が、

「や、今思い出しましたが、その時、殺されたこちらの旦那は、小型の黒いトランクを持っていられました」

「ほう。――」大月はそう言って夫人の方を見た。夫人は、そんなものを持って直介が散歩に出た筈はないし、又全然吾々の家庭には黒いトランクなどはない、と答えた。

「成程、では、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>が二度目に二人を見られた時の事を話して下さい」

大月に促されて、再び証人は語り続けた。

「――左様で御座居ます。二度目に見ましたのはそれからほんの暫く後で御座居ましたが、急に家内の奴が海の方を指差しながら手前を呼びますので、何気なくそちらを見ると、雑木林の陰になってはっきりとは判らなかったので御座居ますが、こちらの奥さんも<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>った通り、梟山の崖ッ縁で、何でも、こう、水色の服を着た男がこちらの旦那に組付いて喧嘩してたかと思うと、間もなく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっさり</span>と旦那を崖の下へ<ruby><rb>突墜</rb><rt>つきおと</rt></ruby>して、それから<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>まごまごしてましたが、例の黒いトランクを持って雑木林の中へ逃げ込んで行きました。――直ぐその後を<ruby><rb>追馳</rb><rt>おいか</rt></ruby>けて行けば、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>どんな男か正体位は見届ける事も出来たで御座居ましょうが、何分不意の事で手前共も<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>ておりましたし、それに何より突墜された人の方が心配で御座居ましたんで、真っ先に一生懸命崖の下の波打際へ降りたんで御座居ます。するともう墜された人は<ruby><rb>息絶</rb><rt>こときれ</rt></ruby>ていたし、手前共二人だけでは<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>もあの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えらい</span>崖の上迄仏様を運び上げる事は出来ませんので、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>この事を警察の旦那方に知らせる為に、仕方なくもう一返苦労して崖を登り、町へ飛んで行ったんで御座居ます。その途中、直ぐ其処の道端で、気を失って倒れていられたこちらの奥さんを救けたんで御座居ます。――はい」

証人は語り終って、もう一度ぴょこんと頭を下げた。

大月は<ruby><rb>巻煙草</rb><rt>シガレット</rt></ruby>を<ruby><rb>燻</rb><rt>くゆ</rt></ruby>らしながら、<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>もこの事件に対して深い興味でも覚えたかの如く、暫くうっとりとした冥想に陥っていたが、軈て夫人に向って、

「御主人が御病気でこの海岸へ転地されてからも、勿論<ruby><rb>別荘</rb><rt>こちら</rt></ruby>へは訪問者が御座居ましたでしょうな？」

「ええ、それは、<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>に御座居ました。でも、殆ど今度出来ました新しい劇団の関係者ばかりで御座居ます」

「ははあ。瑪瑙座の――ですな。で、最近は如何でしたか？」

「ええ。三人程来られました。やはり劇団の方達です」

「その人達に就いて、もう少し伺えないでしょうか？」

「申上げます。――三人の内一人は瑪瑙座の総務部長で脚本家の<ruby><rb>上杉逸二</rb><rt>うえすぎいつじ</rt></ruby>さんですが、この方は確か三日前東京からおいでになり、今日迄ずっと町の旅館に滞在していられました。<ruby><rb>別荘</rb><rt>たく</rt></ruby>へは昨日、一昨日と、都合二度程来られましたが二度共劇団に関するお話を主人となさった様です。後の二人は女優さんで、<ruby><rb>中野藤枝</rb><rt>なかのふじえ</rt></ruby>さんに<ruby><rb>堀江時子</rb><rt>ほりえときこ</rt></ruby>さんと申されるモダーンな美しい方達ですが、劇団がまだ職業的なものになっていませんのでそれぞれ職業なり地位なりをお持ちでしょうが、それ等の詳しい事情は妾は存じないので御座居ます。この方達は、昨日、やはり町の旅館の方へお泊りになって、<ruby><rb>別荘</rb><rt>たく</rt></ruby>へも昨晩一度御挨拶に来られましたが、今日、上杉さんと御一緒に帰京されたそうで御座居ます。二人とも上杉さんとはお<ruby><rb>識合</rb><rt>しりあい</rt></ruby>の様に聞いております」

「すると、その三人の客人達は、今日の何時頃に銚子を<ruby><rb>発</rb><rt>たた</rt></ruby>れたのですか？」

大月の質問に、今度はカイゼル氏が乗り出した。

「それがその、調べて見ると正午の汽車で帰京しているんです。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、兇行時間に約一時間半の開きがありますし、各方面での今迄の調査に依れば、他に容疑者らしい人物がこの町へ這入った形跡は殆どないし、尚旅館の方の調査の結果、彼等は三人とも各々バラバラで随分勝手気儘な行動をしていたらしく、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に上杉などは完全な<ruby><rb>現場不在証明</rb><rt>アリバイ</rt></ruby>もない様な次第ですから、当局にしても一応の処置は取ってあります。――ところが、証人の陳述に依る加害者の風貌と、調査に依る上杉逸二の風貌とは、大変違うんです。つまり上杉は、被害者の岸田さんなどよりもまだ背の高い男なんです。だから、その意味で、上杉へ確実な嫌疑を向ける事は結局出来なくなるのです。――」

