Soranoha

愛の問題(夫婦愛)

あいのもんだい(ふうふあい)

倉田 百三

一人の男と一人の女とが夫婦になるということは、人間という、文化があり、精神があり、その上に霊を持った生きものの一つの習わしジッテであるから、それは二つの方面から見ねばならぬのではあるまいか。

すなわち一つは宇宙の生命の法則の見地から見て、かりのきめであって、固執すると無理があるということだ。も一つはたとい多少の無理を含んでいても、進化してきた人間の理想として、男女の結合の精神的、霊的指標として打ち立て、築き守って、行くべきものであるということである。

生命の法則についての英知があって、かつ現代の新生活の現実と機微とを知っている男女はこの二つの見方を一つの生活に融かして、夫婦道というものを考えばならぬ。

人間が、文化と、精神と霊とを持っているのでなかったら夫婦道というものは初めから無理で意味をなさないのだから、夫婦になる以上は性に関する、文化的、精神的、霊的要求を充分に夫婦道に盛るべきだ。そういう愛を互いに期待すべきだ。だからこのごろときどき耳にする恋愛結婚より、見合結婚の方がましだなどと考えずに結婚に入る門はやはりどこまでも恋愛でなくてはならぬ。純な、一すじな、強い恋愛でなくてはならぬ。恋愛から入らずに結婚して、夫婦道の理想を立てようなどというのは、霊のない人間に初めて考えられることであって、たとい円満にそいとげても、結局常識的、事務的な結合にすぎぬ。こういうことはやはり正面からの道が一番いいので、ほかから見れば、円満幸福に見えても、一つ一つの生活のはしばしまで、愛の行き渡り方、心のとけ合い方が違うのだ。

それに夫婦生活には必ず、倦怠期があるし、境遇上に不幸が襲うし、相手にそれほどでもなかったという期待はずれが生じるものだ。そういうとき、本当に愛し合ったいろいろの思い出は愛を暖め直すし、またあきらめがつく。あれだけ愛したのだものをと思わせる。そうしているうちには、もともと人生と人間とを知ること浅く、無理な、過大な要求を相手にしているための不満なのだから、相方が思い直して、もっと無理のない、現実に根のある、しんみりした、健実な夫婦生活を立てていこうとするようになる。

今さらに何かなげかん打ちなびき心はきみによりにしものを

これは万葉にある歌だがいい歌だと思う。

こんな気持は恋愛から入った夫婦でなくては生じないだろう。

性交は夫婦でなくてもできるが、子どもを育てるということは人間のように愛が進化し、また子どもが一人前になるのに世話のやける境涯では、夫婦生活でなくては不都合だ。それが夫婦生活を固定させた大きな条件なのだから、したがって、夫婦愛は子どもを中心として築かれ、まじめな課題を与えられる。恋愛の陶酔から入って、それからさめて、甘い世界から、親としてのまじめな養育、教育のつとめに移って行く。スイートホームというけれども、恋愛の甘さではなく、こうなってから初めて夫婦愛が生まれてくる。子どもを可愛がる夫婦というのはよそ目にも美しく、その家庭は安泰な感じがするものだ。

人間は社会生活をして生きているから、夫婦の生活をささえ子どもを養、教育していくことは生活の「たたかい」を意味する。この闘いに協同戦線を張って助け合うことが夫婦愛を現実に活かす大きな機会でなくてはならぬ。たのみ合うという夫婦愛の感じは主としてここから生まれる。この問題でたよりにならない相手では、たのみにならない味方ということになる。この闘いは今日の場合では大概は容易ならぬ苦闘だからだ。しかしこれは協同する真心というので、必ずしも働く腕、才能をさすのではない。妻が必ず職業婦人になって、夫の収入に加えねばならぬというのではない。働く腕、金をとる才能のあることがかえって夫婦愛を傷つける場合は少なくないし、またあまりそういう働きのあるような婦人は、愛が濃やかでなく、すべて受身でなく可愛らしげがないという意味あいもあるのだ。

婦人が育児と家庭以外に、金をとる労働をしなければならないというのは、社会の欠陥であって、むしろやむを得ない悲惨事である。婦人を本当に解放するということは、家庭から職業戦線へ解放することではなくて、職業戦線から解放して家庭へ帰らせることだ。

しかし現状では夫婦共稼ぎもやむを得ない。が、この際夫としてはなるべく妻を共稼ぎさせないようにするのが夫婦愛であり男の意気地である。妻の方では共稼ぎもあえて辞しないという心組みでいてほしいものだ。

私の知ってるある文筆夫人に、女学校へも行かなかった人だが、事情あって娘のとき郷里を脱け出て上京し、職業婦人になって、ある新聞記者と結婚し、子どもを育て、夫を助けて、かなり高い社会的地位まで上らせ、自分も独学して、有名な文筆夫人になっている人がある。夫も薄給で子どもをおんぶして、貸家を捜しまわった時代のことが書いてある。その人の歌に、

事にふれてめをと心ぞたのもしきあだなる思ひはみなほろぶもの

というのがある。この「めおと心」というのが夫婦愛で、これは長い年月を経済生活、社会生活の線にそうて、助け合ってきた歴史から生まれたものである。

そして不思議なことには、この人は子どもも可愛がるが、生活欲望も非常に強い。妻らしく、母らしい婦人が必ずしも生活欲望が弱いとしたものでもないようだ。

子どももなく、生活にも困らない夫婦は、何か協同の仕事を持つことで、真面目な課題をつくるのが、愛を堅め、深くする方法ではあるまいか。

すなわち学校、孤児院の経営、雑誌の発行、あるいは社会運動、国民運動への献身、文学的精進、宗教的奉仕等をともにするのである。

二つ夫婦そらうてひのきしんこれがだいいちものだねや

これは天理教祖みき子の数え歌だ。

子をなさぬ二人がなかのめぐし子と守りてぞ行かな敷島の道

これは子どものないある歌人の詠だ。

ブース夫婦、ガンジー夫婦、リープクネヒト夫婦、孫逸仙と宋慶齢女史、乃木大将夫婦これらは、子どもの有無はともかく同じ公なる道、事業に心をあわせ、力を一つにして、夫婦愛が固くなったものだ。

