Soranoha

野口英世博士の生家を訪ひて

のぐちひでよはかせのせいかをおとないて

土井 晩翠

東京朝日新聞に、『世界人の横顏』の第十六回野口英世のそれが、北島博士の筆で面白く書かれたのを讀んだのは半年前である。甚だ漠然としてゐる言葉だが『世界人』とは文明世界一般に廣く知られてゐる偉人といふ意味であらう。但し名が喧傳すると共に眞に世界の文化に貢獻して多大の恩惠を施し、その報として眞に受くべき光榮を世界から受けた人なら一層ありがたい、文字通りにも有り難い、野口は正にかゝる種類の世界人で、日本のために萬丈の光熖を發揮した人――日本國が世界の學界に誇るに足る大學者――日本人種優良の現證を示して、日本人の自重心自信力を高める好個の活教訓である。

一九二八(昭和三年)五月二十一日、西アフリカのゴールド・コースト州アクラ港で研究中の黄熱病にかゝり殉道の死を遂げた時は全世界が哀悼した。ロックフエラー研究所は『古今を通じて最大の細菌學者の一人』と賛した。アメリカの議會はその名において弔意を表し『十九世紀より二十世紀にわたつての世界の三大醫學者の一人』と稱した。

彼が古今を通じて日本の生める最大人物の一人であることは明々白々である。一九一三年オーストリーのヰインで、萬有科學大會第八十五回が開かれた時、招聘されてアメリカから渡つた野口は、同會で三大講演をやつた、そして全歐の學界に鳴りひびいてゐるフオン・ミユーラー(同會々長)に深大の敬禮を拂はれた。講演終了の後、野口と一言半句でも交はしたいと押し寄せてくる崇拜者の洪水に對して水門を加減するのは非常の骨折で又非常の喜びであり誇りであつたと東京帝大の眞鍋嘉一郎教授が當時の思ひ出を書いたのを今に記憶する。當時ヰインの最大新聞紙は第一面に野口の肖像をのせ『日本の凱歌』と最大の活字で題した長記事をのせた。その後ドイツに行つてベルリン郊外ダーレムに新設のカイゼル・ウィルヘルム研究所の開場式に招待された。式後に當時全歐の覇王であつた萬有科學の權威國ドイツ皇帝陛下から數百人の學者の前で、親しく推稱の演説を忝けなうした唯一の光榮者は彼野口であつた。

かゝる學者が日本人であつたといふ事はどれほど日本の光榮であるか、後進の青年輩にとりて何等の活ける教訓であるか。惜いかな、その日その日の紛々たる出來事が絶えず眼前に現るゝので健忘の我々は、かゝる偉人の存在をもさつさと葬り去つてしまふ、無理も無いが殘念である、教育上からも多大の損失である。

彼が偉勳を立てた南米エクアドルには、その表彰の記念碑があり銅像があり、野口町と改稱された町があるのに、日本に同樣のものが無いのは惜しい。確聞する所だが『もし野口記念會が確立するなら毎年三千ドルを送金しよう』と外務省あてにロツクフエラー研究所から通知されてゐるといふ。私はこれを爲政者、教育者に注意し、そして「野口記念館」の速かな設立を切に勸めたい。

野口は福島縣の猪苗代湖畔の極貧兒と生れ、三歳の折爐に落ちて右手は無殘に燒けたゞれ、不具兒となつたが、天分の英才は小學時代から光りだした。これを認めてこの神童を大成せしむべく努力した最初の恩人は猪苗代町古城町に現住の小林榮さんである。その小林翁に招かれて野口の生家を訪うたのは九月二十四日の旗日であつた。

驛につくと小林翁が同志數人と共に迎へてくれる、乘車して五分ばかりすると古城(名の通り城跡のある所)の翁の家に着き、在アメリカの野口未亡人メリイさんから送り屆けられた一切の記念品を見せて頂いた。『世界人の横顏』にある自畫像原物がある、同じく野口の描いたメリイ夫人の像がある、又いろ〱のスケツチがある。エクアドル國から贈られた軍醫監の禮服と通常軍服、軍劍軍帽がある、日常身につけた幾通りかの衣服、シヤツ等がある。歐米諸國から寄贈の學位記、表徳記、推戴記等は無數にある。これ等は他日野口記念館を建てゝ永久に保存し、世界觀光團の巡禮所の一としたいと思ふ。美しい猪苗代湖は『野口英世その湖畔に生る』で世界に知らるゝ時が來ないとは限らぬ。