茲で警官は、捜査の機密に触れるのを恐れるかの様に、黙り込んで了った。

大月は秘書の秋田を顧みながら、内心の亢奮を押隠すかの様な口調で静かに言った。

「<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>、一度、その断崖の犯罪現場へ行って見よう」

## 二

殆ど一面に美しい<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>ビロード</rt></ruby>の様な芝草に覆われ、処々に背の低い灌木の群を<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>えたその丘は、<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>木の枝に梟が止った様な形をして、海に面した断崖沿いに一段と<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しく突出していた。遠く東の海には<ruby><rb>犬吠</rb><rt>いぬぼう</rt></ruby>が横わり、夢見る様な水平線の彼方を、シアトル行きの外国船らしい白い船の姿が、黒い煙を長々と曳いて動くともなく動いていた。

<ruby><rb>到頭</rb><rt>とうとう</rt></ruby>本来の仕事よりもこの事件の持つ謎自身の方へ強くひかれて了ったらしい大月と、それから秘書の秋田は、間もなく先程の証人の男に案内されて、見晴の良いその丘の頂へやって来た。

証人は海に面した断崖の縁を指差しながら、大月へ言った。

「あそこに喧嘩の足跡が御座居ます。――警察の旦那方が見付けましたんで」

そこで彼等はその方へ歩いて行った。歩きながら大月が秘書へ言った。

「ね、君。考えて<ruby><rb>見給</rb><rt>みたま</rt></ruby>え随分非常識な話じゃないかね。――いくら今日は暖かだったからって、不自然にもそんな白っぽい水色の服など着て、オーバーもなしでいたと言う犯人は、どうも今日ひょっこり遠方からこんな田舎へやって来た人間じゃあないね。僕は、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>犯人はこの土地で、少くとも服装を自然に改め得る位い以上の余裕ある滞在をした男だ、と考えるよ。そしてその男は、少くともあの場合、黒いトランクを平気でその持主でもない岸田氏に持たせて歩かす事の出来る人間だよ。つまり、極めて常識的に考えて見て、そんな事の出来る人間は岸田氏の親しい同輩か、或は広い意味で先輩か、それとも、そうだ。婦人位いのものじゃあないか――。次にもうひとつ、証言に依ると犯人は岸田氏より小柄で細っそりしていたとあるが、病上りとは言え相当体格のある岸田氏に組付いて、格闘の揚句<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっさり</span>岸田氏を崖の下へ突墜して了ったと言うからには、子供の喧嘩じゃあないんだから、何か其処に特種な技でもない限り、犯人は柄の割に腕の立つ、少なくとも被害者と対等以上の実力家である事だけは認めなけりゃならないね」

と、黙って歩いていた証人が口を入れた。

「いや、全くその通りで御座居ます。あの方が崖から突墜される瞬間だけは、手前もよく覚えておりますが、それは全く簡単な位いに、……こう、……ああ、これだ。これがその喧嘩の足跡で御座居ます」

そう言いながら証人は、急に五六歩前迄馳け出して立止り、地面の上を<ruby><rb>指差</rb><rt>ゆびさし</rt></ruby>ながら二人の方へ振り返った。

成程彼の言う通り、殆ど崖の縁近く凡そ六坪位いの地面が、<ruby><rb>其処許</rb><rt>そこばか</rt></ruby>りは芝草に覆われないで、潮風に湿気を<ruby><rb>帯</rb><rt>ふく</rt></ruby>んだ黒っぽい砂地を現わしていた。砂地の隅の方には、格闘したらしい<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい靴跡が、入乱れながら崖の縁迄続いている。よく見ると、所々に普通に歩いたらしい靴跡も見える。そしてそれ等の靴跡を踏まない様に取りまいて、警官達のであろう大きな靴跡が幾つも幾つも判で捺した様についている。

大月は争いの跡へ寄添って見た。

大きな靴跡は直介のもので、薄く小さいのが犯人の靴跡だ。<ruby><rb>二種</rb><rt>ふたいろ</rt></ruby>の靴跡は、或は強く、或は弱く、曲ったり踏込んだり、爪先を<ruby><rb>曳摺</rb><rt>ひきず</rt></ruby>る様につけられたかと思うとコジ曲げた様になったりしながら、激しく入り乱れて崖の縁迄続いている。そうして、崖の縁で直介の靴跡は消えて了い、その代りに角の砂地がその上を重い固体の墜ちて行った様に強く傷付けられている。下は、眼の眩む様な絶壁だ。

大月はホッとして振返ると、今度は逆にもう一度靴跡を辿り始めた。が、二種の靴跡が普通に歩いている処迄来ると、小首を傾げながら屈み込んで、其処に比較的ハッキリと残されている犯人の靴跡へ、注意深い視線を投げ掛けていた。が、軈て顔を上げると、

「ふむ。こりゃ面白くなって来た」と、それから証人に向って、不意に、「貴方は確かに犯人は男だ、と言いましたね。――ところが、犯人は女なんですよ。――」

秋田も証人も、大月の意外な言葉に<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して了った。二人は言い合わした様に眼を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>りながら、靴跡を覗き込んだ。が、勿論二人の眼には、どう見てもそれは<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>の小さいハイ・ヒールの女靴の跡ではなく、全態の形こそ小さいが、明かに男の靴跡としか見られない。秋田は、大月の言葉を求める様にして顔を上げた。すると大月は、静かに微笑みながら、