やんごとなき仏にならせわがために死にしこころのそのままにして

これは自分の妻をあることで、苦しめ抜いたある真宗信徒の歌である。

夫婦愛というものは少しの蹉跌さてつがあったからといって滅びるようなものではつまらない。初めは恋愛から入って、生活と歳月の移るにしたがって、人生の苦渋にもまれ、鍛えられて、もっと大きな、自由な、地味なしんみの、愛に深まっていく。恋愛よりも、親の愛、腹心の味方の愛、刎頸ふんけいの友の愛に近いものになる。そして背き去ることのできない、見捨てることのできない深い絆きずなにくくられる。そして一つの墓石に名前をつらねる。「夫婦は二世」という古い言葉はその味わいをいったものであろう。

アメリカの映画俳優たちのように、夫婦の離合の常ないのはなるほど自由ではあろうが、夫婦生活の真味が味わえない以上は人生において、得をしているか、失っているかわからない。色情めいた恋愛の陶酔は数経験するであろうが、深みと質とにおいて、より貴重なものを経験せずに逸するなら、賢く生きたともいえまい。深い心境を経験しないですますことは、歓楽を逃がすより、人生において、より惜しいことだからだ。そして夫婦別れごとに金のからんだ訴訟沙汰になるのは、われわれ東洋人にはどうも醜い気がする。何故ならそれだと夫婦生活の黄金時代にあったときにも、その誓いも、愛撫も、ささやきも、結局そんな背景のものだったのかと思えるからだ。

権利思想の発達しないのは、東洋の婦人の時代遅れの点もあろうが、われわれはアメリカ婦人のようなのが、婦人として本性にかなった正常な姿ではなく、やはり社会の欠陥から生じた変態であって、われわれは早く東洋的な、理想的国家をつくって、東洋婦人が安んじてその本性を生かせるように、アメリカ婦人の真似をしなくてもいいようにしなければならぬと思うのである。婦人をその天与の生理にも、心理にも合わない労働戦線に狩り出して、男子のような競争をさせるのでなく、処女らしさ、妻らしさ、母らしさを保護し、育児と、美容とに矛盾しない範囲の労働にとどめしめることは、新しい社会の義務だと思うのである。天理の自然、生命の法則に従うことは、目前の生活解放権利拡張ということより根本的である。現在の社会ではいわゆる婦人の権利拡張の闘争から手を引くことは、一層鎖を重くすることになるが、理想的国家では、処女性、母性、美容の保護、ならびに、これと矛盾しない仕事しかしないということが婦人の天与の権利でなくてはならぬ。そしてこれを保証することは国家と男性との義務でなくてはならぬ。

最後にこの天理の自然、生命の法則という視点から、最初に立ちかえって、夫婦生活というものには無理が含まれていることも、英知をもって認めておかなくてはならぬ。この無理をどう扱うかということが生活のひとつの知恵である。

性の欲求、恋愛は人間の本性上、ことに男子にとっては、自由を欲するものであって、それはまた生活精力上、審美上、優生学上の機微とからまり、自然の不思議な意志が織りこまれているものである。この天然と生命との機微を無視するキリスト教的、人道主義は、簡単に、一夫一婦の厳守を強制するのみで、その無理に気がつかない。それは夫婦というものが、人間という生きもののかりのきめであることを忘れるからである。この天与の性的要求の自由性と、人間生活の理想との間に矛盾が起こるのはむしろ当然のことである。この際自由の抑制、すなわち善というわけにいかぬものがある。

この男性にあらわれる生活精力上、審美上、優生学上の天然の意志については、婦人は簡単に獣慾とか、不貞操とか考えたのでは実相にあたらない。したがってただそれだけで、夫の人格を評価して、夫婦生活にひざまずいたりするのは浅慮である。

天然と歴史とは往々にして偉大なる男性に、超家庭的の性格と使命とを与える。すべての男性が家庭的で、妻子のことのみかかわって、日曜には家族的のトリップでもするということで満足していたら、人生は何たる平凡、常套であろう。男性は獅子であり、鷹であることを本色とするものだ。たまに飛び出して巣にかえらぬときもあろう。あまり小さく、窮屈に男性を束縛するのは、男性の世界を理解しないものだ。小さい几帳面な男子が必ずしも妻を愛し、婦人を尊敬するものではない。大事なところで、献身的につくしてくれるものでもない。要は男性としての本質を見よ。夫としてのたのみがいを見よ。婦人に対する礼と保護との男性的負荷を見よ、事業と生活に対する熱情と欲望とを見よ。そしてこれらのものにして欠けていないならば、あまりに窮屈な、理解のないことをいうな。極端な束縛とヒステリーとは夫の人物を小さくし、その羽翼を挘ぐばかりでなく、また男性に対する目と趣味との洗練されてないことを示すものに外ならない。

(一九三四・八・三〇)

底本 / Source edition

底本:「青春をいかに生きるか」角川文庫、角川書店
1953(昭和28)年9月30日初版発行
1967(昭和42)年6月30日43版発行
1981(昭和56)年7月30日改版25版発行
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2005年1月6日作成
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倉田 百三「愛の問題(夫婦愛)──――生命の法に随う――」(新字新仮名)、底本『青春をいかに生きるか』角川文庫、角川書店、1953年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043128_000256, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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