小林翁は野口の少年時代から涙ぐまるゝ純眞の愛で、この不具の極貧兒を世界の大學者たらしめ、日本の光榮たらしめた恩人の一人である。アメリカ渡航の熱情が火の如く燃えたが、家族への心配が當然に念頭を離れぬので煩悶にたへなかつた野口を慰め勵まし、『家族のことは一切引受けた、アメリカに行け、背水の陣を布け、世界に名を揚ぐるほどの學者になれ』と諭したのは翁であつた、感謝の涙で以來野口からその生を終るまで父と敬稱されたのは翁であつた。

アメリカ渡航前、小林夫人の病氣を聞き歸郷して、看病の隙に拾ひ讀みをしたのは坪内逍遙先生のお若い時の作『當世書生氣質』であつたが、その中に放蕩兒野々口清作といふ人物のあるのを見て、當時彼の名も清作であつたので大に氣を惡くした、そこで小林翁はいろ〱戸籍吏と交渉して、小林家の祖先の名のりの一字をいれた「英世」と改名させたのである。記念品の數々を感激の眼で眺めた後、湖畔に沿ふ長い田舍路を乘車十分ばかりで三城潟に着いた、豫想通の一寒村――そのうちにも念入の破屋の前に、「野口英世誕生家」と木標がある、湖水に面した中庭には海軍少將松平子爵の筆で同文の石碑がある、その下には遺髮が埋められてゐる。

高松宮殿下恩賜の植樹が列を正してゐる、隣の隣が松島屋といふ伯樂宿である、これも可なりすたれたが偉人の少年時代の尊い記念である、同家の老女が親切に案内してくれた、『こゝの柱によりかゝつて野口さんは夜更けるまで本を讀んで居ました』。ぼろにくるまつた不具の少年――家には燈火が無いので、この伯樂宿のふろ番をしながらその光で勉強したのであつた。

それが小學卒業後ほとんど獨力で醫學を修め、出京してほんの一時濟生學舍に學び――卒業後順天堂の助手――高山齒科醫學院講師――傳染病研究所助手――内務省檢疫係――支那牛莊の衞生局附屬醫院部長――渡米してペンシルバニヤ大學病理學の助手――ワシントン市のカーネギイ研究所助手――ロツクフエラー醫學研究所助手(一九〇四年)といふ經路を踏み、それより以後は加速度的に躍進向上進歩して、一九一四年には世界の權威を集めたロツクフエラー研究所最高幹部の「メムバー」(六巨頭)の一となり、最後までこの光榮の位置を占めて學界無上の偉勳を立てた。ほとんど奇蹟といつて差支はなからう。

さるにても湖畔に立つて見渡す所何といふ破屋! しかもコントラストに何といふ湖水の風致! いろ〱の思ひで知らず識らず垂れた頭をふりあぐると、盤梯山の雄姿! たそがれ近い、雲は去り雲は來つて峻嶺をあるひは現し、あるひは隱す。この山水秀麗の氣をうけて向後、百年あるひは千年再びかゝる偉人が生るゝか、どうか、一切は神秘の幕のかげである。

“Behind the veil, behind the veil.”

(一九三〇、一二、一八『東京朝日新聞』)

底本 / Source edition

底本:「雨の降る日は天氣が惡い」大雄閣
1934(昭和9)年9月23日発行
※「ロックフエラー」と「ロツクフエラー」の混在は底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年7月2日作成
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書誌 / Bibliography
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土井 晩翠「野口英世博士の生家を訪ひて──(野口記念館の設立を希望す)」(旧字旧仮名)、底本『雨の降る日は天気が悪い』大雄閣、1934年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 043115_001081, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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