「判らないかね。――じゃあ言って上げよう。ひとつ、よくこの靴跡を観察して御覧。すると先ず第一に、誰れにでも判る通りこの靴跡は非常に小さいだろう。第二に、靴の小さい割に爪頭と踵との間隔――つまり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">土つかず</span>が大きいだろう。そして第三に、これが一番大切な事なんだが、ほら、踵の処をよく御覧。底ゴムを打った鋲穴の窪みの跡が、こちらの岸田氏の靴跡にはこんなに良く見えるが、この靴の踵の跡には少しも見えないじゃあないか。ね。いいかい、君。靴に対する衛生思想が、一般に発達して来た今日では、オーヴァー・シューや、特殊な運動靴などを除く限り、殆んどどの男靴にも踵へ鋲穴のあるゴムが打ってあるんだよ。ところが、この靴にはその底ゴムを打ってない。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>らばオーヴァー・シューか、と言うに、オーヴァー・シューにしては、子供のものでない限りこんな小さな奴はないし、又、運動靴などにしては、こんな大きな割合の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">土つかず</span>を持った奴はない。そして又オーヴァー・シューや運動靴の様な特種なものには、それぞれ特有なゴム底の凹凸なり、又は金属的な装置がある筈だ。そこで、僕は、この犯人の靴跡の<ruby><rb>個有</rb><rt>こゆう</rt></ruby>の型状――例えば、全体に小さい事や、<ruby><rb>外郭</rb><rt>がいかく</rt></ruby>の幅が普通の靴底のそれよりも遥かに平坦で細長い事や、土つかずの割合が大きくそして特異である事や、そして又、人間の足首で言うと恰度蹠骨尖端の下部に当る処なんだが、あの少女の履くポックリの前底部を一寸思い出させる様なこの靴跡の前の部の局部的な強い窪み方――。等々の総合的な推理からして、僕はこの靴を、一種の木靴――あの真夏の海水浴場で、熱い砂の上を婦人達が履いて歩く可愛い<ruby><rb>海水靴</rb><rt>サンダル</rt></ruby>であると推定したんだ。そして、少なくともその海水靴の側面は、美しい<ruby><rb>臙脂</rb><rt>えんじ</rt></ruby>色に違いない――。何故って、ほら、これを御覧」

そう言って大月は、靴跡の土つかずの処から、その海水靴が心持強く土の中へ喰入った時に剥げ落ちたであろう極めて小さな臙脂色の漆の小片を拾い上げて、二人の眼の前へ差出した。そして、

「勿論、こんなにお<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>え向きに漆が剥げ落ちて呉れる様では、その海水靴ももう相当に履き古されたものに違いないが、ここで僕は、去年の夏辺りどこかの海水浴場で、その海水靴と当然同時に同じ女に依って用いられたであろうビーチ・パンツとビーチ・コートを思い出すんだ。そして而もそれらの衣服の色彩は、派手な<ruby><rb>水色</rb><rt>ペイルブリュー</rt></ruby>であった、とね。だが茲で、或は君は、若しも男が、犯人は女であると見せかける為に、そんな婦人用の海水靴を履いたのだとしたならどうだ、と言う疑いを持つかも知れない。が、而し、それは明かに間違っている。何故ならば、若しも犯人が男で、そしてそんな野心を持っていたのだったならば、その男は、一見男に見えるビーチ・パンツやビーチ・コートを着るよりも、当然、逆に、一見して婦人と思われるワンピースか何かの婦人服を着なければならない筈だからね。……いや、全く僕は、最初夫人の証言を聞いた時から、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょっと</span>こんな事じゃないかと思った位いだ。遠方から見てそれが男装であったと言うだけで、犯人を男であると断定するなど危険な話だよ。なんしろ海のあちらじゃ女の子の男装が流行ってる時代なんだし、岸田氏を取巻く女達などは、ま、言って見れば日本のデイトリッヒやガルボなんだからね。――兎に角、若しも犯人が、夫人やこの証人の方の遠目を<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>ます為にそんな奇矯な<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしたのだとしても、今更そんな事を名乗って出る犯人などないんだから、まあ、直接の証拠をもっと探し出す事だよ」

大月は再び熱心に靴跡を辿り始めた。

軈て暫くして、靴跡が交錯しながら砂地から芝草の中へ消えているあたり迄来ると、再び二人の立会人を招いて、地上を指差しながら言った。

「<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>の皮が落ちてるね。見給え」それから証人に向って、「警察の連中はこれを見落したりなどして行ったんですか？」

「さあ、――この付近に林檎の皮など落ちている位いは珍しい事じゃないですから、旦那方は知らずに見落したんじゃなかろうかと思いますが。何でも旦那方はそこいら中<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>に調べられて、あの雑木林の入口に散っていた沢山の紙切れなんども丁寧に拾って行かれた位いで御座居ます」

「紙切れを――？」

「へえ。何か書いた物をビリビリ引裂いたらしく、一寸見付からない様な雑木林の根っこへ一面に踏ン付ける様にして捨ててあったものです。手前が拾いました奴は、恰度その書物の書始めらしく、何でも――花束の虫……確かにそんな字がポツリと並んでおりました」

