Soranoha

島木赤彦氏

しまぎあかひこし

芥川 竜之介

島木さんに最後に会ったのは確か今年(大正十五年)の正月である。僕はその日の夕飯を斎藤さんの御馳走になり、六韜三略の話だの早発性痴呆の話だのをした。御馳走になった場所は外でもない。東京駅前の花月である。それから又斎藤さんと割り合にすいた省線電車に乗り、アララギ発行所へ出かけることにした。僕はその電車の中にどこか支那の少女に近い、如何にも華奢な女学生が一人坐っていたことを覚えている。

僕等は発行所へはいる前にあの空罎を山のように積んだ露路の左側へ立ち小便をした。念の為に断って置くが、この発頭人は僕ではない。僕は唯先輩たる斎藤さんの高教に従ったのである。

発行所の下の座敷には島木さん、平福さん、藤沢さん、高田さん(?)、古今書院主人などが車座になって話していた。あの座敷は善く言えば蕭散としている。お茶うけの蜜柑も太だ小さい。僕は殊にこの蜜柑にアララギらしい親しみを感じた。(尤も胃酸過多症の為に一つも食えなかったのは事実である。)

島木さんは大分憔悴していた。従って双目だけ大きい気がした。話題は多分刊行中の長塚節全集のことだったであろう。島木さんは談の某君に及ぶや、苦笑と一しょに「下司ですなあ」と言った。それは「下」の字に力を入れた、頗る特色のある言いかただった。僕は某君には会ったことは勿論、某君の作品も読んだことはない。しかし島木さんにこう言われると、忽ち下司らしい気がし出した。

それから又島木さんは後ろ向きに坐ったまま、ワイシャツの裾をまくり上げ、医学博士の斎藤さんに神経痛の注射をして貰った。(島木さんは背広を着ていたからである。)二度目の注射は痛かったらしい。島木さんは腰へ手をやりながら、「斎藤君、大分こたえるぞ」などと常談のように声をかけたりした。この神経痛と思ったものが実は後に島木さんを殺した癌腫の痛みに外ならなかったのである。

二三箇月たった後、僕は土屋文明君から島木さんの訃を報じて貰った。それから又「改造」に載った斎藤さんの「赤彦終焉記」を読んだ。斎藤さんは島木さんの末期を大往生だったと言っている。しかし当時も病気だった僕には少からず愴然の感を与えた。この感銘の残っていたからであろう。僕は明けがたの夢の中に島木さんの葬式に参列し、大勢の人人と歌を作ったりした。「まなこつぶらに腰太き柿の村びと今はあらずも」――これだけは夢の覚めた後もはっきりと記憶に残っていた。上の五文字は忘れたのではない。恐らくは作らずにしまったのであろう。僕はこの夢を思い出す度に未だに寂しい気がしてならないのである。

魂はいづれの空に行くならん我に用なきことを思ひ居り

これは島木さんの述懐ばかりではない。同時に又この文章を書いている病中の僕の心もちである。(十五・九・二)

底本 / Source edition

底本:「大川の水・追憶・本所両国 現代日本のエッセイ」講談社文芸文庫、講談社
1995(平成7)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「芥川龍之介全集 第一~九、一二巻」岩波書店
1977(昭和52)年7、9~12月、1978(昭和53)年1~4、7月発行
入力:向井樹里
校正:砂場清隆
2007年2月12日作成
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書誌 / Bibliography
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芥川 竜之介「島木赤彦氏」(新字新仮名)、底本『大川の水・追憶・本所両国 現代日本のエッセイ』講談社文芸文庫、講談社、1995年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043380_000879, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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