「ほほう。……ふうむ……」

大月は暫くジッと考えを追う様にして眼をつむっていたが、軈て、

「ま、それはそれとして、兎に角この林檎の皮だ。勿論これは、警察で<ruby><rb>見捨</rb><rt>みすて</rt></ruby>て行ったものだけに月並で易っぽいかも知れない。が而し決して偶然ここに落ちていたのではなくて、この犯罪と密接な関係を持っている。――つまり兇行が犯された当時に剥き捨てられたものなんだ。よく見て御覧。そら。この皮は、岸田氏の靴跡の上に乗っているだろう。そして一層注視すると、その又皮の上を半分程、それこそ偶然にも犯人の靴が踏み付けてるじゃないか。だからこの皮は、兇行当時前に捨てられたものでもなければ、兇行当時後に捨てられたものでもない。正に加害者と被害者の二人がこの丘の上で会合した時に剥き捨てられたものなんだ。そして、尚一層注意して見ると」大月は林檎の皮を拾い上げて、「ほら。剥き方は左巻きだろう。なんの事はない。よくある探偵小説のトリックに依って推理すると、この場合犯人は女だったのだから、林檎の皮を剥いたのは極めて自然に犯人であると見る。従って犯人は左利、と言う事になるわけさ。……だが、それにしても黒いトランクは何だろう？　そして、岸田氏に組付いて、そんなに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっさり</span>と断崖から突墜す事の出来る程の体力を具えた女は、一体誰れだろう？　そして又、『花束の虫』とは一体何を意味する言葉だろう？……」

それなり大月は思索に這入って了った。そして腕組をしたまま再び靴跡の上を、アテもなく歩き始めた。秘書の秋田は大月の思索を邪魔しないつもりか、それとももうそんな<ruby><rb>仕種</rb><rt>しぐさ</rt></ruby>に飽きて了ったのか、証人の男を捕えて丘の周囲の景色を見ながら、その素晴しい見晴に就いて何か盛んに説明を聞き始めた。

一方大月は、考え込みながらぶらぶらと歩き続けていたが、ふと立止ると、屈み込んで、何か小さなものを芝草の間の土の中から拾い上げた。それは黒く薄い板っぺらの様な小片で、暫くそれを見詰めていた大月は、軈てその品をコッソリとポケットの中へ入れて、深く考える様に首を傾げながら立上った。

そして間もなく大月は、秋田と証人を誘って、丘を降りて行った。

夕方近くの事で、<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に寒い風がドス黒い海面を渡って吹き寄せて来た。もう時間も遅いし、それに直介の死亡に依る大月の当面の仕事は、まだ全然手が付けてないので、東京へは明朝夫人と一緒に引挙げる事にして、二人とも別荘の客室へ一泊する事になった。

梟山の検証で、推理がハタと行詰ったかの様にあれなりずっと思索的になって了った大月は、それでも夕食時が来てホールで三人が食卓に向うと、早速夫人へ向けて切り出した。

「少し変な事をお訊ねする様ですけれど、花束の虫――と言う言葉に就いて何かお心当はないでしょうか？」

「まあ――」夫人は明かに驚きの色を表わしながら、「どうして又、そんな事をお訊ねになりますの。『花束の虫』と言うのは、何でも上杉逸二さんの書かれた二幕物の脚本だそうですけれど……」

「ははあ。<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>。――して、内容は？」

「さあ。それは、一向に存じないんですけれど……何でもそれが、今度瑪瑙座の創立記念公演に於ける上演脚本のひとつであると言う事だけは、昨晩主人から聞かされておりました。昨日上杉さんが<ruby><rb>別荘</rb><rt>こちら</rt></ruby>をお訪ね下さった時に、主人にその脚本をお渡しになったので、そんな事だけは知っているので御座居ます」

「ああ左様ですか。すると御主人は、まだ今日迄その脚本をお読みになってはいなかったんですね？」

「さあ。それは――」

「いや、よく判りました。御主人が今朝の散歩にそれを持って梟山へお出掛けになっている以上、まだお読みになってはいなかったんでしょう……」

大月はそう言って、再び考え込みながら、アントレーの鳥肉を牛の様に噛み続けた。

軈て食事が終ると、夫人がむいて呉れる豊艶な満紅林檎を食べながら、遺産の問題やその他差当っての事務に関して大月は夫人と相談し始めた。

秋田は、ふと、先程丘の上で大月の下した犯人は左利きであると言う断案を思い出した。そして何か<ruby><rb>英雄的</rb><rt>ヒロイック</rt></ruby>なものを心に感じながら、コッソリと夫人の手許を盗み見た。が、勿論夫人は左利きではなかった。

翌朝――。

それでも昨晩に較べると大分元気づいたらしい大月は、朝食を済ますとこの土地を引き上げる迄にもう一度単身で昨日の丘へ出掛けて行った。そして崖の頂へ着くと再び昨日よりも厳重な現場の調査をしたり、靴跡の<ruby><rb>複写</rb><rt>コピー</rt></ruby>を取ったりした。が、それ等の仕事が済むと、気に掛っていた仕事を済した人の様に、ホッとして別荘へ戻って来た。

そして間もなく、大月、秋田、比露子夫人の三人は、銚子駅から東京行の列車に乗り込んだ。

車中大月はこの犯罪は、大変微妙なものであるが、もう大体の見透はついたから、茲一両日の内には大丈夫犯人を告発して見せると言う様な事を、自信ありげな口調で二人に語り聞かせた。が、何故どうしてそうなるとか、詳しい話を聞かせて呉れないので、秋田は内心軽い不満と不審に堪えられなかった――。

## 三

屏風浦を引上げて、大月と秘書の秋田が<ruby><rb>丸</rb><rt>まる</rt></ruby>の<ruby><rb>内</rb><rt>うち</rt></ruby>の<ruby><rb>事務所</rb><rt>オフィス</rt></ruby>へ帰ったのは、その日の午後二時過ぎであった。

事務所には、二人が一日留守をした間に、もう新しい依頼事務が二つも三つも舞い込んで、彼等を待っていた。昨日の屏風浦訪問以来、大月の言う事なす事にそろそろ不審を抱かせられてうんざりしていた秘書の秋田は、それでも極めて従順に、どの仕事から調べかかるか、と言う様な事を大月に<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて見た。が、それにも<ruby><rb>不拘</rb><rt>かかわらず</rt></ruby>大月は、もう一度秋田を<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>させる様な不審な態度に出た。全く、それは奇妙な事だった。

――銚子から帰って二時間もしない内に、新しい書類の整理をすっかり秋田に任せた大月は、<ruby><rb>築地</rb><rt>つきじ</rt></ruby>の瑪瑙座の事務所を呼び出して、暫く受話器を握っていたが、軈て通話が終ると、何思ったのかついぞ着た事もないタキシードなどを着込んで、胸のポケットへ純白なハンカチを一寸折り込むと、オツにすましてその儘夕方の街へ飛び出して了ったのだ。

歳柄もなく口笛などを吹きながらさっさとアスファルトの上を歩き続けて行った大月は、<ruby><rb>銀座</rb><rt>ぎんざ</rt></ruby>裏のレストランでウイスキーを一杯ひっかけると、それからタクシーを拾ってユニオン・ダンス・ホールへやって来た。そして其処で、昔習い覚えた危い足取で古臭いワルツを踊り始めた。――が、それも二十分としない内に其処を飛び出すと、再びタクシーに乗り込んで、<ruby><rb>意勢</rb><rt>いせい</rt></ruby>よくこう命じた。

「日米・ホールへ！」

それから、次に、

「国華・ホール！」

――そんな風にして、ざっと数え上げると、ユニオン、日米、国華、銀座、フロリダと、都合五つの<ruby><rb>舞踏場</rb><rt>ホール</rt></ruby>を踊り回った大月は、最後のフロリダで若い美しい一人のダンサーを連れ出すと、その儘自動車を飛ばして丸の内の事務所へ帰って来た。

いつもならばもう仕事を終って帰っている秋田も、流石に今日は居残っていた。そして、不意に若い女などを連れて帰って来た大月を見ると、もう口も利けない位いに<ruby><rb>驚</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて了った。

が、そんな事には一向に<ruby><rb>無頓着</rb><rt>むとんちゃく</rt></ruby>らしく、帰って来た大月は、秋田に一寸微笑して見せただけで、直ぐ隣室へその女を連れ込むと、間の扉をピッタリ閉めて了った……。

そして、おお、<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>として了った秋田の耳へ、軈て、狂躁なジャズの音が、軽いステップの音と一緒に、隣室から聞え始めて来た。

全く、「先生」のこんな態度に出会ったのは、今日が初めてであった。秋田はもう書類の整理どころではなくなった。ともすると、鼻の先がびッしょり汗ばんで、<ruby><rb>眩暈</rb><rt>めまい</rt></ruby>がしそうになるのを、ジッと耐えて、<ruby><rb>事務卓</rb><rt>デスク</rt></ruby>に<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しが</rt></ruby>みついていた。が、それでも段々落着くに従って、彼の脳裡に或るひとつの考えが、水の様に流れ始めた……

――ひょっとすると、この女が、あの梟山の海水靴の女ではないだろうか？　そして、先生が……だが、そうすると、一体この騒ぎは何になる……いや、これには、何か深い先生のたくらみがあるに違いない。そうだ。兎に角この女を逃してはならない。犯人を茲迄引き寄せて、この儘逃したとあっては面目ない。先生の先刻の、あの意味ありげな微笑は、確に自分の援助を求めた無言の<ruby><rb>肢体信号</rb><rt>ポーズ・サイン</rt></ruby>なのだ――。

やっと茲迄考えついた秋田は、ふと気付くと、もうどうやら隣室の騒ぎも済んだらしく、いつの間にかジャズの音は止んで、只、低い囁く様な話声が聞えていた。が、軈てそれも終ると、どうやら人の立上ったらしい気配がして<ruby><rb>衣摺</rb><rt>きぬずれ</rt></ruby>の音がする。で、急にキッとなった彼は、椅子から飛上ると、扉の前へ野獣の様に<ruby><rb>立開</rb><rt>たちはだか</rt></ruby>った。

と、不意に扉が開いて、大月の背中が現れた。そして、そのタキシードの背中越しに、若い女の艶しい声で、

「まあ、いけませんわ。こんなに戴いては……」

すると大月は、それを両手で押えつける様にして、それから秋田の方を振向きながら、

「君。――何と言う恰好をしているんだ。さあ、お客様のお帰りだ。其処をお通しし給え」

そこで秋田は、眼を白黒させながら、思わず一歩身を引いた。

「ほんとに済みませんわ。――じゃあ、又どうぞ、お遊びにいらして下さいな」

そう言って若い女は、<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>を含んだ視線をチラッと大月へ投げると、秋田には見向きもしないで、到頭その儘出て行って了った。

大月は自分の椅子へ腰を下ろすと、さも満足そうにウエストミンスターに火を点けた。

秋田はどうにも堪らなくなって、到頭大月の側へ腰掛けた。そして、

「一体、どうしたと言うんですか？」

「別に、どうもしやしないさ。が、まあ、兎に角、これからひとつ説明しよう」

そう言って大月は、内ポケットへ手を突込むと、昨日屏風浦の断崖の上で拾った、例の黒く薄い板っぺらの様な小片を取出した。

「これ何んだか、勿論判るだろう？　よく見て呉れ給え」

「……何んですか。――ああ。レコードの<ruby><rb>缺片</rb><rt>かけら</rt></ruby>じゃありませんか。これが、一体どうしたと言うんですか？」

「まあ待ち給え。その隅の方に、金文字で、少しばかり字が見えるね」

「ええ。判ります。…… <ruby><rb>arcelona</rb><rt>アルセロナ</rt></ruby> ――として、<ruby><rb>Victor</rb><rt>ビクター</rt></ruby>・20113――とあります。それから、……チ・フォックストロット――」

「そうだ。その字の抜けているのは、勿論、あの、踊りのバルセロナの事だ。そして、もうひとつの方は、マーチ・フォックストロットだ――ところで、君は、時々ダンスを<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>まれる様だが、その踊り方を知ってるかね？　その、マーチ・フォックストロットと<ruby><rb>言</rb><rt>いう</rt></ruby><ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>をだね」

秋田は、図星を指されて急に顔を赤らめた。が、軈て仕方なさそうに、

「二三度名前だけは聞いた事がありますが、僕はまだ習い始めですから、全然踊り方は知らないです」

「ふむ、そうだろう。――実は、僕も知らなかった。が、いま帰って行かれたあの若いお客さんから得た知識に依ると、何でもこのダンスは、四五年前に日本へ伝ったもので、普通に、シックス・エイトって言われているそうだ。欧州では、スパニッシュ・ワンステップと呼ばれているものだよ。そしてその名称の示す様に、このダンスのフィギュアーと言うか、つまりステップの型だね。それは非常に強調な、人を激励する様な、ワンステップ風のものなんだ。――ところで、これを君は、何だと思う」

大月はそう言って、一枚の紙片を秋田の前に拡げて見せた。秋田は、それを一寸見ていたが、直ぐに、幾分得意然として、

「――判ります、つまりこれが、そのマーチ・フォックストロットのステップの跡、と言うか、足取りの跡を、先生が図にしたものなんでしょう」

すると大月は笑いながら、

「――ウッフッフッフッフッフッ……まあ、そうも言える。が、そうも言えない」

「と言うと――」

秋田は思わず急き込んで訊ねた。

「つまり、スパニッシュ・ワンステップの足取りであると同時にだね。いいかい。もうひとつ別の……何かなんだよ」

「別の――⁉」

「他でもない。屏風浦の断崖の上の、あの素晴しい格闘の足跡なんだ！」

――秋田は、蒼くなって了った。

## 四

自分の鋭い不意打の決断に、すっかり<ruby><rb>魂消</rb><rt>たまげ</rt></ruby>て了った秋田の顔を見ながら、ニコニコ微笑していた大月は、軈て、煙草の煙を環に吹きながらポツリポツリと言葉を続けた。

「――勿論、最初、あの取り乱れた足跡を見た時には、僕も、異議なくあれが争いの跡であると信じ切っていたよ。だが、僕は、君があの証人と何か話合っている間に、あの芝草の中から、こ<ruby><rb>奴</rb><rt>いつ</rt></ruby>を、このレコードの<ruby><rb>缺片</rb><rt>かけら</rt></ruby>を、拾い上げたんさ。それから急に、僕が<ruby><rb>鬱</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎ込んで了ったのを、君は大分不審に思っていた様だったね。だが、実を言うと、あんな田舎の丘の上で、而も殺人の現場で、オヨソその場面と飛び離れた蓄音器のレコードの缺片などを拾い込んだ僕の方が、君よりも、どれだけ不審な思いをしたか判らないよ。而もこの小片は、よく見ると、あの喧嘩の靴跡の内の、芝草の<ruby><rb>生際</rb><rt>はえぎわ</rt></ruby>に一番近い女の靴跡の下敷になっていたんだよ。つまり海水靴の踵に踏み付けられた様になって、割れてからまだ間もない様な綺麗な顔を、砂の中から半分覗かせていたんだよ。――僕は、考えた。晩迄考えた。そして到頭、その謎を解いて了ったんだ。――新時代の生活者である岸田夫妻の別荘の近くに、こ奴が転っていたのに不思議はないとね。つまり、あの丘の見晴しのいい頂の上で、よしんばそれが直介氏であろうと、比露子夫人であろうと、或は又、その他の誰れであろうと、兎も角岸田家に関係のある誰れかが、<ruby><rb>手提蓄音器</rb><rt>ポータブル</rt></ruby>を奏でて<ruby><rb>娯</rb><rt>たのし</rt></ruby>んだとしても、何の不思議があろうとね。そして、そしてだ。このレコードの缺片や、それから又こ奴の落ちていた時の様子からして、僕は、誰れか<ruby><rb>彼処</rb><rt>あすこ</rt></ruby>で、ダンスを踊っていたんじゃあないかと言う、極めて漠然とした、だが非常に有力な暗示にぶつかったんだ。そこで翌朝、つまり今朝だね。僕はもう一度あの丘を調べに出掛けたんだ。そして其処で僕は、はからずも、あの素晴しい足跡の中に、昨日それを見た時には全く単に荒々しい争いの跡でしかなかったその足跡の、いや靴跡の中に、どうだい、よく見ると、なにかしら或るひとつの、<ruby><rb>旋律</rb><rt>リズム</rt></ruby>――と言った様なものがあるじゃないか。僕は思わず声を上げた。そして、そう思って見れば見る程、その事実は、益々ハッキリして来る。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、そんな<ruby><rb>六ヶ敷</rb><rt>むつかし</rt></ruby>い、激しいステップのフィギュアーを持ったダンスを僕は知らなかった。だが、その時の僕に、それがダンスのステップの跡でないと、どうして断言出来よう。そしてそれと同時に、実に恐しい考えが、僕の頭の中でムクムクと湧上り始めたのだ。と、言うのは、その時に僕は、昨日別荘で、夫人の陳述した証言を思い出したんだ、――突然、二人は格闘を始めました。そして、曰々――と言った奴をね。ここんとこだよ。いいかい君。夫人は、同じその証言の中に於て、兇行当時あの断崖の上の人物を、一人は夫の直介であると見、又も一人は水色の服を着た小柄な男と言明している通りに、近視眼じゃあないんだよ。そして而も、思い出し給え。夫人は、岸田直介との結婚前に、飯田橋<ruby><rb>舞踏場</rb><rt>ホール</rt></ruby>のダンサーをしていたんだぜ。その<ruby><rb>比露子夫人</rb><rt>ひろこふじん</rt></ruby>が、<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>多少の距離があったにしろ、そして又、仮令もう一人の百姓の証人――彼はダンスのイロハも知らない素朴な農夫だ――が、そう言っているにしろ、ダンスをし始めるのと、喧嘩をし始めるのとを、見間違えるなんて事は、そのかみダンスでオマンマを食べていた彼女の申立として、断然信じられない話だ。そこで、僕は、夫人が虚偽の申立をしたのではないか、と言う、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど不可避的な疑惑にぶつかったものだ。同時にだ。逆に、この調子の強烈な、六ヶ敷そうな直介氏のダンスの<ruby><rb>相手</rb><rt>パートナー</rt></ruby>として、<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て職業的なダンサーであったところの比露子夫人を想像するのは、これこそ、最も尋常で、簡単な、だが非常にハッキリした強い魅力のある推理ではないか。――ところが、<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>に、僕の推理線の合理性を裏書して<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れる適確な証拠があるんだ。君は、昨晩あの別荘の食堂で、夕食後比露子夫人が何気なく満紅林檎の皮を剥いて僕達に出して呉れたのを見ていたろう。そして勿論君は、その時、あの兇行の現場で僕が下した『犯人は左利である』と言う推定を思い出しながら、熱心に夫人の手元を盗み視たに違いない。ところが、夫人は左利ではなかった。そこで君は恰も自分の過敏な注意力を<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ嫌悪する様ないやな顔をして鬱ぎ込んで<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>った。――だが、決して君の注意力は過敏ではなかったのだ。それどころか、まだまだ観察が不足だと僕は言いたい。若しもあの時、君がもう少し精密な洞察をしていたならば、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>君は、驚くべき事実を発見したに違いないんだ。何故って、夫人は明かに右利で、何等の技巧的なわざとらしさもなく極めて自然に右手でナイフを使っていた。が、それにも<ruby><rb>不拘</rb><rt>かかわらず</rt></ruby>、夫人の指間に盛上って来るあの乳白色の果肉の上には、現場で発見したものと全く同じ様な左巻の皮が嘲ける様に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とぐろ</span>を巻いているじゃないか。僕は内心ギクリとした。で、落着いてよく見る、……と。なんの事だ。実に下らん謎じゃあないか。問題は、ナイフの最初の切り込み方にあるんだ。つまり、普通果物を眼前に置いた場合、<ruby><rb>蔕</rb><rt>へた</rt></ruby>の手前から剥き始めるのを、夫人の場合は、蔕の向う側から剥き始めるのだ。――勿論こんな癖は一寸珍らしい。が、吾々は現に昨晩別荘の食堂で、その癖が三つの<ruby><rb>林檎</rb><rt>りんご</rt></ruby>に及ぼされたのを見て来ている。ありふれた探偵小説のトリックを、その<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>単純に実地に応用しようとした僕は、全く恐ろしい危険を犯す処だったね。……ところで、この林檎の皮なんだが」大月はそう言って、いつの間に何処からか取り出した小さなボール箱の中から、大切そうに二<ruby><rb>筋</rb><rt>すじ</rt></ruby>の林檎の皮を取出しながら「この古い方は断崖の上の現場で、こちらは今朝別荘のゴミ箱から、それぞれ手に入れた代物だ。もう気付いたろうが、僕はこの艶のいい皮の表面から、同一人の左手の拇指紋を既に検出したんだ。――君。岸田直介の殺害犯人は比露子夫人だよ。さあ。これを御覧――」

その結果は、ここに記す<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>もなかろう。軈て大月は、ニタニタ笑いながら立上ると、大胯に隣室へ這入って行った。そして、再び彼が出て来た時に、その右手に提げた品を一眼見た秋田は、思わずあっと叫んで立上って了った。

秋田が声を挙げたも道理、その品と言うのは、今朝三人が屏風浦の別荘を引挙げた時に、比露子夫人の唯一の手荷物であり、秋田自身で銚子駅迄携えてやった、あの派手な市松模様のスーツ・ケースではないか⁉

「別になにも驚くことはないさ。僕は只、夫人の帰京の手荷物がこのスーツ・ケースひとつであると知った時に、屹度この中に大切な犯人の正体が隠されているに違いないと睨んだ迄の事さ。だから僕は、銚子駅で、親切ごかしに僕自身の手でこ奴をチッキにつけたんだよ。夫人の本邸へではなく、内密で僕のこの<ruby><rb>事務所</rb><rt>オフィス</rt></ruby>を<ruby><rb>宛名</rb><rt>アド</rt></ruby>にしてね。――今頃は屹度岸田の奥さん、大騒ぎで両国駅へ、チッキならぬワタリをつけているだろうよ。只、君は、いつの間にこれが持ち込まれて、隣室の戸棚へ仕舞われたかを知らなかっただけさ」

そして笑いながら大月は、ポケットから鍵束を出して合鍵を求めると、素早くスーツ・ケースの蓋を開けた。

見ると、中には、目の<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>める様な<ruby><rb>水色</rb><rt>ペイルブリュー</rt></ruby>のビーチ・コートにパンツと、臙脂色の可愛い海水靴と、それから、コロムビアの<ruby><rb>手提蓄音器</rb><rt>ポータブル</rt></ruby>とが、窮屈そうに押込まれてあった。

「じゃあ一体、『花束の虫』と言うのはどうなったんですか？」

秋田が訊ねた。大月は煙草に火を点けて、

「さあそれなんだがね、僕は最初その言葉を暗号じゃあないかと考えた。が、それは間違いで、『花束の虫』と言うのは、只単に、上杉の書いた二幕物の命題に過ぎないのだが、僕は、その脚本があの丘の上でジリジリに引裂かれていたと言う点から見て、岸田直介の死となにか本源的な関係――言い換えればこの殺人事件の動機を指示していると<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。で、先程一寸電話で、瑪瑙座の事務所へ脚本の内容に就いて問い合わせて見た。するとそれは、一人の女の<ruby><rb>姦通</rb><rt>かんつう</rt></ruby>を取扱った一寸暴露的な作品である事が判明した。ところが、事件に於て犯人である夫人は、明かに『花束の虫』を恐れていた。で、僕の疑念は当然夫人の前身へ注がれた訳だ。その目的と、もうひとつスパニッシュ・ワンステップの知識に対する目的とで、僕はあんな馬鹿げたホール回りをしたわけさ。――が、幸いにも、飯田橋華かなりし頃の比露子夫人の<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>であったと言う、先程のあのモダンガールを探し出す事の出来た僕は、計らずも彼女の口から、上杉逸二と比露子夫人とがそのかみのバッテリーであった事、そして又、夫人は案外にもあれでなかなかの好色家である事等を知る事が出来た。――で以上の材料と、僕の貧弱な想像力とに依って、最後に、犯罪の全面的な構図を描いて見るとしよう。……先ず比露子夫人は、岸田直介との結婚後、以前の情夫である上杉に依って何物かを――それは、例えば、恋愛の復活でもいいし、又何か他の物質的なものでもいい――兎に角強要されていた、と僕は考えたい。そして上杉は、その<ruby><rb>脅喝</rb><rt>きょうかつ</rt></ruby>の最後の手段として、好色な夫人の現在の非行を暴露した『花束の虫』を、瑪瑙座に於ける新しい自分の地位を利用して、直介の処へ持って来たのだ。勿論、夫人は凡てを知っていた。そして、いま、裕福な自分の物質的な地位の上に刻々に迫ってくる黒い影を感じながら、この一両日の間と言うものは、どんなにか恐ろしい苦悩の渦に巻き込まれていた事だろう。其処では、<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>イプセンのノラが、クログスタットの手紙を夫のヘルメルに見せまいとする必死の努力と同じ様な努力が、繰返されたに違いない。――だが、結果に於て夫人はノラよりも無智で、ヒステリカルであった。昨日の朝になって、多分夫人は、これ等の奇抜な季節違いの装束を身に着けると、『花束の虫』を読みたがる直介を無理に誘い出し、あの証人が黒いトランクと間違えたこの<ruby><rb>手提蓄音器</rb><rt>ポータブル</rt></ruby>を携えて梟山へピクニックに出掛けたのだ。この場合僕は、あの<ruby><rb>兇行</rb><rt>きょうこう</rt></ruby>をハッキリと意識して夫人はあんな奇矯な男装をしたのだと考えたくない。それは、犯罪前のあの微妙な変則的な心理の働き――<ruby><rb>謂</rb><rt>いわ</rt></ruby>ば<ruby><rb>怯懦</rb><rt>きょうだ</rt></ruby>に近い、本能的な用意、がそうさせたのだ。そして夫人は、絶えず『花束の虫』から直介の関心を外らす為に、努力しなければならなかった。――<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>て、見晴のいいあの崖の上で、二人はダンスを踊り始めたのだ。あのうわずった調子の、情熱的なスパニッシュ・ワンステップをね。そして、その踊の、情熱の、最高潮に達した時に、今迄夫人の心の底でのたうち回っていた悪魔が、突然首を持上げたのだ。――<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>で君は、あの証人が、馬鹿にあっさり墜されたと言って不思議がっていた言葉を思い出せばいい。――それからの夫人は、完全に悪魔になり切って、もう恐れる必要もなくなった『花束の虫』を破り捨てると、<ruby><rb>手提蓄音器</rb><rt>ポータブル</rt></ruby>を<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えて直ぐに別荘へ引返したのだ。そして、最も平凡な犯罪者の心理で、あんな風に証人の一役を買って出た――と言うわけさ。……兎に角この<ruby><rb>手提蓄音器</rb><rt>ポータブル</rt></ruby>を開けて<ruby><rb>見給</rb><rt>みたま</rt></ruby>え。夢中になって踊っていた時に、誤って踏割ったらしいレコードの大きな缺片と、それから、先程一寸僕が拝借した、いずれも同じスパニッシュ・ワンステップのレコードが四五枚這入っているから――」

大月はそう語り終って、煙草の吸殻を灰皿へ投げ込むと、椅子に深く身を埋めながら、さて、夫人の犯罪に対する検事の峻烈な求刑や、そしてそれに対する困難な弁護の論法などをポツリポツリと考え始めた。

（一九三四年四月号）